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書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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 それは明け方の月明かりにも似た、うたかたの残像。触れたところから崩れていく儚い砂絵のようなその残滓を掌から零さないよう、蓮は強く指先を握り締めた。宵と暁の境目の、澄んだ冷気が頬に心地良い。せめてあと少しだけ、夢の中に漂っていたかった。

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 睡余の時はやがて終わる。あやふやなくせに鋭さを増した感覚が、茅葺屋根の外から流れ込むわずかな気配さえも逃さずに肌に伝えてくる。足音を殺した蹄鉄が草を踏みしめる、かすかな音。
「来たか」
 傍らの藜が身を起こした。夢の時は過ぎ去り、蓮と同じ顔を持つ現実がやって来る。急速に目覚めていく思考の中、蓮はふいに不安になる。本当にあの楝を納得させることなどできるのだろうか。
「大丈夫だ」
 揺れる蓮の視線をしっかり捉えて藜は笑った。蓮と同様に手早く身支度を整えながら、しかしいつも身に着けている黒鎧には手を伸ばさない。
「……よろい、いいの?」
 魔法で戦果を上げられない分、楝は武術の腕を磨いている。魔法の陰に隠れてしまって目立たないが、楝の太刀筋をいつも傍で見てきた蓮は誰よりもその苛烈さを知っている。
 一度は刃を合わせた相手だ。藜も楝の技量は分かっているのだろう。小さく肩を竦めて答える。
「話し合いに鎧は必要ない。さすがに丸腰ってわけにはいかないだろうが」
 言いながら藜は土間に下りた。昨夜放り捨てたままの格好で転がっていた”茅”を拾い上げる。待っていたかのように厩の中で黒馬が鼻を鳴らした。その首を軽く叩いてやって、藜は蓮を振り返る。
「俺から行くか?」
「ううん、わたしがいく」
 梓がくれた赤い上着ごとぎゅっと己の体を抱きしめて、蓮は土間に降り立った。二対の漆黒の瞳に見守られ、外に通じる戸板を静かに開け放つ。最初に見えたのは明け切らぬ朱鷺色の空、続いて草間から射した暁の光。思わず細めた視界に、家の前に立つ逆光の影を捉える。縁に見える色彩は見覚えのある白と葦毛、点々と飛んだ飛沫が影の黒をさらに深めている。
「兄様」
 一歩踏み出して、呼びかける。影の肩が揺れた。軽い身ごなしで葦毛から下りたその姿は戦塵と返り血に塗れている。常に『魔王』の威儀を正すことに心を砕いていたはずの、見慣れた姿とはあまりにも違う。下ろしたてだった白装束はあちこちに染みが飛び、擦り切れている箇所もあるようだ。あんなに隠し続けていた顔でさえ、裂かれた頭巾でようやっと髪と口許を覆うことしかできていない。剥き出しになった青い瞳が蓮を正確に捉えた。安堵と、悲しみと、他にぶつけようのない切なさと。常に様々な感情が交錯してぶつかり合っているせいで、楝の声の響きはいつでも不安定だ。
「何をやっているんだ、蓮。帰るぞ」
 いつも通りの高みから見下すような物言いに、どうしてか蓮の目頭が熱くなった。帰る場所などどこにもない。そう思っていたはずなのに。
 いつしか、お互いがいる場所が帰るところになっていた。たった二人だけの家族だから。
 けれどもう、蓮は帰れない。
「兄様、はなしがあるの」
「話?」
「そう。だいじな、はなし」
 背中で空気が動くのを感じる。土を踏む音、蓮の傍らに立つ気配。長刀だけを手にした藜に、楝の表情がたちまちこわばった。
「貴様」
 藜は何も言わない。ただまっすぐに楝を見返す。その表情に何かを悟ったのか、楝が瞳を翻して蓮を睨む。
「蓮、まさか」
「……ごめんなさい」
 楝の瞳から熱が消えた。瞬時に冷えた眼差しを覆っていくのは激しい怒り。触れるだけで芯まで凍りつきそうな、純粋な敵意が藜に向けられる。
「蓮を、返せ」
「蓮がそれを望むなら」
 瞬間、青い瞳に紅蓮の炎が駆け抜ける。
「蓮、来い」
「ごめんなさい。いけない」
「俺に逆らうのか」
 その声には威圧よりも傷ついた色が多く含まれていて、思わず蓮は強くかぶりを振る。
「ちがう。これできっと、兄様のねがいもかなう。この島はひとつになる。『魔王』と『戦士』がいっしょになって」
「一緒になる? ふざけるな」
 楝が吐き捨てるように言う。その敵意の矛先は、再び藜に向けられた。
「貴様か。蓮にろくでもないことを吹き込みやがって」
「あんたにとってはろくでもないことかもしれない。だが俺たちにとっては、意味のあることだ」
 黒鞘を持った左手で、藜は蓮の肩を引き寄せる。
「一人の男として申し込む。蓮を妻として迎え入れるための許可を頂きたい」
「断る!」
 藜の言葉が終わるより先、楝が叫ぶ。
「許さん。断じて許さん。蓮、お前は自分が今何をしているのか、分かっているのか」
「わかってる」
「分かってなどいないだろう!」
 楝の唇が荒げた息の下、ふと笑みを浮かべた。
「お前の正体を知っても、その男が世迷い事を抜かし続けられるとでも思っているのか? 愚かな」
