書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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——そう、それはすごいこと。
満開の林檎の花を背景に、その女性はそう言って笑った。
「別に、大したことではありません」
淡々と彼は答えた。年齢の割には表情が乏しいその顔を、女性が覗き込む。さらさらと音を立てて彼女の銀色の髪が肩から流れた。
「ふふ、そうかしら? お顔には褒めてほしいと書いてあってよ、コウリ」
指摘されて、まだ十歳にしかならない彼は慌ててそっぽを向いた。その仕草がいつも落ち着き払った彼にしては子供っぽい。そんなコウリの年相応の反応をくすくす笑いながら、女性はあくまで優雅に髪をかき上げる。
「貴方のように頼りになる人がいてくれるなら、これからの国王領は安泰ね」
「勿体ないお言葉です、レンゲ様」
女性——第七代国王レンゲは、背筋を伸ばしたコウリの亜麻色の髪を撫でた。
「レンゲでよくってよ、コウリ。貴方はヤナギの弟、つまり私のたった一人の義弟ではないですか」
「そういうわけには参りません」
「ふふ、お堅いこと」
細く長い指がコウリの髪から離れ、緩やかな衣に包まれた己の腹部に置かれた。心もち膨らんだそこを、しなやかな手が愛しげにさする。
「でも、この子にとってはきっといい先生になってくれるのでしょうね。楽しみだわ」
コウリは黙って頭を下げた。レンゲの身に宿るのは次の国王。年齢から考えて、恐らくコウリが一生を仕えることになる王だ。
コウリはそっと若き女王の横顔を盗み見た。今月、二十歳の誕生日を迎える。非の打ち所のない整った顔立ちに、王家特有の銀髪がこの上なく似合っていた。第二代国王より連綿と王家に受け継がれていながら、同じ血を分けたはずの貴族には決して顕れない、銀色の髪。その貴色で包まれた細い身体からは自然に気品と雅やかさが漂っている。涼やかな薄青の瞳は穏やかに笑み、今はまだあまり目立たない腹に向けられている。
「ねえコウリ、この子は一体どんな子に育つのかしら。多分髪と目の色は私と同じなのでしょうけど」
未来を思い描いて、レンゲはうっとりと目を閉じる。
「ヤナギのように優しくて、コウリのように賢い子だといいのだけれども。そして、見目が美しい子であれば良いわね」
「レンゲ様のお子です。美しくないわけがありません」
「まあ」
真剣なコウリの言葉に、レンゲはころころと笑った。
「それにしてもヤナギの遅いこと。一体どうしたのかしら」
「先程、重臣会議があると言っていましたから。少し様子を見て参りましょうか」
立ち上がりかけたコウリの視界に、木陰から姿を現した人影が映った。
「ごめんよ、待たせたね」
そう声をかけた若い男の顔を見て、レンゲの表情が輝く。
「ヤナギ、遅くてよ。妻を待たせるなんて一体どういうつもりかしら」
「ごめんってば。少し会議が長引いたんだ」
レンゲに一通り謝った後、ヤナギはコウリに向き直った。
「やあコウリ、法務大臣から聞いたよ。さっき大臣に口げんかで勝ったんだって?」
「口げんかでななく論争です、兄上。あの方の唱える説は穴だらけでしたので、少々私の見解を述べたまでです」
にこにことレンゲが会話に入る。
「本当にコウリは賢いわね。先程もそのことを褒めていたところだったのよ」
「そうだったのかい。これからもその調子で勉強を頑張るんだよ。そして僕やレンゲ、僕らの子供を助けてほしい」
そう言って、ヤナギはコウリの頭に手を置いた。その手はまだ背が伸び切る前のコウリにとって随分高い位置から下ろされているように感じられた。
あまり似てはいない兄弟だった。背丈が違いすぎるのは年齢の差から言って当然だが、他にも髪の色や顔のつくりに際立った違いがあった。
ヤナギの髪は淡い金、薄茶の瞳がいつも柔らかく微笑んでいる。総じて受ける印象は優しげで繊細だ。しかしその実優れた実務家でもある彼は、時に強い光をその瞳に浮かべることもあった。
対するコウリは瞳の色こそ兄と同じだが、やや鋭いそれにはいつも硬質の光が宿り、冷たい雰囲気を感じさせていた。滅多に笑わず、また怒りもせず、常に無表情のため年相応の無邪気さはまったくない。外見は子供なのに雰囲気は大人という、どこか危うい不均衡さを漂わせていた。
ヤナギは幼い頃から、同い年のレンゲの婚約者だった。現存する四つの貴族の家柄の中で、世継ぎの姫と同年代の男子はヤナギしかいなかったのだ。選択の余地のない婚約だったが、本人たちが好き合うようになったのが救いだった。前国王が崩じた後レンゲが即位し、一年後にめでたく成婚。以来ヤナギはレンゲを助けて政務の一部を担当している。元々素質があったのだろう、最近ではレンゲ自身より家臣からは頼りにされている。
自分も成長したら兄やレンゲを助け、二人の子供に仕えていくのだ——レンゲとヤナギに囲まれた幸せの中、疑うこともなくコウリはそう信じていた。
* * * * *
砕けた水晶の破片が散らばっていた。狂ったように泣き叫ぶ女の声がする。
ヤナギ、ヤナギ、ヤナギ——
地に赤黒く染み込んだ、血、血、血。
その真ん中に、かろうじて人の形を保った体が倒れている。銀髪を紅に染めたレンゲが、愛しい夫の名を呼びながら変わり果てた肉体をかき抱く。
ヤナギ、ああヤナギ、私——
涙の粒を零しながらも、薄蒼の瞳には何の感情も浮かんでいない。哀しみ、悔悟、そういったものを超越したそこが孕むのは、狂気の芽だった。
今、傍に行かなければレンゲは壊れる。
確信しつつもコウリは動けなかった。ヤナギは動かない。もう二度と動くことはない。
今自分が行かなくて誰が行く。そう思っても、やはり足は動かなかった。
これは、事故だ。
コウリの中で、コウリ自身の声が叫ぶ。
これは、事故だ。レンゲ様が気に病むことではない。
今日は王宮を挙げての大実験が行われる日だった。ヤナギが開発した魔力増幅装置。王族や貴族が持つ魔力を増幅させ、強化させるこの装置が完成すれば国王領にとって大きな進歩になるはずだった。これさえあれば、いざという時に皇帝に対抗する手段にもなる。軍事目的以外でも、それがもたらす恩恵は計り知れない。
そのため国王レンゲ自らが参加し、主だった貴族が立ち会う中、装置の実験は行われた。
しかし装置は不完全なものだった。レンゲが注いだ魔力を蓄えていた巨大な水晶。それが突如割れ、溢れた魔力が暴走したのだ。水が水源から海へと流れるように、怒涛と化した魔力は源であるレンゲとは逆の方向——見物人へと押し寄せた。
すべては一瞬だった。まばゆい閃光が消えた後、その場で立っていたのはレンゲとコウリだけだった。
コウリはまだ子供だから——
昨夜、ヤナギは笑ってそう言った。実験に参加することは許可できない。兄の言葉はそういう意味だった。コウリは不満だった。自分はまもなく十六になる。一体いつになればこの兄に、レンゲに、一人前として認められるのか。
自分も国王領の歴史を変える瞬間を見たい。子供じみているとは思ったが、そんな感情以上に自分もどんな形であれ実験に参加したいという気持ちの方が勝っていた。幸い、実験場は昔レンゲとよく遊んだ林檎の樹の近くだった。勝手知ったる己の庭、コウリはこっそり実験場がよく見える木陰に隠れた。
そして見た光、衝撃。結果的に木陰にいたことがコウリの命を救った。コウリの盾になった木は今、彼の背後で無残に真っ二つになった姿をさらしている。
レンゲにすぐに駆け寄れないのには、盗み見をしていた後ろめたさもある。恐怖で足が震えてもいる。
しかしそれ以上に、血まみれのレンゲは美しすぎた。凄艶と狂気が同居する、紅と銀。コウリは確かに、その光景に見とれていた。
「……うえ?」
遠くから、かすかに舌足らずな呼び声がする。
「ははうえ? ちちうえ……?」
少しずつ近づいてくる幼い足音に、コウリははっと我に返った。振り返り、銀色の小さな頭を藪の隙間に見つける。
「来てはなりません、レンギョウ様!」
はっ、とレンギョウが足を止める気配。
「コウリか? おぬし、どこにおるのだ?」
とてとてと、駆け寄ってくる足音。
「ははうえのおすがたがみえんのだ。どこにおられるのかのう?」
「……レンギョウ?」
幼い我が子の声が聞こえたのか。呟いたのは、表情のないレンゲ。
「レンギョウ……私の子……私と、ヤナギの子……」
くつくつとレンゲは笑う。喉の奥だけでの、その笑い。
「ヤナギを殺した私の……呪わしい私の力を受け継いだ、呪わしい子!!」
もはや笑い声は止まらない。
「レンギョウ! レンギョウ! 私の愛しい子! 私の憎らしい子!!」
聞こえてしまったか。ぴくり、と顔を上げ、レンギョウは表情を輝かせた。
「ははうえのおこえだ! ははうえ!」
四歳の子供の足に精一杯の速さで、レンギョウはレンゲに——つまりコウリに向かって近づいてくる。
「ははうえ——」
「なりません!!」
伸ばされた腕を引いて、コウリは小さなレンギョウを抱きしめた。自分の背で、腕で、もはや正気ではないレンゲの声が少しでも遮れるように祈りながら、コウリはレンギョウの耳をふさぐ。
「コウリ、なにをする。ははうえのおこえがきこえぬではないか」
あどけない抗議を無視して、コウリは腕にレンギョウを抱えたまま王宮へと走り出した。レンギョウを安全なところに連れて行かなければ——そう言い聞かせながら、その実誰よりも自分こそがレンゲから逃れたがっているということをコウリはどこかで知っていた。
追ってきているわけがない。
思いつつ、一度だけコウリは後ろを振り返った。
やはり、レンゲはいなかった。代わりに見えたのは、幼い日にレンゲに髪を撫でられた林檎の樹。王宮への一歩ごとに遠く、小さくなっていく。まるで過去の思い出が日を重ねるごとに遠くなっていくように——
その日から、国王領は狂王を戴くこととなった。
* * * * *
部屋の中は、射し込む斜陽を浴びて紅く染まっていた。白で統一されていたはずの清楚な調度はすべて、禍々しい彩りを帯びてコウリの前に立ちふさがっている。
名ばかりの国王となったレンゲがこの部屋に幽閉されてから、既に五年の歳月が流れていた。その間公式の場にはまだ幼いレンギョウが名代として立ち、実際の公務はコウリが取り仕切っている。
レンゲの心が戻る見込みはなかった。最愛の夫を殺めた己の魔力を呪い、その魔力を受け継いだレンギョウを憎み——レンゲは幾度も、その両方をこの世から消そうとした。身の安全を守るため、レンギョウは母に会うことを禁じられ、レンゲ自身にも常に監視の目が向けられることになった。
会いたくとも会えないレンギョウの代わりにと、最初は通っていたコウリの足も次第に遠ざかっていった。成長するに従って背が伸びたコウリに夫の面影を見るのか、訪れる彼をレンゲはヤナギと呼んで涙を流した。泣きながら悔悟と謝罪の言葉を零すレンゲの姿が辛くて、見ていられなかったのだ。
しかし今、彼は途轍もない後悔に襲われていた。
——自分がもっと気を配っていれば——
ぎり、と奥歯が鳴る。蒼白になるほどに握り締めた拳を振って、コウリは部屋へと足を踏み入れた。
それは突然の報せだった。
——陛下が、魔法を。
血の気を失った侍女が告げた一言を聞いて、コウリは執務机の椅子を蹴って立ち上がった。あの事件以来、レンゲが魔法を使うのはただ一つの目的のため。すなわち、自害を企てた時だけだ。気がついた時には廊下を走り、レンゲの部屋に向かっていた。広い王宮の中、息を切らして目的の部屋まで辿り着く。しかし、開け放された扉の前で足は止まる。
侍女の切迫した声が耳に蘇る。この扉の中には、あの日のような惨状が広がっているのかもしれない。
コウリの瞼にありありとヤナギの最期が浮かび上がった。血の海に横たわる、人だったモノ。
いや違う、その体の主はヤナギではない。地に長く広がった髪は銀色。長い長い銀髪を紅に染めた、美貌の狂王レンゲの顔を持つ死体——
次の瞬間、コウリは扉を潜っていた。怖くないといえば嘘になる。しかしあの凄艶な美しさを持つレンゲの姿を、他の誰にも見せたくはなかった。
紅に染まった部屋を、一歩一歩奥へと進む。広い寝室を覗き込んだ時、それは見えた。
部屋の中央に、銀色の髪に包まれた身体が倒れていた。予想に反して、そこに血の色はない。
「レンゲ様」
おそるおそる、一歩を踏み出す。無造作に床に放られた腕はぴくりともしない。また一歩、さらに一歩。よろめくように歩を進めたコウリは、レンゲの傍らで糸が切れたように膝をついた。
銀の髪を枕にして、レンゲは穏やかに微笑んでいた。蒼白の頬には慈しみが、もう動くことのない唇に満ち足りた幸せが浮かんでいる。まるで遠い過去の日に、あの林檎の木の下で夫を待っていた時のように。
突然、熱い塊がコウリの胸に突き上げてきた。やり場のない怒り、悲しみ、喪失感が堰を切ったように溢れ、心臓を襲った。泣くことさえ出来ずに、コウリはただその場を動けずにいた。
「——母上」
後ろからまだ幼さの残る声が掛けられたのは、どれほどの時が流れた後だったのか。ぎこちなく振り返ると、扉の下にレンギョウが立っている。数瞬ためらった後、レンギョウはゆっくりコウリの傍まで来て、母の横に跪いた。手を伸ばし、そっと母のそれに重ねる。
「冷たい、な」
小さな肩が震えた。引き結んだ唇から嗚咽が洩れる。
「母上——」
レンギョウの涙を、ぼんやりとコウリは眺めていた。泣くことのできるレンギョウを、羨ましく思った。
「レンギョウ様」
小さな肩をそっと抱き寄せて、コウリはその涙を受け止めた。せめて一滴でも、その涙が自分の目からも溢れるようにと願いながら。
「お気を確かに。今この瞬間より、名実共にこの国の国王は貴方様になられました。第八代国王にふさわしく、皆の前では涙を流されぬよう」
しかし、とコウリは続ける。
「今しばらくこの部屋には貴方様と私、そしてレンゲ様がおられるばかり。お気が済むまでお泣きになると良いでしょう。私が傍におりますゆえ、どうぞご安心を」
「コウリ……すまぬ」
声を殺して涙を流すレンギョウから、コウリは乾いたままの瞳を逸らした。自分が流せない分の涙はレンギョウが流してくれれば良い。その代わり、泣いているレンギョウは自分が守る。それがレンゲを守りきれなかった自分の責務だと、コウリは思った。
「レンギョウ様、これからは私が貴方様をお守りします。どんなことがあっても、貴方様の身は私が守り通します」
何故なら、レンギョウはレンゲの血を引く唯一の息子だから。一番守りたかった、しかしその気持ちから目を逸らし続けたレンゲはもういない。だからこそ、もう二度と後悔しないためにレンギョウを守り通す。その誓いを、レンゲにも聞いてほしいと思った。
もう一度、レンゲの穏やかな表情を見る。十年の歳月を経てなお、その顔はあの林檎の木の下で微笑んでいたそれと寸分違わぬ美しさと気高さに満ちていた。
ふと顔を上げると、出窓付きの大きな窓が見えた。西向きのそこからは夕暮れの光が斜めに射し込んでいる。
その遥か向こうに、あの林檎の木が見えた。あの事件以来、足を運ぶことのなくなった思い出の場所。この部屋でレンゲは、幸せだった思い出を眺めて暮らしていたのかもしれない。
落ち着いたら、またあの場所へ行ってみよう——
ぼんやりとコウリは考えた。レンゲと、ヤナギと、自分。三人の思い出の場所。ただ独りこの世に残された自分が二人を懐かしむのには、最もふさわしい場所のように思えた。
——林檎の木の下で待ってるわ。いつものように、ね。
秘密めかして囁くレンゲの声が聞こえたような気がした。その響きに良く似た声で、レンギョウが小さく母上、と呟いた。
<2005年6月28日>
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扉を開けると、柔らかな温もりと古紙の匂いが身体を包み込んだ。無数の本と紙の山の向こう、床に身を起こした部屋の主が穏やかな目で振り返る。
「ああ、よく来てくれたね」
軽く頭を下げて、ブドウはするりと部屋の中へ身を滑り込ませた。
庭園に植えられた木々も凍える、厳冬の皇宮。しかしこの部屋だけはいつでも居心地のいい暖かさに満ちている。まるで主の人となりを表しているように。
アオイからの使いが皇宮の一角にあるブドウの執務室を訪ねてきたのは先程のことだ。中立地帯への出発を明日に控え、副将帥としてやらねばならない雑務は山のように残っていたが、ブドウは迷わずすぐに行くと返事をした。ブドウの多忙をアオイが察していないはずがない。
あのお方のことだ、ひょっとすると何か大きな情報を掴んだのかもしれない。
副将帥としての理性がそう判断する。しかし一方で心が浮き立つのも感じていた。皇都を離れる前にアオイと会う理由ができた、そのことが嬉しかった。
アカネが将帥に任命された翌日から始まった軍の再編や進軍の準備などで、ブドウの足はすっかりアオイの宮から遠ざかっていた。人づてに聞く病状も芳しくなく、ずっと心に引っかかっていたのだ。
アサザが皇太子となり、アカネまでもが将帥に仕立てられた今、アオイはたった一人で病と戦、二つの敵と戦っている。少しでも助けになりたいと思いつつも、一軍人にしか過ぎないブドウが実際にできることはなかった。それどころか、目の前に積み上げられた副将帥としての仕事を捌くだけでも精一杯。自分はつくづく腕っ節しか取り柄がないのだと思い知らされた気分だった。
「忙しいのは分かってたんだけど。突然呼び出したりしてすまなかったね」
「いえ、私のことはいいのです。それより起きておられて大丈夫なのですか」
「女性の前で寝たまま話をするほど、私は礼儀知らずではないよ」
そう言って笑う目元は、熱を宿して潤んでいる。辛くないといえば嘘になるだろう。
「私のことを女扱いしてくれるのはアオイ様くらいですよ」
苦笑しながらブドウはアオイの背に枕を当てる。起きているのであれば、せめて少しでも楽にしていてほしい。不慣れな手つきで具合を確かめるブドウに、アオイが微笑む。
「ブドウは優しいし、よく気がつく。十分女性らしいじゃないか」
そんなことを言われたのは初めてだ。顔が火照るのが自分でも分かる。
「あっ……アオイ様!」
「私は思ったことを言っただけだよ」
枕に薄い背を預けて、アオイはああ楽ちんだなどと呟いている。熱い頬を感じながら、ブドウはようやく仕事を放り出した口実を思い出していた。
「それよりアオイ様、私に何かお話があったのでは?」
「話? そうだねえ」
少しばかり考えた後、アオイは答えた。
「特にこれといってないよ。できれば君たちが中立地帯に向かうのを止められるくらいの大きな情報が欲しかったんだけど、残念ながら間に合わなかったみたいだ」
「では何故私を?」
アオイがブドウを見上げる。いつもの微笑の中、目には怖いほどに真剣な光が宿っている。
「会うのに理由が必要? 私が君の顔を見たかった、じゃだめかな」
その言葉の意味がブドウの頭に染み入るまでには、少しばかり時間が必要だった。数拍の空白の後、再びブドウの頬に朱が昇る。咄嗟に目を伏せて、やっとの思いで言葉を紡いだ。
「ご……ご冗談はおやめください。私は剣しか取り柄のない無骨者、からかっても仕方ありません」
「冗談なんかじゃないよ。まあ私の我侭には変わりないけどね」
ちらりと目を上げると、アオイのまっすぐな眼差しとぶつかった。そこに込められているのは紛れもない本気の色。思わずブドウは呼吸を止めた。
「……ごめん、困らせるつもりはなかったんだ」
今度視線を逸らしたのはアオイの方。
「ただ、明日には君が皇都を離れると思うといてもたってもいられなくて。君が帰ってくる頃、私はもうこういう風には話せないかもしれないから」
「そんなこと……」
不吉な予想を否定するブドウに、アオイはゆっくりと首を横に振った。
「自分の身体のことだからね、なんとなく判るんだよ。私にはもう時間がない」
いつもと変わらぬ穏やかな微笑み。それを目にした時ふいにブドウは理解した。この人が本当に戦っているもの、それは身体の自由を奪う病でも戦へと突き進む父帝でもなく、自分自身に残された時間なのかもしれないと。形は違えど、この人は確かに己を阻むものと戦い続けてきた『戦士』なのだ。
「話なんてない、っていうのは嘘だね。君に話したいことがたくさんある」
己の頭に手を置いて、アオイは伸びた髪をくしゃりと握りしめた。まるで指の間から零れ落ちる時を掴み取ろうとするかのように。
「もうとっくに覚悟していたつもりだったけど、いざ目の前に突きつけられると揺らいでしまうものだね。本当はこんなこと、君に話すつもりなんてなかったのに」
頬の笑みに自嘲が混じる。アオイのそんな表情を見るのは初めてだった。
「私はね、怖くてたまらないんだ。いつも笑っているのは、そうじゃなきゃ恐怖でどうにかなってしまいそうだから。私はアサザやアカネが思っているような強い人間じゃない。むしろ弱くて、卑怯な人間なんだ」
「アオイ様……」
「皇太子を降ろされた時もそうだった。重責から逃れた安堵感と、これで君を后に望めなくなったという落胆と。気がつけば自分のことばかり考えている。今だってそうだ。もう先がない男からこんなことを告げられて、後に残される君の気持ちなんてまるで無視してる。身勝手だろう?」
アオイが自分と同じ年頃であることを、ブドウは遅まきながら思い出していた。素顔をさらしたアオイは無防備で等身大の、一人の青年だった。
ブドウの手が髪に埋められたままのアオイのそれにそっと重ねられる。太子ではないただの青年に手を差し伸べるのは、思った以上に簡単なことだった。
「そんなにご自分を卑下しないでください。アオイ様が何者であろうと、私がアオイ様を尊敬する気持ちに変わりはありません」
この場にアオイの弟たちがいたとしたら、きっと同じことを言うだろう。けれど彼は決してそれをしないということがブドウには分かっていた。アオイは最後まで兄としての誇りを持って彼らに接するだろう。弟たちにさえ見せない弱さを自分には明かしてくれた。そのことが嬉しく、誇らしい。
「アオイ様のお気持ち、とても光栄に思います。私も」
言葉を切り、ブドウは見上げるアオイの目をしっかり見つめ返した。
「私もアオイ様をお慕いしています。何より、そのお心を」
口に出して言うと、形のないその気持ちが確固たる想いに変わっていくのが分かった。自分とアオイ、二つの想い。それが今、混じり合って一つになる。
「どうか、生きてください。私が戻るまでなどとは言わずに、もっと長く」
「ブドウ……」
アオイの目が大きく見開かれる。さっきから初めて見る顔ばかりだ。それがこんなに心浮き立つものだとは思いもしなかった。
「そしてもっと色々なお話をしましょう。さっきからアオイ様一人でしゃべってらっしゃる。今度は私の話も聞いてください」
見下ろした顔が苦笑を浮かべた。重ねた手の指が絡まり、しっかりと握られる。
「そうだね。今度はブドウの番だね」
でも、とアオイが悪戯っぽい笑みを向ける。
「その時は君の素のままの口調が聞きたいな。君が飾らない言葉でアサザやアカネと話しているのを、私はいつも羨ましく思っていたんだ」
「アオイ様相手に街言葉ですか。それはちょっと難しいかもしれないですね」
「様、もいらないよ」
やれやれ、とブドウが天を仰ぐ。
「困ったな……思ってたより覚悟が要りそうだ」
「要は切り替えだよ。こんな風にね」
ブドウの手がアオイの口許へと引き寄せられる。
「皇帝軍副将帥殿に大いなる武運を。手がかかるだろうけど、将帥のことを頼んだよ」
「承知しました」
手の甲に触れた温もりがくすぐったかった。
「アカネは弟みたいなものですから。必ず守り通します」
「君も無事で。くれぐれも怪我なんてしないようにね」
頷いて、今度はブドウがアオイの手に口づける。まるで物語にある騎士の誓いのように。
「勿論。私の身体はあんたのもんだからね。傷一つつけずに帰ってくるよ、アオイ」
満足げにアオイが笑む。
「うん。約束だよ」
しばらく二人で微笑み合った後、ブドウはあることに思い当たって頬を引きつらせた。
「あれ……? アカネはともかく、アサザまで私の義弟ってことになるのか?」
「まあ自然に考えるとそういうことになるだろうね」
脳裏に浮かんだのは、喧嘩友達を義姉と呼ぶ羽目になり難儀しているアサザの姿。その困惑顔が容易に想像できて、二人は同時に吹き出した。
「あはは、そりゃ見物だ」
「さぞかしびっくりするだろうね」
息も切れ切れに笑うアオイ。その瞬間、激しい咳に襲われて本当に呼吸困難になってしまう。考えてみれば今まで発作が出なかったこと自体おかしいくらいだった。それだけ気持ちが高揚していたということだろうか。慌ててその背をさすりながらブドウは考える。気の持ちようで病が治まるのなら、これから先も望みがないわけではないのかもしれない。アオイの特効薬に自分がなれたなら、このささやかな幸せをずっと続けることもできるのかも。
咳き込む声を聞いて、見張りの兵が飛んでくる。たちまち騒然とした空気の中、収まりはじめたアオイの喘ぎを聞きながらブドウは祈っていた。
どうか、少しでも長くこんな幸せが続きますように——
<2006年7月30日>
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最期まで、解らぬ女だった。
初めて会ったのは婚儀の時。纏った花嫁衣裳にまるで似合わぬ、強い光を宿した瞳が心に残った。皇帝たる余をそのような瞳で見る女などそれまではいなかった。無論、男にも。
「余を畏れてはいないのか?」
見下ろした瞳に問い掛ける。
「別に」
それが答えだった。そして、それ以上の言葉はなかった。
当人同士が黙っていても華燭の典は進行する。
次に女と言葉を交わしたのは初夜の床の上でだった。
「……何故、余に抱かれる?」
媚びているわけでも、まして恋慕を帯びているわけでもないあの瞳で、女は無表情に言った。
「それが、先程交わした契約だろう」
その時、気づいた。女の瞳の光、これは誇りの光なのだと。
皇帝との婚儀すら契約と言い切るこの女に、余は強い興味を覚えた。
やがて子供が生まれた。アオイと名付けたその男児は、生まれつき弱い子だった。そう長くは保つまい、誰もがそう考えた中、あの女だけは見捨てなかった。そして女に応えるように子供は生き延びた。綱渡りのようではあったが、確実に死より生に近い道を歩み始めたその姿を、心底不思議に思ったことを今でも覚えている。
その頃、女は二人目の子を生んだ。その子供、アサザは健康な赤子だった。長じるにつれ戦士としての才にも恵まれていることが判ったので、余は養育を専門の者に任せようとした。だが、女が反対した。長子と同じく自らの手で育てると言い、頑として子供を手放そうとはしなかった。
そして、三人目の子が生まれた。二人目と同じく、丈夫な子だった。アカネという名を与えたその子供も、女は決して自分の傍から離さなかった。
子供らと共にいる時、女はよく笑っていた。余の前では一度も見せたことのないその表情を間近で見てみたい、そう思い始めたのは何時のことからか。
「笑ってみせよ」
一度だけ、女に命じた。
「……命令では、人の気持ちは変えられない」
そう言って、女は余に背を向けた。その声音に混じる憐れみに、余は気付かなかった。いや、気付かない振りをしていたのかもしれない。
それでもいいと思っていた。女は余の妻であり、これからも余の傍にいる、それだけは変わらぬ事実だと。
激震は突然に訪れた。
中立地帯にある村が盗賊の襲撃を受けた。皇帝領に近いその村から救援が皇都に求められる。よくある話だった。
しかし女は報告を受けてすぐに飛び出していった。得意の馬術で少数の手勢を引き連れ、最低限の物資を携えて被害のあった村へと。
わずかの人数とはいえ、まさかこんなに早く救援が来るとは思っていない盗賊は慌てた。浮き足立った盗賊共をさんざん追い散らして、一度は村に戻ったと聞いている。
運命を変えたのは、一本の矢だった。
土壇場で首尾を滅茶苦茶にされた盗賊が怨みを込めて放った矢は、まっすぐに女の背へと突き立った。
女を追って余が村に着いた頃には、女の瞼は二度と開くことはなくなっていた。
どれほどの時間、その顔を眺めていたのかは分からない。ゆっくりと、余は女の傍から立ち上がった。後にも先にも、この時ほど腰の剣の重みを感じた時はない。
それから、記憶は途切れる。次に憶えているのは、倒れ伏した盗賊共、血塗られた刃、そしてそれらをどこか冷めた目で眺めている余自身。返り血のせいか、手も頬もぬれぬれと気色が悪かった。
ふと見上げた視線の先には、中立地帯の草原が広がっていた。女が可愛がっていた馬が主を探して彷徨っている。
「馬はいいな。もし生まれ変われるのなら、馬になりたい」
女がかつて呟いた言葉が胸に蘇った。余に気付いた馬が近寄ってくる。どうやら数度だけ見に行った余を覚えていたらしい。その迷い子のような顔に、無性に腹が立った。
「馬は、好かぬ」
刃が翻る。悲鳴を上げて、馬は倒れた。動かなくなった獣を見下ろし、これで女も寂しくはなかろうと、そう思った。
それから数年が経った頃。女との間の二人目の子供に、戦士の嗜みとして子馬を与えた。
「名を、付けよ」
まだ小さいが、見事な栗毛を持つ牝の子馬。将来は立派に育つだろうことを予感させる、確かな生命力を宿した澄んだ瞳を持っていた。しばらく馬を見ていたアサザが言う。
「馬の名は、決めています」
「ほう。何という名だ」
「キキョウ、と」
——女の、名だった。
思わずアサザの瞳を見返す。そこには女と同じ、光があった。
「——よかろう。好きにするがいい」
余は子供と馬に背を向け、その場を後にした。
留まっては、いられなかった。
何かに向かって叫びたい衝動が襲う。胸に衝き上げてくる、この感情。
——これは、妬みだ。
女から子供へ、確かに受け継がれたあの光。だが、女から余に遺されたものは何だ?
余が欲して、手に入らなかったものなど何もない。
ただ一つ、あの女の心を除いては。
あの女の笑み、誇り、情。
どれ一つとして、余は得ることができなかった。にも関わらずそれらの全てを享受し、受け継いだ子供たちが妬ましかった。
何故余には与えられなかったのか。何故、何故。
そう問い掛ける心の中、一方ではどこかで理解していた。
——それが解らぬから、与えられなかったのだ。
答えのない問いを問い続けながら、答えではない答えを答え続けながら、それでも余は歩み続けた。皇帝として、止まることは許されぬ。例え真実の答えが見つからなくとも、余は余の道を往かねばならぬ。例えその先に答えなど存在せぬと解ってはいても——
あの笑顔を永遠に失った事実もまた、動かしようがないのだから。
<2007年9月16日>
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それは雨が多い季節の、わずかな晴れ間の出来事だった。
「子連れの女ぁ?」
屋敷を訪ねてきたという来客の特徴を聞いて、グースフットは盛大に肩を落とした。
「ったく、またかよ。俺ぁこれから出かけるんだけどな」
「どうせ大将とのサシ呑みでしょう。いいんじゃないんですか、たまには待たせても」
昔なじみの部下は、今や島を統べる領主の片翼となった藜に対しても遠慮がない。古株ならではのぞんざいさで、直属の上役であるグースフットにも容赦なく意見を述べる。
「だいたい日頃からグースさんは遊びすぎなんですよ。自分で蒔いた種くらいちゃんと自分で刈ってもらわないと」
「なーんかその言い方、引っかかるなー。誰かさんを思い出すのは気のせいか?」
「キヌアさんの突っ込みは自分の理想ですから」
軍師の名前を出す時にだけびしっと背筋を伸ばす部下に、グースフットは盛大な溜息をついた。
「あんな奴見習ったってロクなことにはならんぞ。ああまったく、仕方ないから会ってやるよ。ご婦人はどこだ」
『魔王』との戦が終結してから間もなく半年。今でも瞼の裏に、あの日凍てついた草原で繰り広げられた光景がふいに甦ることがある。
思い出話として片付けるには、あまりにも生々しい記憶。もちろんグースフット自身にも思うところは多々あった。しかしそれを口に出したことはない。これからも多分ないだろう。誰よりも己の無力を思い知らされているのは他でもなく、今はこの島の領主となったあの二人であると知っているからだ。
同様の思いを抱えていたのだろう。キヌアもあの和睦の日以来、藜には何も言わなかった。
働き者の軍師は戦後必要な残務を終えるとすぐ表舞台から身を引いた。最後の仕事とばかりに自分自身で藜と梓の婚儀の一切を準備して、桜吹雪の婚礼を見ることなく旅立った胸中など、グースフットには推し量ることしかできない。向かった先は”山の民”の村だと聞いている。藜が再三にわたって呼び戻す使者を送っているらしいが、返事は梨のつぶてだった。梓が去った山の中で、あの辛辣な軍師は今頃一体何を思っているのだろうか。
戦の間あんなにも一緒に過ごしたことがまるで嘘のように、何もかもが変わってしまった。半年という月日が長いのか短いのかすら、グースフットには分からない。
「……みんな意外と、不器用なもんだな」
「なーにを浸っているんですか。あなた一人が器用なわけでもあるまいに」
部下の言葉に一気に現実に引き戻される。無闇に広いこの屋敷は、藜からこれまでの働きの報酬として渡されたもののひとつだった。新しくて立派な普請だが、寒々と人気がない容れ物は狭い天幕暮らしに慣れた身には居心地が悪いだけだ。
あまりにも所在なくて、最初は庭に自分で天幕を張ってみたりもしたが、部下にみっともないと言われ三日であえなく撤去された。ならばと娼館に避難したら、飛ぶ鳥落とす勢いの『戦士』の猛将を逃がさぬとばかりに群がった夜の蝶たちがてんでに領有権を主張し始めたため、ほうほうの体で逃げ出した。屈辱の撤退だった。
「あー、自力でモテてたあの頃が懐かしい」
「戯言並べている暇があったらとっとと厄介事を片付けて来て下さい。大将には使いを出しておきますから」
「へいへい、お世話をかけて申し訳ない」
示された扉をグースフットは重い気持ちで開く。湿気混じりの空気が満ちる閑散とした客間で待ち受けていたのは、赤子を抱いた女だった。ぐっすり眠った赤子は起きる気配もなく、女は何やら思いつめた眼差しでグースフットを見据えている。
いつものヤツだ、とグースフットは腹を括る。街中に遊び人だと知れ渡ってから、この手の顔は山ほど見るようになった。
「やあ、お久しぶり? いつ以来だったかねぇ」
「……一年とちょっとかしら」
「そーかそーか。そんなに長い間放っておいて悪かったな」
とりあえず女の正面の椅子にどっかと座り込む。豪華な布張りの座面はいつ座っても居心地が悪い。
改めて見やった女の顔は見覚えがあるような、ないような。一夜限りの相手の顔をいちいち覚えているほどグースフットの脳味噌は暇ではない。
「元気そうな赤ん坊だな。男の子か」
「……ええ」
女が主張したいであろう話題にこちらから誘導してやる。その方が早く終わると、経験で知っていた。
「あなたの子よ」
ほら来た。
「ほーう。で、君的にそいつのどのへんが俺似だと思う」
「髪の色。ほら見て、茶色だし、肌の色だって少し浅黒いわ」
「ふむ」
席を立って、赤子の顔を覗き込む。間近で見上げてくる女の瞳には鬼気迫るものがあった。慣れないうちはいちいち戸惑っていたそんな目線も、場数を踏んだ今なら平然と受け流せる。母の真剣勝負など知ったことかとばかりに、赤子もまた毛ほども動じずにすやすやと眠っていた。
「確かに、胆の据わったところなんかは似てるな。俺の子かもしれん」
「そうよ。だから」
「ときに、そいつは何ヶ月だ。赤ん坊の歳はなかなか分かりづらくてな」
核心に触れる直前で切っ先をずらしてやる。駆け引きは実戦で習得済みだ。女はしぶしぶ答える。
「……六ヶ月よ。戦が終わってすぐに生まれたの」
「そーか」
年明け間もない、牡丹雪が舞い散る季節の生まれ。逆算すると女が主張するその時期は去年の早春。藜が蓮を拾ってきた、あの時期だ。その頃は草原を駆け回るのに忙しくて、街に戻ることなどなかったが。
「ふむ。まぁ母親たる君がそう主張するのなら何らかの根拠はあるんだろう。正直俺も、心当たりが多すぎて把握し切れていないし」
「でしょう」
「よし、俺の子だと認めよう」
あっさりとグースフットは頷いた。途端に女の顔が輝く。
「あ、あらそう? じゃあまずは」
「子供の養育費と生活費は俺が持つ。身分も保証しよう」
「ええ、ええ」
「将来は立派な『戦士』になれるよう、専門の教育を受けさせようか。家庭教師を雇って」
「そうね、それがいいわ」
「じゃあ、母親は要らないな」
「……え?」
それまで満面の笑みで頷いていた女の表情が凍りつく。
「だってそうだろう。家庭教師と乳母を雇って、俺は息子を立派な『戦士』に仕立て上げる。生活に何ら不都合はない。その面構えだ、きっと将来は堂々とした剣士になるぞ。で、強い男を育てるためには母親なんざ不要なんだよ。何かあった時逃げ込めるような、甘えられる場所があったら邪魔だ」
あえて淡々と突き放すように、しかし有無を言わせぬ強さも籠めて、グースフットは暴論とも取れる言葉を続ける。
「で、いい感じに強く逞しく育った俺の息子は、いざ戦となったらいの一番に駆り出されるわけだ。親父が斬り込み隊長なんかしてたばっかりに、こいつは俺と同じように常に先陣を切って戦場に突っ込まなきゃならん運命を背負わされる、と。お相手は今度こそ島の統一を目論む『魔王』様か、ひょっとしたらあちらさんの跡継ぎかもな? 確か姉と弟の双子だっていう話だよな。一人でも厄介なあれが二人、しかもこいつと同い年ってことはいやでも一生のお付き合いになるだろうな。我が息子ながら不憫な年回りだ」
見る間に母親の顔色が変わっていく。あと一押しかな、と思いながらグースフットはそうだ、と白々しい声を上げる。
「魔法は怖いからな。肝っ玉がより太くなるように今から鍛えておこうか。うーむ、雷はすぐには難しいな。じゃあまず炎に耐える訓練から始めよう。『魔王』の魔法は雷が一番有名だが、炎だって滅茶苦茶に強いんだ。去年の薪、余ってたっけか。探し出して早速今夜から特訓を始めよう」
「ちょっと待ってよ。こんな小さい子を火で炙るって言うの? 冗談はよして」
「冗談じゃないさ。魔法が落ちてくる先ではガキも女も関係ないからな」
「だからって……」
二の句が告げない女に、グースフットは不敵な笑みを投げる。
「これが我が家の教育方針だ。あ、それと俺の息子はいつどこで『魔王』の刺客に襲われるか分からんぞ。俺、完璧あいつに顔覚えられてるから。市井に放し飼いの隠し子なんて脅しの人質にするには最高のネタだからな。俺の子孫には波乱万丈な人生が約束されていることは間違いないが、母子共々平穏無事に暮らしたいなら俺との関わりなんてない方が幸せかもしれん」
正直あの『魔王』にきちんと顔を覚えられているかどうか、自信はない。勿論心中の呟きはおくびにも出さず、グースフットはあくまで紳士的な態度で女へと手を差し伸べた。
「というわけで、安全のためにも赤ん坊はこちらで預からせてもらう。丁度俺も女遊びから足を洗おうと思っていたところなんだ。嫁取りだ何だと、面倒な手順を飛ばして跡取りができるってんなら、こんなに喜ばしいことはない」
よろこばしいことはない。自分で言ってて吹き出しそうになった。危うく途中で舌を噛みかけて、慌てて威儀を正す。
差し出された手に、予想通り女が腕を伸ばすことはなかった。逆に赤子を守るように抱え上げ、グースフットを睨み上げる。切れ長の目はなかなかの迫力だ。
「この、人でなし」
「その人でなしが、そいつの父親なんだろう?」
肩を竦めるグースフットをもう一度睨みつけて、女は無言のまま部屋を出て行った。勿論腕には赤ん坊をしっかり抱きしめたままだ。乱暴に閉じられた扉の残響が耳に痛い。ややあって再び扉が開き、ひょこりと先程の部下が顔を出した。
「おやグースさん、もう決着ですか」
「ああ。連勝記録更新中ってな」
「嫌な記録ですね」
「うるせぇ」
すかさず部下に鹿毛の用意を命じ、グースフットは詰めていた襟を緩める。出世したらしたで、気苦労もどんどん増えていくものなのだ。
今日のところは母親が諦めてくれて良かった。グースフットの勇名を当てにして来てはみたが、自分には何の得もなく、肝心の赤子は取り上げられてしまうなど。そんな条件を呑む母親がいるはずがない。けれどこんなことを繰り返していると、いずれ本気で赤子を差し出す女が現れるのではないかと怖くなる。
己が欲得に与るためではなく、ただ純粋に赤子を立派に育て上げるためにこの屋敷に飛び込んでくる女。その出現が今、グースフットが直面している喫緊の課題だった。
「そろそろ俺も、身の固め時か?」
誰もいない広い家。逃げ出したいのはやまやまだが、ここより広くて空っぽの宮殿で埋めようのない孤独を抱えている顔を知っている手前、放り出すこともできはしない。
この場所で生きること。それが戦が終わった現在、グースフットの最大の仕事だった。
聞き慣れた鹿毛の嘶きが庭から聞こえてきた。よっこいせ、と声をかけてグースフットは腰を上げる。とりあえず今できることは、気軽に飲み歩くこともできなくなった戦友の晩酌に付き合ってやることくらいのものだった。
部下の見送りを受けて、グースフットは街の石畳へと愛馬を進める。空気は湿り気を帯びて粘っこい。また一雨来るのだろうか。夕焼けと雨雲が足早に混じり合う空を見上げ、ふと思いつく。
この時間ならまだ市場も開いているだろう。かつてよく酌み交わした蒸留酒でも手土産にしてやろうか。
どうせ遅刻するという報せは入れているのだ。さらに少しくらい寄り道したって構わないだろう。
懲りない男の宮殿とは逆に向かうその思いつきが、またしても新たな修羅場の始まりとなるのだが——それはまた別のお話、次の機会に話すことにしよう。
<2009年3月22日>
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哀しいほど美しく、夜空は桜色に煙っていた。深藍の夜を切り取っているのは、竣工したばかりの宮を飾る真新しい瓦。ぬるく柔らかな春風が頬を撫で、枝から落ちた花弁をひらひらと舞い上げる。切り出されて間もない木材の香りが馥郁と漂う、そんな夜。
「宮の住み心地はいかがですか、梓」
「なんか落ち着かんよ。おら、天幕の方さ良がったなぁ」
いつもと変わらぬ飾らない返答に、小さくキヌアは笑った。つられて梓も笑う。見上げた空の月が優しかった。
『魔王』との最後の戦いから三ヶ月。全てが凍りついたあの牡丹雪の日から、既にそんなにも多くの月日が経っていた。二度と流れることなどないとさえ思っていた時は確実に刻まれ続け、こうして今年も桜は咲いた。
北の港街は今、普請中の建物ばかりだ。まがりなりにも『戦士』と『魔王』の均衡が成り立ち、新しい秩序が生まれつつあるこの島。必要とされる新しい建物を造るため一気に需要が増えたせいで、元々樹木の少ない土地柄の島では木材が一気に不足した。新しく開けた航路に便を奪われ寂れがちだった港も、抜け目ない木材商人が大挙してやって来たせいで活気が戻っている。戦の終わりと久々の上客のおかげで、街は連日お祭騒ぎだった。
けれど真っ先に新設された『戦士』の居宮の裏手にあるこの桜並木だけは、いつでも不思議な静けさに包まれていた。桜は上質の建材となる。この桜たちも遠からず切り倒され、新しい家々を支える柱となることだろう。
けれど今、この並木を伐ろうと言う者など誰もいない。
せめてこの花が散るまでは。誰もがそう思うほど、幾万の花弁は夜目にもあでやかだった。
桜の時。美しくも儚い、この花の季節。
「……遅くにすみません。明日、貴女は忙しくなるというのに」
「なんもさ。おめさの元気そうな顔ば見れて良かったっけ」
明日、梓は花嫁となる。この島を統べる領主の一人となった『戦士』藜の后へと。
”山の民”の村に藜がやって来た時から、いずれ来ると分かっていた日だった。村長の娘である梓に結婚相手を選ぶ自由などない。父が気に入った相手へ、その時村が必要とする相手へ、ただ黙って嫁ぐだけ。
そう、割り切っていた。父から婚約の話を聞いた時も、ああついに来たかと思った程度。相手の顔さえも、あの黒鎧の、と思うくらいで大きな感慨はなかった。『戦士』側から書簡が届くたび詳細が決まっていく自分の婚儀の次第はどこか人事のようだった。どの道、本人の意向などお構いなしに事は進むのだ。現実感を欠いたまま準備は着々と進み、そのままついに下山の日を迎えた。
何もかもそれで良かったのだ。けれど。
今でも梓は覚えている。山を下りてすぐ、自分の婚礼の采配を進めていた軍師に初めて引き合わされた日のことを。
長い道程の果てに辿り着いた港の倉庫街、傾きかけた太陽と凪いだ海はどこもかしこも眩しくて。慣れない潮風をやり過ごそうと瞼を細めた視界の中、ここまで案内してきた『戦士』の係に声をかけられて、水夫に指示を出していた金色の髪の青年が振り返る。目が合った瞬間、青年の色素の薄い眼差しが大きく見開かれた。鳶色のそこに映っていたのは見慣れた自分の顔。眇めることなど忘れた漆黒の瞳もまた、真っ直ぐに梓を見つめ返していた。
「明日の次第を少しでも報告しようと思いまして。ここのところ忙しかったせいで、貴女はまだ衣装もまともに見てはいないでしょう」
そう。忙しかった。梓には山ほどの仕事が、役割がある。山奥の村から本格的に花嫁道具を運び出したり、これからの住まいとなる宮の造営を見回ったり。一方で花嫁の禊や、今後藜が行う政を助けるための勉強も続けなければならない。
理由をつけて、ついに衣装を見ることなく今宵を迎えた。逃れられぬ宿命を纏う日。今あるほんのわずかの自由すら失われてしまう、その日。ぎりぎりまで目を逸らし続けてきた、その瞬間。
「婚礼衣装は綺麗ですよ。話が纏まってすぐに注文した大陸渡りの錦ですからね。あちこちやりくりして、ようやく買い付けたんです。職人の手仕事なので納品が間に合うか、最後まではらはらさせられました」
どうして最初に村へ来たのが、この人ではなかったのだろう。『戦士』の三人はほとんどいつも一緒にいるくせに、肝心な時にだけ決まって別行動になる。
弾んだ調子を繕うキヌアの表情を、梓はただじっと見つめた。今この瞬間を、少しでも深く胸に刻み込むかのように。そのひたむきな視線に気づいているのかいないのか、鳶色の瞳は舞い散る桜の花弁を映しながら立待の月を追っている。
「赤も、青も、白も入った色とりどりの生地ですよ。不吉な紫と、藜が着るだろう黒は外しておきましたけれど。きっと貴女には似合うはずです」
明るかった声音がふと途切れた。長いようで短い、その沈黙。何かを振り切るようにきつく目を瞑って、キヌアは梓の顔を見ないまま呟く。
「貴女の晴れ姿を、この目で見れないことだけが残念です」
「……やっぱり、行っちまうんか」
そんな予感はしていた。口では散々に言うくせにいつでも誰かを思いやっているその心を、梓は誰よりも傍で見てきた。
藜を領主にする。その大義の為に、一体どれだけのものを犠牲にしてきたのか。
船商人の実父から受け継いだ私財、数多くの部下、非情の軍師という呼び名、抑えつけてきた良心。たとえ梓が望んでも、藜が許しても、キヌアは決して自らを幸せにする道を選びはしないだろうと、心のどこかで分かっていた。
だからこそ目が離せなかった。しっかりしているくせに危なっかしくて、自分のことなど二の次の、優しすぎるこの金髪の主から。
最後の時の欠片がただ深深と降り積もる。桜色が一色に見えないのは何故だろう。白いもの、赤みを帯びたもの、濃いもの、薄いもの。それぞれがあるかなしかの風に翻るたびに、共に過ごした時の記憶がひらやかに舞い落ちていく。地面に落ちるのを拒むかのように、梓の目の前でまたひとひらの花びらがくるりと回った。その縁を銀色の月光が彩った。ほんの一瞬輪郭を現した儚い面影のように、花弁はすぐに視界の外へと流れていく。
「おらな、少し蓮が羨ましかったっけ」
ふと思いついたことをそのまま口にしてみると、初めてキヌアがこちらを向いた。その瞳には怪訝そうな色が浮かんでいる。
「蓮が? どうしてまた」
梓は小さく笑った。あんなにも哀しく、けれど鮮やかに己の想いを貫いた娘の名が、今この場面で出てくる意味。意外とこの人は鈍感なのだ。敵の動きなら裏の裏まで即座に読み取ってみせるくせに、何故こんなにも分かりやすい梓の気持ちは分かってくれないのか。
——だから、こんな不意打ちにも簡単に引っかかる。
一気に詰めた距離は、これまで悩んでいた時間の長さに呆れるほど短かった。キヌアが息を呑むのを胸に押し当てた頬で、瞬時に固まった背筋を回した腕で、直に感じる。藜の腕へ飛び込んだ時の蓮もこんな気持ちだったのだろうか。幸せなのに哀しい、抱きしめた体の温み。
蓮が羨ましかった。迷わずに飛び込めた勇気が。しっかりと受け止められた心が。
「梓」
大いにうろたえた声が耳許で響く。少しだけ梓は腕に力を籠めた。たったそれだけで、能弁で知られた軍師の口はぴたりと閉ざされる。
「もう会えないんっしょ? だったら」
せめて、温もりだけでも。この先自分を支えるだけの、確かな手ごたえを。
明日、梓は婚礼を挙げる。今、この腕の中にいるのとは違う相手と。
長く、長く、ためらった末に。
キヌアの手が梓の肩に添えられた。突き放されるかと思わず身構えた身体を、思いの外繊細な掌が包み込む。
「心を理解されすぎる、というのも考えものですね。本当は何も言わずに出て行くつもりだったのに」
苦笑混じりの声。聞き慣れているはずのそれがいつもより深く心に響くのはどうしてだろう。
「おめさば考えそうなことなんて、お見通しだっけ」
見合わせた視線の中、これまで梓が見たこともない穏やかな顔でキヌアが笑った。肩から背中に下りてきた腕にぐっと力が籠もる。
「明日の衣装に桜色が混じっていなくて、良かった」
「ん」
