書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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スギの身支度はもっと簡単だった。着たきりになっていた合羽はそのままに、タケから一つ分けてもらった籠へ渡された旅糧などを放り込めば、あっという間に立派な商人見習いが出来上がる。
タケの仲間たちの見送りを受けながら、二人は隠れ家の裏口から外へ出た。一晩を経て、氷雨は雪へと変わっていた。灰白の雪片が降りしきる中、二人は裏道を使いながら無言で城門へと向かう。完全に凍りきっていない足元の石畳はざくざくの氷で覆われ、滑りやすいことこの上ない。
どうやら隠れ家はスギの家のあった問屋街からそう離れてはいなかったらしい。家々の連なりの向こう側、見覚えのある近所の屋根の先が視界の端を流れていく。けれど。
もう戻れない。あの場所に。あの家に。
際限なく落ちてくる雪から瞳をかばう風を装って、スギは顔を伏せた。腹の底からこみ上げてくる熱い塊を必死で飲み下しながら、それでもタケとはぐれないよう足を速める。
そんなスギを気遣う様子など微塵もなく、タケは大股で入り組んだ小路を小刻みに折れながらどんどん先へ進んでいく。どうやら目指しているのは南側の城門らしい。中立地帯に繋がる街道に一番近く、人の往来が最も多い皇都の玄関とも言える場所。
「大通りに出るぜ。はぐれるなよ」
ちらとも振り返らず言葉だけを投げかけて、タケは城門を臨む通りに身を滑り込ませた。遅れじと足を速めて、スギも角を飛び出す。
天候が悪いせいか、今日も大路に人影はまばらだった。目的のある者しか外出はしないし、ゆえに皆目的地に少しでも早く到着しようと足早に石畳を横切っていく。
この状況では人波に紛れての脱出はできない。不安に駆られて見上げたタケの横顔はしかし、動揺など欠片も映してはいなかった。スギがきちんとついてきているかさえ確かめず、ぐんぐん城門へと近づいていく。
もう彼に任せるしかない。
そう覚悟して早歩きから小走りに切り替えようとした、その瞬間だった。
そのわずかな音を拾えたのは、どうしてだったのだろう。
耳に残る軋みがふいに背筋をざわめかせた。思わず振り返ると、石畳の遥か先に何か大きな箱形の影が見えた。雪の帳を透かしてさらに目を凝らす。ゆるゆると近づいてくるそれが二頭の馬に牽かせた荷車であると見て取れたのはさらにもうしばらくしてからのこと。完全に足を止めたスギの元へ、馬車はゆっくりゆっくり近づいてくる。
その頃には馬車を御している皇帝軍の兵がラッパを吹き始めた。元々少ない通行人を脇にどかすように。雨雪に顔を伏せる人々の注意をあえて惹きつけるかのように。調子外れの金管が放つ音波はひどく耳に刺さって、乱暴な余波だけを残して灰色の空へと消えていく。
立ちすくむスギの襟首が乱暴に引っ張られた。見上げるまでもなく手の主がタケだということは分かっている。
「おい、勝手に立ち止まるな」
不機嫌な声は再度鳴った耳障りなラッパに遮られた。顔をしかめながらタケはスギを捕まえたまま道の端に寄る。
「ちっ、軍の御用車じゃあ仕方ない。しかし一体何を積んでるんだ」
スギの鼓動が早鐘のように加速していく。同時に血の気が音を立てて引いていき、体温が急激に下がっていく。
確証はない。だが確信があった。きっと、あれは。
ラッパから手を離した兵が露払いするかのように鞭を左右に振った。既にまばらな通行人は皆端に寄って道を譲っている。何事かとぽつぽつと周囲の家や小路から人々が顔を出してきたのを見て、兵は苛立たしげに声を張り上げた。
「寄るな、散れ! 道を空けろ。こいつらみたいに丸焼きにされたいのか」
空気のざわめきを、肌で聞いた。一気に抜け落ちた聴覚、頭の中で自分の鼓動だけが圧倒的な音量で鳴り響いている。外界の音など聞こえない。まばたきも忘れて、食い入るように荷車に載せられているものを見つめる。
馬車はスギの目の前を緩慢な速度で通り過ぎていく。乗用にはされない、荷駄専用の馬なのだろう。念入りな手入れとは言いがたいばさばさの尻尾を振って、二頭の黒鹿毛が重たそうに脚を進める。
馬が牽いている荷車は積載量のみを重視した大きく粗末なものだった。雪よけのつもりだろうか、大きな布で荷車の背全体が包まれている。その布を内側からそれぞれ大きさの異なる包みが持ち上げていた。数は四つ、それはスギがよく知っている人々の大きさとちょうど同じくらいで——
声は出なかった。涙も、叫びも、感情も。ただただ目を見開いて見送るしかできない。
——父さま。母さま。じいさま。サワラ。
包みの一つ一つに呼びかける。声を出せない分、身じろぎすらできない分、叫びは身中で反響しぶつかり合ってスギの拳を震わせる。今ここにある怒りも哀しみも嘆きも悔しさも、自分たちに突然降り掛かったあまりにも巨大な理不尽の前ではただひたすらに無力だった。
無力な自分。無力にしかなれない、自分。
それでも。
生きなければならない。いつか仇を討つ、そのためにも。
「おい、大丈夫か」
ふいに肩を揺さぶられて、スギは我に返った。見上げるとタケが顔を覗き込んでいる。出会って以来初めて、微かではあったが表情に気遣わしげな色が浮かんでいた。
「まさかこんな……丁度行き合うなんてな」
「大丈夫です」
乾いたままの瞳を上げて、スギは城門を見遣った。馬車のラッパを合図に、門扉は大きく開かれていた。今まさに通過しようとしている馬車を見送り、閉じられることなくそのままになっている扉へ視線を流す。どうやら地面の雪で開閉のための溝が詰まったらしい。二、三人の兵士が除雪作業をしているが、復旧にはもうしばらくかかりそうだ。
「それより今のうちに門を出てしまいましょう。さっきの今で、まさかあの事件の関係者が出入りしているなんて思わないでしょうから」
「あ、ああ、そうだな」
凍てついた大気よりなお冷えた眼差しで、スギはまっすぐに城門を見据えて歩み始めた。既に馬車の姿は吹雪の中に紛れて消えている。あの馬車がどこに向かったのか——つまりこれから家族がどこに埋葬されるのかさえ、今のスギには知るすべもない。
震えて頽れそうになる膝をタケに悟らせないよう、必死に己を励ます。何食わぬ顔で城門を通過し、振り返ることなく生まれ育った街を後にする。
——いつか必ず戻る。
もっと実力をつけて。無力な自分ではなくなった時に。
涙は出ない。流せない。今は、まだ。
降り掛かった雪が、凍てつく雫となって頬を流れ落ちた。
旅が順調だったのは最初の一日だけだった。
「ちくしょう……気づかれてるな、完全に」
既に使われていない納屋の裏手。人目につかないそこで歯ぎしりするタケの傍らで、スギは無言で肩の籠を背負い直した。既に無用の長物と成り果てている偽の商売道具ではあったが、ここで手放してはここまで抱えてきた意味さえもがなくなってしまう。せめてあと少しだけ、この嘘は吐き通さねばならない。
中立地帯はもう目の前だ。だが最後の村を抜けることができず、結果半日近くも足踏みを続けている。
皇都を出た後いくつかの村を足早に抜け、初日は農家の軒先を借りて夜を明かした。その時は特に不穏な気配は感じられなかったが、早朝に農家を発った時には既に身辺に監視の目を感じるようになっていた。
追跡者の存在を確信したのは二日目の昼。籠売りの扮装に真実味を加えるため、村人に売り込みをかけた。結局その男が籠を買うことはなかったが、商談が破談になった後、男が旅装束の人物に根掘り葉掘りスギたちの様子を質問されているのを、当のスギ自身が目撃している。
次の村では追跡者は二人に増えていた。街道を歩いている時ですら、どこかから監視されているのが分かる。もうひとつふたつの視線ではなかった。どんどん増えていく目、狭まる網。分かっていても、どうすることもできずただ足を速めて逃れることしかできない。
脱出がどこから知れたのか、という詮索は意味がない。ただ、首尾よく皇都の外に出たはずのスギたちでさえ見つかったのだ。城壁の中に残ったタケの仲間たちも、おそらく無事ではないだろう。タケの表情にも、少しずつ焦りの色が見え始めていた。
ここからが中立地帯だ、という明確な線引きがあるわけではない。けれど漂う空気が変わってきているのは肌で感じられた。凍てついた雪と氷の気配が濃厚な大気に、微かではあるが乾いた草原の匂いが混じりつつある。そういえば中立地帯の住人は定住する村を持たず草原を移動しながら暮らすという。皇都から離れるに従って小さくなっていく集落。旅を始めてから三日、ほとんど追い立てられるように踏み込んだその村の住人から、ここが皇帝領最後の集落だと聞かされた時の安堵感と胸騒ぎ。
果たして自分たちはここまで逃れることに成功したのだろうか。それともここに追い込まれたのだろうか。
タケは今まで以上に籠の売り込みをかけて情報収集に当たっていた。しかしこの村の住人たちの警戒心はこれまでの比ではなかった。余所者を警戒しているというより、これは。
「どうやら先回りされてバラされたみたいだな」
タケの言葉にはまったく同感だった。追跡者は数に物を言わせて触れを先行させ、お尋ね者と思しき二人連れをあぶり出す気なのだろう。皇帝の力が及ばなくなる領域まであとわずか、しかしそこへ逃す気はないということか。
街道沿いに細長く広がる村の出入り口は二つしかない。皇都へ戻る入り口と、中立地帯へ至る出口。出口には当然皇帝軍が詰めていて不用意に近づくこともできない。
村の外には枯れた草原が広がっていた。しかしこの辺りの草は丈が高く、スギの身長と同じくらいまで伸びている上密集している。折からの雪が溶けきらずに積もり、根元を凍らせている現状では、そこをかき分けて脱出するのは至難だった。
故にタケは街道を離れられず、皇帝軍は街道の封鎖を狙う。初代戦士が遺したただ一筋の道、彼の時代から百数十年を経た今でさえ、その道を辿ることでしか行き来することができない現状がこの国にはある。
目の前の真っ白な自由、それを阻む鉄色の壁。越えるためにはどうすればいいのか。
「二手に分かれよう」
追いつめられた目でタケが言った。
「奴らは二人連れを捜している。ちびを連れた若い男をな」
ちびと言われたことは引っかかったが、目を付けられているのがその組み合わせだという点には同意できた。親子というには歳が近すぎ、兄弟というには打ち解けたところのない、若い籠売り二人。
「別行動になったとして、それからどうするんですか。何か目算があるんですか」
「紹介状がある。中立地帯自警団へのな」
ちらりと懐を示したものの、タケはそれを取り出そうとはしない。スギに渡すつもりはないということだろう。
「この村さえ出れば中立地帯だ。街道沿いに行っても皇帝軍に怯えなくていい。堂々と旅ができるようになる」
