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書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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 翌朝、『戦士』の本隊は宿営地を撤収した。およそ半日で天幕の群は消えてなくなり、代わりに草の上には無数の円が残される。喧騒の真ん中にある一際大きな丸、指揮所の天幕跡地の傍らで蓮と梓は兵たちがそれぞれ自分の仕事をこなすのを眺めていた。天幕暮らしでは移動はごく日常のことだ。兵たちは手慣れた様子で円卓や机や天幕の骨組みを組木細工のように器用に馬車に乗せ、ごとごとと隊列の所定の位置へ向けて牽いていく。北を目指すための編成の都合上、この辺りは最後尾の荷馬車の待機場所になっているらしい。気がつくと周囲は荷車だらけになっていた。

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 やがて姿を現した藜は既に出立の準備を終えた黒馬の手綱を引いていた。続いてやって来たグースフットやキヌアも馬こそ連れてはいないものの、いつでも出発できるように身支度は整っている。
「揃いましたね。僕と梓は本隊を率いて留守居役との合流を急ぎます。態勢を整え次第、追撃援護に回りますのでそのつもりで。グースフットは今日いっぱいは僕たちと一緒に北上、のち反転。明朝までに藜がいる仕掛けの傍まで引き返し『魔王』が現れるまで気取られない距離を保ったまま伏せていてください。本隊の到着より先に『魔王』が接触してくることが予想されます。今度こそ逃がさないようにしてくださいね」
「おう」
 事前に男三人で打ち合わせた内容なのだろう、手短にキヌアが確認事項を述べていく。
「ここから東に少し行ったところの、今は無人となった村を仕掛けに利用させてもらうことにしました。藜と蓮はそこで待機。既に五日分の食糧は運んであります。状況に変化があったらこの狼煙で報せを」
「ああ」
 藜に手渡されたのは大陸渡りだという最新式の狼煙だった。筒状の油紙の尻から細い紐が垂れている。この紐を引くだけで煙が上がる仕掛けになっているらしい。
「移動は僕たちの姿が完全に見えなくなってからお願いします。分かっているとは思いますが、その辺に潜んでいるのであろう『魔王』に別行動をしっかりと見せつけて誘い出してください。これを好機と見たあちらは恐らく短期決戦を仕掛けてきます。早ければ明日の朝、グースフットの包囲網が完成する頃には決着が着くでしょう。それまでくれぐれも油断と無茶をしないように」
「わかった。ありがとう」
 キヌアの言葉は辛口だが、藜に対する時にはいつでも気遣いが含まれているのが蓮にも分かる。軍師として、一人の友人として、それが彼なりの誠意の表現なのだろう。受けた藜は小さく目を伏せる。
「身勝手ばかりですまない。梓を頼む」
「……貴方の我侭は今に始まったことではありませんから」
 大げさに溜息を吐いて、キヌアはぷいと顔を逸らした。
「話し合ってばかりでは日が暮れます。そろそろ出発しないと」
「お、もしやキヌアさんってば照れてたりする?」
 グースフットの茶々に、すかさずキヌアが睨みをくれる。
「照れてなんかいません。貴方も早いところ鹿毛を連れてきてください」
「へいへい。じゃあな大将、邪魔者がいないからって蓮ちゃんに手ぇ出すなよ」
 不機嫌な声に急かされて、グースフットが手を振って兵たちの群の中に紛れていく。
「したっけ、おらもそろそろ行くな。なるたけすぐに戻って来るっけ、蓮も怪我だけはせんでや」
「うん、ありがとう」