頷いて、梓はキヌアの肩に顔を埋める。気の利いた言葉など言えそうにない。だからもう、何も言いたくなかった。
「梓。貴女が好きでした」
「分かっとるって」
分かっている。
キヌアの言葉が過去形でなければならないのは、これから嫁ぐ梓の、迎える藜の、重荷にならないため。
梓が答えを返してはならないのは、そんなキヌアの心を誰よりも理解しているから。
『戦士』藜をこの島の領主にする。軍師キヌアが絵図を描き、”山の民”の長の名代である梓が実現のために手を貸した未来。間もなく叶うその時間の中、けれど三人の行く末が交じり合うことはない。
それぞれが心を持つ人間であるがゆえに。三人共にいれば必ず、互いを裏切ってしまう日が来るのは目に見えているから。
悲劇は一度で十分。梓もキヌアも、これ以上藜から大切な者を奪いたくはなかった。だから今、袂を分かつ。それは二人が共に辿り着いた、大義を通すための唯一の道。
きっとこれから先、桜が咲くたび思い出す。花びらの雨と、月と、柔らかく揺れる春の風を。確かにこの腕の中にあった温もりを。たとえこの桜並木がなくなろうとも。二人の間が、どんなに遠くに離れても。
明日、道は分かたれる。散りゆく桜のように、共に過ごした時間は戻らない。
桜は散るからこそ愛でられる。永久の華より鮮やかな姿を描く刹那の花弁。戻らぬ過去も、共に歩めぬ未来も、今はない。
この温みを頼りにしよう、と梓は思った。これから送ることになる長い年月の中、目には見えずとも寄り添い合い、支え合って。
ふいに桜色がぼやけた。この島が描く未来を、この花景色を見ることもなく去っていった銀髪の娘の顔が瞼に浮かぶ。
生きている。梓は、キヌアは、生きている。だから。
これからも、それぞれの道を生きていく。
降り落ちる桜色の吹雪の中、互いに無言で腕の力だけを強める。刹那に咲き誇るこの瞬間が少しでも長く続くよう、祈りを籠めて——
立待の月が、綺麗な夜だった。
<2009年3月22日>
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生成りの外套を着た背中が、誇らしかった。
衝立に染みついた生薬の香りが鼻先をくすぐる。十分な高さがあるとはいえ、せっかくの目隠しも後ろの子供がこんなに身を乗り出していては意味がない。大きな背中越しに見える患者と目が合った。居心地悪げに目を逸らしたのは患者の方、その表情から察したのか生成りの背中は振り返らないまま言った。
「スギ。呼ばれるまでおとなしく待っていなさい」
はい、と素直に返事をしながらも、スギは頭を引っ込めない。先程よりは少しだけ身を引いて、それでも大して変わらない格好でじっとその背を見つめる。父は滅多に振り返らない。けれど時々、スギに声を掛けてくれることがある。言いつけられるのはいつも単純な——例えば裏手の倉庫から薬の材料を持ってくるといった用事だったが、それでもスギは嬉しかった。大好きな父の役に立てる。それが何よりの誇りだった。
薬師ヒバといえば、皇都では知らぬ者のいない名医だ。あまり有名になると代々の家業である薬種問屋の看板の方が霞んでしまうと溜息を吐くのはまだまだ健在な祖父一人、なるほど最近では単に薬を求める者よりヒバに病を診てほしいと足を運ぶ者の方が多い。
診察の後に結局うちの薬を買っていくんだから、どっちでも変わらないんじゃないかな。
そう子供心に思っても、隠居生活で暇を持て余した祖父の愚痴は一旦溢れると止まらない。だからスギはあえて口には出さずに祖父の話し相手を適当に切り上げて、こっそり診察部屋の衝立に隠れる。
患者はしばしば個人的な事情と絡めて症状を訴える。今来ているご婦人はどうやら腹具合が悪いらしい。昨晩嫁が作ったお菜を食べた後からだとしきりに繰り返している。ヒバはその言葉にいちいち頷きながら、食べたものの種類と材料を買った時期をひとつひとつ確認している。
「お嫁さんの生姜煮は体に悪いものではありませんよ。ただ食べた後少し汗をかくので、おなかが冷えてしまったのでしょうか。肌着を一枚着るだけでも違いますから、試してみてくださいね。お薬は軽くおなかを整えるものにしましょうか。スギ」
呼ばれてすかさずスギは駆け出す。整腸薬なら作り置きの棚にあったはず。ご婦人の病は聞いている限り重い症状ではなかった。一日分だけ持ってきて、ヒバに手渡す。横目で三つの薬包を確認した父が満足げに頷くのを見て、スギは笑顔で衝立の陰に戻る。
ただ薬を売るだけではなく、きちんと患者の症状を診て適切な処方を立てる。父の薬師としての信念を知っているから、スギはいくら待たされても衝立の陰に立ち続ける。少しでも多く、この大きな背中を見ていたいと思うから。
いつか自分も、こういう薬師になれるだろうか。
憧れをこめて見上げる背中は、まだまだ遠くにあるように見えた。
「スギ、後で父さまのお部屋にいらっしゃい」
母に呼ばれたのは、夕餉の片付けの最中だった。同じく食器を下げようとしていた姉のサワラが耳聡く聞きつけて抗議の声を上げる。
「えー、ごはんの後スギに話したいことがあったのに」
歳の近い姉は活発で、昼間はほとんど家にいない。近所でもやんちゃ娘として有名な彼女は、どうやら今日も何かの武勇伝を拵えて報告の機会を待っていたらしい。
「何? あなた、また何か私たちに言えないようないたずらをやらかしたの?」
「違う違う! そんなんじゃないってば」
呆れたような母の声にサワラは慌てて首を振る。
「さっき街で見かけた戦士の子がすっごくカッコよかったから、スギにも教えてあげたいなーって」
「何でスギにカッコいい男の子の報告をするのよ? あなた一人で眺めていればいいじゃない」
「それが違うんだなー。その子、男の子じゃなくて女の子だったの」
「あら、カッコいい女の子?」
「そうそう。髪が赤くてね、お肌も綺麗に焼けててすらっとしてて。あんなに剣が似合う子、男の子でもなかなかいないよ」
「へぇ。そんな子なら母さまも会ってみたいわね」
「えー。母さまはカッコいい男の子でも会ってみたかったんじゃないの?」
手に食器を持ったままおしゃべりに興じる母と姉に苦笑しながら、スギは自分と祖父の分を台所に下げた。祖父が女子はうるさくてかなわんとぶつくさ言っているが、わざとらしくしかめた眉の下の目が笑っているのをスギは知っている。ちらりと父を見やると、穏やかな表情で食後の茶に手を伸ばしたところだった。食事の膳は既に母が下げてしまっていて、茶托だけが板張りの床の上に直に置かれている。
普段の父は寡黙だ。昼間の診察で丁寧に説明の言葉を選ぶ反動か、家では必要なこと以外はしゃべらないし、表情も雰囲気もゆったりと穏やかなまま変わらない。その父の顔がふと上がって、スギの視線とぶつかった。
「……何だ」
仲のいい家族だ。基本的に隠し事などないから、大抵の連絡や報告は夕餉の時間に行われる。わざわざ私室に呼ばれることなど滅多にないから、やはり用件は気になる。
見上げる父の表情は常と変わらず穏やかだ。その分内面の感情は読み取りづらい。職業柄か、父の表情が変わるところをスギは今まで見たことがなかった。
「……何でもない」
訊きたい気持ちを抑えて、スギは目線を逸らした。この場で言わなかったことには理由があるのだろう。父がそう判断したのであれば、今は何を訊いても答えてくれないはずだ。
夕餉の片付けも一段落し台所が静かになった頃、スギは両親の居室へと向かった。既に床に就いた祖父の咳の音が夜風に混ざって流れてくる。咳止め薬の配合はどうだっただろう。そんなことを考えながら暗い廊下を歩く。
目指す部屋の扉は閉じていたが、隙間から柔らかな灯火の明かりが洩れている。扉を軽く叩いて、スギは部屋の中へ入った。
「来たか」
橙色の蝋燭の光に満ちた部屋で、研究用の机に向かっていた父が振り返る。母がさっと席を立ち、壁際の籠の傍にかがみ込んだ。
父の目線に促されるままスギは机の近くの椅子に腰掛けた。父と真正面から向き合う。
「スギ、今年でいくつになった」
「九歳です」
小さく頷いて、父はさらに問いを重ねる。
「薬師の仕事が好きか」
「はい」
「問屋の仕事——商売に興味はないか」
少し考えて、スギは答える。
「薬を安く仕入れて、高く売るということにはあまり。ただ、その薬種がどこから来て、どういう製法で作られたものなのかは知りたいと思います」
すっと母が父の隣に立った。小さく笑ってみせた母に無言で頷いて、父は母が抱えていた籠を受け取った。
「明日からこれを身につけるように。診察部屋の中にも入っていい」
差し出された籠に入っていたのは、生成りの外套と一振りの剣だった。戦うための剣とは少し違う形の、まだ小さなスギの手に余るほど分厚い刃。それは父が常に傍らに置いているのと同じ、薬種を削るための薬師の剣だ。
自分の気持ちが父に認められた。
喜びがスギの内に突き上げてくる。腕に抱えた籠を抱きしめる。明日からは衝立の陰でこそこそしなくても済む。父の背中を間近で眺めることができる。
「この剣を持つ以上、忘れてはならないことがある」
嬉しさで紅く染まった息子の頬を見下ろして、薬師は告げた。
「これから何があろうとも、決して他者の生命を奪ってはならない。薬師は生命を救うために在るのだから」
諭すような声音に、スギは深く頷いた。改めて両親を見上げる。母はスギと同じくらい嬉しそうな顔でにこにこしていた。父の表情はいつもとあまり変わらないように見えたが、穏やかな中に微かな喜びの気配が混じっているのが感じられた。
「ありがとうございます、父さま、母さま。いつか父さまに負けないくらい立派な薬師になれるよう頑張ります」
そう言ったスギの頭に父の大きな手が載せられた。その顔が珍しく微笑んでいることに気づいて、スギはますます頬を綻ばせた。
薬師の朝は早い。陽が昇りきる前には起き出して、作り置きの常備薬の調合に入る。その日の在庫に照らし合わせて、数が少なくなってきたものから補充する。
外套をもらった翌朝から、問屋の蔵でその日必要な薬種を探すのはスギの仕事になった。材料集めの傍ら、蔵の在庫が切れていないかも同時に確認する。足りていないものを帳面に記録し、祖父に手渡す。この仕事もそろそろひと月。勝手が分かって来たこの頃は、かなり早く材料を探せるようになっていた。
「じいさま、檳榔子と芒硝が切れそうです。それと父さまが甘草を多めに仕入れてほしいと言っていました」
「分かっておるわい。そろそろ風邪の季節だからの」
祖父はスギが薬師の修行を始めたと知った時、少しだけ寂しそうな表情をした。だが結果的に毎朝問屋の仕事も手伝うようになったため、かなりご機嫌を直してくれたらしい。
「ほれ」
祖父が何かを放ってきた。反射的に受け止めた手のひらに、固くて平べったい感触が残る。
「今日もどこぞへ薬を届けに行くのじゃろ。それで何か甘いものでも食え」
「……ありがとう、じいさま」
早起きは三文の得。サワラに見つかると厄介だから、内緒の小遣いは外套の中に大事に仕舞っておいた。薬師の外套は薬種を入れるための隠しがたくさんついている。だが、まだ薬種を持ち歩くことを許されていないスギの外套の隠しはほとんどが空っぽで、外套自体も軽い。ずっしり重い父の外套の域に届くにはまだまだかかるだろう。
薬種を入れた籠を下げて診察部屋へ入る。隅の板の間で、既に父は作業を始めていた。傍らに置かれた籠の中身を横目で確認し小さく頷いたのを見届けて、スギは父の前に座り込んだ。秤で計量された数々の薬種が、乳鉢の中ですり合わされて一つの薬になっていく。
「……胃薬?」
スギの言葉に父がまたひとつ頷く。今日探して来た薬種から考えると、今朝はこの後頭痛薬と咳止め、止血用の軟膏を作るはずだ。それと、いつもはあまり使わない生薬が父の書き付けにあったのが気になっていた。あれは何の薬に使うのだろう。未だ手つかずの薬種籠を気にしながらも、スギは軟膏用の蝋の湯煎のため一旦立ち上がって薬缶を火にかけた。背後では父が薬包紙を広げる微かな音がしている。
「スギ、今日のおつかいだが」
「はい」
実際の薬の調合はまだ任されていないスギの主な仕事は薬種探しと得意先への薬の配達だ。毎日できるだけ多くの薬種を見て、実際に薬を服む患者をできるだけ多く見ること。それが父から申し付けられたスギの課題だった。だから配達に行く先は日によって変わる。広い皇都の中で既に何度も行っているところもあれば、まだ一度しか顔を出していないところもある。
今日はどこに行くんだろう。心中の声に答えるように、父は行き先を告げた。
「今日は一ヶ所だけでいい。皇宮へ、これから作る薬を届けてくれ」
思わず振り返る。父の手が、あの生薬に伸びた。獣の角のような触感の、硬く節くれ立った塊。
「父さま、それは」
「薬師の間では『鹿』と呼ばれている。鎮痛、強心が主な作用だ。慢性的な症状に用いる薬だが、効果が強いので濫用は厳禁」
言いながら父が剣を抜いた。生薬の表面を慎重に削り、手元の薬研に振り入れる。輪が動くにつれ、芳香が部屋に広がった。
「どんな薬もそうだが、患者の体格や症状によって薬種の量や配合は調整しなければならない。だからできるだけ患者を直に診て処方を立てることが鉄則だ」
父の言葉に頷きながらも、スギは心中で首を傾げていた。
皇宮からの患者がここに来たという話は聞いたことがないし、もちろん見たこともない。最近は父もやって来る患者の診察で忙しく、どこにも往診はしていないはずだ。
「古い得意先でな。患者が赤ん坊の頃から贔屓にしていただいている」
薬研にまた違う薬種が入れられた。淡々と作業する父の目線は、傍らに置かれた手紙に落とされているようだった。
「患者の父親が薬師嫌いだから、おおっぴらに往診には行けない。代わりに母親が詳細な病状を寄越してくれるから、こちらも都度適切な処方ができる」
砕いた薬種を天秤で慎重に量りながら、父は一包ずつ薬を仕上げていく。
「とは言え、患者を直に診ることができればそれに越したことはない。患者はお前と同じ年頃だ。薬を届けるついでに話し相手にでもなって、様子を診てくるといい」
出来上がった薬包は三十。数を確かめてから布袋に薬を入れる。続いて服用の注意事項を書き付けながら、父はスギに告げた。
「門でヒバの遣いと告げれば患者の部屋まで案内してくれるはずだ。朝餉が終わったらすぐ向かうように」
午前もまだ早い時間ながら、皇都の市場はいつも通り賑わっていた。
「さあさ安いよ安いよ! 城外で穫れたての瓜、新鮮だよ!」
「今朝揚がったばかりの魚! 旬の青魚はいらんかね」
時間帯のせいか生鮮店の売り手が元気だ。近所の奥方や飯屋の仕入れなど、目の肥えた客が店先の商品を覗き込んで質を見定めている。
「にしても父さま、やっぱりすごいね。皇宮にまで患者がいるなんて初めて知った」
喧噪の中でも隣を歩くサワラの声はよく響いた。スギは無言で頷いて、薬が入った布袋を抱え込む。
先ほど家を出ようとしたところで、サワラとばったり鉢合わせた。遊び仲間との待ち合わせに向かうというサワラと途中まで一緒に、という流れになったのは当然のなりゆきだった。
「でもさ、なんだかんだでスギもすごいと思うよ」
意外な一言に、スギは思わず姉の顔を見上げた。最近徐々に背丈が伸び始めて来たとはいえ、まだサワラに追いつくまでには至っていない。ほんの少し高い位置からサワラはスギを笑顔で見下ろしてくる。
「その外套。初めて見た時はびっくりしたけど、スギは本気で父さまの跡を継ぐ気なんだなって実感して」
言葉を切って、サワラはふと目線を逸らした。
「偉いと、思った」
照れ隠しだと悟って、スギも釣られて笑みを零す。
「サワラは何かやりたいことないの?」
「あたし? あたしは——」
考え込む気配。しかしすぐに首を振って持ち前の好奇心たっぷりの表情に戻る。
「うん、まだ分かんないな。今はこうやって毎日楽しく遊んで過ごせればそれでいいや」
「それってダメな大人へ一直線の考えなんじゃ……」
「こら、ちょっと自分が順調だからって調子に乗るな」
軽く頭を小突かれて、スギは慌てて首をすくめた。明らかにおもしろがっているサワラの手は諦めずに追いかけてくる。人ごみをすり抜けながら器用に追いかけっこをしていた姉弟の目に、一軒の屋台が止まった。開店準備の真っ最中らしく、店主が一人で忙しなく立ち働いているのが見える。
「飴売りだ」
「飴売りだね」
ふと隠しの中の小銭を思い出す。物欲しげなサワラの表情を横目で見やって、スギは屋台へ歩み寄った。
「くださいな」
振り返った店主はスギの姿を見て表情を和らげた。子供好きらしい。差し出した小銭と引き換えに、気前良く飴玉を紙袋に詰め込んでくれた。成型されたばかりの飴は、スギの腕の中でまだほんのり熱を帯びている。
「ちょっとだけなら分けてあげるよ」
言われて差し出された飴袋とスギの顔を交互に見比べて、サワラは唇を尖らせた。
「ずるい。スギばっかりお小遣い多くもらって」
「違っ……! たまたま母さまにもらったのが残ってただけだよ!」
咄嗟についた嘘にサワラがふんと鼻を鳴らした。そのまま飴玉を何個か鷲掴みにして、まとめて口の中に放り入れる。
「あっ、取り過ぎ!」
「ふーんだ、くれるって言うならこれくらいで文句言わないでよね」
サワラは笑いながら走り出した。
「そのうち姉さまが倍にして返してあげるから! 楽しみにしててよ」
そのまま雑踏に紛れてしまった姉の後ろ姿を見送りながら、スギはやれやれと息をついた。
「お礼くらい、素直に言えばいいのに」
飴玉を口に含みながら、スギは皇宮までの道を辿った。石畳の向こうに大きな内門が見え始めた時は気後れしたが、父が言う通り遣いだと告げると門番はあっさりと奥の宮へと案内してくれた。第二の門の前で案内係は交代し、物々しい鎧姿の兵士から礼服を纏った宮人になった。薄々感じていた予感が、ここで確信に変わった。
今回訪れる患者は、相当に身分が高い。
思わず外套の胸元に手を当てる。そこには父から預かった薬袋と先ほどの飴玉の残りが入っている。自分が知る父の後ろ姿と、市場の菓子。スギにとっての日常があまりにもこの場所と結びつかなくて、知らず知らずのうちに指は外套を握りしめる。
かなり歩かされた末に、案内の宮人は一つの戸口の前で立ち止まった。恭しく手の甲で扉を叩く。
「はい」
聞こえたのは甘やかな女の声だった。引き戸を開けた途端に流れてきた暖かな空気には、紛れもなく父が調合していたあの薬の芳香が混じっている。
宮人に目線で促され、スギはおっかなびっくり戸口をくぐった。途端、圧倒された。無数の書物が床一面にうず高く積まれ、足の踏み場もない有様だ。辛うじて通り道らしき隙間を目で辿ると、その先に座っていた女と目が合った。長い黒髪にとりどりの色紐を編み込んだ頭を少し傾げて、しかしまっすぐな目線はこちらを射抜くように強い。
「ごめんなさいね、こんなに散らかっててびっくりしたでしょう」
声だけならば確かに甘い。だが確かな意志を宿した瞳と同時に受けると、その印象はがらりと変わる。
——強いひとだ。
編み込みの髪紐は”山の民”の風習だ。皇宮の奥深く、こんなにも丁重に遇される山岳地帯の女性など、一人しかいない。
皇妃キキョウ。
もちろん直に会うのは初めてだ。というより、こんなに近くで言葉を交わす機会があることすら想像したこともない。
父さまは何という人を診ていたんだ。
慌てて皇民の礼を取ろうとしたスギを、当のキキョウが仕草だけで止める。
「ヒバさんのお遣いよね? ひょっとしてお弟子さん?」
「あ、いえ」
思わず口ごもったスギに、ああとキキョウは小さく声を上げた。
「そういえばうちと同じくらいのお子さんがいらっしゃると仰っていたっけ。あなたがそうね?」
ぎくしゃくと頷いたスギを、キキョウが本の森の向こうから手招いた。
「いつまでも立ち話も何だから、こちらへいらっしゃいな。アオイ、お客様よ」
ごく無造作にキキョウは背後に声をかけた。微かに身じろぐ気配と、細く掠れた声が暖かな空気を震わせる。
「お客様……?」
皇太子アオイはスギより一つ年長だったはずだ。懐の薬袋を手で探る。同じ年頃の患者が服むという、強い薬。
足元の塔を崩さないよう、スギは慎重に部屋の奥へと足を進める。いつの間にか、好奇心が緊張を上回っていた。
分厚い書物の壁を越えると、意外にも柔らかな陽光に満ちた空間が広がっていた。採光の良い窓が小さめなのは部屋の主に無用な刺激を与えないためだろうか。窓の近くに据えられた寝床は暖房と一体化しているらしい。寝心地良さげに重ねられた布団の上で、皇太子は今まさに体を起こしたところだった。遠慮がちに覗き込んでいたスギとまともに目が合ってしまい、アオイは少し驚いたようだった。
「……こんにちは、薬師さん」
それでなくとも気後れしているスギの心を見抜いたように、アオイはにこりと笑った。キキョウの介添えで寝床の上にきちんと上体を起こして座る姿は、皇太子という肩書きに恥じぬ凛とした風格を漂わせている。
しかし痩せた体つきは決して体格に恵まれてはいないスギと比べても小さく見える。透けるような頬はわずかに赤みを帯びていて、やや早い呼吸が微熱を含んでいるだろうことを予想させた。
——患者が赤ん坊の頃から贔屓にしていただいている。
招き寄せられて枕元に立ったはいいものの、スギはかける言葉を失って立ち尽くしてしまった。お仕着せの見舞いの挨拶も、病状を問う言葉も、何も出てこない。
父さま、僕は何をすればいいの。僕が生きた年月と同じくらい長い間、病と闘っているこの人に何ができるの。
じっと辛抱強くスギの言葉を待っていたアオイが困ったように笑った。
「随分無口な薬師さんだね。それはお父上の教えかな?」
「違……っ」
「じゃあせめて名前くらい……」
言葉尻が突然掠れた。途切れた声の調子を取り戻すように軽く咳払いを繰り返すも、なかなか治らない。ひと呼吸ごとにアオイの呼吸は本格的な咳の音に変わっていく。
「あらあら」
キキョウがさっと立ち上がってアオイの背をさする。
「大丈夫? お水、飲める?」
アオイが小さく頷いたのを見て、スギは咄嗟に動いた。傍らの水差しから中身を杯に注ぎ、キキョウに差し出す。やや目を見張ったキキョウはそれでも迷うことなく杯を受け取り、アオイの口に水を含ませた。
間もなく咳はおさまった。発作とも言えないほどの些細な症状。この程度のことには慣れているのかアオイもキキョウも特段変わった様子はなく、淡々と処置を行っていた。先ほどより少し背もたれの角度を変えて、呼吸が苦しくない程度の傾きに調整する。襟元を少し緩め、やや乱れてしまった掛け布団を整える。
病が日常の生活。それは幸いにも自身と家族が健康であり続けたスギにとって衝撃だった。今まで診察部屋でしか見たことのなかった患者たち。この先薬師を目指すなら、多くの重症者とも向き合うことになる。こういった光景は何度も目にすることになるのだろう。そんな当たり前のことを今まで思いつきもしなかった自分がとても幼く、至らなく思えた。
俯いたスギの耳がアオイの呼吸音を拾い上げる。まだ少し掠れている。
——そうだ。
懐へ手を入れる。取り出したのは父の薬ではなく、先ほど買った飴玉の袋だった。その中から一つを取り出し、アオイの手のひらに載せる。
「のどのひっかかり。少しは良くなると思うから」
「……ありがとう」
意外なほど素直に、アオイは飴玉を口に入れた。その呼吸から苦しげな色が薄れたのを確認して、スギは改めてアオイの血色の薄い頬を見下ろした。
「先程は失礼しました。僕の名はスギ。薬師見習いになってまだ日が浅いけど、一生懸命頑張るつもりです。どうぞよろしくお願いします」
スギの真剣な眼差しを、アオイは微笑で受け止めた。
「私はアオイ。薬師と患者だから、きっと長い付き合いになるね。こちらこそ、どうぞよろしく」
右手を差し出したのはアオイの方が先。スギがためらったのは身分の差を考えたからだ。しかしキキョウはとがめるどころか微笑ましいものを見守る表情で成り行きを眺めている。
逡巡はほんの数秒だった。右手で細い手のひらを握り返し、しっかりと目線を合わせる。患者から目を逸らしていては、立派な見立てなどできるはずがない。スギの瞳に覚悟が宿ったことに気づいたのだろうか。アオイが満足げな顔で笑った。
「飴、美味しかったよ。できればあと何個か分けてくれないかな? 弟たちにもあげたいから」
「弟?」
「そう。やんちゃなのが二人。今は外で遊んでるけど、そろそろ帰ってくる頃だからね」
言われてみれば、窓から降り注ぐ光には数人分の子供の声も含まれているようだ。時々混じる低い男の声はお守り役の近衛兵のものだろうか。
「ちゃんと紹介しないと、間違っていじめちゃうかもしれないから。最初に餌付けしておけばきっと大丈夫だよ」
「餌付けって、あなた」
呆れたようにキキョウが笑った。
「自分の弟をその辺の子犬と一緒にしないでちょうだい。あの子たちはもっと物覚えが悪いわよ」
「母上の方がひどいこと言ってるじゃないですか」
母子のやりとりに、こらえきれず吹き出したスギの笑い声が重なる。笑われちゃったじゃないの、と抗議するキキョウの声はしかし怒りなどまったく含んでおらず、スギとアオイは布団を叩いてますます笑い転げた。
<2011年10月23日>
今回のおみやげも飴にするつもりだった。旬の苺を丸ごと飴の衣で包んだ、庶民にはおなじみの春の味覚。苺飴が話題になった時、元は庶民に近い出自のキキョウも懐かしいわね、と目を細めていた。しかし皇宮から出たことのないアオイにはそのような菓子の存在は新鮮だったらしい。
のど飴なら、誰にも負けないくらい詳しいんだけどね。
そう苦笑するアオイの容態は、最近落ち着いている。軽い発熱や咳の発作はあるようだが、重篤な症状はスギが知る限り出ていないようだった。献身的なキキョウの看病と屈託ない弟たちの元気さによって気持ちが安定していることが、病状に良い影響を与えていることは明らかだった。
気分次第で少しでも病状が改善されるのならば、自分もアオイのためにできることをしたい。薬師としても、友人としても。
いつもの飴屋の屋台へ声をかける。すっかり顔馴染みになったスギを、子供好きの店主が笑顔で迎えた。苺飴を包んでもらいながら、ふと考える。
このひと、まさか皇太子がここの飴を楽しみにしてるなんて思ってもいなんだろうな。
相変わらず愛想のいい店主に、なんだか悪戯をしている気分だった。
飴の入った紙袋を受け取り、スギが屋台を離れようとした時のことだった。
「おい、聞いたか? 辺境の村が中立地帯の盗賊に襲われたって」
聞くともなしに耳に入った噂話に足を止めたのは何故だろうか。飴売りの屋台のすぐ傍で、男が二人肩を寄せ合うようにして話している。もっとも声をひそめているのは噂を持ってきた方だけで、もう片方はむしろ邪険にしている様子さえ見て取れる。
「そんなの珍しいことじゃないだろ。どこの村のことだよ」
「南の街道筋だよ。ほら、昨日皇宮から応援が出たろ」
「そういや騎兵が何騎か走ってったな」
「あの中に皇妃様がいたらしいぜ」
どくん、と心臓が高鳴った。キキョウが盗賊退治に出た?
「へぇ。そりゃ珍しいがそれが何だってんだ? その後すぐに陛下が正規兵を率いて応援に駆け付けたって聞いたぜ」
「なぁ。おかしいと思わないのか? あの陛下が自らお出ましになられるなんてよ」
「そりゃお前、皇妃様が出られたからじゃないのかよ。女房が先陣切って自分は高みの見物じゃ、いくら鉄面皮の陛下でも恰好がつかんと考えたんだろうさ」
「あの陛下がそんなことで困るタマかよ。真相はもっと別なんだ」
「いい加減にしろよ。お前の講釈なんざどうでもいい、とっとと仕事に——」
「皇妃様が盗賊の手にかかったらしい」
聞き手の沈黙はそのままスギの思考の空白だった。
「おま、いくらなんでもそんな冗談……」
「冗談でこんなこと言えるか。現に陛下の隊もまだ帰ってきていないだろうが。盗賊ごとき、皇帝軍ならあっさり蹴散らせるはずだろう」
「そりゃそうだろうけどよ」
黙って聞いていられたのはそこまでだった。
「その話、本当ですか」
ぎょっと振り向いた二人の視線が空を切り、一拍置いて下げられた。聞き咎められたのが警備兵などではなく子供だったことにあからさまな安堵を浮かべながら、聞き手の男はうるさげに手を追い払う形に振った。
「忘れちまえ、こんな奴の与太話なんざ。どこまで本当だか分かりゃしねぇ」
「いや、本当だぞ」
話し手の男は自信ありげに胸を反らした。
「嘘だと思うなら向こう何日か皇宮を見張ってろ。絶対何かの動きがある」
スギは自分の質問の愚かさを悟った。ここでこの男を問い詰めたところで出てくるのは根拠のない噂話でしかない。そう、真実は実際に出向いて確認すればいいのだ。
身を翻してスギは皇宮へと走り出した。石畳を足裏が蹴るたびに、抱えた袋の中で飴玉がかしゃかしゃと揺れる。
苺飴——みんなで一緒に食べるつもりだったのに。
否、まだ先ほどの話が本当だという証拠はない。行ってみたらきっと何事もなかったかのようにキキョウが迎えてくれる。
そう祈りながら、スギは息せき切って皇宮の門へとたどり着いた。幸い、詰めていたのは顔馴染みの兵だった。スギの顔を見てにこやかに笑いながら、ああいつもの配達だね御苦労さま、などと言いながら道を空けてくれる。
——普段通り。
なんだ、やっぱりいつもと変わらないじゃないか。
安堵して門を潜り、兵に先導されて宮人が待機している内門へ向かう。案内の兵と雑談など交わしながらやって来た奥の宮への入り口。しかし普段通りはそこまでだった。
「あれ、何で誰もいないんだ」
内門の詰め所は空っぽだった。これまでは常に誰かがいて、そこで兵から先導役が引き継がれるという流れだったのだが。
「仕方ないな、ちょっと待っててくれないか。俺はここから先に入れないから、誰か人を呼んでこなければ」
胸騒ぎは一旦治まっていた分、揺り戻しが激しかった。
一介の門番兵にならば、予期せぬ皇妃の不在が伏せられることもあろう。しかし奥の宮に仕える宮人たちには。
「いえ、もう先導なしでも殿下の部屋までは行けますから」
言い捨てて、スギは内門をするりと抜けた。
「あ、お前、勝手に行くな!」
門番の焦り声を背に、スギはうそ寒い廊下を走り出した。もちろん無茶をしているという自覚はある。しかし悠長に案内など待っていられる心持ではなかったし、ましてや今は宮人が案内を拒否する可能性すらある。
待ってなどいられなかった。
勝手知ったる宮をいくつも抜けて、スギは一心にアオイの病室を目指す。途中でもやはり宮人の姿は見かけない。結局誰にも見咎められることなく、スギはアオイの部屋に辿り着いた。
「アオイ、いる?」
アオイ様、と呼んで怒られたのは最初の訪問の時だった。友達なんだから、と膨れられては無理に呼ぶこともできず、それより何よりスギ自身が嬉しかった。以来アオイには敬語を遣わずに接しているが、あれで意外に頭の固い父には未だその事実を伝えられずにいる。
戸口で声をかけても反応がない。仕方なしに相変わらずの本の山をすり抜けて奥へ進む。やはりいつもと違う。キキョウが傍にいれば、この時点でスギの来訪に気付いてくれるはずだ。
アオイはいつもの寝床にいた。珍しく半身を起こして、寝床に座り込んでいる格好だ。どうやら膝に置いた手紙を読んでいるらしい。
「アオイ?」
恐る恐る声をかける。アオイがぎくりと顔を上げた。声の主を探すように視線をさまよわせ、部屋を一巡りしてようやくスギの姿を認める。
切実な期待を帯びた張りつめた目線に、声の主をスギだと正しく認識した色が混じる。一拍の後それは底知れない悲哀を帯びて、ゆっくりと膝の手紙へと戻された。
「……が、欲しい」
「え?」
掠れたアオイの声に重なるように、窓辺でばさりと影が動いた。鋭い啼き声は猛禽のもの、とするとこの手紙を運んできたのはこの鷲だろうか。
鷲が運ぶ手紙は戦場からのものと相場が決まっている。一気に冷えたスギの心は、アオイの抑揚を欠いた掠れ声でついに凍りついた。
「私にもっと力があったなら、母上をお守りできたのに。私に大切なものを守れる力があったなら」
不意にアオイの瞳から涙が零れ落ちた。俯けた顔、落ちた雫は拳に、布団に、そしておそらくは悲報を伝える手紙に点々と落ちていく。
「力が、欲しい……!」
知らず握り締めた外套から紅い粒が零れ落ちる。床に、本の山に散らばる苺飴を拾うこともできず、言葉もなくスギはただ立ち尽くしていた。その背中に、ようやく駆け付けてきた宮人の足音が追いついてきた。
春が過ぎ、夏が来て、秋も駆け去った。そして迎えた冬。草原の真ん中で風雪に晒される皇都のそれは長く厳しい。
氷の気配を帯びた北風に、スギは思わず首をすくめた。数日前に年を越したばかりの今朝、皇都は殊に気温が下がっていた。既に太陽は頭上高く昇っているものの、一向に寒気は緩まる気配がない。
幾人かの患者の顔が頭をよぎる。急な寒さで体調を崩していないか。病状は悪くなっていないか。市場裏の喘息のおじいさん。肝臓が悪い大工町の親方。脚が不自由な城壁横のお姉さん。
皇宮への配達が終わったら顔だけでも見に行こうか。そう自然に考えることができるだけ、スギも随分と仕事に馴染んでいた。
薬師の外套に腕を通してもうすぐ一年。相変わらず仕事はおつかいばかりだったが、北風を受けて無意識にかき合わせた外套の隠しには薬種や調合済の薬が幾つか入っている。いずれも基本的な痛み止めや傷薬などだが、それらはスギの判断で処方することを許されている薬だ。常時持ち歩ける薬が増えることは薬師としての成長が父にも認められているということでもある。確かな手応えを感じ始めている今、スギは何より仕事が楽しかった。
本好きなアオイの影響で、最近はスギも仕事に関わる文献に積極的に目を通すようになっていた。父は自分の書物を出し渋ることはなかったし、難しい用語や解釈については解説してくれることもあった。おかげで患者から薬の効能や処方の意味を問われた際も、きちんと自分の言葉で説明できるようになっている。大抵の患者はまだ少年の域を出ないスギの淀みない解説に舌を巻くが、中にはさらに詳しい説明を求める者もいた。
他でもない、アオイがその代表格だ。
キキョウを亡くした直後、スギはアオイの病状が悪化するのではないかと危ぶんだ。だが少なくとも表面上はアオイの体調が崩れることはなかった。幼い弟たちを支えて父帝の傍らで葬祭に臨む姿は本当にあの病身の皇太子かと思うほど毅然としたもので、堂々とした威厳さえ感じられるものだった。
——力が欲しい。
その望みはアオイの中で明確な形を成しつつあるのだろうか。キキョウがいなくなってから、アオイは以前にも増して知識を求めるようになった。それは歴史や地理、経済といった国を統べるための通り一遍のものには留まらず、例えば皇都で今流行している出来事だったり、中立地帯の人々の暮らしぶりといった書物では入手できない情報の類も含まれるようになっていた。
今、スギは外套の下にいつもの薬袋の他に父から借り受けた薬草の絵草紙を抱えている。あの日以降、訪問時の手土産は飴玉から薬学の知識と皇都の噂話へと変わっていた。
自分に処方されている薬はどういったものからできているのか。
どこから来た材料を用い、どういう意図でそれを処方に加えているのか。
アオイにとっては自らの生命に直結する情報であると同時に、使い方次第では貴重な武器にもなりうる知識だ。薬種は匙加減ひとつで毒にも薬にもなる。アオイが欲したのはその境界線の知識だった。
勿論駆け出しのスギが不用意に答えられるような質問ではない。だから最近は薬の配達のついでに父の書斎から持ち出した書物を広げては額を突き合わせて眺め、今回処方された薬について二人で学ぶ。前回、前々回の処方との違いを比べ、足りない知識はアオイの部屋にある文献をひっくり返したり、スギの次の訪問までに調べて結果を報告し合う。スギの説明能力が大人の患者たちから一目置かれるほどに上がったのも、この勉強会があったからこそのものだった。
「前回より『鹿』の割合が減ってるね。最近発作が少ないからかな?」
「うん、ああいう強すぎる薬は却って身体に負担がかかるから。代わりに甘草が多めに配合されてる。大発作を抑えるより普段の咳を緩和する目的の処方だね」
「ああ、それじゃ今月の薬は甘いんだね」
生薬の配合を記した処方箋から顔を上げて、アオイは苦笑する。
「甘草の甘さって、薬臭くてあんまり好きじゃないんだけどな」
「竜胆が多いよりましだよ、きっと」
「ああ。それは嫌だな。ものすごく苦そうだ」
処方箋の分析に一通り満足したら、次にスギが持ち込んだ薬草の絵草紙を覗き込む。詳細な素描と簡潔な説明文をひとつひとつなぞりながら、薬効と使用法を確認していく。
「こうしてみると生薬って動物の名前がついたものが多いね」
「何かに似てると思って名前をつけた方が昔の人も覚えやすかったのかも」
薬効と併記されている副作用や過剰摂取時の症状、その対処法。絵草紙ひとつ取っても学ぶことはたくさんあり、調べる事柄はそれ以上に膨大だった。部屋に積んだ無数の書籍を次々にひっくり返しながら、二人は時間を忘れて知識を貪った。
「僕はね、もっともっと色んなことを知りたいんだ。知識は力になる。知らなければ何もできない。何も、遺せない」
アオイがぽつりと呟いた。顔を上げたスギの方は見ようとはしないまま、静かに頁を繰り続ける。
「薬学だけじゃない。歴史や、地理や、政治学のような父上が教えてくれる皇太子の勉強でもまだ足りない。僕はこの国のすべてを、可能な限り知りたいんだ」
「わかってる。だから僕が都で聞いた話を教えてるじゃないか」
「そうだね。だけど、皇都だけがこの国のすべてじゃない」
アオイの手が止まった。視線を落としたその先には、山岳地帯に生えるという薬草の挿絵。
「山岳地帯の村では普段どういうものを食べている? 中立地帯の人々の一日の暮らしは? 王都の国王は領民たちにどう思われている? ——知りたいことが多すぎて、どうしていいかわからない」
行きたいのだ。自分の目で、自分の耳で、自分が生きている世界を知るために。
スギはアオイの望みを理解した。同時にそれが叶わないであろうという諦めと悔しさ、もどかしさをも。
皇帝領の外へ行くどころかこの部屋から出ることさえごく稀。やむを得ず外出した後は必ず発熱に見舞われる。こんなに手厚い治療を施してさえこうなのだ。好奇心を、知識欲を満たすための旅など夢のまた夢。
そんなアオイにとって、これから自分が発する言葉は酷かもしれない。けれど。
「いつか行けばいいよ。その時までに僕が君を治すから」
自信などない。けれどそれは紛れもなく希望だった。スギだけでなく、アオイの心をも救える、未来への願い。
「時間はかかるかもしれない。けれどいつか僕がこの国中を廻って、君の病気だって治せる薬を作る。もちろん旅の土産話は全部君に聞かせるよ」
ようやく顔を上げたアオイの視線を捕まえて、スギは笑いかけた。
「だから諦めないで。自分の望みだろ?」
「……そうだね」
微かに笑って、アオイは頷いた。
「誰だって『いつか』を信じることはできる。きっと僕にも、それくらいは許されてる」
ありがとう、という小さな声がスギの耳に届くと同時に、廊下がばたばたと騒がしくなった。
「さむいさむいさむいよー! 兄上様、ただいま帰りましたー!」
「あんまり寒いとか言うな、余計寒くなる! 兄上ー、お客さんを連れて来たぞー」
振り向いた先、部屋の入り口から覗く三つの顔を認めてアオイは頬を綻ばせた。二つは最早見慣れたアオイの弟たち、しかし馴染みのないもう一つの褐色の顔は——
「おや、アサザの好敵手じゃないか」
「ちょ、兄上! 好敵手なんかじゃないですよ! 俺の方が断然——」
「弱いですもんね?」
口を挟んだアカネの頭をすかさずアサザが叩く。どう反応していいのか戸惑っているスギとブドウを、アオイがくすくす笑いながら手招いた。
「スギ、ブドウ、こっちに来て。改めて紹介するから」
本の山の中をおっかなびっくり進んでくるブドウと仲良く騒がしい兄弟、それらを見守るアオイ。
——つまるところ笑顔が一番の薬だ。
そんなことを思いながら、スギもまた自然と頬に笑みを浮かべていた。
「え、あのカッコいい女の子と話したの!?」
サワラの丸い目がさらに丸くなった。次の瞬間、スギの胸ぐらは乱暴に掴まれて、がくがくと盛大に揺さぶられる。
「ちょ、やだ、なんでスギばっかり……!」
「そう言われても、仕事の成り行きで何となくとしか」
「ずるい! じゃあ今度私も皇宮についてく!」
「無茶言わないでよ」
心底困り果てたスギを救ったのは、父のこの上なく冷静な声だった。
「サワラ、暴れるなら箸を置いてからにしなさい」
みるみるしゅんとなったサワラが自分の膳に向き直るのを確認して、スギはほっと息を吐いた。いつもの夕餉の風景だ。間髪入れずに母がスギの膳におかわりの椀を置く。ちょうど伸び盛りに差し掛かる年頃だ。最近とみに食べる量が増えている。
有り難く椀を手に取りながら、ふとスギは思いついたことを口にする。
「そういえばサワラは皇子たちには興味ないの?」
女の子なら誰もが白馬の皇子様に憧れるのではないか。そんな独創性のかけらもない発想に、さっき会ったばかりの実際の皇子たちの顔が重なる。
——うん、みんな白馬の皇子様って柄じゃないな。
「興味ない。直に見たこともないし。あの戦士の女の子の方が断然いい」
サワラの返答は至って単純で迷いがなかった。思わず苦笑するスギに、また新たな疑問が湧き起こる。
「女の子の方がいいの?」
「何よ、文句ある? てんでガキで泥まみれの男共よりあの子の方が綺麗で凛々しくてカッコいいじゃない」
「……そういうものなの?」
近所の悪童どもの顔が次々と浮かんでは消える。確かにどれも、小綺麗とは言いがたい。
スギの失礼な空想に横から口を挟んだのは母だった。
「いいじゃないのスギ。女の子にはそういう時期があるのよ」
「女の子に憧れる時期が?」
「格好いい女性に憧れる時期が、よ」
「さすが母さま、分かってる!」
手を叩いて喜ぶサワラをやれやれと見遣り、スギは自分の膳へと向き直った。中断していた食事はまだ半分ほど残っている。冷めないうちに、と急いで片付け始めたスギの耳に、聞くともなしに父と祖父の会話が流れ込んでくる。
「ヒバよ。先程また『狐』が入ってきたんじゃが……最近多すぎではないか?」
「どうしても投薬を切れない患者がいる」
ぎろり、と祖父はヒバの顔を覗き込む。
「……身元は確かか?」
「下町の穀物商の隠居だ」
「ふむ、確かにあそこは心の臓が弱い家系だの」
祖父はしばらく中空を睨んでいたが、やがて仕方がないという風に頷いた。
「ならば仕方ないか。だが、わかっておろうがあれは濫用厳禁じゃぞ。身元のはっきりしない者にも渡してはならぬ」
「ああ。あれは薬というより毒だからな」
どんな形の薬種だっただろうか。記憶を探ってみるがすぐには出てこない。二人の口ぶりでは常に在庫しているものではないのだろう。先日仕入れたという分はまだ残っているのだろうか。
箸を置いて席を立つ。薬種蔵に向かおうとしたスギを父が呼び止めた。
「そっちにはない。診察部屋に置いてある」
『狐』のことだ、とすぐに察して、スギは父の後を追いかける。いつもの仕事場のすっかり暮れた闇の中、父は素早く手灯に火を入れて隅の板の間へと歩を進めていた。スギが追いついたのを見計らって、作業台から一束の干草を取り上げる。
「これが……」
渡されたそれはかさかさとした質感の葉だった。火に透かすと灰色を帯びたくすんだ緑色が目に入る。鼻を近づけても特に独特の香りはない。おそらく磨り潰して粉状にするか、煎じて服む種類の薬なのだろう。
「強心、利尿作用に優れた薬種だ。ただし用量を間違えると重篤な中毒症状を起こす」
「中毒?」
「患者が死ぬ」
びくりとスギが顔を上げる。父はしっかりとその目を見下ろしてきた。
「少し苦みが強いが、使い方を間違わなければ良薬だ。この薬に救われてきた患者もまた多い」
差し出された大きな手に、スギは黙って草の束を返した。まだまだ半人前のお前に扱える薬ではない、そう言われたようで悔しかった。そんなスギの内心を察してか、父は少しだけ目元を和ませてぽんと肩に手を置いた。
「そのうち改めて扱い方を教えてやる」
「……はい」
「明日はこれで作った薬を届けてもらう。薬種の入荷が間に合わなくて診察の時に不足していた分だ。患者の状態は診たばかりだが急変が心配だ。いつも通り、しっかり観察してくるように」
「はい」
スギはしっかりと頷いた。まだ薬の調合は任せられなくとも、患者の状態を診ることに関しては信頼されている。
いつか父の知識のすべてを教えられるその日まで、できることを一つ一つ積み上げていこう。
診察部屋の寒気が、今更ながらに頬を撫でて闇へと溶けていった。
翌朝は陽が昇る前から雨になった。寒気は相変わらず居座っている。雨には細かな氷が混じり、ただでさえ寒々しい皇都の石畳に突き刺さっては崩れ、冷たい水となって人々の足元を濡らしていた。
「こんな日に配達なんて、大変だね」
「大変でも行かなくちゃ。患者さんが待ってるし」
身支度を整える手を休めないまま、スギは横目で姉を見遣った。サワラはいたって普段通りの部屋着姿で、茶の間の火鉢の一角を占拠して寛いでいる。今日のような天気ではさすがのおてんばも遊びに出る気を失くしたらしい。
心中で小さくため息を吐いたスギの背中に声をかけたのは、孫娘の差し向かいで火鉢に当たっていた祖父だった。
「スギ、今日は下町へ行くのじゃろ。角の菓子屋であられを買って来い」
遣い走りかとますます肩を落としたスギに、祖父は硬貨を投げて寄越した。あられ代にしては随分多い額だ。
「釣りは返さんでも良い。帰りに何か温かいものでも食え」
「ちょ、じいさまずるい!」
「ほ、ではおぬしが行くか? 別にわしはどちらが買ってきてくれても構わんのだが」
「……今日は絶対やだ」
「だったら文句は言わんことじゃ」
祖父の好意に小さく頭を下げて、スギは身支度に戻る。薬種は乾燥させて用いるものがほとんどだから湿気には弱い。今日届ける薬、外套に仕込んだ薬、そのいずれも濡れないよう細心の注意を払って隠しの中に振り分けていく。
母が雨合羽を着せかけてくれる。水を弾く加工をしてあるそれは黒く光沢があってつるつるしている。有り難いと思う反面、妙にくすぐったくてわざと乱暴に身につけていく。
「自分でできるよ。もう子供じゃないんだし」
「あらそう? それは失礼しました」
母はスギの頭をぽんと叩いて離れていった。結局子供扱いしてるんじゃないかと頬を膨らませたスギに、奥からのっそり顔を出した父がとどめの一言を放った。
「転ぶなよ」
「分かってます!」
足音荒く玄関に向かうスギの背中に、能天気なサワラの声が掛けられる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
わざと返事をしないまま、スギは合羽を頭深く被り込んだ。家の板戸を出た瞬間、凍り付くような寒さと突き刺さるような氷雨が容赦なく叩き付けてくる。
スギの父は薬師だが、家業そのものは代々続く薬種問屋だ。ゆえに店舗と診療所を兼ねた住居は皇都の問屋街の中にある。スギは問屋街を出て大通りに入り、下町方面へ向けて辿った。さすがにこんな天気では道を歩く人影もまばらだった。ほとんど無人の大通りを、スギは足早に歩いていく。
途中、数人の兵士とすれ違った。鎧と鞘が触れ合う細かな金属音が、氷雨の帳越しにやけに大きく響いてくる。
——兵隊さんはこんな日にも見回りをしているのか。
大変だなぁ。そう思ってちらりと彼らの様子を窺う。こんな日に仕事で外出しているという親近感からだったが、すぐにスギは彼らから目を逸らした。
——なんだろう、すごくぴりぴりしてる。
反射的に思い出したのはキキョウが亡くなった時のことだった。慌てて首を振る。縁起でもない、と芽生えかけた黒い予感を振り払うようにスギは足を早めて患者の家へ向かった。
こんな天気だから不吉な方へ考えてしまうんだ。急いで仕事を終わらせて、茶の間でサワラとあられをつまみながら火鉢に当たってごろごろしていよう。
目当ての穀物商の扉を叩く頃には、もう早く帰ることしかスギの頭にはなかった。店舗の裏口と自宅の玄関を兼ねた目立たない入り口だが、しかしいくら呼んでも返事がない。雨音に紛れて聞こえないのだろうか、とさらにスギが声を張り上げようとした時だった。
扉が内側から開かれた。隙間からするりと抜け出てきた人影が、スギにぶつかりかけてぎょっと身を引く。
「あの……お届けものに上がりました」
「届け物?」
商いの下働きだろうか。若く屈強なその男は怪訝そうにスギを見下ろした。こういう時、薬師の外套が合羽で隠れてしまっているのは不便だ。
「薬師ヒバの遣いです。昨日の診察でお渡しできなかった分の薬をお持ちしました」
「……ああ」
幸い若者はすぐに思い当たってくれたようだった。
「それはご苦労様。俺はすぐ出かけなきゃならんから案内はできないが、中に入って声を掛ければすぐに大奥様が気づいてくれるはずだ」
示された入り口を、礼を述べたスギがくぐり抜けるのと入れ替わりに若者が外に出る。スギと同様に合羽の襟をしっかりと合わせ、懐の包みが濡れないようしっかりと胸に抱き込んでいる。
この人もどこかへお遣いに行くのかな。
スギの想像などまったくお構いなしに若者は一気に氷雨の中に駆け出して、あっという間に見えなくなってしまった。その背中を何とはなしに見送って、スギは改めて家中に声をかける。ようやく来訪に気づいて出てきてくれた老婆に来意を告げ、玄関で合羽を脱ぎ、患者の部屋まで案内してもらうまでは順調だった。だが。
患者の顔を一目見た瞬間、スギは唖然とした。すぐに傍に歩み寄り診察を始める。顔色が悪い。意識に問題はないようだが、浅い呼吸と倦怠感が表情に滲んでいる。『狐』は過去にも何度か処方されているはずだ。きちんと用量を守って服用していれば、こんなに状態が悪くはなったりしないはず。急変が心配だと言っていた昨夜の父の言葉が頭をよぎる。一体何が原因で悪化した?
