書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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今回のおみやげも飴にするつもりだった。旬の苺を丸ごと飴の衣で包んだ、庶民にはおなじみの春の味覚。苺飴が話題になった時、元は庶民に近い出自のキキョウも懐かしいわね、と目を細めていた。しかし皇宮から出たことのないアオイにはそのような菓子の存在は新鮮だったらしい。
のど飴なら、誰にも負けないくらい詳しいんだけどね。
そう苦笑するアオイの容態は、最近落ち着いている。軽い発熱や咳の発作はあるようだが、重篤な症状はスギが知る限り出ていないようだった。献身的なキキョウの看病と屈託ない弟たちの元気さによって気持ちが安定していることが、病状に良い影響を与えていることは明らかだった。
気分次第で少しでも病状が改善されるのならば、自分もアオイのためにできることをしたい。薬師としても、友人としても。
いつもの飴屋の屋台へ声をかける。すっかり顔馴染みになったスギを、子供好きの店主が笑顔で迎えた。苺飴を包んでもらいながら、ふと考える。
このひと、まさか皇太子がここの飴を楽しみにしてるなんて思ってもいなんだろうな。
相変わらず愛想のいい店主に、なんだか悪戯をしている気分だった。
飴の入った紙袋を受け取り、スギが屋台を離れようとした時のことだった。
「おい、聞いたか? 辺境の村が中立地帯の盗賊に襲われたって」
聞くともなしに耳に入った噂話に足を止めたのは何故だろうか。飴売りの屋台のすぐ傍で、男が二人肩を寄せ合うようにして話している。もっとも声をひそめているのは噂を持ってきた方だけで、もう片方はむしろ邪険にしている様子さえ見て取れる。
「そんなの珍しいことじゃないだろ。どこの村のことだよ」
「南の街道筋だよ。ほら、昨日皇宮から応援が出たろ」
「そういや騎兵が何騎か走ってったな」
「あの中に皇妃様がいたらしいぜ」
どくん、と心臓が高鳴った。キキョウが盗賊退治に出た?
「へぇ。そりゃ珍しいがそれが何だってんだ? その後すぐに陛下が正規兵を率いて応援に駆け付けたって聞いたぜ」
「なぁ。おかしいと思わないのか? あの陛下が自らお出ましになられるなんてよ」
「そりゃお前、皇妃様が出られたからじゃないのかよ。女房が先陣切って自分は高みの見物じゃ、いくら鉄面皮の陛下でも恰好がつかんと考えたんだろうさ」
「あの陛下がそんなことで困るタマかよ。真相はもっと別なんだ」
「いい加減にしろよ。お前の講釈なんざどうでもいい、とっとと仕事に——」
「皇妃様が盗賊の手にかかったらしい」
聞き手の沈黙はそのままスギの思考の空白だった。
「おま、いくらなんでもそんな冗談……」
「冗談でこんなこと言えるか。現に陛下の隊もまだ帰ってきていないだろうが。盗賊ごとき、皇帝軍ならあっさり蹴散らせるはずだろう」
「そりゃそうだろうけどよ」
黙って聞いていられたのはそこまでだった。
「その話、本当ですか」
ぎょっと振り向いた二人の視線が空を切り、一拍置いて下げられた。聞き咎められたのが警備兵などではなく子供だったことにあからさまな安堵を浮かべながら、聞き手の男はうるさげに手を追い払う形に振った。
「忘れちまえ、こんな奴の与太話なんざ。どこまで本当だか分かりゃしねぇ」
「いや、本当だぞ」
話し手の男は自信ありげに胸を反らした。
「嘘だと思うなら向こう何日か皇宮を見張ってろ。絶対何かの動きがある」
スギは自分の質問の愚かさを悟った。ここでこの男を問い詰めたところで出てくるのは根拠のない噂話でしかない。そう、真実は実際に出向いて確認すればいいのだ。
身を翻してスギは皇宮へと走り出した。石畳を足裏が蹴るたびに、抱えた袋の中で飴玉がかしゃかしゃと揺れる。
苺飴——みんなで一緒に食べるつもりだったのに。
否、まだ先ほどの話が本当だという証拠はない。行ってみたらきっと何事もなかったかのようにキキョウが迎えてくれる。
そう祈りながら、スギは息せき切って皇宮の門へとたどり着いた。幸い、詰めていたのは顔馴染みの兵だった。スギの顔を見てにこやかに笑いながら、ああいつもの配達だね御苦労さま、などと言いながら道を空けてくれる。
——普段通り。
なんだ、やっぱりいつもと変わらないじゃないか。
安堵して門を潜り、兵に先導されて宮人が待機している内門へ向かう。案内の兵と雑談など交わしながらやって来た奥の宮への入り口。しかし普段通りはそこまでだった。
「あれ、何で誰もいないんだ」
内門の詰め所は空っぽだった。これまでは常に誰かがいて、そこで兵から先導役が引き継がれるという流れだったのだが。
「仕方ないな、ちょっと待っててくれないか。俺はここから先に入れないから、誰か人を呼んでこなければ」
胸騒ぎは一旦治まっていた分、揺り戻しが激しかった。
一介の門番兵にならば、予期せぬ皇妃の不在が伏せられることもあろう。しかし奥の宮に仕える宮人たちには。
「いえ、もう先導なしでも殿下の部屋までは行けますから」
言い捨てて、スギは内門をするりと抜けた。
「あ、お前、勝手に行くな!」
門番の焦り声を背に、スギはうそ寒い廊下を走り出した。もちろん無茶をしているという自覚はある。しかし悠長に案内など待っていられる心持ではなかったし、ましてや今は宮人が案内を拒否する可能性すらある。
待ってなどいられなかった。
勝手知ったる宮をいくつも抜けて、スギは一心にアオイの病室を目指す。途中でもやはり宮人の姿は見かけない。結局誰にも見咎められることなく、スギはアオイの部屋に辿り着いた。
「アオイ、いる?」
アオイ様、と呼んで怒られたのは最初の訪問の時だった。友達なんだから、と膨れられては無理に呼ぶこともできず、それより何よりスギ自身が嬉しかった。以来アオイには敬語を遣わずに接しているが、あれで意外に頭の固い父には未だその事実を伝えられずにいる。
戸口で声をかけても反応がない。仕方なしに相変わらずの本の山をすり抜けて奥へ進む。やはりいつもと違う。キキョウが傍にいれば、この時点でスギの来訪に気付いてくれるはずだ。
アオイはいつもの寝床にいた。珍しく半身を起こして、寝床に座り込んでいる格好だ。どうやら膝に置いた手紙を読んでいるらしい。
「アオイ?」
恐る恐る声をかける。アオイがぎくりと顔を上げた。声の主を探すように視線をさまよわせ、部屋を一巡りしてようやくスギの姿を認める。
切実な期待を帯びた張りつめた目線に、声の主をスギだと正しく認識した色が混じる。一拍の後それは底知れない悲哀を帯びて、ゆっくりと膝の手紙へと戻された。
「……が、欲しい」
「え?」
掠れたアオイの声に重なるように、窓辺でばさりと影が動いた。鋭い啼き声は猛禽のもの、とするとこの手紙を運んできたのはこの鷲だろうか。
鷲が運ぶ手紙は戦場からのものと相場が決まっている。一気に冷えたスギの心は、アオイの抑揚を欠いた掠れ声でついに凍りついた。
「私にもっと力があったなら、母上をお守りできたのに。私に大切なものを守れる力があったなら」
不意にアオイの瞳から涙が零れ落ちた。俯けた顔、落ちた雫は拳に、布団に、そしておそらくは悲報を伝える手紙に点々と落ちていく。
「力が、欲しい……!」
知らず握り締めた外套から紅い粒が零れ落ちる。床に、本の山に散らばる苺飴を拾うこともできず、言葉もなくスギはただ立ち尽くしていた。その背中に、ようやく駆け付けてきた宮人の足音が追いついてきた。
春が過ぎ、夏が来て、秋も駆け去った。そして迎えた冬。草原の真ん中で風雪に晒される皇都のそれは長く厳しい。
氷の気配を帯びた北風に、スギは思わず首をすくめた。数日前に年を越したばかりの今朝、皇都は殊に気温が下がっていた。既に太陽は頭上高く昇っているものの、一向に寒気は緩まる気配がない。
幾人かの患者の顔が頭をよぎる。急な寒さで体調を崩していないか。病状は悪くなっていないか。市場裏の喘息のおじいさん。肝臓が悪い大工町の親方。脚が不自由な城壁横のお姉さん。
皇宮への配達が終わったら顔だけでも見に行こうか。そう自然に考えることができるだけ、スギも随分と仕事に馴染んでいた。
薬師の外套に腕を通してもうすぐ一年。相変わらず仕事はおつかいばかりだったが、北風を受けて無意識にかき合わせた外套の隠しには薬種や調合済の薬が幾つか入っている。いずれも基本的な痛み止めや傷薬などだが、それらはスギの判断で処方することを許されている薬だ。常時持ち歩ける薬が増えることは薬師としての成長が父にも認められているということでもある。確かな手応えを感じ始めている今、スギは何より仕事が楽しかった。
本好きなアオイの影響で、最近はスギも仕事に関わる文献に積極的に目を通すようになっていた。父は自分の書物を出し渋ることはなかったし、難しい用語や解釈については解説してくれることもあった。おかげで患者から薬の効能や処方の意味を問われた際も、きちんと自分の言葉で説明できるようになっている。大抵の患者はまだ少年の域を出ないスギの淀みない解説に舌を巻くが、中にはさらに詳しい説明を求める者もいた。
他でもない、アオイがその代表格だ。
キキョウを亡くした直後、スギはアオイの病状が悪化するのではないかと危ぶんだ。だが少なくとも表面上はアオイの体調が崩れることはなかった。幼い弟たちを支えて父帝の傍らで葬祭に臨む姿は本当にあの病身の皇太子かと思うほど毅然としたもので、堂々とした威厳さえ感じられるものだった。
——力が欲しい。
その望みはアオイの中で明確な形を成しつつあるのだろうか。キキョウがいなくなってから、アオイは以前にも増して知識を求めるようになった。それは歴史や地理、経済といった国を統べるための通り一遍のものには留まらず、例えば皇都で今流行している出来事だったり、中立地帯の人々の暮らしぶりといった書物では入手できない情報の類も含まれるようになっていた。
今、スギは外套の下にいつもの薬袋の他に父から借り受けた薬草の絵草紙を抱えている。あの日以降、訪問時の手土産は飴玉から薬学の知識と皇都の噂話へと変わっていた。
自分に処方されている薬はどういったものからできているのか。
どこから来た材料を用い、どういう意図でそれを処方に加えているのか。
アオイにとっては自らの生命に直結する情報であると同時に、使い方次第では貴重な武器にもなりうる知識だ。薬種は匙加減ひとつで毒にも薬にもなる。アオイが欲したのはその境界線の知識だった。
勿論駆け出しのスギが不用意に答えられるような質問ではない。だから最近は薬の配達のついでに父の書斎から持ち出した書物を広げては額を突き合わせて眺め、今回処方された薬について二人で学ぶ。前回、前々回の処方との違いを比べ、足りない知識はアオイの部屋にある文献をひっくり返したり、スギの次の訪問までに調べて結果を報告し合う。スギの説明能力が大人の患者たちから一目置かれるほどに上がったのも、この勉強会があったからこそのものだった。
