書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
「今日はここで休むか。待ってろよ、今準備すっから」
言って手綱を持ったアサザが身軽にキキョウの背から飛び降りる。
「休む……こんな草原の真ん中でか?」
馬上に残されたレンギョウが面食らった表情で問う。
「結局王都の閉門には間に合わなかったしな。近くの村まで行くにしても街道から外れちまったから探すのは大変だ。それに肝心のキキョウが今日はもう走れねぇって言ってる。ま、野宿なんて慣れれば結構平気なものだぜ」
「そういうものなのかのう……」
アサザの言葉に同意するかのように鼻を鳴らしたキキョウを手近な潅木に繋いで、アサザは周囲を見回した。意外と軽い身のこなしでキキョウの背から降りたレンギョウをアサザが振り返る。
「さて、それじゃまずは寝場所を作るか。レン、ちょっと離れててくれないか」
言ってアサザは剣を抜いた。潅木を手で押し上げながらくぼ地に茂った草を払う。
「レンは俺の荷物の中から火打石を探してくれ」
「火を熾すのか?」
レンギョウの問いにアサザは慣れた手つきで草刈りを続けながら頷いた。
「ああ。この季節、火無しじゃ辛いからな」
レンギョウが目を輝かせながらくぼ地の縁に駆け寄った。
「それなら余に任せておけ。火打石など不要だ」
「任せろって、どうするつもりだ?」
「それを言ったら面白くないだろう」
払った枯れ草を集めながら、レンギョウが楽しげに笑う。程なく、アサザが作った小さな空き地の真ん中に枯れ草と乾いた潅木の枝の山ができあがった。
「で? 何をするつもりなんだ?」
「うむ。アサザ、少し下がっていてくれ」
素直に数歩下がったアサザを確かめてから、レンギョウは両手を胸の前で組み、目を閉じた。レンギョウの精神が集中しているのがアサザにも伝わってくる。それまで静かだった周囲の潅木の枝がざわざわと騒ぎ始めた。思わず喉を鳴らしたアサザの前でレンギョウがゆっくりと掌を離す。その間の空間には橙色の光が生じている。目を開いたレンギョウが枯れ草の山に目を向けると、光球はその中に吸い込まれるように飛び込んでいった。それからいくらも経たないうちに、小山は細い煙を上げ始める。
「——すげぇや、レン!! 今のが魔法ってヤツか!?」
興奮して駆け寄り、何度も背中を叩くアサザにレンギョウは苦笑した。
「偉大なる御先祖、レン王から始まった能力をそう呼ぶのか? ……本当に、余は何も知らぬのだな。おぬしと共にいると思い知る」
少なからず沈んだその声にアサザはきょとんとする。
「何言ってんだ。まだ知り合って少ししか経ってないだろう」
「少ししか経っておらぬのに、余が今まで知らなかったことを幾つも教えてくれたのだ。余の勉強が足りなかっただけのこととは言え、少々自分が情けない」
「まったく……」
アサザは呆れてレンギョウの頭に手を置いた。軽く頭一つ分は違う背丈のせいでやけに低い位置にあるそれを軽く叩いて、アサザは軽く溜息をついた。
「いいか。知らなかったことを恥じる必要はない。そんなもんはこれから覚えりゃいいことだ。それよりも、知ってることをどうやって使うか、そっちの方に頭を使う。それが賢さだと俺は思うが?」
アサザの言葉にレンギョウが大きく目を見開いた。
「そう……だな。本当にその通りだ」
レンギョウはアサザを真剣な表情で見つめた。
「アサザ、おぬしは本当に不思議な男だ。時折、余の数倍は生きている年寄りに見える」
「なっ……なにマジ顔で失礼なコト言ってんだよ! 俺はまだ十八だ!!」
レンギョウがアサザの顔をしげしげと眺める。
「確かにそう見えなくもないが……説教じみた台詞といい、どう考えても余とひとつ違いとは思えぬな」
「はぁ!? お前十七なのか!? 童顔とジジイ言葉で年齢不詳状態だぞ」
「……ジジイ?」
首をかしげるレンギョウにアサザが解説する。
「ジジイってのは爺さんのことだよ。一体どこでそんな喋り方習ったんだ?」
「作法の師匠だ」
「……その師匠とやらの歳は?」
「平均年齢七十六歳。三人おる」
「ジジイばっかじゃねぇか!」
頭を抱えてアサザが座り込む。心配そうにレンギョウが声をかける。
「大丈夫か? どこか具合でも悪いのか?」
「そんなんじゃねぇよ!!」
がば、と立ち上がったアサザがレンギョウの肩を掴んだ。
「なぁ。そんな喋り方で疲れないか?」
「別に何ともないが」
レンギョウの答えにアサザは不満げに息を吐いた。
「お前は大丈夫でも俺は疲れる!! いいか、せめて俺といる時くらいは”余”じゃなくて”私”とかそういう言い方をしてくれ。それと、”おぬし”じゃなくて”お前”とかな」
「……何故だ?」
「俺たち、もうダチだろ?」
「ダチ……?」
「そう!友達、友人、そういう種類のヤツのことをダチっていうんだよ。お前の喋り方は相手を自分より下に見ている言い方なんだ。ダチは対等だ。だからお前の喋り方は俺に対してはふさわしくない。わかるだろう?」
「対……等……」
しばらくレンギョウは考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「……わかった。これから気をつける。だが、ひとつだけ訊ねてもいいか?」
「何だ?」
「いつから余——私はお前の友人になったのだ?」
「お前、それ本気で言ってんのか?」
アサザは苦笑して、空き地の隅に座り込んでいたキキョウから荷物を下ろした。その中から小さな包みを一つ取り出す。
「正直言って、俺にもいつってことははっきりわからん。ただ、こいつとなら一つしかない食い物を分け合ってもいい、と思えるヤツが俺にとっての友達なのかな、とは思う」
アサザは包みを開いて中身を取り出した。薄い紙に包まれた砂糖漬けのリンゴがころりと出てくる。アサザは焚き火の傍に座り込んだ。
「同じように、こいつのためなら命を賭けられる、そう思えるヤツを親友って言うんじゃないか? 俺にはそこまで思える相手ってのはいないからわからんが」
いつの間に取り出したのか、アサザは小刀を使ってリンゴを真っ二つにした。
「さ、食うぞ。今日買ったばかりだから腐っちゃいないはずだ。……ったく、説教くさくなっちまったな。これじゃ本当のジジイじゃねぇか」
アサザからリンゴを受け取ったレンギョウはしばらくそれをじっと眺めていた。食べるでもなく、アサザの隣に腰を下ろしたレンギョウはふと炎に目を向ける。
「……アサザ」
「ん?」
リンゴにかぶりつきながらアサザはレンギョウを見た。その瞳に炎が揺れている。
「私にも……いつか親友と呼べる者ができるだろうか?」
「……さあな。そればっかりは、俺にもわからん」
「そうだな……すまない。妙なことを訊いたな」
「気にするな。それよりそのリンゴ、早く食わんと俺が頂くぞ」
「それは困る」
伸ばされたアサザの手をかわして、レンギョウは果物に噛み付いた。
言って手綱を持ったアサザが身軽にキキョウの背から飛び降りる。
「休む……こんな草原の真ん中でか?」
馬上に残されたレンギョウが面食らった表情で問う。
「結局王都の閉門には間に合わなかったしな。近くの村まで行くにしても街道から外れちまったから探すのは大変だ。それに肝心のキキョウが今日はもう走れねぇって言ってる。ま、野宿なんて慣れれば結構平気なものだぜ」
「そういうものなのかのう……」
アサザの言葉に同意するかのように鼻を鳴らしたキキョウを手近な潅木に繋いで、アサザは周囲を見回した。意外と軽い身のこなしでキキョウの背から降りたレンギョウをアサザが振り返る。
「さて、それじゃまずは寝場所を作るか。レン、ちょっと離れててくれないか」
言ってアサザは剣を抜いた。潅木を手で押し上げながらくぼ地に茂った草を払う。
「レンは俺の荷物の中から火打石を探してくれ」
「火を熾すのか?」
レンギョウの問いにアサザは慣れた手つきで草刈りを続けながら頷いた。
「ああ。この季節、火無しじゃ辛いからな」
レンギョウが目を輝かせながらくぼ地の縁に駆け寄った。
「それなら余に任せておけ。火打石など不要だ」
「任せろって、どうするつもりだ?」
「それを言ったら面白くないだろう」
払った枯れ草を集めながら、レンギョウが楽しげに笑う。程なく、アサザが作った小さな空き地の真ん中に枯れ草と乾いた潅木の枝の山ができあがった。
「で? 何をするつもりなんだ?」
「うむ。アサザ、少し下がっていてくれ」
素直に数歩下がったアサザを確かめてから、レンギョウは両手を胸の前で組み、目を閉じた。レンギョウの精神が集中しているのがアサザにも伝わってくる。それまで静かだった周囲の潅木の枝がざわざわと騒ぎ始めた。思わず喉を鳴らしたアサザの前でレンギョウがゆっくりと掌を離す。その間の空間には橙色の光が生じている。目を開いたレンギョウが枯れ草の山に目を向けると、光球はその中に吸い込まれるように飛び込んでいった。それからいくらも経たないうちに、小山は細い煙を上げ始める。
「——すげぇや、レン!! 今のが魔法ってヤツか!?」
興奮して駆け寄り、何度も背中を叩くアサザにレンギョウは苦笑した。
「偉大なる御先祖、レン王から始まった能力をそう呼ぶのか? ……本当に、余は何も知らぬのだな。おぬしと共にいると思い知る」
少なからず沈んだその声にアサザはきょとんとする。
「何言ってんだ。まだ知り合って少ししか経ってないだろう」
「少ししか経っておらぬのに、余が今まで知らなかったことを幾つも教えてくれたのだ。余の勉強が足りなかっただけのこととは言え、少々自分が情けない」
「まったく……」
アサザは呆れてレンギョウの頭に手を置いた。軽く頭一つ分は違う背丈のせいでやけに低い位置にあるそれを軽く叩いて、アサザは軽く溜息をついた。
「いいか。知らなかったことを恥じる必要はない。そんなもんはこれから覚えりゃいいことだ。それよりも、知ってることをどうやって使うか、そっちの方に頭を使う。それが賢さだと俺は思うが?」
アサザの言葉にレンギョウが大きく目を見開いた。
「そう……だな。本当にその通りだ」
レンギョウはアサザを真剣な表情で見つめた。
「アサザ、おぬしは本当に不思議な男だ。時折、余の数倍は生きている年寄りに見える」
「なっ……なにマジ顔で失礼なコト言ってんだよ! 俺はまだ十八だ!!」
レンギョウがアサザの顔をしげしげと眺める。
「確かにそう見えなくもないが……説教じみた台詞といい、どう考えても余とひとつ違いとは思えぬな」
「はぁ!? お前十七なのか!? 童顔とジジイ言葉で年齢不詳状態だぞ」
「……ジジイ?」
首をかしげるレンギョウにアサザが解説する。
「ジジイってのは爺さんのことだよ。一体どこでそんな喋り方習ったんだ?」
「作法の師匠だ」
「……その師匠とやらの歳は?」
「平均年齢七十六歳。三人おる」
「ジジイばっかじゃねぇか!」
頭を抱えてアサザが座り込む。心配そうにレンギョウが声をかける。
「大丈夫か? どこか具合でも悪いのか?」
「そんなんじゃねぇよ!!」
がば、と立ち上がったアサザがレンギョウの肩を掴んだ。
「なぁ。そんな喋り方で疲れないか?」
「別に何ともないが」
レンギョウの答えにアサザは不満げに息を吐いた。
「お前は大丈夫でも俺は疲れる!! いいか、せめて俺といる時くらいは”余”じゃなくて”私”とかそういう言い方をしてくれ。それと、”おぬし”じゃなくて”お前”とかな」
「……何故だ?」
「俺たち、もうダチだろ?」
「ダチ……?」
「そう!友達、友人、そういう種類のヤツのことをダチっていうんだよ。お前の喋り方は相手を自分より下に見ている言い方なんだ。ダチは対等だ。だからお前の喋り方は俺に対してはふさわしくない。わかるだろう?」
「対……等……」
しばらくレンギョウは考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「……わかった。これから気をつける。だが、ひとつだけ訊ねてもいいか?」
「何だ?」
「いつから余——私はお前の友人になったのだ?」
「お前、それ本気で言ってんのか?」
アサザは苦笑して、空き地の隅に座り込んでいたキキョウから荷物を下ろした。その中から小さな包みを一つ取り出す。
「正直言って、俺にもいつってことははっきりわからん。ただ、こいつとなら一つしかない食い物を分け合ってもいい、と思えるヤツが俺にとっての友達なのかな、とは思う」
アサザは包みを開いて中身を取り出した。薄い紙に包まれた砂糖漬けのリンゴがころりと出てくる。アサザは焚き火の傍に座り込んだ。
「同じように、こいつのためなら命を賭けられる、そう思えるヤツを親友って言うんじゃないか? 俺にはそこまで思える相手ってのはいないからわからんが」
いつの間に取り出したのか、アサザは小刀を使ってリンゴを真っ二つにした。
「さ、食うぞ。今日買ったばかりだから腐っちゃいないはずだ。……ったく、説教くさくなっちまったな。これじゃ本当のジジイじゃねぇか」
アサザからリンゴを受け取ったレンギョウはしばらくそれをじっと眺めていた。食べるでもなく、アサザの隣に腰を下ろしたレンギョウはふと炎に目を向ける。
「……アサザ」
「ん?」
リンゴにかぶりつきながらアサザはレンギョウを見た。その瞳に炎が揺れている。
「私にも……いつか親友と呼べる者ができるだろうか?」
「……さあな。そればっかりは、俺にもわからん」
「そうだな……すまない。妙なことを訊いたな」
「気にするな。それよりそのリンゴ、早く食わんと俺が頂くぞ」
「それは困る」
伸ばされたアサザの手をかわして、レンギョウは果物に噛み付いた。
小さな、だが鋭い声が冷えた大気を震わせる。
寝る前に小さくしておいた焚き火の明かりは、雲に隠れた三日月の光よりも暗い。真夜中の闇を通して、こちらを窺っている気配がわずかに伝わってくる。
「三人、か?」
少し離れた位置からレンギョウの低く鋭い答えが返る。アサザは頷き、闇に目を凝らした。既に二人とも身体を起こしている。
「何者だ?」
「盗賊では——おそらくないな。多分自警団だろう」
「自警団?」
「ああ。皇都を中心とする皇帝領と王都を囲む国王領との間にだだっ広い中立地帯があるのは知ってるだろ?」
「うむ」
「今いるここも中立地帯なんだが……中立地帯は皇都と王都の緩衝地帯だっていう性質上、どちらからも軍を派遣できない」
「そうだな」
「軍ったって別に戦ばかりしてるわけじゃない。治安維持も立派な仕事のひとつだ。その軍がいないここはまさしく盗賊たちの天国ってわけだな」
「……」
「そこで中立地帯に住んでる人々は考えた。軍を出せない国に頼らず自分たちで不届きな奴らを捕まえようってな。こうしてできたのが自警団だ。名前こそアレだがその功績は皇都の正規軍と比べても見劣りはしない」
「成程、よくわかった。で、どうするつもりだ?」
「こちらから仕掛けるのはよそう。無駄な怪我をすることもないしな。あちらの出方次第で戦るかどうかを決める」
問いに即答していくアサザにレンギョウはふと笑った。
「? どうした?」
「いや……お前のように私の問いに答えてくれる者がもっと傍にいてくれればいいのだが、と思っただけだ」
「話し相手くらいいるだろ?」
レンギョウは軽く首を横に振った。
「おらぬ。同年代の者も……対等に話してくれる者も」
レンギョウの言葉にアサザは一瞬困ったように目を逸らした。
「そ……か。俺には弟がいるからな。色々訊かれることには慣れてるのかもしれん」
沈んでいたレンギョウの表情がぱっと輝いた。
「弟がおるのか!?」
「ああ、三つ違いのな。やんちゃ坊主だが可愛いもんだ」
「他に兄弟はおらぬのか?」
「二つ上に兄上がいる。お身体が弱いのだがすごく頭のいい人でな。尊敬してる」
珍しく興奮した様子のレンギョウにアサザは問い返した。
「そういうお前の家族はどうなんだ?」
「……おらぬ。兄弟も……父母も」
低く小さくなったレンギョウの声が慌てたように先程までの調子に戻る。
「だからアサザが羨ましい。私が持っていないものをたくさん持っているお前が——」
レンギョウの言葉にアサザは首を振った。
「お前だって俺が持ってないものをいっぱい持ってるんじゃないのか? 例えば魔法とかよ」
「それは——」
がさり、と潅木が揺れた。ざわざわと草が二方向に疾る。これまで大人しくしていたキキョウが不満げに鼻を鳴らした。
「動くな。少しでも妙な動きをしたら斬る」
ぴたりと喉元に突きつけられた刃には一瞥もくれず、アサザは座り込んだままの姿勢で潅木から飛び出してきた男を見上げた。年の頃三十くらいのその男は一瞬アサザに目をやった後レンギョウに目を向ける。目線が外れてもまったく隙が感じられないこの男にアサザは興味を引かれた。
レンギョウも座ったままで二本の剣を前にしていた。動揺などまったく浮かべていない瞳で草地から現れた二人の男を見上げている。アサザと違って切っ先を向けられているだけだったが、抜き身の刃を前にしての落ち着きがかえって襲撃者の困惑を誘っていた。
「貴様ら、何者だ?」
アサザに剣を向けた男が問う。この男がまとめ役らしい。
「俺たちはただの旅の者だ。お前らこそ何だ?」
剣の刃が喉に浅い傷を作る。軽い驚きが男の顔を流れ、すぐに消えた。
「我々は中立地帯自警団だ。お前らも知っているだろう?」
男の口調にわずかににじんだ誇らしさとほんの少し引いた切っ先にアサザはにやりと笑った。
「ああ、知ってるとも。だが誇り高い自警団が一般人に刃物を突きつけたりしていいのか?」
男の眉がぴくりと動く。
「……一般人がこのような状況下で落ち着いていられるとは思えん」
やれやれ、とアサザは首を振った。
「何だ、俺たちは試されたのか。腰抜かしてうろたえて見せてやれば勘弁してもらえたのか?」
アサザの軽口には乗らず、男はアサザを冷たく見下ろしたまま言った。
「吐け。貴様ら、何者だ」
「……まるで何とかの一つ覚えだな。さっきから言ってるだろ? ただの旅人だってな」
アサザと男の間に緊張が走る。しかしそれが火花になる前に男が目を逸らした。低く口笛を吹き、馬を呼ぶ。
「……ならそういうことにしておこう。——スギ」
「は、はいっ!」
レンギョウを囲んだ一人が背筋を伸ばす。まだ若い。
「そいつを捕まえておけ。逃がすなよ」
スギと呼ばれた青年はあたふたとレンギョウに手を伸ばした。一瞬アサザの様子を窺った後、レンギョウは大人しく腕を掴ませる。
「ウイキョウ」
「はっ」
「その男を縛り上げろ。そいつは危険だ」
残る一人がアサザに縄を打った。こちらは四十を過ぎたくらいの立派な体格の持ち主だ。程なく、アサザはぐるぐる巻きにされて馬の上に放り出された。
「……で? どこに連れてってくれるんだ?」
キキョウの手綱を手にした男が自分の馬に跨りながら短く答える。
「来れば分かる」
「あ、そ」
アサザの後ろの鞍にウイキョウの体重がかかる。レンギョウとスギはとうの昔に馬上の人だ。
「そうそう、もうひとついいか?」
荷物のように置かれた状態のまま走り出した馬の上からアサザは声を張り上げた。
「あんた、名前はなんていうんだ? 俺はアサザだ」
既に先行した馬上でちらりと男が振り返った。
「——ススキ」
低い答えは風にちぎれることもなくやけにはっきりとアサザの耳に届けられた。
寝る前に小さくしておいた焚き火の明かりは、雲に隠れた三日月の光よりも暗い。真夜中の闇を通して、こちらを窺っている気配がわずかに伝わってくる。
「三人、か?」
少し離れた位置からレンギョウの低く鋭い答えが返る。アサザは頷き、闇に目を凝らした。既に二人とも身体を起こしている。
「何者だ?」
「盗賊では——おそらくないな。多分自警団だろう」
「自警団?」
「ああ。皇都を中心とする皇帝領と王都を囲む国王領との間にだだっ広い中立地帯があるのは知ってるだろ?」
「うむ」
「今いるここも中立地帯なんだが……中立地帯は皇都と王都の緩衝地帯だっていう性質上、どちらからも軍を派遣できない」
「そうだな」
「軍ったって別に戦ばかりしてるわけじゃない。治安維持も立派な仕事のひとつだ。その軍がいないここはまさしく盗賊たちの天国ってわけだな」
「……」
「そこで中立地帯に住んでる人々は考えた。軍を出せない国に頼らず自分たちで不届きな奴らを捕まえようってな。こうしてできたのが自警団だ。名前こそアレだがその功績は皇都の正規軍と比べても見劣りはしない」
「成程、よくわかった。で、どうするつもりだ?」
「こちらから仕掛けるのはよそう。無駄な怪我をすることもないしな。あちらの出方次第で戦るかどうかを決める」
問いに即答していくアサザにレンギョウはふと笑った。
「? どうした?」
「いや……お前のように私の問いに答えてくれる者がもっと傍にいてくれればいいのだが、と思っただけだ」
「話し相手くらいいるだろ?」
レンギョウは軽く首を横に振った。
「おらぬ。同年代の者も……対等に話してくれる者も」
レンギョウの言葉にアサザは一瞬困ったように目を逸らした。
「そ……か。俺には弟がいるからな。色々訊かれることには慣れてるのかもしれん」
沈んでいたレンギョウの表情がぱっと輝いた。
「弟がおるのか!?」
「ああ、三つ違いのな。やんちゃ坊主だが可愛いもんだ」
「他に兄弟はおらぬのか?」
「二つ上に兄上がいる。お身体が弱いのだがすごく頭のいい人でな。尊敬してる」
珍しく興奮した様子のレンギョウにアサザは問い返した。
「そういうお前の家族はどうなんだ?」
「……おらぬ。兄弟も……父母も」
低く小さくなったレンギョウの声が慌てたように先程までの調子に戻る。
「だからアサザが羨ましい。私が持っていないものをたくさん持っているお前が——」
レンギョウの言葉にアサザは首を振った。
「お前だって俺が持ってないものをいっぱい持ってるんじゃないのか? 例えば魔法とかよ」
「それは——」
がさり、と潅木が揺れた。ざわざわと草が二方向に疾る。これまで大人しくしていたキキョウが不満げに鼻を鳴らした。
「動くな。少しでも妙な動きをしたら斬る」
ぴたりと喉元に突きつけられた刃には一瞥もくれず、アサザは座り込んだままの姿勢で潅木から飛び出してきた男を見上げた。年の頃三十くらいのその男は一瞬アサザに目をやった後レンギョウに目を向ける。目線が外れてもまったく隙が感じられないこの男にアサザは興味を引かれた。
レンギョウも座ったままで二本の剣を前にしていた。動揺などまったく浮かべていない瞳で草地から現れた二人の男を見上げている。アサザと違って切っ先を向けられているだけだったが、抜き身の刃を前にしての落ち着きがかえって襲撃者の困惑を誘っていた。
「貴様ら、何者だ?」
アサザに剣を向けた男が問う。この男がまとめ役らしい。
「俺たちはただの旅の者だ。お前らこそ何だ?」
剣の刃が喉に浅い傷を作る。軽い驚きが男の顔を流れ、すぐに消えた。
「我々は中立地帯自警団だ。お前らも知っているだろう?」
男の口調にわずかににじんだ誇らしさとほんの少し引いた切っ先にアサザはにやりと笑った。
「ああ、知ってるとも。だが誇り高い自警団が一般人に刃物を突きつけたりしていいのか?」
男の眉がぴくりと動く。
「……一般人がこのような状況下で落ち着いていられるとは思えん」
やれやれ、とアサザは首を振った。
「何だ、俺たちは試されたのか。腰抜かしてうろたえて見せてやれば勘弁してもらえたのか?」
アサザの軽口には乗らず、男はアサザを冷たく見下ろしたまま言った。
「吐け。貴様ら、何者だ」
「……まるで何とかの一つ覚えだな。さっきから言ってるだろ? ただの旅人だってな」
アサザと男の間に緊張が走る。しかしそれが火花になる前に男が目を逸らした。低く口笛を吹き、馬を呼ぶ。
「……ならそういうことにしておこう。——スギ」
「は、はいっ!」
レンギョウを囲んだ一人が背筋を伸ばす。まだ若い。
「そいつを捕まえておけ。逃がすなよ」
スギと呼ばれた青年はあたふたとレンギョウに手を伸ばした。一瞬アサザの様子を窺った後、レンギョウは大人しく腕を掴ませる。
「ウイキョウ」
「はっ」
「その男を縛り上げろ。そいつは危険だ」
残る一人がアサザに縄を打った。こちらは四十を過ぎたくらいの立派な体格の持ち主だ。程なく、アサザはぐるぐる巻きにされて馬の上に放り出された。
「……で? どこに連れてってくれるんだ?」
キキョウの手綱を手にした男が自分の馬に跨りながら短く答える。
「来れば分かる」
「あ、そ」
アサザの後ろの鞍にウイキョウの体重がかかる。レンギョウとスギはとうの昔に馬上の人だ。
「そうそう、もうひとついいか?」
荷物のように置かれた状態のまま走り出した馬の上からアサザは声を張り上げた。
「あんた、名前はなんていうんだ? 俺はアサザだ」
既に先行した馬上でちらりと男が振り返った。
「——ススキ」
低い答えは風にちぎれることもなくやけにはっきりとアサザの耳に届けられた。
まるで昔見た夜の海のようだ、と思いながらアサザはその景色を眺めていた。縛られたまま、しかも他人が操る馬上という不自由な状態ながら、何とか動く首だけをきょろきょろさせて辺りを見回す。
ススキの馬は見えなかったが、アサザから見て右前にレンギョウを乗せた馬がいた。早足で進むその背に揺られながら、レンギョウは落ち着いているようだった。抵抗する力はないと判断されたのか、アサザのように縛られてはいない。まっすぐ前を向いたその横顔からは威厳さえ感じられた。
レンギョウの馬の手綱を取っているのはまだ二十歳くらいの男だった。自警団という肩書きを持つこの集団にいることが不思議に思えるほど大人しげな印象を与える若者だ。先程、スギと呼ばれていたか。その時、風がレンギョウの長い銀髪を月に見せるかのようになびかせた。同色の光を浴びてきらきら輝くそれを戸惑いをあらわにしたスギの目が追う。その様子にアサザの顔に知らず笑いがこみ上げてくる。
「……何が可笑しい」
アサザの笑みを見咎めたアサザの騎手がじろりと睨みつける。
「あんたのお仲間が初めてレンに会った時の俺と同じ気持ちになってるようだからな。ちょっと楽しかっただけさ」
くつくつと笑いながら言うアサザにもう一睨みくれてから騎手は前方に視線を戻した。
「あまり我らを甘く見ないほうがいい。後で後悔することになるぞ」
「そりゃ怖い」
脅しを軽く受け流したアサザは今度は騎手に目を向けた。
名は確か、ウイキョウ。年の頃は四十過ぎに見えるが、やたらと分厚い身体が衰えを見せているという感じはまったくしない。今もアサザの自由を封じている縄をしっかりと握りながら、その手綱捌きには乱れ一つない。油断できない、とアサザは判断していた。
油断できないといえばスギもその一人だろう。一見優しげに見えるが、その馬術は確かなものだったし、腰に下げた古びた剣は手入れもしっかりされている。何よりレンギョウというアサザにとってのいわば人質を縄もかけずに連行するという役を任されたという点を見ても、年長者である他の二人から信頼されていることは明らかだ。
月はいつの間にか天頂を過ぎて傾き始めていた。
突然、視界に二頭の馬が飛び込んできた。不満げに鼻を鳴らしているのは見慣れた相棒キキョウだ。
「もうすぐ我々の本拠地に着く」
キキョウの手綱を引いたススキがもう一頭の背で言う。伝えることはそれだけだ、とでも言うかのように緩めた馬足を再び早めたススキの姿はあっという間にアサザの見えない位置まで遠ざかる。とはいえ、あまり離れてはいないことは気配でわかった。
「あいつ……相当使えるな」
アサザの言葉をウイキョウは無反応で返した。アサザもそれ以上は何も言わず、ススキが消えた前方に目を向けた。そこにいるのはまったく隙が感じられない相手だった。皇都の戦士たちとの馴れ合いの手合わせには飽き飽きしていたところだった。もしススキと本気で打ち合えたらどれだけ楽しいだろう!
「……?」
ウイキョウが訝しげな目を向けているのを意識しながらも、アサザは笑みを抑えることができなかった。
そのまましばらく進み続けて、ようやくアサザの目にもその姿が見え始めた。自然と馬の足も早くなる。
夜明けが近い。
それは紺色の空の下方が黒々と切り取られたかのように映った。海に浮かぶ島のようにその岩山はぎざぎざに尖った稜線を空に向けてそびえていた。
ふもとにぽっかりと洞窟が口を開けている。脇には松明がかけられ、男が二人見張りに座っていた。その両方が同時に馬上の影を認めて立ち上がる。
「ススキさん!!」
言って二人はススキに駆け寄った。
「見張り御苦労。馬を頼む」
素早く馬を下りたススキは見張りの一人に二頭の馬の手綱を渡した。程なく追いついたスギとウイキョウを振り返る。
「スギ、お前は馬を戻せ。ウイキョウ、客人を部屋へ案内しろ。私は長に報告に行く」
一礼してスギが見張りの一人と厩舎に向かう。アサザとレンギョウを馬から下ろしたウイキョウは二人を入り口に押し込んだ。
「ってぇな、客はもっと大事に扱うもんだぜ」
突き飛ばされて肩をぶつけたアサザが抗議の声を上げる。縄はまだ解かれていないため、動きにくいことこの上ない。
「確かに、このような客人の歓迎法は見たことも聞いたこともない」
レンギョウが静かにウイキョウを見上げる。
「客人などと言っておるが……つまりは捕縛者のことであろう? そのように余らを嬲ると後で後悔するのはおぬしらのほうになるぞ」
先程のウイキョウの言葉が聞こえていたらしい。冷たく睨むレンギョウにウイキョウがかすかに動揺するのをアサザは敏感に察していた。
「——誰が後悔するの?」
いきなりウイキョウの後ろから声が上がった。その声に振り返ったウイキョウが溜息混じりにうめく。
「……シオン」
ウイキョウの身体がずれて、シオンと呼ばれた娘の姿が見える。洞窟の入り口に立ったその少女は長い黒髪を夜明けの風に遊ばせながら立っていた。レンギョウの眉がかすかに上がる。
「おもしろい人たち。ここにこういう形で来てそんなこと言ったのはあなたが初めてだよ」
にっと笑ったその顔が松明よりも白い光で縁取られる。
「とりあえずようこそ、と言うべきなのかな? お客様方」
彼女の後ろから昇りたての太陽が力強い光を投げかけてきた。
ススキの馬は見えなかったが、アサザから見て右前にレンギョウを乗せた馬がいた。早足で進むその背に揺られながら、レンギョウは落ち着いているようだった。抵抗する力はないと判断されたのか、アサザのように縛られてはいない。まっすぐ前を向いたその横顔からは威厳さえ感じられた。
レンギョウの馬の手綱を取っているのはまだ二十歳くらいの男だった。自警団という肩書きを持つこの集団にいることが不思議に思えるほど大人しげな印象を与える若者だ。先程、スギと呼ばれていたか。その時、風がレンギョウの長い銀髪を月に見せるかのようになびかせた。同色の光を浴びてきらきら輝くそれを戸惑いをあらわにしたスギの目が追う。その様子にアサザの顔に知らず笑いがこみ上げてくる。
「……何が可笑しい」
アサザの笑みを見咎めたアサザの騎手がじろりと睨みつける。
「あんたのお仲間が初めてレンに会った時の俺と同じ気持ちになってるようだからな。ちょっと楽しかっただけさ」
くつくつと笑いながら言うアサザにもう一睨みくれてから騎手は前方に視線を戻した。
「あまり我らを甘く見ないほうがいい。後で後悔することになるぞ」
「そりゃ怖い」
脅しを軽く受け流したアサザは今度は騎手に目を向けた。
名は確か、ウイキョウ。年の頃は四十過ぎに見えるが、やたらと分厚い身体が衰えを見せているという感じはまったくしない。今もアサザの自由を封じている縄をしっかりと握りながら、その手綱捌きには乱れ一つない。油断できない、とアサザは判断していた。
油断できないといえばスギもその一人だろう。一見優しげに見えるが、その馬術は確かなものだったし、腰に下げた古びた剣は手入れもしっかりされている。何よりレンギョウというアサザにとってのいわば人質を縄もかけずに連行するという役を任されたという点を見ても、年長者である他の二人から信頼されていることは明らかだ。
月はいつの間にか天頂を過ぎて傾き始めていた。
突然、視界に二頭の馬が飛び込んできた。不満げに鼻を鳴らしているのは見慣れた相棒キキョウだ。
「もうすぐ我々の本拠地に着く」
キキョウの手綱を引いたススキがもう一頭の背で言う。伝えることはそれだけだ、とでも言うかのように緩めた馬足を再び早めたススキの姿はあっという間にアサザの見えない位置まで遠ざかる。とはいえ、あまり離れてはいないことは気配でわかった。
「あいつ……相当使えるな」
アサザの言葉をウイキョウは無反応で返した。アサザもそれ以上は何も言わず、ススキが消えた前方に目を向けた。そこにいるのはまったく隙が感じられない相手だった。皇都の戦士たちとの馴れ合いの手合わせには飽き飽きしていたところだった。もしススキと本気で打ち合えたらどれだけ楽しいだろう!