 蓮の手を一度強く握って梓の手が離れる。昨夜蓮を自分の天幕に泊めてから、梓は常に傍に付き添っていてくれた。キヌアや藜と一対一にならないようにという配慮だと気づいていたから、蓮もあえて拒むことはしなかった。
 しかし、ここから先は否が応でも藜と二人きりだ。昨夜の作戦会議以降、藜にどう接していいのか分からなくなってしまっていた。どうやらそれは向こうも同じようだ。あれから今に至るまで二人の視線が合わさることはなかった。黒馬に乗って草原を駆けていた時には感じられなかったぎくしゃくした雰囲気が、どうしようもなくいたたまれない。
 キヌアがさっさと、梓が心配顔のまま背を向ける。二人の背中が人ごみに消えて、しばらくは荷馬車の軋みや馬の嘶きや宥める人の声などが周囲を覆っていた。しかしそれもまた、打ち鳴らされた太鼓の音を合図に潮が引くように静まっていく。
「全軍、前進」
「全軍、前進」
 最初に響いたのはキヌアの声、復唱したのはグースフットの声。蓮と藜を置き去りにして、景色が一斉に動き出した。この辺りの草は丈が高い。先頭の騎馬兵が草を掻き分け、続く歩兵が根元から踏み固めて、最後尾の荷車が通れる道を作るのだろう。しばらくは通った跡が残るが、やがて草は立ち直り何事もなかったように元の姿を取り戻す。この草の海の中では、道などあってないも同然だった。
「……いつか、道を造りたいと思っているんだ」
 荷馬車の群に追い越されていく中で、ぽつりと藜が呟いた。
「みち?」
「ああ。北の港と南の港を繋ぐ道だ。それがあればもっと早く移動できるし、荷物を運ぶ時にも苦労がなくなる」
「……うん」
 相変わらず藜は皆が進んでいく方向に顔を向けたままだ。梓から目を逸らすのは話しづらいことがある時の藜の癖だと聞いていたから、蓮も無理に視線を合わせようとはしなかった。
 昨夜、藜が戦った相手。帰還後、交わらなくなった視線。話しづらい話題の内容は予想がついていた。正直、蓮の側も身構えていた。
 道を造りたい。一対一になって初めて交わした話が予想とはまったく関係のないものだったことに、妙に安心した。
「戦が終わったら、やりたいことがたくさんある。蓮はどうだ?」
「……かんがえたこともなかった」
「そうか。じゃあこれから考えてみたらどうだ? 自分が何をしたいのか」
「じぶんが、したいこと?」
 最後の荷馬車がゆっくりと急ごしらえの道へと吸い込まれていく。遠ざかる車軸の擦れる音、人馬の息遣い。少しずつ、二人きりになっていく。
「そうだ。『魔王』の身代わりなんかじゃない、お前自身がやりたいことだ」
 その声音には言葉以上の意味が含まれているように感じられた。思わず蓮は顔を上げる。本隊の方向ばかり見ていたはずの漆黒の瞳に思いがけず見下ろされて、知らず息を呑む。今日初めて合わせた藜の目には、複雑な感情が渦を巻いていた。
 藜の口が何事か言いたげに開いた。しかし結局何も言わずに、再び視線は逸らされる。
「……そろそろ出発するか」
 気まずい沈黙を断ち切るかのように、藜は黒馬を引き寄せた。その息吹がやけに大きく聞こえる。いつの間にやら『戦士』の本隊は随分遠くへ行ってしまったらしい。今、見える範囲にいるのは黒馬と藜と蓮だけ。他には何もかもを包み込む大きな空と草原と、早くも立ち直り始めた草を揺らす風しかない。
 昨日と同じように、蓮の身体が黒馬の背に引き上げられる。たちまち見下ろす形になった草の波が、傾き始めた日の光に照らされて躍っていた。
 荷馬車の群がつけた道を左手に見ながら、二人を乗せた黒馬はまっさらな草の中へと進んでいく。目指す村はまだ地平線の向こう側だ。
「……藜は、梓がきらいなの?」
 ふと浮かんだ疑問をぶつけてみる。顔を見ないで済む分、聞きづらいことも率直に言えた。恐らく無意識なのだろう、こわばった腕を背中で感じた。
