書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
煌く星々に焦がれて、幾度手を伸ばしたことだろう。
宇宙へ——
そして掲げ続けた腕を、幾度失望と共に下ろしたことだろう。
それは追い続けても手に触れることのできない、憧憬によく似ていた。
ビアンカは降るような星空を見上げ、ため息をついた。遠くから賑やかなパーティーの喧騒が聞こえてくる。白い息を吐いて、ビアンカは街灯の明かりから外れた丘へと向かって歩き始めた。今は、独りになりたかった。
ここは国立の宇宙飛行士訓練校だ。天文台も併設されているせいで周りには何もなく、丘ばかりが連なっている。漆黒の闇が描くのは丘の稜線。その影を、星々をちりばめた薄闇の空が浮かび上がらせている。明るいのは、丘の一つのふもとにある学校だけ。今夜が特に賑やかなのは、クリスマスイブのパーティーだけが原因ではない。
今日、12月24日は訓練生が待ち焦がれた選抜試験の結果発表日だった。10人の生徒の中で、選ばれるのはたった1人。訓練生ならば誰もが夢見る、宇宙への切符。不安とそれ以上の期待を胸にこの日を迎えたビアンカだったが、結果は——
「キャプテン・ポーラスタ……」
白いため息混じりに、その名をつぶやく。同時にこらえようのない悔しさと悲しみが襲ってきて、ビアンカは思わず足を止めそうになった。それを無理矢理励まして、がむしゃらに丘を登っていく。
見た目よりもかなりきつい斜面を登るのに疲れて、ビアンカはその場に座り込んだ。訓練生にとっては宵の口でも、一般の人にとっては既に夜更けといっても良い時間帯だ。降りた霜の寒気がじんわりと伝わってくる。
毛糸の帽子を深くかぶって、ビアンカは思い切って寝転がってみた。寒かったが、丘のてっぺんに隠れてパーティーの物音は聞こえなくなった。目を閉じて、腕を空へと掲げてみる。頭の中で星座をイメージして、指を指していく。
「北の空には北極星。北斗七星に、オリオン座。おおいぬ座のシリウス、ベテルギウスにプロキオン……」
「へえ、すごいなあ、全部当たってるよ。目で見なくてもわかるものなんだねぇ」
突然横から掛けられた声に、ビアンカは跳ね起きた。
「誰だっ!?」
一瞬訓練生の同期かとも思ったが、違うようだ。いつの間に姿を現したのか、ビアンカのすぐ横に一人の青年が立っていた。見たことのない顔だ。ご丁寧に赤いサンタの衣装をまとって、緊張感のかけらもない笑みを浮かべている。
「僕? 僕はサンタのニコルっていうんだ。君は?」
「さ、サンタだって?」
最初の驚きが通り過ぎると、後に残ったのは目の前の自称サンタに対する警戒心だけだった。ビアンカはニコルと名乗った青年から身を引いて距離を取った。少しは冷静になった頭で考えて、納得のいく答えを探し出す。
「そうか、パーティーの余興で呼ばれたサンタだな。道にでも迷ったのか?学校ならあっちの丘の向こうにあるぞ」
そっけないビアンカの答えに、しかしニコルは首を振った。
「パーティーに呼ばれた? ううん違うよ、僕は君に会うために来たんだ」
「あたしに会うため?」
ニコルはうなずいた。
「君は僕の今年のお客さんだから。君の願いを叶えるため、僕たちは来たんだよ」
「……僕たち?」
ビアンカの言葉に合わせるように、ニコルの後ろから1頭のトナカイが進み出た。首に下げたベルから澄んだ音を響かせながら、トナカイはビアンカの目を覗き込む。
「驚かせてしまってすみません。私はトーン。ニコルのパートナーです」
その口から発せられた言葉に、ビアンカは目を見開いた。
「トナカイがしゃべってる……? そんな、非科学的な」
「うん。僕らは本物のサンタとトナカイだからね」
ビアンカはめまいを感じた。仮にも自分は宇宙飛行士の卵、科学者の端くれだ。なのに目の前のこの非現実的な事態は一体何なんだ。試験に落ちたショックでどうにかなってしまったのだろうか。
「ねえお姉さん、僕らは君の強い願いに引き寄せられてここに来たんだ。何か強く願っていることはない?」
頭を抱えているビアンカのことはまったく気にする様子もなく、ニコルは笑顔で問いかけた。
「ね……願い?」
「そう。僕は物では満たされない人の願いを叶えるサンタだから。プレゼントをあげることはできないけれど、別の形で君の倖せを作る手助けは出来るかもしれない。君が持っている強い願い、僕らの仕事はそれを叶えることなんだ」
「あなたの心からは強い願いの光が見えました。何か、強く望んでいることがあるのでしょう。私たちにその願いを教えていただけませんか」
強く願っていたこと。それを思い出した時、ビアンカはすっと心が冷えていくのを感じた。
そう、たった一つだけ、ビアンカが望み続けたことがあった。
——宇宙へ。
これがただの飛行なら、たとえ試験に落ちても次のチャンスに向けてまた勉強しなおすだけの話だ。しかしビアンカには、どうしても今回の飛行に受からなければならない理由があった。
——あの人と一緒に、宇宙へ。
ビアンカはぎり、と奥歯を噛み締めてニコルから目を逸らした。握り締めた指先が震えているのは、寒さのせいだけではない。
「願いを叶えるサンタなんて、そんなのいるわけないだろうが。仮にそれが本当だとしても、あたしの願いは人に叶えてもらうようなものじゃない。自分で努力して手に入れるべきものだ。それに——」
試験の結果はもう決定してしまったのだ。今更覆るはずもない。
「もう遅いんだよ。あたしがこれまでやってきたことは、すべて無駄になってしまったんだから」
ビアンカのすべてを拒絶するような態度にニコルとトーンが顔を見合わせる。深深と冷える夜更けの丘の上に、気まずい沈黙が流れた。
「確かに、願いっていうのは本当なら自分で叶えなきゃならないものだよね」
口を開いたのはニコルだった。頭に載せたサンタの赤帽子の先っぽを指先でくるくる回しながらビアンカの顔を覗き込む。
「それを分かっているだけでも君は十分えらいと思うよ。でも、時々はがんばってもどうしようもないこともある。年に一度、クリスマスにくらいは僕らががんばっている人たちを助けてもいいんじゃないかな」
「そうですよ。無駄かどうかは私たちにあなたの願いを話してみてから決めてもいいのではないですか?」
ニコルとトーンの視線の先、ビアンカはそっぽを向いたまま答えない。辛抱強く、二人は待つ。
「……星を、追いかけるようなものなんだ」
ぽつり、とビアンカが言う。
「あたしは、あたしに夢をくれた人を追いかけてここまで来た。宇宙飛行士の訓練校に入って、訓練を積んで……すべてはあの人、キャプテン・ポーラスタに認めてもらいたいからだった」
ゆっくりとビアンカの目線が上がる。夜空を映した瞳の先、そこには淡く輝く北極星があった。
「ようビアンカ。試験勉強は順調か?」
親しげにかけられた声に、ビアンカは振り返った。今日の訓練を終えたばかりの同期生の向こうで、頭ひとつ背の高い三十男が手を上げている。
「キャプテン・ポーラスタ。珍しいですね、訓練室に顔を出すなんて」
ビアンカは男に小走りで近づいた。見上げた男は無精ひげの生えたあごをさすりながら、にやりと笑って見せる。
「なぁに、ひよっ子どもががんばってる姿を一目見ておこうと思ってな。部下の仕上がりを確認するのも、責任者の大事な仕事だし」
男の手がぽん、とビアンカの頭に置かれる。
「訓練の様子を見せてもらったが、お前はなかなか筋がいい。お前になら安心してサポートを任せられそうだ」
「はっ、はい、ありがとうございます!」
「試験は来週だったな。ま、がんばって乗組員になってくれや。期待してるぜ」
褒められた嬉しさと興奮で頬を染めているビアンカの後ろで、今になって男に気づいたらしい同期たちの声が上がった。
「あ、キャプテン・ポーラスタだ」
「本当だ。キャプテン、今日は何の用ですか?」
「用がなきゃ来ちゃいけないのか、俺は。見学だよ、見学」
男はビアンカの横をすり抜けて、同期たちの方へ行ってしまった。その大きな背中を見るともなしに追いかけて、ビアンカは小さくため息をついた。
同期たちは皆若い。一人だけ年代が違うこともあって、男の姿はとても目立った。いや、目立っているのは年齢のせいだけではない。軽口を叩きながら同期たちとじゃれている男は、他の誰より圧倒的な存在感があった。決して人を威圧するようなものではないが、ただそこにいるだけで大きな安心感を与えてくれる不思議な力。事実、試験を控えてぴりぴりしていた同期たちの表情に久しぶりに笑顔が戻っている。
一週間後の試験に通れば乗ることになる宇宙船の船長、キャプテン・ポーラスタ。ビアンカが誰よりも憧れ、尊敬している宇宙飛行士。それが目の前の男だった。
別に本名があるにもかかわらず、誰からも二つ名である”キャプテン・ポーラスタ”と呼ばれるほどに、彼はこれまでに大きな業績を挙げてきた。北極星とは決して狂わない指針のこと。十代で初めて宇宙への切符を手にして以来、彼が確立した技術や発見した新事実は数え切れない。彼は文字通りこの世界で生きる者にとっての巨星であり続けた。
しかし彼はこの次の飛行を最後に現役を引退する。今回初めて選抜試験に臨むビアンカにとって、彼と一緒に宇宙を飛ぶチャンスはこの一度きりしかない。
きっと、この試験に受かってみせる。そして彼と一緒に宇宙から地球を見るのだ。
その夢のためにビアンカは宇宙飛行士を目指し、ここまで来たのだから。
宇宙へ——
そして掲げ続けた腕を、幾度失望と共に下ろしたことだろう。
それは追い続けても手に触れることのできない、憧憬によく似ていた。
ビアンカは降るような星空を見上げ、ため息をついた。遠くから賑やかなパーティーの喧騒が聞こえてくる。白い息を吐いて、ビアンカは街灯の明かりから外れた丘へと向かって歩き始めた。今は、独りになりたかった。
ここは国立の宇宙飛行士訓練校だ。天文台も併設されているせいで周りには何もなく、丘ばかりが連なっている。漆黒の闇が描くのは丘の稜線。その影を、星々をちりばめた薄闇の空が浮かび上がらせている。明るいのは、丘の一つのふもとにある学校だけ。今夜が特に賑やかなのは、クリスマスイブのパーティーだけが原因ではない。
今日、12月24日は訓練生が待ち焦がれた選抜試験の結果発表日だった。10人の生徒の中で、選ばれるのはたった1人。訓練生ならば誰もが夢見る、宇宙への切符。不安とそれ以上の期待を胸にこの日を迎えたビアンカだったが、結果は——
「キャプテン・ポーラスタ……」
白いため息混じりに、その名をつぶやく。同時にこらえようのない悔しさと悲しみが襲ってきて、ビアンカは思わず足を止めそうになった。それを無理矢理励まして、がむしゃらに丘を登っていく。
見た目よりもかなりきつい斜面を登るのに疲れて、ビアンカはその場に座り込んだ。訓練生にとっては宵の口でも、一般の人にとっては既に夜更けといっても良い時間帯だ。降りた霜の寒気がじんわりと伝わってくる。
毛糸の帽子を深くかぶって、ビアンカは思い切って寝転がってみた。寒かったが、丘のてっぺんに隠れてパーティーの物音は聞こえなくなった。目を閉じて、腕を空へと掲げてみる。頭の中で星座をイメージして、指を指していく。
「北の空には北極星。北斗七星に、オリオン座。おおいぬ座のシリウス、ベテルギウスにプロキオン……」
「へえ、すごいなあ、全部当たってるよ。目で見なくてもわかるものなんだねぇ」
突然横から掛けられた声に、ビアンカは跳ね起きた。
「誰だっ!?」
一瞬訓練生の同期かとも思ったが、違うようだ。いつの間に姿を現したのか、ビアンカのすぐ横に一人の青年が立っていた。見たことのない顔だ。ご丁寧に赤いサンタの衣装をまとって、緊張感のかけらもない笑みを浮かべている。
「僕? 僕はサンタのニコルっていうんだ。君は?」
「さ、サンタだって?」
最初の驚きが通り過ぎると、後に残ったのは目の前の自称サンタに対する警戒心だけだった。ビアンカはニコルと名乗った青年から身を引いて距離を取った。少しは冷静になった頭で考えて、納得のいく答えを探し出す。
「そうか、パーティーの余興で呼ばれたサンタだな。道にでも迷ったのか?学校ならあっちの丘の向こうにあるぞ」
そっけないビアンカの答えに、しかしニコルは首を振った。
「パーティーに呼ばれた? ううん違うよ、僕は君に会うために来たんだ」
「あたしに会うため?」
ニコルはうなずいた。
「君は僕の今年のお客さんだから。君の願いを叶えるため、僕たちは来たんだよ」
「……僕たち?」
ビアンカの言葉に合わせるように、ニコルの後ろから1頭のトナカイが進み出た。首に下げたベルから澄んだ音を響かせながら、トナカイはビアンカの目を覗き込む。
「驚かせてしまってすみません。私はトーン。ニコルのパートナーです」
その口から発せられた言葉に、ビアンカは目を見開いた。
「トナカイがしゃべってる……? そんな、非科学的な」
「うん。僕らは本物のサンタとトナカイだからね」
ビアンカはめまいを感じた。仮にも自分は宇宙飛行士の卵、科学者の端くれだ。なのに目の前のこの非現実的な事態は一体何なんだ。試験に落ちたショックでどうにかなってしまったのだろうか。
「ねえお姉さん、僕らは君の強い願いに引き寄せられてここに来たんだ。何か強く願っていることはない?」
頭を抱えているビアンカのことはまったく気にする様子もなく、ニコルは笑顔で問いかけた。
「ね……願い?」
「そう。僕は物では満たされない人の願いを叶えるサンタだから。プレゼントをあげることはできないけれど、別の形で君の倖せを作る手助けは出来るかもしれない。君が持っている強い願い、僕らの仕事はそれを叶えることなんだ」
「あなたの心からは強い願いの光が見えました。何か、強く望んでいることがあるのでしょう。私たちにその願いを教えていただけませんか」
強く願っていたこと。それを思い出した時、ビアンカはすっと心が冷えていくのを感じた。
そう、たった一つだけ、ビアンカが望み続けたことがあった。
——宇宙へ。
これがただの飛行なら、たとえ試験に落ちても次のチャンスに向けてまた勉強しなおすだけの話だ。しかしビアンカには、どうしても今回の飛行に受からなければならない理由があった。
——あの人と一緒に、宇宙へ。
ビアンカはぎり、と奥歯を噛み締めてニコルから目を逸らした。握り締めた指先が震えているのは、寒さのせいだけではない。
「願いを叶えるサンタなんて、そんなのいるわけないだろうが。仮にそれが本当だとしても、あたしの願いは人に叶えてもらうようなものじゃない。自分で努力して手に入れるべきものだ。それに——」
試験の結果はもう決定してしまったのだ。今更覆るはずもない。
「もう遅いんだよ。あたしがこれまでやってきたことは、すべて無駄になってしまったんだから」
ビアンカのすべてを拒絶するような態度にニコルとトーンが顔を見合わせる。深深と冷える夜更けの丘の上に、気まずい沈黙が流れた。
「確かに、願いっていうのは本当なら自分で叶えなきゃならないものだよね」
口を開いたのはニコルだった。頭に載せたサンタの赤帽子の先っぽを指先でくるくる回しながらビアンカの顔を覗き込む。
「それを分かっているだけでも君は十分えらいと思うよ。でも、時々はがんばってもどうしようもないこともある。年に一度、クリスマスにくらいは僕らががんばっている人たちを助けてもいいんじゃないかな」
「そうですよ。無駄かどうかは私たちにあなたの願いを話してみてから決めてもいいのではないですか?」
ニコルとトーンの視線の先、ビアンカはそっぽを向いたまま答えない。辛抱強く、二人は待つ。
「……星を、追いかけるようなものなんだ」
ぽつり、とビアンカが言う。
「あたしは、あたしに夢をくれた人を追いかけてここまで来た。宇宙飛行士の訓練校に入って、訓練を積んで……すべてはあの人、キャプテン・ポーラスタに認めてもらいたいからだった」
ゆっくりとビアンカの目線が上がる。夜空を映した瞳の先、そこには淡く輝く北極星があった。
「ようビアンカ。試験勉強は順調か?」
親しげにかけられた声に、ビアンカは振り返った。今日の訓練を終えたばかりの同期生の向こうで、頭ひとつ背の高い三十男が手を上げている。
「キャプテン・ポーラスタ。珍しいですね、訓練室に顔を出すなんて」
ビアンカは男に小走りで近づいた。見上げた男は無精ひげの生えたあごをさすりながら、にやりと笑って見せる。
「なぁに、ひよっ子どもががんばってる姿を一目見ておこうと思ってな。部下の仕上がりを確認するのも、責任者の大事な仕事だし」
男の手がぽん、とビアンカの頭に置かれる。
「訓練の様子を見せてもらったが、お前はなかなか筋がいい。お前になら安心してサポートを任せられそうだ」
「はっ、はい、ありがとうございます!」
「試験は来週だったな。ま、がんばって乗組員になってくれや。期待してるぜ」
褒められた嬉しさと興奮で頬を染めているビアンカの後ろで、今になって男に気づいたらしい同期たちの声が上がった。
「あ、キャプテン・ポーラスタだ」
「本当だ。キャプテン、今日は何の用ですか?」
「用がなきゃ来ちゃいけないのか、俺は。見学だよ、見学」
男はビアンカの横をすり抜けて、同期たちの方へ行ってしまった。その大きな背中を見るともなしに追いかけて、ビアンカは小さくため息をついた。
同期たちは皆若い。一人だけ年代が違うこともあって、男の姿はとても目立った。いや、目立っているのは年齢のせいだけではない。軽口を叩きながら同期たちとじゃれている男は、他の誰より圧倒的な存在感があった。決して人を威圧するようなものではないが、ただそこにいるだけで大きな安心感を与えてくれる不思議な力。事実、試験を控えてぴりぴりしていた同期たちの表情に久しぶりに笑顔が戻っている。
一週間後の試験に通れば乗ることになる宇宙船の船長、キャプテン・ポーラスタ。ビアンカが誰よりも憧れ、尊敬している宇宙飛行士。それが目の前の男だった。
別に本名があるにもかかわらず、誰からも二つ名である”キャプテン・ポーラスタ”と呼ばれるほどに、彼はこれまでに大きな業績を挙げてきた。北極星とは決して狂わない指針のこと。十代で初めて宇宙への切符を手にして以来、彼が確立した技術や発見した新事実は数え切れない。彼は文字通りこの世界で生きる者にとっての巨星であり続けた。
しかし彼はこの次の飛行を最後に現役を引退する。今回初めて選抜試験に臨むビアンカにとって、彼と一緒に宇宙を飛ぶチャンスはこの一度きりしかない。
きっと、この試験に受かってみせる。そして彼と一緒に宇宙から地球を見るのだ。
その夢のためにビアンカは宇宙飛行士を目指し、ここまで来たのだから。
ビアンカの溜息が冷えた空気に溶ける。
「フライトに選ばれた奴——ポールよりもあたしは遅くまで残って訓練してたし、試験だってうまくいった。それなのに」
深く息をついて、ビアンカは顔を覆った。そのままずるずるとその場に座り込んでしまう。
「ああ、あたし、何言ってるんだろ。あんたたちにこんな愚痴こぼしたって何にもならないのに」
「……お姉さんは強い人だね。ライバルの悪口を言うこともできるのに、それを自分に許さないなんて」
穏やかに微笑んだまま、ニコルが言った。
「ねえ、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかな? 自分への厳しさも大切だけど、時々は優しくしてあげなきゃ疲れちゃうよ」
「うるさいサンタ。あんたに何が分かるっていうんだ」
肩に載せられたニコルの手を邪険に払って、ビアンカは立ち上がった。
「ばからしい。帰る」
「ちょっと待ってください」
丘を下りかけたビアンカの前に、トーンが立ちふさがった。
「いいのですか? ここで帰ってしまってはあなたの悲しみは癒されないままです。ベストを尽くして、それでも後悔しているのなら、最後にもうひとつくらいチャレンジしてみてもいいのではないですか?」
「そうだよ。ものはためしで僕たちのプレゼントを受け取ってもらえないかな。これまでお姉さんはすごく頑張ってきたんだから、僕としてもぜひ倖せになってほしいし」
「倖せ……だって?」
うん、とニコルが頷く。
「僕のプレゼントはね、あげた人の倖せのつながりでできているんだ。今年お姉さんにあげるプレゼントは去年のお客さんの倖せから作られたものだし、去年のお客さんのプレゼントはその前のお客さんの倖せから、っていう風にね」
だから、とニコルは続ける。
「お姉さんが僕らのプレゼントで倖せになれたら、それを僕らに少しだけ分けてほしいんだ。それを元にして、来年のお客さんのプレゼントが作られるから」
「へえ。あたしを倖せにできるっていう自信があるわけ?」
「うん。きっとね」
険のある視線を変えないビアンカに、ニコルは力の抜けるような笑みを向けた。その笑顔を見つめていたビアンカは、やがて根負けしたように首を振った。
「分かった。受け取ってやるよ。そこのトナカイが言うように、目の前にチャンスがあるのにやってみないってのは後味が悪いしな」
「ありがとう」
ニコルが嬉しそうに笑った。その心の底からのような笑みに、ビアンカは呆れる。
「普通、礼はもらう方が言うもんじゃないのか? あんたがあたしに言ってどうするんだよ」
「そんなことないよ。プレゼントをあげることがサンタの仕事だから。受け取ってもらって嬉しいのは僕も同じ」
返す言葉を失って、ビアンカは沈黙した。その目の前でニコルはトーンにくくりつけた橇に向き直った。橇の半分以上を占領した巨大な白い袋を漁りながらニコルが訊く。
「ねえ、お姉さんの名前は何ていうの?」
「……ビアンカ」
そう、とだけ答えたニコルは袋の中から一個の包みを取り出した。振り返って、一抱えはあるその包みをビアンカへと手渡す。
「ねえ、ビアンカは何で宇宙飛行士になろうと思ったの?」
「さっき言ったじゃないか。キャプテン・ポーラスタに憧れたからだって」
「うん。だけどそれって本当にはじめに思ったことなのかな? キャプテンの人柄を知ったのってもっと後のことなんじゃない?」
「……それは」
虚を突かれてビアンカは絶句した。そもそものはじまり。夢の最初はいつ、どこだっただろう?