「……?」
ウイキョウが訝しげな目を向けているのを意識しながらも、アサザは笑みを抑えることができなかった。
そのまましばらく進み続けて、ようやくアサザの目にもその姿が見え始めた。自然と馬の足も早くなる。
夜明けが近い。
それは紺色の空の下方が黒々と切り取られたかのように映った。海に浮かぶ島のようにその岩山はぎざぎざに尖った稜線を空に向けてそびえていた。
ふもとにぽっかりと洞窟が口を開けている。脇には松明がかけられ、男が二人見張りに座っていた。その両方が同時に馬上の影を認めて立ち上がる。
「ススキさん!!」
言って二人はススキに駆け寄った。
「見張り御苦労。馬を頼む」
素早く馬を下りたススキは見張りの一人に二頭の馬の手綱を渡した。程なく追いついたスギとウイキョウを振り返る。
「スギ、お前は馬を戻せ。ウイキョウ、客人を部屋へ案内しろ。私は長に報告に行く」
一礼してスギが見張りの一人と厩舎に向かう。アサザとレンギョウを馬から下ろしたウイキョウは二人を入り口に押し込んだ。
「ってぇな、客はもっと大事に扱うもんだぜ」
突き飛ばされて肩をぶつけたアサザが抗議の声を上げる。縄はまだ解かれていないため、動きにくいことこの上ない。
「確かに、このような客人の歓迎法は見たことも聞いたこともない」
レンギョウが静かにウイキョウを見上げる。
「客人などと言っておるが……つまりは捕縛者のことであろう? そのように余らを嬲ると後で後悔するのはおぬしらのほうになるぞ」
先程のウイキョウの言葉が聞こえていたらしい。冷たく睨むレンギョウにウイキョウがかすかに動揺するのをアサザは敏感に察していた。
「——誰が後悔するの?」
いきなりウイキョウの後ろから声が上がった。その声に振り返ったウイキョウが溜息混じりにうめく。
「……シオン」
ウイキョウの身体がずれて、シオンと呼ばれた娘の姿が見える。洞窟の入り口に立ったその少女は長い黒髪を夜明けの風に遊ばせながら立っていた。レンギョウの眉がかすかに上がる。
「おもしろい人たち。ここにこういう形で来てそんなこと言ったのはあなたが初めてだよ」
にっと笑ったその顔が松明よりも白い光で縁取られる。
「とりあえずようこそ、と言うべきなのかな? お客様方」
彼女の後ろから昇りたての太陽が力強い光を投げかけてきた。
「ダメです! さっきも言ったでしょう。ススキさんの命令ですからね」
「だから、ススキには後で私から言っておくってば」
「ダメったらダメですってば!」
階上から聞こえるやりとりにアサザは小さく溜息をついた。
「あのお嬢さんも根性あるな……」
「単に私らが珍しいだけであろう? 先程もそのようなことを言っておった」
レンギョウの台詞はそっけない。通されてすぐのうちは『部屋』を物珍しげに眺めていたのだが、一通り確認を済ませてしまうと隅の壁に背を預けて動かなくなってしまった。見ると、瞼が半分以上も落ちている。昨夜の半徹夜の遠駆けの疲れが出たのだろう。
「そうだろうが……かれこれ二時間だぜ。相手してる奴も災難だな」
アサザは縄の痕が残る手首をさすりながら背後をちらりと見やった。今凭れているのは頑丈な木材で組まれた格子だった。それ越しに見える地面が剥き出しの通路はやがて階段になり、地上へと続いている。
その階段の上には見張りがいた。角度的にアサザの位置からは見えないが、会話から二人がここに入れられたことで監視の役を仰せつかったらしいことがわかった。朝早くからご苦労なことだ。
しかし不幸なことに彼は本来の役目とは違う仕事で苦労していた。シオンの相手である。この二時間ずっと続いている階上の押し問答に聞いているアサザまでもがうんざりしていた。
「この場合まさか俺たちの方から出ていくわけにもいかないからな」
『客室』と書かれた手製の札が打ちつけられた向かいの部屋を眺めながらアサザはぼやいた。恐らくこの部屋の外にも同じような札がかかっているのだろう。確かにこの部屋は俺たちのような招かれざる客にはお似合いだ、と皮肉げに考える。地下室独特の陰気な湿っぽさ。見張りが監視しやすい隙間だらけの格子戸。部屋の中を見回せば(もっとも、見渡すほどの広さでもないが)目に付く調度品は大型の雑巾のような毛布が数枚と薄汚れた素焼きの壺だけ。床は外の通路と同様、地べたが露出していた。早い話が、地下牢だ。
ここに入れられた時アサザの縄は解かれたが、同時に剣を取り上げられてしまった。それまで取られなかったことの方が不思議なのだが、どの道腕が使えなければせっかくの得物も抜くことすらできない。腕が使えても得物がなければどうしようもないのでアサザはおとなしくしているしかなかった。素手ではとても太刀打ちできない格子戸をいまいましげに見やって、アサザはうめいた。
「くそ……」
「そんなに焦ることはない。時期が来れば出られよう」
あくび混じりのレンギョウの声。重ねた毛布の上に座り、どうやら本格的に眠くなってきたようだ。
「そうは言ってもだな、お前はどうなるんだ? 家の者には黙って出てきたんだぞ。今ごろ方々探し回ってるんじゃ……」
「『私』を探す者などおらんよ」
自嘲気味に言ってから、ふとレンギョウはアサザに目を向けた。
「お前……私のために焦っていたのか?」
「べっ……別にお前のためじゃないさ! 俺のせいでお前の家族に心配かけたら寝覚めが悪いだろう!!」
「だから家族はおらんと言うておろうに」
目を伏せたレンギョウは再び壁に背をつけた。
「どうしても出たくなれば言うがよい。そんな格子などすぐに破ってやる」
「れっ……レン!」
言いかけた言葉をアサザは飲み込んだ。規則正しい寝息が牢の空気を震わせる。
「見かけによらずレンも物騒だな……」
何となく頬を掻きながらアサザは呟いた。それにしてもあまり派手に牢破りなどしたら逃げるに逃げられなくなる。レンに頼むのは最後の手段だ、とアサザが心を決めた時、ふと階上の様子が先程までと変化しているのに気づいた。
「本当に少しの間だけですからね。くれぐれもススキさんにはバレないようにしてくださいよ」
「分かってるわよ。お心遣い、ありがとね」
嬉しげな少女の声。同時に、こちらに向かってくる軽い足音。
一瞬にしてアサザの脳裏に先程会ったばかりのシオンの姿が浮かび上がった。年の頃は十五、六。背は高めだが華奢な身体。身のこなしも軽々と、元気がよい。
しかしそれらは彼女がごく普通の少女であることを意味していた。見張りが強く出られない様子などを見ると、この武装組織の中では一目置かれる存在のようだ。しかしその立場は武術ゆえではないだろうとアサザは考えた。おそらく、幹部の血縁か何かなのだろう。
「レン」
低く鋭い呼びかけ。それだけで小さな寝息はぴたりと止んだ。
「どうした?」
「俺が合図したら格子を破ってくれ」
「……わかった」
階段から軽い足音が近づいてくる。アサザは袖口をそっと押さえた。そこに仕込んだ調理用の小刀は幸い見つからなかった。硬い柄の感触を確かめ、呟く。
あとは、機を窺うだけだ。
「だから、ススキには後で私から言っておくってば」
「ダメったらダメですってば!」
階上から聞こえるやりとりにアサザは小さく溜息をついた。
「あのお嬢さんも根性あるな……」
「単に私らが珍しいだけであろう? 先程もそのようなことを言っておった」
レンギョウの台詞はそっけない。通されてすぐのうちは『部屋』を物珍しげに眺めていたのだが、一通り確認を済ませてしまうと隅の壁に背を預けて動かなくなってしまった。見ると、瞼が半分以上も落ちている。昨夜の半徹夜の遠駆けの疲れが出たのだろう。
「そうだろうが……かれこれ二時間だぜ。相手してる奴も災難だな」
アサザは縄の痕が残る手首をさすりながら背後をちらりと見やった。今凭れているのは頑丈な木材で組まれた格子だった。それ越しに見える地面が剥き出しの通路はやがて階段になり、地上へと続いている。
その階段の上には見張りがいた。角度的にアサザの位置からは見えないが、会話から二人がここに入れられたことで監視の役を仰せつかったらしいことがわかった。朝早くからご苦労なことだ。
しかし不幸なことに彼は本来の役目とは違う仕事で苦労していた。シオンの相手である。この二時間ずっと続いている階上の押し問答に聞いているアサザまでもがうんざりしていた。
「この場合まさか俺たちの方から出ていくわけにもいかないからな」
『客室』と書かれた手製の札が打ちつけられた向かいの部屋を眺めながらアサザはぼやいた。恐らくこの部屋の外にも同じような札がかかっているのだろう。確かにこの部屋は俺たちのような招かれざる客にはお似合いだ、と皮肉げに考える。地下室独特の陰気な湿っぽさ。見張りが監視しやすい隙間だらけの格子戸。部屋の中を見回せば(もっとも、見渡すほどの広さでもないが)目に付く調度品は大型の雑巾のような毛布が数枚と薄汚れた素焼きの壺だけ。床は外の通路と同様、地べたが露出していた。早い話が、地下牢だ。
ここに入れられた時アサザの縄は解かれたが、同時に剣を取り上げられてしまった。それまで取られなかったことの方が不思議なのだが、どの道腕が使えなければせっかくの得物も抜くことすらできない。腕が使えても得物がなければどうしようもないのでアサザはおとなしくしているしかなかった。素手ではとても太刀打ちできない格子戸をいまいましげに見やって、アサザはうめいた。
「くそ……」
「そんなに焦ることはない。時期が来れば出られよう」
あくび混じりのレンギョウの声。重ねた毛布の上に座り、どうやら本格的に眠くなってきたようだ。
「そうは言ってもだな、お前はどうなるんだ? 家の者には黙って出てきたんだぞ。今ごろ方々探し回ってるんじゃ……」
「『私』を探す者などおらんよ」
自嘲気味に言ってから、ふとレンギョウはアサザに目を向けた。
「お前……私のために焦っていたのか?」
「べっ……別にお前のためじゃないさ! 俺のせいでお前の家族に心配かけたら寝覚めが悪いだろう!!」
「だから家族はおらんと言うておろうに」
目を伏せたレンギョウは再び壁に背をつけた。
「どうしても出たくなれば言うがよい。そんな格子などすぐに破ってやる」
「れっ……レン!」
言いかけた言葉をアサザは飲み込んだ。規則正しい寝息が牢の空気を震わせる。
「見かけによらずレンも物騒だな……」
何となく頬を掻きながらアサザは呟いた。それにしてもあまり派手に牢破りなどしたら逃げるに逃げられなくなる。レンに頼むのは最後の手段だ、とアサザが心を決めた時、ふと階上の様子が先程までと変化しているのに気づいた。
「本当に少しの間だけですからね。くれぐれもススキさんにはバレないようにしてくださいよ」
「分かってるわよ。お心遣い、ありがとね」
嬉しげな少女の声。同時に、こちらに向かってくる軽い足音。
一瞬にしてアサザの脳裏に先程会ったばかりのシオンの姿が浮かび上がった。年の頃は十五、六。背は高めだが華奢な身体。身のこなしも軽々と、元気がよい。
しかしそれらは彼女がごく普通の少女であることを意味していた。見張りが強く出られない様子などを見ると、この武装組織の中では一目置かれる存在のようだ。しかしその立場は武術ゆえではないだろうとアサザは考えた。おそらく、幹部の血縁か何かなのだろう。
「レン」
低く鋭い呼びかけ。それだけで小さな寝息はぴたりと止んだ。
「どうした?」
「俺が合図したら格子を破ってくれ」
「……わかった」
階段から軽い足音が近づいてくる。アサザは袖口をそっと押さえた。そこに仕込んだ調理用の小刀は幸い見つからなかった。硬い柄の感触を確かめ、呟く。
あとは、機を窺うだけだ。
「や、元気?」
「……元気だよ、一応な」
格子に凭れたままのアサザの答えに、シオンはくつくつと笑った。
「こんなおもてなししかできなくてごめんなさい。お連れさんは大丈夫?」
「大事ない」
そっけないレンギョウの言葉に気を悪くした様子もなく、シオンは格子の外にしゃがみこんだ。
「ね、あたしシオンっていうの。あなたたちは? どこから来たの?」
「おいおい、見張りはちょっとだけって言ってなかったか?」
「あの人は朝ごはんを食べに行っちゃったわ。あたしに鍵を預けてね」
にっこり笑ってシオンはぐっと格子に顔を近づけた。
「それよりも名前! 名前を教えてよー」
「なんでそんなにこだわるんだ!?」
「あたしがあなたたちの調書をつけるからよ。書類って一番最初には名前を書くものでしょう?」
得意げにシオンは持っていた紙片を示した。その上部には確かに『調書』の文字がある。
「……まあいいけどな」
明らかにシオンの手書きと分かるその文字から目を逸らし、アサザは土の壁に背を預けた。
「俺はアサザ、あっちはレンだ」
「黒頭ででかいのがアサザ、銀色で可愛いのがレンだね。ふむふむ」
真剣なのかふざけているのか分からない顔でシオンが紙にペンを走らせる。
「ところであんた、こんなに俺たちのそばに来てもいいのか? ここじゃそれなりの立場にあるように見えたが」
アサザの言葉にシオンは軽い驚きを見せた。
「何でそう思うの?」
「そりゃ……上の見張りだって何だかんだであんたの頼みを聞いてたし、さっきの偉そうな奴——ススキにもあんたは顔が利くんだろ? あいつはどう見ても下っ端じゃなかったし、あんたはあいつを呼び捨てにしてたしな」
「なるほど、だからあたしも下っ端じゃないってわけね」
ぽん、とシオンは両手を叩いた。
「うん、半分あたりで半分はずれ。あたしとススキは長の拾い子なの」
「……そうか」
顔を曇らせたアサザにレンギョウが訝しげな目を向ける。
「拾い子……?」
「実の子供じゃないってことよ。あたしの村はあたしが生まれてすぐに盗賊の襲撃だか村同士の抗争だかでなくなっちゃったの。運良く生き残ったあたしを混乱を収めにやって来た長が引き取ってくれたわけ。中立地帯は貧しいから、こんなことは珍しいことじゃないわ」
淡々とシオンは語る。
「だからここの人はみんなあたしを長の娘として育ててくれたの。ま、あたしにも一応お役目はあるわけだけど……だから、ススキとあたしは兄妹みたいなものね。同じように長を親代わりに大きくなったんだから。でもススキはあたしとは違って実力であの地位を手に入れたのよ。兵士としての働きでね」
ふっ、と声に溜息が混じる。
「ほんと、あたしとは大違い。あたしは、ただの飾りなんだから」
「飾り、か——」
レンギョウが低く呟く。その表情から先程よりとげが消えているように見えるのは気のせいだろうか。レンギョウの変化に気づいたのか、シオンはわざと声を明るくした。
「そ。普段どれだけわがままを聞いてくれても、肝心なところではあたしはいつも仲間はずれなの。今もそう。ススキたちは長の部屋であなたたちをどうするか話し合ってるけど、あたしは呼ばれてもいないわ」
アサザが背中を壁から離した。
「ふーん……じゃ、今は主だった奴らはみんな会議中ってことか」
「そうね。それ以外の人たちも朝ごはんの真っ最中よ」
アサザの目がすっと細まった。
「——危ないとは思わないのか?」
「何が?」
シオンがきょとんと問い返す。立てた膝に肘を乗せて、アサザが身を乗り出す。レンギョウもアサザに目を向けた。
「あんたに何か起こった時助けに来れそうな奴がいない今のような状況で、あんたが俺たちにこんなに接近すること……そしてそれを俺たちに話しちまったことが、さ」
不敵な笑みを口元に浮かべたアサザに、シオンはああ、と頷いた。
「そんなこと。大丈夫よ、ここはそう簡単には破れないわ。破れたとしても一応あたしだって自警団の一員よ? 護身術くらい知ってるわ」
「そうかい? んじゃあ——」
アサザがレンギョウを顧みる。その視線を受けたレンギョウの両手の間には、既に白い光が浮かんでいた。その光がふっと見えなくなるのと同時にごうっ、と風が吹いた。同時にまるで鋭い刃で断ち切られたかのように、牢の格子がばらばらになって吹き飛ぶ。不思議なほど、音はしなかった。
「なっ……何!?」
舞い上がる土埃に思わずシオンは顔をかばった。牢の中の様子は見えない。シオンがその場を一歩も動けないうちに、その身体がぐいっと後方に引かれた。
「牢、破れちまったぜ。どうする?」
ぴたり、とシオンの首筋に小刀をつけたアサザが言う。レンギョウも埃を潜り抜けて牢の外に出てきた。
「うーん、困ったわね」
意外にシオンは落ち着いていた。
「まさか本当に牢破りをするとは思わなかったわ。あなたが言うとおり、あたしは少し軽率だったようね」
そう言って、わずかに視線を落とす。喉元の小刀を示して、シオンは小さく肩を竦めた。
「こんなものをこんな近くで向けられたんじゃ何もできないわ。あなたたちこそどうするの?」
「そりゃ逃げるさ。別にあんたを困らせるためにこんなことをしたんじゃない」
「ふふ、それもそうね。なら、あたしを連れていって」
「……は?」
アサザのみならず、レンギョウまでも目を丸くした。その拍子にアサザの力が緩んだのか、シオンはアサザに振り返って笑った。
「あなたたちは剣や馬がどこにあるか知らないでしょう? あたしが案内するわ」
「なぜ」
シオンはレンギョウに目を向けた。
「あなたたちのことが気に入っちゃったの。逃がしてあげるから代わりにあたしも連れていってよ」
「……余らがおぬしの要求に応える義理はなかろう」
「そう? じゃ、あたし大声出すわよ?」
ぐっと言葉を詰まらせたレンギョウにアサザは呆れと苦笑いが半々に混じった視線を向ける。
「ま、いいだろ。俺たちがここに詳しくないのは確かだしな」
「しかし……」
「大丈夫だよ。このお嬢さんだって危険は承知だろうさ。俺たちとしても、道案内兼人質になるわけだからそう不利になるわけでもない」
「……なんだかひどい言われようね」
シオンのぼやきをよそにしばらく考え込んでいたレンギョウは、やがてこくりと頷いた。
「——アサザがそう言うのなら。任せる」
「ああ」
にっと笑ってアサザは階段の上を見上げた。土埃は既に収まり、入り口からは松明より数段明るい光が射し込んでいる。
「じゃ、行くぞ。脱出だ」
「……元気だよ、一応な」
格子に凭れたままのアサザの答えに、シオンはくつくつと笑った。
「こんなおもてなししかできなくてごめんなさい。お連れさんは大丈夫?」
「大事ない」
そっけないレンギョウの言葉に気を悪くした様子もなく、シオンは格子の外にしゃがみこんだ。
「ね、あたしシオンっていうの。あなたたちは? どこから来たの?」
「おいおい、見張りはちょっとだけって言ってなかったか?」
「あの人は朝ごはんを食べに行っちゃったわ。あたしに鍵を預けてね」
にっこり笑ってシオンはぐっと格子に顔を近づけた。
「それよりも名前! 名前を教えてよー」
「なんでそんなにこだわるんだ!?」
「あたしがあなたたちの調書をつけるからよ。書類って一番最初には名前を書くものでしょう?」
得意げにシオンは持っていた紙片を示した。その上部には確かに『調書』の文字がある。
「……まあいいけどな」
明らかにシオンの手書きと分かるその文字から目を逸らし、アサザは土の壁に背を預けた。
「俺はアサザ、あっちはレンだ」
「黒頭ででかいのがアサザ、銀色で可愛いのがレンだね。ふむふむ」
真剣なのかふざけているのか分からない顔でシオンが紙にペンを走らせる。
「ところであんた、こんなに俺たちのそばに来てもいいのか? ここじゃそれなりの立場にあるように見えたが」
アサザの言葉にシオンは軽い驚きを見せた。
「何でそう思うの?」
「そりゃ……上の見張りだって何だかんだであんたの頼みを聞いてたし、さっきの偉そうな奴——ススキにもあんたは顔が利くんだろ? あいつはどう見ても下っ端じゃなかったし、あんたはあいつを呼び捨てにしてたしな」
「なるほど、だからあたしも下っ端じゃないってわけね」
ぽん、とシオンは両手を叩いた。
「うん、半分あたりで半分はずれ。あたしとススキは長の拾い子なの」
「……そうか」
顔を曇らせたアサザにレンギョウが訝しげな目を向ける。
「拾い子……?」
「実の子供じゃないってことよ。あたしの村はあたしが生まれてすぐに盗賊の襲撃だか村同士の抗争だかでなくなっちゃったの。運良く生き残ったあたしを混乱を収めにやって来た長が引き取ってくれたわけ。中立地帯は貧しいから、こんなことは珍しいことじゃないわ」
淡々とシオンは語る。
「だからここの人はみんなあたしを長の娘として育ててくれたの。ま、あたしにも一応お役目はあるわけだけど……だから、ススキとあたしは兄妹みたいなものね。同じように長を親代わりに大きくなったんだから。でもススキはあたしとは違って実力であの地位を手に入れたのよ。兵士としての働きでね」
ふっ、と声に溜息が混じる。
「ほんと、あたしとは大違い。あたしは、ただの飾りなんだから」
「飾り、か——」
レンギョウが低く呟く。その表情から先程よりとげが消えているように見えるのは気のせいだろうか。レンギョウの変化に気づいたのか、シオンはわざと声を明るくした。
「そ。普段どれだけわがままを聞いてくれても、肝心なところではあたしはいつも仲間はずれなの。今もそう。ススキたちは長の部屋であなたたちをどうするか話し合ってるけど、あたしは呼ばれてもいないわ」
アサザが背中を壁から離した。
「ふーん……じゃ、今は主だった奴らはみんな会議中ってことか」
「そうね。それ以外の人たちも朝ごはんの真っ最中よ」
アサザの目がすっと細まった。
「——危ないとは思わないのか?」
「何が?」
シオンがきょとんと問い返す。立てた膝に肘を乗せて、アサザが身を乗り出す。レンギョウもアサザに目を向けた。
「あんたに何か起こった時助けに来れそうな奴がいない今のような状況で、あんたが俺たちにこんなに接近すること……そしてそれを俺たちに話しちまったことが、さ」
不敵な笑みを口元に浮かべたアサザに、シオンはああ、と頷いた。
「そんなこと。大丈夫よ、ここはそう簡単には破れないわ。破れたとしても一応あたしだって自警団の一員よ? 護身術くらい知ってるわ」
「そうかい? んじゃあ——」
アサザがレンギョウを顧みる。その視線を受けたレンギョウの両手の間には、既に白い光が浮かんでいた。その光がふっと見えなくなるのと同時にごうっ、と風が吹いた。同時にまるで鋭い刃で断ち切られたかのように、牢の格子がばらばらになって吹き飛ぶ。不思議なほど、音はしなかった。
「なっ……何!?」
舞い上がる土埃に思わずシオンは顔をかばった。牢の中の様子は見えない。シオンがその場を一歩も動けないうちに、その身体がぐいっと後方に引かれた。
「牢、破れちまったぜ。どうする?」
ぴたり、とシオンの首筋に小刀をつけたアサザが言う。レンギョウも埃を潜り抜けて牢の外に出てきた。
「うーん、困ったわね」
意外にシオンは落ち着いていた。
「まさか本当に牢破りをするとは思わなかったわ。あなたが言うとおり、あたしは少し軽率だったようね」
そう言って、わずかに視線を落とす。喉元の小刀を示して、シオンは小さく肩を竦めた。
「こんなものをこんな近くで向けられたんじゃ何もできないわ。あなたたちこそどうするの?」
「そりゃ逃げるさ。別にあんたを困らせるためにこんなことをしたんじゃない」
「ふふ、それもそうね。なら、あたしを連れていって」
「……は?」
アサザのみならず、レンギョウまでも目を丸くした。その拍子にアサザの力が緩んだのか、シオンはアサザに振り返って笑った。
「あなたたちは剣や馬がどこにあるか知らないでしょう? あたしが案内するわ」
「なぜ」
シオンはレンギョウに目を向けた。
「あなたたちのことが気に入っちゃったの。逃がしてあげるから代わりにあたしも連れていってよ」
「……余らがおぬしの要求に応える義理はなかろう」
「そう? じゃ、あたし大声出すわよ?」
ぐっと言葉を詰まらせたレンギョウにアサザは呆れと苦笑いが半々に混じった視線を向ける。
「ま、いいだろ。俺たちがここに詳しくないのは確かだしな」
「しかし……」
「大丈夫だよ。このお嬢さんだって危険は承知だろうさ。俺たちとしても、道案内兼人質になるわけだからそう不利になるわけでもない」
「……なんだかひどい言われようね」
シオンのぼやきをよそにしばらく考え込んでいたレンギョウは、やがてこくりと頷いた。
「——アサザがそう言うのなら。任せる」
「ああ」
にっと笑ってアサザは階段の上を見上げた。土埃は既に収まり、入り口からは松明より数段明るい光が射し込んでいる。
「じゃ、行くぞ。脱出だ」
「何とか逃げ切れたようだな」
その空を見上げて、アサザは大きく息を吐いた。
「そうだな」
すっとレンギョウがアサザの隣に並ぶ。二人とも馬に乗っていた。勿論、アサザを乗せているのはキキョウだ。
「割と上手くいったわよね。途中ちょっと危なかったけど」
シオンの声はキキョウの上からした。昨夜のレンギョウと同じように、アサザの前に乗っている。
「ま、な。あんたがいなかったらヤバかったかもしれない。ありがとな」
つい先程の逃亡劇を思い返しながらアサザが言った。
地下牢を抜けて、見張り場に置かれていた剣を取り戻すまでは順調だった。馬を奪い返すため、通路を移動しているところを見つかった。咄嗟にシオンを盾にして、すぐ近くにあった厨房に飛び込んだ。朝食の用意が一段落してそれぞれ休んでいた人々(おばちゃんばっかだ、とアサザは思った)をこれまた近くにあった片手鍋を振り回しながら突破し、飛び出した裏口のすぐ傍にあった厩舎でキキョウと合流を果たした。再会を喜ぶ暇もなくキキョウとその隣にいた馬を外に出し、シオンの指示する最短路をレンギョウの煙幕で隠れながらようやくここまで駆けてきたのだ。今ごろ自警団本拠地は大騒ぎだろう。
「いーえ。あたしはあたしのしたいことをしただけよ」
軽く肩を竦めてシオンは視線を前方に向けた。地下牢にいたときより口数が少なくなっているのは、彼女なりに本拠地を心配しているからだろう。
追っ手があるわけでもなく、特に急ぐ道でも目的があるわけでもない。アサザは手綱を緩めた。そうしてふと、横手に目線を流す。
「ところでレン。お前がこんなに巧く馬に乗るとは思わなかったな」
「そうか?」
同じく速度を落としたレンギョウがアサザに顔を向ける。
「ああ。あんなドタバタの中で魔法を使いながら俺……てーかキキョウについて来ただろ。大したもんだぜ」
「そうか。馬を操るなど久方振りだったから、ちと不安だったのだが」
「そうだったのか? 全然そうは見えなかったぜ」
少し照れたように目元を緩めてレンギョウは前を向いた。
「……かたじけない」
三人の前には緩やかな丘があった。なだらかな斜面に丈の高い草が柔らかに揺れている。緑の丘をゆっくりと登り切り、その後ろに隠されていた景色が目に入った瞬間、三人は息を呑んだ。
「——海だ」
誰かが呟いた。一瞬の空白の後、二騎の馬は海へ向かって駆け出していた。あっという間に丘の緑は後ろへと流れ去り、視界は砂浜の白を経て海と空の蒼に埋めつくされる。波打ち際ぎりぎりで手綱を引いて、三人は馬から飛び降りた。
「すごーい! こんなに綺麗な海、初めて見た」
両手に掬い上げた海水にも負けないほど瞳をきらめかせたシオンが言う。海面の眩しさに目を細めたアサザも頷いた。
「ああ。天気も良いし、波も穏やかだ。本当に今日は、いい海だな」
シオンはもう聞いていない。結んだ水を振りまいて、子供のように波と遊び始める。その周りに一瞬、虹色が踊った。
飛んできた飛沫を苦笑しながら避けたアサザは、波際に立ちつくすレンギョウを振り返った。
「どうしたんだ、レン? 随分大人しいな」
「いや、なに……これが、海というものなのかと思ってな」
瞳に驚きを浮かべ、レンギョウが言う。
「……大きいな」
その言葉の中に驚き以外の要素を感じて、アサザも素直に頷いた。確かに、今日の海には人の心を動かす何かがある。
「ねー、見てー!!」
いつの間にか随分遠くまで行っていたシオンが戻ってきた。
「今水の中で見つけたの。これ、レンの目の色にそっくりじゃない?」
示されたものを見て、アサザは感心八割呆れ二割の笑いをこぼした。
「本当だ。よくこんなもん見つけたな」
「へへー。あたしってこういうのには目ざといんだよね」
びしょ濡れの裾を気にする様子もなく、シオンはレンギョウに拳を差し出した。
「はい、あげる」
手の中に落とし込まれた小さな蒼いガラス石をきゅっと握って、レンギョウはシオンに目を向けた。
「余に? いいのか?」
「うん。記念になるでしょ?」
「……記念?」
怪訝な顔のレンギョウにシオンは頷いた。
「海。見たの初めてなんでしょ?」
沈黙するレンギョウからアサザに視線を流して、シオンは小さく笑った。
「海を見たことがない貴族と、絵に描いたような戦士。こんなに変な取り合わせもなかなか見れるもんじゃないわよね」
アサザが軽く目を見開いた。
「シオン、お前……」
「あら、バレてないとでも思ってた? レンはあんなにばんばん魔法使ってるし、アサザは剣と馬にこだわってたのに?」
悪戯っぽく二人の顔を覗き込んで、シオンは続けた。
「それに二人とも、王都や皇都では『それなりの立場』があるんでしょ? あたしの目だって節穴じゃないわ。何となくそういうことって分かるもの。さすがにどういう経緯でこんなに変な二人組が結成されたかまでは分からないけどね」
もう一度笑って、シオンは首を傾げた。
「そういえばあなたたち、ごはんは食べた?」
「……いや」
「あ、やっぱり。じゃあこれあげるよ」
言いながらシオンは懐から布包みを取り出してアサザに渡した。
「これは?」
「お饅頭よ。さっき通った台所から持ってきたの」
包みを開けると、確かに小さな饅頭が一つ入っていた。押し込められていたせいだろう、少しつぶれている。
「ごはんが出せなかったこと、悪く思わないでね。最近は自警団も貧乏だから、予定外のお客さんにはごはんを出せないのよ」
シオンは小さく肩を竦めた。
「情けないけど、これが中立地帯の現状。あたしたちでさえこんななんだから、普通に暮らしてる普通の中立地帯の人はもっと苦しいでしょうね」
今度はアサザが沈黙する番だった。ためらいがちにレンギョウが口を開く。
「なぜそんな……食べるものにも困るほど生活が苦しくなったのだ?」
「さあ。ほんとのところはあたしにも分からない。よく皇帝が悪いとは言われるけどね。一応中立地帯は皇帝が面倒を見るって事に決まってるらしいけど、皇帝領と比べたらやっぱり差はあるわね」
軽く目を見張って、レンギョウはアサザを見上げた。
「本当か?」
「……ああ」
苦しげにアサザが答える。
「そうか……それも私は……知らなかった」
俯くレンギョウにシオンは頷いた。
「さっきレンはあたしに、なんで逃がしてくれるのかって訊いたよね?」
シオンはアサザが持ったままの包みを示した。
「それが答え。あなたたち、皇都と王都の関係者に中立地帯の現状を知ってもらいたかったの。こういうことはすごく大事だとあたしは思うから」
それだけ言うとシオンは満足したのか、軽く伸びをして空を見上げた。
「あ、もうあんなに太陽が昇ってる。そろそろ帰らなきゃ、貴重な昼ごはんを食いっぱぐれちゃうわね」
シオンは二人にくるりと背を向けて、指笛を吹いた。砂浜で大人しくしていた本拠地の馬が、耳をぴんと立ててやって来る。
「じゃ、あたしはここで。あんまり遅くなるとススキに怒られちゃうしね」
身軽に馬に飛び乗ったシオンはしかし、数歩馬を歩かせたところで止まった。
「……あたしが今更何をしても、何を言っても、何も変わらないのかもしれないけど。でも最後に一つだけ、言っておくわ。これからこの国は変わっていく。それがいいことなのかどうかは分からないけれど……これも、憶えていてね」
振り返らずにそれだけを言って、シオンは馬の腹を蹴った。高い嘶きを上げて馬が走り出す。見る間にシオンの姿は遠ざかり、緑の丘に紛れて見えなくなった。
「——俺たちも、行こうか」
短くはない沈黙の後、アサザはキキョウを呼んだ。波打ち際で遊んでいたキキョウが近寄ってくると、レンギョウは逆らわずにその背に乗った。続いて飛び乗ったアサザが、ふと思いついてシオンからもらった包みを開けた。中の饅頭を二つに割り、一つをレンギョウに渡す。
「食っとけよ。王都まではかなりかかるだろうからな」
「……うむ」
素直にレンギョウは頷いた。それを確認したかのように低く嘶いて、キキョウは走り出した。
シオンが本拠地に帰ると、そこは大騒ぎになっていた。
「ただいまー」
騒ぎの元凶のわざとらしいほど呑気な声に、本拠地の人々は一瞬静まり——一斉に溜息を吐いた。
「あ、帰ってきたよ」
「まったく人騒がせな……」
口々に飛ぶ文句に笑って応えながらシオンの足は正確に食堂へ向かって進んでいた。しかしその順調な歩みは目的地からかなり離れたところで止まってしまった。
「……ススキ」
壁に凭れたススキがシオンに友好的とは言いがたい視線を向けていた。
「シオン、お前は今がどういう時期だか解っているのか」
「うん」
他の者なら気圧されてしまいそうなススキの冷たい声に、シオンはあっさりと答えを返した。二人の視線が交錯する。
「……解っているのなら、いい」
目を逸らしたのはススキの方だった。
「怪我がないようで、何よりだ」
「ありがと。ところで今日の昼ごはんは何かな」
「さあな」
すたすたと去っていくススキの背を不満げに見送ってから、シオンは再び食堂へ歩き出した。
「解ってるわよ。だからごはんが気になるのよ。『腹が減っては戦は出来ない』って言うでしょうに」
ぶつぶつ言いながら歩いていたシオンの顔が、見慣れた食堂のドアを見てぱっと輝いた。
「そうよ。明日は王都へ行くんだもの。いっぱい食べて元気をつけなくちゃ」
その空を見上げて、アサザは大きく息を吐いた。
「そうだな」
すっとレンギョウがアサザの隣に並ぶ。二人とも馬に乗っていた。勿論、アサザを乗せているのはキキョウだ。
「割と上手くいったわよね。途中ちょっと危なかったけど」
シオンの声はキキョウの上からした。昨夜のレンギョウと同じように、アサザの前に乗っている。
「ま、な。あんたがいなかったらヤバかったかもしれない。ありがとな」
つい先程の逃亡劇を思い返しながらアサザが言った。
地下牢を抜けて、見張り場に置かれていた剣を取り戻すまでは順調だった。馬を奪い返すため、通路を移動しているところを見つかった。咄嗟にシオンを盾にして、すぐ近くにあった厨房に飛び込んだ。朝食の用意が一段落してそれぞれ休んでいた人々(おばちゃんばっかだ、とアサザは思った)をこれまた近くにあった片手鍋を振り回しながら突破し、飛び出した裏口のすぐ傍にあった厩舎でキキョウと合流を果たした。再会を喜ぶ暇もなくキキョウとその隣にいた馬を外に出し、シオンの指示する最短路をレンギョウの煙幕で隠れながらようやくここまで駆けてきたのだ。今ごろ自警団本拠地は大騒ぎだろう。
「いーえ。あたしはあたしのしたいことをしただけよ」
軽く肩を竦めてシオンは視線を前方に向けた。地下牢にいたときより口数が少なくなっているのは、彼女なりに本拠地を心配しているからだろう。
追っ手があるわけでもなく、特に急ぐ道でも目的があるわけでもない。アサザは手綱を緩めた。そうしてふと、横手に目線を流す。
「ところでレン。お前がこんなに巧く馬に乗るとは思わなかったな」
「そうか?」
同じく速度を落としたレンギョウがアサザに顔を向ける。
「ああ。あんなドタバタの中で魔法を使いながら俺……てーかキキョウについて来ただろ。大したもんだぜ」
「そうか。馬を操るなど久方振りだったから、ちと不安だったのだが」
「そうだったのか? 全然そうは見えなかったぜ」
少し照れたように目元を緩めてレンギョウは前を向いた。
「……かたじけない」
三人の前には緩やかな丘があった。なだらかな斜面に丈の高い草が柔らかに揺れている。緑の丘をゆっくりと登り切り、その後ろに隠されていた景色が目に入った瞬間、三人は息を呑んだ。
「——海だ」
誰かが呟いた。一瞬の空白の後、二騎の馬は海へ向かって駆け出していた。あっという間に丘の緑は後ろへと流れ去り、視界は砂浜の白を経て海と空の蒼に埋めつくされる。波打ち際ぎりぎりで手綱を引いて、三人は馬から飛び降りた。
「すごーい! こんなに綺麗な海、初めて見た」
両手に掬い上げた海水にも負けないほど瞳をきらめかせたシオンが言う。海面の眩しさに目を細めたアサザも頷いた。
「ああ。天気も良いし、波も穏やかだ。本当に今日は、いい海だな」
シオンはもう聞いていない。結んだ水を振りまいて、子供のように波と遊び始める。その周りに一瞬、虹色が踊った。
飛んできた飛沫を苦笑しながら避けたアサザは、波際に立ちつくすレンギョウを振り返った。
「どうしたんだ、レン? 随分大人しいな」
「いや、なに……これが、海というものなのかと思ってな」
瞳に驚きを浮かべ、レンギョウが言う。
「……大きいな」
その言葉の中に驚き以外の要素を感じて、アサザも素直に頷いた。確かに、今日の海には人の心を動かす何かがある。
「ねー、見てー!!」
いつの間にか随分遠くまで行っていたシオンが戻ってきた。
「今水の中で見つけたの。これ、レンの目の色にそっくりじゃない?」
示されたものを見て、アサザは感心八割呆れ二割の笑いをこぼした。
「本当だ。よくこんなもん見つけたな」
「へへー。あたしってこういうのには目ざといんだよね」
びしょ濡れの裾を気にする様子もなく、シオンはレンギョウに拳を差し出した。
「はい、あげる」
手の中に落とし込まれた小さな蒼いガラス石をきゅっと握って、レンギョウはシオンに目を向けた。
「余に? いいのか?」
「うん。記念になるでしょ?」
「……記念?」
怪訝な顔のレンギョウにシオンは頷いた。
「海。見たの初めてなんでしょ?」
沈黙するレンギョウからアサザに視線を流して、シオンは小さく笑った。
「海を見たことがない貴族と、絵に描いたような戦士。こんなに変な取り合わせもなかなか見れるもんじゃないわよね」
アサザが軽く目を見開いた。
「シオン、お前……」
「あら、バレてないとでも思ってた? レンはあんなにばんばん魔法使ってるし、アサザは剣と馬にこだわってたのに?」
悪戯っぽく二人の顔を覗き込んで、シオンは続けた。
「それに二人とも、王都や皇都では『それなりの立場』があるんでしょ? あたしの目だって節穴じゃないわ。何となくそういうことって分かるもの。さすがにどういう経緯でこんなに変な二人組が結成されたかまでは分からないけどね」
もう一度笑って、シオンは首を傾げた。
「そういえばあなたたち、ごはんは食べた?」
「……いや」
「あ、やっぱり。じゃあこれあげるよ」
言いながらシオンは懐から布包みを取り出してアサザに渡した。
「これは?」
「お饅頭よ。さっき通った台所から持ってきたの」
包みを開けると、確かに小さな饅頭が一つ入っていた。押し込められていたせいだろう、少しつぶれている。
「ごはんが出せなかったこと、悪く思わないでね。最近は自警団も貧乏だから、予定外のお客さんにはごはんを出せないのよ」
シオンは小さく肩を竦めた。
「情けないけど、これが中立地帯の現状。あたしたちでさえこんななんだから、普通に暮らしてる普通の中立地帯の人はもっと苦しいでしょうね」
今度はアサザが沈黙する番だった。ためらいがちにレンギョウが口を開く。
「なぜそんな……食べるものにも困るほど生活が苦しくなったのだ?」
「さあ。ほんとのところはあたしにも分からない。よく皇帝が悪いとは言われるけどね。一応中立地帯は皇帝が面倒を見るって事に決まってるらしいけど、皇帝領と比べたらやっぱり差はあるわね」
軽く目を見張って、レンギョウはアサザを見上げた。
「本当か?」
「……ああ」
苦しげにアサザが答える。
「そうか……それも私は……知らなかった」
俯くレンギョウにシオンは頷いた。
「さっきレンはあたしに、なんで逃がしてくれるのかって訊いたよね?」
シオンはアサザが持ったままの包みを示した。
「それが答え。あなたたち、皇都と王都の関係者に中立地帯の現状を知ってもらいたかったの。こういうことはすごく大事だとあたしは思うから」
それだけ言うとシオンは満足したのか、軽く伸びをして空を見上げた。
「あ、もうあんなに太陽が昇ってる。そろそろ帰らなきゃ、貴重な昼ごはんを食いっぱぐれちゃうわね」
シオンは二人にくるりと背を向けて、指笛を吹いた。砂浜で大人しくしていた本拠地の馬が、耳をぴんと立ててやって来る。
「じゃ、あたしはここで。あんまり遅くなるとススキに怒られちゃうしね」
身軽に馬に飛び乗ったシオンはしかし、数歩馬を歩かせたところで止まった。
「……あたしが今更何をしても、何を言っても、何も変わらないのかもしれないけど。でも最後に一つだけ、言っておくわ。これからこの国は変わっていく。それがいいことなのかどうかは分からないけれど……これも、憶えていてね」
振り返らずにそれだけを言って、シオンは馬の腹を蹴った。高い嘶きを上げて馬が走り出す。見る間にシオンの姿は遠ざかり、緑の丘に紛れて見えなくなった。
「——俺たちも、行こうか」
短くはない沈黙の後、アサザはキキョウを呼んだ。波打ち際で遊んでいたキキョウが近寄ってくると、レンギョウは逆らわずにその背に乗った。続いて飛び乗ったアサザが、ふと思いついてシオンからもらった包みを開けた。中の饅頭を二つに割り、一つをレンギョウに渡す。
