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書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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 嘘だろうと、思った。

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 初めての戦場。
 そこで対峙した国王軍の目を疑うような人数も。
「皆ことごとく、我が魔法の餌食となるぞ」
 懐かしい友の声と同時に放たれた『聖王』レンギョウの凄まじい魔法も。
 そして、草原に深々と刻まれた谷を落ち着いて見下ろす暇もなく駆け込んできた、その報せも。
 ——皇帝アザミ、崩御。
 それは欠片の現実感も帯びることなく、アサザの胸に衝撃だけを突き刺していった。
 確かにやつれてはいた。珍しく体調の心配などもしていた。
 けれど。
 信じられなかった。
 信じたくなかった。
 アサザがただ呆然と弔旗を携えた使者を見返すことしかできぬうちに、傍らに控えていたクルミが矢継ぎ早に指示を出し始めた。
 各隊、隊列を整え別命あるまで待機。
 斥候担当は至急国王軍陣営に潜り、アザミの崩御が知れていないか調査。
 先立っての地震で怪我をした者がいれば、今のうちに手当てをするように。
 ふいにクルミが振り返った。
「さて、おぬしはどうする。”茅”の刃で皇都を映してみるか? それとも自らの目で父の死を確かめてくるかの?」
 瞬間、駆け抜けた感情は何だっただろう。煮えたぎるほどに熱く、凍りつくほどに冷たく。目の前の老爺を殴りつけたい衝動が身体を支配するよりわずかに早く、気遣わしげな愛馬の息吹が聞こえた。
 身体がひとりでに動いた。アサザが鞍に飛び乗ると同時、キキョウは全速力で走り始めた。賢い栗毛が自分で判断したのか、それともアサザが無意識に指示したのかは分からない。けれど一心に先を目指すキキョウの鼻先はまっすぐに北——皇都を向いていた。
 皇帝軍の人馬で埋め尽くされた草原を泳ぐように駆け抜け、すり減った石畳が続く街道へ出る頃、背後から大きなどよめきが響いてきた。突然の訃報が陣内に広がっているのだろう。
 ふいに天を衝くような慟哭が耳を貫いた。兵の一人だろうか。あの皇帝にここまでの忠誠を示す者がいるとは。
 アサザの目に、まだ涙はない。蹄が地を踏む衝撃も、常と変らず頬に当たる風も、すべてがあやふやな非現実感に彩られていた。


 夜を徹して駆け抜けた草原。皇都に着いたのはまだ明けきらぬ払暁の頃だった。主が不在のはずの都は思いのほか平穏を保っており、それが余計にアサザの非現実感を煽っていく。
 たとえ殺しても大人しく死んでくれそうにはないあの性格だ。きっと久しぶりに暗殺騒ぎでもあって、その命知らずを手ずから返り討ちにしたことが戦場には間違って伝わったのだろう。
 何度も己に言い聞かせながらも、どうしてこんなにも父帝の死を否定したいのかが自分でも分からなかった。
 顔を合わせるたびに怒りを覚えるほど、嫌いだったはずだ。殺したいほど憎んだことさえある。
 なのに何故今、こんなにも強く生きていてほしいと願うのか。
 アサザの姿を認めたのだろう、皇都の門は内側から細く開けられた。無言のままの門番に、黒い不安が膨れ上がる。努めて平静を装いながら皇宮へ向かう。見慣れた門を幾つも潜り抜け、辿り着いた奥宮では侍従長以下、アザミの傍近くに仕えていた全員が総出でアサザを待っていた。
 明らかに普段とは違う様子。泣き腫らした目で何事かを訴えようとする侍従長を無言で制し、アサザはうそ寒い廊下を足早に辿る。
 アザミの部屋の扉を潜るのは初めてのことだった。何となく想像していた通り、やたらと重厚な、けれども必要最低限の家具が置かれているだけのだだ広い部屋だった。
 寒々しい空間を横切って、奥の寝台に歩み寄る。目の当たりにすれば、あるいは実感できるのかもしれないと思っていた。
 それでも、やはり。
 目の前のものが信じられなかった。
 今アサザの前に横たわっているのは、眉間の皺まで普段通りの見慣れた顔だった。最後に会ったのはわずかに二日前のこと。出陣式の時と同じく、アサザの側から呼びかけてみる。
「陛下」
 最初に報せを受けた時には、嘘だろうと思った。けれどこうして顔を見てしまうと、尚更強くそう思った。安らかかどうかは疑問が残るにせよ、ここにあるのがいつもと変わらぬ表情であることに違いはないのだから。
 ふいに胸が熱くなったのは、この空っぽの部屋に潜む父帝の孤独を垣間見てしまったからだろうか。
 ——皇帝陛下ともあろう人が、こんな部屋じゃ寂しいでしょう。
 常と変らぬ仏頂面にしかし、不肖の息子の差し出口を拒む色は浮かばない。拒絶も、嫌悪も、侮蔑も——ついに一度も見ることのなかった、温かな表情も。
「陛下」
 この声はアザミの鼓膜を震わせるのだろうか。
 けれど止まってしまった心を震わせることはもう、ない。
「陛下」
 返事がないことは分かっている。
 だから。
「——父上」
 届かなくなって初めて、口に出せる言葉があるのだと知った。


