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書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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 早春の草原に闇が落ちるのは早い。見る間に薄れゆく黄昏の帳を透かして、疾駆する白い一団が近づいてくる。ぐんぐん距離を詰める彼らの馬はどれも口端に泡を散らせていた。それでもなお足りぬとばかりに、先頭の一人がさらに鞭を入れる。必死の形相で速度を増した馬が悲鳴のような嘶きを上げた。

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「おいおい、もっと労ってやらなきゃ馬が可哀想だろうに」
 本隊から少しだけ離れた小さな砂地を前にして、グースフットは鹿毛と部下を止めた。未だ野営地が視認できる距離、できればもう少し離れたかったが、目の当たりにした『魔王』の追撃は予想以上に必死の様子だった。砂地の向こう、草の波間に見える五十の騎影は皆同じ衣装を纏っている。蓮が身に着けていたのと同じ、簡素な袷襟の上着が首元に覗く白装束。
「あの娘っ子、一体何者なんだか……」
 低く一人ごちた疑問はそのままに、グースフットは迫り来る敵を見据えた。今考えなければならない最大優先事項は、正体不明の娘のことより仇敵を討つ絶好の機会の方だ。思考を切り替えて、グースフットは右手を上げる。
「包囲の陣で行く。接触と同時に散開、絶対に固まるな。奴は人の多いところを狙って魔法を落とす。死にたくないなら全力でバラけろ」
 気合の入った百の答えが返ってくる。
「すぐ後ろに大将が来てるはずだ。援軍が着くまでの間、網の底が抜けないようにだけ気をつけろ。大将と合流したら奴の指示に従え。死ぬな。以上」
 白装束の先頭が砂地に踏み込んできた。グースフットの右手が下ろされる。
「行け!!」
 声と同時に腰の剣を抜き放つ。即座に場は鬨の声で埋めつくされた。狭い砂地に百五十の人馬が入り乱れる。
 グースフットを中心にして部下たちが両翼に広がっていくのが見える。逃げも隠れもできず、また最後まで層が厚い要の部分は、敵から最も狙われやすい場所でもある。少しでも『魔王』の気を逸らすため、グースフットは乱戦の中に躍り込んだ。
 とりあえず手近な白装束に斬り掛かってみる。不意を突かれて焦った様子ながら、敵は何とか切っ先を受け止めた。二合目、三合目。相手の手から剣が落ちる。とどめを振り上げたところで、横合いから飛び出した槍が邪魔をした。すぐさま注意をそちらに移す。
 槍は誰にでも扱えるが、その分遣い手の技量が試される得物だ。割り込んで来た相手はそう巧くはない。早々に見切って、穂先ごと叩き折る。
「悪ぃな」
 白装束の下に鎖帷子を着込んでいることは経験で分かっていた。がら空きの胴は狙わず、喉元へと刃を走らせる。
 ——そんな、やり慣れた手順。
 夜目にも赤く溢れるものには見向きもせず、若葉色の目線は次の相手を探す。できれば『魔王』本人を見つけたい。さしもの『魔王』も、自分が直接刃に晒される状況では魔法を撃つ余裕もなくなるだろう。藜が着くまで、もう少し。
 今の時点でも倍の兵力差がある。足の速い馬に乗った部下は、既に敵の側面へ回り込もうとしている。
 自分が魔法を撃つとしたらこの時機だ。数の多い敵がある程度まとまっていて、自分がまだ包囲されていない初期の段階。網が完成し乱戦になってしまうと、広範囲を攻撃する魔法では味方をも巻き込むおそれがある。
 しかし怖れていた天変地異は起こらなかった。
 怪訝に思うのも妙な話だ。こちらに有利な展開で戦いが進むのは大歓迎のはず。しかし何かが引っかかった。
 敵と間合いを取るように装って、グースフットは傍らの草原へと鹿毛を入れた。眼差しを細めて戦場を透かし見る。『魔王』が絶対的に不利な状況下で魔法を使わない——役立たずな希望的観測を排除すれば、残るのは疑いしかなかった。
 ——何を狙っている?