 蓮は無言で藜の襟元を握りしめる。
 ——お前が『魔王』なら。
 そう言ってくれた昨夜の藜の心だけが、今の蓮の拠り所だった。肩に置かれた手に力が籠る。”茅”ごと蓮を腕に抱く藜の姿に、少しずつ楝の瞳にも理解の色が染み渡っていく。
「知って、いるというのか? 『魔王』の正体を」
 小さく、けれどはっきりと蓮が頷く。その瞬間、楝の顔からあらゆる感情が抜け落ちた。憤怒、絶望、悲哀、虚脱。蒼白の頬を透かして見える、駆け抜ける深い闇。
 表情を削ぎ落としたまま楝は二人に詰め寄った。無言で蓮の腕を取り、引き寄せる。それはこの細身のどこから出ているのか不思議なほど強く激しい力で、蓮は小さく悲鳴を洩らす。
「……やめろ!」
 藜が楝の手を振り払う。どんな刃よりも鋭利な一瞥と共に、再び楝の腕が伸ばされる。腕の中の身体をかばうように藜が蓮を抱きしめた、その時。
 鋭い風切音が空気を切り裂いた。咄嗟に身を引いた藜と楝、両者のちょうど真ん中に一本の矢が突き立つ。尾羽は北部山岳地帯の蒼穹を舞う鷹の斑模様、一分の狂いもない矢幹の先には細かな文様を彫り込んだ三角の鏃——一目でそれと知れる、”山の民”の矢だった。
 一斉に甲冑の立ち上がる音が空気を満たした。一体どこにこれだけの数が伏せていたのか。廃屋の陰から、井戸の脇から、草原と繋がった庭先から。茅葺の村を囲い込んでいたのは北へ向かったはずの『戦士』の本隊だった。藜にとっては見覚えのある顔ばかり。その面々を呆然と見回し、彼らの配置先がグースフットの騎兵隊であることにようやく思い至る。何故ここに。事前に打ち合わせた仕掛けの発動にしては早すぎる。それに彼らの任務は村の包囲だけのはずだ。何故村の中へ。何故騎兵の彼らが馬を連れていない。
「お前たち、どうして」
「悪いな、大将。できれば邪魔したくはなかったんだが」
 歩兵の群からのっそりと姿を現したのはグースフットだった。続いて暁の光に踏み出してきた一際小柄な姿に、今度は蓮が息を呑む。
「梓」
 いつもと変わらぬ静かな笑みを蓮に向け、梓は恥ずかしそうに手にした弓を背中に隠した。
「……涸れ井戸か」
「ご名答。さすがは『魔王』様、話が早くて助かる」
 緊張で張り詰めた楝の掠れ声に応えて、グースフットが軽く眉を上げる。そのさらに後ろ、土を踏みしめる足音がもう一つ。
「かつての水脈が洞窟になっていましてね。それを通路に利用させていただきました」
「キヌア、お前まで」
 軍師が最前線に姿を現すことなど滅多にない。ましてや今対峙している相手は『魔王』なのだ。驚きで言葉が続かない藜をちらりと一瞥し、キヌアは楝に注意を向ける。
「内輪の話は後です、藜。早く討ち取ってください」
 誰を、など。あえて言い添えるまでもない。腕の中の肩が大きく震え、対峙した楝の眼光が鋭さを増す。
「貴様、謀ったか。どこまでも卑劣な手を」
「違う!」
 『魔王』を討つ。それは今や『戦士』の最後にして最大の目的だ。『魔王』は目の前にいる。完全に『戦士』の軍勢に囲まれた、この場所に。けれどもう、藜に『魔王』は討てない。掌から伝わる温もりを、歯の根が合わないほどに震えているその細い肩を、それでも藜を信じてくれる指先を、裏切ることなどできはしない。
「控えろ、軍師。他の者もだ。敵将に礼を失して『戦士』の誉れを汚す気か」
 よく通る戦場の声で周囲を薙ぎ払い、蓮を抱えた藜は楝へと足を踏み出す。よろめくように楝が後退する。さらに一歩。梓が引いた『戦士』の結界が足元を通り過ぎていく。
 空いていた右手が白装束の袖を捕まえた。手負いの獣そのものの眼差しが藜を貫く。機先を制して、藜は引き寄せたその耳許に低く大きな情報を落とす。
「『魔王』の素顔を知っているのは俺だけだ。下手に動くとバレるぞ」
 その言葉に、微妙に色味の違う二対の青い瞳が見開かれる。
「藜、それは」
「何を考えている、貴様」
「『魔王』を庇い立てする気はない。だがお前たちには生きてほしい。だから、しばらくの間だけ俺に任せてくれ」
 鋭い舌打ちと共に藜の腕が振り払われる。しかし楝はそれ以上動かない。被り直した布の奥、激しい眼差しはそのままに藜を、『戦士』の軍勢を睨み据える。
 楝がとりあえず静観の姿勢に入ったことを確認して、藜は蓮から手を離す。不安げに見上げてくる青銀の瞳に大丈夫だと頷き返し、藜は己の手勢の面々を見渡した。
「剣を納めろ、グースフット。俺は鎧も着ちゃいない」
「しかし、大将」
「大丈夫だ。『魔王』は魔法を遣わない」
 自信に満ちた断言。その場の誰もが理由を問う目を向けた。耳は自然に、次に藜が口にする言葉へと傾けられる。
 場の意識を一身に集めながら、藜は傍らの蓮の短い銀髪に手を伸ばす。指先をすり抜けていく、その煌やかな輝き。
「今回『魔王』が姿を現したのは妹を——家族を、取り戻すためだ。蓮を返せばこの場は退く。そうだな」
 楝に向けられた念押し。敵意に満ちた青い瞳が悔しげに細められる。魔法を遣えない、その事実を最大の敵である男に庇われているという現実。握り締めた拳が震えているのは、最早怒りのせいだけではない。
「皆にも大切な者がいるならば、気持ちは分かるだろう。謗りを受けるような勝ち方はしたくない」