「おじいさん、薬はちゃんと服んでいますか?」
「薬?」
「そうです。薬師からもらった薬があったでしょう。ほら、こういうのですよ」
スギは懐の奥から『狐』を取り出した。父の手できちんと加工されたそれは、昨夜のような葉の形ではなく薬包紙に包まれた灰緑色の粉末に姿を変えている。老人の茫洋とした瞳がそれを捉え、口がもごもごと動く。
「服んどらん」
「……は?」
「その薬は苦い。わしゃ苦いのは嫌いじゃ」
予想外の答えにスギの思考は真っ白になった。絶句しているスギにはお構いなしに、老人は聞き取りづらい不明瞭な声でもぐもぐとしゃべり続ける。
「偉い薬師様から出た薬っちゅうことでいっぺんは有り難く服んでみたが、苦くて苦くてとてもじゃないが喉を通らん。閉口しておったら傍におったタケが自分の婆様も心臓が悪いからこの薬を譲ってほしいと言い出してのう」
「タケ?」
「使用人の若いのだよ。さっきどこかに行くって言って出かけてったけどねぇ」
あの若者だ。老婆の説明に頷きながら、スギは患者に向き直る。
「つまり薬は服まずに別の人に渡していたと、そういうことですね」
老婆がもごもごと言い訳めいた言葉を呟いたが、スギは構わず質問を続けた。
「この薬は以前にも何度か出ていたはずです。それも全部、タケさんに渡してしまったのですか?」
——薬というより毒だからな。
昨夜の父の言葉が頭の中で渦を巻く。体格や症状、他の薬との飲み合わせ、すべてがこの老人に合わせて処方された薬だ。たとえ同じような症状だとしても、他人にそっくり同じ効果が期待できるとは限らない。ましてや匙加減ひとつで毒にも薬にもなる成分を含む代物だ。下手をするとタケの祖母の命が危ない。
「タケさんはどこへ?」
「おそらく婆様のところへ行ったのじゃろう」
おろおろするばかりの老婆に代わって、患者がもぐもぐと呟いた。
「さっき薬師様から出た薬を全部くれてやったら、すぐに婆様に持って行くと言っておった。まったく孝行な孫じゃて」
——その孝行な孫が人殺しになるかもしれないんですよ。
舌打ちをこらえてスギは立ち上がった。老婆に詳しい場所を確認し、懐から取り出した『狐』を半ば強引に皺だらけの手に押し付ける。
「苦くて嫌がっても、必ずおじいさんに服ませてあげてください。苦しさが今より減るはずです。いいですね」
老婆の返事を待たず、スギは玄関へ取って返した。慣れぬ手つきで合羽を着込み、雨の中へ飛び出す。タケの居所は城壁近くの住宅密集地らしい。ひとまず城門を目指して足早に歩き始める。
篠突く雨が針のように降り注いでいた。氷のような水滴が下町の風景の輪郭までも滲ませている。
大通りに抜ければ、城壁まで一本道だ。下町から抜け出し、大通りの角を曲がろうとした、その時。
「あれ、薬師様のところの坊ちゃんじゃないか」
ふいに声をかけてきたのは辻に面して店を構える菓子屋の主人だった。祖父が所望したあられ菓子の店だが、主人はどうやら店仕舞の支度をしているようだ。
「そんなに急いでどこへ行くんだ? こんな天気なのに薬の配達かい?」
「あ……はい。城壁の方までちょっと」
祖父のたっての望みとはいえ、今あられを買えば間違いなく湿気ってしまう。それより何より今は人の命がかかった状況だ。軽く会釈だけしてそそくさと離れようとしたスギを、しかし菓子屋の主人は再び呼び止めた。
「城壁? ちょっと待て、今はやめといた方がいい」
軒下から手招かれては無視するわけにもいかない。しぶしぶ近づいたスギを宥めるように肩に手を置いて、主人は雨の向こうを透かし見るように城壁の方角に目を向けた。
「さっき、皇帝軍が城壁の方へ向かっていったんだ」
「え」
「やけに殺気立っていてな。二、三回に分けて六十騎くらいは通ったかな。何かを探している風だったから、あれはおそらく反乱計画か何かがバレたんだろうな」
主人がそう言っている間にも、雨音に蹄鉄の響きが混じり出した。あっという間に近づき黒い影のように疾駆していく騎兵の後ろ姿を見送りながら、スギはタケの追跡を諦めざるを得ないことを悟った。確かにこの雨の中、あれだけぴりぴりした兵士たちがうろついている状態では人探しなど不可能だろう。
肩を落としたスギに、主人が気遣わしげに声を掛ける。
「まぁそう落ち込むなって。ちょっと奥で茶でも飲んで温まって行くといい」
「……ありがとうございます。でもお店は大丈夫なんですか?」
「この天気に加えてああも兵士がうろうろしてるんじゃお客なんて来やしないさ。だから遠慮することはない。ヒバさんにはいつもお世話になってるしな」
そうまで言われては断る理由もない。タケの祖母のことは依然気がかりだったが、今はどうすることもできない。後ろ髪を引かれる思いでスギは菓子屋の門を潜った。今更ながらに体が冷え切っていることに気づく。さっそく奥方の手で出された熱々の茶を頂きながら祖父への土産を包んでもらい、ついでに出された自慢の菓子も勧められるままにつまんでみる。
冷えた体の芯までぽかぽかになった頃、再び外が騒がしくなった。
「今度は何?」
奥方の問いに、主人が席を立って表を確認に行く。ほどなく主人は険しい表情で戻って来た。
「兵隊が行き先を変えたらしい。問屋街の方向だ」
思わず立ち上がったスギの肩を主人が押し留める。
「まだ君の家に向かったと決まったわけじゃない。そっちの方向に行ったというだけだ」
「でも……!」
「どちらにしても今はまだ近づけない。心配なのは分かるがもう少しここにいるんだ」
手の中の椀にはぬるくなった茶が残っていたが、もう飲み干す気など失せていた。隣に座った奥方が元気づけるように肩を抱いてくれる。その腕の中に大人しく包まれながら、その実スギは悔しくて仕方なかった。もし自分がもっと大人だったら雨の中に飛び出して行けただろうに。こんな風に子供扱いされずに済んだだろうに。
ほどなく主人が玄関で声を上げた。
「火事だ!」
もう座ってなどいられなかった。菓子屋の店先を突っ切って通りに飛び出したスギを、今度は主人も止めなかった。彼の方にもスギを呼び止める余裕など残っていなかったからだ。住宅が密集する場所での火災。一刻も早く手を打たないと大火になりかねない。
スギは我が家へ。菓子屋の主人は隣の大工の玄関先へ。雨の帳は幾重にも重なって、息せき切って走るスギの視界を、心を覆いつくしていく。
大通りを走り抜け、近道の小路をいくつも折れて、自宅への最後の角を曲がった瞬間。
スギの目の前に雨粒の塊のような鋼鎧が立ち塞がった。一瞬で身体が火事場の匂いに包み込まれる。家はもうすぐそこに見えている。なのに小路の真ん中に群れる鋼鎧たちが邪魔で近づけない。
雨の匂いに混じるきな臭い匂いの出所は、果たしてスギの家だった。鋼鎧たちはそれぞれの手に松明を握っている。松明に火はついているもののこの雨のせいでうまく燃えないらしく、もうもうと煙だけが酷い。無理矢理に火をかけられたスギの家も、それが最後の抵抗であるかのように炎に抗い、白い煙ばかりをぶすぶすと立ち上らせている。
父は。母は。祖父は。サワラは。
鎧の群へとふらりと足を踏み出しかけた瞬間、背後から乱暴に外套を掴まれた。そのままもと来た角に引きずり込まれ、見知らぬ腕に抱え込まれる。咄嗟に無我夢中で抗って、偶然に相手の顎に頭がぶつかった。
「いてっ、暴れるな。危ないから大人しくしてろ」
そう言った声に聞き覚えがあった。
「タケ、さん……?」
ぎょっとしたように動きを止めて、穀物商下働きの青年はスギを見下ろした。
「何で俺の名前を知ってるんだよ?」
「ご隠居さんたちが教えてくれたからですよ」
「ああ、お前、さっきのガキか」
子供扱いにむっとしながら、しかしそれ以上の怒りを込めてスギはタケを睨み上げた。
「それより、こちらにも訊きたいことがあります」
突然自宅が皇帝軍に囲まれたこと。火をかけられたこと。家族の姿が誰一人見当たらないこと。
これら総ての凶事は、おそらくこの男の行動に端を発している。
「薬は——『狐』はどこですか」
「待て。込み入った話は後にしよう」
スギが精一杯の恫喝を込めた眼差しにも臆した様子はなく、タケは捕まえたままだったスギの身体を抱え直した。
「まずは隠れなければ。こうも軍の奴らがうろうろしていちゃどうしようもない」
嫌だ。まだみんなの無事が確認できていない。
そう思ったが、未だ発達しきっていない四肢ではどんなに力を込めてもタケの手を振りほどくことができなかった。人目を憚るかのようにタケが小路の闇に紛れるのとほぼ同時に、菓子屋をはじめとする近所の消火団の怒号が今更のように氷雨の中に混じり始めた。
皇都、という名前は飾りではない。ここは皇帝の都。——皇帝のための都。
その都で、皇帝にとって不都合な死者が出たとしたら。
「結局皇帝軍が焼け跡の片付けをしたらしいぜ」
「火事場を掘っておろく探しか? ご苦労なことだな」
「というより、その焼けた店そのものを壊して撤去してる感じだな」
「で、全部荷車に積んで草原に埋けちゃうってわけか。ま、いつもの流れだな」
聞くともなしに入ってくる情報。物陰に踞ったスギは、さらに固く身を縮めて耳を塞ぐ。もう何も聞きたくなかった。
タケに連れてこられたこの場所は、どうやら反皇帝勢力の隠れ家のようだった。タケと同年代の若い男たちが何人も頻繁に出入りし、集めた情報を吐き出しては出て行くの繰り返し。
あの悪夢の朝から丸一日。どうやら火事はスギの家一軒だけで済んだらしい。近所の消火団の必死の活動に加え、騒ぎを広めたくない軍が積極的に手助けしたおかげで鎮火も早かったと聞いている。
しかし当のスギの家は延焼を防ぐという名目で打ち壊された。「火事で犠牲になったとみられる」薬師の一家の遺体は今もって捜索中。見つかり次第、伝染病を防ぐため弔いさえ省略されて何処かへ運び出される手筈になっているらしい。
信じたくない。それ以上に、現実感がない。
父の背中も、母の笑顔も、祖父の手の温もりも、サワラの声も。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
そう言った、サワラの表情。自分だって遊びに行きたいのに、雨のせいで行けない。そんな不満がありありとこもった、元気すぎるほど元気ないつもの姉。そんな時間がいつまでも続くと思っていたから、あの時スギは行ってきますも言わずに氷雨の中へ飛び出したのだ。
言うべき相手も、帰るべき家も。もう何もかもないだなど、信じたくない。受け入れたくない。
「だって僕、まだ、ただいまって言ってない……」
溢れ出した涙は、乾ききらない頬の筋を辿って顎から首筋へと流れ落ちる。湿った外套の襟元を不快だとは思わなかった。外套に包まれているはずの自分の身体がすっぽり失くなってしまったような、深い虚無感と喪失感。
強く、強く俯けた視界に、ふいに影が差した。
「よぉ、こんなところに隠れてたのか」
聞き覚えのある声に意識が反応した。ゆるゆると上げた視線の先、鍛え上げた逞しい腕が目に入る。
スギは無言でタケを睨み上げた。この男さえいなければ。無意味と分かっていても、こみ上げてくる憎悪を抑えることはできなかった。
「落ち込んでる暇はないぜ。今日からお前も、晴れてお尋ね者の仲間入りだ」
「どういう、ことですか」
は、と鼻で笑ったタケは薄笑いを浮かべたまましゃがみ込んでスギの顔を覗き込んだ。額がぶつかりそうなほど間近に寄せた瞳はしかし、ひとかけらの好意も宿してはいない。
「畏れ多くも皇帝陛下を弑し奉らんと画策した輩に毒薬を提供した、罪深き薬師一家の唯一の生き残り。それがお前だ」
血が逆流する、という感覚をスギは初めて体感した。衝き上げてくる激情を認識するより早く、拳を目の前の薄笑いに叩き付ける。
「父様はそんなこと絶対にしない」
生命を救うことを誇りにしていた父。危険な薬が濫用されぬよう在庫の管理を怠らなかった祖父。スギ自身も含めた一家の家業が、矜恃が、このような形で冒されようとは。
「いってーな……」
渾身の力を込めて殴りつけたはずのスギの拳。しかしそれはタケの分厚い掌に阻まれて頬には届いていなかった。歯噛みする思いでスギは目の前の頑丈な青年を睨みつける。
「陛下暗殺なんて大罪を企んだのはあなたの方じゃないんですか」
「俺一人じゃねぇぜ。ここに出入りする皆が仲間で、共犯だ」
へらへら笑うタケに煽られて、昂る激情が抑えられない。声が震えるのは恐怖ではなく、御しがたい怒りのせいだった。
「あなたが利用したんでしょう。僕の家族も、あの穀物商のご隠居さんも」
「ああ。あのじいさんとばあさんか。あそこもあの後、兵士たちが来て家ごと打ち壊していったようだな」
人ごとのように嘯くタケを、スギは信じられない気持ちで見遣った。タケを孝行な孫だと褒めていた老夫婦。それを。
「あなたには人の心がないんですか」
「失礼な。俺だって申し訳ないとは思っている。あの人たちは本当に何も知らなかったんだからな。俺に婆さんなんていないってことも」
祖母に与えるという名目で入手した『狐』。スギの父が薬として調合したはずのそれはタケから仲間の手に渡り、そこで皇帝を害するための毒として再度調合し直されたのだろう。
誰にも怪しまれずに毒の原料を手に入れる役目。それがタケの仕事だったのだ。その足がかりとしてたまたま選ばれたのがあの老夫婦であり、薬師ヒバだったということ。
「そうまでして……そこまでして陛下を害したかったというのですか」
皇帝アザミ。スギが生まれる前からこの皇都に君臨している、皇帝領の絶対的な君主。同時に、アオイたち三兄弟の父でもある存在。
そこまで考えたところで、スギは胸を衝かれた。
アオイ。
皇帝弑逆とはつまり、アオイの父を害そうとする画策に他ならない。それにヒバが、スギが関わっていたとどこかから知らされたら。
アオイは、どう思う。
考えたのは乗り越えられるか、ではなかった。アオイの心はキキョウの死ですら屈しなかった。今回もきっと大丈夫。だから。
——信じてほしい。
ヒバの、スギの潔白を。これまで一緒に過ごしてきた時間を、記憶を。友人であり患者でもあるアオイの病状を、巻き込まれたことにせよ自分に端を発する出来事で悪化させたくはなかった。
そしてその思いは自分自身に対しても同様だった。これ以上何も失いたくなどない。
——生きたい。
身の内から湧き上がってきた願いは、スギ自身が驚くほどの力で精神を衝き上げてくる。火をかけられた家を目にして以来千々に乱れていた感情と思考が、そのただ一つの願いを中心に統合され、流れの中に組み込まれていく。
スギは改めて目の前のタケを見据えた。勿論今も怒りはある。恨みもある。だがそれ以上に今のスギには気になることがあった。彼がスギの前にいること。冷静な思考を取り戻したことで気がついた、その意味は。
「僕を連れて、逃げるつもりですね」
「な、何を突然」
明らかにタケはたじろいだ。先ほどまでとは別人のように静かな眼差しで見上げてくるスギに気圧されているのだろう。気味の悪いものを見るような目で身を引き、距離を置こうとする。
「なんなんだよいきなり。急に黙り込んだと思ったら薮から棒にそんなこと」
「でも事実でしょう。そうでなければ僕がここに匿われている意味も、あなたが僕の前に再度顔を出した意味も説明できませんから」
咄嗟に答えを返せずにいるタケに、スギは自分が正解を言い当てたことを悟る。しかし喜ぶ気にはなれない。スギはただ淡々と言葉を続けた。
「僕程度でお尋ね者なら、あなたも当然追われる身のはずです。薬の調達という役割で、僕よりも明確にこの件に関わっているのだから。本来ならとっくに皇都を逃げ出していてもおかしくない。なのにあなたはまだここに留まっていて、あまつさえ僕にちょっかいなんて出している。顔を知られている僕にこれ以上関わっても益などないはずなのに」
こんなにもすらすらと言葉が出てくることに、スギ自身驚いていた。ただただ混乱し悲しんでいた先程はまったく見えていなかった周囲の状況が、皇都の様子が、今ははっきりと感じ取れる。
「おそらく皇帝軍の対応はあなたがたの予想を遥かに超える速さだった。だからあなたは皇都を脱出できず、城壁とは逆方向の問屋街に迷い込んでしまった。そこで生き残った僕を拾ってしまったことはさらに誤算だったはずです」
タケは何とか反駁しようと口をぱくぱくさせている。しかし一言の反論も許さずスギが再度口を開く。言い返せないということは、スギの言葉に誤りがないという証左だ。上辺だけの薄っぺらな嘘でひっくり返せるほど、スギの語る予測は、現実は軽くない。
「あなたは予想外の存在である僕をその場で始末しない程度には優しい人だったから。僕をどうするか、あなたをいかに逃がすか。あなたがたは悩んだはずです。そして今、その結論が出た」
タケは反論を諦めたようだった。見下ろしてくる瞳をしっかりと見返して、スギは挑むように言い放った。
「僕を生かしてくれる決定をしてくれて、ありがとうございます」
「……はっ」
呆れたような、お手上げとでも言いたげな表情でタケは息を吐いた。
「やれやれ、とんでもないガキだ。めそめそしてるだけの奴だったら途中で見捨ててやろうと思ってたのに」
タケはスギへ手を伸ばした。
「お前の考えた通りだ。俺たちはこれから中立地帯へ逃げる。脱落したら死ぬだけだ。必死でついてこい」
頷いてスギは伸べられた手を取った。それが自分を生かすための唯一の道だと分かっていたから、ためらいはなかった。
「よろしくお願いします、タケさん」
のど飴なら、誰にも負けないくらい詳しいんだけどね。
そう苦笑するアオイの容態は、最近落ち着いている。軽い発熱や咳の発作はあるようだが、重篤な症状はスギが知る限り出ていないようだった。献身的なキキョウの看病と屈託ない弟たちの元気さによって気持ちが安定していることが、病状に良い影響を与えていることは明らかだった。
気分次第で少しでも病状が改善されるのならば、自分もアオイのためにできることをしたい。薬師としても、友人としても。
いつもの飴屋の屋台へ声をかける。すっかり顔馴染みになったスギを、子供好きの店主が笑顔で迎えた。苺飴を包んでもらいながら、ふと考える。
このひと、まさか皇太子がここの飴を楽しみにしてるなんて思ってもいなんだろうな。
相変わらず愛想のいい店主に、なんだか悪戯をしている気分だった。
飴の入った紙袋を受け取り、スギが屋台を離れようとした時のことだった。
「おい、聞いたか? 辺境の村が中立地帯の盗賊に襲われたって」
聞くともなしに耳に入った噂話に足を止めたのは何故だろうか。飴売りの屋台のすぐ傍で、男が二人肩を寄せ合うようにして話している。もっとも声をひそめているのは噂を持ってきた方だけで、もう片方はむしろ邪険にしている様子さえ見て取れる。
「そんなの珍しいことじゃないだろ。どこの村のことだよ」
「南の街道筋だよ。ほら、昨日皇宮から応援が出たろ」
「そういや騎兵が何騎か走ってったな」
「あの中に皇妃様がいたらしいぜ」
どくん、と心臓が高鳴った。キキョウが盗賊退治に出た?
「へぇ。そりゃ珍しいがそれが何だってんだ? その後すぐに陛下が正規兵を率いて応援に駆け付けたって聞いたぜ」
「なぁ。おかしいと思わないのか? あの陛下が自らお出ましになられるなんてよ」
「そりゃお前、皇妃様が出られたからじゃないのかよ。女房が先陣切って自分は高みの見物じゃ、いくら鉄面皮の陛下でも恰好がつかんと考えたんだろうさ」
「あの陛下がそんなことで困るタマかよ。真相はもっと別なんだ」
「いい加減にしろよ。お前の講釈なんざどうでもいい、とっとと仕事に——」
「皇妃様が盗賊の手にかかったらしい」
聞き手の沈黙はそのままスギの思考の空白だった。
「おま、いくらなんでもそんな冗談……」
「冗談でこんなこと言えるか。現に陛下の隊もまだ帰ってきていないだろうが。盗賊ごとき、皇帝軍ならあっさり蹴散らせるはずだろう」
「そりゃそうだろうけどよ」
黙って聞いていられたのはそこまでだった。
「その話、本当ですか」
ぎょっと振り向いた二人の視線が空を切り、一拍置いて下げられた。聞き咎められたのが警備兵などではなく子供だったことにあからさまな安堵を浮かべながら、聞き手の男はうるさげに手を追い払う形に振った。
「忘れちまえ、こんな奴の与太話なんざ。どこまで本当だか分かりゃしねぇ」
「いや、本当だぞ」
話し手の男は自信ありげに胸を反らした。
「嘘だと思うなら向こう何日か皇宮を見張ってろ。絶対何かの動きがある」
スギは自分の質問の愚かさを悟った。ここでこの男を問い詰めたところで出てくるのは根拠のない噂話でしかない。そう、真実は実際に出向いて確認すればいいのだ。
身を翻してスギは皇宮へと走り出した。石畳を足裏が蹴るたびに、抱えた袋の中で飴玉がかしゃかしゃと揺れる。
苺飴——みんなで一緒に食べるつもりだったのに。
否、まだ先ほどの話が本当だという証拠はない。行ってみたらきっと何事もなかったかのようにキキョウが迎えてくれる。
そう祈りながら、スギは息せき切って皇宮の門へとたどり着いた。幸い、詰めていたのは顔馴染みの兵だった。スギの顔を見てにこやかに笑いながら、ああいつもの配達だね御苦労さま、などと言いながら道を空けてくれる。
——普段通り。
なんだ、やっぱりいつもと変わらないじゃないか。
安堵して門を潜り、兵に先導されて宮人が待機している内門へ向かう。案内の兵と雑談など交わしながらやって来た奥の宮への入り口。しかし普段通りはそこまでだった。
「あれ、何で誰もいないんだ」
内門の詰め所は空っぽだった。これまでは常に誰かがいて、そこで兵から先導役が引き継がれるという流れだったのだが。
「仕方ないな、ちょっと待っててくれないか。俺はここから先に入れないから、誰か人を呼んでこなければ」
胸騒ぎは一旦治まっていた分、揺り戻しが激しかった。
一介の門番兵にならば、予期せぬ皇妃の不在が伏せられることもあろう。しかし奥の宮に仕える宮人たちには。
「いえ、もう先導なしでも殿下の部屋までは行けますから」
言い捨てて、スギは内門をするりと抜けた。
「あ、お前、勝手に行くな!」
門番の焦り声を背に、スギはうそ寒い廊下を走り出した。もちろん無茶をしているという自覚はある。しかし悠長に案内など待っていられる心持ではなかったし、ましてや今は宮人が案内を拒否する可能性すらある。
待ってなどいられなかった。
勝手知ったる宮をいくつも抜けて、スギは一心にアオイの病室を目指す。途中でもやはり宮人の姿は見かけない。結局誰にも見咎められることなく、スギはアオイの部屋に辿り着いた。
「アオイ、いる?」
アオイ様、と呼んで怒られたのは最初の訪問の時だった。友達なんだから、と膨れられては無理に呼ぶこともできず、それより何よりスギ自身が嬉しかった。以来アオイには敬語を遣わずに接しているが、あれで意外に頭の固い父には未だその事実を伝えられずにいる。
戸口で声をかけても反応がない。仕方なしに相変わらずの本の山をすり抜けて奥へ進む。やはりいつもと違う。キキョウが傍にいれば、この時点でスギの来訪に気付いてくれるはずだ。
アオイはいつもの寝床にいた。珍しく半身を起こして、寝床に座り込んでいる格好だ。どうやら膝に置いた手紙を読んでいるらしい。
「アオイ?」
恐る恐る声をかける。アオイがぎくりと顔を上げた。声の主を探すように視線をさまよわせ、部屋を一巡りしてようやくスギの姿を認める。
切実な期待を帯びた張りつめた目線に、声の主をスギだと正しく認識した色が混じる。一拍の後それは底知れない悲哀を帯びて、ゆっくりと膝の手紙へと戻された。
「……が、欲しい」
「え?」
掠れたアオイの声に重なるように、窓辺でばさりと影が動いた。鋭い啼き声は猛禽のもの、とするとこの手紙を運んできたのはこの鷲だろうか。
鷲が運ぶ手紙は戦場からのものと相場が決まっている。一気に冷えたスギの心は、アオイの抑揚を欠いた掠れ声でついに凍りついた。
「私にもっと力があったなら、母上をお守りできたのに。私に大切なものを守れる力があったなら」
不意にアオイの瞳から涙が零れ落ちた。俯けた顔、落ちた雫は拳に、布団に、そしておそらくは悲報を伝える手紙に点々と落ちていく。
「力が、欲しい……!」
知らず握り締めた外套から紅い粒が零れ落ちる。床に、本の山に散らばる苺飴を拾うこともできず、言葉もなくスギはただ立ち尽くしていた。その背中に、ようやく駆け付けてきた宮人の足音が追いついてきた。
春が過ぎ、夏が来て、秋も駆け去った。そして迎えた冬。草原の真ん中で風雪に晒される皇都のそれは長く厳しい。
氷の気配を帯びた北風に、スギは思わず首をすくめた。数日前に年を越したばかりの今朝、皇都は殊に気温が下がっていた。既に太陽は頭上高く昇っているものの、一向に寒気は緩まる気配がない。
幾人かの患者の顔が頭をよぎる。急な寒さで体調を崩していないか。病状は悪くなっていないか。市場裏の喘息のおじいさん。肝臓が悪い大工町の親方。脚が不自由な城壁横のお姉さん。
皇宮への配達が終わったら顔だけでも見に行こうか。そう自然に考えることができるだけ、スギも随分と仕事に馴染んでいた。
薬師の外套に腕を通してもうすぐ一年。相変わらず仕事はおつかいばかりだったが、北風を受けて無意識にかき合わせた外套の隠しには薬種や調合済の薬が幾つか入っている。いずれも基本的な痛み止めや傷薬などだが、それらはスギの判断で処方することを許されている薬だ。常時持ち歩ける薬が増えることは薬師としての成長が父にも認められているということでもある。確かな手応えを感じ始めている今、スギは何より仕事が楽しかった。
本好きなアオイの影響で、最近はスギも仕事に関わる文献に積極的に目を通すようになっていた。父は自分の書物を出し渋ることはなかったし、難しい用語や解釈については解説してくれることもあった。おかげで患者から薬の効能や処方の意味を問われた際も、きちんと自分の言葉で説明できるようになっている。大抵の患者はまだ少年の域を出ないスギの淀みない解説に舌を巻くが、中にはさらに詳しい説明を求める者もいた。
他でもない、アオイがその代表格だ。
キキョウを亡くした直後、スギはアオイの病状が悪化するのではないかと危ぶんだ。だが少なくとも表面上はアオイの体調が崩れることはなかった。幼い弟たちを支えて父帝の傍らで葬祭に臨む姿は本当にあの病身の皇太子かと思うほど毅然としたもので、堂々とした威厳さえ感じられるものだった。
——力が欲しい。
その望みはアオイの中で明確な形を成しつつあるのだろうか。キキョウがいなくなってから、アオイは以前にも増して知識を求めるようになった。それは歴史や地理、経済といった国を統べるための通り一遍のものには留まらず、例えば皇都で今流行している出来事だったり、中立地帯の人々の暮らしぶりといった書物では入手できない情報の類も含まれるようになっていた。
今、スギは外套の下にいつもの薬袋の他に父から借り受けた薬草の絵草紙を抱えている。あの日以降、訪問時の手土産は飴玉から薬学の知識と皇都の噂話へと変わっていた。
自分に処方されている薬はどういったものからできているのか。
どこから来た材料を用い、どういう意図でそれを処方に加えているのか。
アオイにとっては自らの生命に直結する情報であると同時に、使い方次第では貴重な武器にもなりうる知識だ。薬種は匙加減ひとつで毒にも薬にもなる。アオイが欲したのはその境界線の知識だった。
勿論駆け出しのスギが不用意に答えられるような質問ではない。だから最近は薬の配達のついでに父の書斎から持ち出した書物を広げては額を突き合わせて眺め、今回処方された薬について二人で学ぶ。前回、前々回の処方との違いを比べ、足りない知識はアオイの部屋にある文献をひっくり返したり、スギの次の訪問までに調べて結果を報告し合う。スギの説明能力が大人の患者たちから一目置かれるほどに上がったのも、この勉強会があったからこそのものだった。
「前回より『鹿』の割合が減ってるね。最近発作が少ないからかな?」
「うん、ああいう強すぎる薬は却って身体に負担がかかるから。代わりに甘草が多めに配合されてる。大発作を抑えるより普段の咳を緩和する目的の処方だね」
「ああ、それじゃ今月の薬は甘いんだね」
生薬の配合を記した処方箋から顔を上げて、アオイは苦笑する。
「甘草の甘さって、薬臭くてあんまり好きじゃないんだけどな」
「竜胆が多いよりましだよ、きっと」
「ああ。それは嫌だな。ものすごく苦そうだ」
処方箋の分析に一通り満足したら、次にスギが持ち込んだ薬草の絵草紙を覗き込む。詳細な素描と簡潔な説明文をひとつひとつなぞりながら、薬効と使用法を確認していく。
「こうしてみると生薬って動物の名前がついたものが多いね」
「何かに似てると思って名前をつけた方が昔の人も覚えやすかったのかも」
薬効と併記されている副作用や過剰摂取時の症状、その対処法。絵草紙ひとつ取っても学ぶことはたくさんあり、調べる事柄はそれ以上に膨大だった。部屋に積んだ無数の書籍を次々にひっくり返しながら、二人は時間を忘れて知識を貪った。
「僕はね、もっともっと色んなことを知りたいんだ。知識は力になる。知らなければ何もできない。何も、遺せない」
アオイがぽつりと呟いた。顔を上げたスギの方は見ようとはしないまま、静かに頁を繰り続ける。
「薬学だけじゃない。歴史や、地理や、政治学のような父上が教えてくれる皇太子の勉強でもまだ足りない。僕はこの国のすべてを、可能な限り知りたいんだ」
「わかってる。だから僕が都で聞いた話を教えてるじゃないか」
「そうだね。だけど、皇都だけがこの国のすべてじゃない」
アオイの手が止まった。視線を落としたその先には、山岳地帯に生えるという薬草の挿絵。
「山岳地帯の村では普段どういうものを食べている? 中立地帯の人々の一日の暮らしは? 王都の国王は領民たちにどう思われている? ——知りたいことが多すぎて、どうしていいかわからない」
行きたいのだ。自分の目で、自分の耳で、自分が生きている世界を知るために。
スギはアオイの望みを理解した。同時にそれが叶わないであろうという諦めと悔しさ、もどかしさをも。
皇帝領の外へ行くどころかこの部屋から出ることさえごく稀。やむを得ず外出した後は必ず発熱に見舞われる。こんなに手厚い治療を施してさえこうなのだ。好奇心を、知識欲を満たすための旅など夢のまた夢。
そんなアオイにとって、これから自分が発する言葉は酷かもしれない。けれど。
「いつか行けばいいよ。その時までに僕が君を治すから」
自信などない。けれどそれは紛れもなく希望だった。スギだけでなく、アオイの心をも救える、未来への願い。
「時間はかかるかもしれない。けれどいつか僕がこの国中を廻って、君の病気だって治せる薬を作る。もちろん旅の土産話は全部君に聞かせるよ」
ようやく顔を上げたアオイの視線を捕まえて、スギは笑いかけた。
「だから諦めないで。自分の望みだろ?」
「……そうだね」
微かに笑って、アオイは頷いた。
「誰だって『いつか』を信じることはできる。きっと僕にも、それくらいは許されてる」
ありがとう、という小さな声がスギの耳に届くと同時に、廊下がばたばたと騒がしくなった。
「さむいさむいさむいよー! 兄上様、ただいま帰りましたー!」
「あんまり寒いとか言うな、余計寒くなる! 兄上ー、お客さんを連れて来たぞー」
振り向いた先、部屋の入り口から覗く三つの顔を認めてアオイは頬を綻ばせた。二つは最早見慣れたアオイの弟たち、しかし馴染みのないもう一つの褐色の顔は——
「おや、アサザの好敵手じゃないか」
「ちょ、兄上! 好敵手なんかじゃないですよ! 俺の方が断然——」
「弱いですもんね?」
口を挟んだアカネの頭をすかさずアサザが叩く。どう反応していいのか戸惑っているスギとブドウを、アオイがくすくす笑いながら手招いた。
「スギ、ブドウ、こっちに来て。改めて紹介するから」
本の山の中をおっかなびっくり進んでくるブドウと仲良く騒がしい兄弟、それらを見守るアオイ。
——つまるところ笑顔が一番の薬だ。
そんなことを思いながら、スギもまた自然と頬に笑みを浮かべていた。
「え、あのカッコいい女の子と話したの!?」
サワラの丸い目がさらに丸くなった。次の瞬間、スギの胸ぐらは乱暴に掴まれて、がくがくと盛大に揺さぶられる。
「ちょ、やだ、なんでスギばっかり……!」
「そう言われても、仕事の成り行きで何となくとしか」
「ずるい! じゃあ今度私も皇宮についてく!」
「無茶言わないでよ」
心底困り果てたスギを救ったのは、父のこの上なく冷静な声だった。
「サワラ、暴れるなら箸を置いてからにしなさい」
みるみるしゅんとなったサワラが自分の膳に向き直るのを確認して、スギはほっと息を吐いた。いつもの夕餉の風景だ。間髪入れずに母がスギの膳におかわりの椀を置く。ちょうど伸び盛りに差し掛かる年頃だ。最近とみに食べる量が増えている。
有り難く椀を手に取りながら、ふとスギは思いついたことを口にする。
「そういえばサワラは皇子たちには興味ないの?」
女の子なら誰もが白馬の皇子様に憧れるのではないか。そんな独創性のかけらもない発想に、さっき会ったばかりの実際の皇子たちの顔が重なる。
——うん、みんな白馬の皇子様って柄じゃないな。
「興味ない。直に見たこともないし。あの戦士の女の子の方が断然いい」
サワラの返答は至って単純で迷いがなかった。思わず苦笑するスギに、また新たな疑問が湧き起こる。
「女の子の方がいいの?」
「何よ、文句ある? てんでガキで泥まみれの男共よりあの子の方が綺麗で凛々しくてカッコいいじゃない」
「……そういうものなの?」
近所の悪童どもの顔が次々と浮かんでは消える。確かにどれも、小綺麗とは言いがたい。
スギの失礼な空想に横から口を挟んだのは母だった。
「いいじゃないのスギ。女の子にはそういう時期があるのよ」
「女の子に憧れる時期が?」
「格好いい女性に憧れる時期が、よ」
「さすが母さま、分かってる!」
手を叩いて喜ぶサワラをやれやれと見遣り、スギは自分の膳へと向き直った。中断していた食事はまだ半分ほど残っている。冷めないうちに、と急いで片付け始めたスギの耳に、聞くともなしに父と祖父の会話が流れ込んでくる。
「ヒバよ。先程また『狐』が入ってきたんじゃが……最近多すぎではないか?」
「どうしても投薬を切れない患者がいる」
ぎろり、と祖父はヒバの顔を覗き込む。
「……身元は確かか?」
「下町の穀物商の隠居だ」
「ふむ、確かにあそこは心の臓が弱い家系だの」
祖父はしばらく中空を睨んでいたが、やがて仕方がないという風に頷いた。
「ならば仕方ないか。だが、わかっておろうがあれは濫用厳禁じゃぞ。身元のはっきりしない者にも渡してはならぬ」
「ああ。あれは薬というより毒だからな」
どんな形の薬種だっただろうか。記憶を探ってみるがすぐには出てこない。二人の口ぶりでは常に在庫しているものではないのだろう。先日仕入れたという分はまだ残っているのだろうか。
箸を置いて席を立つ。薬種蔵に向かおうとしたスギを父が呼び止めた。
「そっちにはない。診察部屋に置いてある」
『狐』のことだ、とすぐに察して、スギは父の後を追いかける。いつもの仕事場のすっかり暮れた闇の中、父は素早く手灯に火を入れて隅の板の間へと歩を進めていた。スギが追いついたのを見計らって、作業台から一束の干草を取り上げる。
「これが……」
渡されたそれはかさかさとした質感の葉だった。火に透かすと灰色を帯びたくすんだ緑色が目に入る。鼻を近づけても特に独特の香りはない。おそらく磨り潰して粉状にするか、煎じて服む種類の薬なのだろう。
「強心、利尿作用に優れた薬種だ。ただし用量を間違えると重篤な中毒症状を起こす」
「中毒?」
「患者が死ぬ」
びくりとスギが顔を上げる。父はしっかりとその目を見下ろしてきた。
「少し苦みが強いが、使い方を間違わなければ良薬だ。この薬に救われてきた患者もまた多い」
差し出された大きな手に、スギは黙って草の束を返した。まだまだ半人前のお前に扱える薬ではない、そう言われたようで悔しかった。そんなスギの内心を察してか、父は少しだけ目元を和ませてぽんと肩に手を置いた。
「そのうち改めて扱い方を教えてやる」
「……はい」
「明日はこれで作った薬を届けてもらう。薬種の入荷が間に合わなくて診察の時に不足していた分だ。患者の状態は診たばかりだが急変が心配だ。いつも通り、しっかり観察してくるように」
「はい」
スギはしっかりと頷いた。まだ薬の調合は任せられなくとも、患者の状態を診ることに関しては信頼されている。
いつか父の知識のすべてを教えられるその日まで、できることを一つ一つ積み上げていこう。
診察部屋の寒気が、今更ながらに頬を撫でて闇へと溶けていった。
翌朝は陽が昇る前から雨になった。寒気は相変わらず居座っている。雨には細かな氷が混じり、ただでさえ寒々しい皇都の石畳に突き刺さっては崩れ、冷たい水となって人々の足元を濡らしていた。
「こんな日に配達なんて、大変だね」
「大変でも行かなくちゃ。患者さんが待ってるし」
身支度を整える手を休めないまま、スギは横目で姉を見遣った。サワラはいたって普段通りの部屋着姿で、茶の間の火鉢の一角を占拠して寛いでいる。今日のような天気ではさすがのおてんばも遊びに出る気を失くしたらしい。
心中で小さくため息を吐いたスギの背中に声をかけたのは、孫娘の差し向かいで火鉢に当たっていた祖父だった。
「スギ、今日は下町へ行くのじゃろ。角の菓子屋であられを買って来い」
遣い走りかとますます肩を落としたスギに、祖父は硬貨を投げて寄越した。あられ代にしては随分多い額だ。
「釣りは返さんでも良い。帰りに何か温かいものでも食え」
「ちょ、じいさまずるい!」
「ほ、ではおぬしが行くか? 別にわしはどちらが買ってきてくれても構わんのだが」
「……今日は絶対やだ」
「だったら文句は言わんことじゃ」
祖父の好意に小さく頭を下げて、スギは身支度に戻る。薬種は乾燥させて用いるものがほとんどだから湿気には弱い。今日届ける薬、外套に仕込んだ薬、そのいずれも濡れないよう細心の注意を払って隠しの中に振り分けていく。
母が雨合羽を着せかけてくれる。水を弾く加工をしてあるそれは黒く光沢があってつるつるしている。有り難いと思う反面、妙にくすぐったくてわざと乱暴に身につけていく。
「自分でできるよ。もう子供じゃないんだし」
「あらそう? それは失礼しました」
母はスギの頭をぽんと叩いて離れていった。結局子供扱いしてるんじゃないかと頬を膨らませたスギに、奥からのっそり顔を出した父がとどめの一言を放った。
「転ぶなよ」
「分かってます!」
足音荒く玄関に向かうスギの背中に、能天気なサワラの声が掛けられる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
わざと返事をしないまま、スギは合羽を頭深く被り込んだ。家の板戸を出た瞬間、凍り付くような寒さと突き刺さるような氷雨が容赦なく叩き付けてくる。
スギの父は薬師だが、家業そのものは代々続く薬種問屋だ。ゆえに店舗と診療所を兼ねた住居は皇都の問屋街の中にある。スギは問屋街を出て大通りに入り、下町方面へ向けて辿った。さすがにこんな天気では道を歩く人影もまばらだった。ほとんど無人の大通りを、スギは足早に歩いていく。
途中、数人の兵士とすれ違った。鎧と鞘が触れ合う細かな金属音が、氷雨の帳越しにやけに大きく響いてくる。
——兵隊さんはこんな日にも見回りをしているのか。
大変だなぁ。そう思ってちらりと彼らの様子を窺う。こんな日に仕事で外出しているという親近感からだったが、すぐにスギは彼らから目を逸らした。
——なんだろう、すごくぴりぴりしてる。
反射的に思い出したのはキキョウが亡くなった時のことだった。慌てて首を振る。縁起でもない、と芽生えかけた黒い予感を振り払うようにスギは足を早めて患者の家へ向かった。
こんな天気だから不吉な方へ考えてしまうんだ。急いで仕事を終わらせて、茶の間でサワラとあられをつまみながら火鉢に当たってごろごろしていよう。
目当ての穀物商の扉を叩く頃には、もう早く帰ることしかスギの頭にはなかった。店舗の裏口と自宅の玄関を兼ねた目立たない入り口だが、しかしいくら呼んでも返事がない。雨音に紛れて聞こえないのだろうか、とさらにスギが声を張り上げようとした時だった。
扉が内側から開かれた。隙間からするりと抜け出てきた人影が、スギにぶつかりかけてぎょっと身を引く。
「あの……お届けものに上がりました」
「届け物?」
商いの下働きだろうか。若く屈強なその男は怪訝そうにスギを見下ろした。こういう時、薬師の外套が合羽で隠れてしまっているのは不便だ。
「薬師ヒバの遣いです。昨日の診察でお渡しできなかった分の薬をお持ちしました」
「……ああ」
幸い若者はすぐに思い当たってくれたようだった。
「それはご苦労様。俺はすぐ出かけなきゃならんから案内はできないが、中に入って声を掛ければすぐに大奥様が気づいてくれるはずだ」
示された入り口を、礼を述べたスギがくぐり抜けるのと入れ替わりに若者が外に出る。スギと同様に合羽の襟をしっかりと合わせ、懐の包みが濡れないようしっかりと胸に抱き込んでいる。
この人もどこかへお遣いに行くのかな。
スギの想像などまったくお構いなしに若者は一気に氷雨の中に駆け出して、あっという間に見えなくなってしまった。その背中を何とはなしに見送って、スギは改めて家中に声をかける。ようやく来訪に気づいて出てきてくれた老婆に来意を告げ、玄関で合羽を脱ぎ、患者の部屋まで案内してもらうまでは順調だった。だが。
患者の顔を一目見た瞬間、スギは唖然とした。すぐに傍に歩み寄り診察を始める。顔色が悪い。意識に問題はないようだが、浅い呼吸と倦怠感が表情に滲んでいる。『狐』は過去にも何度か処方されているはずだ。きちんと用量を守って服用していれば、こんなに状態が悪くはなったりしないはず。急変が心配だと言っていた昨夜の父の言葉が頭をよぎる。一体何が原因で悪化した?