「何でもそうだと思うけど、はじまりを覚えているかどうかって結構大事なことだと思うんだ。忘れちゃったのなら、思い出せるといいね」
返事をしようとした瞬間、ビアンカは包みが細かく震えているのに気づいて腕の中に目を落とした。長方形の箱は深い緑の包み紙で覆われ、シンプルな赤のループリボンが右上にくっついている。その包装紙がひとりでに開いていく。その隙間からのぞいた箱からは光の粒子があふれ出して、闇に慣れたビアンカの瞳を覆っていく。
「なっ……!」
ばさり、と音を立てて緑の紙が吹き飛んだ。箱の内側から膨れ上がった光が頬を撫でた瞬間、ビアンカはニコルの声を聞いた。
「君に優しい思い出と未来を。ハッピークリスマス、ビアンカ」
その先は光の洪水にまぎれて、聞こえなかった。
どこからか、懐かしい響きのチャイムが聞こえる。ビアンカはそっと目を開いた。真っ白な光が目に入ったが、先程目を灼いたものほど強くはない。ゆっくりと辺りを見回す。たくさんの椅子と机、それに幼さの残る声ではしゃぐ若者たち。どうやらここは学校のようだ。
「……なんだ、ここは?」
先程まで夜の訓練所近くの丘に立っていたはずだ。そう自分に確認しながら、ビアンカは怪訝な顔のままきょろきょろする。壁際に教師らしい姿が数人見える以外、大人は見当たらない。明らかにビアンカだけが浮いているはずなのに、周りにいる生徒たちが気にしている様子もなかった。
そこまで考えて、ふとビアンカは気づいた。
いや、違う。気にしないのではなく、見えていないのだ。
その証拠に、さっきから誰一人として目が合わない。ビアンカがいる場所を、まるで何もないかのように視線が素通りしていく。
何故こんな場所に。何故この場にいる人間に自分が見えていないのか。こんなことになった原因は、ひとつしか考えられなかった。
「なんなんだよ。あのサンタ、一体何をしたって言うんだよ!?」
半ばパニックになりながら、元凶の姿を探す。今は記憶の中のあの笑顔が悪魔のそれに思えた。
やがてビアンカは、見知った顔を見つけて動きを止めた。あのサンタでもトナカイでもなく、もっと身近な顔。
「……あたし?」
視線の先には、まだ子供の面影を残した自分自身の姿があった。他の生徒と違って友人と話すでもなく、ぽつんと一人すみっこに座っている。夢も希望もないといった風情の、退屈そうな眼差し。そう、確かに昔、そういう表情をしていたことがあった。
ビアンカは改めて周囲を見回した。椅子、机、教師や生徒の顔ぶれ、チャイムの音。そうと気づけばここがどこかはすぐに分かった。懐かしいはずだ。ここはビアンカが通っていたジュニアスクールの講堂だ。
「ここは、過去?」
そうとしか考えられなかった。
「ありえない、そんな非科学的なこと……」
ビアンカがぶつぶつと呟く間にも、講堂にはどんどん生徒が入ってくる。やがて席がいっぱいになり、厚い扉が閉められると徐々に場は静まっていった。
校長が壇に登ったのを見て、ビアンカは思考を中断して隅の方へと移動した。見えないと分かっていても、なんとなく中央にはいづらい。目の前に昔の自分を眺めながら、とりあえず校長の話が始まるのを待つ。
「えー、本日はお日柄もよくー」
毒にも薬にもならない声を聞き流しながら、ビアンカは再び考え込んだ。何がどうなって過去などに迷い込んだのかは分からない。しかし元の丘へ戻る方法も分からない以上、下手に動くのも良くないように思えた。ではどうすれば良いか。結論が出ないまま、ビアンカの考えは同じところをぐるぐると回り続ける。
「——というわけで本日の講演者キャプテン・ポーラスタにおいでいただいたわけであります」
いきなり耳に馴染んだ名前が飛び込んできた。思わず顔を上げる。壇上には面白おかしくもない校長の顔。しかし彼に呼ばれて、頭をかきながら演壇へと上っていく男を認めた瞬間、ビアンカの脈拍は跳ね上がった。
「キャプテン……?」
「あー、マイクテスマイクテス」
校長から譲られたマイクを指先で叩く男は、見慣れた顔より幾分若かった。驚いたまま固まっているビアンカに気づいた様子もなく、客席から上がった拍手に適当に応えつつ話し始める。
「その……何だ、俺はこんなところでしゃべっちゃいるが、実はそんなに偉いわけじゃない。ついでに言うと人前でしゃべるのは苦手だ」
開口一番の講演者の発言に、会場は笑いに包まれた。笑っていないのは二人のビアンカだけ。過去のビアンカはつまらなさそうに、現在のビアンカはかぶりを振って。
この頃、男は既に何度も飛行に成功しているはずだ。宇宙空間で成し遂げた実験の数々、その結果を踏まえたたくさんの論文、それらによって彼の科学者としての地位が確立しつつある時期であることを現在のビアンカは知っている。
同時に人前でしゃべることが苦手という言葉が本当だということも知っていた。仲間内のパーティーの席ですら、興の乗った訓練生からスピーチに指名されるたび逃げ回っていた姿を思い出し、わけもなくビアンカの胸が締めつけられる。
「昨日の夜どんなことを話そうかと色々考えてみたんだが、いつの間にか寝ちまってな。おまけに寝坊したもんだから、どうにもまとまらないままここに立つ羽目になった。仕方ないから開き直って、思いつくまま話をしようと思う。退屈だったらすまん」
再び笑いの起こった会場に笑顔を返して、男は演壇に身を乗り出した。
「皆に訊きたい。星を見るのは好きか?」
男の視線がまっすぐにビアンカに向けられる。その指が自分を指しているのを認めてビアンカはうろたえた。自分の姿が男には見えているのだろうか。
「そこのあんた、つまらなそうだな。俺の話には興味がないか?」
「……別に」
過去のビアンカが大きく息を吐いて答える。その口調はあくまで冷め切っていて、関心を持っていないことが明らかだ。その声を聞いて、ようやくビアンカは男が現在の自分を指したのではないことに気付いた。
「そうか。そりゃ残念だ。俺は大好きなんだがな」
苦笑を浮かべながら男が言う。
「ガキの頃から空を見上げるのが好きでな。それが高じて、今じゃメシの種だ。何にもない大平原で見る夜空や、宇宙から見た地球ってのはそりゃすごいもんだぜ。初めて見た時、俺はただただ圧倒されて声も出せなかった」
一拍の呼吸をおいて、男は言葉を継いだ。
「だが、何気なく毎晩見上げる空ってのも案外捨てたもんじゃない。街中でも明るい星なら観測できるし、運が良ければ流れ星だって見える。きれいなものを見るとちょっとしたイヤなことなんて忘れちまえるだろ?」
男の口調は生き生きと弾んでいる。本当に好きなことを話題にしているからだろう、男は何の衒いもない様子で演壇から生徒たちに語りかける。
「ここにいる全員が星を眺めるのが好きじゃなくても構わない。だが、せめてひとつくらいは日常の中で倖せを感じられるようなものを持っていてほしい。何かにつまずいた時、それが意外なほど大きなしるべになる。まるでいつも頭の上で光っている星のようにな」
過去のビアンカは不思議なものでも見るような目で壇上を見つめていた。事実、解らなかったのだ。何故そんなにひとつのことに夢中になれるのか。どうしたらこんなに熱っぽく語れるのか。——どうやったら、そんなものが見つかるのか。
男はビアンカの周りにはいない種類の大人だった。こういう風に己の心を表せる大人をビアンカは知らない。思い浮かぶのは勉強を強制するばかりでちっとも褒めてくれない顔ばかり。彼らはビアンカに夢を語るどころか、そんなものを描くことすら禁じているように見えた。
示された道を疑問を持たずに歩むことを求め、それ以外は悪いことだと頭ごなしに決めつける大人がビアンカは嫌いだった。誂えられた道をなぞるしかない毎日が退屈で、だからと言って逸れることもできない自分自身のことも。
大人になるとはそういうこと。諦めにも似た思いが巣食った心を抱え、日々を過ごすうちにだんだんとビアンカの気力は萎えていった。不確定な夢など望まずに、堅実な現実を過ごすこと。それは確かに倖せのひとつの形だろう。
だがそれは、全ての倖せの形ではない。
「どんなことに倖せを感じるかってのは人それぞれだ。好きなことは一人一人違うし、ものの考え方だって違う。今好きなことがあるなら、それを大事にしてほしい。もし何も心当たりがないのなら、見つかるまで探してほしい。それがあるかどうかで人の生き方は随分違ったものになる」
壇上の男の言葉は揺るぎない力に満ちていた。その力こそがビアンカを導く光だった。無気力だった自分のしるべとなり、宇宙を目指させたもの。
その証に過去のビアンカの表情が目に見えて変わっていた。頬を上気させ、じっと男の言葉に耳を傾けている。ビアンカは思い出す。この講演をきっかけに星に興味を持つようになったことを。男と同じ道を辿れば、ああいう大人になれると信じたことを。
「ここにいる皆がいずれしるべとなる星を見つけられるよう祈っている。実り多い未来を過ごしてくれ」
そう結んで、男はマイクから身を引いた。拍手の中、照れた様子で演壇を降りていく。ビアンカはゆっくりと目を閉じた。いつの間にか置き去りにしていた忘れ物を見つけた気分だった。
「フライトに選ばれた奴——ポールよりもあたしは遅くまで残って訓練してたし、試験だってうまくいった。それなのに」
深く息をついて、ビアンカは顔を覆った。そのままずるずるとその場に座り込んでしまう。
「ああ、あたし、何言ってるんだろ。あんたたちにこんな愚痴こぼしたって何にもならないのに」
「……お姉さんは強い人だね。ライバルの悪口を言うこともできるのに、それを自分に許さないなんて」
穏やかに微笑んだまま、ニコルが言った。
「ねえ、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかな? 自分への厳しさも大切だけど、時々は優しくしてあげなきゃ疲れちゃうよ」
「うるさいサンタ。あんたに何が分かるっていうんだ」
肩に載せられたニコルの手を邪険に払って、ビアンカは立ち上がった。
「ばからしい。帰る」
「ちょっと待ってください」
丘を下りかけたビアンカの前に、トーンが立ちふさがった。
「いいのですか? ここで帰ってしまってはあなたの悲しみは癒されないままです。ベストを尽くして、それでも後悔しているのなら、最後にもうひとつくらいチャレンジしてみてもいいのではないですか?」
「そうだよ。ものはためしで僕たちのプレゼントを受け取ってもらえないかな。これまでお姉さんはすごく頑張ってきたんだから、僕としてもぜひ倖せになってほしいし」
「倖せ……だって?」
うん、とニコルが頷く。
「僕のプレゼントはね、あげた人の倖せのつながりでできているんだ。今年お姉さんにあげるプレゼントは去年のお客さんの倖せから作られたものだし、去年のお客さんのプレゼントはその前のお客さんの倖せから、っていう風にね」
だから、とニコルは続ける。
「お姉さんが僕らのプレゼントで倖せになれたら、それを僕らに少しだけ分けてほしいんだ。それを元にして、来年のお客さんのプレゼントが作られるから」
「へえ。あたしを倖せにできるっていう自信があるわけ?」
「うん。きっとね」
険のある視線を変えないビアンカに、ニコルは力の抜けるような笑みを向けた。その笑顔を見つめていたビアンカは、やがて根負けしたように首を振った。
「分かった。受け取ってやるよ。そこのトナカイが言うように、目の前にチャンスがあるのにやってみないってのは後味が悪いしな」
「ありがとう」
ニコルが嬉しそうに笑った。その心の底からのような笑みに、ビアンカは呆れる。
「普通、礼はもらう方が言うもんじゃないのか? あんたがあたしに言ってどうするんだよ」
「そんなことないよ。プレゼントをあげることがサンタの仕事だから。受け取ってもらって嬉しいのは僕も同じ」
返す言葉を失って、ビアンカは沈黙した。その目の前でニコルはトーンにくくりつけた橇に向き直った。橇の半分以上を占領した巨大な白い袋を漁りながらニコルが訊く。
「ねえ、お姉さんの名前は何ていうの?」
「……ビアンカ」
そう、とだけ答えたニコルは袋の中から一個の包みを取り出した。振り返って、一抱えはあるその包みをビアンカへと手渡す。
「ねえ、ビアンカは何で宇宙飛行士になろうと思ったの?」
「さっき言ったじゃないか。キャプテン・ポーラスタに憧れたからだって」
「うん。だけどそれって本当にはじめに思ったことなのかな? キャプテンの人柄を知ったのってもっと後のことなんじゃない?」
「……それは」
虚を突かれてビアンカは絶句した。そもそものはじまり。夢の最初はいつ、どこだっただろう?
「何でもそうだと思うけど、はじまりを覚えているかどうかって結構大事なことだと思うんだ。忘れちゃったのなら、思い出せるといいね」
返事をしようとした瞬間、ビアンカは包みが細かく震えているのに気づいて腕の中に目を落とした。長方形の箱は深い緑の包み紙で覆われ、シンプルな赤のループリボンが右上にくっついている。その包装紙がひとりでに開いていく。その隙間からのぞいた箱からは光の粒子があふれ出して、闇に慣れたビアンカの瞳を覆っていく。
「なっ……!」
ばさり、と音を立てて緑の紙が吹き飛んだ。箱の内側から膨れ上がった光が頬を撫でた瞬間、ビアンカはニコルの声を聞いた。
「君に優しい思い出と未来を。ハッピークリスマス、ビアンカ」
その先は光の洪水にまぎれて、聞こえなかった。
どこからか、懐かしい響きのチャイムが聞こえる。ビアンカはそっと目を開いた。真っ白な光が目に入ったが、先程目を灼いたものほど強くはない。ゆっくりと辺りを見回す。たくさんの椅子と机、それに幼さの残る声ではしゃぐ若者たち。どうやらここは学校のようだ。
「……なんだ、ここは?」
先程まで夜の訓練所近くの丘に立っていたはずだ。そう自分に確認しながら、ビアンカは怪訝な顔のままきょろきょろする。壁際に教師らしい姿が数人見える以外、大人は見当たらない。明らかにビアンカだけが浮いているはずなのに、周りにいる生徒たちが気にしている様子もなかった。
そこまで考えて、ふとビアンカは気づいた。
いや、違う。気にしないのではなく、見えていないのだ。
その証拠に、さっきから誰一人として目が合わない。ビアンカがいる場所を、まるで何もないかのように視線が素通りしていく。
何故こんな場所に。何故この場にいる人間に自分が見えていないのか。こんなことになった原因は、ひとつしか考えられなかった。
「なんなんだよ。あのサンタ、一体何をしたって言うんだよ!?」
半ばパニックになりながら、元凶の姿を探す。今は記憶の中のあの笑顔が悪魔のそれに思えた。
やがてビアンカは、見知った顔を見つけて動きを止めた。あのサンタでもトナカイでもなく、もっと身近な顔。
「……あたし?」
視線の先には、まだ子供の面影を残した自分自身の姿があった。他の生徒と違って友人と話すでもなく、ぽつんと一人すみっこに座っている。夢も希望もないといった風情の、退屈そうな眼差し。そう、確かに昔、そういう表情をしていたことがあった。
ビアンカは改めて周囲を見回した。椅子、机、教師や生徒の顔ぶれ、チャイムの音。そうと気づけばここがどこかはすぐに分かった。懐かしいはずだ。ここはビアンカが通っていたジュニアスクールの講堂だ。
「ここは、過去?」
そうとしか考えられなかった。
「ありえない、そんな非科学的なこと……」
ビアンカがぶつぶつと呟く間にも、講堂にはどんどん生徒が入ってくる。やがて席がいっぱいになり、厚い扉が閉められると徐々に場は静まっていった。
校長が壇に登ったのを見て、ビアンカは思考を中断して隅の方へと移動した。見えないと分かっていても、なんとなく中央にはいづらい。目の前に昔の自分を眺めながら、とりあえず校長の話が始まるのを待つ。
「えー、本日はお日柄もよくー」
毒にも薬にもならない声を聞き流しながら、ビアンカは再び考え込んだ。何がどうなって過去などに迷い込んだのかは分からない。しかし元の丘へ戻る方法も分からない以上、下手に動くのも良くないように思えた。ではどうすれば良いか。結論が出ないまま、ビアンカの考えは同じところをぐるぐると回り続ける。
「——というわけで本日の講演者キャプテン・ポーラスタにおいでいただいたわけであります」
いきなり耳に馴染んだ名前が飛び込んできた。思わず顔を上げる。壇上には面白おかしくもない校長の顔。しかし彼に呼ばれて、頭をかきながら演壇へと上っていく男を認めた瞬間、ビアンカの脈拍は跳ね上がった。
「キャプテン……?」
「あー、マイクテスマイクテス」
校長から譲られたマイクを指先で叩く男は、見慣れた顔より幾分若かった。驚いたまま固まっているビアンカに気づいた様子もなく、客席から上がった拍手に適当に応えつつ話し始める。
「その……何だ、俺はこんなところでしゃべっちゃいるが、実はそんなに偉いわけじゃない。ついでに言うと人前でしゃべるのは苦手だ」
開口一番の講演者の発言に、会場は笑いに包まれた。笑っていないのは二人のビアンカだけ。過去のビアンカはつまらなさそうに、現在のビアンカはかぶりを振って。
この頃、男は既に何度も飛行に成功しているはずだ。宇宙空間で成し遂げた実験の数々、その結果を踏まえたたくさんの論文、それらによって彼の科学者としての地位が確立しつつある時期であることを現在のビアンカは知っている。
同時に人前でしゃべることが苦手という言葉が本当だということも知っていた。仲間内のパーティーの席ですら、興の乗った訓練生からスピーチに指名されるたび逃げ回っていた姿を思い出し、わけもなくビアンカの胸が締めつけられる。
「昨日の夜どんなことを話そうかと色々考えてみたんだが、いつの間にか寝ちまってな。おまけに寝坊したもんだから、どうにもまとまらないままここに立つ羽目になった。仕方ないから開き直って、思いつくまま話をしようと思う。退屈だったらすまん」
再び笑いの起こった会場に笑顔を返して、男は演壇に身を乗り出した。
「皆に訊きたい。星を見るのは好きか?」
男の視線がまっすぐにビアンカに向けられる。その指が自分を指しているのを認めてビアンカはうろたえた。自分の姿が男には見えているのだろうか。
「そこのあんた、つまらなそうだな。俺の話には興味がないか?」
「……別に」
過去のビアンカが大きく息を吐いて答える。その口調はあくまで冷め切っていて、関心を持っていないことが明らかだ。その声を聞いて、ようやくビアンカは男が現在の自分を指したのではないことに気付いた。
「そうか。そりゃ残念だ。俺は大好きなんだがな」
苦笑を浮かべながら男が言う。
「ガキの頃から空を見上げるのが好きでな。それが高じて、今じゃメシの種だ。何にもない大平原で見る夜空や、宇宙から見た地球ってのはそりゃすごいもんだぜ。初めて見た時、俺はただただ圧倒されて声も出せなかった」
一拍の呼吸をおいて、男は言葉を継いだ。
「だが、何気なく毎晩見上げる空ってのも案外捨てたもんじゃない。街中でも明るい星なら観測できるし、運が良ければ流れ星だって見える。きれいなものを見るとちょっとしたイヤなことなんて忘れちまえるだろ?」
男の口調は生き生きと弾んでいる。本当に好きなことを話題にしているからだろう、男は何の衒いもない様子で演壇から生徒たちに語りかける。
「ここにいる全員が星を眺めるのが好きじゃなくても構わない。だが、せめてひとつくらいは日常の中で倖せを感じられるようなものを持っていてほしい。何かにつまずいた時、それが意外なほど大きなしるべになる。まるでいつも頭の上で光っている星のようにな」
過去のビアンカは不思議なものでも見るような目で壇上を見つめていた。事実、解らなかったのだ。何故そんなにひとつのことに夢中になれるのか。どうしたらこんなに熱っぽく語れるのか。——どうやったら、そんなものが見つかるのか。
男はビアンカの周りにはいない種類の大人だった。こういう風に己の心を表せる大人をビアンカは知らない。思い浮かぶのは勉強を強制するばかりでちっとも褒めてくれない顔ばかり。彼らはビアンカに夢を語るどころか、そんなものを描くことすら禁じているように見えた。
示された道を疑問を持たずに歩むことを求め、それ以外は悪いことだと頭ごなしに決めつける大人がビアンカは嫌いだった。誂えられた道をなぞるしかない毎日が退屈で、だからと言って逸れることもできない自分自身のことも。
大人になるとはそういうこと。諦めにも似た思いが巣食った心を抱え、日々を過ごすうちにだんだんとビアンカの気力は萎えていった。不確定な夢など望まずに、堅実な現実を過ごすこと。それは確かに倖せのひとつの形だろう。
だがそれは、全ての倖せの形ではない。
「どんなことに倖せを感じるかってのは人それぞれだ。好きなことは一人一人違うし、ものの考え方だって違う。今好きなことがあるなら、それを大事にしてほしい。もし何も心当たりがないのなら、見つかるまで探してほしい。それがあるかどうかで人の生き方は随分違ったものになる」
壇上の男の言葉は揺るぎない力に満ちていた。その力こそがビアンカを導く光だった。無気力だった自分のしるべとなり、宇宙を目指させたもの。
その証に過去のビアンカの表情が目に見えて変わっていた。頬を上気させ、じっと男の言葉に耳を傾けている。ビアンカは思い出す。この講演をきっかけに星に興味を持つようになったことを。男と同じ道を辿れば、ああいう大人になれると信じたことを。
「ここにいる皆がいずれしるべとなる星を見つけられるよう祈っている。実り多い未来を過ごしてくれ」
そう結んで、男はマイクから身を引いた。拍手の中、照れた様子で演壇を降りていく。ビアンカはゆっくりと目を閉じた。いつの間にか置き去りにしていた忘れ物を見つけた気分だった。
降るような星空、見慣れた丘の景色。見回してみたがニコルとトーンの姿は見当たらない。
「——夢、か?」
それにしては妙に現実感があった。手足も長いこと外にいたせいか冷え切っている。随分夜も更けたのだろう、先程は真上にあった星座が西の空に沈みかけていた。
草の上に突っ立ったまま、ビアンカは見たばかりの過去を思い返していた。
何故忘れていたのだろう。こんなに大事なことだったのに。
ビアンカが思わず溜息をついた、その時。
「よおビアンカ。こんなところにいたのか」
後ろからかかった耳慣れた声にとっさに振り返る。そこには思い浮かべたのと同じ男が白い息を吐いて手を上げていた。
「キャプテン・ポーラスタ」
「途中でいなくなったから探してたんだぜ。ったく、心配かけやがって」
大股で近づいてきた男は、ビアンカの隣に立って呆れたような表情を浮かべた。
「ポールの奴がおろおろしてたぜ。調子に乗りすぎたかも、ビアンカに何かあったら自分のせいだって」
「ははっ、バカですね。別にあいつのせいでパーティー抜けたんじゃないですよ」
ビアンカは笑顔で嘘をついた。そう、別にライバルのせいではない。選ばれなかった自分がいたたまれなかっただけだ。そう己に言い聞かせる。
「にしても、こんなところで何やってたんだ? 寒いだけだろ」
「そうでもありませんよ。星がたくさん見えますし」
言われて、男は頭上を見上げた。たちまち夜空にちりばめられた星々に相好を崩す。
「ああ、こりゃいいな。丘の裏だから学校の明かりも届かないのか。なかなかの穴場だな」
でしょう、とビアンカは微笑む。二人だけの秘密を持てたようでなんだか嬉しかった。
「……昔のことを思い出してました」
「昔?」
「ええ。キャプテンがあたしのジュニアスクールに来て演説してったこと」
「そんなこと、あったっけか?」
「ありましたよ」
ビアンカは星空に目を移す。たとえではなく、本当に降ってきそうな満天の星だった。
「星になぞらえて、それぞれの倖せだと思うことを見つけろって。ふふ、意外とロマンチストですよね、キャプテンって」
「俺、そんなこと言ったか? なんだか照れくさいな。だがロマンチストじゃなきゃこんな商売は務まらんぞ。文字通り星を追う仕事だからな」
「あたし、その講演がきっかけで宇宙飛行士を目指したんですよ。結局、キャプテンと一緒に飛ぶことはできませんでしたけど」
知らず、言葉に悔しさがにじむ。せっかく夢のはじまりを思い出したのに、引き戻された現実の味は苦い。
「ああ、そのことだがな。おまえにひとつ、言っておきたいことがある」
「何ですか?」
「俺が引退する理由だ」
「……寄る年波に勝てなくて、ではないんですか?」
「バカヤロウ。まだ老け込むには早すぎるだろうが」
軽く咳払いをして、男は口を開いた。
「冗談はともかく。早い話が世代交代だよ。いつまでも俺がキャプテンの座にいたら後進が育たないだろう」
「でも、皆キャプテンを目指して訓練してるじゃないですか」
「だからこそだよ。俺が引退すりゃ宇宙への枠がひとつ空く。俺はもう十分行かせてもらったが、後にはたくさんのひよっ子がつかえてるんだ。若い奴らに肌で学んでもらった方がメリットは大きい」
納得しかねる、という表情のビアンカに男は笑って見せた。
「なあ、知ってるか? 北極星は不変のものではないって」
「そりゃあ……」
仮にも宇宙飛行士志望だ。ビアンカが頷いたのを見て、男は空に目を向けた。
「現在の北極星はポラリス。だが何千年か後には別な星が北極星になる。エライ、デネブ、ベガ……北極星もいずれは変わるんだ。それと同じように俺の場所も次の奴らに譲り渡していかなきゃならん」
「でも」
「変化を怖がるなよ、ビアンカ。変わらないものなど何もない。むしろ変化をより良い方向へ捉えてこそ、発展はあるもんだ」
それに、と男は言葉を継いだ。
「ビアンカ、お前の名前は白という意味だったな。純白という色の定義がベガの光から採られてるって知ってたか?」
「いいえ、そうなんですか?」
「ああ。ベガ、未来の北極星だ」
遥かな星空から視線を戻して、男はビアンカに笑いかけた。
「おまえが俺の存在をきっかけに宇宙を目指したというなら、おまえも次に育つ奴から指針にされるような宇宙飛行士になれ。そうなれると思っているからこそ、おまえにこの話をしたんだ」
「あたしが……?」
思いがけない言葉にビアンカの思考が止まる。男が頷く。表情は笑ったまま、しかし目だけは真剣な光をたたえて。
「宇宙に行くチャンスは今回だけじゃない。確かに一緒に飛ぶことはできなかったが、これからは俺が全力でおまえたちをバックアップする」
ぽかんとした様子のビアンカに男は人の悪い笑みを頬に浮かべた。
「おまえ、俺が完全に隠居すると思ってやがったな? そうはいかん。まだまだ俺にはおまえたちに教えなきゃならんことがたくさんあるんだ。それにだな、期待もしてないひよっ子に居場所を譲るほど俺は無責任じゃないさ」
からからと笑う男の声が、じわりとビアンカの心に沁み入っていく。胸が熱くなった。
見ていてくれた。認めてくれていた。その事実が誇らしかった。
ビアンカの頬に熱いものが伝った。ふと目を留めた男が慌てた声を上げる。
「おいおい、泣くなよ」
「だって……」
一度溢れた涙は簡単には止まってくれない。ビアンカは泣きながら笑った。
「あたしがキャプテン・ベガなんて呼ばれてるところ、想像できませんよ」
丘の向こうからゆっくりと朝がやって来る。北の空では白く輝く北極星が丘と天文台を見下ろしていた。
「——夢、か?」