 目の前では白装束の群が必死の奮闘を繰り広げている。どれも同じような、その姿。魔法を使う時に特徴的な目標を指すあの仕草が、今は誰にも見られない。どこかにいるはずの『魔王』は、夜陰の中に完全に紛れてしまったようだった。
 どれだ。どれが『魔王』だ。
 『魔王』の傍近くに配された兵は、上背がある割には細身の体格の者ばかりだ。恐らく『魔王』本人がそのような容姿だからなのだろう。確かに影武者としては有効だが、兵士としての資質に恵まれた体とは言いがたい。こういった乱戦では圧倒的に不利となるのを見越してか、『魔王』はこれまで決して力ずくの戦術を採ってこなかった。
 なのに今夜は違う。多勢の敵に包囲されることへの警戒は欠片も見られない。退路を絶たれようとお構いなしに、とにかく一点——『戦士』本隊への最短距離へと殺到してくる。完成しつつある網の底で『魔王』軍の集中打を受け止めるグースフットの脳裏にある一つの可能性が浮かび上がった。
 ——もしかして、今『魔王』は。
 掴みかけた結論は背後から打ち寄せてきた馬蹄の轟きに蹴散らされた。振り返った先には、二百の兵馬の先頭に立つ漆黒の鎧姿。
「悪い、待たせた」
 鹿毛の横で黒馬の手綱が引かれた。連れて来た部下は止まらずに司令塔を追い越し、我先にとばかりに砂地へ殺到する。白装束から上がる悲鳴が一際大きくなった。
「大将。やっぱり変だ」
 戦場へ向ける注意はそのままに、グースフットは横目で藜の顔を見やった。
「変? 何が」
「奴が魔法を遣ってこない。こんなに不利な状況で、撃つ様子すら見せないのはおかしい。ひょっとして奴は今、魔法を遣えないんじゃないのか?」
 怪訝そうな表情の藜に、いや、とグースフットはかぶりを振った。
「少し言葉が違うな。遣えないんじゃない。遣える奴があの中にはいない、その方が近い気がする」
 藜の目が大きく見開かれた。
「あの影武者の群は囮で『魔王』本人はどこかに潜んでいると言うのか」
「それは分からない。だが、何か違和感がある」
 グースフットの言葉に、藜は眉根を寄せて考え込む。草の壁の向こうでは剣戟の喧騒が続いている。その中の音がひとつ、一気に距離を詰めて来た。
「見つけたぞ、『戦士』——!!」
 返り血に塗れた白装束が鹿毛と黒毛の間に飛び込んできた。狙いは真っ直ぐに、迷いなく黒の鎧へと向けられている。
「大将!」
 グースフットの声に応えている余裕はなかった。咄嗟に抜いた腰の長刀で切っ先を受け止める。眼前で震える刃先は、それを支える腕と同様に細身ゆえの鋭利さを宿していた。
 刃を合わせていたのは一瞬だった。すぐさま相手は剣を引き、次の攻撃へと移る。グースフットの姿は目に入っていないのか、その執拗な狙いはあくまで藜に向けられているようだった。
「……ッ!!!」
 不意を衝かれた態勢を立て直し、藜は白装束へ反撃の刃を向ける。相手の剣は藜の長刀より短い。冷静に間合いを取れば、そう手こずる相手ではないはずだ。
 白装束を乗せた馬は葦毛だった。返り血を浴びて全身に斑が飛んでいる。主人と同様、血染めのその姿は鬼気迫るものがあり、藜の背筋に寒気が走った。
 幾合か打ち合ううちにグースフットとは距離が開いてしまった。目の前の白装束が破った綻びを衝いたのだろう、大分数を減らした『魔王』軍が雪崩を打って詰め掛けたせいで助けに来ることもままならないようだ。
 白装束が脇腹目がけて突きを入れてきた。手綱を持ったまま、肘で切っ先を叩き落す。今度は藜が刃を突き入れた。体勢を崩しながらも白装束は紙一重で躱す。『魔王』側近には珍しい、かなりの手練だった。
「……を、返せ」
「何?」
 長刀の刃先に引っかかったのか、白装束が被っていた頭巾が額のあたりでざっくりと切り落とされていた。燃えるような青い眼光が正面から藜を睨み据える。
「貴様が拐かした奴だ。あいつを返せ」
 その眼差しに——そしてその顔が宿す面影に、思わず息を呑む。
「お前……蓮」
 思わず呟いた名前に、鋭い舌打ちが重なる。
「気安く呼ぶな。穢らわしい」
 かすかに残る西の大陸の発音。見間違えようもない、同じ面差し。そして。
 白装束の左腕が上がる。あまりにも見慣れた、その仕草。
「……!!!」
 咄嗟に間合いを切る。こわばった顔に、嘲りを含んだ笑い声が降って来た。
