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書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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転章14読了後を推奨します

【メインキャスト】
・スギ
・アオイ

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***************************************************************



 生成りの外套を着た背中が、誇らしかった。
 衝立に染みついた生薬の香りが鼻先をくすぐる。十分な高さがあるとはいえ、せっかくの目隠しも後ろの子供がこんなに身を乗り出していては意味がない。大きな背中越しに見える患者と目が合った。居心地悪げに目を逸らしたのは患者の方、その表情から察したのか生成りの背中は振り返らないまま言った。
「スギ。呼ばれるまでおとなしく待っていなさい」
 はい、と素直に返事をしながらも、スギは頭を引っ込めない。先程よりは少しだけ身を引いて、それでも大して変わらない格好でじっとその背を見つめる。父は滅多に振り返らない。けれど時々、スギに声を掛けてくれることがある。言いつけられるのはいつも単純な——例えば裏手の倉庫から薬の材料を持ってくるといった用事だったが、それでもスギは嬉しかった。大好きな父の役に立てる。それが何よりの誇りだった。
 薬師ヒバといえば、皇都では知らぬ者のいない名医だ。あまり有名になると代々の家業である薬種問屋の看板の方が霞んでしまうと溜息を吐くのはまだまだ健在な祖父一人、なるほど最近では単に薬を求める者よりヒバに病を診てほしいと足を運ぶ者の方が多い。
 診察の後に結局うちの薬を買っていくんだから、どっちでも変わらないんじゃないかな。
 そう子供心に思っても、隠居生活で暇を持て余した祖父の愚痴は一旦溢れると止まらない。だからスギはあえて口には出さずに祖父の話し相手を適当に切り上げて、こっそり診察部屋の衝立に隠れる。
 患者はしばしば個人的な事情と絡めて症状を訴える。今来ているご婦人はどうやら腹具合が悪いらしい。昨晩嫁が作ったお菜を食べた後からだとしきりに繰り返している。ヒバはその言葉にいちいち頷きながら、食べたものの種類と材料を買った時期をひとつひとつ確認している。
「お嫁さんの生姜煮は体に悪いものではありませんよ。ただ食べた後少し汗をかくので、おなかが冷えてしまったのでしょうか。肌着を一枚着るだけでも違いますから、試してみてくださいね。お薬は軽くおなかを整えるものにしましょうか。スギ」
 呼ばれてすかさずスギは駆け出す。整腸薬なら作り置きの棚にあったはず。ご婦人の病は聞いている限り重い症状ではなかった。一日分だけ持ってきて、ヒバに手渡す。横目で三つの薬包を確認した父が満足げに頷くのを見て、スギは笑顔で衝立の陰に戻る。
 ただ薬を売るだけではなく、きちんと患者の症状を診て適切な処方を立てる。父の薬師としての信念を知っているから、スギはいくら待たされても衝立の陰に立ち続ける。少しでも多く、この大きな背中を見ていたいと思うから。
 いつか自分も、こういう薬師になれるだろうか。
 憧れをこめて見上げる背中は、まだまだ遠くにあるように見えた。


「スギ、後で父さまのお部屋にいらっしゃい」
 母に呼ばれたのは、夕餉の片付けの最中だった。同じく食器を下げようとしていた姉のサワラが耳聡く聞きつけて抗議の声を上げる。
「えー、ごはんの後スギに話したいことがあったのに」
 歳の近い姉は活発で、昼間はほとんど家にいない。近所でもやんちゃ娘として有名な彼女は、どうやら今日も何かの武勇伝を拵えて報告の機会を待っていたらしい。
「何? あなた、また何か私たちに言えないようないたずらをやらかしたの?」