「おじいさん、薬はちゃんと服んでいますか?」
「薬?」
「そうです。薬師からもらった薬があったでしょう。ほら、こういうのですよ」
スギは懐の奥から『狐』を取り出した。父の手できちんと加工されたそれは、昨夜のような葉の形ではなく薬包紙に包まれた灰緑色の粉末に姿を変えている。老人の茫洋とした瞳がそれを捉え、口がもごもごと動く。
「服んどらん」
「……は?」
「その薬は苦い。わしゃ苦いのは嫌いじゃ」
予想外の答えにスギの思考は真っ白になった。絶句しているスギにはお構いなしに、老人は聞き取りづらい不明瞭な声でもぐもぐとしゃべり続ける。
「偉い薬師様から出た薬っちゅうことでいっぺんは有り難く服んでみたが、苦くて苦くてとてもじゃないが喉を通らん。閉口しておったら傍におったタケが自分の婆様も心臓が悪いからこの薬を譲ってほしいと言い出してのう」
「タケ?」
「使用人の若いのだよ。さっきどこかに行くって言って出かけてったけどねぇ」
あの若者だ。老婆の説明に頷きながら、スギは患者に向き直る。
「つまり薬は服まずに別の人に渡していたと、そういうことですね」
老婆がもごもごと言い訳めいた言葉を呟いたが、スギは構わず質問を続けた。
「この薬は以前にも何度か出ていたはずです。それも全部、タケさんに渡してしまったのですか?」
——薬というより毒だからな。
昨夜の父の言葉が頭の中で渦を巻く。体格や症状、他の薬との飲み合わせ、すべてがこの老人に合わせて処方された薬だ。たとえ同じような症状だとしても、他人にそっくり同じ効果が期待できるとは限らない。ましてや匙加減ひとつで毒にも薬にもなる成分を含む代物だ。下手をするとタケの祖母の命が危ない。
「タケさんはどこへ?」
「おそらく婆様のところへ行ったのじゃろう」
おろおろするばかりの老婆に代わって、患者がもぐもぐと呟いた。
「さっき薬師様から出た薬を全部くれてやったら、すぐに婆様に持って行くと言っておった。まったく孝行な孫じゃて」
——その孝行な孫が人殺しになるかもしれないんですよ。
舌打ちをこらえてスギは立ち上がった。老婆に詳しい場所を確認し、懐から取り出した『狐』を半ば強引に皺だらけの手に押し付ける。
「苦くて嫌がっても、必ずおじいさんに服ませてあげてください。苦しさが今より減るはずです。いいですね」
老婆の返事を待たず、スギは玄関へ取って返した。慣れぬ手つきで合羽を着込み、雨の中へ飛び出す。タケの居所は城壁近くの住宅密集地らしい。ひとまず城門を目指して足早に歩き始める。
篠突く雨が針のように降り注いでいた。氷のような水滴が下町の風景の輪郭までも滲ませている。
大通りに抜ければ、城壁まで一本道だ。下町から抜け出し、大通りの角を曲がろうとした、その時。
「あれ、薬師様のところの坊ちゃんじゃないか」
ふいに声をかけてきたのは辻に面して店を構える菓子屋の主人だった。祖父が所望したあられ菓子の店だが、主人はどうやら店仕舞の支度をしているようだ。
「そんなに急いでどこへ行くんだ? こんな天気なのに薬の配達かい?」
「あ……はい。城壁の方までちょっと」
祖父のたっての望みとはいえ、今あられを買えば間違いなく湿気ってしまう。それより何より今は人の命がかかった状況だ。軽く会釈だけしてそそくさと離れようとしたスギを、しかし菓子屋の主人は再び呼び止めた。
「城壁? ちょっと待て、今はやめといた方がいい」
軒下から手招かれては無視するわけにもいかない。しぶしぶ近づいたスギを宥めるように肩に手を置いて、主人は雨の向こうを透かし見るように城壁の方角に目を向けた。
「さっき、皇帝軍が城壁の方へ向かっていったんだ」
「え」
「やけに殺気立っていてな。二、三回に分けて六十騎くらいは通ったかな。何かを探している風だったから、あれはおそらく反乱計画か何かがバレたんだろうな」
主人がそう言っている間にも、雨音に蹄鉄の響きが混じり出した。あっという間に近づき黒い影のように疾駆していく騎兵の後ろ姿を見送りながら、スギはタケの追跡を諦めざるを得ないことを悟った。確かにこの雨の中、あれだけぴりぴりした兵士たちがうろついている状態では人探しなど不可能だろう。
肩を落としたスギに、主人が気遣わしげに声を掛ける。
「まぁそう落ち込むなって。ちょっと奥で茶でも飲んで温まって行くといい」
「……ありがとうございます。でもお店は大丈夫なんですか?」
「この天気に加えてああも兵士がうろうろしてるんじゃお客なんて来やしないさ。だから遠慮することはない。ヒバさんにはいつもお世話になってるしな」
そうまで言われては断る理由もない。タケの祖母のことは依然気がかりだったが、今はどうすることもできない。後ろ髪を引かれる思いでスギは菓子屋の門を潜った。今更ながらに体が冷え切っていることに気づく。さっそく奥方の手で出された熱々の茶を頂きながら祖父への土産を包んでもらい、ついでに出された自慢の菓子も勧められるままにつまんでみる。
冷えた体の芯までぽかぽかになった頃、再び外が騒がしくなった。
「今度は何?」
奥方の問いに、主人が席を立って表を確認に行く。ほどなく主人は険しい表情で戻って来た。
「兵隊が行き先を変えたらしい。問屋街の方向だ」
思わず立ち上がったスギの肩を主人が押し留める。
「まだ君の家に向かったと決まったわけじゃない。そっちの方向に行ったというだけだ」
「でも……!」
「どちらにしても今はまだ近づけない。心配なのは分かるがもう少しここにいるんだ」
手の中の椀にはぬるくなった茶が残っていたが、もう飲み干す気など失せていた。隣に座った奥方が元気づけるように肩を抱いてくれる。その腕の中に大人しく包まれながら、その実スギは悔しくて仕方なかった。もし自分がもっと大人だったら雨の中に飛び出して行けただろうに。こんな風に子供扱いされずに済んだだろうに。
ほどなく主人が玄関で声を上げた。
「火事だ!」
もう座ってなどいられなかった。菓子屋の店先を突っ切って通りに飛び出したスギを、今度は主人も止めなかった。彼の方にもスギを呼び止める余裕など残っていなかったからだ。住宅が密集する場所での火災。一刻も早く手を打たないと大火になりかねない。
スギは我が家へ。菓子屋の主人は隣の大工の玄関先へ。雨の帳は幾重にも重なって、息せき切って走るスギの視界を、心を覆いつくしていく。
大通りを走り抜け、近道の小路をいくつも折れて、自宅への最後の角を曲がった瞬間。
スギの目の前に雨粒の塊のような鋼鎧が立ち塞がった。一瞬で身体が火事場の匂いに包み込まれる。家はもうすぐそこに見えている。なのに小路の真ん中に群れる鋼鎧たちが邪魔で近づけない。
雨の匂いに混じるきな臭い匂いの出所は、果たしてスギの家だった。鋼鎧たちはそれぞれの手に松明を握っている。松明に火はついているもののこの雨のせいでうまく燃えないらしく、もうもうと煙だけが酷い。無理矢理に火をかけられたスギの家も、それが最後の抵抗であるかのように炎に抗い、白い煙ばかりをぶすぶすと立ち上らせている。
父は。母は。祖父は。サワラは。
鎧の群へとふらりと足を踏み出しかけた瞬間、背後から乱暴に外套を掴まれた。そのままもと来た角に引きずり込まれ、見知らぬ腕に抱え込まれる。咄嗟に無我夢中で抗って、偶然に相手の顎に頭がぶつかった。
「いてっ、暴れるな。危ないから大人しくしてろ」
そう言った声に聞き覚えがあった。
「タケ、さん……?」
ぎょっとしたように動きを止めて、穀物商下働きの青年はスギを見下ろした。
「何で俺の名前を知ってるんだよ?」
「ご隠居さんたちが教えてくれたからですよ」
「ああ、お前、さっきのガキか」
子供扱いにむっとしながら、しかしそれ以上の怒りを込めてスギはタケを睨み上げた。
「それより、こちらにも訊きたいことがあります」
突然自宅が皇帝軍に囲まれたこと。火をかけられたこと。家族の姿が誰一人見当たらないこと。
これら総ての凶事は、おそらくこの男の行動に端を発している。
「薬は——『狐』はどこですか」
「待て。込み入った話は後にしよう」
スギが精一杯の恫喝を込めた眼差しにも臆した様子はなく、タケは捕まえたままだったスギの身体を抱え直した。
「まずは隠れなければ。こうも軍の奴らがうろうろしていちゃどうしようもない」
嫌だ。まだみんなの無事が確認できていない。
そう思ったが、未だ発達しきっていない四肢ではどんなに力を込めてもタケの手を振りほどくことができなかった。人目を憚るかのようにタケが小路の闇に紛れるのとほぼ同時に、菓子屋をはじめとする近所の消火団の怒号が今更のように氷雨の中に混じり始めた。
皇都、という名前は飾りではない。ここは皇帝の都。——皇帝のための都。
その都で、皇帝にとって不都合な死者が出たとしたら。
「結局皇帝軍が焼け跡の片付けをしたらしいぜ」
「火事場を掘っておろく探しか? ご苦労なことだな」
「というより、その焼けた店そのものを壊して撤去してる感じだな」
「で、全部荷車に積んで草原に埋けちゃうってわけか。ま、いつもの流れだな」
聞くともなしに入ってくる情報。物陰に踞ったスギは、さらに固く身を縮めて耳を塞ぐ。もう何も聞きたくなかった。
タケに連れてこられたこの場所は、どうやら反皇帝勢力の隠れ家のようだった。タケと同年代の若い男たちが何人も頻繁に出入りし、集めた情報を吐き出しては出て行くの繰り返し。
あの悪夢の朝から丸一日。どうやら火事はスギの家一軒だけで済んだらしい。近所の消火団の必死の活動に加え、騒ぎを広めたくない軍が積極的に手助けしたおかげで鎮火も早かったと聞いている。
しかし当のスギの家は延焼を防ぐという名目で打ち壊された。「火事で犠牲になったとみられる」薬師の一家の遺体は今もって捜索中。見つかり次第、伝染病を防ぐため弔いさえ省略されて何処かへ運び出される手筈になっているらしい。
信じたくない。それ以上に、現実感がない。
父の背中も、母の笑顔も、祖父の手の温もりも、サワラの声も。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
そう言った、サワラの表情。自分だって遊びに行きたいのに、雨のせいで行けない。そんな不満がありありとこもった、元気すぎるほど元気ないつもの姉。そんな時間がいつまでも続くと思っていたから、あの時スギは行ってきますも言わずに氷雨の中へ飛び出したのだ。
言うべき相手も、帰るべき家も。もう何もかもないだなど、信じたくない。受け入れたくない。
「だって僕、まだ、ただいまって言ってない……」
溢れ出した涙は、乾ききらない頬の筋を辿って顎から首筋へと流れ落ちる。湿った外套の襟元を不快だとは思わなかった。外套に包まれているはずの自分の身体がすっぽり失くなってしまったような、深い虚無感と喪失感。
強く、強く俯けた視界に、ふいに影が差した。
「よぉ、こんなところに隠れてたのか」
聞き覚えのある声に意識が反応した。ゆるゆると上げた視線の先、鍛え上げた逞しい腕が目に入る。
スギは無言でタケを睨み上げた。この男さえいなければ。無意味と分かっていても、こみ上げてくる憎悪を抑えることはできなかった。
「落ち込んでる暇はないぜ。今日からお前も、晴れてお尋ね者の仲間入りだ」
「どういう、ことですか」
は、と鼻で笑ったタケは薄笑いを浮かべたまましゃがみ込んでスギの顔を覗き込んだ。額がぶつかりそうなほど間近に寄せた瞳はしかし、ひとかけらの好意も宿してはいない。
「畏れ多くも皇帝陛下を弑し奉らんと画策した輩に毒薬を提供した、罪深き薬師一家の唯一の生き残り。それがお前だ」
血が逆流する、という感覚をスギは初めて体感した。衝き上げてくる激情を認識するより早く、拳を目の前の薄笑いに叩き付ける。
「父様はそんなこと絶対にしない」
生命を救うことを誇りにしていた父。危険な薬が濫用されぬよう在庫の管理を怠らなかった祖父。スギ自身も含めた一家の家業が、矜恃が、このような形で冒されようとは。
「いってーな……」
渾身の力を込めて殴りつけたはずのスギの拳。しかしそれはタケの分厚い掌に阻まれて頬には届いていなかった。歯噛みする思いでスギは目の前の頑丈な青年を睨みつける。
「陛下暗殺なんて大罪を企んだのはあなたの方じゃないんですか」
「俺一人じゃねぇぜ。ここに出入りする皆が仲間で、共犯だ」
へらへら笑うタケに煽られて、昂る激情が抑えられない。声が震えるのは恐怖ではなく、御しがたい怒りのせいだった。
「あなたが利用したんでしょう。僕の家族も、あの穀物商のご隠居さんも」
「ああ。あのじいさんとばあさんか。あそこもあの後、兵士たちが来て家ごと打ち壊していったようだな」
人ごとのように嘯くタケを、スギは信じられない気持ちで見遣った。タケを孝行な孫だと褒めていた老夫婦。それを。
「あなたには人の心がないんですか」
「失礼な。俺だって申し訳ないとは思っている。あの人たちは本当に何も知らなかったんだからな。俺に婆さんなんていないってことも」
祖母に与えるという名目で入手した『狐』。スギの父が薬として調合したはずのそれはタケから仲間の手に渡り、そこで皇帝を害するための毒として再度調合し直されたのだろう。
誰にも怪しまれずに毒の原料を手に入れる役目。それがタケの仕事だったのだ。その足がかりとしてたまたま選ばれたのがあの老夫婦であり、薬師ヒバだったということ。
「そうまでして……そこまでして陛下を害したかったというのですか」
皇帝アザミ。スギが生まれる前からこの皇都に君臨している、皇帝領の絶対的な君主。同時に、アオイたち三兄弟の父でもある存在。
そこまで考えたところで、スギは胸を衝かれた。
アオイ。
皇帝弑逆とはつまり、アオイの父を害そうとする画策に他ならない。それにヒバが、スギが関わっていたとどこかから知らされたら。
アオイは、どう思う。
考えたのは乗り越えられるか、ではなかった。アオイの心はキキョウの死ですら屈しなかった。今回もきっと大丈夫。だから。
——信じてほしい。
ヒバの、スギの潔白を。これまで一緒に過ごしてきた時間を、記憶を。友人であり患者でもあるアオイの病状を、巻き込まれたことにせよ自分に端を発する出来事で悪化させたくはなかった。
そしてその思いは自分自身に対しても同様だった。これ以上何も失いたくなどない。
——生きたい。
身の内から湧き上がってきた願いは、スギ自身が驚くほどの力で精神を衝き上げてくる。火をかけられた家を目にして以来千々に乱れていた感情と思考が、そのただ一つの願いを中心に統合され、流れの中に組み込まれていく。
スギは改めて目の前のタケを見据えた。勿論今も怒りはある。恨みもある。だがそれ以上に今のスギには気になることがあった。彼がスギの前にいること。冷静な思考を取り戻したことで気がついた、その意味は。
「僕を連れて、逃げるつもりですね」
「な、何を突然」
明らかにタケはたじろいだ。先ほどまでとは別人のように静かな眼差しで見上げてくるスギに気圧されているのだろう。気味の悪いものを見るような目で身を引き、距離を置こうとする。
「なんなんだよいきなり。急に黙り込んだと思ったら薮から棒にそんなこと」
「でも事実でしょう。そうでなければ僕がここに匿われている意味も、あなたが僕の前に再度顔を出した意味も説明できませんから」
咄嗟に答えを返せずにいるタケに、スギは自分が正解を言い当てたことを悟る。しかし喜ぶ気にはなれない。スギはただ淡々と言葉を続けた。
「僕程度でお尋ね者なら、あなたも当然追われる身のはずです。薬の調達という役割で、僕よりも明確にこの件に関わっているのだから。本来ならとっくに皇都を逃げ出していてもおかしくない。なのにあなたはまだここに留まっていて、あまつさえ僕にちょっかいなんて出している。顔を知られている僕にこれ以上関わっても益などないはずなのに」
こんなにもすらすらと言葉が出てくることに、スギ自身驚いていた。ただただ混乱し悲しんでいた先程はまったく見えていなかった周囲の状況が、皇都の様子が、今ははっきりと感じ取れる。
「おそらく皇帝軍の対応はあなたがたの予想を遥かに超える速さだった。だからあなたは皇都を脱出できず、城壁とは逆方向の問屋街に迷い込んでしまった。そこで生き残った僕を拾ってしまったことはさらに誤算だったはずです」
タケは何とか反駁しようと口をぱくぱくさせている。しかし一言の反論も許さずスギが再度口を開く。言い返せないということは、スギの言葉に誤りがないという証左だ。上辺だけの薄っぺらな嘘でひっくり返せるほど、スギの語る予測は、現実は軽くない。
「あなたは予想外の存在である僕をその場で始末しない程度には優しい人だったから。僕をどうするか、あなたをいかに逃がすか。あなたがたは悩んだはずです。そして今、その結論が出た」
タケは反論を諦めたようだった。見下ろしてくる瞳をしっかりと見返して、スギは挑むように言い放った。
「僕を生かしてくれる決定をしてくれて、ありがとうございます」
「……はっ」
呆れたような、お手上げとでも言いたげな表情でタケは息を吐いた。
「やれやれ、とんでもないガキだ。めそめそしてるだけの奴だったら途中で見捨ててやろうと思ってたのに」
タケはスギへ手を伸ばした。
「お前の考えた通りだ。俺たちはこれから中立地帯へ逃げる。脱落したら死ぬだけだ。必死でついてこい」
頷いてスギは伸べられた手を取った。それが自分を生かすための唯一の道だと分かっていたから、ためらいはなかった。
「よろしくお願いします、タケさん」
スギの身支度はもっと簡単だった。着たきりになっていた合羽はそのままに、タケから一つ分けてもらった籠へ渡された旅糧などを放り込めば、あっという間に立派な商人見習いが出来上がる。
タケの仲間たちの見送りを受けながら、二人は隠れ家の裏口から外へ出た。一晩を経て、氷雨は雪へと変わっていた。灰白の雪片が降りしきる中、二人は裏道を使いながら無言で城門へと向かう。完全に凍りきっていない足元の石畳はざくざくの氷で覆われ、滑りやすいことこの上ない。
どうやら隠れ家はスギの家のあった問屋街からそう離れてはいなかったらしい。家々の連なりの向こう側、見覚えのある近所の屋根の先が視界の端を流れていく。けれど。
もう戻れない。あの場所に。あの家に。
際限なく落ちてくる雪から瞳をかばう風を装って、スギは顔を伏せた。腹の底からこみ上げてくる熱い塊を必死で飲み下しながら、それでもタケとはぐれないよう足を速める。
そんなスギを気遣う様子など微塵もなく、タケは大股で入り組んだ小路を小刻みに折れながらどんどん先へ進んでいく。どうやら目指しているのは南側の城門らしい。中立地帯に繋がる街道に一番近く、人の往来が最も多い皇都の玄関とも言える場所。
「大通りに出るぜ。はぐれるなよ」
ちらとも振り返らず言葉だけを投げかけて、タケは城門を臨む通りに身を滑り込ませた。遅れじと足を速めて、スギも角を飛び出す。
天候が悪いせいか、今日も大路に人影はまばらだった。目的のある者しか外出はしないし、ゆえに皆目的地に少しでも早く到着しようと足早に石畳を横切っていく。
この状況では人波に紛れての脱出はできない。不安に駆られて見上げたタケの横顔はしかし、動揺など欠片も映してはいなかった。スギがきちんとついてきているかさえ確かめず、ぐんぐん城門へと近づいていく。
もう彼に任せるしかない。
そう覚悟して早歩きから小走りに切り替えようとした、その瞬間だった。
そのわずかな音を拾えたのは、どうしてだったのだろう。
耳に残る軋みがふいに背筋をざわめかせた。思わず振り返ると、石畳の遥か先に何か大きな箱形の影が見えた。雪の帳を透かしてさらに目を凝らす。ゆるゆると近づいてくるそれが二頭の馬に牽かせた荷車であると見て取れたのはさらにもうしばらくしてからのこと。完全に足を止めたスギの元へ、馬車はゆっくりゆっくり近づいてくる。
その頃には馬車を御している皇帝軍の兵がラッパを吹き始めた。元々少ない通行人を脇にどかすように。雨雪に顔を伏せる人々の注意をあえて惹きつけるかのように。調子外れの金管が放つ音波はひどく耳に刺さって、乱暴な余波だけを残して灰色の空へと消えていく。
立ちすくむスギの襟首が乱暴に引っ張られた。見上げるまでもなく手の主がタケだということは分かっている。
「おい、勝手に立ち止まるな」
不機嫌な声は再度鳴った耳障りなラッパに遮られた。顔をしかめながらタケはスギを捕まえたまま道の端に寄る。
「ちっ、軍の御用車じゃあ仕方ない。しかし一体何を積んでるんだ」
スギの鼓動が早鐘のように加速していく。同時に血の気が音を立てて引いていき、体温が急激に下がっていく。
確証はない。だが確信があった。きっと、あれは。
ラッパから手を離した兵が露払いするかのように鞭を左右に振った。既にまばらな通行人は皆端に寄って道を譲っている。何事かとぽつぽつと周囲の家や小路から人々が顔を出してきたのを見て、兵は苛立たしげに声を張り上げた。
「寄るな、散れ! 道を空けろ。こいつらみたいに丸焼きにされたいのか」
空気のざわめきを、肌で聞いた。一気に抜け落ちた聴覚、頭の中で自分の鼓動だけが圧倒的な音量で鳴り響いている。外界の音など聞こえない。まばたきも忘れて、食い入るように荷車に載せられているものを見つめる。
馬車はスギの目の前を緩慢な速度で通り過ぎていく。乗用にはされない、荷駄専用の馬なのだろう。念入りな手入れとは言いがたいばさばさの尻尾を振って、二頭の黒鹿毛が重たそうに脚を進める。
馬が牽いている荷車は積載量のみを重視した大きく粗末なものだった。雪よけのつもりだろうか、大きな布で荷車の背全体が包まれている。その布を内側からそれぞれ大きさの異なる包みが持ち上げていた。数は四つ、それはスギがよく知っている人々の大きさとちょうど同じくらいで——
声は出なかった。涙も、叫びも、感情も。ただただ目を見開いて見送るしかできない。
——父さま。母さま。じいさま。サワラ。
包みの一つ一つに呼びかける。声を出せない分、身じろぎすらできない分、叫びは身中で反響しぶつかり合ってスギの拳を震わせる。今ここにある怒りも哀しみも嘆きも悔しさも、自分たちに突然降り掛かったあまりにも巨大な理不尽の前ではただひたすらに無力だった。
無力な自分。無力にしかなれない、自分。
それでも。
生きなければならない。いつか仇を討つ、そのためにも。
「おい、大丈夫か」
ふいに肩を揺さぶられて、スギは我に返った。見上げるとタケが顔を覗き込んでいる。出会って以来初めて、微かではあったが表情に気遣わしげな色が浮かんでいた。
「まさかこんな……丁度行き合うなんてな」
「大丈夫です」
乾いたままの瞳を上げて、スギは城門を見遣った。馬車のラッパを合図に、門扉は大きく開かれていた。今まさに通過しようとしている馬車を見送り、閉じられることなくそのままになっている扉へ視線を流す。どうやら地面の雪で開閉のための溝が詰まったらしい。二、三人の兵士が除雪作業をしているが、復旧にはもうしばらくかかりそうだ。
「それより今のうちに門を出てしまいましょう。さっきの今で、まさかあの事件の関係者が出入りしているなんて思わないでしょうから」
「あ、ああ、そうだな」
凍てついた大気よりなお冷えた眼差しで、スギはまっすぐに城門を見据えて歩み始めた。既に馬車の姿は吹雪の中に紛れて消えている。あの馬車がどこに向かったのか——つまりこれから家族がどこに埋葬されるのかさえ、今のスギには知るすべもない。
震えて頽れそうになる膝をタケに悟らせないよう、必死に己を励ます。何食わぬ顔で城門を通過し、振り返ることなく生まれ育った街を後にする。
——いつか必ず戻る。
もっと実力をつけて。無力な自分ではなくなった時に。
涙は出ない。流せない。今は、まだ。
降り掛かった雪が、凍てつく雫となって頬を流れ落ちた。
旅が順調だったのは最初の一日だけだった。
「ちくしょう……気づかれてるな、完全に」
既に使われていない納屋の裏手。人目につかないそこで歯ぎしりするタケの傍らで、スギは無言で肩の籠を背負い直した。既に無用の長物と成り果てている偽の商売道具ではあったが、ここで手放してはここまで抱えてきた意味さえもがなくなってしまう。せめてあと少しだけ、この嘘は吐き通さねばならない。
中立地帯はもう目の前だ。だが最後の村を抜けることができず、結果半日近くも足踏みを続けている。
皇都を出た後いくつかの村を足早に抜け、初日は農家の軒先を借りて夜を明かした。その時は特に不穏な気配は感じられなかったが、早朝に農家を発った時には既に身辺に監視の目を感じるようになっていた。
追跡者の存在を確信したのは二日目の昼。籠売りの扮装に真実味を加えるため、村人に売り込みをかけた。結局その男が籠を買うことはなかったが、商談が破談になった後、男が旅装束の人物に根掘り葉掘りスギたちの様子を質問されているのを、当のスギ自身が目撃している。
次の村では追跡者は二人に増えていた。街道を歩いている時ですら、どこかから監視されているのが分かる。もうひとつふたつの視線ではなかった。どんどん増えていく目、狭まる網。分かっていても、どうすることもできずただ足を速めて逃れることしかできない。
脱出がどこから知れたのか、という詮索は意味がない。ただ、首尾よく皇都の外に出たはずのスギたちでさえ見つかったのだ。城壁の中に残ったタケの仲間たちも、おそらく無事ではないだろう。タケの表情にも、少しずつ焦りの色が見え始めていた。
ここからが中立地帯だ、という明確な線引きがあるわけではない。けれど漂う空気が変わってきているのは肌で感じられた。凍てついた雪と氷の気配が濃厚な大気に、微かではあるが乾いた草原の匂いが混じりつつある。そういえば中立地帯の住人は定住する村を持たず草原を移動しながら暮らすという。皇都から離れるに従って小さくなっていく集落。旅を始めてから三日、ほとんど追い立てられるように踏み込んだその村の住人から、ここが皇帝領最後の集落だと聞かされた時の安堵感と胸騒ぎ。
果たして自分たちはここまで逃れることに成功したのだろうか。それともここに追い込まれたのだろうか。
タケは今まで以上に籠の売り込みをかけて情報収集に当たっていた。しかしこの村の住人たちの警戒心はこれまでの比ではなかった。余所者を警戒しているというより、これは。
「どうやら先回りされてバラされたみたいだな」
タケの言葉にはまったく同感だった。追跡者は数に物を言わせて触れを先行させ、お尋ね者と思しき二人連れをあぶり出す気なのだろう。皇帝の力が及ばなくなる領域まであとわずか、しかしそこへ逃す気はないということか。
街道沿いに細長く広がる村の出入り口は二つしかない。皇都へ戻る入り口と、中立地帯へ至る出口。出口には当然皇帝軍が詰めていて不用意に近づくこともできない。
村の外には枯れた草原が広がっていた。しかしこの辺りの草は丈が高く、スギの身長と同じくらいまで伸びている上密集している。折からの雪が溶けきらずに積もり、根元を凍らせている現状では、そこをかき分けて脱出するのは至難だった。
故にタケは街道を離れられず、皇帝軍は街道の封鎖を狙う。初代戦士が遺したただ一筋の道、彼の時代から百数十年を経た今でさえ、その道を辿ることでしか行き来することができない現状がこの国にはある。
目の前の真っ白な自由、それを阻む鉄色の壁。越えるためにはどうすればいいのか。
「二手に分かれよう」
追いつめられた目でタケが言った。
「奴らは二人連れを捜している。ちびを連れた若い男をな」
ちびと言われたことは引っかかったが、目を付けられているのがその組み合わせだという点には同意できた。親子というには歳が近すぎ、兄弟というには打ち解けたところのない、若い籠売り二人。
「別行動になったとして、それからどうするんですか。何か目算があるんですか」
「紹介状がある。中立地帯自警団へのな」
ちらりと懐を示したものの、タケはそれを取り出そうとはしない。スギに渡すつもりはないということだろう。
「この村さえ出れば中立地帯だ。街道沿いに行っても皇帝軍に怯えなくていい。堂々と旅ができるようになる」
それは違う、とスギは思う。中立地帯を管理するのは皇帝、つまり皇帝軍だ。確かに遭遇する頻度は下がるかもしれない。だが絶対安全とは言い切れない。その事実を知らないタケに危うさを感じる。
しかし口を開きかけたスギを制して、タケは言葉を続けた。
「街道沿いに何日か行けば自警団の本拠地がある。そこまで紹介状を持って行ければひとまず安心だ。当面の生活には困らないだろう」
つまりは独りでそこまで辿り着けということか。
笑いがこみ上げてきたのはどうしてだろうか。結局この男は最後まで、自分が生き延びるためにスギを利用することしか考えていないのだ。
スギの笑みをどう受け取ったのか、タケは複雑な表情で見下ろしてきた。
「その、何だ……元気でな。本拠地でまた会おう」
「そんなこと、本気で思ってるんですか」
笑いを含んだままの声に、タケが言葉を詰まらせる。見上げて捉えた視線が揺らいでいた。迷い。恐れ。怯え。これで良かったのかと自問している者が見せるあらゆる感情が綯い交ぜになった、不安定な心の裡。
——ああ、この男も良心の呵責を覚えていたのか。
ふっと、肩の力が抜けた。
勿論、この男や仲間がやったことを許す気にはなれない。おそらく一生、許すことなどできないだろう。けれど今、スギが生きてここにいられるのは紛れもなく彼らのおかげなのだ。
仇で、恩人。
もう二度と会うことはないかもしれない。だから。
「ここまで連れてきてくれたことには感謝しています。僕一人では絶対にここまで来れなかった。あなたもどうぞお元気で」
最低限の感謝に、ささやかな祈りを込めて。いっそ嫌い憎みきることができる悪人であれば、もっと楽だっただろうに。
「……俺が先に行く。お前はしばらくここで様子を見ていろ」
別行動になったとて、そう簡単に監視の目を逸らせるわけではないだろう。先に行こうと後に行こうと、危険度は大して変わらない。
スギが頷いたのを確認して、タケが立ち上がった。背中の籠が揺れながら遠ざかり、角を曲がって見えなくなる。
スギは耳を澄ます。どんな音も聞き逃さぬように、どんな危険も見逃さぬように。
それにしても小さな村だ。昼下がりのこの時間、人の行き来が最も盛んになるはずなのに道に人影は見えず、話し声もしない。
それは多分、自分たちという異分子が混じり込んでいるからだ。皇都からやって来たお尋ね者がこの小さな村の日常をかき乱している。
非日常の静けさ。巻き込む側も巻き込まれる側も、息を殺して通り過ぎるのを待つ。
そして、それは来た。
最初は大声での言い合い。それはすぐに激しい口論になり、複数の足音が入り乱れる。剣戟らしき金属の響きが混じる頃には、既にスギは走り出していた。籠を投げ捨て、合羽を着込んだ身一つで村を横断する。目指したのは街道の出口ではなく、村の横に広がる雪原と化した草の海だった。
粗末な家々をすり抜け、壊れかけた柵を乗り越える。たったそれだけで草原はいとも簡単にスギを迎え入れてくれた。
密集する草をかき分け、落ちてくる雪を何度も頭からかぶりながら、必死で前進する。しかし思うように距離は稼げない。やがて追っ手の声が背後から響き始める。やはり丈の高い草に阻まれて前進はままならないようだったが、それでもスギの恐怖を煽るには充分すぎる圧力だった。
草で切り雪でふやけた手は既にぼろぼろだった。それでも不思議と痛みは感じない。ただひたすら、前へ。その思いだけが体を突き動かしていた。
しかし疲労は確実に訪れる。徐々に上がらなくなってきた腕が、自分の体にぶつかる。反動で跳ね返った手が何か固いものに当たった。スギの脇腹のあたり、合羽より薬師の外套より、さらに下に隠されていたもの。
感覚を失った指が探り当てたのは、父からもらった薬師の剣だった。
——これから何があろうとも、決して他者の生命を奪ってはならない。
ためらいなくスギは剣を抜いた。貰いたての頃は持て余し気味だった、分厚い刃。一年を経た今、それは随分手に馴染んで使い勝手も良くなっていた。その刃で眼前を塞いだ草を薙ぐ。手入れを怠ったことのない剣はあっさり草と雪を切り払い、スギの前に道を開いてくれた。
——薬師は生命を救うために在るのだから。
誰かを救うためには、まず自分が生き延びなければならない。父がこれから救うはずだった生命、自分がこれから救うであろう生命。望みも願いも、恨みも憎しみも、生きていればこそ。
生きて、生きて、その先に出す答えがどんなものなのか、今のスギには分からない。けれど、答えを出すためには今ここにある危機を乗り越えなければならない。
スギは再び刃を翳す。傾きかけた陽の光は草の海の底にまでは届かない。徐々に下りてくる闇の帳に包まれながら、ただひたすらに柔らかい壁を薙ぎ払い、先へ進む。
生きる。そのために。
足早な冬の夕陽にも助けられ、奇跡的にスギの逃走は成功した。体力が続く限り草を払い、疲れれば周囲の草を広めに刈って寝場所を作った。湿った下草の寝心地は最悪に近かったが、翌朝無事に目を覚ました時の安堵感は疲労も相まってしばらく立ち上がれないほどだった。
明るいうちに草を刈れば上に積もった雪が崩れて居場所が分かってしまう。かといってここでじっとしていては凍えて動けなくなるのも時間の問題だった。
疲れ果てた手足を励まして、スギは慎重に草を払って先へ進む。時間や方向の感覚などとうの昔に失っていた。
来た方とは逆へ。できるだけ早く、遠くへ。
己の腕はこんなにも重かったか。己の脚はこんなにも上がらないものだった。意識して無視し続けていた疲労を看過できなくなって来た頃、目の前を覆い続けていた草がついに途切れた。
まろび出たのは街道の上だった。皇帝領のそれより手入れが行き届いていない、所々雑草が顔を出している古びた石畳が延々と続いている。左右どちらにも人家は見えず、旅人などの気配もない。
スギは深く息を吐いた。そこが限界だった。膝をつき、崩れるようにその場に倒れ込む。
まだ歩かなければならない。こことて皇帝領からそう離れた場所ではないのだ。できるだけたくさん距離を稼いで、自警団の本拠地を目指さなければ。
しかしもう体が言うことをきかなかった。手は薬師の剣を握ったまま、それを鞘に戻すことすら億劫だった。睡魔の手が優しく瞼を撫でる。寒くてたまらないのに妙にふわふわと心地よくて、このまま眠りに堕ちる誘惑が抗いがたく全身を包み込む。
頬を石畳に押し付けたまま、ゆっくりと目を閉じる。吸い込まれるように意識を手放しかけた刹那、地を揺るがす振動に気づいてわずかに瞼をもたげる。
追っ手か、ただの通りすがりか。おそらくは馬一頭の蹄音が徐々に、しかし確実に近づいてくる。
気づいても、もうスギにはどうすることもできない。抵抗したり隠れたりすることはおろか、体を起こすことすら困難なのだから。
——ここで終わりか。
深く息を吐いて、スギは意識を手放した。満足していたのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。
火の爆ぜる音がした。
同時に暖かい空気を頬に感じて、スギは重い瞼を持ち上げる。最初に目に入ったのは暖かな焚火の橙、そして背景に広がる濃紺の闇。時間を置いて戻ってきた聴覚が間近に大きな獣の身じろぎと呼吸を捉える。微かに混じる金属音は馬具が触れ合う音だろうか。
——馬。
一気にスギの頭が覚醒した。意識を失う直前に聞いた馬蹄の音。馬がいるということは、当然騎手がいる。
「目が覚めたか」
探すまでもなく目の前に現れたのは、見たことのない男だった。分厚い体躯、この季節にも関わらず陽に灼けた肌。表情らしきものがまったく窺えない厳めしい顔で、男は無造作に椀を差し出した。
「食え。温まるから」
椀に入っているのは粥のようだった。久しく摂っていなかった、暖かな食事。わずかに覚えた逡巡は、鼻先をくすぐる匂いを前にあっさりと霧散した。口をつけた椀の中身は火傷しそうに熱かったが、その熱は確実に空腹感を満たし、麻痺していた思考をも目覚めさせていく。
「……ここは」
粥を飲み干したスギを、男はじろりと一瞥した。
「ごちそうさま、が先だ」
「……ごちそうさまでした。ごはんも、ありがとうございました」
重々しく頷いて、男はスギが差し出した椀を受け取った。
「ここは中立地帯の草原だ。お前は皇帝領に近い街道に倒れていた」
男は身振りでおかわりを訊ねる。躊躇いはあったが、今更遠慮しても仕方ないと思い直し、おとなしく二杯目をもらうことにする。
「俺は中立地帯自警団の者だ。皇都からの帰り道でお前を見つけた。お前を拾ってから半日が経った。今は自警団の本拠地へ向かっている」
訥々と現状を説明する男の声には、少なくとも嘘はないようだった。おかわりをよそった椀が差し出され、スギはそれを受け取るために身を乗り出す。椀を受け取った瞬間、つと男の視線がスギの顔に据えられる。
「——薬師か」
思わずびくりと身を竦ませる。無意識に確かめた懐には、きちんと薬師の剣が差されていた。倒れた時には抜き身だったはずの剣。それがきちんと鞘に納められている。つまりこの男にはこの合羽の下の薬師の外套も見られているということ。
この男は皇都から来たと言った。あの暗殺騒ぎを知らないはずがない。
ならば、隠すことに意味はない。
意を決して口を開きかけたスギを、当の男の手が押しとどめた。
「無理に語らなくともいい。あんなところで倒れているのは大概訳ありと決まっている」
それに、と言いながら男はスギに食事を続けるよう身振りで促す。
「自警団は基本的に来る者拒まず去る者追わず。中立地帯に迷惑をかけない限り、たとえ極悪人でも追い出したりはしない——お前にその気があれば、の話だが」
自警団の本拠地は当面の目的地ではあったが、特にその先の展望があったわけではない。後ろ盾が何もない今、どんな形であれ自警団に潜り込めるのであればそれに越したことはない。
「自警団に来る気はあるか?」
男の言葉に、スギははっきりと頷いて見せた。受けて、男が名乗る。
「俺の名はウイキョウ。お前は」
「スギです」
軽く頷いて、無表情に男は告げた。
「明日の昼には本拠地に着く。早駆けになるから今夜はしっかり休んでおけ」
ウイキョウの言葉通り、翌日の正午前には本拠地だと言う岩山に到着した。
道々目にした中立地帯の草原は、海のように広かった。身を切るような冷たい風こそ変わってはいなかったものの、天候は多少回復している。日差しはないが明るい曇天となった空の下、蒸れるだけの合羽は既に荷物の中に括り付けられていた。皇帝領を出た今となっては、どの道薬師の外套を隠す意味もない。
草の海に浮かぶ島のような岩山と、その山腹の内部に設けられた本拠地。岩肌を直接くり抜いて造られたそこは、秘密基地めいた印象をスギに抱かせた。
——まずは長に帰還の報告をしてくる。俺が呼ぶまでここで待て。
ウイキョウが言い置いて姿を消した後、所在なく通された部屋を見回す。そこは普段から控え室として使われているらしく、簡素な椅子と卓があった。扉がなく廊下が直接見える以外は取り立てて特徴のない部屋。
とりあえず椅子にかけてみる。木製で古びたそれは、お世辞にも座り心地がいいとは言えない。
すぐ横手は岩肌が剥き出しの壁だった。削り跡が荒々しく残された壁は遥か上方で明かり取りの窓が開いていて、そこから曇天の乏しい光が弱々しく降ってくる。昼日中のことで他の明かりはない。
見るともなしに窓を見上げていると、ふいに視線を感じた。振り向くと廊下から部屋を覗き込んでいる子供と目が合った。黒髪の、スギと同年代くらいの少女。印象的な紫の瞳を見張って、少女は呟いた。
「新しいきょうだいだ」
「……? どういう」
訊き返そうとした時、廊下の暗がりから伸びてきた手が少女の頭を軽く小突いた。
「まだそうと決まったわけじゃない」
「ススキ」
突かれた頭を押さえながら少女が振り返った先には、やや年かさの少年がいた。既に青年と言っても差し支えのない程度に大人びた雰囲気を持った彼は、スギを一瞥してすぐに目を逸らし、少女の腕を引いた。
「行くぞ。午後の稽古だ」
「えー、もう少し休もうよー」
「だめだ」
引っ張られて、少女の姿はあっさりと戸口から引きはがされる。結局スギが一言も発する隙もなく、二人は廊下の奥に姿を消してしまった。
呆気に取られているうちに、入れ違いにウイキョウが顔を覗かせた。
「どうした」
「あ……今、子供が」
軽く眉を上げて、ウイキョウはスギについてくるよう合図した。
「会ったのなら話は早い。説明は長からする」
説明も何も、と首をひねりながらもスギはウイキョウについていく。いくらも行かないうちに厚手の布で仕切られた部屋の前で大きな背中は立ち止まった。
「長、入ります」
声をかけてたくし上げた布を、ウイキョウが思いの外機敏な動作で潜る。続いて部屋の中に身を滑り込ませたスギの目の前、いきなり至近距離で人の顔に出迎えられて思わず飛び退った。
「う、わっ」
「ふむ、なかなか良い反射神経だ」
壮年を過ぎ老齢に差し掛かる頃合いだろう、日焼けした肌に幾条にも皺を刻んだ男がかがみ込んでスギの顔を覗いていた。どうやら待ち伏せをしていたようだ。
「長」
呆れた声音はウイキョウのもの、からからと笑いながら老人は身を引いた。
「いや、失敬失敬。この歳になるとなかなか楽しみも少なくなってな」
「だから初対面の相手を脅かしてもいいというわけではないでしょうに」
「結果的に驚かせただけで最初からそれを狙っているわけではないわい」
老人は部屋を横切ってウイキョウの前を通り、奥の壁際に積まれた大量の藁にどすんと身を預けた。無造作に積まれているようで、実は座り心地が良いように調節されているらしい。見るからにふかふかの背もたれに寄りかかりながら、老人は改めてスギを見遣った。
「さて少年よ。ここの大男がさっきから何度も言っているからもう分かっておるとは思うが、わしがここの一番偉い人じゃ」
「……はぁ」
「気の抜けた声じゃな。ほれ、おぬしもさっさと名乗らぬか」
「スギ、です」
ひとつ頷いて、長はスギの外套を示した。
「見たところ薬師の修行の途中のようだが。何年くらい修練を積んだのかのう?」
「一年です」
「師匠の腕は良かったか?」
「それはもう」
「薬師の修行は続けたいか?」
「はい」
スギの答えに、長は思いの外優しい顔で笑って見せた。
「良い答えじゃ。ならばここの薬師に話を通しておこう。明日から教えを乞いに行くといい」
「明日から?」
「そうじゃ。おぬしは今からわしの子供になる」
——新しいきょうだいだ。
思い出したのは先程の子供の言葉。もしやあの二人も。
「拾い子、と言ってのう。故あって親とはぐれた子供を育てるためのここでの仕組みじゃ。慣習のようなもんじゃからな、特に見返りも要らぬ。安心して立派に育て」
そのまま長はウイキョウへと目を向ける。
「後で薬局に案内してやるといい。おぬしの部屋からの道順も忘れずにな」
「何故俺の部屋からの」
「形式上はわしの拾い子ということになるがのう。やはり生活の面倒はおぬしが見てやらぬと無責任であろう。拾い主なのだからな」
「俺はてっきり今までの拾い子と同じように長自ら育てるものかと」
「冗談は休み休み言え。ススキの屁理屈とシオンのじゃじゃ馬だけでも手一杯だというのに、さらにもう一人なんてこの老体には無理だわい」
「だからって……!」
「そう言わずに、頼む」
長は立ち上がって、目の高さにあるウイキョウの肩をぽんと叩いた。
「それとも何か? せっかくの新婚生活に水を差されたくはないか?」
「……っ」
「気持ちは分かるが、しかしそうなると困ったのう。この薬師の卵を受け入れたくとも宿舎と保護者が決まらぬとなるとどうにも落ち着かぬ」
「薬師の、老師のところなどは」
「……おぬし、正気か?」
ウイキョウの沈黙に傍で聞いているしかないスギは不安を覚える。明日から世話になるという薬師は一体どんな難物なのか。
「他の者どもも今は養い子を増やせる状況ではないのだよ。子供もおらぬ、養い子もおらぬというのはおぬしくらいのものだからのう」
沈黙の末、ウイキョウはついに長く息を吐き出した。
「……わかりました。俺が責任を持ってお預かりいたします」
「うむ、頼んだぞ。ほれ、おぬしも挨拶」
自分の頭上で何かが決着したらしいことに困惑しながら、改めて傍らの大男を見上げる。同様に見下ろしてくる瞳の奥の、わずかな戸惑い。無表情に隠された感情に、ふいにスギは悟った。
——ああ、この人、まだ若いんだ。
無口さと大柄な体躯のせいで老成して見えるが、よく見ると顔はそう老けていない。新婚だと言っていたが、実の子供もいないうちにスギのような年齢の養子を押し付けられては困惑もするだろう。
そんなことを思いつつ、同時にスギはそんな風に周囲を観察できる余裕が戻ってきたことにも気づいていた。わずかずつでも、住み慣れた場所を追われた衝撃から立ち直りつつあるのだろうか。
分からない。けれど。
少なくとも今は、新しい環境に慣れる努力をしようという気分にはなっていた。
「改めて、ウイキョウさん。これからどうぞよろしくお願いします」
「……ウイキョウで、いい」
不器用に挨拶を交わす二人を、からからと笑いながら長が見守っていた。
その後、ウイキョウの部屋に向かう長い廊下の途中で拾い子について質問した。どうやらウイキョウ自身もかつて拾い子として保護されたらしい。
「中立地帯にはみなしごが多いからな」
この発言には薬師として反応せざるを得なかった。病気で親を失う場合が多いのか、それとも他に要因があるのか。
そう問うとウイキョウは少し驚いた表情をした。
「随分仕事熱心だな」
栄養不足や疫病、盗賊の跋扈、事故や天災。ウイキョウが語る中立地帯の人々の死の原因は、翻して見ればどれも薬師の不足を窺わせるものだった。
自分の能力は確かに、ここで必要とされている。ならば、できる範囲でできることをするだけだ。今、半人前なのは仕方がない。だからできるだけ早く一人前になれるよう、せめて成長することにだけは貪欲でありたい。
「——これ以上は俺では分からん。後で薬師のところに連れて行ってやるから、詳しいことはそちらに訊け」
スギの質問攻めにさすがに音を上げたのか、ウイキョウが少し足を早めた。
「当面必要なものはこちらで用意する。身の回り品以外に何か欲しいものはあるか?」
何も、と言いかけて、スギはふと動きを止めた。
「伝書鳩なんて、いますか?」
「鳩? どこへ宛てるものだ?」
「……皇宮へ」
ウイキョウの眉が鋭く上がった。
「皇宮に知り合いがいるのか?」
スギは迷った。アオイとの関係を正直に話すか。いや、まだそこまで話すほどにはウイキョウを信用することはできていない。
だからスギはただ頷くに留めた。
「無事を知らせたい人が一人だけいるんです。僕は生きてるって」
しばらく考えていたウイキョウだったが、やがて了承の頷きを返した。
「わかった。なんとかしてみよう」
ウイキョウがふいに足を止める。長の部屋と同様、分厚い布が下げられた入り口の前だった。
「ここが俺の家だ。入れ。妻を紹介しよう」
中立地帯の薬師の下での仕事は、やはり家にいる頃とは勝手が違った。怒鳴り癖のある老薬師の下、棚の薬種の配置や患者の名前を覚えるだけで手一杯の毎日。くたくたになってウイキョウ宅へ帰り、そのまま倒れ込むように眠ることを繰り返す。頼んでいた鳩の鳥籠を渡されたのはそんな時だった。
疲れているのは変わらないのに、机に向かう気になれたのはどうしてだろう。檻越しに既に眠っている鳩の羽を指で一撫でし、乏しい?燭の灯の下で筆を執る。
いざ書こうとすると、たくさんの顔が、光景が、とめどなく脳裏をよぎった。城門の外に運び出された家族たち。穀物商の老夫婦。あられ屋の夫婦。皇帝領最後の村で別れ別れになって以降、生死も分からないタケ。自警団の人々。それらの断片をくぐり抜けて。
——僕は生きている。
ただ、それだけを伝えたい。向こうは既に心配などしていないかもしれない。何せスギは父帝を弑する計画に加担した反逆者一家ということになっているのだから。それでも。
信じてほしい。知っていてほしい。自分たちの身の潔白を。自分が無事であることを。
アオイにだけは。
書き上げた手紙には、詳しいことは何一つ書かなかった。
書けなかった。
途中で鳩が捕まって手紙を盗み見られたら。或いはアオイが皇帝軍を動かし、追っ手をかけられてしまったら。
何より、書くためにはその光景を思い出さなければならなかったから。
恐れと痛み。何度も筆が止まり、書き損じだけが増えていく。
結局ごく短く、こう書いた。
——無事です。中立地帯で、生きてます。
書き上げた頃には、うっすらと空が白み始めていた。冬の日の出は遅い。仕事開始の時間がすぐ傍に迫っていた。慌ててスギは目を覚ましたばかりの鳩の脚へ手紙を括り付ける。そのまま片手で鳩の身体を掴んで、空いた方で明かり取りの窓を細く開けた。
今日も冷えたようだ。窓の隙間から容赦なく凍てついた空気が流れ込んでくる。しかし鳩は広い空間へ出られるのが嬉しいのか、特段嫌がる様子もなくくるる、と喉を鳴らして飛び立って行った。
北へ。皇都へ。
返事など期待していなかった。鳩が戻ってこない可能性すら、考えていた。
しかし五日で鳩はスギに与えられた部屋の窓辺へと戻ってきた。期待と諦観、相反する気持ちで探った脚には、きちんと返信が結わえられていた。
懐かしい友の字で綴られた言葉。まずスギの無事を喜ぶ内容が書かれていたことに腹の底から溜息を吐いた。壁に背中がぶつかり、そのままずるずると床に座り込む。
震える指で続きを辿る。皇都での粛正は一段落したこと、アオイ自身の健康と弟たちに変わりはないことが綴られていた。淡々と事実だけが紡がれる言葉。ただそれだけのことなのに、どうして涙が止まらないのだろう。
信じてくれた。その事実がこんなにも、嬉しい。
目元を拭って、改めて手紙に目を落とす。文字列を追う瞳が、最後の一行で動きを止めた。息を詰めて、もう一度読み直す。
——『いつか』の約束を、覚えていますか?
アオイは何より情報を欲している。己の力にするために。己が生きていくために。中立地帯自警団の内実。それはあの病身の皇太子にとって、どれほど価値のある武器になるだろう。
鼓動が加速するのが分かった。皇宮の最奥に住まう皇太子に、ここでの暮らしを伝える。それは己に居場所をくれた自警団に対する裏切りではないのか?