それは違う、とスギは思う。中立地帯を管理するのは皇帝、つまり皇帝軍だ。確かに遭遇する頻度は下がるかもしれない。だが絶対安全とは言い切れない。その事実を知らないタケに危うさを感じる。
しかし口を開きかけたスギを制して、タケは言葉を続けた。
「街道沿いに何日か行けば自警団の本拠地がある。そこまで紹介状を持って行ければひとまず安心だ。当面の生活には困らないだろう」
つまりは独りでそこまで辿り着けということか。
笑いがこみ上げてきたのはどうしてだろうか。結局この男は最後まで、自分が生き延びるためにスギを利用することしか考えていないのだ。
スギの笑みをどう受け取ったのか、タケは複雑な表情で見下ろしてきた。
「その、何だ……元気でな。本拠地でまた会おう」
「そんなこと、本気で思ってるんですか」
笑いを含んだままの声に、タケが言葉を詰まらせる。見上げて捉えた視線が揺らいでいた。迷い。恐れ。怯え。これで良かったのかと自問している者が見せるあらゆる感情が綯い交ぜになった、不安定な心の裡。
——ああ、この男も良心の呵責を覚えていたのか。
ふっと、肩の力が抜けた。
勿論、この男や仲間がやったことを許す気にはなれない。おそらく一生、許すことなどできないだろう。けれど今、スギが生きてここにいられるのは紛れもなく彼らのおかげなのだ。
仇で、恩人。
もう二度と会うことはないかもしれない。だから。
「ここまで連れてきてくれたことには感謝しています。僕一人では絶対にここまで来れなかった。あなたもどうぞお元気で」
最低限の感謝に、ささやかな祈りを込めて。いっそ嫌い憎みきることができる悪人であれば、もっと楽だっただろうに。
「……俺が先に行く。お前はしばらくここで様子を見ていろ」
別行動になったとて、そう簡単に監視の目を逸らせるわけではないだろう。先に行こうと後に行こうと、危険度は大して変わらない。
スギが頷いたのを確認して、タケが立ち上がった。背中の籠が揺れながら遠ざかり、角を曲がって見えなくなる。
スギは耳を澄ます。どんな音も聞き逃さぬように、どんな危険も見逃さぬように。
それにしても小さな村だ。昼下がりのこの時間、人の行き来が最も盛んになるはずなのに道に人影は見えず、話し声もしない。
それは多分、自分たちという異分子が混じり込んでいるからだ。皇都からやって来たお尋ね者がこの小さな村の日常をかき乱している。
非日常の静けさ。巻き込む側も巻き込まれる側も、息を殺して通り過ぎるのを待つ。
そして、それは来た。
最初は大声での言い合い。それはすぐに激しい口論になり、複数の足音が入り乱れる。剣戟らしき金属の響きが混じる頃には、既にスギは走り出していた。籠を投げ捨て、合羽を着込んだ身一つで村を横断する。目指したのは街道の出口ではなく、村の横に広がる雪原と化した草の海だった。
粗末な家々をすり抜け、壊れかけた柵を乗り越える。たったそれだけで草原はいとも簡単にスギを迎え入れてくれた。
密集する草をかき分け、落ちてくる雪を何度も頭からかぶりながら、必死で前進する。しかし思うように距離は稼げない。やがて追っ手の声が背後から響き始める。やはり丈の高い草に阻まれて前進はままならないようだったが、それでもスギの恐怖を煽るには充分すぎる圧力だった。
草で切り雪でふやけた手は既にぼろぼろだった。それでも不思議と痛みは感じない。ただひたすら、前へ。その思いだけが体を突き動かしていた。
しかし疲労は確実に訪れる。徐々に上がらなくなってきた腕が、自分の体にぶつかる。反動で跳ね返った手が何か固いものに当たった。スギの脇腹のあたり、合羽より薬師の外套より、さらに下に隠されていたもの。
感覚を失った指が探り当てたのは、父からもらった薬師の剣だった。
——これから何があろうとも、決して他者の生命を奪ってはならない。
ためらいなくスギは剣を抜いた。貰いたての頃は持て余し気味だった、分厚い刃。一年を経た今、それは随分手に馴染んで使い勝手も良くなっていた。その刃で眼前を塞いだ草を薙ぐ。手入れを怠ったことのない剣はあっさり草と雪を切り払い、スギの前に道を開いてくれた。
——薬師は生命を救うために在るのだから。
誰かを救うためには、まず自分が生き延びなければならない。父がこれから救うはずだった生命、自分がこれから救うであろう生命。望みも願いも、恨みも憎しみも、生きていればこそ。
生きて、生きて、その先に出す答えがどんなものなのか、今のスギには分からない。けれど、答えを出すためには今ここにある危機を乗り越えなければならない。
スギは再び刃を翳す。傾きかけた陽の光は草の海の底にまでは届かない。徐々に下りてくる闇の帳に包まれながら、ただひたすらに柔らかい壁を薙ぎ払い、先へ進む。
生きる。そのために。
足早な冬の夕陽にも助けられ、奇跡的にスギの逃走は成功した。体力が続く限り草を払い、疲れれば周囲の草を広めに刈って寝場所を作った。湿った下草の寝心地は最悪に近かったが、翌朝無事に目を覚ました時の安堵感は疲労も相まってしばらく立ち上がれないほどだった。
明るいうちに草を刈れば上に積もった雪が崩れて居場所が分かってしまう。かといってここでじっとしていては凍えて動けなくなるのも時間の問題だった。
疲れ果てた手足を励まして、スギは慎重に草を払って先へ進む。時間や方向の感覚などとうの昔に失っていた。
来た方とは逆へ。できるだけ早く、遠くへ。
己の腕はこんなにも重かったか。己の脚はこんなにも上がらないものだった。意識して無視し続けていた疲労を看過できなくなって来た頃、目の前を覆い続けていた草がついに途切れた。
まろび出たのは街道の上だった。皇帝領のそれより手入れが行き届いていない、所々雑草が顔を出している古びた石畳が延々と続いている。左右どちらにも人家は見えず、旅人などの気配もない。
スギは深く息を吐いた。そこが限界だった。膝をつき、崩れるようにその場に倒れ込む。
まだ歩かなければならない。こことて皇帝領からそう離れた場所ではないのだ。できるだけたくさん距離を稼いで、自警団の本拠地を目指さなければ。
しかしもう体が言うことをきかなかった。手は薬師の剣を握ったまま、それを鞘に戻すことすら億劫だった。睡魔の手が優しく瞼を撫でる。寒くてたまらないのに妙にふわふわと心地よくて、このまま眠りに堕ちる誘惑が抗いがたく全身を包み込む。
頬を石畳に押し付けたまま、ゆっくりと目を閉じる。吸い込まれるように意識を手放しかけた刹那、地を揺るがす振動に気づいてわずかに瞼をもたげる。
追っ手か、ただの通りすがりか。おそらくは馬一頭の蹄音が徐々に、しかし確実に近づいてくる。
気づいても、もうスギにはどうすることもできない。抵抗したり隠れたりすることはおろか、体を起こすことすら困難なのだから。
——ここで終わりか。
深く息を吐いて、スギは意識を手放した。満足していたのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。
火の爆ぜる音がした。
同時に暖かい空気を頬に感じて、スギは重い瞼を持ち上げる。最初に目に入ったのは暖かな焚火の橙、そして背景に広がる濃紺の闇。時間を置いて戻ってきた聴覚が間近に大きな獣の身じろぎと呼吸を捉える。微かに混じる金属音は馬具が触れ合う音だろうか。
——馬。
一気にスギの頭が覚醒した。意識を失う直前に聞いた馬蹄の音。馬がいるということは、当然騎手がいる。
「目が覚めたか」
探すまでもなく目の前に現れたのは、見たことのない男だった。分厚い体躯、この季節にも関わらず陽に灼けた肌。表情らしきものがまったく窺えない厳めしい顔で、男は無造作に椀を差し出した。
「食え。温まるから」
椀に入っているのは粥のようだった。久しく摂っていなかった、暖かな食事。わずかに覚えた逡巡は、鼻先をくすぐる匂いを前にあっさりと霧散した。口をつけた椀の中身は火傷しそうに熱かったが、その熱は確実に空腹感を満たし、麻痺していた思考をも目覚めさせていく。
「……ここは」
粥を飲み干したスギを、男はじろりと一瞥した。
「ごちそうさま、が先だ」
「……ごちそうさまでした。ごはんも、ありがとうございました」
重々しく頷いて、男はスギが差し出した椀を受け取った。
「ここは中立地帯の草原だ。お前は皇帝領に近い街道に倒れていた」
男は身振りでおかわりを訊ねる。躊躇いはあったが、今更遠慮しても仕方ないと思い直し、おとなしく二杯目をもらうことにする。
「俺は中立地帯自警団の者だ。皇都からの帰り道でお前を見つけた。お前を拾ってから半日が経った。今は自警団の本拠地へ向かっている」
訥々と現状を説明する男の声には、少なくとも嘘はないようだった。おかわりをよそった椀が差し出され、スギはそれを受け取るために身を乗り出す。椀を受け取った瞬間、つと男の視線がスギの顔に据えられる。
「——薬師か」
思わずびくりと身を竦ませる。無意識に確かめた懐には、きちんと薬師の剣が差されていた。倒れた時には抜き身だったはずの剣。それがきちんと鞘に納められている。つまりこの男にはこの合羽の下の薬師の外套も見られているということ。
この男は皇都から来たと言った。あの暗殺騒ぎを知らないはずがない。
ならば、隠すことに意味はない。
意を決して口を開きかけたスギを、当の男の手が押しとどめた。
「無理に語らなくともいい。あんなところで倒れているのは大概訳ありと決まっている」
それに、と言いながら男はスギに食事を続けるよう身振りで促す。
「自警団は基本的に来る者拒まず去る者追わず。中立地帯に迷惑をかけない限り、たとえ極悪人でも追い出したりはしない——お前にその気があれば、の話だが」
自警団の本拠地は当面の目的地ではあったが、特にその先の展望があったわけではない。後ろ盾が何もない今、どんな形であれ自警団に潜り込めるのであればそれに越したことはない。
「自警団に来る気はあるか?」
男の言葉に、スギははっきりと頷いて見せた。受けて、男が名乗る。
「俺の名はウイキョウ。お前は」
「スギです」
軽く頷いて、無表情に男は告げた。
「明日の昼には本拠地に着く。早駆けになるから今夜はしっかり休んでおけ」
ウイキョウの言葉通り、翌日の正午前には本拠地だと言う岩山に到着した。
道々目にした中立地帯の草原は、海のように広かった。身を切るような冷たい風こそ変わってはいなかったものの、天候は多少回復している。日差しはないが明るい曇天となった空の下、蒸れるだけの合羽は既に荷物の中に括り付けられていた。皇帝領を出た今となっては、どの道薬師の外套を隠す意味もない。
草の海に浮かぶ島のような岩山と、その山腹の内部に設けられた本拠地。岩肌を直接くり抜いて造られたそこは、秘密基地めいた印象をスギに抱かせた。
——まずは長に帰還の報告をしてくる。俺が呼ぶまでここで待て。
ウイキョウが言い置いて姿を消した後、所在なく通された部屋を見回す。そこは普段から控え室として使われているらしく、簡素な椅子と卓があった。扉がなく廊下が直接見える以外は取り立てて特徴のない部屋。
