書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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凍てつく草原の夜気に白い息が溶けるのを、レンギョウは視界の端で見送った。
——そういえば、皇帝領では紫を喪章に使うのだったか。
独りで零す苦笑は、音もなく夜の内に紛れていく。
喪章の色彩、正装の意匠、儀礼の次第、体制の有様——同じ島の中にありながら、王都と皇都の間には数え切れないほどの違いが存在している。それは恐らく、最初にこの国の形を創り上げた先人の——魔王と戦士の違いでもあるのだろう。
昨夜見た夢が、頭から離れない。いつもなら夜明けと共に霧散するはずの夢幻の記憶は、時が経つほどに却って鮮やかに心へと焼きついていく。
蓮の、藜の、楝の、かつてこの土地に生きていた人々の想い。遥かな時を隔てた今、こうして垣間見るだけでも息が詰まるほどに熱を帯びていた、その時間。そこには多くの哀しみや悔いがあった。けれど誰一人として、自分の生き方に迷いを持ってはいなかった。
それが、たまらなく羨ましい。
レンギョウは左の掌を静かに握りしめる。夜に体温を奪われた指先は、わずかにこわばった感触で掌に触れてきた。
今、生きてここにいる自分。
あの夢が実際にあったことなのか、そんなことはどうでも良かった。魔王と呼ばれる人物はかつて確かに存在した。そして、その血筋を受け継いでいるはずの自分が今、ここにいる。
——今の自分に迷いはないか。悔いは、残していないか。
記憶の中の蓮の仕草を辿って、レンギョウは左手を虚空へ伸ばす。どれほど探しても、指の向こう側に星明かりは見つけられない。
「偉大なる御先祖様」
——今、この手で出来ることは、何だろう。
気がつくと、そんなことばかり考えている。記憶の中の蓮のそれより一回り大きな、自分の手。果たしてこの手は魔王と同じように魔法を遣うことが出来るのか。
雷を遣うことは出来る。初めて皇帝軍と見えたあの時と同じように黒雲を呼び、稲妻を望めばいいのだから。
しかし。
「余は」
それを人に、この島の民に向けて放つことは出来るのか。
憎悪と哀切が入り混じった楝の眼差しが胸に甦る。あのように徹底した敵意を、自分は目の前の相手に対して持つことができるだろうか。
皇帝軍に——アサザに。
皇都まであと一日の距離にまで、国王軍は歩を進めていた。自警団の面子が連れて来た新兵たちとの合流はおおむね終わり、シオンやススキも無事に陣中に戻ってきた。もちろん、とうの昔に皇帝領の中に踏み込んでいる。中立地帯との境界線を越える時に抵抗らしい抵抗に遭わなかったのは、相手が皇都に反撃のための戦力を集めているからだ。今日にも皇帝軍は姿を現し、国王軍と矛を交えることになるだろう。
ふいに思い出したのは、王都での別れ際にアサザに向けた台詞だった。
——また、会えるだろうか。
あれからどれ程の時が過ぎたのだろう。たくさんの出来事が起こり、周囲の状況も様変わりして。
「私は」
レンギョウは変わった。聖王として立つことを望み、迷いながらも今、こうして戦の中心にいる。ここに至る途中でたくさんの人を死なせた。忘れがたい緋色の面影は、思い出すたびにレンギョウの胸を深く抉っていく。
アサザも変わっただろう。先ほど、皇都のスギからの報告が届いた。
今朝、皇帝軍将帥アサザが十万の兵を率いて皇都を出発したと。
軍を率いる長として、弟を失った兄として。レンギョウに向けられる眼差しはもう、以前と同じものではなくなっているだろう。それがたとえどんなに激しい憎悪であったとしても、レンギョウは受け止めるつもりだった。
それが自身で選んだ道ゆえに。
きり、と鳩尾が痛んだ。ここ最近、すっかり馴染みになった痛みだ。元々そう多く食べる方ではないが、戦が始まってからは輪をかけて食が細くなっている。
夜中に目が覚めることも多くなった。眠り自体が浅いのか、寝つきもあまり良くない。夢と現とを何度も行き来した末に、ついには眠ることを放棄して天幕を抜け出す、そんな日々。
眠れぬ夜の果てにあの夢を見て、ようやく気づいた。
レンギョウは今、魔法を遣うことがたまらなく怖い。
「よう聖王様、こんな夜更けにお散歩かい?」
ふいに掛けられた声に、振り向く動作は自然と鋭くなった。透かし見た闇の中、鷲鼻の大男が天幕の陰から顔を覗かせている。
「イブキ、何故ここに」
「随分な言い草だな。左翼に放っておくと問題ばっかり起こすからって、こっちに呼び戻したのはあんただろ」
魔法部隊の貴族たちがイブキを拒んだのはいつのことだったか。あの後、とりあえずの措置として貴族たちをレンギョウ直下の国王軍陣内に戻し、宙に浮いたイブキには当面単身で国王警護の任につくよう命じておいた。志願兵集めからウイキョウが戻り次第、新兵預かりの任を引き継いで異動する手筈になっており、レンギョウが今宵就寝した時点ではまだ左翼に残っていたはずだ。
「引き継ぎは終わったのか」
「ああ。俺は仕事熱心だからな。雑用をとっとと終わらせて新任務にやって来たってわけだ」
「仕事熱心、のう」
素直に呆れたいところだが、この男の軽口は妙に愛嬌があって憎めない。だからレンギョウもつい、常にない切り返しで答えたくなる。
「余の傍では泥酔剣とやらは控えてもらうぞ」
「何ぃ!? 俺の最強奥義を封じるとは、正気か陛下!」
「……酒が過ぎて頭の中身が溶けておるのではないか?」
「そんなことはないぞ。不老長寿の薬だ、あれは」
しゃあしゃあと言い放つその顔を、レンギョウは呆れ顔で見上げる。
「おぬし、物忘れを治さぬまま長生きする気か。さぞ周りが苦労しように」
イブキは驚いたようにレンギョウを見下ろして、一呼吸置いた後大笑いした。
「おとなしそうな顔をして、陛下もなかなか口が減らないお方だ」
「以前はそうでもなかったが。最近抱えた臣下からでも移ったのかのう」
ふと笑いを引っ込めて、イブキはまじまじとレンギョウを見つめた。
「……俺を臣下だと認めていらっしゃるのか」
「おぬしこそ、余を主だと認めておるのか」
高低差の狭間で鋭い視線が交差する。
「以前から訊ねたいと思っていたのだ。おぬしは何故、余の許に参じた? 縁のある皇帝軍の方が前歴とて活かせように」
張り詰めた空気の中、先に肩の力を抜いたのはイブキの方だった。
「言っただろ? 皇帝領じゃ俺はお尋ね者だって。今更のこのこ馳せ参じたところで、待ってるのは牢屋暮らしだけだ。それに」
わずかに言いよどんで、イブキはぽつりと付け足した。
「あっちには俺のせいで母親を亡くしたガキ共がいる。合わせる顔なんてねえよ」
瞬時に思い出したのはアサザとアカネの顔。そういえばもう一人、兄がいると言っていたか。
そこまで考えて、レンギョウはあることに気がつく。イブキが最初に示したのはアカネを捕らえる策だった。その身を害する手段ではなく、あくまで無傷で生かす方策。その思惑が打算ではなく、かつて誼のあった相手への情から出たものだとしたら。目線を逸らしたイブキの横顔を、改めて見上げる。
「もしやおぬしは、こちらにつく事で皇子たちの身を守ろうとしたのか?」
「そんな大層なもんじゃねえよ」
即座の否定。けれど。
「結局守りきれてねえんだし」
ぼそりと零れた言葉を誤魔化すように、イブキはぱんと大きな掌を打ち合わせた。
「おじさんの過去話なんざどうでもいいんだよ。それより、陛下には夜が明けたら大仕事が待っている。できれば大人しくお休み願いたいところだが……どうしても気晴らしにそぞろ歩きしたいと仰るなら付き合うぜ」
「酔いどれの護衛など要らぬ」
「失敬な、今は素面だ」
頬に笑みを残したまま、レンギョウは天幕を離れた。手ずから囲いの柵を開け、するりとすり抜ける。イブキは何も言わずについてくる。
夥しい篝火に照らされながら、陣中は穏やかに寝静まっているように見えた。暁を迎えれば、いよいよ戦いが始まる。天幕の中には不安に震える兵士が少なからずいるのかもしれない。けれどそれは今のところレンギョウの目に付くような形では現れていない。
「みんな聖王様を信じてるんだよ」
イブキの言葉に、また胃がずきりと痛んだ。答えぬまま、レンギョウは草原が望める方向へと歩を進める。前方に風にそよぐ草の海が見えた瞬間、思わず詰めていた息がこぼれ落ちた。
「腹、痛むのか?」
イブキが横目で様子を窺っている。無意識に鳩尾を押さえていた手を離し、レンギョウは姿勢を正した。
「大事ない。それより明日の布陣についてだが」
「ああ、さっき軍師の嬢ちゃんが何か置いてってたな」
イブキは懐からくしゃくしゃの書類を取り出した。恐らくまだ目を通していないのだろう。かけらも悪びれた様子のないイブキに半ば呆れながら、レンギョウは再び草原の彼方に目線を巡らせた。
「それには地図が描いてあるはずだ」
「地図?」
地平線を見つめたままレンギョウは頷く。地図の原本は新兵集めから戻ったばかりのシオンに無理を言って探させたものだ。主だった面子に渡したのは大急ぎで作らせた写しだが、それが今回の戦で重要な役割を占めることに変わりはない。
「おぬしの生命を守るやもしれぬ地図だからのう。皇帝軍が来るまでによく読んで頭に入れよ」
「ふぅん」
大して興味もなさそうに、イブキは欠伸交じりの返事を返してくる。
「まぁ確かに、この辺りは南部の草原とは少し様子が違うからな」