「前回より『鹿』の割合が減ってるね。最近発作が少ないからかな?」
「うん、ああいう強すぎる薬は却って身体に負担がかかるから。代わりに甘草が多めに配合されてる。大発作を抑えるより普段の咳を緩和する目的の処方だね」
「ああ、それじゃ今月の薬は甘いんだね」
生薬の配合を記した処方箋から顔を上げて、アオイは苦笑する。
「甘草の甘さって、薬臭くてあんまり好きじゃないんだけどな」
「竜胆が多いよりましだよ、きっと」
「ああ。それは嫌だな。ものすごく苦そうだ」
処方箋の分析に一通り満足したら、次にスギが持ち込んだ薬草の絵草紙を覗き込む。詳細な素描と簡潔な説明文をひとつひとつなぞりながら、薬効と使用法を確認していく。
「こうしてみると生薬って動物の名前がついたものが多いね」
「何かに似てると思って名前をつけた方が昔の人も覚えやすかったのかも」
薬効と併記されている副作用や過剰摂取時の症状、その対処法。絵草紙ひとつ取っても学ぶことはたくさんあり、調べる事柄はそれ以上に膨大だった。部屋に積んだ無数の書籍を次々にひっくり返しながら、二人は時間を忘れて知識を貪った。
「僕はね、もっともっと色んなことを知りたいんだ。知識は力になる。知らなければ何もできない。何も、遺せない」
アオイがぽつりと呟いた。顔を上げたスギの方は見ようとはしないまま、静かに頁を繰り続ける。
「薬学だけじゃない。歴史や、地理や、政治学のような父上が教えてくれる皇太子の勉強でもまだ足りない。僕はこの国のすべてを、可能な限り知りたいんだ」
「わかってる。だから僕が都で聞いた話を教えてるじゃないか」
「そうだね。だけど、皇都だけがこの国のすべてじゃない」
アオイの手が止まった。視線を落としたその先には、山岳地帯に生えるという薬草の挿絵。
「山岳地帯の村では普段どういうものを食べている? 中立地帯の人々の一日の暮らしは? 王都の国王は領民たちにどう思われている? ——知りたいことが多すぎて、どうしていいかわからない」
行きたいのだ。自分の目で、自分の耳で、自分が生きている世界を知るために。
スギはアオイの望みを理解した。同時にそれが叶わないであろうという諦めと悔しさ、もどかしさをも。
皇帝領の外へ行くどころかこの部屋から出ることさえごく稀。やむを得ず外出した後は必ず発熱に見舞われる。こんなに手厚い治療を施してさえこうなのだ。好奇心を、知識欲を満たすための旅など夢のまた夢。
そんなアオイにとって、これから自分が発する言葉は酷かもしれない。けれど。
「いつか行けばいいよ。その時までに僕が君を治すから」
自信などない。けれどそれは紛れもなく希望だった。スギだけでなく、アオイの心をも救える、未来への願い。
「時間はかかるかもしれない。けれどいつか僕がこの国中を廻って、君の病気だって治せる薬を作る。もちろん旅の土産話は全部君に聞かせるよ」
ようやく顔を上げたアオイの視線を捕まえて、スギは笑いかけた。
「だから諦めないで。自分の望みだろ?」
「……そうだね」
微かに笑って、アオイは頷いた。
「誰だって『いつか』を信じることはできる。きっと僕にも、それくらいは許されてる」
ありがとう、という小さな声がスギの耳に届くと同時に、廊下がばたばたと騒がしくなった。
「さむいさむいさむいよー! 兄上様、ただいま帰りましたー!」
「あんまり寒いとか言うな、余計寒くなる! 兄上ー、お客さんを連れて来たぞー」
振り向いた先、部屋の入り口から覗く三つの顔を認めてアオイは頬を綻ばせた。二つは最早見慣れたアオイの弟たち、しかし馴染みのないもう一つの褐色の顔は——
「おや、アサザの好敵手じゃないか」
「ちょ、兄上! 好敵手なんかじゃないですよ! 俺の方が断然——」
「弱いですもんね?」
口を挟んだアカネの頭をすかさずアサザが叩く。どう反応していいのか戸惑っているスギとブドウを、アオイがくすくす笑いながら手招いた。
「スギ、ブドウ、こっちに来て。改めて紹介するから」
本の山の中をおっかなびっくり進んでくるブドウと仲良く騒がしい兄弟、それらを見守るアオイ。
——つまるところ笑顔が一番の薬だ。
そんなことを思いながら、スギもまた自然と頬に笑みを浮かべていた。
「え、あのカッコいい女の子と話したの!?」
サワラの丸い目がさらに丸くなった。次の瞬間、スギの胸ぐらは乱暴に掴まれて、がくがくと盛大に揺さぶられる。
「ちょ、やだ、なんでスギばっかり……!」
「そう言われても、仕事の成り行きで何となくとしか」
「ずるい! じゃあ今度私も皇宮についてく!」
「無茶言わないでよ」
心底困り果てたスギを救ったのは、父のこの上なく冷静な声だった。
「サワラ、暴れるなら箸を置いてからにしなさい」
みるみるしゅんとなったサワラが自分の膳に向き直るのを確認して、スギはほっと息を吐いた。いつもの夕餉の風景だ。間髪入れずに母がスギの膳におかわりの椀を置く。ちょうど伸び盛りに差し掛かる年頃だ。最近とみに食べる量が増えている。
有り難く椀を手に取りながら、ふとスギは思いついたことを口にする。
「そういえばサワラは皇子たちには興味ないの?」
女の子なら誰もが白馬の皇子様に憧れるのではないか。そんな独創性のかけらもない発想に、さっき会ったばかりの実際の皇子たちの顔が重なる。
——うん、みんな白馬の皇子様って柄じゃないな。
「興味ない。直に見たこともないし。あの戦士の女の子の方が断然いい」
サワラの返答は至って単純で迷いがなかった。思わず苦笑するスギに、また新たな疑問が湧き起こる。
「女の子の方がいいの?」
「何よ、文句ある? てんでガキで泥まみれの男共よりあの子の方が綺麗で凛々しくてカッコいいじゃない」
「……そういうものなの?」
近所の悪童どもの顔が次々と浮かんでは消える。確かにどれも、小綺麗とは言いがたい。
スギの失礼な空想に横から口を挟んだのは母だった。
「いいじゃないのスギ。女の子にはそういう時期があるのよ」
「女の子に憧れる時期が?」
「格好いい女性に憧れる時期が、よ」
「さすが母さま、分かってる!」
手を叩いて喜ぶサワラをやれやれと見遣り、スギは自分の膳へと向き直った。中断していた食事はまだ半分ほど残っている。冷めないうちに、と急いで片付け始めたスギの耳に、聞くともなしに父と祖父の会話が流れ込んでくる。
「ヒバよ。先程また『狐』が入ってきたんじゃが……最近多すぎではないか?」
「どうしても投薬を切れない患者がいる」
ぎろり、と祖父はヒバの顔を覗き込む。
「……身元は確かか?」
「下町の穀物商の隠居だ」
「ふむ、確かにあそこは心の臓が弱い家系だの」
祖父はしばらく中空を睨んでいたが、やがて仕方がないという風に頷いた。
「ならば仕方ないか。だが、わかっておろうがあれは濫用厳禁じゃぞ。身元のはっきりしない者にも渡してはならぬ」
「ああ。あれは薬というより毒だからな」
どんな形の薬種だっただろうか。記憶を探ってみるがすぐには出てこない。二人の口ぶりでは常に在庫しているものではないのだろう。先日仕入れたという分はまだ残っているのだろうか。
箸を置いて席を立つ。薬種蔵に向かおうとしたスギを父が呼び止めた。
「そっちにはない。診察部屋に置いてある」
『狐』のことだ、とすぐに察して、スギは父の後を追いかける。いつもの仕事場のすっかり暮れた闇の中、父は素早く手灯に火を入れて隅の板の間へと歩を進めていた。スギが追いついたのを見計らって、作業台から一束の干草を取り上げる。
「これが……」
渡されたそれはかさかさとした質感の葉だった。火に透かすと灰色を帯びたくすんだ緑色が目に入る。鼻を近づけても特に独特の香りはない。おそらく磨り潰して粉状にするか、煎じて服む種類の薬なのだろう。
「強心、利尿作用に優れた薬種だ。ただし用量を間違えると重篤な中毒症状を起こす」
「中毒?」
「患者が死ぬ」
びくりとスギが顔を上げる。父はしっかりとその目を見下ろしてきた。
「少し苦みが強いが、使い方を間違わなければ良薬だ。この薬に救われてきた患者もまた多い」
差し出された大きな手に、スギは黙って草の束を返した。まだまだ半人前のお前に扱える薬ではない、そう言われたようで悔しかった。そんなスギの内心を察してか、父は少しだけ目元を和ませてぽんと肩に手を置いた。
「そのうち改めて扱い方を教えてやる」
「……はい」
「明日はこれで作った薬を届けてもらう。薬種の入荷が間に合わなくて診察の時に不足していた分だ。患者の状態は診たばかりだが急変が心配だ。いつも通り、しっかり観察してくるように」
「はい」
スギはしっかりと頷いた。まだ薬の調合は任せられなくとも、患者の状態を診ることに関しては信頼されている。
いつか父の知識のすべてを教えられるその日まで、できることを一つ一つ積み上げていこう。
診察部屋の寒気が、今更ながらに頬を撫でて闇へと溶けていった。
翌朝は陽が昇る前から雨になった。寒気は相変わらず居座っている。雨には細かな氷が混じり、ただでさえ寒々しい皇都の石畳に突き刺さっては崩れ、冷たい水となって人々の足元を濡らしていた。
「こんな日に配達なんて、大変だね」
「大変でも行かなくちゃ。患者さんが待ってるし」
身支度を整える手を休めないまま、スギは横目で姉を見遣った。サワラはいたって普段通りの部屋着姿で、茶の間の火鉢の一角を占拠して寛いでいる。今日のような天気ではさすがのおてんばも遊びに出る気を失くしたらしい。
心中で小さくため息を吐いたスギの背中に声をかけたのは、孫娘の差し向かいで火鉢に当たっていた祖父だった。
「スギ、今日は下町へ行くのじゃろ。角の菓子屋であられを買って来い」
遣い走りかとますます肩を落としたスギに、祖父は硬貨を投げて寄越した。あられ代にしては随分多い額だ。
「釣りは返さんでも良い。帰りに何か温かいものでも食え」
「ちょ、じいさまずるい!」
「ほ、ではおぬしが行くか? 別にわしはどちらが買ってきてくれても構わんのだが」
「……今日は絶対やだ」
「だったら文句は言わんことじゃ」
祖父の好意に小さく頭を下げて、スギは身支度に戻る。薬種は乾燥させて用いるものがほとんどだから湿気には弱い。今日届ける薬、外套に仕込んだ薬、そのいずれも濡れないよう細心の注意を払って隠しの中に振り分けていく。
母が雨合羽を着せかけてくれる。水を弾く加工をしてあるそれは黒く光沢があってつるつるしている。有り難いと思う反面、妙にくすぐったくてわざと乱暴に身につけていく。
「自分でできるよ。もう子供じゃないんだし」
「あらそう? それは失礼しました」
母はスギの頭をぽんと叩いて離れていった。結局子供扱いしてるんじゃないかと頬を膨らませたスギに、奥からのっそり顔を出した父がとどめの一言を放った。
「転ぶなよ」
「分かってます!」
足音荒く玄関に向かうスギの背中に、能天気なサワラの声が掛けられる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
わざと返事をしないまま、スギは合羽を頭深く被り込んだ。家の板戸を出た瞬間、凍り付くような寒さと突き刺さるような氷雨が容赦なく叩き付けてくる。