とりあえず椅子にかけてみる。木製で古びたそれは、お世辞にも座り心地がいいとは言えない。
すぐ横手は岩肌が剥き出しの壁だった。削り跡が荒々しく残された壁は遥か上方で明かり取りの窓が開いていて、そこから曇天の乏しい光が弱々しく降ってくる。昼日中のことで他の明かりはない。
見るともなしに窓を見上げていると、ふいに視線を感じた。振り向くと廊下から部屋を覗き込んでいる子供と目が合った。黒髪の、スギと同年代くらいの少女。印象的な紫の瞳を見張って、少女は呟いた。
「新しいきょうだいだ」
「……? どういう」
訊き返そうとした時、廊下の暗がりから伸びてきた手が少女の頭を軽く小突いた。
「まだそうと決まったわけじゃない」
「ススキ」
突かれた頭を押さえながら少女が振り返った先には、やや年かさの少年がいた。既に青年と言っても差し支えのない程度に大人びた雰囲気を持った彼は、スギを一瞥してすぐに目を逸らし、少女の腕を引いた。
「行くぞ。午後の稽古だ」
「えー、もう少し休もうよー」
「だめだ」
引っ張られて、少女の姿はあっさりと戸口から引きはがされる。結局スギが一言も発する隙もなく、二人は廊下の奥に姿を消してしまった。
呆気に取られているうちに、入れ違いにウイキョウが顔を覗かせた。
「どうした」
「あ……今、子供が」
軽く眉を上げて、ウイキョウはスギについてくるよう合図した。
「会ったのなら話は早い。説明は長からする」
説明も何も、と首をひねりながらもスギはウイキョウについていく。いくらも行かないうちに厚手の布で仕切られた部屋の前で大きな背中は立ち止まった。
「長、入ります」
声をかけてたくし上げた布を、ウイキョウが思いの外機敏な動作で潜る。続いて部屋の中に身を滑り込ませたスギの目の前、いきなり至近距離で人の顔に出迎えられて思わず飛び退った。
「う、わっ」
「ふむ、なかなか良い反射神経だ」
壮年を過ぎ老齢に差し掛かる頃合いだろう、日焼けした肌に幾条にも皺を刻んだ男がかがみ込んでスギの顔を覗いていた。どうやら待ち伏せをしていたようだ。
「長」
呆れた声音はウイキョウのもの、からからと笑いながら老人は身を引いた。
「いや、失敬失敬。この歳になるとなかなか楽しみも少なくなってな」
「だから初対面の相手を脅かしてもいいというわけではないでしょうに」
「結果的に驚かせただけで最初からそれを狙っているわけではないわい」
老人は部屋を横切ってウイキョウの前を通り、奥の壁際に積まれた大量の藁にどすんと身を預けた。無造作に積まれているようで、実は座り心地が良いように調節されているらしい。見るからにふかふかの背もたれに寄りかかりながら、老人は改めてスギを見遣った。
「さて少年よ。ここの大男がさっきから何度も言っているからもう分かっておるとは思うが、わしがここの一番偉い人じゃ」
「……はぁ」
「気の抜けた声じゃな。ほれ、おぬしもさっさと名乗らぬか」
「スギ、です」
ひとつ頷いて、長はスギの外套を示した。
「見たところ薬師の修行の途中のようだが。何年くらい修練を積んだのかのう?」
「一年です」
「師匠の腕は良かったか?」
「それはもう」
「薬師の修行は続けたいか?」
「はい」
スギの答えに、長は思いの外優しい顔で笑って見せた。
「良い答えじゃ。ならばここの薬師に話を通しておこう。明日から教えを乞いに行くといい」
「明日から?」
「そうじゃ。おぬしは今からわしの子供になる」
——新しいきょうだいだ。
思い出したのは先程の子供の言葉。もしやあの二人も。
「拾い子、と言ってのう。故あって親とはぐれた子供を育てるためのここでの仕組みじゃ。慣習のようなもんじゃからな、特に見返りも要らぬ。安心して立派に育て」
そのまま長はウイキョウへと目を向ける。
「後で薬局に案内してやるといい。おぬしの部屋からの道順も忘れずにな」
「何故俺の部屋からの」
「形式上はわしの拾い子ということになるがのう。やはり生活の面倒はおぬしが見てやらぬと無責任であろう。拾い主なのだからな」
「俺はてっきり今までの拾い子と同じように長自ら育てるものかと」
「冗談は休み休み言え。ススキの屁理屈とシオンのじゃじゃ馬だけでも手一杯だというのに、さらにもう一人なんてこの老体には無理だわい」
「だからって……!」
「そう言わずに、頼む」
長は立ち上がって、目の高さにあるウイキョウの肩をぽんと叩いた。
「それとも何か? せっかくの新婚生活に水を差されたくはないか?」
「……っ」
「気持ちは分かるが、しかしそうなると困ったのう。この薬師の卵を受け入れたくとも宿舎と保護者が決まらぬとなるとどうにも落ち着かぬ」
「薬師の、老師のところなどは」
「……おぬし、正気か?」
ウイキョウの沈黙に傍で聞いているしかないスギは不安を覚える。明日から世話になるという薬師は一体どんな難物なのか。
「他の者どもも今は養い子を増やせる状況ではないのだよ。子供もおらぬ、養い子もおらぬというのはおぬしくらいのものだからのう」
沈黙の末、ウイキョウはついに長く息を吐き出した。
「……わかりました。俺が責任を持ってお預かりいたします」
「うむ、頼んだぞ。ほれ、おぬしも挨拶」
自分の頭上で何かが決着したらしいことに困惑しながら、改めて傍らの大男を見上げる。同様に見下ろしてくる瞳の奥の、わずかな戸惑い。無表情に隠された感情に、ふいにスギは悟った。
——ああ、この人、まだ若いんだ。
無口さと大柄な体躯のせいで老成して見えるが、よく見ると顔はそう老けていない。新婚だと言っていたが、実の子供もいないうちにスギのような年齢の養子を押し付けられては困惑もするだろう。
そんなことを思いつつ、同時にスギはそんな風に周囲を観察できる余裕が戻ってきたことにも気づいていた。わずかずつでも、住み慣れた場所を追われた衝撃から立ち直りつつあるのだろうか。
分からない。けれど。
少なくとも今は、新しい環境に慣れる努力をしようという気分にはなっていた。
「改めて、ウイキョウさん。これからどうぞよろしくお願いします」
「……ウイキョウで、いい」
不器用に挨拶を交わす二人を、からからと笑いながら長が見守っていた。
その後、ウイキョウの部屋に向かう長い廊下の途中で拾い子について質問した。どうやらウイキョウ自身もかつて拾い子として保護されたらしい。
「中立地帯にはみなしごが多いからな」
この発言には薬師として反応せざるを得なかった。病気で親を失う場合が多いのか、それとも他に要因があるのか。
そう問うとウイキョウは少し驚いた表情をした。
「随分仕事熱心だな」
栄養不足や疫病、盗賊の跋扈、事故や天災。ウイキョウが語る中立地帯の人々の死の原因は、翻して見ればどれも薬師の不足を窺わせるものだった。
自分の能力は確かに、ここで必要とされている。ならば、できる範囲でできることをするだけだ。今、半人前なのは仕方がない。だからできるだけ早く一人前になれるよう、せめて成長することにだけは貪欲でありたい。
「——これ以上は俺では分からん。後で薬師のところに連れて行ってやるから、詳しいことはそちらに訊け」
スギの質問攻めにさすがに音を上げたのか、ウイキョウが少し足を早めた。
「当面必要なものはこちらで用意する。身の回り品以外に何か欲しいものはあるか?」
何も、と言いかけて、スギはふと動きを止めた。
「伝書鳩なんて、いますか?」
「鳩? どこへ宛てるものだ?」
「……皇宮へ」
ウイキョウの眉が鋭く上がった。
「皇宮に知り合いがいるのか?」
スギは迷った。アオイとの関係を正直に話すか。いや、まだそこまで話すほどにはウイキョウを信用することはできていない。
だからスギはただ頷くに留めた。
「無事を知らせたい人が一人だけいるんです。僕は生きてるって」
しばらく考えていたウイキョウだったが、やがて了承の頷きを返した。
「わかった。なんとかしてみよう」
ウイキョウがふいに足を止める。長の部屋と同様、分厚い布が下げられた入り口の前だった。
「ここが俺の家だ。入れ。妻を紹介しよう」
中立地帯の薬師の下での仕事は、やはり家にいる頃とは勝手が違った。怒鳴り癖のある老薬師の下、棚の薬種の配置や患者の名前を覚えるだけで手一杯の毎日。くたくたになってウイキョウ宅へ帰り、そのまま倒れ込むように眠ることを繰り返す。頼んでいた鳩の鳥籠を渡されたのはそんな時だった。
疲れているのは変わらないのに、机に向かう気になれたのはどうしてだろう。檻越しに既に眠っている鳩の羽を指で一撫でし、乏しい?燭の灯の下で筆を執る。
いざ書こうとすると、たくさんの顔が、光景が、とめどなく脳裏をよぎった。城門の外に運び出された家族たち。穀物商の老夫婦。あられ屋の夫婦。皇帝領最後の村で別れ別れになって以降、生死も分からないタケ。自警団の人々。それらの断片をくぐり抜けて。
——僕は生きている。
ただ、それだけを伝えたい。向こうは既に心配などしていないかもしれない。何せスギは父帝を弑する計画に加担した反逆者一家ということになっているのだから。それでも。
信じてほしい。知っていてほしい。自分たちの身の潔白を。自分が無事であることを。
アオイにだけは。
書き上げた手紙には、詳しいことは何一つ書かなかった。
書けなかった。
途中で鳩が捕まって手紙を盗み見られたら。或いはアオイが皇帝軍を動かし、追っ手をかけられてしまったら。
何より、書くためにはその光景を思い出さなければならなかったから。
恐れと痛み。何度も筆が止まり、書き損じだけが増えていく。
結局ごく短く、こう書いた。
——無事です。中立地帯で、生きてます。
書き上げた頃には、うっすらと空が白み始めていた。冬の日の出は遅い。仕事開始の時間がすぐ傍に迫っていた。慌ててスギは目を覚ましたばかりの鳩の脚へ手紙を括り付ける。そのまま片手で鳩の身体を掴んで、空いた方で明かり取りの窓を細く開けた。
今日も冷えたようだ。窓の隙間から容赦なく凍てついた空気が流れ込んでくる。しかし鳩は広い空間へ出られるのが嬉しいのか、特段嫌がる様子もなくくるる、と喉を鳴らして飛び立って行った。
北へ。皇都へ。
返事など期待していなかった。鳩が戻ってこない可能性すら、考えていた。
しかし五日で鳩はスギに与えられた部屋の窓辺へと戻ってきた。期待と諦観、相反する気持ちで探った脚には、きちんと返信が結わえられていた。
懐かしい友の字で綴られた言葉。まずスギの無事を喜ぶ内容が書かれていたことに腹の底から溜息を吐いた。壁に背中がぶつかり、そのままずるずると床に座り込む。
震える指で続きを辿る。皇都での粛正は一段落したこと、アオイ自身の健康と弟たちに変わりはないことが綴られていた。淡々と事実だけが紡がれる言葉。ただそれだけのことなのに、どうして涙が止まらないのだろう。
信じてくれた。その事実がこんなにも、嬉しい。
目元を拭って、改めて手紙に目を落とす。文字列を追う瞳が、最後の一行で動きを止めた。息を詰めて、もう一度読み直す。
——『いつか』の約束を、覚えていますか?