「藜」
「命令はさせるな。お前たちの良心に任せる」
 非難の籠ったキヌアの声を伏せた瞼で受け流して、藜は軽く蓮の肩を押した。その先には俯いたまま立ちつくす楝の姿。
「藜……!」
 蓮の瞳には戸惑いが露わだった。ほんの少しの間、藜は息を止める。離れがたいのは藜とて同じだった。
「必ず迎えに行く。だから今は行くんだ。お前たちを二人とも生かす道は、これしかない」
「でも……!」
 交錯する、二色の視線。藜が蓮の左手を握りしめる。この細い指先があの恐ろしい雷を呼ぶのだ。けれど今、藜に恐怖はない。その裡に宿る心を、素顔の蓮を、知っているから。
「待ちきれなくなったらこれを使え。見えたらすぐに黒で駆けつけてやる」
 離された蓮の掌の中、残ったのは大陸渡りの狼煙だった。万一に備えて袖口に仕込んであったのだろう。藜の腕と同じ温みが残る、その乾いた感触。少しだけ丈が足りない赤い上着の袖は、肘までのわずかな空間に狼煙を飲み込んですっぽりと隠してしまった。
「……いつかまた、あえる?」
「ああ、俺たちには縁があるからな」
 『魔王』と『戦士』。この島で今最も深い縁を持つ、二人のもう一つの名前。蓮は笑った。哀しいのか嬉しいのか、分からなかった。
「まってる。かみがのびきらないうちに、きて」
「分かった。もう切るなよ」
 小さく笑って、蓮は一歩後ろに下がった。温かい指先が遠くなる。一歩、また一歩。背中に何かがぶつかる。視界の隅に白装束の切れ端が翻る。軽く見上げたその青い眼差しは、俯けた角度とぼろぼろの頭巾の奥になっているせいで深い闇に紛れていた。
「兄様」
 無言のまま楝は蓮の肩を引き寄せた。そのまま葦毛に蓮を押し上げ、自分も鞍へと納まる。
 今度は虚勢の雷は必要なかった。葦毛が進む先でひとりでに道が空き、草原へ通じる回廊を作る。
 疲労を宿した葦毛の脚はゆっくりと『戦士』の波を横切っていく。複雑な表情のグースフットを、梓を通り過ぎ、キヌアの前で。
「ここで『魔王』を殺さなかったために、いつか誰かが死ぬんです。藜、それでもいいんですね」
 低く一人ごちるその声に思わず蓮は息を止める。左手の袖口を握り込み、やっとの思いで胸の中の熱い塊を飲み下す。
 もう魔法は遣わない。——遣えない。
 朝の光の眩しさなど、その場にいた誰の目にも映ってはいなかった。



「——蓮!」
 『魔王』の陣地の奥の奥。夕闇に身を隠すように天幕を潜った蓮に駆け寄ったのは、あかぎれだらけの素足だった。蓮の出奔から三昼夜。たったそれだけしか経っていないのに、心配を露わに顔を覗き込んでくる椿の顔は思いがけず懐かしかった。
「椿、よかった。ぶじで」
「蓮も……っ!」
 無事で、と言いかけた言葉を椿は咄嗟に飲み下す。蓮の頬が腫れていた。わななく指が頬を、肩を、腕を辿る。軽く触れただけで蓮の寂しげな笑顔が痛みに揺れる。明らかに殴られた跡。見覚えのない赤い上着は既にぼろぼろだったが、その下に隠された体はもっと酷いことになっているのだろう。接触を避けるように身を引く蓮の手を、椿は咄嗟に捕まえる。
「ちゃんと見せなきゃダメだよ。骨が折れているかも」
「いいから」
「良くない! こんな、ひどい……『戦士』にやられたの?」
「ちがう」
 かぶりを振る蓮に椿は口を噤む。『戦士』でなければ、思い当たる相手は一人しかいない。
「一体どうして。楝様、蓮には今まで絶対にひどいことしなかったじゃない」
 傷の具合をひとつ確かめるたびに痛々しげに歪む椿の漆黒の瞳を、蓮は不思議と穏やかな気持ちで見つめる。藜と同じ色合いのそれが少しだけ羨ましく思えた。
「椿は、たたかれなかった? わたしがいなくなったあと」
 椿の方には目に見える傷はない。蓮の体を検め終え、手当てのための準備を整えながら椿は小さく頷く。
「あの後、もうそれどころじゃなくて。楝様はすぐに『戦士』を追って行っちゃったし、あたしは本隊に報せに来なきゃならなかったから」
 だから椿は無傷なのだ。白装束の群に椿が混じっていなくて良かったと、心から蓮は安堵の息を吐いた。
「ところで、楝様は? 一緒に帰ってきたんじゃないの?」
「兄様は……」
 楝は今、とても人前に出られるような状態ではない。他ならぬ『戦士』藜に、秘密を知られてしまった。その衝撃があまりにも大きかったのだろう。到着と同時に陣地の中心に構えた『魔王』の天幕に引きこもってしまった。
 何故だ。どうして、お前は。
 二人だけで草原を駆け抜けた丸一日。楝の口は幾度も同じ問いを繰り返す。それはいつしか島の言葉ではなく、とうに忘れたと思っていた大陸の言葉に変わっていた。楝の中にも封じ込まれていた、抑え続けた思い。魔法での反撃の可能性など、最早頓着していないようだった。疲れた葦毛が足を止めるたび、鞍から引きずり下ろされて罵りと拳を浴びる。楝が殴り疲れると再び馬に引き上げられ、『魔王』本隊を目指す。そんなことを繰り返したせいで、蓮の体はすっかり痣だらけになってしまっていた。
「……椿はしばらく、ちかよらないほうがいい」
 無言で椿は蓮の手当てを続ける。右上腕と肋骨の一本に罅が入っているようだった。
「何があったのか、聞いてもいい?」