「食っとけよ。王都まではかなりかかるだろうからな」
「……うむ」
素直にレンギョウは頷いた。それを確認したかのように低く嘶いて、キキョウは走り出した。
シオンが本拠地に帰ると、そこは大騒ぎになっていた。
「ただいまー」
騒ぎの元凶のわざとらしいほど呑気な声に、本拠地の人々は一瞬静まり——一斉に溜息を吐いた。
「あ、帰ってきたよ」
「まったく人騒がせな……」
口々に飛ぶ文句に笑って応えながらシオンの足は正確に食堂へ向かって進んでいた。しかしその順調な歩みは目的地からかなり離れたところで止まってしまった。
「……ススキ」
壁に凭れたススキがシオンに友好的とは言いがたい視線を向けていた。
「シオン、お前は今がどういう時期だか解っているのか」
「うん」
他の者なら気圧されてしまいそうなススキの冷たい声に、シオンはあっさりと答えを返した。二人の視線が交錯する。
「……解っているのなら、いい」
目を逸らしたのはススキの方だった。
「怪我がないようで、何よりだ」
「ありがと。ところで今日の昼ごはんは何かな」
「さあな」
すたすたと去っていくススキの背を不満げに見送ってから、シオンは再び食堂へ歩き出した。
「解ってるわよ。だからごはんが気になるのよ。『腹が減っては戦は出来ない』って言うでしょうに」
ぶつぶつ言いながら歩いていたシオンの顔が、見慣れた食堂のドアを見てぱっと輝いた。
「そうよ。明日は王都へ行くんだもの。いっぱい食べて元気をつけなくちゃ」
王宮・奥庭の湖は、昨夜よりも少しだけ満ちた月を映していた。湖を囲む木々は変わらずに柔らかな若葉をつけた枝を微かな風にそよがせている。その住み慣れた景色に帰ってきたはずのレンギョウの表情はしかし、明るくはなかった。
「……着いたぜ、レン」
「……うむ」
キキョウの足が止まり、アサザが声を掛けると、レンギョウは小さく頷いた。
別れの時だった。名残惜しさを振り払うように一度ぎゅっと目を瞑ってから、レンギョウは潔くキキョウの背を降りた。
「アサザ、私はお前に感謝している」
「な……何だよいきなり」
キキョウに乗ったままのアサザを見上げて、レンギョウは言う。
「この一日で私は、何年分もの経験を積んだように思う。ここに留まっていては知りえなかったこと、知りえなかった者たち……色々なことを見ることができ、知ることができた。こういうことは恐らく、今までの私に最も欠けていたことだったのだと思う。このような自分に気づかせてくれたこと、また気づく機会を与えてくれたこと……私は心からお前に礼を言う」
ぺこりと頭を下げたレンギョウに、アサザは慌てて手を振った。
「俺は別にそんなに改まって感謝されるようなことをしたわけじゃないさ! それどころか自警団に捕まったりとか、俺の方が迷惑かけちまって申し訳なかったよ」
一人の時は捕まったりしなかったのに、などというアサザのぶつぶつ声に、レンギョウは笑った。
「そんなことはない。私は結構楽しかったぞ」
「……レン、お前」
呆れた表情のアサザの顔に次第に笑いが広がっていく。
「お前は大物になるぜ、きっと」
「そうか?」
顔を見合わせて、二人は笑った。
「——またいつか、会えるだろうか」
ふと真顔になったレンギョウが呟く。
「縁があれば、な」
笑いを含んだままの声でアサザが答える。レンギョウが見上げた目はしかし、真剣そのものだった。
「今度会う時はもっとゆっくり話せるといいな。美味いメシとか食いながらさ」
「そうだな」
レンギョウは頷いた。
「ところで、『メシ』とは食事という意味でいいのか?」
「そうだ。だんだん解ってきたじゃないか」
もう一度笑った後、レンギョウはキキョウに目を向けた。
「キキョウ、お前にも世話になったな」
レンギョウの言葉に、キキョウは小さく鼻を鳴らして顔を寄せた。間近に迫ったその顔をレンギョウは撫でてやる。その時だった。
「——そこにいるのは、誰だ」
突然レンギョウの背後から鋭い声が投げられた。同時に、多人数が一斉に武器を構える気配。レンギョウの表情に緊張が走った。
「アサザ、行け」
短く言って、レンギョウは声の主を振り返った。間髪入れずに走り出したキキョウの足音を背中で聞いて、木々の隙間から見え隠れする兵と彼らが持つ弓に向かって凛と声を張り上げる。
「コウリ、余だ。武器を収めよ」
その声に応えて、一人の長身の男が進み出た。年の頃は二十五、六、周囲の兵のような鎧ではなく、ゆったりした布の服に長い亜麻色の髪を流している。
「レンギョウ様、御無事で」
「うむ」
一礼する男——コウリにレンギョウは頷きかけた。
「もう危険はない。兵たちに弓を下ろさせよ」
「それはできません」
「何?」
コウリは木々の向こうに目を向けた。その視線の先には、みるみる小さくなっていくキキョウとそれに乗るアサザがいる。
「あの男、戦士ですね。不可侵条約違反には制裁を、そう取り決められておりますゆえ」
コウリの言葉を体現するかのように、兵たちの弓弦が引かれる。その矢先はぴたりと遠ざかるアサザの背に向けられていた。
「やめよ!」
最初にコウリを、次に兵たちを睨みつけてレンギョウは叫んだ。
「あれは余の友人だ! 撃つな!!」
兵たちに動揺が走った。畳み掛けるようにレンギョウは兵たちを見回した。
「これは余の——国王レンギョウの勅命である! あやつを——アサザを撃ってはならぬ!!」
「アサザ?」
コウリの眉がわずかに上がる。その視線がレンギョウに、次いで侵入者が駆け去った方向に向けられる。そこにはもう、アサザとキキョウの姿は見えなかった。
「分かりました。どちらにせよ、既に矢は届きませぬ」
コウリの言葉にレンギョウがこくりと頷く。それを合図に、兵たちは一斉に弓を下ろした。
「ときにコウリよ。先日報告を受けた中立地帯からの謁見申し込みについてだが」
「中立地帯……ああ、自警団からの使者の件ですか」
瞳に驚きを浮かべて、レンギョウはコウリを見上げた。
「あれは自警団からのものだったのか? 余は聞いておらぬぞ」
「……それはお伝えしてはおりませんでしたから」
「まあよい。それを聞いてますます決心が固まった」
自分に確かめるように一つ頷いて、レンギョウは言葉を継いだ。
「余はその者たちに会ってみたい。そのように計らえ」
「お言葉ですが、レンギョウ様」
コウリが言う。
「今の中立地帯は飢えております。形式だけとはいえ皇民に属する中立地帯の者が国王を頼るとすれば、援助の要請か反乱の誘いに他なりません。このことは申し上げていたはず。だからこそ、レンギョウ様もこの件に関しては苦慮されていたのでしょう」
「余が聞いたのは援助か反乱かというくだりだけだったがのう」
鋭くコウリを睨みつけて、レンギョウは言い放った。
「余はもう子供ではない。決断は己で下す」
レンギョウの口許に自嘲するような笑みが浮かぶ。
「どうやら余は補佐であるおぬしに頼りすぎていたようだな。己で知ろうとする努力や姿勢が欠けていたことがこの一日で身に沁みて良く理解できた」
レンギョウの視線がアサザの去った方に向けられた。
「余とて戦は望まぬ。中立地帯の者たちにも、出来る限り反乱は起こさせぬつもりだ」
レンギョウの視線がコウリに戻される。
「だからおぬしには、余が決断するために必要な材料を示してほしい。余だけでは分からぬことが多すぎる」
「——は」
頭を下げるコウリにレンギョウは問いかけた。
「自警団の使者が来るのはいつになる?」
「明後日には王都入りするかと」
「人数は?」
「四人と聞いております」
「代表者の名は?」
「確か、シオンとか」
「……何?」
「他には護衛として、ススキ、ウイキョウ、スギという者が来ることになっていたはずです」
黙ってしまったレンギョウに、コウリが問い返した。
「私からもお尋ねしたいことがあります。先程の戦士の男、名は確かにアサザというのですか」
「う……うむ」
心ここにあらずといった様子のレンギョウの答えに、コウリは眉を寄せた。
「アサザ……本物だとすれば、大変なことになる」
コウリの低い呟きは、己の考えに沈むレンギョウの耳には届かなかった。
「……うむ」
キキョウの足が止まり、アサザが声を掛けると、レンギョウは小さく頷いた。
別れの時だった。名残惜しさを振り払うように一度ぎゅっと目を瞑ってから、レンギョウは潔くキキョウの背を降りた。
「アサザ、私はお前に感謝している」
「な……何だよいきなり」
キキョウに乗ったままのアサザを見上げて、レンギョウは言う。
「この一日で私は、何年分もの経験を積んだように思う。ここに留まっていては知りえなかったこと、知りえなかった者たち……色々なことを見ることができ、知ることができた。こういうことは恐らく、今までの私に最も欠けていたことだったのだと思う。このような自分に気づかせてくれたこと、また気づく機会を与えてくれたこと……私は心からお前に礼を言う」
ぺこりと頭を下げたレンギョウに、アサザは慌てて手を振った。
「俺は別にそんなに改まって感謝されるようなことをしたわけじゃないさ! それどころか自警団に捕まったりとか、俺の方が迷惑かけちまって申し訳なかったよ」
一人の時は捕まったりしなかったのに、などというアサザのぶつぶつ声に、レンギョウは笑った。
「そんなことはない。私は結構楽しかったぞ」
「……レン、お前」
呆れた表情のアサザの顔に次第に笑いが広がっていく。
「お前は大物になるぜ、きっと」
「そうか?」
顔を見合わせて、二人は笑った。
「——またいつか、会えるだろうか」
ふと真顔になったレンギョウが呟く。
「縁があれば、な」
笑いを含んだままの声でアサザが答える。レンギョウが見上げた目はしかし、真剣そのものだった。
「今度会う時はもっとゆっくり話せるといいな。美味いメシとか食いながらさ」
「そうだな」
レンギョウは頷いた。
「ところで、『メシ』とは食事という意味でいいのか?」
「そうだ。だんだん解ってきたじゃないか」
もう一度笑った後、レンギョウはキキョウに目を向けた。
「キキョウ、お前にも世話になったな」
レンギョウの言葉に、キキョウは小さく鼻を鳴らして顔を寄せた。間近に迫ったその顔をレンギョウは撫でてやる。その時だった。
「——そこにいるのは、誰だ」
突然レンギョウの背後から鋭い声が投げられた。同時に、多人数が一斉に武器を構える気配。レンギョウの表情に緊張が走った。
「アサザ、行け」
短く言って、レンギョウは声の主を振り返った。間髪入れずに走り出したキキョウの足音を背中で聞いて、木々の隙間から見え隠れする兵と彼らが持つ弓に向かって凛と声を張り上げる。
「コウリ、余だ。武器を収めよ」
その声に応えて、一人の長身の男が進み出た。年の頃は二十五、六、周囲の兵のような鎧ではなく、ゆったりした布の服に長い亜麻色の髪を流している。
「レンギョウ様、御無事で」
「うむ」
一礼する男——コウリにレンギョウは頷きかけた。
「もう危険はない。兵たちに弓を下ろさせよ」
「それはできません」
「何?」
コウリは木々の向こうに目を向けた。その視線の先には、みるみる小さくなっていくキキョウとそれに乗るアサザがいる。
「あの男、戦士ですね。不可侵条約違反には制裁を、そう取り決められておりますゆえ」
コウリの言葉を体現するかのように、兵たちの弓弦が引かれる。その矢先はぴたりと遠ざかるアサザの背に向けられていた。
「やめよ!」
最初にコウリを、次に兵たちを睨みつけてレンギョウは叫んだ。
「あれは余の友人だ! 撃つな!!」
兵たちに動揺が走った。畳み掛けるようにレンギョウは兵たちを見回した。
「これは余の——国王レンギョウの勅命である! あやつを——アサザを撃ってはならぬ!!」
「アサザ?」
コウリの眉がわずかに上がる。その視線がレンギョウに、次いで侵入者が駆け去った方向に向けられる。そこにはもう、アサザとキキョウの姿は見えなかった。
「分かりました。どちらにせよ、既に矢は届きませぬ」
コウリの言葉にレンギョウがこくりと頷く。それを合図に、兵たちは一斉に弓を下ろした。
「ときにコウリよ。先日報告を受けた中立地帯からの謁見申し込みについてだが」
「中立地帯……ああ、自警団からの使者の件ですか」
瞳に驚きを浮かべて、レンギョウはコウリを見上げた。
「あれは自警団からのものだったのか? 余は聞いておらぬぞ」
「……それはお伝えしてはおりませんでしたから」
「まあよい。それを聞いてますます決心が固まった」
自分に確かめるように一つ頷いて、レンギョウは言葉を継いだ。
「余はその者たちに会ってみたい。そのように計らえ」
「お言葉ですが、レンギョウ様」
コウリが言う。
「今の中立地帯は飢えております。形式だけとはいえ皇民に属する中立地帯の者が国王を頼るとすれば、援助の要請か反乱の誘いに他なりません。このことは申し上げていたはず。だからこそ、レンギョウ様もこの件に関しては苦慮されていたのでしょう」
「余が聞いたのは援助か反乱かというくだりだけだったがのう」
鋭くコウリを睨みつけて、レンギョウは言い放った。
「余はもう子供ではない。決断は己で下す」
レンギョウの口許に自嘲するような笑みが浮かぶ。
「どうやら余は補佐であるおぬしに頼りすぎていたようだな。己で知ろうとする努力や姿勢が欠けていたことがこの一日で身に沁みて良く理解できた」
レンギョウの視線がアサザの去った方に向けられた。
「余とて戦は望まぬ。中立地帯の者たちにも、出来る限り反乱は起こさせぬつもりだ」
レンギョウの視線がコウリに戻される。
「だからおぬしには、余が決断するために必要な材料を示してほしい。余だけでは分からぬことが多すぎる」
「——は」
頭を下げるコウリにレンギョウは問いかけた。
「自警団の使者が来るのはいつになる?」
「明後日には王都入りするかと」
「人数は?」
「四人と聞いております」
「代表者の名は?」
「確か、シオンとか」
「……何?」
「他には護衛として、ススキ、ウイキョウ、スギという者が来ることになっていたはずです」
黙ってしまったレンギョウに、コウリが問い返した。
「私からもお尋ねしたいことがあります。先程の戦士の男、名は確かにアサザというのですか」
「う……うむ」
心ここにあらずといった様子のレンギョウの答えに、コウリは眉を寄せた。
「アサザ……本物だとすれば、大変なことになる」
コウリの低い呟きは、己の考えに沈むレンギョウの耳には届かなかった。
王都を出てから既に七日が過ぎている。ゆっくりした帰還の旅だった。
「ここも、久しぶりだな」
夕日に照らされた簡素な門を軽く見上げてから、アサザはキキョウの綱を引いてその下を潜った。
「——あっ、兄上!!」
よく手入れされた小さな庭が門の内側に広がっていた。そこに足を踏み入れたアサザは早速懐かしい声に迎えられた。
「アカネか。今帰ったぞ」
剣の稽古中だったのだろう、手にした木剣を放り出したアカネは子犬のように駆け寄ってきた。そんな弟の短い髪を、アサザはぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「お帰りなさい、兄上。長旅お疲れ様でした」
アサザによく似た目に喜色を浮かべてアカネは言った。その言葉にアサザは軽く頷く。
「ん? お前、また背が伸びたな。もう少しで俺と並ぶんじゃないか?」
「へへへ。そのうち兄上を追い越してやりますよ」
「言ったな」
ひとしきり仲良くじゃれあってから、アサザはふと真面目な顔になった。
「ところでアカネ、兄上は?」
「それが……」
アカネの表情が曇る。その顔を覗き込んで、アサザは確認する。
「また、お加減が良くないんだな?」
無言の弟からそれ以上聞き出すことをやめて、アサザは庭の奥の小ぢんまりとした屋敷に顔を向けた。
「とりあえず、帰還の挨拶をしに行こう。兄上に報告しなきゃならんことも多いしな」
稽古を続けるようアカネに声をかけてから、アサザは屋敷へ入った。夕闇の薄明かりが満ちた廊下を渡り、目指す部屋へと向かう。兄の部屋は屋敷の一番奥、最も静かなところにあった。部屋の入り口を守っていた兵が近づいてきたアサザを認め、姿勢を正す。
「ご苦労さん。兄上はいらっしゃるか?」
「はっ。アオイ様は本日ずっとこちらでお休みになられております」
アサザの目が一瞬翳った。
「わかった。ちょっと兄上と内密の話をするから、席を外してくれ」
「かしこまりました」
敬礼した兵が去っていくのを見送ってから、アサザは部屋の引き戸を開けた。古い紙の匂いのする暖かい空気が流れてくる。
「兄上、ただ今戻りました」
「……やあアサザ、おかえり」
大きくはないが不思議とよく通る声は、床に積まれた無数の本や紙の束の向こうからした。びっしりの本棚の脇をすり抜け、床の紙の塔を崩さないよう注意しながらアサザは部屋の奥へ進んでいった。程なく、そこだけ小ぎれいな兄の寝床へ辿り着く。血色の悪い顔に小さな笑みを浮かべて、床に伏せたアオイはアサザを見上げた。
「元気そうだね。安心したよ」
「兄上こそ、またお加減が優れないと聞きましたが」
アオイの枕元の椅子に座って、アサザはアオイの顔を覗き込んだ。
「何、少し前に比べれば大分良くはなったんだよ。熱もあらかた下がったし」
心配げなアサザを横目に、アオイは体を起こした。弟たちより長く伸びた黒髪がぱさりと白い頬にかかる。
「それに今は、多少の無理をしてでも君の話を聞かなくてはね。それが君を王都まで行かせた私の責任だから。皇帝領、中立地帯、そして国王領の現状――聞かせてくれないか」
穏やかな兄の目に宿った強い光に、アサザは思わず頷いていた。
「でも兄上、全部話すと長くなりますよ?」
「構わない。できるだけ詳しく頼む」
兄の言葉に、アサザはこれまでの旅の様子を語り始めた。皇帝領から中立地帯を経、国王領に至るまでの様子、そこで出会った人々のこと。長い時間をかけて、アサザは思い出せる限りのことをアオイに話した。
「——王都の兵に見つかった時、レンの合図で逃げ出しました。最後にあいつ、兵たちに『余の友人だ、撃つな』って言ってくれたんですよ。それからのことは分からないんですが、俺が逃げ切れたのはあいつのおかげですね。ゆっくり挨拶できなかったことだけが心残りです」
最初のうち相槌を入れていたアオイの声が、レンギョウの名が出たあたりから途切れがちになり、最後の方では完全に黙り込んでしまった。
「兄上?」
「ああ、大丈夫だよ、ちゃんと聞いてる」
線の細い顎に白い指を当てて、アオイは自分の考えを確認するようにアサザに問いかけた。
「アサザ、王都で会ったレンという少年は、確かにレンギョウと名乗ったのだね?」
「あ、ええ。それが何か?」
きょとんとするアサザを可笑しげに見やって、アオイはくすくすと笑った。
「本当に、君は……すごい人と知り合ったものだね。ここまでの収穫は予想してなかったよ」
「な、何なんですか兄上! 兄上はレンギョウを知っているんですか!?」
「ああ。この国の八代目の国王、聖王レンギョウ陛下だよ。それだけ魔法を自在に使えるのなら、間違いない」
さらりと告げられた事実に絶句するアサザに、笑いすぎと微熱で潤んだ瞳を向けてアオイは続ける。
「その魔力の強さは初代国王・魔王レン以来だと言われているね。彼の二つ名の『聖王』も魔王との対比からつけられたものさ。九歳で即位、十五歳になった二年前から親政開始。その内容を見ても君主として優秀な部類に入ると評価して構わないね。もっとも、これに関してはお側役のコウリっていう人物の采配に依るところが大きいと内部では言われてるみたいだけれども」
教科書でも読み上げるかのようなすらすらした言葉を一旦切って、アオイは悪戯っぽい目をアサザに向けた。
「アサザはよく勉強を抜け出してどこかへ行ってしまっていたからね。これの半分くらいは勉強の時間に習うことだけど、君が知らなかったとしても無理はないかな」
ぱんっ、と音を立ててアサザは自分の目を覆った。
「あああ、勉強サボったツケがこんなところで来るなんて……」
「人生に無駄なことはないという証拠だね」
あっさり言ってのけたアオイはふと真顔になった。
「にしても、中立地帯の動きが気になる。そこまで警備を強化しているという報告は受けていないのだけれども。何かを警戒しているような感じだね」
兄の言葉に、アサザもすぐさま真剣な表情に戻って頷いた。
「はい。王都に行く途中、一回中立地帯の端っこで自警団員と鉢合わせましたけど、捕まったりすることはありませんでした。もっとも、俺の格好を見ると何故かイヤな顔をしてましたけど」
「戦士は中立地帯じゃ嫌われているからね」
苦い笑みを浮かべ、アオイは溜息をついた。
「じゃあ、つい最近自警団の中枢で何かあったということになるんだろうか。旅人への警戒を強めなくてはならなくなるような何かが」
己の考えに沈んだアオイが呟く。
「何だか嫌な感じがする。これが大きな出来事の始まりにならなければいいけど……」
目を伏せていたアオイが顔を上げ、アサザの方に向き直った。
「アサザ、本当にご苦労だったね。久しぶりの我が家だ、今日はもう休むといいよ。こちらに新しい情報が入ったら知らせるから」
「いえいえ。兄上の頼みなら何でも来いですよ。また俺に出来ることがあったら遠慮なく言ってください」
「ありがとう」
兄の笑顔を確認して、アサザは席を立った。
「じゃあ、俺はそろそろ——」
「兄上様ッ!!」
いきなり廊下からアカネの声が飛び込んできた。同時にばたばたと床を蹴る足音が響く。
「アカネ、どうしたんだい?」
引き戸を開け放って枕元まで駆け寄ったアカネに、アオイは穏やかに問いかける。アサザがしかめっ面を作って息を切らした弟を睨みつけた。
「アカネ、うるさいぞ」
「お説教は後にしてください、兄上」
息を整えたアカネは二人の兄をまっすぐに見た。
「父上が、いらっしゃいました」
穏やかだった部屋の空気に緊張が走った。
「それはまた、随分と珍しい。何かあったのかな」
アオイは硬い表情の弟たちに目を向けた。
「とにかく、お出迎えはしなければね。こちらの宮に父上がいらっしゃることは久しぶりだし、すぐに身支度を整えて——」
「その必要はない」
弾かれたようにアサザとアカネは振り返った。アオイもはっと顔を入り口の方へ向ける。
「父上」
「陛下」
引き戸の向こうに立つ男を認めて、アサザとアカネは跪いた。アオイも床の上でかしこまる。面を伏せた息子たちを見回して、男——第八代皇帝アザミはその長身を部屋の中に運び入れた。紙の束を無造作に蹴散らして三人の前に立ったアザミの視線がアカネを素通りし、アサザで止まった。
「久し振りだな。しばらく姿を見ないと思っていたが、いつ帰ってきたのだ」
「つい先程です、陛下」
かけらほどの温かみも感じられないアザミの言葉に、アサザも同種の声音で答える。薄い冷笑を浮かべて、アザミは鼻を鳴らした。
「陛下、か。ふん、相変わらず可愛げのない奴よ。一月も皇都を空けて、一体どこまで行ってきたのやら」
「王都までです」
「ほう。ならばそこで余の良からぬ噂をさんざん聞き込んできたのだろうな?」
アサザは答えない。
「父上、アサザに王都行きを命じたのは私です。責めるのなら私を」
アオイの声が割り込んだ。アザミの視線がすっと流れる。
「ほう、またお前か皇太子。以前お前の飼い犬を捕まえた時に道楽はやめろと言ったはずだぞ。それとも下賎の犬一匹程度の犠牲では灸が足りなかったか?」
アオイは顔を伏せた。
「こそこそと何かを嗅ぎ回ることなど下々にやらせればいいのだ。諜報など結果の報告を受ければそれでいいではないか」
「しかし父上!!」
アオイは顔を上げた。
「アサザの報告では中立地帯に不穏な動きありとのこと! 早々に手を打たなくては大変なことに——」
アオイの言葉が不意に途切れた。口を押さえた手指の隙間から、激しい咳が洩れる。
「兄上!」
「兄上様!」
はっと顔を上げたアサザとアカネがアオイの細い体を支える。その様子を冷ややかに見下ろして、アザミはふと思いついたように口を開いた。
「そういえば先程、また面白いものを捕まえたのだった」
アザミが背後に目配せすると、一人の兵士がまだ若い男を引き立ててきた。その目が不安げにアオイに向けられる。
「アオイ様——」
「……君は」
荒い息の下、アオイは男に目を向け、アザミを見上げた。
「その男も、お前の飼い犬の一匹だそうだな。なかなか面白い鳴き声を聞かせてもらった」
一瞬、アオイとアサザを睨みつけてアザミは言った。
「王都の小僧と自警団の狼どもが接触したそうだ」
「なっ……」
思わずアサザはうめいた。感情を抑えた声で、アオイが男に確認する。
「本当なのかい?」
「は……はい」
王都から早馬を飛ばして来たのだろう、やつれた顔で男は頷いた。土埃まみれのその服のところどころに血がにじんでいるのをアサザはあえて見ないようにした。今は男の報告の方が大事だ。
「四日前、シオンと名乗る自警団の者が国王に謁見しました。詳しい会談の内容は不明ですが、国王はその日のうちに中立地帯への食糧援助を決めました」
シオンという名に、アオイとアサザは顔を見合わせた。
「アサザ、色々言いたいことはあるだろうけど、今は情報の裏付けが先だ」
アサザより一拍早く口を開いたアオイは低い声で言った。そしてそのまま視線を上げ、アザミの目をしっかりと見据える。
「父上、皇民である中立地帯の者に国王が援助をするということはそれだけで国王側の越権行為にあたるおそれがあります。どうか詳細な調査を私に続けさせてください。我ら戦士がどう出るにしろ、父上が決断なさるための材料が今はまだ不足しております」
「……よかろう。食糧がいつの間にか兵士になっていたのではたまらんからな」
アオイを見下ろすアザミの目が一層の冷ややかさを帯びた。
「ただし、お前には皇太子位を降りてもらうぞ」
「なっ……!!」
立ち上がりかけたアサザとアカネを目線だけで抑えてアザミは続けた。
「次期皇帝ともあろう者が間者の元締ではあまりにも外聞が悪い。ましてやこれから戦になりかねん状況で剣も振れぬ、いつ病に憑き殺されるかわからぬ者を後継にするわけにはゆかぬ」
刃のようなアザミの言葉が俯いたアオイに浴びせられる。
「陛下ッ!」
見かねて声を上げたアサザに、アザミはすっと目を細めた。
「お前にとっても人事ではなかろう、我が不肖の第二皇子よ」
ぴたり、と氷の矛先が向けられたのをアサザは感じた。
「お前が今から皇太子だ。余を嫌おうと憎もうとお前の勝手だが、務めは果たしてもらうぞ」
くるり、とアザミは息子たちに背を向けた。
「ああ、その犬は生かしておいてやる。ためになる情報を持って来たのでな」
それだけ言い捨てて、アザミは部屋を出て行った。父帝が去った部屋は重い沈黙で覆われた。
「……すまない、アサザ」
ぽつりと呟かれたアオイの言葉に首を振って、アサザは立ち上がった。
「兄上のせいではありません。気にしないでください」
「兄上……」
心配げに見上げるアカネの頭をぽんと叩き、うなだれる若い男の脇をすり抜けてアサザは兄の部屋を出た。
皇太子。
降って湧いたような己のこれからの身分に思わず溜息が出た。ふと、ついこの間別れたばかりの銀髪の友人の顔が心に浮かんだ。
「レン……」
低い呟きは、応える者もなく廊下の闇に吸い込まれた。
皇太子アオイの廃位、それに伴う第二皇子アサザの立太子。
急報が王都にもたらされたのは、それから三日後のことだった。
「ここも、久しぶりだな」
夕日に照らされた簡素な門を軽く見上げてから、アサザはキキョウの綱を引いてその下を潜った。
「——あっ、兄上!!」
よく手入れされた小さな庭が門の内側に広がっていた。そこに足を踏み入れたアサザは早速懐かしい声に迎えられた。
「アカネか。今帰ったぞ」
剣の稽古中だったのだろう、手にした木剣を放り出したアカネは子犬のように駆け寄ってきた。そんな弟の短い髪を、アサザはぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「お帰りなさい、兄上。長旅お疲れ様でした」
アサザによく似た目に喜色を浮かべてアカネは言った。その言葉にアサザは軽く頷く。
「ん? お前、また背が伸びたな。もう少しで俺と並ぶんじゃないか?」
「へへへ。そのうち兄上を追い越してやりますよ」
「言ったな」
ひとしきり仲良くじゃれあってから、アサザはふと真面目な顔になった。
「ところでアカネ、兄上は?」
「それが……」
アカネの表情が曇る。その顔を覗き込んで、アサザは確認する。
「また、お加減が良くないんだな?」
無言の弟からそれ以上聞き出すことをやめて、アサザは庭の奥の小ぢんまりとした屋敷に顔を向けた。
「とりあえず、帰還の挨拶をしに行こう。兄上に報告しなきゃならんことも多いしな」
稽古を続けるようアカネに声をかけてから、アサザは屋敷へ入った。夕闇の薄明かりが満ちた廊下を渡り、目指す部屋へと向かう。兄の部屋は屋敷の一番奥、最も静かなところにあった。部屋の入り口を守っていた兵が近づいてきたアサザを認め、姿勢を正す。
「ご苦労さん。兄上はいらっしゃるか?」
「はっ。アオイ様は本日ずっとこちらでお休みになられております」
アサザの目が一瞬翳った。
「わかった。ちょっと兄上と内密の話をするから、席を外してくれ」
「かしこまりました」
敬礼した兵が去っていくのを見送ってから、アサザは部屋の引き戸を開けた。古い紙の匂いのする暖かい空気が流れてくる。
「兄上、ただ今戻りました」
「……やあアサザ、おかえり」
大きくはないが不思議とよく通る声は、床に積まれた無数の本や紙の束の向こうからした。びっしりの本棚の脇をすり抜け、床の紙の塔を崩さないよう注意しながらアサザは部屋の奥へ進んでいった。程なく、そこだけ小ぎれいな兄の寝床へ辿り着く。血色の悪い顔に小さな笑みを浮かべて、床に伏せたアオイはアサザを見上げた。
「元気そうだね。安心したよ」
「兄上こそ、またお加減が優れないと聞きましたが」
アオイの枕元の椅子に座って、アサザはアオイの顔を覗き込んだ。
「何、少し前に比べれば大分良くはなったんだよ。熱もあらかた下がったし」
心配げなアサザを横目に、アオイは体を起こした。弟たちより長く伸びた黒髪がぱさりと白い頬にかかる。
「それに今は、多少の無理をしてでも君の話を聞かなくてはね。それが君を王都まで行かせた私の責任だから。皇帝領、中立地帯、そして国王領の現状――聞かせてくれないか」
穏やかな兄の目に宿った強い光に、アサザは思わず頷いていた。
「でも兄上、全部話すと長くなりますよ?」
「構わない。できるだけ詳しく頼む」
兄の言葉に、アサザはこれまでの旅の様子を語り始めた。皇帝領から中立地帯を経、国王領に至るまでの様子、そこで出会った人々のこと。長い時間をかけて、アサザは思い出せる限りのことをアオイに話した。
「——王都の兵に見つかった時、レンの合図で逃げ出しました。最後にあいつ、兵たちに『余の友人だ、撃つな』って言ってくれたんですよ。それからのことは分からないんですが、俺が逃げ切れたのはあいつのおかげですね。ゆっくり挨拶できなかったことだけが心残りです」
最初のうち相槌を入れていたアオイの声が、レンギョウの名が出たあたりから途切れがちになり、最後の方では完全に黙り込んでしまった。
「兄上?」
「ああ、大丈夫だよ、ちゃんと聞いてる」
線の細い顎に白い指を当てて、アオイは自分の考えを確認するようにアサザに問いかけた。
「アサザ、王都で会ったレンという少年は、確かにレンギョウと名乗ったのだね?」
「あ、ええ。それが何か?」
きょとんとするアサザを可笑しげに見やって、アオイはくすくすと笑った。
「本当に、君は……すごい人と知り合ったものだね。ここまでの収穫は予想してなかったよ」
「な、何なんですか兄上! 兄上はレンギョウを知っているんですか!?」
「ああ。この国の八代目の国王、聖王レンギョウ陛下だよ。それだけ魔法を自在に使えるのなら、間違いない」
さらりと告げられた事実に絶句するアサザに、笑いすぎと微熱で潤んだ瞳を向けてアオイは続ける。
「その魔力の強さは初代国王・魔王レン以来だと言われているね。彼の二つ名の『聖王』も魔王との対比からつけられたものさ。九歳で即位、十五歳になった二年前から親政開始。その内容を見ても君主として優秀な部類に入ると評価して構わないね。もっとも、これに関してはお側役のコウリっていう人物の采配に依るところが大きいと内部では言われてるみたいだけれども」
教科書でも読み上げるかのようなすらすらした言葉を一旦切って、アオイは悪戯っぽい目をアサザに向けた。
「アサザはよく勉強を抜け出してどこかへ行ってしまっていたからね。これの半分くらいは勉強の時間に習うことだけど、君が知らなかったとしても無理はないかな」
ぱんっ、と音を立ててアサザは自分の目を覆った。
「あああ、勉強サボったツケがこんなところで来るなんて……」
「人生に無駄なことはないという証拠だね」
あっさり言ってのけたアオイはふと真顔になった。
「にしても、中立地帯の動きが気になる。そこまで警備を強化しているという報告は受けていないのだけれども。何かを警戒しているような感じだね」
兄の言葉に、アサザもすぐさま真剣な表情に戻って頷いた。
「はい。王都に行く途中、一回中立地帯の端っこで自警団員と鉢合わせましたけど、捕まったりすることはありませんでした。もっとも、俺の格好を見ると何故かイヤな顔をしてましたけど」
「戦士は中立地帯じゃ嫌われているからね」
苦い笑みを浮かべ、アオイは溜息をついた。
「じゃあ、つい最近自警団の中枢で何かあったということになるんだろうか。旅人への警戒を強めなくてはならなくなるような何かが」
己の考えに沈んだアオイが呟く。
「何だか嫌な感じがする。これが大きな出来事の始まりにならなければいいけど……」
目を伏せていたアオイが顔を上げ、アサザの方に向き直った。
「アサザ、本当にご苦労だったね。久しぶりの我が家だ、今日はもう休むといいよ。こちらに新しい情報が入ったら知らせるから」
「いえいえ。兄上の頼みなら何でも来いですよ。また俺に出来ることがあったら遠慮なく言ってください」
「ありがとう」
兄の笑顔を確認して、アサザは席を立った。
「じゃあ、俺はそろそろ——」
「兄上様ッ!!」
いきなり廊下からアカネの声が飛び込んできた。同時にばたばたと床を蹴る足音が響く。
「アカネ、どうしたんだい?」
引き戸を開け放って枕元まで駆け寄ったアカネに、アオイは穏やかに問いかける。アサザがしかめっ面を作って息を切らした弟を睨みつけた。
「アカネ、うるさいぞ」
「お説教は後にしてください、兄上」
息を整えたアカネは二人の兄をまっすぐに見た。
「父上が、いらっしゃいました」
穏やかだった部屋の空気に緊張が走った。
「それはまた、随分と珍しい。何かあったのかな」
アオイは硬い表情の弟たちに目を向けた。
「とにかく、お出迎えはしなければね。こちらの宮に父上がいらっしゃることは久しぶりだし、すぐに身支度を整えて——」
「その必要はない」
弾かれたようにアサザとアカネは振り返った。アオイもはっと顔を入り口の方へ向ける。
「父上」
「陛下」
引き戸の向こうに立つ男を認めて、アサザとアカネは跪いた。アオイも床の上でかしこまる。面を伏せた息子たちを見回して、男——第八代皇帝アザミはその長身を部屋の中に運び入れた。紙の束を無造作に蹴散らして三人の前に立ったアザミの視線がアカネを素通りし、アサザで止まった。
「久し振りだな。しばらく姿を見ないと思っていたが、いつ帰ってきたのだ」
「つい先程です、陛下」
かけらほどの温かみも感じられないアザミの言葉に、アサザも同種の声音で答える。薄い冷笑を浮かべて、アザミは鼻を鳴らした。
「陛下、か。ふん、相変わらず可愛げのない奴よ。一月も皇都を空けて、一体どこまで行ってきたのやら」
「王都までです」
「ほう。ならばそこで余の良からぬ噂をさんざん聞き込んできたのだろうな?」
アサザは答えない。
「父上、アサザに王都行きを命じたのは私です。責めるのなら私を」
アオイの声が割り込んだ。アザミの視線がすっと流れる。
「ほう、またお前か皇太子。以前お前の飼い犬を捕まえた時に道楽はやめろと言ったはずだぞ。それとも下賎の犬一匹程度の犠牲では灸が足りなかったか?」
アオイは顔を伏せた。
「こそこそと何かを嗅ぎ回ることなど下々にやらせればいいのだ。諜報など結果の報告を受ければそれでいいではないか」
「しかし父上!!」
アオイは顔を上げた。
「アサザの報告では中立地帯に不穏な動きありとのこと! 早々に手を打たなくては大変なことに——」
アオイの言葉が不意に途切れた。口を押さえた手指の隙間から、激しい咳が洩れる。
「兄上!」
「兄上様!」
はっと顔を上げたアサザとアカネがアオイの細い体を支える。その様子を冷ややかに見下ろして、アザミはふと思いついたように口を開いた。
「そういえば先程、また面白いものを捕まえたのだった」
アザミが背後に目配せすると、一人の兵士がまだ若い男を引き立ててきた。その目が不安げにアオイに向けられる。
「アオイ様——」
「……君は」
荒い息の下、アオイは男に目を向け、アザミを見上げた。
「その男も、お前の飼い犬の一匹だそうだな。なかなか面白い鳴き声を聞かせてもらった」
一瞬、アオイとアサザを睨みつけてアザミは言った。
「王都の小僧と自警団の狼どもが接触したそうだ」
「なっ……」
思わずアサザはうめいた。感情を抑えた声で、アオイが男に確認する。
「本当なのかい?」
「は……はい」
王都から早馬を飛ばして来たのだろう、やつれた顔で男は頷いた。土埃まみれのその服のところどころに血がにじんでいるのをアサザはあえて見ないようにした。今は男の報告の方が大事だ。
「四日前、シオンと名乗る自警団の者が国王に謁見しました。詳しい会談の内容は不明ですが、国王はその日のうちに中立地帯への食糧援助を決めました」
シオンという名に、アオイとアサザは顔を見合わせた。
「アサザ、色々言いたいことはあるだろうけど、今は情報の裏付けが先だ」
アサザより一拍早く口を開いたアオイは低い声で言った。そしてそのまま視線を上げ、アザミの目をしっかりと見据える。
「父上、皇民である中立地帯の者に国王が援助をするということはそれだけで国王側の越権行為にあたるおそれがあります。どうか詳細な調査を私に続けさせてください。我ら戦士がどう出るにしろ、父上が決断なさるための材料が今はまだ不足しております」
「……よかろう。食糧がいつの間にか兵士になっていたのではたまらんからな」
アオイを見下ろすアザミの目が一層の冷ややかさを帯びた。
「ただし、お前には皇太子位を降りてもらうぞ」
「なっ……!!」
立ち上がりかけたアサザとアカネを目線だけで抑えてアザミは続けた。
「次期皇帝ともあろう者が間者の元締ではあまりにも外聞が悪い。ましてやこれから戦になりかねん状況で剣も振れぬ、いつ病に憑き殺されるかわからぬ者を後継にするわけにはゆかぬ」
刃のようなアザミの言葉が俯いたアオイに浴びせられる。
「陛下ッ!」
見かねて声を上げたアサザに、アザミはすっと目を細めた。
「お前にとっても人事ではなかろう、我が不肖の第二皇子よ」
ぴたり、と氷の矛先が向けられたのをアサザは感じた。
「お前が今から皇太子だ。余を嫌おうと憎もうとお前の勝手だが、務めは果たしてもらうぞ」
くるり、とアザミは息子たちに背を向けた。
「ああ、その犬は生かしておいてやる。ためになる情報を持って来たのでな」
それだけ言い捨てて、アザミは部屋を出て行った。父帝が去った部屋は重い沈黙で覆われた。
「……すまない、アサザ」
ぽつりと呟かれたアオイの言葉に首を振って、アサザは立ち上がった。
「兄上のせいではありません。気にしないでください」
「兄上……」
心配げに見上げるアカネの頭をぽんと叩き、うなだれる若い男の脇をすり抜けてアサザは兄の部屋を出た。
皇太子。
降って湧いたような己のこれからの身分に思わず溜息が出た。ふと、ついこの間別れたばかりの銀髪の友人の顔が心に浮かんだ。
「レン……」
低い呟きは、応える者もなく廊下の闇に吸い込まれた。
皇太子アオイの廃位、それに伴う第二皇子アサザの立太子。
急報が王都にもたらされたのは、それから三日後のことだった。
その窓を背にしたシオンが、長旅の疲れも見せずにおどけた仕草で頭を下げる。
「レンギョウ陛下。中立地帯自警団長代理シオン、中立地帯への食料配布の任を終えてただ今帰還しました」
「うむ。ご苦労だった」
数段の階を隔てた謁見用の玉座に座り、レンギョウは頷いた。
シオンが中立地帯の使者として王都を訪れてから既に一月が経っていた。その間、老齢と病気のため本拠地を離れられないという長の代わりに、彼女は王都からの物資を配るため中立地帯中を巡っていたのだった。
「物資は不足しなかったか?」
「ええ。これでしばらくは中立地帯も食べるものには困らないはずよ」
シオンのくだけた物言いに、咳払いが重なった。じっと睨みつけるコウリの視線に臆した様子もなく、シオンは続ける。
「中立地帯を代表して、感謝するわ陛下。本当にありがとう」