目の前に広がる草の海には、北方を指してまっすぐに石畳の街道が敷かれている。様子が違うと言うイブキの言葉は、街道の両脇に見えるのが草だけではないことを指しているのだろう。
丈の短い草に混じって、馬車ほどもある大岩がそこかしこに角を覗かせている。左手には北部山岳地帯の最後の稜線が連なりながら伸びていた。転がっている岩と山肌は共に白みを帯びた褐色をしている。
「ここでは地下に川が流れているのであろう。普段は見えないが、雪解けの時期にだけ地上に水が溢れると聞いた」
「よくご存知で」
レンギョウの言葉にイブキが驚いたように目を丸くする。
「あの岩くれは春先に山から押し流されて、そのまま残ってるやつだな。ほとんど毎年のことだから、皇帝軍も街道以外はいちいち掃除なんざしない」
そこまで話して、イブキはにやりと目を細めた。
「その隠れ川を利用するつもりかい、陛下?」
「さあのう」
作戦に関する詳しい指示は関係する全員に、同時に出したい。明言を避けたレンギョウに、イブキはにやにや笑いを向けたまま言葉を続けた。
「そういや俺のご先祖もその昔、地下水脈を辿って移動したことがあるって聞いたな」
「先祖?」
「ああ。初代戦士の部下でグースフットって御仁だが……陛下が知るわけねぇよなぁ」
グースフット。軽く目を見開いたレンギョウを認め、イブキは再び驚きの色を浮かべる。
「……国王の英才教育には、皇帝領の歴史まで入ってるのか?」
「いや、そういうわけではないが」
夢で見たなどとは、とても言えない。歯切れの悪いレンギョウにやや訝しげな視線を向けつつ、イブキは問う。
「そういえば陛下は、第三皇子への対応もやけに親しげだったな」
この島に不可侵条約がある以上、国王と皇帝の血族が顔を合わせることなど考えられない。当然、親しくなる機会などないはず。それが常識だ。
国王と戦士——皇帝は対立しつつ並存を続ける存在。この国が始まって以来連綿と続く歴史は、常にこの前提の下に成り立っている。
けれどレンギョウは、通常ではありえない出来事を体験していた。すべての始まりとも言える、あの月夜の邂逅。
「……アカネを知っていたわけではない。あの者の兄を——アサザを、知っているのだ」
「第二皇子を?」
問いたいことは幾つもあるだろう。けれどイブキの気配は尋問ではなく静聴のそれに切り替わったようだ。先を促す沈黙の中、レンギョウは言葉を選びながら記憶の景色を辿る。
「ちょうど自警団の者たちが初めて謁見を求めてきた頃だった。あやつは突然、王宮深くの森の中に湧いて出たのだ」
たった一昼夜の記憶。けれどそれは紛れもなく、今国王軍を率いている『聖王』の原点になった時間だった。草原で眠った夜、二つの領主の狭間に置かれた自警団の現状、そして何より戦士に列なる者すべてが敵ではないと信じる心。国王自ら皇都を目指すという今回の戦略の中には、再会を望み、アサザとの縁が切れぬことを願うレンギョウ自身の心が少なからず反映されている。
共に領民を従える身だ。兵を率い、戦場で見えることになる可能性は予測していた。それでもいざ、その時を目前にすると。
「まさかあやつとの再会がこのような形になるとはのう」
ただ純粋に再会を願っていたかつての自分と、多くの屈託を抱えた現在の自分。それでもなお、成せることは何なのか、迷い続けていることに変わりはない。
「成程、そういう経緯があったのか」
黙ったまま話を聞いていたイブキが重たげに口を開いた。
「ずっと引っかかってはいたんだ。正直言って、皇帝軍に対して陛下が言い出す案はどれも甘い。陛下のご性格を考えるならそれも当然かと思っていたが、率先して異を唱えるはずの自警団までもが言われるままにその案を採る。むしろ身内の貴族どもの方が仲間はずれ気分を味わって陛下に直訴する始末だ」
イブキに向き直り、レンギョウはまっすぐその顔を見上げる。徐々に白んできたとはいえ、空はまだ深い紺色に染まっている。篝火が作る逆光の中、イブキの姿は闇そのものを切り取ったかのようだ。
「陛下、これだけは言っておくぞ。一枚岩じゃない兵は脆い。崩れる時は一瞬だ」
地の底から響くような低い声。レンギョウの願いも、自警団の思惑も、貴族たちの不満も。ここに集った総ての者が秘かに抱く不安を映すかのように、黒い人影は言葉を続ける。
「ここにいる奴らに共通していることは、ただ一つ。陛下、あんたに希望をかけたってことだ。だからあんたが崩れた瞬間、すべてが終わる」
「それは違う。余は」
「違わないさ。あんたがどう思っていようと、集まった兵士たちが陛下の魔法に期待している事実に変わりはない。あいつらは魔法がある限り、自分たちが勝てると信じている」
また、夢の情景が視界を掠める。そして、自分自身の緋色の記憶も。
魔法があればすべてうまくいく。そんな幻想を、何故こうも容易く人は信じ込んでしまうのか。
「余は……魔法は、万能ではない」
「だろうな。だが敵も味方も、あんたの魔法を中心に戦いを組み立てているのが現実だ。魔法ってのはそれくらい大きな戦力だ。それは否定できないだろう?」
レンギョウは拳を強く握り締める。今にも震えそうになる心を保てるように。揺れて逸れそうになる視線を、目の前の影に定めたままでいられるように。
「皇帝軍は魔法が来るのを恐れている。国王軍は魔法が放たれるのを待っている。勝機を決める一瞬に、肝心のあんたが躊躇ったらどうなる?」
闇の帳の中に夢の、現実の、幾多の面影がちらついては流れていく。皇帝軍の干戈の煌きの先頭に立つのは、あの若葉色の瞳をした女戦士だろうか。それとも。
「今のあんたに、アサザ殿下に向けて魔法を振るう覚悟はあるのか?」
拳が跳ねるのを、今度は抑えられなかった。
戦士の黒鎧に身を包んだアサザの像を鮮明に結べたのは、夢で見た藜の武者姿の記憶のせいだろう。黒一色を纏ったアサザが切っ先を向ける。対するレンギョウは右手の指先でアサザを指し示す。
——かつての戦士と魔王のように。
『聖王』が採る行動なら、なすべきことは分かりきっている。目の前の戦士の末裔を魔法で屠り、その勢いのままに皇都へ攻め上って皇帝から実権を奪い返し、この島国を統一するのだ。それこそが国王領の民が望む戦の結末であり、中立地帯にとっても生活の安定に繋がる大きな成果となる。
けれども、レンギョウ個人——『レン』は。
今の今まで、あえて考えないよう意識して避けてきた場面だった。たとえ憎しみに満ちた目をアサザに向けられようとも構わない。けれどアサザが攻撃という手段でレンギョウに向かってきたら。いつも思考はそこで止まってしまい、次の場面を思い浮かべることができなくなる。
自分は一体、どうしたいのか。
身中で感情が激流と化していた。そのどれもが強く、激しすぎてレンギョウ自身も押し流されそうだった。
いつしか夜の終わりを告げる暁星が空に浮かんでいた。儚い星明りを映して、影と化していたイブキの瞳にも光が宿る。
「殺す覚悟と、殺される覚悟はまったく別のものだ。どちらを選ぶにせよ、その瞬間に悔いないようにあんたなりの答えを見つけておいてくれ。あんたが迷った分だけ、兵は死ぬ」
太陽が草の彼方から今日初めての光を投げかけてきた。白い光から瞳をかばうように、イブキはレンギョウに背を向ける。
「それでも、自分の力を怖がるってのは悪いことじゃないと俺は思うぜ。何も考えずにそんなものを振るわれることの方が余程怖いからな」
レンギョウは黙して答えない。拳の震えは止まっていたが、暁光の中にあってもその顔は決して晴れてはいなかった。
結局その後、レンギョウは一睡もせずに朝を迎えた。用意された朝食の膳は喉を通らず、かろうじて添えられた干し林檎だけを水で無理矢理に流し込んだ。
頭がうまく働かない。腹の底の重いしこりはどれほど溜息を吐いても減ることはなかった。解っていても、また一つ息を落とす。胃の腑を駆け抜ける痛みを意識の外に追いやって、レンギョウは席を立った。
潜り抜けた入り口の外、広い草の海の中に一筋の道が浮かんで見える。皇都へと続くこの国最古の街道の石畳は、膨れ上がった国王軍の蹄鉄の下でおののくように震えていた。
光満ちる草原に立ち、レンギョウは周囲を見渡した。前方にまだ皇都の姿は見えない。ただただ柔らかく草の波が揺れ、時折鋭い岩の先端が覗くだけだ。
その草原に、兵の布陣が始まっていた。
街道を横切るように、先鋒を務める自警団の精鋭たちが整然と移動している。乱れなく並んだ鉄兜の群れが、時折日の光を照り返して鈍く輝く。
レンギョウの周囲には正規国王軍の白鎧が、一分の隙もない警備を敷いている。
さらに後方には、自警団と同じ鉄色の人波が続いている。しかしこちらは数が多い割には整然とした隊列にはなっていない。支給されたばかりの慣れぬ鎧を身に纏った、中立地帯からの志願兵たちだ。
人、人、人。長く細く続く街道に溢れんばかりに続く聖王麾下の兵は、今や十二万を数えていた。
最後尾のさらに後ろには、雪を頂いた山岳地帯の峰々が霞んでいる。その峻厳な稜線は、平地が多い南部で生まれ育ったレンギョウには馴染みの薄いものだった。澄み切った青空に寒々と聳える雪峰から吹き降ろす風の冷たさに、思わずレンギョウは肩をすくめる。無意識に落とした視界の中、足元の石畳の角はどれも丸みを帯びていた。石材が磨耗するほどに長く過ぎた時、そして今この道を踏んで進む人々の思い。
これが自分に——『聖王』に託された希望。数の重さが実感を伴って背中に圧し掛かる。思い出したのは初戦の後、執務机に積み上げられた犠牲者の名簿だった。あの時とは兵力の桁が違う。ここにいる中で、この戦を最後まで見届けられる者は一体どれだけいるのだろうか。兵を起こした以上、犠牲を皆無にすることなどできない。それは前回の戦いでいやというほど思い知った。