 気遣うような椿の声に、小さく蓮は頷く。自身の選択を悔やんではいないが、誰かに話すことで気持ちの整理をつけたかったのもまた事実だった。腕に巻かれていく包帯の白さを見つめながら、蓮は訥々と藜との出逢いを語る。黒馬の背から見た草の波も、『戦士』本隊の天幕の彼方に広がる夕暮れも、茅葺屋敷の梁の煤け具合も、思い返せば驚くほどに色鮮やかだった。
 途中で痛み止めの煎じ薬を勧めた以外は口を挟まず、椿は最後まで蓮の顔から目を逸らさなかった。葦毛が『戦士』の囲みを抜けたところまで話したところで、椿は小さく首を振る。もういいという合図だった。
「この怪我が治るまでは、蓮も楝様に会わないで。お願い」
「でも」
「大丈夫。あたしが蓮を守るから」
 どうして、と問う声は言葉にならなかった。効き始めた薬湯が柔らかな眠気を誘い、蓮の意識を浚っていく。
 藜の黒馬へと崖を飛び降りた時、蓮は確かに椿を捨てたのだ。なのに何故、椿は蓮を楝から守ろうとしてくれるのか。
「蓮はあたしのご主人様じゃない。友達だから」
 ともだち。その言葉の意味を蓮はまだ知らない。けれどもう疲れ果てた体は言うことを聞かず、瞼は錘をつけたかのように勝手に落ちてくる。
「……ありがとう」
 ようやく形にした言葉が届いたのかどうか。椿の微笑みの気配を最後に、蓮の意識は途切れた。



「一体、どうして」
 苦渋を含んだキヌアの声が天幕の闇に落ちる。
「無茶に過ぎます。この期に及んで『魔王』を討たないばかりか、和睦の道を探るなど」
 藜は黙ってその言葉を受け止める。無茶はもとより承知。それでも通したい道だった。
「大将、悪いが今度ばかりは味方できねぇ。相手が悪すぎる」
 しかし横に腰掛けたグースフットもまた低い声で反対を述べる。
「何でまた、よりにもよって『魔王』の妹なんだ。お前は『戦士』の大将なんだぞ。けじめってもんがあるだろうが」
 円卓の隅では梓が俯いている。蓮が兄と共に走り去ったのは今朝のこと。以来梓は一言も口をきかず黙ったままだ。時折藜に問うような視線を向けるが、結局その質問は今に至るまで形にはなっていない。
 蓮こそが真なる『魔王』。その事実はどうあっても口にはできない。告げれば確かにこの場での仲間たちの説得は容易になるだろう。だが重い事実の告白の時機は藜が勝手に判断していいものではない。それではこれまで身を挺して楝を庇い続けた蓮の心を踏みにじることになる。
「——こちらからも聞きたいことがある」
 己を勇気づけるように、藜は”茅”の鞘を強く握りしめた。
「今朝の村の包囲。事前に俺が聞いていた策とは違ったな。どうして断りもなく作戦を変更した」
「貴方の様子がおかしかったからですよ」
 どこか投げ遣りな口調でキヌアが言う。
「あの娘を連れ帰ってから——正確には『魔王』の追撃を退けてからの貴方の様子は、普段とは明らかに違っていました。心ここにあらずで、ずっと何かを考えていましたね。そういう時の貴方は必ず何かをやらかします。一月前『魔王』を探りに飛び出して行った時もそうでした」
「で、俺らはあんたが暴発しない程度に自由にさせて遠巻きに様子を窺ってたってわけだ。まぁ……結果的にはこの上なく暴走させちまったみたいだけどな。手ぇ出すなって言っただろうに」
 グースフットの茶化し言葉も、今は虚しく響く。藜という一人の人間を理解するがゆえの苦しみ。その場にいる誰もが、その苦味を噛みしめていた。
「……どうしても、無理なのか?」
「無理です。できません」
 即答するキヌアの声が、ふいに鈍る。
「……大将の望みを叶えるのが軍師の役目です。悔しいけれど僕に大将の器はない。だから僕は貴方の望みを叶えることにしたんです。そのことに悔いはありません」
 卓に肘をつき、組んだ手を額に置き。眼差しの鳶色はきつく握った指の陰になっていて、今は窺えない。
「なのに貴方が望むものはいつだって滅茶苦茶で……ここまで形にするのに一体どれだけ苦労したと思っているんです。『魔王』との共同統治なんて夢物語、今更言わないで下さい。そんなこと、できるわけがないじゃないですか。仲間を、家族を、魔法で奪われた人々が納得するはずがありません。僕自身さえも納得できていないことで、他人を説得できる自信もありません」
「……悪い」
「僕に謝らないで下さい。何より……梓を、どうするんです」
 思わず呼吸が止まった。『魔王』の雷に家族を奪われた被害者であり、他ならぬ藜の許婚。この場にいる中で、最も弱い立場の少女。
「いいんだ、おらのこったば」
 ”山の民”の娘は静かに頭を振った。
「今までと何も変わらんっけ。藜さんばやりたいようにしたって」
「梓」
「おらば”山の民”さ道具だっけ。藜さんば必要な時に使ってければ良いんだ」
 諦めきった言葉を遮るように強く卓を叩いた分厚い拳はグースフットのもの。
「そんなこと言うな。どいつもこいつも、どうしようもねぇ」
 吐き捨てた言葉はそのままに、グースフットは不機嫌な顔で席を立つ。天幕を出て行く大きな背中を、誰も止めはしなかった。
「……すまない、梓。キヌア。けれど」