「返事が来たのか」
ふいにかけられた声に、必要以上に肩が跳ねた。慌てて顔を上げると、入り口にもたれたウイキョウが難しい顔でこちらを見ていた。
反射的に手紙を背後に隠す。自然と目線はウイキョウから逸れた。後ろめたいことはまだ何一つしていない。だが堂々と目を合わせることも、今はできなかった。
そんなスギをウイキョウは目を細めて観察している。わずかな沈黙を挟んで、低くウイキョウは口火を切った。
「まさか、本当に皇宮から返事が来るとはな」
思わずスギは目を閉じた。疑われている。ゆっくり歩み寄ってきたウイキョウが、目の前でかがみ込んだ。
「スギ、諜報という言葉を知っているか」
聞き慣れない単語。しかしおぼろげに意味は理解できた。先程探り当てた裏切りという言葉の手触りと、とても良く似た響き。
「中立地帯がどうして中立でいられるか、知っているか」
力なく首を振る。先程自分がしようとしたこと、あれは諜報という行為になるのだろう。それはおそらく罪だ。露見したなら罰が下る。相手が今の後ろ盾でもあるウイキョウなら尚更だ。誰も庇ってくれる者などいない。
「中立地帯にとって、有益な情報をいち早く入手するために皇都、王都それぞれに間者を放って情報を集め分析する。それが自警団の諜報だ」
動揺しているせいでウイキョウの言葉は耳に入っていても意味を理解することが難しかった。自然、聞き流す形のままスギはうなだれて黙っている。
「自警団の生命線とも言える活動だから、それなりに規模や人員は割いているのだが。しかし、皇宮内部と直接繋がる人脈を持てたのは初めてだ」
ウイキョウの大きな手がスギの肩にかけられた。
「スギ。諜報術を学ばないか?」
「……え?」
意外な言葉に思考がついていけなかった。ゆるゆると上げた視界がウイキョウの真剣な瞳とまともにぶつかる。
「実はお前が皇宮への鳩を欲しがった時から考えていた。本当に返事が来たら誘ってみろと、長にも言われている」
「でも……僕はいつかあなたたちを裏切るかもしれないですよ」
先程のように。
ウイキョウは瞼を閉じた。しかしすぐに目を開き、低い声で告げる。
「お前は皇帝に恨みを持っているはずだ」
ウイキョウの瞳は刃の光を宿していた。それは決して保護者として世話を引き受けた少年に向けるものではなかった。敵か味方か、その境界線にいる相手に向けられる真剣の鋭さ。思わずスギは息を呑んだ。
「一矢報いることができるなら、そう思ったことがあるだろう。その機会があるのなら、その瞬間が来たならば。そう思わなかったことがないわけがない」
やはりウイキョウはあの事件を知っていたのだ。件の薬師一家の生き残り、そうと知ってスギを助けたのだ。
利用価値があると知っていて。
「お前が皇宮と繋がっているとは意外だったが……そのつながりは利用できる。自警団にとって有益だ」
ふいに笑いがこみ上げてきた。
なんだ。タケだけではなかった。ウイキョウも、長も、アオイでさえも、あの手この手でスギを利用しようとする。
ならばスギが自分の目的のために彼らを利用して、何が悪い。
「分かりました」
「スギ……?」
急にくつくつ笑い始めたスギを、ウイキョウが怪訝そうに覗き込む。その手を静かに肩から払って、スギは顔を上げた。薬師が診察の時に見せる、笑顔という名の無表情で。
「僕の力でお役に立てるなら。まずは何をすればいいですか? 取り急ぎこの手紙に返事をと思っているのですが、何か書き添えることはありますか?」
己の目的とは何だろう。家族の仇討ちか、それとももっと別の何かだろうか。今は答えが見つからないそれを見つけるためにも、まずは生きなければならない。だから。
生きるために、間者になる。
翌朝、窓から放たれた鳩の脚に括り付けられた手紙。末尾にはこう書かれていた。
——当分皇都には帰れない。だからせめて、懐かしい街の話をなるべく詳しく教えてくれないか。
凍てついた東雲の空を、鳩はただ一心に飛んでいく。
**********************
それから、十年。
あの夜、止まっていた時が動き出した。
国王レンギョウと第二皇子アサザの偶然の邂逅。そこに自警団が、自分が居合わせたのは偶然か、必然か。
スギは慣れた手つきで皇都へ放つ鳩の脚に手紙を括り付けた。中立地帯への食糧援助を巡る一触即発の事態。戦へ至るかもしれない、危うい綱渡りの攻防。
——時は来た。
アオイから得た情報を自警団に渡し、自警団で薬師として働く中で得た情報をアオイに流す。そうやって過ごしているうちに、いつの間にか誰より噂話に敏感になり、情報を吟味する癖が身についた。情報の精度が高いということで長はじめ上役に目をかけられて、とんとん拍子に出世した。そうして気がついたら、自警団の間者をまとめる立場になっていた。
しかしそれらの裏舞台は、決してアオイに見せてはならない部分だ。あの脱出行以来、スギは一度も皇帝領に足を踏み入れてはいない。長い種子の時代を経て、今ようやく芽吹き始めたもの。
鳩が持つ書簡は、アオイに皇都への帰還を告げるものだった。満を持しての帰郷。それを伝える文面は特に細心の注意を払って練り上げたものだ。
皇帝の第一子。廃太子。皇都の間者の束ね役。そして——旧友。どの顔のアオイにも、スギの本当の目的を悟られてはならない。
間者になると決めた日から、ずっと己の目的を考え続けて生きてきた。考えて考えて。それでもやはり、答えは出なかった。
何が正しいのか。何をすれば己は満足するのか。何を成せば家族は喜ぶのか。
分からない。だからせめて、後悔しない選択をすることにした。
——生きていて、ほしかった。
父に、母に、祖父に、姉に。あの後結局合流することのなかった、タケにだって。
命を奪うは薬師の禁忌。それでも一人の人間として、かつて確かにあった幸せを奪われた哀しみが、この身を苛む。
手の中の鳩を空に放つ。意外なほどの力強さで、羽ばたいた鳩はふわりと宙に浮かんで遠ざかっていく。目に痛いほどの青空。スギは鳩の姿を追って目を細めた。
薬の匂いと暖かな空気、大量の本の気配。本当にここは、何一つ変わらない。まるでこの十年にあったことが、全て夢か幻であったかのように。
「おかえり、スギ。久しぶりの皇都はどうだった?」
「色々変わってて……正直あまり懐かしいとも思えませんでした」
「そう。あれからだいぶ経ったからね」
昔と変わらぬ笑顔で、アオイはスギをまっすぐに見上げた。けれど細くとも随分上背の伸びたその姿はどう見ても十歳の少年ではない。
そして同様に、アオイの目に映るスギもあの頃と同じではあり得ない。ずっしりと重い外套を纏った、若き薬師。見習いでは持ち得ない自信と落ち着きを持ってアオイと相対する、その表情。
二人の上に流れた時間は、確かにあった現実。だから確かめずにはいられない。
「ところで、一つ聞いておきたいことがあるんだ。今の君は廃太子の忠実な手駒かい? それとも自警団の間者?」
「……僕は貴方の友人です」
「そう。ならいいんだ」
どこか満足そうにアオイは呟いて、薄い瞼を閉じた。その表情を見て、スギは確信する。
——そう、僕たちは紛れもなく友人だ。
書簡のやり取りが最早感傷などではないなど、いつしかお互いが承知していた。お互いがお互いの知りたいことを求めて、少しでも多くの情報を引き出すために行ってきた幾多の駆け引き。成長した太子と薬師は、それぞれの情報戦を命がけで戦い、生き抜いてきた戦士になっていた。だから。
再会の喜びより、お互いが無事であったという事実より。
騙し合いの好敵手が眼前にいるという事実が楽しくてたまらない。そういう意味で、二人は完全に同質の人間だった。
「ねぇ……『いつか』の話をしようよ。君の見てきた世界を教えてほしいんだ」
「いいですけど、引き換えにアオイの話も聞かせてくださいね?」
「ひどいな、太子に見返りを要求するの?」
「僕が土産話をすると約束したのは友人に対してです。畏れ多くも太子様と交わした約束なぞ持ち合わせてはおりませぬゆえ」
アオイが笑った。昔と変わらない、心の底からの朗らかな笑い声。
「じゃあ、待たされた分面白い話を期待してるからね?」
己が裡に秘めた決意を知っても、アオイはこんな風に親しげに話しかけてくるのだろうか。それとも何もかもお見通しで、この親しげな態度を崩していないのだろうか。
分からない。けれどあえて詮索することもしたくない。
「そうですね、ではまず中立地帯で最近流行りの歌でも歌いましょうか」
「スギ、歌なんて歌えるの?」
「ちょっとしたもんなんですよ、これでも」
今はただ、十年ぶりの友人との再会を喜びたい。
——最後に、後悔しない選択をするために。
薬師の名誉も、自警団の誇りも。
己を飾る花など要らない。
家族の、己の幸せの仇を果たすため、人知れず咲く風媒花になろう。
この種子が実を結ぶ時まで、花は花と認められてはならないのだから。
タケの仲間たちの見送りを受けながら、二人は隠れ家の裏口から外へ出た。一晩を経て、氷雨は雪へと変わっていた。灰白の雪片が降りしきる中、二人は裏道を使いながら無言で城門へと向かう。完全に凍りきっていない足元の石畳はざくざくの氷で覆われ、滑りやすいことこの上ない。
どうやら隠れ家はスギの家のあった問屋街からそう離れてはいなかったらしい。家々の連なりの向こう側、見覚えのある近所の屋根の先が視界の端を流れていく。けれど。
もう戻れない。あの場所に。あの家に。
際限なく落ちてくる雪から瞳をかばう風を装って、スギは顔を伏せた。腹の底からこみ上げてくる熱い塊を必死で飲み下しながら、それでもタケとはぐれないよう足を速める。
そんなスギを気遣う様子など微塵もなく、タケは大股で入り組んだ小路を小刻みに折れながらどんどん先へ進んでいく。どうやら目指しているのは南側の城門らしい。中立地帯に繋がる街道に一番近く、人の往来が最も多い皇都の玄関とも言える場所。
「大通りに出るぜ。はぐれるなよ」
ちらとも振り返らず言葉だけを投げかけて、タケは城門を臨む通りに身を滑り込ませた。遅れじと足を速めて、スギも角を飛び出す。
天候が悪いせいか、今日も大路に人影はまばらだった。目的のある者しか外出はしないし、ゆえに皆目的地に少しでも早く到着しようと足早に石畳を横切っていく。
この状況では人波に紛れての脱出はできない。不安に駆られて見上げたタケの横顔はしかし、動揺など欠片も映してはいなかった。スギがきちんとついてきているかさえ確かめず、ぐんぐん城門へと近づいていく。
もう彼に任せるしかない。
そう覚悟して早歩きから小走りに切り替えようとした、その瞬間だった。
そのわずかな音を拾えたのは、どうしてだったのだろう。
耳に残る軋みがふいに背筋をざわめかせた。思わず振り返ると、石畳の遥か先に何か大きな箱形の影が見えた。雪の帳を透かしてさらに目を凝らす。ゆるゆると近づいてくるそれが二頭の馬に牽かせた荷車であると見て取れたのはさらにもうしばらくしてからのこと。完全に足を止めたスギの元へ、馬車はゆっくりゆっくり近づいてくる。
その頃には馬車を御している皇帝軍の兵がラッパを吹き始めた。元々少ない通行人を脇にどかすように。雨雪に顔を伏せる人々の注意をあえて惹きつけるかのように。調子外れの金管が放つ音波はひどく耳に刺さって、乱暴な余波だけを残して灰色の空へと消えていく。
立ちすくむスギの襟首が乱暴に引っ張られた。見上げるまでもなく手の主がタケだということは分かっている。
「おい、勝手に立ち止まるな」
不機嫌な声は再度鳴った耳障りなラッパに遮られた。顔をしかめながらタケはスギを捕まえたまま道の端に寄る。
「ちっ、軍の御用車じゃあ仕方ない。しかし一体何を積んでるんだ」
スギの鼓動が早鐘のように加速していく。同時に血の気が音を立てて引いていき、体温が急激に下がっていく。
確証はない。だが確信があった。きっと、あれは。
ラッパから手を離した兵が露払いするかのように鞭を左右に振った。既にまばらな通行人は皆端に寄って道を譲っている。何事かとぽつぽつと周囲の家や小路から人々が顔を出してきたのを見て、兵は苛立たしげに声を張り上げた。
「寄るな、散れ! 道を空けろ。こいつらみたいに丸焼きにされたいのか」
空気のざわめきを、肌で聞いた。一気に抜け落ちた聴覚、頭の中で自分の鼓動だけが圧倒的な音量で鳴り響いている。外界の音など聞こえない。まばたきも忘れて、食い入るように荷車に載せられているものを見つめる。
馬車はスギの目の前を緩慢な速度で通り過ぎていく。乗用にはされない、荷駄専用の馬なのだろう。念入りな手入れとは言いがたいばさばさの尻尾を振って、二頭の黒鹿毛が重たそうに脚を進める。
馬が牽いている荷車は積載量のみを重視した大きく粗末なものだった。雪よけのつもりだろうか、大きな布で荷車の背全体が包まれている。その布を内側からそれぞれ大きさの異なる包みが持ち上げていた。数は四つ、それはスギがよく知っている人々の大きさとちょうど同じくらいで——
声は出なかった。涙も、叫びも、感情も。ただただ目を見開いて見送るしかできない。
——父さま。母さま。じいさま。サワラ。
包みの一つ一つに呼びかける。声を出せない分、身じろぎすらできない分、叫びは身中で反響しぶつかり合ってスギの拳を震わせる。今ここにある怒りも哀しみも嘆きも悔しさも、自分たちに突然降り掛かったあまりにも巨大な理不尽の前ではただひたすらに無力だった。
無力な自分。無力にしかなれない、自分。
それでも。
生きなければならない。いつか仇を討つ、そのためにも。
「おい、大丈夫か」
ふいに肩を揺さぶられて、スギは我に返った。見上げるとタケが顔を覗き込んでいる。出会って以来初めて、微かではあったが表情に気遣わしげな色が浮かんでいた。
「まさかこんな……丁度行き合うなんてな」
「大丈夫です」
乾いたままの瞳を上げて、スギは城門を見遣った。馬車のラッパを合図に、門扉は大きく開かれていた。今まさに通過しようとしている馬車を見送り、閉じられることなくそのままになっている扉へ視線を流す。どうやら地面の雪で開閉のための溝が詰まったらしい。二、三人の兵士が除雪作業をしているが、復旧にはもうしばらくかかりそうだ。
「それより今のうちに門を出てしまいましょう。さっきの今で、まさかあの事件の関係者が出入りしているなんて思わないでしょうから」
「あ、ああ、そうだな」
凍てついた大気よりなお冷えた眼差しで、スギはまっすぐに城門を見据えて歩み始めた。既に馬車の姿は吹雪の中に紛れて消えている。あの馬車がどこに向かったのか——つまりこれから家族がどこに埋葬されるのかさえ、今のスギには知るすべもない。
震えて頽れそうになる膝をタケに悟らせないよう、必死に己を励ます。何食わぬ顔で城門を通過し、振り返ることなく生まれ育った街を後にする。
——いつか必ず戻る。
もっと実力をつけて。無力な自分ではなくなった時に。
涙は出ない。流せない。今は、まだ。
降り掛かった雪が、凍てつく雫となって頬を流れ落ちた。
旅が順調だったのは最初の一日だけだった。
「ちくしょう……気づかれてるな、完全に」
既に使われていない納屋の裏手。人目につかないそこで歯ぎしりするタケの傍らで、スギは無言で肩の籠を背負い直した。既に無用の長物と成り果てている偽の商売道具ではあったが、ここで手放してはここまで抱えてきた意味さえもがなくなってしまう。せめてあと少しだけ、この嘘は吐き通さねばならない。
中立地帯はもう目の前だ。だが最後の村を抜けることができず、結果半日近くも足踏みを続けている。
皇都を出た後いくつかの村を足早に抜け、初日は農家の軒先を借りて夜を明かした。その時は特に不穏な気配は感じられなかったが、早朝に農家を発った時には既に身辺に監視の目を感じるようになっていた。
追跡者の存在を確信したのは二日目の昼。籠売りの扮装に真実味を加えるため、村人に売り込みをかけた。結局その男が籠を買うことはなかったが、商談が破談になった後、男が旅装束の人物に根掘り葉掘りスギたちの様子を質問されているのを、当のスギ自身が目撃している。
次の村では追跡者は二人に増えていた。街道を歩いている時ですら、どこかから監視されているのが分かる。もうひとつふたつの視線ではなかった。どんどん増えていく目、狭まる網。分かっていても、どうすることもできずただ足を速めて逃れることしかできない。
脱出がどこから知れたのか、という詮索は意味がない。ただ、首尾よく皇都の外に出たはずのスギたちでさえ見つかったのだ。城壁の中に残ったタケの仲間たちも、おそらく無事ではないだろう。タケの表情にも、少しずつ焦りの色が見え始めていた。
ここからが中立地帯だ、という明確な線引きがあるわけではない。けれど漂う空気が変わってきているのは肌で感じられた。凍てついた雪と氷の気配が濃厚な大気に、微かではあるが乾いた草原の匂いが混じりつつある。そういえば中立地帯の住人は定住する村を持たず草原を移動しながら暮らすという。皇都から離れるに従って小さくなっていく集落。旅を始めてから三日、ほとんど追い立てられるように踏み込んだその村の住人から、ここが皇帝領最後の集落だと聞かされた時の安堵感と胸騒ぎ。
果たして自分たちはここまで逃れることに成功したのだろうか。それともここに追い込まれたのだろうか。
タケは今まで以上に籠の売り込みをかけて情報収集に当たっていた。しかしこの村の住人たちの警戒心はこれまでの比ではなかった。余所者を警戒しているというより、これは。
「どうやら先回りされてバラされたみたいだな」
タケの言葉にはまったく同感だった。追跡者は数に物を言わせて触れを先行させ、お尋ね者と思しき二人連れをあぶり出す気なのだろう。皇帝の力が及ばなくなる領域まであとわずか、しかしそこへ逃す気はないということか。
街道沿いに細長く広がる村の出入り口は二つしかない。皇都へ戻る入り口と、中立地帯へ至る出口。出口には当然皇帝軍が詰めていて不用意に近づくこともできない。
村の外には枯れた草原が広がっていた。しかしこの辺りの草は丈が高く、スギの身長と同じくらいまで伸びている上密集している。折からの雪が溶けきらずに積もり、根元を凍らせている現状では、そこをかき分けて脱出するのは至難だった。
故にタケは街道を離れられず、皇帝軍は街道の封鎖を狙う。初代戦士が遺したただ一筋の道、彼の時代から百数十年を経た今でさえ、その道を辿ることでしか行き来することができない現状がこの国にはある。
目の前の真っ白な自由、それを阻む鉄色の壁。越えるためにはどうすればいいのか。
「二手に分かれよう」
追いつめられた目でタケが言った。
「奴らは二人連れを捜している。ちびを連れた若い男をな」
ちびと言われたことは引っかかったが、目を付けられているのがその組み合わせだという点には同意できた。親子というには歳が近すぎ、兄弟というには打ち解けたところのない、若い籠売り二人。
「別行動になったとして、それからどうするんですか。何か目算があるんですか」
「紹介状がある。中立地帯自警団へのな」
ちらりと懐を示したものの、タケはそれを取り出そうとはしない。スギに渡すつもりはないということだろう。
「この村さえ出れば中立地帯だ。街道沿いに行っても皇帝軍に怯えなくていい。堂々と旅ができるようになる」
それは違う、とスギは思う。中立地帯を管理するのは皇帝、つまり皇帝軍だ。確かに遭遇する頻度は下がるかもしれない。だが絶対安全とは言い切れない。その事実を知らないタケに危うさを感じる。
しかし口を開きかけたスギを制して、タケは言葉を続けた。
「街道沿いに何日か行けば自警団の本拠地がある。そこまで紹介状を持って行ければひとまず安心だ。当面の生活には困らないだろう」
つまりは独りでそこまで辿り着けということか。
笑いがこみ上げてきたのはどうしてだろうか。結局この男は最後まで、自分が生き延びるためにスギを利用することしか考えていないのだ。
スギの笑みをどう受け取ったのか、タケは複雑な表情で見下ろしてきた。
「その、何だ……元気でな。本拠地でまた会おう」
「そんなこと、本気で思ってるんですか」
笑いを含んだままの声に、タケが言葉を詰まらせる。見上げて捉えた視線が揺らいでいた。迷い。恐れ。怯え。これで良かったのかと自問している者が見せるあらゆる感情が綯い交ぜになった、不安定な心の裡。
——ああ、この男も良心の呵責を覚えていたのか。
ふっと、肩の力が抜けた。
勿論、この男や仲間がやったことを許す気にはなれない。おそらく一生、許すことなどできないだろう。けれど今、スギが生きてここにいられるのは紛れもなく彼らのおかげなのだ。
仇で、恩人。
もう二度と会うことはないかもしれない。だから。
「ここまで連れてきてくれたことには感謝しています。僕一人では絶対にここまで来れなかった。あなたもどうぞお元気で」
最低限の感謝に、ささやかな祈りを込めて。いっそ嫌い憎みきることができる悪人であれば、もっと楽だっただろうに。
「……俺が先に行く。お前はしばらくここで様子を見ていろ」
別行動になったとて、そう簡単に監視の目を逸らせるわけではないだろう。先に行こうと後に行こうと、危険度は大して変わらない。
スギが頷いたのを確認して、タケが立ち上がった。背中の籠が揺れながら遠ざかり、角を曲がって見えなくなる。
スギは耳を澄ます。どんな音も聞き逃さぬように、どんな危険も見逃さぬように。
それにしても小さな村だ。昼下がりのこの時間、人の行き来が最も盛んになるはずなのに道に人影は見えず、話し声もしない。
それは多分、自分たちという異分子が混じり込んでいるからだ。皇都からやって来たお尋ね者がこの小さな村の日常をかき乱している。
非日常の静けさ。巻き込む側も巻き込まれる側も、息を殺して通り過ぎるのを待つ。
そして、それは来た。
最初は大声での言い合い。それはすぐに激しい口論になり、複数の足音が入り乱れる。剣戟らしき金属の響きが混じる頃には、既にスギは走り出していた。籠を投げ捨て、合羽を着込んだ身一つで村を横断する。目指したのは街道の出口ではなく、村の横に広がる雪原と化した草の海だった。
粗末な家々をすり抜け、壊れかけた柵を乗り越える。たったそれだけで草原はいとも簡単にスギを迎え入れてくれた。
密集する草をかき分け、落ちてくる雪を何度も頭からかぶりながら、必死で前進する。しかし思うように距離は稼げない。やがて追っ手の声が背後から響き始める。やはり丈の高い草に阻まれて前進はままならないようだったが、それでもスギの恐怖を煽るには充分すぎる圧力だった。
草で切り雪でふやけた手は既にぼろぼろだった。それでも不思議と痛みは感じない。ただひたすら、前へ。その思いだけが体を突き動かしていた。
しかし疲労は確実に訪れる。徐々に上がらなくなってきた腕が、自分の体にぶつかる。反動で跳ね返った手が何か固いものに当たった。スギの脇腹のあたり、合羽より薬師の外套より、さらに下に隠されていたもの。
感覚を失った指が探り当てたのは、父からもらった薬師の剣だった。
——これから何があろうとも、決して他者の生命を奪ってはならない。
ためらいなくスギは剣を抜いた。貰いたての頃は持て余し気味だった、分厚い刃。一年を経た今、それは随分手に馴染んで使い勝手も良くなっていた。その刃で眼前を塞いだ草を薙ぐ。手入れを怠ったことのない剣はあっさり草と雪を切り払い、スギの前に道を開いてくれた。
——薬師は生命を救うために在るのだから。
誰かを救うためには、まず自分が生き延びなければならない。父がこれから救うはずだった生命、自分がこれから救うであろう生命。望みも願いも、恨みも憎しみも、生きていればこそ。
生きて、生きて、その先に出す答えがどんなものなのか、今のスギには分からない。けれど、答えを出すためには今ここにある危機を乗り越えなければならない。
スギは再び刃を翳す。傾きかけた陽の光は草の海の底にまでは届かない。徐々に下りてくる闇の帳に包まれながら、ただひたすらに柔らかい壁を薙ぎ払い、先へ進む。
生きる。そのために。
足早な冬の夕陽にも助けられ、奇跡的にスギの逃走は成功した。体力が続く限り草を払い、疲れれば周囲の草を広めに刈って寝場所を作った。湿った下草の寝心地は最悪に近かったが、翌朝無事に目を覚ました時の安堵感は疲労も相まってしばらく立ち上がれないほどだった。
明るいうちに草を刈れば上に積もった雪が崩れて居場所が分かってしまう。かといってここでじっとしていては凍えて動けなくなるのも時間の問題だった。
疲れ果てた手足を励まして、スギは慎重に草を払って先へ進む。時間や方向の感覚などとうの昔に失っていた。
来た方とは逆へ。できるだけ早く、遠くへ。
己の腕はこんなにも重かったか。己の脚はこんなにも上がらないものだった。意識して無視し続けていた疲労を看過できなくなって来た頃、目の前を覆い続けていた草がついに途切れた。
まろび出たのは街道の上だった。皇帝領のそれより手入れが行き届いていない、所々雑草が顔を出している古びた石畳が延々と続いている。左右どちらにも人家は見えず、旅人などの気配もない。
スギは深く息を吐いた。そこが限界だった。膝をつき、崩れるようにその場に倒れ込む。
まだ歩かなければならない。こことて皇帝領からそう離れた場所ではないのだ。できるだけたくさん距離を稼いで、自警団の本拠地を目指さなければ。
しかしもう体が言うことをきかなかった。手は薬師の剣を握ったまま、それを鞘に戻すことすら億劫だった。睡魔の手が優しく瞼を撫でる。寒くてたまらないのに妙にふわふわと心地よくて、このまま眠りに堕ちる誘惑が抗いがたく全身を包み込む。
頬を石畳に押し付けたまま、ゆっくりと目を閉じる。吸い込まれるように意識を手放しかけた刹那、地を揺るがす振動に気づいてわずかに瞼をもたげる。
追っ手か、ただの通りすがりか。おそらくは馬一頭の蹄音が徐々に、しかし確実に近づいてくる。
気づいても、もうスギにはどうすることもできない。抵抗したり隠れたりすることはおろか、体を起こすことすら困難なのだから。
——ここで終わりか。
深く息を吐いて、スギは意識を手放した。満足していたのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。
火の爆ぜる音がした。
同時に暖かい空気を頬に感じて、スギは重い瞼を持ち上げる。最初に目に入ったのは暖かな焚火の橙、そして背景に広がる濃紺の闇。時間を置いて戻ってきた聴覚が間近に大きな獣の身じろぎと呼吸を捉える。微かに混じる金属音は馬具が触れ合う音だろうか。
——馬。
一気にスギの頭が覚醒した。意識を失う直前に聞いた馬蹄の音。馬がいるということは、当然騎手がいる。
「目が覚めたか」
探すまでもなく目の前に現れたのは、見たことのない男だった。分厚い体躯、この季節にも関わらず陽に灼けた肌。表情らしきものがまったく窺えない厳めしい顔で、男は無造作に椀を差し出した。
「食え。温まるから」
椀に入っているのは粥のようだった。久しく摂っていなかった、暖かな食事。わずかに覚えた逡巡は、鼻先をくすぐる匂いを前にあっさりと霧散した。口をつけた椀の中身は火傷しそうに熱かったが、その熱は確実に空腹感を満たし、麻痺していた思考をも目覚めさせていく。
「……ここは」
粥を飲み干したスギを、男はじろりと一瞥した。
「ごちそうさま、が先だ」
「……ごちそうさまでした。ごはんも、ありがとうございました」
重々しく頷いて、男はスギが差し出した椀を受け取った。
「ここは中立地帯の草原だ。お前は皇帝領に近い街道に倒れていた」
男は身振りでおかわりを訊ねる。躊躇いはあったが、今更遠慮しても仕方ないと思い直し、おとなしく二杯目をもらうことにする。
「俺は中立地帯自警団の者だ。皇都からの帰り道でお前を見つけた。お前を拾ってから半日が経った。今は自警団の本拠地へ向かっている」
訥々と現状を説明する男の声には、少なくとも嘘はないようだった。おかわりをよそった椀が差し出され、スギはそれを受け取るために身を乗り出す。椀を受け取った瞬間、つと男の視線がスギの顔に据えられる。
「——薬師か」
思わずびくりと身を竦ませる。無意識に確かめた懐には、きちんと薬師の剣が差されていた。倒れた時には抜き身だったはずの剣。それがきちんと鞘に納められている。つまりこの男にはこの合羽の下の薬師の外套も見られているということ。
この男は皇都から来たと言った。あの暗殺騒ぎを知らないはずがない。
ならば、隠すことに意味はない。
意を決して口を開きかけたスギを、当の男の手が押しとどめた。
「無理に語らなくともいい。あんなところで倒れているのは大概訳ありと決まっている」
それに、と言いながら男はスギに食事を続けるよう身振りで促す。
「自警団は基本的に来る者拒まず去る者追わず。中立地帯に迷惑をかけない限り、たとえ極悪人でも追い出したりはしない——お前にその気があれば、の話だが」
自警団の本拠地は当面の目的地ではあったが、特にその先の展望があったわけではない。後ろ盾が何もない今、どんな形であれ自警団に潜り込めるのであればそれに越したことはない。
「自警団に来る気はあるか?」
男の言葉に、スギははっきりと頷いて見せた。受けて、男が名乗る。
「俺の名はウイキョウ。お前は」
「スギです」
軽く頷いて、無表情に男は告げた。
「明日の昼には本拠地に着く。早駆けになるから今夜はしっかり休んでおけ」
ウイキョウの言葉通り、翌日の正午前には本拠地だと言う岩山に到着した。
道々目にした中立地帯の草原は、海のように広かった。身を切るような冷たい風こそ変わってはいなかったものの、天候は多少回復している。日差しはないが明るい曇天となった空の下、蒸れるだけの合羽は既に荷物の中に括り付けられていた。皇帝領を出た今となっては、どの道薬師の外套を隠す意味もない。
草の海に浮かぶ島のような岩山と、その山腹の内部に設けられた本拠地。岩肌を直接くり抜いて造られたそこは、秘密基地めいた印象をスギに抱かせた。
——まずは長に帰還の報告をしてくる。俺が呼ぶまでここで待て。
ウイキョウが言い置いて姿を消した後、所在なく通された部屋を見回す。そこは普段から控え室として使われているらしく、簡素な椅子と卓があった。扉がなく廊下が直接見える以外は取り立てて特徴のない部屋。
とりあえず椅子にかけてみる。木製で古びたそれは、お世辞にも座り心地がいいとは言えない。
すぐ横手は岩肌が剥き出しの壁だった。削り跡が荒々しく残された壁は遥か上方で明かり取りの窓が開いていて、そこから曇天の乏しい光が弱々しく降ってくる。昼日中のことで他の明かりはない。
見るともなしに窓を見上げていると、ふいに視線を感じた。振り向くと廊下から部屋を覗き込んでいる子供と目が合った。黒髪の、スギと同年代くらいの少女。印象的な紫の瞳を見張って、少女は呟いた。
「新しいきょうだいだ」
「……? どういう」
訊き返そうとした時、廊下の暗がりから伸びてきた手が少女の頭を軽く小突いた。
「まだそうと決まったわけじゃない」
「ススキ」
突かれた頭を押さえながら少女が振り返った先には、やや年かさの少年がいた。既に青年と言っても差し支えのない程度に大人びた雰囲気を持った彼は、スギを一瞥してすぐに目を逸らし、少女の腕を引いた。
「行くぞ。午後の稽古だ」
「えー、もう少し休もうよー」
「だめだ」
引っ張られて、少女の姿はあっさりと戸口から引きはがされる。結局スギが一言も発する隙もなく、二人は廊下の奥に姿を消してしまった。
呆気に取られているうちに、入れ違いにウイキョウが顔を覗かせた。
「どうした」
「あ……今、子供が」
軽く眉を上げて、ウイキョウはスギについてくるよう合図した。
「会ったのなら話は早い。説明は長からする」
説明も何も、と首をひねりながらもスギはウイキョウについていく。いくらも行かないうちに厚手の布で仕切られた部屋の前で大きな背中は立ち止まった。
「長、入ります」
声をかけてたくし上げた布を、ウイキョウが思いの外機敏な動作で潜る。続いて部屋の中に身を滑り込ませたスギの目の前、いきなり至近距離で人の顔に出迎えられて思わず飛び退った。
「う、わっ」
「ふむ、なかなか良い反射神経だ」
壮年を過ぎ老齢に差し掛かる頃合いだろう、日焼けした肌に幾条にも皺を刻んだ男がかがみ込んでスギの顔を覗いていた。どうやら待ち伏せをしていたようだ。
「長」
呆れた声音はウイキョウのもの、からからと笑いながら老人は身を引いた。
「いや、失敬失敬。この歳になるとなかなか楽しみも少なくなってな」
「だから初対面の相手を脅かしてもいいというわけではないでしょうに」
「結果的に驚かせただけで最初からそれを狙っているわけではないわい」
老人は部屋を横切ってウイキョウの前を通り、奥の壁際に積まれた大量の藁にどすんと身を預けた。無造作に積まれているようで、実は座り心地が良いように調節されているらしい。見るからにふかふかの背もたれに寄りかかりながら、老人は改めてスギを見遣った。
「さて少年よ。ここの大男がさっきから何度も言っているからもう分かっておるとは思うが、わしがここの一番偉い人じゃ」
「……はぁ」
「気の抜けた声じゃな。ほれ、おぬしもさっさと名乗らぬか」
「スギ、です」
ひとつ頷いて、長はスギの外套を示した。
「見たところ薬師の修行の途中のようだが。何年くらい修練を積んだのかのう?」
「一年です」
「師匠の腕は良かったか?」
「それはもう」
「薬師の修行は続けたいか?」
「はい」
スギの答えに、長は思いの外優しい顔で笑って見せた。
「良い答えじゃ。ならばここの薬師に話を通しておこう。明日から教えを乞いに行くといい」
「明日から?」
「そうじゃ。おぬしは今からわしの子供になる」
——新しいきょうだいだ。
思い出したのは先程の子供の言葉。もしやあの二人も。
「拾い子、と言ってのう。故あって親とはぐれた子供を育てるためのここでの仕組みじゃ。慣習のようなもんじゃからな、特に見返りも要らぬ。安心して立派に育て」
そのまま長はウイキョウへと目を向ける。
「後で薬局に案内してやるといい。おぬしの部屋からの道順も忘れずにな」
「何故俺の部屋からの」
「形式上はわしの拾い子ということになるがのう。やはり生活の面倒はおぬしが見てやらぬと無責任であろう。拾い主なのだからな」
「俺はてっきり今までの拾い子と同じように長自ら育てるものかと」
「冗談は休み休み言え。ススキの屁理屈とシオンのじゃじゃ馬だけでも手一杯だというのに、さらにもう一人なんてこの老体には無理だわい」
「だからって……!」
「そう言わずに、頼む」
長は立ち上がって、目の高さにあるウイキョウの肩をぽんと叩いた。
「それとも何か? せっかくの新婚生活に水を差されたくはないか?」
「……っ」
「気持ちは分かるが、しかしそうなると困ったのう。この薬師の卵を受け入れたくとも宿舎と保護者が決まらぬとなるとどうにも落ち着かぬ」
「薬師の、老師のところなどは」
「……おぬし、正気か?」
ウイキョウの沈黙に傍で聞いているしかないスギは不安を覚える。明日から世話になるという薬師は一体どんな難物なのか。
「他の者どもも今は養い子を増やせる状況ではないのだよ。子供もおらぬ、養い子もおらぬというのはおぬしくらいのものだからのう」
沈黙の末、ウイキョウはついに長く息を吐き出した。
「……わかりました。俺が責任を持ってお預かりいたします」
「うむ、頼んだぞ。ほれ、おぬしも挨拶」
自分の頭上で何かが決着したらしいことに困惑しながら、改めて傍らの大男を見上げる。同様に見下ろしてくる瞳の奥の、わずかな戸惑い。無表情に隠された感情に、ふいにスギは悟った。
——ああ、この人、まだ若いんだ。
無口さと大柄な体躯のせいで老成して見えるが、よく見ると顔はそう老けていない。新婚だと言っていたが、実の子供もいないうちにスギのような年齢の養子を押し付けられては困惑もするだろう。
そんなことを思いつつ、同時にスギはそんな風に周囲を観察できる余裕が戻ってきたことにも気づいていた。わずかずつでも、住み慣れた場所を追われた衝撃から立ち直りつつあるのだろうか。
分からない。けれど。
少なくとも今は、新しい環境に慣れる努力をしようという気分にはなっていた。
「改めて、ウイキョウさん。これからどうぞよろしくお願いします」
「……ウイキョウで、いい」
不器用に挨拶を交わす二人を、からからと笑いながら長が見守っていた。
その後、ウイキョウの部屋に向かう長い廊下の途中で拾い子について質問した。どうやらウイキョウ自身もかつて拾い子として保護されたらしい。
「中立地帯にはみなしごが多いからな」
この発言には薬師として反応せざるを得なかった。病気で親を失う場合が多いのか、それとも他に要因があるのか。
そう問うとウイキョウは少し驚いた表情をした。
「随分仕事熱心だな」
栄養不足や疫病、盗賊の跋扈、事故や天災。ウイキョウが語る中立地帯の人々の死の原因は、翻して見ればどれも薬師の不足を窺わせるものだった。
自分の能力は確かに、ここで必要とされている。ならば、できる範囲でできることをするだけだ。今、半人前なのは仕方がない。だからできるだけ早く一人前になれるよう、せめて成長することにだけは貪欲でありたい。
「——これ以上は俺では分からん。後で薬師のところに連れて行ってやるから、詳しいことはそちらに訊け」
スギの質問攻めにさすがに音を上げたのか、ウイキョウが少し足を早めた。
「当面必要なものはこちらで用意する。身の回り品以外に何か欲しいものはあるか?」
何も、と言いかけて、スギはふと動きを止めた。
「伝書鳩なんて、いますか?」
「鳩? どこへ宛てるものだ?」
「……皇宮へ」
ウイキョウの眉が鋭く上がった。
「皇宮に知り合いがいるのか?」
スギは迷った。アオイとの関係を正直に話すか。いや、まだそこまで話すほどにはウイキョウを信用することはできていない。
だからスギはただ頷くに留めた。
「無事を知らせたい人が一人だけいるんです。僕は生きてるって」
しばらく考えていたウイキョウだったが、やがて了承の頷きを返した。
「わかった。なんとかしてみよう」
ウイキョウがふいに足を止める。長の部屋と同様、分厚い布が下げられた入り口の前だった。
「ここが俺の家だ。入れ。妻を紹介しよう」
中立地帯の薬師の下での仕事は、やはり家にいる頃とは勝手が違った。怒鳴り癖のある老薬師の下、棚の薬種の配置や患者の名前を覚えるだけで手一杯の毎日。くたくたになってウイキョウ宅へ帰り、そのまま倒れ込むように眠ることを繰り返す。頼んでいた鳩の鳥籠を渡されたのはそんな時だった。
疲れているのは変わらないのに、机に向かう気になれたのはどうしてだろう。檻越しに既に眠っている鳩の羽を指で一撫でし、乏しい?燭の灯の下で筆を執る。
いざ書こうとすると、たくさんの顔が、光景が、とめどなく脳裏をよぎった。城門の外に運び出された家族たち。穀物商の老夫婦。あられ屋の夫婦。皇帝領最後の村で別れ別れになって以降、生死も分からないタケ。自警団の人々。それらの断片をくぐり抜けて。
——僕は生きている。
ただ、それだけを伝えたい。向こうは既に心配などしていないかもしれない。何せスギは父帝を弑する計画に加担した反逆者一家ということになっているのだから。それでも。
信じてほしい。知っていてほしい。自分たちの身の潔白を。自分が無事であることを。
アオイにだけは。
書き上げた手紙には、詳しいことは何一つ書かなかった。
書けなかった。
途中で鳩が捕まって手紙を盗み見られたら。或いはアオイが皇帝軍を動かし、追っ手をかけられてしまったら。
何より、書くためにはその光景を思い出さなければならなかったから。
恐れと痛み。何度も筆が止まり、書き損じだけが増えていく。
結局ごく短く、こう書いた。
——無事です。中立地帯で、生きてます。
書き上げた頃には、うっすらと空が白み始めていた。冬の日の出は遅い。仕事開始の時間がすぐ傍に迫っていた。慌ててスギは目を覚ましたばかりの鳩の脚へ手紙を括り付ける。そのまま片手で鳩の身体を掴んで、空いた方で明かり取りの窓を細く開けた。
今日も冷えたようだ。窓の隙間から容赦なく凍てついた空気が流れ込んでくる。しかし鳩は広い空間へ出られるのが嬉しいのか、特段嫌がる様子もなくくるる、と喉を鳴らして飛び立って行った。
北へ。皇都へ。
返事など期待していなかった。鳩が戻ってこない可能性すら、考えていた。
しかし五日で鳩はスギに与えられた部屋の窓辺へと戻ってきた。期待と諦観、相反する気持ちで探った脚には、きちんと返信が結わえられていた。
懐かしい友の字で綴られた言葉。まずスギの無事を喜ぶ内容が書かれていたことに腹の底から溜息を吐いた。壁に背中がぶつかり、そのままずるずると床に座り込む。
震える指で続きを辿る。皇都での粛正は一段落したこと、アオイ自身の健康と弟たちに変わりはないことが綴られていた。淡々と事実だけが紡がれる言葉。ただそれだけのことなのに、どうして涙が止まらないのだろう。
信じてくれた。その事実がこんなにも、嬉しい。
目元を拭って、改めて手紙に目を落とす。文字列を追う瞳が、最後の一行で動きを止めた。息を詰めて、もう一度読み直す。
——『いつか』の約束を、覚えていますか?
アオイは何より情報を欲している。己の力にするために。己が生きていくために。中立地帯自警団の内実。それはあの病身の皇太子にとって、どれほど価値のある武器になるだろう。
鼓動が加速するのが分かった。皇宮の最奥に住まう皇太子に、ここでの暮らしを伝える。それは己に居場所をくれた自警団に対する裏切りではないのか?
「返事が来たのか」
ふいにかけられた声に、必要以上に肩が跳ねた。慌てて顔を上げると、入り口にもたれたウイキョウが難しい顔でこちらを見ていた。
反射的に手紙を背後に隠す。自然と目線はウイキョウから逸れた。後ろめたいことはまだ何一つしていない。だが堂々と目を合わせることも、今はできなかった。
そんなスギをウイキョウは目を細めて観察している。わずかな沈黙を挟んで、低くウイキョウは口火を切った。
「まさか、本当に皇宮から返事が来るとはな」
思わずスギは目を閉じた。疑われている。ゆっくり歩み寄ってきたウイキョウが、目の前でかがみ込んだ。
「スギ、諜報という言葉を知っているか」
聞き慣れない単語。しかしおぼろげに意味は理解できた。先程探り当てた裏切りという言葉の手触りと、とても良く似た響き。
「中立地帯がどうして中立でいられるか、知っているか」
力なく首を振る。先程自分がしようとしたこと、あれは諜報という行為になるのだろう。それはおそらく罪だ。露見したなら罰が下る。相手が今の後ろ盾でもあるウイキョウなら尚更だ。誰も庇ってくれる者などいない。
「中立地帯にとって、有益な情報をいち早く入手するために皇都、王都それぞれに間者を放って情報を集め分析する。それが自警団の諜報だ」
動揺しているせいでウイキョウの言葉は耳に入っていても意味を理解することが難しかった。自然、聞き流す形のままスギはうなだれて黙っている。
「自警団の生命線とも言える活動だから、それなりに規模や人員は割いているのだが。しかし、皇宮内部と直接繋がる人脈を持てたのは初めてだ」
ウイキョウの大きな手がスギの肩にかけられた。
「スギ。諜報術を学ばないか?」
「……え?」
意外な言葉に思考がついていけなかった。ゆるゆると上げた視界がウイキョウの真剣な瞳とまともにぶつかる。
「実はお前が皇宮への鳩を欲しがった時から考えていた。本当に返事が来たら誘ってみろと、長にも言われている」
「でも……僕はいつかあなたたちを裏切るかもしれないですよ」
先程のように。
ウイキョウは瞼を閉じた。しかしすぐに目を開き、低い声で告げる。
「お前は皇帝に恨みを持っているはずだ」
ウイキョウの瞳は刃の光を宿していた。それは決して保護者として世話を引き受けた少年に向けるものではなかった。敵か味方か、その境界線にいる相手に向けられる真剣の鋭さ。思わずスギは息を呑んだ。
「一矢報いることができるなら、そう思ったことがあるだろう。その機会があるのなら、その瞬間が来たならば。そう思わなかったことがないわけがない」
やはりウイキョウはあの事件を知っていたのだ。件の薬師一家の生き残り、そうと知ってスギを助けたのだ。
利用価値があると知っていて。
「お前が皇宮と繋がっているとは意外だったが……そのつながりは利用できる。自警団にとって有益だ」
ふいに笑いがこみ上げてきた。
なんだ。タケだけではなかった。ウイキョウも、長も、アオイでさえも、あの手この手でスギを利用しようとする。
ならばスギが自分の目的のために彼らを利用して、何が悪い。
「分かりました」
「スギ……?」
急にくつくつ笑い始めたスギを、ウイキョウが怪訝そうに覗き込む。その手を静かに肩から払って、スギは顔を上げた。薬師が診察の時に見せる、笑顔という名の無表情で。
「僕の力でお役に立てるなら。まずは何をすればいいですか? 取り急ぎこの手紙に返事をと思っているのですが、何か書き添えることはありますか?」
己の目的とは何だろう。家族の仇討ちか、それとももっと別の何かだろうか。今は答えが見つからないそれを見つけるためにも、まずは生きなければならない。だから。
生きるために、間者になる。
翌朝、窓から放たれた鳩の脚に括り付けられた手紙。末尾にはこう書かれていた。
——当分皇都には帰れない。だからせめて、懐かしい街の話をなるべく詳しく教えてくれないか。
凍てついた東雲の空を、鳩はただ一心に飛んでいく。
**********************
それから、十年。
あの夜、止まっていた時が動き出した。
国王レンギョウと第二皇子アサザの偶然の邂逅。そこに自警団が、自分が居合わせたのは偶然か、必然か。
スギは慣れた手つきで皇都へ放つ鳩の脚に手紙を括り付けた。中立地帯への食糧援助を巡る一触即発の事態。戦へ至るかもしれない、危うい綱渡りの攻防。
——時は来た。
アオイから得た情報を自警団に渡し、自警団で薬師として働く中で得た情報をアオイに流す。そうやって過ごしているうちに、いつの間にか誰より噂話に敏感になり、情報を吟味する癖が身についた。情報の精度が高いということで長はじめ上役に目をかけられて、とんとん拍子に出世した。そうして気がついたら、自警団の間者をまとめる立場になっていた。
しかしそれらの裏舞台は、決してアオイに見せてはならない部分だ。あの脱出行以来、スギは一度も皇帝領に足を踏み入れてはいない。長い種子の時代を経て、今ようやく芽吹き始めたもの。
鳩が持つ書簡は、アオイに皇都への帰還を告げるものだった。満を持しての帰郷。それを伝える文面は特に細心の注意を払って練り上げたものだ。
皇帝の第一子。廃太子。皇都の間者の束ね役。そして——旧友。どの顔のアオイにも、スギの本当の目的を悟られてはならない。
間者になると決めた日から、ずっと己の目的を考え続けて生きてきた。考えて考えて。それでもやはり、答えは出なかった。
何が正しいのか。何をすれば己は満足するのか。何を成せば家族は喜ぶのか。
分からない。だからせめて、後悔しない選択をすることにした。
——生きていて、ほしかった。
父に、母に、祖父に、姉に。あの後結局合流することのなかった、タケにだって。
命を奪うは薬師の禁忌。それでも一人の人間として、かつて確かにあった幸せを奪われた哀しみが、この身を苛む。
手の中の鳩を空に放つ。意外なほどの力強さで、羽ばたいた鳩はふわりと宙に浮かんで遠ざかっていく。目に痛いほどの青空。スギは鳩の姿を追って目を細めた。
薬の匂いと暖かな空気、大量の本の気配。本当にここは、何一つ変わらない。まるでこの十年にあったことが、全て夢か幻であったかのように。
「おかえり、スギ。久しぶりの皇都はどうだった?」
「色々変わってて……正直あまり懐かしいとも思えませんでした」
「そう。あれからだいぶ経ったからね」
昔と変わらぬ笑顔で、アオイはスギをまっすぐに見上げた。けれど細くとも随分上背の伸びたその姿はどう見ても十歳の少年ではない。
そして同様に、アオイの目に映るスギもあの頃と同じではあり得ない。ずっしりと重い外套を纏った、若き薬師。見習いでは持ち得ない自信と落ち着きを持ってアオイと相対する、その表情。
二人の上に流れた時間は、確かにあった現実。だから確かめずにはいられない。
「ところで、一つ聞いておきたいことがあるんだ。今の君は廃太子の忠実な手駒かい? それとも自警団の間者?」
「……僕は貴方の友人です」
「そう。ならいいんだ」
どこか満足そうにアオイは呟いて、薄い瞼を閉じた。その表情を見て、スギは確信する。
——そう、僕たちは紛れもなく友人だ。
書簡のやり取りが最早感傷などではないなど、いつしかお互いが承知していた。お互いがお互いの知りたいことを求めて、少しでも多くの情報を引き出すために行ってきた幾多の駆け引き。成長した太子と薬師は、それぞれの情報戦を命がけで戦い、生き抜いてきた戦士になっていた。だから。
再会の喜びより、お互いが無事であったという事実より。
騙し合いの好敵手が眼前にいるという事実が楽しくてたまらない。そういう意味で、二人は完全に同質の人間だった。
「ねぇ……『いつか』の話をしようよ。君の見てきた世界を教えてほしいんだ」
「いいですけど、引き換えにアオイの話も聞かせてくださいね?」
「ひどいな、太子に見返りを要求するの?」
「僕が土産話をすると約束したのは友人に対してです。畏れ多くも太子様と交わした約束なぞ持ち合わせてはおりませぬゆえ」
アオイが笑った。昔と変わらない、心の底からの朗らかな笑い声。
「じゃあ、待たされた分面白い話を期待してるからね?」
己が裡に秘めた決意を知っても、アオイはこんな風に親しげに話しかけてくるのだろうか。それとも何もかもお見通しで、この親しげな態度を崩していないのだろうか。
分からない。けれどあえて詮索することもしたくない。
「そうですね、ではまず中立地帯で最近流行りの歌でも歌いましょうか」
「スギ、歌なんて歌えるの?」
「ちょっとしたもんなんですよ、これでも」
今はただ、十年ぶりの友人との再会を喜びたい。
——最後に、後悔しない選択をするために。
薬師の名誉も、自警団の誇りも。
己を飾る花など要らない。
家族の、己の幸せの仇を果たすため、人知れず咲く風媒花になろう。
この種子が実を結ぶ時まで、花は花と認められてはならないのだから。
<2012年10月23日>
完全に不意打ちだった。まさかというタイミングでの、完璧な襲撃。
「おにーちゃんおそーい」
傲岸不遜に言い放った幼女は、玄関にひっくり返ったままの僕の腰骨の真上によじ登ってふんぞり返った。間違ってもこれは妹では、ない。十歳違いの兄の一人娘、つまるところ姪っ子だ。
「レディをまたせるなんて、どういうつもり?」
「あーはいはい申し訳ございませんねー」
クソ兄貴が一体どんな教育してやがるんだ。
僕は小さなレディの身体を丁重に、しかし有無を言わせず脇へどかした。底冷えのする玄関タイルからようやく腰を上げて、素早くスニーカーを放り捨てる。さっきはここで片足立ちになったところを襲われた。もう僕に油断はない。
靴を脱ぐより先に荷物を上げておいて良かった。上がり框に置いておいた特大ビニール袋二つを持ち上げると、中の一つから微かに小瓶が触れ合う音が響く。これを持った状態でタイルに転がされていたら……考えるだけで恐ろしい。
「おにーちゃんだめだよー。くつはちゃんとそろえなきゃ」
「揃えといてくれよ。僕は今両手いっぱいだ」
「えー」
「お前がとんでもないところで飛びついてくるからだろ。もしこの袋の中の瓶が割れて玄関を汚したりしたらどうなったよ?」
「おかーさんがおこる」
「そうだ。やだろ」
「やだ。こわい」
さすがしっかり者の義姉は娘にちゃんとした躾をしているらしい。義姉の名が出た途端にしゅんとなった姪っ子がスニーカーを揃えるのを横目で見ながら、僕は兄夫婦のマンションに上がり込んだ。
彼らの結婚以来、数えきれないくらい来ている場所だ。勝手知ったる何とやら、僕はまっすぐキッチンを目指した。対面式のダイニングは義姉のこだわりで選んだもので、広くはないが決して狭くもない。
既にキッチンを借りる旨、義姉と話はついている。流しの真上の電灯を点けながら、後ろについてきていた姪っ子に声をかけた。
「おい、茶の間も明かりくらいつけろよ。暗いじゃないか」
「だって、とどかないよ」
ちらりと壁面のスイッチに目を向ける。確かに四歳児には難しい高さだ。しかし真下に置かれた幼児用の椅子、あれに乗ればぎりぎり届かなくはない、はずだ。
様子を窺う姪っ子の視線が横顔にちらちら当たる。僕は黙ってスイッチに歩み寄り、電気を点けた。椅子には気づかないふりをしてキッチンに戻る。
「……カーテンくらい一人で閉めれんだろ」
「……うん!」
大層嬉しそうに姪っ子は窓辺に駆け寄った。視界の隅を掠めたデジタル時計の表示は午後五時。カーテンレールがやけに反抗的な音を立てているようだが、それには構わず僕はコートを脱ぎ、持参した袋の中身を取り出す作業に移った。
真っ先に取り出したのは七面鳥だ。頭や内臓が取り除かれた冷凍品だが2kg以上はある大物だ。このでかぶつを僕の狭いワンルームで解凍して、わざわざ持ってきてやったのだ。兄貴はもっと僕に感謝してもいいと思う。
「うわ、何、それ?」
生の七面鳥を見るのは初めてらしい。カーテンとの格闘を終えてキッチンに顔を出した姪っ子がぎょっと身を竦ませる。
「君のおとーさんのリクエスト。気持ち悪いならあっちで遊んでな」
手早く自前のエプロンを身に着ける。普段はきちんとしたものを身につけるが、今日は完全にプライベートだ。一目で気に入って衝動買いした黒のギャルソンエプロン。うん、やっぱりテンションが上がる。
シンクに置いた七面鳥の包装を解いて、流水で丁寧に全体を流していく。脇を洗おうと手羽を引き延ばした時、あっと向かい側で声が上がった。
「ハネだ」
見るといつの間にか姪っ子がカウンター越しにシンクを覗き込んでいた。食卓用の椅子の上にでも乗っているのだろう。
「そう、手羽先だな」
「ホントにトリなんだ」
さっきまで気味悪がっていたのが嘘のように、むき出しの好奇心で七面鳥を眺めている。その視線に僕の方が居心地の悪さを感じてしまう。
「あー……今はこっち見るな。ちょっとあっち向いてろ」
「どうしてー?」
「……これから腹の中を洗うから」
「おなかのなか?」
僕は黙って七面鳥の腹を押し開いた。うひゃあと変な声を上げて、シンクの向こうの幼女は顔を引っ込めた。
実際にはらわたが詰まっているわけではないから、そんなにグロいものではない。少なくとも僕にとっては。手早く、しかし丁寧に体腔を清め、鍋に張った塩水に浸ける。持参した青ねぎを適当に切って投入、蓋を閉じてとりあえずガスレンジの上へ置いておく。仕上がりが水っぽくなるのを防ぐため、七面鳥が常温になるまでこのまま放置しなければならない。
七面鳥の梱包材をゴミ箱に片付けて、もう一つのビニール袋から持参したスパイス類を取り出す。ついでに冷蔵庫の中身もチェック。
玉ねぎ、セロリ、パセリ。予め義姉に頼んでいた食材は全て完璧に揃っている。さすがだ。
さらにコーラの1.5Lペットボトルが冷えているのも発見した。オーブンレンジの前にはこれまた頼んでおいたもち米が入ったビニール袋が置かれ、義姉のメモが載っている。
『イブに手間のかかる仕事をお願いしちゃってごめんね。コーラ全部飲んでもいいよ』
何故こんないい人が兄貴なんかの嫁になったのか心底疑問だ。
「ねーおなかすいたー」
幼い声が下らない自問を粉砕した。お姫様のご要望とあらば致し方ない。一旦作業を中断し、玉ねぎのみじん切りを高速で作成する。フライパンを熱しオリーブオイルでガーリック少々を炒め、軽やかに玉ねぎを投入。