「怖いか、魔法が。怖いか、『魔王』が。勇猛で知られる『戦士』とはこんなものか。まったく笑わせる」
 葦毛が一歩、後退した。既に背景には白い色はほとんど見えなくなっていた。ここが引き際と見たのだろう、血に汚れた白装束はたった一騎、切っ先を上げたまま黒鎧と相対する。
「今宵はここまでだ。次こそ必ず、蓮を返してもらう」
「待て!」
 馬首を返そうとする楝を、藜は必死で呼び止めた。
「何故そんなに蓮にこだわる? 影武者なら——顔かたちが似た奴なら他にもいるだろう」
 再び藜を深青の目線が射抜く。それが含む激しい憎悪は変わらない。しかし。
 吐き捨てるように楝は短く何事かを呟いた。ひどく聞き取りにくいそれは大陸の言葉のようだった。藜の耳が辛うじて拾ったそれを打ち消すかのように、耳障りな笑い声が谺する。
「魔法を、『魔王』を畏れよ、賤民共。統一の日は近い。心して待つが良い」
 頭巾の切れ端で再び顔を覆った楝が腕を振り上げる。たったそれだけで藜の部下は道を開けた。見えない雷の射線上、まっすぐに『魔王』の帰路が刻まれる。見下したように一同を見渡し、楝は葦毛の腹を蹴った。単騎駆け抜けるその背中を追う指示は、藜もグースフットも出さなかった。
 藜の中では先程楝が落としていった異国の言葉がいつまでも響いていた。彼が語った中でたったひとつだけ、ひどく切実で、恋い慕うような色さえ滲ませたその言葉。
 ——家族だ。
 そういう意味の単語だったはずだ。けれど今はあまりにも混乱していて、その意味を深く考えることなど出来はしなかった。
 そう。混乱している。状況も、思考も、出来事も。
 見上げた夜空には細い三日月がかかっていた。蓮の髪の色と同じ、その輝き。
 顔が見たいと、何故かふいにそう思った。



「最初に確認しておきます」
 鋭い鳶色の眼差しが蓮を正面から捉えた。
「女性ですか、男性ですか」
 あくまで真顔のキヌアを蓮は思わず見返す。男装がすっかり板についているとはいえ、さすがにここまで単刀直入に己の性別を訊かれた経験はなかった。
「メノコだべや」
「分かるのですか、梓」
 キヌアが傍らに立った梓に目を向ける。”山の民”の娘は悪戯っぽい表情で小さく笑った。
「グースフットさんば目が優しかったっけ」
「そうですか、成程。女性ですか」
 梓の言葉に納得したように一つ頷いて、キヌアは蓮に向き直った。
「では次の質問です。貴女は『魔王』の軍にいた——それもその格好から推測するに、『魔王』の傍近くで影武者を務めていた。間違いありませんね?」
 キヌアの迫力に半ば圧されるような形で蓮は頷いた。そうですか、と低くキヌアが呟く。しばらくの間、沈黙が流れた。
 蓮が連れて来られたのは本隊中央に張られた大きな天幕だった。普段は作戦を練るための場所として使われているのだろう。真ん中を貫く柱の奥には大きな机が置かれ、脇の木箱には地図や書付の束が几帳面に揃えられて収まっている。立派な机の横には何故か別に小さな円卓が置かれていた。円卓の方に歩み寄った梓が隅に寄せられていた丸椅子の一つを引きずってきて、無造作に蓮に勧める。
「座ってや」
「……ありがとう」
 返事の代わりに返ってきたのは静かな微笑みだった。椅子は恐らく酒樽か何かを改造したものなのだろう。かなりの重量があるそれを器用に回転させて運んできたキヌアが、蓮の真正面に陣取る。腕組みをして何かを一心に考えるその姿は藜やグースフットとはまた違った迫力があって、蓮は思わず身を固くする。
「キヌア。おっかないって」
 その横に歩み寄った梓が窘めるように言う。我に返ったように視線を上げたキヌアが蓮の怯えた表情を認める。一瞬だけばつが悪そうな色を浮かべ、『戦士』の軍師は元の無表情に戻った。
「すみません。怖がらせるつもりはなかったのですけれど」
 気を取り直すように咳払いをして、キヌアは改めて蓮を見やる。
「改めて自己紹介しましょうか。僕は此処で主に作戦立案を担当しているキヌアという者です。藜との関わりは……まぁ一言で言えば腐れ縁ですね。子供の頃からの付き合いです」
 そういえば藜は以前大陸人の面倒を見ていたことがあると言っていたか。東の大陸出身だというグースフットとの関わりもそのような始まりなのかもしれない。納得して、蓮は頷いた。
「こちらは梓。見ての通り”山の民”の出身です」
 梓が小さく頭を下げる。つられて会釈する蓮をちらりと見やり、キヌアが付け足した。