 これだけは譲れない。”茅”を握りしめて藜も席を立つ。『魔王』の雷から守る。蓮の意志が確かに宿る、その刃を。出口を潜り抜けた目線は自然とまっすぐに南を向いた。この草の海の彼方にいる、自分を待っていてくれる存在へ向けて。
「藜さん」
 掛けられた声に振り返る。常と変わらぬ微笑を湛えた梓が天幕の入り口を潜って出てくるところだった。思わず言葉に詰まる。いつも以上に、何を話せばいいのか分からなかった。
「ちょっと、いいべか」
「……ああ」
 連れ立って歩いているようで、実際の主導権は梓が握っていた。歩調を合わせたまま、梓は巧みに天幕の群の中でも人気の少ない武具庫の方へと藜を導いていく。
 潜った狭い天幕には所狭しと防具の箱が並べられている。誰かが稽古にでも使ったのだろうか、一つだけ蓋の開いた箱の横に放置された鎧があった。後で兵たちに注意をしなければ。そう考える思考が既に逃げ腰なのだと、藜自身も気づいていた。
「蓮なんだけどなぁ」
 出しっぱなしの鎧に梓が歩み寄った。屈み込んだ指が、木板を結び合わせただけの粗末なそれをゆっくりと撫でる。
「『魔王』ば、あの子だべ?」
 あまりにも自然に滑り出した一言。絶句する藜をおかしげに振り返り、梓は再び鎧へと目を戻す。寄せ集めのがらんどう、まるで藜と梓の関係のようなその姿。
「藜さん、嘘つくの下手だな。いつバレちまうかって、ひやひやしたべや」
「……知って、いたのか」
「んん。見とって何となく思っただけ」
 小さく梓は笑う。哀しいほどに純粋な、その笑顔。
「キヌアも、なんで気づかねぇんだべ。それさえ分かっとれば、ずっと楽になれるんに」
「……すまない」
「謝らんでいいっけ。だからな、藜さん。おらさ心配は何もいらん。おめさばしたいようにしたらいい」
「……ああ」
「あの子ば、幸せにしたってや」
 心からの言葉に自然と深く頭が下がった。胸底から衝き上げてくるこの深い感謝を、どう表せばいいのだろう。
「ありがとう。ありがとう、梓」
 ありきたりな台詞。けれど今この時以上に、心を込めて口にしたことなどなかった。いつもの梓の寂しげな笑顔に、ほんの少しだけ優しげな光が灯る。
「女の子ば願いはいっつも小っちゃなもんなんだけどな。男の子ば大っきな望みより叶えるのが難しいんは、なんでだろうなぁ」
 叶えてやりたい、と藜は思った。ふいに黒鞘の長刀が途轍もなく重く感じられる。梓の願い、蓮の願い。それは決して、藜の願いと矛盾するものではない。
 神など信じない。それでも自分たちを、この島を守護するものがあるのだとしたら。いるのかどうかも分からない何者かに向けてこんなにも強く、深い祈りと希望を込めて何かを願ったことはない。
 希わくば愛しき者よ、幸いであれ。



「何故だ。何故会わせない」
 いつものように楝が怒鳴る声が聞こえる。南の港町に吹く風は、もう湿り気と熱を孕んでいた。息苦しい『魔王』の居宮の奥の奥。閉め切った部屋の中で息を潜める蓮と息巻く楝を隔てるのは、薄い板戸と応対している椿の背中だけだ。
「まだ怪我が治りきっていませんから。それに今日は具合も良くないみたいです」
「その言い訳は昨日も聞いた。怪我だって、もう三月だぞ。蓮はそこにいるんだろう。俺が会うと言っているのが聞こえんのか」
「とにかく今はダメです。どうしてもと仰るのなら、どうぞあたしを殴ってお通り下さいませ」
 ぐっと楝が言葉に詰まる気配が伝わる。楝は近頃椿を殴らない。何故なら。
「楝様の御子が、流れるかもしれませんが」
 駄目押しの一言に、苛立たしげに壁を叩く音が重なる。
「……そんなに酷い怪我ではないはずだ」
「酷い怪我です。蓮はずっと耐えてきたんですから」
 今度は鋭い舌打ち。
「奴が——『戦士』が大掛かりな工事を始めた。道を造っているらしい」
 蓮の心臓が跳ね上がる。藜が語っていた、未来に繋がる道。この瞬間にも藜は先へと、蓮へと進もうとしてくれている。その事実が何より胸に響いた。
「街道を整えて、こっちに攻め込もうという腹積もりだ。これ以上魔法の遣い手が不在なのはまずい」
「……『魔王』様ならもう目の前にいらっしゃるではありませんか」
「うるさい。本当に殴るぞ」
 楝の威嚇が虚しく板戸にぶつかる。蓮は指先を握りしめて、ただ椿に兄の手が上げられないことだけを祈った。その右腕にはもう、包帯は巻かれていない。
「……とにかく、明日こそは蓮に来てもらうからな。しっかり準備を整えておけ」
「さあ、最近はつわりがひどくて。体が動けばやっておきますけれども」
 無言の間は、楝が椿を睨みつけた時間だろう。やがて荒々しい足音が廊下を遠ざかっていくのが聞こえる。
「椿、だいじょうぶ」
 蒸し暑い部屋、細く開けた隙間から椿と共に爽やかな外の空気が流れ込む。しかし今は外気の誘惑になどかまけている場合ではない。椿の顔色は紙のように真っ白だった。
「ごめん、ちょっと休憩」
 板張の床に座り込んだ椿の姿を隠すように板戸を閉め直し、蓮はその細い背中を撫でる。腹の子はまだ安定する時期ではない。ただでさえ辛いつわりに加え、連日続く楝との押し問答に椿は心身ともに疲れきっているはずだった。
 椿の妊娠が知れたのは十日ほど前のことだった。きっかけは蓮の包帯が取れる頃合いを見計らって呼んだ薬師の、何の気なしの一言。