「違う違う! そんなんじゃないってば」
 呆れたような母の声にサワラは慌てて首を振る。
「さっき街で見かけた戦士の子がすっごくカッコよかったから、スギにも教えてあげたいなーって」
「何でスギにカッコいい男の子の報告をするのよ? あなた一人で眺めていればいいじゃない」
「それが違うんだなー。その子、男の子じゃなくて女の子だったの」
「あら、カッコいい女の子?」
「そうそう。髪が赤くてね、お肌も綺麗に焼けててすらっとしてて。あんなに剣が似合う子、男の子でもなかなかいないよ」
「へぇ。そんな子なら母さまも会ってみたいわね」
「えー。母さまはカッコいい男の子でも会ってみたかったんじゃないの?」
 手に食器を持ったままおしゃべりに興じる母と姉に苦笑しながら、スギは自分と祖父の分を台所に下げた。祖父が女子はうるさくてかなわんとぶつくさ言っているが、わざとらしくしかめた眉の下の目が笑っているのをスギは知っている。ちらりと父を見やると、穏やかな表情で食後の茶に手を伸ばしたところだった。食事の膳は既に母が下げてしまっていて、茶托だけが板張りの床の上に直に置かれている。
 普段の父は寡黙だ。昼間の診察で丁寧に説明の言葉を選ぶ反動か、家では必要なこと以外はしゃべらないし、表情も雰囲気もゆったりと穏やかなまま変わらない。その父の顔がふと上がって、スギの視線とぶつかった。
「……何だ」
 仲のいい家族だ。基本的に隠し事などないから、大抵の連絡や報告は夕餉の時間に行われる。わざわざ私室に呼ばれることなど滅多にないから、やはり用件は気になる。
 見上げる父の表情は常と変わらず穏やかだ。その分内面の感情は読み取りづらい。職業柄か、父の表情が変わるところをスギは今まで見たことがなかった。
「……何でもない」
 訊きたい気持ちを抑えて、スギは目線を逸らした。この場で言わなかったことには理由があるのだろう。父がそう判断したのであれば、今は何を訊いても答えてくれないはずだ。
 夕餉の片付けも一段落し台所が静かになった頃、スギは両親の居室へと向かった。既に床に就いた祖父の咳の音が夜風に混ざって流れてくる。咳止め薬の配合はどうだっただろう。そんなことを考えながら暗い廊下を歩く。
 目指す部屋の扉は閉じていたが、隙間から柔らかな灯火の明かりが洩れている。扉を軽く叩いて、スギは部屋の中へ入った。
「来たか」
 橙色の蝋燭の光に満ちた部屋で、研究用の机に向かっていた父が振り返る。母がさっと席を立ち、壁際の籠の傍にかがみ込んだ。
 父の目線に促されるままスギは机の近くの椅子に腰掛けた。父と真正面から向き合う。
「スギ、今年でいくつになった」
「九歳です」
 小さく頷いて、父はさらに問いを重ねる。
「薬師の仕事が好きか」
「はい」
「問屋の仕事——商売に興味はないか」
 少し考えて、スギは答える。
「薬を安く仕入れて、高く売るということにはあまり。ただ、その薬種がどこから来て、どういう製法で作られたものなのかは知りたいと思います」
 すっと母が父の隣に立った。小さく笑ってみせた母に無言で頷いて、父は母が抱えていた籠を受け取った。
「明日からこれを身につけるように。診察部屋の中にも入っていい」
 差し出された籠に入っていたのは、生成りの外套と一振りの剣だった。戦うための剣とは少し違う形の、まだ小さなスギの手に余るほど分厚い刃。それは父が常に傍らに置いているのと同じ、薬種を削るための薬師の剣だ。
 自分の気持ちが父に認められた。
 喜びがスギの内に突き上げてくる。腕に抱えた籠を抱きしめる。明日からは衝立の陰でこそこそしなくても済む。父の背中を間近で眺めることができる。
「この剣を持つ以上、忘れてはならないことがある」
 嬉しさで紅く染まった息子の頬を見下ろして、薬師は告げた。
「これから何があろうとも、決して他者の生命を奪ってはならない。薬師は生命を救うために在るのだから」