「別に嫌いってわけじゃないが……どうしてそう思う?」
「あまりしゃべっているところをみなかったから。およめさんに、なるひとなのに」
 藜が小さく息を落とす。
「キヌアだな。まったくあいつは、余計なことを」
 言葉を探すように、短い沈黙が降りる。
「……嫌いじゃないが、どう接していいのか分からない。多分向こうも同じなんだと思う」
「……ひとつ、きいていい?」
「何だ?」
「梓には、ほかにすきなひとがいるのではないの?」
 今度の沈黙は先程より長かった。しばらく待っても返って来ない答えに、蓮は正答を悟る。
「わかっているのに、どうして?」
「仕方ないんだ。『魔王』を倒すためにはどうしても”山の民”の助けが要る」
 でも、と言いかけて蓮は口を噤む。
 戦ばいやだな。
 そう呟いた梓の声が耳に甦る。恐らくこの戦の理不尽を最も多く引き受けている立場の彼女が零した、心からの言葉。
 『魔王』を倒すために梓は望まぬ婚約を強いられ、『戦士』を倒すために蓮は男の衣装を纏って戦場に立つ。ふと、兄の手許に残して来た友人の顔が頭をよぎった。椿もまた、数多くの理不尽をあの笑顔の下で受け止めている。この島の女には、やりたいことよりやらねばならないことが多すぎる。
「どうしても、『魔王』をたおさなければならないの?」
「……そうだな」
 次の質問を口にするのは覚悟が要った。言い慣れぬ言葉に、語尾が震える。
「『魔王』が、にくいの?」
 核心に触れる質問に、藜が小さく息を詰めたのが分かる。蓮はきつく目を瞑った。しばらく経って落ちてきた深く大きな溜息に思わず肩先が揺れる。しかし予想に反して続く声は意外なほど穏やかだった。
「憎い、と言い切れるかどうかは、正直分からない。けれどこの島を一つにするためには、相容れない存在だというのは確かだ。お互いに邪魔な敵を潰し合って、取り込んで、そうやって最後に残った相手がお互いだった、多分それが一番近い」
「……そう」
「少なくとも俺はそう思っていた。だが——どうやら向こうは違うようだな」
 わずかに開いた間に、蓮が顔を上げる。見合わせた藜の目には、先程の蓮と同じ種類の覚悟が宿っていた。
「昨夜、『魔王』の素顔を見た」
 驚きと、やはりと思う気持ちと。言いたいことが蓮の身の中に溢れてくる。恐らく藜にも聞きたいことがたくさんあるのだろう。伝えたい情報も聞きたい気持ちも、度を越すとかえって言葉にはならないものだと痛感する。
「……あとでぜんぶ、はなすから」
「ああ」
 吹いてきた東風が銀の短髪を揺らす。蓮は顔を正面に向け、頬でそれを受け止める。いつもは心地良いと思えるそよ風も、今ばかりはうまく感じることができなかった。
 考えなければならない。藜に伝える言葉を、できるだけ誠実に、正確に。こんなに真剣に覚えている限りのこの島の言葉を思い起こしたことなど、今までなかった。
 この沈黙が破られる時、新しい何かが始まる。そんな予感が張り詰めた空気全体に漂っていた。



 その村は姿を現した当初、草の海に浮かぶ小船の群のように見えた。
「珍しいな、茅葺か」
 長い沈黙を挟んでいたせいで藜の声は少し掠れていた。長い影が行く手に伸び始めた頃のこと、目標を見つけてからの黒馬の足は速かった。そこが今宵の休息場所だと分かっているのだろう。向かい風に立てた耳がぴんと前を向いていた。
 そういえば茅葺の屋根はこの島に渡って以来ほとんど見かけなかったように思う。特徴的な柔らかな三角形に、知らず蓮の頬も緩む。
「……ひさしぶりにみた」
「大陸では多いのか?」
「うん。わたしのうまれた家も、そうだった」
 思い出すこともめっきり少なくなっていた故郷の景色が胸に甦る。そう、確かにあの形だった。炊事の煙に燻されて飴色になった、急勾配の切妻屋根。蓮と、楝が生まれた場所。