 アサザが再び戦場へ向かったのは、それから三日後の朝のことだった。キキョウの蹄は正確に街道の石畳を踏んで、まっすぐ南へ向かっている。
 今、アサザの周囲には誰もいない。往路は護衛をつける余裕などなかったというのが実情だが、戦場へ戻る今回はアサザ自身が随伴を断った。今皇都に残っている戦力は近衛隊のみ、あの虚栄だけ立派な近衛隊長に身辺警護を任せる気になど、到底なれなかった。
 どの道一刻を争う早駆けだ。一騎の方が疾い。
 のんびりと葬礼を行っている場合ではなかった。国王軍の軍勢が瞼の裏に蘇る。同時にあの地震と、草原に刻まれた峡谷を。アサザ自身が率いる軍が、今もなおそれらと対峙しているのだ。
 国王軍が動いたという報告は入っていない。だが今後も動かないという保証もない。できる限り速く、戻らなければ。
 皇帝という要を失った皇都には、もう一刻の猶予も許されていない。
 感情に流されていい局面ではない。あくまで冷静に、為すべきことを最優先に。そう思うほどに、耳に蘇る声がある。
 ——皇帝陛下を弑し奉ったのは。
 侍従の一人が咽び泣きながら零した言葉。
 弟、兄。そして最後に残った父までも呑み込んだ墓所の扉の前で聞いた告発。涙で震える侍従の声とは対照的に、磨き上げられた黒御影に映し出された己の顔は氷のように無表情だった。
 スギが暗殺犯ならば、自警団が無関係でないはずがない。
 そして、国王レンギョウも。
 父の亡骸は、最低限の礼だけを尽くして黒御影の扉の向こうに見送るしかなかった。それは廃太子として送り出したアオイの葬儀より簡素で淋しく、慌しいもので。
 後日、国王軍討伐後に慣例どおりの大々的な葬祭を行うことになるのだろう。
 けれど。
 独りになって草原の風を頬に受けた瞬間、涙が溢れた。
 父帝の背中が瞼の裏に映る。言ってやりたいことがたくさんあった。
 突然逝ってしまったという理不尽に。手を下した者がいるという事実に。こんな別れ方しかできなかったという現実に。己自身も驚くほどの大きな喪失感に。
 どうして。
 キキョウの鬣に落ちる雫と同じだけ、最早誰にもぶつけようのない疑問が胸の中で渦巻いていた。
 顔はまっすぐに正面を向いている。伸ばした背筋は蹄が地面を蹴る衝撃にも揺るがない。かつてあれほど嫌悪した父帝と同じ形の皺を眉間に刻み、嗚咽が洩れないように唇をきつく結んで。
 握り締めた手綱にまたひとつ、氷のような涙が零れ落ちた。
 