その声に合わせるように、窓の外の声も大きくなった。そこにいるのが、シオンの帰還と共にやって来た中立地帯の人々だということはレンギョウも知っている。小さく頭を振って、レンギョウは言う。
「余は当然のことをしただけだ。偶然のこととはいえ、あのような現状を見ておいて放っておくわけにもゆかぬだろう」
ふと、レンギョウの表情に陰が差す。
「……礼ならむしろ、アサザに言うべきなのかもしれぬな」
「レンギョウ様」
非難を含んだコウリの声に、レンギョウは軽く手を上げた。小さく礼をして、コウリは黙り込む。
しばらくの間、紫の瞳にためらいを浮かべた後、シオンは意を決して顔を上げた。
「陛下。やっぱり新しい皇太子は……」
レンギョウの答えには数瞬の間があった。
「……うむ。アサザ本人だ。加えて余が中立地帯に援助を出したことで、この一月皇都は警戒を強めているらしい」
そういうことだったなコウリ、とレンギョウが呟いた後、広い部屋には沈黙が落ちた。前庭からの歓声が虚しく響く。
「……レンギョウ様」
重苦しい沈黙を破ったのはコウリだった。
「我らはまだ、皇帝と完全に対立したわけではありません。今回の援助も中立地帯からの要請を受けてのこと。その経緯と今後の中立地帯への援助の依頼を使者を立てて皇帝に伝えれば、現在の緊張状態を緩めることができるかもしれません」
それを聞いて、シオンがぱっと表情を輝かせる。
「そうね! あなたもたまにはいいことを言うじゃない。私たち自警団だって、戦いを望んでいるわけじゃないんだしね」
うんうん、と頷いているシオンを一顧だにせず、コウリはレンギョウに向けて言葉を継いだ。
「王都及び中立地帯が皇都と事を構える意思がない事実だけでも、一刻も早く皇帝に示す必要があります。現皇帝のアザミは、このままでは確実に王都を攻めに来る、そういう人物ですから」
「ふむ……だが、使者には誰を立てる?」
コウリはきっ、と顔を上げた。
「私が参ります」
レンギョウの目が見開かれる。
「本気か?」
「私が言い出したことです。まずは私が動かねば誰もついてはこないでしょう」
まっすぐに向けられたコウリの目を、やれやれといった表情でレンギョウは見返した。
「強情なおぬしのことだ。どの道言い出したからには余が何を言っても無駄であろう。わかった。許す」
「ありがとうございます」
「だが、気になることがある」
頭を下げるコウリに、レンギョウは鋭い目を向ける。
「まず……とおぬしは言ったな。他にも誰か、動かすつもりか」
顔を上げたコウリは、ちらりとシオンを見た。
「自警団の者を一人、借りたいと」
意表を衝かれてシオンは目を丸くする。レンギョウの顔にも、軽い驚きが浮かんでいる。
「自警団を、のう。一体何をする気だ?」
「間諜を皇都に置きたいと存じます。今のままではあまりにも情報が少なすぎますので」
「ちょっ……いきなり何よ! 間諜なんて国王領の人でもいいじゃない!」
「勿論、この任を自警団に依頼するのには理由があります」
シオンの抗議に対抗するように、コウリは心持ち声を張り上げた。
「ひとつは、国王の守護の下、長く平穏に過ごしてきた国王領の者にはいざという時の対処ができないと考えられること。この点、自警団は頻発する中立地帯の紛争に関わってきたため、我々よりそのような場には慣れているものと考えられます」
シオンに言葉を挟ませる隙を与えず、コウリはすぐに言葉を継ぐ。
「いまひとつの理由は、諜報活動を補佐する組織の有無です。我々の側には第四代国王モクレン陛下以来の皇帝との取り決めがあるため、そのような組織は存在しません。しかし自警団には中立地帯を守るために皇王両都に独自の情報収集組織を持っていると聞いています。間違いありませんね?」
コウリの鋭い視線を受けて、シオンはしぶしぶ頷く。
「まあ……ないと言えば嘘になるけど」
「このような組織の協力が期待できるか否かで、自ずと活動の質も変わってまいります。まったく勝手の分からぬ国王領の者より、組織とのつながりのある自警団の者を派遣しようと考えるのは当然のことかと」
しばらく考え込んだ後、レンギョウはシオンに視線を向けた。
「今、コウリが言った条件を満たす者に心当たりはあるか?」
ためらいをにじませつつ、シオンが口を開く。
「……情報集めのことなら、スギが詳しいわ」
「スギ——ああ、あの者か」
レンギョウの頭の中で、王都を抜け出した夜に自分を捕まえた青年の顔が浮かぶ。彼に関する記憶の中でも特に印象に残っている優しげな雰囲気と相反する隙のない身ごなしは、情報収集という重責を担う中で得たものなのかもしれない。
そう考えながら、レンギョウはシオンの後ろの窓に目を向けた。そこからは変わらず、彼自身へ向けられた感謝の声が流れ込んでくる。
「……彼らを再び飢えさせぬためには、確かに皇都の正確な情報が必要であろう」
レンギョウは立ち上がり、階を下りた。コウリの前を通り過ぎ、シオンの横をすり抜けて、窓に歩み寄る。
大きく取られた窓からは、前庭を埋めつくした群衆が見えた。見慣れた国王領からの見物人より、皆みすぼらしい格好をしている。しかしぼろぼろの服を纏いながらも彼らは生き生きと動き回り、レンギョウの名を呼んでいる。その中で、偶然上を見上げた一人とレンギョウの目がまともに合う。
「せっ……聖王様だ!!」
その声に皆が一斉に窓を見た。どっと歓声が沸く。彼らの一人一人の顔を見、片手を上げてその声に応えながら、レンギョウは後ろに立った二人に言う。
「余は、余の力の及ぶ限り彼らを守ってやりたい。シオン……そのために、おぬしらの力を余らに貸してはくれぬか?」
大歓声の中、小さな溜息が落ちる。
「それはズルいわよ陛下。そんな風に言われちゃ断れないじゃない」
レンギョウは小さく笑った。
「国王が頼みを断られるわけにはゆかぬのでな。許せ」
「わかったわよ。スギに話をしてみるわ」
「かたじけない」
頷いたレンギョウの背に、コウリは一礼した。
「では私も、準備にかかることにいたします」
「うむ。頼んだぞ」
もう一度頭を下げて、コウリは広間を出ていった。続いて退室しようとしたシオンを、レンギョウが呼び止める。
「何? 陛下」
窓の外を向いたまま、レンギョウはためらうように言葉を切った。
「……おぬしにはもう一つ、頼みがある」
「何? あんまり難しいことは言わないでね」
少しの沈黙の後、レンギョウは言った。
「……余を、陛下と呼ぶのはやめてくれぬか」
まじまじと、シオンはレンギョウを見つめた。
レンギョウはシオンに背を向けたままだ。窓外の人々に手を振りながら、若い国王は言葉を続ける。
「余はこの国の王だ。この民たちの上に立つ者だ。しかし……この頃、余は分からなくなる」
大歓声は衰える様子もない。彼らの窮状を救った国王を称える、その声。
「アサザに会うまで、余と国王は同一のもので、そこには何の矛盾もなかった。国王として、貴族のため国王領の民のため、それだけを考えていれば良かった。だが——」
柔らかな風が窓から吹き込み、レンギョウの銀髪を揺らした。長いそれがかかった背中がいまだ細く、小さいことに今更ながらシオンは気づいた。
「余は国王としてではない、一人の人間としてのレンギョウ——”レン”を、知ってしまった。そしてその名のまま、今まで知らなかった世界に触れ、人々と出会ってしまった」
ゆっくりと、レンギョウは振り返った。
「余が民から直に”聖王”と呼ばれたのは、先程が初めてだ。しかしその名はいまだ虚像に過ぎぬ。”聖王”と呼ばれる者の実体は、余が一番良く解っておる」
シオンは口を開いた。だが何を言いたいのかが自分でもわからず、結局閉ざしてしまう。そんなシオンに、レンギョウはしっかりと目を向けた。
「余はいつか、真に”聖王”の名にふさわしい王になりたいと思う。だが、今の余にまだ”レン”への未練があることも事実だ。”聖王”と”レン”にいつか決着を着けるその日まで——”レン”として出会ったおぬしには、せめてそちらの名で呼んでほしいのだ」
見つめ返したレンギョウの瞳は、十七にしかならない少年のそれだった。少しの沈黙の後、シオンはゆっくりと頷いた。
「わかったわ……レン」
「……かたじけない」
その日のうちに、王使の先触れは王都を出発した。追って二日後にコウリを中心とする本使団が王城を発つ。
スギが密かに皇都に向かったのも、それから間もなくのことだった。
「レンギョウ陛下。中立地帯自警団長代理シオン、中立地帯への食料配布の任を終えてただ今帰還しました」
「うむ。ご苦労だった」
数段の階を隔てた謁見用の玉座に座り、レンギョウは頷いた。
シオンが中立地帯の使者として王都を訪れてから既に一月が経っていた。その間、老齢と病気のため本拠地を離れられないという長の代わりに、彼女は王都からの物資を配るため中立地帯中を巡っていたのだった。
「物資は不足しなかったか?」
「ええ。これでしばらくは中立地帯も食べるものには困らないはずよ」
シオンのくだけた物言いに、咳払いが重なった。じっと睨みつけるコウリの視線に臆した様子もなく、シオンは続ける。
「中立地帯を代表して、感謝するわ陛下。本当にありがとう」
その声に合わせるように、窓の外の声も大きくなった。そこにいるのが、シオンの帰還と共にやって来た中立地帯の人々だということはレンギョウも知っている。小さく頭を振って、レンギョウは言う。
「余は当然のことをしただけだ。偶然のこととはいえ、あのような現状を見ておいて放っておくわけにもゆかぬだろう」
ふと、レンギョウの表情に陰が差す。
「……礼ならむしろ、アサザに言うべきなのかもしれぬな」
「レンギョウ様」
非難を含んだコウリの声に、レンギョウは軽く手を上げた。小さく礼をして、コウリは黙り込む。
しばらくの間、紫の瞳にためらいを浮かべた後、シオンは意を決して顔を上げた。
「陛下。やっぱり新しい皇太子は……」
レンギョウの答えには数瞬の間があった。
「……うむ。アサザ本人だ。加えて余が中立地帯に援助を出したことで、この一月皇都は警戒を強めているらしい」
そういうことだったなコウリ、とレンギョウが呟いた後、広い部屋には沈黙が落ちた。前庭からの歓声が虚しく響く。
「……レンギョウ様」
重苦しい沈黙を破ったのはコウリだった。
「我らはまだ、皇帝と完全に対立したわけではありません。今回の援助も中立地帯からの要請を受けてのこと。その経緯と今後の中立地帯への援助の依頼を使者を立てて皇帝に伝えれば、現在の緊張状態を緩めることができるかもしれません」
それを聞いて、シオンがぱっと表情を輝かせる。
「そうね! あなたもたまにはいいことを言うじゃない。私たち自警団だって、戦いを望んでいるわけじゃないんだしね」
うんうん、と頷いているシオンを一顧だにせず、コウリはレンギョウに向けて言葉を継いだ。
「王都及び中立地帯が皇都と事を構える意思がない事実だけでも、一刻も早く皇帝に示す必要があります。現皇帝のアザミは、このままでは確実に王都を攻めに来る、そういう人物ですから」
「ふむ……だが、使者には誰を立てる?」
コウリはきっ、と顔を上げた。
「私が参ります」
レンギョウの目が見開かれる。
「本気か?」
「私が言い出したことです。まずは私が動かねば誰もついてはこないでしょう」
まっすぐに向けられたコウリの目を、やれやれといった表情でレンギョウは見返した。
「強情なおぬしのことだ。どの道言い出したからには余が何を言っても無駄であろう。わかった。許す」
「ありがとうございます」
「だが、気になることがある」
頭を下げるコウリに、レンギョウは鋭い目を向ける。
「まず……とおぬしは言ったな。他にも誰か、動かすつもりか」
顔を上げたコウリは、ちらりとシオンを見た。
「自警団の者を一人、借りたいと」
意表を衝かれてシオンは目を丸くする。レンギョウの顔にも、軽い驚きが浮かんでいる。
「自警団を、のう。一体何をする気だ?」
「間諜を皇都に置きたいと存じます。今のままではあまりにも情報が少なすぎますので」
「ちょっ……いきなり何よ! 間諜なんて国王領の人でもいいじゃない!」
「勿論、この任を自警団に依頼するのには理由があります」
シオンの抗議に対抗するように、コウリは心持ち声を張り上げた。
「ひとつは、国王の守護の下、長く平穏に過ごしてきた国王領の者にはいざという時の対処ができないと考えられること。この点、自警団は頻発する中立地帯の紛争に関わってきたため、我々よりそのような場には慣れているものと考えられます」
シオンに言葉を挟ませる隙を与えず、コウリはすぐに言葉を継ぐ。
「いまひとつの理由は、諜報活動を補佐する組織の有無です。我々の側には第四代国王モクレン陛下以来の皇帝との取り決めがあるため、そのような組織は存在しません。しかし自警団には中立地帯を守るために皇王両都に独自の情報収集組織を持っていると聞いています。間違いありませんね?」
コウリの鋭い視線を受けて、シオンはしぶしぶ頷く。
「まあ……ないと言えば嘘になるけど」
「このような組織の協力が期待できるか否かで、自ずと活動の質も変わってまいります。まったく勝手の分からぬ国王領の者より、組織とのつながりのある自警団の者を派遣しようと考えるのは当然のことかと」
しばらく考え込んだ後、レンギョウはシオンに視線を向けた。
「今、コウリが言った条件を満たす者に心当たりはあるか?」
ためらいをにじませつつ、シオンが口を開く。
「……情報集めのことなら、スギが詳しいわ」
「スギ——ああ、あの者か」
レンギョウの頭の中で、王都を抜け出した夜に自分を捕まえた青年の顔が浮かぶ。彼に関する記憶の中でも特に印象に残っている優しげな雰囲気と相反する隙のない身ごなしは、情報収集という重責を担う中で得たものなのかもしれない。
そう考えながら、レンギョウはシオンの後ろの窓に目を向けた。そこからは変わらず、彼自身へ向けられた感謝の声が流れ込んでくる。
「……彼らを再び飢えさせぬためには、確かに皇都の正確な情報が必要であろう」
レンギョウは立ち上がり、階を下りた。コウリの前を通り過ぎ、シオンの横をすり抜けて、窓に歩み寄る。
大きく取られた窓からは、前庭を埋めつくした群衆が見えた。見慣れた国王領からの見物人より、皆みすぼらしい格好をしている。しかしぼろぼろの服を纏いながらも彼らは生き生きと動き回り、レンギョウの名を呼んでいる。その中で、偶然上を見上げた一人とレンギョウの目がまともに合う。
「せっ……聖王様だ!!」
その声に皆が一斉に窓を見た。どっと歓声が沸く。彼らの一人一人の顔を見、片手を上げてその声に応えながら、レンギョウは後ろに立った二人に言う。
「余は、余の力の及ぶ限り彼らを守ってやりたい。シオン……そのために、おぬしらの力を余らに貸してはくれぬか?」
大歓声の中、小さな溜息が落ちる。
「それはズルいわよ陛下。そんな風に言われちゃ断れないじゃない」
レンギョウは小さく笑った。
「国王が頼みを断られるわけにはゆかぬのでな。許せ」
「わかったわよ。スギに話をしてみるわ」
「かたじけない」
頷いたレンギョウの背に、コウリは一礼した。
「では私も、準備にかかることにいたします」
「うむ。頼んだぞ」
もう一度頭を下げて、コウリは広間を出ていった。続いて退室しようとしたシオンを、レンギョウが呼び止める。
「何? 陛下」
窓の外を向いたまま、レンギョウはためらうように言葉を切った。
「……おぬしにはもう一つ、頼みがある」
「何? あんまり難しいことは言わないでね」
少しの沈黙の後、レンギョウは言った。
「……余を、陛下と呼ぶのはやめてくれぬか」
まじまじと、シオンはレンギョウを見つめた。
レンギョウはシオンに背を向けたままだ。窓外の人々に手を振りながら、若い国王は言葉を続ける。
「余はこの国の王だ。この民たちの上に立つ者だ。しかし……この頃、余は分からなくなる」
大歓声は衰える様子もない。彼らの窮状を救った国王を称える、その声。
「アサザに会うまで、余と国王は同一のもので、そこには何の矛盾もなかった。国王として、貴族のため国王領の民のため、それだけを考えていれば良かった。だが——」
柔らかな風が窓から吹き込み、レンギョウの銀髪を揺らした。長いそれがかかった背中がいまだ細く、小さいことに今更ながらシオンは気づいた。
「余は国王としてではない、一人の人間としてのレンギョウ——”レン”を、知ってしまった。そしてその名のまま、今まで知らなかった世界に触れ、人々と出会ってしまった」
ゆっくりと、レンギョウは振り返った。
「余が民から直に”聖王”と呼ばれたのは、先程が初めてだ。しかしその名はいまだ虚像に過ぎぬ。”聖王”と呼ばれる者の実体は、余が一番良く解っておる」
シオンは口を開いた。だが何を言いたいのかが自分でもわからず、結局閉ざしてしまう。そんなシオンに、レンギョウはしっかりと目を向けた。
「余はいつか、真に”聖王”の名にふさわしい王になりたいと思う。だが、今の余にまだ”レン”への未練があることも事実だ。”聖王”と”レン”にいつか決着を着けるその日まで——”レン”として出会ったおぬしには、せめてそちらの名で呼んでほしいのだ」
見つめ返したレンギョウの瞳は、十七にしかならない少年のそれだった。少しの沈黙の後、シオンはゆっくりと頷いた。
「わかったわ……レン」
「……かたじけない」
その日のうちに、王使の先触れは王都を出発した。追って二日後にコウリを中心とする本使団が王城を発つ。
スギが密かに皇都に向かったのも、それから間もなくのことだった。
玉座に掛けた第四代皇帝アザミは、大して面白くもなさそうな表情で壇の下に跪いた亜麻色の髪の男を見下ろした。男の名は先程侍従から聞いたが、すぐに忘れた。どの道、目の前の男が国王からの使者だということだけが分かっていれば不自由はしない。
「はるばる王都からご苦労なことだな。使者ならば余に申すことがあろう。面を上げよ」
男は顔を上げ、まっすぐにアザミを見返した。
「皇帝よ。何故中立地帯を放置します」
アザミの眉がぴくり、と跳ねる。
「どういう意味だ、使者よ」
「私にはコウリという名があります」
アザミから目を離さないまま、コウリは問う。
「皇帝は、歴史をご存知か」
「歴史、とは何だ」
「今から百年程前、当時の国王と戦士——後の初代皇帝との間で交わされた国王領と皇帝領の線引きと中立地帯が定められた真の理由を、です」
「……どういう、ことですか」
鼻を鳴らしただけのアザミに代わってコウリに問い返したのは、玉座の側に立っていたアカネだった。正式の謁見の席に相応しい皇子の正装を身に纏っている。
目で問うコウリにただ一言、アザミが答える。
「余の第三皇子だ」
アカネに向けてコウリは一礼する。
国王からの使者が皇都を訪れるなど異例なことだ。皇帝以外の皇族がこの場にいることはある意味で当然と言えた。そのため、コウリに驚いた様子はない。
「アカネ殿。この国の代表的な穀倉地帯がどこにあるか、ご存知ですか」
「えっと……確か、国王領の南部と、皇帝領の北部にあったと思いますが」
予想外の問いに、アカネは戸惑いの表情を浮かべながらも答える。
「そうです。この国は南北に細長い島国ですが、その両端に肥えた土地は集中しています。広大な中央部の土はやせていて農作には適しません。草原を利用しての遊牧にも、中央部に住む人々全てを養えるほどの生産力は期待できません。つまり中央部の民は、生活を南北いずれかの穀倉地帯に依存するしかないのです」
喋りながら、コウリは父子の様子を観察する。アザミは玉座に頬杖をついて冷めた視線を向けている。一方アカネは、身を乗り出してコウリの話を聞いている。
「かつて戦士アサギは第四代国王モクレン陛下に対して、初代戦士と初代国王の取り決め通りに国王の過ちを正す役目を負いました。それを受けたモクレン陛下は過ちを悔いて全権をアサギに委ねたと伝えられています。その際の一昼夜に及ぶ話し合いで様々な事柄が決められましたが、そのうちの一つに双方の領土の制定があります」
アカネが頷く。
「その話は聞いたことがあります。アサギ——初代皇帝は十分反省していた国王モクレンの気持ちを考えて当時の首都とその周辺を国王領にして、自領はほとんど広げずに残りの土地を中立地帯にしたのではなかったでしょうか?」
「その通りです。アカネ殿は歴史がお好きですか?」
「そういうわけではないのですが、家庭教師代わりの兄が厳しかったので」
「成程。では現在、中立地帯の住民を『皇民』と呼ぶのは何故か、兄上はお話しになられましたか?」
「いいえ。そういえば、なぜなのでしょう」
ちらりとコウリはアザミを見上げた。変わらず冷えた目で見返す皇帝の表情が、かすかに苦々しげに歪む。
「どうやらお前の思惑通りに皇子は乗せられたようだな」
きょとんとするアカネに一瞥をくれ、アザミはコウリを鋭く睨みつけた。
「中立地帯の民を我が民と呼ぶのは、初代皇帝と国王の間で交わされた約に基づく。これは双方合意の上、定められた成文があるはずだが」
「その通りです」
コウリが頷く。
「しかしその項には但し書きがついています。成人前の第三皇子ならばいざ知らず、皇太子としての教育を受け、就くべくして皇帝の座に就いている貴方が知らない筈はない。そうですね?」
アザミは答えない。記憶を探っていたのだろう、宙を睨んでいたアカネがやがて諦めたらしく、コウリに視線を戻した。
「約定の第四項、中立地帯についての規定にはこうあります」
アカネの注意が戻るのを待っていたように、コウリは口を開いた。
「曰く、『中立地帯の民は国王・戦士いずれか一方に属する民ではない。但し、中立地帯に対する食糧その他物資の配布は戦士が行うものとし、その責を戦士が果たしている限り、戦士は中立地帯の民を管理することができる』と。つまり——」
玉座のアザミに、コウリは正面から目を据えた。
「皇帝から中立地帯が十分な食糧を受けていない現在、中立地帯の民は貴方の管理下を離れた自由な民であると言えます。そんな彼らが国王を頼ったとしても問題はないでしょう。もし現状が貴方の意に添わないのなら、彼らを再び『皇民』に戻すための条件——食糧・物資の配布の責を果たせば良いのではないですか」
沈黙が落ちた。広い謁見の間で、動くのはコウリとアザミの間を行き来するアカネの目だけだ。両者はぴくりとも動かずに睨み合っている。
「……よかろう」
やがて目を逸らしたのはアザミの方だった。アカネはほっと肩の力を抜く。長いだんまり合戦には、さすがに疲れ始めていたところだった。
末息子の様子にはまったく注意を払う風もなく、アザミは続ける。その口調からはどこか投げ遣りなものが感じられた。
「即刻、中立地帯への物資を用意させる。第三皇子、お前が監督をせよ。廃太子のところへ行けば以前の資料が残っている筈だ」
「は……はい」
慌てて跪いたアカネを一顧だにせず、立ち上がったアザミは踵を返した。
「余は疲れた。使者も引き取るがいい」
「お待ち下さい」
コウリの声に、アザミは背を向けたまま歩みを止める。
「最後に一つだけ、お尋ねしたいことがあります」
「何だ」
「何故、中立地帯への食糧配布を止めたのです。それによって貴方が得る利などないでしょうに」
広い背中に反応はない。しかし一瞬だけ、アザミが持つ人を圧する雰囲気が緩んだようにコウリには感じられた。
「……別に」
振り向かずにアザミは言う。
「別に理由などはない。気まぐれだ」
かつっ、と踵を鳴らしてアザミは皇帝だけに出入りを許された扉へと向かった。恭しく礼をして、侍従が扉を開ける。
「そう、理由など……」
扉を潜る瞬間のアザミの呟きは、侍従の耳にも入らないほどに低かった。
男は顔を上げ、まっすぐにアザミを見返した。
「皇帝よ。何故中立地帯を放置します」
アザミの眉がぴくり、と跳ねる。
「どういう意味だ、使者よ」
「私にはコウリという名があります」
アザミから目を離さないまま、コウリは問う。
「皇帝は、歴史をご存知か」
「歴史、とは何だ」
「今から百年程前、当時の国王と戦士——後の初代皇帝との間で交わされた国王領と皇帝領の線引きと中立地帯が定められた真の理由を、です」
「……どういう、ことですか」
鼻を鳴らしただけのアザミに代わってコウリに問い返したのは、玉座の側に立っていたアカネだった。正式の謁見の席に相応しい皇子の正装を身に纏っている。
目で問うコウリにただ一言、アザミが答える。
「余の第三皇子だ」
アカネに向けてコウリは一礼する。
国王からの使者が皇都を訪れるなど異例なことだ。皇帝以外の皇族がこの場にいることはある意味で当然と言えた。そのため、コウリに驚いた様子はない。
「アカネ殿。この国の代表的な穀倉地帯がどこにあるか、ご存知ですか」
「えっと……確か、国王領の南部と、皇帝領の北部にあったと思いますが」
予想外の問いに、アカネは戸惑いの表情を浮かべながらも答える。
「そうです。この国は南北に細長い島国ですが、その両端に肥えた土地は集中しています。広大な中央部の土はやせていて農作には適しません。草原を利用しての遊牧にも、中央部に住む人々全てを養えるほどの生産力は期待できません。つまり中央部の民は、生活を南北いずれかの穀倉地帯に依存するしかないのです」
喋りながら、コウリは父子の様子を観察する。アザミは玉座に頬杖をついて冷めた視線を向けている。一方アカネは、身を乗り出してコウリの話を聞いている。
「かつて戦士アサギは第四代国王モクレン陛下に対して、初代戦士と初代国王の取り決め通りに国王の過ちを正す役目を負いました。それを受けたモクレン陛下は過ちを悔いて全権をアサギに委ねたと伝えられています。その際の一昼夜に及ぶ話し合いで様々な事柄が決められましたが、そのうちの一つに双方の領土の制定があります」
アカネが頷く。
「その話は聞いたことがあります。アサギ——初代皇帝は十分反省していた国王モクレンの気持ちを考えて当時の首都とその周辺を国王領にして、自領はほとんど広げずに残りの土地を中立地帯にしたのではなかったでしょうか?」
「その通りです。アカネ殿は歴史がお好きですか?」
「そういうわけではないのですが、家庭教師代わりの兄が厳しかったので」
「成程。では現在、中立地帯の住民を『皇民』と呼ぶのは何故か、兄上はお話しになられましたか?」
「いいえ。そういえば、なぜなのでしょう」
ちらりとコウリはアザミを見上げた。変わらず冷えた目で見返す皇帝の表情が、かすかに苦々しげに歪む。
「どうやらお前の思惑通りに皇子は乗せられたようだな」
きょとんとするアカネに一瞥をくれ、アザミはコウリを鋭く睨みつけた。
「中立地帯の民を我が民と呼ぶのは、初代皇帝と国王の間で交わされた約に基づく。これは双方合意の上、定められた成文があるはずだが」
「その通りです」
コウリが頷く。
「しかしその項には但し書きがついています。成人前の第三皇子ならばいざ知らず、皇太子としての教育を受け、就くべくして皇帝の座に就いている貴方が知らない筈はない。そうですね?」
アザミは答えない。記憶を探っていたのだろう、宙を睨んでいたアカネがやがて諦めたらしく、コウリに視線を戻した。
「約定の第四項、中立地帯についての規定にはこうあります」
アカネの注意が戻るのを待っていたように、コウリは口を開いた。
「曰く、『中立地帯の民は国王・戦士いずれか一方に属する民ではない。但し、中立地帯に対する食糧その他物資の配布は戦士が行うものとし、その責を戦士が果たしている限り、戦士は中立地帯の民を管理することができる』と。つまり——」
玉座のアザミに、コウリは正面から目を据えた。
「皇帝から中立地帯が十分な食糧を受けていない現在、中立地帯の民は貴方の管理下を離れた自由な民であると言えます。そんな彼らが国王を頼ったとしても問題はないでしょう。もし現状が貴方の意に添わないのなら、彼らを再び『皇民』に戻すための条件——食糧・物資の配布の責を果たせば良いのではないですか」
沈黙が落ちた。広い謁見の間で、動くのはコウリとアザミの間を行き来するアカネの目だけだ。両者はぴくりとも動かずに睨み合っている。
「……よかろう」
やがて目を逸らしたのはアザミの方だった。アカネはほっと肩の力を抜く。長いだんまり合戦には、さすがに疲れ始めていたところだった。
末息子の様子にはまったく注意を払う風もなく、アザミは続ける。その口調からはどこか投げ遣りなものが感じられた。
「即刻、中立地帯への物資を用意させる。第三皇子、お前が監督をせよ。廃太子のところへ行けば以前の資料が残っている筈だ」
「は……はい」
慌てて跪いたアカネを一顧だにせず、立ち上がったアザミは踵を返した。
「余は疲れた。使者も引き取るがいい」
「お待ち下さい」
コウリの声に、アザミは背を向けたまま歩みを止める。
「最後に一つだけ、お尋ねしたいことがあります」
「何だ」
「何故、中立地帯への食糧配布を止めたのです。それによって貴方が得る利などないでしょうに」
広い背中に反応はない。しかし一瞬だけ、アザミが持つ人を圧する雰囲気が緩んだようにコウリには感じられた。
「……別に」
振り向かずにアザミは言う。
「別に理由などはない。気まぐれだ」
かつっ、と踵を鳴らしてアザミは皇帝だけに出入りを許された扉へと向かった。恭しく礼をして、侍従が扉を開ける。
「そう、理由など……」
扉を潜る瞬間のアザミの呟きは、侍従の耳にも入らないほどに低かった。
適温に保たれた居心地の良い部屋でアオイと共にアカネの話を聞きながら、アサザはぼんやりとそんなことを考えていた。皇都は王都より涼しい北方にある。とはいえ、やはり夏はそれなりに暑い。特にアオイの身体に、夏の暑さは冬の寒さと並んで大きな負担をかける。床に起き上がってはいるものの、血色の悪い兄の横顔を盗み見て、アサザは内心で溜息を吐いた。
「……兄上、聞いてますか?」
アカネの声に、アサザは我に返った。心持ち頬を膨らませている弟に、アサザは慌てて頷いて見せた。
「あ、ああ、ちゃんと聞いてるさ。その、コウリとかいう奴がお前に地理の講義をしてくれたんだったよな?」
「その話はずっと前に終わりましたよ。今、父上が退出なさったところまでお話したところです」
「あ、そうだったか。悪い悪い」
アサザの答えに、アカネは今度こそ見間違いようのない膨れっ面を作る。
「まあまあアカネ。アサザもここしばらく忙しかったから疲れてるんだよ」
そっぽを向いてしまった末弟を、苦笑しながらアオイがなだめる。
「今日の謁見にだって、勉強がたくさんあったからアサザは行けなかっただろう? もっとも、アサザにしてみればそっちの方が楽だったかもしれないけれど。特に最近は苦戦しているみたいだしね」
「兄上が厳しすぎるんですよ。まったく、皇太子なんてロクなもんじゃないな。覚えることばかり多くて嫌になる」
大仰に顔をしかめて、アサザは肩をすくめた。
「もっとも、兄上のお体がちっとも良くならない訳が分かったような気はしますけどね。あんな面倒なことを次から次へと詰め込まれちゃ、誰だってどうにかなっちまうぜ。俺でさえ頭がくらくらするもんな」
「ふふ。でもアサザ、今君に教えていることを私は父上から教わったんだよ? それに比べれば随分とましなんじゃないかな」
「うわ、俺は絶対ごめんですね」
あさっての方を向いたまま、アカネが吹き出した。顔を見合わせて兄二人も笑い出す。ひとしきり笑った後、アカネはアオイに向き直った。機嫌はすっかり直ったようだ。
「そういえば兄上様、僕は兄上ほど勉強をサボったつもりはないんですが」
「何ぃ?」
伸ばされたアサザの腕をひょいと避けて、アカネは続ける。
「今回の父上と使者との話ではいくつも分からないことがあって、正直すごく切なかったんです」
「……どうでもいいがお前、そんなしゃべり方誰に習ったんだ?」
「ほんとにどうでもいいですね。誰でもいいじゃないですか。とにかく」
何とかして自分を捕まえようとするアサザの手を器用にかわしながら、アカネはアオイの瞳を見た。
「使者は僕が第三皇子だから知らなくても仕方ないという感じのことを言ってましたし、父上もそれを否定しませんでした。そりゃうちは皇帝という名のつく家ですから、父上や後継ぎだった兄上様しか知らないことがあるのは仕方ないのかもしれませんが、今回の僕のように知らなかったことで皇帝領に不利になることがあるのなら、そういう秘密はどうかと思うんです」
「偉そうに言ってるがアカネ、単にダシにされたのが面白くないだけなんじゃないのか?」
「そっ……そんなことありませんよ!」
じゃれ合う弟たちに細まっていたアオイの目が、ふと真剣になった。
「アカネの言うことはもっともだよ。けれどね、すべての人と秘密を共有するには、この国はちょっと複雑すぎるんだ」
懲りずにアカネを追いかけていたアサザの手が止まる。笑いを引っ込めた弟たちの視線を感じながら、アオイは目を閉じた。
「そもそも皇帝と国王、二人の統治者が存在するこの国のあり方はとても不自然なんだ。危うい均衡を保ちながら体制を維持するためには、どうしても工夫がいる」
「それが……秘密だというんですか」
アオイは頷く。その頬に赤みがさしている。息もわずかに弾んでいた。
「兄上、続きは俺が話します。少し休んでください」
アサザの言葉にアオイは微笑んだ。
「そうだね。それじゃ、試験代わりにやってもらおうかな」
「……合格点をもらえるよう、努力はしますよ」
アオイが枕に背を預けたのを確認して、アサザはアカネへ振り返った。
「えーと、今の状態を続けるための工夫の話だったな。どう説明すればいいかなあ」
がりがりと頭をかいてから、アサザは口を開いた。
「アカネ、お前は俺の部屋で生き物——例えば蛇を見つけた時、どうする?」
「蛇ですか? そうですね、とりあえず兄上にどうしたのか、捨ててもいいものなのかを訊きますよ」
アサザは頷く。
「ま、それが正解だろうな。捨てていいか分からんものを不用意に逃がしたら後で怒られるかもしれん。大事な預かり物だったり、強力な毒蛇だったりする可能性もない訳じゃない」
毒蛇、という言葉にアカネが小さく笑う。
「おいおい、笑い事じゃないぞ。逃がした後に実は今のは毒蛇だ、このままだと大変なことになる、なんて言われたら俺は勿論お前も困っちまう。そうだろう?」
「まあ、そうですが……」
「けれどそんな困った事態も、お前がこの蛇は捨ててもいいものなのか、一言俺に確認すれば防げたはずだ。主の俺が知らないものが部屋にあるってことは考えにくいんだからな」
「僕は時々部屋で見覚えのないものを発掘しますけど」
アカネの言葉にアオイが吹き出す。恨めしげに二人を見て、アサザは咳払いをした。
「とにかくだ。お前の小汚い部屋ならともかく、必ず整理されてなければならないものってのは世の中にはいくらでもある。国王との約定も、その一つだ」
アサザの眉間にしわが寄る。本人はいかめしい表情を作っているつもりらしい。
「約定の項目を皇帝と国王は必ず覚えとかなきゃならん。ま、当然だけどな。これを知らなきゃ、お互いやっていいことと悪いことの区別さえつけられん。だから皇太子や王太子にもこの約定は徹底的に叩き込まれる。……何を笑ってるんですか兄上」
「いや別に……さっきまでの君の苦戦っぷりを思い出しただけだよ」
兄に軽く睨みをくれて、アサザは弟に視線を戻した。
「約定の詳細を知る者は、皇帝領には原則として皇帝と皇太子しかいない。国王側では国王と王太子、それに一部の側近の貴族が王太子への教授役として知ることを許されているらしい。コウリって奴は多分レンの——国王の先生だったんだろうな」
アカネは頷く。
「僕が知りたいのはそこなんです。なぜそんなに限られた人にしか約定は教えられないんですか」
「他の奴らが毒蛇を逃がしちまうのを防ぐためさ」
にやり、とアサザは笑う。
「俺は別に、意味なくさっきの話をしたわけじゃないぜ。皇帝と国王、二人の主を持つ部屋の中で蛇が出た。放っておいてもいいのか、捕まえるべきなのか自分では判断できん。捕まえ方も分からんしな。こういう場合は部屋の主にどうすべきか聞くのが一番だろう? 主は、少なくとも蛇への対処法は知っているはずだ」
「それなら、皆に蛇に対する知識を教えればいいではありませんか」
アサザは肩をすくめる。
「蛇の種類がいつも同じなら、それでもいいさ。だが蛇は——問題は時と場合によって形や大きさ、模様が全然違う。中途半端な知識で立ち向かわれちゃ、かえって危険だ。だから対処の判断は主である皇帝と国王に任せてもらう。そういう決まりにしているんだ」
「でも」
不満げなアカネにアサザは苦笑した。
「アカネ、なぜ皇帝と国王の周辺だけに知識をとどめておくかってのにはな、もう一つ理由があるんだ」
「え? なんですか」
ちらりとアサザはアオイを振り返った。仕方ない、といった風にアオイが頷く。
「まあ、アカネになら大丈夫だろう。それに、ここで止めたら後でうるさそうだしね」
「むー。二人で納得してないで早く教えてくださいよ」
またしても頬が膨らみはじめている弟に、慌ててアサザは向き直る。
「あ、こっから先は本当なら皇太子だけに教えることだからな。他では絶対言うなよ」
「分かりましたよ。で、もう一つの理由というのは何なんです?」
「戦士と貴族が仲良くならないように、さ」
アカネの目が点になる。
「は? 訳分かりませんよ。何ですかそれ」
「仕方ないな。順番に説明するとだな」
わしわしと自分の髪をかき回しながらアサザは宙を睨んだ。
「いいか? 約定ってのは要するに、皇帝領と国王領が付き合う上での決まりのことだ。だがその決まりを知っているのはほんの一握りの人間、それもそれぞれの頂点にいる連中だけだ。ここまでは問題ないな?」
アカネの首が縦に振られたのを確認して、アサザは続ける。
「一番偉いってことはだ、当然権力を持っている。その中には人を罰することができる種類のものも含まれてる」
「父上の得意技ですね」
アサザの口許に苦味混じりの笑みが浮かぶ。
「ま、とにかくその権力を利用して、皇帝と国王は緊急時以外の戦士と貴族の交流を禁止した。お互いにそれぞれの領土には踏み込まないでおこう、もし見つけたら領主の裁量で罰してもいい、ってな。これが俗に言う不可侵条約だな。ちなみに約定にもちゃんと項目が設けられている」
「不可侵条約は知ってます。違反者が目の前にいますけど」
アサザはぽかり、とアカネの頭を叩いた。
「ヘタに関わりを持つと罰せられるかもしれない。そう考えたらあえて交流しようなんて思わないだろ? だから戦士と貴族の関係はどんどん遠ざかる。お互いに何か言いたいことがあれば、付き合い方を知っている領主——皇帝か国王を頼ればいいんだからな。統治する側から見ても、労せずして下から頼られる構図を作れるわけだ。疎遠になれば問題は未然に防げるし、内部の結束も固められる。まさに一石二鳥だ」
「さっきの説明よりは納得できた気がしますけど……」
叩かれた頭をさすりながらアカネはぼやく。
「何だかなー。権力者ってややこしい上に汚いですねー」
「だろう? 同情するなら代わってくれよ」
「ヤですよ」
「先人の知恵をそんなに嫌うものではないよ」
くすくす笑いながらアオイが言う。顔色は普段通りに戻っている。
「アサザ、ご苦労さま。でも残念、四十点ってとこかな」
「え!? 何でそんなに低いんですか!?」
「話が長い。要点を要領よく伝えてこそ、良い説明と言えるだろう? それにアカネに秘密をしゃべってしまった」
ぐうの音も出ないアサザにアオイは微笑みかけた。
「いつも通り、合格点は八十点だよ。もっと精進しようね」
「……はい」
アカネが手を叩いて笑う。
「さすが兄上様! 兄上様ならきっとあのコウリにも勝てますよ」
「ふふ。私も彼には興味があったんだけどね。残念だよ」
アオイは横手の窓に目を向けた。小さいが丁寧に整えられた庭越しに、厚い木の塀が見える。
その塀のずっと向こう、皇都市街に近い宮に王都からの使者団がいるはずだった。明日一日休養を取った後、王都に帰還する予定になっている。
「そういえば兄上様、さっきの謁見でもう一つ気になったことがあるんですが」
アカネの声に、アオイは注意を部屋の中に戻した。
「ん、何だい?」
「コウリの話の中に、中立地帯が生まれた真の理由というのがあったんですが、うやむやのうちに謁見が終わってしまったので結局わからずじまいだったんです。兄上様はご存知ですか?」
「それは俺も知らないな。やっぱり何かあるんですか?」
むくり、とアサザが顔を上げる。アオイは軽く苦笑した。
「本当はこれも秘密なんだけど。まあいいかな」
模範解答じゃないけどね、とアサザに片目をつぶって見せて、アオイは言葉を継ぐ。
「中立地帯はね、実はすごく重要な役割を持っているんだ。皇帝領と国王領の間に人口や生産力などの差はほとんどない。でも、実際には皇帝の方が大きな力を持っている。何故かな?」
少し考えて、アサザが答える。
「皇帝が中立地帯を治めているから、ですか」
「そう。皇帝は中立地帯を管理することで国王との力の差を作っている。実質この国を治めているのが皇帝である以上、これは仕方ないことだろう。けれど約定では、今回のように皇帝に落ち度があった場合に中立地帯が国王側に味方する権利を事実上認めている」
「……ってことは要するに?」
「中立地帯はこの国を治める上での鍵になるってことさ。中立地帯を味方にした方が支配権を持つことになるのだからね」