「そうか。やっぱり大陸は豊かなんだな」
「どうして、こっちではすくないの?」
 こんなにたくさんの材料になる草があるのに。蓮の言わんとすることを察したのだろう、藜が小さく肩を竦める気配が伝わってくる。
「手入れに手間がかかるからな。それに羊を追って暮らすなら、天幕の方が都合がいい」
 草原を移動中、住人に出くわすことは滅多にない。草原の民はそのほとんどが家族単位で家畜を追って暮らす遊牧生活、もし他の集落の痕跡を見つけたら餌場が重ならないようむしろ避け合うのが礼儀だ。人が定住しているのは比較的安定した耕地が確保できる南北の貿易港近辺、それに海沿いに点々と散らばる漁村くらいのものだ。
 南の港の周辺は『魔王』の本拠地となっていることもあり街らしきものが整ってきている。恐らく『戦士』の本拠地である北の港近辺も同様なのだろう。建物が密集した場所では何より火災が恐れられる。大きな街では延焼しやすい茅葺を避け、瓦や石畳を建材に使うことが多いのだと、言っていたのは楝だった。一体どこでそのような知識を仕入れてくるのか。決して親切な言い方ではなかったにしろ、楝はいつでも蓮の疑問に答えてくれたという事実に今更ながら思い至る。
 一方漁村は人の多い街に比べ貧しい者が多い。漁に出られる一時期が過ぎれば、男たちは出稼ぎに行くのが常だった。地道に貯める街での労働か、一攫千金の草原での追い剥ぎか。ある程度金が溜まると、彼らは街で持ち運びのしやすい板や帆布を買って持ち帰る。女たちは村の周囲で刈り込んだ草で苫を編んで彼らを待ち、漁が始まるまでのわずかな期間でそれらを材料に傷んだ小屋を改修する。そんな生活がこの島から盗賊が消えない理由の一端だと語っていたのも楝だった。盗賊を取り締まって街での働き手を増やし、島全体を豊かにする。楝とてこの島の将来に何の展望も持っていないわけではないのだ。
 いつか来る、未来のために。
 どんな時でも傍にいて、蓮の疑問に答えてくれた楝は今はいない。藜に全てを話すかどうか。蓮もまた、考えなければならなかった。他でもない、自分自身の未来のために。
 目の前の村は見渡す限りの草原に囲まれている。漁村ではなく、勿論街の一部でもない。忽然と現れた懐かしい茅葺屋根は、茫漠と草の海に抱かれて立ちすくんでいるようにも見える。楝か、藜か。揺れる蓮の心を体現するかのような、その姿。
「交易市か商人の休憩所だったのかもしれないな」
 屋根を数えて藜が言う。草原から飛び出した出っ張りは五つばかり、しかもそれらにはびっしりと草が生えているようだった。
 近づくにつれ建物の荒れ具合はいやでも目に入る。傾いた柱、崩れ落ちた屋根。集落の門の跡と思しき二本の柱の正面に一際大きな屋敷があり、左右に二つずつ小さい家がある。何とか中に入れそうなのは正面の屋敷だけのようだった。半ば草原に飲み込まれつつある庭には立派な井戸の跡がある。馬を下りてすぐに藜が中を覗き込んだが、すぐに首を振って戻ってきた。どうやら涸れ井戸らしい。
「多分この井戸の水を周辺に売ってたんだろう。水が涸れて見捨てられたか、盗賊に襲われたか。或いはその両方かもな」
 井桁に残った焦げ跡を指で辿って、藜が顔を上げる。視線の先には夕闇を切り取る茅葺屋根があった。
「守護神の加護はなかったのか」
「……しゅごしん?」
「ああ。茅で葺いた家には守り神が憑くと言われているんだ。数が少なくて珍しいっていうのもあるんだろうが……そういう噂を流すことで盗賊を追い払う狙いもあったんだと思う。この島の人間は神を畏れるからな」
「藜は、かみさまをしんじているの?」
 真摯に見上げる青銀の瞳に、藜は戸惑った色を浮かべる。