 冬の夕闇は足が早い。キキョウ自慢の駆け脚でも、日があるうちに戦場に辿り着くことができなかった。
 アサザは小さく咳払いをした。涙は既に止まっていたが、喉に違和感が残っている。こんな掠れ声のまま他の戦士や”山の民”の面々と顔を合わせたくはなかった。
 草原の宵闇は深い。星明りの下、彼方に橙色の帯が見える。宿営地の篝火だ。夕日の残照が尽きても、その明かりを頼りに街道を辿れば必ず本陣に戻ることができる。
 キキョウは少し疲れているようだった。いつもより重くなった足運びを労るように、首筋を軽く叩いてやる。
「キキョウ、もう少しだ。頑張ってくれ」
 賢い愛馬は小さく鼻を鳴らして応えてくれた。夜空に流れる真っ白な息の行方を見るともなしに見遣って、アサザはふと動きを止める。
 宿営地の篝火に変化はない。だが連なる天幕の向こう側に、何やら大きな影が見えるのは気のせいだろうか。
 もう一度確認しようと鞍の上で伸び上がった、その時。
「貴様、ここで何をしている」
 緊張を孕んだ誰何の声が闇の中から放たれる。咄嗟にアサザは手綱を引いた。同時に有無を言わせぬ鞘走りの音が周囲の空気を震わせる。
「すぐに馬を下りて手を上げろ。速やかに所属と名を言え」
 道を塞いだのは二人の兵士だった。乏しい明かりに影絵となって浮かぶ鎧の形は皇帝軍のもの。宿営地警護の当番兵だろう。
 アサザは苦笑しながら鞍を下りた。さて、自分の所属は一体どこになるのだろう。
「所属は……たぶん本陣近辺のどこか。名はアサザだ」
 言われたとおりに両手を頭の上に上げて、アサザは名乗った。心配していたほど声の調子は悪くない。
 眼前の兵士が訝しげな視線を向けてくるのが分かる。そんなに自分には貫禄が備わっていないのか。むしろ可笑しく思いながら、纏った緋紫二色の肩布と”茅”を示す。
「一応、皇帝軍将帥ってやつなんだが。通してもらうことはできないか?」
 闇を透かして肩布の色を認めた瞬間、二人の兵士は息を呑んでその場にひれ伏した。
「こ、皇太子殿!」
「申し訳ありません! 知らぬこととはいえ、とんだご無礼を」
 先程までのあらわな敵意はどこへやら、二人はすっかり縮こまってしまった。その変わりようにアサザの方が困惑してしまう。
「ああ、気にしなくてもいいって。こんな真っ暗じゃ色なんて見えないし、俺がこんなところふらふらしてるなんて思わなかっただろうしな」
「しかし皇太子殿が皇都へ戻られたことは皆が知っております。お帰りになる際はこの街道を通るであろうことも、少し考えれば容易に分かること」
「それをこともあろうに敵の斥候と間違えるなど……本当に申し訳ありませんでした」
 どうして彼らがそこまでアサザを恐れるのか。その理由に思い至って、アサザの胸に苦いものが広がる。
「いい、気にするな。こんな些細なことで俺はお前たちを罰したりはしない」
 二人が顔を上げる。まだ幼さを残した顔立ちはいずれもアサザより幾つか年下に見える。やはり罰を恐れていたのだろう。彼らが安堵より先に浮かべたのは疑念の表情だった。
「しかし、皇帝陛下の前で粗相をした者は例外なく罰せられると聞いておりましたが」
「俺は陛下とは違う」
 言った瞬間、胸がずきりと痛んだ。
 そう、違う。これから変えていかなければならないのだ。
 誰を道標とするでもなく、アサザ自身が良いと信じる方向へ。
「だから心配は要らない。これからもさっきと同じように、責任を持ってそれぞれの仕事に励んでくれ」
 二人から目を逸らしてキキョウの手綱を引き寄せたアサザの背中に、兵士の声が覆いかぶさる。