それにしては妙に現実感があった。手足も長いこと外にいたせいか冷え切っている。随分夜も更けたのだろう、先程は真上にあった星座が西の空に沈みかけていた。
草の上に突っ立ったまま、ビアンカは見たばかりの過去を思い返していた。
何故忘れていたのだろう。こんなに大事なことだったのに。
ビアンカが思わず溜息をついた、その時。
「よおビアンカ。こんなところにいたのか」
後ろからかかった耳慣れた声にとっさに振り返る。そこには思い浮かべたのと同じ男が白い息を吐いて手を上げていた。
「キャプテン・ポーラスタ」
「途中でいなくなったから探してたんだぜ。ったく、心配かけやがって」
大股で近づいてきた男は、ビアンカの隣に立って呆れたような表情を浮かべた。
「ポールの奴がおろおろしてたぜ。調子に乗りすぎたかも、ビアンカに何かあったら自分のせいだって」
「ははっ、バカですね。別にあいつのせいでパーティー抜けたんじゃないですよ」
ビアンカは笑顔で嘘をついた。そう、別にライバルのせいではない。選ばれなかった自分がいたたまれなかっただけだ。そう己に言い聞かせる。
「にしても、こんなところで何やってたんだ? 寒いだけだろ」
「そうでもありませんよ。星がたくさん見えますし」
言われて、男は頭上を見上げた。たちまち夜空にちりばめられた星々に相好を崩す。
「ああ、こりゃいいな。丘の裏だから学校の明かりも届かないのか。なかなかの穴場だな」
でしょう、とビアンカは微笑む。二人だけの秘密を持てたようでなんだか嬉しかった。
「……昔のことを思い出してました」
「昔?」
「ええ。キャプテンがあたしのジュニアスクールに来て演説してったこと」
「そんなこと、あったっけか?」
「ありましたよ」
ビアンカは星空に目を移す。たとえではなく、本当に降ってきそうな満天の星だった。
「星になぞらえて、それぞれの倖せだと思うことを見つけろって。ふふ、意外とロマンチストですよね、キャプテンって」
「俺、そんなこと言ったか? なんだか照れくさいな。だがロマンチストじゃなきゃこんな商売は務まらんぞ。文字通り星を追う仕事だからな」
「あたし、その講演がきっかけで宇宙飛行士を目指したんですよ。結局、キャプテンと一緒に飛ぶことはできませんでしたけど」
知らず、言葉に悔しさがにじむ。せっかく夢のはじまりを思い出したのに、引き戻された現実の味は苦い。
「ああ、そのことだがな。おまえにひとつ、言っておきたいことがある」
「何ですか?」
「俺が引退する理由だ」
「……寄る年波に勝てなくて、ではないんですか?」
「バカヤロウ。まだ老け込むには早すぎるだろうが」
軽く咳払いをして、男は口を開いた。
「冗談はともかく。早い話が世代交代だよ。いつまでも俺がキャプテンの座にいたら後進が育たないだろう」
「でも、皆キャプテンを目指して訓練してるじゃないですか」
「だからこそだよ。俺が引退すりゃ宇宙への枠がひとつ空く。俺はもう十分行かせてもらったが、後にはたくさんのひよっ子がつかえてるんだ。若い奴らに肌で学んでもらった方がメリットは大きい」
納得しかねる、という表情のビアンカに男は笑って見せた。
「なあ、知ってるか? 北極星は不変のものではないって」
「そりゃあ……」
仮にも宇宙飛行士志望だ。ビアンカが頷いたのを見て、男は空に目を向けた。
「現在の北極星はポラリス。だが何千年か後には別な星が北極星になる。エライ、デネブ、ベガ……北極星もいずれは変わるんだ。それと同じように俺の場所も次の奴らに譲り渡していかなきゃならん」
「でも」
「変化を怖がるなよ、ビアンカ。変わらないものなど何もない。むしろ変化をより良い方向へ捉えてこそ、発展はあるもんだ」
それに、と男は言葉を継いだ。
「ビアンカ、お前の名前は白という意味だったな。純白という色の定義がベガの光から採られてるって知ってたか?」
「いいえ、そうなんですか?」
「ああ。ベガ、未来の北極星だ」
遥かな星空から視線を戻して、男はビアンカに笑いかけた。
「おまえが俺の存在をきっかけに宇宙を目指したというなら、おまえも次に育つ奴から指針にされるような宇宙飛行士になれ。そうなれると思っているからこそ、おまえにこの話をしたんだ」
「あたしが……?」
思いがけない言葉にビアンカの思考が止まる。男が頷く。表情は笑ったまま、しかし目だけは真剣な光をたたえて。
「宇宙に行くチャンスは今回だけじゃない。確かに一緒に飛ぶことはできなかったが、これからは俺が全力でおまえたちをバックアップする」
ぽかんとした様子のビアンカに男は人の悪い笑みを頬に浮かべた。
「おまえ、俺が完全に隠居すると思ってやがったな? そうはいかん。まだまだ俺にはおまえたちに教えなきゃならんことがたくさんあるんだ。それにだな、期待もしてないひよっ子に居場所を譲るほど俺は無責任じゃないさ」
からからと笑う男の声が、じわりとビアンカの心に沁み入っていく。胸が熱くなった。
見ていてくれた。認めてくれていた。その事実が誇らしかった。
ビアンカの頬に熱いものが伝った。ふと目を留めた男が慌てた声を上げる。
「おいおい、泣くなよ」
「だって……」
一度溢れた涙は簡単には止まってくれない。ビアンカは泣きながら笑った。
「あたしがキャプテン・ベガなんて呼ばれてるところ、想像できませんよ」
丘の向こうからゆっくりと朝がやって来る。北の空では白く輝く北極星が丘と天文台を見下ろしていた。
それを受けてきらきらと輝くのは倖せの粒子。地上から私たちの橇まで、流れに逆らう流星雨のように次々と舞い上がってきます。
「いやあ、きれいだねえ」
主人が後ろで手を叩きました。橇から身を乗り出して銀色の光の粒をのぞきこみ、満足げに頷いています。
「こうしていると、まるで星の海に浮かんでいるみたいだ」
「ええ、そうですね」
下からは倖せが、上にはまだ夜の残る本物の星空が。銀色に包まれた橇は、確かに星の中に浮かんだ船のようにも見えます。宇宙に橇を引いていったら、こんな景色になるのかもしれません。
「今年のお客さんも無事に倖せを見つけられたようで良かったよ。途中のトーンの説得が効いたのかな?」
「私は大したことは言ってませんよ。見失っていたものを見つけられたのなら、それはもともと彼女が大事に持っていたものだからでしょう。私の言葉はきっかけになっただけです」
そういえばさっきは少々熱っぽく語ってしまったのでした。照れ隠しに私はそっぽを向きます。後ろで主人がやわらかく微笑む気配がしました。
「そう? でも、僕の仕事がやりやすくなったのは本当だから。ありがとう。そして今年もお疲れ様」
「……ニコルこそ、お疲れ様でした」
東の空がだいぶ白んできました。かすんできた星明かりの中、主人が不器用な手つきで光の粒子を吸い込んでいた袋の口を閉じます。橇がわずかに揺れて、取り付けてあるベルが澄んだ響きを立てました。
「じゃあ、帰ろうか。僕らの家へ」
「そうですね」
まっすぐに北を目指して、私はゆっくりと走り始めました。目指す方向にはまだ朝が来ていません。夜を追いかけるように少しずつスピードを上げて、ぐんぐんと橇を引いていきます。
「それにしても、目指すものがあるってことは倖せなことだよね。それに向かってがんばっているうちに、いつの間にか自分も誰かを導くしるべになっているのかも」
「ええ」
走っているために私の答えは短くなります。でも心の中では続きを考えていました。
ひょっとすると、目指すものに追いつくために日々を駆け抜けることそのものが光になるのかもしれないと。今、私の走った後に光の軌跡が描かれているように。
私のしるべを示す人は、橇の後ろで空を仰いでいます。
「ああ、僕も宇宙に行ってみたいな。きっとすごくきれいなんだろうねえ」
「ええ、きっと」
「もし行くことになった時はトーンも一緒に行こうね。僕一人じゃ寂しいし」
「そうですね。ぜひ」
行く手に輝くのは北極星。その明るい光に向けて私はさらに速度を速めました。まるで倖せと願いを載せて流れる星のように。My Dear Santaを飾る言葉も、たまにはロマンチックに決めてみるのも悪くないかもしれません。
——Thanks for your reading.
I hope you catch a lucky star, and have a nice new year !
「いやあ、きれいだねえ」
主人が後ろで手を叩きました。橇から身を乗り出して銀色の光の粒をのぞきこみ、満足げに頷いています。
「こうしていると、まるで星の海に浮かんでいるみたいだ」
「ええ、そうですね」
下からは倖せが、上にはまだ夜の残る本物の星空が。銀色に包まれた橇は、確かに星の中に浮かんだ船のようにも見えます。宇宙に橇を引いていったら、こんな景色になるのかもしれません。
「今年のお客さんも無事に倖せを見つけられたようで良かったよ。途中のトーンの説得が効いたのかな?」
「私は大したことは言ってませんよ。見失っていたものを見つけられたのなら、それはもともと彼女が大事に持っていたものだからでしょう。私の言葉はきっかけになっただけです」
そういえばさっきは少々熱っぽく語ってしまったのでした。照れ隠しに私はそっぽを向きます。後ろで主人がやわらかく微笑む気配がしました。
「そう? でも、僕の仕事がやりやすくなったのは本当だから。ありがとう。そして今年もお疲れ様」
「……ニコルこそ、お疲れ様でした」
東の空がだいぶ白んできました。かすんできた星明かりの中、主人が不器用な手つきで光の粒子を吸い込んでいた袋の口を閉じます。橇がわずかに揺れて、取り付けてあるベルが澄んだ響きを立てました。
「じゃあ、帰ろうか。僕らの家へ」
「そうですね」
まっすぐに北を目指して、私はゆっくりと走り始めました。目指す方向にはまだ朝が来ていません。夜を追いかけるように少しずつスピードを上げて、ぐんぐんと橇を引いていきます。
「それにしても、目指すものがあるってことは倖せなことだよね。それに向かってがんばっているうちに、いつの間にか自分も誰かを導くしるべになっているのかも」
「ええ」
走っているために私の答えは短くなります。でも心の中では続きを考えていました。
ひょっとすると、目指すものに追いつくために日々を駆け抜けることそのものが光になるのかもしれないと。今、私の走った後に光の軌跡が描かれているように。
私のしるべを示す人は、橇の後ろで空を仰いでいます。
「ああ、僕も宇宙に行ってみたいな。きっとすごくきれいなんだろうねえ」
「ええ、きっと」
「もし行くことになった時はトーンも一緒に行こうね。僕一人じゃ寂しいし」
「そうですね。ぜひ」
行く手に輝くのは北極星。その明るい光に向けて私はさらに速度を速めました。まるで倖せと願いを載せて流れる星のように。My Dear Santaを飾る言葉も、たまにはロマンチックに決めてみるのも悪くないかもしれません。
——Thanks for your reading.
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<2006年12月24日>
今宵はクリスマス・イブ。
なのにパパは手ぶらで帰って来た。頼まれていた悲しい物語は探したけれど見つからなかった。パパはそう言った。さらに何かを言いかけたけれど、わたしは続きなんて聞かずにリビングを飛び出した。
クリスマスなんて大嫌いだ。
わたしは真っ暗な部屋のベッドの上で、枕へ強く顔を押し付けた。
去年のクリスマスにママは死んでしまった。あまりにも突然のことで、わたしはどうすることもできなかった。呆然とするわたしの隣でパパは泣いていた。パパが泣くのを、その時初めて見た。
それから、何もかもが変わってしまった。わたしはすっかり泣き虫になって、パパも笑わなくなって。周りはいつまでも悲しんでいるのは良くないって言うけれど、そんなのは大事な誰かを失ったことのない人だから言えること。わたしとパパはいつでも深い悲しみの中にいた。
クリスマスなんて大嫌いだ。
去年はママを奪われた。今年はパパの今にも泣きそうな顔を見た。みんながお祝いをしているこの日に、わたしは一体どれほど悲しい思いをしなければならないのだろうか。
泣き疲れたわたしは、そっとリビングに向かった。涙を流した後にはどうしてこんなに喉が渇くのだろう。細くドアを開けて、パパの背中がソファに見えないことを確認する。そのままキッチンに向かいかけた足がふと止まる。ママがアイボリーのカバーをかけたソファの上に、見慣れない包みが転がっている。
近づいてみて、わたしは息を呑んだ。緑のチェックの包装紙で丁寧にくるまれて赤いリボンをかけられた、それはどこからどう見てもクリスマスのプレゼントだった。
「見つからなかったって言ってたのに……」
丁度本一冊くらいの大きさの包み。あんな嘘を言って、渡しづらいなら素直にそう言えば良かったのに。
心の中でパパに文句を言いながら、包みに手を伸ばす。腕に伝わるずっしりとした重さは、やはり本のようだった。溜息を落としながらリボンを解く。こんな形でプレゼントを受け取ることになるなんて思ってもいなかった。
指からリボンが抜け落ちた。一瞬そちらに気をとられた瞬間、包装紙の端に爪の先が引っかかる。
——クリスマスをそんなに嫌わないで。ハッピークリスマス、悲しい物語の受取主。
見知らぬ声が耳元で響いた。同時に包みからこぼれる眩しい光。それが誰なのか、何が光っているのか確かめる間もなく、柔らかな眠気があっという間にわたしの全身を包み込む。それはあまりにも心地よくて、わたしは逆らうことも忘れてソファへと倒れ込んだ。目を閉じる前に見えた光が頭の中で虹色にくるくる回る。綺麗だなと思ったのを最後に、わたしは眠りへと落ちていった。
——この世で一番、悲しい話を聞かせましょう。
まどろみの中、優しい女の人の声が聞こえた。懐かしいその声。誰だっけ、と思ったけれど、すぐにどうでも良くなって温かな眠りの縁を行ったり来たりし始める。この声を聞いていると安心できる。それだけは確かだった。
声はまるで赤ちゃんに話しかけるように穏やかに続いている。
——あるところに、ママをなくした女の子がいました。
その女の子はとても悲しんで、毎日泣いて、楽しむことなど忘れてしまったようでした。少しずつ時が経って、女の子は少しだけ笑えるようになりましたが、それでも夜ごとの涙は止まりませんでした。楽しんでしまうと、ママをなくした悲しみまでもが嘘になってしまうような気がして。笑ってしまうと、もう見ることのできないママの笑顔を思い出して。
そんな女の子を周りはみんな心配しました。特にパパは、いつも女の子を気遣ってくれました。忙しい仕事を終わらせて早く家に帰ってきてくれたり、滅多に行かなかったレストランでの食事に連れて行ってくれたり。
けれど女の子の気持ちはふさいでいく一方でした。街に銀杏の葉っぱが舞い、クリスマスソングが流れる頃にはもう、女の子の心の中は悲しみでいっぱいでした。
もうすぐ、ママがいなくなってから一年目のクリスマス。
パパは女の子にプレゼントは何がいいかたずねました。何でも好きなものを買ってやる、というパパに女の子はお願いしました。
とても、とても悲しい物語が読みたい、と。
凍てついたクリスマス・イブに、パパは女の子の望んだとおりの本を贈ってくれました。女の子はその本を読みながら何度も何度も泣きました。まるでその本を読むたびに、ママがいなくなった日のことを思い出しているかのようでした。
やがて春が来て、夏が来ても女の子に笑顔は戻りませんでした。女の子を気遣いながらも、忙しいパパの帰りは次第に遅くなっていきました。独りの夜を女の子はいつも悲しい物語と一緒に過ごしました。ずっとずっと、大きくなってからも笑顔を忘れたままで。
——これが、私にとってこの世で一番悲しい物語。
あなたは私が生きた証。パパがいて、私がいて、あなたが生まれた。そんなあなたがいつまでも悲しい顔をしていては、私が生きたことまでもが悲しいことになってしまう。
私は倖せだった。パパと出逢えて、あなたと生きることができて。
だからあなたにも、倖せになってほしい。倖せを誰かに分け与えられるような人であってほしい。
あなたは今日まで一日も欠かさず私を悼んでくれた。そのことが私の心をどれほど慰めたことか。けれどもう、悲しむ時間は終わり。今日からはあなたが、倖せになるために生きて。
「ママ!」
がばりとわたしは体を起こした。途端におでこに何か固いものがぶつかって、思わず悲鳴を上げる。
「……ったー。なに?」
「何と聞きたいのはこっちの方だ。こんなところで寝入っているなんて」
耳に流れ込んできたのは、聞き慣れた低いしゃがれ声。目の前でおでこを押さえているのはパパだった。手にはパパが書斎で使っているブランケット。それが半分、わたしの体にかかっている。
いきさつを伝えようとして、ついでにさっきけんかしたことも思い出す。一気に気まずくなって、わたしはパパから目を逸らした。
「だってプレゼントが落ちてたんだもの。パパ、さっき見つからなかったって言ってたのに」
「プレゼント?」
「そう。緑のチェックの包装紙と赤いリボンの包み」
心当たりがあったのだろうか。パパは驚いた顔でわたしを見つめている。
「そんな、まさか。あれは確かにあの本屋に返したはず」
「返した?」
そういえば、開きかけていたプレゼントが見当たらない。床に落ちたままのはずのリボンも、爪を引っ掛けた分だけ包装紙がはがれているはずの包みも。
気まずさも忘れて、思わずパパと顔を見合わせる。不思議な出来事だと思ったけれど、今はなんだか大騒ぎをする気持ちにはなれなかった。
「……ごめんなさい」
「いいよ、別に。そんなに大したコブじゃない」
パパはさっきぶつかったことを謝ったのだと思ったらしい。自分のおでこをさすっているその姿に、思わず笑いがこみ上げた。
「違うよ。本、探してくれてたんだね。ごめんなさい。ありがとう」
「あ……いや。こちらこそ、お前の欲しがっていたものをあげられなくて悪かった」
お互い、謝り慣れているわけじゃない。またしても流れかけた気まずい沈黙を破るように、わたしはそうだ、と声を上げた。
「一日遅くなったけれど、プレゼントをお願いしてもいい? 今度は悲しい物語じゃないけれど」
「勿論だとも。何が欲しいんだ?」
いつもよりかすれたパパの声。怖い顔のくせに意外と泣き虫なんだと、この一年でよく分かっていた。これから伝える言葉にも、パパは涙を流すのだろうか。
「時間を。これからもパパと過ごせる倖せな思い出を、たくさんちょうだい」
昨夜悲しい物語をくれなかったパパの優しさと、今ここにママが遺してくれたたくさんの倖せ。こんなに大事な宝物に、何故今まで気がつかなかったのだろう。どんなイルミネーションや宝石よりも、きらきらと輝く金色の時間。
リビングに朝日が差した。クリスマス——降誕祭の朝。悲しい物語が終わり、新しい倖せが始まる日。金色と虹色の光の中で、ママの笑顔が見えた気がした。
なのにパパは手ぶらで帰って来た。頼まれていた悲しい物語は探したけれど見つからなかった。パパはそう言った。さらに何かを言いかけたけれど、わたしは続きなんて聞かずにリビングを飛び出した。
クリスマスなんて大嫌いだ。
わたしは真っ暗な部屋のベッドの上で、枕へ強く顔を押し付けた。
去年のクリスマスにママは死んでしまった。あまりにも突然のことで、わたしはどうすることもできなかった。呆然とするわたしの隣でパパは泣いていた。パパが泣くのを、その時初めて見た。
それから、何もかもが変わってしまった。わたしはすっかり泣き虫になって、パパも笑わなくなって。周りはいつまでも悲しんでいるのは良くないって言うけれど、そんなのは大事な誰かを失ったことのない人だから言えること。わたしとパパはいつでも深い悲しみの中にいた。
クリスマスなんて大嫌いだ。
去年はママを奪われた。今年はパパの今にも泣きそうな顔を見た。みんながお祝いをしているこの日に、わたしは一体どれほど悲しい思いをしなければならないのだろうか。
泣き疲れたわたしは、そっとリビングに向かった。涙を流した後にはどうしてこんなに喉が渇くのだろう。細くドアを開けて、パパの背中がソファに見えないことを確認する。そのままキッチンに向かいかけた足がふと止まる。ママがアイボリーのカバーをかけたソファの上に、見慣れない包みが転がっている。
近づいてみて、わたしは息を呑んだ。緑のチェックの包装紙で丁寧にくるまれて赤いリボンをかけられた、それはどこからどう見てもクリスマスのプレゼントだった。
「見つからなかったって言ってたのに……」
丁度本一冊くらいの大きさの包み。あんな嘘を言って、渡しづらいなら素直にそう言えば良かったのに。
心の中でパパに文句を言いながら、包みに手を伸ばす。腕に伝わるずっしりとした重さは、やはり本のようだった。溜息を落としながらリボンを解く。こんな形でプレゼントを受け取ることになるなんて思ってもいなかった。
指からリボンが抜け落ちた。一瞬そちらに気をとられた瞬間、包装紙の端に爪の先が引っかかる。
——クリスマスをそんなに嫌わないで。ハッピークリスマス、悲しい物語の受取主。
見知らぬ声が耳元で響いた。同時に包みからこぼれる眩しい光。それが誰なのか、何が光っているのか確かめる間もなく、柔らかな眠気があっという間にわたしの全身を包み込む。それはあまりにも心地よくて、わたしは逆らうことも忘れてソファへと倒れ込んだ。目を閉じる前に見えた光が頭の中で虹色にくるくる回る。綺麗だなと思ったのを最後に、わたしは眠りへと落ちていった。
——この世で一番、悲しい話を聞かせましょう。
まどろみの中、優しい女の人の声が聞こえた。懐かしいその声。誰だっけ、と思ったけれど、すぐにどうでも良くなって温かな眠りの縁を行ったり来たりし始める。この声を聞いていると安心できる。それだけは確かだった。
声はまるで赤ちゃんに話しかけるように穏やかに続いている。
——あるところに、ママをなくした女の子がいました。
その女の子はとても悲しんで、毎日泣いて、楽しむことなど忘れてしまったようでした。少しずつ時が経って、女の子は少しだけ笑えるようになりましたが、それでも夜ごとの涙は止まりませんでした。楽しんでしまうと、ママをなくした悲しみまでもが嘘になってしまうような気がして。笑ってしまうと、もう見ることのできないママの笑顔を思い出して。
そんな女の子を周りはみんな心配しました。特にパパは、いつも女の子を気遣ってくれました。忙しい仕事を終わらせて早く家に帰ってきてくれたり、滅多に行かなかったレストランでの食事に連れて行ってくれたり。
けれど女の子の気持ちはふさいでいく一方でした。街に銀杏の葉っぱが舞い、クリスマスソングが流れる頃にはもう、女の子の心の中は悲しみでいっぱいでした。
もうすぐ、ママがいなくなってから一年目のクリスマス。
パパは女の子にプレゼントは何がいいかたずねました。何でも好きなものを買ってやる、というパパに女の子はお願いしました。
とても、とても悲しい物語が読みたい、と。
凍てついたクリスマス・イブに、パパは女の子の望んだとおりの本を贈ってくれました。女の子はその本を読みながら何度も何度も泣きました。まるでその本を読むたびに、ママがいなくなった日のことを思い出しているかのようでした。
やがて春が来て、夏が来ても女の子に笑顔は戻りませんでした。女の子を気遣いながらも、忙しいパパの帰りは次第に遅くなっていきました。独りの夜を女の子はいつも悲しい物語と一緒に過ごしました。ずっとずっと、大きくなってからも笑顔を忘れたままで。
——これが、私にとってこの世で一番悲しい物語。
あなたは私が生きた証。パパがいて、私がいて、あなたが生まれた。そんなあなたがいつまでも悲しい顔をしていては、私が生きたことまでもが悲しいことになってしまう。
私は倖せだった。パパと出逢えて、あなたと生きることができて。
だからあなたにも、倖せになってほしい。倖せを誰かに分け与えられるような人であってほしい。
あなたは今日まで一日も欠かさず私を悼んでくれた。そのことが私の心をどれほど慰めたことか。けれどもう、悲しむ時間は終わり。今日からはあなたが、倖せになるために生きて。
「ママ!」
がばりとわたしは体を起こした。途端におでこに何か固いものがぶつかって、思わず悲鳴を上げる。
「……ったー。なに?」
「何と聞きたいのはこっちの方だ。こんなところで寝入っているなんて」
耳に流れ込んできたのは、聞き慣れた低いしゃがれ声。目の前でおでこを押さえているのはパパだった。手にはパパが書斎で使っているブランケット。それが半分、わたしの体にかかっている。
いきさつを伝えようとして、ついでにさっきけんかしたことも思い出す。一気に気まずくなって、わたしはパパから目を逸らした。
「だってプレゼントが落ちてたんだもの。パパ、さっき見つからなかったって言ってたのに」
「プレゼント?」
「そう。緑のチェックの包装紙と赤いリボンの包み」
心当たりがあったのだろうか。パパは驚いた顔でわたしを見つめている。
「そんな、まさか。あれは確かにあの本屋に返したはず」
「返した?」
そういえば、開きかけていたプレゼントが見当たらない。床に落ちたままのはずのリボンも、爪を引っ掛けた分だけ包装紙がはがれているはずの包みも。
気まずさも忘れて、思わずパパと顔を見合わせる。不思議な出来事だと思ったけれど、今はなんだか大騒ぎをする気持ちにはなれなかった。
「……ごめんなさい」
「いいよ、別に。そんなに大したコブじゃない」
パパはさっきぶつかったことを謝ったのだと思ったらしい。自分のおでこをさすっているその姿に、思わず笑いがこみ上げた。
「違うよ。本、探してくれてたんだね。ごめんなさい。ありがとう」
「あ……いや。こちらこそ、お前の欲しがっていたものをあげられなくて悪かった」
お互い、謝り慣れているわけじゃない。またしても流れかけた気まずい沈黙を破るように、わたしはそうだ、と声を上げた。
「一日遅くなったけれど、プレゼントをお願いしてもいい? 今度は悲しい物語じゃないけれど」
「勿論だとも。何が欲しいんだ?」
いつもよりかすれたパパの声。怖い顔のくせに意外と泣き虫なんだと、この一年でよく分かっていた。これから伝える言葉にも、パパは涙を流すのだろうか。
「時間を。これからもパパと過ごせる倖せな思い出を、たくさんちょうだい」
昨夜悲しい物語をくれなかったパパの優しさと、今ここにママが遺してくれたたくさんの倖せ。こんなに大事な宝物に、何故今まで気がつかなかったのだろう。どんなイルミネーションや宝石よりも、きらきらと輝く金色の時間。
リビングに朝日が差した。クリスマス——降誕祭の朝。悲しい物語が終わり、新しい倖せが始まる日。金色と虹色の光の中で、ママの笑顔が見えた気がした。
<2008年12月22日>
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薄闇の中、少年は目を覚ました。
部屋の外で何か物音がした気がする。それだけで少年の眠気はどこかへ吹き飛んでしまった。
カーテンの隙間から洩れる街灯の光がぼんやりと部屋の中を照らしている。ベッドの枕元には大きな赤い靴下が吊るされていた。
今宵はクリスマス・イブ。
世界中を駆け回っているサンタクロースは今、どこにいるのだろう?