「藜の許婚でもあります」
「いいな、ずけ?」
 馴染みのない単語に蓮は戸惑う。決して聞き慣れている言葉ではないが、それが持つ意味は何とか理解できた。
「藜の、およめさん……?」
「ん」
 梓が頷いた。ただ事実だけを認めるような、小さな声。その中には喜びも哀しみも感じられない。同様の声音でキヌアが続けた。
「まずは釘を刺しておこうと思いまして。藜はああいう性格なので、しょっちゅう他所から人を拾ってくるんですけれどね。中には自分は特別なのだと勘違いする人もいるようなので」
「……そう」
 蓮は俯いた。大きく息を吐く。落胆しているのだろうか。蓮が藜に期待をかけたように、蓮も藜にとって特別の存在でありたかったと。
 いつの間にそんな気持ちを抱くようになっていたのだろうか。魔法しか取得のない自分なのに。『魔王』であるという事実を隠している、自分なのに。
「さて、次は貴女のことを聞かせてください。名前は蓮、でいいですね?」
 無言のまま頷く。
「いつから『魔王』軍に?」
「……ずっとまえから」
「影武者になったのは?」
「……ずっと、まえから」
「では『魔王』の素顔を見たことはありますか?」
 無言で首を振る。その表情の動きを見逃すまいと、キヌアが鳶色の眼差しを眇めた。
 『魔王』の本名は。
 係累はいるのか。
 何故顔を隠しているのか。
 魔法とは何なのか。
 どの質問にも答えられなかった。首を振ることしかできない蓮に、キヌアが呆れたように溜息を落とす。
「今まで捕えた者たちと同じ、ですか。まったく秘密主義もここまで来れば大したものですね。分かりました。では、最後の質問です」
 射抜くような強い目で、キヌアが真正面から蓮を見据える。
「『魔王』は女性ですか、男性ですか」
 怖かった。楝が隠し続けてきた『魔王』の正体が暴かれてしまうのが無性に怖ろしかった。知らず目に浮かんだ涙が零れないよう、唇を噛みしめる。
「キヌア」
 背後から肩に手が置かれた。いつの間に移動していたのだろう、蓮の真後ろに梓が立っていた。
「そんなにいじめんで。可哀想だべや」
「梓」
「な。おらに任して」
 肩を掴む力はそう強くはない。けれど振り返ることは出来なかった。藜の許婚。それを知っただけなのに、何故こうも深い負い目を感じるのだろう。
 キヌアも彼女には強く出られないらしい。小さく息を吐いて、二人から視線を逸らす。
「任せるって……一体何をする気ですか」
「ん。まずは着替え」
「着替え?」
「いつまでもオノコの格好じゃ可哀想。こんたら綺麗なのに」
 にっこりと笑う気配が背中越しに伝わった。
「キヌア、見張ってるか?」
「……遠慮しておきます」
 負けを認めるかのように両手を上げて、キヌアは立ち上がった。
「分かりました。貴女の好きにしてください。僕は仕事に戻ります。藜たちの首尾も気になりますので」
「んだか。残念」
 横目で梓を睨んで、キヌアはくるりと背を向けた。
「藜とグースフットが戻ってきたら、連れて来てください。その頃には支度も整っているでしょう」
「あい」
 キヌアが出て行った後、天幕には梓と蓮だけが残された。肩越しに梓が顔を覗き込んでくる。目を逸らすこともできず、蓮はその黒い瞳をおどおどと見つめ返した。
「ごめんな、悪い人ではねんだども」
 黙って蓮は首を振る。キヌアの質問責めから助けてくれたのは有り難いが、今はまだその真意が分からない。静かな微笑は地顔なのだろうか、穏やかな色に紛れた梓の感情は読み取れないままだった。
「来。おらの服しか貸せねども」
 拒むことも出来ず、蓮は梓について指揮所を出た。外は既に日も落ちて、空はとっぷりと闇に昏れていた。所狭しと並ぶ天幕と篝火の間を縫ってしばらく歩く。陣の北側、後方に近い辺りに梓の天幕は設けられているようだった。
「待っててな」
 入り口を潜ってすぐに手際よく擦られた燐の炎が蝋燭の芯に移されて、周囲の景色が照らし出される。天幕は意外なほど小さなものだった。形良く整えられた寝床が半分を占めていて、他には身の回りのものしか置かれていないが、それだけでもほぼ満杯と言える状態になっていた。三角を描いた天井のせいで、二人も入ると手狭にさえ感じる。梓が今中を漁っているのは寝床の足元に置かれた木箱だった。古びてはいるものの色鮮やかな見慣れない文様が彫られたそれは、どうやら衣装箱のようだった。