「ではやはり、皇太子殿が即位すれば世の中は変わるんですね」
 驚いてアサザは振り返る。二人の兵士は互いに頷き合って、期待を含んだ眼差しをアサザに向けていた。
「皇太子殿は国王を打破して新しい世を作る、次の皇帝陛下」
「クルミ様が即位式を急がれているのも、一刻も早く国王を倒すためだとか」
「それにこの戦で手柄を立てれば、俺たちみたいな下っ端でも出世できるんですよね」
 兵士たちの矢継ぎ早な言葉の中に混じった聞き流せない情報を、慌ててアサザは拾い上げた。
「ちょっと待て。クルミが俺の即位を急いでるだと?」
 顔を見合わせて、二人は同時に頷いた。
「はい。できる限り速やかに挙行できるよう、既に準備を進められております」
「ご即位をきっかけに、これからどんどん世の中が変わっていって」
「まずはこの戦で皇太子殿が国王を倒して、この島を統一して」
「そうすれば俺たちのように戦士の家柄じゃない皇民も、頑張り次第で引き立ててもらえる世がきっと来る」
 新しい時代への期待。
 兵士たちの瞳が宿す熱の正体に気づいて、思わずアサザは言葉を失った。
 父帝に限らず、これまでの皇帝は皆、戦士の血を引く者を重用してきた。皇家の始祖であるアカザや草創期の猛将グースフットなどに代表される生粋の『戦士』の血統——それを引く者は父祖の遺した家系を継ぐだけで、自動的に皇都での役職までも手に入る。
 逆に言えば、限られたこれらの血脈に組み込まれていない皇民はどう足掻こうとも一定以上の位に就くことはできない。時折金銭で戦士の職を買い求めることができる幸運な者もいるが、それとて下位の役職にとどめられる上に、他の戦士からは蔑みの目を向けられ続けることになる。
 戦士として本当に認められるには戦で手柄を立てるしかない。現在、特権を享受している職業戦士の先祖がそうだったように。
 そして今、国王軍との戦が現実のものになった。さらに皇帝崩御と新帝即位が重なろうとしている。長い平和に慣れきってろくに指揮もできない戦士が多い中、腕に覚えのある皇民が出世を夢見てもおかしくはない状況なのだ。
「そのためにはまず、目の前の国王軍を何とかしないとですよね」
「そうそう。まずはあの亀裂を乗り越えて国王軍を叩く」
「橋、早く完成するといいな」
 耳慣れない言葉にアサザは眉根を寄せる。浮かんだのはレンギョウの魔法によって刻まれたあの巨大な渓谷。あれに橋を架けるのだとしたら。
 彼方の宿営地の闇を、目を凝らして見つめる。先程見えた大きな影、あれがもしや。
 無言でアサザはキキョウの背に飛び乗った。これ以上、クルミやカヤが自分のあずかり知らぬところで事態を動かすのを見過ごす気にはなれない。
 道の脇に飛びのいた兵士たちの敬礼が視界の端を流れ去っていく。
 新帝の即位と皇民登用の噂。指摘されて初めて気づいた自分もいい加減迂闊だと思う。けれど同時に時機が良すぎる、とも思った。
 噂は戦場では貴重な情報だ。そして情報操作は諜報活動の一環でもある。咄嗟に思い出した顔はスギ、その次にクルミ。どちらにせよ、悪い予感しかしないことに変わりはない。
 ——こんなものを渡した私のことを恨むこともあるかもしれない。
 アオイが遺した言葉が耳に蘇る。
「恨みはしませんけど。兄上、俺、このままだとものすごく性格悪くなりそうですよ」
 吹き去る風の中に、ぼやきはあっという間にかき消されていく。キキョウの蹄音が響くごと、宿営地の篝火に照らされた巨大な影は不吉に揺らめいた。