部屋の外の廊下が小さくきしんだ。少年の心臓が跳ね上がる。
間違いない。今、ここにサンタクロースは来ようとしている。
そう考えると、眠れるものではなかった。
寒いクリスマス前夜に、毎年プレゼントを届けてくれるサンタクロースが少年は大好きだった。起きて待っていたかったけれども、少年の母親はいつもサンタの仕事の邪魔になるからと言い聞かせては少年を寝かしつけた。だから毎年靴下の中にお礼の手紙を入れることで我慢していたのだ。
だけど今日は違う。会って、直接お礼が言える。仕事の邪魔をするつもりはないし、そんなことをするほど子供じゃない。
少年は寝返りを打って扉に背を向けた。それに……と付け加える。
起きて待っていたわけじゃない。目が覚めちゃったんだ。
少年が一人頷いた時、また廊下の床が鳴った。今度は部屋のすぐ外だ。
どきどきする胸を押さえながら少年は待った。
ドアノブに手がかけられるわずかなきしみ。続いてかちゃり、と金具の触れ合う音が響く。廊下の薄い明かりが部屋に射し込み、闇に慣れた少年の瞼をぎゅっと閉じさせた。
ドアを開けた人物はゆっくりと部屋の中に入ってきた。布団にくるまり丸くなっている少年に、影が落ちる。少年の顔を覗き込む気配。少年はただ、眠ったふりを必死で続けた。
視線はすぐに少年から外された。枕元の靴下を手に取り、中を探っているのが伝わる。手紙が抜き取られる音を耳にした時、少年は寝返りを打ち、目を開いた。
最初に目に入ったのは、薄明かりの中に立つ長身の影だった。予想に反してすらりとしたその体つきに少年は面食らった。
影がふと少年を顧みる。かすかに浮かんでいた微笑が少年の瞳にぶつかって、困惑に取って代わる。その顔に、少年は確かに見覚えがあった。
目を見開いて、少年は硬直した。見覚えがあるどころの騒ぎではない。影の顔を少年は息をするのも忘れて見つめつづけた。そこにあるのは、さっき一緒に夕飯を食べたばかりの父親の顔だった。ばつが悪そうに目を逸らしながら、右手に手紙を、左手に赤いリボンのかかった箱を持ったまま立ちつくしている。
数瞬の沈黙。意を決したように父親が少年に目を向けた。その口が開かれるより早く、少年は父親の手から手紙を奪い取った。止める間も与えず、びりびりと破り捨てる。床に散らばった紙片を呆然と眺める父親に少年は背を向けた。頭からすっぽりと布団をかぶり、丸くなる。今は泣き顔を誰にも見られたくなかった。
小さな溜息が落ちた。枕元にそっと何かが置かれる。少年は邪険にそれを払いのけた。がたん、と床と箱が悲鳴を上げた。
それ以上は何も言わず、父親はそっと少年の布団に手を乗せて出て行った。静かにドアが閉められる。
息が苦しくなって少年は布団を這い出した。涙でぐちゃぐちゃになった顔が気持ち悪かった。
しかしそれ以上に気持ち悪かったのは、胸の中に溜まったどろどろした塊だった。
声を殺して泣くことは辛いと、少年は初めて知った。
いつの間にかうとうとしていたらしい。時計を見ると、もう夜明けが近かった。
気分は最悪だった。目は腫れぼったいし、頭も重い。起き上がってみても、体中がだるかった。溜息を吐いて、少年は部屋の中を見回した。
決して広いわけではない見慣れた部屋。いつになく片付いているのは、昨日の昼間一年に一度の来訪者を迎えるために大掃除をしたからだ。唯一散らかっているのは破り捨てられた手紙の紙くずだけ。ふいと少年はそれから目を逸らした。
しかしそれよりもっと大きなものが目に入り、少年は顔をしかめた。
ベッドサイドに落ちた箱を少年はにらみつけた。角はへこみ、リボンはほどけかかっている。
とても受け取る気にはなれなかった。手にとって開ける気もない。
少年はそれからも目を逸らそうとし——ふと視線を戻した。
リボンと緑の包装紙の間、わずかな隙間から何かがのぞいていた。小さな赤い紙切れ。
手を伸ばし、少年はそれを引き抜いた。手に納まるほどの大きさの封筒だった。何も書かれていていないし、封もされていない。
一瞬ためらった後、少年は封筒を開けた。中に入っていたのは白いカードだった。これも、外側には何も書かれていない。
封筒を開けた時よりほんの少し長く迷って、少年はカードを開いた。
——Mery Christmas.
細い金色の文字が目に飛び込んできた。ただ一言のメッセージ。他には差出人の名前さえ書いていない。
震える手で少年はカードを握りしめた。記憶をたぐってみる。
今まで、プレゼントの贈り主がサンタクロースだと名乗ったことは一度もなかった。
そのことに気づき、少年はうつむいた。昨夜とは違う涙があふれてくる。
プレゼントの主など、本当は誰でもよかったのだ。大切なのはサンタを信じる少年を思いやってくれた気持ちではないか?
昨夜の父の呆然とした顔が蘇る。父のあんな顔を見たのは初めてだった。
乱暴に目をこする。カードを握ったまま、少年はそっと床に落ちたままの包みを拾い上げた。ほどけかかったリボンを払い、包装紙をはがす。少し格好が悪い箱を手で直してから、少年はふたを取った。
収まっていたのは、手袋とマフラーだった。手に取ると、冷え切った指先にほんのりと温かみが戻ってくる。その柔らかな温もりを抱きしめて、少年はしばらくじっとしていた。もう、涙は出なかった。
ふと思いついて、少年はベッドを降りた。腕に手袋とマフラーを抱えたまま机に向かう。
引き出しから取り出したのは便箋だった。椅子に座り、ペンを握る。さらさらと書き付けたそれを少年は丁寧にたたみ、封筒に入れた。
冷えた右手を手袋に入れながら、少年は立ち上がった。
家はまだ眠りの中にあった。
そっと階段を下り、両親の部屋の前に行く。封筒をドアの隙間から差し入れ、少年は玄関に向かった。
押し開けた扉が重くきしんだ。暗い色の扉がどけた後には眩い朝の光。今日はいつになくまぶしく感じられる。
一歩踏み出してようやく少年は気づいた。上からだけではない、下からの光。少年の息より白い雪が、うっすらと周りを覆っていた。
ホワイトクリスマスなど何年ぶりのことだろう。道理で今夜は冷えたはずだ。
少年は駆け出した。首のマフラーが柔らかく揺れる。
家の中から物音が聞こえた。どうやら両親のどちらかを起こしてしまったようだ。
しかし今、少年にとってそんなことはどうでもよかった。まっさらな雪の中に飛び込んでいける機会など滅多にないのだから。
少年の足跡が転々と落ちる。楽しげなリズムに合わせるように、家の中でも騒がしい足音が響いた。
少年はその場にかがみ込んだ。真新しい手袋に、ひとすくいの雪を乗せる。
玄関の扉が派手な音を立てて開いた。少年はゆっくりと立ち上がり、振り返った。目に入ったのは寝ぐせだらけの頭にくまを作った父親の姿。少年は手にした雪を天空へ振りまいた。きらきらと輝く大気の中、少年は笑って便箋に書いた言葉をもう一度父に贈った。
——メリー・クリスマス!
気分は最悪だった。目は腫れぼったいし、頭も重い。起き上がってみても、体中がだるかった。溜息を吐いて、少年は部屋の中を見回した。
決して広いわけではない見慣れた部屋。いつになく片付いているのは、昨日の昼間一年に一度の来訪者を迎えるために大掃除をしたからだ。唯一散らかっているのは破り捨てられた手紙の紙くずだけ。ふいと少年はそれから目を逸らした。
しかしそれよりもっと大きなものが目に入り、少年は顔をしかめた。
ベッドサイドに落ちた箱を少年はにらみつけた。角はへこみ、リボンはほどけかかっている。
とても受け取る気にはなれなかった。手にとって開ける気もない。
少年はそれからも目を逸らそうとし——ふと視線を戻した。
リボンと緑の包装紙の間、わずかな隙間から何かがのぞいていた。小さな赤い紙切れ。
手を伸ばし、少年はそれを引き抜いた。手に納まるほどの大きさの封筒だった。何も書かれていていないし、封もされていない。
一瞬ためらった後、少年は封筒を開けた。中に入っていたのは白いカードだった。これも、外側には何も書かれていない。
封筒を開けた時よりほんの少し長く迷って、少年はカードを開いた。
——Mery Christmas.
細い金色の文字が目に飛び込んできた。ただ一言のメッセージ。他には差出人の名前さえ書いていない。
震える手で少年はカードを握りしめた。記憶をたぐってみる。
今まで、プレゼントの贈り主がサンタクロースだと名乗ったことは一度もなかった。
そのことに気づき、少年はうつむいた。昨夜とは違う涙があふれてくる。
プレゼントの主など、本当は誰でもよかったのだ。大切なのはサンタを信じる少年を思いやってくれた気持ちではないか?
昨夜の父の呆然とした顔が蘇る。父のあんな顔を見たのは初めてだった。
乱暴に目をこする。カードを握ったまま、少年はそっと床に落ちたままの包みを拾い上げた。ほどけかかったリボンを払い、包装紙をはがす。少し格好が悪い箱を手で直してから、少年はふたを取った。
収まっていたのは、手袋とマフラーだった。手に取ると、冷え切った指先にほんのりと温かみが戻ってくる。その柔らかな温もりを抱きしめて、少年はしばらくじっとしていた。もう、涙は出なかった。
ふと思いついて、少年はベッドを降りた。腕に手袋とマフラーを抱えたまま机に向かう。
引き出しから取り出したのは便箋だった。椅子に座り、ペンを握る。さらさらと書き付けたそれを少年は丁寧にたたみ、封筒に入れた。
冷えた右手を手袋に入れながら、少年は立ち上がった。
家はまだ眠りの中にあった。
そっと階段を下り、両親の部屋の前に行く。封筒をドアの隙間から差し入れ、少年は玄関に向かった。
押し開けた扉が重くきしんだ。暗い色の扉がどけた後には眩い朝の光。今日はいつになくまぶしく感じられる。
一歩踏み出してようやく少年は気づいた。上からだけではない、下からの光。少年の息より白い雪が、うっすらと周りを覆っていた。
ホワイトクリスマスなど何年ぶりのことだろう。道理で今夜は冷えたはずだ。
少年は駆け出した。首のマフラーが柔らかく揺れる。
家の中から物音が聞こえた。どうやら両親のどちらかを起こしてしまったようだ。
しかし今、少年にとってそんなことはどうでもよかった。まっさらな雪の中に飛び込んでいける機会など滅多にないのだから。
少年の足跡が転々と落ちる。楽しげなリズムに合わせるように、家の中でも騒がしい足音が響いた。
少年はその場にかがみ込んだ。真新しい手袋に、ひとすくいの雪を乗せる。
玄関の扉が派手な音を立てて開いた。少年はゆっくりと立ち上がり、振り返った。目に入ったのは寝ぐせだらけの頭にくまを作った父親の姿。少年は手にした雪を天空へ振りまいた。きらきらと輝く大気の中、少年は笑って便箋に書いた言葉をもう一度父に贈った。
——メリー・クリスマス!
<2001年12月24日>
白金色に染め上げられたなだらかな芒の丘の上に、男が一人立っている。
黙然と月を見上げる男の姿は、まるで夜を切り取ったかのように見えた。あるかなしかの風に遊ばれた髪、無造作に着流した薄手の袷、左手を覆う使い込まれた弓懸、すべてが漆黒の色に染まっている。ただ、月光に浮かび上がる顔と首筋、そして黒弓を握る右手の指だけが白かった。
ふいに、風が吹いた。ざざあ、と芒が揺れる。
その中に混じる微かな煙と血の匂いを嗅ぎ取って、男はわずかに眉を寄せた。視線を下げ、丘の下を見下ろす。
眼下には深更の街が広がっていた。丑三時にはまだ早いが、普段ならとうに街全体が寝静まっている頃である。
今宵は違った。街の南の一角、丘の麓に赤い華が咲いている。火事だ。
先程男が火矢を放った屋敷が燃えていた。遠くで半鐘が鳴っているのが聞こえる。眠りの淵から引き戻された近隣の住人の無言のざわめきが炎上する屋敷を遠巻きに包んでいた。しかし野次馬の姿は見えない。彼らなりにただの火事にはない、不穏な空気を感じ取っているからだろうか。屋敷の周囲から未だ消火のための声は聞こえない。微かに男の耳にまで届くのは、火事場そのものが持つ独特の喧騒と、繰り広げられている修羅場を示す剣戟の響きだけだ。
男は憮然と屋敷を見下ろしていた。やりすぎだと感じている。それは、男の本意ではなかった。
ざ、と芒が揺れる。しかし風が吹いたわけではない。
「——北の、玄司だな」
芒を薙いだ荒々しさを秘めた静かな声が、男の背にまっすぐ投げられる。同時に炎と鉄錆の匂いがぐっと強まった。
「……そうだ」
男はゆっくりと振り返った。背後の声、それが含んだ隠し切れない艶から、男は声の主の正体を察していた。
「そういうお前は、南の朱里か」
「ああ」
月光の中、頷いたのは男とそう歳の変わらない女だった。着崩れた薄紅色の単衣には点々と黒い飛沫が散り、乱れた裾は所々が焼け焦げている。右手に持った抜き身の脇差と左の袖口から覗く鉄爪は黒々と濡れ、先端からは紅い雫が滴り落ちている。風に嬲らせた長い乱れ髪とそう変わらない程に黒く煤けた頬に不敵な笑みを浮かべ、女はすっくと立っていた。
「こうして直に顔を合わせるのは初めてだな」
男が頷く。
「新しい北の統領が斯様に色男だとはな。これまで知らずにいたのが惜しまれるぞ」
ぐい、と右手で頬を拭い、女は眼差しを強めた。
「それと、お前の力を見誤っていたことを本心から悔やむよ。先代と私、二代続けて南に煮え湯を飲ませるとは畏れ入った」
男は無言だった。構わず、女は続ける。
「今宵は、お前の勝ちだ。だが、次は負けん」
「……ああ」
目を伏せた男に、女はに、と笑いかけた。
「また、逢おうぞ」
さあっ、と芒がざわめいた。風が吹き抜けた丘に、男は一人立っていた。まるで煙のように、女の姿は消えていた。
男は月を見上げた。丘の下からは今更のように火消しの水音が聞こえてくる。刃物が触れ合う音は既に聞こえない。男は帯に挟んでいた矢を番え、月に射た。虚空に飛んだ矢はすぐに月光と同じ色の火を吹きはじめる。撤収の合図だ。弓弦の澄んだ残響が消える頃、芒の丘は無人になった。
黙然と月を見上げる男の姿は、まるで夜を切り取ったかのように見えた。あるかなしかの風に遊ばれた髪、無造作に着流した薄手の袷、左手を覆う使い込まれた弓懸、すべてが漆黒の色に染まっている。ただ、月光に浮かび上がる顔と首筋、そして黒弓を握る右手の指だけが白かった。
ふいに、風が吹いた。ざざあ、と芒が揺れる。
その中に混じる微かな煙と血の匂いを嗅ぎ取って、男はわずかに眉を寄せた。視線を下げ、丘の下を見下ろす。
眼下には深更の街が広がっていた。丑三時にはまだ早いが、普段ならとうに街全体が寝静まっている頃である。
今宵は違った。街の南の一角、丘の麓に赤い華が咲いている。火事だ。
先程男が火矢を放った屋敷が燃えていた。遠くで半鐘が鳴っているのが聞こえる。眠りの淵から引き戻された近隣の住人の無言のざわめきが炎上する屋敷を遠巻きに包んでいた。しかし野次馬の姿は見えない。彼らなりにただの火事にはない、不穏な空気を感じ取っているからだろうか。屋敷の周囲から未だ消火のための声は聞こえない。微かに男の耳にまで届くのは、火事場そのものが持つ独特の喧騒と、繰り広げられている修羅場を示す剣戟の響きだけだ。
男は憮然と屋敷を見下ろしていた。やりすぎだと感じている。それは、男の本意ではなかった。
ざ、と芒が揺れる。しかし風が吹いたわけではない。
「——北の、玄司だな」
芒を薙いだ荒々しさを秘めた静かな声が、男の背にまっすぐ投げられる。同時に炎と鉄錆の匂いがぐっと強まった。
「……そうだ」
男はゆっくりと振り返った。背後の声、それが含んだ隠し切れない艶から、男は声の主の正体を察していた。
「そういうお前は、南の朱里か」
「ああ」
月光の中、頷いたのは男とそう歳の変わらない女だった。着崩れた薄紅色の単衣には点々と黒い飛沫が散り、乱れた裾は所々が焼け焦げている。右手に持った抜き身の脇差と左の袖口から覗く鉄爪は黒々と濡れ、先端からは紅い雫が滴り落ちている。風に嬲らせた長い乱れ髪とそう変わらない程に黒く煤けた頬に不敵な笑みを浮かべ、女はすっくと立っていた。
「こうして直に顔を合わせるのは初めてだな」
男が頷く。
「新しい北の統領が斯様に色男だとはな。これまで知らずにいたのが惜しまれるぞ」
ぐい、と右手で頬を拭い、女は眼差しを強めた。
「それと、お前の力を見誤っていたことを本心から悔やむよ。先代と私、二代続けて南に煮え湯を飲ませるとは畏れ入った」
男は無言だった。構わず、女は続ける。
「今宵は、お前の勝ちだ。だが、次は負けん」
「……ああ」
目を伏せた男に、女はに、と笑いかけた。
「また、逢おうぞ」
さあっ、と芒がざわめいた。風が吹き抜けた丘に、男は一人立っていた。まるで煙のように、女の姿は消えていた。
男は月を見上げた。丘の下からは今更のように火消しの水音が聞こえてくる。刃物が触れ合う音は既に聞こえない。男は帯に挟んでいた矢を番え、月に射た。虚空に飛んだ矢はすぐに月光と同じ色の火を吹きはじめる。撤収の合図だ。弓弦の澄んだ残響が消える頃、芒の丘は無人になった。
昼の終わりと夜の始まりが混じりあった雑踏の中、人々はそれぞれの行き先へと向かう。そのざわめきに、今宵は多分に興奮が入り混じっているようだった。
「……南の……」
「焼き討ち……」
「統領の指図で……」
囁かれる噂が切れ切れに玄司の耳に入る。この時間、昼から夜へと伝えられる今日一日の話題。その中でも最大のものだろうその噂は、当分の間酒の肴にされるだろうことは間違いなかった。
この街には、一本の川が流れている。西から東へ流れ街を二分するその川を境に、街の支配者が変わることは子供にも良く知られている事実だった。根拠地が川の北岸か南岸かで、単純に『北』と『南』と呼ばれるこのふたつの一家は、商店の元締めと両替を家業とする商売敵ということもあり伝統的に仲が悪いことでも知られていた。自然、それぞれが抱える強面衆の数も多くなる。真偽の程は定かではないが、昔は今ほど険悪ではなかったが、五十年ほど前に北の統領が南の娘に求婚を断られて以来対立を続けているという噂もある。
昨夜の事件はこの街に住む者にとって大事件だった。
南の統領の屋敷が焼き討ち。しかも指図は新しくなったばかりの北の統領。
北に住む者が興奮するのも無理のないことだった。勝負などつかなくとも別に構わない喧嘩のはずだが、どちらに肩入れするかと問われれば地元意識の方が強く出る。ここ数年は目立った動きがなかったせいもあり、北の街はまるでお祭りのような雰囲気だった。
「新しい統領はまだ若いんだろ?」
「ああ、あんまり表には出てこないが南の朱里と同じくらいのはずだ」
「そりゃすごい。あの小娘と渡り合える奴が北にいたとはなぁ」
擦れ違った二人連れの男の声を背中で聞いて、玄司は脇道に逸れた。繁華街の喧騒がすっと遠くなる。
程なく、玄司の足が止まった。その正面には古びた屋敷が門を開けている。玄司の姿を認めた若い門番が慌てて飛び出してきた。
「翁は、いるか」
門番が頷くのを横目に玄司は門を潜った。聞くまでもないことである。あの老人がこの屋敷から動けるはずがない。
案内も乞わずに庭を通り抜けた玄司は屋敷へ入った。板張りの薄暗い廊下を慣れた様子で渡っていく。しばらく歩いて、玄司は目指す部屋に着いた。屋敷の最奥にあるその部屋の襖を玄司は無造作に開けた。
中には黒い寝巻きを纏った老人がいた。座敷の中央に敷いた布団に横たわり、目を閉じている。
「——玄司か」
老人は瞑目したまま嗄れ声を発した。軽く会釈をしてから玄司は座敷へ入った。足音を立てずに老人の枕元まで行き、座る。
「南の小娘に一泡吹かせたそうだな」
玄司は軽く頷く。
「詳しく話せい」
「屋敷の裏手の丘から火矢を放ち、南の逃げ道を絶った。火傷または負傷で現在戦力外にある者は南で六割、北が一割。ここまでする気はなかったのだが、指示が徹底していなかったようだ。少々やりすぎた」
「ふん。だが小娘は無事であろう?」
再び玄司は頷く。不敵な笑顔が脳裏に蘇った。
「遭ったのか?」
沈黙する玄司に構わず、老人は続ける。
「あやつは小娘といえど油断できん。たとえ手足の半ばを失おうとも悪あがきはするであろう。昨日の今日ゆえ、あの小娘もそう簡単に尻尾を掴ませたりはせぬだろうが——」
すうっ、と老人が目を開いた。どこか狐を思わせる、鋭く射抜くような眼光が玄司に向けられる。
「玄司、再び見える機会があれば必ず潰せ。それが我ら北の者の悲願であり、北を預かるおぬしの責務じゃ」
玄司は無言で頭を下げた。伏せられた顔からその表情を読み取ることは老人にはできなかった。
「……南の……」
「焼き討ち……」
「統領の指図で……」
囁かれる噂が切れ切れに玄司の耳に入る。この時間、昼から夜へと伝えられる今日一日の話題。その中でも最大のものだろうその噂は、当分の間酒の肴にされるだろうことは間違いなかった。
この街には、一本の川が流れている。西から東へ流れ街を二分するその川を境に、街の支配者が変わることは子供にも良く知られている事実だった。根拠地が川の北岸か南岸かで、単純に『北』と『南』と呼ばれるこのふたつの一家は、商店の元締めと両替を家業とする商売敵ということもあり伝統的に仲が悪いことでも知られていた。自然、それぞれが抱える強面衆の数も多くなる。真偽の程は定かではないが、昔は今ほど険悪ではなかったが、五十年ほど前に北の統領が南の娘に求婚を断られて以来対立を続けているという噂もある。
昨夜の事件はこの街に住む者にとって大事件だった。
南の統領の屋敷が焼き討ち。しかも指図は新しくなったばかりの北の統領。
北に住む者が興奮するのも無理のないことだった。勝負などつかなくとも別に構わない喧嘩のはずだが、どちらに肩入れするかと問われれば地元意識の方が強く出る。ここ数年は目立った動きがなかったせいもあり、北の街はまるでお祭りのような雰囲気だった。
「新しい統領はまだ若いんだろ?」
「ああ、あんまり表には出てこないが南の朱里と同じくらいのはずだ」
「そりゃすごい。あの小娘と渡り合える奴が北にいたとはなぁ」
擦れ違った二人連れの男の声を背中で聞いて、玄司は脇道に逸れた。繁華街の喧騒がすっと遠くなる。
程なく、玄司の足が止まった。その正面には古びた屋敷が門を開けている。玄司の姿を認めた若い門番が慌てて飛び出してきた。
「翁は、いるか」
門番が頷くのを横目に玄司は門を潜った。聞くまでもないことである。あの老人がこの屋敷から動けるはずがない。
案内も乞わずに庭を通り抜けた玄司は屋敷へ入った。板張りの薄暗い廊下を慣れた様子で渡っていく。しばらく歩いて、玄司は目指す部屋に着いた。屋敷の最奥にあるその部屋の襖を玄司は無造作に開けた。
中には黒い寝巻きを纏った老人がいた。座敷の中央に敷いた布団に横たわり、目を閉じている。
「——玄司か」