「ほんとうに、きがえをするの?」
「ん。おめさの気に入るかは分からねども」
 言いながら梓は数着の服を引っ張り出した。立ちつくすばかりの蓮の肩にそれらを宛がって、具合を確かめては次へと替えていく。
「やっぱし丈が足りんかや。のっぽだかんな」
「……あの」
 今、外では藜と楝が戦っている。『戦士』と『魔王』。蓮は楝が魔法を使えないということを知っている。絶対的に有利なのは藜だと知っているが、梓はそうではないはずだ。この瞬間に藜に『魔王』の雷が落ちているかもしれないと、考えない方がおかしい。
 自分が何をするべきかなど分からなかった。けれど呑気に着替えなどしている場合ではない、それだけは間違いないと思えた。この場にいるのは梓と自分、二人だけ。梓を眠らせれば逃げられる。ほんの少し、弱めた雷を首筋に流すだけ。
「おめさはそんたら格好でも綺麗だからさ。ちゃんとメノコの服着たらもっと良くなるって」
 無防備な項に伸ばしかけた指先が止まる。逃げて、何をする気なのか。また魔法を遣うのか。誰に——何の為に、その指先を向けるのか。
「……メノコ、って?」
「ん」
 滑り出した言葉は、思考を流れ落ちる疑問とはまったく別のものだった。着せる服が決まったのだろうか、少し足りない袖を引っ張りながら梓は顔を上げた。
「女、の、子。だべ?」
 欠片の害意も感じられないその目に、思わず蓮は怯む。あくまで静かな微笑を湛えたまま、梓は行き場をなくした蓮の手に一着の服を差し出した。
「これでいいかや」
 手渡されたのは細かな刺繍が施された赤い上着だった。一見して晴れ着と分かる立派な仕上がりだ。
「でも、これ」
「いいんだ。おらには少し大きいっけ」
 促されて蓮はのろのろと衣装箱の傍に歩み寄る。背を向けて袷の襟を緩めていると、梓が寝床の枕元に座り込む気配がした。
「戦ばいやだな。男も女も、好きに生きられないっけ」
 蓮は肩越しに振り返る。言葉そのものの意味よりも、梓の真意を測りかねた。
 梓は毛布の上に座ったまま天井を見上げていた。蝋燭の炎に照らされたその横顔は、驚くほど大人びて見えた。
「おめさもそんたな格好させられて、矢面ば立たされて、可哀想に」
「……あなたはすきなひとの、およめさんになるのではないの?」
 少し驚いたように、梓が蓮に目を向ける。急に恥ずかしくなって蓮は目を逸らした。何かを納得したように、梓が小さく息を落とした。
「おらには弟がいてな」
 突然切り替わった話題に無言で応える。梓の一人語りに混じるのは蓮が帯を解く衣擦れの音だけだ。
「父御の跡ば継いで、次の長さなるはずだったんだども。こないだ『魔王』の雷さ撃たれてなぁ」
 手も、息も止まった。今度は振り返れなかった。
「他にも村の若い衆ば何人もやられてな。父御が『戦士』と手を組むって言い出したのもそれからだっけ」
 確かに幾度か”山の民”と戦った記憶はある。『戦士』の陣営に組み込まれる前に同盟を持ちかけ、断られた時に。彼らが『戦士』に付いた後、乱戦の中で。彼らは鏃に魔除の文様を彫る。『魔王』を狙って正確に撃ち込まれる矢は、他の部族のものとは一目で区別ができた。
 梓の言葉はあくまで淡々と紡がれる。やけに平坦なその声が、かえって話に真実味を加えていた。
「父御は訪ねてきた藜さんば一目で気に入ってな。だども素直じゃないっけ、大将がおらを嫁にせねば味方はせんって言っちまったもんだから」
 息だけで、梓は笑った。
「難しいもんだな」
 何も答えられなかった。動揺を悟られないよう、呼吸を整えながら何とか着替えを終わらせる。梓へ向き直るのにはかなりの覚悟が要った。
「あら、似合うなや」
 乏しい明かりの中、ぱっと梓の表情が輝いた。手首より少し上の袖を除けば赤い上着は蓮にぴったりだった。短めの裾も、男物の袴に映えて凛々しくさえ見える。
「……ありがとう」
 他の言葉は思いつかなかった。立ち上がった梓がにっこりと笑って手を差し伸べる。
「蓮って呼んでもいいかや?」
「……ん」
 握手をするようにふたつの手が重なる。しっかりと握り返して、梓は蓮の目を真正面から見上げてきた。
「蓮は、藜さんが好きかや?」