アオイは何より情報を欲している。己の力にするために。己が生きていくために。中立地帯自警団の内実。それはあの病身の皇太子にとって、どれほど価値のある武器になるだろう。
鼓動が加速するのが分かった。皇宮の最奥に住まう皇太子に、ここでの暮らしを伝える。それは己に居場所をくれた自警団に対する裏切りではないのか?
「返事が来たのか」
ふいにかけられた声に、必要以上に肩が跳ねた。慌てて顔を上げると、入り口にもたれたウイキョウが難しい顔でこちらを見ていた。
反射的に手紙を背後に隠す。自然と目線はウイキョウから逸れた。後ろめたいことはまだ何一つしていない。だが堂々と目を合わせることも、今はできなかった。
そんなスギをウイキョウは目を細めて観察している。わずかな沈黙を挟んで、低くウイキョウは口火を切った。
「まさか、本当に皇宮から返事が来るとはな」
思わずスギは目を閉じた。疑われている。ゆっくり歩み寄ってきたウイキョウが、目の前でかがみ込んだ。
「スギ、諜報という言葉を知っているか」
聞き慣れない単語。しかしおぼろげに意味は理解できた。先程探り当てた裏切りという言葉の手触りと、とても良く似た響き。
「中立地帯がどうして中立でいられるか、知っているか」
力なく首を振る。先程自分がしようとしたこと、あれは諜報という行為になるのだろう。それはおそらく罪だ。露見したなら罰が下る。相手が今の後ろ盾でもあるウイキョウなら尚更だ。誰も庇ってくれる者などいない。
「中立地帯にとって、有益な情報をいち早く入手するために皇都、王都それぞれに間者を放って情報を集め分析する。それが自警団の諜報だ」
動揺しているせいでウイキョウの言葉は耳に入っていても意味を理解することが難しかった。自然、聞き流す形のままスギはうなだれて黙っている。
「自警団の生命線とも言える活動だから、それなりに規模や人員は割いているのだが。しかし、皇宮内部と直接繋がる人脈を持てたのは初めてだ」
ウイキョウの大きな手がスギの肩にかけられた。
「スギ。諜報術を学ばないか?」
「……え?」
意外な言葉に思考がついていけなかった。ゆるゆると上げた視界がウイキョウの真剣な瞳とまともにぶつかる。
「実はお前が皇宮への鳩を欲しがった時から考えていた。本当に返事が来たら誘ってみろと、長にも言われている」
「でも……僕はいつかあなたたちを裏切るかもしれないですよ」
先程のように。
ウイキョウは瞼を閉じた。しかしすぐに目を開き、低い声で告げる。
「お前は皇帝に恨みを持っているはずだ」
ウイキョウの瞳は刃の光を宿していた。それは決して保護者として世話を引き受けた少年に向けるものではなかった。敵か味方か、その境界線にいる相手に向けられる真剣の鋭さ。思わずスギは息を呑んだ。
「一矢報いることができるなら、そう思ったことがあるだろう。その機会があるのなら、その瞬間が来たならば。そう思わなかったことがないわけがない」
やはりウイキョウはあの事件を知っていたのだ。件の薬師一家の生き残り、そうと知ってスギを助けたのだ。
利用価値があると知っていて。
「お前が皇宮と繋がっているとは意外だったが……そのつながりは利用できる。自警団にとって有益だ」
ふいに笑いがこみ上げてきた。
なんだ。タケだけではなかった。ウイキョウも、長も、アオイでさえも、あの手この手でスギを利用しようとする。
ならばスギが自分の目的のために彼らを利用して、何が悪い。
「分かりました」
「スギ……?」
急にくつくつ笑い始めたスギを、ウイキョウが怪訝そうに覗き込む。その手を静かに肩から払って、スギは顔を上げた。薬師が診察の時に見せる、笑顔という名の無表情で。
「僕の力でお役に立てるなら。まずは何をすればいいですか? 取り急ぎこの手紙に返事をと思っているのですが、何か書き添えることはありますか?」
己の目的とは何だろう。家族の仇討ちか、それとももっと別の何かだろうか。今は答えが見つからないそれを見つけるためにも、まずは生きなければならない。だから。
生きるために、間者になる。
翌朝、窓から放たれた鳩の脚に括り付けられた手紙。末尾にはこう書かれていた。
——当分皇都には帰れない。だからせめて、懐かしい街の話をなるべく詳しく教えてくれないか。
凍てついた東雲の空を、鳩はただ一心に飛んでいく。
**********************
それから、十年。
あの夜、止まっていた時が動き出した。
国王レンギョウと第二皇子アサザの偶然の邂逅。そこに自警団が、自分が居合わせたのは偶然か、必然か。
スギは慣れた手つきで皇都へ放つ鳩の脚に手紙を括り付けた。中立地帯への食糧援助を巡る一触即発の事態。戦へ至るかもしれない、危うい綱渡りの攻防。
——時は来た。
アオイから得た情報を自警団に渡し、自警団で薬師として働く中で得た情報をアオイに流す。そうやって過ごしているうちに、いつの間にか誰より噂話に敏感になり、情報を吟味する癖が身についた。情報の精度が高いということで長はじめ上役に目をかけられて、とんとん拍子に出世した。そうして気がついたら、自警団の間者をまとめる立場になっていた。
しかしそれらの裏舞台は、決してアオイに見せてはならない部分だ。あの脱出行以来、スギは一度も皇帝領に足を踏み入れてはいない。長い種子の時代を経て、今ようやく芽吹き始めたもの。
鳩が持つ書簡は、アオイに皇都への帰還を告げるものだった。満を持しての帰郷。それを伝える文面は特に細心の注意を払って練り上げたものだ。
皇帝の第一子。廃太子。皇都の間者の束ね役。そして——旧友。どの顔のアオイにも、スギの本当の目的を悟られてはならない。
間者になると決めた日から、ずっと己の目的を考え続けて生きてきた。考えて考えて。それでもやはり、答えは出なかった。
何が正しいのか。何をすれば己は満足するのか。何を成せば家族は喜ぶのか。
分からない。だからせめて、後悔しない選択をすることにした。
——生きていて、ほしかった。
父に、母に、祖父に、姉に。あの後結局合流することのなかった、タケにだって。
命を奪うは薬師の禁忌。それでも一人の人間として、かつて確かにあった幸せを奪われた哀しみが、この身を苛む。
手の中の鳩を空に放つ。意外なほどの力強さで、羽ばたいた鳩はふわりと宙に浮かんで遠ざかっていく。目に痛いほどの青空。スギは鳩の姿を追って目を細めた。
薬の匂いと暖かな空気、大量の本の気配。本当にここは、何一つ変わらない。まるでこの十年にあったことが、全て夢か幻であったかのように。
「おかえり、スギ。久しぶりの皇都はどうだった?」
「色々変わってて……正直あまり懐かしいとも思えませんでした」
「そう。あれからだいぶ経ったからね」
昔と変わらぬ笑顔で、アオイはスギをまっすぐに見上げた。けれど細くとも随分上背の伸びたその姿はどう見ても十歳の少年ではない。
そして同様に、アオイの目に映るスギもあの頃と同じではあり得ない。ずっしりと重い外套を纏った、若き薬師。見習いでは持ち得ない自信と落ち着きを持ってアオイと相対する、その表情。
二人の上に流れた時間は、確かにあった現実。だから確かめずにはいられない。
「ところで、一つ聞いておきたいことがあるんだ。今の君は廃太子の忠実な手駒かい? それとも自警団の間者?」
「……僕は貴方の友人です」
「そう。ならいいんだ」
どこか満足そうにアオイは呟いて、薄い瞼を閉じた。その表情を見て、スギは確信する。
——そう、僕たちは紛れもなく友人だ。
書簡のやり取りが最早感傷などではないなど、いつしかお互いが承知していた。お互いがお互いの知りたいことを求めて、少しでも多くの情報を引き出すために行ってきた幾多の駆け引き。成長した太子と薬師は、それぞれの情報戦を命がけで戦い、生き抜いてきた戦士になっていた。だから。
再会の喜びより、お互いが無事であったという事実より。
騙し合いの好敵手が眼前にいるという事実が楽しくてたまらない。そういう意味で、二人は完全に同質の人間だった。
「ねぇ……『いつか』の話をしようよ。君の見てきた世界を教えてほしいんだ」
「いいですけど、引き換えにアオイの話も聞かせてくださいね?」
「ひどいな、太子に見返りを要求するの?」
「僕が土産話をすると約束したのは友人に対してです。畏れ多くも太子様と交わした約束なぞ持ち合わせてはおりませぬゆえ」
アオイが笑った。昔と変わらない、心の底からの朗らかな笑い声。
「じゃあ、待たされた分面白い話を期待してるからね?」
己が裡に秘めた決意を知っても、アオイはこんな風に親しげに話しかけてくるのだろうか。それとも何もかもお見通しで、この親しげな態度を崩していないのだろうか。
分からない。けれどあえて詮索することもしたくない。
「そうですね、ではまず中立地帯で最近流行りの歌でも歌いましょうか」
「スギ、歌なんて歌えるの?」
「ちょっとしたもんなんですよ、これでも」
今はただ、十年ぶりの友人との再会を喜びたい。
——最後に、後悔しない選択をするために。
薬師の名誉も、自警団の誇りも。
己を飾る花など要らない。
家族の、己の幸せの仇を果たすため、人知れず咲く風媒花になろう。
この種子が実を結ぶ時まで、花は花と認められてはならないのだから。
タケの仲間たちの見送りを受けながら、二人は隠れ家の裏口から外へ出た。一晩を経て、氷雨は雪へと変わっていた。灰白の雪片が降りしきる中、二人は裏道を使いながら無言で城門へと向かう。完全に凍りきっていない足元の石畳はざくざくの氷で覆われ、滑りやすいことこの上ない。
どうやら隠れ家はスギの家のあった問屋街からそう離れてはいなかったらしい。家々の連なりの向こう側、見覚えのある近所の屋根の先が視界の端を流れていく。けれど。
もう戻れない。あの場所に。あの家に。
際限なく落ちてくる雪から瞳をかばう風を装って、スギは顔を伏せた。腹の底からこみ上げてくる熱い塊を必死で飲み下しながら、それでもタケとはぐれないよう足を速める。
そんなスギを気遣う様子など微塵もなく、タケは大股で入り組んだ小路を小刻みに折れながらどんどん先へ進んでいく。どうやら目指しているのは南側の城門らしい。中立地帯に繋がる街道に一番近く、人の往来が最も多い皇都の玄関とも言える場所。
「大通りに出るぜ。はぐれるなよ」
ちらとも振り返らず言葉だけを投げかけて、タケは城門を臨む通りに身を滑り込ませた。遅れじと足を速めて、スギも角を飛び出す。