「ときにそっちの黒髪の娘さん、随分血色が悪いが……ちゃんと食べておるのかね?」
 言われてみれば確かに、椿の食はここのところ細くなっていた。怪我を口実にしている手前出歩けない蓮も暑い部屋に閉じこもっているせいか、最近食欲が落ちている。二人して随分早い暑気あたりだ、と笑っていたところだったのだが。
 椿を、蓮を診た後、老いた薬師は首を振った。
「銀色の娘さんの怪我はもう問題ない。じゃが……お二方ともこんなところに閉じこもっておるくらいじゃ、諸々の事情があろう。おめでた、と言って良いものかどうか」
 それだけを言い置いて、薬師は関わりを避けるようにそそくさと部屋を後にした。せめてもの心遣いなのだろう、置いていかれた橘の実だけが部屋の中で芳しい香りを零していた。
 椿に、蓮に宿る、新たな生命。
 嬉しさよりも戸惑いが先に立った。藜の子。勿論、実感などはない。椿も同じだったのだろう。二人とも、しばらくその場に呆然と座り込んでいた。
 薬師に口止めを頼む必要はなかった。楝に伏せての診察だったことも幸いしたのだろう。賢明な老薬師は何も語らず、その足で港を出る船へと乗り込んだようだった。
 橘の香気に励まされたのだろうか。先に顔を上げたのは椿だった。
「分かったのが同じ時期で良かった。あたし、楝様に言う。そうすれば蓮が産む時必要なものも内緒で用意ができる」
「椿」
「死なせたりしないでしょう? 蓮が好きになった人の赤ちゃんだよ」
 好き。そう言ってくれた藜の声が耳に蘇る。蓮が抱く気持ちが果たしてそれと同じものなのか、今でも確信は持てない。けれども心に溢れ出してくる想いは確かにあの夜、焚き火の傍らで感じていたのと同じ熱を宿していた。
 守りたい。藜を、藜に連なる生命を。破魔刀に宿した意志と同じ、揺るぎなき心。
 強く蓮は頷く。守るものがある。だからこそ、強くなれる。蓮と同じ種類の強さを湛えた、椿のあでやかな眼差しが微笑んだ。
「おめでとう、蓮」
「うん。椿も……おめでとう」
 その生命がいるというあたりに、手を置いてみる。今はまだ自分の温もりしか感じられない。けれどもそこには確かに、この島の未来の姿が——『魔王』と『戦士』の願いが、宿っている。
 たとえその誕生が他の誰からも祝福されないものだとしても。それならばなお一層、せめて蓮だけは強く願おうと思った。
 希わくば愛しき生命よ、幸いであれ。
 


 夏が過ぎ、秋が足早に駆け抜けた。落ちた紅葉に霜が下りて、透き通った氷の中に鮮やかな紅を閉じ込める。
 楝の訪問は稲刈りの季節を境に間遠になっていた。天候が良かったおかげで、その年は稀に見る豊作だったらしい。『戦士』の街道が延びるに従って近づいてくる最後の決戦。その準備を怠りなくする為には、組み入れたばかりの地主からの貢納が滞りなく行われるのが絶対条件だった。味方に付いて日が浅い手勢へ目を光らせるのは勿論のこと、身内で不正が出ないよう税吏の監視も厳しくしなければならない。自然、楝が街を留守にする日も多くなる。今度こそはと息巻いて帰って来たところで、会うたび大きくなる椿の腹に興味よりも恐怖を覚えるらしかった。何やかんやと口では言うものの、結局椿には指一本触れないまま引き上げる、そんなやり取りの繰り返しが続いていた。
 そうして、年が改まった頃。十月十日には少し足りない新月の夜明けに、蓮は女の子を産んだ。蓮も椿も初めてのこと、しかし他に頼るあてはない。丸一晩続いた苦痛の果てに元気な産声が暁の紫を震わせた時、血まみれの二人は泣きながら笑った。
 腕に抱いた赤子は、腹にいる時よりもはるかに重く感じられた。無闇にばたつくこの足が、中から腹を蹴っていたのか。少し尖らせたこの唇が、いつか意味のある言葉をしゃべるようになるのか。そう思えば作り物のような細かい指も、ぷっくりと下ぶくれた頬も、何もかもが愛おしかった。
「名前を、つけなきゃね」
 身重の体を不自由そうに揺らして椿は言った。椿とて臨月の身、自分の着替えすら容易ではないはずなのに、つとめて明るく蓮と赤子の世話を焼く姿に、自然と頭が下がった。
「考えてある? この子の名前」
「……うん」
 産湯を使ったばかりの肌はまだしっとりと濡れていて、温かな赤みを宿していた。あの夜明けに見た夢の残像の、最後に残った煌やかな結晶。掌に伝わる赤子の温みは、蓮が思っていた以上に確かなものだった。
「睡蓮。わたしがみたゆめの、かけらだから」
 そっか、と椿は言った。
「蓮の夢、今度は叶うといいね」
「うん」
 逢わせたい。この子を、藜に。藜を、この子に。泣き疲れて眠ってしまった赤子の頭を、不慣れな手つきで撫でてみる。まだ生え揃っていない髪の色は、まばらすぎてまだよく分からない。できれば黒髪がいいと蓮は思った。この島では当たり前の、あでやかな黒い髪と瞳。
 むぐむぐと赤子の口が動いた。思わず覗き込む蓮と椿の目の前で、瞼がゆっくりともたげられる。長い睫毛の下に覗くのは銀色がかった薄青の瞳。息を呑む二人に、睡蓮はにっこりと微笑んだ。
 あどけない笑顔はほんの一瞬のこと。なんだかよく分からない呟きと共に母譲りの眼差しは元通りに隠され、睡蓮は再び夢の中へと落ちていく。