 思いがけない言葉に、一瞬にして頭の中が混乱する。好きという言葉の意味は知っていたが、そんな感情が自分の中にあるなどということは考えたこともなかった。故郷を出てから今日までずっと戦いに次ぐ戦いで、そんな余裕などなかったということもある。ましてや藜と会ってから今ここに至るまで、今日という一日を押し流すように自分を動かしてきた心の名前など、改めて思案していたわけでもない。反射的に藜の顔を思い浮かべた途端、頬が熱くなった。
「……ごめんな」
 蓮の答えを待たずに、梓は視線を逸らした。
「何もできんくて、ごめんな」
「そんなこと」
 咄嗟に挟んだ蓮の言葉に、梓は小さく首を振る。
「女の子ばみんな、好きな人さお嫁様になれれば良いのにな」
「え」
 思わず見返した梓の顔には諦めにも似た微笑が浮かんでいた。地顔だと思っていた、その表情。漆黒の瞳を伏せて絞った声音が蓮の鼓膜を震わせる。
「こったら罰当たりなおらに『魔王』ば雷さ落ちれば良かったんに」
 その時、夜気を割って板木が叩かれる音が響いた。我に返ったように梓が顔を上げた。繋いだままの手を引いて、天幕の出口へと向き直る。
「藜さんば帰って来た。行こ」
 有無を言わせず引っ張られたせいで結局梓の真意は確かめられないまま、蓮は慌しく出口を潜り抜けた。



「怪我人四十三、ですか」
 眉間に皺を寄せたキヌアの声が指揮所の闇に落ちた。グースフットは黙ったまま卓の木目を睨んでいる。恐らく自分も同じような表情をしているのだろう、そう思いながら藜は頷いた。
 今三人が囲んでいるのは机の隣に据えられた円卓だった。机は書物や地図を扱うところだから飲み食いは厳禁、そう言い渡してキヌアが持ち込んだ飲食専用の卓だ。『戦士』の陣営が大所帯になってきてからは作戦会議が長引くことも多く、なんやかんやで顔を突き合わせているこの面子で夕食を共にするのがいつもの流れだった。最近では藜やグースフットが入り口を潜った時点で卓の上に酒瓶が用意されていることも多い。
 今宵も段取りのいいキヌアは祝杯の用意を整えていたようだったが、藜だけではなく酒豪のグースフットも卓に肘をついたまま瓶に手を伸ばす気配もなかった。
「内訳は重傷五、軽傷三十八。ほとんどがグースフット隊の者だ。相手が予想以上に粘ったせいで手傷を負った者が多い」
「まあ、こちら側に死人がいないのがせめてもの救いですけれども。それにしても向こうが魔法を遣わなかったというのが解せないですね。突然必死になったかと思いきや、無謀にもこちらの本隊へ突撃を敢行し全滅という流れも、普段の『魔王』らしくありません」
「全滅じゃない。一人取り逃がした」
 ちらりとグースフットが藜を見やる。
「あれは『魔王』本人だな、大将?」
「……ああ、多分な」
 問いに答える刹那、藜の脳裏に楝の激しい眼差しが甦る。同時に短く落とされた大陸の言葉も。
「本人がいた、ということは囮でもなかったわけですか。何にせよ逃がした魚は大きいですね。討ち取るのが無理ならば、せめて手傷くらいは負わせたかったところですが」
「すまない」
 纏まらない思考は脇に措くとして、あの場で『魔王』を討てなかった事実は大きい。『魔王』の正体が何にせよ、先程が千載一遇の好機であったことは確かなのだ。藜は素直に頭を下げた。
「にしても腑に落ちない。何故『魔王』は魔法を遣わなかったのか」
 腕組みをしたキヌアが鳶色の瞳を伏せた。考えに沈む時の癖だ。グースフットが物言いたげに藜を見やる。気づいてはいたが、藜は無言を通した。先程グースフットが述べた推論、そして目の当たりにした『魔王』の素顔。それらが指し示す先が、先程連れ帰った少女を向いていることは最早紛れもない事実だ。
 あの男の縁者——おそらくは、妹。
 『魔王』の遣う魔法には、一つだけ弱点がある。あまりにも強力すぎるため、的が小さい場合は意図していなかった周囲にも被害が出てしまうという、対戦する側としては手の打ちようがない弱点が。軍と呼ばれる以上、当然ながら『魔王』側も通常の兵力を持っている。魔法の命中率を下げる為にこちらの隊を小分けにすると白兵戦では不利となり、大軍で攻めかかると雷や炎で一網打尽にされる。こちらが採れる対抗策としてはせいぜいが白装束の群を見かけ次第速やかに散開すること、その程度ではとても弱点見つけたりなどと胸は張れない。しかしそんな魔法の性質が、今初めて藜にとって有利に働こうとしている。