スギの父は薬師だが、家業そのものは代々続く薬種問屋だ。ゆえに店舗と診療所を兼ねた住居は皇都の問屋街の中にある。スギは問屋街を出て大通りに入り、下町方面へ向けて辿った。さすがにこんな天気では道を歩く人影もまばらだった。ほとんど無人の大通りを、スギは足早に歩いていく。
途中、数人の兵士とすれ違った。鎧と鞘が触れ合う細かな金属音が、氷雨の帳越しにやけに大きく響いてくる。
——兵隊さんはこんな日にも見回りをしているのか。
大変だなぁ。そう思ってちらりと彼らの様子を窺う。こんな日に仕事で外出しているという親近感からだったが、すぐにスギは彼らから目を逸らした。
——なんだろう、すごくぴりぴりしてる。
反射的に思い出したのはキキョウが亡くなった時のことだった。慌てて首を振る。縁起でもない、と芽生えかけた黒い予感を振り払うようにスギは足を早めて患者の家へ向かった。
こんな天気だから不吉な方へ考えてしまうんだ。急いで仕事を終わらせて、茶の間でサワラとあられをつまみながら火鉢に当たってごろごろしていよう。
目当ての穀物商の扉を叩く頃には、もう早く帰ることしかスギの頭にはなかった。店舗の裏口と自宅の玄関を兼ねた目立たない入り口だが、しかしいくら呼んでも返事がない。雨音に紛れて聞こえないのだろうか、とさらにスギが声を張り上げようとした時だった。
扉が内側から開かれた。隙間からするりと抜け出てきた人影が、スギにぶつかりかけてぎょっと身を引く。
「あの……お届けものに上がりました」
「届け物?」
商いの下働きだろうか。若く屈強なその男は怪訝そうにスギを見下ろした。こういう時、薬師の外套が合羽で隠れてしまっているのは不便だ。
「薬師ヒバの遣いです。昨日の診察でお渡しできなかった分の薬をお持ちしました」
「……ああ」
幸い若者はすぐに思い当たってくれたようだった。
「それはご苦労様。俺はすぐ出かけなきゃならんから案内はできないが、中に入って声を掛ければすぐに大奥様が気づいてくれるはずだ」
示された入り口を、礼を述べたスギがくぐり抜けるのと入れ替わりに若者が外に出る。スギと同様に合羽の襟をしっかりと合わせ、懐の包みが濡れないようしっかりと胸に抱き込んでいる。
この人もどこかへお遣いに行くのかな。
スギの想像などまったくお構いなしに若者は一気に氷雨の中に駆け出して、あっという間に見えなくなってしまった。その背中を何とはなしに見送って、スギは改めて家中に声をかける。ようやく来訪に気づいて出てきてくれた老婆に来意を告げ、玄関で合羽を脱ぎ、患者の部屋まで案内してもらうまでは順調だった。だが。
患者の顔を一目見た瞬間、スギは唖然とした。すぐに傍に歩み寄り診察を始める。顔色が悪い。意識に問題はないようだが、浅い呼吸と倦怠感が表情に滲んでいる。『狐』は過去にも何度か処方されているはずだ。きちんと用量を守って服用していれば、こんなに状態が悪くはなったりしないはず。急変が心配だと言っていた昨夜の父の言葉が頭をよぎる。一体何が原因で悪化した?
「おじいさん、薬はちゃんと服んでいますか?」
「薬?」
「そうです。薬師からもらった薬があったでしょう。ほら、こういうのですよ」
スギは懐の奥から『狐』を取り出した。父の手できちんと加工されたそれは、昨夜のような葉の形ではなく薬包紙に包まれた灰緑色の粉末に姿を変えている。老人の茫洋とした瞳がそれを捉え、口がもごもごと動く。
「服んどらん」
「……は?」
「その薬は苦い。わしゃ苦いのは嫌いじゃ」
予想外の答えにスギの思考は真っ白になった。絶句しているスギにはお構いなしに、老人は聞き取りづらい不明瞭な声でもぐもぐとしゃべり続ける。
「偉い薬師様から出た薬っちゅうことでいっぺんは有り難く服んでみたが、苦くて苦くてとてもじゃないが喉を通らん。閉口しておったら傍におったタケが自分の婆様も心臓が悪いからこの薬を譲ってほしいと言い出してのう」
「タケ?」
「使用人の若いのだよ。さっきどこかに行くって言って出かけてったけどねぇ」
あの若者だ。老婆の説明に頷きながら、スギは患者に向き直る。
「つまり薬は服まずに別の人に渡していたと、そういうことですね」
老婆がもごもごと言い訳めいた言葉を呟いたが、スギは構わず質問を続けた。
「この薬は以前にも何度か出ていたはずです。それも全部、タケさんに渡してしまったのですか?」
——薬というより毒だからな。
昨夜の父の言葉が頭の中で渦を巻く。体格や症状、他の薬との飲み合わせ、すべてがこの老人に合わせて処方された薬だ。たとえ同じような症状だとしても、他人にそっくり同じ効果が期待できるとは限らない。ましてや匙加減ひとつで毒にも薬にもなる成分を含む代物だ。下手をするとタケの祖母の命が危ない。
「タケさんはどこへ?」
「おそらく婆様のところへ行ったのじゃろう」
おろおろするばかりの老婆に代わって、患者がもぐもぐと呟いた。
「さっき薬師様から出た薬を全部くれてやったら、すぐに婆様に持って行くと言っておった。まったく孝行な孫じゃて」
——その孝行な孫が人殺しになるかもしれないんですよ。
舌打ちをこらえてスギは立ち上がった。老婆に詳しい場所を確認し、懐から取り出した『狐』を半ば強引に皺だらけの手に押し付ける。
「苦くて嫌がっても、必ずおじいさんに服ませてあげてください。苦しさが今より減るはずです。いいですね」
老婆の返事を待たず、スギは玄関へ取って返した。慣れぬ手つきで合羽を着込み、雨の中へ飛び出す。タケの居所は城壁近くの住宅密集地らしい。ひとまず城門を目指して足早に歩き始める。
篠突く雨が針のように降り注いでいた。氷のような水滴が下町の風景の輪郭までも滲ませている。
大通りに抜ければ、城壁まで一本道だ。下町から抜け出し、大通りの角を曲がろうとした、その時。
「あれ、薬師様のところの坊ちゃんじゃないか」
ふいに声をかけてきたのは辻に面して店を構える菓子屋の主人だった。祖父が所望したあられ菓子の店だが、主人はどうやら店仕舞の支度をしているようだ。
「そんなに急いでどこへ行くんだ? こんな天気なのに薬の配達かい?」
「あ……はい。城壁の方までちょっと」
祖父のたっての望みとはいえ、今あられを買えば間違いなく湿気ってしまう。それより何より今は人の命がかかった状況だ。軽く会釈だけしてそそくさと離れようとしたスギを、しかし菓子屋の主人は再び呼び止めた。
「城壁? ちょっと待て、今はやめといた方がいい」
軒下から手招かれては無視するわけにもいかない。しぶしぶ近づいたスギを宥めるように肩に手を置いて、主人は雨の向こうを透かし見るように城壁の方角に目を向けた。
「さっき、皇帝軍が城壁の方へ向かっていったんだ」
「え」
「やけに殺気立っていてな。二、三回に分けて六十騎くらいは通ったかな。何かを探している風だったから、あれはおそらく反乱計画か何かがバレたんだろうな」
主人がそう言っている間にも、雨音に蹄鉄の響きが混じり出した。あっという間に近づき黒い影のように疾駆していく騎兵の後ろ姿を見送りながら、スギはタケの追跡を諦めざるを得ないことを悟った。確かにこの雨の中、あれだけぴりぴりした兵士たちがうろついている状態では人探しなど不可能だろう。
肩を落としたスギに、主人が気遣わしげに声を掛ける。
「まぁそう落ち込むなって。ちょっと奥で茶でも飲んで温まって行くといい」
「……ありがとうございます。でもお店は大丈夫なんですか?」
「この天気に加えてああも兵士がうろうろしてるんじゃお客なんて来やしないさ。だから遠慮することはない。ヒバさんにはいつもお世話になってるしな」
そうまで言われては断る理由もない。タケの祖母のことは依然気がかりだったが、今はどうすることもできない。後ろ髪を引かれる思いでスギは菓子屋の門を潜った。今更ながらに体が冷え切っていることに気づく。さっそく奥方の手で出された熱々の茶を頂きながら祖父への土産を包んでもらい、ついでに出された自慢の菓子も勧められるままにつまんでみる。
冷えた体の芯までぽかぽかになった頃、再び外が騒がしくなった。
「今度は何?」
奥方の問いに、主人が席を立って表を確認に行く。ほどなく主人は険しい表情で戻って来た。
「兵隊が行き先を変えたらしい。問屋街の方向だ」
思わず立ち上がったスギの肩を主人が押し留める。
「まだ君の家に向かったと決まったわけじゃない。そっちの方向に行ったというだけだ」
「でも……!」
「どちらにしても今はまだ近づけない。心配なのは分かるがもう少しここにいるんだ」
手の中の椀にはぬるくなった茶が残っていたが、もう飲み干す気など失せていた。隣に座った奥方が元気づけるように肩を抱いてくれる。その腕の中に大人しく包まれながら、その実スギは悔しくて仕方なかった。もし自分がもっと大人だったら雨の中に飛び出して行けただろうに。こんな風に子供扱いされずに済んだだろうに。
ほどなく主人が玄関で声を上げた。
「火事だ!」
もう座ってなどいられなかった。菓子屋の店先を突っ切って通りに飛び出したスギを、今度は主人も止めなかった。彼の方にもスギを呼び止める余裕など残っていなかったからだ。住宅が密集する場所での火災。一刻も早く手を打たないと大火になりかねない。
スギは我が家へ。菓子屋の主人は隣の大工の玄関先へ。雨の帳は幾重にも重なって、息せき切って走るスギの視界を、心を覆いつくしていく。
大通りを走り抜け、近道の小路をいくつも折れて、自宅への最後の角を曲がった瞬間。
スギの目の前に雨粒の塊のような鋼鎧が立ち塞がった。一瞬で身体が火事場の匂いに包み込まれる。家はもうすぐそこに見えている。なのに小路の真ん中に群れる鋼鎧たちが邪魔で近づけない。
雨の匂いに混じるきな臭い匂いの出所は、果たしてスギの家だった。鋼鎧たちはそれぞれの手に松明を握っている。松明に火はついているもののこの雨のせいでうまく燃えないらしく、もうもうと煙だけが酷い。無理矢理に火をかけられたスギの家も、それが最後の抵抗であるかのように炎に抗い、白い煙ばかりをぶすぶすと立ち上らせている。
父は。母は。祖父は。サワラは。
鎧の群へとふらりと足を踏み出しかけた瞬間、背後から乱暴に外套を掴まれた。そのままもと来た角に引きずり込まれ、見知らぬ腕に抱え込まれる。咄嗟に無我夢中で抗って、偶然に相手の顎に頭がぶつかった。
「いてっ、暴れるな。危ないから大人しくしてろ」
そう言った声に聞き覚えがあった。
「タケ、さん……?」
ぎょっとしたように動きを止めて、穀物商下働きの青年はスギを見下ろした。
「何で俺の名前を知ってるんだよ?」
「ご隠居さんたちが教えてくれたからですよ」
「ああ、お前、さっきのガキか」
子供扱いにむっとしながら、しかしそれ以上の怒りを込めてスギはタケを睨み上げた。
「それより、こちらにも訊きたいことがあります」
突然自宅が皇帝軍に囲まれたこと。火をかけられたこと。家族の姿が誰一人見当たらないこと。
これら総ての凶事は、おそらくこの男の行動に端を発している。
