書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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「……ええと」
止まっていた時間が動き出した。藜が布を差し出したままぎくしゃくと蓮を見上げる。
「女、の子? 何でまた、こんなところに」
藜の腕は完全に下ろす時機を見失ってしまったようだ。蓮が彼の呼びかけに応えた以上、ここで下ろしては意地悪にも思える。だからといって直接渡すには彼の立ち位置は明らかに蓮から遠すぎた。思いの外表情をよく映す漆黒の瞳には、戸惑いと驚きがあらわだった。
『戦士』とは、こんなにも隙だらけなものなのか。
思わず蓮は呆れの混じった溜息を落とす。こんな相手を兄は仇敵と罵り、自分は何度も取り逃がしてきたのか。軽く自己嫌悪を覚えて下げた目線に、兄と同じ衣装が掠めた。
そうだ。ここは『魔王』と『戦士』がぶつかり合う最前線だ。そして今、自分は楝の身代わりを務めている。男に見えるような格好をしているのだ。思わず額に手を当てる。短く保ったままの髪が指に触れた。ひょろりと高い背、細長い手足。確かに今の自分から女の声が聞こえれば、初対面の相手は驚くだろう。
思い当たると同時に、目の前の『戦士』に対して妙に申し訳ない気持ちになった。図らずもだましてしまったという、小さな罪悪感。
「……ごめんなさい。おどろかせるつもりはなかったのだけれども」
せめてもの謝罪に小さく頭を下げて、蓮は改めて藜を見下ろした。視線が合ったことで安心したのだろうか、藜はようやくかざしたままだった腕を引っ込めた。不自然な体勢を続けていて痺れでもしたのか、布を逆の手に持ち替えて軽く振っている。手首に巻いた籠手が乾いた音を立てた。
「いや、こっちこそ悪かった。大げさに驚いたりして……それよりこれ、取りに来ないのか?」
示されたのは先程風で飛ばされた蓮の頭巾だ。楝との最大の相違点である髪の色を隠すための布。無論、返してもらわなければ蓮が困る。しかし最大の敵であるはずの男に不用意に近づくのはやはり躊躇われた。
黙ったままの蓮を、訝しげに藜が見上げる。その瞳が何かに思い当たったのか、次第に大きく見開かれていく。
「ひょっとして、お前……」
勘付かれたか。
思わず蓮は息を呑んだ。自分が『魔王』だと気づかれたのだとしたら、この男はこの場で殺さなければならない。一人の男と一頭の馬。それを焼き尽くせるだけの炎の量を、瞬時に脳裏に思い描く。
「お前、『魔王』の影武者だろう!」
「……え?」
気の抜けた声と共に、形になりかけていた魔力が霧散する。今日何度目かの命拾いをした目の前の男は、己の強運に全く気づいていない様子でうんうんと頷いている。
「そうなんだよ。どっかで見たことあると思ってたんだよ。お前、あの忌々しい『魔王』とそっくりなんだよ。いや、俺も奴の顔は見たことないんだが、いっつも同じ格好させた影武者をぞろぞろ引き連れて戦いに来るからさ。お前もそのうちの一人だろう」
魔法を扱う蓮は楝にとって大事な戦力だ。万が一にも敵の矢から狙い撃ちにされないよう、蓮が戦場に出る時は必ず周囲に同じ衣装を纏った護衛がつく。兄からきつく申し渡されているのだろう、自分たちからは決して言葉を掛けてこないその護衛たちは、言われてみれば確かに兄妹に良く似た背格好の者が多かったように思う。
影武者——どちらが、どちらの?