 先程の戦場は本隊に近かった。蓮のいる本隊に。『魔王』は妹を——家族を巻き込むことを怖れている。そう考えれば、あの時魔法を遣わなかった理由も説明が付く。
 ひょっとすると手加減できる代物なのかもしれない。だが『魔王』は少なくとも戦場では常に全力で魔法を遣っているように見えた。まるでそうすることで己の存在の証を、大地とその場にいる凡ての者の心に刻み付けるかのように。威風堂々としたその姿があまりにも印象深いせいで、加減した魔法など藜には想像できなかった。
 蓮が戦場の近くにいれば、『魔王』は魔法を使えない。 
 司令官としての思考が、今回の戦いで得た結論を導き出す。裏腹に、そういった打算を機械的に弾く自分に嫌気も覚えていた。
 利用するというのか。身一つで己を頼ってきた、あの娘を。
「藜。『魔王』と刃を合わせたのですか」
「ああ」
「顔は、見ましたか」
「……ああ」
 キヌアが伏せていた目を上げる。言葉に出さずとも訊きたいことは解っている。グースフットからも同種の視線を感じながら、藜は二人から目を逸らした。
「すまない。少し頭が混乱している」
「よく覚えていない、という意味ですか?」
 無言の藜に、今度こそキヌアは失意の溜息を吐いた。
「貴方が連れて来た影武者。彼女を見て、もしや『魔王』は女性ではないかと思ったのですが」
「それはない。少なくとも俺が戦った相手は男だった」
 声だけならグースフットも聞いている。異論はない様子の斬り込み隊長に、キヌアが視線を向ける。
「グースフット。貴方が『魔王』本人だと思った根拠は」
「雷撃つ時に腕を上げる、あの仕草だ」
「しかし実際には撃たなかった。理由は何だと思います?」
「撃たなかったんじゃなく、撃てなかったんだと思う」
 一度ちらりと藜を見やってから、グースフットは言葉を続けた。
「最初は撃てる奴があの中にいない——影武者の群は囮かもしれないと、そう思った。だがあいつのあれは、ハッタリにしては堂に入りすぎだ。恐らく何らかの事情があって、こちらに向けて魔法を撃てない状況だったんだろう。『魔王』様ご本人は無茶な突撃をかけられるくらいぴんぴんしているとしたら、変わったのはこちらの状況——あの娘っ子の加入以外に考えられない」
「ふむ。『魔王』はあの娘を巻き込むことを怖れてでもいるのでしょうか」
 キヌアの言葉に藜は思わずひやりとする。瞼の裏に再びあの激しい眼差しが甦った。
 今目の前にいる二人は、共に幾つもの修羅場を潜った信頼できる仲間だ。あの男と蓮が同じ顔だったと、何故その一言が言えないのか。
 庇おうとしているのか。自分は、蓮を。理由の分からない焦燥に、藜自身ひどく戸惑っていた。
 不意に指揮所を包む沈黙の帳の一角が捲り上げられた。覗き込んだ二つの娘の顔に、思わず藜は息を止める。梓と蓮だった。
「おう、来たか」
 すかさずグースフットが反応して樽の椅子から立ち上がった。それまでの深刻な表情はどこへやら、グースフットは如才なく手招きをして二人を呼び、用意されていた空席に案内する。藜の隣に梓を、その隣に蓮を。
「お、蓮ちゃん着替えたのか。赤いの、似合うな」
「あ……ありがとう」
 蓮の上着に目敏くグースフットが声を掛ける。先程までの不穏な話題をすっかり忘れたようにちゃっかり蓮の隣に腰掛けるグースフットに、キヌアが呆れた視線を投げた。
「何だよ、文句あるのか」
「いえ、別に」
 言葉とは裏腹に、明らかに文句をつけたそうな声音でキヌアが咳払いをする。
「ともかく相手の出鼻を叩くという当初の狙いは果たせたのですから、そう悲観することもないでしょう。相応の損害は与えたわけですし」
 びくりと蓮が顔を上げる。その瞬間を狙っていたかのようにキヌアが言葉を継ぐ。
「貴女のお仲間の影武者軍団は全滅しましたよ。残念ながら『魔王』だけは取り逃がしたようですが」
 蓮の青銀の瞳が大きく見開かれる。驚きの次にそこに浮かんだのは戸惑いの色、頼りなげに視線を揺らして、蓮は再び目を伏せた。
「……どうやって」
「魔法を撃つそぶりだけで逃げ延びたそうです。実際には遣わずに」
 キヌアが円卓に身を乗り出した。
「どうして魔法を遣わなかったか、分かりますか?」
 理由など分かりすぎるくらい分かっている。言えるはずもない理由に、蓮はただ首を横に振った。
「どうやら貴女は他の影武者とは少し違うようですね。あの『魔王』が特別扱いをする相手など初めて見ました」