「……椿、おねがいがあるの」
 すやすやと眠る赤子の頬を辿る指が震えているのは気のせいではない。この柔らかい髪の毛はまだ生え揃っていないのではない。色が薄すぎて、見えにくいだけ。
「かざぐるまを、さがしてきてほしい」
 どうか、風羽を回すものがこの稚い息吹だけであるように。当たり前でない者の幸せほど崩れやすいものはないと、誰よりも蓮自身が知っているから。
 希わくば愛しき者よ、どうか。



 からからと、湿った冷気に風車の音が混じる。芯まで凍えてしまいそうに寒いくせに水気を多く含んだ鈍色の曇天は、わずかな朝の陽射が落とす温もりさえも奪い取ってしまうかのようだった。
 雨戸を開け放した座敷で蓮はぼんやりと空を見上げていた。軽い眠気が全身を緩く包み込んでいる。寝ては起き、起きては寝る赤子に合わせる生活。おかげで蓮は寝不足だ。それでも後ろから聞こえる睡蓮の声がご機嫌な様子なので満足だった。椿が作ってくれた風車は鮮やかな朱色で折られていた。くっきりした色合いは赤子の目にも綺麗に映るのだろう。風羽が走る音がひときわ大きくなった。
 藜の道はどれくらい進んだのだろう。北の寒空の下、黒毛を駆って現場の指揮を執るその背中が見えるような気がした。みぞれ混じりとなっては工事もさぞ難儀だろう。せめて昼の間は降らないでほしいと、蓮は天へ白い溜息を吐く。
 睡蓮が生まれて五日目のことだった。蓮が顔の前にかざした朱色を不思議そうに見つめ、まだ短い腕も息も届かない場所にあるそれへ向けてじたばたし。もどかしげな銀青の瞳がぐずる気配を浮かべた時、羽は根負けしたかのように回り始めた。睡蓮は途端に機嫌を直して笑顔になる。最早見間違いようもない銀色の髪も、はしゃぐ両腕と一緒に揺れていた。
 椿の子は、まだ出てくる気配はなかった。
「楝様と違って、のんびりした子だね」
 笑いながら椿が言う。そう。親と子は違う。似ているけれど違う存在。だからこそ価値があるのだろう。気がつけばそんなことをつらつらと考えている自分に、蓮自身が驚いていた。
 楝と蓮。どれだけ良く似た兄妹であろうとも、お互いがお互いにはなれない。どれだけ同じ名を名乗ろうと。たとえ両者に同じ能力が具わっていたとしても。
 それぞれが、それぞれに。
 風車の音が止まった。遊び疲れたのだろうか、瞼の重くなった睡蓮はすぐにむずかり始める。慌てて蓮は立ち上がった。
 今、椿は朝餉の用意に立っている。蓮が作ったお菜は食べれたものじゃないから。椿はそう言うが、頑として竃番を譲らない理由は勿論別にあると蓮は知っている。
 自分の価値は何だろう。『魔王』としてではない、蓮自身の価値とは。
 そんなとりとめもない問い掛けは、この上なく通る赤子の泣き声にかき消されて雪雲の向こうに吹き飛んでしまった。まだ慣れない手つきでおたおたと睡蓮を抱き上げる。生まれて八日、未だにこの小さな生き物が何を求めて泣いているのか上手く汲み取ってやれないでいる。これなら風車を回してご機嫌を取る方が余程簡単だ。しかし玩具では空腹もおしめの不快感も除いてはやれない。最後に乳を含ませてやったのが夜明け前だったことを思い出し、慌てて蓮は襟元を寛げる。待っていたとばかりに睡蓮が口を寄せてきた。その頬の、思わずはっと息を呑むほどの温かさ。
 こんなに小さな赤子でさえも、蓮にたくさんのものを与えてくれている。半ば夢の世界へ渡りかかっている睡蓮と柔らかな眼差しを見交わしながら、蓮は腕に力を籠める。紛れもなく蓮自身の選択の結果、ここにいる生命。昨日よりも今日、今日よりも明日、確実に重みを増していくその小さな体。
 重たげだった睫毛がついに閉じられる。襟元を直してすやすやと寝息を立て始めた睡蓮の背を軽く叩いてやる。耳許に落ちる、けふっという溜息。この子に満足を与えてやれた、そのことが何よりも蓮の心を充たしていた。
 けれども敏感な感覚はどこかでこの時間の終わりを覚悟している。そしてそれはもう、遠くはない。
 『魔王』の時代は終わる。それはもう間もなくのこと。
 硝子細工が、雨雪に変わる。
 ぽつ、と庇を潜り抜けた雨粒が座敷に降り落ちる。同時に板戸を激しく叩く音が奥の座敷にまで届いてきた。
「椿、開けろ。俺だ」
 ——来た。
 蓮は小さく息を呑み、きつく目を瞑る。一旦睡蓮を布団に戻し、座敷の隅に置いた衣装籠を引き寄せた。中に納められていたのは真新しい『魔王』の白装束と梓からもらった赤い上着、そして狼煙の筒。上着のほつれは椿から習って自分で直した。袖の中には筒を収める隠しもつけた。連れ戻されたあの日、狼煙が楝に見つからないよう腕ごとかき抱いた記憶が蘇る。庇った右腕は怪我をしたが、要のこの筒だけは何とか守り通すことができた。蓮と藜の、約束の符牒。
 不穏な空気を感じ取ったのだろうか。眠ったままで身じろぎする睡蓮を腕に抱きしめて、身支度を整えた蓮は立ち上がった。
 もう隠せない。蓮という人間が生き、足掻いた証を。
「どうしたんですか、楝様。そんなに血相を変えて」
「今、赤子の泣き声が聞こえた。お前のでは、ないな」
 戸板の前で、椿は必死に立ち塞がっていた。相変わらず楝は身重のその身に指一本触れようとはしない。しかしかつて以上に温度を失くした眼差しが真上から椿を射竦めていた。