なればこそ、せめて出来る限り多くの兵を故郷へ帰せるよう、欠ける人数までが桁違いにはならぬよう。
魔王はより多くの敵を倒すために魔法を遣った。ならば聖王はより多くの民を生かすために魔法を遣いたい。
蓮が出逢った藜、レンギョウが出会ったアサザ。
立つ陣営が違おうと、相手は自分と同じ人間に違いない。そんな当たり前の、けれど何より尊い事実を、二人の戦士は教えてくれた。
人を生かすための魔法。それを遣うことは、強大な雷を揮うことより余程難しいことなのかもしれない。けれど。
レンギョウは独りではない。
とりとめのない思考から浮かび上がった視界の中、共にこの困難に立ち向かってくれる仲間の顔を見つけて、思わず肩の力が抜ける。
「随分難しい顔をしてたわね、レン。眉間に皺ができてたよ」
「いつから見ていたのだ。近くにおるのならすぐに声を掛ければ良かろうに」
紫の瞳に笑いを含ませながら、シオンは小さく肩をすくめて見せた。
「下手に声なんてかけたら、また新しいお仕事を言いつけられるかと思って。意外とレンって人遣い荒いから」
中立地帯で兵を募っていた彼女が合流したのは昨日のことだ。そう、ちょうどあの夢を見た日の朝だったか。いくら生々しい情景だといっても所詮は夢、レンギョウはシオンにその話はしていない。けれど目覚めた後思いついたいくつかの作戦案は、その日のうちに打診していた。明け方にイブキが持っていた紙片は、レンギョウ自身がシオンに配布を指示していたものだ。確かに人遣いが荒いと言われれば返す言葉は見つからない。
「すまぬな。おかげで作戦に目処を立てることができた。礼を言う」
「……そう言われちゃ、怒るに怒れないわ」
生真面目な顔で言うレンギョウに軽く睨みをくれて、シオンは丸めた大判の書類を差し出した。
「さ、これがお望みの地形図の原本よ。地図の写しを配った人たちにも一度集まるよう声をかけておいたから、すぐに来ると思うわ」
「うむ」
地図を受け取って、レンギョウは地平線へと目を向けた。太陽はまだ草原の縁をなぞる位置にいる。
皇帝軍が来るまで、まだ時間はありそうだった。
傍らに張られた国王専用の天幕にシオンを招き入れ、早速卓上に図面を広げる。日に焼けた古紙には皇都周辺の地勢が詳細に描かれていた。本来なら皇帝領は自警団の守備範囲外のはず、それでも乞えばものの数日でこれだけの地図が出てくる。その情報収集力に改めて嘆息しながら、レンギョウは紙上に指を走らせる。
注文したのは可能な限り正確なこの付近の測量図。目指す印は探すまでもなく見つかった。赤い点で示された箇所で、レンギョウの人差し指が止まる。
「現在位置は、これか」
シオンは無言で頷く。
この場所に兵を止めたのは昨日のこと。それでなくても遅かった兵の足を止めたのには理由がある。
まず、皇都に近づきすぎないため。今回の親征の最終目標が皇都入城である以上、その前に皇帝軍と衝突することは避けられない。いたずらに戦禍へ皇都の民を巻き込むことはレンギョウの本意ではなかったし、もちろんシオンも望んでいない。自然、戦場になる地点は皇都より手前で選ばれた。
シオンの帰還と前後して、中立地帯中に散っていた他の自警団の面子も続々と合流していた。彼らが率いてきた志願兵の編成を一段落させ、馴染ませるための待機時間が欲しかったこともある。
けれど何よりも、レンギョウにはこの場所に留まりたい理由があった。現在位置から程近い地点を確かめるように辿り、シオンへと問いかける。止まった指の先には、黒く丸で囲われた箇所があった。
「例の場所は、ここだな?」
シオンは軍師の顔で頷いた。
「ええ。昨日、測量ができる団員に見てもらったから間違いないわ」
ちらりと見上げる紫色の瞳に、わずかに気遣わしげな色が浮かぶ。
「でも、本気でこんな大掛かりなことをするつもりなの?」
「本気でなければ、忙しいこの時期におぬしをこき使ったりせぬよ」
苦笑交じりに言って、レンギョウは地図から目を離す。手早く地図を纏め、殊更に軽い口調で付け足した。
「上手くいけば双方の犠牲者を最小限に抑えられよう。皇帝領の民を、無闇に傷つけることが目的ではないのだからな」
「……そうね」
失われる命をできる限り少なく。同じ目的を確認しあうように、二人は顔を見合わせてもう一度頷き合った。
時機を見計らったかのように、天幕の外に人の気配がした。一呼吸空けて入り口の幕を上げたのは、国王軍の衛兵だ。
「スオウ殿、ススキ殿、ウイキョウ殿、イブキ殿が参られました」
最初に天幕に入ってきたのは魔法部隊の貴族だった。その後に自警団の二人が続き、最後にイブキがのっそりと姿を現す。現在、国王軍を動かしている実働部隊の責任者たちだ。
「皆、忙しい中よく来てくれた」
言いながら、レンギョウは素早く彼らの表情を確認する。貴族のスオウはあからさまにイブキを無視している。当のイブキはまったく意に介していない様子で普段と変わらず飄々としていた。ススキも相変わらずの軽軍装を纏ったまま沈黙を続けている。最後にウイキョウに目を留めた。巌のような大男は、いつもと同じように静かにレンギョウを見下ろしてくる。
レンギョウは決して背が高い方ではない。実働部隊の面子と向かい合う時はいつでも顔を見上げる形になる。これまであまり気にしたことはなかった事実を、ふいに不安に思ってしまったのは何故だろう。
身長差と一緒に突きつけられているのは、レンギョウ自身の幼さではないのか。
——自分の提案は、とても子供じみた感情論でしかないのではないか。
「……何か」
無意識にじっと見つめてしまっていたらしい。ウイキョウの顔に、珍しく戸惑いが浮かんでいる。
「ああ、すまぬ。何でもない」
ここで思い悩んだからといって急に背が伸びるわけでも、事態が変わるわけでもない。頭を一つ振って、レンギョウは思考を切り替える。
「集まってもらったのは他でもない。皇帝軍と接触する前に皆に伝えておきたいことがあるのだ」
言って、レンギョウは一同を卓の傍に招いた。机上に全員の視線が集まった頃合を見計らって、指先で現在位置の印を示す。
「この辺りには雪解けの時期にだけ流れる川がある。普段は地下に潜っているせいで、川筋を見ることはできぬがのう」
調査を担当したシオンがレンギョウの言葉を裏付けるように頷く。皆の表情を見渡しながら、レンギョウは言葉を継いだ。
「ここは皇帝領だ。本来ならば地の利はあちら側にある。だがどういうわけか皇帝は、余らがこんなにも近づくまで対抗策を採らなんだ。数日前に急遽整えた兵では、目に見えぬ地形まで考慮して布陣する余裕はなかろう。今回はそこを利用させてもらう」
「利用?」
訝しげな声はススキから。同じく説明を求める面々の視線を一つ一つ見返しながら、レンギョウは再び地図中の見えない川筋を指先で辿った。
「シオンに調べてもらったのだが、この地図に描かれた地下の川はそう深いところに潜っているわけではなさそうなのだ。これなら、余の魔法で天井を壊すことができる」
しん、と場が静まった。
「……天井を壊す、だと」
「地上には大きな谷ができることになるのう」
「そんなことが、本当にできるのか?」
「恐らく、な」
ススキの目をまっすぐに見返してレンギョウは答える。
自分が本当に蓮と同等の魔力を持っているのならば。また、夢で見た戦場の景色が瞼に蘇った。一面の焼け野原、降り注ぐ雷の雨。
「だからおぬしらには、前線にいる兵たちへの指示を徹底してもらいたい。落盤に巻き込まれぬよう、余の命があるまで決して前進してはならぬと」
かつての魔王は、敵を倒すために魔法を遣った。ならば自分は、何のために魔法を遣うのか。
「ここは皇帝領だ。そして今ここに集った多くの中立地帯の民、そして我が領民。生まれた場所は違えど、余にとっては皆、大切なこの国の民だ」
掴みかけた答えを逃さぬよう、レンギョウは胸元で右手を握りしめる。レンギョウの望み、そして蓮が抱いていた本当の願い。
「余は、余の力で皆を守りたい。犠牲を少なくするためならば、余にできることは何でもしよう。そのために——おぬしらの力を余に、今しばらく貸してくれぬか」
再び場に沈黙が降りた。しかし先程の静けさとは種類が違う。その証に沈黙を破ったのは誰かの声ではなかった。かすかな身じろぎの音に、レンギョウの瞳が大きく見開かれる。
「……ススキ」
姿勢を正し、右拳を左手で包んでレンギョウに相対する姿。それは拱手と呼ばれる、国王軍の兵が国王に対してのみ取る最上級の礼だった。勿論、中立地帯自警団であるススキがこれまでレンギョウにそのような礼を示したことなどない。
「第八代国王レンギョウ陛下。我が自警団がご助力を請うたのが貴方で、本当に良かった」
静かに落とされる飾りのない言葉。それは長年に渡って『均衡の分銅』を強いられてきた人々の声そのものに聞こえた。
「ここに集った中立地帯の民十二万の思いを、決して無になさらぬよう。何とぞお願い申し上げます」
「これから先もおぬしらの気持ちを無視するつもりはない。まして命を無駄にすることは絶対にせぬ」
ススキは無言で頭を下げた。ふと見ると、ウイキョウも己が右拳を包んで礼を取っている。
二人の姿に一番驚き慌てたのは貴族のスオウだった。自警団に遅れじとばかりに、泡を食って拱手の構えを見せている。
シオンはスオウの慌てぶりに吹き出しながら、それでもほっとした顔でレンギョウに笑いかけていた。