「どうだろうな。そんなものをこの目で見たことはないし、信じられるような生き方もしてこなかったから。だが『魔王』との決着が着くまでは、ご利益をいただきたいと思っている」
 その名が引き金となった。見合わせた互いの視線の中に、今までとは違う光が潜んでいることを確認する。覚悟という名の、重く鈍いその光。
 それきり無言のまま、どちらからともなく屋敷の入り口を潜る。広い土間には厩も設けられていた。藜が黒馬を中に引き入れる。寝藁の束の脇にキヌアが用意してくれた食糧が小山を作っていたが、二人は中身を確認することもなく横を素通りして板間へと上がった。
 傾いた板戸で土間とは仕切られたそこは、どうやら居間として使われていた場所らしい。太い梁が天井を支えているおかげか、この部屋の中では屋根が落ちている箇所は見当たらなかった。奥にも部屋がいくつかあるようだったが、今はあえて見に行こうという気にはなれなかった。居間の真ん中に切られた灰の山に、蓮が土間に積んであった薪を並べ、藜が火を灯す。小さな炎はやがてぱちぱちと耳に快い音を立てて燃え始めた。
「うまく、いえないかもしれないけれど」
 柔らかな明かりが緊張をほぐしたのだろうか。二人は焚き火を挟んで腰を下ろす。揺れる火を見つめながら、蓮が口を開いた。
「わたしがこれからはなすこと、することを、しんじてくれるとうれしい。しんじられないようなことも、あるとおもうけれど」
「……ああ」
「わたしはけっしてあなたをきずつけない。……きずつけたくない」
 少しだけ躊躇うように間を置いて、蓮は目を伏せた。
「かたなを、かしてほしい」
「刀?」
 藜の声に警戒が滲む。
「何をする気だ」
「あなたをまもること。そう……しゅごしんをつける」
「守護神?」
 炎越しの蓮の表情はあくまで穏やかだ。少なくとも敵意は感じられない。疑うことが無駄だと思えるほど純粋に何かを為そうとしている表情、そういう風に見えた。
 溜息をひとつ落として、藜は傍らに置いた長刀の鞘を引き寄せる。板間に置いたまま、ぐいと蓮の側へと押しやる。手渡さなかったのは、その間片手しか使えなくなることを警戒したからだ。
「ありがとう」
 藜の緊張に気づいているのかどうか。蓮は小さく笑って黒塗りの鞘を手繰り寄せた。
 漆黒の拵えは決して軽いものではない。細い指が重たげに持ち上げる動作に合わせて、鍔が立てる細かな音が鼓膜に響く。凝視する藜の目の前で蓮は柄に手をかけた。思わず伸ばしかけた腕を青銀の目線が制する。藜を刺激しないためにだろう、蓮はゆっくりと刃を抜き放った。
「きれいな、かたな」
 鞘を払った刀身を火にかざして、蓮が呟く。藜は答えない。ほんのわずかの間目を伏せて、蓮は左手に柄を持ち変えた。切っ先を天井に向けたまま、己を向いた刃に右の親指を添える。
「! 何を」
「いいから」
 軽く触れただけでも皮膚を切り裂く、戦場の刀。押し付けられた指からは瞬く間に赤い筋が流れ落ちる。
 蓮は血の滴る己の指先を見つめた。鉄錆にも似た匂いが鼻先を掠める。この身の中に流れる刃と、盾と、意志の匂い。鋼のように硬く揺るがぬその思いを柄と共に握りしめながら、蓮は親指を刀身の鍔元へと当てた。
 刹那、胸に浮かんだのは故郷の茅葺屋根だった。幾つもの星霜を越えて、色が変わり住む者が変わろうとも、身の裡に抱いた者を守ろうと願う確かな意志。
 思い出した文字を、そのまま紅い色で書き上げる。たった一文字。けれどそこには確かに、蓮自身の望みが籠められていた。
 これから藜が遭遇するであろう嵐から、雷から、その身を守り抜けるように。今の蓮の中にあるありったけの祈りと、願いを籠めて。
 ——守護神”茅”。
 血文字は残されたまま、刃は再びゆっくりと鞘に納められる。柄を向けて押しやられた刀に、しかし藜はすぐには手を伸ばさなかった。
「……今のは?」