呆然とする弟たちにアオイは底の見えない笑みを向ける。
「中立地帯の存在理由は両都お互いの牽制に必要な均衡の分銅であること。コウリはね、中立地帯が王都についた今なら皇都より力は上、と言いたかったんだよ」
「……怖い人ですね……」
半泣きでアカネが言う。
「そんな物騒なことを聞いただけで見抜いちまう兄上の方が俺は怖ぇ……」
がたがた震えているアサザににっこり笑いかけて、アオイは再び窓に目を向けた。
「ふふ。でも、父上もこの程度のことには気づいてたはずだけどね」
小さく溜息をついて、アオイは口の中で呟いた。
「一体何をお考えなのです。こんな下策を取られるなど貴方らしくもない……」
窓からぬるい風が吹き込んでくる。暑い夏がすぐそこに迫っていた。
「……兄上、聞いてますか?」
アカネの声に、アサザは我に返った。心持ち頬を膨らませている弟に、アサザは慌てて頷いて見せた。
「あ、ああ、ちゃんと聞いてるさ。その、コウリとかいう奴がお前に地理の講義をしてくれたんだったよな?」
「その話はずっと前に終わりましたよ。今、父上が退出なさったところまでお話したところです」
「あ、そうだったか。悪い悪い」
アサザの答えに、アカネは今度こそ見間違いようのない膨れっ面を作る。
「まあまあアカネ。アサザもここしばらく忙しかったから疲れてるんだよ」
そっぽを向いてしまった末弟を、苦笑しながらアオイがなだめる。
「今日の謁見にだって、勉強がたくさんあったからアサザは行けなかっただろう? もっとも、アサザにしてみればそっちの方が楽だったかもしれないけれど。特に最近は苦戦しているみたいだしね」
「兄上が厳しすぎるんですよ。まったく、皇太子なんてロクなもんじゃないな。覚えることばかり多くて嫌になる」
大仰に顔をしかめて、アサザは肩をすくめた。
「もっとも、兄上のお体がちっとも良くならない訳が分かったような気はしますけどね。あんな面倒なことを次から次へと詰め込まれちゃ、誰だってどうにかなっちまうぜ。俺でさえ頭がくらくらするもんな」
「ふふ。でもアサザ、今君に教えていることを私は父上から教わったんだよ? それに比べれば随分とましなんじゃないかな」
「うわ、俺は絶対ごめんですね」
あさっての方を向いたまま、アカネが吹き出した。顔を見合わせて兄二人も笑い出す。ひとしきり笑った後、アカネはアオイに向き直った。機嫌はすっかり直ったようだ。
「そういえば兄上様、僕は兄上ほど勉強をサボったつもりはないんですが」
「何ぃ?」
伸ばされたアサザの腕をひょいと避けて、アカネは続ける。
「今回の父上と使者との話ではいくつも分からないことがあって、正直すごく切なかったんです」
「……どうでもいいがお前、そんなしゃべり方誰に習ったんだ?」
「ほんとにどうでもいいですね。誰でもいいじゃないですか。とにかく」
何とかして自分を捕まえようとするアサザの手を器用にかわしながら、アカネはアオイの瞳を見た。
「使者は僕が第三皇子だから知らなくても仕方ないという感じのことを言ってましたし、父上もそれを否定しませんでした。そりゃうちは皇帝という名のつく家ですから、父上や後継ぎだった兄上様しか知らないことがあるのは仕方ないのかもしれませんが、今回の僕のように知らなかったことで皇帝領に不利になることがあるのなら、そういう秘密はどうかと思うんです」
「偉そうに言ってるがアカネ、単にダシにされたのが面白くないだけなんじゃないのか?」
「そっ……そんなことありませんよ!」
じゃれ合う弟たちに細まっていたアオイの目が、ふと真剣になった。
「アカネの言うことはもっともだよ。けれどね、すべての人と秘密を共有するには、この国はちょっと複雑すぎるんだ」
懲りずにアカネを追いかけていたアサザの手が止まる。笑いを引っ込めた弟たちの視線を感じながら、アオイは目を閉じた。
「そもそも皇帝と国王、二人の統治者が存在するこの国のあり方はとても不自然なんだ。危うい均衡を保ちながら体制を維持するためには、どうしても工夫がいる」
「それが……秘密だというんですか」
アオイは頷く。その頬に赤みがさしている。息もわずかに弾んでいた。
「兄上、続きは俺が話します。少し休んでください」
アサザの言葉にアオイは微笑んだ。
「そうだね。それじゃ、試験代わりにやってもらおうかな」
「……合格点をもらえるよう、努力はしますよ」
アオイが枕に背を預けたのを確認して、アサザはアカネへ振り返った。
「えーと、今の状態を続けるための工夫の話だったな。どう説明すればいいかなあ」
がりがりと頭をかいてから、アサザは口を開いた。
「アカネ、お前は俺の部屋で生き物——例えば蛇を見つけた時、どうする?」
「蛇ですか? そうですね、とりあえず兄上にどうしたのか、捨ててもいいものなのかを訊きますよ」
アサザは頷く。
「ま、それが正解だろうな。捨てていいか分からんものを不用意に逃がしたら後で怒られるかもしれん。大事な預かり物だったり、強力な毒蛇だったりする可能性もない訳じゃない」
毒蛇、という言葉にアカネが小さく笑う。
「おいおい、笑い事じゃないぞ。逃がした後に実は今のは毒蛇だ、このままだと大変なことになる、なんて言われたら俺は勿論お前も困っちまう。そうだろう?」
「まあ、そうですが……」
「けれどそんな困った事態も、お前がこの蛇は捨ててもいいものなのか、一言俺に確認すれば防げたはずだ。主の俺が知らないものが部屋にあるってことは考えにくいんだからな」
「僕は時々部屋で見覚えのないものを発掘しますけど」
アカネの言葉にアオイが吹き出す。恨めしげに二人を見て、アサザは咳払いをした。
「とにかくだ。お前の小汚い部屋ならともかく、必ず整理されてなければならないものってのは世の中にはいくらでもある。国王との約定も、その一つだ」
アサザの眉間にしわが寄る。本人はいかめしい表情を作っているつもりらしい。
「約定の項目を皇帝と国王は必ず覚えとかなきゃならん。ま、当然だけどな。これを知らなきゃ、お互いやっていいことと悪いことの区別さえつけられん。だから皇太子や王太子にもこの約定は徹底的に叩き込まれる。……何を笑ってるんですか兄上」
「いや別に……さっきまでの君の苦戦っぷりを思い出しただけだよ」
兄に軽く睨みをくれて、アサザは弟に視線を戻した。
「約定の詳細を知る者は、皇帝領には原則として皇帝と皇太子しかいない。国王側では国王と王太子、それに一部の側近の貴族が王太子への教授役として知ることを許されているらしい。コウリって奴は多分レンの——国王の先生だったんだろうな」
アカネは頷く。
「僕が知りたいのはそこなんです。なぜそんなに限られた人にしか約定は教えられないんですか」
「他の奴らが毒蛇を逃がしちまうのを防ぐためさ」
にやり、とアサザは笑う。
「俺は別に、意味なくさっきの話をしたわけじゃないぜ。皇帝と国王、二人の主を持つ部屋の中で蛇が出た。放っておいてもいいのか、捕まえるべきなのか自分では判断できん。捕まえ方も分からんしな。こういう場合は部屋の主にどうすべきか聞くのが一番だろう? 主は、少なくとも蛇への対処法は知っているはずだ」
「それなら、皆に蛇に対する知識を教えればいいではありませんか」
アサザは肩をすくめる。
「蛇の種類がいつも同じなら、それでもいいさ。だが蛇は——問題は時と場合によって形や大きさ、模様が全然違う。中途半端な知識で立ち向かわれちゃ、かえって危険だ。だから対処の判断は主である皇帝と国王に任せてもらう。そういう決まりにしているんだ」
「でも」
不満げなアカネにアサザは苦笑した。
「アカネ、なぜ皇帝と国王の周辺だけに知識をとどめておくかってのにはな、もう一つ理由があるんだ」
「え? なんですか」
ちらりとアサザはアオイを振り返った。仕方ない、といった風にアオイが頷く。
「まあ、アカネになら大丈夫だろう。それに、ここで止めたら後でうるさそうだしね」
「むー。二人で納得してないで早く教えてくださいよ」
またしても頬が膨らみはじめている弟に、慌ててアサザは向き直る。
「あ、こっから先は本当なら皇太子だけに教えることだからな。他では絶対言うなよ」
「分かりましたよ。で、もう一つの理由というのは何なんです?」
「戦士と貴族が仲良くならないように、さ」
アカネの目が点になる。
「は? 訳分かりませんよ。何ですかそれ」
「仕方ないな。順番に説明するとだな」
わしわしと自分の髪をかき回しながらアサザは宙を睨んだ。
「いいか? 約定ってのは要するに、皇帝領と国王領が付き合う上での決まりのことだ。だがその決まりを知っているのはほんの一握りの人間、それもそれぞれの頂点にいる連中だけだ。ここまでは問題ないな?」
アカネの首が縦に振られたのを確認して、アサザは続ける。
「一番偉いってことはだ、当然権力を持っている。その中には人を罰することができる種類のものも含まれてる」
「父上の得意技ですね」
アサザの口許に苦味混じりの笑みが浮かぶ。
「ま、とにかくその権力を利用して、皇帝と国王は緊急時以外の戦士と貴族の交流を禁止した。お互いにそれぞれの領土には踏み込まないでおこう、もし見つけたら領主の裁量で罰してもいい、ってな。これが俗に言う不可侵条約だな。ちなみに約定にもちゃんと項目が設けられている」
「不可侵条約は知ってます。違反者が目の前にいますけど」
アサザはぽかり、とアカネの頭を叩いた。
「ヘタに関わりを持つと罰せられるかもしれない。そう考えたらあえて交流しようなんて思わないだろ? だから戦士と貴族の関係はどんどん遠ざかる。お互いに何か言いたいことがあれば、付き合い方を知っている領主——皇帝か国王を頼ればいいんだからな。統治する側から見ても、労せずして下から頼られる構図を作れるわけだ。疎遠になれば問題は未然に防げるし、内部の結束も固められる。まさに一石二鳥だ」
「さっきの説明よりは納得できた気がしますけど……」
叩かれた頭をさすりながらアカネはぼやく。
「何だかなー。権力者ってややこしい上に汚いですねー」
「だろう? 同情するなら代わってくれよ」
「ヤですよ」
「先人の知恵をそんなに嫌うものではないよ」
くすくす笑いながらアオイが言う。顔色は普段通りに戻っている。
「アサザ、ご苦労さま。でも残念、四十点ってとこかな」
「え!? 何でそんなに低いんですか!?」
「話が長い。要点を要領よく伝えてこそ、良い説明と言えるだろう? それにアカネに秘密をしゃべってしまった」
ぐうの音も出ないアサザにアオイは微笑みかけた。
「いつも通り、合格点は八十点だよ。もっと精進しようね」
「……はい」
アカネが手を叩いて笑う。
「さすが兄上様! 兄上様ならきっとあのコウリにも勝てますよ」
「ふふ。私も彼には興味があったんだけどね。残念だよ」
アオイは横手の窓に目を向けた。小さいが丁寧に整えられた庭越しに、厚い木の塀が見える。
その塀のずっと向こう、皇都市街に近い宮に王都からの使者団がいるはずだった。明日一日休養を取った後、王都に帰還する予定になっている。
「そういえば兄上様、さっきの謁見でもう一つ気になったことがあるんですが」
アカネの声に、アオイは注意を部屋の中に戻した。
「ん、何だい?」
「コウリの話の中に、中立地帯が生まれた真の理由というのがあったんですが、うやむやのうちに謁見が終わってしまったので結局わからずじまいだったんです。兄上様はご存知ですか?」
「それは俺も知らないな。やっぱり何かあるんですか?」
むくり、とアサザが顔を上げる。アオイは軽く苦笑した。
「本当はこれも秘密なんだけど。まあいいかな」
模範解答じゃないけどね、とアサザに片目をつぶって見せて、アオイは言葉を継ぐ。
「中立地帯はね、実はすごく重要な役割を持っているんだ。皇帝領と国王領の間に人口や生産力などの差はほとんどない。でも、実際には皇帝の方が大きな力を持っている。何故かな?」
少し考えて、アサザが答える。
「皇帝が中立地帯を治めているから、ですか」
「そう。皇帝は中立地帯を管理することで国王との力の差を作っている。実質この国を治めているのが皇帝である以上、これは仕方ないことだろう。けれど約定では、今回のように皇帝に落ち度があった場合に中立地帯が国王側に味方する権利を事実上認めている」
「……ってことは要するに?」
「中立地帯はこの国を治める上での鍵になるってことさ。中立地帯を味方にした方が支配権を持つことになるのだからね」
呆然とする弟たちにアオイは底の見えない笑みを向ける。
「中立地帯の存在理由は両都お互いの牽制に必要な均衡の分銅であること。コウリはね、中立地帯が王都についた今なら皇都より力は上、と言いたかったんだよ」
「……怖い人ですね……」
半泣きでアカネが言う。
「そんな物騒なことを聞いただけで見抜いちまう兄上の方が俺は怖ぇ……」
がたがた震えているアサザににっこり笑いかけて、アオイは再び窓に目を向けた。
「ふふ。でも、父上もこの程度のことには気づいてたはずだけどね」
小さく溜息をついて、アオイは口の中で呟いた。
「一体何をお考えなのです。こんな下策を取られるなど貴方らしくもない……」
窓からぬるい風が吹き込んでくる。暑い夏がすぐそこに迫っていた。
黄色い草原を渡る熱風が中立地帯自警団が本拠にしている岩山にもぶつかる。風は斜面を駆け上がり、岩をくり抜いただけの窓に掛けられた布を揺らした。目の前まで舞い上がった布を指先で捕まえたシオンは、少し顔をしかめて椅子から立ち上がった。
「もう乾いちゃってる。今日も暑いから……」
ぶつぶつ言いながらシオンは布を外し、用意してあった水桶に浸した。ざっと絞って元通り窓辺に吊るす。それだけで部屋に入る風は随分涼しくなった。
小さく息を吐いて、シオンは椅子に座り直した。椅子の前には寝台が一台置いてある。シオンは少し身を乗り出して床に伏せている老人の様子を見た。固く閉じられた瞼はぴくりとも動かず、老人が目を覚ます気配はない。
「長——」
もう三日、目を開いていない養い親にシオンは呼びかけた。握った手も半年以上の病床生活でかつての力強さを失い、今にも折れそうな枯れ枝のようだ。老い、病んだその顔からは生気が感じられない。その顔を濡らした布で拭くシオンの顔にも、いつもの元気は見られなかった。
背後で、ばさりと布が動く音がした。
「長の様子はどうだ」
シオンが振り返った先には旅装を纏ったススキがいた。戸板代わりの布を土埃で汚れた腕で払い、足音を立てずに病床に近づく。
「変わらないわ。ずっと眠ってる」
「そうか」
老人を見下ろすススキをシオンは見上げる。病室の空気にかすかに焦げ臭い匂いが混じっていた。
「いつ帰ってきたの?」
「ついさっきだ」
数日前に見たときより日に焼けた顔がわずかにしかめられる。
「予想していたよりも……ひどい状況だった」
「……そう」
今年の夏は異常に暑い。例年なら力強い太陽の光と熱、それに時々の土砂降りを吸収して青々とする草原が、今年は枯れている。まず雨が降らない。丁度皇帝領からの援助が再開された頃から二ヶ月近く、大雨どころか通り雨さえ一滴も降っていない。最低限の生活用水は遥か北方の山岳地帯につながる地下水脈から湧く井戸で賄っているが、それも豊かなわけではない。
草原は乾燥しきっていた。そこへ容赦のない夏の日差しが照りつける。
当然のように野火が出た。ただでさえ水不足の人々にできるのは、せいぜいが火元周辺の草刈りと避難、それに自警団への連絡くらいのものだった。自警団にしても方々で上がる火の手全てに対応できるわけもなく、被災地の視察と物資の支給を兼ねての代表者派遣以外の活動はできないのが現状だった。
そんな中、特にススキは本拠地にいるより視察に出ている日の方が多いほどに中立地帯中を駆け回っていた。自警団長代理としての休む間もない日々に、随分と疲れも溜まっているはずだ。それでも今、シオンの横に立つススキは普段と変わらない無表情で黙っている。それは下手な言葉で簡単にねぎらわれたりすることを拒んでいるようにも見えた。
「そういえば、ウイキョウはどうしたの? 一緒に出てったじゃない」
「スギとの連絡を取らせている。そろそろ定期報告の時期だったからな」
そう、とだけ言ってシオンは窓の外に目を向けた。丁度その方向に皇都はある。
「スギは皇都育ちだ。ましてここ数年で随分と場数も踏んでいる。無駄な心配はするな」
皇帝領や国王領から見れば、中立地帯は双方の警備の行き届かない無法地帯も同然の土地だ。事実、どちらかの領主の下で罪を犯した者は、多くが逃亡先に中立地帯を選ぶ。広大な草原に紛れてしまえば、追っ手は約定に阻まれて追跡できなくなる。自警団もそんな者どもを黙認していた。中立地帯に害がない限り、自警団が動く理由もない。
十年程前に、まだ少年だったスギも皇都から逃れてきた。詳しい経緯は分からないが、何らかの事件に巻き込まれたらしい少年を長は本拠地に引き取ったのだった。
その事情を知っているシオンは不機嫌にわかってるわよ、と言い返す。
「あんたのそーゆートコが直ったら、自慢のおにーちゃんって呼んであげてもいいのにね」
「悪いが直す気もそのように呼ばれる気もない」
にべもないススキの返事にシオンが頬を膨らませた時、部屋の外から声が掛かった。
「失礼する」
大きな身体を窮屈そうに縮めながら入ってきたのはウイキョウだった。長の方に丁寧に一礼した後、ススキに向き直る。
「スギとのつなぎは取れたか」
はっ、と短く答え、ウイキョウは報告を始める。
「皇帝領にもこの暑さの影響が出ているようです。北部穀倉地帯は水不足と高温で少なからず被害を受けており、不作を見越した商人たちによって食糧全体が値上がりしているそうです」
ススキの顔に苦いものが走る。
「ようやく援助が再開したものを……国王領の方はどうだ」
「レンからの手紙には特に何も書いてなかったよ。南部には湖が多いから、そこから水を引いているのかも」
ウイキョウの代わりにシオンが答える。
「軍は? 皇帝軍はどうしている?」
「今のところは目立った動きなしとのこと。ですがこの先もそれが続くかは……」
ススキが頷く。
「では、こちらもできる限りの食糧を確保しよう。どちらにせよ、この冬に食糧が足りなくなるのは確実だ。自領の分にさえ困っている皇帝領がこちらにまで回すとは考えにくい」
「それでは国王領からも仕入れを?」
「ああ。早速知り合いの商人を当たって——」
「ちょっと待ってよ!」
二人の会話にひやりとしたものを感じて、シオンは慌てて割り込んだ。
「国王領から仕入れるのはまずいわよ。また皇帝に難癖つけられるかもしれないわ」
「今回は正式な売買取引だ。援助ではないのだから文句はつけられまい」
「そんな理屈が通じる相手じゃないってことくらい分かってるでしょ? 絶対口実にしてくるわよ、あいつ」
「その時はその時だ。どの道皇帝も食糧不足でろくに軍を動かせまい」
「でもっ……!」
はっとシオンは言葉を飲み込んだ。シオンの視線を追うように長の床に向けられた男二人の目が大きくなる。そこには枯れきった腕が一本、口論を止めるかのように掲げられていた。
「やめよ。シオン、ススキ」
「長っ……」
萎えた手が折れそうなほど強いシオンの握力に応えて、老人は弱い笑みを浮かべた。
「いつから起きて?」
「今さっきだがな。枕元であれだけ騒がれては寝るに寝られんよ」
軽口をススキに返しつつ、老人はその後ろに立つ巨漢に目を向ける。
「ウイキョウよ、わしにはもうあまり時間がないようだ。すまんが、これから言い残すことの立会人に、なってくれんか」
最後の方は切れ切れになった言葉に、ウイキョウは強く頷いた。目元だけで笑って、老人は呼吸を整える。
「ススキよ」
返事の変わりにススキは老人の顔を覗き込む。
「今まで、わしの代理としての務め、苦労であった」
小さく、ススキは頷く。
「皇帝との、戦は、起こりそうか?」
「今後の対応次第では」
わずかの間、考え込むように老人は目を閉じた。
「ならば今後、おぬしは次の長を助け、これまで通り自警団の副長として務めを果たせ」
「なっ……」
ススキはわずかに眉を上げただけ、驚きの声は別の口から上がった。
「長! なんでススキが次の長じゃないのよ!」
身を引いたススキの位置に素早く入り込んで、シオンは涙目で老人に訴える。
「ススキ以外に誰が次の長をやれるっていうのよ。ススキ以外じゃ誰も長なんて納得しないわ」
「……それはどうかのう」
老人はそっとシオンの頭に手を乗せた。乱れた息を整えながら、次の言葉を紡ぎ出す。
「武に秀でた者は、武に頼る。それがたとえ、最善の解決策でなくともな」
実の子供に向けるような慈愛に満ちた目を、老人はススキに向けた。
「常の時ならばそれでも良い。牽制しあうことで避けられる争いもあろう。だが」
老人の呼吸が早くなっている。
「争いになりそうな時にそのような者が立つと、戦以外の選択肢は見えなくなってしまう。戦とは、回避するべき全ての方策を尽くした後に、ようやく選ばれる手段でなければならんのだ」
ウイキョウに、ススキに、シオンに、順番に老人の目が向けられる。
「シオン、お前なら、これから先、戦以外の道が、見つけられるかもしれぬ」
「何を言ってるのよ長、そんなこと……」
老人の手が強くシオンの手を握る。
「次の長はおぬしだよ、シオン」
頼んだぞ、と言った老人の手から、嘘のように力が抜け落ちた。もう涙を隠そうともしていないシオンが必死に老人の手を揺さぶる。
「長! 長ッ!!」
老人の瞼が薄く開けられた。
「遺言は、終わったぞ。あとは、おぬしらに、任せる——」
ゆっくりと老人の目が閉ざされる。最期の呼気がシオンの嗚咽に混じって耳に届いた時、ウイキョウは目を伏せ、ススキは長に向けて頭を下げた。
——これから、忙しくなる。
養父を失った悲しみをひとまず脇において、ススキは先のことに思いをめぐらせた。
長の代替わりを、国王に知らせなければならない。当然皇帝にもだが、ここに小さくはない問題があった。
「”山の民”……」
はっとウイキョウが顔を上げる。目配せだけして、ススキは身を翻して部屋の出口へと向かった。ひとまずは多忙の幕開けとして、彼は本拠地の者に長の代替わりを伝えねばならなかった。
「もう乾いちゃってる。今日も暑いから……」
ぶつぶつ言いながらシオンは布を外し、用意してあった水桶に浸した。ざっと絞って元通り窓辺に吊るす。それだけで部屋に入る風は随分涼しくなった。
小さく息を吐いて、シオンは椅子に座り直した。椅子の前には寝台が一台置いてある。シオンは少し身を乗り出して床に伏せている老人の様子を見た。固く閉じられた瞼はぴくりとも動かず、老人が目を覚ます気配はない。
「長——」
もう三日、目を開いていない養い親にシオンは呼びかけた。握った手も半年以上の病床生活でかつての力強さを失い、今にも折れそうな枯れ枝のようだ。老い、病んだその顔からは生気が感じられない。その顔を濡らした布で拭くシオンの顔にも、いつもの元気は見られなかった。
背後で、ばさりと布が動く音がした。
「長の様子はどうだ」
シオンが振り返った先には旅装を纏ったススキがいた。戸板代わりの布を土埃で汚れた腕で払い、足音を立てずに病床に近づく。
「変わらないわ。ずっと眠ってる」
「そうか」
老人を見下ろすススキをシオンは見上げる。病室の空気にかすかに焦げ臭い匂いが混じっていた。
「いつ帰ってきたの?」
「ついさっきだ」
数日前に見たときより日に焼けた顔がわずかにしかめられる。
「予想していたよりも……ひどい状況だった」
「……そう」
今年の夏は異常に暑い。例年なら力強い太陽の光と熱、それに時々の土砂降りを吸収して青々とする草原が、今年は枯れている。まず雨が降らない。丁度皇帝領からの援助が再開された頃から二ヶ月近く、大雨どころか通り雨さえ一滴も降っていない。最低限の生活用水は遥か北方の山岳地帯につながる地下水脈から湧く井戸で賄っているが、それも豊かなわけではない。
草原は乾燥しきっていた。そこへ容赦のない夏の日差しが照りつける。
当然のように野火が出た。ただでさえ水不足の人々にできるのは、せいぜいが火元周辺の草刈りと避難、それに自警団への連絡くらいのものだった。自警団にしても方々で上がる火の手全てに対応できるわけもなく、被災地の視察と物資の支給を兼ねての代表者派遣以外の活動はできないのが現状だった。
そんな中、特にススキは本拠地にいるより視察に出ている日の方が多いほどに中立地帯中を駆け回っていた。自警団長代理としての休む間もない日々に、随分と疲れも溜まっているはずだ。それでも今、シオンの横に立つススキは普段と変わらない無表情で黙っている。それは下手な言葉で簡単にねぎらわれたりすることを拒んでいるようにも見えた。
「そういえば、ウイキョウはどうしたの? 一緒に出てったじゃない」
「スギとの連絡を取らせている。そろそろ定期報告の時期だったからな」
そう、とだけ言ってシオンは窓の外に目を向けた。丁度その方向に皇都はある。
「スギは皇都育ちだ。ましてここ数年で随分と場数も踏んでいる。無駄な心配はするな」
皇帝領や国王領から見れば、中立地帯は双方の警備の行き届かない無法地帯も同然の土地だ。事実、どちらかの領主の下で罪を犯した者は、多くが逃亡先に中立地帯を選ぶ。広大な草原に紛れてしまえば、追っ手は約定に阻まれて追跡できなくなる。自警団もそんな者どもを黙認していた。中立地帯に害がない限り、自警団が動く理由もない。
十年程前に、まだ少年だったスギも皇都から逃れてきた。詳しい経緯は分からないが、何らかの事件に巻き込まれたらしい少年を長は本拠地に引き取ったのだった。
その事情を知っているシオンは不機嫌にわかってるわよ、と言い返す。
「あんたのそーゆートコが直ったら、自慢のおにーちゃんって呼んであげてもいいのにね」
「悪いが直す気もそのように呼ばれる気もない」
にべもないススキの返事にシオンが頬を膨らませた時、部屋の外から声が掛かった。
「失礼する」
大きな身体を窮屈そうに縮めながら入ってきたのはウイキョウだった。長の方に丁寧に一礼した後、ススキに向き直る。
「スギとのつなぎは取れたか」
はっ、と短く答え、ウイキョウは報告を始める。
「皇帝領にもこの暑さの影響が出ているようです。北部穀倉地帯は水不足と高温で少なからず被害を受けており、不作を見越した商人たちによって食糧全体が値上がりしているそうです」
ススキの顔に苦いものが走る。
「ようやく援助が再開したものを……国王領の方はどうだ」
「レンからの手紙には特に何も書いてなかったよ。南部には湖が多いから、そこから水を引いているのかも」
ウイキョウの代わりにシオンが答える。
「軍は? 皇帝軍はどうしている?」
「今のところは目立った動きなしとのこと。ですがこの先もそれが続くかは……」
ススキが頷く。
「では、こちらもできる限りの食糧を確保しよう。どちらにせよ、この冬に食糧が足りなくなるのは確実だ。自領の分にさえ困っている皇帝領がこちらにまで回すとは考えにくい」
「それでは国王領からも仕入れを?」
「ああ。早速知り合いの商人を当たって——」
「ちょっと待ってよ!」
二人の会話にひやりとしたものを感じて、シオンは慌てて割り込んだ。
「国王領から仕入れるのはまずいわよ。また皇帝に難癖つけられるかもしれないわ」
「今回は正式な売買取引だ。援助ではないのだから文句はつけられまい」
「そんな理屈が通じる相手じゃないってことくらい分かってるでしょ? 絶対口実にしてくるわよ、あいつ」
「その時はその時だ。どの道皇帝も食糧不足でろくに軍を動かせまい」
「でもっ……!」
はっとシオンは言葉を飲み込んだ。シオンの視線を追うように長の床に向けられた男二人の目が大きくなる。そこには枯れきった腕が一本、口論を止めるかのように掲げられていた。
「やめよ。シオン、ススキ」
「長っ……」
萎えた手が折れそうなほど強いシオンの握力に応えて、老人は弱い笑みを浮かべた。
「いつから起きて?」
「今さっきだがな。枕元であれだけ騒がれては寝るに寝られんよ」
軽口をススキに返しつつ、老人はその後ろに立つ巨漢に目を向ける。
「ウイキョウよ、わしにはもうあまり時間がないようだ。すまんが、これから言い残すことの立会人に、なってくれんか」
最後の方は切れ切れになった言葉に、ウイキョウは強く頷いた。目元だけで笑って、老人は呼吸を整える。
「ススキよ」
返事の変わりにススキは老人の顔を覗き込む。
「今まで、わしの代理としての務め、苦労であった」
小さく、ススキは頷く。
「皇帝との、戦は、起こりそうか?」
「今後の対応次第では」
わずかの間、考え込むように老人は目を閉じた。
「ならば今後、おぬしは次の長を助け、これまで通り自警団の副長として務めを果たせ」
「なっ……」
ススキはわずかに眉を上げただけ、驚きの声は別の口から上がった。
「長! なんでススキが次の長じゃないのよ!」
身を引いたススキの位置に素早く入り込んで、シオンは涙目で老人に訴える。
「ススキ以外に誰が次の長をやれるっていうのよ。ススキ以外じゃ誰も長なんて納得しないわ」
「……それはどうかのう」
老人はそっとシオンの頭に手を乗せた。乱れた息を整えながら、次の言葉を紡ぎ出す。
「武に秀でた者は、武に頼る。それがたとえ、最善の解決策でなくともな」
実の子供に向けるような慈愛に満ちた目を、老人はススキに向けた。
「常の時ならばそれでも良い。牽制しあうことで避けられる争いもあろう。だが」
老人の呼吸が早くなっている。
「争いになりそうな時にそのような者が立つと、戦以外の選択肢は見えなくなってしまう。戦とは、回避するべき全ての方策を尽くした後に、ようやく選ばれる手段でなければならんのだ」
ウイキョウに、ススキに、シオンに、順番に老人の目が向けられる。
「シオン、お前なら、これから先、戦以外の道が、見つけられるかもしれぬ」
「何を言ってるのよ長、そんなこと……」
老人の手が強くシオンの手を握る。
「次の長はおぬしだよ、シオン」
頼んだぞ、と言った老人の手から、嘘のように力が抜け落ちた。もう涙を隠そうともしていないシオンが必死に老人の手を揺さぶる。
「長! 長ッ!!」
老人の瞼が薄く開けられた。
「遺言は、終わったぞ。あとは、おぬしらに、任せる——」
ゆっくりと老人の目が閉ざされる。最期の呼気がシオンの嗚咽に混じって耳に届いた時、ウイキョウは目を伏せ、ススキは長に向けて頭を下げた。
——これから、忙しくなる。
養父を失った悲しみをひとまず脇において、ススキは先のことに思いをめぐらせた。
長の代替わりを、国王に知らせなければならない。当然皇帝にもだが、ここに小さくはない問題があった。
「”山の民”……」
はっとウイキョウが顔を上げる。目配せだけして、ススキは身を翻して部屋の出口へと向かった。ひとまずは多忙の幕開けとして、彼は本拠地の者に長の代替わりを伝えねばならなかった。
厳冬の皇宮、皇帝の執務室にアザミの冷え冷えした声が響く。
「やはり中立地帯への援助は中止だ。担当の第三皇子にそう伝えろ」
「陛下ッ!!」
座っていた椅子を蹴り倒してアサザは立ち上がった。はずみで目の前の机に載った書類の山が雪崩を起こしたが、それには構わずに身を翻して奥の皇帝の執務机に向かう。
ここ数日、政務が重なり忙しかったせいで自分の宮にも帰っていない。しっかりした睡眠も取っていないため、目の下には濃くくまが浮いている。そんな姿のアサザの激しい剣幕に、指示を伝えようと退出しかけた侍従官がびくりと立ち止まった。左足を出しかけたまま固まっている侍従官の前を足音も荒く通り過ぎ、アサザは父帝の机に手のひらを叩きつける。代々の皇帝が使ってきた重厚な執務机がばん、と派手な音を立てた。
「ちょっと待って下さい。分かっているでしょうが、皇帝領からの食糧援助は中立地帯にとっては生命線なのですよ! そんな大問題をこんなに軽々しく決定して良いのですか! もっとよく考えてから——」
「皇都の戦士どもの給料は減らした。皇家の予算も削った。それでも皇帝領にさえ食が足りぬ。議論だの再考だのの余地はない」
ばさり、とアザミは手にした紙束を机の上に放り出した。そこにはアサザの机とは比較にならないほどたくさんの書類が積まれている。そのうちの一束を手に取ったアザミはすばやく文面に目を走らせる。アザミとてアサザと大差ない数日間を過ごしてきたはずだが、その速度は普段とほとんど変わっていない。
「それともお前は、自領を飢えさせても中立地帯へ援助を送れと言うのか?」
言葉に詰まったアサザはぐっと黙り込んだ。アザミの横顔を睨みつけていたその目が、ふと机の一点に向けられる。崩れかけた書類の山のてっぺんで、今にもずり落ちそうになっている紙束。先程アザミが放り出したまま半分めくれているそれを何とはなしに見たアサザの目がはっと大きくなる。
「これは……領内の食糧配分表!?」
アサザは紙束を掴み取り、慌ただしく頁をめくった。その手がぴたりと止まる。広げられた書類の一点を見つめるアサザの目に、わずかな光が宿った。
「軍に回す備蓄分が去年と変わってない。これを減らして不足分に充てれば……」
「馬鹿者が。それはできん」
アサザを一顧だにせずアザミが言う。
「近いうちに中立地帯では反乱が起きるのだからな」
「なっ……それはどういうことですか!」
「わからんのか?」
そう言ったアザミはようやくにアサザをじろりと睨み上げた。
「半年と少し前に再開されたばかりの援助を、また皇帝領の都合で止められるのだ。血の気の多い自警団が黙っているはずがなかろう」
斬りつけるようなアザミの眼光に怯みながら、それでもアサザは続ける。
「だったらなおさら止めるわけにはいかないでしょう。無用な争いは避けるべきです」
「偉そうなことを言う前に、もう一度その資料をよく見たらどうだ」
これ以上構ってられないとばかりにアサザから目を逸らし、アザミは手元の紙に何やら書き付けた。
「中立地帯は広い。たとえ今すぐ軍を解散して食糧を回したとしても援助分に足りるかどうか。援助援助とお前は簡単に言うが、そもそも中立地帯へ送る食糧は我が領の収穫の半分以上を占めているのだ。まして今年は酷暑の夏に早すぎる秋、厳しい冬が続いている。収穫量は去年の半分以下だ。そんな状況で他人の面倒までは見てられぬ」
アザミは顔を上げ、侍従長、と短く呼ぶ。飛んできた初老の男に手にした紙を突きつけ、アザミは鋭く命令を出す。この間、アサザには目もくれない。
「聞いての通りだ。反乱に備えて軍の再編をする。将帥に使えそうな者を調べてこい。もっとも、そう何人もいないだろうがな」
「しっ……!」
アサザは目を丸くした。
「陛下、将帥職は戦時にしか置かれない軍の最高役職ではないですか。こんな時期にそんなものが置かれたことが自警団に知られたら——」
「ふん。どうせ事は起こるのだ。同じことよ」
アサザはぎり、と奥歯を噛んだ。
「そんなこと——俺が、させません」
失礼します、と言い捨てて、アサザは足音高く執務室を出た。まだおろおろしていた最初の侍従官を睨みつけ、部屋から出ないよう威嚇してから扉を閉める。
しかし実際問題として、ああは言ったものの具体的にどうすればいいのかは全くわからない。執務室より数段冷え込みの厳しい廊下を歩きながら、アサザは苦い顔になった。
「くそっ……」
こういう時に誰よりも頼れるのはアオイだ。しかし病弱な兄はあの酷暑と早すぎる冬の到来でずっと体調を崩している。最近は病状も随分と落ち着いたが、それでも寝たり起きたりの生活が続いていた。精神的な負担はできるだけ避けるべき時、まして軍がらみの生臭い相談に乗ってもらえるような状態ではない。
熱くなった頭のままアサザは執務室のある宮を出、兄弟で住む自分の宮へと足を向けていた。兄上の体調が良かったら話だけでも聞いてもらおう、そう考えながら住み慣れた宮の門をくぐった時だった。
「——アサザ?」
横合いからいきなり声をかけられて、アサザは足を止めた。皇太子という身分になってから、アサザを呼び捨てにする人物は数えるほどしかいない。やはり、手入れの行き届いた前庭でアカネと一緒に立っていたのは、アサザにとってもなじみのある顔だった。
「ブドウ? 来てたのか」
軽く手を上げて応えたのは、アサザとそう背丈の変わらないほどに背の高い女性だった。褐色に焼けた肌に覆われた引き締まった身体が、今は動きやすい普段着と簡単な革鎧に包まれている。二十二歳という若い女性ながら板についたその姿は、さすがは平時における皇帝軍最高職にあたる副将帥を拝命している生粋の軍人というべきか。右手に持った木剣を見るに、どうやらアカネに稽古をつけているところだったらしい。
「久しぶりだな。元気かどうかは……聞くだけムダか」
「まーね。あんたこそ大丈夫かい? 慣れない公務で苦労してるだろ」
冬の午後の冷たい風の中にもかかわらず汗に濡れた赤茶の短髪を拭いながら、ブドウは若葉色の瞳をにや、と笑わせる。
「皇帝陛下のことは昔っから苦手にしてたからねぇ。ある意味私より手ごわい相手だろ?」
「まったくだ。お前相手に一本取るほうがどんなに楽か知れないぜ」
アサザは大げさに顔をしかめてみせた。それを見てブドウはからからと笑う。
「正直な奴だな。ま、全然変わってないようで安心はしたけどね」
「お前こそ全然変わってないな。ちょっとは変わらんと嫁の貰い手がなくなるぞ。そろそろいい歳なんだから」
「こんにゃろ、ほっといてくれよ」
口では怒ったように言っても、その言葉の中には常に笑いが含まれている。以前と変わらないブドウの態度に、いつの間にかアサザも執務室でのもやもやを忘れていた。特に何をするわけでもないのだが、ブドウの傍はいつも居心地がいい。だからこそアサザを含めた兄弟全員が仲良くやっていけるのだろう。
ブドウは皇帝領の戦士の中でも二番目に位が高い家柄・グースフット家の出身だ。赤茶の髪と若葉色の瞳はその血筋を濃く映し出している。黒髪黒目の人々が大半のこの島国では、ブドウのような姿はかなり目立つ。外来の祖先を持つ証左でもある色つきの髪や瞳はこの国ではとても少なく、特別な扱いを受ける一族が多い。その代表的な例が王家であると言える。
グースフット一族の場合は、初代戦士アカザの右腕として活躍した同名の猛将が始祖にあたる。王家による島国の統一以来、後の皇帝家に寄り添うように続いてきた家柄だ。いわば皇帝家の生粋の家臣であるわけだが、アサザとブドウの間にはそんな堅苦しいものは存在しない。
平たく言うなら、好敵手だった。お互いがお互いにだけ、一回も勝てたことがない。手合わせはいつも引き分けだった。その実力は双方認め合うところ、いつしか意気投合した二人の交流はアサザの兄弟も含めたものに発展していた。
「それはそうとアサザ、アカネがな……」
秘密を打ち明けるようにブドウが声を低くした。
「街の酒場の話をしてから、連れてってくれってうるさいんだよ。どうにかしてくれないか」
何を相談されるのかと思いきや。アサザは呆れ顔を隠さずにブドウの顔を見た。
「んなこといわれても……そもそもお前がそんなコト話すから悪いんだろうが」
「あっブドウ、それは兄上たちには秘密だって約束したじゃないか!」
猛抗議を始めたアカネの頭をアサザはぽんぽんと叩く。
「こら、お前には酒場なんざ十年早い。まだガキなんだからな」
「そういう兄上はどうなんです。知ってるんですよ、兄上が十四の時に倉の食べ物と酒かっぱらって家出未遂を起こしたこと」
「あん時の俺は堂々としてただろが。お前みたいにコソコソ秘密だ何だと言ってるうちはまだまだガキだってんだ。やーい」
「うー」
悔しがるアカネに苦笑して、ブドウはアサザに目を向ける。
「それよりアサザ、何か用事があって帰ってきたんじゃないのか?」
「ああ、そうだった。兄上に会えるなら、ちょっと話がしたかったんだが……ん、どうした?」
何気なく出したアオイの名前にアカネとブドウの顔が曇るのを見て、アサザの胸にも嫌な予感が広がっていく。
「おい、もしかして——」
「ああ。二日前から熱が下がられなくてな。今、お会いすることはできない」
「お前……!!」
すいと目を逸らしたブドウに、アサザは足音荒く詰め寄った。
「二日前だと!? 知ってたなら何で使いをよこさなかった! こないだの夏以来兄上のお加減がずっと悪いのはお前も知ってただろう!!」
「兄上、やめてください! 兄上に知らせなかったのは政務の邪魔をしてはいけないと兄上様がおっしゃったからなんです! ブドウは兄上様が倒れられた日にたまたま遊びに来ていただけなのに、ずっと付き添っていてくれたんですよ!」
腕にすがりついたアカネの身体の重さで、アサザは何とか自制心を保つ。波立った気持ちを鎮めがら、改めてブドウの様子を眺めてみる。うなだれた肩、伏せた瞳。先程は気づかなかったが、その目の下はアサザと同じようにうっすらと黒ずんでいる。気のせいか頬のあたりもやつれているようだ。生粋の軍人であるブドウにとって、病人の看護などという普段やり慣れていない種類の作業は大変だったに違いない。黙ったままアサザの視線を受け止めているブドウの姿を見て、アサザの肩から自然に力が抜けていく。
「……悪かった、ブドウ」
「いいさ、気にするな」
がっくりと落ちたアサザの肩をブドウの手が軽く叩く。