老人は瞑目したまま嗄れ声を発した。軽く会釈をしてから玄司は座敷へ入った。足音を立てずに老人の枕元まで行き、座る。
「南の小娘に一泡吹かせたそうだな」
玄司は軽く頷く。
「詳しく話せい」
「屋敷の裏手の丘から火矢を放ち、南の逃げ道を絶った。火傷または負傷で現在戦力外にある者は南で六割、北が一割。ここまでする気はなかったのだが、指示が徹底していなかったようだ。少々やりすぎた」
「ふん。だが小娘は無事であろう?」
再び玄司は頷く。不敵な笑顔が脳裏に蘇った。
「遭ったのか?」
沈黙する玄司に構わず、老人は続ける。
「あやつは小娘といえど油断できん。たとえ手足の半ばを失おうとも悪あがきはするであろう。昨日の今日ゆえ、あの小娘もそう簡単に尻尾を掴ませたりはせぬだろうが——」
すうっ、と老人が目を開いた。どこか狐を思わせる、鋭く射抜くような眼光が玄司に向けられる。
「玄司、再び見える機会があれば必ず潰せ。それが我ら北の者の悲願であり、北を預かるおぬしの責務じゃ」
玄司は無言で頭を下げた。伏せられた顔からその表情を読み取ることは老人にはできなかった。
静かな夜である。虫の音が耳に心地良かった。座敷と縁側の境界の柱に凭れて風を受けていると、まるで昨夜の悪夢が嘘のように感じる。
「——お目覚めになられましたか」
後ろから掛けられた声で朱里は現に引き戻された。振り返らず、そのまま答える。
「ああ、今起きたところだ」
「それはようございました。夕餉の支度が整っておりますが、いかがいたしますか?」
「食う」
寝乱れたままの髪をかき上げて朱里が振り返ると、座敷には赤い小袖を着た小さな老婆が座っていた。
「そう仰ると思っておりました」
にっこり笑って老婆は立ち上がった。てきぱきと敷かれたままの布団を片付け、廊下に置いてあった膳を運び入れる。その様子を朱里はぼんやりと眺めていた。勧められるまま、膳の前に座り箸を取る。料理はどれも質素だが、温かかった。
ここは朱里が確保している隠れ家のひとつだった。南の街の中でも静かな北寄りの区画にあり、繁華街に近かった本拠の屋敷とは離れている。壊滅した南の一党に点在する隠れ家を振り分けて、朱里自身がこの家へ辿り着いたのは夜が明けてからのことだった。
「大分、お疲れのようですね」
一瞬、朱里の手が止まる。
「ああ、流石にな」
止まった手が再び動き出して汁椀を取った。昼の間中眠っていたおかげで体力は戻っていたが、気力まではそうはいかない。わずかに残ったそれをかき集めて、朱里は口を開いた。
「——今動けそうなのは、どれくらいだ?」
「全体の四割ほどでしょうか。意趣返しをお望みなら、現時点で三割ほどが戦力になります」
「そうか」
意外な数字ではなかったが、改めて聞くとやはり苦い。汁を一口啜って、朱里は椀を戻した。
「では、当分は南の領域を守ることに主眼を置こう。北にこれ以上調子づかれては困る。とは言え人員が足りんな。一月以内に動けそうなのは?」
「怪我人全体の半分ほどかと」
きり、と朱里の奥歯が鳴る。
「足りんな。何とかするための策を考えねばならんか……」
箸を持った手を顎に当て、朱里は膳に目を落とした。ふと、目に入った汁椀の中に月が揺れている。思い起こしたのは、昨夜の黒衣の男だった。朱里は顔を上げた。
「ばあ、北の新しい統領について何か知っているか?」
「……十年前に先代の統領を害した男でございましょう。ああ、では朱里様が統領になられてからもう十年が経つのですね」
「そんなことは私も知っている。他にはないのか」
「我ら南との大きな争いには大抵絡んでおります。しかもそのほとんどで——不本意ではありますが——何かしかの成果を挙げておりますね。その功を買われて、数ヶ月前に先代の古狐から統領を任されたとか。素性は調べても判りませんでしたねぇ。大方、古狐めが手回しして隠したのでございましょう」
老婆は小さく首を傾げた。
「そうそう、古狐といえば。あの爺、隠居した今でも統領や幹部たちに何やかんやと口出ししているようですねぇ」
「それは本当か?」
老婆が頷く。
「はい。あの爺などから見れば、今の統領は若すぎて頼りにはならないということなのでございましょうか。でもこれでは新しい統領はまるで傀儡。何をするにもやりずらいことでしょうねぇ」
「……そうか」
朱里の目にちらりと光が走った。
「よし、ばあ、墨と紙を用意しろ。手紙を書く」
「わかりました」
「それと布だ。特上の赤絹を仕入れてくれ」
「はぁ、赤絹……ですか?」
訝しげな老婆に向けて朱里はにやりと笑った。
「ああ。それを使って作ってほしいものがあるのだ」
「はぁ……」
「いい策を思いついた。成功するかはわからんが……」
言いかけて朱里は首を振った。
「否、必ず成功させる。北の奴らに一矢報いるのだ。やられたままでは終わらん。それが南の不文律だ」
朱里の顔に凄艶な笑みが戻る。老婆は思わず頭を下げた。
言いつけられた物の用意をするため老婆が部屋を出ていく時には、朱里は手早く膳の上を片付け始めていた。
「——お目覚めになられましたか」
後ろから掛けられた声で朱里は現に引き戻された。振り返らず、そのまま答える。
「ああ、今起きたところだ」
「それはようございました。夕餉の支度が整っておりますが、いかがいたしますか?」
「食う」
寝乱れたままの髪をかき上げて朱里が振り返ると、座敷には赤い小袖を着た小さな老婆が座っていた。
「そう仰ると思っておりました」
にっこり笑って老婆は立ち上がった。てきぱきと敷かれたままの布団を片付け、廊下に置いてあった膳を運び入れる。その様子を朱里はぼんやりと眺めていた。勧められるまま、膳の前に座り箸を取る。料理はどれも質素だが、温かかった。
ここは朱里が確保している隠れ家のひとつだった。南の街の中でも静かな北寄りの区画にあり、繁華街に近かった本拠の屋敷とは離れている。壊滅した南の一党に点在する隠れ家を振り分けて、朱里自身がこの家へ辿り着いたのは夜が明けてからのことだった。
「大分、お疲れのようですね」
一瞬、朱里の手が止まる。
「ああ、流石にな」
止まった手が再び動き出して汁椀を取った。昼の間中眠っていたおかげで体力は戻っていたが、気力まではそうはいかない。わずかに残ったそれをかき集めて、朱里は口を開いた。
「——今動けそうなのは、どれくらいだ?」
「全体の四割ほどでしょうか。意趣返しをお望みなら、現時点で三割ほどが戦力になります」
「そうか」
意外な数字ではなかったが、改めて聞くとやはり苦い。汁を一口啜って、朱里は椀を戻した。
「では、当分は南の領域を守ることに主眼を置こう。北にこれ以上調子づかれては困る。とは言え人員が足りんな。一月以内に動けそうなのは?」
「怪我人全体の半分ほどかと」
きり、と朱里の奥歯が鳴る。
「足りんな。何とかするための策を考えねばならんか……」
箸を持った手を顎に当て、朱里は膳に目を落とした。ふと、目に入った汁椀の中に月が揺れている。思い起こしたのは、昨夜の黒衣の男だった。朱里は顔を上げた。
「ばあ、北の新しい統領について何か知っているか?」
「……十年前に先代の統領を害した男でございましょう。ああ、では朱里様が統領になられてからもう十年が経つのですね」
「そんなことは私も知っている。他にはないのか」
「我ら南との大きな争いには大抵絡んでおります。しかもそのほとんどで——不本意ではありますが——何かしかの成果を挙げておりますね。その功を買われて、数ヶ月前に先代の古狐から統領を任されたとか。素性は調べても判りませんでしたねぇ。大方、古狐めが手回しして隠したのでございましょう」
老婆は小さく首を傾げた。
「そうそう、古狐といえば。あの爺、隠居した今でも統領や幹部たちに何やかんやと口出ししているようですねぇ」
「それは本当か?」
老婆が頷く。
「はい。あの爺などから見れば、今の統領は若すぎて頼りにはならないということなのでございましょうか。でもこれでは新しい統領はまるで傀儡。何をするにもやりずらいことでしょうねぇ」
「……そうか」
朱里の目にちらりと光が走った。
「よし、ばあ、墨と紙を用意しろ。手紙を書く」
「わかりました」
「それと布だ。特上の赤絹を仕入れてくれ」
「はぁ、赤絹……ですか?」
訝しげな老婆に向けて朱里はにやりと笑った。
「ああ。それを使って作ってほしいものがあるのだ」
「はぁ……」
「いい策を思いついた。成功するかはわからんが……」
言いかけて朱里は首を振った。
「否、必ず成功させる。北の奴らに一矢報いるのだ。やられたままでは終わらん。それが南の不文律だ」
朱里の顔に凄艶な笑みが戻る。老婆は思わず頭を下げた。
言いつけられた物の用意をするため老婆が部屋を出ていく時には、朱里は手早く膳の上を片付け始めていた。
手紙の内容は突拍子もないものだった。最初の一行からして尋常ではない。しかしそもそも差出人が普通でないのだから、この文面と内容の非常識さも当然のことなのかもしれない。
玄司の記憶に間違いがなければ、この手紙の主は玄司と現在一触即発の状態にある同業者の統領のはずだ。あれ程の大打撃をつい先日に食らわせた憎むべき敵、あるいは膝を屈して和解を申し込む相手としか見られない筈の自分にこのような提案をしてくるとは。
玄司は月下に一度だけ見えた女の姿を思い起こした。あの不敵な笑顔、返り血を浴びた立ち姿。聞けば、北の負傷者の大半はあの女が作り出したのだという。
そこまで考えて、玄司は手紙の主——朱里をかなり気に入っている自分に気づいた。苦笑したくなる時というのはこういう時だろうか、と無表情に考える。味方の筈の老人の言葉より、敵の筈の朱里の言に自分と近いものを感じる。
「統領」
部屋の障子が開かれた。文机の前に座ったままの玄司の背中に低い声がかかる。玄司は記憶の片隅から、その男の顔と情報を掘り起こした。確か、あの屋敷の老人の古い部下の一人だ。
「南の鼠どもの隠れ家が判りました。いかがなされますか?」
「放っておけ」
手紙を元の巻物の形に巻き戻しながら玄司は即答した。
「しかし……」
「隠れ家といっても、そこに南の全員が集結しているわけでもあるまい。奴らの一部を叩いたところで北に利はない」
「……わかりました。ところで」
不満を包んだ声が露骨な興味を含んで心持ち大きくなった。
「その手紙……どちらから来られたものですかな?」
留紐を巻きつける玄司の指が止まる。
「……艶書だ」
咄嗟に口に出してみてから、玄司はそれが悪くない口実であることに気づいた。しかも、あながち嘘でもない。
「統領になった者は、受け取った恋文の詳細まで申告せねばならんのか?」
「……それは失礼しました」
形ばかり丁重な礼をして、男は障子を閉じた。廊下を渡る足音が遠ざかっていく。
その足が数刻後には老人の屋敷の廊下を踏むだろうことが玄司には分かっていた。今の会話は一語洩らさず老人に伝えられるのだろう。
玄司は巻き戻した手紙を見やった。これに記された提案は、成功すれば玄司にとっても悪くはない結果が出るということになっている。
かつての統領——老人の権勢の排除。
これから玄司が統領として力を振るうためには、これはどうしても通らねばならない道だった。先程のような詮索は毎度のこと、策の妨害もこれまでにも数え切れないほどあった。玄司にはこのまま黙っているような被虐趣味はない。別に統領の座に執着はないが、やられたことにはやり返して今日まで生きてきたのだ。それは他でもないあの老人が徹底して玄司に教えてきたことでもある。
玄司は心を決めた。決めた以上は急がなければならない。この事を他の北の連中に感づかれてはならない。
『艶書』への返事を認めるため、玄司は文机の上の筆を取った。
玄司の記憶に間違いがなければ、この手紙の主は玄司と現在一触即発の状態にある同業者の統領のはずだ。あれ程の大打撃をつい先日に食らわせた憎むべき敵、あるいは膝を屈して和解を申し込む相手としか見られない筈の自分にこのような提案をしてくるとは。
玄司は月下に一度だけ見えた女の姿を思い起こした。あの不敵な笑顔、返り血を浴びた立ち姿。聞けば、北の負傷者の大半はあの女が作り出したのだという。
そこまで考えて、玄司は手紙の主——朱里をかなり気に入っている自分に気づいた。苦笑したくなる時というのはこういう時だろうか、と無表情に考える。味方の筈の老人の言葉より、敵の筈の朱里の言に自分と近いものを感じる。
「統領」
部屋の障子が開かれた。文机の前に座ったままの玄司の背中に低い声がかかる。玄司は記憶の片隅から、その男の顔と情報を掘り起こした。確か、あの屋敷の老人の古い部下の一人だ。
「南の鼠どもの隠れ家が判りました。いかがなされますか?」
「放っておけ」
手紙を元の巻物の形に巻き戻しながら玄司は即答した。
「しかし……」
「隠れ家といっても、そこに南の全員が集結しているわけでもあるまい。奴らの一部を叩いたところで北に利はない」
「……わかりました。ところで」
不満を包んだ声が露骨な興味を含んで心持ち大きくなった。
「その手紙……どちらから来られたものですかな?」
留紐を巻きつける玄司の指が止まる。
「……艶書だ」
咄嗟に口に出してみてから、玄司はそれが悪くない口実であることに気づいた。しかも、あながち嘘でもない。
「統領になった者は、受け取った恋文の詳細まで申告せねばならんのか?」
「……それは失礼しました」
形ばかり丁重な礼をして、男は障子を閉じた。廊下を渡る足音が遠ざかっていく。
その足が数刻後には老人の屋敷の廊下を踏むだろうことが玄司には分かっていた。今の会話は一語洩らさず老人に伝えられるのだろう。
玄司は巻き戻した手紙を見やった。これに記された提案は、成功すれば玄司にとっても悪くはない結果が出るということになっている。
かつての統領——老人の権勢の排除。
これから玄司が統領として力を振るうためには、これはどうしても通らねばならない道だった。先程のような詮索は毎度のこと、策の妨害もこれまでにも数え切れないほどあった。玄司にはこのまま黙っているような被虐趣味はない。別に統領の座に執着はないが、やられたことにはやり返して今日まで生きてきたのだ。それは他でもないあの老人が徹底して玄司に教えてきたことでもある。
玄司は心を決めた。決めた以上は急がなければならない。この事を他の北の連中に感づかれてはならない。
『艶書』への返事を認めるため、玄司は文机の上の筆を取った。
「ばあ、布は仕入れたか?」
「はい。既に指示のあったものの仕立てを始めております」
低頭する老婆に朱里は頷く。
「例のものはどれ位で仕立てあがる?」
「先程見た様子ではあと十日ほどかと」
「できるだけ急いでくれ。向こうにもあまり時間はないようだ」
朱里は再び手紙に目を落とした。無造作に綴られた文字からは朱里が最低限必要とする情報しか読み取れない。だがそれで充分だと朱里は思っている。無謀ともいえる朱里の手紙にこうして返信を寄越した、それだけでこの手紙の主——玄司は信用できる、と朱里は考えていた。
「そうだな、こちらの根回しに少々時間が必要だから……やはり実行は次の新月か」
「……と言いますと十二日後になりますか」
「ああ」
崩した膝の上に手紙を置き、朱里は顎に手を当てた。
「問題はこれをどうやって向こうに伝えるかだな。そう何度も手紙をやりとりする隙があるとも思えんが……っと」
朱里が身じろぎした拍子に膝から手紙が滑り落ちた。畳の上に書面を広げながら巻物はころころと転がっていく。
「やれやれ」
立ち上がりかけた老婆を制して朱里は腰を上げた。巻きつけた紙がすべて解けてしまった軸を取り上げ、巻き直そうとした朱里の手が、ふと止まった。ぷるぷるとその肩が細かく震え始める。
「くっ……くくくっ……」
「朱里様?」
「ははははははっ!!!」
腹を抱えて笑い出した朱里に老婆が慌てて近寄る。その老婆の腕を掴んだ朱里は未だ笑いを含んだ目を上げる。
「ばあ、艶書とはどう書けばいいのだ?」
「は?」
忍び笑いを洩らしながら朱里は畳に広がったままだった書面を引き寄せた。
「ここに、追伸がある。分かりづらいところにあったからさっきは気づかなかったのだが」
確かに、朱里が示した文章は本文の終わりからかなりの空白を隔てた軸寄りの場所に書かれている。巻物をすべて広げてみないと気づかない書き方だ。
「北の身内にバレんように、私からの手紙は艶書ということで通しているのだそうだ。以後そのつもりで頼む、とな」
再び笑い出した朱里は涙さえ浮かべた目で手紙を見やった。
「あの男、一体どんな顔でこれを書いたのやら。ますます気に入ったぞ」
朱里が返信の用意を指示できるほどに笑いから立ち直ったのは、それからさらにしばらくしてのことだった。
「はい。既に指示のあったものの仕立てを始めております」
低頭する老婆に朱里は頷く。
「例のものはどれ位で仕立てあがる?」
「先程見た様子ではあと十日ほどかと」
「できるだけ急いでくれ。向こうにもあまり時間はないようだ」
朱里は再び手紙に目を落とした。無造作に綴られた文字からは朱里が最低限必要とする情報しか読み取れない。だがそれで充分だと朱里は思っている。無謀ともいえる朱里の手紙にこうして返信を寄越した、それだけでこの手紙の主——玄司は信用できる、と朱里は考えていた。
「そうだな、こちらの根回しに少々時間が必要だから……やはり実行は次の新月か」
「……と言いますと十二日後になりますか」
「ああ」
崩した膝の上に手紙を置き、朱里は顎に手を当てた。
「問題はこれをどうやって向こうに伝えるかだな。そう何度も手紙をやりとりする隙があるとも思えんが……っと」
朱里が身じろぎした拍子に膝から手紙が滑り落ちた。畳の上に書面を広げながら巻物はころころと転がっていく。
「やれやれ」
立ち上がりかけた老婆を制して朱里は腰を上げた。巻きつけた紙がすべて解けてしまった軸を取り上げ、巻き直そうとした朱里の手が、ふと止まった。ぷるぷるとその肩が細かく震え始める。
「くっ……くくくっ……」
「朱里様?」
「ははははははっ!!!」
腹を抱えて笑い出した朱里に老婆が慌てて近寄る。その老婆の腕を掴んだ朱里は未だ笑いを含んだ目を上げる。
「ばあ、艶書とはどう書けばいいのだ?」
「は?」
忍び笑いを洩らしながら朱里は畳に広がったままだった書面を引き寄せた。
「ここに、追伸がある。分かりづらいところにあったからさっきは気づかなかったのだが」
確かに、朱里が示した文章は本文の終わりからかなりの空白を隔てた軸寄りの場所に書かれている。巻物をすべて広げてみないと気づかない書き方だ。
「北の身内にバレんように、私からの手紙は艶書ということで通しているのだそうだ。以後そのつもりで頼む、とな」
再び笑い出した朱里は涙さえ浮かべた目で手紙を見やった。
「あの男、一体どんな顔でこれを書いたのやら。ますます気に入ったぞ」
朱里が返信の用意を指示できるほどに笑いから立ち直ったのは、それからさらにしばらくしてのことだった。
玄司は無言のまま、手にした杯を口元に運んだ。酒気のせいで体温が上がったのか、頬に当たる夜風が涼しかった。
二度目の手紙にあった約束の期日まで、玄司のすべきことはそう多くはない。気をつけねばならないのはただ、この謀が洩れないよう気をつけることだけだった。
——謀。
玄司は自分の思いついた言葉に考え込んだ。南の統領と密約を結ぶなど、あの老人などから見れば裏切り以外の何物でもないのだろう。しかし。
——これは裏切りなのか?
玄司にとって、統領の座などは押しつけられたものでしかなかった。
元々、玄司は北の生まれではない。そもそも、この街の人間でもないのだ。まだほんの子供の頃、あちこちを放浪していた根無し草の親とはぐれ、当時の統領だったあの老人に拾われたのが今の玄司の始まりだった。生きるためにとりあえず選んだ場所にしか過ぎないこの街で得た庇護者があの老人だった、それだけの話だった。
無口な子供だった。必要なこと以外は喋らず、暇があれば覚えたての弓を引いているか書物を読んでいた。そんな玄司に老人は却って興味を覚えたようだった。ある日、玄司は老人から兵法書を与えられ、数日後それについての意見を求められた。玄司の答えに老人は満足したようだった。しばらくして、玄司は南との小競り合いのための手順を考えさせられた。老人にしてみれば遊びのつもりだったのだろう。しかしそれを実行してみた結果、南に予想以上の大打撃を与えてしまったのだ。当時の南の統領はこのとき受けた傷が元で死に、代わって未だ十代半ばだった娘が統領になった。老人は狂喜した。
以後も玄司は特に老人に逆らわず、請われれば案を出してそれを成功させたため、次第に懐刀として恃まれるようになっていった。数ヶ月前に老人が病を理由に隠居した時、玄司が後継として指名されたことに表立って不満を述べる者がいなかったのも、それまでの玄司の功績があまりにも大きかったからだろう。
しかしその功績ゆえに老人が警戒心をも併せ持っていることに玄司は気づいていた。また、腹の中では玄司を認めていない幹部も多い。たとえ北の者でも油断は出来なかった。だが、いつ足元を掬われるか、それを心配するほど玄司は統領という立場にこだわりを持ってはいなかった。
だからこそ朱里の提案に乗った。望みもしない統領の座の束縛と面従腹反の身内より、あの剄い目を持つ女と組んだ方が面白そうだとも思ったからだ。その期待は、今のところ裏切られてはいない。
玄司は文机の上の手紙を思った。先程届いたそれは一通目と違って巻物ではなく三つ折の和紙を別の紙で包んだものだった。薄紅色の紙には流れるような、しかしどこか豪快な字で決行の日時、場所などの連絡事項が書かれていた。しかし何より見るべきは、最後に付け加えられた数文だった。それを見た時、再び玄司の表情は微かに綻びたのだった。
”追伸 貴殿の要望に合わせられるよう努力した。感想は後日、直接聞く”
確かに、中身さえ見なければ立派に恋文として通る体裁である。包み紙など、透かしの入った高級品だ。このような朱里の反応を楽しみ始めていることに玄司は気づいていた。同時に、楽しさなど感じたのは何年ぶりのことだろうか、と思う。
しかしすぐに玄司は考えることをやめた。楽しいのなら、それでいいではないか。
早く月が欠けるといい。
玄司は杯に残った酒を干した。初めて、酒が美味いと思った。
二度目の手紙にあった約束の期日まで、玄司のすべきことはそう多くはない。気をつけねばならないのはただ、この謀が洩れないよう気をつけることだけだった。
——謀。
玄司は自分の思いついた言葉に考え込んだ。南の統領と密約を結ぶなど、あの老人などから見れば裏切り以外の何物でもないのだろう。しかし。
——これは裏切りなのか?