一人、イブキだけは複雑な表情でその光景を見渡している。気づいてはいたが、レンギョウはあえてそれを黙殺した。
そう。この場でいかに綺麗事を並べようと、現実では何が起こるか分からないのだ。気持ちとは裏腹の出来事はいくらでも起こりうる。
それでも。
今、レンギョウの望みを皆に知ってほしかった。たとえ理想論に過ぎなくとも、これから辿る過程でいつかレンギョウの言葉が道標になる時が来ると信じて。
希望はいつでも、叶えようと思わなければ達せられないのだから。
ついに皇帝軍が姿を現した。
報を受けてレンギョウが天幕を出ると、前方に黒い人波が雲のように湧き起こっているのが見えた。鋼の鎧に身を纏った兵馬の群が見る間に膨れ上がっていく様、地面を通じて心身の奥底に伝わってくる無数の馬蹄の響き、重苦しく威圧するような空気。
「……アサザ」
この中のどこかに、いるのか。
頭を振り、意識して思考を切り替える。夏雲のように鋼の軍隊は膨れ上がり、なかなか全貌を現さない。スギからは十万の大軍だと報告が入っている。こちらの人数は十二万。数の上では有利に見えるが、実態は昨日今日集まった民たちがありあわせの鎧を着て武装しているだけだ。間違っても皇帝軍の正規兵と同列に考えてはいけない。
実際に戦力と見做せるのは最前列に配置した古参の自警団三万、それに国王軍二万。
約半数の兵力では勝利はおぼつかない。しかしどの道、皇帝との話し合いを求めることから始まった行軍だ。だから必ずしも皇帝軍に勝つ必要はない。ただ、負けない方法を考えればいいのだ。
国王軍の布陣は完了していた。次第に隊列を整えつつある皇帝軍に相対するのは自警団の精兵たちだ。ススキ、ウイキョウがよく纏めてくれているおかげで、大軍を前にしても動揺することなく静かに次の指示を待っている。
イブキは少数の自警団員をつけて後方の新兵七万の抑えに行かせた。新兵たちはとにかく人数がいる。なまじ不慣れな武器を持たせて戦力にするより、その数自体を以って皇帝軍を威圧する方が効果はある。意図通りの働きをしてもらうためには、勝手な暴走だけは謹んでもらわなくてはならない。
今、レンギョウの傍にはシオンとスオウが残っている。魔法部隊の貴族たちも皆、顔を揃えていた。彼らにはこれからレンギョウが行う魔法の援護をさせる手筈になっている。
じっと相手の陣地を見ていたスオウが、ふいに息を呑んだ。
「どうした」
「あの騎兵は、もしや」
言われてレンギョウは目を凝らす。皇帝軍最前列の中央、一際目立つ位置に陣取った騎兵がいる。突撃の命令を待ちかねるかのように地を掻く馬の脚、それに合わせてたなびく、乗り手の兜から流れる若葉色の飾り紐。
「……あの時の副将帥か」
——私はあなたを許さない。
向けられた激しい眼差しと言葉が、瞬時に思い起こされる。
憎まれるなら、それでもいい。あの日許されることのない罪をコウリは犯し、レンギョウは抱え込むことになったのだから。
痛むのは胃の腑だろうか、それとももっと奥深くのどこかだろうか。その場所を確かめるように拳を握り、再びレンギョウはまっすぐに彼方のブドウの姿を見つめる。
たとえどんなに憎んでくれても構わない。それがあの女戦士の生きる糧になるのならば。
「レン、そろそろ」
相手の布陣もあらかた終わったようだ。増える一方だった兵の動きが収まり、整然とした列となってこちらに向いている。
ふいに沈黙が訪れた。鎧の擦れる音も、馬具の煌やかしい響きも。咳の一つさえも憚られる静寂の中、レンギョウは努めてゆっくりと精神を集中する。このように大掛かりな魔法を遣うのは初めてのことだ。しっかりと地に着けた踵の向こう側、そこにあるはずの水脈を求めて下へ、下へと意識を潜らせていく。
「……見つけた」
位置はちょうど、両軍の間。狙い通りの場所に黒々と横たわったその空洞に目を据えたまま、レンギョウは瞼を上げる。右手で指し示したその位置へ、スオウはじめ魔法部隊の貴族たちも意識を集中し始める。
皇帝軍にも動きがあるようだ。俄かに慌しくなった相手陣地を見つめながら、レンギョウは発動の時機を見計らうために目を眇めた。
最早場の空気は沈黙ではなく、雑多な音が入り混じっているのだろう。けれど集中を解いていないレンギョウの耳には何も入ってはいなかった。
空は晴れている。こんな状況でなければ、気持ちのいい晴天だと笑いあうこともできただろうに。
そう思った瞬間、視界を何かが横切った。
「……鷹?」
思わず目で追った精悍な鳥の姿は、軽々と両軍の頭上を飛び越えてまっすぐにレンギョウの方へと向かってくる。見る間に近づいてきた鷹は高く啼き声を放ち、傍らのシオンの腕へと一直線に舞い降りた。
「スギの緊急連絡だわ。ごめん、こんな大事な時に」
鷹に餌を与えるのももどかしく、シオンは脚に括られた紙片を抜き取る。畳まれた紙を開き中を見た瞬間、シオンは大きく息を呑んだ。
「……嘘」
「どうしたのだ、一体?」
問いに返ってくる言葉はなかった。代わりに差し出されたのは、今しがた鷹が届けてくれた紙片だった。
訝しく思いながら、レンギョウは紙を覗き込む。記されていたのは走り書きの言葉、ただ一つ。
——皇帝アザミ、崩御。
意味を呑み込むまで、数拍の時間が必要だった。そこに書かれた事柄を理解するより先、咄嗟に彼方の皇帝軍を見やる。
「アサザは、知っておるのか」
思わず落とした呟き。集中に入っていたはずのスオウが、ただならぬ気配を感じて顔を上げた。
皇帝軍は今しも動き出そうとしていた。整然と整った陣形、乱れのない統率。そこに動揺など、ましてや悲嘆の影など見えるはずもなく。
疑念が確信に変わった。
知らない。
皇帝軍にはまだ、この報せは届いていない。
「すまぬ、打ち合わせと少し手順を変える」
言って、レンギョウは地の底へ向かっていた意識を高く空へと上げ直した。吹き抜ける風が皇帝軍に向かっているのを確認して、その流れを捕まえる。
——止めなければ。
身を貫くのはその一言だけだった。
領主と仰ぐ者の、戦場へ行けと命じた者の——実の父の訃報を、戦の最中に聞かせたくはない。
「聞け、戦士の末裔たちよ」
風の流れに乗せて、レンギョウは彼方の皇帝軍へ——アサザへと、声を届ける。なるべく自身の動揺を見せぬよう、威厳のある様子を装って。
「急ぎ皇都へ戻れ。さもなくば皆ことごとく、我が魔法の餌食となるぞ」
戦場を吹き抜ける風が、敵味方の別なく兵たちの耳に『聖王』の言葉を広めていく。ぎくりと動きを止めたのは皇帝軍、その隙を見逃さずにレンギョウはスオウら魔法部隊に合図を出す。
貴族たちが一斉に地に手をついた。レンギョウ自身、先ほどまでの集中を取り戻して地の底へと意識を沈めていく。
地が揺れた。
睨み合う両軍が同時に平衡を失って蹲ったちょうど真ん中に、巨大な亀裂が走る。轟音は遅れて耳に入った。その後はただただ、突き上げる振動と舞い狂う土埃に行動と視界を奪われて、レンギョウも含めたその場の全員が地に伏せて揺れが過ぎるのを待つことしかできない。
耳を覆う残響が過ぎ去った頃、レンギョウは顔を上げて空を見やった。ただ一羽、上空へと難を逃れた鷹が濁った空を翔んでいるのが見える。重い疲労が身体全体を包んでいた。やはりここまで大きな魔法は体力を削るものらしい。
国王軍側の兵たちもまた、徐々に動き始める。レンギョウの魔法で地震が起こると、あらかじめ知らされていたおかげで比較的混乱は少ないようだ。
皇帝軍の様子は、ひどい土埃にまみれてまったく掴めない。呼吸を整えて、レンギョウは今一度草原に風を吹かせた。
冷気と土埃を含んだ風が南から北へと駆け抜ける。ぱちぱちと細かい音がするのは、風下にいる皇帝軍の鎧に砂粒が当たるせいだろうか。
風が抜けた草原には、深い谷が刻まれていた。まるで国王軍と皇帝軍を分かつように、大地に深々と描かれた一条の線。できたばかりの亀裂の断面からは、未だ石くれがころころと奈落へと落ち込んでいく様が見える。
皇帝軍は。
一兵たりとも欠けることなく、亀裂の向こう側にいた。今もなお、動揺することすらできずにぼんやりと谷を見つめているようだ。
これでいい。
疲労の中、レンギョウは小さく笑った。本来なら双方の犠牲を最小限にするために遣うはずだった魔法。しかし今、この谷の向こう側にいるはずの友を父の元へ帰すために遣ったことに後悔はなかった。
状況は激変している。皇都を目と鼻の先にして、話し合うべき相手がいなくなってしまった。時間が欲しいのはこちらも同じだった。
——アサザが皇帝になるのなら。
淡い希望が胸元をよぎる。アサザならば、話し合いの申し出にも応じてくれるのはないか。
約した再会が後の世にも何かを残せるのだとしたら、レンギョウがここまで来たことは決して無駄ではなくなる。
もう一度、皇帝軍に目を向ける。間もなくあちらを包むであろう悲報を思うと胸が痛んだ。だがその先には決して悪いことばかりが待っているわけではない。
大地に引いたこの線を自分かアサザが越える時、きっと何かが変わる。
祈りを籠めて見遣った草原の彼方、皇都の方角から深い紫の弔旗を掲げた早馬が駆けてくるのが見えた。
<予告編>
大切なものは、
ずっと変わらず傍に在ると、思っていた。
ついに開かれた戦端、
新皇帝の即位。
紡がれる歴史の表で、裏で、
掌から零れてゆく、
煌やかな残像。
——俺たち、勝てますよね。
——何が勝ちで、何が負けなのか。
——これが、戦というものだ。
『DOUBLE LORDS』結章、
この長い物語の、終わりを始めるために。