「薬は——『狐』はどこですか」
「待て。込み入った話は後にしよう」
スギが精一杯の恫喝を込めた眼差しにも臆した様子はなく、タケは捕まえたままだったスギの身体を抱え直した。
「まずは隠れなければ。こうも軍の奴らがうろうろしていちゃどうしようもない」
嫌だ。まだみんなの無事が確認できていない。
そう思ったが、未だ発達しきっていない四肢ではどんなに力を込めてもタケの手を振りほどくことができなかった。人目を憚るかのようにタケが小路の闇に紛れるのとほぼ同時に、菓子屋をはじめとする近所の消火団の怒号が今更のように氷雨の中に混じり始めた。
皇都、という名前は飾りではない。ここは皇帝の都。——皇帝のための都。
その都で、皇帝にとって不都合な死者が出たとしたら。
「結局皇帝軍が焼け跡の片付けをしたらしいぜ」
「火事場を掘っておろく探しか? ご苦労なことだな」
「というより、その焼けた店そのものを壊して撤去してる感じだな」
「で、全部荷車に積んで草原に埋けちゃうってわけか。ま、いつもの流れだな」
聞くともなしに入ってくる情報。物陰に踞ったスギは、さらに固く身を縮めて耳を塞ぐ。もう何も聞きたくなかった。
タケに連れてこられたこの場所は、どうやら反皇帝勢力の隠れ家のようだった。タケと同年代の若い男たちが何人も頻繁に出入りし、集めた情報を吐き出しては出て行くの繰り返し。
あの悪夢の朝から丸一日。どうやら火事はスギの家一軒だけで済んだらしい。近所の消火団の必死の活動に加え、騒ぎを広めたくない軍が積極的に手助けしたおかげで鎮火も早かったと聞いている。
しかし当のスギの家は延焼を防ぐという名目で打ち壊された。「火事で犠牲になったとみられる」薬師の一家の遺体は今もって捜索中。見つかり次第、伝染病を防ぐため弔いさえ省略されて何処かへ運び出される手筈になっているらしい。
信じたくない。それ以上に、現実感がない。
父の背中も、母の笑顔も、祖父の手の温もりも、サワラの声も。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
そう言った、サワラの表情。自分だって遊びに行きたいのに、雨のせいで行けない。そんな不満がありありとこもった、元気すぎるほど元気ないつもの姉。そんな時間がいつまでも続くと思っていたから、あの時スギは行ってきますも言わずに氷雨の中へ飛び出したのだ。
言うべき相手も、帰るべき家も。もう何もかもないだなど、信じたくない。受け入れたくない。
「だって僕、まだ、ただいまって言ってない……」
溢れ出した涙は、乾ききらない頬の筋を辿って顎から首筋へと流れ落ちる。湿った外套の襟元を不快だとは思わなかった。外套に包まれているはずの自分の身体がすっぽり失くなってしまったような、深い虚無感と喪失感。
強く、強く俯けた視界に、ふいに影が差した。
「よぉ、こんなところに隠れてたのか」
聞き覚えのある声に意識が反応した。ゆるゆると上げた視線の先、鍛え上げた逞しい腕が目に入る。
スギは無言でタケを睨み上げた。この男さえいなければ。無意味と分かっていても、こみ上げてくる憎悪を抑えることはできなかった。
「落ち込んでる暇はないぜ。今日からお前も、晴れてお尋ね者の仲間入りだ」
「どういう、ことですか」
は、と鼻で笑ったタケは薄笑いを浮かべたまましゃがみ込んでスギの顔を覗き込んだ。額がぶつかりそうなほど間近に寄せた瞳はしかし、ひとかけらの好意も宿してはいない。
「畏れ多くも皇帝陛下を弑し奉らんと画策した輩に毒薬を提供した、罪深き薬師一家の唯一の生き残り。それがお前だ」
血が逆流する、という感覚をスギは初めて体感した。衝き上げてくる激情を認識するより早く、拳を目の前の薄笑いに叩き付ける。
「父様はそんなこと絶対にしない」
生命を救うことを誇りにしていた父。危険な薬が濫用されぬよう在庫の管理を怠らなかった祖父。スギ自身も含めた一家の家業が、矜恃が、このような形で冒されようとは。
「いってーな……」
渾身の力を込めて殴りつけたはずのスギの拳。しかしそれはタケの分厚い掌に阻まれて頬には届いていなかった。歯噛みする思いでスギは目の前の頑丈な青年を睨みつける。
「陛下暗殺なんて大罪を企んだのはあなたの方じゃないんですか」
「俺一人じゃねぇぜ。ここに出入りする皆が仲間で、共犯だ」
へらへら笑うタケに煽られて、昂る激情が抑えられない。声が震えるのは恐怖ではなく、御しがたい怒りのせいだった。
「あなたが利用したんでしょう。僕の家族も、あの穀物商のご隠居さんも」
「ああ。あのじいさんとばあさんか。あそこもあの後、兵士たちが来て家ごと打ち壊していったようだな」
人ごとのように嘯くタケを、スギは信じられない気持ちで見遣った。タケを孝行な孫だと褒めていた老夫婦。それを。
「あなたには人の心がないんですか」
「失礼な。俺だって申し訳ないとは思っている。あの人たちは本当に何も知らなかったんだからな。俺に婆さんなんていないってことも」
祖母に与えるという名目で入手した『狐』。スギの父が薬として調合したはずのそれはタケから仲間の手に渡り、そこで皇帝を害するための毒として再度調合し直されたのだろう。
誰にも怪しまれずに毒の原料を手に入れる役目。それがタケの仕事だったのだ。その足がかりとしてたまたま選ばれたのがあの老夫婦であり、薬師ヒバだったということ。
「そうまでして……そこまでして陛下を害したかったというのですか」
皇帝アザミ。スギが生まれる前からこの皇都に君臨している、皇帝領の絶対的な君主。同時に、アオイたち三兄弟の父でもある存在。
そこまで考えたところで、スギは胸を衝かれた。
アオイ。
皇帝弑逆とはつまり、アオイの父を害そうとする画策に他ならない。それにヒバが、スギが関わっていたとどこかから知らされたら。
アオイは、どう思う。
考えたのは乗り越えられるか、ではなかった。アオイの心はキキョウの死ですら屈しなかった。今回もきっと大丈夫。だから。
——信じてほしい。
ヒバの、スギの潔白を。これまで一緒に過ごしてきた時間を、記憶を。友人であり患者でもあるアオイの病状を、巻き込まれたことにせよ自分に端を発する出来事で悪化させたくはなかった。
そしてその思いは自分自身に対しても同様だった。これ以上何も失いたくなどない。
——生きたい。
身の内から湧き上がってきた願いは、スギ自身が驚くほどの力で精神を衝き上げてくる。火をかけられた家を目にして以来千々に乱れていた感情と思考が、そのただ一つの願いを中心に統合され、流れの中に組み込まれていく。
スギは改めて目の前のタケを見据えた。勿論今も怒りはある。恨みもある。だがそれ以上に今のスギには気になることがあった。彼がスギの前にいること。冷静な思考を取り戻したことで気がついた、その意味は。
「僕を連れて、逃げるつもりですね」
「な、何を突然」
明らかにタケはたじろいだ。先ほどまでとは別人のように静かな眼差しで見上げてくるスギに気圧されているのだろう。気味の悪いものを見るような目で身を引き、距離を置こうとする。
「なんなんだよいきなり。急に黙り込んだと思ったら薮から棒にそんなこと」
「でも事実でしょう。そうでなければ僕がここに匿われている意味も、あなたが僕の前に再度顔を出した意味も説明できませんから」
咄嗟に答えを返せずにいるタケに、スギは自分が正解を言い当てたことを悟る。しかし喜ぶ気にはなれない。スギはただ淡々と言葉を続けた。
「僕程度でお尋ね者なら、あなたも当然追われる身のはずです。薬の調達という役割で、僕よりも明確にこの件に関わっているのだから。本来ならとっくに皇都を逃げ出していてもおかしくない。なのにあなたはまだここに留まっていて、あまつさえ僕にちょっかいなんて出している。顔を知られている僕にこれ以上関わっても益などないはずなのに」
こんなにもすらすらと言葉が出てくることに、スギ自身驚いていた。ただただ混乱し悲しんでいた先程はまったく見えていなかった周囲の状況が、皇都の様子が、今ははっきりと感じ取れる。
「おそらく皇帝軍の対応はあなたがたの予想を遥かに超える速さだった。だからあなたは皇都を脱出できず、城壁とは逆方向の問屋街に迷い込んでしまった。そこで生き残った僕を拾ってしまったことはさらに誤算だったはずです」
タケは何とか反駁しようと口をぱくぱくさせている。しかし一言の反論も許さずスギが再度口を開く。言い返せないということは、スギの言葉に誤りがないという証左だ。上辺だけの薄っぺらな嘘でひっくり返せるほど、スギの語る予測は、現実は軽くない。
「あなたは予想外の存在である僕をその場で始末しない程度には優しい人だったから。僕をどうするか、あなたをいかに逃がすか。あなたがたは悩んだはずです。そして今、その結論が出た」
タケは反論を諦めたようだった。見下ろしてくる瞳をしっかりと見返して、スギは挑むように言い放った。
「僕を生かしてくれる決定をしてくれて、ありがとうございます」
「……はっ」
呆れたような、お手上げとでも言いたげな表情でタケは息を吐いた。
「やれやれ、とんでもないガキだ。めそめそしてるだけの奴だったら途中で見捨ててやろうと思ってたのに」
タケはスギへ手を伸ばした。
「お前の考えた通りだ。俺たちはこれから中立地帯へ逃げる。脱落したら死ぬだけだ。必死でついてこい」
頷いてスギは伸べられた手を取った。それが自分を生かすための唯一の道だと分かっていたから、ためらいはなかった。
「よろしくお願いします、タケさん」
のど飴なら、誰にも負けないくらい詳しいんだけどね。
そう苦笑するアオイの容態は、最近落ち着いている。軽い発熱や咳の発作はあるようだが、重篤な症状はスギが知る限り出ていないようだった。献身的なキキョウの看病と屈託ない弟たちの元気さによって気持ちが安定していることが、病状に良い影響を与えていることは明らかだった。
気分次第で少しでも病状が改善されるのならば、自分もアオイのためにできることをしたい。薬師としても、友人としても。
いつもの飴屋の屋台へ声をかける。すっかり顔馴染みになったスギを、子供好きの店主が笑顔で迎えた。苺飴を包んでもらいながら、ふと考える。
このひと、まさか皇太子がここの飴を楽しみにしてるなんて思ってもいなんだろうな。
相変わらず愛想のいい店主に、なんだか悪戯をしている気分だった。
飴の入った紙袋を受け取り、スギが屋台を離れようとした時のことだった。
「おい、聞いたか? 辺境の村が中立地帯の盗賊に襲われたって」
聞くともなしに耳に入った噂話に足を止めたのは何故だろうか。飴売りの屋台のすぐ傍で、男が二人肩を寄せ合うようにして話している。もっとも声をひそめているのは噂を持ってきた方だけで、もう片方はむしろ邪険にしている様子さえ見て取れる。
「そんなの珍しいことじゃないだろ。どこの村のことだよ」
「南の街道筋だよ。ほら、昨日皇宮から応援が出たろ」
「そういや騎兵が何騎か走ってったな」
「あの中に皇妃様がいたらしいぜ」
どくん、と心臓が高鳴った。キキョウが盗賊退治に出た?