 諭すような声音に、スギは深く頷いた。改めて両親を見上げる。母はスギと同じくらい嬉しそうな顔でにこにこしていた。父の表情はいつもとあまり変わらないように見えたが、穏やかな中に微かな喜びの気配が混じっているのが感じられた。
「ありがとうございます、父さま、母さま。いつか父さまに負けないくらい立派な薬師になれるよう頑張ります」
 そう言ったスギの頭に父の大きな手が載せられた。その顔が珍しく微笑んでいることに気づいて、スギはますます頬を綻ばせた。


 薬師の朝は早い。陽が昇りきる前には起き出して、作り置きの常備薬の調合に入る。その日の在庫に照らし合わせて、数が少なくなってきたものから補充する。
 外套をもらった翌朝から、問屋の蔵でその日必要な薬種を探すのはスギの仕事になった。材料集めの傍ら、蔵の在庫が切れていないかも同時に確認する。足りていないものを帳面に記録し、祖父に手渡す。この仕事もそろそろひと月。勝手が分かって来たこの頃は、かなり早く材料を探せるようになっていた。
「じいさま、檳榔子と芒硝が切れそうです。それと父さまが甘草を多めに仕入れてほしいと言っていました」
「分かっておるわい。そろそろ風邪の季節だからの」
 祖父はスギが薬師の修行を始めたと知った時、少しだけ寂しそうな表情をした。だが結果的に毎朝問屋の仕事も手伝うようになったため、かなりご機嫌を直してくれたらしい。
「ほれ」
 祖父が何かを放ってきた。反射的に受け止めた手のひらに、固くて平べったい感触が残る。
「今日もどこぞへ薬を届けに行くのじゃろ。それで何か甘いものでも食え」
「……ありがとう、じいさま」
 早起きは三文の得。サワラに見つかると厄介だから、内緒の小遣いは外套の中に大事に仕舞っておいた。薬師の外套は薬種を入れるための隠しがたくさんついている。だが、まだ薬種を持ち歩くことを許されていないスギの外套の隠しはほとんどが空っぽで、外套自体も軽い。ずっしり重い父の外套の域に届くにはまだまだかかるだろう。
 薬種を入れた籠を下げて診察部屋へ入る。隅の板の間で、既に父は作業を始めていた。傍らに置かれた籠の中身を横目で確認し小さく頷いたのを見届けて、スギは父の前に座り込んだ。秤で計量された数々の薬種が、乳鉢の中ですり合わされて一つの薬になっていく。
「……胃薬?」
 スギの言葉に父がまたひとつ頷く。今日探して来た薬種から考えると、今朝はこの後頭痛薬と咳止め、止血用の軟膏を作るはずだ。それと、いつもはあまり使わない生薬が父の書き付けにあったのが気になっていた。あれは何の薬に使うのだろう。未だ手つかずの薬種籠を気にしながらも、スギは軟膏用の蝋の湯煎のため一旦立ち上がって薬缶を火にかけた。背後では父が薬包紙を広げる微かな音がしている。
「スギ、今日のおつかいだが」
「はい」
 実際の薬の調合はまだ任されていないスギの主な仕事は薬種探しと得意先への薬の配達だ。毎日できるだけ多くの薬種を見て、実際に薬を服む患者をできるだけ多く見ること。それが父から申し付けられたスギの課題だった。だから配達に行く先は日によって変わる。広い皇都の中で既に何度も行っているところもあれば、まだ一度しか顔を出していないところもある。
 今日はどこに行くんだろう。心中の声に答えるように、父は行き先を告げた。
「今日は一ヶ所だけでいい。皇宮へ、これから作る薬を届けてくれ」
 思わず振り返る。父の手が、あの生薬に伸びた。獣の角のような触感の、硬く節くれ立った塊。
「父さま、それは」
「薬師の間では『鹿』と呼ばれている。鎮痛、強心が主な作用だ。慢性的な症状に用いる薬だが、効果が強いので濫用は厳禁」
 言いながら父が剣を抜いた。生薬の表面を慎重に削り、手元の薬研に振り入れる。輪が動くにつれ、芳香が部屋に広がった。
「どんな薬もそうだが、患者の体格や症状によって薬種の量や配合は調整しなければならない。だからできるだけ患者を直に診て処方を立てることが鉄則だ」
 父の言葉に頷きながらも、スギは心中で首を傾げていた。
 皇宮からの患者がここに来たという話は聞いたことがないし、もちろん見たこともない。最近は父もやって来る患者の診察で忙しく、どこにも往診はしていないはずだ。