「うわー、いいにおい」
再びカウンターの向こうから幼女が顔を出す。冷蔵庫から冷や飯とケチャップ、卵を取り出して振り返ると、姪っ子が目を丸くしてこちらを見つめていた。
「おにーちゃんエプロンしてるー。すごーい、コックさんみたーい」
どうやら腰から下がシンクに隠れて彼女の位置からは今まで見えていなかったようだ。くっ、それだけ僕の脚が短いということか。
「みたいじゃなく、コックさんなんだよ一応」
……まだ学生だけどな。
「そっかー、かっこいいねぇ」
ストレートにそう言われると悪い気はしない。思わず緩みそうになる口許を隠しながらフライパンに冷や飯を投入する。
「そういやこないだ持ってきてやったシュトレンはどうした?」
「もうとっくになくなっちゃったよ。おとーさんがばくばくたべちゃった」
あんのバカ兄貴。
鼻白んだ気配を感じたのか、姪っ子が僕の顔色を窺うように首を傾げた。
「ごめんね? あれ、おにーちゃんのかのじょさんがつくってくれたんだよね?」
「……誰がそんなこと言った」
「おかーさん」
……義姉さん。
ケチャップに涙が混入しないよう、僕は細心の注意を払ってチューブを絞った。
「ねー、かのじょさんはクラスメートなの?」
僕は調理科、向こうは製菓科。この場合、クラスメートとは言わないだろう。
「……違うよ」
「ふーん。でも、どうきゅうせいなんでしょ?」
「……はい」
「ふーん」
ケチャップライスに仕上げの塩胡椒を振って皿に盛る。別のフライパンを熱している間にボウルに卵を割り入れ、手早くほぐす。
「がっこう、たのしい?」
「まぁね」
じゃっと音を立ててフライパンが卵を受け止めた。火加減に気をつけながら形を整え、半熟のままケチャップライスに載せる。
「ほれ、お待たせ」
皿を差し出してやると、姪っ子はぱあっと瞳を輝かせた。
「オムライスだぁ」
嬉々として黄金色の山の攻略に取りかかった幼女をそのまま捨て置いて、僕は手早く二つのフライパンを洗浄した。うち一つをガスレンジに残して、再び玉ねぎをみじん切りにする。
そう、次は七面鳥の詰め物の作成だ。
玉ねぎ、パセリ、セロリ。香味野菜のみじん切りがあっという間に山を成す。ついでにもち米も軽く研ぎ、笊に上げて水を切っておく。
それからフライパンを火にかけ、バターで野菜のみじん切りを炒めていく。本当はここで七面鳥の内臓も一緒に入れるといい味になるのだが、今回はお子様がメンバーにいるので省略した。
そのお子様が大発見をしたかのように突如頓狂な声を上げた。
「おにーちゃん、このオムライス、おにくがはいってない!」
「いいだろ別に。鶏肉はこれから腹一杯食うんだから」
「えー」
カウンターの向こうでブーイングは続いていたが、さらりと無視して僕はもち米をフライパンに流し込んだ。白い粒が徐々に透明度を増していくのを見守りながら、木べらで丁寧にかき混ぜる。
焦げないように火加減を調整しつつ私物のローズマリーやタイムを調理台に並べていると、姪っ子が空になった皿を下げに来た。
「おにーちゃん、まだあそべない?」
「まだだな。今手が離せないから」
肩を落として姪っ子はキッチンから出て行った。カウンター越しに見ると、茶の間は随分派手に散らかっているようだ。こちらが調理にかかり切りになっている間に広げたのだろう。どうやらお姫様のマイブームはお絵かきらしい。スケッチブックが無造作に広げられ、色とりどりのクレヨンや色鉛筆がこれでもかとフローリングに散らばっている。
「待ってる間に少し片付けとけよ。空いた場所にツリーを飾ってやるから」
「……うん!」
兄夫婦が姪っ子を溺愛しているのは間違いない。だが二人とも忙しすぎるせいで、姪っ子はすっかり待つことに慣れてしまっている。
だから余計に僕に懐くのだろうけれど。
フライパンに投入した米全体が半透明になったのを見計らって、水とハーブ類を入れ蓋を閉める。火を弱めておけば、適度に炊きあがるまでこのまま放置できる。
待つ間に塩水につけておいた七面鳥を取り出す。水気を丁寧に拭き取り、調理台の上へ置く。義姉のクッキングペーパーを大量に使ってしまったから、後で補充しておかなければ。
存在感のある七面鳥に、塩と粗挽きペッパー、おろしにんにくを擦り込んでいく。とっておきの高級塩がどんどん減っていくのが悲しいが、致し方ない。
作業が一段落して手を洗っているところで、姪っ子が台所にやって来た。ついにしびれを切らしたらしくエプロンの裾を握ったまま放そうとしない。
「おかたづけ、おわった」
見ると、先程までカオスに覆われていた茶の間は見事にコスモスを取り戻していた。
「色鉛筆は全色ちゃんとあったのか?」
「うん」
「よし、いい子だ」
これ以上は引き延ばせそうにない。ちょうど米も炊きあがる頃だ。今のタイミングなら、多少手を離しても問題はないだろう。
ガスレンジの火を消して、僕は姪っ子の頭に手を置いた。
「お待たせ。ツリーやるぞ」
「……うん!」
転げるように走っていく姪っ子を追いかけながら、僕はちらりとスマホの画面に目を走らせる。いつの間にか七時を回っていた。
姪っ子の先導で辿り着いたクローゼットからツリーと飾り一式を引っ張り出して茶の間へ運ぶ。綺麗に片付いたカーペットの上でまずプラスチックの人造木を組み立てた。
「ふわふわ~」
上機嫌で姪っ子が雪に見立てた綿をちぎって枝に載せる。僕は色とりどりの電飾を箱から引きずり出して木にぐるぐる巻き付けていく。
「きらきら~」
綿がなくなると姪っ子は星や金銀の球体といった飾り物を枝に引っ掛け始めた。僕も手伝って、小さな樅の木はあっという間に煌びやかに飾り立てられていく。
最後に残ったひときわ大きな銀色の星をツリーの一番上の梢に差そうとすると、姪っ子が背伸びして手を伸ばして来た。
「あたしがやるー」
「はいはい」
最後の飾り物を取られると、仕上げまで横合いから攫われたように感じるのだろう。僕は姪っ子の手に星を渡し、小さな身体を抱き上げた。まだ赤ん坊のシルエットを残したふくふくの手が、さくりと音を立てて星を枝に差し込んだ。
お姫様の満足そうな横顔を確認して、僕は彼女を下ろした。代わってツリーを抱え上げ、邪魔にならない壁際まで移動させる。続けて電飾の線をコンセントに差し込んだ。
「うわぁ」
ぱかぱかと点滅を始めたLEDに、姪っ子が目を丸くする。
「触るなよ」
「ふぁーい」
姪っ子がツリーに心奪われている隙に、僕はキッチンへ戻る。放置していたフライパンの蓋を開けると、もち米はふっくらと炊きあがっていた。香草を取り除くついでに軽くかき混ぜ、味見をする。
……うん、悪くない。
七面鳥の様子を確認する。塩まみれだった表面が、今はしっとり艶を帯びてライトの光を照り返している。
仕込みの首尾に頷きながら、僕は七面鳥の腹を開いた。中の空間に木べらとスプーンを使ってもち米を隙間なく詰めていく。
「おにーちゃんあそんでー」
「だめ。おとーさんが帰ってくるまでにこいつを焼き上げなきゃならないからな。今何時になったか分かるか?」
七面鳥をタコ糸で縛りながら訊く。
デジタル表示なら四歳児でも読めるかもしれない。果たしてカウンターによじ上りかけていた姪っ子は一旦椅子の登頂を諦めて、時計を覗き込んだ。
「んとねー、しちじごじゅっぷん」
「おーやっぱあんま時間ないな。ありがと」
昨夜聞いた兄貴の帰宅予定は夜の十時。義姉も似たり寄ったりのはずだ。七面鳥の焼き上がりまで二時間ちょっと。ぎりぎりだ。
冷蔵庫からバターを取り出す。オーブンレンジで加熱して溶けたそれに、チンを待つ間に切っておいたレモンの汁を絞り入れる。加えて食器棚の中で一際威張っていたVSOPを取り出し、それも無造作に注ぐ。既に開封されているにも関わらずほとんど減っていないところを見ると、どうせ兄貴がカッコつけて購入したきり放置されている可哀想な酒なのだろう。活躍の場ができて良かったな。
ここから先は時間との勝負だ。オーブンを最高温度に設定し余熱。天板に七面鳥を載せ、うちから持ってきた刷毛で液状バターを七面鳥に塗り込んでいく。
姪っ子がカウンター越しに覗き込んでくる。
「おにーちゃん、おなかすかない?」
「作ってる間は大丈夫だよ」
手元から漂うバターと酒の匂いでおなかいっぱいなのは事実だ。焼きに入って落ち着いたら、コーラに合いそうなものを作って適当に食べておこう。
バターを全面に塗り終わったところでオーブンレンジが余熱終了を告げた。グッドタイミングを逃さず、僕は七面鳥を窯に押し込む。
まずは十五分、強火でこんがりと。
これでようやく一段落。息を吐いた僕の裾がくいっと引っ張られた。
「おにーちゃん、ちょっときて?」
何やら内緒話めいた潜め声で姪っ子が手招きをする。連れて行かれたのは台所の奥。食料庫の一番下の段ボールに頭を突っ込んで、姪っ子が何かをつかみ出す。
「これ、おとーさんのおやつ」
妙に得意げな表情で姪っ子が示したのは、何の変哲もないポテチの袋だった。
「おとーさん、いつもここに自分のおやつをかくしておくの。バレてないっておもってるみたいだけど、あたしもおかーさんもちゃんとしってるんだから」
「……そーか」
「たべよ?」
僕は今、悪魔の微笑みを目撃している。
誘惑にあっさりと乗った僕は共犯者と冷え冷えのコーラを分け合って茶の間に陣取った。カーペットに座りこんだ僕の膝に、すかさず姪っ子がよじ上ってくる。
「こーら、またすぐ七面鳥見に行くんだから下りてろ」
「いーよべつに。なんどでものぼりなおすから」
何が楽しいのか分からないが、とりあえず姪っ子は僕の膝の上でご機嫌のようだ。まぁいいか。
僕はグラスに注いだコーラに口を付けながらスマホを取り出す。
「かのじょさんにメール?」
あやうく吹き出すところだった。図星だったが、正直に答えるのはなんだか腹立たしい。
「……時間を見ただけだよ」
「えー? さっきおしえてあげたばかりでしょー?」
「それよりお前、数字読めるんだな。四歳の割にはすごくないか?」
「そんなことないよ。ようちえんじのたしなみよ」
「……あっそ」
子どもの扱いは難しい。思ったままをメールしてみたら、即返信が来た。
『ちっちゃくても女の子なんだから、そのつもりで接しなさい』
「メール? かのじょさんからメール?」
肩を落としてメールの内容を伝える。姪っ子は手を叩いて喜んだ。
「そうよ、あたしはりっぱなレディなんだから!」
「はいはい」
「もー! そんなてきとうなおへんじばかりしてたら、かのじょさんにふられちゃうよ?」
最早返す言葉もない。がっくり項垂れたところでオーブンが仕事完了を告げた。これ幸いとばかりに、僕は立ち上がり台所へ向かう。膝から振り落とされた姪っ子が抗議の声を上げているようだが、聞こえないふりでオーブンを開く。
調理台に一旦七面鳥を出し、温度を百七十度に落とす。先程のバターを天板の余熱で溶かしながら再び刷毛で七面鳥に塗っていく。ついでにじんわりにじみ出ていた肉汁も一緒に塗り込む。そうしてもう一度オーブンへ。今度の焼き時間設定は三十分。
この作業を何度か繰り返さなくてはならない。やれやれと首を回したところで姪っ子がタックルを仕掛けて来た。
「ねー、かのじょさんにあいたい」
「は?」
「あたしたち、いいおともだちになれそうなきがするの」
「なんだそりゃ」
脚に姪っ子をぶら下げたまま、僕は茶の間に戻った。床に放置されていたポテチその他の袋をかき集め、片っ端から開封していく。さすがに腹が減ってきた。
TVをつけて適当にチャンネルをがちゃがちゃ変える。残念なことに幼女の気を引けそうな番組は見当たらない。
床に直置きしたクッションにもたれてスナック菓子とコーラを貪りながらリモコンをいじっていると、姪っ子が目を細めて言い放った。
「なーんか、おとーさんそっくり」
「!!!」
ショックのあまりリモコンがするりと手から零れ落ちた。床に当たるごつっという鈍い音と同時に、僕のスマホがメール着信を告げるメロディを奏で始める。
あまりのタイミングにびくりと肩が震えた。おそるおそる送信先を確認すると、兄貴の名前が表示されている。
「……!!!!」
スマホを投げ捨てたくなる衝動を苦労して抑えながら、僕はメールの中身を確認する。
『可愛い弟よ、ごめーん! 偉大なる兄はその優秀さゆえ上司直々の極秘任務を言いつかり、帰還が遅れることが確定した! ちなみに俺のびゅーてぃほー麗しのセニョリータ(マイワイフのことだ言わなくても分かるだろ?)も仕事が長引きそうだという連絡が入っている! スイート可愛い俺のお姫様といい子でお留守番してるんだぞ☆』
「うぜえええええええええええ!!!!!!!!!」
ついに衝動を抑えきれず、僕は力一杯スマホをクッションに投げつけた。床とか壁にダイブさせないだけの理性は辛うじて残っていたようだ。
「ものにあたっちゃいけません!」
目を三角にして小言を述べる姪っ子の口調はびゅーてぃほー麗しのセニョリータもとい義姉そっくりで、ますます哀しくなる。
クリスマスイブの夜に、僕は幼女と二人きりの密室で何をやっているんだろう。
というか。僕は現実的な問題に気づいてさらに頭を抱えた。
「もうトリ焼き始めてるじゃんよ……!!! 連絡遅ぇよバカ兄貴」
「え? おとーさんからだったの!?」
そういえば義姉も遅くなると言っていたか。さすがに姪っ子が気の毒になってきた。何がいい子でお留守番してろだ、アホ兄貴。
「……ああ。二人とも遅くなるそうだ」
「おかーさんも?」
黙って頷くと、姪っ子は唇を尖らせて俯いてしまった。無理もない。拾い上げたスマホで兄貴へ抗議のメールを作成しだした時、姪っ子が胸元をぎゅっと握りしめてきた。
「でも今日はおにーちゃんがいるからさびしくないもんね」
何とも言葉が返せずにいたところで、狙っていたかのようにオーブンが鳴った。僕は姪っ子の頭を軽く叩いて床に下ろす。
既に焼き始めているのだから、生焼けのまま途中で放置するわけにもいかない。
姪っ子が後ろについてきているのを承知で、僕は七面鳥をオーブンから出した。先程と同じようにバターを塗って窯の中へと戻す。これでまた三十分。
オーブンを開けたせいで鶏肉の焼ける匂いがぐっと強くなっている。生ぬるくて心地いいその空気の中で、姪っ子はどうやら眠気を覚えているようだ。
「寝るなら歯磨いとけよ」
「まだねないもん!」
やけにムキになって反撃してくる。
「おかーさん言ってたよ。クリスマスイブにはサンタさんがきてプレゼントをおいていってくれるって」
「あー」
「だからサンタさんにあうために、今日はあさまでおきてるんだから」
四歳児なりに必死に睡魔と戦っているのだろう。重たくなった瞼を懸命にこすりながら、口調だけは威勢がいい。
「別に僕は構わないけど……夜は意外と長いよ?」
「おんなじようなこと、こないだおとーさんがおかーさんに言ってたよ」
子どもの前で何口走ってるんだあのダメ兄貴。
「……おかーさんなんて言ってた?」
「なんにも言わないでひっぱたいてた」
さすがとしか言いようがない。
僕は咳払いしながら茶の間に引き返した。おねむのお姫様を小脇に抱え、コーラをちびちびやりながらスマホをいじる。メールのやりとり、アプリの巡回、やることは細々種々雑多な内容ながら多岐に渡り、少々の時間などあっという間に過ぎてしまう。
オーブンの合図に立ち上がった時、うとうとしていた姪っ子が薄く目を開けた。
「あたしねないんだから。ねてたらおこしてね。サンタさんがきたらぜったいおしえてね」
「はいはい」
頭をぽんぽんと叩いて了解の意を伝え、僕はキッチンに向かう。何度目かのバターを塗ってオーブンへ。兄貴や義姉が帰ってくる頃には冷めているのだろうなと思うと、徐々につき始めた焦げ色さえ切なく見える。
茶の間に戻ると安らかな寝息が聞こえてきた。起こすには忍びなく、かといって床に転がしたままというのも可哀想だ。
周囲を見回してもブランケットのようなものは見当たらない。少し考えた末に自分のコートを持ってきて姪っ子を包んでやる。これで寒い思いはしないだろう。
それからはもう単純作業だった。スマホをいじり、チンが鳴る度に七面鳥にバターを塗っては焼きの繰り返し。
さすがに眠気を覚えてきた頃、鶏肉はようやく焼き上がった。肉汁を閉じ込めるため、余熱が残るオーブン内でそのまま放置する。
さて、予想外に空いた時間をどう使おうか。
「……付け合わせでも、作っとくかな」
義姉の手間を省くような作業は今のうちにしておいた方がいいだろう。どのみち僕は明日来ることができない。マッシュポテトくらい作っておいても罰は当たらないだろう。
じゃがいもは食料庫のストックで間に合いそうだ。皮をむいて鍋に放り込み、煮えるのを待つ。時計表示は十一時のちょっと手前。お姫様が寝返りを打った。
アプリで自己ベストを更新している間に、じゃがいもに火が通った。一旦笊に上げた後弱火にかけ、水分を飛ばす。バターと牛乳を加えて練り上げ、最後に塩胡椒で味を整える。
粗熱が飛ぶまでしばし放置。今度は待ち時間での自己ベスト更新ならず。
適度に冷めたマッシュポテトをタッパーに詰める。後は義姉に任せよう。
日付が変わる直前に短文のメールを用意しておく。スマホの日付表示が変わると同時に送信。
『Merry Christmas!』
ほぼ同時にメール受信。
『Happy Christmas! あとでケーキ持って行くね』
うっし。
ガッツポーズした瞬間、玄関からがたがたと不審な物音が響いてきた。ややあって茶の間に入って来たのは案の定兄貴だった。何だか妙に大荷物なのが気になるが、床に転がる愛娘の姿を確認した瞬間、大好物を前にした犬のように目を爛々と輝かせてこちらに突撃してきた。
「よーう起きてっか俺の可愛い子猫ちゃーん!!!」
「しーっ! バカ、今寝てるんだから静かにしろよ」
一瞬酔ってるのかこいつと思ったが、アルコール臭は検知できない。信じがたいハイテンションだがどうやら素面のようだ。
……まぁ、いつものことではあるが。
「兄上に向かってバカとはなんだバカとは」
「本当のこと言っただけだろ。義姉さんは?」
「何とか終電に乗れたって言ってたから、そろそろ着くんじゃないか」
素早く荷物を放り捨てた兄貴は姪っ子を抱き上げて、問答無用でじょりじょりと頬ずりをし始めた。まだ目覚めていない姪っ子が、それでも不快そうに眉根を寄せているのが窺える。
「しかしお前、コートで包むとか。いっそ寝床に運んでやれば良かったのに」
「……あんたらの寝室にそう気軽に入れるか」
ぶっと兄貴が吹き出した。ああ、腹が立つ。
「おーい起きろお姫様。サンタさんの登場だぞー」
僕は姪っ子の脇腹を突っついた。すぐさまバカ兄貴が対抗してくる。
「ほーら起きてくれよハニー! パパが! パパが!! 帰ってきまちたよー」
気色悪い。
ドン引きしてる僕の表情を華麗にスルーして、兄貴は姪っ子のほっぺたを執拗に引き伸ばして覚醒を促している。その甲斐あってか、姪っ子の瞼がぴくりと動いた。
「おお、俺のプリンセス!」
寝起きの不機嫌な眼差しでしばらく兄貴を眺めていた姪っ子は、くるっと僕に顔を向けた。
「おにーちゃん、これ、サンタさんじゃない。ただのひげおやじ」
思わず吹き出した僕を恨めしげに見遣りながら、兄貴は姪っ子にほとんど嫌がらせの勢いでひげ面をこすりつけている。当然姪っ子の激しい抗議に遭い、ようやく彼女を床に解放した。
気が済まない姪っ子がばしばし向こうずねを叩いているのを全く意に介さず、兄貴がなんだか妙に得意げな顔をこちらに向けてくる。
「……なんだよ」
「いい匂いだな」
僕はもう鼻が慣れてしまっているが、外から来たばかりなら当然この部屋に満ちているであろう七面鳥の芳香に気づくはずだ。
「せっかく出向いて作ってもらったのに、待たせちまって悪かったな」
「いや別に……気にしてないし」
「そうか? イブだというのに彼女とデートの約束もなかったのか。哀しい奴だな」
「違……っ! それは明日」
「ほほぅ」
口を滑らせたことを悔やんでももう遅い。ますますにやけ顏を濃くした兄貴が荷物の一つを差し出してきた。
「ほれ、サンタさんからプレゼント」
「……なんだよ」
受け取った袋は細長く、妙に重い。中身を掴み引き出してみると、すらりとしたシルエットのワイン瓶が姿を現した。
「ちゃんとシャンパーニュ産のスパークリングだぞ。ようやく酒呑める歳になったんだからじっくり味わえ」
「……おう」
こういう時、どういう顔をしていいのか分からなくなる。
「せっかくのいい酒なんだから、それを口実に彼女を誘ったらどうだ?」
「え?」
「お前が腕によりをかけて焼いたトリもあることだし、いっそここに呼べばいいんじゃないかっての」
「え? おにーちゃんのかのじょさんくるの!?」
「おー、おにーちゃんがヘタレて誘うのを諦めないなら来る」
「ほんとー!?」
「勝手言うなバカ兄貴!」
僕は慌てて話を逸らす。
「そういえば食器棚のVSOP、使わせてもらったから。あれ、兄貴のだろ?」
「は? 俺はそんな気取った酒呑まねぇよ。あれは俺のじゃなくて麗しのマイワイフの」
「え? なんで義姉さんが」
「ちょっと前にブランデーケーキ焼くのにハマってたからそれ用じゃねぇの」
……まじでか。
そうこう言っているうちに再び玄関に人の気配。
「あっ、おかーさんだ!」
「おーマイワイフ!!」
すかさず幼女とバカが玄関に走り、出遅れた僕は平身低頭で義姉を出迎えた。酒を容赦なく使った罪はあっさり赦免されたが、引き換えに明日の七面鳥パーティーに彼女を呼ぶよう笑顔で要求された。
どうしてこうなった。
観念して、僕はメール送信ボタンを押し込んだ。
——激化するであろう彼女のケーキの争奪戦を思い、ため息を吐きながら。
「おにーちゃんおそーい」
傲岸不遜に言い放った幼女は、玄関にひっくり返ったままの僕の腰骨の真上によじ登ってふんぞり返った。間違ってもこれは妹では、ない。十歳違いの兄の一人娘、つまるところ姪っ子だ。
「レディをまたせるなんて、どういうつもり?」
「あーはいはい申し訳ございませんねー」
クソ兄貴が一体どんな教育してやがるんだ。
僕は小さなレディの身体を丁重に、しかし有無を言わせず脇へどかした。底冷えのする玄関タイルからようやく腰を上げて、素早くスニーカーを放り捨てる。さっきはここで片足立ちになったところを襲われた。もう僕に油断はない。
靴を脱ぐより先に荷物を上げておいて良かった。上がり框に置いておいた特大ビニール袋二つを持ち上げると、中の一つから微かに小瓶が触れ合う音が響く。これを持った状態でタイルに転がされていたら……考えるだけで恐ろしい。
「おにーちゃんだめだよー。くつはちゃんとそろえなきゃ」
「揃えといてくれよ。僕は今両手いっぱいだ」
「えー」
「お前がとんでもないところで飛びついてくるからだろ。もしこの袋の中の瓶が割れて玄関を汚したりしたらどうなったよ?」
「おかーさんがおこる」
「そうだ。やだろ」
「やだ。こわい」
さすがしっかり者の義姉は娘にちゃんとした躾をしているらしい。義姉の名が出た途端にしゅんとなった姪っ子がスニーカーを揃えるのを横目で見ながら、僕は兄夫婦のマンションに上がり込んだ。
彼らの結婚以来、数えきれないくらい来ている場所だ。勝手知ったる何とやら、僕はまっすぐキッチンを目指した。対面式のダイニングは義姉のこだわりで選んだもので、広くはないが決して狭くもない。
既にキッチンを借りる旨、義姉と話はついている。流しの真上の電灯を点けながら、後ろについてきていた姪っ子に声をかけた。
「おい、茶の間も明かりくらいつけろよ。暗いじゃないか」
「だって、とどかないよ」
ちらりと壁面のスイッチに目を向ける。確かに四歳児には難しい高さだ。しかし真下に置かれた幼児用の椅子、あれに乗ればぎりぎり届かなくはない、はずだ。
様子を窺う姪っ子の視線が横顔にちらちら当たる。僕は黙ってスイッチに歩み寄り、電気を点けた。椅子には気づかないふりをしてキッチンに戻る。
「……カーテンくらい一人で閉めれんだろ」
「……うん!」
大層嬉しそうに姪っ子は窓辺に駆け寄った。視界の隅を掠めたデジタル時計の表示は午後五時。カーテンレールがやけに反抗的な音を立てているようだが、それには構わず僕はコートを脱ぎ、持参した袋の中身を取り出す作業に移った。
真っ先に取り出したのは七面鳥だ。頭や内臓が取り除かれた冷凍品だが2kg以上はある大物だ。このでかぶつを僕の狭いワンルームで解凍して、わざわざ持ってきてやったのだ。兄貴はもっと僕に感謝してもいいと思う。
「うわ、何、それ?」
生の七面鳥を見るのは初めてらしい。カーテンとの格闘を終えてキッチンに顔を出した姪っ子がぎょっと身を竦ませる。
「君のおとーさんのリクエスト。気持ち悪いならあっちで遊んでな」
手早く自前のエプロンを身に着ける。普段はきちんとしたものを身につけるが、今日は完全にプライベートだ。一目で気に入って衝動買いした黒のギャルソンエプロン。うん、やっぱりテンションが上がる。
シンクに置いた七面鳥の包装を解いて、流水で丁寧に全体を流していく。脇を洗おうと手羽を引き延ばした時、あっと向かい側で声が上がった。
「ハネだ」
見るといつの間にか姪っ子がカウンター越しにシンクを覗き込んでいた。食卓用の椅子の上にでも乗っているのだろう。
「そう、手羽先だな」
「ホントにトリなんだ」
さっきまで気味悪がっていたのが嘘のように、むき出しの好奇心で七面鳥を眺めている。その視線に僕の方が居心地の悪さを感じてしまう。
「あー……今はこっち見るな。ちょっとあっち向いてろ」
「どうしてー?」
「……これから腹の中を洗うから」
「おなかのなか?」
僕は黙って七面鳥の腹を押し開いた。うひゃあと変な声を上げて、シンクの向こうの幼女は顔を引っ込めた。
実際にはらわたが詰まっているわけではないから、そんなにグロいものではない。少なくとも僕にとっては。手早く、しかし丁寧に体腔を清め、鍋に張った塩水に浸ける。持参した青ねぎを適当に切って投入、蓋を閉じてとりあえずガスレンジの上へ置いておく。仕上がりが水っぽくなるのを防ぐため、七面鳥が常温になるまでこのまま放置しなければならない。
七面鳥の梱包材をゴミ箱に片付けて、もう一つのビニール袋から持参したスパイス類を取り出す。ついでに冷蔵庫の中身もチェック。
玉ねぎ、セロリ、パセリ。予め義姉に頼んでいた食材は全て完璧に揃っている。さすがだ。
さらにコーラの1.5Lペットボトルが冷えているのも発見した。オーブンレンジの前にはこれまた頼んでおいたもち米が入ったビニール袋が置かれ、義姉のメモが載っている。
『イブに手間のかかる仕事をお願いしちゃってごめんね。コーラ全部飲んでもいいよ』
何故こんないい人が兄貴なんかの嫁になったのか心底疑問だ。
「ねーおなかすいたー」
幼い声が下らない自問を粉砕した。お姫様のご要望とあらば致し方ない。一旦作業を中断し、玉ねぎのみじん切りを高速で作成する。フライパンを熱しオリーブオイルでガーリック少々を炒め、軽やかに玉ねぎを投入。
「うわー、いいにおい」
再びカウンターの向こうから幼女が顔を出す。冷蔵庫から冷や飯とケチャップ、卵を取り出して振り返ると、姪っ子が目を丸くしてこちらを見つめていた。
「おにーちゃんエプロンしてるー。すごーい、コックさんみたーい」
どうやら腰から下がシンクに隠れて彼女の位置からは今まで見えていなかったようだ。くっ、それだけ僕の脚が短いということか。
「みたいじゃなく、コックさんなんだよ一応」
……まだ学生だけどな。
「そっかー、かっこいいねぇ」
ストレートにそう言われると悪い気はしない。思わず緩みそうになる口許を隠しながらフライパンに冷や飯を投入する。
「そういやこないだ持ってきてやったシュトレンはどうした?」
「もうとっくになくなっちゃったよ。おとーさんがばくばくたべちゃった」
あんのバカ兄貴。
鼻白んだ気配を感じたのか、姪っ子が僕の顔色を窺うように首を傾げた。
「ごめんね? あれ、おにーちゃんのかのじょさんがつくってくれたんだよね?」
「……誰がそんなこと言った」
「おかーさん」
……義姉さん。
ケチャップに涙が混入しないよう、僕は細心の注意を払ってチューブを絞った。
「ねー、かのじょさんはクラスメートなの?」
僕は調理科、向こうは製菓科。この場合、クラスメートとは言わないだろう。
「……違うよ」
「ふーん。でも、どうきゅうせいなんでしょ?」
「……はい」
「ふーん」
ケチャップライスに仕上げの塩胡椒を振って皿に盛る。別のフライパンを熱している間にボウルに卵を割り入れ、手早くほぐす。
「がっこう、たのしい?」
「まぁね」
じゃっと音を立ててフライパンが卵を受け止めた。火加減に気をつけながら形を整え、半熟のままケチャップライスに載せる。
「ほれ、お待たせ」
皿を差し出してやると、姪っ子はぱあっと瞳を輝かせた。
「オムライスだぁ」
嬉々として黄金色の山の攻略に取りかかった幼女をそのまま捨て置いて、僕は手早く二つのフライパンを洗浄した。うち一つをガスレンジに残して、再び玉ねぎをみじん切りにする。
そう、次は七面鳥の詰め物の作成だ。
玉ねぎ、パセリ、セロリ。香味野菜のみじん切りがあっという間に山を成す。ついでにもち米も軽く研ぎ、笊に上げて水を切っておく。
それからフライパンを火にかけ、バターで野菜のみじん切りを炒めていく。本当はここで七面鳥の内臓も一緒に入れるといい味になるのだが、今回はお子様がメンバーにいるので省略した。
そのお子様が大発見をしたかのように突如頓狂な声を上げた。
「おにーちゃん、このオムライス、おにくがはいってない!」
「いいだろ別に。鶏肉はこれから腹一杯食うんだから」
「えー」
カウンターの向こうでブーイングは続いていたが、さらりと無視して僕はもち米をフライパンに流し込んだ。白い粒が徐々に透明度を増していくのを見守りながら、木べらで丁寧にかき混ぜる。
焦げないように火加減を調整しつつ私物のローズマリーやタイムを調理台に並べていると、姪っ子が空になった皿を下げに来た。
「おにーちゃん、まだあそべない?」
「まだだな。今手が離せないから」
肩を落として姪っ子はキッチンから出て行った。カウンター越しに見ると、茶の間は随分派手に散らかっているようだ。こちらが調理にかかり切りになっている間に広げたのだろう。どうやらお姫様のマイブームはお絵かきらしい。スケッチブックが無造作に広げられ、色とりどりのクレヨンや色鉛筆がこれでもかとフローリングに散らばっている。
「待ってる間に少し片付けとけよ。空いた場所にツリーを飾ってやるから」
「……うん!」
兄夫婦が姪っ子を溺愛しているのは間違いない。だが二人とも忙しすぎるせいで、姪っ子はすっかり待つことに慣れてしまっている。
だから余計に僕に懐くのだろうけれど。
フライパンに投入した米全体が半透明になったのを見計らって、水とハーブ類を入れ蓋を閉める。火を弱めておけば、適度に炊きあがるまでこのまま放置できる。
待つ間に塩水につけておいた七面鳥を取り出す。水気を丁寧に拭き取り、調理台の上へ置く。義姉のクッキングペーパーを大量に使ってしまったから、後で補充しておかなければ。
存在感のある七面鳥に、塩と粗挽きペッパー、おろしにんにくを擦り込んでいく。とっておきの高級塩がどんどん減っていくのが悲しいが、致し方ない。
作業が一段落して手を洗っているところで、姪っ子が台所にやって来た。ついにしびれを切らしたらしくエプロンの裾を握ったまま放そうとしない。
「おかたづけ、おわった」
見ると、先程までカオスに覆われていた茶の間は見事にコスモスを取り戻していた。
「色鉛筆は全色ちゃんとあったのか?」
「うん」
「よし、いい子だ」
これ以上は引き延ばせそうにない。ちょうど米も炊きあがる頃だ。今のタイミングなら、多少手を離しても問題はないだろう。
ガスレンジの火を消して、僕は姪っ子の頭に手を置いた。
「お待たせ。ツリーやるぞ」
「……うん!」
転げるように走っていく姪っ子を追いかけながら、僕はちらりとスマホの画面に目を走らせる。いつの間にか七時を回っていた。
姪っ子の先導で辿り着いたクローゼットからツリーと飾り一式を引っ張り出して茶の間へ運ぶ。綺麗に片付いたカーペットの上でまずプラスチックの人造木を組み立てた。
「ふわふわ~」
上機嫌で姪っ子が雪に見立てた綿をちぎって枝に載せる。僕は色とりどりの電飾を箱から引きずり出して木にぐるぐる巻き付けていく。
「きらきら~」
綿がなくなると姪っ子は星や金銀の球体といった飾り物を枝に引っ掛け始めた。僕も手伝って、小さな樅の木はあっという間に煌びやかに飾り立てられていく。
最後に残ったひときわ大きな銀色の星をツリーの一番上の梢に差そうとすると、姪っ子が背伸びして手を伸ばして来た。
「あたしがやるー」
「はいはい」
最後の飾り物を取られると、仕上げまで横合いから攫われたように感じるのだろう。僕は姪っ子の手に星を渡し、小さな身体を抱き上げた。まだ赤ん坊のシルエットを残したふくふくの手が、さくりと音を立てて星を枝に差し込んだ。
お姫様の満足そうな横顔を確認して、僕は彼女を下ろした。代わってツリーを抱え上げ、邪魔にならない壁際まで移動させる。続けて電飾の線をコンセントに差し込んだ。
「うわぁ」
ぱかぱかと点滅を始めたLEDに、姪っ子が目を丸くする。
「触るなよ」
「ふぁーい」
姪っ子がツリーに心奪われている隙に、僕はキッチンへ戻る。放置していたフライパンの蓋を開けると、もち米はふっくらと炊きあがっていた。香草を取り除くついでに軽くかき混ぜ、味見をする。
……うん、悪くない。
七面鳥の様子を確認する。塩まみれだった表面が、今はしっとり艶を帯びてライトの光を照り返している。
仕込みの首尾に頷きながら、僕は七面鳥の腹を開いた。中の空間に木べらとスプーンを使ってもち米を隙間なく詰めていく。
「おにーちゃんあそんでー」
「だめ。おとーさんが帰ってくるまでにこいつを焼き上げなきゃならないからな。今何時になったか分かるか?」
七面鳥をタコ糸で縛りながら訊く。
デジタル表示なら四歳児でも読めるかもしれない。果たしてカウンターによじ上りかけていた姪っ子は一旦椅子の登頂を諦めて、時計を覗き込んだ。
「んとねー、しちじごじゅっぷん」
「おーやっぱあんま時間ないな。ありがと」
昨夜聞いた兄貴の帰宅予定は夜の十時。義姉も似たり寄ったりのはずだ。七面鳥の焼き上がりまで二時間ちょっと。ぎりぎりだ。
冷蔵庫からバターを取り出す。オーブンレンジで加熱して溶けたそれに、チンを待つ間に切っておいたレモンの汁を絞り入れる。加えて食器棚の中で一際威張っていたVSOPを取り出し、それも無造作に注ぐ。既に開封されているにも関わらずほとんど減っていないところを見ると、どうせ兄貴がカッコつけて購入したきり放置されている可哀想な酒なのだろう。活躍の場ができて良かったな。
ここから先は時間との勝負だ。オーブンを最高温度に設定し余熱。天板に七面鳥を載せ、うちから持ってきた刷毛で液状バターを七面鳥に塗り込んでいく。
姪っ子がカウンター越しに覗き込んでくる。
「おにーちゃん、おなかすかない?」
「作ってる間は大丈夫だよ」
手元から漂うバターと酒の匂いでおなかいっぱいなのは事実だ。焼きに入って落ち着いたら、コーラに合いそうなものを作って適当に食べておこう。
バターを全面に塗り終わったところでオーブンレンジが余熱終了を告げた。グッドタイミングを逃さず、僕は七面鳥を窯に押し込む。
まずは十五分、強火でこんがりと。
これでようやく一段落。息を吐いた僕の裾がくいっと引っ張られた。
「おにーちゃん、ちょっときて?」
何やら内緒話めいた潜め声で姪っ子が手招きをする。連れて行かれたのは台所の奥。食料庫の一番下の段ボールに頭を突っ込んで、姪っ子が何かをつかみ出す。
「これ、おとーさんのおやつ」
妙に得意げな表情で姪っ子が示したのは、何の変哲もないポテチの袋だった。
「おとーさん、いつもここに自分のおやつをかくしておくの。バレてないっておもってるみたいだけど、あたしもおかーさんもちゃんとしってるんだから」
「……そーか」
「たべよ?」
僕は今、悪魔の微笑みを目撃している。
誘惑にあっさりと乗った僕は共犯者と冷え冷えのコーラを分け合って茶の間に陣取った。カーペットに座りこんだ僕の膝に、すかさず姪っ子がよじ上ってくる。
「こーら、またすぐ七面鳥見に行くんだから下りてろ」
「いーよべつに。なんどでものぼりなおすから」
何が楽しいのか分からないが、とりあえず姪っ子は僕の膝の上でご機嫌のようだ。まぁいいか。
僕はグラスに注いだコーラに口を付けながらスマホを取り出す。
「かのじょさんにメール?」
あやうく吹き出すところだった。図星だったが、正直に答えるのはなんだか腹立たしい。
「……時間を見ただけだよ」
「えー? さっきおしえてあげたばかりでしょー?」
「それよりお前、数字読めるんだな。四歳の割にはすごくないか?」
「そんなことないよ。ようちえんじのたしなみよ」
「……あっそ」
子どもの扱いは難しい。思ったままをメールしてみたら、即返信が来た。
『ちっちゃくても女の子なんだから、そのつもりで接しなさい』
「メール? かのじょさんからメール?」
肩を落としてメールの内容を伝える。姪っ子は手を叩いて喜んだ。
「そうよ、あたしはりっぱなレディなんだから!」
「はいはい」
「もー! そんなてきとうなおへんじばかりしてたら、かのじょさんにふられちゃうよ?」
最早返す言葉もない。がっくり項垂れたところでオーブンが仕事完了を告げた。これ幸いとばかりに、僕は立ち上がり台所へ向かう。膝から振り落とされた姪っ子が抗議の声を上げているようだが、聞こえないふりでオーブンを開く。
調理台に一旦七面鳥を出し、温度を百七十度に落とす。先程のバターを天板の余熱で溶かしながら再び刷毛で七面鳥に塗っていく。ついでにじんわりにじみ出ていた肉汁も一緒に塗り込む。そうしてもう一度オーブンへ。今度の焼き時間設定は三十分。
この作業を何度か繰り返さなくてはならない。やれやれと首を回したところで姪っ子がタックルを仕掛けて来た。
「ねー、かのじょさんにあいたい」
「は?」
「あたしたち、いいおともだちになれそうなきがするの」
「なんだそりゃ」
脚に姪っ子をぶら下げたまま、僕は茶の間に戻った。床に放置されていたポテチその他の袋をかき集め、片っ端から開封していく。さすがに腹が減ってきた。
TVをつけて適当にチャンネルをがちゃがちゃ変える。残念なことに幼女の気を引けそうな番組は見当たらない。
床に直置きしたクッションにもたれてスナック菓子とコーラを貪りながらリモコンをいじっていると、姪っ子が目を細めて言い放った。
「なーんか、おとーさんそっくり」
「!!!」
ショックのあまりリモコンがするりと手から零れ落ちた。床に当たるごつっという鈍い音と同時に、僕のスマホがメール着信を告げるメロディを奏で始める。
あまりのタイミングにびくりと肩が震えた。おそるおそる送信先を確認すると、兄貴の名前が表示されている。
「……!!!!」
スマホを投げ捨てたくなる衝動を苦労して抑えながら、僕はメールの中身を確認する。
『可愛い弟よ、ごめーん! 偉大なる兄はその優秀さゆえ上司直々の極秘任務を言いつかり、帰還が遅れることが確定した! ちなみに俺のびゅーてぃほー麗しのセニョリータ(マイワイフのことだ言わなくても分かるだろ?)も仕事が長引きそうだという連絡が入っている! スイート可愛い俺のお姫様といい子でお留守番してるんだぞ☆』
「うぜえええええええええええ!!!!!!!!!」
ついに衝動を抑えきれず、僕は力一杯スマホをクッションに投げつけた。床とか壁にダイブさせないだけの理性は辛うじて残っていたようだ。
「ものにあたっちゃいけません!」
目を三角にして小言を述べる姪っ子の口調はびゅーてぃほー麗しのセニョリータもとい義姉そっくりで、ますます哀しくなる。
クリスマスイブの夜に、僕は幼女と二人きりの密室で何をやっているんだろう。
というか。僕は現実的な問題に気づいてさらに頭を抱えた。
「もうトリ焼き始めてるじゃんよ……!!! 連絡遅ぇよバカ兄貴」
「え? おとーさんからだったの!?」
そういえば義姉も遅くなると言っていたか。さすがに姪っ子が気の毒になってきた。何がいい子でお留守番してろだ、アホ兄貴。
「……ああ。二人とも遅くなるそうだ」
「おかーさんも?」
黙って頷くと、姪っ子は唇を尖らせて俯いてしまった。無理もない。拾い上げたスマホで兄貴へ抗議のメールを作成しだした時、姪っ子が胸元をぎゅっと握りしめてきた。
「でも今日はおにーちゃんがいるからさびしくないもんね」
何とも言葉が返せずにいたところで、狙っていたかのようにオーブンが鳴った。僕は姪っ子の頭を軽く叩いて床に下ろす。
既に焼き始めているのだから、生焼けのまま途中で放置するわけにもいかない。
姪っ子が後ろについてきているのを承知で、僕は七面鳥をオーブンから出した。先程と同じようにバターを塗って窯の中へと戻す。これでまた三十分。
オーブンを開けたせいで鶏肉の焼ける匂いがぐっと強くなっている。生ぬるくて心地いいその空気の中で、姪っ子はどうやら眠気を覚えているようだ。
「寝るなら歯磨いとけよ」
「まだねないもん!」
やけにムキになって反撃してくる。
「おかーさん言ってたよ。クリスマスイブにはサンタさんがきてプレゼントをおいていってくれるって」
「あー」
「だからサンタさんにあうために、今日はあさまでおきてるんだから」
四歳児なりに必死に睡魔と戦っているのだろう。重たくなった瞼を懸命にこすりながら、口調だけは威勢がいい。
「別に僕は構わないけど……夜は意外と長いよ?」
「おんなじようなこと、こないだおとーさんがおかーさんに言ってたよ」
子どもの前で何口走ってるんだあのダメ兄貴。
「……おかーさんなんて言ってた?」
「なんにも言わないでひっぱたいてた」
さすがとしか言いようがない。
僕は咳払いしながら茶の間に引き返した。おねむのお姫様を小脇に抱え、コーラをちびちびやりながらスマホをいじる。メールのやりとり、アプリの巡回、やることは細々種々雑多な内容ながら多岐に渡り、少々の時間などあっという間に過ぎてしまう。
オーブンの合図に立ち上がった時、うとうとしていた姪っ子が薄く目を開けた。
「あたしねないんだから。ねてたらおこしてね。サンタさんがきたらぜったいおしえてね」
「はいはい」
頭をぽんぽんと叩いて了解の意を伝え、僕はキッチンに向かう。何度目かのバターを塗ってオーブンへ。兄貴や義姉が帰ってくる頃には冷めているのだろうなと思うと、徐々につき始めた焦げ色さえ切なく見える。
茶の間に戻ると安らかな寝息が聞こえてきた。起こすには忍びなく、かといって床に転がしたままというのも可哀想だ。
周囲を見回してもブランケットのようなものは見当たらない。少し考えた末に自分のコートを持ってきて姪っ子を包んでやる。これで寒い思いはしないだろう。
それからはもう単純作業だった。スマホをいじり、チンが鳴る度に七面鳥にバターを塗っては焼きの繰り返し。
さすがに眠気を覚えてきた頃、鶏肉はようやく焼き上がった。肉汁を閉じ込めるため、余熱が残るオーブン内でそのまま放置する。
さて、予想外に空いた時間をどう使おうか。
「……付け合わせでも、作っとくかな」
義姉の手間を省くような作業は今のうちにしておいた方がいいだろう。どのみち僕は明日来ることができない。マッシュポテトくらい作っておいても罰は当たらないだろう。
じゃがいもは食料庫のストックで間に合いそうだ。皮をむいて鍋に放り込み、煮えるのを待つ。時計表示は十一時のちょっと手前。お姫様が寝返りを打った。
アプリで自己ベストを更新している間に、じゃがいもに火が通った。一旦笊に上げた後弱火にかけ、水分を飛ばす。バターと牛乳を加えて練り上げ、最後に塩胡椒で味を整える。
粗熱が飛ぶまでしばし放置。今度は待ち時間での自己ベスト更新ならず。
適度に冷めたマッシュポテトをタッパーに詰める。後は義姉に任せよう。
日付が変わる直前に短文のメールを用意しておく。スマホの日付表示が変わると同時に送信。
『Merry Christmas!』
ほぼ同時にメール受信。
『Happy Christmas! あとでケーキ持って行くね』
うっし。
ガッツポーズした瞬間、玄関からがたがたと不審な物音が響いてきた。ややあって茶の間に入って来たのは案の定兄貴だった。何だか妙に大荷物なのが気になるが、床に転がる愛娘の姿を確認した瞬間、大好物を前にした犬のように目を爛々と輝かせてこちらに突撃してきた。
「よーう起きてっか俺の可愛い子猫ちゃーん!!!」
「しーっ! バカ、今寝てるんだから静かにしろよ」
一瞬酔ってるのかこいつと思ったが、アルコール臭は検知できない。信じがたいハイテンションだがどうやら素面のようだ。
……まぁ、いつものことではあるが。
「兄上に向かってバカとはなんだバカとは」
「本当のこと言っただけだろ。義姉さんは?」
「何とか終電に乗れたって言ってたから、そろそろ着くんじゃないか」
素早く荷物を放り捨てた兄貴は姪っ子を抱き上げて、問答無用でじょりじょりと頬ずりをし始めた。まだ目覚めていない姪っ子が、それでも不快そうに眉根を寄せているのが窺える。
「しかしお前、コートで包むとか。いっそ寝床に運んでやれば良かったのに」
「……あんたらの寝室にそう気軽に入れるか」
ぶっと兄貴が吹き出した。ああ、腹が立つ。
「おーい起きろお姫様。サンタさんの登場だぞー」
僕は姪っ子の脇腹を突っついた。すぐさまバカ兄貴が対抗してくる。
「ほーら起きてくれよハニー! パパが! パパが!! 帰ってきまちたよー」
気色悪い。
ドン引きしてる僕の表情を華麗にスルーして、兄貴は姪っ子のほっぺたを執拗に引き伸ばして覚醒を促している。その甲斐あってか、姪っ子の瞼がぴくりと動いた。
「おお、俺のプリンセス!」
寝起きの不機嫌な眼差しでしばらく兄貴を眺めていた姪っ子は、くるっと僕に顔を向けた。
「おにーちゃん、これ、サンタさんじゃない。ただのひげおやじ」
思わず吹き出した僕を恨めしげに見遣りながら、兄貴は姪っ子にほとんど嫌がらせの勢いでひげ面をこすりつけている。当然姪っ子の激しい抗議に遭い、ようやく彼女を床に解放した。
気が済まない姪っ子がばしばし向こうずねを叩いているのを全く意に介さず、兄貴がなんだか妙に得意げな顔をこちらに向けてくる。
「……なんだよ」
「いい匂いだな」
僕はもう鼻が慣れてしまっているが、外から来たばかりなら当然この部屋に満ちているであろう七面鳥の芳香に気づくはずだ。
「せっかく出向いて作ってもらったのに、待たせちまって悪かったな」
「いや別に……気にしてないし」
「そうか? イブだというのに彼女とデートの約束もなかったのか。哀しい奴だな」
「違……っ! それは明日」
「ほほぅ」
口を滑らせたことを悔やんでももう遅い。ますますにやけ顏を濃くした兄貴が荷物の一つを差し出してきた。
「ほれ、サンタさんからプレゼント」
「……なんだよ」
受け取った袋は細長く、妙に重い。中身を掴み引き出してみると、すらりとしたシルエットのワイン瓶が姿を現した。
「ちゃんとシャンパーニュ産のスパークリングだぞ。ようやく酒呑める歳になったんだからじっくり味わえ」
「……おう」
こういう時、どういう顔をしていいのか分からなくなる。
「せっかくのいい酒なんだから、それを口実に彼女を誘ったらどうだ?」
「え?」
「お前が腕によりをかけて焼いたトリもあることだし、いっそここに呼べばいいんじゃないかっての」
「え? おにーちゃんのかのじょさんくるの!?」
「おー、おにーちゃんがヘタレて誘うのを諦めないなら来る」
「ほんとー!?」
「勝手言うなバカ兄貴!」
僕は慌てて話を逸らす。
「そういえば食器棚のVSOP、使わせてもらったから。あれ、兄貴のだろ?」
「は? 俺はそんな気取った酒呑まねぇよ。あれは俺のじゃなくて麗しのマイワイフの」
「え? なんで義姉さんが」
「ちょっと前にブランデーケーキ焼くのにハマってたからそれ用じゃねぇの」
……まじでか。
そうこう言っているうちに再び玄関に人の気配。
「あっ、おかーさんだ!」
「おーマイワイフ!!」
すかさず幼女とバカが玄関に走り、出遅れた僕は平身低頭で義姉を出迎えた。酒を容赦なく使った罪はあっさり赦免されたが、引き換えに明日の七面鳥パーティーに彼女を呼ぶよう笑顔で要求された。
どうしてこうなった。
観念して、僕はメール送信ボタンを押し込んだ。
——激化するであろう彼女のケーキの争奪戦を思い、ため息を吐きながら。
重い足取り 伏せた横顔
疲れ果てた今宵のあなたは
月明かりにさえ気づいていない
昼のあなたを僕は知らない
けれど夜 ここにいる
あなたのことなら誰よりも
耳にした嘘 目にした痛み
眠りの川の流れの中に
すべて放してしまえばいい
だから今は
僕の声だけ聴いていて
ねぇ
月が綺麗ですね
月が綺麗ですね
手を引っ込めたのは、君の声の鋭さや視線の険しさに気圧されたからじゃない。
へらりと笑って、僕は敵意に満ちた眼差しを受け流す。
「ごめん。君があまりにも可愛いから」
警戒を解こうと意図した微笑はまったくの逆効果に終わったようだ。軽蔑の色もあらわに、君は背を向けた。
「放っといて。ついてこないでよ」
「はいはい」
笑い含みに返す僕。決してふざけているわけではない。自然と笑みが零れる。
君に触れたい。その小さな頭に、柔らかそうな耳に、ふっくりした頬に、丸みを帯びた身体に。
君をこの腕に抱きたい。膝に抱えて、顔を覗き込んで、耳元で甘く囁いて。
せめてもう一度顔を見たい。振り向いて。
先を歩いていた君がぴたりと足を止めた。そのままくるりとこちらに向き直る。やった。
「ついてこないでって言ったでしょ!」
噛み付くような声。けれど僕は嬉しくて仕方がない。
「君についていってるわけじゃないよ。僕の行き先もこっちだってだけ」
自意識過剰?
小首を傾げて、わざと軽薄な口調で訊ねる。案の定頬を膨らませた君は、最高に苛ついた表情で僕への視線を断ち切った。足音荒く立ち去っていく、その愛おしい後ろ姿。
「バカじゃないの?」
それが、僕らの出逢い。
君に触れられる時が来たら、誰よりも気持ちよくしてあげたいと思った。
僕の指を忘れられなくなるくらい。僕なしではいられなくなるくらい。
君から僕に触れてほしいと、強請るくらいに。
だからたくさん練習した。僕が触れることを許してくれた子たちは、みんなうっとりとこの指に身を任せてくれた。
可愛いと思う。感謝もしている。
だけど、それ以上ではない。
愛おしいのは、君だけ。
僕と君の距離は相変わらず。手を伸ばせば届くのに、決して触れさせてはくれない。僕の気配を感じただけで威嚇するその顔が見たくて、決して届かないことを承知で君の背中に指を近づける。
「やめて」
にべもない言葉。そうだね、食事中に邪魔されたくはないよね。
「ごめん」
笑いながら、僕も自分のごはんに手を伸ばす。僕の手が完全に自分から逸れたのを上目遣いで確認して、君は無言で自分の皿に向き直る。
箸を手に取っても、僕のごはんはちっとも減らない。
自分の食事などそっちのけで君の姿を眺めるだけの、穏やかで幸せな時間が過ぎていく。
僕が旅立つ日も、君は変わらなかった。
「ねぇ、やっぱり行くのやめようか」
「何言ってんの今更」
君と離れたくない。だけどいつもと同じく君は素っ気ない。
君と過ごせる限りある時間。そのかけがえのない宝物と引き換えにしても惜しくないほど、僕は僕の選んだ道に自信を持てているのだろうか。
「これはあんたがやりたいことを叶えるために決めたこと。だったら他人のことを気にしてる余裕なんてないでしょ。振り返らずにとっととどこへでも行けばいい」
まるで僕の心を読んだように、君は言う。そっぽを向いたまま、決して目を合わせようとはせずに。
その声音に、少しだけ、ほんの少しだけ、拗ねた色調が混じっていると、自惚れてもいいだろうか。
「時々は、帰ってくるから」
「冗談。もう顔も見たくない」
容赦のない言葉に苦笑しながら、僕は荷物を持ち上げた。歩き出しかけて、ふと振り返る。
「僕のこと、忘れないでね」
一瞬の沈黙。柔らかな水色の空を見上げたまま、君は言った。
「……忘れたいよ。お前のことなんか綺麗さっぱり」
人づてに君の体調が思わしくないと聞いたのは、遠い遠い街でのこと。
信じられなかった。信じたくなかった。
でも、心の底では分かってた。来るべきものが来たのだと。
僕らを隔てる海と空を越えて、君に逢いにいく。けれど。
痩せた手足。以前の溌剌さが嘘のような病み衰えた身体を寝床に横たえて、君は僕を出迎えた。
震える指を、こわごわと伸ばす。
お願い。ねぇ、お願いだから。
——さわらないで。
断固とした敵意で断ち切って欲しかった。自分にも他人にも容赦のない君の厳しさで、斬って捨てて欲しかった。
でも。
拒絶はなかった。
初めて触れた、君の頬。光を失った瞳は僕を映しているのか、いないのか。
躊躇いつつも、僕は君の顔の線をなぞる。
頬から耳元へ。首筋から肩を辿って背骨の線へ。
少しでも君の苦しみを和らげたくて。君の痛みを分けて欲しくて。
ふいに君の瞳が焦点を取り戻す。僕の顔をじっと見つめ、少し口を尖らせて。
次の瞬間、薄い瞼を閉じて安心したように息を吐く。
その満ち足りた表情。僕の指先に全てを委ねて、喉の奥を鳴らす横顔。
違う。
僕が望んでたのは、こんな君じゃない。こんなことのために僕は、他の子に触れたわけじゃない。
それでも、訊かずにはいられない。
……ねぇ、気持ちいい?
泣きながら、僕は君の身体を撫で続ける。微笑みながら、君は僕の指を受け入れる。
君が永遠に手の届かない場所に旅立ったと聞いたのは、それから間もなくのこと。
君が背中を押して送り出してくれた街で、僕はたくさんの宝物を得た。捨てられないものができた。
だからこそ、僕は君の傍を離れて街へ戻った。
離れればもう二度と逢えない。そんなことは分かっていた。
君に恥じる生き方をしたくない。それだけを思って築いてきた僕の居場所。君を大切に思うなら、絶対に手放してはいけないと思った。
今も指に残る君の温もり。君がくれた、最後の贈り物。
君が遺してくれたたくさんの記憶と宝物が、確かにこの手の中にある。
考えてみれば、今までと変わらないじゃないか。瞼の裏に鮮やかに浮かぶ君の姿。触れようと手を伸ばすと、すかさず鋭い声が飛ぶ。
——さわらないでって、言ってるでしょ。
二度と届かない指先。それでも、それが君の意志だと言うのなら悪くない。この手が触れられない距離。それが君の望みなら。
君は僕を忘れずにいてくれた。それだけで僕は、これからも生きていける。
「愛してるよ」
旅立ちの日と同じ、水色の空へ呟く。
——うるさい。こっちはお前のことなんてとっとと忘れたいんだ。
今もまだそっぽを向いたままの君の声が、聞こえた気がした。
蛇足的なあとがき。
へらりと笑って、僕は敵意に満ちた眼差しを受け流す。
「ごめん。君があまりにも可愛いから」
警戒を解こうと意図した微笑はまったくの逆効果に終わったようだ。軽蔑の色もあらわに、君は背を向けた。
「放っといて。ついてこないでよ」
「はいはい」
笑い含みに返す僕。決してふざけているわけではない。自然と笑みが零れる。
君に触れたい。その小さな頭に、柔らかそうな耳に、ふっくりした頬に、丸みを帯びた身体に。
君をこの腕に抱きたい。膝に抱えて、顔を覗き込んで、耳元で甘く囁いて。
せめてもう一度顔を見たい。振り向いて。
先を歩いていた君がぴたりと足を止めた。そのままくるりとこちらに向き直る。やった。
「ついてこないでって言ったでしょ!」
噛み付くような声。けれど僕は嬉しくて仕方がない。
「君についていってるわけじゃないよ。僕の行き先もこっちだってだけ」
自意識過剰?