「へぇ。そりゃ珍しいがそれが何だってんだ? その後すぐに陛下が正規兵を率いて応援に駆け付けたって聞いたぜ」
「なぁ。おかしいと思わないのか? あの陛下が自らお出ましになられるなんてよ」
「そりゃお前、皇妃様が出られたからじゃないのかよ。女房が先陣切って自分は高みの見物じゃ、いくら鉄面皮の陛下でも恰好がつかんと考えたんだろうさ」
「あの陛下がそんなことで困るタマかよ。真相はもっと別なんだ」
「いい加減にしろよ。お前の講釈なんざどうでもいい、とっとと仕事に——」
「皇妃様が盗賊の手にかかったらしい」
聞き手の沈黙はそのままスギの思考の空白だった。
「おま、いくらなんでもそんな冗談……」
「冗談でこんなこと言えるか。現に陛下の隊もまだ帰ってきていないだろうが。盗賊ごとき、皇帝軍ならあっさり蹴散らせるはずだろう」
「そりゃそうだろうけどよ」
黙って聞いていられたのはそこまでだった。
「その話、本当ですか」
ぎょっと振り向いた二人の視線が空を切り、一拍置いて下げられた。聞き咎められたのが警備兵などではなく子供だったことにあからさまな安堵を浮かべながら、聞き手の男はうるさげに手を追い払う形に振った。
「忘れちまえ、こんな奴の与太話なんざ。どこまで本当だか分かりゃしねぇ」
「いや、本当だぞ」
話し手の男は自信ありげに胸を反らした。
「嘘だと思うなら向こう何日か皇宮を見張ってろ。絶対何かの動きがある」
スギは自分の質問の愚かさを悟った。ここでこの男を問い詰めたところで出てくるのは根拠のない噂話でしかない。そう、真実は実際に出向いて確認すればいいのだ。
身を翻してスギは皇宮へと走り出した。石畳を足裏が蹴るたびに、抱えた袋の中で飴玉がかしゃかしゃと揺れる。
苺飴——みんなで一緒に食べるつもりだったのに。
否、まだ先ほどの話が本当だという証拠はない。行ってみたらきっと何事もなかったかのようにキキョウが迎えてくれる。
そう祈りながら、スギは息せき切って皇宮の門へとたどり着いた。幸い、詰めていたのは顔馴染みの兵だった。スギの顔を見てにこやかに笑いながら、ああいつもの配達だね御苦労さま、などと言いながら道を空けてくれる。
——普段通り。
なんだ、やっぱりいつもと変わらないじゃないか。
安堵して門を潜り、兵に先導されて宮人が待機している内門へ向かう。案内の兵と雑談など交わしながらやって来た奥の宮への入り口。しかし普段通りはそこまでだった。
「あれ、何で誰もいないんだ」
内門の詰め所は空っぽだった。これまでは常に誰かがいて、そこで兵から先導役が引き継がれるという流れだったのだが。
「仕方ないな、ちょっと待っててくれないか。俺はここから先に入れないから、誰か人を呼んでこなければ」
胸騒ぎは一旦治まっていた分、揺り戻しが激しかった。
一介の門番兵にならば、予期せぬ皇妃の不在が伏せられることもあろう。しかし奥の宮に仕える宮人たちには。
「いえ、もう先導なしでも殿下の部屋までは行けますから」
言い捨てて、スギは内門をするりと抜けた。
「あ、お前、勝手に行くな!」
門番の焦り声を背に、スギはうそ寒い廊下を走り出した。もちろん無茶をしているという自覚はある。しかし悠長に案内など待っていられる心持ではなかったし、ましてや今は宮人が案内を拒否する可能性すらある。
待ってなどいられなかった。
勝手知ったる宮をいくつも抜けて、スギは一心にアオイの病室を目指す。途中でもやはり宮人の姿は見かけない。結局誰にも見咎められることなく、スギはアオイの部屋に辿り着いた。
「アオイ、いる?」
アオイ様、と呼んで怒られたのは最初の訪問の時だった。友達なんだから、と膨れられては無理に呼ぶこともできず、それより何よりスギ自身が嬉しかった。以来アオイには敬語を遣わずに接しているが、あれで意外に頭の固い父には未だその事実を伝えられずにいる。
戸口で声をかけても反応がない。仕方なしに相変わらずの本の山をすり抜けて奥へ進む。やはりいつもと違う。キキョウが傍にいれば、この時点でスギの来訪に気付いてくれるはずだ。
アオイはいつもの寝床にいた。珍しく半身を起こして、寝床に座り込んでいる格好だ。どうやら膝に置いた手紙を読んでいるらしい。
「アオイ?」
恐る恐る声をかける。アオイがぎくりと顔を上げた。声の主を探すように視線をさまよわせ、部屋を一巡りしてようやくスギの姿を認める。
切実な期待を帯びた張りつめた目線に、声の主をスギだと正しく認識した色が混じる。一拍の後それは底知れない悲哀を帯びて、ゆっくりと膝の手紙へと戻された。
「……が、欲しい」
「え?」
掠れたアオイの声に重なるように、窓辺でばさりと影が動いた。鋭い啼き声は猛禽のもの、とするとこの手紙を運んできたのはこの鷲だろうか。
鷲が運ぶ手紙は戦場からのものと相場が決まっている。一気に冷えたスギの心は、アオイの抑揚を欠いた掠れ声でついに凍りついた。
「私にもっと力があったなら、母上をお守りできたのに。私に大切なものを守れる力があったなら」
不意にアオイの瞳から涙が零れ落ちた。俯けた顔、落ちた雫は拳に、布団に、そしておそらくは悲報を伝える手紙に点々と落ちていく。
「力が、欲しい……!」
知らず握り締めた外套から紅い粒が零れ落ちる。床に、本の山に散らばる苺飴を拾うこともできず、言葉もなくスギはただ立ち尽くしていた。その背中に、ようやく駆け付けてきた宮人の足音が追いついてきた。
春が過ぎ、夏が来て、秋も駆け去った。そして迎えた冬。草原の真ん中で風雪に晒される皇都のそれは長く厳しい。
氷の気配を帯びた北風に、スギは思わず首をすくめた。数日前に年を越したばかりの今朝、皇都は殊に気温が下がっていた。既に太陽は頭上高く昇っているものの、一向に寒気は緩まる気配がない。
幾人かの患者の顔が頭をよぎる。急な寒さで体調を崩していないか。病状は悪くなっていないか。市場裏の喘息のおじいさん。肝臓が悪い大工町の親方。脚が不自由な城壁横のお姉さん。
皇宮への配達が終わったら顔だけでも見に行こうか。そう自然に考えることができるだけ、スギも随分と仕事に馴染んでいた。
薬師の外套に腕を通してもうすぐ一年。相変わらず仕事はおつかいばかりだったが、北風を受けて無意識にかき合わせた外套の隠しには薬種や調合済の薬が幾つか入っている。いずれも基本的な痛み止めや傷薬などだが、それらはスギの判断で処方することを許されている薬だ。常時持ち歩ける薬が増えることは薬師としての成長が父にも認められているということでもある。確かな手応えを感じ始めている今、スギは何より仕事が楽しかった。
本好きなアオイの影響で、最近はスギも仕事に関わる文献に積極的に目を通すようになっていた。父は自分の書物を出し渋ることはなかったし、難しい用語や解釈については解説してくれることもあった。おかげで患者から薬の効能や処方の意味を問われた際も、きちんと自分の言葉で説明できるようになっている。大抵の患者はまだ少年の域を出ないスギの淀みない解説に舌を巻くが、中にはさらに詳しい説明を求める者もいた。
他でもない、アオイがその代表格だ。
キキョウを亡くした直後、スギはアオイの病状が悪化するのではないかと危ぶんだ。だが少なくとも表面上はアオイの体調が崩れることはなかった。幼い弟たちを支えて父帝の傍らで葬祭に臨む姿は本当にあの病身の皇太子かと思うほど毅然としたもので、堂々とした威厳さえ感じられるものだった。
——力が欲しい。
その望みはアオイの中で明確な形を成しつつあるのだろうか。キキョウがいなくなってから、アオイは以前にも増して知識を求めるようになった。それは歴史や地理、経済といった国を統べるための通り一遍のものには留まらず、例えば皇都で今流行している出来事だったり、中立地帯の人々の暮らしぶりといった書物では入手できない情報の類も含まれるようになっていた。
今、スギは外套の下にいつもの薬袋の他に父から借り受けた薬草の絵草紙を抱えている。あの日以降、訪問時の手土産は飴玉から薬学の知識と皇都の噂話へと変わっていた。
自分に処方されている薬はどういったものからできているのか。
どこから来た材料を用い、どういう意図でそれを処方に加えているのか。
アオイにとっては自らの生命に直結する情報であると同時に、使い方次第では貴重な武器にもなりうる知識だ。薬種は匙加減ひとつで毒にも薬にもなる。アオイが欲したのはその境界線の知識だった。
勿論駆け出しのスギが不用意に答えられるような質問ではない。だから最近は薬の配達のついでに父の書斎から持ち出した書物を広げては額を突き合わせて眺め、今回処方された薬について二人で学ぶ。前回、前々回の処方との違いを比べ、足りない知識はアオイの部屋にある文献をひっくり返したり、スギの次の訪問までに調べて結果を報告し合う。スギの説明能力が大人の患者たちから一目置かれるほどに上がったのも、この勉強会があったからこそのものだった。
「前回より『鹿』の割合が減ってるね。最近発作が少ないからかな?」
「うん、ああいう強すぎる薬は却って身体に負担がかかるから。代わりに甘草が多めに配合されてる。大発作を抑えるより普段の咳を緩和する目的の処方だね」
「ああ、それじゃ今月の薬は甘いんだね」
生薬の配合を記した処方箋から顔を上げて、アオイは苦笑する。
「甘草の甘さって、薬臭くてあんまり好きじゃないんだけどな」
「竜胆が多いよりましだよ、きっと」
「ああ。それは嫌だな。ものすごく苦そうだ」
処方箋の分析に一通り満足したら、次にスギが持ち込んだ薬草の絵草紙を覗き込む。詳細な素描と簡潔な説明文をひとつひとつなぞりながら、薬効と使用法を確認していく。
「こうしてみると生薬って動物の名前がついたものが多いね」
「何かに似てると思って名前をつけた方が昔の人も覚えやすかったのかも」
薬効と併記されている副作用や過剰摂取時の症状、その対処法。絵草紙ひとつ取っても学ぶことはたくさんあり、調べる事柄はそれ以上に膨大だった。部屋に積んだ無数の書籍を次々にひっくり返しながら、二人は時間を忘れて知識を貪った。
「僕はね、もっともっと色んなことを知りたいんだ。知識は力になる。知らなければ何もできない。何も、遺せない」