「私もあんたと同じ立場なら多分怒るだろうしね。でもま、よく確認もしないでそれをぶつけるようじゃ、まだまだ大人とは言えないんじゃないかな?」
「なっ……なんで話がそこにつながるんだよ!? 関係ないじゃないか!!」
アサザの抗議をブドウは笑って受け流す。その目がふっと笑いを消した。
「ま、それはともかくだ。アオイ様ほど頼りにはならないかもしれないが、私でよければ話くらいは聞いてやるぞ?」
「そうですよ。僕らだって何かの手助けはできるかもしれないんですからね」
ここぞとばかりにアカネも口を尖らせて自己主張する。
「大体兄上は兄上様に頼りすぎなんです。それはそれで構いませんが、もっと他の人も信用してくれないと寂しいじゃないですか。そんなんじゃ友達だって減っちゃいますよ」
「……アカネ、お前」
アサザはぽかんと弟の顔を見る。
「お前に説教される日が来るとは思わなかったぜ。ったく、カッコ悪ィな」
自分を見つめる二対の真剣な眼差しに、アサザは大きく息を吐いた。ブドウはともかくとして、アカネにまでそこまで言われては、ささいなことで熱くなった自分を恥じざるを得ない。
兄としての威厳を取り戻すべく、アサザはがりがりと頭を掻きながら適当な言葉を探した。
「じゃ、聞いてくれるか。そんなに楽しい話ではないけどな」
そう前置きしてから、アサザは執務室であったことを二人に話した。中立地帯への援助打ち切りを聞いた時にブドウとアカネは顔を見合わせたが、結局最後まで口を挟まずにアサザの話を聞き終えた。
「俺は中立地帯とも国王領とも戦いたくない。だがこのままだと陛下の予測通り反乱は起こってしまうだろう。何とかなる方法はないか、それを今日は相談に来たんだ」
アサザが口を閉ざす頃、アカネの瞳は興奮できらきらしていた。
「……やっぱり兄上様はすごいなぁ。何でもお見通しだ」
「ん? どういうことだ?」
怪訝顔のアサザに我がことのように胸を張ったアカネが答える。
「今回倒れられる直前に、兄上様が同じようなことを言ってらしたんですよ。近いうちにそうなるだろうって」
「私が言うのも何だが、軍が動くことはアオイ様の本意ではないからな」
ブドウも小さく肩をすくめる。
「あの方のお考えは私には解らないが……どうやら今は”山の民”について調べられているようだ。アサザも気をつけておいてくれないか」
予想外の名前にアサザは目をしばたたかせた。
「”山の民”? 兄上は何だってまたそんなところを」
「さあ……まあ、キキョウ様がお亡くなりになられてからは互いにほとんど行き来がなくなっているからな。以前からお気にかけられていたご様子だったし、アオイ様なりに何か思うところがおありなのだろう」
「……確かに、あれ以来ぱったりと皇都では見かけなくなったよな、あそこの一族は」
その言葉が持つ微妙な含みに、ブドウははっと顔を上げた。
「すまん。アサザ、アカネ。失言だった」
「お前が謝る事じゃない」
言葉とは裏腹な感情を押し殺したような平坦な声で、アサザは言う。アカネはわずかに視線を伏せて、聞かないふりをしていた。
「そう……母上のことで謝らなきゃならんのは陛下だけだ」
「アサザ……」
ブドウの気遣わしげな視線を振り切るようにひとつ大きな息を吐いて、アサザは顔を上げた。
「さて。んじゃ俺は一旦部屋に戻るぜ。今言ったことは、もともとそう簡単に結論が出る話でもなし、愚痴だと思って聞き流してくれ。あ、メシの用意ができたら呼んでくれよ」
「あ……ああ」
「アカネも、寒稽古はほどほどにしとけよ。風邪なんか引いたら元も子もないんだからな」
「はーい」
アカネの返事を背中で聞いて、アサザが屋敷へ向かって歩き出した時だった。
「失礼致します。第三皇子殿下はいらっしゃいますか」
聞き覚えのあるその声にアサザが振り返ると、見たことのある顔がちょうど宮の門をくぐるところだった。
「侍従長じゃないか。一体どうしたんだい?」
そう言ったアカネの隣にブドウの姿を見つけて、侍従長は少し驚いたらしい。
「これはこれは。ブドウ殿もおられましたか」
「ああ、まあな」
「これはちょうど良かった。皇帝陛下よりお二人に勅命が下りました。謹んでお受けくださいますよう」
その場の空気に緊張が走った。気弱げな視線でちらりとアサザの顔色をうかがってから、侍従長は手にした二通の書状を広げた。
「そ、それではお読み致します」
「うん、頼む」
頷いたアカネに向けて、侍従長はおどおどと勅書を読み上げる。
「だ……『第三皇子アカネ、この者を皇帝軍将帥の職に任命する』との勅命です。続きまして、ええと……『皇帝軍副将帥ブドウ、この者はその職において新たに置かれた将帥の補佐を行うことを命ずる』とのことです。戦士アカザの名にかけて、偽りの言の無きことを誓うものであります。さ、ご確認を」
勅書を読み上げた後の決まり文句と共に本人たちに示された書状には、確かに読み上げられたものと同じ文面とアザミの署名が書き込まれていた。
「アカネが……将帥だと?」
アサザのかすれた声だけがその場に落ちる。よほど驚いたのか、当人たちに至っては一言もない。
「ちょ……勅命を拒否することはできません。ご存知かとは思いますが、そのことをお忘れなきよう」
一礼してそそくさと侍従長は去っていった。取り残された三人は、早くも夕闇が迫る庭でただ呆然と立ち尽くしていた。
「やはり中立地帯への援助は中止だ。担当の第三皇子にそう伝えろ」
「陛下ッ!!」
座っていた椅子を蹴り倒してアサザは立ち上がった。はずみで目の前の机に載った書類の山が雪崩を起こしたが、それには構わずに身を翻して奥の皇帝の執務机に向かう。
ここ数日、政務が重なり忙しかったせいで自分の宮にも帰っていない。しっかりした睡眠も取っていないため、目の下には濃くくまが浮いている。そんな姿のアサザの激しい剣幕に、指示を伝えようと退出しかけた侍従官がびくりと立ち止まった。左足を出しかけたまま固まっている侍従官の前を足音も荒く通り過ぎ、アサザは父帝の机に手のひらを叩きつける。代々の皇帝が使ってきた重厚な執務机がばん、と派手な音を立てた。
「ちょっと待って下さい。分かっているでしょうが、皇帝領からの食糧援助は中立地帯にとっては生命線なのですよ! そんな大問題をこんなに軽々しく決定して良いのですか! もっとよく考えてから——」
「皇都の戦士どもの給料は減らした。皇家の予算も削った。それでも皇帝領にさえ食が足りぬ。議論だの再考だのの余地はない」
ばさり、とアザミは手にした紙束を机の上に放り出した。そこにはアサザの机とは比較にならないほどたくさんの書類が積まれている。そのうちの一束を手に取ったアザミはすばやく文面に目を走らせる。アザミとてアサザと大差ない数日間を過ごしてきたはずだが、その速度は普段とほとんど変わっていない。
「それともお前は、自領を飢えさせても中立地帯へ援助を送れと言うのか?」
言葉に詰まったアサザはぐっと黙り込んだ。アザミの横顔を睨みつけていたその目が、ふと机の一点に向けられる。崩れかけた書類の山のてっぺんで、今にもずり落ちそうになっている紙束。先程アザミが放り出したまま半分めくれているそれを何とはなしに見たアサザの目がはっと大きくなる。
「これは……領内の食糧配分表!?」
アサザは紙束を掴み取り、慌ただしく頁をめくった。その手がぴたりと止まる。広げられた書類の一点を見つめるアサザの目に、わずかな光が宿った。
「軍に回す備蓄分が去年と変わってない。これを減らして不足分に充てれば……」
「馬鹿者が。それはできん」
アサザを一顧だにせずアザミが言う。
「近いうちに中立地帯では反乱が起きるのだからな」
「なっ……それはどういうことですか!」
「わからんのか?」
そう言ったアザミはようやくにアサザをじろりと睨み上げた。
「半年と少し前に再開されたばかりの援助を、また皇帝領の都合で止められるのだ。血の気の多い自警団が黙っているはずがなかろう」
斬りつけるようなアザミの眼光に怯みながら、それでもアサザは続ける。
「だったらなおさら止めるわけにはいかないでしょう。無用な争いは避けるべきです」
「偉そうなことを言う前に、もう一度その資料をよく見たらどうだ」
これ以上構ってられないとばかりにアサザから目を逸らし、アザミは手元の紙に何やら書き付けた。
「中立地帯は広い。たとえ今すぐ軍を解散して食糧を回したとしても援助分に足りるかどうか。援助援助とお前は簡単に言うが、そもそも中立地帯へ送る食糧は我が領の収穫の半分以上を占めているのだ。まして今年は酷暑の夏に早すぎる秋、厳しい冬が続いている。収穫量は去年の半分以下だ。そんな状況で他人の面倒までは見てられぬ」
アザミは顔を上げ、侍従長、と短く呼ぶ。飛んできた初老の男に手にした紙を突きつけ、アザミは鋭く命令を出す。この間、アサザには目もくれない。
「聞いての通りだ。反乱に備えて軍の再編をする。将帥に使えそうな者を調べてこい。もっとも、そう何人もいないだろうがな」
「しっ……!」
アサザは目を丸くした。
「陛下、将帥職は戦時にしか置かれない軍の最高役職ではないですか。こんな時期にそんなものが置かれたことが自警団に知られたら——」
「ふん。どうせ事は起こるのだ。同じことよ」
アサザはぎり、と奥歯を噛んだ。
「そんなこと——俺が、させません」
失礼します、と言い捨てて、アサザは足音高く執務室を出た。まだおろおろしていた最初の侍従官を睨みつけ、部屋から出ないよう威嚇してから扉を閉める。
しかし実際問題として、ああは言ったものの具体的にどうすればいいのかは全くわからない。執務室より数段冷え込みの厳しい廊下を歩きながら、アサザは苦い顔になった。
「くそっ……」
こういう時に誰よりも頼れるのはアオイだ。しかし病弱な兄はあの酷暑と早すぎる冬の到来でずっと体調を崩している。最近は病状も随分と落ち着いたが、それでも寝たり起きたりの生活が続いていた。精神的な負担はできるだけ避けるべき時、まして軍がらみの生臭い相談に乗ってもらえるような状態ではない。
熱くなった頭のままアサザは執務室のある宮を出、兄弟で住む自分の宮へと足を向けていた。兄上の体調が良かったら話だけでも聞いてもらおう、そう考えながら住み慣れた宮の門をくぐった時だった。
「——アサザ?」
横合いからいきなり声をかけられて、アサザは足を止めた。皇太子という身分になってから、アサザを呼び捨てにする人物は数えるほどしかいない。やはり、手入れの行き届いた前庭でアカネと一緒に立っていたのは、アサザにとってもなじみのある顔だった。
「ブドウ? 来てたのか」
軽く手を上げて応えたのは、アサザとそう背丈の変わらないほどに背の高い女性だった。褐色に焼けた肌に覆われた引き締まった身体が、今は動きやすい普段着と簡単な革鎧に包まれている。二十二歳という若い女性ながら板についたその姿は、さすがは平時における皇帝軍最高職にあたる副将帥を拝命している生粋の軍人というべきか。右手に持った木剣を見るに、どうやらアカネに稽古をつけているところだったらしい。
「久しぶりだな。元気かどうかは……聞くだけムダか」
「まーね。あんたこそ大丈夫かい? 慣れない公務で苦労してるだろ」
冬の午後の冷たい風の中にもかかわらず汗に濡れた赤茶の短髪を拭いながら、ブドウは若葉色の瞳をにや、と笑わせる。
「皇帝陛下のことは昔っから苦手にしてたからねぇ。ある意味私より手ごわい相手だろ?」
「まったくだ。お前相手に一本取るほうがどんなに楽か知れないぜ」
アサザは大げさに顔をしかめてみせた。それを見てブドウはからからと笑う。
「正直な奴だな。ま、全然変わってないようで安心はしたけどね」
「お前こそ全然変わってないな。ちょっとは変わらんと嫁の貰い手がなくなるぞ。そろそろいい歳なんだから」
「こんにゃろ、ほっといてくれよ」
口では怒ったように言っても、その言葉の中には常に笑いが含まれている。以前と変わらないブドウの態度に、いつの間にかアサザも執務室でのもやもやを忘れていた。特に何をするわけでもないのだが、ブドウの傍はいつも居心地がいい。だからこそアサザを含めた兄弟全員が仲良くやっていけるのだろう。
ブドウは皇帝領の戦士の中でも二番目に位が高い家柄・グースフット家の出身だ。赤茶の髪と若葉色の瞳はその血筋を濃く映し出している。黒髪黒目の人々が大半のこの島国では、ブドウのような姿はかなり目立つ。外来の祖先を持つ証左でもある色つきの髪や瞳はこの国ではとても少なく、特別な扱いを受ける一族が多い。その代表的な例が王家であると言える。
グースフット一族の場合は、初代戦士アカザの右腕として活躍した同名の猛将が始祖にあたる。王家による島国の統一以来、後の皇帝家に寄り添うように続いてきた家柄だ。いわば皇帝家の生粋の家臣であるわけだが、アサザとブドウの間にはそんな堅苦しいものは存在しない。
平たく言うなら、好敵手だった。お互いがお互いにだけ、一回も勝てたことがない。手合わせはいつも引き分けだった。その実力は双方認め合うところ、いつしか意気投合した二人の交流はアサザの兄弟も含めたものに発展していた。
「それはそうとアサザ、アカネがな……」
秘密を打ち明けるようにブドウが声を低くした。
「街の酒場の話をしてから、連れてってくれってうるさいんだよ。どうにかしてくれないか」
何を相談されるのかと思いきや。アサザは呆れ顔を隠さずにブドウの顔を見た。
「んなこといわれても……そもそもお前がそんなコト話すから悪いんだろうが」
「あっブドウ、それは兄上たちには秘密だって約束したじゃないか!」
猛抗議を始めたアカネの頭をアサザはぽんぽんと叩く。
「こら、お前には酒場なんざ十年早い。まだガキなんだからな」
「そういう兄上はどうなんです。知ってるんですよ、兄上が十四の時に倉の食べ物と酒かっぱらって家出未遂を起こしたこと」
「あん時の俺は堂々としてただろが。お前みたいにコソコソ秘密だ何だと言ってるうちはまだまだガキだってんだ。やーい」
「うー」
悔しがるアカネに苦笑して、ブドウはアサザに目を向ける。
「それよりアサザ、何か用事があって帰ってきたんじゃないのか?」
「ああ、そうだった。兄上に会えるなら、ちょっと話がしたかったんだが……ん、どうした?」
何気なく出したアオイの名前にアカネとブドウの顔が曇るのを見て、アサザの胸にも嫌な予感が広がっていく。
「おい、もしかして——」
「ああ。二日前から熱が下がられなくてな。今、お会いすることはできない」
「お前……!!」
すいと目を逸らしたブドウに、アサザは足音荒く詰め寄った。
「二日前だと!? 知ってたなら何で使いをよこさなかった! こないだの夏以来兄上のお加減がずっと悪いのはお前も知ってただろう!!」
「兄上、やめてください! 兄上に知らせなかったのは政務の邪魔をしてはいけないと兄上様がおっしゃったからなんです! ブドウは兄上様が倒れられた日にたまたま遊びに来ていただけなのに、ずっと付き添っていてくれたんですよ!」
腕にすがりついたアカネの身体の重さで、アサザは何とか自制心を保つ。波立った気持ちを鎮めがら、改めてブドウの様子を眺めてみる。うなだれた肩、伏せた瞳。先程は気づかなかったが、その目の下はアサザと同じようにうっすらと黒ずんでいる。気のせいか頬のあたりもやつれているようだ。生粋の軍人であるブドウにとって、病人の看護などという普段やり慣れていない種類の作業は大変だったに違いない。黙ったままアサザの視線を受け止めているブドウの姿を見て、アサザの肩から自然に力が抜けていく。
「……悪かった、ブドウ」
「いいさ、気にするな」
がっくりと落ちたアサザの肩をブドウの手が軽く叩く。
「私もあんたと同じ立場なら多分怒るだろうしね。でもま、よく確認もしないでそれをぶつけるようじゃ、まだまだ大人とは言えないんじゃないかな?」
「なっ……なんで話がそこにつながるんだよ!? 関係ないじゃないか!!」
アサザの抗議をブドウは笑って受け流す。その目がふっと笑いを消した。
「ま、それはともかくだ。アオイ様ほど頼りにはならないかもしれないが、私でよければ話くらいは聞いてやるぞ?」
「そうですよ。僕らだって何かの手助けはできるかもしれないんですからね」
ここぞとばかりにアカネも口を尖らせて自己主張する。
「大体兄上は兄上様に頼りすぎなんです。それはそれで構いませんが、もっと他の人も信用してくれないと寂しいじゃないですか。そんなんじゃ友達だって減っちゃいますよ」
「……アカネ、お前」
アサザはぽかんと弟の顔を見る。
「お前に説教される日が来るとは思わなかったぜ。ったく、カッコ悪ィな」
自分を見つめる二対の真剣な眼差しに、アサザは大きく息を吐いた。ブドウはともかくとして、アカネにまでそこまで言われては、ささいなことで熱くなった自分を恥じざるを得ない。
兄としての威厳を取り戻すべく、アサザはがりがりと頭を掻きながら適当な言葉を探した。
「じゃ、聞いてくれるか。そんなに楽しい話ではないけどな」
そう前置きしてから、アサザは執務室であったことを二人に話した。中立地帯への援助打ち切りを聞いた時にブドウとアカネは顔を見合わせたが、結局最後まで口を挟まずにアサザの話を聞き終えた。
「俺は中立地帯とも国王領とも戦いたくない。だがこのままだと陛下の予測通り反乱は起こってしまうだろう。何とかなる方法はないか、それを今日は相談に来たんだ」
アサザが口を閉ざす頃、アカネの瞳は興奮できらきらしていた。
「……やっぱり兄上様はすごいなぁ。何でもお見通しだ」
「ん? どういうことだ?」
怪訝顔のアサザに我がことのように胸を張ったアカネが答える。
「今回倒れられる直前に、兄上様が同じようなことを言ってらしたんですよ。近いうちにそうなるだろうって」
「私が言うのも何だが、軍が動くことはアオイ様の本意ではないからな」
ブドウも小さく肩をすくめる。
「あの方のお考えは私には解らないが……どうやら今は”山の民”について調べられているようだ。アサザも気をつけておいてくれないか」
予想外の名前にアサザは目をしばたたかせた。
「”山の民”? 兄上は何だってまたそんなところを」
「さあ……まあ、キキョウ様がお亡くなりになられてからは互いにほとんど行き来がなくなっているからな。以前からお気にかけられていたご様子だったし、アオイ様なりに何か思うところがおありなのだろう」
「……確かに、あれ以来ぱったりと皇都では見かけなくなったよな、あそこの一族は」
その言葉が持つ微妙な含みに、ブドウははっと顔を上げた。
「すまん。アサザ、アカネ。失言だった」
「お前が謝る事じゃない」
言葉とは裏腹な感情を押し殺したような平坦な声で、アサザは言う。アカネはわずかに視線を伏せて、聞かないふりをしていた。
「そう……母上のことで謝らなきゃならんのは陛下だけだ」
「アサザ……」
ブドウの気遣わしげな視線を振り切るようにひとつ大きな息を吐いて、アサザは顔を上げた。
「さて。んじゃ俺は一旦部屋に戻るぜ。今言ったことは、もともとそう簡単に結論が出る話でもなし、愚痴だと思って聞き流してくれ。あ、メシの用意ができたら呼んでくれよ」
「あ……ああ」
「アカネも、寒稽古はほどほどにしとけよ。風邪なんか引いたら元も子もないんだからな」
「はーい」
アカネの返事を背中で聞いて、アサザが屋敷へ向かって歩き出した時だった。
「失礼致します。第三皇子殿下はいらっしゃいますか」
聞き覚えのあるその声にアサザが振り返ると、見たことのある顔がちょうど宮の門をくぐるところだった。
「侍従長じゃないか。一体どうしたんだい?」
そう言ったアカネの隣にブドウの姿を見つけて、侍従長は少し驚いたらしい。
「これはこれは。ブドウ殿もおられましたか」
「ああ、まあな」
「これはちょうど良かった。皇帝陛下よりお二人に勅命が下りました。謹んでお受けくださいますよう」
その場の空気に緊張が走った。気弱げな視線でちらりとアサザの顔色をうかがってから、侍従長は手にした二通の書状を広げた。
「そ、それではお読み致します」
「うん、頼む」
頷いたアカネに向けて、侍従長はおどおどと勅書を読み上げる。
「だ……『第三皇子アカネ、この者を皇帝軍将帥の職に任命する』との勅命です。続きまして、ええと……『皇帝軍副将帥ブドウ、この者はその職において新たに置かれた将帥の補佐を行うことを命ずる』とのことです。戦士アカザの名にかけて、偽りの言の無きことを誓うものであります。さ、ご確認を」
勅書を読み上げた後の決まり文句と共に本人たちに示された書状には、確かに読み上げられたものと同じ文面とアザミの署名が書き込まれていた。
「アカネが……将帥だと?」
アサザのかすれた声だけがその場に落ちる。よほど驚いたのか、当人たちに至っては一言もない。
「ちょ……勅命を拒否することはできません。ご存知かとは思いますが、そのことをお忘れなきよう」
一礼してそそくさと侍従長は去っていった。取り残された三人は、早くも夕闇が迫る庭でただ呆然と立ち尽くしていた。
今日も王都の空は冬晴れだった。冬の光特有の透き通った光に満ちた執務室で、レンギョウは書類に印を捺す手を止めた。
「何事であろうか……ともかく、通してくれ」
大急ぎで残りの仕事を片付け、休憩用のテーブルに茶器の用意をさせている間に、シオンが姿を現した。笑ってはいるが、その顔に以前のような元気はない。
「久しぶりだのう。長を継いだ挨拶の時以来だから、もう半年も無沙汰をしておったのか。ススキやウイキョウなどは息災か?」
「ええ。みんな元気よ、今のところはね。それよりもレン、今お仕事中だったんでしょ? 邪魔しちゃってごめんね」
「気にするな。ちょうど一息入れようと思っていたところだったのだ。それよりおぬしこそ、この半年慣れない仕事ばかりで大変だったであろう。そうゆっくりもできんのだろうが、羽を伸ばしていってくれ」
「ありがと。でも、そうも言ってられないのよ」
勧められるままに椅子に座ったシオンは、溜め息をついてレンギョウの顔を見た。
「皇帝領からね……また、食べ物を配るのをやめるっていう知らせが来たの」
「何?」
目の前に置かれた茶や菓子を手に取ろうともせず、シオンは続ける。
「ほら……今年の夏、すごく暑かったじゃない? そのくせ雨は全然降らなかったし。で、いきなり寒くなったと思ったらあっという間に雪が降って。ただでさえ少なかった作物が、それでほとんどダメになっちゃったみたい。皇帝領に回す分だけでいっぱいいっぱいで、中立地帯へ配る余裕はなくなっちゃったらしいわ」
「しかし、理由があるからと言って納得できることでもあるまい」
レンギョウの言葉にシオンは肩をすくめた。
「ま、ね。こっちは生活がかかってるわけだし、困るわよ。ただ、これはスギからの連絡で分かったことで、皇帝領側の正式な発表はまだなのよね。ひょっとすると、正式発表の前に取りやめになるかもしれないけれど……」
「残念ながら、それはありません」
口を挟んだ声はコウリのものだ。執務室の扉をくぐり、レンギョウに向けて会釈する。
「久しぶりに中立地帯からの来客があったと聞いてきたのですが……やはり、その話でしたか」
立ち上がりかけたシオンを制して、レンギョウは訝しげに目を細めた。
「やはり……とはどういうことだ?」
「はい。今しがた、皇帝領から書状が届きました。これを持ってきた使者が、同じようなことを言っていましたので」
「ふむ。で、その書状は?」
「こちらに」
受け取った書状の封を開け、レンギョウはざっと目を通した。
「これから来年の秋まで、中立地帯への援助は見送るとのことだ」
「やっぱり……」
シオンが天井を仰ぐ。レンギョウはしばらく考えた後、コウリに目を向けた。
「これを持ってきた者はまだおるのか?」
「はい」
「では、余の返事を持ち帰るよう申しつけよ。コウリ、おぬしは皇帝宛に書状を作れ。国王領とて余裕があるわけではないが、王家と貴族に使う予算を少々削れば一年くらいは中立地帯を援助できよう。他意はないゆえ了承を求むと」
「しかしレンギョウ様……」
レンギョウはちらりとシオンに目を向けた。
「余は頼ってくれた者をみすみす見殺しにはできぬ。それに、元々王家と貴族には予算を割きすぎなのだ。数が少ないのだから、それにあわせて予算も少なくすれば良いではないか」
「……レンギョウ様がそうおっしゃるのなら」
しぶしぶといった面持ちで、コウリが頷く。心配顔のシオンがおずおずと口を開いた。
「レン、助けてくれるのはすごくありがたいけど、ホントに大丈夫なの?」
「うむ。貴族たちは余が説得する。皇帝にしても、振る袖がないと言っているのはあちらなのだからのう。自分の領土で手がふさがっておる時に揉め事を起こすこともあるまい」
「……レン、もう一つ報告しなきゃならないことがあるの」
珍しく言いずらそうに言葉を選ぶシオンに、レンギョウとコウリは顔を見合わせる。
「スギからの報告には続きがあってね……実は、中立地帯に援助できないのには不作以外にも理由があるのよ」
「不作以外の理由というと……まさか」
息を呑むコウリにシオンは頷いた。
「皇帝が将帥を指名したそうよ。任命されたのは第三皇子のアカネ、アサザの弟。中立地帯へ手が回らないのは、援助より軍の強化を優先したからだって、スギの手紙には書いてあった。それに今の皇都は警備がすごく厳重で、連絡するのも大変なの。スギの連絡も途切れがちだしね」
コウリがレンギョウに向き直った。
「レンギョウ様、皇帝が将帥を置くなど戦を視野に入れているとしか考えられません。皇都がそのような状況であるのなら、こちらもそれなりの準備をしなければ。皇帝への返事は今しばらく、お待ちになられますよう」
「……いや」
しばらく考え込んでいたレンギョウは、かぶりを振って立ち上がった。
「恐らく皇帝が進めている軍の強化は、中立地帯での反乱への対策であろう。援助を打ち切れば今度こそ反乱が起きる、そう踏んでのことだと思うが」
そのままレンギョウは部屋を横切り、壁にかかった地図へ歩み寄る。
「ならば反乱が起こる前に食糧を配り、心配の芽を摘み取ってしまえばよかろう。準備だの対策だのと時間を費やしている間に事が起こっては元も子もない。すぐに手を打ち、食糧を中立地帯へと運ぶのだ」
「しかしレンギョウ様! 皇帝は戦の口実を作っているとしか思えませぬ!!」
コウリの剣幕に、シオンがびくりと身をすくませる。レンギョウは地図を見上げたままだ。
「……仮にそうだとしても、余はこの国の王なのだ」
レンギョウはゆっくりと振り返った。細い肩越しに、島国の地図が見える。
「実権こそ皇帝に譲っても、この国の王が余である限り、民の暮らしは余が守らねばならぬのだ。飢える民には王室の蔵を開け、防ぐことのできる反乱は防ぐ。今年の異常な天気は誰もが知るところ。あちらが特別ゆえに援助を打ち切ったのだとしたら、こちらも特別ゆえに急遽援助したのだと言えばよい。そうではないか?」
「レンギョウ様……」
「レン……」
治める国を背負った王の顔のまま、レンギョウは二人の顔を見据えた。
「向こう一年間の中立地帯への援助は、国王レンギョウがすべての責を負って行う。良いな、コウリ」
「何事であろうか……ともかく、通してくれ」
大急ぎで残りの仕事を片付け、休憩用のテーブルに茶器の用意をさせている間に、シオンが姿を現した。笑ってはいるが、その顔に以前のような元気はない。
「久しぶりだのう。長を継いだ挨拶の時以来だから、もう半年も無沙汰をしておったのか。ススキやウイキョウなどは息災か?」
「ええ。みんな元気よ、今のところはね。それよりもレン、今お仕事中だったんでしょ? 邪魔しちゃってごめんね」
「気にするな。ちょうど一息入れようと思っていたところだったのだ。それよりおぬしこそ、この半年慣れない仕事ばかりで大変だったであろう。そうゆっくりもできんのだろうが、羽を伸ばしていってくれ」
「ありがと。でも、そうも言ってられないのよ」
勧められるままに椅子に座ったシオンは、溜め息をついてレンギョウの顔を見た。
「皇帝領からね……また、食べ物を配るのをやめるっていう知らせが来たの」
「何?」
目の前に置かれた茶や菓子を手に取ろうともせず、シオンは続ける。
「ほら……今年の夏、すごく暑かったじゃない? そのくせ雨は全然降らなかったし。で、いきなり寒くなったと思ったらあっという間に雪が降って。ただでさえ少なかった作物が、それでほとんどダメになっちゃったみたい。皇帝領に回す分だけでいっぱいいっぱいで、中立地帯へ配る余裕はなくなっちゃったらしいわ」
「しかし、理由があるからと言って納得できることでもあるまい」
レンギョウの言葉にシオンは肩をすくめた。
「ま、ね。こっちは生活がかかってるわけだし、困るわよ。ただ、これはスギからの連絡で分かったことで、皇帝領側の正式な発表はまだなのよね。ひょっとすると、正式発表の前に取りやめになるかもしれないけれど……」
「残念ながら、それはありません」
口を挟んだ声はコウリのものだ。執務室の扉をくぐり、レンギョウに向けて会釈する。
「久しぶりに中立地帯からの来客があったと聞いてきたのですが……やはり、その話でしたか」
立ち上がりかけたシオンを制して、レンギョウは訝しげに目を細めた。
「やはり……とはどういうことだ?」
「はい。今しがた、皇帝領から書状が届きました。これを持ってきた使者が、同じようなことを言っていましたので」
「ふむ。で、その書状は?」
「こちらに」
受け取った書状の封を開け、レンギョウはざっと目を通した。
「これから来年の秋まで、中立地帯への援助は見送るとのことだ」
「やっぱり……」
シオンが天井を仰ぐ。レンギョウはしばらく考えた後、コウリに目を向けた。
「これを持ってきた者はまだおるのか?」
「はい」
「では、余の返事を持ち帰るよう申しつけよ。コウリ、おぬしは皇帝宛に書状を作れ。国王領とて余裕があるわけではないが、王家と貴族に使う予算を少々削れば一年くらいは中立地帯を援助できよう。他意はないゆえ了承を求むと」
「しかしレンギョウ様……」
レンギョウはちらりとシオンに目を向けた。
「余は頼ってくれた者をみすみす見殺しにはできぬ。それに、元々王家と貴族には予算を割きすぎなのだ。数が少ないのだから、それにあわせて予算も少なくすれば良いではないか」
「……レンギョウ様がそうおっしゃるのなら」
しぶしぶといった面持ちで、コウリが頷く。心配顔のシオンがおずおずと口を開いた。
「レン、助けてくれるのはすごくありがたいけど、ホントに大丈夫なの?」
「うむ。貴族たちは余が説得する。皇帝にしても、振る袖がないと言っているのはあちらなのだからのう。自分の領土で手がふさがっておる時に揉め事を起こすこともあるまい」
「……レン、もう一つ報告しなきゃならないことがあるの」
珍しく言いずらそうに言葉を選ぶシオンに、レンギョウとコウリは顔を見合わせる。
「スギからの報告には続きがあってね……実は、中立地帯に援助できないのには不作以外にも理由があるのよ」
「不作以外の理由というと……まさか」
息を呑むコウリにシオンは頷いた。
「皇帝が将帥を指名したそうよ。任命されたのは第三皇子のアカネ、アサザの弟。中立地帯へ手が回らないのは、援助より軍の強化を優先したからだって、スギの手紙には書いてあった。それに今の皇都は警備がすごく厳重で、連絡するのも大変なの。スギの連絡も途切れがちだしね」
コウリがレンギョウに向き直った。
「レンギョウ様、皇帝が将帥を置くなど戦を視野に入れているとしか考えられません。皇都がそのような状況であるのなら、こちらもそれなりの準備をしなければ。皇帝への返事は今しばらく、お待ちになられますよう」
「……いや」
しばらく考え込んでいたレンギョウは、かぶりを振って立ち上がった。
「恐らく皇帝が進めている軍の強化は、中立地帯での反乱への対策であろう。援助を打ち切れば今度こそ反乱が起きる、そう踏んでのことだと思うが」
そのままレンギョウは部屋を横切り、壁にかかった地図へ歩み寄る。
「ならば反乱が起こる前に食糧を配り、心配の芽を摘み取ってしまえばよかろう。準備だの対策だのと時間を費やしている間に事が起こっては元も子もない。すぐに手を打ち、食糧を中立地帯へと運ぶのだ」
「しかしレンギョウ様! 皇帝は戦の口実を作っているとしか思えませぬ!!」
コウリの剣幕に、シオンがびくりと身をすくませる。レンギョウは地図を見上げたままだ。
「……仮にそうだとしても、余はこの国の王なのだ」
レンギョウはゆっくりと振り返った。細い肩越しに、島国の地図が見える。
「実権こそ皇帝に譲っても、この国の王が余である限り、民の暮らしは余が守らねばならぬのだ。飢える民には王室の蔵を開け、防ぐことのできる反乱は防ぐ。今年の異常な天気は誰もが知るところ。あちらが特別ゆえに援助を打ち切ったのだとしたら、こちらも特別ゆえに急遽援助したのだと言えばよい。そうではないか?」
「レンギョウ様……」
「レン……」
治める国を背負った王の顔のまま、レンギョウは二人の顔を見据えた。
「向こう一年間の中立地帯への援助は、国王レンギョウがすべての責を負って行う。良いな、コウリ」
皇帝アザミの許に中立地帯との境近辺を守る皇帝軍の急使が駆け込んできたのは、凍てついた風が吹く寒い午後のことだった。アザミと共に報せを聞きながら、アサザは顔から血の気が引いていくのを感じていた。
皇帝領との境にある中立地帯の村で、民の暴動が起こった。きっかけは、皇帝軍の倉庫に食糧が運び込まれるのを見た中立地帯の住人の一言。
「戦士に食わすメシはあっても、俺らに食わす分はないってか。ご自分のお食事を減らしてまで食糧を配ってくれた聖王様とはえらい違いだな」
その男は随分酔っていたらしい。片手に持った安酒の空き瓶を軍の兵士たちに投げつけてわめいた男はすぐに捕らえられた。通常なら酒が抜けるまで牢屋に放り込み、適当に懲らしめてから放免となるところだが、今は時期が悪かった。第三皇子アカネが将帥になってから一か月、十年ぶりの戦時とあって兵たちの気は立っていた。
分けてもその村の兵たちを束ねる兵隊長は、中立地帯の民たちを常に疑っていたらしい。捕らえられた男はすぐさま兵隊長の前へと引っ立てられ、裁判が始まった。一刻も経たないうちに男は自警団の間者だという決定が出された。国王の良い印象を村人に与え、皇帝への反感を煽ったというのが主な根拠だった。男に弁解の機会などはなく、一方的に罪は確定した。
間諜は見つけ次第死刑に処す。戦時特例に基づいて、村人の見守る中で男の処刑が始まった。皇帝軍の兵士が罪状を読み上げ、処刑人が斧を振りかざす。その時、取り囲んだ村人たちから石が飛んだ。
「酔っ払いのたわごとに、間者も何もないだろうが! そんなに俺たちをいたぶるのが楽しいか!!」
誰かが叫んだ。するとそれに続くように、兵士へ四方から石や砂が投げつけられた。
「そうだそうだ! こんな処刑、でっち上げだ!!」
「ロクに俺たちのことを考えていないくせに、こんなところでばかり威張りやがって!」
声が大きくなると共に、兵士たちを囲んだ輪が狭まった。村人の一人が罪状を持った兵士に飛び掛かる。それを皮切りに、混乱は一気に広まった。
しかし騒動はそう長くは続かなかった。処刑場の様子を見ていた兵隊長が待機していた兵を出して鎮圧したのだ。死者こそ出なかったものの、皇帝軍によって捕縛された者は十数人に上った。今回の急使は、処理に困った兵隊長が出したものだったのだ。
大して興味がなさそうに話を聞いていたアザミは、一通り使者の報告が終わると面倒くさげに尋ねた。
「……で、その兵隊長は捕らえた村人をまだ生かしているのだな?」
「は、はい」
「ならば良い。村人は生かしておけ。殺せば無用な面倒が起こる。最初の酔っ払いとやらも同様だ」
「はっ」
犠牲者がいないと知って、アサザはほっと胸を撫で下ろす。しかしアザミは、かしこまったままの使者に向けて薄く笑みを浮かべて見せた。
「それと、その兵隊長は降格だ。ろくに審議もせずに処刑をしようなど、愚か者の極みだからな」
上官の処遇に驚いている様子の使者を、楽しそうにアザミが見やる。
「部下のお前からは伝えづらかろうが、余の命令だと言えば問題はあるまい。ときに——」
アザミは身を乗り出した。
「村人どもが王都の小僧の名前を出したというのは本当か?」
アサザの心臓が跳ね上がる。アザミがどういうつもりなのかはわからないが、レンギョウのことで父が好意的なことを考えるはずがない。
「陛下、それこそ酔った勢いでの戯言でしょう。そのようなことを問題にするより、新しい兵隊長に誰を充てるかご指示された方が」
「使者よ。どうなのだ」
アサザを完全に無視して、アザミは問いを重ねる。ためらいながらも、使者は頷いた。
「は……はい。最初のきっかけを作りました酔っ払いと捕縛された数人が、国王の名前を呼んでおりました。国王ならばこのようなことは許さないはずだ、などとわめいておりましたが」
「ふん」
態度とは裏腹に、アザミの顔は笑っていた。それを見たアサザの背筋に寒気が走る。
「陛下」
アサザの呼びかけを遮って、アザミは席を立った。
「皇太子よ。第三皇子と副将帥に出陣の用意をするよう伝えろ。どうやら中立地帯には小僧へ期待する者がかなりいるらしい。将来余の手を噛むかも知れぬ者どもだ。そういう手合いは少々懲らしめてやらんとな」
「しかし陛下! そのような理由で軍を動かせば——」
「皇太子」
ゆっくりとアザミは振り返った。研ぎ澄まされた刃のような眼光がアサザを貫く。
「余が、皇帝だ。忘れるな」
言って、アザミは自室へと続く扉へと足を向けた。
「早く行け。余は気が長いほうではない」
「は、はっ!!」
慌てた使者がすぐに廊下へと駆けていく。拳を握り締めながら、アサザは父帝が扉の向こうへ姿を消すのを睨みつけていた。
「戦士に食わすメシはあっても、俺らに食わす分はないってか。ご自分のお食事を減らしてまで食糧を配ってくれた聖王様とはえらい違いだな」
その男は随分酔っていたらしい。片手に持った安酒の空き瓶を軍の兵士たちに投げつけてわめいた男はすぐに捕らえられた。通常なら酒が抜けるまで牢屋に放り込み、適当に懲らしめてから放免となるところだが、今は時期が悪かった。第三皇子アカネが将帥になってから一か月、十年ぶりの戦時とあって兵たちの気は立っていた。
分けてもその村の兵たちを束ねる兵隊長は、中立地帯の民たちを常に疑っていたらしい。捕らえられた男はすぐさま兵隊長の前へと引っ立てられ、裁判が始まった。一刻も経たないうちに男は自警団の間者だという決定が出された。国王の良い印象を村人に与え、皇帝への反感を煽ったというのが主な根拠だった。男に弁解の機会などはなく、一方的に罪は確定した。
間諜は見つけ次第死刑に処す。戦時特例に基づいて、村人の見守る中で男の処刑が始まった。皇帝軍の兵士が罪状を読み上げ、処刑人が斧を振りかざす。その時、取り囲んだ村人たちから石が飛んだ。
「酔っ払いのたわごとに、間者も何もないだろうが! そんなに俺たちをいたぶるのが楽しいか!!」
誰かが叫んだ。するとそれに続くように、兵士へ四方から石や砂が投げつけられた。
「そうだそうだ! こんな処刑、でっち上げだ!!」
「ロクに俺たちのことを考えていないくせに、こんなところでばかり威張りやがって!」
声が大きくなると共に、兵士たちを囲んだ輪が狭まった。村人の一人が罪状を持った兵士に飛び掛かる。それを皮切りに、混乱は一気に広まった。
しかし騒動はそう長くは続かなかった。処刑場の様子を見ていた兵隊長が待機していた兵を出して鎮圧したのだ。死者こそ出なかったものの、皇帝軍によって捕縛された者は十数人に上った。今回の急使は、処理に困った兵隊長が出したものだったのだ。
大して興味がなさそうに話を聞いていたアザミは、一通り使者の報告が終わると面倒くさげに尋ねた。
「……で、その兵隊長は捕らえた村人をまだ生かしているのだな?」
「は、はい」
「ならば良い。村人は生かしておけ。殺せば無用な面倒が起こる。最初の酔っ払いとやらも同様だ」
「はっ」
犠牲者がいないと知って、アサザはほっと胸を撫で下ろす。しかしアザミは、かしこまったままの使者に向けて薄く笑みを浮かべて見せた。
「それと、その兵隊長は降格だ。ろくに審議もせずに処刑をしようなど、愚か者の極みだからな」
上官の処遇に驚いている様子の使者を、楽しそうにアザミが見やる。
「部下のお前からは伝えづらかろうが、余の命令だと言えば問題はあるまい。ときに——」
アザミは身を乗り出した。
「村人どもが王都の小僧の名前を出したというのは本当か?」
アサザの心臓が跳ね上がる。アザミがどういうつもりなのかはわからないが、レンギョウのことで父が好意的なことを考えるはずがない。
「陛下、それこそ酔った勢いでの戯言でしょう。そのようなことを問題にするより、新しい兵隊長に誰を充てるかご指示された方が」
「使者よ。どうなのだ」
アサザを完全に無視して、アザミは問いを重ねる。ためらいながらも、使者は頷いた。
「は……はい。最初のきっかけを作りました酔っ払いと捕縛された数人が、国王の名前を呼んでおりました。国王ならばこのようなことは許さないはずだ、などとわめいておりましたが」
「ふん」
態度とは裏腹に、アザミの顔は笑っていた。それを見たアサザの背筋に寒気が走る。
