書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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扉を開けると、柔らかな温もりと古紙の匂いが身体を包み込んだ。無数の本と紙の山の向こう、床に身を起こした部屋の主が穏やかな目で振り返る。
「ああ、よく来てくれたね」
軽く頭を下げて、ブドウはするりと部屋の中へ身を滑り込ませた。
庭園に植えられた木々も凍える、厳冬の皇宮。しかしこの部屋だけはいつでも居心地のいい暖かさに満ちている。まるで主の人となりを表しているように。
アオイからの使いが皇宮の一角にあるブドウの執務室を訪ねてきたのは先程のことだ。中立地帯への出発を明日に控え、副将帥としてやらねばならない雑務は山のように残っていたが、ブドウは迷わずすぐに行くと返事をした。ブドウの多忙をアオイが察していないはずがない。
あのお方のことだ、ひょっとすると何か大きな情報を掴んだのかもしれない。
副将帥としての理性がそう判断する。しかし一方で心が浮き立つのも感じていた。皇都を離れる前にアオイと会う理由ができた、そのことが嬉しかった。
アカネが将帥に任命された翌日から始まった軍の再編や進軍の準備などで、ブドウの足はすっかりアオイの宮から遠ざかっていた。人づてに聞く病状も芳しくなく、ずっと心に引っかかっていたのだ。
アサザが皇太子となり、アカネまでもが将帥に仕立てられた今、アオイはたった一人で病と戦、二つの敵と戦っている。少しでも助けになりたいと思いつつも、一軍人にしか過ぎないブドウが実際にできることはなかった。それどころか、目の前に積み上げられた副将帥としての仕事を捌くだけでも精一杯。自分はつくづく腕っ節しか取り柄がないのだと思い知らされた気分だった。
「忙しいのは分かってたんだけど。突然呼び出したりしてすまなかったね」
「いえ、私のことはいいのです。それより起きておられて大丈夫なのですか」
「女性の前で寝たまま話をするほど、私は礼儀知らずではないよ」
そう言って笑う目元は、熱を宿して潤んでいる。辛くないといえば嘘になるだろう。
「私のことを女扱いしてくれるのはアオイ様くらいですよ」
苦笑しながらブドウはアオイの背に枕を当てる。起きているのであれば、せめて少しでも楽にしていてほしい。不慣れな手つきで具合を確かめるブドウに、アオイが微笑む。
「ブドウは優しいし、よく気がつく。十分女性らしいじゃないか」
そんなことを言われたのは初めてだ。顔が火照るのが自分でも分かる。
「あっ……アオイ様!」
「私は思ったことを言っただけだよ」
枕に薄い背を預けて、アオイはああ楽ちんだなどと呟いている。熱い頬を感じながら、ブドウはようやく仕事を放り出した口実を思い出していた。
「それよりアオイ様、私に何かお話があったのでは?」
「話? そうだねえ」
少しばかり考えた後、アオイは答えた。
「特にこれといってないよ。できれば君たちが中立地帯に向かうのを止められるくらいの大きな情報が欲しかったんだけど、残念ながら間に合わなかったみたいだ」
「では何故私を?」
アオイがブドウを見上げる。いつもの微笑の中、目には怖いほどに真剣な光が宿っている。
「会うのに理由が必要? 私が君の顔を見たかった、じゃだめかな」
その言葉の意味がブドウの頭に染み入るまでには、少しばかり時間が必要だった。数拍の空白の後、再びブドウの頬に朱が昇る。咄嗟に目を伏せて、やっとの思いで言葉を紡いだ。
「ご……ご冗談はおやめください。私は剣しか取り柄のない無骨者、からかっても仕方ありません」
「冗談なんかじゃないよ。まあ私の我侭には変わりないけどね」
ちらりと目を上げると、アオイのまっすぐな眼差しとぶつかった。そこに込められているのは紛れもない本気の色。思わずブドウは呼吸を止めた。
「……ごめん、困らせるつもりはなかったんだ」
今度視線を逸らしたのはアオイの方。
「ただ、明日には君が皇都を離れると思うといてもたってもいられなくて。君が帰ってくる頃、私はもうこういう風には話せないかもしれないから」
「そんなこと……」
不吉な予想を否定するブドウに、アオイはゆっくりと首を横に振った。
「自分の身体のことだからね、なんとなく判るんだよ。私にはもう時間がない」
いつもと変わらぬ穏やかな微笑み。それを目にした時ふいにブドウは理解した。この人が本当に戦っているもの、それは身体の自由を奪う病でも戦へと突き進む父帝でもなく、自分自身に残された時間なのかもしれないと。形は違えど、この人は確かに己を阻むものと戦い続けてきた『戦士』なのだ。
「話なんてない、っていうのは嘘だね。君に話したいことがたくさんある」
己の頭に手を置いて、アオイは伸びた髪をくしゃりと握りしめた。まるで指の間から零れ落ちる時を掴み取ろうとするかのように。