「お前、大陸の生まれだろ」
突然話題が切り替わった。驚いて再び藜に視線を向ける。
「その言葉遣い。西の大陸の訛りだ。それにその髪の色も、この島じゃあまり見かけないしな」
「……どうして」
「俺は元々漁師の倅だからな。ガキの頃には大陸から流れ着いた奴の面倒をしょっちゅう見てたんだ」
そう。この島に来る渡航者は意外と多いのだ。北と南には港と交易市がそれぞれ整備されているし、嵐の季節には漂流の末に海岸に打ち上げられる難破船の乗客もいる。蓮や楝のようにはじめからこの島を目指して海を渡る者は少ないが、多くの人を運ぶ東西の大陸からの商船は大抵が途中にあるこの島を経由して航海を続ける。最近は新しい航路が見つかったとかで大陸からの船は少なくなったが、それでもこの島が大陸間の重要な中継地であることには変わりがない。
船が積む商品は幅広い。織物、茶や香辛料、陶器に金銀宝石をちりばめた細工物、そして——奴隷。
この島の生粋の住人は皆、艶やかな黒髪と黒い瞳を持っている。別の色が混じっていれば大陸の血を引いていると考えるのが普通だ。そして船商人以外の大陸人は、この島では奴隷として扱われるということも。
大陸出身者が島の人間に比べて劣っているというわけでは、当然ない。海が他の文化との交流を隔てていたせいで、島では独自の習慣や言葉が発達した。頻繁に訪れる豊かな商人ならばともかく、故郷を遠く離れて売られてきた大陸人たちが自力で生活を営めるような環境は整っていない。海を渡って故郷へ帰ることなど夢のまた夢、一度売られて来た者は生涯その地位から抜け出す機会がない。
そんな中、数少ない例外が楝だった。いち早くこの島の言葉に慣れ、搾取する側へと回り。自らの意志で海を渡った兄妹には、保護者であり支配者である主人がいなかったというのも大きいのだろう。零から振り出せたことは、負債を背にこの島に来た同胞たちより遥かに有利な立場を楝に与えていた。
『魔王』が畏怖されるのは魔力のせいだけでない。
奴隷のはずの大陸人が、魔法という得体の知れない牙を向けてくる。島の者は恐怖を覚え、大陸人たちは希望を託す。それらの感情こそが、楝が目をつけた『魔王』の力の正体だった。
元から処遇に不満を持っていた大陸人たちを取り込み、彼らを支配していた島民を力で服従させ。そうやって楝は勢力を伸ばしてきた。従う者には『魔王』の庇護を、逆らう者には制裁を。指示されることに慣れきってしまった大陸人たちを率いるにはそれが最も都合が良かったし、支配者だった島民も魔力を盾に脅せば大抵は素直に投降した。彼らが抵抗した時にのみ、蓮の出番は訪れる。
対して藜は一目で純粋な島の血統と知れる外見を持っている。北方の山岳地帯に住むという”山の民”をはじめ、彼に力を貸す勢力は多くが島に元からいた住人だった。やはり島出身の者は、大陸の者より同郷の頭を求めるのだろうか。『魔王』に従うのを潔しとしない者は、既にそのほとんどが蓮の手で焼き払われるか『戦士』の陣営へ帰順するかしている。
大陸から来た『魔王』か、島で生まれた『戦士』か。
最近の戦況はその一言に尽きた。これが誰もがその始まりを忘れるほどに長くこの島を覆っていた戦乱の最終局面なのか、それとも新しい混乱の始まりなのか、それは誰にも分からない。しかし『魔王』と『戦士』が近い将来ぶつかり合うことだけは確実だった。
この島を統べる者を定める為に。
藜が再び腕を上げた。小さく笑って、しかし瞳にだけは真剣な光を浮かべ。
「俺と一緒に来ないか。こっちには奴隷なんていない。島のやつも大陸生まれも関係なく、みんなでわいわいやってる。この島を少しでも良くするために」
意外な言葉だった。楝が大陸の血を強調するように、藜も島の生まれという血統を利用して手勢を支配しているのだと思っていた。
「むこうの、生まれでも?」