「これが最後だ。蓮を出せ」
「でも」
「出せ」
「椿。もういいよ」
 守ってくれる背中がありがたかった。けれどもう、甘えてはいられない。蓮には蓮のやるべきことがある。
 逢わなければならない。『戦士』藜に。
「蓮」
 止めようとする椿を視線だけで宥めて、蓮は久方振りの外へと踏み出した。生まれて初めて外気に触れた睡蓮がぎゅっと身を縮める。
 こわい? そう、わたしもこわい。けれど。
 睡蓮を腕に抱いたまま、蓮はまっすぐに楝の顔を見た。生まれ育った村を出てから初めて、真正面から見た兄の顔。あんなに似ていた面差しはいつの間にか見慣れた自分のそれとは違うものになっていた。鼻筋が、口許が、長い睫毛が、良く似てはいる。けれど頬の線が、眉の具合が、眼差しが違う。響きの音程が違う声も。伸ばしっぱなしで肩にまで届いた銀の髪も。楝は楝だから。蓮は、蓮だから。
「お前」
 言ったきり、楝は言葉を失ってしまったかのようだった。まるで積年の仇であるかのように、腕の赤子を睨みつける。
「兄様、わたしのこどもです」
 誰との、などと楝は訊かなかった。ただただ憎悪だけが籠るその眼差しに、蓮は小さく笑って見せた。
「かざぐるまを、まわせるの」
 息を呑んだのは、楝と椿のどちらだっただろう。穏やかな笑顔のまま、蓮は椿を振り返った。
「椿、いってくる。あわなきゃ、あの人に。睡蓮をおねがいね」
「蓮、でも」
「ありがとう、椿。ともだちでいてくれて、ありがとう」
 ただでも重荷を抱えている椿に、これ以上抱え込ませるのは心苦しい。けれど蓮には他に頼る宛も思いつかなかった。これから先、睡蓮を守ってくれる人。そしてできうるならば、藜に逢わせてくれる人。
「わたしのしごとはごはんをつくることじゃない。そうでしょう?」
 どうしてこんなに心が穏やかなのか自分でも不思議だった。眠ったままの睡蓮を椿に手渡し、楝へと向き直る。残った温みが逃げないよう、一度だけ自分の身を強く抱きしめた。睡蓮の体温と自分のそれが混じってひとつになっていく。
「あの人がきたのでしょう、兄様。つくったばかりの道をとおって」
「……まだ完成したわけじゃない。だが奴が進軍を始めたのは確かだ」
「そう」
 待ちきれなくなったのだろうか。思いついたら鉄砲玉なところはちっとも変わっていないようだった。
「二万の大軍だ。どうやら本拠地の兵力を根こそぎ持ってきているらしい」
 今度はきちんと仲間にも相談したのだろう。どういう説明で彼らを、ことにあの軍師を納得させたのか。
 楽しくなどは、勿論ない。けれどどうして笑みが零れてくるのだろう。『戦士』の面々と交わした数少ない言葉が、短い時間が、記憶の底から次々と湧き上がってくる。
 楝は蓮と目を合わせない。藜と違って、兄は言いたいことがある時に目を逸らすのだ。爪先が苛立たしげに床を蹴る。氷雨はぽつぽつと降り続いている。吹きさらしの廊下にいたせいで水気を含んだ頭巾が、ただでも捉えづらい深青の眼差しを奥底へと隠してしまう。その闇の中を覗き込むように、蓮は足を踏み出した。びくりと楝が身を竦める。
 楝が全てを否定するのは、自分自身が否定されて生きてきたからだ。誰よりも確かな拠り所を求めているくせに、いざ手に入りそうになると急に怖くなって逃げたり、壊したりする。
 兄のことならよく知っている。誰よりも近くで、その心を見てきた。だから。
「ありがとう、兄様。わたしは兄様と一緒にいれて、しあわせだった」
 暗がりの中で、これ以上はないというほど楝の目が見開かれる。そこに映り込むのは他ならぬ蓮自身の顔。楝に、己の虚像に、蓮は笑いかけた。
「いこう。これが『魔王』さいごの、たたかいだから」
「……ああ」
 楝が再び眼差しを伏せてしまったせいで、その奥にある細かな色は読み取れなかった。けれど微かに震える声は確かに、蓮の言葉が楝の心に届いたことを伝えていた。
 笑い方など、藜に出逢う前まで忘れていた。けれど今はこんなにも素直に笑うことができる。
 振り返ってみれば、こんなにも愛しい人々がいた。魔法以外に何も持っていないと思っていた、自分にも。
 そんな些細にすぎる蓮が生きた証。けれど何よりかけがえのない大切な事実を教えてくれた相手が今、こちらへ向かっている。
 藜に逢いに行く。『魔王』と『戦士』の縁が交わる場所、あの日偶然に出逢った草原の海へ。
 まっすぐに青銀の瞳は北の空へと向けられる。春はまだ遠くとも、この空と大地の間にはもう次の世代へ繋がる種が芽吹いている。


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<予告編>


約束の狼煙が天へと駆け上る。

『魔王』が、来る。
『戦士』の軍勢の前へ。
この泥仕合の、只中へ。

震える細腕が庇うもの、
しなやかな指先が示すもの。

守りたいものは、何だろう。

『DOUBLE LORDS』転章13、
相克だけがただひとつの答えではない。
その証こそが、この創国の物語。


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