 『戦士』の軍師の声は一片の容赦もなく続く。
「貴女が傍にいれば『魔王』は魔法を遣えないと見ました。貴女には今後『戦士』の盾となってもらいます」
「キヌア」
 非難するような声は梓のもの、鋭く見返したキヌアは今度ばかりは退かなかった。
「勝つか負けるかが懸かっているんです。手段を選んでなどいられません」
「にしても女の子を真正面に据えるってのはどうよ」
「心配なら貴方が護衛をすればいいでしょう。どの道最前線は貴方の担当です」
 グースフットの呆れ声すらも斬って捨てて、キヌアは藜に目線を定めた。
「異存はありますか、藜」
「蓮を先頭に立てて、ここにいる兵全員で『魔王』を追撃するということか」
「いずれは本拠地から来た留守居も合流するでしょうけれど。とりあえず今はそうなりますね」
「……いくら人手が多くても、草原に紛れた人一人を探すのは無茶だろう」
「いいえ。向こうも本隊との合流を急いでいるはず。向かった方角は見当がついています」
「キヌア、その予測は多分違う」
 梃子でも折れそうにない硬質の意志に、思わず藜は小さく息を吐く。
「今のあいつは本隊との合流なんか考えていない。もう一度こちらを襲う機会を窺っている。そのはずだ」
「何故そう言い切れるんです」
 家族を、取り戻すためだから。
 藜はきつく目を瞑った。最早形振り構っていないのはどちらも同じ。その中心にいるのは、議論の最中でおどおどと視線を彷徨わせている銀髪の少女。渦の軸となっていることを、蓮は果たして自覚しているのだろうか。
「あいつの……『魔王』の狙いは蓮だ。それは間違いない。だから」
 自分は何を言おうとしているのだろうか。キヌアの立案より余程卑劣な、その手段。
「あいつ一人をおびき寄せることは出来ないか? 蓮と、俺を的にして」
 虚を衝かれたようにキヌアが黙り込んだ。驚いたような顔で蓮が藜を見つめている。梓とグースフットも意外そうな眼差しを向けていた。
 藜はキヌアから視線を外さない。提案に驚いているのは誰よりも自分自身だった。しかし今ここで動揺を見せるわけにはいかなかった。『魔王』が魔法を遣わない理由はあくまで予想でしかない。蓮が最前線に立ったからといって、向こうが魔法を遣わないとは言い切れないのだ。あの雷に蓮が晒される。あの恐怖に、あの威圧感に。それだけは、なんとしてでも避けたかった。
「たとえ単身でも必ずその娘を取り返しに来ると、確信しているわけですね」
「ああ」
「理由は」
「さっきの『魔王』の無茶苦茶な突撃。あれが答えだ」
 またしばらく沈黙が落ちた。じりじりと灼かれるような焦燥感が腹の底を焦がす。
「待ち伏せのための仕掛けを造るとしても、周囲にそう多くの兵を伏せられるわけではありません。今とは比べ物にならないくらい護衛が薄くなりますよ」
「分かっている。どの道『魔王』相手の撒き餌だ、伏兵なんて見つかったらいい餌食にされるだろう。俺一人で十分だ」
「貴方は僕たちの大将です。戦闘時ならともかく、策の段階で危険に晒すようなことは避けたいのですが」
「だからこそだ。あいつはどうやら何が何でも自分の手で俺を討ち取りたいらしい。俺の姿を見た途端に血相を変えて襲ってきたからな。蓮と一緒にいるところを見せてやれば、間違いなく仕掛けてくる」
 キヌアの目線だけの事実確認に、グースフットが肩を竦めて答える。
「それは本当だぜ。俺のこと完全に無視だったもんな、あいつ」
「キヌア、おらからも頼むっけ。『魔王』だけ討ち取れればいいんだべ? 女の子ば戦の矢面さ立てるのは、やめたって」
 真摯な梓の声が重なる。その真剣な顔と、蓮のおろおろした表情とを交互に見やって、キヌアは根負けしたように大きく息を吐き出した。
「分かりました。その提案でいきましょう。その代わり、藜。今度こそ必ず貴方の手で『魔王』を討ち取ってください。それが貴方の——『戦士』の大将の務めなのですから」
「分かった」
 藜が頷いた刹那、蓮の肩がこらえようもないほど大きく震えた。胸の裡を怯えとも恐怖ともつかない感情が駆け巡る。
 蓮を取り戻しに、楝が来る。阻止する為に、藜が刃を抜く。藜が『魔王』を討ち取る。楝を——蓮を?
 己の体をどれだけ抱きしめても、震えが止まらなかった。



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