玄司にとって、統領の座などは押しつけられたものでしかなかった。
元々、玄司は北の生まれではない。そもそも、この街の人間でもないのだ。まだほんの子供の頃、あちこちを放浪していた根無し草の親とはぐれ、当時の統領だったあの老人に拾われたのが今の玄司の始まりだった。生きるためにとりあえず選んだ場所にしか過ぎないこの街で得た庇護者があの老人だった、それだけの話だった。
無口な子供だった。必要なこと以外は喋らず、暇があれば覚えたての弓を引いているか書物を読んでいた。そんな玄司に老人は却って興味を覚えたようだった。ある日、玄司は老人から兵法書を与えられ、数日後それについての意見を求められた。玄司の答えに老人は満足したようだった。しばらくして、玄司は南との小競り合いのための手順を考えさせられた。老人にしてみれば遊びのつもりだったのだろう。しかしそれを実行してみた結果、南に予想以上の大打撃を与えてしまったのだ。当時の南の統領はこのとき受けた傷が元で死に、代わって未だ十代半ばだった娘が統領になった。老人は狂喜した。
以後も玄司は特に老人に逆らわず、請われれば案を出してそれを成功させたため、次第に懐刀として恃まれるようになっていった。数ヶ月前に老人が病を理由に隠居した時、玄司が後継として指名されたことに表立って不満を述べる者がいなかったのも、それまでの玄司の功績があまりにも大きかったからだろう。
しかしその功績ゆえに老人が警戒心をも併せ持っていることに玄司は気づいていた。また、腹の中では玄司を認めていない幹部も多い。たとえ北の者でも油断は出来なかった。だが、いつ足元を掬われるか、それを心配するほど玄司は統領という立場にこだわりを持ってはいなかった。
だからこそ朱里の提案に乗った。望みもしない統領の座の束縛と面従腹反の身内より、あの剄い目を持つ女と組んだ方が面白そうだとも思ったからだ。その期待は、今のところ裏切られてはいない。
玄司は文机の上の手紙を思った。先程届いたそれは一通目と違って巻物ではなく三つ折の和紙を別の紙で包んだものだった。薄紅色の紙には流れるような、しかしどこか豪快な字で決行の日時、場所などの連絡事項が書かれていた。しかし何より見るべきは、最後に付け加えられた数文だった。それを見た時、再び玄司の表情は微かに綻びたのだった。
”追伸 貴殿の要望に合わせられるよう努力した。感想は後日、直接聞く”
確かに、中身さえ見なければ立派に恋文として通る体裁である。包み紙など、透かしの入った高級品だ。このような朱里の反応を楽しみ始めていることに玄司は気づいていた。同時に、楽しさなど感じたのは何年ぶりのことだろうか、と思う。
しかしすぐに玄司は考えることをやめた。楽しいのなら、それでいいではないか。
早く月が欠けるといい。
玄司は杯に残った酒を干した。初めて、酒が美味いと思った。
「親父殿!親父殿!!」
朱里は叫びながら屋敷の廊下を駆けていた。
周りはまるで戦場のような有り様だった。座敷から、庭から、刃と刃がぶつかり合う音が間断なく響き、人が倒れていく。床に這った者には、明らかに赤い着物が多い。ともすると泣き出しそうになる自分を叱咤しながら、朱里は唯一人の探し人を求めて走り続けた。
「親父殿ッ!!!」
横手から黒い影が飛び出してきた。ほとんど反射的に朱里の手も動く。右手に着けた鉄爪に重い衝撃。倒れていく黒半纏の男に見向きもせず、朱里はさらに足を速めた。どこかで火の手が上がったのだろうか、黒い煙が空気に混じり始めた。
最早呼ばわることはせず、唇を噛み締めて朱里は走り続けた。進む方向は完全に勘まかせだ。
中庭で、朱里はようやく探し人を見つけた。庭石に背中を預け、地面に座り込んでいる男。紅く染まった左腕を庇ってはいるものの、右手には未だ血刀を握ったまま、眼光も鈍ってはいない。
「親父殿……っ!!!」
裸足のまま朱里は縁側を飛び降りた。植え込みのあちこちに転がる黒衣の男達を無視して素早く父の元に駆け寄った朱里はしかし、一歩の距離を隔てて棒立ちになった。赤い着物をより紅く染め上げた大量の出血。一目でわかる。深手だった。
「……おう、朱里か」
だが、顔を上げた父の声にはいつもと同じ毅さがあった。むせ返るような血の匂いの中、豪胆な笑みを零す。
「ぬかったわ。北の奴ら、今回は妙に小賢しい動きをしおった。気がついたら囲まれておったわ。どうやらあの狐爺、知恵の回る奴を見つけてきたらしい」
可笑しげに父が笑った。次の瞬間、その目が朱里を射竦めるほどに真剣になる。
「恐らくは、そいつがこれから最も警戒せねばならん相手になるだろう。出来ればこんな置き土産、お前に遺したくはなかったが……朱里、お前はこの父の轍を踏まぬよう心せよ」
はっと朱里が父を見つめる。怖いほど真剣な顔で、父もまた朱里を見つめ返す。
「俺の次は、お前が統領だ。お前は強い。体も、心も。お前はきっと、立派な統領になれる」
童女のように、朱里は首を横に振った。否、朱里は未だ成人前の童女だった。精一杯の想いを込めて、紅く染まった父の着物をぎゅっと握り締めた。それでも、涙だけは零すまいと必死に堪える。そんな朱里の心を知ってか知らずか、父は言葉を続ける。
「これからはお前自身が良いと思った道を往け。歩み出したら迷うな。それがひいては、南のためにもなる」
「……いっ」
朱里がようやく出した声は、しかし泣き声以外の何物でもなかった。
「嫌だ!!親父殿、逝かないでくれ!!!」
ふ、と表情を緩めた父は朱里の頭に手を伸ばした。ぽん、と叩いた後、ぐっと胸元に抱き寄せる。
「おっ……親父殿!?」
「我慢することはない。統領だって人なんだ。楽しい時には笑って、悲しい時には泣けばいい」
先程とは打って変わった弱々しい声に朱里の不安は膨れ上がる。頭を押さえられているため、顔を上げて父の様子を窺うことも出来ない。全力で暴れてみたが、父の腕はびくともしなかった。
いつしか朱里は泣いていた。先程より父の呼吸が浅くなったのは気のせいだろうか。何故、父は黙ったままなのだろうか。何より、父の沈黙が怖かった。
どれ位経った頃だろう。修羅場の喧騒は去り、代わりに遠くで朱里を呼ぶ声がする。
ああ、ばあだ。ばあが呼んでいる——
そう思った瞬間、朱里は覚醒した。気遣わしげな顔で老婆が朱里の顔を覗き込んでいる。
夢か——
腕で顔を覆って、朱里は夢の続きを思った。
あれから二日後に、父は意識を取り戻すことなく亡くなった。そして朱里は十代半ばの若さで南の統領になった。あれから十年が経つ。父の言葉通りとはいかないまでも、自分なりに統領を務めてきた自負を朱里は持っていた。
身体を起こし、頭を振って朱里は夢と回想の残滓を追い払った。今日は約束の日だった。昨日のうちにすべての準備は整えてあるとはいえ、さすがに寝ぼけ頭で赴くわけにはいかない。
「ばあ、『赤衣』の用意だ」
短く告げる朱里の目に、既に感傷の色はなかった。
朱里は叫びながら屋敷の廊下を駆けていた。
周りはまるで戦場のような有り様だった。座敷から、庭から、刃と刃がぶつかり合う音が間断なく響き、人が倒れていく。床に這った者には、明らかに赤い着物が多い。ともすると泣き出しそうになる自分を叱咤しながら、朱里は唯一人の探し人を求めて走り続けた。
「親父殿ッ!!!」
横手から黒い影が飛び出してきた。ほとんど反射的に朱里の手も動く。右手に着けた鉄爪に重い衝撃。倒れていく黒半纏の男に見向きもせず、朱里はさらに足を速めた。どこかで火の手が上がったのだろうか、黒い煙が空気に混じり始めた。
最早呼ばわることはせず、唇を噛み締めて朱里は走り続けた。進む方向は完全に勘まかせだ。
中庭で、朱里はようやく探し人を見つけた。庭石に背中を預け、地面に座り込んでいる男。紅く染まった左腕を庇ってはいるものの、右手には未だ血刀を握ったまま、眼光も鈍ってはいない。
「親父殿……っ!!!」
裸足のまま朱里は縁側を飛び降りた。植え込みのあちこちに転がる黒衣の男達を無視して素早く父の元に駆け寄った朱里はしかし、一歩の距離を隔てて棒立ちになった。赤い着物をより紅く染め上げた大量の出血。一目でわかる。深手だった。
「……おう、朱里か」
だが、顔を上げた父の声にはいつもと同じ毅さがあった。むせ返るような血の匂いの中、豪胆な笑みを零す。
「ぬかったわ。北の奴ら、今回は妙に小賢しい動きをしおった。気がついたら囲まれておったわ。どうやらあの狐爺、知恵の回る奴を見つけてきたらしい」
可笑しげに父が笑った。次の瞬間、その目が朱里を射竦めるほどに真剣になる。
「恐らくは、そいつがこれから最も警戒せねばならん相手になるだろう。出来ればこんな置き土産、お前に遺したくはなかったが……朱里、お前はこの父の轍を踏まぬよう心せよ」
はっと朱里が父を見つめる。怖いほど真剣な顔で、父もまた朱里を見つめ返す。
「俺の次は、お前が統領だ。お前は強い。体も、心も。お前はきっと、立派な統領になれる」
童女のように、朱里は首を横に振った。否、朱里は未だ成人前の童女だった。精一杯の想いを込めて、紅く染まった父の着物をぎゅっと握り締めた。それでも、涙だけは零すまいと必死に堪える。そんな朱里の心を知ってか知らずか、父は言葉を続ける。
「これからはお前自身が良いと思った道を往け。歩み出したら迷うな。それがひいては、南のためにもなる」
「……いっ」
朱里がようやく出した声は、しかし泣き声以外の何物でもなかった。
「嫌だ!!親父殿、逝かないでくれ!!!」
ふ、と表情を緩めた父は朱里の頭に手を伸ばした。ぽん、と叩いた後、ぐっと胸元に抱き寄せる。
「おっ……親父殿!?」
「我慢することはない。統領だって人なんだ。楽しい時には笑って、悲しい時には泣けばいい」
先程とは打って変わった弱々しい声に朱里の不安は膨れ上がる。頭を押さえられているため、顔を上げて父の様子を窺うことも出来ない。全力で暴れてみたが、父の腕はびくともしなかった。
いつしか朱里は泣いていた。先程より父の呼吸が浅くなったのは気のせいだろうか。何故、父は黙ったままなのだろうか。何より、父の沈黙が怖かった。
どれ位経った頃だろう。修羅場の喧騒は去り、代わりに遠くで朱里を呼ぶ声がする。
ああ、ばあだ。ばあが呼んでいる——
そう思った瞬間、朱里は覚醒した。気遣わしげな顔で老婆が朱里の顔を覗き込んでいる。
夢か——
腕で顔を覆って、朱里は夢の続きを思った。
あれから二日後に、父は意識を取り戻すことなく亡くなった。そして朱里は十代半ばの若さで南の統領になった。あれから十年が経つ。父の言葉通りとはいかないまでも、自分なりに統領を務めてきた自負を朱里は持っていた。
身体を起こし、頭を振って朱里は夢と回想の残滓を追い払った。今日は約束の日だった。昨日のうちにすべての準備は整えてあるとはいえ、さすがに寝ぼけ頭で赴くわけにはいかない。
「ばあ、『赤衣』の用意だ」
短く告げる朱里の目に、既に感傷の色はなかった。
その花と同じ色の半纏を着た男たちが、街を分かつ川を渡る大橋の南のたもとに群れていた。顔見知り同士でわらわらと固まって話しているその数は貫禄のある幹部から若い衆まで三十人ほど。包帯を巻いた者も多い。
彼らは今日、統領である朱里からここに集まるように言われていた。何やら重大発表と、場合によっては荒事が起きるかもしれないとのことだったので、怪我をしている者を除く全員がここに集まっている。もっとも、改めて言われるまでもなく彼らは朱里の一声があれば即座にその指示に従う者ばかりだった。幹部や古株の連中には、朱里が統領になったばかりの頃から支えてきたという自負もある。その中の一人が、ふと浮かんだ疑問を口に出した。
「それにしても、何で統領はこんなところに集まれなんて言ったんだ?」
本拠焼き討ちは未だ生々しい記憶だった。ましてや、北の縄張りを川越しに目にしている南の者の復讐心が燻り始めても無理のない話だった。それが炎に変わるのを辛うじて抑えているのは朱里から特に強く言い渡された一言があるからだった。曰く、もし北の者を見かけても、許可あるまで決して私闘を交えないこと。そのため、ぎりぎりと歯噛みしながらも彼らは対岸を睨みつけることしかできなかったのだ。
そんな彼らの無言の圧力が効いたのか、北側から橋を渡ってくる者はいなかった。当然、入り口を塞がれている形になっている南側からも渡る者はいない。しかしやがて、北の街から一つの影が姿を現した。何気なく視線を向けた南の者が、それの正体を認めた瞬間大きく目を見開く。
男が一人、橋を渡ってくる。黒い着流しと羽織に身を包んだ黒髪の男。
「北の頭……」
「玄司だ……」
低い囁きが南の者の口から洩れる。見るのは初めてだったが、一目でそれと判る。
玄司は泰然として歩を進めていた。弓も矢も、武器らしいものは何一つ帯びていないくせに何故か無防備には見えない。
無言で、南の者たちは北の統領を見つめた。今襲えば簡単に殺れる、頭ではそう分かってはいても足が動かなかった。橋の中央で玄司が足を止めても、誰一人身じろぎすらしない。ごくり、と誰かの喉が鳴った。
ふいに背後に現れた気配に、南の者たちは我に返った。呪縛が解けたようにぎくしゃくと足を動かして振り返る。
橋に続いている道の向こうに、大小ふたつの人影が見えた。何やら布を被った大きな影を、半歩先を歩く小さな影が先導しているように見える。夕暮れ時の濃い陰影の中、目を凝らした赤い半纏の一人が素っ頓狂な声を上げる。
「とっ……統領!!?」
その声に応えるように、大きい方の影が左腕を上げた。傾いだ太陽の朱い光よりなお紅い、絹の袖が翻る。
爆発的に南の者は反応した。今の今まで玄司に気圧されていた分、腕を高く上げ、朱里の名を大声で呼ぶ。その真ん中を朱里は堂々と歩んでいった。熱狂の中、朱里は橋の一歩前で足を止めた。
興奮が、潮が引くように静まっていく。先程とは打って変わった静けさの中、朱里にその場にいるすべての者の視線が集まる。
朱里は頭から緋色の小袖を被っていた。目深に下ろされ、肩から裾まですっぽり覆うそれが、朱里の表情も仕草もすべてを隠している。その顔がここまで先導してきた小さな影——老婆に向けられる。何事か囁かれた老婆は心得顔で頷き、道から出た。手近に咲いていた曼珠沙華を一輪手折って、朱里に渡す。受け取った花を顔の前でくるりと回し、朱里は独り橋の上へ踏み出した。
数刻とも感じられる数瞬の後、南北の統領は橋の中央で向かい合った。
「——また、逢えたな」
朱里の言葉に、玄司が小さく頷く。その手が朱里の顔と体を覆う小袖に掛けられる。それだけであっけなく小袖は落ちた。橋の板と被り物の立てた微かな衣擦れの音は南岸から上がった驚きの声にかき消された。
小袖の下から現れたのは、深紅の花嫁衣裳だった。花嫁にしては淡い化粧を施した朱里が嫣然と笑みを浮かべ、紅い組紐で結い上げた黒髪をわずかに傾げる。
「どうだ? 私の晴れ姿は」
「……驚いた」
言葉ほどには感情を浮かべていない玄司の表情だったが、朱里は頷いた。嘘でないことは何となく判る。
す、と朱里は玄司に曼珠沙華を差し出した。
「南では重大な誓いを交わす時、相手に紅いものを贈るしきたりがある。受け取ってくれるか」
頷いて、玄司は花を受け取った。それを見届けてから、朱里は再び口を開いた。
「では聞く。お互いの利害が一致する間だけで構わない、共に戦ってくれるか」
「ああ」
「……恐らく二度と北には戻れんぞ」
「構わん。今日までの働きで育ててもらった恩は充分返せているはずだ」
玄司が花を袖にしまう。
「そちらの方こそどうなんだ?元とはいえ北の者と手を組むなど言語道断の暴挙ではないのか?」
朱里が小さく肩を竦めた。
「先日の襲撃で何処かの誰かに手ひどくやられたものでな。情けないことだが守りに徹するには戦力が足りん。ならば攻められる前に誰かを巻き込んで当面の敵と思われる奴を攻めようと考えただけのことだ。攻撃は最大の防御、と言うだろう」
「俺一人増えたところでどうにかなるわけではあるまい」
「お前は人を動かすことができる。量より質だ」
「だが既に一度古巣を裏切った身だ。何時また南を裏切るか知れんぞ」
「それは問題ない」
朱里は玄司を見上げてにやりと笑った。
「私がお前を誑し込んでしまえば、な」
「……正気か」
「当然だ。一番最初の手紙にも書いただろう」
朱里はぐっと玄司を見上げた。
「あれの返事を聞かせてもらおう。私と、夫婦にならないか」
「……あれを読んだ時にも思ったが、ほとんど狂気の沙汰だな」
「うるさい。惚れた男に言い寄るのに形振り構っていられるか」
照れるでもなくあっさり言ってのける朱里に、玄司の表情が微かに緩む。
「俺はお前の父の仇だ」
「それがどうした。殺った殺られたのこの世界じゃ誰に殺されても文句は言えん。その代わり、誰を殺しても文句は言わせんがな」
玄司は頷いた。
「……お前の『艶書』は気に入っている」
「……そうか」
朱里は笑った。
「ならば明日から本物の艶書を山のように送ってやろう。楽しみにしていろ」
言って、朱里は橋の南岸を振り返った。そこには固唾を呑んで成り行きを見守っている南の者たちがいる。足元に落ちていた小袖を拾い上げ、朱里は玄司に被せた。
「似合わんな」
苦笑交じりに言って、朱里は橋を戻り始めた。小袖を肩に羽織り直した玄司がその半歩後を追う。
すっかり暮れた宵の空気が四度目の驚愕の声で震えたのは、そのしばらく後のことだった。
彼らは今日、統領である朱里からここに集まるように言われていた。何やら重大発表と、場合によっては荒事が起きるかもしれないとのことだったので、怪我をしている者を除く全員がここに集まっている。もっとも、改めて言われるまでもなく彼らは朱里の一声があれば即座にその指示に従う者ばかりだった。幹部や古株の連中には、朱里が統領になったばかりの頃から支えてきたという自負もある。その中の一人が、ふと浮かんだ疑問を口に出した。
「それにしても、何で統領はこんなところに集まれなんて言ったんだ?」
本拠焼き討ちは未だ生々しい記憶だった。ましてや、北の縄張りを川越しに目にしている南の者の復讐心が燻り始めても無理のない話だった。それが炎に変わるのを辛うじて抑えているのは朱里から特に強く言い渡された一言があるからだった。曰く、もし北の者を見かけても、許可あるまで決して私闘を交えないこと。そのため、ぎりぎりと歯噛みしながらも彼らは対岸を睨みつけることしかできなかったのだ。
そんな彼らの無言の圧力が効いたのか、北側から橋を渡ってくる者はいなかった。当然、入り口を塞がれている形になっている南側からも渡る者はいない。しかしやがて、北の街から一つの影が姿を現した。何気なく視線を向けた南の者が、それの正体を認めた瞬間大きく目を見開く。
男が一人、橋を渡ってくる。黒い着流しと羽織に身を包んだ黒髪の男。
「北の頭……」
「玄司だ……」
低い囁きが南の者の口から洩れる。見るのは初めてだったが、一目でそれと判る。
玄司は泰然として歩を進めていた。弓も矢も、武器らしいものは何一つ帯びていないくせに何故か無防備には見えない。
無言で、南の者たちは北の統領を見つめた。今襲えば簡単に殺れる、頭ではそう分かってはいても足が動かなかった。橋の中央で玄司が足を止めても、誰一人身じろぎすらしない。ごくり、と誰かの喉が鳴った。
ふいに背後に現れた気配に、南の者たちは我に返った。呪縛が解けたようにぎくしゃくと足を動かして振り返る。
橋に続いている道の向こうに、大小ふたつの人影が見えた。何やら布を被った大きな影を、半歩先を歩く小さな影が先導しているように見える。夕暮れ時の濃い陰影の中、目を凝らした赤い半纏の一人が素っ頓狂な声を上げる。
「とっ……統領!!?」
その声に応えるように、大きい方の影が左腕を上げた。傾いだ太陽の朱い光よりなお紅い、絹の袖が翻る。
爆発的に南の者は反応した。今の今まで玄司に気圧されていた分、腕を高く上げ、朱里の名を大声で呼ぶ。その真ん中を朱里は堂々と歩んでいった。熱狂の中、朱里は橋の一歩前で足を止めた。
興奮が、潮が引くように静まっていく。先程とは打って変わった静けさの中、朱里にその場にいるすべての者の視線が集まる。
朱里は頭から緋色の小袖を被っていた。目深に下ろされ、肩から裾まですっぽり覆うそれが、朱里の表情も仕草もすべてを隠している。その顔がここまで先導してきた小さな影——老婆に向けられる。何事か囁かれた老婆は心得顔で頷き、道から出た。手近に咲いていた曼珠沙華を一輪手折って、朱里に渡す。受け取った花を顔の前でくるりと回し、朱里は独り橋の上へ踏み出した。
数刻とも感じられる数瞬の後、南北の統領は橋の中央で向かい合った。
「——また、逢えたな」
朱里の言葉に、玄司が小さく頷く。その手が朱里の顔と体を覆う小袖に掛けられる。それだけであっけなく小袖は落ちた。橋の板と被り物の立てた微かな衣擦れの音は南岸から上がった驚きの声にかき消された。
小袖の下から現れたのは、深紅の花嫁衣裳だった。花嫁にしては淡い化粧を施した朱里が嫣然と笑みを浮かべ、紅い組紐で結い上げた黒髪をわずかに傾げる。
「どうだ? 私の晴れ姿は」
「……驚いた」
言葉ほどには感情を浮かべていない玄司の表情だったが、朱里は頷いた。嘘でないことは何となく判る。
す、と朱里は玄司に曼珠沙華を差し出した。
「南では重大な誓いを交わす時、相手に紅いものを贈るしきたりがある。受け取ってくれるか」
頷いて、玄司は花を受け取った。それを見届けてから、朱里は再び口を開いた。
「では聞く。お互いの利害が一致する間だけで構わない、共に戦ってくれるか」
「ああ」
「……恐らく二度と北には戻れんぞ」
「構わん。今日までの働きで育ててもらった恩は充分返せているはずだ」
玄司が花を袖にしまう。
「そちらの方こそどうなんだ?元とはいえ北の者と手を組むなど言語道断の暴挙ではないのか?」
朱里が小さく肩を竦めた。
「先日の襲撃で何処かの誰かに手ひどくやられたものでな。情けないことだが守りに徹するには戦力が足りん。ならば攻められる前に誰かを巻き込んで当面の敵と思われる奴を攻めようと考えただけのことだ。攻撃は最大の防御、と言うだろう」
「俺一人増えたところでどうにかなるわけではあるまい」
「お前は人を動かすことができる。量より質だ」
「だが既に一度古巣を裏切った身だ。何時また南を裏切るか知れんぞ」
「それは問題ない」
朱里は玄司を見上げてにやりと笑った。
「私がお前を誑し込んでしまえば、な」
「……正気か」
「当然だ。一番最初の手紙にも書いただろう」
朱里はぐっと玄司を見上げた。
「あれの返事を聞かせてもらおう。私と、夫婦にならないか」
「……あれを読んだ時にも思ったが、ほとんど狂気の沙汰だな」
「うるさい。惚れた男に言い寄るのに形振り構っていられるか」
照れるでもなくあっさり言ってのける朱里に、玄司の表情が微かに緩む。
「俺はお前の父の仇だ」
「それがどうした。殺った殺られたのこの世界じゃ誰に殺されても文句は言えん。その代わり、誰を殺しても文句は言わせんがな」
玄司は頷いた。
「……お前の『艶書』は気に入っている」
「……そうか」
朱里は笑った。
「ならば明日から本物の艶書を山のように送ってやろう。楽しみにしていろ」
言って、朱里は橋の南岸を振り返った。そこには固唾を呑んで成り行きを見守っている南の者たちがいる。足元に落ちていた小袖を拾い上げ、朱里は玄司に被せた。
「似合わんな」
苦笑交じりに言って、朱里は橋を戻り始めた。小袖を肩に羽織り直した玄司がその半歩後を追う。
すっかり暮れた宵の空気が四度目の驚愕の声で震えたのは、そのしばらく後のことだった。
紅い半纏の集団が橋を渡ってやって来たのだ。通りを駆け抜け、繁華街に乱入したその一団の先頭に立つ赤衣姿の女を見て、人々は息を呑んだ。
「みっ……南の朱里だ!!!!」
ぞくりとするような笑みを浮かべた朱里は叫び声を上げた男に凄艶な流し目をくれて走り去った。その後を怒涛のように赤い着物の男たちが続く。呆然とその後姿を見送ってしまってから、人々は今の出来事の意味に思い至った。
——意趣返し。
悟った瞬間、人々は我先にと行動を起こした。巻き込まれることを嫌って逃げ出す者。面白がって後を追いかける者。黒い半纏を着た者たちも慌てて朱里たちの後を追う。繁華街は騒然となった。