「ああ。こっちには東の大陸出身の戦屋もいるし”山の民”の義勇兵もいる。怖い軍師に至っては船商人の倅だしな。まあ全体で見ると島の生まれが多いけど、元から数が少ない大陸人はもうほとんど『魔王』に取り込まれてるからな。俺たちに味方して一緒に働いてくれるっていうなら、別にどこで生まれた奴だろうと関係はないさ」
生まれた場所に関係なく、皆が同じ何かを目指せる場所。
蓮の沈黙を迷いと受け取ったのか、藜はさらに言葉を重ねる。
「誰かの身代わりで戦場に立つなんて嫌だろう。自分でそれを望んでやってるなら話は別だが、影武者なんて抜け出したいって言うなら喜んで手を貸すぜ。追っ手からだって守ってやる」
「……ほんとうに?」
「ああ。困ってる女の子を助けるのは当然だろう」
恐らく藜はそう深く考えて言っているわけではないのだろう。意に沿わぬ危険な仕事をしている奴隷を見つけたから助けてやろうと、ただそう思っているだけ。
なのに何故、蓮が密かに望んでいた言葉ばかりが出てくるのだろう。
蓮は俯いた。
身代わりは、『魔王』はどちらなのか。
戦いを、人を殺めることを、自分は望んでいるのか。
楝が必要としているのは、魔力なのか、蓮自身なのか。
心の奥底に押し込めていた問いがとめどなく溢れ出す。今まで抑えていられたのが不思議なほどに強く、確かなその感情。
『魔王』によるこの島の統一。それが楝の望みだ。だから蓮はその望みを叶えるために今日まで戦ってきた。
けれどそれは本当に、蓮自身が望んだことだったのか。
望んで得たわけではない、魔法という異能。絶大な力を得ると同時に、決して他人には受け入れられることのない孤独をも背負わせるもの。それが持つ陶酔にも似た己への憐憫にいつしか囚われていたのは、蓮も楝も同じだったのかもしれない。
生まれ持った他人との隔絶。越え難いその壁の向こう側が、この男の傍でなら見ることができるかもしれない。生まれた場所も立場も気にかけるそぶりもない、この男ならば。
草原から、また一陣の風が吹きつけてきた。若草の匂いが混じったその風は、確かに春の気配を含ませている。先程浴びた水はまだとても冷たかったのに。季節は変わる。恐らくは、人の心も。
「ほんとうに……つれていってくれるの、この外へ」
もし、この身が敵に囚われたとしたら。『魔王』が自ら『戦士』の手に落ちたとしたら。
椿はどれほどの折檻を受けるだろう。それを思うと心が痛んだ。
けれどこれを逃すと、蓮の世界を変える機会は恐らく永遠に失われてしまう。
風の中、迷いのない笑みで藜が手招く。最後のためらいは岩から飛び降りる時、空へと吹き飛んだ。身を丸めて着地し、黒い鎧へと歩み出す。体が軽かった。『魔王』ではなくただの蓮として歩く、初めての島の大地。風の匂いが新しかった。
藜の傍らには馬が待っていた。額に一点だけ白毛の混じった黒い馬。蓮が手を差し伸べると、白い歯をむき出して首を振った。
「気をつけろ、噛まれるぞ」
藜はそう言ったが、馬の顔はまるで笑っているかのように見える。素直に手を引っ込めたものの、蓮の心は不思議と浮き立っていた。
初めて楝の手の外に出た。狭い檻の向こう側には、何が待っているのだろう。
「掴まれ」
そう言って差し出された手は温かかった。引き上げられるまま、蓮は藜と共に黒馬の背に乗る。落ち着いたと思う間もなく、馬は走り出した。蓮がいた水場の上流へ岩を回り込むかのようなその進路に、蓮は目線だけで背後の騎手に問う。『戦士』の軍勢は岩場の正面、草原の方から近づいているはずだ。
「まともに『魔王』の目に留まるのはまずい。狙い撃ちにされる」
確かに単騎の黒鎧が目の前を横切るような好機を『魔王』が見逃すはずがない。たちまち雷が降ってきて、藜はあえなく餌食となってしまうだろう。——楝が魔法を使えれば、の話ではあるが。
「そんなにこわいの、魔法は」