「魔法をふせげるようにした。もうあなたに、かみなりはおちてこない」
「魔法を防ぐ?」
 穏やかな笑みのまま蓮は小さく頷く。藜の表情から緊張は解けていない。
「できるわけがない。もしできたとしても、何故お前にそんなことが——」
 はっと藜は息を呑んだ。白装束の下に隠されていた素顔。今正面に相対している顔とそっくり同じ面影を宿す、その顔。
「もしかして、その力のために『魔王』から追われているのか? お前が魔法とは正反対の、破魔術の遣い手だから」
「ちがう」
 蓮の否定はあくまで穏やかだ。その柔らかさに、藜はわけもなく苛立つ。
「だったら何故あいつはしつこくお前を追ってくるんだ。何故魔法を遣ってこないんだ。何故お前と同じ顔をしているんだ」
 藜の質問のすべてを、蓮はやんわりと受け止める。乱れた息と肩を落として、藜は最後の問いを板間に零す。
「お前はあいつの——『魔王』の妹だろう」
「……あなたがあったのは、たぶんわたしの兄様。けれど、兄様は『魔王』じゃない」
 小さく、けれどきっぱりと蓮は告げた。
「わたしが、『魔王』だ」
 数拍の時を置いて、藜がゆるゆると顔を上げる。 
「……お前が、『魔王』?」
「そう」
「信じられるか、そんなこと」
「うん」
 蓮は頷く。藜の答えは予測済みのものだった。だからこれから、彼を納得させなければならない。その先に彼が出す結論がどんなものであったとしても。もうこれ以上、嘘を重ねたくはなかった。
「みて」
 焚き火越し、蓮が左腕を上げる。藜を示すその仕草に、初めて会った時のようなためらいはなかった。『魔王』の無慈悲な鉄槌が下る、前触れの指先。
「……!!!!」
 心より先に体が反応した。咄嗟に脇に置いたままだった長刀を引き寄せる。あの雷の前ではどんな防御も無効だと分かっているのに、腕は無意識に鞘を翳して身を守ろうとする。炎の向こうで蓮の口許が微笑を刻むのが、やけに鮮やかに見えた。
 刹那、閃光が視界を埋めつくす。柔らかな焚き火の橙など根こそぎ吹き飛ばしてしまうような、全てを切り裂く白い光。
 何かが砕ける音がした。腕か、足か、脇腹か。思ったほど衝撃は感じないものだと、藜はどこか人事のように考えた。これなら魔法に撃たれての最期も悪くない、そう思えるほど苦痛は覚えなかった。
 馬が驚いた様子で嘶くのが聞こえる。結局あいつも巻き込んでしまったなと自嘲した瞬間、何かが引っかかる。黒馬を繋いだのは板戸を挟んだ背中越し、もし藜が雷の直撃を受けたのなら馬とて驚く程度の怪我では済まないはず。
 反射的に閉じていた瞼をゆっくりと開く。最初に目に入ったのは自分の腕だった。いつも身に着けている漆黒の籠手、そして鞘。どれにも覚悟していた焼け焦げは見つからない。鞘を握り込んだまま固まっていた指を動かしてみる。動きがぎこちないのは藜自身がまだ動揺しているせいだ。骨も、腱も、筋肉も、皮膚の表面にさえ掠ったほどの傷も見当たらない。
 信じられない思いのまま、藜は視線を上げた。少し寂しそうに笑う短い銀髪の少女の瞳と、真っ向からぶつかる。
 蓮が『魔王』。
 『魔王』の魔法を防ぎ切った、という事実。
「藜は『魔王』をたおさなければならないのでしょう」
 言って、蓮は腕を下ろした。
「いまならたおせる。魔法はきかないから」
「……!!!」
 思わず息を飲み込む。そう。立場は完全に逆転している。『魔王』と犠牲者から、刃を持つ者と持たぬ者へ。蓮は無抵抗の意志を示すかのように板間に腕を下ろし、青銀の瞳を伏せた。
「あなたが、ころしたいほど『魔王』をにくんでいればよかった。そうすればわたしも、まよわずたたかうことができたのに」
 呟く声は上向けられた掌と同じように力がない。先程の魔法の余波で砕かれた板戸の穴から、いまだ凍えるような春の夜気が流れ込んでくる。