「ようやく戻られたか」
 白髪の老爺はアサザの顔を一瞥したきり、興味なさげに視線を逸らして中断していた仕事を再開した。
「待ってたならお帰りなさいくらい言えよ。アカネだってそのくらいの愛想はあったぜ」
「あいにくこの歳で躾を受けなおす気にはなれぬ」
 俺だって爺の再教育なんて御免だ、という本音は腹の底に飲み込んでおく。文句を述べる代わりに、不在の数日ですっかり変貌してしまった天幕の中を見回した。
 国王軍と対峙して以来本陣を置いてきた宿営地最大のこの天幕は、今やクルミ専用の作戦本部になってしまったようだ。皇都に向かう前は見かけなかった書類の束や地図、測量器具やその他よく分からない装置や道具で空間のほとんどが占拠されている。
「……俺がいない方が、あんたの仕事ははかどってたんじゃないのか?」
 零れた本音が思いがけず皮肉めいていたことに、アサザ自身が驚く。
 無造作に床に放られている描きかけの橋の設計図。机の上に束ねられた資材の受け渡し票。老人の傍にある古びた書物は開きっぱなしのまま栞を挟まれて放置されている。
 鼻を鳴らして、クルミは手元の書類に署名を加えた。肩越しに見遣ると、それはどうやら遅れている建材の納入を急かす書簡のようだった。
「あの谷に橋を架けるんだろ?」
 単刀直入に訊いてみる。本陣に——レンギョウが作った谷に近づくにつれ、闇の中から姿を現したのは六本の柱だった。二本一組の濃い影が天幕の上で揺らめいている。それが左右と正面に、計三組。
「よくあんな木材がこんなにすぐ調達できたな」
「戦をすれば物は壊れるのが道理。あらかじめ”山の民”へ物資の準備は命じてあったからの。もっともこんな大物を作ることになるとは思わなんだから、支柱の丸太は在庫分しか用意できておらぬ」
 三組ではとても足りぬが仕方あるまい、と老爺は首を振る。確かに皇帝軍すべてを向こう側に渡すには橋三脚では間に合うまい。だがそれ以前に。
「随分作業は順調なようだが。あのでかぶつ、作ってる途中で魔法で狙い撃ちにされないのか?」
 ふ、と呆れたような溜息が返ってくる。
「どうせ壊すなら派手にやる方が良かろう。どの道、魔法を遣うのは国王じゃ」
 クルミはそれ以上説明する気がないらしい。首をひねりながら自力で考えてみる。
 自分が橋を壊すとしたら。確かに建設途中に破壊してしまうのも一手だが、完成するまで山岳地帯から資材はどんどん届くのだ。それでは容易に修復されてしまわないか。
 ならばいつ。物理的にも精神的にも、皇帝軍の立ち直りを遅らせることができる時機は。
「……橋が完成して、俺たちが渡ろうとしている瞬間か」
 大掛かりな突貫工事の完成、そして目前で焦らされた開戦。満を持して今まさに攻め込もうとした瞬間、圧倒的な魔法でできたばかりの橋が壊されたとしたら。
 皇帝軍の士気は一気に低下するだろう。そして場を支配する空気はただ一色に塗りつぶされる。
 『聖王』レンギョウへの恐怖と畏怖に。
『しかしこちらには我がおる。我を携えたおぬしがな』
 耳元に笑いを含んだ声が落ちる。滴るほどの悪意を滲ませて、アサザの首筋にカヤの腕が背後から絡められる。
『無敵のはずの王の魔法が通じぬと悟った時の兵たちの顔……考えるだけで愉快でたまらぬ』
 出陣以降随分大人しかったと思いきや。ここ数日、カヤは楽しい空想に耽ることで忙しかったらしい。今更怒る気にもなれないが、せめて突き放した口調で言ってやる。
「そううまくいくのかよ」