天候が悪いせいか、今日も大路に人影はまばらだった。目的のある者しか外出はしないし、ゆえに皆目的地に少しでも早く到着しようと足早に石畳を横切っていく。
この状況では人波に紛れての脱出はできない。不安に駆られて見上げたタケの横顔はしかし、動揺など欠片も映してはいなかった。スギがきちんとついてきているかさえ確かめず、ぐんぐん城門へと近づいていく。
もう彼に任せるしかない。
そう覚悟して早歩きから小走りに切り替えようとした、その瞬間だった。
そのわずかな音を拾えたのは、どうしてだったのだろう。
耳に残る軋みがふいに背筋をざわめかせた。思わず振り返ると、石畳の遥か先に何か大きな箱形の影が見えた。雪の帳を透かしてさらに目を凝らす。ゆるゆると近づいてくるそれが二頭の馬に牽かせた荷車であると見て取れたのはさらにもうしばらくしてからのこと。完全に足を止めたスギの元へ、馬車はゆっくりゆっくり近づいてくる。
その頃には馬車を御している皇帝軍の兵がラッパを吹き始めた。元々少ない通行人を脇にどかすように。雨雪に顔を伏せる人々の注意をあえて惹きつけるかのように。調子外れの金管が放つ音波はひどく耳に刺さって、乱暴な余波だけを残して灰色の空へと消えていく。
立ちすくむスギの襟首が乱暴に引っ張られた。見上げるまでもなく手の主がタケだということは分かっている。
「おい、勝手に立ち止まるな」
不機嫌な声は再度鳴った耳障りなラッパに遮られた。顔をしかめながらタケはスギを捕まえたまま道の端に寄る。
「ちっ、軍の御用車じゃあ仕方ない。しかし一体何を積んでるんだ」
スギの鼓動が早鐘のように加速していく。同時に血の気が音を立てて引いていき、体温が急激に下がっていく。
確証はない。だが確信があった。きっと、あれは。
ラッパから手を離した兵が露払いするかのように鞭を左右に振った。既にまばらな通行人は皆端に寄って道を譲っている。何事かとぽつぽつと周囲の家や小路から人々が顔を出してきたのを見て、兵は苛立たしげに声を張り上げた。
「寄るな、散れ! 道を空けろ。こいつらみたいに丸焼きにされたいのか」
空気のざわめきを、肌で聞いた。一気に抜け落ちた聴覚、頭の中で自分の鼓動だけが圧倒的な音量で鳴り響いている。外界の音など聞こえない。まばたきも忘れて、食い入るように荷車に載せられているものを見つめる。
馬車はスギの目の前を緩慢な速度で通り過ぎていく。乗用にはされない、荷駄専用の馬なのだろう。念入りな手入れとは言いがたいばさばさの尻尾を振って、二頭の黒鹿毛が重たそうに脚を進める。
馬が牽いている荷車は積載量のみを重視した大きく粗末なものだった。雪よけのつもりだろうか、大きな布で荷車の背全体が包まれている。その布を内側からそれぞれ大きさの異なる包みが持ち上げていた。数は四つ、それはスギがよく知っている人々の大きさとちょうど同じくらいで——
声は出なかった。涙も、叫びも、感情も。ただただ目を見開いて見送るしかできない。
——父さま。母さま。じいさま。サワラ。
包みの一つ一つに呼びかける。声を出せない分、身じろぎすらできない分、叫びは身中で反響しぶつかり合ってスギの拳を震わせる。今ここにある怒りも哀しみも嘆きも悔しさも、自分たちに突然降り掛かったあまりにも巨大な理不尽の前ではただひたすらに無力だった。
無力な自分。無力にしかなれない、自分。
それでも。
生きなければならない。いつか仇を討つ、そのためにも。
「おい、大丈夫か」
ふいに肩を揺さぶられて、スギは我に返った。見上げるとタケが顔を覗き込んでいる。出会って以来初めて、微かではあったが表情に気遣わしげな色が浮かんでいた。
「まさかこんな……丁度行き合うなんてな」
「大丈夫です」
乾いたままの瞳を上げて、スギは城門を見遣った。馬車のラッパを合図に、門扉は大きく開かれていた。今まさに通過しようとしている馬車を見送り、閉じられることなくそのままになっている扉へ視線を流す。どうやら地面の雪で開閉のための溝が詰まったらしい。二、三人の兵士が除雪作業をしているが、復旧にはもうしばらくかかりそうだ。
「それより今のうちに門を出てしまいましょう。さっきの今で、まさかあの事件の関係者が出入りしているなんて思わないでしょうから」
「あ、ああ、そうだな」
凍てついた大気よりなお冷えた眼差しで、スギはまっすぐに城門を見据えて歩み始めた。既に馬車の姿は吹雪の中に紛れて消えている。あの馬車がどこに向かったのか——つまりこれから家族がどこに埋葬されるのかさえ、今のスギには知るすべもない。
震えて頽れそうになる膝をタケに悟らせないよう、必死に己を励ます。何食わぬ顔で城門を通過し、振り返ることなく生まれ育った街を後にする。
——いつか必ず戻る。
もっと実力をつけて。無力な自分ではなくなった時に。
涙は出ない。流せない。今は、まだ。
降り掛かった雪が、凍てつく雫となって頬を流れ落ちた。
旅が順調だったのは最初の一日だけだった。
「ちくしょう……気づかれてるな、完全に」
既に使われていない納屋の裏手。人目につかないそこで歯ぎしりするタケの傍らで、スギは無言で肩の籠を背負い直した。既に無用の長物と成り果てている偽の商売道具ではあったが、ここで手放してはここまで抱えてきた意味さえもがなくなってしまう。せめてあと少しだけ、この嘘は吐き通さねばならない。
中立地帯はもう目の前だ。だが最後の村を抜けることができず、結果半日近くも足踏みを続けている。
皇都を出た後いくつかの村を足早に抜け、初日は農家の軒先を借りて夜を明かした。その時は特に不穏な気配は感じられなかったが、早朝に農家を発った時には既に身辺に監視の目を感じるようになっていた。
追跡者の存在を確信したのは二日目の昼。籠売りの扮装に真実味を加えるため、村人に売り込みをかけた。結局その男が籠を買うことはなかったが、商談が破談になった後、男が旅装束の人物に根掘り葉掘りスギたちの様子を質問されているのを、当のスギ自身が目撃している。
次の村では追跡者は二人に増えていた。街道を歩いている時ですら、どこかから監視されているのが分かる。もうひとつふたつの視線ではなかった。どんどん増えていく目、狭まる網。分かっていても、どうすることもできずただ足を速めて逃れることしかできない。
脱出がどこから知れたのか、という詮索は意味がない。ただ、首尾よく皇都の外に出たはずのスギたちでさえ見つかったのだ。城壁の中に残ったタケの仲間たちも、おそらく無事ではないだろう。タケの表情にも、少しずつ焦りの色が見え始めていた。
ここからが中立地帯だ、という明確な線引きがあるわけではない。けれど漂う空気が変わってきているのは肌で感じられた。凍てついた雪と氷の気配が濃厚な大気に、微かではあるが乾いた草原の匂いが混じりつつある。そういえば中立地帯の住人は定住する村を持たず草原を移動しながら暮らすという。皇都から離れるに従って小さくなっていく集落。旅を始めてから三日、ほとんど追い立てられるように踏み込んだその村の住人から、ここが皇帝領最後の集落だと聞かされた時の安堵感と胸騒ぎ。
果たして自分たちはここまで逃れることに成功したのだろうか。それともここに追い込まれたのだろうか。
タケは今まで以上に籠の売り込みをかけて情報収集に当たっていた。しかしこの村の住人たちの警戒心はこれまでの比ではなかった。余所者を警戒しているというより、これは。
「どうやら先回りされてバラされたみたいだな」
タケの言葉にはまったく同感だった。追跡者は数に物を言わせて触れを先行させ、お尋ね者と思しき二人連れをあぶり出す気なのだろう。皇帝の力が及ばなくなる領域まであとわずか、しかしそこへ逃す気はないということか。
街道沿いに細長く広がる村の出入り口は二つしかない。皇都へ戻る入り口と、中立地帯へ至る出口。出口には当然皇帝軍が詰めていて不用意に近づくこともできない。
村の外には枯れた草原が広がっていた。しかしこの辺りの草は丈が高く、スギの身長と同じくらいまで伸びている上密集している。折からの雪が溶けきらずに積もり、根元を凍らせている現状では、そこをかき分けて脱出するのは至難だった。
故にタケは街道を離れられず、皇帝軍は街道の封鎖を狙う。初代戦士が遺したただ一筋の道、彼の時代から百数十年を経た今でさえ、その道を辿ることでしか行き来することができない現状がこの国にはある。
目の前の真っ白な自由、それを阻む鉄色の壁。越えるためにはどうすればいいのか。
「二手に分かれよう」
追いつめられた目でタケが言った。
「奴らは二人連れを捜している。ちびを連れた若い男をな」
ちびと言われたことは引っかかったが、目を付けられているのがその組み合わせだという点には同意できた。親子というには歳が近すぎ、兄弟というには打ち解けたところのない、若い籠売り二人。
「別行動になったとして、それからどうするんですか。何か目算があるんですか」
「紹介状がある。中立地帯自警団へのな」
ちらりと懐を示したものの、タケはそれを取り出そうとはしない。スギに渡すつもりはないということだろう。
「この村さえ出れば中立地帯だ。街道沿いに行っても皇帝軍に怯えなくていい。堂々と旅ができるようになる」
それは違う、とスギは思う。中立地帯を管理するのは皇帝、つまり皇帝軍だ。確かに遭遇する頻度は下がるかもしれない。だが絶対安全とは言い切れない。その事実を知らないタケに危うさを感じる。
しかし口を開きかけたスギを制して、タケは言葉を続けた。
「街道沿いに何日か行けば自警団の本拠地がある。そこまで紹介状を持って行ければひとまず安心だ。当面の生活には困らないだろう」
つまりは独りでそこまで辿り着けということか。
笑いがこみ上げてきたのはどうしてだろうか。結局この男は最後まで、自分が生き延びるためにスギを利用することしか考えていないのだ。
スギの笑みをどう受け取ったのか、タケは複雑な表情で見下ろしてきた。
「その、何だ……元気でな。本拠地でまた会おう」
「そんなこと、本気で思ってるんですか」
笑いを含んだままの声に、タケが言葉を詰まらせる。見上げて捉えた視線が揺らいでいた。迷い。恐れ。怯え。これで良かったのかと自問している者が見せるあらゆる感情が綯い交ぜになった、不安定な心の裡。
——ああ、この男も良心の呵責を覚えていたのか。
ふっと、肩の力が抜けた。