「もうとっくに覚悟していたつもりだったけど、いざ目の前に突きつけられると揺らいでしまうものだね。本当はこんなこと、君に話すつもりなんてなかったのに」
頬の笑みに自嘲が混じる。アオイのそんな表情を見るのは初めてだった。
「私はね、怖くてたまらないんだ。いつも笑っているのは、そうじゃなきゃ恐怖でどうにかなってしまいそうだから。私はアサザやアカネが思っているような強い人間じゃない。むしろ弱くて、卑怯な人間なんだ」
「アオイ様……」
「皇太子を降ろされた時もそうだった。重責から逃れた安堵感と、これで君を后に望めなくなったという落胆と。気がつけば自分のことばかり考えている。今だってそうだ。もう先がない男からこんなことを告げられて、後に残される君の気持ちなんてまるで無視してる。身勝手だろう?」
アオイが自分と同じ年頃であることを、ブドウは遅まきながら思い出していた。素顔をさらしたアオイは無防備で等身大の、一人の青年だった。
ブドウの手が髪に埋められたままのアオイのそれにそっと重ねられる。太子ではないただの青年に手を差し伸べるのは、思った以上に簡単なことだった。
「そんなにご自分を卑下しないでください。アオイ様が何者であろうと、私がアオイ様を尊敬する気持ちに変わりはありません」
この場にアオイの弟たちがいたとしたら、きっと同じことを言うだろう。けれど彼は決してそれをしないということがブドウには分かっていた。アオイは最後まで兄としての誇りを持って彼らに接するだろう。弟たちにさえ見せない弱さを自分には明かしてくれた。そのことが嬉しく、誇らしい。
「アオイ様のお気持ち、とても光栄に思います。私も」
言葉を切り、ブドウは見上げるアオイの目をしっかり見つめ返した。
「私もアオイ様をお慕いしています。何より、そのお心を」
口に出して言うと、形のないその気持ちが確固たる想いに変わっていくのが分かった。自分とアオイ、二つの想い。それが今、混じり合って一つになる。
「どうか、生きてください。私が戻るまでなどとは言わずに、もっと長く」
「ブドウ……」
アオイの目が大きく見開かれる。さっきから初めて見る顔ばかりだ。それがこんなに心浮き立つものだとは思いもしなかった。
「そしてもっと色々なお話をしましょう。さっきからアオイ様一人でしゃべってらっしゃる。今度は私の話も聞いてください」
見下ろした顔が苦笑を浮かべた。重ねた手の指が絡まり、しっかりと握られる。
「そうだね。今度はブドウの番だね」
でも、とアオイが悪戯っぽい笑みを向ける。
「その時は君の素のままの口調が聞きたいな。君が飾らない言葉でアサザやアカネと話しているのを、私はいつも羨ましく思っていたんだ」
「アオイ様相手に街言葉ですか。それはちょっと難しいかもしれないですね」
「様、もいらないよ」
やれやれ、とブドウが天を仰ぐ。
「困ったな……思ってたより覚悟が要りそうだ」
「要は切り替えだよ。こんな風にね」
ブドウの手がアオイの口許へと引き寄せられる。
「皇帝軍副将帥殿に大いなる武運を。手がかかるだろうけど、将帥のことを頼んだよ」
「承知しました」
手の甲に触れた温もりがくすぐったかった。
「アカネは弟みたいなものですから。必ず守り通します」
「君も無事で。くれぐれも怪我なんてしないようにね」
頷いて、今度はブドウがアオイの手に口づける。まるで物語にある騎士の誓いのように。
「勿論。私の身体はあんたのもんだからね。傷一つつけずに帰ってくるよ、アオイ」
満足げにアオイが笑む。
「うん。約束だよ」
しばらく二人で微笑み合った後、ブドウはあることに思い当たって頬を引きつらせた。
「あれ……? アカネはともかく、アサザまで私の義弟ってことになるのか?」
「まあ自然に考えるとそういうことになるだろうね」
脳裏に浮かんだのは、喧嘩友達を義姉と呼ぶ羽目になり難儀しているアサザの姿。その困惑顔が容易に想像できて、二人は同時に吹き出した。
「あはは、そりゃ見物だ」
「さぞかしびっくりするだろうね」
息も切れ切れに笑うアオイ。その瞬間、激しい咳に襲われて本当に呼吸困難になってしまう。考えてみれば今まで発作が出なかったこと自体おかしいくらいだった。それだけ気持ちが高揚していたということだろうか。慌ててその背をさすりながらブドウは考える。気の持ちようで病が治まるのなら、これから先も望みがないわけではないのかもしれない。アオイの特効薬に自分がなれたなら、このささやかな幸せをずっと続けることもできるのかも。
咳き込む声を聞いて、見張りの兵が飛んでくる。たちまち騒然とした空気の中、収まりはじめたアオイの喘ぎを聞きながらブドウは祈っていた。
どうか、少しでも長くこんな幸せが続きますように——
<2006年7月30日>
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