 この化生のご機嫌を取ってやる義理はない。それに地を割ったレンギョウの魔法の凄まじさは先日目の当たりにしたばかりだ。対して破魔刀”茅”の能力は夢の中で見ただけ。感情としても体感としても、カヤの言葉に軽々しく頷けはしなかった。
「うまくいってもらわねば困る」
 鼻白んだカヤの代わりに答えたのは意外にもクルミだった。あくまでアサザの方に視線は向けないまま、今度は何やら手紙に封印を施しているようだ。
「何せ即位したての新皇帝の初陣だからのう」
 来たか。身構えた心を背中のカヤに気取られないよう気をつけたつもりだが、あまり自信はない。
「噂は聞いた。あんたが俺の即位式をとっとと済ませたがってるってな」
 殊更に淡々と言う。いずれこうなることは分かっていたはずなのだ。今は己自身の動揺や戸惑いより、この老人や化生が即位の先に何を求めているのかを見極める方が大事だ。
「……で? 俺はいつ、皇帝になれるんだ?」
「明日にでも」
 間髪入れない答えに、さすがに返す言葉を失う。にやにや笑いながら、後ろからカヤが顔を覗き込んできた。
『もそっと時が必要か? 心の準備とやらが』
「そんなものは必要ない。だが、いくらなんでも早すぎるんじゃないか?」
 アザミ崩御からわずか五日。たったそれだけの時間しか経っていないのだ。あまりにも手際よく進められる手順。まるであらかじめ仕組まれてでもいたかのように——
 思わず息を呑む。急すぎた父帝の死。着々と進められるアサザ即位のための準備。何よりも今まさに国王軍と干戈を交えようとしている、この時機。
 まさか。
「そう睨むでない」
 心底面倒くさげに、クルミはアサザの視線を遮って手を振った。
「おぬしの疑念は分かっておる。だが儂とて千里眼ではない。皇都の出来事まで構っておるほど暇でもないしの」
 千里眼ならあるではないか。背後の化生を、きつい眼差しを緩めないまま振り返る。
「お前は? 関わっていないのか、本当に」
『何のことやら分からぬのう。言いたいことはもそっとはっきり申せ』
 底の見えない冷笑を頬に貼り付かせたまま、カヤはアサザの肩をすいと離れる。
『興ざめだのう。煮えきらぬ男と、過ぎたことをぐちぐち連ねる男は大嫌いだ』
 憎まれ口を叩くだけ叩いて、幼さを残した笑顔はふっと虚空に掻き消えた。思わず舌打ちを洩らしたアサザの背中に、老人の乾いた声が投げられる。
「即位式は四日後の正午、吊橋の完成と同時に行う。終了次第開戦じゃ。そのつもりでおれ」
「……なんだ、明日にでも即位できるんじゃなかったのか?」
 こんな反駁しかできない自分が情けない。案の定クルミは盛大に溜息を吐いた。
「そんなになりたいなら勝手に冠をかぶるなり名乗るなりすればよかろ。そうして好きなだけ雷の的になれば良い」
 準備が要るのじゃ、とクルミは呟く。それは恐らくアサザを即位させるためのものではない。
 己の策を最も効果的に活かすための準備。
 今度息を吐いたのはアサザの方。は、とわざと大げさに肩をすくめてクルミに背を向ける。
「準備でも悪だくみでも勝手にすればいいさ。どの道俺は騙し合いには向いてない」
 天幕の出入り口をばさりと跳ね除ける。篝火に照らされてなお、夜空には幾つかの星が見えた。
 そう。元々ごちゃごちゃした駆け引きに向いている脳みそではないのだ。
 時が満ちれば、真っ向からレンギョウにぶつかっていける。それだけ分かっていれば十分な気がした。
「せいぜい効果的な式にしてくれよ、爺さん。腕の見せ所だ」
 肩越しに精一杯の皮肉を投げつけて、アサザは夜気の中へ逃れ出た。