勿論、この男や仲間がやったことを許す気にはなれない。おそらく一生、許すことなどできないだろう。けれど今、スギが生きてここにいられるのは紛れもなく彼らのおかげなのだ。
仇で、恩人。
もう二度と会うことはないかもしれない。だから。
「ここまで連れてきてくれたことには感謝しています。僕一人では絶対にここまで来れなかった。あなたもどうぞお元気で」
最低限の感謝に、ささやかな祈りを込めて。いっそ嫌い憎みきることができる悪人であれば、もっと楽だっただろうに。
「……俺が先に行く。お前はしばらくここで様子を見ていろ」
別行動になったとて、そう簡単に監視の目を逸らせるわけではないだろう。先に行こうと後に行こうと、危険度は大して変わらない。
スギが頷いたのを確認して、タケが立ち上がった。背中の籠が揺れながら遠ざかり、角を曲がって見えなくなる。
スギは耳を澄ます。どんな音も聞き逃さぬように、どんな危険も見逃さぬように。
それにしても小さな村だ。昼下がりのこの時間、人の行き来が最も盛んになるはずなのに道に人影は見えず、話し声もしない。
それは多分、自分たちという異分子が混じり込んでいるからだ。皇都からやって来たお尋ね者がこの小さな村の日常をかき乱している。
非日常の静けさ。巻き込む側も巻き込まれる側も、息を殺して通り過ぎるのを待つ。
そして、それは来た。
最初は大声での言い合い。それはすぐに激しい口論になり、複数の足音が入り乱れる。剣戟らしき金属の響きが混じる頃には、既にスギは走り出していた。籠を投げ捨て、合羽を着込んだ身一つで村を横断する。目指したのは街道の出口ではなく、村の横に広がる雪原と化した草の海だった。
粗末な家々をすり抜け、壊れかけた柵を乗り越える。たったそれだけで草原はいとも簡単にスギを迎え入れてくれた。
密集する草をかき分け、落ちてくる雪を何度も頭からかぶりながら、必死で前進する。しかし思うように距離は稼げない。やがて追っ手の声が背後から響き始める。やはり丈の高い草に阻まれて前進はままならないようだったが、それでもスギの恐怖を煽るには充分すぎる圧力だった。
草で切り雪でふやけた手は既にぼろぼろだった。それでも不思議と痛みは感じない。ただひたすら、前へ。その思いだけが体を突き動かしていた。
しかし疲労は確実に訪れる。徐々に上がらなくなってきた腕が、自分の体にぶつかる。反動で跳ね返った手が何か固いものに当たった。スギの脇腹のあたり、合羽より薬師の外套より、さらに下に隠されていたもの。
感覚を失った指が探り当てたのは、父からもらった薬師の剣だった。
——これから何があろうとも、決して他者の生命を奪ってはならない。
ためらいなくスギは剣を抜いた。貰いたての頃は持て余し気味だった、分厚い刃。一年を経た今、それは随分手に馴染んで使い勝手も良くなっていた。その刃で眼前を塞いだ草を薙ぐ。手入れを怠ったことのない剣はあっさり草と雪を切り払い、スギの前に道を開いてくれた。
——薬師は生命を救うために在るのだから。
誰かを救うためには、まず自分が生き延びなければならない。父がこれから救うはずだった生命、自分がこれから救うであろう生命。望みも願いも、恨みも憎しみも、生きていればこそ。
生きて、生きて、その先に出す答えがどんなものなのか、今のスギには分からない。けれど、答えを出すためには今ここにある危機を乗り越えなければならない。
スギは再び刃を翳す。傾きかけた陽の光は草の海の底にまでは届かない。徐々に下りてくる闇の帳に包まれながら、ただひたすらに柔らかい壁を薙ぎ払い、先へ進む。
生きる。そのために。
足早な冬の夕陽にも助けられ、奇跡的にスギの逃走は成功した。体力が続く限り草を払い、疲れれば周囲の草を広めに刈って寝場所を作った。湿った下草の寝心地は最悪に近かったが、翌朝無事に目を覚ました時の安堵感は疲労も相まってしばらく立ち上がれないほどだった。
明るいうちに草を刈れば上に積もった雪が崩れて居場所が分かってしまう。かといってここでじっとしていては凍えて動けなくなるのも時間の問題だった。
疲れ果てた手足を励まして、スギは慎重に草を払って先へ進む。時間や方向の感覚などとうの昔に失っていた。
来た方とは逆へ。できるだけ早く、遠くへ。
己の腕はこんなにも重かったか。己の脚はこんなにも上がらないものだった。意識して無視し続けていた疲労を看過できなくなって来た頃、目の前を覆い続けていた草がついに途切れた。
まろび出たのは街道の上だった。皇帝領のそれより手入れが行き届いていない、所々雑草が顔を出している古びた石畳が延々と続いている。左右どちらにも人家は見えず、旅人などの気配もない。
スギは深く息を吐いた。そこが限界だった。膝をつき、崩れるようにその場に倒れ込む。
まだ歩かなければならない。こことて皇帝領からそう離れた場所ではないのだ。できるだけたくさん距離を稼いで、自警団の本拠地を目指さなければ。
しかしもう体が言うことをきかなかった。手は薬師の剣を握ったまま、それを鞘に戻すことすら億劫だった。睡魔の手が優しく瞼を撫でる。寒くてたまらないのに妙にふわふわと心地よくて、このまま眠りに堕ちる誘惑が抗いがたく全身を包み込む。
頬を石畳に押し付けたまま、ゆっくりと目を閉じる。吸い込まれるように意識を手放しかけた刹那、地を揺るがす振動に気づいてわずかに瞼をもたげる。
追っ手か、ただの通りすがりか。おそらくは馬一頭の蹄音が徐々に、しかし確実に近づいてくる。
気づいても、もうスギにはどうすることもできない。抵抗したり隠れたりすることはおろか、体を起こすことすら困難なのだから。
——ここで終わりか。
深く息を吐いて、スギは意識を手放した。満足していたのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。
火の爆ぜる音がした。
同時に暖かい空気を頬に感じて、スギは重い瞼を持ち上げる。最初に目に入ったのは暖かな焚火の橙、そして背景に広がる濃紺の闇。時間を置いて戻ってきた聴覚が間近に大きな獣の身じろぎと呼吸を捉える。微かに混じる金属音は馬具が触れ合う音だろうか。
——馬。
一気にスギの頭が覚醒した。意識を失う直前に聞いた馬蹄の音。馬がいるということは、当然騎手がいる。
「目が覚めたか」
探すまでもなく目の前に現れたのは、見たことのない男だった。分厚い体躯、この季節にも関わらず陽に灼けた肌。表情らしきものがまったく窺えない厳めしい顔で、男は無造作に椀を差し出した。
「食え。温まるから」
椀に入っているのは粥のようだった。久しく摂っていなかった、暖かな食事。わずかに覚えた逡巡は、鼻先をくすぐる匂いを前にあっさりと霧散した。口をつけた椀の中身は火傷しそうに熱かったが、その熱は確実に空腹感を満たし、麻痺していた思考をも目覚めさせていく。
「……ここは」
粥を飲み干したスギを、男はじろりと一瞥した。
「ごちそうさま、が先だ」
「……ごちそうさまでした。ごはんも、ありがとうございました」
重々しく頷いて、男はスギが差し出した椀を受け取った。
「ここは中立地帯の草原だ。お前は皇帝領に近い街道に倒れていた」
男は身振りでおかわりを訊ねる。躊躇いはあったが、今更遠慮しても仕方ないと思い直し、おとなしく二杯目をもらうことにする。
「俺は中立地帯自警団の者だ。皇都からの帰り道でお前を見つけた。お前を拾ってから半日が経った。今は自警団の本拠地へ向かっている」
訥々と現状を説明する男の声には、少なくとも嘘はないようだった。おかわりをよそった椀が差し出され、スギはそれを受け取るために身を乗り出す。椀を受け取った瞬間、つと男の視線がスギの顔に据えられる。
「——薬師か」
思わずびくりと身を竦ませる。無意識に確かめた懐には、きちんと薬師の剣が差されていた。倒れた時には抜き身だったはずの剣。それがきちんと鞘に納められている。つまりこの男にはこの合羽の下の薬師の外套も見られているということ。
この男は皇都から来たと言った。あの暗殺騒ぎを知らないはずがない。
ならば、隠すことに意味はない。
意を決して口を開きかけたスギを、当の男の手が押しとどめた。
「無理に語らなくともいい。あんなところで倒れているのは大概訳ありと決まっている」
それに、と言いながら男はスギに食事を続けるよう身振りで促す。
「自警団は基本的に来る者拒まず去る者追わず。中立地帯に迷惑をかけない限り、たとえ極悪人でも追い出したりはしない——お前にその気があれば、の話だが」
自警団の本拠地は当面の目的地ではあったが、特にその先の展望があったわけではない。後ろ盾が何もない今、どんな形であれ自警団に潜り込めるのであればそれに越したことはない。
「自警団に来る気はあるか?」
男の言葉に、スギははっきりと頷いて見せた。受けて、男が名乗る。
「俺の名はウイキョウ。お前は」
「スギです」
軽く頷いて、無表情に男は告げた。
「明日の昼には本拠地に着く。早駆けになるから今夜はしっかり休んでおけ」
ウイキョウの言葉通り、翌日の正午前には本拠地だと言う岩山に到着した。
道々目にした中立地帯の草原は、海のように広かった。身を切るような冷たい風こそ変わってはいなかったものの、天候は多少回復している。日差しはないが明るい曇天となった空の下、蒸れるだけの合羽は既に荷物の中に括り付けられていた。皇帝領を出た今となっては、どの道薬師の外套を隠す意味もない。
草の海に浮かぶ島のような岩山と、その山腹の内部に設けられた本拠地。岩肌を直接くり抜いて造られたそこは、秘密基地めいた印象をスギに抱かせた。
——まずは長に帰還の報告をしてくる。俺が呼ぶまでここで待て。
ウイキョウが言い置いて姿を消した後、所在なく通された部屋を見回す。そこは普段から控え室として使われているらしく、簡素な椅子と卓があった。扉がなく廊下が直接見える以外は取り立てて特徴のない部屋。
とりあえず椅子にかけてみる。木製で古びたそれは、お世辞にも座り心地がいいとは言えない。
すぐ横手は岩肌が剥き出しの壁だった。削り跡が荒々しく残された壁は遥か上方で明かり取りの窓が開いていて、そこから曇天の乏しい光が弱々しく降ってくる。昼日中のことで他の明かりはない。
見るともなしに窓を見上げていると、ふいに視線を感じた。振り向くと廊下から部屋を覗き込んでいる子供と目が合った。黒髪の、スギと同年代くらいの少女。印象的な紫の瞳を見張って、少女は呟いた。
「新しいきょうだいだ」