アオイがぽつりと呟いた。顔を上げたスギの方は見ようとはしないまま、静かに頁を繰り続ける。
「薬学だけじゃない。歴史や、地理や、政治学のような父上が教えてくれる皇太子の勉強でもまだ足りない。僕はこの国のすべてを、可能な限り知りたいんだ」
「わかってる。だから僕が都で聞いた話を教えてるじゃないか」
「そうだね。だけど、皇都だけがこの国のすべてじゃない」
アオイの手が止まった。視線を落としたその先には、山岳地帯に生えるという薬草の挿絵。
「山岳地帯の村では普段どういうものを食べている? 中立地帯の人々の一日の暮らしは? 王都の国王は領民たちにどう思われている? ——知りたいことが多すぎて、どうしていいかわからない」
行きたいのだ。自分の目で、自分の耳で、自分が生きている世界を知るために。
スギはアオイの望みを理解した。同時にそれが叶わないであろうという諦めと悔しさ、もどかしさをも。
皇帝領の外へ行くどころかこの部屋から出ることさえごく稀。やむを得ず外出した後は必ず発熱に見舞われる。こんなに手厚い治療を施してさえこうなのだ。好奇心を、知識欲を満たすための旅など夢のまた夢。
そんなアオイにとって、これから自分が発する言葉は酷かもしれない。けれど。
「いつか行けばいいよ。その時までに僕が君を治すから」
自信などない。けれどそれは紛れもなく希望だった。スギだけでなく、アオイの心をも救える、未来への願い。
「時間はかかるかもしれない。けれどいつか僕がこの国中を廻って、君の病気だって治せる薬を作る。もちろん旅の土産話は全部君に聞かせるよ」
ようやく顔を上げたアオイの視線を捕まえて、スギは笑いかけた。
「だから諦めないで。自分の望みだろ?」
「……そうだね」
微かに笑って、アオイは頷いた。
「誰だって『いつか』を信じることはできる。きっと僕にも、それくらいは許されてる」
ありがとう、という小さな声がスギの耳に届くと同時に、廊下がばたばたと騒がしくなった。
「さむいさむいさむいよー! 兄上様、ただいま帰りましたー!」
「あんまり寒いとか言うな、余計寒くなる! 兄上ー、お客さんを連れて来たぞー」
振り向いた先、部屋の入り口から覗く三つの顔を認めてアオイは頬を綻ばせた。二つは最早見慣れたアオイの弟たち、しかし馴染みのないもう一つの褐色の顔は——
「おや、アサザの好敵手じゃないか」
「ちょ、兄上! 好敵手なんかじゃないですよ! 俺の方が断然——」
「弱いですもんね?」
口を挟んだアカネの頭をすかさずアサザが叩く。どう反応していいのか戸惑っているスギとブドウを、アオイがくすくす笑いながら手招いた。
「スギ、ブドウ、こっちに来て。改めて紹介するから」
本の山の中をおっかなびっくり進んでくるブドウと仲良く騒がしい兄弟、それらを見守るアオイ。
——つまるところ笑顔が一番の薬だ。
そんなことを思いながら、スギもまた自然と頬に笑みを浮かべていた。
「え、あのカッコいい女の子と話したの!?」
サワラの丸い目がさらに丸くなった。次の瞬間、スギの胸ぐらは乱暴に掴まれて、がくがくと盛大に揺さぶられる。
「ちょ、やだ、なんでスギばっかり……!」
「そう言われても、仕事の成り行きで何となくとしか」
「ずるい! じゃあ今度私も皇宮についてく!」
「無茶言わないでよ」
心底困り果てたスギを救ったのは、父のこの上なく冷静な声だった。
「サワラ、暴れるなら箸を置いてからにしなさい」
みるみるしゅんとなったサワラが自分の膳に向き直るのを確認して、スギはほっと息を吐いた。いつもの夕餉の風景だ。間髪入れずに母がスギの膳におかわりの椀を置く。ちょうど伸び盛りに差し掛かる年頃だ。最近とみに食べる量が増えている。
有り難く椀を手に取りながら、ふとスギは思いついたことを口にする。
「そういえばサワラは皇子たちには興味ないの?」
女の子なら誰もが白馬の皇子様に憧れるのではないか。そんな独創性のかけらもない発想に、さっき会ったばかりの実際の皇子たちの顔が重なる。
——うん、みんな白馬の皇子様って柄じゃないな。
「興味ない。直に見たこともないし。あの戦士の女の子の方が断然いい」
サワラの返答は至って単純で迷いがなかった。思わず苦笑するスギに、また新たな疑問が湧き起こる。
「女の子の方がいいの?」
「何よ、文句ある? てんでガキで泥まみれの男共よりあの子の方が綺麗で凛々しくてカッコいいじゃない」
「……そういうものなの?」
近所の悪童どもの顔が次々と浮かんでは消える。確かにどれも、小綺麗とは言いがたい。
スギの失礼な空想に横から口を挟んだのは母だった。
「いいじゃないのスギ。女の子にはそういう時期があるのよ」
「女の子に憧れる時期が?」
「格好いい女性に憧れる時期が、よ」
「さすが母さま、分かってる!」
手を叩いて喜ぶサワラをやれやれと見遣り、スギは自分の膳へと向き直った。中断していた食事はまだ半分ほど残っている。冷めないうちに、と急いで片付け始めたスギの耳に、聞くともなしに父と祖父の会話が流れ込んでくる。
「ヒバよ。先程また『狐』が入ってきたんじゃが……最近多すぎではないか?」
「どうしても投薬を切れない患者がいる」
ぎろり、と祖父はヒバの顔を覗き込む。
「……身元は確かか?」
「下町の穀物商の隠居だ」
「ふむ、確かにあそこは心の臓が弱い家系だの」
祖父はしばらく中空を睨んでいたが、やがて仕方がないという風に頷いた。
「ならば仕方ないか。だが、わかっておろうがあれは濫用厳禁じゃぞ。身元のはっきりしない者にも渡してはならぬ」
「ああ。あれは薬というより毒だからな」
どんな形の薬種だっただろうか。記憶を探ってみるがすぐには出てこない。二人の口ぶりでは常に在庫しているものではないのだろう。先日仕入れたという分はまだ残っているのだろうか。
箸を置いて席を立つ。薬種蔵に向かおうとしたスギを父が呼び止めた。
「そっちにはない。診察部屋に置いてある」
『狐』のことだ、とすぐに察して、スギは父の後を追いかける。いつもの仕事場のすっかり暮れた闇の中、父は素早く手灯に火を入れて隅の板の間へと歩を進めていた。スギが追いついたのを見計らって、作業台から一束の干草を取り上げる。
「これが……」
渡されたそれはかさかさとした質感の葉だった。火に透かすと灰色を帯びたくすんだ緑色が目に入る。鼻を近づけても特に独特の香りはない。おそらく磨り潰して粉状にするか、煎じて服む種類の薬なのだろう。
「強心、利尿作用に優れた薬種だ。ただし用量を間違えると重篤な中毒症状を起こす」
「中毒?」
「患者が死ぬ」
びくりとスギが顔を上げる。父はしっかりとその目を見下ろしてきた。
「少し苦みが強いが、使い方を間違わなければ良薬だ。この薬に救われてきた患者もまた多い」
差し出された大きな手に、スギは黙って草の束を返した。まだまだ半人前のお前に扱える薬ではない、そう言われたようで悔しかった。そんなスギの内心を察してか、父は少しだけ目元を和ませてぽんと肩に手を置いた。
「そのうち改めて扱い方を教えてやる」
「……はい」
「明日はこれで作った薬を届けてもらう。薬種の入荷が間に合わなくて診察の時に不足していた分だ。患者の状態は診たばかりだが急変が心配だ。いつも通り、しっかり観察してくるように」
「はい」
スギはしっかりと頷いた。まだ薬の調合は任せられなくとも、患者の状態を診ることに関しては信頼されている。
いつか父の知識のすべてを教えられるその日まで、できることを一つ一つ積み上げていこう。
診察部屋の寒気が、今更ながらに頬を撫でて闇へと溶けていった。
翌朝は陽が昇る前から雨になった。寒気は相変わらず居座っている。雨には細かな氷が混じり、ただでさえ寒々しい皇都の石畳に突き刺さっては崩れ、冷たい水となって人々の足元を濡らしていた。
「こんな日に配達なんて、大変だね」
「大変でも行かなくちゃ。患者さんが待ってるし」
身支度を整える手を休めないまま、スギは横目で姉を見遣った。サワラはいたって普段通りの部屋着姿で、茶の間の火鉢の一角を占拠して寛いでいる。今日のような天気ではさすがのおてんばも遊びに出る気を失くしたらしい。
心中で小さくため息を吐いたスギの背中に声をかけたのは、孫娘の差し向かいで火鉢に当たっていた祖父だった。
「スギ、今日は下町へ行くのじゃろ。角の菓子屋であられを買って来い」
遣い走りかとますます肩を落としたスギに、祖父は硬貨を投げて寄越した。あられ代にしては随分多い額だ。
「釣りは返さんでも良い。帰りに何か温かいものでも食え」
「ちょ、じいさまずるい!」
「ほ、ではおぬしが行くか? 別にわしはどちらが買ってきてくれても構わんのだが」
「……今日は絶対やだ」
「だったら文句は言わんことじゃ」
祖父の好意に小さく頭を下げて、スギは身支度に戻る。薬種は乾燥させて用いるものがほとんどだから湿気には弱い。今日届ける薬、外套に仕込んだ薬、そのいずれも濡れないよう細心の注意を払って隠しの中に振り分けていく。
母が雨合羽を着せかけてくれる。水を弾く加工をしてあるそれは黒く光沢があってつるつるしている。有り難いと思う反面、妙にくすぐったくてわざと乱暴に身につけていく。
「自分でできるよ。もう子供じゃないんだし」
「あらそう? それは失礼しました」
母はスギの頭をぽんと叩いて離れていった。結局子供扱いしてるんじゃないかと頬を膨らませたスギに、奥からのっそり顔を出した父がとどめの一言を放った。
「転ぶなよ」
「分かってます!」
足音荒く玄関に向かうスギの背中に、能天気なサワラの声が掛けられる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
わざと返事をしないまま、スギは合羽を頭深く被り込んだ。家の板戸を出た瞬間、凍り付くような寒さと突き刺さるような氷雨が容赦なく叩き付けてくる。
スギの父は薬師だが、家業そのものは代々続く薬種問屋だ。ゆえに店舗と診療所を兼ねた住居は皇都の問屋街の中にある。スギは問屋街を出て大通りに入り、下町方面へ向けて辿った。さすがにこんな天気では道を歩く人影もまばらだった。ほとんど無人の大通りを、スギは足早に歩いていく。