「お前は、生きてくれ」
——そういえば、皇帝領では紫を喪章に使うのだったか。
独りで零す苦笑は、音もなく夜の内に紛れていく。
喪章の色彩、正装の意匠、儀礼の次第、体制の有様——同じ島の中にありながら、王都と皇都の間には数え切れないほどの違いが存在している。それは恐らく、最初にこの国の形を創り上げた先人の——魔王と戦士の違いでもあるのだろう。
昨夜見た夢が、頭から離れない。いつもなら夜明けと共に霧散するはずの夢幻の記憶は、時が経つほどに却って鮮やかに心へと焼きついていく。
蓮の、藜の、楝の、かつてこの土地に生きていた人々の想い。遥かな時を隔てた今、こうして垣間見るだけでも息が詰まるほどに熱を帯びていた、その時間。そこには多くの哀しみや悔いがあった。けれど誰一人として、自分の生き方に迷いを持ってはいなかった。
それが、たまらなく羨ましい。
レンギョウは左の掌を静かに握りしめる。夜に体温を奪われた指先は、わずかにこわばった感触で掌に触れてきた。
今、生きてここにいる自分。
あの夢が実際にあったことなのか、そんなことはどうでも良かった。魔王と呼ばれる人物はかつて確かに存在した。そして、その血筋を受け継いでいるはずの自分が今、ここにいる。
——今の自分に迷いはないか。悔いは、残していないか。
記憶の中の蓮の仕草を辿って、レンギョウは左手を虚空へ伸ばす。どれほど探しても、指の向こう側に星明かりは見つけられない。
「偉大なる御先祖様」
——今、この手で出来ることは、何だろう。
気がつくと、そんなことばかり考えている。記憶の中の蓮のそれより一回り大きな、自分の手。果たしてこの手は魔王と同じように魔法を遣うことが出来るのか。
雷を遣うことは出来る。初めて皇帝軍と見えたあの時と同じように黒雲を呼び、稲妻を望めばいいのだから。
しかし。
「余は」
それを人に、この島の民に向けて放つことは出来るのか。
憎悪と哀切が入り混じった楝の眼差しが胸に甦る。あのように徹底した敵意を、自分は目の前の相手に対して持つことができるだろうか。
皇帝軍に——アサザに。
皇都まであと一日の距離にまで、国王軍は歩を進めていた。自警団の面子が連れて来た新兵たちとの合流はおおむね終わり、シオンやススキも無事に陣中に戻ってきた。もちろん、とうの昔に皇帝領の中に踏み込んでいる。中立地帯との境界線を越える時に抵抗らしい抵抗に遭わなかったのは、相手が皇都に反撃のための戦力を集めているからだ。今日にも皇帝軍は姿を現し、国王軍と矛を交えることになるだろう。
ふいに思い出したのは、王都での別れ際にアサザに向けた台詞だった。
——また、会えるだろうか。
あれからどれ程の時が過ぎたのだろう。たくさんの出来事が起こり、周囲の状況も様変わりして。
「私は」
レンギョウは変わった。聖王として立つことを望み、迷いながらも今、こうして戦の中心にいる。ここに至る途中でたくさんの人を死なせた。忘れがたい緋色の面影は、思い出すたびにレンギョウの胸を深く抉っていく。
アサザも変わっただろう。先ほど、皇都のスギからの報告が届いた。
今朝、皇帝軍将帥アサザが十万の兵を率いて皇都を出発したと。
軍を率いる長として、弟を失った兄として。レンギョウに向けられる眼差しはもう、以前と同じものではなくなっているだろう。それがたとえどんなに激しい憎悪であったとしても、レンギョウは受け止めるつもりだった。
それが自身で選んだ道ゆえに。
きり、と鳩尾が痛んだ。ここ最近、すっかり馴染みになった痛みだ。元々そう多く食べる方ではないが、戦が始まってからは輪をかけて食が細くなっている。
夜中に目が覚めることも多くなった。眠り自体が浅いのか、寝つきもあまり良くない。夢と現とを何度も行き来した末に、ついには眠ることを放棄して天幕を抜け出す、そんな日々。
眠れぬ夜の果てにあの夢を見て、ようやく気づいた。
レンギョウは今、魔法を遣うことがたまらなく怖い。
「よう聖王様、こんな夜更けにお散歩かい?」
ふいに掛けられた声に、振り向く動作は自然と鋭くなった。透かし見た闇の中、鷲鼻の大男が天幕の陰から顔を覗かせている。
「イブキ、何故ここに」
「随分な言い草だな。左翼に放っておくと問題ばっかり起こすからって、こっちに呼び戻したのはあんただろ」
魔法部隊の貴族たちがイブキを拒んだのはいつのことだったか。あの後、とりあえずの措置として貴族たちをレンギョウ直下の国王軍陣内に戻し、宙に浮いたイブキには当面単身で国王警護の任につくよう命じておいた。志願兵集めからウイキョウが戻り次第、新兵預かりの任を引き継いで異動する手筈になっており、レンギョウが今宵就寝した時点ではまだ左翼に残っていたはずだ。
「引き継ぎは終わったのか」
「ああ。俺は仕事熱心だからな。雑用をとっとと終わらせて新任務にやって来たってわけだ」
「仕事熱心、のう」
素直に呆れたいところだが、この男の軽口は妙に愛嬌があって憎めない。だからレンギョウもつい、常にない切り返しで答えたくなる。
「余の傍では泥酔剣とやらは控えてもらうぞ」
「何ぃ!? 俺の最強奥義を封じるとは、正気か陛下!」
「……酒が過ぎて頭の中身が溶けておるのではないか?」
「そんなことはないぞ。不老長寿の薬だ、あれは」
しゃあしゃあと言い放つその顔を、レンギョウは呆れ顔で見上げる。
「おぬし、物忘れを治さぬまま長生きする気か。さぞ周りが苦労しように」
イブキは驚いたようにレンギョウを見下ろして、一呼吸置いた後大笑いした。
「おとなしそうな顔をして、陛下もなかなか口が減らないお方だ」
「以前はそうでもなかったが。最近抱えた臣下からでも移ったのかのう」
ふと笑いを引っ込めて、イブキはまじまじとレンギョウを見つめた。
「……俺を臣下だと認めていらっしゃるのか」
「おぬしこそ、余を主だと認めておるのか」
高低差の狭間で鋭い視線が交差する。
「以前から訊ねたいと思っていたのだ。おぬしは何故、余の許に参じた? 縁のある皇帝軍の方が前歴とて活かせように」
張り詰めた空気の中、先に肩の力を抜いたのはイブキの方だった。
「言っただろ? 皇帝領じゃ俺はお尋ね者だって。今更のこのこ馳せ参じたところで、待ってるのは牢屋暮らしだけだ。それに」
わずかに言いよどんで、イブキはぽつりと付け足した。
「あっちには俺のせいで母親を亡くしたガキ共がいる。合わせる顔なんてねえよ」
瞬時に思い出したのはアサザとアカネの顔。そういえばもう一人、兄がいると言っていたか。
そこまで考えて、レンギョウはあることに気がつく。イブキが最初に示したのはアカネを捕らえる策だった。その身を害する手段ではなく、あくまで無傷で生かす方策。その思惑が打算ではなく、かつて誼のあった相手への情から出たものだとしたら。目線を逸らしたイブキの横顔を、改めて見上げる。
「もしやおぬしは、こちらにつく事で皇子たちの身を守ろうとしたのか?」
「そんな大層なもんじゃねえよ」
即座の否定。けれど。
「結局守りきれてねえんだし」
ぼそりと零れた言葉を誤魔化すように、イブキはぱんと大きな掌を打ち合わせた。
「おじさんの過去話なんざどうでもいいんだよ。それより、陛下には夜が明けたら大仕事が待っている。できれば大人しくお休み願いたいところだが……どうしても気晴らしにそぞろ歩きしたいと仰るなら付き合うぜ」
「酔いどれの護衛など要らぬ」
「失敬な、今は素面だ」
頬に笑みを残したまま、レンギョウは天幕を離れた。手ずから囲いの柵を開け、するりとすり抜ける。イブキは何も言わずについてくる。
夥しい篝火に照らされながら、陣中は穏やかに寝静まっているように見えた。暁を迎えれば、いよいよ戦いが始まる。天幕の中には不安に震える兵士が少なからずいるのかもしれない。けれどそれは今のところレンギョウの目に付くような形では現れていない。
「みんな聖王様を信じてるんだよ」
イブキの言葉に、また胃がずきりと痛んだ。答えぬまま、レンギョウは草原が望める方向へと歩を進める。前方に風にそよぐ草の海が見えた瞬間、思わず詰めていた息がこぼれ落ちた。
「腹、痛むのか?」
イブキが横目で様子を窺っている。無意識に鳩尾を押さえていた手を離し、レンギョウは姿勢を正した。
「大事ない。それより明日の布陣についてだが」
「ああ、さっき軍師の嬢ちゃんが何か置いてってたな」
イブキは懐からくしゃくしゃの書類を取り出した。恐らくまだ目を通していないのだろう。かけらも悪びれた様子のないイブキに半ば呆れながら、レンギョウは再び草原の彼方に目線を巡らせた。
「それには地図が描いてあるはずだ」
「地図?」
地平線を見つめたままレンギョウは頷く。地図の原本は新兵集めから戻ったばかりのシオンに無理を言って探させたものだ。主だった面子に渡したのは大急ぎで作らせた写しだが、それが今回の戦で重要な役割を占めることに変わりはない。
「おぬしの生命を守るやもしれぬ地図だからのう。皇帝軍が来るまでによく読んで頭に入れよ」
「ふぅん」
大して興味もなさそうに、イブキは欠伸交じりの返事を返してくる。
「まぁ確かに、この辺りは南部の草原とは少し様子が違うからな」
目の前に広がる草の海には、北方を指してまっすぐに石畳の街道が敷かれている。様子が違うと言うイブキの言葉は、街道の両脇に見えるのが草だけではないことを指しているのだろう。
丈の短い草に混じって、馬車ほどもある大岩がそこかしこに角を覗かせている。左手には北部山岳地帯の最後の稜線が連なりながら伸びていた。転がっている岩と山肌は共に白みを帯びた褐色をしている。