「陛下」
アサザの呼びかけを遮って、アザミは席を立った。
「皇太子よ。第三皇子と副将帥に出陣の用意をするよう伝えろ。どうやら中立地帯には小僧へ期待する者がかなりいるらしい。将来余の手を噛むかも知れぬ者どもだ。そういう手合いは少々懲らしめてやらんとな」
「しかし陛下! そのような理由で軍を動かせば——」
「皇太子」
ゆっくりとアザミは振り返った。研ぎ澄まされた刃のような眼光がアサザを貫く。
「余が、皇帝だ。忘れるな」
言って、アザミは自室へと続く扉へと足を向けた。
「早く行け。余は気が長いほうではない」
「は、はっ!!」
慌てた使者がすぐに廊下へと駆けていく。拳を握り締めながら、アサザは父帝が扉の向こうへ姿を消すのを睨みつけていた。
凶報はスギの働きによって、直ちに王都へ届けられた。
中立地帯への食糧援助を口実にした王都への宣戦であれば、回避するための方策は用意していた。しかし、食糧援助を行うことによって高まった国王の人気を理由に中立地帯を伐つのは完全に想定外だった。苦い気持ちで、レンギョウは遠く北の空を見やった。その空の下、皇都にいるはずの友も今、同じように苦い焦燥を抱いているのだろうか。
「レン」
気遣わしげな声に、レンギョウは我に返った。慌てて見つめていた窓から目を離し、斜め前に座ったシオンに向き直る。
ここは王宮の会議室。皇帝軍への対策を練るための重要な会議中だ。首座にいるレンギョウが余所見をすることは許されない。
「あ、ああ。すまぬ。少しぼうっとしていたようだ。して、皇帝軍についてだが、こちらに向かっている兵の数は分かっておるのか?」
「数はおよそ五万と思われる」
答えたのはシオンの隣に座ったススキだった。
「皇帝領が持つ兵力を考えると、少ないと言ってもいい数だ。スギも、食糧や水などの物資をそう多くは用意していないと報告している。皇帝は短期決戦を望んでいるとみて間違いないだろう」
「皇帝が何を望もうと勝手です。しかし我々には戦う意思はありません。そのことはあなた方自警団に以前お伝えしたとおりです」
レンギョウの隣に控えていたコウリが言う。
「あなた方貴族に戦うつもりがなくとも、我ら中立地帯の民は既に心を決めている」
重い声で反論したのはウイキョウだ。苦しげな表情で、シオンも頷く。
「中立地帯の人々は王都に集まり始めているわ。ここなら聖王——レン、あなたが守ってくれると信じて」
机の上のシオンの手が、白くなるほどきつく握り締められている。
「それにね、自警団の本拠地に武器を持って志願してくる人もいるわ。皇帝や皇帝軍の勝手を、聖王様がお許しになるはずがない、いずれ兵を起こされるのなら力になりたい、って」
俯いたまま、シオンは低い声で言った。
「お願い、レン。もう私には中立地帯の心は止められない。あなたが思っている以上に”聖王”の名前は強い力を持っているのよ」
シオン以外の全員の視線の中、レンギョウはしばし瞑目した。
このまま無抵抗を続ければ、確実に中立地帯に住む多くの民が皇帝軍の犠牲となる。口実がレンギョウへの人望であるなら、たくさんの民が逃げ込んだこの王都もただでは済まないだろう。皇都にはまだ兵力が温存されている。いざ王都攻めとなれば順次兵士を送り込まれることとなるのは確実だ。
さすがに王都を攻められては、レンギョウとて黙っているわけにはいかない。その時には兵を募り、戦わざるを得ない。
将来的に見て、どの道戦うのであれば犠牲は少ないに越したことはない。それに今なら、”聖王”の支持者という士気の高い戦力が王都にはたくさんいる。
「……コウリ、貴族の中で使える者はどれ位おったかのう?」
「は……しかし、レンギョウ様」
珍しく驚いた顔をしている側役に、レンギョウはかすかに笑って見せた。
「このまま放置しておけば、そのうち王都も攻められよう。ならば早く態勢を整えて守りに入らねばなるまい。余は余の民を一人たりとも無駄に失いたくはない」
自警団の面々にも顔を向けて、レンギョウは言葉を続けた。
「おぬしらの力も貸してくれ。都の中におる中立地帯の民たちの世話は任せる。望む者は余の兵として登用して構わぬ」
「でもレン……いいの?」
戸惑った声はシオンのものだ。
「あんなに戦いはいやだって言ってたのに。本当にいいの?」
「……仕方あるまい。他に選択肢はないのだからのう」
がたり、と音を立ててレンギョウは椅子から立ち上がった。
「知っての通り、余はこの国の国王だ。民を守る義務がある」
席に着いたままの四人を見回して、レンギョウは宣言した。
「この戦い、相手の真の狙いは余である。余が直接出てゆけば少ない犠牲で済むであろう。犠牲を最小限にするため、此度の戦いは余の親征とする。参謀はコウリ、おぬしに任す。実働部隊は自警団、おぬしらに一任しよう。それとは別に、余直属の魔法部隊——貴族で編成した特別部隊を作る。詳細は追って指示を出す。それまでは各々の任務を果たしてもらいたい。頼んだぞ」
王都の辻ごとに兵士募集の紙が貼られたのはその一日後のことだった。都の人々はその前に群がり、深いため息をついた。
中立地帯への食糧援助を口実にした王都への宣戦であれば、回避するための方策は用意していた。しかし、食糧援助を行うことによって高まった国王の人気を理由に中立地帯を伐つのは完全に想定外だった。苦い気持ちで、レンギョウは遠く北の空を見やった。その空の下、皇都にいるはずの友も今、同じように苦い焦燥を抱いているのだろうか。
「レン」
気遣わしげな声に、レンギョウは我に返った。慌てて見つめていた窓から目を離し、斜め前に座ったシオンに向き直る。
ここは王宮の会議室。皇帝軍への対策を練るための重要な会議中だ。首座にいるレンギョウが余所見をすることは許されない。
「あ、ああ。すまぬ。少しぼうっとしていたようだ。して、皇帝軍についてだが、こちらに向かっている兵の数は分かっておるのか?」
「数はおよそ五万と思われる」
答えたのはシオンの隣に座ったススキだった。
「皇帝領が持つ兵力を考えると、少ないと言ってもいい数だ。スギも、食糧や水などの物資をそう多くは用意していないと報告している。皇帝は短期決戦を望んでいるとみて間違いないだろう」
「皇帝が何を望もうと勝手です。しかし我々には戦う意思はありません。そのことはあなた方自警団に以前お伝えしたとおりです」
レンギョウの隣に控えていたコウリが言う。
「あなた方貴族に戦うつもりがなくとも、我ら中立地帯の民は既に心を決めている」
重い声で反論したのはウイキョウだ。苦しげな表情で、シオンも頷く。
「中立地帯の人々は王都に集まり始めているわ。ここなら聖王——レン、あなたが守ってくれると信じて」
机の上のシオンの手が、白くなるほどきつく握り締められている。
「それにね、自警団の本拠地に武器を持って志願してくる人もいるわ。皇帝や皇帝軍の勝手を、聖王様がお許しになるはずがない、いずれ兵を起こされるのなら力になりたい、って」
俯いたまま、シオンは低い声で言った。
「お願い、レン。もう私には中立地帯の心は止められない。あなたが思っている以上に”聖王”の名前は強い力を持っているのよ」
シオン以外の全員の視線の中、レンギョウはしばし瞑目した。
このまま無抵抗を続ければ、確実に中立地帯に住む多くの民が皇帝軍の犠牲となる。口実がレンギョウへの人望であるなら、たくさんの民が逃げ込んだこの王都もただでは済まないだろう。皇都にはまだ兵力が温存されている。いざ王都攻めとなれば順次兵士を送り込まれることとなるのは確実だ。
さすがに王都を攻められては、レンギョウとて黙っているわけにはいかない。その時には兵を募り、戦わざるを得ない。
将来的に見て、どの道戦うのであれば犠牲は少ないに越したことはない。それに今なら、”聖王”の支持者という士気の高い戦力が王都にはたくさんいる。
「……コウリ、貴族の中で使える者はどれ位おったかのう?」
「は……しかし、レンギョウ様」
珍しく驚いた顔をしている側役に、レンギョウはかすかに笑って見せた。
「このまま放置しておけば、そのうち王都も攻められよう。ならば早く態勢を整えて守りに入らねばなるまい。余は余の民を一人たりとも無駄に失いたくはない」
自警団の面々にも顔を向けて、レンギョウは言葉を続けた。
「おぬしらの力も貸してくれ。都の中におる中立地帯の民たちの世話は任せる。望む者は余の兵として登用して構わぬ」
「でもレン……いいの?」
戸惑った声はシオンのものだ。
「あんなに戦いはいやだって言ってたのに。本当にいいの?」
「……仕方あるまい。他に選択肢はないのだからのう」
がたり、と音を立ててレンギョウは椅子から立ち上がった。
「知っての通り、余はこの国の国王だ。民を守る義務がある」
席に着いたままの四人を見回して、レンギョウは宣言した。
「この戦い、相手の真の狙いは余である。余が直接出てゆけば少ない犠牲で済むであろう。犠牲を最小限にするため、此度の戦いは余の親征とする。参謀はコウリ、おぬしに任す。実働部隊は自警団、おぬしらに一任しよう。それとは別に、余直属の魔法部隊——貴族で編成した特別部隊を作る。詳細は追って指示を出す。それまでは各々の任務を果たしてもらいたい。頼んだぞ」
王都の辻ごとに兵士募集の紙が貼られたのはその一日後のことだった。都の人々はその前に群がり、深いため息をついた。
アサザがアオイ付の兵に呼び止められたのは、広い皇宮の廊下でのことだった。本格的な冬の訪れ以来、寝たきりの兄から使者が来るのは初めてだった。折しも昨日、弟のアカネ率いる中立地帯討伐軍を見送り、政務にも一区切りついたところである。
「丁度良かった。やっと手が空いたから帰って休もうと思ってたんだ」
おつかいの兵士に疲れた笑みを見せ、アサザは皇子たちの宮へと足を向けた。
「にしても何の用だろう。兄上がわざわざ人を使って呼び出すなんて」
あれこれ考えているうちに、皇宮と宮とを仕切る扉へと辿り着く。番をしている顔なじみの兵士が敬礼するのを、アサザは苦笑しながら見やった。
「お勤めご苦労さん。何か変わったことはないか?」
「はい。アオイ様よりお話は伺っております。お疲れのところ恐縮ですが、お早く立ち寄られるのがよろしいかと」
「ああ。兄上をあんまり長く起こしてちゃ悪いからな。すぐに行くよ」
兵士が開けた扉を潜り、さらに廊下を歩くことしばし。目指す部屋が見えてきた頃には、周りの空気にかすかな古紙の匂いが漂っている。
「兄上、アサザです」
「ああ、お入り」
部屋の中はいつもと同じく暖かだった。しかし紙の匂いの中に、今はわずかに薬のそれも混じっている。
そういえば兄と直接会うのは久しぶりだ。床の上に起こしたその身が一層細くなったのを見て、アサザの胸は痛んだ。
「起きてよろしいのですか」
「大丈夫……と言いたいところだけど、あまり長く保ちそうにないね。早速で悪いけど本題に入るよ。そこの地図を取ってくれないかい?」
示された地図は、どうやらこの国の全体図のようだ。差し出されたそれを、軽い咳をしながらアオイが受け取る。
「アサザ、君が忙しいのは承知しているけど、一つお願いがあるんだ」
「何ですか? 今なら丁度手が空いたところだし、余程のことじゃない限り大丈夫ですよ」
小さく笑みを浮かべて、アオイは地図の一点を示した。
「君にまた、行ってほしいところがあるんだ。ここ——山岳地帯、"山の民"の村へ」
「は? 何だってそんなところに」
兄の細い指が示す皇都の西部——険しい山並が描かれた部分に目をやって、アサザは首をひねった。
「大体例の事件以来、"山の民"たちとはほとんど交流がないじゃないですか。今更俺が行っても歓迎はされないと思いますよ」
「いや、そうじゃない。今だからこそ、戦士——というより、皇太子の君が行くことに意味があるんだ」
やつれた顔に似合わぬ強い眼差しで、アオイはアサザを見つめた。
「ここは、破魔刀”茅
”が眠っている場所なんだ」
「——”茅”?」
「そう。初代戦士アカザが使ったとされる刀だよ。本来なら皇家に伝わっているはずのものなんだけれどね。今まで所在がはっきりしなかったんだ」
アオイは床に積まれた書類の山に目を向けた。一番上に載っている走り書きのようなそれは、何かの報告書のように見える。
「アサザ、君が皇太子になってから、私はずっと”茅”を追っていたんだ。やがて起こるだろう——いや、アカネ達が中立地帯に向かった今、もう既に起こりつつある戦を回避できる可能性を持った、たった一つの武器を」
小さく咳をして、アオイは枕に背を預けた。
「できれば事が起こる前に見つけたかったけど、思ったより隠し場所を突き止めるのに時間がかかってしまってね。だから君には一刻も早く”茅”を手に入れてほしい」
「ちょっと待ってください兄上。”茅”ってのは一体何なんですか?そんな、戦を避ける力を持つほどに強力な武器なんて、聞いたこともないですよ」
「それはそうだろうね。”茅”はその力ゆえに封印された、戦士の切り札だから」
時折呼吸を乱しながらも、アオイの声は力を失うことなく続く。
「代々の戦士が担う国王の抑止力としての武器——それが”茅”だ。ただしそれが持ち出されるのは最大級の国難に直面した時のみ、過去に”茅”の遣い手は初代戦士アカザと初代皇帝アサギの二人だけだよ」
それを聞いたアサザの目が丸くなる。
「アカザとアサギって、両方とも歴史の変わり目にいた戦士じゃないですか。そんな大層な代物……」
「大層な代物だからこそ、こんな状況で役立つんだよ。”茅”の能力が具体的に何なのかは分からない。けれど隠し場所だけは何とか見つかった。”山の民”の村長に会えば、私たちが打てる手も増えるはずだよ」
微熱と長台詞で紅く染まった兄の頬を見つめながら、アサザはしばし考え込んだ。
「その”茅”を手に入れれば、中立地帯や国王領と争わなくても良くなるんですね?」
わずかな間をおいて、アオイは答える。
「今のままでは間違いなく戦いが起こる。けれども”茅”があれば争いを止めることができるかもしれない。あくまで可能性の話だよ」
「戦わない確率をゼロから何割かでも引き上げられるんですよね。それなら——やってみる価値はありますね」
アサザは顔を上げ、アオイに笑いかけた。
「俺はアカネとレンやシオンが戦うところは見たくない。だから、自分が行動することで少しでも状況を変えられるのなら、やりますよ」
「うん。ありがとう、アサザ」
アオイの手が、元気づけるようにアサザの肩を叩いた。笑顔のままその手を受けて、アサザは立ち上がった。
「じゃあ早速準備をしますよ。次にお会いする時は”茅”を手土産にしますからね」
「ああ、楽しみにしているよ。気をつけて」
部屋を出ていく弟の逞しい背を見送った一呼吸後、アオイの体は床の上に崩れ落ちた。
「少し、起きすぎたようだね……」
乱れる呼吸の下、霞む視界の中に薬と水差しを探す。ようやく求めた水差しに指が触れた瞬間、激しい咳の発作がアオイを襲った。その喘ぎと水差しが倒れる音とを耳にして、外に立っていた兵が慌てて部屋に駆け込んでくる。
「アオイ様! 大丈夫ですか!」
「だ……じょうぶ、アサザには、知らせ、ないで……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐアオイの火のように熱い額に、驚いた兵が大声で医者を呼ぶ。それをアオイは意識の遠くで聞いた。その声がアサザに届かないよう祈ったのを最後に、アオイの意識は闇に呑み込まれた。
「丁度良かった。やっと手が空いたから帰って休もうと思ってたんだ」
おつかいの兵士に疲れた笑みを見せ、アサザは皇子たちの宮へと足を向けた。
「にしても何の用だろう。兄上がわざわざ人を使って呼び出すなんて」
あれこれ考えているうちに、皇宮と宮とを仕切る扉へと辿り着く。番をしている顔なじみの兵士が敬礼するのを、アサザは苦笑しながら見やった。
「お勤めご苦労さん。何か変わったことはないか?」
「はい。アオイ様よりお話は伺っております。お疲れのところ恐縮ですが、お早く立ち寄られるのがよろしいかと」
「ああ。兄上をあんまり長く起こしてちゃ悪いからな。すぐに行くよ」
兵士が開けた扉を潜り、さらに廊下を歩くことしばし。目指す部屋が見えてきた頃には、周りの空気にかすかな古紙の匂いが漂っている。
「兄上、アサザです」
「ああ、お入り」
部屋の中はいつもと同じく暖かだった。しかし紙の匂いの中に、今はわずかに薬のそれも混じっている。
そういえば兄と直接会うのは久しぶりだ。床の上に起こしたその身が一層細くなったのを見て、アサザの胸は痛んだ。
「起きてよろしいのですか」
「大丈夫……と言いたいところだけど、あまり長く保ちそうにないね。早速で悪いけど本題に入るよ。そこの地図を取ってくれないかい?」
示された地図は、どうやらこの国の全体図のようだ。差し出されたそれを、軽い咳をしながらアオイが受け取る。
「アサザ、君が忙しいのは承知しているけど、一つお願いがあるんだ」
「何ですか? 今なら丁度手が空いたところだし、余程のことじゃない限り大丈夫ですよ」
小さく笑みを浮かべて、アオイは地図の一点を示した。
「君にまた、行ってほしいところがあるんだ。ここ——山岳地帯、"山の民"の村へ」
「は? 何だってそんなところに」
兄の細い指が示す皇都の西部——険しい山並が描かれた部分に目をやって、アサザは首をひねった。
「大体例の事件以来、"山の民"たちとはほとんど交流がないじゃないですか。今更俺が行っても歓迎はされないと思いますよ」
「いや、そうじゃない。今だからこそ、戦士——というより、皇太子の君が行くことに意味があるんだ」
やつれた顔に似合わぬ強い眼差しで、アオイはアサザを見つめた。
「ここは、破魔刀”
”が眠っている場所なんだ」
「——”茅”?」
「そう。初代戦士アカザが使ったとされる刀だよ。本来なら皇家に伝わっているはずのものなんだけれどね。今まで所在がはっきりしなかったんだ」
アオイは床に積まれた書類の山に目を向けた。一番上に載っている走り書きのようなそれは、何かの報告書のように見える。
「アサザ、君が皇太子になってから、私はずっと”茅”を追っていたんだ。やがて起こるだろう——いや、アカネ達が中立地帯に向かった今、もう既に起こりつつある戦を回避できる可能性を持った、たった一つの武器を」
小さく咳をして、アオイは枕に背を預けた。
「できれば事が起こる前に見つけたかったけど、思ったより隠し場所を突き止めるのに時間がかかってしまってね。だから君には一刻も早く”茅”を手に入れてほしい」
「ちょっと待ってください兄上。”茅”ってのは一体何なんですか?そんな、戦を避ける力を持つほどに強力な武器なんて、聞いたこともないですよ」
「それはそうだろうね。”茅”はその力ゆえに封印された、戦士の切り札だから」
時折呼吸を乱しながらも、アオイの声は力を失うことなく続く。
「代々の戦士が担う国王の抑止力としての武器——それが”茅”だ。ただしそれが持ち出されるのは最大級の国難に直面した時のみ、過去に”茅”の遣い手は初代戦士アカザと初代皇帝アサギの二人だけだよ」
それを聞いたアサザの目が丸くなる。
「アカザとアサギって、両方とも歴史の変わり目にいた戦士じゃないですか。そんな大層な代物……」
「大層な代物だからこそ、こんな状況で役立つんだよ。”茅”の能力が具体的に何なのかは分からない。けれど隠し場所だけは何とか見つかった。”山の民”の村長に会えば、私たちが打てる手も増えるはずだよ」
微熱と長台詞で紅く染まった兄の頬を見つめながら、アサザはしばし考え込んだ。
「その”茅”を手に入れれば、中立地帯や国王領と争わなくても良くなるんですね?」
わずかな間をおいて、アオイは答える。
「今のままでは間違いなく戦いが起こる。けれども”茅”があれば争いを止めることができるかもしれない。あくまで可能性の話だよ」
「戦わない確率をゼロから何割かでも引き上げられるんですよね。それなら——やってみる価値はありますね」
アサザは顔を上げ、アオイに笑いかけた。
「俺はアカネとレンやシオンが戦うところは見たくない。だから、自分が行動することで少しでも状況を変えられるのなら、やりますよ」
「うん。ありがとう、アサザ」
アオイの手が、元気づけるようにアサザの肩を叩いた。笑顔のままその手を受けて、アサザは立ち上がった。
「じゃあ早速準備をしますよ。次にお会いする時は”茅”を手土産にしますからね」
「ああ、楽しみにしているよ。気をつけて」
部屋を出ていく弟の逞しい背を見送った一呼吸後、アオイの体は床の上に崩れ落ちた。
「少し、起きすぎたようだね……」
乱れる呼吸の下、霞む視界の中に薬と水差しを探す。ようやく求めた水差しに指が触れた瞬間、激しい咳の発作がアオイを襲った。その喘ぎと水差しが倒れる音とを耳にして、外に立っていた兵が慌てて部屋に駆け込んでくる。
「アオイ様! 大丈夫ですか!」
「だ……じょうぶ、アサザには、知らせ、ないで……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐアオイの火のように熱い額に、驚いた兵が大声で医者を呼ぶ。それをアオイは意識の遠くで聞いた。その声がアサザに届かないよう祈ったのを最後に、アオイの意識は闇に呑み込まれた。
草の海の向こうに初めて皇帝軍の姿を見た時、レンギョウの胸に針のような疑問が突き刺さった。もとより、望んだ戦ではない。今でも避けられる方策があるというのなら、喜んでその案を容れたいと思う。
しかしそれはあくまでレンギョウの心中でのこと。実際の国王・自警団の連合軍四万は非常に士気が高く、目前に迫った皇帝軍におののく様子もない。
彼らには戦う理由があった。自分の生活を守るため、主たる国王レンギョウを守るため。それぞれの理由のために国王の旗の下に集い、率いられてきた。ここは中立地帯の中でも王都寄りの平原、街道から少し離れた開けた草原である。今日この場所で、王制が始まって以来初めて、二人の領主による戦が幕を開ける。
「レン、大丈夫? 随分顔色が悪いみたいだけど」
そう言いながら馬を寄せてきたシオンも、顔の色は紙のようだ。彼女とて戦を回避するため最大限の努力を傾けてきたのだ。レンギョウの口惜しさは充分に知っているはずだった。
「うむ。余なら平気だ。それより、自警団の兵の様子はどうなっておる?」
努めて明るくレンギョウは答えた。シオンには自警団の長としての責任が、レンギョウにはこの混成軍の総司令としての責務がある。今は個人的な感傷に浸っている場合ではない。
「相変わらず皆やる気満々よ。今こそ皇帝を見返してやるんだって息巻いてる」
「そうか。皇帝軍は?」
「見ての通り、もうかなり近づいてるわよ。不用意に接触しないように先陣を止めたところ」
馬上で頷いて、レンギョウは前方を見据えた。
「間もなく、か。コウリ、魔法部隊の準備はできておるな?」
「はい。既に本陣前に配置しております」
傍らに控えていたコウリが答える。その言葉にレンギョウは苦い笑みを洩らした。
「……確か全部で五名だったか。貴族の中でも魔法を使える者はたったそれだけしかいないのだな」
それは国王領が隠し続けた最大の秘密事項だった。初代国王レンが島国を統一してから二百年、時代が下るほどに王家及び貴族が持つ魔力は弱まっていった。現在では魔法と呼べるような現象を起こせるのは数えるほどしか存在しない。複数の魔法を駆使できるのは実質国王であるレンギョウ一人なのだ。
魔力の喪失は皇帝への切り札を失うことを意味する。そのため代々の国王と貴族は極秘に魔力を高めるための研究を続けていた。しかしそれは実を結ぶことはなかった。十三年前に行われた魔力増幅装置の実験が失敗した際に起こった事故で当時の重臣のほとんどが死亡し、国王が正気を失ったのをきっかけに研究は凍結されたまま、現在に至っている。
「気休めにしかならぬかもしれぬが、いないよりは良かろう。兵の士気も上がるであろうしな」
レンギョウは彼方に目を向ける。そこには鈍く光る皇帝軍の隊列が見えた。先程とほとんど距離が変わっていないところを見ると、あちらも進軍を止めたようだ。両軍の間に、見えない緊張の壁が横たわる。
その時、左翼から一騎の馬がレンギョウたちの方へと駆けてきた。ウイキョウの部隊の腕章をつけている。
「国王陛下に申し上げます!」
自警団の者なのだろう、馬を下りて慇懃に跪いた騎兵ははきはきした口調で言った。
「先程、我が隊を訪れた来客が陛下にお目通りを願っています。いかがいたしますか?」
「来客?」
レンギョウたちは怪訝な顔を見合わせた。眉をしかめたコウリがにべもなく告げる。
「開戦を控えて、陛下は現在多忙でいらっしゃる。謁見は許可できぬと伝えよ」
「は、しかし……」
とりつく島もないコウリにひるんだ様子もなく、まだ若い騎兵は小首を傾げた。
「客人はウイキョウ殿の古い知人で、信頼できる武人と聞いております。お会いになればこの戦への助言などを聞けるかと」
「そのようなことはそなたが考えることではない。この時機にどこの者とも知れぬ輩を陛下に会わせることはできぬと言っているのだ」
コウリと騎兵の間に見えない火花が散った。無言の睨み合いの均衡を破ったのはレンギョウの澄んだ声だった。
「コウリ、構わぬ。その者に会ってみよう」
「陛下!」
コウリのとがめるような声に、レンギョウは微かに笑ってみせた。
「心配はいらぬ。ウイキョウの紹介だと言うなら、謁見にウイキョウも立ち合わせると良い。勿論コウリ、おぬしもだ。それで文句はなかろう?」
「あ、私も行くわよ」
自警団代表として何かあったら困るしね、とシオンが悪戯っぽく笑う。その様子にレンギョウの表情も緩んだ。
「うむ、そうしてくれると心強い。ときにおぬし」
ふと思いついて、レンギョウは騎兵に目を向けた。
「コウリに意見するとはなかなかだのう。名は何と申す?」
「マツと申します、陛下」
丸い目をさらに丸くして騎兵が言う。
「それにしても驚きました。まさか陛下から直接お言葉をいただけるなんて」
「そう驚くことではあるまい。使っている言葉が違うわけではないのだからな」
マツの答えにレンギョウが苦笑を浮かべる。言伝を伝えるためマツを帰してから、三人はとりあえず急ごしらえした天幕に入った。勝手に面会を決めたこととマツの名を聞いたことが気に入らなかったらしく、コウリがぶつぶつと文句を言っていたがレンギョウは聞き流した。
しばらく経って、外から二頭の馬の嘶きが聞こえてきた。顔を上げたレンギョウの目に、入り口に垂らした幕を潜って入ってくる大柄な男の姿が見えた。その顔は逆光になっていて細かいところまでは分からない。
「あんたが聖王陛下か?」
一切の口上抜きで、男は言った。無礼とも言える態度に、しかしレンギョウは眉ひとつ動かさず答える。
「そうだ。おぬしは?」
「俺はイブキという。しかしまた、噂に違わずお綺麗な顔をしていらっしゃる」
無礼者、と言いかけたコウリを手で制して、レンギョウは目を細めた。しかと男を見据えて口を開く。
「褒め言葉と受け取っておく。ときにイブキ、おぬしはウイキョウの古い知人と聞いたが」
ようやく光に目が慣れてきた。徐々に像を結んだ男の顔でまず目に入ったのは大きな鷲鼻だった。日に灼けた肌のあちこちには古い傷痕が白く残っている。それらの奥にあるのが、状況を面白がっているような色を浮かべた瞳。年の頃は四十過ぎ、ウイキョウとさして変わらないくらいだろう。妙に愛嬌のある表情が印象的だった。
レンギョウの言葉を受けて、イブキは親指で後ろに控えたウイキョウを示した。
「こいつとは昔からの腐れ縁でね。昔はよく剣を交えたもんよ」
「ではおぬしもかつては自警団に?」
「いや」
イブキは短く刈り込んだ黒髪をわしわしと掻いた。
「隠す気はないから最初に言っておく。俺は皇帝軍の近衛隊長だった。もっとも、とうの昔に追放されて皇帝領には入れん身だがね」
何、と声を上げたのはコウリ、息を呑んだのはシオン。その様子を見て、イブキは黙って成り行きを見守っていたウイキョウを顧みた。
「……どうやら改めて解説する手間は省けたようだな」
皇帝軍は大きくふたつに分けられる。将帥を筆頭とする通常軍と近衛隊長が束ねる近衛隊だ。皇宮の警備から有事の軍事活動までを任務とする通常軍に比べ、近衛隊は皇家の警護のみに特化した少数精鋭の部隊である。皇帝のすぐ近くを守護するという立場上、慣例として近衛隊長の地位は副将帥と同等とされてきた。平時には将帥は置かれないから、副将帥と近衛隊長といえば皇帝軍を支える双璧のことを指す。勿論、本来なら国王側とは対立する立場だ。
「近衛隊長まで務めた人が追放って……一体どうして?」
シオンの問いにイブキは肩をすくめて見せた。
「ま、色々あってな。オジさんには簡単には語れぬ過去ってもんがあるのさ」
「そのような戯言でごまかせると思っているのか」
厳しい口調はコウリのもの。やれやれ、といった調子でイブキは溜息を吐いた。
「お前さん、そんなカリカリしてっとそのうちハゲるぜ」
「黙れ。質問に答えよ」
「どっちだよ」
「揚げ足を取るのはやめよ」
苛立ちを隠さないコウリに臆する様子もなく、イブキは耳の穴などほじっている。たっぷり時間を取った後、指先を息で払ってようやくレンギョウに目を向けた。
「十年前、皇帝の后が中立地帯で殺された事件を知ってるか?」
「……いや」
「その時の皇后の護衛係が俺だったんだ。あの皇帝の性格を考えりゃ、死刑にならなかっただけでも儲けもんだがな。これで納得してもらえたか?」
「そうか。して、おぬしがここに来た理由は何だ? まさか何の目的もないわけではあるまい」
にや、とイブキは不敵な笑みを口許に浮かべた。
「さすがに聖王陛下は話が早い。実はひとつ、願いたいことがあって参上した」
「申してみよ」
「俺を陛下の軍に加えていただきたい」
ひた、とレンギョウの目を見据えてイブキが言った。声の調子は先程と変わらないが、その眸には真剣な光が宿っている。
「な、何を……」
「腕はウイキョウが保証してくれる。元近衛隊長という前歴も、見方次第では箔になるだろう。それに」
何事か言いかけたコウリを遮って、イブキがたたみかける。
「皇帝軍将帥のアカネ皇子に剣術や戦術の手ほどきをしたのは俺だ。子供の頃とはいえ、皇子の性格も知っている。何の情報もないまま戦を始めるより有利にことを進められると思うが、どうだ?」
レンギョウはすぐには口を開かない。目だけで傍らのコウリに意見を促す。
「私は反対です、このように得体の知れない者を陛下のお傍に置くわけにはまいりません」
「……私も」
次に視線を投げられたシオンがためらいがちに口を開く。
「いくらウイキョウの知り合いでも、元々は皇帝軍の近衛隊長だった人を加えるのはどうかと思う」
レンギョウは頷き、最後にウイキョウへと目を向ける。それまで影のように口を閉ざしていた大男は短く言った。
「俺はこの男を紹介しただけだ。最終的な判断はご自分でなさるべきだろう」
「……分かった」
一つ息をついて、レンギョウはイブキに注意を戻した。
「イブキとやら、そこまで言うのなら何か策があるのであろう。勿体ぶらずに申してみよ」
レンギョウの言葉にイブキは片眉を上げてみせた。
「何故そう思われる?」
「十年も前に皇帝領を追われておるのなら、もっと早く余の下に参じていても良かったはずだ。王都を出る前にも兵の募集はしておったのだからのう。それなのにわざわざ警戒の厳しいこの時機を選んで来たのであれば、何か考えがあると思うのが筋であろう」
「……成程」
どこか満足そうにイブキは頷く。
「その通りだ。まこと陛下は聡明でいらっしゃる」
「世辞はよい。早く言わぬとしびれを切らした側役がおぬしを放り出すぞ」
苦笑を浮かべたイブキは、不機嫌な表情のコウリやはらはらした顔で状況を見守っているシオンにちらりと目を向けた。
「ま、良かろう。どの道国王軍の手も借りなきゃならんかったからな。自警団の嬢ちゃんもよく聞いとけよ。これから話すのは、皇帝軍五万に勝つための方策だ」
やがてイブキの話が終わった。聞き終えたレンギョウはその場でウイキョウと同じ左翼の最前線への配置を申し渡す。今度は誰一人として反対する者はいなかった。
しかしそれはあくまでレンギョウの心中でのこと。実際の国王・自警団の連合軍四万は非常に士気が高く、目前に迫った皇帝軍におののく様子もない。
彼らには戦う理由があった。自分の生活を守るため、主たる国王レンギョウを守るため。それぞれの理由のために国王の旗の下に集い、率いられてきた。ここは中立地帯の中でも王都寄りの平原、街道から少し離れた開けた草原である。今日この場所で、王制が始まって以来初めて、二人の領主による戦が幕を開ける。
「レン、大丈夫? 随分顔色が悪いみたいだけど」
そう言いながら馬を寄せてきたシオンも、顔の色は紙のようだ。彼女とて戦を回避するため最大限の努力を傾けてきたのだ。レンギョウの口惜しさは充分に知っているはずだった。
「うむ。余なら平気だ。それより、自警団の兵の様子はどうなっておる?」
努めて明るくレンギョウは答えた。シオンには自警団の長としての責任が、レンギョウにはこの混成軍の総司令としての責務がある。今は個人的な感傷に浸っている場合ではない。
「相変わらず皆やる気満々よ。今こそ皇帝を見返してやるんだって息巻いてる」
「そうか。皇帝軍は?」
「見ての通り、もうかなり近づいてるわよ。不用意に接触しないように先陣を止めたところ」
馬上で頷いて、レンギョウは前方を見据えた。
「間もなく、か。コウリ、魔法部隊の準備はできておるな?」
「はい。既に本陣前に配置しております」
傍らに控えていたコウリが答える。その言葉にレンギョウは苦い笑みを洩らした。
「……確か全部で五名だったか。貴族の中でも魔法を使える者はたったそれだけしかいないのだな」
それは国王領が隠し続けた最大の秘密事項だった。初代国王レンが島国を統一してから二百年、時代が下るほどに王家及び貴族が持つ魔力は弱まっていった。現在では魔法と呼べるような現象を起こせるのは数えるほどしか存在しない。複数の魔法を駆使できるのは実質国王であるレンギョウ一人なのだ。
魔力の喪失は皇帝への切り札を失うことを意味する。そのため代々の国王と貴族は極秘に魔力を高めるための研究を続けていた。しかしそれは実を結ぶことはなかった。十三年前に行われた魔力増幅装置の実験が失敗した際に起こった事故で当時の重臣のほとんどが死亡し、国王が正気を失ったのをきっかけに研究は凍結されたまま、現在に至っている。
「気休めにしかならぬかもしれぬが、いないよりは良かろう。兵の士気も上がるであろうしな」
レンギョウは彼方に目を向ける。そこには鈍く光る皇帝軍の隊列が見えた。先程とほとんど距離が変わっていないところを見ると、あちらも進軍を止めたようだ。両軍の間に、見えない緊張の壁が横たわる。
その時、左翼から一騎の馬がレンギョウたちの方へと駆けてきた。ウイキョウの部隊の腕章をつけている。
「国王陛下に申し上げます!」
自警団の者なのだろう、馬を下りて慇懃に跪いた騎兵ははきはきした口調で言った。
「先程、我が隊を訪れた来客が陛下にお目通りを願っています。いかがいたしますか?」
「来客?」
レンギョウたちは怪訝な顔を見合わせた。眉をしかめたコウリがにべもなく告げる。
「開戦を控えて、陛下は現在多忙でいらっしゃる。謁見は許可できぬと伝えよ」
「は、しかし……」
とりつく島もないコウリにひるんだ様子もなく、まだ若い騎兵は小首を傾げた。
「客人はウイキョウ殿の古い知人で、信頼できる武人と聞いております。お会いになればこの戦への助言などを聞けるかと」
「そのようなことはそなたが考えることではない。この時機にどこの者とも知れぬ輩を陛下に会わせることはできぬと言っているのだ」
コウリと騎兵の間に見えない火花が散った。無言の睨み合いの均衡を破ったのはレンギョウの澄んだ声だった。
「コウリ、構わぬ。その者に会ってみよう」
「陛下!」
コウリのとがめるような声に、レンギョウは微かに笑ってみせた。
「心配はいらぬ。ウイキョウの紹介だと言うなら、謁見にウイキョウも立ち合わせると良い。勿論コウリ、おぬしもだ。それで文句はなかろう?」
「あ、私も行くわよ」
自警団代表として何かあったら困るしね、とシオンが悪戯っぽく笑う。その様子にレンギョウの表情も緩んだ。
「うむ、そうしてくれると心強い。ときにおぬし」
ふと思いついて、レンギョウは騎兵に目を向けた。
「コウリに意見するとはなかなかだのう。名は何と申す?」
「マツと申します、陛下」
丸い目をさらに丸くして騎兵が言う。
「それにしても驚きました。まさか陛下から直接お言葉をいただけるなんて」
「そう驚くことではあるまい。使っている言葉が違うわけではないのだからな」
マツの答えにレンギョウが苦笑を浮かべる。言伝を伝えるためマツを帰してから、三人はとりあえず急ごしらえした天幕に入った。勝手に面会を決めたこととマツの名を聞いたことが気に入らなかったらしく、コウリがぶつぶつと文句を言っていたがレンギョウは聞き流した。
しばらく経って、外から二頭の馬の嘶きが聞こえてきた。顔を上げたレンギョウの目に、入り口に垂らした幕を潜って入ってくる大柄な男の姿が見えた。その顔は逆光になっていて細かいところまでは分からない。
「あんたが聖王陛下か?」
一切の口上抜きで、男は言った。無礼とも言える態度に、しかしレンギョウは眉ひとつ動かさず答える。
「そうだ。おぬしは?」
「俺はイブキという。しかしまた、噂に違わずお綺麗な顔をしていらっしゃる」
無礼者、と言いかけたコウリを手で制して、レンギョウは目を細めた。しかと男を見据えて口を開く。
「褒め言葉と受け取っておく。ときにイブキ、おぬしはウイキョウの古い知人と聞いたが」
ようやく光に目が慣れてきた。徐々に像を結んだ男の顔でまず目に入ったのは大きな鷲鼻だった。日に灼けた肌のあちこちには古い傷痕が白く残っている。それらの奥にあるのが、状況を面白がっているような色を浮かべた瞳。年の頃は四十過ぎ、ウイキョウとさして変わらないくらいだろう。妙に愛嬌のある表情が印象的だった。
レンギョウの言葉を受けて、イブキは親指で後ろに控えたウイキョウを示した。
「こいつとは昔からの腐れ縁でね。昔はよく剣を交えたもんよ」
「ではおぬしもかつては自警団に?」
「いや」
イブキは短く刈り込んだ黒髪をわしわしと掻いた。
「隠す気はないから最初に言っておく。俺は皇帝軍の近衛隊長だった。もっとも、とうの昔に追放されて皇帝領には入れん身だがね」
何、と声を上げたのはコウリ、息を呑んだのはシオン。その様子を見て、イブキは黙って成り行きを見守っていたウイキョウを顧みた。
「……どうやら改めて解説する手間は省けたようだな」
皇帝軍は大きくふたつに分けられる。将帥を筆頭とする通常軍と近衛隊長が束ねる近衛隊だ。皇宮の警備から有事の軍事活動までを任務とする通常軍に比べ、近衛隊は皇家の警護のみに特化した少数精鋭の部隊である。皇帝のすぐ近くを守護するという立場上、慣例として近衛隊長の地位は副将帥と同等とされてきた。平時には将帥は置かれないから、副将帥と近衛隊長といえば皇帝軍を支える双璧のことを指す。勿論、本来なら国王側とは対立する立場だ。
「近衛隊長まで務めた人が追放って……一体どうして?」
シオンの問いにイブキは肩をすくめて見せた。
「ま、色々あってな。オジさんには簡単には語れぬ過去ってもんがあるのさ」
「そのような戯言でごまかせると思っているのか」
厳しい口調はコウリのもの。やれやれ、といった調子でイブキは溜息を吐いた。
「お前さん、そんなカリカリしてっとそのうちハゲるぜ」
「黙れ。質問に答えよ」
「どっちだよ」
「揚げ足を取るのはやめよ」
苛立ちを隠さないコウリに臆する様子もなく、イブキは耳の穴などほじっている。たっぷり時間を取った後、指先を息で払ってようやくレンギョウに目を向けた。
「十年前、皇帝の后が中立地帯で殺された事件を知ってるか?」
「……いや」
「その時の皇后の護衛係が俺だったんだ。あの皇帝の性格を考えりゃ、死刑にならなかっただけでも儲けもんだがな。これで納得してもらえたか?」
「そうか。して、おぬしがここに来た理由は何だ? まさか何の目的もないわけではあるまい」
にや、とイブキは不敵な笑みを口許に浮かべた。
「さすがに聖王陛下は話が早い。実はひとつ、願いたいことがあって参上した」
「申してみよ」
「俺を陛下の軍に加えていただきたい」
ひた、とレンギョウの目を見据えてイブキが言った。声の調子は先程と変わらないが、その眸には真剣な光が宿っている。
「な、何を……」
「腕はウイキョウが保証してくれる。元近衛隊長という前歴も、見方次第では箔になるだろう。それに」
何事か言いかけたコウリを遮って、イブキがたたみかける。
「皇帝軍将帥のアカネ皇子に剣術や戦術の手ほどきをしたのは俺だ。子供の頃とはいえ、皇子の性格も知っている。何の情報もないまま戦を始めるより有利にことを進められると思うが、どうだ?」
レンギョウはすぐには口を開かない。目だけで傍らのコウリに意見を促す。
「私は反対です、このように得体の知れない者を陛下のお傍に置くわけにはまいりません」