 乾いた風が草原を吹き抜けた。頭上に雲はないが、ひとつところに幾日も留まり続けている人馬によって巻き上げられた枯れ草と土埃が空に舞う。
 土の匂いを含んだ空気の中、アサザは軽く前方を振り仰いだ。視線の先には天幕の群を突き抜けて空へ伸びる吊橋の橋脚。太陽は早くもその縁を掠めて、天頂に昇ろうとしている。
 戦場に戻って四日。クルミが即位式を行うと宣言した、その日の太陽が昇った。
「皇太子殿、そろそろお時間です」
 金属の触れ合う音を響かせながら近寄ってきた兵士が敬礼を送ってくる。答礼するアサザも当然のように鎧姿だ。その肩に兵士が目を留めた。
「肩布……外さないのですか?」
 ああ、とアサザは苦笑した。皇帝軍将帥を示す緋色と、皇太子を示す紫。二色を指先で引っ張って、無造作に背中に跳ね除ける。
「昼まではこの身分でいられるんだ。ぎりぎりまで着けてるよ」
 むしろ先導する勢いで歩き始めたアサザを追いかけて、兵士が慌てて方向を示す。式典までの控え室として割り振られていたのは国王軍と正面から対峙する吊橋の袂に設置された天幕だった。
「アサザ!」
 入り口を潜った途端、場違いに明るく幼い声が響いた。同時に腹のあたりに飛び込んできた小さな身体を、咄嗟に受け止める。
「カタバミ!? お前何でこんなところに」
 腰にしがみついて見上げてくる瞳は、以前と変わらず丸く人懐っこい。お定まりの藍の衣装に身を包んでいるが、以前見たそれより新しくこざっぱりしているようだ。よく見ると二本のお下げ髪も丁寧に整えられ、どこかよそ行きの雰囲気を感じさせる。
「爺さがおらさこっちば来って手紙さくれたん。こっだば父ちゃんもおるし、おら一人だば山にも戻れんし、ずっと皇都? なんかさおってもしゃあないし。んだから来たった」
 カタバミが差し出した手紙の封印に見覚えがあった。帰還した夜、クルミの手元にあったのと同じものだ。
 ——準備とはカタバミのことか。
 こんな幼い娘まで。湧き上がる怒りを努めて抑えながら、アサザはカタバミの頭に手を載せる。
「そうか。よく来たと言いたいところだが、ここはこれから危なくなる。なるべく早く皇都か山か、どっちでも好きな方に送ってやるから、ちょっとの間大人しく待ってろよ」
 あの老人が意味なくカタバミを呼ぶはずがない。具体的にどう使うつもりなのかなど見当もつかないが、いずれにせよそれがこの少女にとって良いものであるはずもない。
 開戦まで時間がない。それまでせめて安全な場所に。
 しかしアサザの手を邪魔っけに振り払ったのは当のカタバミだった。
「だめ。おら、やることばあるっけ」
「やること?」
 どうやらクルミは既にカタバミへ役目を伝えてしまっていたらしい。下から見上げてくる思いのほか頑固な瞳の光にぶつかって、アサザは危うく飛び出しかけた舌打ちを辛うじて堪える。
「……何を言いつけられた?」
「ん。ちょっと待っててな」
 素早く身を翻して、カタバミは天幕の奥へ引っ込んだ。何やらごそごそ音がしているのは、持参した荷物を漁っているかららしい。すぐに目当ての荷物を引っ張り出すことに成功したのだろう、嬉しげにこちらを振り返る。
「な、見てや」
 カタバミは小さな両腕に抱えた包みを示した。梱包の布を解こうと、小さな指が一生懸命にあちこち動いている。不器用な動きがもどかしくて思わずアサザが腕を伸ばした、その時。
 カタバミの指がようやく結び目を探り当てて、覆いが床に滑り落ちた。少女の腕の中に残ったもの、それを見てアサザの動きが止まる。硬直したアサザの表情にはまったく気づかないまま、カタバミは抱えた品を自慢げに見下ろして笑った。
「爺さがな。山さ下りてからずっと、いつかアサザにやるもんだからまていに作っとけって。何べんもやり直したっけ、こったら綺麗に出来たん」
 カタバミはそれをアサザに差し出した。籐の太い蔓で幾重にも編まれたそれは、この島国の皇帝が戴く冠だった。父の、或いはそれより前の歴代皇帝の即位式の絵図に描かれていたものと寸分違わぬ皇位の証。
 カタバミは小さく首を傾げた。絵図に例外なく描き込まれていた”山の民”の娘と同じように、冠を捧げ持って。
「爺さの手紙に、いよいよこればアサザにかぶせてやれって書いてあったっけ。今日の昼に、これば皆の前でかぶるんよな? したっけ、おら、まだ帰れん」


***************************************************************


<予告編>


草原に横たわる境界線の向こう側、
国王軍の眼前で皇帝領の新時代の幕が開く。
それは紡ぎ手の誰一人として望んではいなかった、
終わりへと続く始まりの儀式。

奈落を渡る一筋の橋を隔て、
レンギョウは旧友へ向けて叫ぶ。

「来るな、皇帝! おぬしを撃ちたくはない!」

暗雲が広がるのは島国の冬空へか、
それとも——

『DOUBLE LORDS』結章2、
白い閃光が膠着を薙ぎ払う瞬間、銀色の終焉が解き放たれる。

——『聖王』よ、己の無力をとくと知るがいい。


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