「ここでは地下に川が流れているのであろう。普段は見えないが、雪解けの時期にだけ地上に水が溢れると聞いた」
「よくご存知で」
レンギョウの言葉にイブキが驚いたように目を丸くする。
「あの岩くれは春先に山から押し流されて、そのまま残ってるやつだな。ほとんど毎年のことだから、皇帝軍も街道以外はいちいち掃除なんざしない」
そこまで話して、イブキはにやりと目を細めた。
「その隠れ川を利用するつもりかい、陛下?」
「さあのう」
作戦に関する詳しい指示は関係する全員に、同時に出したい。明言を避けたレンギョウに、イブキはにやにや笑いを向けたまま言葉を続けた。
「そういや俺のご先祖もその昔、地下水脈を辿って移動したことがあるって聞いたな」
「先祖?」
「ああ。初代戦士の部下でグースフットって御仁だが……陛下が知るわけねぇよなぁ」
グースフット。軽く目を見開いたレンギョウを認め、イブキは再び驚きの色を浮かべる。
「……国王の英才教育には、皇帝領の歴史まで入ってるのか?」
「いや、そういうわけではないが」
夢で見たなどとは、とても言えない。歯切れの悪いレンギョウにやや訝しげな視線を向けつつ、イブキは問う。
「そういえば陛下は、第三皇子への対応もやけに親しげだったな」
この島に不可侵条約がある以上、国王と皇帝の血族が顔を合わせることなど考えられない。当然、親しくなる機会などないはず。それが常識だ。
国王と戦士——皇帝は対立しつつ並存を続ける存在。この国が始まって以来連綿と続く歴史は、常にこの前提の下に成り立っている。
けれどレンギョウは、通常ではありえない出来事を体験していた。すべての始まりとも言える、あの月夜の邂逅。
「……アカネを知っていたわけではない。あの者の兄を——アサザを、知っているのだ」
「第二皇子を?」
問いたいことは幾つもあるだろう。けれどイブキの気配は尋問ではなく静聴のそれに切り替わったようだ。先を促す沈黙の中、レンギョウは言葉を選びながら記憶の景色を辿る。
「ちょうど自警団の者たちが初めて謁見を求めてきた頃だった。あやつは突然、王宮深くの森の中に湧いて出たのだ」
たった一昼夜の記憶。けれどそれは紛れもなく、今国王軍を率いている『聖王』の原点になった時間だった。草原で眠った夜、二つの領主の狭間に置かれた自警団の現状、そして何より戦士に列なる者すべてが敵ではないと信じる心。国王自ら皇都を目指すという今回の戦略の中には、再会を望み、アサザとの縁が切れぬことを願うレンギョウ自身の心が少なからず反映されている。
共に領民を従える身だ。兵を率い、戦場で見えることになる可能性は予測していた。それでもいざ、その時を目前にすると。
「まさかあやつとの再会がこのような形になるとはのう」
ただ純粋に再会を願っていたかつての自分と、多くの屈託を抱えた現在の自分。それでもなお、成せることは何なのか、迷い続けていることに変わりはない。
「成程、そういう経緯があったのか」
黙ったまま話を聞いていたイブキが重たげに口を開いた。
「ずっと引っかかってはいたんだ。正直言って、皇帝軍に対して陛下が言い出す案はどれも甘い。陛下のご性格を考えるならそれも当然かと思っていたが、率先して異を唱えるはずの自警団までもが言われるままにその案を採る。むしろ身内の貴族どもの方が仲間はずれ気分を味わって陛下に直訴する始末だ」
イブキに向き直り、レンギョウはまっすぐその顔を見上げる。徐々に白んできたとはいえ、空はまだ深い紺色に染まっている。篝火が作る逆光の中、イブキの姿は闇そのものを切り取ったかのようだ。
「陛下、これだけは言っておくぞ。一枚岩じゃない兵は脆い。崩れる時は一瞬だ」
地の底から響くような低い声。レンギョウの願いも、自警団の思惑も、貴族たちの不満も。ここに集った総ての者が秘かに抱く不安を映すかのように、黒い人影は言葉を続ける。
「ここにいる奴らに共通していることは、ただ一つ。陛下、あんたに希望をかけたってことだ。だからあんたが崩れた瞬間、すべてが終わる」
「それは違う。余は」
「違わないさ。あんたがどう思っていようと、集まった兵士たちが陛下の魔法に期待している事実に変わりはない。あいつらは魔法がある限り、自分たちが勝てると信じている」
また、夢の情景が視界を掠める。そして、自分自身の緋色の記憶も。
魔法があればすべてうまくいく。そんな幻想を、何故こうも容易く人は信じ込んでしまうのか。
「余は……魔法は、万能ではない」
「だろうな。だが敵も味方も、あんたの魔法を中心に戦いを組み立てているのが現実だ。魔法ってのはそれくらい大きな戦力だ。それは否定できないだろう?」
レンギョウは拳を強く握り締める。今にも震えそうになる心を保てるように。揺れて逸れそうになる視線を、目の前の影に定めたままでいられるように。
「皇帝軍は魔法が来るのを恐れている。国王軍は魔法が放たれるのを待っている。勝機を決める一瞬に、肝心のあんたが躊躇ったらどうなる?」
闇の帳の中に夢の、現実の、幾多の面影がちらついては流れていく。皇帝軍の干戈の煌きの先頭に立つのは、あの若葉色の瞳をした女戦士だろうか。それとも。
「今のあんたに、アサザ殿下に向けて魔法を振るう覚悟はあるのか?」
拳が跳ねるのを、今度は抑えられなかった。
戦士の黒鎧に身を包んだアサザの像を鮮明に結べたのは、夢で見た藜の武者姿の記憶のせいだろう。黒一色を纏ったアサザが切っ先を向ける。対するレンギョウは右手の指先でアサザを指し示す。
——かつての戦士と魔王のように。
『聖王』が採る行動なら、なすべきことは分かりきっている。目の前の戦士の末裔を魔法で屠り、その勢いのままに皇都へ攻め上って皇帝から実権を奪い返し、この島国を統一するのだ。それこそが国王領の民が望む戦の結末であり、中立地帯にとっても生活の安定に繋がる大きな成果となる。
けれども、レンギョウ個人——『レン』は。
今の今まで、あえて考えないよう意識して避けてきた場面だった。たとえ憎しみに満ちた目をアサザに向けられようとも構わない。けれどアサザが攻撃という手段でレンギョウに向かってきたら。いつも思考はそこで止まってしまい、次の場面を思い浮かべることができなくなる。
自分は一体、どうしたいのか。
身中で感情が激流と化していた。そのどれもが強く、激しすぎてレンギョウ自身も押し流されそうだった。
いつしか夜の終わりを告げる暁星が空に浮かんでいた。儚い星明りを映して、影と化していたイブキの瞳にも光が宿る。
「殺す覚悟と、殺される覚悟はまったく別のものだ。どちらを選ぶにせよ、その瞬間に悔いないようにあんたなりの答えを見つけておいてくれ。あんたが迷った分だけ、兵は死ぬ」
太陽が草の彼方から今日初めての光を投げかけてきた。白い光から瞳をかばうように、イブキはレンギョウに背を向ける。
「それでも、自分の力を怖がるってのは悪いことじゃないと俺は思うぜ。何も考えずにそんなものを振るわれることの方が余程怖いからな」
レンギョウは黙して答えない。拳の震えは止まっていたが、暁光の中にあってもその顔は決して晴れてはいなかった。
結局その後、レンギョウは一睡もせずに朝を迎えた。用意された朝食の膳は喉を通らず、かろうじて添えられた干し林檎だけを水で無理矢理に流し込んだ。
頭がうまく働かない。腹の底の重いしこりはどれほど溜息を吐いても減ることはなかった。解っていても、また一つ息を落とす。胃の腑を駆け抜ける痛みを意識の外に追いやって、レンギョウは席を立った。
潜り抜けた入り口の外、広い草の海の中に一筋の道が浮かんで見える。皇都へと続くこの国最古の街道の石畳は、膨れ上がった国王軍の蹄鉄の下でおののくように震えていた。
光満ちる草原に立ち、レンギョウは周囲を見渡した。前方にまだ皇都の姿は見えない。ただただ柔らかく草の波が揺れ、時折鋭い岩の先端が覗くだけだ。
その草原に、兵の布陣が始まっていた。
街道を横切るように、先鋒を務める自警団の精鋭たちが整然と移動している。乱れなく並んだ鉄兜の群れが、時折日の光を照り返して鈍く輝く。
レンギョウの周囲には正規国王軍の白鎧が、一分の隙もない警備を敷いている。
さらに後方には、自警団と同じ鉄色の人波が続いている。しかしこちらは数が多い割には整然とした隊列にはなっていない。支給されたばかりの慣れぬ鎧を身に纏った、中立地帯からの志願兵たちだ。
人、人、人。長く細く続く街道に溢れんばかりに続く聖王麾下の兵は、今や十二万を数えていた。
最後尾のさらに後ろには、雪を頂いた山岳地帯の峰々が霞んでいる。その峻厳な稜線は、平地が多い南部で生まれ育ったレンギョウには馴染みの薄いものだった。澄み切った青空に寒々と聳える雪峰から吹き降ろす風の冷たさに、思わずレンギョウは肩をすくめる。無意識に落とした視界の中、足元の石畳の角はどれも丸みを帯びていた。石材が磨耗するほどに長く過ぎた時、そして今この道を踏んで進む人々の思い。
これが自分に——『聖王』に託された希望。数の重さが実感を伴って背中に圧し掛かる。思い出したのは初戦の後、執務机に積み上げられた犠牲者の名簿だった。あの時とは兵力の桁が違う。ここにいる中で、この戦を最後まで見届けられる者は一体どれだけいるのだろうか。兵を起こした以上、犠牲を皆無にすることなどできない。それは前回の戦いでいやというほど思い知った。
なればこそ、せめて出来る限り多くの兵を故郷へ帰せるよう、欠ける人数までが桁違いにはならぬよう。