騒ぎの元凶たちは通り過ぎた場所の混乱など意に介さず、ひたすら目的地へと走った。繁華街から脇道に入り、目指す屋敷を視界に捉えるとさらに速度を上げる。開け放してあった門を叩き壊す勢いで突入した朱里たちは、繁華街の騒ぎに気づいて集まっていた北の者たちと鉢合わせする。
「んなっ……!?」
半分寝ぼけている上に、まさかここに南の者が来るとは思っていない黒半纏たちは浮き足立った。その隙を逃さず、朱里が号令を下す。
「皆、やれッ!!!」
怒号のような鬨の声が応える。笑みと鉄爪を煌かせて朱里は斬り込んだ。疾風の如く庭を突っ切り、屋敷へと一気に駆け込む。さすがに態勢を整えつつある北の者たちと斬り結びながら、朱里は奥へ奥へと進んでいった。
屋敷の最奥まであと少しというところで、朱里は行く手を阻まれた。黒衣の男たちが三人、刀を抜いて待ち構えている。
「三人がかりか? 面白い」
むしろ嬉々とした様子で朱里は一人目に突っ込んでいった。ぎぃん、と鋼が鳴る。左の袖口から出した鉄爪で相手の刀を弾き飛ばしそのまま突き出す。紅い飛沫が散った。振り返って、二人目が振り下ろす刃を受け止める。きりきり、と刀と鉄爪が鳴いた。好機と見た三人目が刀を突き出す。
「ふん」
鼻で笑って、朱里は右手を閃かせた。
「悪いな。爪があるのは左手だけじゃない」
まだ血塗られていない鉄爪が突き込まれた刃と、勢い余って突っ込んできた男の体を床に叩きつける。刃を合わせた男が目を見開いた。にやりと笑って、朱里は男の力を受け流した。
「力押しだけではなく頭も使うことだ。お前たちの『元』統領の十八番ではないか」
支えを失って泳いだ男を後ろから蹴り飛ばして、朱里は廊下の奥へと目を向けた。
「——なんだ、いたのか」
「いてはまずかったか」
廊下の突き当たりの壁がぽっかりと開いていた。その穴を背に、蝋燭を持った玄司が立っている。
「そういうわけではないが。随分早いと思ってな。合流にはもう少しかかると思ってた」
「非常時用の抜け道だ。いざという時脱出に手間取るような造りにはしないだろう」
「なるほど」
朱里は耳を澄ませた。派手な剣戟の音はかなり遠い。これなら話の邪魔をされることもないだろう。
「では、行くか」
頷いて、玄司は老人の部屋の襖に手を掛けた。開かれた部屋の中には布団が一組敷いてある。老人はその脇に正座していた。
「——翁」
「玄司、儂はおぬしにそこの小娘を殺せと言ったはずだが」
顔を上げずに、老人は底冷えのする嗄れ声で言った。むっとして何か言いかけた朱里を制して、玄司は袖に手を入れた。
「それはできない」
「ほう。育ててやった恩義を忘れたか」
取り出された玄司の手には曼珠沙華の花がある。
「いや。気に入った女と比べた時どちらが俺にとって重いか、という話だ」
部屋に入り、玄司は老人の前に歩いていった。屈みこんで、老人の前に曼珠沙華の花を置く。
「翁なら、解ると思うが」
ふん、と老人は鼻を鳴らした。
「小娘」
「……何だ」
腕組みをして成り行きを見守っていた朱里が応える。
「一体どうやってこの茶番を南の連中に納得させたのだ」
「惚れた男をものにするために協力してくれと言っただけだ」
「……こやつを誑かして、一体何を狙っておる」
「別に。私のものにしたいと思ってる、それだけだが」
「よく言うわ。これを攫われては北の後継がいなくなるではないか。何のかんのでこれ以外に統領を任せられそうな奴はおらんのだからな」
「本懐を遂げられて、しかも北が不利になるのなら私は万万歳だな」
「ふん。それはどうかの」
老人が顔を上げた。
「後継がおらんのでは仕方がない。老骨に鞭打って、いま少し儂が北の指揮をすることにしよう」
「年寄りの冷や水だぞ」
「うるさい小娘が」
呆れる朱里に老人が噛み付く。
「とっとと去ねい。次に会った時には容赦せんぞ」
「それはこっちの台詞だ」
くるり、と朱里は老人に背を向けた。玄司が一度、老人に頭を下げてからその後を追う。
戦いの喧騒は聞こえなくなっていた。黒半纏がごろごろ倒れている中を二人は進んでいった。
「——そういえばさっき言っていた、爺なら解るというのは何なんだ?」
思いついたように朱里が問う。珍しく逡巡した後、玄司は諦めたように口を開いた。どうせ今言わなくてもいずれ聞き出される、そう思った。
「昔、翁は南の女に求婚したことがあるらしい」
「ほう。それは興味深い話だな」
「一時は統領の座を投げ打ってもいいとまで思いつめていたらしい。だが、その女は当時の南の統領へ嫁いでしまったのだそうだ」
「ほう。で?」
「それ以来南と女を目の敵にするようになったとのことだ」
だが、と玄司は言葉を継いだ。
「俺などを拾ったのも実の子供がいなかったからだろう。そう考えると少々、哀れでもあるが……」
「そうだな。だが、あの爺の想いが叶っていたら大変なことになっていたぞ」
朱里は自分を示した。
「私のじいさまとばあさまが夫婦になっていなければ、私はここにいなかったのだからな」
「……そうだな」
崩れた表情を隠しながら玄司は答えた。
周りがぼんやりと明るくなってきた。夜明けが近いのだろう。門に通じる庭に、松明がちらちらと揺れている。廊下から朱里が蝋燭を振ると、松明が慌ただしく動き始めた。
「朱里様!! ご無事で!!!」
「当たり前だ!! もうここには用はない、撤収するぞ!!!」
勝ち鬨の声を上げて、赤の半纏を着込んだ者たちは意気揚揚と門を出て行く。
「さ、行くぞ」
朱里の言葉に、玄司は頷いた。その頭上では、黒い夜空が少しずつ朝焼けの色に染まっていた。
「みっ……南の朱里だ!!!!」
ぞくりとするような笑みを浮かべた朱里は叫び声を上げた男に凄艶な流し目をくれて走り去った。その後を怒涛のように赤い着物の男たちが続く。呆然とその後姿を見送ってしまってから、人々は今の出来事の意味に思い至った。
——意趣返し。
悟った瞬間、人々は我先にと行動を起こした。巻き込まれることを嫌って逃げ出す者。面白がって後を追いかける者。黒い半纏を着た者たちも慌てて朱里たちの後を追う。繁華街は騒然となった。
騒ぎの元凶たちは通り過ぎた場所の混乱など意に介さず、ひたすら目的地へと走った。繁華街から脇道に入り、目指す屋敷を視界に捉えるとさらに速度を上げる。開け放してあった門を叩き壊す勢いで突入した朱里たちは、繁華街の騒ぎに気づいて集まっていた北の者たちと鉢合わせする。
「んなっ……!?」
半分寝ぼけている上に、まさかここに南の者が来るとは思っていない黒半纏たちは浮き足立った。その隙を逃さず、朱里が号令を下す。
「皆、やれッ!!!」
怒号のような鬨の声が応える。笑みと鉄爪を煌かせて朱里は斬り込んだ。疾風の如く庭を突っ切り、屋敷へと一気に駆け込む。さすがに態勢を整えつつある北の者たちと斬り結びながら、朱里は奥へ奥へと進んでいった。
屋敷の最奥まであと少しというところで、朱里は行く手を阻まれた。黒衣の男たちが三人、刀を抜いて待ち構えている。
「三人がかりか? 面白い」
むしろ嬉々とした様子で朱里は一人目に突っ込んでいった。ぎぃん、と鋼が鳴る。左の袖口から出した鉄爪で相手の刀を弾き飛ばしそのまま突き出す。紅い飛沫が散った。振り返って、二人目が振り下ろす刃を受け止める。きりきり、と刀と鉄爪が鳴いた。好機と見た三人目が刀を突き出す。
「ふん」
鼻で笑って、朱里は右手を閃かせた。
「悪いな。爪があるのは左手だけじゃない」
まだ血塗られていない鉄爪が突き込まれた刃と、勢い余って突っ込んできた男の体を床に叩きつける。刃を合わせた男が目を見開いた。にやりと笑って、朱里は男の力を受け流した。
「力押しだけではなく頭も使うことだ。お前たちの『元』統領の十八番ではないか」
支えを失って泳いだ男を後ろから蹴り飛ばして、朱里は廊下の奥へと目を向けた。
「——なんだ、いたのか」
「いてはまずかったか」
廊下の突き当たりの壁がぽっかりと開いていた。その穴を背に、蝋燭を持った玄司が立っている。
「そういうわけではないが。随分早いと思ってな。合流にはもう少しかかると思ってた」
「非常時用の抜け道だ。いざという時脱出に手間取るような造りにはしないだろう」
「なるほど」
朱里は耳を澄ませた。派手な剣戟の音はかなり遠い。これなら話の邪魔をされることもないだろう。
「では、行くか」
頷いて、玄司は老人の部屋の襖に手を掛けた。開かれた部屋の中には布団が一組敷いてある。老人はその脇に正座していた。
「——翁」
「玄司、儂はおぬしにそこの小娘を殺せと言ったはずだが」
顔を上げずに、老人は底冷えのする嗄れ声で言った。むっとして何か言いかけた朱里を制して、玄司は袖に手を入れた。
「それはできない」
「ほう。育ててやった恩義を忘れたか」
取り出された玄司の手には曼珠沙華の花がある。
「いや。気に入った女と比べた時どちらが俺にとって重いか、という話だ」
部屋に入り、玄司は老人の前に歩いていった。屈みこんで、老人の前に曼珠沙華の花を置く。
「翁なら、解ると思うが」
ふん、と老人は鼻を鳴らした。
「小娘」
「……何だ」
腕組みをして成り行きを見守っていた朱里が応える。
「一体どうやってこの茶番を南の連中に納得させたのだ」
「惚れた男をものにするために協力してくれと言っただけだ」
「……こやつを誑かして、一体何を狙っておる」
「別に。私のものにしたいと思ってる、それだけだが」
「よく言うわ。これを攫われては北の後継がいなくなるではないか。何のかんのでこれ以外に統領を任せられそうな奴はおらんのだからな」
「本懐を遂げられて、しかも北が不利になるのなら私は万万歳だな」
「ふん。それはどうかの」
老人が顔を上げた。
「後継がおらんのでは仕方がない。老骨に鞭打って、いま少し儂が北の指揮をすることにしよう」
「年寄りの冷や水だぞ」
「うるさい小娘が」
呆れる朱里に老人が噛み付く。
「とっとと去ねい。次に会った時には容赦せんぞ」
「それはこっちの台詞だ」
くるり、と朱里は老人に背を向けた。玄司が一度、老人に頭を下げてからその後を追う。
戦いの喧騒は聞こえなくなっていた。黒半纏がごろごろ倒れている中を二人は進んでいった。
「——そういえばさっき言っていた、爺なら解るというのは何なんだ?」
思いついたように朱里が問う。珍しく逡巡した後、玄司は諦めたように口を開いた。どうせ今言わなくてもいずれ聞き出される、そう思った。
「昔、翁は南の女に求婚したことがあるらしい」
「ほう。それは興味深い話だな」
「一時は統領の座を投げ打ってもいいとまで思いつめていたらしい。だが、その女は当時の南の統領へ嫁いでしまったのだそうだ」
「ほう。で?」
「それ以来南と女を目の敵にするようになったとのことだ」
だが、と玄司は言葉を継いだ。
「俺などを拾ったのも実の子供がいなかったからだろう。そう考えると少々、哀れでもあるが……」
「そうだな。だが、あの爺の想いが叶っていたら大変なことになっていたぞ」
朱里は自分を示した。
「私のじいさまとばあさまが夫婦になっていなければ、私はここにいなかったのだからな」
「……そうだな」
崩れた表情を隠しながら玄司は答えた。
周りがぼんやりと明るくなってきた。夜明けが近いのだろう。門に通じる庭に、松明がちらちらと揺れている。廊下から朱里が蝋燭を振ると、松明が慌ただしく動き始めた。
「朱里様!! ご無事で!!!」
「当たり前だ!! もうここには用はない、撤収するぞ!!!」
勝ち鬨の声を上げて、赤の半纏を着込んだ者たちは意気揚揚と門を出て行く。
「さ、行くぞ」
朱里の言葉に、玄司は頷いた。その頭上では、黒い夜空が少しずつ朝焼けの色に染まっていた。
<2002年10月23日>
*起章*
アサザ
皇帝領の戦士。十八歳。黒い短髪、同色の瞳。
戦士が来てはならないはずの国王領にどういうわけか滞在中。
馬と剣が得意。時々オッサンくさい。
武器と非常食を体中のいたるところに隠し持っている。
レンギョウ
王宮深くにいたワケアリの美少年。十七歳。長い銀髪、青銀の瞳。
王族と貴族しか使えない魔法を使いこなす。
浮世離れしたところがあり、真面目に天然ボケをかます。
友達がいないらしい。
シオン
中立地帯で出会った自警団の少女。十六歳。長い黒髪、紫の瞳。
うっかりしているようで実は肝が据わっている。
度胸は満点、仲間からは慕われている様子。
キキョウ
アサザの愛馬。六歳。美しい栗毛。実は牝馬。
賢く足も速いのでアサザは相当入れ込んでいる。
スタート時点で相思相愛なのはこのペアくらいかも。人同士じゃないのね。
ススキ
自警団の実力者。三十路近い。かなりの長身。
シオンとは義理の兄妹にあたる。重装備の鎧が嫌い。
スギ
自警団の若者。十九歳。
おとなしく見えるけど実はやる子です。現在重要任務遂行中。
ウイキョウ
自警団の一人。四十過ぎのゴツいオッサン。
かなり昔から自警団に所属している。ススキとはツーカーっぽい。
コウリ
国王付の側役。二十代半ば。亜麻色の長髪、薄茶の瞳。
とにかく王家一筋。その過剰なまでの忠誠心はある意味貴重とも言える。
アオイ
アサザの兄。二十歳。アサザより長い黒髪、同色の瞳。
病弱だが頭が良い。割と腹黒。
アカネ
アサザの弟。十五歳。アサザと同じく短い黒髪、同色の瞳。
末っ子気質で明るく無邪気。まだまだ子供っぽい。
アザミ
現皇帝。四十代半ば、黒髪に同色の瞳。
この歳になってもいぢめっ子。
アサザ
皇帝領の戦士。十八歳。黒い短髪、同色の瞳。
戦士が来てはならないはずの国王領にどういうわけか滞在中。
馬と剣が得意。時々オッサンくさい。
武器と非常食を体中のいたるところに隠し持っている。
レンギョウ
王宮深くにいたワケアリの美少年。十七歳。長い銀髪、青銀の瞳。
王族と貴族しか使えない魔法を使いこなす。
浮世離れしたところがあり、真面目に天然ボケをかます。
友達がいないらしい。
シオン
中立地帯で出会った自警団の少女。十六歳。長い黒髪、紫の瞳。
うっかりしているようで実は肝が据わっている。
度胸は満点、仲間からは慕われている様子。
キキョウ
アサザの愛馬。六歳。美しい栗毛。実は牝馬。
賢く足も速いのでアサザは相当入れ込んでいる。
スタート時点で相思相愛なのはこのペアくらいかも。人同士じゃないのね。
ススキ
自警団の実力者。三十路近い。かなりの長身。
シオンとは義理の兄妹にあたる。重装備の鎧が嫌い。
スギ
自警団の若者。十九歳。
おとなしく見えるけど実はやる子です。現在重要任務遂行中。
ウイキョウ
自警団の一人。四十過ぎのゴツいオッサン。
かなり昔から自警団に所属している。ススキとはツーカーっぽい。
コウリ
国王付の側役。二十代半ば。亜麻色の長髪、薄茶の瞳。
とにかく王家一筋。その過剰なまでの忠誠心はある意味貴重とも言える。
アオイ
アサザの兄。二十歳。アサザより長い黒髪、同色の瞳。
病弱だが頭が良い。割と腹黒。
アカネ
アサザの弟。十五歳。アサザと同じく短い黒髪、同色の瞳。
末っ子気質で明るく無邪気。まだまだ子供っぽい。
アザミ
現皇帝。四十代半ば、黒髪に同色の瞳。
この歳になってもいぢめっ子。
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ここから先はネタバレ率高し!! ご注意ください
* * * * * * * * * *
ここから先はネタバレ率高し!! ご注意ください
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*承章*
アサザ
第四代皇帝アザミの第二皇子。十九歳になった。
色々あって皇太子に指名されたことをきっかけに
あれよあれよと苦労の渦へと巻き込まれていく。
レンギョウ
第八代国王、通称『聖王』。十八歳。
『聖王』と『レン』の狭間で自分はどうあるべきなのか模索中。
遅ればせながら青春真っ只中、なのかもしれない。
シオン
自警団長。十七歳。
降って湧いた団長位の継承という事態に戸惑いつつ、
任務を真面目にこなす日々。
コウリ
レンギョウ付の側役にして叔父。色々やらかします。
承章はある意味彼とアカネのためにある。
アザミ
第四代皇帝、アサザたち三兄弟の父。
有能かつ敏腕なんだけどね。やっぱりいぢめっ子。
アオイ
第四代アザミの第一皇子。廃太子にして皇帝領の間者の元締。
きっと部下へはにこやかな顔ですごい指令を出すんでしょう。
……実は一番父親似なのは彼かもしれない。
アカネ
第四代アザミの第三皇子。皇帝軍将帥に任命される。
ブドウから聞いた『泡立つ酒』をぜひ一度呑んでみたいと思っている。
出陣の前に、酒場へ行かせてやれば良かったかな。
ブドウ
皇家の藩屏グースフット家の娘。二十二歳。赤茶の短髪、若葉色の瞳。
女性ながら生粋の武人。褐色の肌は先祖譲り。
平時の皇帝軍トップである副将帥であり、開戦後はアカネの補佐となる。
アサザ三兄弟と仲がいい。男性の好みは割と意外どころ。
イブキ
中立地帯の流れ者。元皇帝軍近衛隊長。
アザミやウイキョウと同年代の四十過ぎ。
飄々としたつかみどころのない人。強いんだけどね。
アサザ三兄弟の幼少時を一方的に覚えている。
キキョウ(人)
アザミの后、アサザ三兄弟の母。享年三十歳。
本編には一度も登場していないにも関わらず、妙な存在感がある。
外伝『紫花』にてアザミはいぢけっ子だと暴露するために必要不可欠。
キキョウ(馬)の名の由来にもなった。
カタバミ
”山の民”の少女。七歳。
美少女というよりめんこい感じ。外を知らないので素朴で純粋。
昔話を聞かせてくれるのでクルミが好き。カヤは嫌い(怖いから)
オダマキ
”山の民”の長。三十代後半。カタバミの父。
巌のようながっしりした体躯の親父。キキョウ(人)の幼馴染でもある。
クルミ
”山の民”の引きこもり老人。年齢不詳、総白髪。目には怪しい光が。
皇宮の内部事情からオダマキ家の献立までを知り尽くした美声の情報通。
カヤ
自称・魔剣”茅”の守護者にして破魔術の要。
実年齢不詳、長い銀髪と銀青の瞳、レンギョウと瓜二つの少女の姿。
その実体は黒塗の長刀である。いまだに正体は不明。
個人的に書いてて楽しいお方。
* * * * * * * * * *
以下、根幹設定のネタバレあり!! 未読の方は要注意
* * * * * * * * * *
以下、根幹設定のネタバレあり!! 未読の方は要注意
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*転章9以降*
創国記の登場人物
蓮(れん)
西の大陸から渡ってきた魔法を遣える少女。
銀髪青瞳、すらりと細い手足と人形のように整った容貌を持つ。
島の言葉の発音が苦手ということもあり、常におどおどした口調でしゃべる。
人見知りかと思いきや、時に思い切った行動力を示し周囲を驚愕させることも。
双子の兄のせいで、なんだかんだ言いつつ箱入り娘。
お酒は飲んだことがありません。
藜(あかざ)
戦乱続く島国に生まれ、成り行きで悪友たちと一旗上げて早数年。
ふと気がつくと『戦士』と呼ばれる大所帯兵団の大将になっていたという、
一般的な意味とはかなり違う方向に天然系な、黒髪黒目の義に厚い青年。
身の回りの品が黒一色なのは、
最初に手に入れた馬と刀の色に合わせて装備を追加していたら
自然とそうなってしまったというのが真相。
おしゃれで揃えるような色気は持ち合わせておりません。
兄弟多そうですが実は一人っ子。
酒はそこそこ呑めますが、限界を過ぎると割とあっさりツブれます。
楝(れん)
蓮の双子の兄。
蓮の魔法を利用して島国の統一を目論み『魔王』を名乗っている。
幼少時から不遇な境遇に置かれることが多く、見事に性格は屈折している。
金髪碧眼、蓮とそっくりな容貌の持ち主。忘れないで。彼だって美形キャラ。
あの『戦士』の悪友トリオと実質独りで渡り合っているあたり、
実は単体での能力は創国記の男性陣の中で一番高いと思われるのだけれども。
下戸です。盃一杯で撃沈するので絶対呑みません。
でも寂しがり屋だから宴は大好き。呼ばれないとマジ切れします。
椿(つばき)
蓮の数少ない友人にして楝のお世話係。
今も昔も何かと苦労の多い日々を送っているが、
人の長所を見抜いてそれを素直に信じる性格のため、
常に周囲からは一目置かれている。
黒髪と、特に印象的なあでやかに黒い瞳の持ち主。
兄二人ほか弟妹多数。子守をさせたら右に出る者はいません。
呑ませてはいけません。大トラです。
グースフット
『戦士』の軍勢で常に先鋒を務める斬り込み隊長。
東の大陸では名の知れた傭兵一族の出身。
赤茶の髪と若葉色の瞳、褐色の肌を持つガタイのいい兄ちゃん。
中身はいたって気さくで女好き、「愛してるぜ」は挨拶だと思っている。
でも本気で惚れた女はまだいないっぽい。
一族の子供は皆兄弟という文化のため、異父母の兄弟姉妹が多数います。
呑むとさらに陽気になります。適度なところで記憶が飛ぶという便利な特技あり。
キヌア
『戦士』の財布と兵糧と軍事計画を一手に握る、新兵泣かせの鬼軍師。
濃い金髪と鳶色の瞳は船商人の父親譲り。母は島の生まれ。
幼い頃からの腐れ縁だった藜の挙兵に手を貸して以来、
口では大将や隊長に文句を言いつつも割と楽しくやっているようです。
蓮の決断にある意味一番振り回されたのは彼かもしれない。
会ったこともない異母兄弟が世界各地にいるっぽいです。
あんまり酒量はこなせません。一人静かに呑むのが好きです。
梓(あずさ)
『戦士』に手を貸す”山の民”の長の娘にして藜の許婚。
黒目に映える長い黒髪には色とりどりの編込紐。藍の民族衣装が定番。
北海道弁と東北各地の方言を混合したけったいな言葉をしゃべります。
今日も最強伝説に新たな一頁を加えていることでしょう。女は強し。
弟が一人いましたが戦で亡くしています。
ザルです。そもそも酔ったことがありません。
***************************************************************
かつてこの島国には戦があった。
誰もがその発端を忘れてしまうほどの長い戦乱……
それを終息させたのはたった一人の男だった。
王の位に就いた彼を人々は『魔王』と呼んだ。
彼が人ならぬ力——魔法を操ることで平和を実現したことに感謝と畏敬を込めて。
王位に就いた後、『魔王』は
戦の最後まで好敵手であった『戦士』と呼ばれる男にある役目を与えた。
己や己の子孫が過ちを犯したとき、
それを止めうる唯一の権限を『戦士』とその子孫に託したのだ。
『魔王』の死後、
彼の二人の子供のうち魔法に優れた姉が王位を継いだ。
弟はこれを認め、
以降の己の血筋は『貴族』と称し
王家たる姉の血を受け継ぐ者を輔佐し支援すると公言した。
『戦士』もこれを容認し
人格的にも優れた女王の下、島国は大いに栄えた。
時は下って四代目の王の時代。
時の王は政治をまったく顧みることがなかった。
『戦士』の末裔は役目を果たすため王の居城に出向いた。
一昼夜の話し合いの後、
王は『戦士』の末裔に全権を譲り渡すこととなった。
王は王都を中心とした狭い国王領で今までどおりの暮らしを続け、
かわりに『戦士』の末裔が国を動かす役目を担った。
これを受けた国民は『戦士』の末裔を『皇帝』と呼ぶようになり、
実質的な指導者として彼を受け入れた。
さらに時は流れて四代目の皇帝の時代。
腐敗しつつある政治に人々は疲れ果てていた。
そんな時、一人の『戦士』の血を引く若者が国王領へ入り込む。
彼の名はアサザ。
そこでの出会いがその後の人生を大きく変えることになるとは露知らず、
彼は初めて見る王都を眺めていた——
「ようやく見えた……」
アサザが立った丘から、その壁はよく見渡すことができた。陽光を受け白く輝くそれは長く広く、円を描いて包み込んだ街を守っている。かなりの距離を隔てたここからもその城壁が巨大なものであることは見て取れた。
「あの中のどこかに国王がいる……」
アサザの背筋がぞくりと震えた。神々しささえ感じるその街——王都に不敵な笑みを投げ、アサザは目線を落とした。
「キキョウ、もう少しだ。行くぞ」
低い嘶きで応えたのは見事な栗毛の馬だった。アサザの足が横腹に当たると同時、4本の力強い脚が地を蹴る。