「なんどもかんがえた。あなたをたおすことや、兄様のところにかえること。けれどどっちも、できなかった。兄様はわたしのすべて。けれどわたしは、ただもうすこしだけ、あなたのそばでこの島のけしきをみていたかった」
 一度溢れ出すともう言葉は止まらなかった。ずっと心に抱え続けていた、その重すぎる想い。
「ふつうのくらしができればよかったの。魔法なんかいらない。家族がいて、かやぶきの家があって、かみだってのばして、ときどきはきれいなふくをきて。ただ、それだけでよかったのに」
 鼻の奥に痛みが走って、蓮は思わず言葉を切る。泣き方など知らない。そんなことを覚えるほど、楝は蓮を甘やかしてはくれなかった。涙など『魔王』には必要ない。なのに何故、蓮は今こんなにも苦しいのだろう。胸の中から何かに押さえつけられているようで、自然と呼吸が浅くなる。
「……一つだけ、訊きたいことがある」
 低く押し殺した藜の声に、蓮が視線を上げる。藜の目は伏せられたまま、蓮の方を向いてはいない。けれど長刀の鞘を掴んだ左手はゆっくりと脇に流れていく。柄尻と床が、重く澄んだ音を立てた。
「何故、俺について来た? お前が本当に『魔王』なら、何故」
 苦しくて堪らないのに、自然と笑みが零れた。藜にとっては選び抜いた末に口にした質問のはず。無数の疑問の中からそれを選び出した藜の心に、また呼吸が苦しくなった。その質問になら答えられる。蓮が返すことのできる数少ない答え。それを過たずに聴いてくれる藜になら斬られても構わない。そう思えた。
「あなたが、手をさしのべてくれたから。わたしをひとりの人として、みてくれたから」
 頬を温かな滴が伝う。ただそれだけで、心が格段に楽になった。
「だからあなたに、これだけはつたえたかった。わたしとであってくれて、ありがとう」
 かしゃん、と長刀の鍔が鳴った。藜の左手が黒塗りの鞘から離れる。怪訝な表情の蓮の前、藜は俯いたままだ。
「……らない」
「……え?」
 聞き取りづらい掠れ声は、まるで自棄のように大きくなった。
「斬らない。斬れるわけがないだろう。いくら『魔王』だって言われたところで、俺が知ってるお前はお前でしかないんだから」
「でも、この島をひとつにするためには、やらなきゃならないのでしょう」
「大義だけじゃ人は斬れない。それが好きになった相手なら、なおさらだ」
 きょとんと蓮は藜を見返す。今度は藜も視線を合わせてきた。焚き火越しに睨み上げるような目はまるで怒ってでもいるかのようだ。表情は真剣そのもの、けれど耳だけが炎に染められたように赤い。その色に、ようやく蓮は藜の言葉の意味を悟る。
「……うそ」
「嘘じゃない」
「だって」
「だっても何も、どうやらそうらしいんだから仕方ないだろう」
 今度は蓮の頬が紅潮する番だった。少しだけ気を悪くしたように、藜の口がへの字に曲がる。
「……そんなに意外か?」
「だって、きのうあったばかりなのに」
「昨日? 違うだろう。俺たちはもっと前に会っている」
 戦場で。
 あえて口にしなかった言葉に、再び場の空気が張り詰める。
「この島をひとつにするなら、他にもやり方がある——『魔王』と『戦士』が一緒になればいい」
 今度の台詞は真顔だった。一緒になる。いくら鈍感な蓮でも、その意味が理解できないほど子供ではない。
「……もし、そうなったとしたら。兄様は、どうなるの?」
「分からない。あっちの出方次第だが——俺はもう無理に倒すつもりはない。お前が説得してくれれば話し合いの余地も出てくるだろう。共存できる可能性はある」
「……梓は?」
「好きなところへ行かせるさ。それが他の男の傍だったとしても、俺はもう文句を言える立場じゃない」
 おどけて肩をすくめる藜に、蓮は深く息を吐いた。