「古い得意先でな。患者が赤ん坊の頃から贔屓にしていただいている」
 薬研にまた違う薬種が入れられた。淡々と作業する父の目線は、傍らに置かれた手紙に落とされているようだった。
「患者の父親が薬師嫌いだから、おおっぴらに往診には行けない。代わりに母親が詳細な病状を寄越してくれるから、こちらも都度適切な処方ができる」
 砕いた薬種を天秤で慎重に量りながら、父は一包ずつ薬を仕上げていく。
「とは言え、患者を直に診ることができればそれに越したことはない。患者はお前と同じ年頃だ。薬を届けるついでに話し相手にでもなって、様子を診てくるといい」
 出来上がった薬包は三十。数を確かめてから布袋に薬を入れる。続いて服用の注意事項を書き付けながら、父はスギに告げた。
「門でヒバの遣いと告げれば患者の部屋まで案内してくれるはずだ。朝餉が終わったらすぐ向かうように」


 午前もまだ早い時間ながら、皇都の市場はいつも通り賑わっていた。
「さあさ安いよ安いよ! 城外で穫れたての瓜、新鮮だよ!」
「今朝揚がったばかりの魚! 旬の青魚はいらんかね」
 時間帯のせいか生鮮店の売り手が元気だ。近所の奥方や飯屋の仕入れなど、目の肥えた客が店先の商品を覗き込んで質を見定めている。
「にしても父さま、やっぱりすごいね。皇宮にまで患者がいるなんて初めて知った」
 喧噪の中でも隣を歩くサワラの声はよく響いた。スギは無言で頷いて、薬が入った布袋を抱え込む。
 先ほど家を出ようとしたところで、サワラとばったり鉢合わせた。遊び仲間との待ち合わせに向かうというサワラと途中まで一緒に、という流れになったのは当然のなりゆきだった。
「でもさ、なんだかんだでスギもすごいと思うよ」
 意外な一言に、スギは思わず姉の顔を見上げた。最近徐々に背丈が伸び始めて来たとはいえ、まだサワラに追いつくまでには至っていない。ほんの少し高い位置からサワラはスギを笑顔で見下ろしてくる。
「その外套。初めて見た時はびっくりしたけど、スギは本気で父さまの跡を継ぐ気なんだなって実感して」
 言葉を切って、サワラはふと目線を逸らした。
「偉いと、思った」
 照れ隠しだと悟って、スギも釣られて笑みを零す。
「サワラは何かやりたいことないの?」
「あたし? あたしは——」
 考え込む気配。しかしすぐに首を振って持ち前の好奇心たっぷりの表情に戻る。
「うん、まだ分かんないな。今はこうやって毎日楽しく遊んで過ごせればそれでいいや」
「それってダメな大人へ一直線の考えなんじゃ……」
「こら、ちょっと自分が順調だからって調子に乗るな」
 軽く頭を小突かれて、スギは慌てて首をすくめた。明らかにおもしろがっているサワラの手は諦めずに追いかけてくる。人ごみをすり抜けながら器用に追いかけっこをしていた姉弟の目に、一軒の屋台が止まった。開店準備の真っ最中らしく、店主が一人で忙しなく立ち働いているのが見える。
「飴売りだ」
「飴売りだね」
 ふと隠しの中の小銭を思い出す。物欲しげなサワラの表情を横目で見やって、スギは屋台へ歩み寄った。
「くださいな」
 振り返った店主はスギの姿を見て表情を和らげた。子供好きらしい。差し出した小銭と引き換えに、気前良く飴玉を紙袋に詰め込んでくれた。成型されたばかりの飴は、スギの腕の中でまだほんのり熱を帯びている。
「ちょっとだけなら分けてあげるよ」
 言われて差し出された飴袋とスギの顔を交互に見比べて、サワラは唇を尖らせた。
「ずるい。スギばっかりお小遣い多くもらって」
「違っ……! たまたま母さまにもらったのが残ってただけだよ!」
 咄嗟についた嘘にサワラがふんと鼻を鳴らした。そのまま飴玉を何個か鷲掴みにして、まとめて口の中に放り入れる。
「あっ、取り過ぎ!」
「ふーんだ、くれるって言うならこれくらいで文句言わないでよね」
 サワラは笑いながら走り出した。
「そのうち姉さまが倍にして返してあげるから! 楽しみにしててよ」