一気に丘を下る。アサザの短い黒髪が一斉に吹き付けてきた風で乱れた。髪の状態などまったく意に介さず、アサザはまっすぐ前を向いていた。
巨大な城壁はなかなか近づかない。流れていく周りの景色の速さと比べて何と遅いことか。
太陽は天頂を少し過ぎたところだ。特に急がなくても夕暮れまでには城壁に辿り着くことはできるだろう。しかしアサザは逸る気持ちを抑えることなく残された道程を急いだ。キキョウもそんな主人の思いを知ってか、長旅の疲れなど感じさせない蹄音を響かせながら街道を駆ける。
「……?」
城壁の中央に門が見え始めた頃だった。アサザたちの少し前を、大きな木箱を背負った男が歩いている。アサザは手綱を緩めた。
「高いところから悪いが……おっちゃん、行商人?」
いきなり前に回り込んで来た人馬にその中年男は相当驚いたらしく、ひゃあと奇声をあげて飛び上がった。
「あ、怪しい者じゃないぜ。ちょっと聞きたいことがあってな。王都の門番のことなんだが……」
言いかけてアサザは男の視線が腰の剣から動かないことに気づき苦笑した。
「これか? これはただの護身用の剣だ。あんたに使う気はないから安心してくれ」
「その剣……あんた、戦士だろう?」
アサザの言葉を聞いていた様子もなく男は呆然と言った。
「なんでこんなところに戦士が。ここは国王領のど真ん中だってのに」
「その国王領見物に来たんだよ」
アサザは身軽にキキョウの背から飛び下りた。びくっと身体をこわばらせる男に慌てて手を振って見せる。
「だから、あんたに何かするつもりはないってば。おっちゃん、国王領出身?」
こわごわと男が頷く。
「あ、ああ。生まれも育ちも王都だ」
「そうか! 良かった」
アサザが破顔する。
「じゃあ馬に乗ってても門番に止められるかどうかなんてことも判るよな? せっかくここまで一緒に来たのにこいつと王都見物ができないんじゃ可哀想だと思ってな。どうなんだ?」
「……馬は大丈夫だ」
「そうか! やったな、キキョウ!!」
嬉々としてキキョウの首筋を叩くアサザの表情が男の次の言葉で途端に曇った。
「ただ、あんたのその剣は……」
「……そうか。やっぱな」
しゅんとしてアサザは男を振り返った。
「やっぱ目立つよな、これは。でもそうそう簡単に使い慣れたものを手放すわけにもいかないし」
ぶつぶつと呟いているアサザを男は上目遣いに見上げた。
「なああんた、なんでこんなところに来たんだ? 貴族と戦士の間じゃお互いの土地には入らないって約束があるんじゃないのか?」
それを聞いたアサザの顔が困ったような表情を浮かべる。
「不可侵条約のことか? うーん。そうなんだが、俺が個人で見学に来る分にはいいかなぁと……」
そっぽを向いて頬を掻くアサザに男は驚きを隠せない目を向けた。
「あんた、まさかここまで一人で来たのか!?」
「ああ」
あっさりとしたアサザの答えに男は信じられないと口の中で呟いた。
「あんた馬鹿か? 戦士とはいえ国王領内で捕まったらただじゃ済まないことくらいわかってるだろう?」
「貴族の使う魔法のことか? その時はその時考えればいいさ。機会があれば貴族とも手合わせしてみたいと思ってたしな」
言って、にっと笑うアサザを男は見上げ——同じくにっと笑った。
「すごい度胸だな。気に入ったよ」
「そりゃどーも」
男は道の脇に背負っていた木箱を下ろした。
「おれは休憩させてもらうが、あんたも一緒にどうだ?」
「俺? 俺は……」
「ここからなら急がなくても十分閉門までには間に合う。茶の一杯くらい付き合ってけよ。もちろん奢りだ」
商人の言葉にアサザは苦笑した。
「おっちゃんも度胸あるな。さっきまでビビって小さくなってたとは思えないぜ」
「ははは。こうでもなきゃ王都と皇都を行き来する行商人なんぞやってられんよ」
木箱を開きながらの商人の言葉にアサザは少し驚いたように目を大きくした。
「皇都に行ったことがあるのか?」
「ああ、何度も行ったさ。今も皇都から中立地帯を抜けてようやく故郷に帰ってきたところだ」
「……」
男は取り出した木製のコップに注いだ水出しの茶を差し出した。
「色々な街に行ったが、やっぱりここが一番だな。あんたに言うのも何だが……皇都の空気は重苦しくていけない」
「空気が重い……か。確かにそうかもな」
「皇帝が民を顧みないせいかねぇ。住んでる人々の顔にも精気がないように見えるんだ。それに比べて王都はいいぞ。何せ聖王様が治めておられるからな」
「……聖王?」
商人はアサザを信じられないものを見るような目つきで眺めた。
「聖王様をご存じないのか?」
「……ああ」
少しきまり悪げにアサザが答えた。呆れの色を隠そうともせずに商人は首を振った。
「王の通り名を知らずに王都に来る奴がいるとは思わなかったよ。下々からも広く意見を取り入れられ、よく王都を守っていらっしゃる。まだお若いのに大したものだよ」
「若い?」
商人はわが事のように胸を張った。
「御歳十七歳。即位されて八年になる。親政を始められたのが二年前だな」
「ふぅん……ひとつ違いか」
アサザはぬるい茶を一気に喉に流し込んだ。
「ところで、おっちゃんの持ってる品の中に保存のきく食い物とかってあるか?」
「ああ。どうしたんだ?」
「保存食が切れてたから買い足そうかと思ってな。ちょっと見せてくれるか?」
出された数種類のものの中からアサザは砂糖漬けの果物と木の実を選んだ。代金を払いながら問う。
「ここまで来たからには俺も王宮見物をしてみたいんだが……おっちゃん、俺でも入れそうな穴場とか知らないか?」
商人が考え込んだ。
「うーむ。王宮の前庭までなら誰でも入れるようになっているが……あんたの場合そこまで行く前に捕まっちまうだろうからなぁ」
「そうか……」
心なしか沈んだ声で答えたアサザの前で商人は頭を掻いた。
「すまんな、役に立てなくて。その剣さえどうにかすれば何とかなるとは思うんだが」
「ああ。これとこいつだけは手放すわけにはいかないんだ」
剣とキキョウを示してアサザは肩をすくめた。
「命を預ける相手だからな。そう簡単に離れるわけにはいかない」
「戦士ってやつはそういうところが強情だからな」
商人は理解できない、というように頭を振った。
「では、ここでお別れかな。おれにも一応待ってる家族がいるんでな。厄介事は起こしたくない」
「ああ。迷惑は掛けない」
アサザはコップを地面に置き、立ち上がった。
「ごちそうさん。面白い話を聞かせてもらった」
「いやいや。今度また会うことがあればその時もどうかご贔屓に」
愛想よく言う商人に苦笑しながらアサザはキキョウの手綱を取った。
「……そうそう」
ひらりと鞍に飛び乗ったアサザに商人の思い出したような声が掛かる。
「王宮の裏の方に非常用の抜け道があると聞いたことがある。見つけた奴は誰もいないがな」
「……そうか」
にやりと笑ってアサザはキキョウの首をめぐらせた。その視線の向こうには白い城壁。
「ありがとよ、おっちゃん。今度会うときはもっといい買い物をしてやるからな」
「期待はしないでおくよ」
笑いを含んだその声を背にキキョウは駆け出した。中天を過ぎた太陽は赤味を増した光を投げて傾きはじめていた。
アサザが立った丘から、その壁はよく見渡すことができた。陽光を受け白く輝くそれは長く広く、円を描いて包み込んだ街を守っている。かなりの距離を隔てたここからもその城壁が巨大なものであることは見て取れた。
「あの中のどこかに国王がいる……」
アサザの背筋がぞくりと震えた。神々しささえ感じるその街——王都に不敵な笑みを投げ、アサザは目線を落とした。
「キキョウ、もう少しだ。行くぞ」
低い嘶きで応えたのは見事な栗毛の馬だった。アサザの足が横腹に当たると同時、4本の力強い脚が地を蹴る。
一気に丘を下る。アサザの短い黒髪が一斉に吹き付けてきた風で乱れた。髪の状態などまったく意に介さず、アサザはまっすぐ前を向いていた。
巨大な城壁はなかなか近づかない。流れていく周りの景色の速さと比べて何と遅いことか。
太陽は天頂を少し過ぎたところだ。特に急がなくても夕暮れまでには城壁に辿り着くことはできるだろう。しかしアサザは逸る気持ちを抑えることなく残された道程を急いだ。キキョウもそんな主人の思いを知ってか、長旅の疲れなど感じさせない蹄音を響かせながら街道を駆ける。
「……?」
城壁の中央に門が見え始めた頃だった。アサザたちの少し前を、大きな木箱を背負った男が歩いている。アサザは手綱を緩めた。
「高いところから悪いが……おっちゃん、行商人?」
いきなり前に回り込んで来た人馬にその中年男は相当驚いたらしく、ひゃあと奇声をあげて飛び上がった。
「あ、怪しい者じゃないぜ。ちょっと聞きたいことがあってな。王都の門番のことなんだが……」
言いかけてアサザは男の視線が腰の剣から動かないことに気づき苦笑した。
「これか? これはただの護身用の剣だ。あんたに使う気はないから安心してくれ」
「その剣……あんた、戦士だろう?」
アサザの言葉を聞いていた様子もなく男は呆然と言った。
「なんでこんなところに戦士が。ここは国王領のど真ん中だってのに」
「その国王領見物に来たんだよ」
アサザは身軽にキキョウの背から飛び下りた。びくっと身体をこわばらせる男に慌てて手を振って見せる。
「だから、あんたに何かするつもりはないってば。おっちゃん、国王領出身?」
こわごわと男が頷く。
「あ、ああ。生まれも育ちも王都だ」
「そうか! 良かった」
アサザが破顔する。
「じゃあ馬に乗ってても門番に止められるかどうかなんてことも判るよな? せっかくここまで一緒に来たのにこいつと王都見物ができないんじゃ可哀想だと思ってな。どうなんだ?」
「……馬は大丈夫だ」
「そうか! やったな、キキョウ!!」
嬉々としてキキョウの首筋を叩くアサザの表情が男の次の言葉で途端に曇った。
「ただ、あんたのその剣は……」
「……そうか。やっぱな」
しゅんとしてアサザは男を振り返った。
「やっぱ目立つよな、これは。でもそうそう簡単に使い慣れたものを手放すわけにもいかないし」
ぶつぶつと呟いているアサザを男は上目遣いに見上げた。
「なああんた、なんでこんなところに来たんだ? 貴族と戦士の間じゃお互いの土地には入らないって約束があるんじゃないのか?」
それを聞いたアサザの顔が困ったような表情を浮かべる。
「不可侵条約のことか? うーん。そうなんだが、俺が個人で見学に来る分にはいいかなぁと……」
そっぽを向いて頬を掻くアサザに男は驚きを隠せない目を向けた。
「あんた、まさかここまで一人で来たのか!?」
「ああ」
あっさりとしたアサザの答えに男は信じられないと口の中で呟いた。
「あんた馬鹿か? 戦士とはいえ国王領内で捕まったらただじゃ済まないことくらいわかってるだろう?」
「貴族の使う魔法のことか? その時はその時考えればいいさ。機会があれば貴族とも手合わせしてみたいと思ってたしな」
言って、にっと笑うアサザを男は見上げ——同じくにっと笑った。
「すごい度胸だな。気に入ったよ」
「そりゃどーも」
男は道の脇に背負っていた木箱を下ろした。
「おれは休憩させてもらうが、あんたも一緒にどうだ?」
「俺? 俺は……」
「ここからなら急がなくても十分閉門までには間に合う。茶の一杯くらい付き合ってけよ。もちろん奢りだ」
商人の言葉にアサザは苦笑した。
「おっちゃんも度胸あるな。さっきまでビビって小さくなってたとは思えないぜ」
「ははは。こうでもなきゃ王都と皇都を行き来する行商人なんぞやってられんよ」
木箱を開きながらの商人の言葉にアサザは少し驚いたように目を大きくした。
「皇都に行ったことがあるのか?」
「ああ、何度も行ったさ。今も皇都から中立地帯を抜けてようやく故郷に帰ってきたところだ」
「……」
男は取り出した木製のコップに注いだ水出しの茶を差し出した。
「色々な街に行ったが、やっぱりここが一番だな。あんたに言うのも何だが……皇都の空気は重苦しくていけない」
「空気が重い……か。確かにそうかもな」
「皇帝が民を顧みないせいかねぇ。住んでる人々の顔にも精気がないように見えるんだ。それに比べて王都はいいぞ。何せ聖王様が治めておられるからな」
「……聖王?」
商人はアサザを信じられないものを見るような目つきで眺めた。
「聖王様をご存じないのか?」
「……ああ」
少しきまり悪げにアサザが答えた。呆れの色を隠そうともせずに商人は首を振った。
「王の通り名を知らずに王都に来る奴がいるとは思わなかったよ。下々からも広く意見を取り入れられ、よく王都を守っていらっしゃる。まだお若いのに大したものだよ」
「若い?」
商人はわが事のように胸を張った。
「御歳十七歳。即位されて八年になる。親政を始められたのが二年前だな」
「ふぅん……ひとつ違いか」
アサザはぬるい茶を一気に喉に流し込んだ。
「ところで、おっちゃんの持ってる品の中に保存のきく食い物とかってあるか?」
「ああ。どうしたんだ?」
「保存食が切れてたから買い足そうかと思ってな。ちょっと見せてくれるか?」
出された数種類のものの中からアサザは砂糖漬けの果物と木の実を選んだ。代金を払いながら問う。
「ここまで来たからには俺も王宮見物をしてみたいんだが……おっちゃん、俺でも入れそうな穴場とか知らないか?」
商人が考え込んだ。
「うーむ。王宮の前庭までなら誰でも入れるようになっているが……あんたの場合そこまで行く前に捕まっちまうだろうからなぁ」
「そうか……」
心なしか沈んだ声で答えたアサザの前で商人は頭を掻いた。
「すまんな、役に立てなくて。その剣さえどうにかすれば何とかなるとは思うんだが」
「ああ。これとこいつだけは手放すわけにはいかないんだ」
剣とキキョウを示してアサザは肩をすくめた。
「命を預ける相手だからな。そう簡単に離れるわけにはいかない」
「戦士ってやつはそういうところが強情だからな」
商人は理解できない、というように頭を振った。
「では、ここでお別れかな。おれにも一応待ってる家族がいるんでな。厄介事は起こしたくない」
「ああ。迷惑は掛けない」
アサザはコップを地面に置き、立ち上がった。
「ごちそうさん。面白い話を聞かせてもらった」
「いやいや。今度また会うことがあればその時もどうかご贔屓に」
愛想よく言う商人に苦笑しながらアサザはキキョウの手綱を取った。
「……そうそう」
ひらりと鞍に飛び乗ったアサザに商人の思い出したような声が掛かる。
「王宮の裏の方に非常用の抜け道があると聞いたことがある。見つけた奴は誰もいないがな」
「……そうか」
にやりと笑ってアサザはキキョウの首をめぐらせた。その視線の向こうには白い城壁。
「ありがとよ、おっちゃん。今度会うときはもっといい買い物をしてやるからな」
「期待はしないでおくよ」
笑いを含んだその声を背にキキョウは駆け出した。中天を過ぎた太陽は赤味を増した光を投げて傾きはじめていた。
その月光と同じ色の長い髪を肩に流した少年が一人、小さな湖のほとりで金色の空を見上げていた。しかしその実、彼の目には空の色など映ってはいなかった。
この時間、この木々に囲まれた湖に散歩に来るのが少年の日課だった。水の上に突き出た岩の一つに座り、溜め息を吐く。実年齢より幼く見えるその少女のような顔が曇っているのは斜陽の影のせいだけではない。
少年は今、決断を迫られていた。自分はもちろん、多くの人を巻き込みかねないその問題を持て余した少年の気分は最近塞ぎがちになっていた。それを心配する周りの者たちの気遣いすら鬱陶しく感じ始めていた少年が逃げる場所はここしかなかった。
「偉大なる御先祖様……貴方ならどうなさるのでしょうか」
少年が低く呟いた時だった。
「うわ……まいったな、変なところに出ちまったぞ」
突然の声と蹄の音に少年は立ち上がり、振り返った。木々の上に広がる空は早くも藍色に染まり、爪のような三日月が細い銀の光を投げかけている。
「おぬし……何者だ?」
少年は鋭い眼差しを逞しい栗毛の馬とそれに跨った黒髪の男に向けた。小柄な少年の威厳に満ちた立ち姿に気圧されたのか、男はばつが悪そうに馬を下りた。
「俺は……旅の者だ。お嬢さん、あんたこそ何者だ? 何だかこの世のものじゃないみたいに見えるぜ」
「残念だが、余は人間だ。ついでに言うと女でもない」
わずかに苦笑を浮かべた少年をまじまじと見つめ、男は納得したようだった。
「それは悪かった。ところでここはどこだ? 実は道に迷ってしまったんだ」
今度は少年が男を見つめる番だった。くすり、と笑った少年がからかうように男を見上げる。
「おぬし、迷子であったか。余とそんなに歳も変わらぬだろうに」
「仕方ないだろ、初めての土地なんだから」
憮然とした男を面白そうに眺めながら少年が少し呆れたように言う。
「しかしいくら不慣れな土地とはいえ王宮に迷い込む者も珍しい。よほどの阿呆か傑物か」
「……!? じゃあここは王宮なのか?」
「そうだ。王宮の最奥、王族とそれに近しいものしか入れぬ奥庭だ」
少年の言葉を聞くと同時に男は小躍りして馬の首を抱き寄せた。
「すげぇや、キキョウ!! お前に任せてよかった!! とりあえず目的地到着だ」
主人の喜色に嬉しげな馬の声が応える。それを見ていた少年は首を傾げた。
「王宮が目的地、だと?」
「ああそうだ!! ようやく辿り着いたぜ!!」
少年の目が男の腰に差された長剣を捉える。訝しげな表情に気づいたのか、男がわずかに視線を逸らす。
「その剣、馬……おぬし、戦士の者ではないか?」
「ん……ま、そんなところだ」
頬を掻いてそっぽを向く男を少年は不思議そうに見た。
「戦士が王宮に何の用だ?」
「……興味本位だ。聖王に会いに来たんだ」
「せいおう?」
少年は考え込んだ。少年の知る限り、この王宮の中にそのような呼び名で呼ばれる者はいなかった。
「聖王とは——」
「そっ、それよりも名前!! 名前をまだ聞いてなかったな!! なんていうんだ?」
少年の言葉を遮って男が馬を示した。
「こいつはキキョウ。荒っぽいところもあるが頭はいいんだ。足もものすごく速い。俺はアサザだ」
「余は——レンギョウだ」
アサザの勢いに押されて少年——レンギョウが答える。すかさずアサザが右手を差し出した。
「よろしくな、レンギョウ!!」
「う……うむ」
ためらいながらレンギョウは差し出された手を握った。レンギョウのものよりふたまわりは大きいその手は一度強くその細い手を握ってすぐに引っ込んだ。
「にしても、レンギョウって何か言いにくいな。レンって呼んでもいいか?」
アサザの言葉にレンギョウは戸惑いの表情を浮かべた。しかしすぐにくすぐったげな微笑に変わる。
「そのように呼ばれるのは初めてだ。何だか、嬉しい」
それを聞いたアサザが意外そうな顔をする。
「レンは貴族だろ? 貴族はあだ名とかで呼び合ったりしないのか?」
「そういうわけではないのだろうが……余は特別らしいからな」
「ふーん」
寂しげに笑うレンギョウにそれ以上は聞かず、アサザは月を見上げた。ふと、一つの考えが心に浮かぶ。
「なあ、レンは王宮の外に出たことがあるか?」
「いや、ないが……」
「見てみたくはないか? この街の壁の向こう側」
水面に映った月を見ていたレンギョウが顔を上げる。自嘲するような笑みを宿した瞳が徐々に期待で輝きだす。
「連れて行って……くれるのか? 外へ」
かすかに震えたその声にアサザは大きく頷いた。
「今、そう言おうと思ってたところだ。答えは……聞くまでもなさそうだな。早くキキョウに乗れ」
「うむ!!」
間もなく、二つの影を乗せたキキョウが木々の中に駆け込んでいった。
この時間、この木々に囲まれた湖に散歩に来るのが少年の日課だった。水の上に突き出た岩の一つに座り、溜め息を吐く。実年齢より幼く見えるその少女のような顔が曇っているのは斜陽の影のせいだけではない。
少年は今、決断を迫られていた。自分はもちろん、多くの人を巻き込みかねないその問題を持て余した少年の気分は最近塞ぎがちになっていた。それを心配する周りの者たちの気遣いすら鬱陶しく感じ始めていた少年が逃げる場所はここしかなかった。
「偉大なる御先祖様……貴方ならどうなさるのでしょうか」
少年が低く呟いた時だった。
「うわ……まいったな、変なところに出ちまったぞ」
突然の声と蹄の音に少年は立ち上がり、振り返った。木々の上に広がる空は早くも藍色に染まり、爪のような三日月が細い銀の光を投げかけている。
「おぬし……何者だ?」
少年は鋭い眼差しを逞しい栗毛の馬とそれに跨った黒髪の男に向けた。小柄な少年の威厳に満ちた立ち姿に気圧されたのか、男はばつが悪そうに馬を下りた。
「俺は……旅の者だ。お嬢さん、あんたこそ何者だ? 何だかこの世のものじゃないみたいに見えるぜ」
「残念だが、余は人間だ。ついでに言うと女でもない」
わずかに苦笑を浮かべた少年をまじまじと見つめ、男は納得したようだった。
「それは悪かった。ところでここはどこだ? 実は道に迷ってしまったんだ」
今度は少年が男を見つめる番だった。くすり、と笑った少年がからかうように男を見上げる。
「おぬし、迷子であったか。余とそんなに歳も変わらぬだろうに」
「仕方ないだろ、初めての土地なんだから」
憮然とした男を面白そうに眺めながら少年が少し呆れたように言う。
「しかしいくら不慣れな土地とはいえ王宮に迷い込む者も珍しい。よほどの阿呆か傑物か」
「……!? じゃあここは王宮なのか?」
「そうだ。王宮の最奥、王族とそれに近しいものしか入れぬ奥庭だ」
少年の言葉を聞くと同時に男は小躍りして馬の首を抱き寄せた。
「すげぇや、キキョウ!! お前に任せてよかった!! とりあえず目的地到着だ」
主人の喜色に嬉しげな馬の声が応える。それを見ていた少年は首を傾げた。
「王宮が目的地、だと?」
「ああそうだ!! ようやく辿り着いたぜ!!」
少年の目が男の腰に差された長剣を捉える。訝しげな表情に気づいたのか、男がわずかに視線を逸らす。
「その剣、馬……おぬし、戦士の者ではないか?」
「ん……ま、そんなところだ」
頬を掻いてそっぽを向く男を少年は不思議そうに見た。
「戦士が王宮に何の用だ?」
「……興味本位だ。聖王に会いに来たんだ」
「せいおう?」
少年は考え込んだ。少年の知る限り、この王宮の中にそのような呼び名で呼ばれる者はいなかった。
「聖王とは——」
「そっ、それよりも名前!! 名前をまだ聞いてなかったな!! なんていうんだ?」
少年の言葉を遮って男が馬を示した。
「こいつはキキョウ。荒っぽいところもあるが頭はいいんだ。足もものすごく速い。俺はアサザだ」
「余は——レンギョウだ」
アサザの勢いに押されて少年——レンギョウが答える。すかさずアサザが右手を差し出した。
「よろしくな、レンギョウ!!」
「う……うむ」
ためらいながらレンギョウは差し出された手を握った。レンギョウのものよりふたまわりは大きいその手は一度強くその細い手を握ってすぐに引っ込んだ。
「にしても、レンギョウって何か言いにくいな。レンって呼んでもいいか?」
アサザの言葉にレンギョウは戸惑いの表情を浮かべた。しかしすぐにくすぐったげな微笑に変わる。
「そのように呼ばれるのは初めてだ。何だか、嬉しい」
それを聞いたアサザが意外そうな顔をする。
「レンは貴族だろ? 貴族はあだ名とかで呼び合ったりしないのか?」
「そういうわけではないのだろうが……余は特別らしいからな」
「ふーん」
寂しげに笑うレンギョウにそれ以上は聞かず、アサザは月を見上げた。ふと、一つの考えが心に浮かぶ。
「なあ、レンは王宮の外に出たことがあるか?」
「いや、ないが……」
「見てみたくはないか? この街の壁の向こう側」
水面に映った月を見ていたレンギョウが顔を上げる。自嘲するような笑みを宿した瞳が徐々に期待で輝きだす。
「連れて行って……くれるのか? 外へ」
かすかに震えたその声にアサザは大きく頷いた。
「今、そう言おうと思ってたところだ。答えは……聞くまでもなさそうだな。早くキキョウに乗れ」
「うむ!!」
間もなく、二つの影を乗せたキキョウが木々の中に駆け込んでいった。
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