ぽつりと呟いたのは積もり続けていた疑問だった。蓮にとっては当たり前の力。敵になったことなどないから、何故皆がそこまで怖れるのか分からない。少し火花を散らしてやるだけで、それまで威張っていた者が呆気なく跪くのを何度も見てきた。滑稽を通り越して哀れにさえ思える、その姿。
「そりゃそうだろう。誰だって死ぬのは怖い」
「たたかえば人は死ぬ。おなじことでしょう」
「全然違う。自分を殺すものが剣の刃か得体の知れない力か、その差は大きい」
「なにがちがうの?」
「自分に理解できるものか、そうでないものか、だ」
二人の会話に混じるのは蹄が土を蹴る音と、草原から吹く風の響きだけだった。時折せせらぎの音が混じり、川が近いということを思い出させる。
「最期に目にするものが敵の刃なら、ああこれに俺は殺されるんだ、って理解できる。無念とか後悔とか、勿論そういうものは色々あるだろうが……それでも原因が納得できる分、まだ救われる」
蓮は黙ったまま聞いている。藜の語る言葉は難しいが、何かとても大事なことが——蓮がずっと求めていた答えが、聞けそうな予感がしていた。
「魔法はな、そういうものじゃないんだよ」
藜の声音が低くなる。
「必死で敵の剣を潜り抜けて、傷だらけになって、ようやく囲みを抜けたと思った瞬間、上から雷が降ってくるんだ。納得なんてできない。死んだ奴も、残された奴も。何でだよ、って思う」
手綱を持つ手が握り締められた。わずかに上がった馬の首を宥めるように藜の手が叩く。心得たように馬は鼻を鳴らして、横手の小川へと歩を進めた。
「魔法は——『魔王』の力は、人を畏れさせる」
ぱしゃり、と水鏡を割る音が響いた。
「憎むこともできないほど絶対的な力の差を見せつけられて、俺たちはただ首を竦めてそれが通り過ぎるのを待つしかない。『魔王』が下す一方的な罰が終わるのを、ただ見ているしかできないんだ。正体の分からないものはいつだって、怖い」
馬はあっさりと川を渡り終えた。しかし蓮の心は揺れ続けている。今しがた蹄がかき乱した水面のように、心中に波紋が広がっていく。
今背後にいるのは『魔王』と幾度も見え、その度に生き延びてきた男だ。同時に幾度も相対し、その度に仲間を失ってきた男でもある。
何度叩いても立ち上がり、向かってくる相手。それが蓮が『戦士』に対して抱いていた印象だった。畏れや恐怖などとは最も縁遠いと思っていた男の口から出てきた意外な答えに、返す言葉は浮かばなかった。
怖い。
魔法は、怖い。
敵に、味方に、『戦士』に——そして楝に。蓮が向けられる数多くの視線の中で、たった一つだけ共通する色調。
人は『魔王』を怖れる。その正体はちっぽけな小娘にしか過ぎないというのに。
蓮は俯いた。振り落とされぬよう掴んだ鞍を、より強く握り締める。
正体を知れば、藜も蓮を怖れるのだろうか。
とうに顔も忘れた両親の、遠い面影が胸をよぎる。父と、母と、楝と、自分。魔力が周囲に知れるまでは確かにあった、温かな時間の記憶。真実を知った後、蓮に対して藜がここまで自然体でいられるとは到底思えない。決して楽しい話題ではないにも関わらず、妙に居心地のいいこの空気。失うのが惜しいと感じるこの雰囲気こそ、蓮が心から欲していたものなのだと素直に納得できた。
先程藜が出逢ったのは蓮。それは決して『魔王』ではない。
知られたくない、と思った。知られれば確実にこの空気は壊され、敵味方に分かれ殺し合うことになる。
——今までと、同じように。
しばらく無言の時間が流れた。黒馬は相変わらず岩場と草地の境目を早足で進んでいる。ずっと草地を走ればいいのに、とぼんやり考えた。蹄鉄が岩を蹴る振動が、それでなくても揺れる思考をさらにかき乱す。纏まらない思考の中、いっそ魔法の使い方も忘れてしまえばいいのに、などとも思う。