「……? どういう」
訊き返そうとした時、廊下の暗がりから伸びてきた手が少女の頭を軽く小突いた。
「まだそうと決まったわけじゃない」
「ススキ」
突かれた頭を押さえながら少女が振り返った先には、やや年かさの少年がいた。既に青年と言っても差し支えのない程度に大人びた雰囲気を持った彼は、スギを一瞥してすぐに目を逸らし、少女の腕を引いた。
「行くぞ。午後の稽古だ」
「えー、もう少し休もうよー」
「だめだ」
引っ張られて、少女の姿はあっさりと戸口から引きはがされる。結局スギが一言も発する隙もなく、二人は廊下の奥に姿を消してしまった。
呆気に取られているうちに、入れ違いにウイキョウが顔を覗かせた。
「どうした」
「あ……今、子供が」
軽く眉を上げて、ウイキョウはスギについてくるよう合図した。
「会ったのなら話は早い。説明は長からする」
説明も何も、と首をひねりながらもスギはウイキョウについていく。いくらも行かないうちに厚手の布で仕切られた部屋の前で大きな背中は立ち止まった。
「長、入ります」
声をかけてたくし上げた布を、ウイキョウが思いの外機敏な動作で潜る。続いて部屋の中に身を滑り込ませたスギの目の前、いきなり至近距離で人の顔に出迎えられて思わず飛び退った。
「う、わっ」
「ふむ、なかなか良い反射神経だ」
壮年を過ぎ老齢に差し掛かる頃合いだろう、日焼けした肌に幾条にも皺を刻んだ男がかがみ込んでスギの顔を覗いていた。どうやら待ち伏せをしていたようだ。
「長」
呆れた声音はウイキョウのもの、からからと笑いながら老人は身を引いた。
「いや、失敬失敬。この歳になるとなかなか楽しみも少なくなってな」
「だから初対面の相手を脅かしてもいいというわけではないでしょうに」
「結果的に驚かせただけで最初からそれを狙っているわけではないわい」
老人は部屋を横切ってウイキョウの前を通り、奥の壁際に積まれた大量の藁にどすんと身を預けた。無造作に積まれているようで、実は座り心地が良いように調節されているらしい。見るからにふかふかの背もたれに寄りかかりながら、老人は改めてスギを見遣った。
「さて少年よ。ここの大男がさっきから何度も言っているからもう分かっておるとは思うが、わしがここの一番偉い人じゃ」
「……はぁ」
「気の抜けた声じゃな。ほれ、おぬしもさっさと名乗らぬか」
「スギ、です」
ひとつ頷いて、長はスギの外套を示した。
「見たところ薬師の修行の途中のようだが。何年くらい修練を積んだのかのう?」
「一年です」
「師匠の腕は良かったか?」
「それはもう」
「薬師の修行は続けたいか?」
「はい」
スギの答えに、長は思いの外優しい顔で笑って見せた。
「良い答えじゃ。ならばここの薬師に話を通しておこう。明日から教えを乞いに行くといい」
「明日から?」
「そうじゃ。おぬしは今からわしの子供になる」
——新しいきょうだいだ。
思い出したのは先程の子供の言葉。もしやあの二人も。
「拾い子、と言ってのう。故あって親とはぐれた子供を育てるためのここでの仕組みじゃ。慣習のようなもんじゃからな、特に見返りも要らぬ。安心して立派に育て」
そのまま長はウイキョウへと目を向ける。
「後で薬局に案内してやるといい。おぬしの部屋からの道順も忘れずにな」
「何故俺の部屋からの」
「形式上はわしの拾い子ということになるがのう。やはり生活の面倒はおぬしが見てやらぬと無責任であろう。拾い主なのだからな」
「俺はてっきり今までの拾い子と同じように長自ら育てるものかと」
「冗談は休み休み言え。ススキの屁理屈とシオンのじゃじゃ馬だけでも手一杯だというのに、さらにもう一人なんてこの老体には無理だわい」
「だからって……!」
「そう言わずに、頼む」
長は立ち上がって、目の高さにあるウイキョウの肩をぽんと叩いた。
「それとも何か? せっかくの新婚生活に水を差されたくはないか?」
「……っ」
「気持ちは分かるが、しかしそうなると困ったのう。この薬師の卵を受け入れたくとも宿舎と保護者が決まらぬとなるとどうにも落ち着かぬ」
「薬師の、老師のところなどは」
「……おぬし、正気か?」
ウイキョウの沈黙に傍で聞いているしかないスギは不安を覚える。明日から世話になるという薬師は一体どんな難物なのか。
「他の者どもも今は養い子を増やせる状況ではないのだよ。子供もおらぬ、養い子もおらぬというのはおぬしくらいのものだからのう」
沈黙の末、ウイキョウはついに長く息を吐き出した。
「……わかりました。俺が責任を持ってお預かりいたします」
「うむ、頼んだぞ。ほれ、おぬしも挨拶」
自分の頭上で何かが決着したらしいことに困惑しながら、改めて傍らの大男を見上げる。同様に見下ろしてくる瞳の奥の、わずかな戸惑い。無表情に隠された感情に、ふいにスギは悟った。
——ああ、この人、まだ若いんだ。
無口さと大柄な体躯のせいで老成して見えるが、よく見ると顔はそう老けていない。新婚だと言っていたが、実の子供もいないうちにスギのような年齢の養子を押し付けられては困惑もするだろう。
そんなことを思いつつ、同時にスギはそんな風に周囲を観察できる余裕が戻ってきたことにも気づいていた。わずかずつでも、住み慣れた場所を追われた衝撃から立ち直りつつあるのだろうか。
分からない。けれど。
少なくとも今は、新しい環境に慣れる努力をしようという気分にはなっていた。
「改めて、ウイキョウさん。これからどうぞよろしくお願いします」
「……ウイキョウで、いい」
不器用に挨拶を交わす二人を、からからと笑いながら長が見守っていた。
その後、ウイキョウの部屋に向かう長い廊下の途中で拾い子について質問した。どうやらウイキョウ自身もかつて拾い子として保護されたらしい。
「中立地帯にはみなしごが多いからな」
この発言には薬師として反応せざるを得なかった。病気で親を失う場合が多いのか、それとも他に要因があるのか。
そう問うとウイキョウは少し驚いた表情をした。
「随分仕事熱心だな」
栄養不足や疫病、盗賊の跋扈、事故や天災。ウイキョウが語る中立地帯の人々の死の原因は、翻して見ればどれも薬師の不足を窺わせるものだった。
自分の能力は確かに、ここで必要とされている。ならば、できる範囲でできることをするだけだ。今、半人前なのは仕方がない。だからできるだけ早く一人前になれるよう、せめて成長することにだけは貪欲でありたい。
「——これ以上は俺では分からん。後で薬師のところに連れて行ってやるから、詳しいことはそちらに訊け」
スギの質問攻めにさすがに音を上げたのか、ウイキョウが少し足を早めた。
「当面必要なものはこちらで用意する。身の回り品以外に何か欲しいものはあるか?」
何も、と言いかけて、スギはふと動きを止めた。
「伝書鳩なんて、いますか?」
「鳩? どこへ宛てるものだ?」
「……皇宮へ」
ウイキョウの眉が鋭く上がった。
「皇宮に知り合いがいるのか?」
スギは迷った。アオイとの関係を正直に話すか。いや、まだそこまで話すほどにはウイキョウを信用することはできていない。
だからスギはただ頷くに留めた。
「無事を知らせたい人が一人だけいるんです。僕は生きてるって」
しばらく考えていたウイキョウだったが、やがて了承の頷きを返した。
「わかった。なんとかしてみよう」
ウイキョウがふいに足を止める。長の部屋と同様、分厚い布が下げられた入り口の前だった。
「ここが俺の家だ。入れ。妻を紹介しよう」
中立地帯の薬師の下での仕事は、やはり家にいる頃とは勝手が違った。怒鳴り癖のある老薬師の下、棚の薬種の配置や患者の名前を覚えるだけで手一杯の毎日。くたくたになってウイキョウ宅へ帰り、そのまま倒れ込むように眠ることを繰り返す。頼んでいた鳩の鳥籠を渡されたのはそんな時だった。
疲れているのは変わらないのに、机に向かう気になれたのはどうしてだろう。檻越しに既に眠っている鳩の羽を指で一撫でし、乏しい?燭の灯の下で筆を執る。
いざ書こうとすると、たくさんの顔が、光景が、とめどなく脳裏をよぎった。城門の外に運び出された家族たち。穀物商の老夫婦。あられ屋の夫婦。皇帝領最後の村で別れ別れになって以降、生死も分からないタケ。自警団の人々。それらの断片をくぐり抜けて。
——僕は生きている。
ただ、それだけを伝えたい。向こうは既に心配などしていないかもしれない。何せスギは父帝を弑する計画に加担した反逆者一家ということになっているのだから。それでも。
信じてほしい。知っていてほしい。自分たちの身の潔白を。自分が無事であることを。
アオイにだけは。
書き上げた手紙には、詳しいことは何一つ書かなかった。
書けなかった。
途中で鳩が捕まって手紙を盗み見られたら。或いはアオイが皇帝軍を動かし、追っ手をかけられてしまったら。
何より、書くためにはその光景を思い出さなければならなかったから。
恐れと痛み。何度も筆が止まり、書き損じだけが増えていく。
結局ごく短く、こう書いた。
——無事です。中立地帯で、生きてます。
書き上げた頃には、うっすらと空が白み始めていた。冬の日の出は遅い。仕事開始の時間がすぐ傍に迫っていた。慌ててスギは目を覚ましたばかりの鳩の脚へ手紙を括り付ける。そのまま片手で鳩の身体を掴んで、空いた方で明かり取りの窓を細く開けた。
今日も冷えたようだ。窓の隙間から容赦なく凍てついた空気が流れ込んでくる。しかし鳩は広い空間へ出られるのが嬉しいのか、特段嫌がる様子もなくくるる、と喉を鳴らして飛び立って行った。
北へ。皇都へ。
返事など期待していなかった。鳩が戻ってこない可能性すら、考えていた。
しかし五日で鳩はスギに与えられた部屋の窓辺へと戻ってきた。期待と諦観、相反する気持ちで探った脚には、きちんと返信が結わえられていた。
懐かしい友の字で綴られた言葉。まずスギの無事を喜ぶ内容が書かれていたことに腹の底から溜息を吐いた。壁に背中がぶつかり、そのままずるずると床に座り込む。
震える指で続きを辿る。皇都での粛正は一段落したこと、アオイ自身の健康と弟たちに変わりはないことが綴られていた。淡々と事実だけが紡がれる言葉。ただそれだけのことなのに、どうして涙が止まらないのだろう。
信じてくれた。その事実がこんなにも、嬉しい。
目元を拭って、改めて手紙に目を落とす。文字列を追う瞳が、最後の一行で動きを止めた。息を詰めて、もう一度読み直す。
——『いつか』の約束を、覚えていますか?