 『魔王』と『戦士』、対照的だった二つの像が一つになる未来。それはあまりにも抗いがたい魅力に満ちていて、先程までとは違う種類の胸苦しさを感じた。
「蓮」
 改めて呼ばれて、脈拍が跳ね上がる。見上げた藜は穏やかな表情のまま、長刀に手を掛けたところだった。鞘に納めたそれを、ためらうことなく背後へと放り投げる。破れた板戸を潜り抜け、破魔刀はすっかり暮れた闇の中に見えなくなってしまう。
「藜」
 こわくないの、という問いは形を成す前に藜の答えで封じられた。
「お前が『魔王』なら、魔法に撃たれる最期も悪くない」
 じり、と藜が間合いを詰める。火影に映された影がやけに大きく見えて、蓮は思わず身を竦めた。しかし髪に触れてきた指には優しさが籠っていて、体からゆるゆると力が抜けていく。
「戦が終わったら、髪を伸ばせよ。お前がしたいようにすればいい」
「……うん」
 頷いた影が藜のそれと重なった。蓮の望み、藜の望み、この島に住むすべての人々の望み。
 この影絵のように、すべてが一緒になれる未来を。
 ただただ、それだけを願っていた。



 闇の中、それは淡く銀の光を放ち始めた。燐光に映し出されたのは無造作に積まれた食糧の小山、馬の寝藁の束、埃を被った薪の残り。時ならぬ光に、まどろんでいた黒馬が訝しげな目を向ける。
 光の中心にあるのは黒い長刀だった。先程黒馬の主が投げたままの格好で土間に転がっていた漆黒の拵えから、柔らかな光が零れている。微かな瞬きを繰り返しながら、やがて光は少しずつ形を成していった。
 縁の粒子が薄い部分がさらに伸びて、その身の全てを覆い隠すほど長い髪に。刀身に近い部分の強い光はしなやかな手足に。息を詰めて見守る馬の目の前で、項が、頬が、額が、光の中から生まれ出してくる。まるで闇の領域を光で切り取るかのような、その生成。
 人形のようにうなだれていた指がぴくりと動いた。思い出したかのように腕に力が籠り、できたばかりの体を支える。よろめきながらも立ち上がったその足が、感触を楽しむかのように何度も土を踏みしめる。
 ぶる、と馬が小さく鼻を鳴らした。敏感にそれは反応し、くるりと振り返った。
 長い銀の髪を透かして見える顔は、昨日主が馬の背に乗せた娘とそっくりだった。しかしあの娘よりも面影は大分幼い。身の丈も黒馬の膝を少し越えるくらいだ。落ち着かない気持ちになって、馬は蹄で寝藁を掻いた。この匂いには覚えがある。そう、顔がそっくりなあの娘と同じ匂いだ。
 戦場でも時々香っていた、この匂い。微かな時はそう気にも留めていなかったが、束になるととてもいい気分になる。
 光だったものが黒馬に歩み寄ってくる。その顔いっぱいに、あどけない好奇心が溢れていた。どうやら昨日の娘よりも、この光の方が香りの元に近いらしい。近づくごとに匂いは強くなり、黒馬はうっとりする。
 おそるおそる、けれど遠慮のない手が黒馬へと差し出される。黒馬は自らその腕へと鼻面を寄せた。額に一点だけある、白い斑点に細い指が触れる。その感触が心地よくて、馬は思わず歯をむき出して笑った。
 すべては燐光が照らす闇の中。笑顔の馬と人ならざるものはこの時、確かに平和の形を描いていた。


***************************************************************


<予告編>


成し遂げたい者、
成さねばならぬ者。

それぞれの望みの糸は時に絡まり合い、
染め合いながらも、
決してひとすじになることなく続いていく。

『魔王』の名が紡ぐ希種流離譚。
描き出される姿は光と闇が織り成す、
影絵の中の統一に似て。

『DOUBLE LORDS』転章12、
希わくば愛しき者よ、幸いであれ。


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