「……私も」
次に視線を投げられたシオンがためらいがちに口を開く。
「いくらウイキョウの知り合いでも、元々は皇帝軍の近衛隊長だった人を加えるのはどうかと思う」
レンギョウは頷き、最後にウイキョウへと目を向ける。それまで影のように口を閉ざしていた大男は短く言った。
「俺はこの男を紹介しただけだ。最終的な判断はご自分でなさるべきだろう」
「……分かった」
一つ息をついて、レンギョウはイブキに注意を戻した。
「イブキとやら、そこまで言うのなら何か策があるのであろう。勿体ぶらずに申してみよ」
レンギョウの言葉にイブキは片眉を上げてみせた。
「何故そう思われる?」
「十年も前に皇帝領を追われておるのなら、もっと早く余の下に参じていても良かったはずだ。王都を出る前にも兵の募集はしておったのだからのう。それなのにわざわざ警戒の厳しいこの時機を選んで来たのであれば、何か考えがあると思うのが筋であろう」
「……成程」
どこか満足そうにイブキは頷く。
「その通りだ。まこと陛下は聡明でいらっしゃる」
「世辞はよい。早く言わぬとしびれを切らした側役がおぬしを放り出すぞ」
苦笑を浮かべたイブキは、不機嫌な表情のコウリやはらはらした顔で状況を見守っているシオンにちらりと目を向けた。
「ま、良かろう。どの道国王軍の手も借りなきゃならんかったからな。自警団の嬢ちゃんもよく聞いとけよ。これから話すのは、皇帝軍五万に勝つための方策だ」
やがてイブキの話が終わった。聞き終えたレンギョウはその場でウイキョウと同じ左翼の最前線への配置を申し渡す。今度は誰一人として反対する者はいなかった。
自軍の頭越しに国王軍の隊列が見える。鎧姿のアカネは馬上で伸び上がってその様子を眺めた。皇帝軍五万、国王軍四万。わずかな距離を隔てて睨みあう両軍はまるで鉄色の波のようだ。
「なに呑気なことを言ってるんだい。向こうにいるの、あれ全部敵なんだよ」
隣でブドウが呆れていた。アカネと同じく馬に跨ったその体は今、鋼の戦装束で固められている。全体的に丸みを帯びた甲冑は皇帝軍規定のもの。重量のある胴こそ若干薄いが、他の装備は一般の兵と同じものだ。瞳の色と同じ、若葉色の飾り紐が兜で揺れる。
「そうなんだけどね。ほら、僕今回が初陣だからわくわくしちゃって」
すくめたアカネの肩の上で緋色の布がなびいた。皇帝軍将帥であることを示す、その色。副将帥以下の兵が緋を纏うことは許されていない。将帥は非常時にしか置かれない役職だから、この色が軍にあることは皇帝が事態を戦時だと認識している証でもある。
身分によって様々に色分けされている軍の中で、もう一つ見かけない色がある。黒だ。初代戦士アカザが好んで用いた色であるため、黒は皇帝が親征する際にのみ用いられるという暗黙の決まりだった。
緋と黒、この二つの色が目に入るといやでも皇帝軍は奮い立つ。対する側としては最も警戒しなければならない色でもあった。
「ブドウは何度か戦に出たことがあるんだよね」
「ああ、中立地帯のごたごたにね。もっとも、こんな大軍は初めてだけど」
言いながらもブドウの声に緊張はない。同じく気負った様子のないアカネに片目をつぶってみせる余裕さえある。
「なに、何とかなるさ。兵の指揮は私に任せて、アカネは見学しているといい。私が守ってやるよ」
「うん、頼んだよ」
素直にアカネは頷いた。ここで功を逸るような性格ではない。経験のない自分がこの場にいるのは、皇子が矢面に立つことで兵の士気を上げ、相手の意気を殺ぐ以上の意味はないと承知している。
「あっちには国王もいるんだよね。魔法とか使ってくるかな」
「さあ。使われたら厄介だけど、実際にどれくらいの戦力になるかは分からないからね。そこは運次第だよ」
戦において不確定要素を数えだしたらきりがない。ともかく数ではこちらが勝っているのだ。アオイの本意ではない戦いだとは承知していたが、状況がここにまで至ってしまった今となってはせめて早く終わらせてしまうのが最善の方策だろう。
「じゃあ、始めようか。とっとと終わらせて、皇都のアオイ様とアサザに吉報を持って帰ろう」
頷いて、アカネは辺りを見回した。脇に控えた合図の太鼓係が撥を構える。
「全軍、進め!」
アカネの声と同時に太鼓が鳴る。一拍遅れて、一斉に甲冑が動く音が響く。
「歩兵大隊、前へ! 弓兵は二段の構え、用意!」
間髪入れずにブドウの指示が飛ぶ。太鼓が打ち鳴らされ、前線の形が変わっていく。
国王軍も動き出したようだ。鋭角にせり出した錐のような陣形、その矛先はまっすぐこちらの本陣を指している。
「中央突破するつもりか。悪いけどそう簡単にはさせないよ」
すかさず迎え撃つための合図が送られる。厚く布いて待ち受ける歩兵の正面に相手の先陣がぶつかった。喊声が上がる。たちまち彼我入り乱れる乱戦になった。
「魔法、使ってこないね」
アカネが言ったのは、国王軍の錐が皇帝軍の壁に削られ、跳ね返された頃だった。前進がやんでいる。逆に皇帝軍には勢いがあった。足の止まった国王軍に押し寄せ、確実にその外縁を突き崩している。ことに右翼の伸びが速い。相手の左翼を追い込み、どんどん進んでいる。
「向こうには国王がいる。まだ油断はできないよ」
「うん。でも魔法を使われる前に決着を着けれたら楽だよね。何も国王の命が目的じゃないんでしょう?」
「まあね。陛下からは反乱を鎮めろって言われてるだけだし」
「国王を捕まえることはできないかな。旗印を奪われちゃ、あっちだって戦い続けられないでしょう」
彼方の国王軍を見やって、アカネはぽつりと呟いた。
「兄上の友達らしいからさ。できれば死なせたくないんだよね」
「……そうだな」
ブドウは微笑をこぼした。アサザとレンギョウのことは聞いている。アサザを悲しませるようなことをしたくないのはブドウも同じだった。
「じゃあ、このまま包囲して国王を捕らえよう。数はこちらが上だし、勢いもあるから大丈夫だろう」
「あ、待って」
横に控えた伝令を呼ぼうとしたブドウを、アカネが止める。
「右翼には僕が行くよ」
「しかし、危険だぞ? 一番遠いし」
「だからだよ。途中で僕を見かけた兵たちの士気が上がるでしょう? 僕も働かないと、兄上たちに怒られちゃうからね」
しばし考えた末、ブドウは頷いた。どうやら今回は勝ち戦だ。アカネが姿を現せば、兵たちはますます勢いづくだろう。前線に出すことにためらいはあったが、混戦の中では相手も不用意に魔法など使えないという読みもあった。未だ若い皇子に経験を積ませるには良い機会かもしれない。
「わかった。ただしあまり深入りはするなよ」
「うん」
嬉しそうにアカネが答える。護衛役が素早く準備を整えた。ブドウの部下の中でも信頼の置ける兵が五名。がっちりと周囲を固められたアカネがブドウに笑顔を向けた。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
ブドウも笑顔を返す。それを認めて、アカネは馬を走らせた。緋の肩布が後ろに翻る。
「……将帥様だ!」
「皇子殿下が出られるぞ!」
飛び込んだ甲冑の群れから口々に歓声が上がった。兵たちの間を走るどよめきを追いかけるように、緋色が戦場を駆け抜ける。
「皆、前進だ! こんな戦い、早く終わらせよう!」
少し高めの、幼さを残した声はよく通る。それに応えて皇帝軍は一気に攻勢を強めた。それぞれの手に持った武器を構えて、国王軍へと突き進んでいく。
アカネはただ一心に手綱を操る。アサザ仕込の乗馬は得意な方だが、何せ足元には障害物が多い。倒れた兵など踏みつけては危険な上に気分の良いものでもないから、充分に注意しながら進んだ。一歩進むたびに前線に近づいているのが分かる。剣戟が耳よりも先に体を震わせた。恐怖と興奮が同時にこみ上げてくる。いつの間にか、右手が腰に佩いた剣の柄を握り締めていた。
「アカネ様、これ以上は危険です」
護衛の声にアカネは我に返った。周囲の護衛たちが速度を落とし、油断のない目を国王軍の方へと向けている。位置は長く伸びた右翼の中ほどといったところか。敵の姿は見えないが、既に戦端が開かれた場所を過ぎている。確かにこれ以上進むのは無謀だろう。
「ああ、そうだね。ありがとう」
アカネは手綱を緩めた。突撃を続ける兵たちの邪魔にならないよう、人波から外れた場所に馬を止める。見たところ包囲網は順調に進んでいるようだ。どうやら充分に役目は果たせたらしい。
「よし、じゃあ戻ろうか。あまり遅くなるとブドウが心配する」
上がり続ける鬨の声を確認して、安堵の笑みを浮かべたアカネが馬の首を返そうとした、その時だった。
最初に聞こえたのは鋭い風鳴りだった。続いて上がる悲鳴。一瞬にして場を支配する音が変わっていた。
アカネの背筋を冷たいものがなぞる。振り向いた先に広がっていたのは倒れ伏し、蹲る皇帝軍の兵たち。その体を踏み越えてこちらに近づいてくる一団が見えた。先頭は薙刀を持った大柄な男だ。鈍く光る角張った鎧は皇帝軍のものではない。男の後ろには軽装を纏っただけの影が五つ、そのようないでたちは重装備の皇帝軍ではありえない。
「国王軍!」
護衛たちに緊張が走る。次々に抜剣する彼らを、薙刀の男が不敵な笑みを浮かべて見やる。
「第三皇子にして皇帝軍将帥、アカネ殿とお見受けする」
「そうですが、あなたは」
努めて動揺を抑えながらアカネが問い返す。こんなに間近で敵と相対することは想定外だった。対して男は余裕がある。
「俺は国王軍のイブキという。実はさっき採用されたばかりでね。手柄を立てなきゃ帰れないんだ。勝手で悪いが、一緒に来てもらうぜ」
イブキの左手が上がる。同時に後ろの五人の掌がアカネたちに向かってかざされた。
「!」
魔法、と直感的に悟る。咄嗟に腕で顔を庇った。刹那、突風が叩きつけられる。かまいたちでも起こったのか、頬から赤い筋が飛んだ。
踏みとどまった、と思ったのはつかの間だった。身を切り裂く風に驚いた馬が悲鳴を上げて次々と暴れ出した。護衛たちが振り落とされる。アカネ自身も後ろ足で立ち上がった馬を御しきれずに落馬する。
「ぐっ……!」
呻き声をこらえるのが精一杯だった。すぐに立ち上がろうとするものの、着慣れない鎧が邪魔して思うように動けない。
この機会をイブキが逃すはずもなかった。薙刀を構え、一気にアカネたちに接近する。悲鳴と血飛沫の中、何とかアカネは態勢を整えて剣を抜く。痛みと悔しさでかすむ景色に、最後の護衛が沈んだ。
アカネはただ一人、イブキと向かい合った。
「僕を、どうする気だ」
「皇帝との取引の人質になってもらう。命までどうこうする気はないから安心しろ」
手にした得物から滴る赤を前にしては、まるで説得力のない台詞だ。表情をこわばらせたアカネに、イブキが苦い笑いを向ける。
「そう警戒するなよ。俺だってガキの頃を知ってる奴を手にかけたくはない」
「子供の頃?」
「昔剣を習ったイブキおじさん、覚えてないか? 隙ありと見ればすぐに突っ込んでくる癖、治ってないみたいだな。まんまとこんなところにまで引きずり込まれやがって」
指摘された癖には覚えがあったが、イブキという名には心当たりがない。アカネは黙って眼前の男を睨み返した。
「その気迫は大したもんだ。やはりキキョウ様のお子だな。目がそっくりだ」
突然飛び出した母の名にアカネの剣先が揺れる。しまったと思った時にはもうイブキの巨体が目の前にあった。
「あんたの弱点は表情が読みやすいことだな。機会があったらまた稽古をつけてやるよ」
どん、と首筋に重い衝撃が走った。急速に暗転していく視界の中、隅で緋色が躍った。転々と汚れが落ちたそれは、見る間に闇に呑まれて消えていく。まるで今の自分のようだと思ったのを最後に、アカネの意識は途切れた。
<予告編>
「あなたには、失望しました」
敵陣の只中でアカネはレンギョウと向かい合う。
兄の友人。分かり合えると信じていた。
しかし卑怯な策で自分を捕らえたのは、紛れもなくこの銀髪の国王なのだ。
会見の様子を見守りながら、コウリは心中に不吉な芽が吹くのを感じていた。
レンギョウが第二皇子アサザと行動を共にしたと知った時と同じ、
危うい均衡が崩れそうになる予感。
王家にとって戦士に連なる者は敵であるはずだった。
ましてやアカネは、皇帝の血を引く皇子なのだ。
なのに彼の主は、先程の面罵さえも受け流して穏やかに微笑んでいる。
それは王者の器というより、親しい者へ対する苦笑に近いように見えた。
——危険だ。
コウリは密かに拳を握り締めた。
守らねばならない。レンギョウを。王家を。
『DOUBLE LORDS』承章12、
決意は石のように重く、コウリの裡へと沈んでいく。
「なに呑気なことを言ってるんだい。向こうにいるの、あれ全部敵なんだよ」
隣でブドウが呆れていた。アカネと同じく馬に跨ったその体は今、鋼の戦装束で固められている。全体的に丸みを帯びた甲冑は皇帝軍規定のもの。重量のある胴こそ若干薄いが、他の装備は一般の兵と同じものだ。瞳の色と同じ、若葉色の飾り紐が兜で揺れる。
「そうなんだけどね。ほら、僕今回が初陣だからわくわくしちゃって」
すくめたアカネの肩の上で緋色の布がなびいた。皇帝軍将帥であることを示す、その色。副将帥以下の兵が緋を纏うことは許されていない。将帥は非常時にしか置かれない役職だから、この色が軍にあることは皇帝が事態を戦時だと認識している証でもある。
身分によって様々に色分けされている軍の中で、もう一つ見かけない色がある。黒だ。初代戦士アカザが好んで用いた色であるため、黒は皇帝が親征する際にのみ用いられるという暗黙の決まりだった。
緋と黒、この二つの色が目に入るといやでも皇帝軍は奮い立つ。対する側としては最も警戒しなければならない色でもあった。
「ブドウは何度か戦に出たことがあるんだよね」
「ああ、中立地帯のごたごたにね。もっとも、こんな大軍は初めてだけど」
言いながらもブドウの声に緊張はない。同じく気負った様子のないアカネに片目をつぶってみせる余裕さえある。
「なに、何とかなるさ。兵の指揮は私に任せて、アカネは見学しているといい。私が守ってやるよ」
「うん、頼んだよ」
素直にアカネは頷いた。ここで功を逸るような性格ではない。経験のない自分がこの場にいるのは、皇子が矢面に立つことで兵の士気を上げ、相手の意気を殺ぐ以上の意味はないと承知している。
「あっちには国王もいるんだよね。魔法とか使ってくるかな」
「さあ。使われたら厄介だけど、実際にどれくらいの戦力になるかは分からないからね。そこは運次第だよ」
戦において不確定要素を数えだしたらきりがない。ともかく数ではこちらが勝っているのだ。アオイの本意ではない戦いだとは承知していたが、状況がここにまで至ってしまった今となってはせめて早く終わらせてしまうのが最善の方策だろう。
「じゃあ、始めようか。とっとと終わらせて、皇都のアオイ様とアサザに吉報を持って帰ろう」
頷いて、アカネは辺りを見回した。脇に控えた合図の太鼓係が撥を構える。
「全軍、進め!」
アカネの声と同時に太鼓が鳴る。一拍遅れて、一斉に甲冑が動く音が響く。
「歩兵大隊、前へ! 弓兵は二段の構え、用意!」
間髪入れずにブドウの指示が飛ぶ。太鼓が打ち鳴らされ、前線の形が変わっていく。
国王軍も動き出したようだ。鋭角にせり出した錐のような陣形、その矛先はまっすぐこちらの本陣を指している。
「中央突破するつもりか。悪いけどそう簡単にはさせないよ」
すかさず迎え撃つための合図が送られる。厚く布いて待ち受ける歩兵の正面に相手の先陣がぶつかった。喊声が上がる。たちまち彼我入り乱れる乱戦になった。
「魔法、使ってこないね」
アカネが言ったのは、国王軍の錐が皇帝軍の壁に削られ、跳ね返された頃だった。前進がやんでいる。逆に皇帝軍には勢いがあった。足の止まった国王軍に押し寄せ、確実にその外縁を突き崩している。ことに右翼の伸びが速い。相手の左翼を追い込み、どんどん進んでいる。
「向こうには国王がいる。まだ油断はできないよ」
「うん。でも魔法を使われる前に決着を着けれたら楽だよね。何も国王の命が目的じゃないんでしょう?」
「まあね。陛下からは反乱を鎮めろって言われてるだけだし」
「国王を捕まえることはできないかな。旗印を奪われちゃ、あっちだって戦い続けられないでしょう」
彼方の国王軍を見やって、アカネはぽつりと呟いた。
「兄上の友達らしいからさ。できれば死なせたくないんだよね」
「……そうだな」
ブドウは微笑をこぼした。アサザとレンギョウのことは聞いている。アサザを悲しませるようなことをしたくないのはブドウも同じだった。
「じゃあ、このまま包囲して国王を捕らえよう。数はこちらが上だし、勢いもあるから大丈夫だろう」
「あ、待って」
横に控えた伝令を呼ぼうとしたブドウを、アカネが止める。
「右翼には僕が行くよ」
「しかし、危険だぞ? 一番遠いし」
「だからだよ。途中で僕を見かけた兵たちの士気が上がるでしょう? 僕も働かないと、兄上たちに怒られちゃうからね」
しばし考えた末、ブドウは頷いた。どうやら今回は勝ち戦だ。アカネが姿を現せば、兵たちはますます勢いづくだろう。前線に出すことにためらいはあったが、混戦の中では相手も不用意に魔法など使えないという読みもあった。未だ若い皇子に経験を積ませるには良い機会かもしれない。
「わかった。ただしあまり深入りはするなよ」
「うん」
嬉しそうにアカネが答える。護衛役が素早く準備を整えた。ブドウの部下の中でも信頼の置ける兵が五名。がっちりと周囲を固められたアカネがブドウに笑顔を向けた。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
ブドウも笑顔を返す。それを認めて、アカネは馬を走らせた。緋の肩布が後ろに翻る。
「……将帥様だ!」
「皇子殿下が出られるぞ!」
飛び込んだ甲冑の群れから口々に歓声が上がった。兵たちの間を走るどよめきを追いかけるように、緋色が戦場を駆け抜ける。
「皆、前進だ! こんな戦い、早く終わらせよう!」
少し高めの、幼さを残した声はよく通る。それに応えて皇帝軍は一気に攻勢を強めた。それぞれの手に持った武器を構えて、国王軍へと突き進んでいく。
アカネはただ一心に手綱を操る。アサザ仕込の乗馬は得意な方だが、何せ足元には障害物が多い。倒れた兵など踏みつけては危険な上に気分の良いものでもないから、充分に注意しながら進んだ。一歩進むたびに前線に近づいているのが分かる。剣戟が耳よりも先に体を震わせた。恐怖と興奮が同時にこみ上げてくる。いつの間にか、右手が腰に佩いた剣の柄を握り締めていた。
「アカネ様、これ以上は危険です」
護衛の声にアカネは我に返った。周囲の護衛たちが速度を落とし、油断のない目を国王軍の方へと向けている。位置は長く伸びた右翼の中ほどといったところか。敵の姿は見えないが、既に戦端が開かれた場所を過ぎている。確かにこれ以上進むのは無謀だろう。
「ああ、そうだね。ありがとう」
アカネは手綱を緩めた。突撃を続ける兵たちの邪魔にならないよう、人波から外れた場所に馬を止める。見たところ包囲網は順調に進んでいるようだ。どうやら充分に役目は果たせたらしい。
「よし、じゃあ戻ろうか。あまり遅くなるとブドウが心配する」
上がり続ける鬨の声を確認して、安堵の笑みを浮かべたアカネが馬の首を返そうとした、その時だった。
最初に聞こえたのは鋭い風鳴りだった。続いて上がる悲鳴。一瞬にして場を支配する音が変わっていた。
アカネの背筋を冷たいものがなぞる。振り向いた先に広がっていたのは倒れ伏し、蹲る皇帝軍の兵たち。その体を踏み越えてこちらに近づいてくる一団が見えた。先頭は薙刀を持った大柄な男だ。鈍く光る角張った鎧は皇帝軍のものではない。男の後ろには軽装を纏っただけの影が五つ、そのようないでたちは重装備の皇帝軍ではありえない。
「国王軍!」
護衛たちに緊張が走る。次々に抜剣する彼らを、薙刀の男が不敵な笑みを浮かべて見やる。
「第三皇子にして皇帝軍将帥、アカネ殿とお見受けする」
「そうですが、あなたは」
努めて動揺を抑えながらアカネが問い返す。こんなに間近で敵と相対することは想定外だった。対して男は余裕がある。
「俺は国王軍のイブキという。実はさっき採用されたばかりでね。手柄を立てなきゃ帰れないんだ。勝手で悪いが、一緒に来てもらうぜ」
イブキの左手が上がる。同時に後ろの五人の掌がアカネたちに向かってかざされた。
「!」
魔法、と直感的に悟る。咄嗟に腕で顔を庇った。刹那、突風が叩きつけられる。かまいたちでも起こったのか、頬から赤い筋が飛んだ。
踏みとどまった、と思ったのはつかの間だった。身を切り裂く風に驚いた馬が悲鳴を上げて次々と暴れ出した。護衛たちが振り落とされる。アカネ自身も後ろ足で立ち上がった馬を御しきれずに落馬する。
「ぐっ……!」
呻き声をこらえるのが精一杯だった。すぐに立ち上がろうとするものの、着慣れない鎧が邪魔して思うように動けない。
この機会をイブキが逃すはずもなかった。薙刀を構え、一気にアカネたちに接近する。悲鳴と血飛沫の中、何とかアカネは態勢を整えて剣を抜く。痛みと悔しさでかすむ景色に、最後の護衛が沈んだ。
アカネはただ一人、イブキと向かい合った。
「僕を、どうする気だ」
「皇帝との取引の人質になってもらう。命までどうこうする気はないから安心しろ」
手にした得物から滴る赤を前にしては、まるで説得力のない台詞だ。表情をこわばらせたアカネに、イブキが苦い笑いを向ける。
「そう警戒するなよ。俺だってガキの頃を知ってる奴を手にかけたくはない」
「子供の頃?」
「昔剣を習ったイブキおじさん、覚えてないか? 隙ありと見ればすぐに突っ込んでくる癖、治ってないみたいだな。まんまとこんなところにまで引きずり込まれやがって」
指摘された癖には覚えがあったが、イブキという名には心当たりがない。アカネは黙って眼前の男を睨み返した。
「その気迫は大したもんだ。やはりキキョウ様のお子だな。目がそっくりだ」
突然飛び出した母の名にアカネの剣先が揺れる。しまったと思った時にはもうイブキの巨体が目の前にあった。
「あんたの弱点は表情が読みやすいことだな。機会があったらまた稽古をつけてやるよ」
どん、と首筋に重い衝撃が走った。急速に暗転していく視界の中、隅で緋色が躍った。転々と汚れが落ちたそれは、見る間に闇に呑まれて消えていく。まるで今の自分のようだと思ったのを最後に、アカネの意識は途切れた。
***************************************************************
<予告編>
「あなたには、失望しました」
敵陣の只中でアカネはレンギョウと向かい合う。
兄の友人。分かり合えると信じていた。
しかし卑怯な策で自分を捕らえたのは、紛れもなくこの銀髪の国王なのだ。
会見の様子を見守りながら、コウリは心中に不吉な芽が吹くのを感じていた。
レンギョウが第二皇子アサザと行動を共にしたと知った時と同じ、
危うい均衡が崩れそうになる予感。
王家にとって戦士に連なる者は敵であるはずだった。
ましてやアカネは、皇帝の血を引く皇子なのだ。
なのに彼の主は、先程の面罵さえも受け流して穏やかに微笑んでいる。
それは王者の器というより、親しい者へ対する苦笑に近いように見えた。
——危険だ。
コウリは密かに拳を握り締めた。
守らねばならない。レンギョウを。王家を。
『DOUBLE LORDS』承章12、
決意は石のように重く、コウリの裡へと沈んでいく。
「な、なに?」
レンギョウの隣で戦況を見守っていたシオンがこわばった表情をそちらに向ける。彼女にとっては初めての戦、しかも先ほどまでの状況は明らかにこちらが不利だった。何らかの変化があれば敏感に反応するのも無理はない。
今回が初陣なのはレンギョウも同じだ。しかし人の上に立つ者としての経験はシオンより多少長い。冷静を保ったままの聴覚は、最早どよめきと言っていい程に大きくなったそれの中に悲鳴や嗚咽といった音を捉えていない。直截的な危険はなさそうだ。
「大丈夫だ。どうやらイブキが無事仕事を果たしたらしい」
レンギョウの言葉を裏付けるように、本陣に近づいてくる響きは次第に歓声を含んだものに変わっていく。逆に皇帝軍は動揺の色も露わに浮き足立ち、後退を始めていた。
深追いすることはない。レンギョウは戦闘終了の指示を出す。二つの軍が完全に離れた頃、本陣にイブキが現れた。その腕には緋色の肩布を纏った少年が抱えられている。腕を縛られ、剣を取り上げられた少年は悔しげに身体をよじっている。
その幼さを残した横顔にレンギョウは胸を衝かれた。一目で兄弟と判るほど、少年はアサザと良く似ていた。
「くそ、放せ」
「皇子様がそんな言葉を遣うのは感心せんな。抗議するならもっと上品にしろよ」
じたばたともがく少年を見かねて、レンギョウは声を上げた。
「イブキ、下ろしてやってくれぬか」
「陛下」
「良いのだ。少しその者と話がしてみたい」
異を唱えられる前にコウリを制して、レンギョウは前に進み出る。少年は草を踏み倒しただけの地面に下ろされていた。当然自由にされることはなく、戒めの縄をかけられたままイブキに両肩を掴まれているが、膝をついたまま上気した顔を上げてレンギョウを睨みつけている。
「ご苦労だった」
まずはイブキを労う。目線だけで応える男を確認してからレンギョウは少年に向き直った。
「第四代皇帝アザミの第三子、アカネだな?」
「……当代国王レンギョウ殿とお見受けします」
頷いて、レンギョウはまっすぐアカネの目を見つめた。
「アサザの、弟だな?」
視線を逸らすことなく、アカネもレンギョウを見返す。
「あなたには、失望しました」
ざわ、と座が乱れる。気色ばむコウリ、息を呑むシオン、イブキですら驚いた表情を浮かべている。周囲の兵士たちにも聞こえたのだろう、身に痛いほどの視線が中央の二人に向けられる。
「兄からあなたのことは聞いています。信じるに足る方だと思っていたのに、戦士を捕らえ恥を晒させるのみならず、父帝への脅しの道具として使うなど」
吐き捨てるようなその響きに、レンギョウは思わず苦笑する。敵陣の真ん中でここまで率直にものを言える胆力に、怒りより先に感心を覚えてしまう。
「確かに、この状況ではおぬしに何を言われても仕方がなかろうな」
レンギョウは努めて平静な口調で言った。先の発言で膨れ上がった敵意をアカネから逸らすためにも、ここで自分が悪感情を見せるわけにはいかない。自戒しつつ言葉を継ぐ。
「しかし余とて負けるために兵を起こしたわけではない。犠牲を減らして勝つ法があるのなら、そちらを選ぶのは道理であろう。おぬしも人の上に立つ者ならば理解できると思うが?」
ぐ、とアカネが言葉を詰まらせる。犠牲を減らす。勿論その言葉の意味は理解している。レンギョウの言葉が兵を指揮する者として至極真っ当なものであることも分かっている。しかし心のどこかがそれを受け入れるのを拒んでいた。
自分が捕まったことで五人の護衛の命が失われている。彼らは元々ブドウの部下だ。アカネが軽率に前線に出るなどと言わなければ無事だったかもしれない、その命。
いや、そもそも兵を起こし干戈を交えた時点で死者は出ているのだ。皇子と護衛、一般兵、そして敵。立場の重みの差は明確だ。戦いの中で誰を最優先に生かし、そのために誰を切り捨てるかなど問うまでもない。しかし初めて目の当たりにした人の死にアカネが感じたのは、無味乾燥な数の論理ではなく理屈を越えた恐怖と嫌悪だった。
肩に置かれたイブキの手がいやでも意識される。この手が握る刃の前では立場など関係がなかった。そう、ここでは誰もが犠牲者になりうるという事実に、目の前の国王はまだ気づいていないのだ。
「……それで、今度は僕を犠牲にするつもりですか?」
安全圏で全体を俯瞰する代わりに、死の刹那の平等を知らないレンギョウ。つい先ほどまでのアカネ自身がそうであったように。知らず自嘲の笑みが洩れる。
「第三皇子にして皇帝軍将帥のこの身ひとつと引き換えに、あなたの民がどれほど救われることか。なるほど、合理的ですね」
思えばおかしな話だ。イブキは命までどうこうする気はない、と言った。かつての知り合いだから、皇子だから生かすと。死の平等を見せつけた男が、同時に立場の不平等をも突きつける、その矛盾。
その時、初めてレンギョウの表情が変わった。強く真剣な光が青銀の瞳に煌く。
「それは違う。おぬしが皇子だから生かすのではない。アサザの弟だから生きていてほしいのだ」
——兄上の友達らしいからさ。
そう呟いた自分の声が耳に蘇った。レンギョウが国王だからではなく、アサザの友人であるが故に死なせたくないと願っていた自分。あれからまだ数刻しか経っていないのが嘘のようだった。
「余はおぬしを犠牲になどしない。決して」
「……甘いですね」
アカネの口から溜息が洩れる。
「そんなことで国王が務まるんですか? さすがは聖王と呼ばれる方だ」
でも、とかすれるほどに小さな声でアカネは続けた。
「何故あなたが兄上と友達になったのか、分かる気がします」
「それは光栄だのう」
レンギョウが小さく笑った。アカネの肩から力が抜けたのが分かる。完全に気を許した訳では、勿論ないだろう。しかしこれから語り合う余地は充分にあるはずだった。
ふと後ろに視線を向けると、心底ほっとした表情のシオンと目が合った。良かったね、と口許が動くのを読み取って、レンギョウは微笑する。周囲の敵意も随分ほぐれたようだ。あくまで鷹揚に構え続けた国王の態度に安心したためだろうか。
とはいえ、この場にいつまでもアカネを置いておくわけにはいかない。レンギョウはいつも通り脇に控えるコウリを振り返った。
「コウリ、どこかに空いている天幕が——」
途切れた言葉を、レンギョウは思わず呑み込んだ。いつも側にいる見慣れた顔。しかし今、その薄茶の瞳はレンギョウがかつて見たことのない昏さを湛えてじっと一点を凝視している。その視線の先にはうなだれたアカネの姿。
「……コウリ?」
ためらいがちなレンギョウの呼びかけに、コウリが弾かれたように顔を上げる。
「ああ、申し訳ありません陛下。何でしょうか」
恭しく尋ねるその態度はいつものコウリと何ら変わりがない。訝しく思いながらも、レンギョウはアカネを収容する天幕を用意するよう指示を出す。一礼してコウリが踵を返しかけた、その時だった。
「敵襲!」
傾きかけた太陽の下、不穏な叫びが響いた。本陣にいた者は例外なく顔を上げる。
「ど、どうしたの?」
「皇帝軍の突撃です! 右翼中央、交戦中!」
シオンの問いに間髪入れず物見の兵が答える。アカネを傍の兵に預けたイブキが短く問う。
「数は」
「騎兵およそ三千! しかし残存の歩兵四万も前進中! 間もなく右翼側面と接触します!」
「……だとよ。どうする、陛下?」
一斉に注目を集める中、レンギョウはきっぱりと言った。
「相手の目的は将帥の奪還であろう。こちらとて害意はない。その旨を伝え、一度退いてもらうとしよう」
「伝えるって、どうやって?」
まさか普通に使者を立てるわけにもいくまい。当然の疑問に悪戯っぽく笑ってレンギョウが答えた。
「案ずるな。とっておきの方法がある。コウリ、アカネを頼んだぞ」
「……はい」
レンギョウに続いてシオン、イブキが右翼へと向かう。その背を見送って、コウリはアカネを振り返った。
「お待たせしましたアカネ殿。どうぞ、こちらへ」
「あ、うん」
慇懃な言葉の中にどこか禍々しいものを感じて、アカネは一瞬足を止める。しかし拘束された身でそう長く立ち止まっていることはできない。縄を持った兵士に抱えられるように、アカネは真新しい天幕の一つへと入っていった。
<予告編>
何としてでも、アカネを無事に取り戻す!
ブドウ決死の奪還戦が始まった。
自ら陣頭に立ち指揮を執るブドウ。
その勢いに後退していく国王・中立地帯連合軍。
しかし進撃は唐突に終わりを告げる。
立ち塞がった壁の名はススキ。
戦況確認のためレンギョウとシオンが席を外し、
コウリとアカネだけが天幕に残された。
先程までのレンギョウとアカネの対面で、
コウリが抱き続けていた危惧は確信に変わっていた。
「あなたがたは危険だ」
昏い光を孕んだコウリの手に握られていたものとは——
次回『DOUBLE LORDS』承章13、急展開。
レンギョウの隣で戦況を見守っていたシオンがこわばった表情をそちらに向ける。彼女にとっては初めての戦、しかも先ほどまでの状況は明らかにこちらが不利だった。何らかの変化があれば敏感に反応するのも無理はない。
今回が初陣なのはレンギョウも同じだ。しかし人の上に立つ者としての経験はシオンより多少長い。冷静を保ったままの聴覚は、最早どよめきと言っていい程に大きくなったそれの中に悲鳴や嗚咽といった音を捉えていない。直截的な危険はなさそうだ。
「大丈夫だ。どうやらイブキが無事仕事を果たしたらしい」
レンギョウの言葉を裏付けるように、本陣に近づいてくる響きは次第に歓声を含んだものに変わっていく。逆に皇帝軍は動揺の色も露わに浮き足立ち、後退を始めていた。
深追いすることはない。レンギョウは戦闘終了の指示を出す。二つの軍が完全に離れた頃、本陣にイブキが現れた。その腕には緋色の肩布を纏った少年が抱えられている。腕を縛られ、剣を取り上げられた少年は悔しげに身体をよじっている。
その幼さを残した横顔にレンギョウは胸を衝かれた。一目で兄弟と判るほど、少年はアサザと良く似ていた。
「くそ、放せ」
「皇子様がそんな言葉を遣うのは感心せんな。抗議するならもっと上品にしろよ」
じたばたともがく少年を見かねて、レンギョウは声を上げた。
「イブキ、下ろしてやってくれぬか」
「陛下」
「良いのだ。少しその者と話がしてみたい」
異を唱えられる前にコウリを制して、レンギョウは前に進み出る。少年は草を踏み倒しただけの地面に下ろされていた。当然自由にされることはなく、戒めの縄をかけられたままイブキに両肩を掴まれているが、膝をついたまま上気した顔を上げてレンギョウを睨みつけている。
「ご苦労だった」
まずはイブキを労う。目線だけで応える男を確認してからレンギョウは少年に向き直った。
「第四代皇帝アザミの第三子、アカネだな?」
「……当代国王レンギョウ殿とお見受けします」
頷いて、レンギョウはまっすぐアカネの目を見つめた。
「アサザの、弟だな?」
視線を逸らすことなく、アカネもレンギョウを見返す。
「あなたには、失望しました」
ざわ、と座が乱れる。気色ばむコウリ、息を呑むシオン、イブキですら驚いた表情を浮かべている。周囲の兵士たちにも聞こえたのだろう、身に痛いほどの視線が中央の二人に向けられる。
「兄からあなたのことは聞いています。信じるに足る方だと思っていたのに、戦士を捕らえ恥を晒させるのみならず、父帝への脅しの道具として使うなど」
吐き捨てるようなその響きに、レンギョウは思わず苦笑する。敵陣の真ん中でここまで率直にものを言える胆力に、怒りより先に感心を覚えてしまう。
「確かに、この状況ではおぬしに何を言われても仕方がなかろうな」
レンギョウは努めて平静な口調で言った。先の発言で膨れ上がった敵意をアカネから逸らすためにも、ここで自分が悪感情を見せるわけにはいかない。自戒しつつ言葉を継ぐ。
「しかし余とて負けるために兵を起こしたわけではない。犠牲を減らして勝つ法があるのなら、そちらを選ぶのは道理であろう。おぬしも人の上に立つ者ならば理解できると思うが?」
ぐ、とアカネが言葉を詰まらせる。犠牲を減らす。勿論その言葉の意味は理解している。レンギョウの言葉が兵を指揮する者として至極真っ当なものであることも分かっている。しかし心のどこかがそれを受け入れるのを拒んでいた。
自分が捕まったことで五人の護衛の命が失われている。彼らは元々ブドウの部下だ。アカネが軽率に前線に出るなどと言わなければ無事だったかもしれない、その命。
いや、そもそも兵を起こし干戈を交えた時点で死者は出ているのだ。皇子と護衛、一般兵、そして敵。立場の重みの差は明確だ。戦いの中で誰を最優先に生かし、そのために誰を切り捨てるかなど問うまでもない。しかし初めて目の当たりにした人の死にアカネが感じたのは、無味乾燥な数の論理ではなく理屈を越えた恐怖と嫌悪だった。
肩に置かれたイブキの手がいやでも意識される。この手が握る刃の前では立場など関係がなかった。そう、ここでは誰もが犠牲者になりうるという事実に、目の前の国王はまだ気づいていないのだ。
「……それで、今度は僕を犠牲にするつもりですか?」
安全圏で全体を俯瞰する代わりに、死の刹那の平等を知らないレンギョウ。つい先ほどまでのアカネ自身がそうであったように。知らず自嘲の笑みが洩れる。
「第三皇子にして皇帝軍将帥のこの身ひとつと引き換えに、あなたの民がどれほど救われることか。なるほど、合理的ですね」
思えばおかしな話だ。イブキは命までどうこうする気はない、と言った。かつての知り合いだから、皇子だから生かすと。死の平等を見せつけた男が、同時に立場の不平等をも突きつける、その矛盾。
その時、初めてレンギョウの表情が変わった。強く真剣な光が青銀の瞳に煌く。
「それは違う。おぬしが皇子だから生かすのではない。アサザの弟だから生きていてほしいのだ」
——兄上の友達らしいからさ。
そう呟いた自分の声が耳に蘇った。レンギョウが国王だからではなく、アサザの友人であるが故に死なせたくないと願っていた自分。あれからまだ数刻しか経っていないのが嘘のようだった。
「余はおぬしを犠牲になどしない。決して」
「……甘いですね」
アカネの口から溜息が洩れる。
「そんなことで国王が務まるんですか? さすがは聖王と呼ばれる方だ」
でも、とかすれるほどに小さな声でアカネは続けた。
「何故あなたが兄上と友達になったのか、分かる気がします」
「それは光栄だのう」
レンギョウが小さく笑った。アカネの肩から力が抜けたのが分かる。完全に気を許した訳では、勿論ないだろう。しかしこれから語り合う余地は充分にあるはずだった。
ふと後ろに視線を向けると、心底ほっとした表情のシオンと目が合った。良かったね、と口許が動くのを読み取って、レンギョウは微笑する。周囲の敵意も随分ほぐれたようだ。あくまで鷹揚に構え続けた国王の態度に安心したためだろうか。
とはいえ、この場にいつまでもアカネを置いておくわけにはいかない。レンギョウはいつも通り脇に控えるコウリを振り返った。
「コウリ、どこかに空いている天幕が——」
途切れた言葉を、レンギョウは思わず呑み込んだ。いつも側にいる見慣れた顔。しかし今、その薄茶の瞳はレンギョウがかつて見たことのない昏さを湛えてじっと一点を凝視している。その視線の先にはうなだれたアカネの姿。
「……コウリ?」
ためらいがちなレンギョウの呼びかけに、コウリが弾かれたように顔を上げる。
「ああ、申し訳ありません陛下。何でしょうか」
恭しく尋ねるその態度はいつものコウリと何ら変わりがない。訝しく思いながらも、レンギョウはアカネを収容する天幕を用意するよう指示を出す。一礼してコウリが踵を返しかけた、その時だった。
「敵襲!」
傾きかけた太陽の下、不穏な叫びが響いた。本陣にいた者は例外なく顔を上げる。
「ど、どうしたの?」
「皇帝軍の突撃です! 右翼中央、交戦中!」
シオンの問いに間髪入れず物見の兵が答える。アカネを傍の兵に預けたイブキが短く問う。
「数は」
「騎兵およそ三千! しかし残存の歩兵四万も前進中! 間もなく右翼側面と接触します!」
「……だとよ。どうする、陛下?」
一斉に注目を集める中、レンギョウはきっぱりと言った。
「相手の目的は将帥の奪還であろう。こちらとて害意はない。その旨を伝え、一度退いてもらうとしよう」
「伝えるって、どうやって?」
まさか普通に使者を立てるわけにもいくまい。当然の疑問に悪戯っぽく笑ってレンギョウが答えた。
「案ずるな。とっておきの方法がある。コウリ、アカネを頼んだぞ」
「……はい」
レンギョウに続いてシオン、イブキが右翼へと向かう。その背を見送って、コウリはアカネを振り返った。
「お待たせしましたアカネ殿。どうぞ、こちらへ」
「あ、うん」
慇懃な言葉の中にどこか禍々しいものを感じて、アカネは一瞬足を止める。しかし拘束された身でそう長く立ち止まっていることはできない。縄を持った兵士に抱えられるように、アカネは真新しい天幕の一つへと入っていった。
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<予告編>
何としてでも、アカネを無事に取り戻す!
ブドウ決死の奪還戦が始まった。
自ら陣頭に立ち指揮を執るブドウ。
その勢いに後退していく国王・中立地帯連合軍。
しかし進撃は唐突に終わりを告げる。
立ち塞がった壁の名はススキ。
戦況確認のためレンギョウとシオンが席を外し、
コウリとアカネだけが天幕に残された。
先程までのレンギョウとアカネの対面で、
コウリが抱き続けていた危惧は確信に変わっていた。
「あなたがたは危険だ」
昏い光を孕んだコウリの手に握られていたものとは——
次回『DOUBLE LORDS』承章13、急展開。
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