アオイは何より情報を欲している。己の力にするために。己が生きていくために。中立地帯自警団の内実。それはあの病身の皇太子にとって、どれほど価値のある武器になるだろう。
鼓動が加速するのが分かった。皇宮の最奥に住まう皇太子に、ここでの暮らしを伝える。それは己に居場所をくれた自警団に対する裏切りではないのか?
「返事が来たのか」
ふいにかけられた声に、必要以上に肩が跳ねた。慌てて顔を上げると、入り口にもたれたウイキョウが難しい顔でこちらを見ていた。
反射的に手紙を背後に隠す。自然と目線はウイキョウから逸れた。後ろめたいことはまだ何一つしていない。だが堂々と目を合わせることも、今はできなかった。
そんなスギをウイキョウは目を細めて観察している。わずかな沈黙を挟んで、低くウイキョウは口火を切った。
「まさか、本当に皇宮から返事が来るとはな」
思わずスギは目を閉じた。疑われている。ゆっくり歩み寄ってきたウイキョウが、目の前でかがみ込んだ。
「スギ、諜報という言葉を知っているか」
聞き慣れない単語。しかしおぼろげに意味は理解できた。先程探り当てた裏切りという言葉の手触りと、とても良く似た響き。
「中立地帯がどうして中立でいられるか、知っているか」
力なく首を振る。先程自分がしようとしたこと、あれは諜報という行為になるのだろう。それはおそらく罪だ。露見したなら罰が下る。相手が今の後ろ盾でもあるウイキョウなら尚更だ。誰も庇ってくれる者などいない。
「中立地帯にとって、有益な情報をいち早く入手するために皇都、王都それぞれに間者を放って情報を集め分析する。それが自警団の諜報だ」
動揺しているせいでウイキョウの言葉は耳に入っていても意味を理解することが難しかった。自然、聞き流す形のままスギはうなだれて黙っている。
「自警団の生命線とも言える活動だから、それなりに規模や人員は割いているのだが。しかし、皇宮内部と直接繋がる人脈を持てたのは初めてだ」
ウイキョウの大きな手がスギの肩にかけられた。
「スギ。諜報術を学ばないか?」
「……え?」
意外な言葉に思考がついていけなかった。ゆるゆると上げた視界がウイキョウの真剣な瞳とまともにぶつかる。
「実はお前が皇宮への鳩を欲しがった時から考えていた。本当に返事が来たら誘ってみろと、長にも言われている」
「でも……僕はいつかあなたたちを裏切るかもしれないですよ」
先程のように。
ウイキョウは瞼を閉じた。しかしすぐに目を開き、低い声で告げる。
「お前は皇帝に恨みを持っているはずだ」
ウイキョウの瞳は刃の光を宿していた。それは決して保護者として世話を引き受けた少年に向けるものではなかった。敵か味方か、その境界線にいる相手に向けられる真剣の鋭さ。思わずスギは息を呑んだ。
「一矢報いることができるなら、そう思ったことがあるだろう。その機会があるのなら、その瞬間が来たならば。そう思わなかったことがないわけがない」
やはりウイキョウはあの事件を知っていたのだ。件の薬師一家の生き残り、そうと知ってスギを助けたのだ。
利用価値があると知っていて。
「お前が皇宮と繋がっているとは意外だったが……そのつながりは利用できる。自警団にとって有益だ」
ふいに笑いがこみ上げてきた。
なんだ。タケだけではなかった。ウイキョウも、長も、アオイでさえも、あの手この手でスギを利用しようとする。
ならばスギが自分の目的のために彼らを利用して、何が悪い。
「分かりました」
「スギ……?」
急にくつくつ笑い始めたスギを、ウイキョウが怪訝そうに覗き込む。その手を静かに肩から払って、スギは顔を上げた。薬師が診察の時に見せる、笑顔という名の無表情で。
「僕の力でお役に立てるなら。まずは何をすればいいですか? 取り急ぎこの手紙に返事をと思っているのですが、何か書き添えることはありますか?」
己の目的とは何だろう。家族の仇討ちか、それとももっと別の何かだろうか。今は答えが見つからないそれを見つけるためにも、まずは生きなければならない。だから。
生きるために、間者になる。
翌朝、窓から放たれた鳩の脚に括り付けられた手紙。末尾にはこう書かれていた。
——当分皇都には帰れない。だからせめて、懐かしい街の話をなるべく詳しく教えてくれないか。
凍てついた東雲の空を、鳩はただ一心に飛んでいく。
**********************
それから、十年。
あの夜、止まっていた時が動き出した。
国王レンギョウと第二皇子アサザの偶然の邂逅。そこに自警団が、自分が居合わせたのは偶然か、必然か。
スギは慣れた手つきで皇都へ放つ鳩の脚に手紙を括り付けた。中立地帯への食糧援助を巡る一触即発の事態。戦へ至るかもしれない、危うい綱渡りの攻防。
——時は来た。
アオイから得た情報を自警団に渡し、自警団で薬師として働く中で得た情報をアオイに流す。そうやって過ごしているうちに、いつの間にか誰より噂話に敏感になり、情報を吟味する癖が身についた。情報の精度が高いということで長はじめ上役に目をかけられて、とんとん拍子に出世した。そうして気がついたら、自警団の間者をまとめる立場になっていた。
しかしそれらの裏舞台は、決してアオイに見せてはならない部分だ。あの脱出行以来、スギは一度も皇帝領に足を踏み入れてはいない。長い種子の時代を経て、今ようやく芽吹き始めたもの。
鳩が持つ書簡は、アオイに皇都への帰還を告げるものだった。満を持しての帰郷。それを伝える文面は特に細心の注意を払って練り上げたものだ。
皇帝の第一子。廃太子。皇都の間者の束ね役。そして——旧友。どの顔のアオイにも、スギの本当の目的を悟られてはならない。
間者になると決めた日から、ずっと己の目的を考え続けて生きてきた。考えて考えて。それでもやはり、答えは出なかった。
何が正しいのか。何をすれば己は満足するのか。何を成せば家族は喜ぶのか。
分からない。だからせめて、後悔しない選択をすることにした。
——生きていて、ほしかった。
父に、母に、祖父に、姉に。あの後結局合流することのなかった、タケにだって。
命を奪うは薬師の禁忌。それでも一人の人間として、かつて確かにあった幸せを奪われた哀しみが、この身を苛む。
手の中の鳩を空に放つ。意外なほどの力強さで、羽ばたいた鳩はふわりと宙に浮かんで遠ざかっていく。目に痛いほどの青空。スギは鳩の姿を追って目を細めた。
薬の匂いと暖かな空気、大量の本の気配。本当にここは、何一つ変わらない。まるでこの十年にあったことが、全て夢か幻であったかのように。
「おかえり、スギ。久しぶりの皇都はどうだった?」
「色々変わってて……正直あまり懐かしいとも思えませんでした」
「そう。あれからだいぶ経ったからね」
昔と変わらぬ笑顔で、アオイはスギをまっすぐに見上げた。けれど細くとも随分上背の伸びたその姿はどう見ても十歳の少年ではない。
そして同様に、アオイの目に映るスギもあの頃と同じではあり得ない。ずっしりと重い外套を纏った、若き薬師。見習いでは持ち得ない自信と落ち着きを持ってアオイと相対する、その表情。
二人の上に流れた時間は、確かにあった現実。だから確かめずにはいられない。
「ところで、一つ聞いておきたいことがあるんだ。今の君は廃太子の忠実な手駒かい? それとも自警団の間者?」
「……僕は貴方の友人です」
「そう。ならいいんだ」
どこか満足そうにアオイは呟いて、薄い瞼を閉じた。その表情を見て、スギは確信する。
——そう、僕たちは紛れもなく友人だ。
書簡のやり取りが最早感傷などではないなど、いつしかお互いが承知していた。お互いがお互いの知りたいことを求めて、少しでも多くの情報を引き出すために行ってきた幾多の駆け引き。成長した太子と薬師は、それぞれの情報戦を命がけで戦い、生き抜いてきた戦士になっていた。だから。
再会の喜びより、お互いが無事であったという事実より。
騙し合いの好敵手が眼前にいるという事実が楽しくてたまらない。そういう意味で、二人は完全に同質の人間だった。
「ねぇ……『いつか』の話をしようよ。君の見てきた世界を教えてほしいんだ」
「いいですけど、引き換えにアオイの話も聞かせてくださいね?」
「ひどいな、太子に見返りを要求するの?」
「僕が土産話をすると約束したのは友人に対してです。畏れ多くも太子様と交わした約束なぞ持ち合わせてはおりませぬゆえ」
アオイが笑った。昔と変わらない、心の底からの朗らかな笑い声。
「じゃあ、待たされた分面白い話を期待してるからね?」
己が裡に秘めた決意を知っても、アオイはこんな風に親しげに話しかけてくるのだろうか。それとも何もかもお見通しで、この親しげな態度を崩していないのだろうか。
分からない。けれどあえて詮索することもしたくない。
「そうですね、ではまず中立地帯で最近流行りの歌でも歌いましょうか」
「スギ、歌なんて歌えるの?」
「ちょっとしたもんなんですよ、これでも」
今はただ、十年ぶりの友人との再会を喜びたい。
——最後に、後悔しない選択をするために。
薬師の名誉も、自警団の誇りも。
己を飾る花など要らない。
家族の、己の幸せの仇を果たすため、人知れず咲く風媒花になろう。
この種子が実を結ぶ時まで、花は花と認められてはならないのだから。
<2012年10月23日>
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