途中、数人の兵士とすれ違った。鎧と鞘が触れ合う細かな金属音が、氷雨の帳越しにやけに大きく響いてくる。
——兵隊さんはこんな日にも見回りをしているのか。
大変だなぁ。そう思ってちらりと彼らの様子を窺う。こんな日に仕事で外出しているという親近感からだったが、すぐにスギは彼らから目を逸らした。
——なんだろう、すごくぴりぴりしてる。
反射的に思い出したのはキキョウが亡くなった時のことだった。慌てて首を振る。縁起でもない、と芽生えかけた黒い予感を振り払うようにスギは足を早めて患者の家へ向かった。
こんな天気だから不吉な方へ考えてしまうんだ。急いで仕事を終わらせて、茶の間でサワラとあられをつまみながら火鉢に当たってごろごろしていよう。
目当ての穀物商の扉を叩く頃には、もう早く帰ることしかスギの頭にはなかった。店舗の裏口と自宅の玄関を兼ねた目立たない入り口だが、しかしいくら呼んでも返事がない。雨音に紛れて聞こえないのだろうか、とさらにスギが声を張り上げようとした時だった。
扉が内側から開かれた。隙間からするりと抜け出てきた人影が、スギにぶつかりかけてぎょっと身を引く。
「あの……お届けものに上がりました」
「届け物?」
商いの下働きだろうか。若く屈強なその男は怪訝そうにスギを見下ろした。こういう時、薬師の外套が合羽で隠れてしまっているのは不便だ。
「薬師ヒバの遣いです。昨日の診察でお渡しできなかった分の薬をお持ちしました」
「……ああ」
幸い若者はすぐに思い当たってくれたようだった。
「それはご苦労様。俺はすぐ出かけなきゃならんから案内はできないが、中に入って声を掛ければすぐに大奥様が気づいてくれるはずだ」
示された入り口を、礼を述べたスギがくぐり抜けるのと入れ替わりに若者が外に出る。スギと同様に合羽の襟をしっかりと合わせ、懐の包みが濡れないようしっかりと胸に抱き込んでいる。
この人もどこかへお遣いに行くのかな。
スギの想像などまったくお構いなしに若者は一気に氷雨の中に駆け出して、あっという間に見えなくなってしまった。その背中を何とはなしに見送って、スギは改めて家中に声をかける。ようやく来訪に気づいて出てきてくれた老婆に来意を告げ、玄関で合羽を脱ぎ、患者の部屋まで案内してもらうまでは順調だった。だが。
患者の顔を一目見た瞬間、スギは唖然とした。すぐに傍に歩み寄り診察を始める。顔色が悪い。意識に問題はないようだが、浅い呼吸と倦怠感が表情に滲んでいる。『狐』は過去にも何度か処方されているはずだ。きちんと用量を守って服用していれば、こんなに状態が悪くはなったりしないはず。急変が心配だと言っていた昨夜の父の言葉が頭をよぎる。一体何が原因で悪化した?
「おじいさん、薬はちゃんと服んでいますか?」
「薬?」
「そうです。薬師からもらった薬があったでしょう。ほら、こういうのですよ」
スギは懐の奥から『狐』を取り出した。父の手できちんと加工されたそれは、昨夜のような葉の形ではなく薬包紙に包まれた灰緑色の粉末に姿を変えている。老人の茫洋とした瞳がそれを捉え、口がもごもごと動く。
「服んどらん」
「……は?」
「その薬は苦い。わしゃ苦いのは嫌いじゃ」
予想外の答えにスギの思考は真っ白になった。絶句しているスギにはお構いなしに、老人は聞き取りづらい不明瞭な声でもぐもぐとしゃべり続ける。
「偉い薬師様から出た薬っちゅうことでいっぺんは有り難く服んでみたが、苦くて苦くてとてもじゃないが喉を通らん。閉口しておったら傍におったタケが自分の婆様も心臓が悪いからこの薬を譲ってほしいと言い出してのう」
「タケ?」
「使用人の若いのだよ。さっきどこかに行くって言って出かけてったけどねぇ」
あの若者だ。老婆の説明に頷きながら、スギは患者に向き直る。
「つまり薬は服まずに別の人に渡していたと、そういうことですね」
老婆がもごもごと言い訳めいた言葉を呟いたが、スギは構わず質問を続けた。
「この薬は以前にも何度か出ていたはずです。それも全部、タケさんに渡してしまったのですか?」
——薬というより毒だからな。
昨夜の父の言葉が頭の中で渦を巻く。体格や症状、他の薬との飲み合わせ、すべてがこの老人に合わせて処方された薬だ。たとえ同じような症状だとしても、他人にそっくり同じ効果が期待できるとは限らない。ましてや匙加減ひとつで毒にも薬にもなる成分を含む代物だ。下手をするとタケの祖母の命が危ない。
「タケさんはどこへ?」
「おそらく婆様のところへ行ったのじゃろう」
おろおろするばかりの老婆に代わって、患者がもぐもぐと呟いた。
「さっき薬師様から出た薬を全部くれてやったら、すぐに婆様に持って行くと言っておった。まったく孝行な孫じゃて」
——その孝行な孫が人殺しになるかもしれないんですよ。
舌打ちをこらえてスギは立ち上がった。老婆に詳しい場所を確認し、懐から取り出した『狐』を半ば強引に皺だらけの手に押し付ける。
「苦くて嫌がっても、必ずおじいさんに服ませてあげてください。苦しさが今より減るはずです。いいですね」
老婆の返事を待たず、スギは玄関へ取って返した。慣れぬ手つきで合羽を着込み、雨の中へ飛び出す。タケの居所は城壁近くの住宅密集地らしい。ひとまず城門を目指して足早に歩き始める。
篠突く雨が針のように降り注いでいた。氷のような水滴が下町の風景の輪郭までも滲ませている。
大通りに抜ければ、城壁まで一本道だ。下町から抜け出し、大通りの角を曲がろうとした、その時。
「あれ、薬師様のところの坊ちゃんじゃないか」
ふいに声をかけてきたのは辻に面して店を構える菓子屋の主人だった。祖父が所望したあられ菓子の店だが、主人はどうやら店仕舞の支度をしているようだ。
「そんなに急いでどこへ行くんだ? こんな天気なのに薬の配達かい?」
「あ……はい。城壁の方までちょっと」
祖父のたっての望みとはいえ、今あられを買えば間違いなく湿気ってしまう。それより何より今は人の命がかかった状況だ。軽く会釈だけしてそそくさと離れようとしたスギを、しかし菓子屋の主人は再び呼び止めた。
「城壁? ちょっと待て、今はやめといた方がいい」
軒下から手招かれては無視するわけにもいかない。しぶしぶ近づいたスギを宥めるように肩に手を置いて、主人は雨の向こうを透かし見るように城壁の方角に目を向けた。
「さっき、皇帝軍が城壁の方へ向かっていったんだ」
「え」
「やけに殺気立っていてな。二、三回に分けて六十騎くらいは通ったかな。何かを探している風だったから、あれはおそらく反乱計画か何かがバレたんだろうな」
主人がそう言っている間にも、雨音に蹄鉄の響きが混じり出した。あっという間に近づき黒い影のように疾駆していく騎兵の後ろ姿を見送りながら、スギはタケの追跡を諦めざるを得ないことを悟った。確かにこの雨の中、あれだけぴりぴりした兵士たちがうろついている状態では人探しなど不可能だろう。
肩を落としたスギに、主人が気遣わしげに声を掛ける。
「まぁそう落ち込むなって。ちょっと奥で茶でも飲んで温まって行くといい」
「……ありがとうございます。でもお店は大丈夫なんですか?」
「この天気に加えてああも兵士がうろうろしてるんじゃお客なんて来やしないさ。だから遠慮することはない。ヒバさんにはいつもお世話になってるしな」
そうまで言われては断る理由もない。タケの祖母のことは依然気がかりだったが、今はどうすることもできない。後ろ髪を引かれる思いでスギは菓子屋の門を潜った。今更ながらに体が冷え切っていることに気づく。さっそく奥方の手で出された熱々の茶を頂きながら祖父への土産を包んでもらい、ついでに出された自慢の菓子も勧められるままにつまんでみる。
冷えた体の芯までぽかぽかになった頃、再び外が騒がしくなった。
「今度は何?」
奥方の問いに、主人が席を立って表を確認に行く。ほどなく主人は険しい表情で戻って来た。
「兵隊が行き先を変えたらしい。問屋街の方向だ」
思わず立ち上がったスギの肩を主人が押し留める。
「まだ君の家に向かったと決まったわけじゃない。そっちの方向に行ったというだけだ」
「でも……!」
「どちらにしても今はまだ近づけない。心配なのは分かるがもう少しここにいるんだ」
手の中の椀にはぬるくなった茶が残っていたが、もう飲み干す気など失せていた。隣に座った奥方が元気づけるように肩を抱いてくれる。その腕の中に大人しく包まれながら、その実スギは悔しくて仕方なかった。もし自分がもっと大人だったら雨の中に飛び出して行けただろうに。こんな風に子供扱いされずに済んだだろうに。
ほどなく主人が玄関で声を上げた。
「火事だ!」
もう座ってなどいられなかった。菓子屋の店先を突っ切って通りに飛び出したスギを、今度は主人も止めなかった。彼の方にもスギを呼び止める余裕など残っていなかったからだ。住宅が密集する場所での火災。一刻も早く手を打たないと大火になりかねない。
スギは我が家へ。菓子屋の主人は隣の大工の玄関先へ。雨の帳は幾重にも重なって、息せき切って走るスギの視界を、心を覆いつくしていく。
大通りを走り抜け、近道の小路をいくつも折れて、自宅への最後の角を曲がった瞬間。
スギの目の前に雨粒の塊のような鋼鎧が立ち塞がった。一瞬で身体が火事場の匂いに包み込まれる。家はもうすぐそこに見えている。なのに小路の真ん中に群れる鋼鎧たちが邪魔で近づけない。
雨の匂いに混じるきな臭い匂いの出所は、果たしてスギの家だった。鋼鎧たちはそれぞれの手に松明を握っている。松明に火はついているもののこの雨のせいでうまく燃えないらしく、もうもうと煙だけが酷い。無理矢理に火をかけられたスギの家も、それが最後の抵抗であるかのように炎に抗い、白い煙ばかりをぶすぶすと立ち上らせている。
父は。母は。祖父は。サワラは。
鎧の群へとふらりと足を踏み出しかけた瞬間、背後から乱暴に外套を掴まれた。そのままもと来た角に引きずり込まれ、見知らぬ腕に抱え込まれる。咄嗟に無我夢中で抗って、偶然に相手の顎に頭がぶつかった。
「いてっ、暴れるな。危ないから大人しくしてろ」
そう言った声に聞き覚えがあった。
「タケ、さん……?」