 そのまま雑踏に紛れてしまった姉の後ろ姿を見送りながら、スギはやれやれと息をついた。
「お礼くらい、素直に言えばいいのに」
 飴玉を口に含みながら、スギは皇宮までの道を辿った。石畳の向こうに大きな内門が見え始めた時は気後れしたが、父が言う通り遣いだと告げると門番はあっさりと奥の宮へと案内してくれた。第二の門の前で案内係は交代し、物々しい鎧姿の兵士から礼服を纏った宮人になった。薄々感じていた予感が、ここで確信に変わった。
 今回訪れる患者は、相当に身分が高い。
 思わず外套の胸元に手を当てる。そこには父から預かった薬袋と先ほどの飴玉の残りが入っている。自分が知る父の後ろ姿と、市場の菓子。スギにとっての日常があまりにもこの場所と結びつかなくて、知らず知らずのうちに指は外套を握りしめる。
 かなり歩かされた末に、案内の宮人は一つの戸口の前で立ち止まった。恭しく手の甲で扉を叩く。
「はい」
 聞こえたのは甘やかな女の声だった。引き戸を開けた途端に流れてきた暖かな空気には、紛れもなく父が調合していたあの薬の芳香が混じっている。
 宮人に目線で促され、スギはおっかなびっくり戸口をくぐった。途端、圧倒された。無数の書物が床一面にうず高く積まれ、足の踏み場もない有様だ。辛うじて通り道らしき隙間を目で辿ると、その先に座っていた女と目が合った。長い黒髪にとりどりの色紐を編み込んだ頭を少し傾げて、しかしまっすぐな目線はこちらを射抜くように強い。
「ごめんなさいね、こんなに散らかっててびっくりしたでしょう」
 声だけならば確かに甘い。だが確かな意志を宿した瞳と同時に受けると、その印象はがらりと変わる。
 ——強いひとだ。
 編み込みの髪紐は”山の民”の風習だ。皇宮の奥深く、こんなにも丁重に遇される山岳地帯の女性など、一人しかいない。
 皇妃キキョウ。
 もちろん直に会うのは初めてだ。というより、こんなに近くで言葉を交わす機会があることすら想像したこともない。
 父さまは何という人を診ていたんだ。
 慌てて皇民の礼を取ろうとしたスギを、当のキキョウが仕草だけで止める。
「ヒバさんのお遣いよね? ひょっとしてお弟子さん?」
「あ、いえ」
 思わず口ごもったスギに、ああとキキョウは小さく声を上げた。
「そういえばうちと同じくらいのお子さんがいらっしゃると仰っていたっけ。あなたがそうね?」
 ぎくしゃくと頷いたスギを、キキョウが本の森の向こうから手招いた。
「いつまでも立ち話も何だから、こちらへいらっしゃいな。アオイ、お客様よ」
 ごく無造作にキキョウは背後に声をかけた。微かに身じろぐ気配と、細く掠れた声が暖かな空気を震わせる。
「お客様……?」
 皇太子アオイはスギより一つ年長だったはずだ。懐の薬袋を手で探る。同じ年頃の患者が服むという、強い薬。
 足元の塔を崩さないよう、スギは慎重に部屋の奥へと足を進める。いつの間にか、好奇心が緊張を上回っていた。
 分厚い書物の壁を越えると、意外にも柔らかな陽光に満ちた空間が広がっていた。採光の良い窓が小さめなのは部屋の主に無用な刺激を与えないためだろうか。窓の近くに据えられた寝床は暖房と一体化しているらしい。寝心地良さげに重ねられた布団の上で、皇太子は今まさに体を起こしたところだった。遠慮がちに覗き込んでいたスギとまともに目が合ってしまい、アオイは少し驚いたようだった。
「……こんにちは、薬師さん」
 それでなくとも気後れしているスギの心を見抜いたように、アオイはにこりと笑った。キキョウの介添えで寝床の上にきちんと上体を起こして座る姿は、皇太子という肩書きに恥じぬ凛とした風格を漂わせている。
 しかし痩せた体つきは決して体格に恵まれてはいないスギと比べても小さく見える。透けるような頬はわずかに赤みを帯びていて、やや早い呼吸が微熱を含んでいるだろうことを予想させた。
 ——患者が赤ん坊の頃から贔屓にしていただいている。
 招き寄せられて枕元に立ったはいいものの、スギはかける言葉を失って立ち尽くしてしまった。お仕着せの見舞いの挨拶も、病状を問う言葉も、何も出てこない。