小首を傾げて、わざと軽薄な口調で訊ねる。案の定頬を膨らませた君は、最高に苛ついた表情で僕への視線を断ち切った。足音荒く立ち去っていく、その愛おしい後ろ姿。
「バカじゃないの?」
それが、僕らの出逢い。
君に触れられる時が来たら、誰よりも気持ちよくしてあげたいと思った。
僕の指を忘れられなくなるくらい。僕なしではいられなくなるくらい。
君から僕に触れてほしいと、強請るくらいに。
だからたくさん練習した。僕が触れることを許してくれた子たちは、みんなうっとりとこの指に身を任せてくれた。
可愛いと思う。感謝もしている。
だけど、それ以上ではない。
愛おしいのは、君だけ。
僕と君の距離は相変わらず。手を伸ばせば届くのに、決して触れさせてはくれない。僕の気配を感じただけで威嚇するその顔が見たくて、決して届かないことを承知で君の背中に指を近づける。
「やめて」
にべもない言葉。そうだね、食事中に邪魔されたくはないよね。
「ごめん」
笑いながら、僕も自分のごはんに手を伸ばす。僕の手が完全に自分から逸れたのを上目遣いで確認して、君は無言で自分の皿に向き直る。
箸を手に取っても、僕のごはんはちっとも減らない。
自分の食事などそっちのけで君の姿を眺めるだけの、穏やかで幸せな時間が過ぎていく。
僕が旅立つ日も、君は変わらなかった。
「ねぇ、やっぱり行くのやめようか」
「何言ってんの今更」
君と離れたくない。だけどいつもと同じく君は素っ気ない。
君と過ごせる限りある時間。そのかけがえのない宝物と引き換えにしても惜しくないほど、僕は僕の選んだ道に自信を持てているのだろうか。
「これはあんたがやりたいことを叶えるために決めたこと。だったら他人のことを気にしてる余裕なんてないでしょ。振り返らずにとっととどこへでも行けばいい」
まるで僕の心を読んだように、君は言う。そっぽを向いたまま、決して目を合わせようとはせずに。
その声音に、少しだけ、ほんの少しだけ、拗ねた色調が混じっていると、自惚れてもいいだろうか。
「時々は、帰ってくるから」
「冗談。もう顔も見たくない」
容赦のない言葉に苦笑しながら、僕は荷物を持ち上げた。歩き出しかけて、ふと振り返る。
「僕のこと、忘れないでね」
一瞬の沈黙。柔らかな水色の空を見上げたまま、君は言った。
「……忘れたいよ。お前のことなんか綺麗さっぱり」
人づてに君の体調が思わしくないと聞いたのは、遠い遠い街でのこと。
信じられなかった。信じたくなかった。
でも、心の底では分かってた。来るべきものが来たのだと。
僕らを隔てる海と空を越えて、君に逢いにいく。けれど。
痩せた手足。以前の溌剌さが嘘のような病み衰えた身体を寝床に横たえて、君は僕を出迎えた。
震える指を、こわごわと伸ばす。
お願い。ねぇ、お願いだから。
——さわらないで。
断固とした敵意で断ち切って欲しかった。自分にも他人にも容赦のない君の厳しさで、斬って捨てて欲しかった。
でも。
拒絶はなかった。
初めて触れた、君の頬。光を失った瞳は僕を映しているのか、いないのか。
躊躇いつつも、僕は君の顔の線をなぞる。
頬から耳元へ。首筋から肩を辿って背骨の線へ。
少しでも君の苦しみを和らげたくて。君の痛みを分けて欲しくて。
ふいに君の瞳が焦点を取り戻す。僕の顔をじっと見つめ、少し口を尖らせて。
次の瞬間、薄い瞼を閉じて安心したように息を吐く。
その満ち足りた表情。僕の指先に全てを委ねて、喉の奥を鳴らす横顔。
違う。
僕が望んでたのは、こんな君じゃない。こんなことのために僕は、他の子に触れたわけじゃない。
それでも、訊かずにはいられない。
……ねぇ、気持ちいい?
泣きながら、僕は君の身体を撫で続ける。微笑みながら、君は僕の指を受け入れる。
君が永遠に手の届かない場所に旅立ったと聞いたのは、それから間もなくのこと。
君が背中を押して送り出してくれた街で、僕はたくさんの宝物を得た。捨てられないものができた。
だからこそ、僕は君の傍を離れて街へ戻った。
離れればもう二度と逢えない。そんなことは分かっていた。
君に恥じる生き方をしたくない。それだけを思って築いてきた僕の居場所。君を大切に思うなら、絶対に手放してはいけないと思った。
今も指に残る君の温もり。君がくれた、最後の贈り物。
君が遺してくれたたくさんの記憶と宝物が、確かにこの手の中にある。
考えてみれば、今までと変わらないじゃないか。瞼の裏に鮮やかに浮かぶ君の姿。触れようと手を伸ばすと、すかさず鋭い声が飛ぶ。
——さわらないでって、言ってるでしょ。
二度と届かない指先。それでも、それが君の意志だと言うのなら悪くない。この手が触れられない距離。それが君の望みなら。
君は僕を忘れずにいてくれた。それだけで僕は、これからも生きていける。
「愛してるよ」
旅立ちの日と同じ、水色の空へ呟く。
——うるさい。こっちはお前のことなんてとっとと忘れたいんだ。
今もまだそっぽを向いたままの君の声が、聞こえた気がした。
蛇足的なあとがき。
凍えるような冷気に白い息が溶ける瞬間、斜め横からの日差しが目に痛いほど輝いて瞼の裏に残像を残した。
黒い、影。
いつまでも消えないそれの正体が己の中に潜む迷いだと、とうにレンギョウは気づいている。
アザミ崩御の報以来、皇帝軍側の動きは逐一報告されていた。レンギョウが魔法で作り上げた大亀裂を乗り越えるための吊り橋の建設。さらには、橋の落成に合わせて新帝の即位式が行われるという情報も。
吊り橋への対策は既に固まっていた。
即位式に合わせ、国王軍の主力を左右の吊り橋前に展開。中央正面にはレンギョウ自らが立ち、皇帝軍を牽制する。
勿論それしきのことで皇帝軍が萎縮して式典を取りやめるとは思っていない。眼前で強行されるであろう式の直後に、三基ある橋のうち正面の一基を魔法で落とす。向こう岸が混乱に陥ったところで、すかさず残った左右の橋を国王軍が渡り攻撃を仕掛ける。
新帝即位で上がった士気に冷水を浴びせるため、レンギョウ自身が提案した策だった。
犠牲を最小限に抑える為に魔法を遣う。それが『聖王』たる自分の役目。そう自覚すればするほど、レンギョウの心は沈んでいく。
今回の作戦について、イブキは一切口を挟まなかった。あの男のことだ、レンギョウに気を遣ったということはないだろう。黒い影を背負った男はレンギョウの出方を見極めているのだ。『聖王』であり、『新皇帝』の友人でもある、この自分の。
すっかり馴染みとなった鳩尾の痛み。小さく息を吐いてレンギョウは彼方の草原へ視線を向ける。
悩むな。迷うな。
しかし。
皇帝に会うことが親征の目的だった。アザミと会見し、この国のこれからのあり方を話し合う。それが長い間二人の領主の間で利用され続けてきた中立地帯の状況を改善すると同時に、ここまで緊迫してしまった両都間のいざこざを収束させる唯一の道であると。
それは相手がアサザになったところで同じはずだった。むしろ面識があるだけ話し合いは円滑に進むはず、そういう希望的観測さえ持っていた。
何度も考えた。アサザと同じ卓に着き、この国の未来を話し合うことを。
だが。
どんなに考えても、具体的な話し合いの内容が浮かんでこない。何を話せばいいのか、分からない。
自分は、『聖王』は、この国をどうしたい?
国王領の民を守りたいか? 躊躇いなく頷ける。
中立地帯を救いたいのか? 己にその力があるのなら。
皇帝領を滅ぼしたいのか? ……おそらく、違う。
ならばどうする。中立地帯が味方につけば、二つの領主の力の均衡など簡単に覆る。そもそもがこの小さな島に二つの領主が併存していること自体に無理があったのだ。ここでレンギョウやアサザが現在の問題を解決したとしても、時代が下れば必ず新しい問題が持ち上がり二人の領主は争い合うだろう。そして中立地帯が巻き込まれ、この島の民が死ぬ。
レンギョウは遠い未来のことにまで責任は持てない。その時代の問題はその時代に生きている人間に解決してもらうしかない。今、レンギョウがそうしているように。
だが遠い過去——創国の時代から続く矛盾には、そろそろ終止符を打っても良いのではないか。
時の霞の向こう側、垣間見た記憶。
真なる魔王・蓮が心から願ったのは一人の人間としての、当たり前の幸せだった。蓮が自らの命と幸せと引き換えにたぐり寄せようとした夢は、皮肉にも彼女を失ったことによって歪められ、ねじ曲げられて、今この時代の人間にまで絡みつく呪いとなってしまっている。
元の願いがどんなに尊く美しいものであったとしても、現在を生きる者の妨げになるのであれば——それはただの亡霊だ。
「陛下」
呼びかけに振り返ると、白銀の甲冑に身を包んだ兵が立っていた。
「皇帝軍に動きがあったようです」
「分かった」
恭しい所作を崩さないまま先導する国王兵の後ろ姿を、レンギョウは見つめる。主が迷いを抱えていることなど想像もしていないであろう、その背中。
ふと、問いかけたくなったのは何故だろう。己一人では結論の出ない、堂々巡りの自問自答を。
「おぬしは、余が皇帝を倒すことを望んでおるのか?」
白銀の国王兵はぴたりと足を止めた。一瞬の沈黙を経て返って来た声は、思いの外落ち着いている。
「陛下の島国統一を望む者は周囲に多くおります」
「そうか」
「しかし私は——必ずしもそれを望んでおりません」
レンギョウの眉がぴくりと跳ねた。
「何故だ?」
「不敬を申し上げました。申し訳ありません、どうかお忘れいただけますよう」
「咎めているわけではない。何故おぬしは余の統一を望まぬ?」
今度の間は間違いなく逡巡の時間だろう。一呼吸の後、白銀の兵はまっすぐレンギョウに向き直った。
「決して陛下が統べる国を望んでいないわけではありません。しかし私は、第三皇子の引き渡しに居合わせてしまった」
「……そうか。おぬし、あの時の」
「はい。スミレと申します」
第三皇子アカネの遺体を引き渡す際、皇帝兵の不意打ちを叩き落とした手槍の主。あの時レンギョウの身を守った手は、今きつく握りしめられて彼自身の胸へ置かれている。
「陛下をお護りすることが私の使命。それは今も変わらず私の誇りです。しかしあの時、陛下はご自身が危険に晒されたことより、皇子が害されたことやあの女戦士が悲しんでいることにお心を痛められていた」
レンギョウは何も言わずにスミレを見やる。否、何も言えなかった。
「皆は単純に陛下が皇帝を打倒してこの国を統一すればいいと言います。けれど私が知る陛下は、きっとそのようなことは望まないでしょう。ご自分の民と同様に、皇都の戦士たちにさえお心を寄せられるお方ですから」
俯き加減だったスミレの顔が上げられる。レンギョウを見つめ返す瞳はあくまで真摯で真っ直ぐだ。
「ですから私は、ただ陛下が心から望む道を歩まれることを願っております。どうぞ悔いを残されませぬよう」
「おぬし……」
「差し出がましいことを申しました。お許しくださいませ」
視線を切り頭を下げるスミレにレンギョウは頷く。もとより責めるつもりなどない。
「構わぬ。おぬしの心、嬉しく思う」
そう、嬉しい気持ちに偽りはない。だが同時に胃の腑に走る痛みもまた現実だった。
自分自身が望むこと。後悔しない選択。
それが、分からない。
しかし現実には迷っている時間などない。スミレはレンギョウを正確に先導した。出陣準備のため忙しく立ち働く兵士たちの隙間を縫って導かれた場所は、見晴らしのいい草原の一角だった。
「レン」
斥候の報告を受けていたシオンがレンギョウの到着に気づいて手招いた。
「動きがあったと聞いたが。式典の準備が始まったのか?」
「ええ。天幕を畳んで、隊列を整え始めている」
報告によると、隊列の真ん中の空間だけがぽっかりと空白になっているそうだ。おそらくそこで即位式を行うのであろう、という斥候の言葉に頷いて、レンギョウは次の指示を出す。
今朝動きがあることは分かっていたから、国王軍側も既に行動に出ている。戦力となる国王軍正規兵や中立地帯自警団は前方へ。中立地帯で合流し、国王と皇帝の交渉を見守ろうとついてきた義勇兵たちは天幕や食糧、資材を積んだ荷車部隊と一緒に後方へ。予め配置を分けておいたため、十二万という大所帯にも関わらず大きな混乱もなく整列は進んでいるようだった。
「よう陛下。護衛を置いて作戦会議とは感心しませんな」
見ると、今更のようにイブキが姿を現したところだった。ちらりと一瞥をくれ、レンギョウはすぐに北の空へと目を向ける。
「身辺におらぬ護衛などにいちいち伺いを立てる気にはなれぬ」
「え、いつも傍にいないの?」
シオンの当然すぎる疑問に答える気はないらしく、イブキはへらりと笑って誤魔化した。
「まぁまぁ。いざという時にはきちっと働くから堅いこと言うなよ。なぁ陛下?」
「そうだのう。おぬしにも今日はきっちり働いてもらわねばな」
今回の作戦ではレンギョウが最前線に立つ。正面の橋を落としてしまえば危険はほぼ皆無になるとはいえ、それまではどこよりも敵陣に近い位置に出ることになるのだ。当然、護衛役のイブキが果たす役割も大きくなる。
後ろで待機していたスミレの元に白銀鎧の兵が歩み寄った。二言三言の報告を受け、頷いたスミレが進み出る。
「陛下。白銀近侍、全隊準備が整いました」
恭しく頭を下げるスミレに頷き返し、自らの迷いを断ち切るようにレンギョウはきっぱりと宣言した。
「では、往くか」
整然と、粛々と、白銀鎧の隊列は進む。どれほど中立地帯の民を吸収しようと、自警団に主力を譲ろうと、最も傍近くで国王レンギョウを守るのは自分たちだと無言のうちに主張するかのような、乱れのない歩調で。
その静けさは周囲の自警団にも波及する。戦を目前に控えて全体に漂っていた浮ついた高揚感、それが最前列を占める国王軍精鋭を中心に鎮まり、適度な緊張を孕んだ空気へと塗り替えられてゆく。
国王軍の最前線、中央の吊り橋の正面でレンギョウは対岸を見つめていた。ここからは『聖王』の魔法が吊り橋を落とす瞬間を皇帝軍に見せつけるため、最も効果的な時機を見計らわねばならない。
橋を壊した直後の攻撃に備え、魔法部隊の貴族五名は予め左右の軍へ振り分けてあった。いざ戦端が開かれれば、魔法攻撃の要は彼らが担うことになる。
全軍の整列が終わる頃、十二万の軍勢は水を打ったように静まり返っていた。皆が固唾を呑んで見守る先、大亀裂の対岸では皇帝軍も布陣を完成させつつある。国王軍が全員北面——皇帝軍側を向いているのに対し、皇帝軍は必ずしもそうではなかった。
「こうも堂々と背を向けられると、正直複雑だのう」
苦笑まじりにレンギョウが一人ごちる。吊り橋の向こう、正面に整然と並んだ鋼色の兵たちは国王軍と同じく北を向いていた。勿論、皇帝軍の全員が背を向けているわけではない。レンギョウの位置からは見えないが、おそらく右側に配置された兵は西を向き、左側に配置された兵は東を向いているのだろう。
彼らの中心、斥候の報告にあった空白地帯から不思議な音が響いてきた。音域も節回しも統一されていない、けれど奇妙な一体感を持った、その旋律。
「破魔の弓鳴りか」
呟く声を拾い、レンギョウは傍らの護衛を見上げる。その視線に気づいたのか、イブキは軽く肩をすくめて亀裂の向こうに目をやった。
「先帝——と言っていいのかね。前回もこうやって”山の民”が弓弦を鳴らす中で戴冠したんだ」
レンギョウは無言で頷く。では、いよいよ即位式が始まったのだ。
皇帝軍十万は今、国王軍と対峙しているのではない。彼らが戴く新たな皇帝が誕生する瞬間を見届けようとしているのだ。
皇帝即位の式次第など、無論レンギョウの知識にはない。だが戦場での戴冠や即位が普通ではないことは間違いない。
皇帝アザミの予期せぬ死による混乱を最小限に留めるため、あくまで儀礼的に行われる式典。準備にかける時間もほとんどなかったはずだから、すべて終わるまでにそう時間はかからないはずだ。
即位式が終われば、目の前の鋼色は一斉に反転するだろう。新たな領主を戴いた高揚と歓喜のままに。
——そして、彼らを束ねる新領主こそがアサザなのだ。
「式が終わるまで陛下は撃ってこない、と確信してるみたいだな」
暗渠に落ちかけた思考をイブキの声が引き戻す。鷲鼻の男は彼方の皇帝軍へ眇めた眼差しを向けたままだ。
「何が言いたい」
きり、と胃が痛んだ。
「それが誰であろうとも、即位式の邪魔立てをするほど余は無粋ではない」
「何のことだ? 俺は別に何も言ってないぜ」
片眉を上げたイブキがしれっと答える。知らず吐いた息と一緒に、レンギョウの肩の力も抜けた。
「おぬしの言葉、誤解されやすいと言われぬか?」
「そうだな。モテモテの美男子だった頃、女の子によく言われたっけかな」
今も立派な美中年だけどな、と笑い混じりに続いた発言をあっさり聞き流して、レンギョウは再び対岸に注意を向ける。いつしか弓鳴りはやみ、不気味なほどの静寂が橋の向こうを覆っていた。
「それにしても、少々静かすぎるとは思わぬか」
「皇帝領は何につけ空気が重いから、こんなもんだと思うぜ」
「ふむ」
そんなものかと納得しかけた瞬間だった。
ざわ、と声なき声が走った。対岸の兵たちが静かにどよめき、息を呑む。
「——何だ?」
注視するレンギョウたち国王軍の眼前で、静かな波紋は皇帝軍の中心から端々へと広がっていく。微かなざわめきが次第に大きな快哉へ。意味を成さぬ声の集合の中、ふいによく通る声が叫んだ。
「皇帝陛下、万歳!」
思わずレンギョウは息を詰める。アサザが、即位した。
既に新帝を讃える声は対岸に満ちあふれていた。これまでの静寂が嘘のように熱狂し、口々にアサザの名を叫んでいる。
ふいに対岸の人垣が割れた。皇帝軍の中心から、レンギョウの眼前にある吊り橋まで伸びる一本道。できたばかりの通路に、鎧の群が一斉に向き直る。彼らが響かせる鈍い金属音が、威圧感を伴ってこちら側に立つ者の鼓膜を叩いた。
「反転、来るぞ! 敵襲に備えよ!!」
よく通る声の主はススキだろうか。橋の向こう側とは対照的な張りつめた静けさを保ったまま、国王軍は来るべき戦闘へ向けて緊張を高めていく。
最前線に立ったレンギョウは、鋼色の通路の先を見つめている。先陣を切るのは、あの若葉色の瞳の女戦士だろうか。それとも。
馬蹄の音が耳を叩く。最初は一騎。やや時を置いて、それは一気に群をなした轟きとなる。
通路の向こうに黒い点が見えた。後ろに続く鋼色の波とは明らかに違う色彩、紫の肩布が栗毛の馬上に翻る。
「……アサザ」
我知らず零れた呟きは希望か、絶望か。迫り来る現実に未だ確たる答えを掴めぬまま、レンギョウは右手を上げる。
夢で見た蓮の仕草を辿るように。
——あんたが迷った分だけ、兵は死ぬ。
いつかのイブキの声が耳を聾するほどに頭の中で響いている。
撃ちたくない。撃たなければ。
相反する心に震える指と視界。何とか目標の吊り橋を捉え、そこに落ちる雷を思い描く。十二万の命を預かる長として、魔法で彼らを束ねる聖王として、せめて己に課した任務は果たさねば。
上空に黒雲が湧き起こる。国王、皇帝双軍からどよめきが起きた。みるみる暗雲に覆われる空、畏怖も恐怖も圧する雷鳴が草原の空気を震わせる。
「来るな、皇帝! 余はおぬしを撃ちたくはない!」
この距離で、ましてこの雷鳴で、レンギョウの声が届くはずもない。だからアサザが笑ったように感じたのは間違いなく気のせいだ。
生ぬるい風がその場にいるすべてを撫で疾り、両軍の中間に位置する吊り橋へと収斂する。
一呼吸の後、天が吼えた。それが桁外れの雷鳴だと理解できた者はその場にどれほどいただろう。視界のすべてを白く染め上げ、稲妻は真っ直ぐに吊り橋を目指す。
瞬間、閃いた光。
雷より鋭いその光は地上に抜き放たれたもの。アサザが手にした抜き身の”茅”が、天空の残光を集めて燐光を放つ。
否、燐光は刀身自体から発せられていた。刃から零れた光は瞬く間に黒鎧の周辺に溢れ、一気に皇帝軍全体を覆いつくしていく。
圧力さえ伴った轟音がその場にいる全員を叩いた。人馬の悲鳴さえ呑み込んで、光と音がその場のすべてを支配する。
残響の中、レンギョウは伏せていた瞼を上げた。徐々に色彩を取り戻していく視界の隅、空の黒雲は早くも散じ始めている。地上に薄日が射した。弱い光が黒々と眼前の建造物の影を描き出す——縄一本損なわれてはいない、吊り橋の姿を。
「……何故」
呆然とレンギョウは呟く。確かにあの橋の破壊を願ったはず。
対岸に目を向ける。鋼色の兵団は健在のようだった。一様に踞り顔を伏せているのは、無意識に雷を避けようとしたせいだろう。戦場に慣れているはずの騎馬ですら棒を呑んだように立ち尽くしているのが見える。
その騎馬団の先頭、黒鎧姿の戦士を乗せた栗毛だけが首を上げ、耳を立てて静かに佇んでいた。その騎手の右手には抜き身の刃。
銀髪の聖王と、黒鎧の皇帝。広い草原でただ二人、顔を上げた領主たちの視線が交錯した。
呼びかけは声にならなかった。アサザの持つ刀から零れる燐光がふいに量を増し、見間違いようのない輪郭で中空に一つの姿を描いていく。
「……な」
燐光そのままの透き通るような白い肌、人形のように整った目鼻立ち、冷たさを帯びた銀青色の瞳、そして滝のように流れ落ちる長く豊かな銀髪。目を見張るレンギョウ自身とよく似た、けれど決定的に温度の違う微笑がそれの頬に浮かぶ。
『ようやく逢えたな、魔王の末裔よ』
響いた声に確かに聞き覚えがあった。いつかの夢の中、幼さを帯びた娘の面影が瞬時に浮かぶ。
「まさか……御先祖様!?」
レンギョウの声に満足そうな表情を見せ、それはふわりと空へと飛び立った。レンギョウを、アサザを、彼らが率いる兵たちを悠然と見回して、その姿を見せつけるかのように細い両腕を広げる。
『再び戦場に顕現叶いしこと、心から嬉しく思う。我が名は破魔刀”茅”。魔法により創られ、魔法を破るために存在するもの』
”茅”の声は決して大きくはない。しかし楽しげな色さえ帯びたそれは両軍の隅々まで響き、聞き逃しようのない明瞭さで聞く者の耳に届く。
『我の力を信じるも信じぬも自由。だが見ての通り雷の後も橋は健在だ。のう?』
ざわ、と浮き足立ったのは国王軍。動揺が細波のように広がる様に隠しきれない愉悦を滲ませて、光の化生は婉然たる笑みを浮かべた。
『橋は我が守った。我の前で魔法は効かぬ』
今度反応したのは皇帝軍の方。魔法への畏怖で萎縮していた手足に力が戻ったのか、背筋を伸ばして天へ、”茅”へと吼える。その瞳にしっかりと対岸の国王軍を見据えて。
『己の無力をとくと知るがいい、聖王よ』
重い蹄鉄の響きが”茅”の声に重なった。突撃を再開した皇帝軍が一斉に三つの橋を目指して動き出した。
中央の橋を最初に駆け抜けたのはアサザだった。若葉色の飾り紐をつけた兜がその後を追う。
「こりゃまずい。陛下、退くぞ」
イブキに腕を掴まれても、レンギョウは上空に縫い止められた視線を逸らすことが出来なかった。そこに居る自分に、夢の中の少女によく似た、悪意に満ちた眼差し。
「何故……どうして、貴女が」
知らず零した言葉が、迫り来る蹄鉄の轟音にかき消される。
——皇帝軍、進軍開始。
<予告編>
”山の民”が奏でる破魔の旋律。
幼い両手に抱えられた冠に、
息を詰めて見守る兵たちに、
アサザは問う。
「皇帝とは、何だ」
皇帝になりたいと思ったことなど一度もない。
けれど。
守りたいものがあった。
守れなかったものがある。
だからこそ。
「力を貸してほしい。この国の、未来のために」
『DOUBLE LORDS』結章3、
黒鎧の戦士が駆け抜けた橋は
並び立つ二人の領主が目指す未来へと続く道なのか。
——長い物語の終わりが、始まる。
黒い、影。
いつまでも消えないそれの正体が己の中に潜む迷いだと、とうにレンギョウは気づいている。
アザミ崩御の報以来、皇帝軍側の動きは逐一報告されていた。レンギョウが魔法で作り上げた大亀裂を乗り越えるための吊り橋の建設。さらには、橋の落成に合わせて新帝の即位式が行われるという情報も。
吊り橋への対策は既に固まっていた。
即位式に合わせ、国王軍の主力を左右の吊り橋前に展開。中央正面にはレンギョウ自らが立ち、皇帝軍を牽制する。
勿論それしきのことで皇帝軍が萎縮して式典を取りやめるとは思っていない。眼前で強行されるであろう式の直後に、三基ある橋のうち正面の一基を魔法で落とす。向こう岸が混乱に陥ったところで、すかさず残った左右の橋を国王軍が渡り攻撃を仕掛ける。
新帝即位で上がった士気に冷水を浴びせるため、レンギョウ自身が提案した策だった。
犠牲を最小限に抑える為に魔法を遣う。それが『聖王』たる自分の役目。そう自覚すればするほど、レンギョウの心は沈んでいく。
今回の作戦について、イブキは一切口を挟まなかった。あの男のことだ、レンギョウに気を遣ったということはないだろう。黒い影を背負った男はレンギョウの出方を見極めているのだ。『聖王』であり、『新皇帝』の友人でもある、この自分の。
すっかり馴染みとなった鳩尾の痛み。小さく息を吐いてレンギョウは彼方の草原へ視線を向ける。
悩むな。迷うな。
しかし。
皇帝に会うことが親征の目的だった。アザミと会見し、この国のこれからのあり方を話し合う。それが長い間二人の領主の間で利用され続けてきた中立地帯の状況を改善すると同時に、ここまで緊迫してしまった両都間のいざこざを収束させる唯一の道であると。
それは相手がアサザになったところで同じはずだった。むしろ面識があるだけ話し合いは円滑に進むはず、そういう希望的観測さえ持っていた。
何度も考えた。アサザと同じ卓に着き、この国の未来を話し合うことを。
だが。
どんなに考えても、具体的な話し合いの内容が浮かんでこない。何を話せばいいのか、分からない。
自分は、『聖王』は、この国をどうしたい?
国王領の民を守りたいか? 躊躇いなく頷ける。
中立地帯を救いたいのか? 己にその力があるのなら。
皇帝領を滅ぼしたいのか? ……おそらく、違う。
ならばどうする。中立地帯が味方につけば、二つの領主の力の均衡など簡単に覆る。そもそもがこの小さな島に二つの領主が併存していること自体に無理があったのだ。ここでレンギョウやアサザが現在の問題を解決したとしても、時代が下れば必ず新しい問題が持ち上がり二人の領主は争い合うだろう。そして中立地帯が巻き込まれ、この島の民が死ぬ。
レンギョウは遠い未来のことにまで責任は持てない。その時代の問題はその時代に生きている人間に解決してもらうしかない。今、レンギョウがそうしているように。
だが遠い過去——創国の時代から続く矛盾には、そろそろ終止符を打っても良いのではないか。
時の霞の向こう側、垣間見た記憶。
真なる魔王・蓮が心から願ったのは一人の人間としての、当たり前の幸せだった。蓮が自らの命と幸せと引き換えにたぐり寄せようとした夢は、皮肉にも彼女を失ったことによって歪められ、ねじ曲げられて、今この時代の人間にまで絡みつく呪いとなってしまっている。
元の願いがどんなに尊く美しいものであったとしても、現在を生きる者の妨げになるのであれば——それはただの亡霊だ。
「陛下」
呼びかけに振り返ると、白銀の甲冑に身を包んだ兵が立っていた。
「皇帝軍に動きがあったようです」
「分かった」
恭しい所作を崩さないまま先導する国王兵の後ろ姿を、レンギョウは見つめる。主が迷いを抱えていることなど想像もしていないであろう、その背中。
ふと、問いかけたくなったのは何故だろう。己一人では結論の出ない、堂々巡りの自問自答を。
「おぬしは、余が皇帝を倒すことを望んでおるのか?」
白銀の国王兵はぴたりと足を止めた。一瞬の沈黙を経て返って来た声は、思いの外落ち着いている。
「陛下の島国統一を望む者は周囲に多くおります」
「そうか」
「しかし私は——必ずしもそれを望んでおりません」
レンギョウの眉がぴくりと跳ねた。
「何故だ?」
「不敬を申し上げました。申し訳ありません、どうかお忘れいただけますよう」
「咎めているわけではない。何故おぬしは余の統一を望まぬ?」
今度の間は間違いなく逡巡の時間だろう。一呼吸の後、白銀の兵はまっすぐレンギョウに向き直った。
「決して陛下が統べる国を望んでいないわけではありません。しかし私は、第三皇子の引き渡しに居合わせてしまった」
「……そうか。おぬし、あの時の」
「はい。スミレと申します」
第三皇子アカネの遺体を引き渡す際、皇帝兵の不意打ちを叩き落とした手槍の主。あの時レンギョウの身を守った手は、今きつく握りしめられて彼自身の胸へ置かれている。
「陛下をお護りすることが私の使命。それは今も変わらず私の誇りです。しかしあの時、陛下はご自身が危険に晒されたことより、皇子が害されたことやあの女戦士が悲しんでいることにお心を痛められていた」
レンギョウは何も言わずにスミレを見やる。否、何も言えなかった。
「皆は単純に陛下が皇帝を打倒してこの国を統一すればいいと言います。けれど私が知る陛下は、きっとそのようなことは望まないでしょう。ご自分の民と同様に、皇都の戦士たちにさえお心を寄せられるお方ですから」
俯き加減だったスミレの顔が上げられる。レンギョウを見つめ返す瞳はあくまで真摯で真っ直ぐだ。
「ですから私は、ただ陛下が心から望む道を歩まれることを願っております。どうぞ悔いを残されませぬよう」
「おぬし……」
「差し出がましいことを申しました。お許しくださいませ」
視線を切り頭を下げるスミレにレンギョウは頷く。もとより責めるつもりなどない。
「構わぬ。おぬしの心、嬉しく思う」
そう、嬉しい気持ちに偽りはない。だが同時に胃の腑に走る痛みもまた現実だった。
自分自身が望むこと。後悔しない選択。
それが、分からない。
しかし現実には迷っている時間などない。スミレはレンギョウを正確に先導した。出陣準備のため忙しく立ち働く兵士たちの隙間を縫って導かれた場所は、見晴らしのいい草原の一角だった。
「レン」
斥候の報告を受けていたシオンがレンギョウの到着に気づいて手招いた。
「動きがあったと聞いたが。式典の準備が始まったのか?」
「ええ。天幕を畳んで、隊列を整え始めている」
報告によると、隊列の真ん中の空間だけがぽっかりと空白になっているそうだ。おそらくそこで即位式を行うのであろう、という斥候の言葉に頷いて、レンギョウは次の指示を出す。
今朝動きがあることは分かっていたから、国王軍側も既に行動に出ている。戦力となる国王軍正規兵や中立地帯自警団は前方へ。中立地帯で合流し、国王と皇帝の交渉を見守ろうとついてきた義勇兵たちは天幕や食糧、資材を積んだ荷車部隊と一緒に後方へ。予め配置を分けておいたため、十二万という大所帯にも関わらず大きな混乱もなく整列は進んでいるようだった。
「よう陛下。護衛を置いて作戦会議とは感心しませんな」
見ると、今更のようにイブキが姿を現したところだった。ちらりと一瞥をくれ、レンギョウはすぐに北の空へと目を向ける。
「身辺におらぬ護衛などにいちいち伺いを立てる気にはなれぬ」
「え、いつも傍にいないの?」
シオンの当然すぎる疑問に答える気はないらしく、イブキはへらりと笑って誤魔化した。
「まぁまぁ。いざという時にはきちっと働くから堅いこと言うなよ。なぁ陛下?」
「そうだのう。おぬしにも今日はきっちり働いてもらわねばな」
今回の作戦ではレンギョウが最前線に立つ。正面の橋を落としてしまえば危険はほぼ皆無になるとはいえ、それまではどこよりも敵陣に近い位置に出ることになるのだ。当然、護衛役のイブキが果たす役割も大きくなる。
後ろで待機していたスミレの元に白銀鎧の兵が歩み寄った。二言三言の報告を受け、頷いたスミレが進み出る。
「陛下。白銀近侍、全隊準備が整いました」
恭しく頭を下げるスミレに頷き返し、自らの迷いを断ち切るようにレンギョウはきっぱりと宣言した。
「では、往くか」
整然と、粛々と、白銀鎧の隊列は進む。どれほど中立地帯の民を吸収しようと、自警団に主力を譲ろうと、最も傍近くで国王レンギョウを守るのは自分たちだと無言のうちに主張するかのような、乱れのない歩調で。
その静けさは周囲の自警団にも波及する。戦を目前に控えて全体に漂っていた浮ついた高揚感、それが最前列を占める国王軍精鋭を中心に鎮まり、適度な緊張を孕んだ空気へと塗り替えられてゆく。
国王軍の最前線、中央の吊り橋の正面でレンギョウは対岸を見つめていた。ここからは『聖王』の魔法が吊り橋を落とす瞬間を皇帝軍に見せつけるため、最も効果的な時機を見計らわねばならない。
橋を壊した直後の攻撃に備え、魔法部隊の貴族五名は予め左右の軍へ振り分けてあった。いざ戦端が開かれれば、魔法攻撃の要は彼らが担うことになる。
全軍の整列が終わる頃、十二万の軍勢は水を打ったように静まり返っていた。皆が固唾を呑んで見守る先、大亀裂の対岸では皇帝軍も布陣を完成させつつある。国王軍が全員北面——皇帝軍側を向いているのに対し、皇帝軍は必ずしもそうではなかった。
「こうも堂々と背を向けられると、正直複雑だのう」
苦笑まじりにレンギョウが一人ごちる。吊り橋の向こう、正面に整然と並んだ鋼色の兵たちは国王軍と同じく北を向いていた。勿論、皇帝軍の全員が背を向けているわけではない。レンギョウの位置からは見えないが、おそらく右側に配置された兵は西を向き、左側に配置された兵は東を向いているのだろう。
彼らの中心、斥候の報告にあった空白地帯から不思議な音が響いてきた。音域も節回しも統一されていない、けれど奇妙な一体感を持った、その旋律。
「破魔の弓鳴りか」
呟く声を拾い、レンギョウは傍らの護衛を見上げる。その視線に気づいたのか、イブキは軽く肩をすくめて亀裂の向こうに目をやった。
「先帝——と言っていいのかね。前回もこうやって”山の民”が弓弦を鳴らす中で戴冠したんだ」
レンギョウは無言で頷く。では、いよいよ即位式が始まったのだ。
皇帝軍十万は今、国王軍と対峙しているのではない。彼らが戴く新たな皇帝が誕生する瞬間を見届けようとしているのだ。
皇帝即位の式次第など、無論レンギョウの知識にはない。だが戦場での戴冠や即位が普通ではないことは間違いない。
皇帝アザミの予期せぬ死による混乱を最小限に留めるため、あくまで儀礼的に行われる式典。準備にかける時間もほとんどなかったはずだから、すべて終わるまでにそう時間はかからないはずだ。
即位式が終われば、目の前の鋼色は一斉に反転するだろう。新たな領主を戴いた高揚と歓喜のままに。
——そして、彼らを束ねる新領主こそがアサザなのだ。
「式が終わるまで陛下は撃ってこない、と確信してるみたいだな」
暗渠に落ちかけた思考をイブキの声が引き戻す。鷲鼻の男は彼方の皇帝軍へ眇めた眼差しを向けたままだ。
「何が言いたい」
きり、と胃が痛んだ。
「それが誰であろうとも、即位式の邪魔立てをするほど余は無粋ではない」
「何のことだ? 俺は別に何も言ってないぜ」
片眉を上げたイブキがしれっと答える。知らず吐いた息と一緒に、レンギョウの肩の力も抜けた。
「おぬしの言葉、誤解されやすいと言われぬか?」
「そうだな。モテモテの美男子だった頃、女の子によく言われたっけかな」
今も立派な美中年だけどな、と笑い混じりに続いた発言をあっさり聞き流して、レンギョウは再び対岸に注意を向ける。いつしか弓鳴りはやみ、不気味なほどの静寂が橋の向こうを覆っていた。
「それにしても、少々静かすぎるとは思わぬか」
「皇帝領は何につけ空気が重いから、こんなもんだと思うぜ」
「ふむ」
そんなものかと納得しかけた瞬間だった。
ざわ、と声なき声が走った。対岸の兵たちが静かにどよめき、息を呑む。
「——何だ?」
注視するレンギョウたち国王軍の眼前で、静かな波紋は皇帝軍の中心から端々へと広がっていく。微かなざわめきが次第に大きな快哉へ。意味を成さぬ声の集合の中、ふいによく通る声が叫んだ。
「皇帝陛下、万歳!」
思わずレンギョウは息を詰める。アサザが、即位した。
既に新帝を讃える声は対岸に満ちあふれていた。これまでの静寂が嘘のように熱狂し、口々にアサザの名を叫んでいる。
ふいに対岸の人垣が割れた。皇帝軍の中心から、レンギョウの眼前にある吊り橋まで伸びる一本道。できたばかりの通路に、鎧の群が一斉に向き直る。彼らが響かせる鈍い金属音が、威圧感を伴ってこちら側に立つ者の鼓膜を叩いた。
「反転、来るぞ! 敵襲に備えよ!!」
よく通る声の主はススキだろうか。橋の向こう側とは対照的な張りつめた静けさを保ったまま、国王軍は来るべき戦闘へ向けて緊張を高めていく。
最前線に立ったレンギョウは、鋼色の通路の先を見つめている。先陣を切るのは、あの若葉色の瞳の女戦士だろうか。それとも。
馬蹄の音が耳を叩く。最初は一騎。やや時を置いて、それは一気に群をなした轟きとなる。
通路の向こうに黒い点が見えた。後ろに続く鋼色の波とは明らかに違う色彩、紫の肩布が栗毛の馬上に翻る。
「……アサザ」
我知らず零れた呟きは希望か、絶望か。迫り来る現実に未だ確たる答えを掴めぬまま、レンギョウは右手を上げる。
夢で見た蓮の仕草を辿るように。
——あんたが迷った分だけ、兵は死ぬ。
いつかのイブキの声が耳を聾するほどに頭の中で響いている。
撃ちたくない。撃たなければ。
相反する心に震える指と視界。何とか目標の吊り橋を捉え、そこに落ちる雷を思い描く。十二万の命を預かる長として、魔法で彼らを束ねる聖王として、せめて己に課した任務は果たさねば。
上空に黒雲が湧き起こる。国王、皇帝双軍からどよめきが起きた。みるみる暗雲に覆われる空、畏怖も恐怖も圧する雷鳴が草原の空気を震わせる。
「来るな、皇帝! 余はおぬしを撃ちたくはない!」
この距離で、ましてこの雷鳴で、レンギョウの声が届くはずもない。だからアサザが笑ったように感じたのは間違いなく気のせいだ。
生ぬるい風がその場にいるすべてを撫で疾り、両軍の中間に位置する吊り橋へと収斂する。
一呼吸の後、天が吼えた。それが桁外れの雷鳴だと理解できた者はその場にどれほどいただろう。視界のすべてを白く染め上げ、稲妻は真っ直ぐに吊り橋を目指す。
瞬間、閃いた光。
雷より鋭いその光は地上に抜き放たれたもの。アサザが手にした抜き身の”茅”が、天空の残光を集めて燐光を放つ。
否、燐光は刀身自体から発せられていた。刃から零れた光は瞬く間に黒鎧の周辺に溢れ、一気に皇帝軍全体を覆いつくしていく。
圧力さえ伴った轟音がその場にいる全員を叩いた。人馬の悲鳴さえ呑み込んで、光と音がその場のすべてを支配する。
残響の中、レンギョウは伏せていた瞼を上げた。徐々に色彩を取り戻していく視界の隅、空の黒雲は早くも散じ始めている。地上に薄日が射した。弱い光が黒々と眼前の建造物の影を描き出す——縄一本損なわれてはいない、吊り橋の姿を。
「……何故」
呆然とレンギョウは呟く。確かにあの橋の破壊を願ったはず。
対岸に目を向ける。鋼色の兵団は健在のようだった。一様に踞り顔を伏せているのは、無意識に雷を避けようとしたせいだろう。戦場に慣れているはずの騎馬ですら棒を呑んだように立ち尽くしているのが見える。
その騎馬団の先頭、黒鎧姿の戦士を乗せた栗毛だけが首を上げ、耳を立てて静かに佇んでいた。その騎手の右手には抜き身の刃。
銀髪の聖王と、黒鎧の皇帝。広い草原でただ二人、顔を上げた領主たちの視線が交錯した。
呼びかけは声にならなかった。アサザの持つ刀から零れる燐光がふいに量を増し、見間違いようのない輪郭で中空に一つの姿を描いていく。
「……な」
燐光そのままの透き通るような白い肌、人形のように整った目鼻立ち、冷たさを帯びた銀青色の瞳、そして滝のように流れ落ちる長く豊かな銀髪。目を見張るレンギョウ自身とよく似た、けれど決定的に温度の違う微笑がそれの頬に浮かぶ。
『ようやく逢えたな、魔王の末裔よ』
響いた声に確かに聞き覚えがあった。いつかの夢の中、幼さを帯びた娘の面影が瞬時に浮かぶ。
「まさか……御先祖様!?」
レンギョウの声に満足そうな表情を見せ、それはふわりと空へと飛び立った。レンギョウを、アサザを、彼らが率いる兵たちを悠然と見回して、その姿を見せつけるかのように細い両腕を広げる。
『再び戦場に顕現叶いしこと、心から嬉しく思う。我が名は破魔刀”茅”。魔法により創られ、魔法を破るために存在するもの』
”茅”の声は決して大きくはない。しかし楽しげな色さえ帯びたそれは両軍の隅々まで響き、聞き逃しようのない明瞭さで聞く者の耳に届く。
『我の力を信じるも信じぬも自由。だが見ての通り雷の後も橋は健在だ。のう?』
ざわ、と浮き足立ったのは国王軍。動揺が細波のように広がる様に隠しきれない愉悦を滲ませて、光の化生は婉然たる笑みを浮かべた。
『橋は我が守った。我の前で魔法は効かぬ』
今度反応したのは皇帝軍の方。魔法への畏怖で萎縮していた手足に力が戻ったのか、背筋を伸ばして天へ、”茅”へと吼える。その瞳にしっかりと対岸の国王軍を見据えて。
『己の無力をとくと知るがいい、聖王よ』
重い蹄鉄の響きが”茅”の声に重なった。突撃を再開した皇帝軍が一斉に三つの橋を目指して動き出した。
中央の橋を最初に駆け抜けたのはアサザだった。若葉色の飾り紐をつけた兜がその後を追う。
「こりゃまずい。陛下、退くぞ」
イブキに腕を掴まれても、レンギョウは上空に縫い止められた視線を逸らすことが出来なかった。そこに居る自分に、夢の中の少女によく似た、悪意に満ちた眼差し。
「何故……どうして、貴女が」
知らず零した言葉が、迫り来る蹄鉄の轟音にかき消される。
——皇帝軍、進軍開始。
***************************************************************
<予告編>
”山の民”が奏でる破魔の旋律。
幼い両手に抱えられた冠に、
息を詰めて見守る兵たちに、
アサザは問う。
「皇帝とは、何だ」
皇帝になりたいと思ったことなど一度もない。
けれど。
守りたいものがあった。
守れなかったものがある。
だからこそ。
「力を貸してほしい。この国の、未来のために」
『DOUBLE LORDS』結章3、
黒鎧の戦士が駆け抜けた橋は
並び立つ二人の領主が目指す未来へと続く道なのか。
——長い物語の終わりが、始まる。
”山の民”特有の頑朴な弓は、無骨な外見に似合わず高く澄んだ弦音を響かせる。強く剛く張られた弦は、もとより音を奏でるためのものではない。ゆえに音律も揃わず、速度もばらばら。だが百を超える奏で手が一斉に弦を爪弾くと、不思議と統一された旋律として耳に響いてくる。
皇帝の即位の際、必ず奏でられる”山の民”の破魔の弓鳴り。前回の演奏、つまり父帝の即位はアサザが生まれるよりずっと前のこと。話に聞いたことはあっても、実際に耳にするのは初めてだ。
——どんな音なんだろうね。聴いてみたい、と思うのはやっぱり不敬になるのかな。
記憶の中の幼い兄が悪戯っぽい微笑みを零す。音の響きのみで一瞬にして場の空気を塗り替える力を持つ韻律。これが。
——兄上、聴こえていますか。
空へと一つ息を吐き、アサザは正面に向き直る。自分のために弓が鳴る日が来るなど、あの頃は想像もしていなかった。
しかし今、林立する鋼色の鎧の中心にアサザはいる。
潮が引くように弓鳴りの音が収まった。
相対した皇帝軍の隊列の前に陣取った”山の民”の一団から、小さな影がそっと押し出されてきた。村長である父の手を離れ、進み出てきたのはカタバミだ。今日は帽子をかぶっていない。いつもより上等な藍色の鮮やかな服を着て、お下げ髪にも”山の民”の娘らしく彩豊かな紐を編み込んでいる。
母と同じ髪紐。朧な記憶が胸の奥を掠める。
腕に抱えているのは先日見せてもらった冠だ。重みはないがかさばるそれを抱えると、途端にカタバミの足取りはあやしくなる。途中で転ばないか見守る者をひやひやさせつつ、なんとか無事にカタバミはアサザの前に辿り着いた。頬を上気させ、カタバミは得意げにアサザを見上げてくる。
「ほれ。ちゃんと転ばんで来れたべ?」
「……そうだな」
張りつめた空気が和らいだ。しかし当のカタバミは唇を尖らせたまま、何やら不満げな様子だ。
「頭」
「ん?」
「下げてくれんと、届かんべや」
言って、カタバミは冠を捧げ持ったまま背伸びをした。おそらく限界まで伸び上がっているのだろうが、冠の先端はアサザの胸元にようやく届くかどうかというところで震えている。
「ああ、悪い」
かがみ込んで、そのまま冠ごとカタバミの身体を抱え上げる。
「やっ、ちゃうべ、おめさが頭さ下げるんだべや」
幼い抗議は意に介さず、アサザはカタバミの手から冠を取り上げた。一呼吸だけ、手の中の冠を見つめる。
意外なほど軽い。山岳地帯で採れる蔓性の植物を乾かして編み上げた、皇帝と”山の民”の友好の証。
「ごめんな。これが気に入らないわけじゃないんだが」
取り返そうとする小さな両手をかいくぐって、アサザはカタバミの頭に冠をかぶせた。
きょとんと、カタバミがまん丸な目で見上げてくる。オダマキはじめ”山の民”たちの驚愕した表情、兵士たちのどよめき、クルミの意外そうな顔。それらをひとしきり見回して、アサザはゆっくりと口を開いた。
「皇帝とは、何だ」
凛と響く声に、打たれたようにざわめきが鎮まっていく。それは問いかけの形ではあっても、明らかに誰かの答えを求める言葉ではなかった。問いかけの、その先。続きを促すように人々は自然とアサザへ視線を向ける。
「冠を戴いた者が皇帝か。ならば今、この瞬間に即位したのはこのちんちくりんということになる」
皆の視線を一身に受けながら、アサザは腕の中の少女を示す。
「おめ、ちんちくりんって」
「違うというなら、皇帝に成るための条件とは何だ。この国を統べる者と成るために必要なものとは何だ」
胸元から上がる抗議を無視して、アサザは言葉を継ぐ。
「皇帝の血を引く者か。この冠をかぶせられた者か。違う」
ふいに父の顔が胸に浮かんだ。兄の、弟の、母の、そして——夢で見た、黒鎧の戦士の面影も。
「冠を戴いたから皇帝に成るのではない。皆に戴かれて初めて、俺は皇帝に成れるんだ」
父がいて、兄がいた。数年前の自分に今日この日が来ると告げたところで、まったく信じはしなかっただろう。自分はアカネやブドウと共に皇帝を支える立場だと。それ以上を望むつもりなどないと。
「俺は多分、いい皇帝にはなれない。皇帝なんてものになりたいなんて思ったことは一度もないし、こんな冠をかぶる自分を想像したことさえなかった。だが」
今度浮かんだのはレンギョウの顔。夢の中の銀髪の少女の面影が記憶を掠めて、破魔刀に宿った化生に塗り替えられていく。その勝ち誇ったような笑みへ向けて、アサザは言う。
「俺はこの国を変えたい。生まれた場所が違うだけで皇帝だ、国王だと憎み合い殺し合う。こんな現在を変えたいんだ」
ようやく形を成した願いを握りしめ、目の前の兵たちに視線を向ける。全身に痛いほど感じる彼らの眼差し。
現在を変える。その一言で点した熱が、確かに伝わっていく。
「俺と一緒に現在を変えたいと思ってくれる者がいるなら、力を貸してほしい。この国の、未来のために」
次の瞬間に轟いた快哉は、紛うことなくアサザへの返答だった。空を揺らし、地に響く、アサザを新たな皇帝と認める声。
「皇帝陛下、万歳!」
よく通る声が耳に飛び込んできた。それをしおに意味を成さぬ喧噪は秩序を取り戻し、アサザを讃える声へと変化していく。
讃えられようが、崇められようが、望むことはただ一つ。
カタバミを抱えたまま、アサザは近くで控えていた近衛隊長へと歩み寄る。隊長は目の前の事態に完全に呑まれ、立ち竦んでいた。アサザの接近に気づいてびくりと顔を上げた彼の腕へ、すとんとカタバミの身体を落とす。
「勅命だ。この子を安全な場所で守り抜け」
編み込み髪の頭を冠ごとぽんと叩き、アサザは踵を返した。
「アサザ」
幼い呼びかけに小さく笑って応え、アサザは近くに控えた兵を一瞥する。目配せをきちんと汲み取った兵がすかさずキキョウを牽いてきた。手綱を受け取り、一息に鞍上へ飛び乗る。
「道を」
短い指示。それだけで充分に意味は通じた。国王軍と相対する南面の兵たちが、陣の真ん中から左右に分かれていく。移動中の鎧が触れ合う音。それが一呼吸だけ静まった後、鋭さを帯びた音色を奏でながら一斉に中央の通路へと向き直る。
出来上がった一本道は、突貫工事で作った例の吊り橋を経て国王軍に続いている。
この道の先は希望か、絶望か。
呼気と共に発した声を合図にキキョウは走り出す。迷いはなかった。どちらにせよ、既にもう前にしか道はないのだから。
鋼色の人垣を駆け抜ける途中、ふいに一人の兵の声が耳に飛び込んできた。
「無冠帝アサザ、万歳」
思わず苦笑が零れる。どうやら早くも綽名をつけられてしまったらしい。
「偉いんだか偉くないんだか」
揺れる視界の中、心は思いの外平静だった。前方には上気した顔のまま敬礼を向けてくる皇帝軍の兵たち。彼らの歓呼の声は瞬く間にすぐ後ろから響く鋼鉄の蹄音に取って代わり、儀式によって浮ついた雰囲気を本来の戦場の空気へと塗り替えていく。
鋼色の壁を抜ける頃、ふいに視界に影が落ちた。背中から吹き抜けてきた生ぬるい風で肩布が翻る。
——紫のまま。そういえば外す時機を逸したままキキョウを走らせてしまったのだった。
皇太子の身分を表す色。だがアサザがその色を選んだ理由こそ、きっとこの場ではふさわしい。
戦場では必ず、誰かが命を落とすのだから。
ふと見上げた空が雲に覆われていく。濃厚な雷の気配を纏った暗雲は瞬く間に頭上を覆い、厚く幾重にも重なっていく。
「……レン」
嫌でも目に入る聖王の明白な攻撃の意志。鈍色の空はどこまでも重く、わずかな希望さえ見出せないかに思える。だが。
『いつから私はお前の友人になったのだ?』
甦ったのはかつてのレンギョウの声。その時自分がどんな答えを返したのかは覚えていない。けれど多分、今とそう変わりはしないだろう。
死にたくない。
死なせたくない。
——向こうも、そう思ってくれているだろうか。
ついに雷鳴が鳴り響いた。鎧を突き抜け、体中の組織を揺さぶるような、低く圧倒的な音圧の中で。
「来るな皇帝! おぬしを撃ちたくはない!」
聞こえるはずがない。この距離で、この雷で。それでも。
笑みが零れた。
まだ、信じてくれている。だから自分が死ぬのも、レンギョウが死ぬのも嫌だ。
戦わなければならない。聖王とではなく。国王軍とでもなく。
皇帝と国王を、アサザとレンギョウを、戦わせようとする意志と。この島国が辿ってきた歴史と。
——そのためになら、命を賭けても惜しくはない。
空気が変わった。生ぬるい風が頬を撫で、鎧越しの大気の帯電濃度が跳ね上がる。
一瞬の判断。だが間違いなく自分の意志でアサザは”茅”を抜き放った。ちりちりと細かく震える宙を裂いて、雷光を映す刃を上空に翳す。
出番だ、おばば。俺はもう、逃げない。
刹那、視界が白一色に塗りつぶされた。落ちた、と頭より先に身体が理解する。そして。
天が吼えた。それは音というより既にして衝撃で、鼓膜に届くより先に全身の皮膚に叩きつけてくる。聴覚はあっという間に存在理由を放棄した。長いようで短い、一時の沈黙。