ぎょっとしたように動きを止めて、穀物商下働きの青年はスギを見下ろした。
「何で俺の名前を知ってるんだよ?」
「ご隠居さんたちが教えてくれたからですよ」
「ああ、お前、さっきのガキか」
子供扱いにむっとしながら、しかしそれ以上の怒りを込めてスギはタケを睨み上げた。
「それより、こちらにも訊きたいことがあります」
突然自宅が皇帝軍に囲まれたこと。火をかけられたこと。家族の姿が誰一人見当たらないこと。
これら総ての凶事は、おそらくこの男の行動に端を発している。
「薬は——『狐』はどこですか」
「待て。込み入った話は後にしよう」
スギが精一杯の恫喝を込めた眼差しにも臆した様子はなく、タケは捕まえたままだったスギの身体を抱え直した。
「まずは隠れなければ。こうも軍の奴らがうろうろしていちゃどうしようもない」
嫌だ。まだみんなの無事が確認できていない。
そう思ったが、未だ発達しきっていない四肢ではどんなに力を込めてもタケの手を振りほどくことができなかった。人目を憚るかのようにタケが小路の闇に紛れるのとほぼ同時に、菓子屋をはじめとする近所の消火団の怒号が今更のように氷雨の中に混じり始めた。
皇都、という名前は飾りではない。ここは皇帝の都。——皇帝のための都。
その都で、皇帝にとって不都合な死者が出たとしたら。
「結局皇帝軍が焼け跡の片付けをしたらしいぜ」
「火事場を掘っておろく探しか? ご苦労なことだな」
「というより、その焼けた店そのものを壊して撤去してる感じだな」
「で、全部荷車に積んで草原に埋けちゃうってわけか。ま、いつもの流れだな」
聞くともなしに入ってくる情報。物陰に踞ったスギは、さらに固く身を縮めて耳を塞ぐ。もう何も聞きたくなかった。
タケに連れてこられたこの場所は、どうやら反皇帝勢力の隠れ家のようだった。タケと同年代の若い男たちが何人も頻繁に出入りし、集めた情報を吐き出しては出て行くの繰り返し。
あの悪夢の朝から丸一日。どうやら火事はスギの家一軒だけで済んだらしい。近所の消火団の必死の活動に加え、騒ぎを広めたくない軍が積極的に手助けしたおかげで鎮火も早かったと聞いている。
しかし当のスギの家は延焼を防ぐという名目で打ち壊された。「火事で犠牲になったとみられる」薬師の一家の遺体は今もって捜索中。見つかり次第、伝染病を防ぐため弔いさえ省略されて何処かへ運び出される手筈になっているらしい。
信じたくない。それ以上に、現実感がない。
父の背中も、母の笑顔も、祖父の手の温もりも、サワラの声も。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
そう言った、サワラの表情。自分だって遊びに行きたいのに、雨のせいで行けない。そんな不満がありありとこもった、元気すぎるほど元気ないつもの姉。そんな時間がいつまでも続くと思っていたから、あの時スギは行ってきますも言わずに氷雨の中へ飛び出したのだ。
言うべき相手も、帰るべき家も。もう何もかもないだなど、信じたくない。受け入れたくない。
「だって僕、まだ、ただいまって言ってない……」
溢れ出した涙は、乾ききらない頬の筋を辿って顎から首筋へと流れ落ちる。湿った外套の襟元を不快だとは思わなかった。外套に包まれているはずの自分の身体がすっぽり失くなってしまったような、深い虚無感と喪失感。
強く、強く俯けた視界に、ふいに影が差した。
「よぉ、こんなところに隠れてたのか」
聞き覚えのある声に意識が反応した。ゆるゆると上げた視線の先、鍛え上げた逞しい腕が目に入る。
スギは無言でタケを睨み上げた。この男さえいなければ。無意味と分かっていても、こみ上げてくる憎悪を抑えることはできなかった。
「落ち込んでる暇はないぜ。今日からお前も、晴れてお尋ね者の仲間入りだ」
「どういう、ことですか」
は、と鼻で笑ったタケは薄笑いを浮かべたまましゃがみ込んでスギの顔を覗き込んだ。額がぶつかりそうなほど間近に寄せた瞳はしかし、ひとかけらの好意も宿してはいない。
「畏れ多くも皇帝陛下を弑し奉らんと画策した輩に毒薬を提供した、罪深き薬師一家の唯一の生き残り。それがお前だ」
血が逆流する、という感覚をスギは初めて体感した。衝き上げてくる激情を認識するより早く、拳を目の前の薄笑いに叩き付ける。
「父様はそんなこと絶対にしない」
生命を救うことを誇りにしていた父。危険な薬が濫用されぬよう在庫の管理を怠らなかった祖父。スギ自身も含めた一家の家業が、矜恃が、このような形で冒されようとは。
「いってーな……」
渾身の力を込めて殴りつけたはずのスギの拳。しかしそれはタケの分厚い掌に阻まれて頬には届いていなかった。歯噛みする思いでスギは目の前の頑丈な青年を睨みつける。
「陛下暗殺なんて大罪を企んだのはあなたの方じゃないんですか」
「俺一人じゃねぇぜ。ここに出入りする皆が仲間で、共犯だ」
へらへら笑うタケに煽られて、昂る激情が抑えられない。声が震えるのは恐怖ではなく、御しがたい怒りのせいだった。
「あなたが利用したんでしょう。僕の家族も、あの穀物商のご隠居さんも」
「ああ。あのじいさんとばあさんか。あそこもあの後、兵士たちが来て家ごと打ち壊していったようだな」
人ごとのように嘯くタケを、スギは信じられない気持ちで見遣った。タケを孝行な孫だと褒めていた老夫婦。それを。
「あなたには人の心がないんですか」
「失礼な。俺だって申し訳ないとは思っている。あの人たちは本当に何も知らなかったんだからな。俺に婆さんなんていないってことも」
祖母に与えるという名目で入手した『狐』。スギの父が薬として調合したはずのそれはタケから仲間の手に渡り、そこで皇帝を害するための毒として再度調合し直されたのだろう。
誰にも怪しまれずに毒の原料を手に入れる役目。それがタケの仕事だったのだ。その足がかりとしてたまたま選ばれたのがあの老夫婦であり、薬師ヒバだったということ。
「そうまでして……そこまでして陛下を害したかったというのですか」
皇帝アザミ。スギが生まれる前からこの皇都に君臨している、皇帝領の絶対的な君主。同時に、アオイたち三兄弟の父でもある存在。
そこまで考えたところで、スギは胸を衝かれた。
アオイ。
皇帝弑逆とはつまり、アオイの父を害そうとする画策に他ならない。それにヒバが、スギが関わっていたとどこかから知らされたら。
アオイは、どう思う。
考えたのは乗り越えられるか、ではなかった。アオイの心はキキョウの死ですら屈しなかった。今回もきっと大丈夫。だから。
——信じてほしい。
ヒバの、スギの潔白を。これまで一緒に過ごしてきた時間を、記憶を。友人であり患者でもあるアオイの病状を、巻き込まれたことにせよ自分に端を発する出来事で悪化させたくはなかった。
そしてその思いは自分自身に対しても同様だった。これ以上何も失いたくなどない。
——生きたい。
身の内から湧き上がってきた願いは、スギ自身が驚くほどの力で精神を衝き上げてくる。火をかけられた家を目にして以来千々に乱れていた感情と思考が、そのただ一つの願いを中心に統合され、流れの中に組み込まれていく。
スギは改めて目の前のタケを見据えた。勿論今も怒りはある。恨みもある。だがそれ以上に今のスギには気になることがあった。彼がスギの前にいること。冷静な思考を取り戻したことで気がついた、その意味は。
「僕を連れて、逃げるつもりですね」
「な、何を突然」
明らかにタケはたじろいだ。先ほどまでとは別人のように静かな眼差しで見上げてくるスギに気圧されているのだろう。気味の悪いものを見るような目で身を引き、距離を置こうとする。
「なんなんだよいきなり。急に黙り込んだと思ったら薮から棒にそんなこと」
「でも事実でしょう。そうでなければ僕がここに匿われている意味も、あなたが僕の前に再度顔を出した意味も説明できませんから」
咄嗟に答えを返せずにいるタケに、スギは自分が正解を言い当てたことを悟る。しかし喜ぶ気にはなれない。スギはただ淡々と言葉を続けた。
「僕程度でお尋ね者なら、あなたも当然追われる身のはずです。薬の調達という役割で、僕よりも明確にこの件に関わっているのだから。本来ならとっくに皇都を逃げ出していてもおかしくない。なのにあなたはまだここに留まっていて、あまつさえ僕にちょっかいなんて出している。顔を知られている僕にこれ以上関わっても益などないはずなのに」
こんなにもすらすらと言葉が出てくることに、スギ自身驚いていた。ただただ混乱し悲しんでいた先程はまったく見えていなかった周囲の状況が、皇都の様子が、今ははっきりと感じ取れる。
「おそらく皇帝軍の対応はあなたがたの予想を遥かに超える速さだった。だからあなたは皇都を脱出できず、城壁とは逆方向の問屋街に迷い込んでしまった。そこで生き残った僕を拾ってしまったことはさらに誤算だったはずです」
タケは何とか反駁しようと口をぱくぱくさせている。しかし一言の反論も許さずスギが再度口を開く。言い返せないということは、スギの言葉に誤りがないという証左だ。上辺だけの薄っぺらな嘘でひっくり返せるほど、スギの語る予測は、現実は軽くない。
「あなたは予想外の存在である僕をその場で始末しない程度には優しい人だったから。僕をどうするか、あなたをいかに逃がすか。あなたがたは悩んだはずです。そして今、その結論が出た」
タケは反論を諦めたようだった。見下ろしてくる瞳をしっかりと見返して、スギは挑むように言い放った。
「僕を生かしてくれる決定をしてくれて、ありがとうございます」
「……はっ」
呆れたような、お手上げとでも言いたげな表情でタケは息を吐いた。
「やれやれ、とんでもないガキだ。めそめそしてるだけの奴だったら途中で見捨ててやろうと思ってたのに」
タケはスギへ手を伸ばした。
「お前の考えた通りだ。俺たちはこれから中立地帯へ逃げる。脱落したら死ぬだけだ。必死でついてこい」
頷いてスギは伸べられた手を取った。それが自分を生かすための唯一の道だと分かっていたから、ためらいはなかった。
「よろしくお願いします、タケさん」
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