魔王はより多くの敵を倒すために魔法を遣った。ならば聖王はより多くの民を生かすために魔法を遣いたい。
蓮が出逢った藜、レンギョウが出会ったアサザ。
立つ陣営が違おうと、相手は自分と同じ人間に違いない。そんな当たり前の、けれど何より尊い事実を、二人の戦士は教えてくれた。
人を生かすための魔法。それを遣うことは、強大な雷を揮うことより余程難しいことなのかもしれない。けれど。
レンギョウは独りではない。
とりとめのない思考から浮かび上がった視界の中、共にこの困難に立ち向かってくれる仲間の顔を見つけて、思わず肩の力が抜ける。
「随分難しい顔をしてたわね、レン。眉間に皺ができてたよ」
「いつから見ていたのだ。近くにおるのならすぐに声を掛ければ良かろうに」
紫の瞳に笑いを含ませながら、シオンは小さく肩をすくめて見せた。
「下手に声なんてかけたら、また新しいお仕事を言いつけられるかと思って。意外とレンって人遣い荒いから」
中立地帯で兵を募っていた彼女が合流したのは昨日のことだ。そう、ちょうどあの夢を見た日の朝だったか。いくら生々しい情景だといっても所詮は夢、レンギョウはシオンにその話はしていない。けれど目覚めた後思いついたいくつかの作戦案は、その日のうちに打診していた。明け方にイブキが持っていた紙片は、レンギョウ自身がシオンに配布を指示していたものだ。確かに人遣いが荒いと言われれば返す言葉は見つからない。
「すまぬな。おかげで作戦に目処を立てることができた。礼を言う」
「……そう言われちゃ、怒るに怒れないわ」
生真面目な顔で言うレンギョウに軽く睨みをくれて、シオンは丸めた大判の書類を差し出した。
「さ、これがお望みの地形図の原本よ。地図の写しを配った人たちにも一度集まるよう声をかけておいたから、すぐに来ると思うわ」
「うむ」
地図を受け取って、レンギョウは地平線へと目を向けた。太陽はまだ草原の縁をなぞる位置にいる。
皇帝軍が来るまで、まだ時間はありそうだった。
傍らに張られた国王専用の天幕にシオンを招き入れ、早速卓上に図面を広げる。日に焼けた古紙には皇都周辺の地勢が詳細に描かれていた。本来なら皇帝領は自警団の守備範囲外のはず、それでも乞えばものの数日でこれだけの地図が出てくる。その情報収集力に改めて嘆息しながら、レンギョウは紙上に指を走らせる。
注文したのは可能な限り正確なこの付近の測量図。目指す印は探すまでもなく見つかった。赤い点で示された箇所で、レンギョウの人差し指が止まる。
「現在位置は、これか」
シオンは無言で頷く。
この場所に兵を止めたのは昨日のこと。それでなくても遅かった兵の足を止めたのには理由がある。
まず、皇都に近づきすぎないため。今回の親征の最終目標が皇都入城である以上、その前に皇帝軍と衝突することは避けられない。いたずらに戦禍へ皇都の民を巻き込むことはレンギョウの本意ではなかったし、もちろんシオンも望んでいない。自然、戦場になる地点は皇都より手前で選ばれた。
シオンの帰還と前後して、中立地帯中に散っていた他の自警団の面子も続々と合流していた。彼らが率いてきた志願兵の編成を一段落させ、馴染ませるための待機時間が欲しかったこともある。
けれど何よりも、レンギョウにはこの場所に留まりたい理由があった。現在位置から程近い地点を確かめるように辿り、シオンへと問いかける。止まった指の先には、黒く丸で囲われた箇所があった。
「例の場所は、ここだな?」
シオンは軍師の顔で頷いた。
「ええ。昨日、測量ができる団員に見てもらったから間違いないわ」
ちらりと見上げる紫色の瞳に、わずかに気遣わしげな色が浮かぶ。
「でも、本気でこんな大掛かりなことをするつもりなの?」
「本気でなければ、忙しいこの時期におぬしをこき使ったりせぬよ」
苦笑交じりに言って、レンギョウは地図から目を離す。手早く地図を纏め、殊更に軽い口調で付け足した。
「上手くいけば双方の犠牲者を最小限に抑えられよう。皇帝領の民を、無闇に傷つけることが目的ではないのだからな」
「……そうね」
失われる命をできる限り少なく。同じ目的を確認しあうように、二人は顔を見合わせてもう一度頷き合った。
時機を見計らったかのように、天幕の外に人の気配がした。一呼吸空けて入り口の幕を上げたのは、国王軍の衛兵だ。
「スオウ殿、ススキ殿、ウイキョウ殿、イブキ殿が参られました」
最初に天幕に入ってきたのは魔法部隊の貴族だった。その後に自警団の二人が続き、最後にイブキがのっそりと姿を現す。現在、国王軍を動かしている実働部隊の責任者たちだ。
「皆、忙しい中よく来てくれた」
言いながら、レンギョウは素早く彼らの表情を確認する。貴族のスオウはあからさまにイブキを無視している。当のイブキはまったく意に介していない様子で普段と変わらず飄々としていた。ススキも相変わらずの軽軍装を纏ったまま沈黙を続けている。最後にウイキョウに目を留めた。巌のような大男は、いつもと同じように静かにレンギョウを見下ろしてくる。
レンギョウは決して背が高い方ではない。実働部隊の面子と向かい合う時はいつでも顔を見上げる形になる。これまであまり気にしたことはなかった事実を、ふいに不安に思ってしまったのは何故だろう。
身長差と一緒に突きつけられているのは、レンギョウ自身の幼さではないのか。
——自分の提案は、とても子供じみた感情論でしかないのではないか。
「……何か」
無意識にじっと見つめてしまっていたらしい。ウイキョウの顔に、珍しく戸惑いが浮かんでいる。
「ああ、すまぬ。何でもない」
ここで思い悩んだからといって急に背が伸びるわけでも、事態が変わるわけでもない。頭を一つ振って、レンギョウは思考を切り替える。
「集まってもらったのは他でもない。皇帝軍と接触する前に皆に伝えておきたいことがあるのだ」
言って、レンギョウは一同を卓の傍に招いた。机上に全員の視線が集まった頃合を見計らって、指先で現在位置の印を示す。
「この辺りには雪解けの時期にだけ流れる川がある。普段は地下に潜っているせいで、川筋を見ることはできぬがのう」
調査を担当したシオンがレンギョウの言葉を裏付けるように頷く。皆の表情を見渡しながら、レンギョウは言葉を継いだ。
「ここは皇帝領だ。本来ならば地の利はあちら側にある。だがどういうわけか皇帝は、余らがこんなにも近づくまで対抗策を採らなんだ。数日前に急遽整えた兵では、目に見えぬ地形まで考慮して布陣する余裕はなかろう。今回はそこを利用させてもらう」
「利用?」
訝しげな声はススキから。同じく説明を求める面々の視線を一つ一つ見返しながら、レンギョウは再び地図中の見えない川筋を指先で辿った。
「シオンに調べてもらったのだが、この地図に描かれた地下の川はそう深いところに潜っているわけではなさそうなのだ。これなら、余の魔法で天井を壊すことができる」
しん、と場が静まった。
「……天井を壊す、だと」
「地上には大きな谷ができることになるのう」
「そんなことが、本当にできるのか?」
「恐らく、な」
ススキの目をまっすぐに見返してレンギョウは答える。
自分が本当に蓮と同等の魔力を持っているのならば。また、夢で見た戦場の景色が瞼に蘇った。一面の焼け野原、降り注ぐ雷の雨。
「だからおぬしらには、前線にいる兵たちへの指示を徹底してもらいたい。落盤に巻き込まれぬよう、余の命があるまで決して前進してはならぬと」
かつての魔王は、敵を倒すために魔法を遣った。ならば自分は、何のために魔法を遣うのか。
「ここは皇帝領だ。そして今ここに集った多くの中立地帯の民、そして我が領民。生まれた場所は違えど、余にとっては皆、大切なこの国の民だ」
掴みかけた答えを逃さぬよう、レンギョウは胸元で右手を握りしめる。レンギョウの望み、そして蓮が抱いていた本当の願い。
「余は、余の力で皆を守りたい。犠牲を少なくするためならば、余にできることは何でもしよう。そのために——おぬしらの力を余に、今しばらく貸してくれぬか」
再び場に沈黙が降りた。しかし先程の静けさとは種類が違う。その証に沈黙を破ったのは誰かの声ではなかった。かすかな身じろぎの音に、レンギョウの瞳が大きく見開かれる。
「……ススキ」
姿勢を正し、右拳を左手で包んでレンギョウに相対する姿。それは拱手と呼ばれる、国王軍の兵が国王に対してのみ取る最上級の礼だった。勿論、中立地帯自警団であるススキがこれまでレンギョウにそのような礼を示したことなどない。
「第八代国王レンギョウ陛下。我が自警団がご助力を請うたのが貴方で、本当に良かった」
静かに落とされる飾りのない言葉。それは長年に渡って『均衡の分銅』を強いられてきた人々の声そのものに聞こえた。
「ここに集った中立地帯の民十二万の思いを、決して無になさらぬよう。何とぞお願い申し上げます」
「これから先もおぬしらの気持ちを無視するつもりはない。まして命を無駄にすることは絶対にせぬ」
ススキは無言で頭を下げた。ふと見ると、ウイキョウも己が右拳を包んで礼を取っている。
二人の姿に一番驚き慌てたのは貴族のスオウだった。自警団に遅れじとばかりに、泡を食って拱手の構えを見せている。
シオンはスオウの慌てぶりに吹き出しながら、それでもほっとした顔でレンギョウに笑いかけていた。
一人、イブキだけは複雑な表情でその光景を見渡している。気づいてはいたが、レンギョウはあえてそれを黙殺した。
そう。この場でいかに綺麗事を並べようと、現実では何が起こるか分からないのだ。気持ちとは裏腹の出来事はいくらでも起こりうる。
それでも。