 父さま、僕は何をすればいいの。僕が生きた年月と同じくらい長い間、病と闘っているこの人に何ができるの。
 じっと辛抱強くスギの言葉を待っていたアオイが困ったように笑った。
「随分無口な薬師さんだね。それはお父上の教えかな?」
「違……っ」
「じゃあせめて名前くらい……」
 言葉尻が突然掠れた。途切れた声の調子を取り戻すように軽く咳払いを繰り返すも、なかなか治らない。ひと呼吸ごとにアオイの呼吸は本格的な咳の音に変わっていく。
「あらあら」
 キキョウがさっと立ち上がってアオイの背をさする。
「大丈夫? お水、飲める?」
 アオイが小さく頷いたのを見て、スギは咄嗟に動いた。傍らの水差しから中身を杯に注ぎ、キキョウに差し出す。やや目を見張ったキキョウはそれでも迷うことなく杯を受け取り、アオイの口に水を含ませた。
 間もなく咳はおさまった。発作とも言えないほどの些細な症状。この程度のことには慣れているのかアオイもキキョウも特段変わった様子はなく、淡々と処置を行っていた。先ほどより少し背もたれの角度を変えて、呼吸が苦しくない程度の傾きに調整する。襟元を少し緩め、やや乱れてしまった掛け布団を整える。
 病が日常の生活。それは幸いにも自身と家族が健康であり続けたスギにとって衝撃だった。今まで診察部屋でしか見たことのなかった患者たち。この先薬師を目指すなら、多くの重症者とも向き合うことになる。こういった光景は何度も目にすることになるのだろう。そんな当たり前のことを今まで思いつきもしなかった自分がとても幼く、至らなく思えた。
 俯いたスギの耳がアオイの呼吸音を拾い上げる。まだ少し掠れている。
 ——そうだ。
 懐へ手を入れる。取り出したのは父の薬ではなく、先ほど買った飴玉の袋だった。その中から一つを取り出し、アオイの手のひらに載せる。
「のどのひっかかり。少しは良くなると思うから」
「……ありがとう」
 意外なほど素直に、アオイは飴玉を口に入れた。その呼吸から苦しげな色が薄れたのを確認して、スギは改めてアオイの血色の薄い頬を見下ろした。
「先程は失礼しました。僕の名はスギ。薬師見習いになってまだ日が浅いけど、一生懸命頑張るつもりです。どうぞよろしくお願いします」
 スギの真剣な眼差しを、アオイは微笑で受け止めた。
「私はアオイ。薬師と患者だから、きっと長い付き合いになるね。こちらこそ、どうぞよろしく」
 右手を差し出したのはアオイの方が先。スギがためらったのは身分の差を考えたからだ。しかしキキョウはとがめるどころか微笑ましいものを見守る表情で成り行きを眺めている。
 逡巡はほんの数秒だった。右手で細い手のひらを握り返し、しっかりと目線を合わせる。患者から目を逸らしていては、立派な見立てなどできるはずがない。スギの瞳に覚悟が宿ったことに気づいたのだろうか。アオイが満足げな顔で笑った。
「飴、美味しかったよ。できればあと何個か分けてくれないかな? 弟たちにもあげたいから」
「弟?」
「そう。やんちゃなのが二人。今は外で遊んでるけど、そろそろ帰ってくる頃だからね」
 言われてみれば、窓から降り注ぐ光には数人分の子供の声も含まれているようだ。時々混じる低い男の声はお守り役の近衛兵のものだろうか。
「ちゃんと紹介しないと、間違っていじめちゃうかもしれないから。最初に餌付けしておけばきっと大丈夫だよ」
「餌付けって、あなた」
 呆れたようにキキョウが笑った。
「自分の弟をその辺の子犬と一緒にしないでちょうだい。あの子たちはもっと物覚えが悪いわよ」
「母上の方がひどいこと言ってるじゃないですか」
 母子のやりとりに、こらえきれず吹き出したスギの笑い声が重なる。笑われちゃったじゃないの、と抗議するキキョウの声はしかし怒りなどまったく含んでおらず、スギとアオイは布団を叩いてますます笑い転げた。



<2011年10月23日>



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