静寂の余韻と共に世界に溢れた光は次第に薄れていく。自分の腕が、キキョウの頭が、徐々に輪郭と色を取り戻し、本来の形を取り戻していく。目に映るそれには雷に打たれた痕はおろか、瑕疵一つ見当たらない。
ただ一つ、”茅”の刀身だけが変化していた。吸い込まれるような鋼の刃、それが纏う燐光が零れるほどに強く煌びやかに瞬いている。否、光は”茅”自身から溢れていた。
周囲を見回す。予想に反してカヤの姿は見当たらない。代わりに目に入ったのは周囲にいる兵たちの姿。皆一様に頭を抱えて踞っているものの、倒れたり怪我をしている様子は見えない。音に敏感なはずの馬たちも、かつて遭遇したことのない雷鳴に度肝を抜かれたのか、嘶き一つ零さず立ち尽くしている。
”茅”はこれ以上ないほど完璧に役割を果たしていた。
軽く手綱を引かれて、アサザは目線を傾ける。大音響に驚いたのはキキョウとて同じはず、だが聡明な愛馬は次に為さねばならないことを予期しているかのようにまっすぐ首を上げて前方を見据えていた。
一本道は続いていた。草原を切り裂く大亀裂に渡された吊り橋、対岸の人の群。あれだけ大規模な魔法だ、橋のこちら側だけを雷で覆うなどという器用なことはできなかったはず。その証拠に国王の味方であるはずの自警団や近侍兵までも皇帝軍と同様に防御の姿勢を取って地面に伏せている。
顔を上げて立っているのは、ただ一人。
「レン」
風に流れる、見間違いようのない銀髪。華奢なのに不思議と大きく見える、凛とした立ち姿。この距離では顔かたちの委細など見えはしない。だがそこにあるのは間違いなく、アサザの記憶の中にある友人の姿だった。
過ぎ去った時間に重ねる久闊より、これから刃を交えるのだという悲愴より。
声を詰まらせたのは孤独だった。敵も味方もなく、圧倒的な魔力で総てを跪かせる聖王の姿。恐怖はなかった。ただただ痛ましくて、やり切れない感情だけがこみ上げてくる。
なんだよ。お前、味方にまで怖がられてるのかよ。そんな奴らに作法の師匠とやらから習った偉そうな言葉で命令してるのかよ。毎日、毎日。
——そんなの、寂しすぎるだろう。
広い草原を隔てて、顔を上げた領主たちの視線が交錯する。レンギョウが何か言いたげに腕を上げた、その時。
”茅”から溢れる燐光がふいに量を増した。瞬時に意味を悟ったところで、アサザはそれを止める術など持ってはいない。ただ見守るしかできない中空で光は縒り集まり、明確な意志で一つの姿を形作っていく。
「……出たな、おばば」
せめてもの意趣を込めて呟くと、すかさず凍てつかんばかりの眼光が降ってきた。視線の温度は変えないまま、カヤは婉然たる微笑を唇に湛えて戦場を見回す。居合わせた者が皆ひれ伏す光景に昏い満足を口の端に散らして、破魔刀の化身は彼方の聖王をひたと見据えた。
『ようやく逢えたな、魔王の末裔よ』
これだけの距離を隔てていても、レンギョウが驚いているのが見て取れる。自分と生き写しの化生が現れたからというだけの理由ではあるまい。
——おぬしが見た夢。王も同じものを見ておるぞ。
あの日アサザが見た創国の幻を、本当にレンギョウも見ていたのだとしたら。
アサザとレンギョウそれぞれが同じ面影を脳裏に描いたのを見澄ましたように、カヤはふわりと空へと飛び立った。かつての魔王レンと同じ細くしなやかな両腕を広げ、夢の中の光景と同じように現在の戦場を見下ろす。
『再び戦場に顕現叶いしこと、心から嬉しく思う。我が名は破魔刀”茅”。魔法により創られ、魔法を破るために存在するもの』
あいつ、楽しんでやがる。アサザは苦々しくカヤの横顔を見上げる。
既に周囲の兵たちも顔を上げていた。茫然とカヤの姿を見上げ、その言葉に耳を澄ませている。おそらくまだ心が追いついていないのだろう。聖王の雷の直後に現れた光の化身。敵か味方かさえ判然とせず、だが明らかに己の手の届く存在ではないと理解できるもの。
『我の力を信じるも信じぬも自由。だが見ての通り雷の後も橋は健在だ。のう?』
ざわ、と国王軍が揺らいだ。
そう、吊り橋は落ちていない。こちらからあちらに繋がる道はまだ途切れてはいない。
『橋は我が守った。我の前で魔法は効かぬ』
どっと上がった鬨の声に驚いて振り返る。もう地べたに伏している者など誰一人いなかった。皆が立ち上がり、手にした得物を握り締めて”茅”の声に応えている。
放たれる寸前の矢のように。
カヤの登場による動揺の波が収まると、自分の役割が明確に形を成していた。
既に覚悟はしていた。最早止められぬ戦なら、一刻も早く終わらせるよう戦うだけ。アサザは手綱を握り直す。応えてキキョウの蹄が軽く地を掻いた。
『己の無力をとくと知るがいい、聖王よ』
違うぜ、おばば。俺たちは確かに非力だ。だが決して無力ではない。
アサザの合図と共にキキョウが走り出す。半瞬遅れて数騎が続き、さらに多くの蹄音が重なる。再開された突撃はそれぞれの隊が当初目標としていた橋へ向けて殺到を始めた。
誰よりも早く中央の橋を駆け抜けたのはアサザだった。それに追いすがる勢いで続く馬上に揺れているのは、若葉色の飾り紐。
「アサザ、この馬鹿ちょっと待て!」
「馬鹿ってなんだ、馬鹿って!」
久しぶりに聞く威勢のいいブドウの声に自然と笑みが零れる。張り合うように返した言葉に、もちろん怒りはない。
「ああ何度でも言ってやるさこの馬鹿。お前自ら突撃してどうする! ここは私に任せろ!」
ブドウの口調もいつも通り、アオイの宮で軽口を叩き合っていた頃のまま。だがその重みはまったく違っている。”茅”によって魔法での攻撃が封じられたとはいえ、国王軍の兵力そのものは健在なのだ。生きるか死ぬか。二人が駆けているのは、そんな危うい境界線上だった。
「今日のお前の仕事は無事に即位してみせて軍の士気を上げることだ。いの一番に突撃して無駄に危険を冒すことじゃない」
「しかし」
「いいから。戦場の先輩の言うことは素直に聞いておけって」
逡巡したのは相反する感情のせいだった。戦の実際はブドウをはじめとする部下へ任せ、後方で指揮を執るべきだと判ずる皇帝としての理性。国王への敵意しか持ち得ない皇帝軍の中で誰より早くレンギョウの元へと駆けつけて、俺の友人に刃を向けるなと言ってやりたい衝動。実現確率の打算など飛び越えて、二つの心が今なお鬩ぎ合っている。
迷った分、敏感なキキョウは脚を緩めていたらしい。横並びになったブドウが微かに笑いながら言った。
「なあアサザ、頼む。今度こそ、守らせてよ」
その言葉に勇ましさなど欠片もなかった。むしろ哀願に似た色調の声、その真意を悟ってようやくアサザは手綱を引いた。
ブドウが守りたかったもの。それは同時にアサザ自身の手からも零れ落ちていったものだった。
「……わかった。ただし」
追い抜いた背中に声を張り上げる。心からの祈りを込めて。これ以上誰も失いたくないと願いながら。
「ただしお前も、生きて帰ってきてくれ。必ずだぞ」
後ろ姿でもブドウが笑っているのが分かった。見間違いようのない深い頷きを残して、若葉色の飾り紐が遠ざかっていく。歩みを止めたキキョウを、ブドウの部下たちが次々と追い抜いていく。
大亀裂は越えた。魔法は来ない。目の前には浮き足立った大軍。
アカネを失った後も、国王軍そのものに意趣を返そうなどと考えたことはなかった。少なくとも意識の上では。けれど彼らを目前にした今、こみ上げてくるこの興奮の名は何だろう。復讐より甘く、名誉より昏く。思考の闇を刃の鞘払いで振り切って、ブドウは一気に国王軍へと突入した。
どんな時でも第一撃はそれなりの抵抗に遭う。ある程度の手応えを予期して振り下ろした剣は、予想に反して空を切るに留まった。
相手の技倆に阻まれて避けられたのではない。奇声を上げて座り込んだその兵は、自警団の鎧を震わせながら地べたに屈み込んだ。
「どうして。聖王様の魔法があれば、楽に勝てるんじゃなかったのか」
足元から聞こえる震え声が無性に神経を逆撫でた。
嗚呼。これだから。
楽に勝てると思われていた屈辱。理屈ではない魔法への恐怖。アカネの笑顔。
駆け抜ける激情と、どこまでも冷徹な思考。己の中の炎と氷をそのまま刃にして、兵へと振り下ろす。
既にして周囲は鮮血に染まっていた。ほとんど無抵抗の国王軍を、殺到する皇帝軍が刈り取るだけの場。国王軍がいかに聖王に、魔法に依存していたか。その事実を見せつけられるほどに、ブドウの中でやり場のない怒りが込み上げてくる。
あの銀髪の少年に、どれほどの多くのものを背負わせるつもりなのか。
アカネを守り切れなかった後悔を彼に押し付けたのは、他でもない己自身。あの日ブドウの感情を受け止めたように、他の者たちからの期待をも聖王は拒まず抱え込んだのだろうか。
——彼自身の感情を支える者はいるのだろうか。
ふ、と視界に銀色が掠めた。血なまぐさい最前線には不似合いな、高貴な煌めき。
まさかと思いながら顔を上げる。視線の先、鉄色の鎧に守られるように彼はいた。
「聖王……」
呼びかけた掠れ声が途中で詰まる。レンギョウの隣にいる男、それは忘れもしない——
「薙刀の男だ!」
それは自分の声か、それとも部下の声か。レンギョウに重ねた感傷は、それより強い濁流で瞬時に彼方へと押し流された。狙いをただ一人に定めたブドウの脳裏に、早鐘のように明滅する言葉。
アカネの、仇。
***************************************************************
<予告編>
繰り返される流血に、
新たな復讐の連鎖が繋がれる。
レンギョウが初めて目の当たりにする、戦いの姿。
「これが、戦だ」
白銀の鎧に散る飛沫、
零れ落ちていく生命、
その果てに見出した、穏やかな微笑。
『DOUBLE LORDS』結章4、
それぞれの心と願いは種子となり、
託された者へと根付いていく。
——私が選んだ道です。後悔はしていません。
2014/6/15 第5回フリーワンライ企画参加作品
ジャンル:二次創作(美女と野獣パロディ)
【お題】
君のための嘘
メリーバッドエンド(エンド指定)
決意
縋った手は
記念日前夜
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
ジャンル:二次創作(美女と野獣パロディ)
【お題】
君のための嘘
メリーバッドエンド(エンド指定)
決意
縋った手は
記念日前夜
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
*****************************
——あなたを愛しています。
目の前で静かに微笑むのは、確かにそう誓った相手だった。柔らかく見つめる眼差し、少し長い前髪をかき上げる仕草、低く穏やかな声、すべてが私の記憶の中の彼と重なる。
けれど彼は、最早私が愛した相手ではなかった。涼やかな目許は、もっと豊かで長い毛並で隠れていた。髪に触れてくる大きな手は、しなやかで長い指先の代わりに黒くて大きな鉤爪が生えていたはず。言葉は今ほど明瞭な発音ではなく、もっと音の籠った吼え声に近いものだった。
父は、人の姿を取り戻した彼を見て一目で気に入った。彼の召使たちもまた、彼が元の姿に戻ったことを心から祝った。もちろん彼自身も、野獣の姿からの脱却を心底喜んでいた。
皆が喜んでいることを知っている。そしてそれが祝福されるべきであることも理解している。
けれど。
二人だけの舞踏会の夜、私の不慣れなステップを受け止めてくれたのは、獣のふかふかの胸元だった。城への侵入者から私を守り抜いてくれたのは、今の彼より太くて逞しい腕だった。
愛した人が突然別の姿になったとして、それを受け入れられる者がどれほどいるのだろうか。美しい若者の姿になったから、それが本来の姿だから。呪いが解けてめでたしめでたしならば、彼に出逢った時、共に恋に落ちた時、私たちが乗り越えてきたあの葛藤は一体何だったのだろう。私は彼の姿を愛したわけではない。獣の姿という呪いごと、彼の存在を愛したのだ。
襲撃者の凶刃に倒れたあの時、震えながら私に縋った手は今、満ち溢れる自信と共に私を力強く抱きしめている。
——いよいよ明日だね。
彼の言葉に私は頷く。明日は私たちの結婚式。
——ええ、とても楽しみだわ。
私は笑顔で嘘を吐く。彼を傷つけないための嘘。彼は私が人の姿を取り戻したことを喜んでいないなんて、これっぽっちも気づいていない。
だから、この胸の裡の決意にも気づかない。
そっと私は彼から身を離す。
——明日は大切な日だから、今日はもう休むことにするわ。
私の言葉に、彼は疑いもせず頷いた。おやすみの言葉を交わし、私は彼に背を向ける。
その足で向かったのは厩だった。隅の藁山の中には、既に旅路で必要なものを隠してある。
行き先は分からない。けれど訪ねる相手だけは分かっている。この世界のどこかにいる、彼に呪いをかけた魔女に会いに行く。彼女に伝えたい私の望みはただ一つ。
——彼を元の獣の姿に戻してください。
魔女は呆れるだろう。彼は哀しむだろう。父も、城の誰もが、望みはしない結末。
けれど私は、獣の姿の彼と幸せになりたいのだ。
愛した人を取り戻すため、私は婚礼の準備で沸き返る城を後にした。
*****************************
凛、と風鈴が鳴る。昨年祖母の故郷で買い求めた南部鉄器の鳴り物は硝子よりも重く、けれど澄んだ繊細な音色を響かせる。先代までの玻璃風鈴に比べ当然ながら頑丈で、軒先に吊るされたまま台風すら無傷でやり過ごした。
ぬるい夕暮れだった。湿気と熱気を同じだけ含んだ粘つく空気は時折思いついたように揺れて、風鈴の舌をくすぐってはまた止まる。くるくる回る短冊には、最近父が趣味にしている俳句が認められていた。もう何度読んだか分からないその文字を、ゆっくりと目で追いかける。
『夏草や 俺の頭も ふさふさに』
間違っても名句ではない。ただの願望である。それを堂々と誇らしげに自宅の軒先に吊るし、たまの帰省で寛いでいる息子の視界に何度も何度も執拗に侵入させるこの厚かましさ。というか、俺も将来あんな金柑頭になるのであろうかという恐怖でゆったり羽を伸ばすこともできやしない。何の嫌がらせだ。
なーお、と鼻にかかった甘い声がした。畳に転がったまま庭先に目を向けると、柔らかな曲線が魅力的な美女が俺を見つめていた。
「ミケ、来てたのか」
寝返りを打ってうつ伏せになり、俺は沓脱ぎ石の上に綺麗に座っている三毛猫へ手を伸ばす。しかしミケは俺の指先を軽く躱して身を翻し、短い尻尾を振って縁側の下へ潜り込んでしまった。
「なんなんだよ、ったく」
遠くからセミの鳴く声が聞こえる。一頃より随分大人しくなった音量に、もう夏も終わりなのだとふいに実感した。
今年の夏休みはいつもより少しだけ長かった。ゆっくりすることはできたが、その分日常へ戻るのが億劫だ。
「……ああ、帰りたくねぇな」
間の手を打つかのように風鈴が鳴った。祖母の新盆はついこの間済ませたばかりだ。送り火まできちんとやったのだが。
「なんだよ、ばあちゃんもあの世へ帰りたくないのか」
昨年の岩手への家族旅行が、祖母の最後の旅になった。いつも穏やかだった祖母が、故郷の景色に珍しくはしゃいでいたことを思い出す。旅行から帰った後、放っておかれたミケがひどくおかんむりでご機嫌を取るのが大変だったと電話で話したのが、最後の会話になった。
祖母の最期は眠るように穏やかだった。葬式の時にも涙は出なかった。新盆の法事の時も、親族の一人として淡々と役割をこなした。そういうものだと、割り切っていた。
なのに。
「……なんで」
今になって、涙が止まらないのだろう。南部の風鈴の響きがどうしようもなく耳に残って、とっくの昔に忘れたはずの記憶さえ呼び覚まされてしまう。
幼い日、叱られて涙をこらえていた時のこと。友達とけんかした時のこと。進学で故郷を離れることが決まった時のこと。
皆の前では強がっていたけれど、祖母だけはいつでも変わらぬ一言を俺にかけてくれた。
——泣いてしまえ。
風鈴の音と共に、昔のままの懐かしいしわがれ声が耳元で聞こえた気がした。
「どうして目を開けてしまうんです」
暗闇の中、微かに震えた声が落ちた。普段聞き慣れているより随分硬い声。そのせいで夜の帳に溶け消えぬまま、いつまでも鼓膜に残り続ける。
眼前には研ぎ澄まされた刃があった。喉元に向けられたそれがあるかなしかの光源をやたらと照り返すのは、支えているはずの手ががたがたと震えているせい。
「せめてあなたが眠っている間にと思ったのに、どうして」
「どうして、だと?」
覚醒し切らぬ頭の中が、ただ一つの感情で満たされていく。
「それはこっちの台詞だ!」
怒りのままに目の前の手を掴み、身体を起こすと同時に捩じ上げる。微かに響く呻き声、同時に布団が手放された凶器を受け止めて小さく跳ねた。すかさず枕元のライトを灯して確認する。
――成程、鋭いはずだ。凶器は普段使いの包丁だった。
犯人は項垂れたまま抵抗する素振りもない。落ちた包丁を拾い直す気配も見せず、黙ったまま俯いている。私は小さく息を吐いた。
「一応訊いておいてやる。おい青いの。お前は今、何をするつもりだった」
「はい、マスター」
ゆるゆると顔を上げ、そいつはまっすぐに視線を合わせてきた。
「あなたを殺すつもりでした」
小さいけれどきっぱりした声。それはもう、震えてはいなかった。
人間になりたいと望むようになったのは、いつの頃からだろう。ふわふわと形を成さぬまま漂っていた願い。そんなものが自分の中に在ることにすら気づいていなかったのに。
――その本を目にした瞬間、無自覚の願望は形を変えた。
「じゃあ、そのあやしげな本に殺人教唆の記述があったがために、こともあろうにお前は主の生命を脅かす行為に及んだと、そういうわけか」
こくりと頷く。『なりたいと思う種族の中で己に最も近しい存在を犠牲にすること』、それが書物に記された人間になるための方法だった。
「で? お前をトチ狂わせた本って一体どれよ?」
ここまで来て隠すこともない。素直に差し出した本を見て、マスターは盛大に吹き出した。
「おまっ、それ、一体どこから」
「マスターの本棚から」
「嘘吐け! そんな黒歴史、本棚に堂々と晒しておく度胸はないわ!!」
そこまでに悪し様に言われるほど酷い文献ではないように思う。黒魔術という現代において失われた論理体系を用いて己が願いを叶えようとする術。その方法を説く文面は淡々としていながら不思議なほど抗いがたい魅力に満ちていて、つい次々とページを読み進めてしまう。
「ですがマスター、この本結構書き込みが」
「(∩ ゚д゚)アーアーきこえなーい」
「これ絶対マスターの字ですよね、このちょっと癖のあるトメハネが中途半端な」
「なんだとコラ誰が中途半端だもっかい言ってみろ」
「ではこの本がマスターの私物だと認めるんですね」
「やーだーみーとーめーなーいー絶対認めないだって認めちゃったら私あやうく過去の自分の厨二心に寝首掻かれるところだったってことじゃんマジやだ何その死に方笑えなーい」
まったく聞く耳持たず。全身で聞かざるを示すかのように耳を塞いでしゃがみ込んだ主へ向けて、さらに言葉を重ねようとした時。
「そもそもどうして人間になんてなりたがったんだ」
逆に投げかけられた声は、先程までとは明らかに温度が違っていた。
「こんな汚くて、狡くて、どうしようもないものに、どうしてお前は好き好んでなりたがる」
ひやりとするほど真剣な声。
ああ、これはは誤魔化せない。
踞ったまま顔を上げようとしないマスターの傍にかがみ込んで、横合いから覗き込む。
「あなたが喜んでくれると思ったから」
ぴくりとマスターの指が跳ねた。
「あなたの笑う顔が見たかったから」
まだマスターは顔を上げてくれない。分かっている。今この人が笑ってなどいないことを。俺の願いは、この人を喜ばせはしないことを。
「なのに俺が人間になるためにはあなたを殺さなきゃならないと、その本には書いてあります。それが本当なら俺が人間になれた時にはもうあなたはいなくて、喜ばせることも笑ってもらうことも、一緒に歌うこともできない」
そして、分からなくなる。
「マスター、教えてください。俺は、どうすればいいんですか?」
「馬鹿が」
これ以上ないほど明確な罵倒が胸を貫いた。自分の腕に顔を埋めたまま視線だけで俺を睨み上げてくるマスターの瞳の、怖いほどの真剣さ。
「私は猫を愛している」
「……はぁ」
「おや、知らなかったのか。何ならあの生き物の魅力を懇切丁寧に一晩じっくり語ってやっても」
「いいえ、よく存じておりますので結構です」
間髪入れぬ俺の答えに不満げな舌打ちを返し、マスターは言葉を継いだ。
「まあいい。仮に私が猫になりたいと熱望したとする。愛してやまないあの生き物と同じ存在になりたいと願い、その願望を叶えるため心を鬼にして愛する飼い猫をこの手にかけたとする。私は猫になれると思うか?」
思わず言葉に詰まる。
「なれやしない。私がなれるのはせいぜい猫殺しの最低人間だ。お前はな、そんな最低のモノになりかけたんだ。私がそれを喜ぶと思うのか?」
返す言葉もなかった。自然と下がる視線の外で、マスターのお説教はなおも続く。
「人は醜い。他の動物よりできることが多い分、為すことばかり大きいくせに誰一人として齎される結果に責任を負えはしない」
鋭いばかりの語調が、一呼吸だけ途切れた。
「そんな人間がひとつだけ誇れるものがあるとするならば、それは文化だ」
声の温度が変わった。叱りつける厳しさから、諭す穏やかさへ。
「文化とは、人が触れるこの世のすべてを描き表して後の世にその時々の感情や息吹を伝えること。人は言葉、絵画、造形、音楽、ありとあらゆる手段で誰かに感動を伝えようとする生き物だ」
「音楽……?」
すぐ傍で頷く気配が伝わる。
「お前は歌うために作られた。人の身で創ることができる最も素晴らしいもののひとつを、お前は生まれながらに持っているんだよ」
上げかけた頭を乱暴に押さえつけられた。必要以上に力が入っている気がする。
「お前は私に喜んでほしい、笑ってほしいと言ったな」
「……はい」
「それはお前の心だろう?」
ああ、まただ。原因不明のエラー。胸の奥が熱い。
「心こそ人の宝だ。それを誰かに伝えたいと願うのならば、お前はもう立派に人の営みの中にいる」
エラーの暴走がおさまらない。こうやってマスターが傍にいる時にだけ発生するバグはどんどん増殖して、発するべき言葉を散り散りにして呑み込んでゆく。
「お前のために立派な曲を作ってやれる技量は私にはない。有名にも、多分なれない。それでも、お前に、私の心を託したいんだ」
喉奥から何かが、抑えがたく衝き上げてくる。
「他の何かになどならなくてもいい。今のままのお前が、私の宝だ」
ついに熱い塊が瞳から零れ落ちた。頭を押さえられたままで良かった。多分これは、見られてはいけないものだ。
「……まだ、私を殺したいか?」
「いいえ」
考えるより先に答えが飛び出していた。満足げな笑い声を微かに残して、マスターは俺の頭を解放した。
「ならば今回のことは不問に処す。二度とするなよ」
「はい」
柔らかな灯りが消された。暗闇の中でマスターがごそごそと寝床に潜り直す気配を感じても、頭は上げられなかった。
――多分これからずっと、この人には頭が上がらない。
2014/6/21 第6回フリーワンライ企画参加作品
【お題 】あなたが笑っていられるために
ジャンル:KAITO&小学生の女の子マスター
アイデアはなん遊さん(TwitterID:@nan_yuuP)のこちらの呟きからいただきました。
https://twitter.com/nan_yuuP/status/480329382477561856
一度タイムアップした後、加筆してラストまで書いています。
【お題 】あなたが笑っていられるために
ジャンル:KAITO&小学生の女の子マスター
アイデアはなん遊さん(TwitterID:@nan_yuuP)のこちらの呟きからいただきました。
https://twitter.com/nan_yuuP/status/480329382477561856
一度タイムアップした後、加筆してラストまで書いています。
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「今日ね、ボーカロイドがうちに届くの」
いつもの帰り道、いつものメンバー。ちょっとだけ自慢げに口に乗せた話題に、たちまちみんなは食いついた。
「うわー、いいなぁ」
「ゆうちゃん、一年生のときからずっとボカロ欲しいって言ってたもんね」
「誰が来るの? やっぱりミクちゃん?」
ん、と頷くとみんなは再び歓声を上げた。
「マジで!?」
「えっ、じゃあ今度ゆうちゃんちに遊びに行ったらミクちゃんがいるの?」
「わーそれすごい! ミクちゃんに会えたら何歌ってもらおう」
みんなはてんでに好きな曲名を上げはじめる。けれどわたしだけは黙っていた。歌ってもらいたい曲はもうたくさん考えてある。うちに帰ったらそれが全部本当になるんだ。わたしは走り出したい気持ちをこらえながらみんなのおしゃべりに頷き返す。正直、うわの空だ。
いつもの角でみんなと別れ、そこから先は走って帰った。ランドセルの中で筆箱が暴れている。うるさい。玄関の脇には、封を開けた跡のある大きな空箱が出されていた。心臓が跳ね上がる。もう届いたんだ。ただいまもそこそこに家へ上がる。
「おかーさん、ミクちゃん届いたー?」
おかしい。気配はするのに返事がない。
「……おかーさん?」
少しだけ間があって、茶の間からおかーさんが顔を出した。
「あら、ゆう。早かったのね」
やっぱりおかしい。おかーさんがわたしと目を合わせようとしない時は、何かを隠そうとしている時だ。少しだけ警戒しながら、わたしはおかーさんの顔を見上げる。
「ミクちゃん、届いた?」
おかーさんの肩がぴくりと跳ねる。
「え、ええ、まあ」
「だよねー。玄関に空箱が出てたってことは、もう包みから出してあるんでしょ? どこにいるの?」
「ゆう、ごめんなさい!」
ぱん、と顔の前で手を合わせて、おかーさんがついに謝った。
「どうしたの。箱から出す時にミクちゃん壊しちゃったの?」
「違うの、そうじゃなくて」
意を決したかのように、おかーさんは茶の間を振り返った。
「KAITO、いらっしゃい」
呼ばれて顔を出したのは、青い髪に銀色のコートを着た男の人だった。やけに高い位置にあるその顔をぽかんと見上げる。わたしはその男の人を知っている。けれど、どうして。
「……あのね、どうやらお父さんが注文する時に間違えちゃったみたいなの」
差し出された携帯の画面には、ボーカロイドの注文履歴が表示されている。そこには確かにミクではなく、KAITOと表示されていた。
「がっかりさせてしまって、申し訳ありません」
呆然とするわたしの頭に、穏やかな声が降ってきた。見上げたその顔はあくまでにこやかに、けれど少しだけ冷たい機械の声で丁寧に告げる。
「注文時の入力ミスの場合、未使用品に限り返品が可能です。別型機との交換をご希望でしたら、このまま電源をお切りいただき元の箱に戻した上で発売元へご返送ください。送料は——」
「待って、まだそこまでは考えてないわ」
淡々と続く説明を遮ったのはおかーさんだった。
「まずは夫に確認しないと。あの人が注文したのはあなたで間違いないのかもしれないし」
おかーさんの言葉を聞いて、かっと頭に血が上るのが分かった。
「違う、そんなことない! おとーさんはミクちゃんを買ってあげるって言ってたもん!」
きっ、とわたしは目の前のKAITOを睨みつけた。男の人ってどうしてこんなに背が高いんだろう。見上げているだけで首が疲れる。本当に腹が立つ。
せっかく走って帰ってきたのに。
みんなにも自慢しちゃったのに。
あんなにたくさん曲も選んだのに。
全部、台無しだ。
「ミクちゃんじゃなきゃやだ!」
言い捨てて、わたしは自分の部屋へと駆け込んだ。おかーさんが呼び止めてた気がするけど、そんなこと知ったことか。
わたしは床へと乱暴にランドセルを放り投げ、ベッドへダイブした。一人になるともうダメだ。ずびずびと涙と鼻水が出てきて、わたしはティッシュを取るためにせっかく潜り込んだお布団から一時脱出を余儀なくされた。頭まで布団をかぶり、くず箱にごみを放るときだけ外に手を伸ばして、わたしは子どもみたいに拗ねていた。
どのくらい経ったのだろう。そろそろ拭きすぎた鼻の下が痛くなってきた頃、部屋の扉がノックされた。
「……誰?」
「KAITOです」
お布団から顔を出すと、部屋の空気はもう半分くらい夜に染まっていた。見慣れた景色のあちこちに濃い影が落ちて、まるで全然知らない部屋にいるみたいだ。
「何しに来たの」
「さあ」
「なにそれ、わけわかんない」
「あなたのお母様に、あなたの部屋へ行くよう言われました。部屋に着いたらあなたから作業の指示をいただけるのかと」
聞き覚えはある。だけどあまり馴染みのない声。わたしは別に青廃じゃないから、KAITOの曲なんてせいぜいミクちゃんと一緒のをいくつか聴いたことがあるくらい。ソロ曲なんて一度も聴いたことがない。真面目なのもあるらしいとは知ってたけれど、それでもやっぱりひどいネタ曲をやってるというイメージが強いし、そうじゃなくてもせいぜいコーラス要員くらいにしか思えない。
——何より華がないし。
ずびっと鼻水をすすり上げて、わたしは体からお布団を引きはがした。別にあの何か青いのと話がしたくなったわけじゃない。単に暑かっただけだ。
「指示って……あんた、何ができるの」
ああ、お洋服にしわができてる。今日着てるのはそんなにお気に入りじゃないからまあいいけど。
「今のところ、歌うことしかできません」
ああ、思わず服を引っ張りすぎちゃった。しわになった上に伸びてしまったTシャツを切なく見下ろしながら、わたしはドアの外へ不機嫌な声を投げつける。
「じゃあそこで何か試しに歌ってみてよ」
「それはできません」
「なんで」
「歌声を再生するためのデータがありませんから。私を含めボーカロイドに歌わせる場合、譜面もしくはMIDIに相当するデータをデータベースに流し込む必要があり」
「もういい!」
言葉と一緒に枕もドアに投げつけて、わたしは再びお布団への篭城態勢を取った。暑苦しいけれど、今のわたしの気持ちを最も表してくれるのはこのスタイル以外にない。
自分の殻に引きこもろうとしたまさにその時、再びドアがノックされた。
「……なに」
「楽譜があれば、歌えます」
「それが?」
「ボーカロイドを迎えるために楽譜をたくさん用意されていたと、お母様が」
おかーさんのばか。なんでそんなこと教えるの。
「あんたのために用意したんじゃないし。ぜーんぶ女の子用の曲だし。あんたじゃ歌えないよ」
「それはやってみなければ分かりません」
なんなのもうこいつ本当腹立つ。どうしてそんなに何度もわたしのお布団バリアを壊しにくるの。
盛大にお布団をバサァしながら起き上がり、わたしは机の上に置いておいた楽譜を掴んだ。今日を楽しみに、ミクちゃんのために用意したものだ。おかーさんが若い頃に流行った曲で、もちろん女の人が歌ってる。新しめのボカロ曲の楽譜もいっぱいあるけど、わたしはおかーさんがよく鼻歌で歌っているこの曲を、わたしのボーカロイドに一番最初に歌ってほしかったのだ。
そんな大事な曲を、わたしは無言でドアを開けてKAITOに手渡した。
歌えるわけないでしょ。
じっと楽譜に目を落とすKAITOを腕組みをしながら睨みつける。
「申し訳ありません、この曲を今すぐにあなたを満足させるレベルで歌うことは難しいようです」
してやったりと緩む頬を悟られないように、わたしはわざとそっぽを向く。
「へー。あんなに自信満々だったのに?」
「はい。何故ならこの楽譜には、一枚目が欠けているからです」
「……へ?」
「失礼します」
言うが早いかKAITOはわたしを軽く押しのけて、こともあろうに部屋の中に踏み込んできた。
「ちょ、ちょ、ちょ、何してんのあんた」
「そこに紙が落ちています。おそらくこの楽譜の一枚目かと」
言いながら、無礼な青いのは手際よく壁の電灯スイッチを入れてずかずかとわたしの部屋を横切り、ベッドの脇に落ちていた紙を拾い上げる。ああなんてこと、この部屋はおとーさん以外の男の人は誰も入ったことがないのに。
「ああ、やっぱりこれが一枚目でした……どうかしましたか」
もう本当なんなのこいつ。目の前で起こっている出来事は完全にわたしの予想を超えていて、何を言ったらいいのかすら分からない。わたしの部屋に見慣れない男の人がいる。それだけで頭の中がぐちゃぐちゃにパニックだ。
「なんてことしてくれんのよ、このバカ、バカイトー」
ようやく喉から絞り出した声は完全に涙声で、ますます自分が情けなくなって本当に泣けてきた。さっきと同じようにあっという間に涙と鼻水が溢れ出して、顔中をぐちゃぐちゃにする。なのに頼りのティッシュ箱はベッドの上に置きっぱなしだし、そこに辿り着くためにはこの青いのの側をすり抜けなければならない。もちろん最強のお布団バリアへ至る道もふさがれている。絶望だ。
うわあああああああああん、なんて。こんな子どもみたいな泣き方したのいつ以来だろう。泣きわめいて暴れたい気持ちと、そんな自分を変に冷静に眺めている自分。
ふっと、視界に影が差した。おや、と思う間もなく頭に何やら重いものが載せられる。これは……もしかしなくても、頭を撫でられている。
「子ども、扱い、し、しないでよ、バカー」
もっと強く言いたいのに、しゃくり上げてるせいでいまいち迫力に欠ける。悔しい。
「申し訳ありません。リンが駄々をこねた時にそっくりだったもので」
む。リンちゃんはわたしよりお姉さんなのに、駄々っ子モードだとこんな感じになっちゃうのか。じゃあまだ年齢一桁なわたしがこんなになっちゃうのも仕方ない。きっと。うん。
本格的に泣きわめき始めたわたしの肩に、そっと大きな手が載せられた。びっくりして思わず顔を上げると、頭と肩に手を置いているせいでさっきよりずっと近くに寄っていた青い瞳とがっちり目が合ってしまった。
「泣かないでください」
さっきと同じ声のはずなのに。ほんの少しだけ優しく聞こえるのはどうしてだろう。
「……歌っても、いいですか?」
なんで、とか。いきなり何、とか。思わなかったわけじゃない。けれどその声の中に確かな優しさと、歌への情熱があったから。
「いいよ」
するりと滑り出るように、わたしも自然に答えていた。
「ありがとうございます。では」
ほんの少しの間目を閉じてから、KAITOは口を開く。
「ここから先の操作には、ユーザー登録が必要です。お名前、ご住所、生年月日、シリアルナンバーを読み上げてください」
「……は?」
この声のどこに優しさなんて感じてしまったのか。KAITOは無表情にわたしを見下ろして、これ以上ないくらい事務的な声で繰り返す。
「お名前、ご住所、生年月日、シリアルナンバーを読み上げてください」
「そんなこといきなり言われても分かんないよー」
そんな大人の言葉を使われたら、どうしていいかわからない。わたしは子どもじゃないけど、まだ大人でもないんだから。ああ、また涙が出てきた。鼻水が垂れないよう、強めに鼻から息を吸う。たっぷり膨らんだおなかに抗議の気持ちを込めて、わたしは再び盛大に泣きわめき始めた。
「泣かないで」
あれ。またほんの少し、困ったような声だ。
「お名前を、教えてください」
「ゆ、ゆう」
「おうちの場所は、言えますか? お誕生日は?」
なんでこんな遊園地で迷子になった困ったちゃんみたいなこと訊かれてるんだろう。そう思いながらも、訊かれたことに素直に答えていく自分が不思議だった。
「シリアルナンバーを読み上げてください」
「知らないよ、そんなの」
「ここに書いてあります」
頭に置かれたままだった手が離れた。重さから解放されて自然に上がった視線の先で、長い指が首元のマフラーを緩める。ちょうどマフラーに隠れる場所、喉仏の下の部分に16桁のアルファベットと数字が直接印字されているのを見た瞬間、ふいに思った。
——ああ、こいつ、本当に機械なんだな。
わたしは言われるがままにシリアルナンバーを読み上げた。アルファベットはいくつか読み方があやしかったけど、読み終えた後目を閉じてじっとしていたKAITOがしばらくして満足そうな表情でわたしを見返してきたから、たぶん読み間違えてはいなかったのだと思う。
「マスター」
どくん、と心臓が高鳴った。こいつ、どうしてこんなに嬉しそうなんだろう。
「どうか泣かないで。これからは私が、あなたのために歌いますから」
歌うように言った後、KAITOは本当に歌い出した。一瞬何の曲か分からなかったけれど、すぐに気づく。さっきの楽譜の曲だ。ああ、せっかく止まった涙がまた流れてくる。
「声が低いー」
いつも聴いてるものより一オクターブ低いメロディーに耳が慣れない。でも、KAITOの声はとても綺麗だと思った。伸びやかで張りのある、歌を歌うための声。
「では高くしてみましょうか。あまりおすすめはしませんが」
メロディーが原曲のキーに変わる。すっごい裏声。心なしか表情も苦しそうに見える。
「あははははなにそれ。きもーい」
「失礼な。あなたがさせたことではありませんか」
切り替え忘れかわざとなのか。裏声のままそう言うKAITOに私は涙を流して笑い転げた。
「高音域を歌わせるのなら、ちゃんとそれに合わせたパラメーターを作ってください」
「またわけ分かんないこと言うし。もうやだー」
一瞬の隙をついて、わたしはぽてっとベッドの上に飛び乗った。そのままKAITOが発する裏声やわけのわからない用語から身を守るべく、頭からすっぽりお布団をかぶる。多少の暑苦しさは覚悟の上だったけれど、すっかり日が暮れて暑さが一段落したせいか、わたしのお布団は適度なヌクモリティがものすごく心地よい素晴らしき寝床と化していた。あ、まずい。本当に眠くなってきた。
お布団の外で、KAITOが小さく息を吐くのが聞こえた。お布団の上にそっと手が載せられるのを感じる。ちょうど背中のところを大きな手がゆっくりぽんぽんと叩いてくるから、眠気がますます加速していく。
意識が途切れる直前、KAITOの声を聞いた気がした。
「マスター。これからはあなたが好きな歌をたくさん歌わせてください。私があなたのボカロであり続けるために。あなたが、笑っていられるために」
KAITOは機械だ。けれどひょっとしたら——感情は、あるのかもしれない。
圧倒的な眠気でごちゃごちゃになった頭の中でそう思ったのを最後に、わたしは深い眠りに落ちていった。
「ゆう」
遠くでわたしを呼ぶ声がする。けれど今は答えたい気分じゃない。無視を決め込む。
「ゆう」
今度はさっきより強い口調で呼ばれた。あまつさえ肩をつかまれて揺すぶられ、うるさいったらありゃしない。
もう、ほっといてよ。わたしはまだ寝ていたいんだから。
「ゆう、いい加減起きてくれないとおとーさんちゅーしちゃうぞ」
ばちっと目を開けて、わたしは華麗に起き上がった。勢い余っておとーさんのメガネを吹っ飛ばした気がするけど、うん、きっと気のせいだ。
「ひどいよ、ゆう」
どうやら気のせいではなく吹っ飛んでいたらしいメガネを拾い上げて装着しながら、わたしの寝込みを襲おうとしたおとーさんがよろよろと立ち上がった。
「ああおとーさん、おかえり」
「ただいまー」
えへらっとした笑顔は、紛れもなくいつものおとーさんだった。部屋の電気が点いているところを見ると、まだ夜は明けていないらしい。おとーさんはスーツ姿のままだから、きっと大好きな晩酌もまだなんだろう。帰ってきてすぐに娘の部屋に押し入って、寝てるところをわざわざ揺り起こすほどの用事なんて、心当たりはひとつしかない。
「その、今日届いたボカロのことなんだが」
ほらきた。
「おとーさん、注文間違えちゃってたんだな……本当にごめん」
「……うん」
おとーさんの声は本当にしゅんとしてたから、わたしもまともに顔を見返せなかった。二人して俯いてもじもじすることしばし。
「その……返品、するか?」
おとーさんの提案に、わたしは咄嗟に答えられなかった。あいつの声、嬉しそうに歌う顔、背中を叩く手。今日見たあいつの全部が喉のところに引っかかって、うまく言葉が出てこない。
わたしはあいつに、これからもいてほしいと思ってるの? 今なら憧れのミクちゃんと交換することができるかもしれないのに?
自分で自分の気持ちがわからない。すごくすごく、気持ち悪い。
「申し訳ありませんが、返品は受けかねます」
いきなり割り込んできた声は当の本人のものだった。慌てて顔を上げると、ちょうどKAITOがわたしの部屋へ入ってくるところだった。おのれ、一度ならず二度までも。
「ちょっと待て、返品できないってどういうことだ」
さすがに大人のおとーさんは現実的な反応をした。KAITOは無表情な顔をおとーさんに向け、例の事務的な声で淡々と告げた。
「返品交換は未使用品に限る旨、約款に明記されています」
「え、だって、今日届いたばかりなんだし新品でしょ?」
「はい、新品です。ですが先程ユーザー登録を済ませていただきましたので、既に未使用品という扱いではなくなっております」
「え?」
「え?」
おとーさんはわたしを見る。わたしもおとーさんを見返す。
「ゆう、お前、ユーザー登録しちゃったのか?」
「えっ、ちょっと待って、え、もしかしてアレが!?」
さっきの迷子にするみたいな質問の数々。そしてその後、嬉々として歌い始めたKAITO。
「……やられた」
「え、やっぱり登録しちゃってるの? うわーどうしよう」
「卑怯者! あんな、あんな……!」
「そう言われましても。ただ、現状では返品交換は受けかねますので」
「ってことはずっとあんたがここにいるってこと!?」
「はい、そうなりますねマスター」
「うっさい! なんだそのとってつけたかのような呼び方!」
三人が口々に叫びながらぎゃいぎゃい騒いでいるところに、さらに別の声が割り込んできた。
「あら、KAITO君返せなくなっちゃったの?」
「おかーさん! 今までどこ行ってたの!」
この期に及んでまさかのおかーさんの参戦。廊下からひょっこり覗いた顔に、わたしは精一杯の抗議を込めて噛みついた。くそう。あの時おかーさんが近くにいたら、うっかりユーザー登録なんてしなかったかもしれないのに。
「ごめんなさいね。私ミクちゃん以外のボーカロイドのこと全然知らなかったから、KAITO君のこと色々調べてて。ほら、製品情報とか他の人が発表している曲とか、ネットで見れるじゃない?」
そこまで言って、おかーさんは首を傾げる。
「曲を検索したところまでは覚えてるの。だけどその後のことをあんまりよく覚えてなくて」
おかーさんがにこっと満面の笑みを浮かべる。イヤな予感がする。これは何かを誤魔化したい時とか、それ以上のツッコミは勘弁ねという時の顔だ。
「気がついたらPCの中がKAITO君の曲だらけになっていて。さっきおとーさんが帰ってきた気配で我に返ったのよね。一応フォルダ分けはしているのだけれど、ちょっと自分でもびっくりするくらいの数だったから、もし動作が重くなってたらごめんなさい」
「まさかのおかーさん青廃化あああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」
わたしは頭を抱えながら天を仰いだ。そんなわたしの器用な反応などまったく意に介さず、おかーさんは呆然とするおとーさんと黙ったまま成り行きを見守っていたKAITOににっこり笑いかけた。
「返品できなくなっちゃったのなら仕方ないじゃない。このままうちにいればいいと思うわ」
「ありがとうございます」
「おかーさん、それ、本当に仕方ないと思ってる……?」
「あら、なんのことかしらうふふふふ」
そんなこんなで、不本意ながらKAITOは正式にわたしの家に迎えられることになった。
「ゆうちゃーん!」
びくっとわたしは肩を震わせる。昨日一緒に帰ったみんなが、キラッキラの笑顔でこっちに手を振っている。何の話を期待されているのか分かりすぎるほど分かるだけに、今はみんなの顔がまともに見れない。
「あれ、ゆうちゃん元気ないね。どうしたの?」
「うん……」
「あれ、ひょっとして昨日ボカロ届かなかったの?」
届かない方がある意味良かったのかも、なんて思ってしまう。
「届いた、けど……」
「えー、じゃあなんでそんな顔してるの?」
「あ、ひょっとしてミクちゃんと離れるのがいやだったとか? いーなー」
「違う。そんなんじゃない」
「そんな、照れなくていいよー」
「ミクちゃんじゃ、ないし」
きょとん、とみんなは顔を見合わせた。
「別のボカロを頼んでたってこと?」
「えっ、じゃあリンちゃんとか? まさかレン君? きゃーーーー!!!!!」
「……TO」
「え?」
「KAITO」
今度のきょとんはさっきよりちょっとだけ長かった。
「……誰?」
「あー、あの何か青いのがそんな名前じゃなかったっけ?」
「えーーーーなんでそんなマイナーなの頼んだの?」
返す言葉もなくて、わたしはただただ俯いていた。涙が出そうなのを必死でこらえる。あの青いの、うちに帰ったら絶対なんか悪口言ってやる。
「……だもん」
「ん? なに、ゆうちゃん」
「あいつ、確かにムカつくしわけ分かんないことも言うけど、声はすごく綺麗だもん」
一度口に出すと、もう止まらなかった。喉のつかえが取れたように、わたしはみんなにぺらぺらとしゃべり続ける。
「おかーさんなんて昨日一日で五十曲以上もあいつの曲ダウンロードしたし! おとーさんも正直すまんかったって言いながらあいつの曲聞いてたし!」
おとーさんのすまんかったには注文ミスの件も含まれていることは、この際伏せておこう。
「みんなもあいつの曲もっと聴くといいよ! おすすめならいつでも教えるからさ!」
言うだけ言って、わたしは学校へ向かってダッシュした。みんなが口々にわたしを呼びながらついてくる。今日からしばらく、きっとずっとこんな感じなんだろう。
KAITO、うちに帰ったら覚えとけよ。
あいつに投げつけるにふさわしい罵りを数え上げながら、わたしは一気に校門を駆け抜けた。
***********************
とある小さなはじまりの、おわり。
*****************************
駆ける。
今はまだどこにもない場所を。
けれど確かに、己の裡に広がる風景を。
まだ誰も見たことのない物語の結末へと、
心の翼は軽く、軽く。
描ける。
今はまだ誰も出会ったことのない人々を。
英雄の活躍を、少年が踏み出す一歩を、
老人の生涯を、乙女が流す清き涙を。
彼らの世界を生きる人々の姿を、
心の瞳はじっと、じっと。
欠ける。
足りないのは己の技倆か、
それとも裡なる世界を描くにはあまりにも頼りない語彙か。
長く深く旅するほどに、
力量の及ばぬ領域を思い知り。
それでも、心が導く。
己にしか書けない何かをひたすらに求め、求め。
賭ける。
最初の一行が最も難しい。
裡なる世界と、未熟に過ぎる才と、突き動かされる衝動と。
苦しくて、苦しくて。
それでもペンを持つことを諦めたくない。
何度も描いた情景に、描きたかった一幕に思いを馳せる。
天啓のように閃いた一文に、託して。
架ける。
裡なる世界を己の外へ。
この身は架け橋となり、新しい世界を生み出していく。
素晴らしいものばかりではない。
時には醜いものをもペン先は紡ぎ出す。
けれどもそれこそが、己が見ていた景色。
描きたいと願った場面。
己が生きているこの場所と何ら変わらぬ、
ひとが生きる、ある世界の物語。
懸ける。
そこに生きる人々の心を。
そこに居る人々の願いを。
彼らの願いは己の心の映し鏡。
綺麗なものも残酷なものも、凡ては己の裡にある。
だから。だから。
——書ける。
どんなに深い夜だって
見上げればほら 満天の星
僕らそれぞれ 違う色の光
宇宙は無限に広がりゆく
地球は丸く果てがない
xyz その先に何もないと誰が決めた?
枠も壁も境目も 最後に
踏み越えるのは 自分の足
その手に 意志だけあればいい
宇宙は無限の闇夜の中
光は小さく儚いけど
abc その先に輝く軌跡描いてゆこう
今がはじまり そう決めて最初に
歩み出すのは 自分の意志
この目に 夜明けを映すために
まだ見ぬ世界 指し示す道へ
踏み出す 小さな勇気
目に映らなくても そこにあるよ
気づけば聴こえる 歌のように
青い青い 空の向こうに
まだ見ぬ星を探しに行こう
どんなに深い海だって
すくってみれば 透明な水
僕らは見上げる 同じ色の空を
***************************
作詞:深雪
作曲:小林康浩
初出:若星Z☆テーマソング(2009年)
2015年KAITO誕生祭でKAITOV1&V3でカバーし、
P名「さばP」を拝受いたしました。
本当にありがとうございました。
柔らかな光満ちる 小さな部屋
舞い落ちる雪が 窓の枠を掠める
君からも見えるだろうか この灯火が
家路を辿る君の瞳に 今
安らぎはあるのだろうか
この胸に宿る温もりに
凍えた手のひら預けてほしいから
Sweet Sweet Home
灯火の 宿る窓辺に
Sweet Sweet Home
黄昏を 見送りながら
Sweet Sweet Home
君を待つ 僕らの家で
Sweet Sweet Home
ただいまの その一言を
宵闇は時に 過去の欠片も映す
霜柱崩すような 小さな声
覚えているだろう? あの朝の空の色
帰る場所なんてないなど もう言わせない
家路を急ぐ君の心に 今
喜びはあるのだろうか
その胸にひそむ孤独さえ
僕がすべて包んであげるよ だから
Sweet Sweet Home
帰る場所 見つけた君に
Sweet Sweet Home
微笑んで 僕は伝える
Sweet Sweet Home
誰よりも 強く優しく
Sweet Sweet Home
おかえりの その一言を
何があっても 守るなんて
そんなこと 言えやしないけれど
せめてどんな時でも
僕の傍に帰ってきてと
Sweet Sweet Home
ただいまと 言える幸せ
Sweet Sweet Home
おかえりと 応える心
Sweet Sweet Home
抱きしめて 今日も待つよ
Sweet Sweet Home
君からの その一言を
Sweet Sweet Home
Sweet Sweet Home...
***************************
作詞:深雪
作曲:クヌースP
イラスト:柳里さん
2015年KAITO誕生祭作品第二弾。
最初からボカロ曲を作る前提でコラボした初めての作品になります。
3/18よりKARENTで音源販売も開始しております→★
動画をご覧頂いて気に入った方はどうぞよしなに。
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