今、レンギョウの望みを皆に知ってほしかった。たとえ理想論に過ぎなくとも、これから辿る過程でいつかレンギョウの言葉が道標になる時が来ると信じて。
希望はいつでも、叶えようと思わなければ達せられないのだから。
ついに皇帝軍が姿を現した。
報を受けてレンギョウが天幕を出ると、前方に黒い人波が雲のように湧き起こっているのが見えた。鋼の鎧に身を纏った兵馬の群が見る間に膨れ上がっていく様、地面を通じて心身の奥底に伝わってくる無数の馬蹄の響き、重苦しく威圧するような空気。
「……アサザ」
この中のどこかに、いるのか。
頭を振り、意識して思考を切り替える。夏雲のように鋼の軍隊は膨れ上がり、なかなか全貌を現さない。スギからは十万の大軍だと報告が入っている。こちらの人数は十二万。数の上では有利に見えるが、実態は昨日今日集まった民たちがありあわせの鎧を着て武装しているだけだ。間違っても皇帝軍の正規兵と同列に考えてはいけない。
実際に戦力と見做せるのは最前列に配置した古参の自警団三万、それに国王軍二万。
約半数の兵力では勝利はおぼつかない。しかしどの道、皇帝との話し合いを求めることから始まった行軍だ。だから必ずしも皇帝軍に勝つ必要はない。ただ、負けない方法を考えればいいのだ。
国王軍の布陣は完了していた。次第に隊列を整えつつある皇帝軍に相対するのは自警団の精兵たちだ。ススキ、ウイキョウがよく纏めてくれているおかげで、大軍を前にしても動揺することなく静かに次の指示を待っている。
イブキは少数の自警団員をつけて後方の新兵七万の抑えに行かせた。新兵たちはとにかく人数がいる。なまじ不慣れな武器を持たせて戦力にするより、その数自体を以って皇帝軍を威圧する方が効果はある。意図通りの働きをしてもらうためには、勝手な暴走だけは謹んでもらわなくてはならない。
今、レンギョウの傍にはシオンとスオウが残っている。魔法部隊の貴族たちも皆、顔を揃えていた。彼らにはこれからレンギョウが行う魔法の援護をさせる手筈になっている。
じっと相手の陣地を見ていたスオウが、ふいに息を呑んだ。
「どうした」
「あの騎兵は、もしや」
言われてレンギョウは目を凝らす。皇帝軍最前列の中央、一際目立つ位置に陣取った騎兵がいる。突撃の命令を待ちかねるかのように地を掻く馬の脚、それに合わせてたなびく、乗り手の兜から流れる若葉色の飾り紐。
「……あの時の副将帥か」
——私はあなたを許さない。
向けられた激しい眼差しと言葉が、瞬時に思い起こされる。
憎まれるなら、それでもいい。あの日許されることのない罪をコウリは犯し、レンギョウは抱え込むことになったのだから。
痛むのは胃の腑だろうか、それとももっと奥深くのどこかだろうか。その場所を確かめるように拳を握り、再びレンギョウはまっすぐに彼方のブドウの姿を見つめる。
たとえどんなに憎んでくれても構わない。それがあの女戦士の生きる糧になるのならば。
「レン、そろそろ」
相手の布陣もあらかた終わったようだ。増える一方だった兵の動きが収まり、整然とした列となってこちらに向いている。
ふいに沈黙が訪れた。鎧の擦れる音も、馬具の煌やかしい響きも。咳の一つさえも憚られる静寂の中、レンギョウは努めてゆっくりと精神を集中する。このように大掛かりな魔法を遣うのは初めてのことだ。しっかりと地に着けた踵の向こう側、そこにあるはずの水脈を求めて下へ、下へと意識を潜らせていく。
「……見つけた」
位置はちょうど、両軍の間。狙い通りの場所に黒々と横たわったその空洞に目を据えたまま、レンギョウは瞼を上げる。右手で指し示したその位置へ、スオウはじめ魔法部隊の貴族たちも意識を集中し始める。
皇帝軍にも動きがあるようだ。俄かに慌しくなった相手陣地を見つめながら、レンギョウは発動の時機を見計らうために目を眇めた。
最早場の空気は沈黙ではなく、雑多な音が入り混じっているのだろう。けれど集中を解いていないレンギョウの耳には何も入ってはいなかった。
空は晴れている。こんな状況でなければ、気持ちのいい晴天だと笑いあうこともできただろうに。
そう思った瞬間、視界を何かが横切った。
「……鷹?」
思わず目で追った精悍な鳥の姿は、軽々と両軍の頭上を飛び越えてまっすぐにレンギョウの方へと向かってくる。見る間に近づいてきた鷹は高く啼き声を放ち、傍らのシオンの腕へと一直線に舞い降りた。
「スギの緊急連絡だわ。ごめん、こんな大事な時に」
鷹に餌を与えるのももどかしく、シオンは脚に括られた紙片を抜き取る。畳まれた紙を開き中を見た瞬間、シオンは大きく息を呑んだ。
「……嘘」
「どうしたのだ、一体?」
問いに返ってくる言葉はなかった。代わりに差し出されたのは、今しがた鷹が届けてくれた紙片だった。
訝しく思いながら、レンギョウは紙を覗き込む。記されていたのは走り書きの言葉、ただ一つ。
——皇帝アザミ、崩御。
意味を呑み込むまで、数拍の時間が必要だった。そこに書かれた事柄を理解するより先、咄嗟に彼方の皇帝軍を見やる。
「アサザは、知っておるのか」
思わず落とした呟き。集中に入っていたはずのスオウが、ただならぬ気配を感じて顔を上げた。
皇帝軍は今しも動き出そうとしていた。整然と整った陣形、乱れのない統率。そこに動揺など、ましてや悲嘆の影など見えるはずもなく。
疑念が確信に変わった。
知らない。
皇帝軍にはまだ、この報せは届いていない。
「すまぬ、打ち合わせと少し手順を変える」
言って、レンギョウは地の底へ向かっていた意識を高く空へと上げ直した。吹き抜ける風が皇帝軍に向かっているのを確認して、その流れを捕まえる。
——止めなければ。
身を貫くのはその一言だけだった。
領主と仰ぐ者の、戦場へ行けと命じた者の——実の父の訃報を、戦の最中に聞かせたくはない。
「聞け、戦士の末裔たちよ」
風の流れに乗せて、レンギョウは彼方の皇帝軍へ——アサザへと、声を届ける。なるべく自身の動揺を見せぬよう、威厳のある様子を装って。
「急ぎ皇都へ戻れ。さもなくば皆ことごとく、我が魔法の餌食となるぞ」
戦場を吹き抜ける風が、敵味方の別なく兵たちの耳に『聖王』の言葉を広めていく。ぎくりと動きを止めたのは皇帝軍、その隙を見逃さずにレンギョウはスオウら魔法部隊に合図を出す。
貴族たちが一斉に地に手をついた。レンギョウ自身、先ほどまでの集中を取り戻して地の底へと意識を沈めていく。
地が揺れた。
睨み合う両軍が同時に平衡を失って蹲ったちょうど真ん中に、巨大な亀裂が走る。轟音は遅れて耳に入った。その後はただただ、突き上げる振動と舞い狂う土埃に行動と視界を奪われて、レンギョウも含めたその場の全員が地に伏せて揺れが過ぎるのを待つことしかできない。
耳を覆う残響が過ぎ去った頃、レンギョウは顔を上げて空を見やった。ただ一羽、上空へと難を逃れた鷹が濁った空を翔んでいるのが見える。重い疲労が身体全体を包んでいた。やはりここまで大きな魔法は体力を削るものらしい。
国王軍側の兵たちもまた、徐々に動き始める。レンギョウの魔法で地震が起こると、あらかじめ知らされていたおかげで比較的混乱は少ないようだ。
皇帝軍の様子は、ひどい土埃にまみれてまったく掴めない。呼吸を整えて、レンギョウは今一度草原に風を吹かせた。
冷気と土埃を含んだ風が南から北へと駆け抜ける。ぱちぱちと細かい音がするのは、風下にいる皇帝軍の鎧に砂粒が当たるせいだろうか。
風が抜けた草原には、深い谷が刻まれていた。まるで国王軍と皇帝軍を分かつように、大地に深々と描かれた一条の線。できたばかりの亀裂の断面からは、未だ石くれがころころと奈落へと落ち込んでいく様が見える。
皇帝軍は。
一兵たりとも欠けることなく、亀裂の向こう側にいた。今もなお、動揺することすらできずにぼんやりと谷を見つめているようだ。
これでいい。
疲労の中、レンギョウは小さく笑った。本来なら双方の犠牲を最小限にするために遣うはずだった魔法。しかし今、この谷の向こう側にいるはずの友を父の元へ帰すために遣ったことに後悔はなかった。
状況は激変している。皇都を目と鼻の先にして、話し合うべき相手がいなくなってしまった。時間が欲しいのはこちらも同じだった。
——アサザが皇帝になるのなら。
淡い希望が胸元をよぎる。アサザならば、話し合いの申し出にも応じてくれるのはないか。
約した再会が後の世にも何かを残せるのだとしたら、レンギョウがここまで来たことは決して無駄ではなくなる。
もう一度、皇帝軍に目を向ける。間もなくあちらを包むであろう悲報を思うと胸が痛んだ。だがその先には決して悪いことばかりが待っているわけではない。
大地に引いたこの線を自分かアサザが越える時、きっと何かが変わる。
祈りを籠めて見遣った草原の彼方、皇都の方角から深い紫の弔旗を掲げた早馬が駆けてくるのが見えた。
***************************************************************
<予告編>
大切なものは、
ずっと変わらず傍に在ると、思っていた。
ついに開かれた戦端、
新皇帝の即位。
紡がれる歴史の表で、裏で、
掌から零れてゆく、
煌やかな残像。
——俺たち、勝てますよね。
——何が勝ちで、何が負けなのか。
——これが、戦というものだ。
『DOUBLE LORDS』結章、
この長い物語の、終わりを始めるために。
「お前は、生きてくれ」
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