一際力強く馬が跳んだ。蓮は着地の揺れを予想して身構える。しかし予想に反して衝撃はふかりと受け止められた。目を上げると、眼前には草の海が広がっていた。
「見ろ、『魔王』だ」
藜の言葉に、咄嗟に顔を上げる。
後にしたばかりの岩場に、白い衣装を着けた人影がいくつも動いているのが見える。真ん中に陣取った人物が大きく腕を振って何事かを指示しているようだ。
「……? 何かあったのか」
恐らく蓮が姿を消したのが知られたのだろう。今、あちらの陣営は大混乱に陥っているはずだ。裏手を回りこんで来たおかげで『魔王』側はまだこちらに気づいていない。草の波に紛れて遠ざかるその景色から、蓮は無理矢理に目を逸らした。
「はやくいって。いまなら、にげられるから」
それ以上は問い返さず、無言で藜は鞭を入れる。受けた黒馬は矢のような疾走に移った。見る間に岩場は遠ざかり、細部など分からなくなってしまう。
ここではない、どこかへ。
『魔王』が、楝が、いない場所へ。
心の奥底でずっと願い続けていた、蓮の望み。
それがようやく叶えられるというのに、何故こんなにも後ろめたいのだろう。
どれくらいの時間、目を閉じていたのか。頬に受ける風がふと緩まって、蓮の意識は思考の淵から浮かび上がる。
空気が含む音が先程とは変わっていた。手綱を緩め、速度を落とした黒馬の蹄音とは明らかに違う轟きが前方から響いてくる。見上げた瞳が意を得たように明るく笑った。
「心配いらない。仲間だ」
開けた視界の中、最初に見えたのは舞い上がる草の葉だった。弧を描いて蒼穹に巻き上げられた丈の長い葉が、ひらりと落ちてはまた舞い上がる。
風圧を起こしているのは鎧に身を固めた騎兵の一団だった。草の波を蹴散らして近づいてくるその数、およそ百。
藜が合図するまでもなく、黒馬は脚を止めた。目前に迫った一団はその一人一人の顔が見て取れる距離にまで近づいたところで一斉に手綱を引き、乱れることなく停止する。
「よぉ、随分ゆっくりだったな。あんまり帰って来るのが遅いから、てっきり集団行動に飽きてトンズラこいたかと思ってたぜ」
兜の庇を上げて、先頭にいた男が藜ににやりと笑いかける。隙間から覗いたのは日焼けにしては濃い褐色の肌。眇めた瞳は周囲の草原と同じ若葉の色——大陸の血筋だ。
「馬鹿言うな。お前じゃあるまいし、俺はそこまで無責任じゃない」
すかさず応えた藜の言葉に、騎兵たちから笑い声が上がる。
「ほら見ろグースフット。部下たちもお前の方が責任感がないってよ」
「何ぃ!? お前ら、いつも可愛がってやってる恩を忘れやがって」
わいわいと言い合いを始めた一団に笑いながら、藜は蓮に先頭の男を示した。
「あれがさっき言った東の大陸の戦屋だ。名前が呼びづらければグーでいい」
「おまっ……! 勝手に変な綽名をつけるな」
褐色の男は慌てた様子でこちらに馬を寄せてきた。大きな鹿毛から見下ろしてくる鎧姿は、いかにも歴戦の猛者といった風情で威圧感がある。そういった男を今まで間近で見る機会がなかった蓮は、思わず身を引いた。逃さぬとばかりに顔を覗き込んできた鋭い眼光が、まともに銀青の視線とぶつかり合う。
「どーもハジメマシテ別嬪さん。グーちゃんでーす」
顔だけは真面目にグースフットが名乗る。背中越しに藜が吹き出すのが聞こえた。
「なんだよ、文句あるのか」
「お前な。ちゃんはないだろ、ちゃんは」
「顔が怖いのは生まれつきだ。どっかを可愛くしなきゃモテねえだろう」
なあ、と再びグースフットの目が蓮に向けられる。その表情は先程とは別人のように和んでいた。くるくる変わる男の表情にどう反応していいのか分からない蓮は、ただ固まったままその顔を見返すことしかできない。
「あっちゃあ、不発か?」
「当たり前だろ。あんまりびっくりさせるな」
呆れたように溜息を吐いて、藜は蓮の頭に手を置いた。
「元『魔王』の影武者だ。逃げたいって言うから連れて来た。名前は……」
ふと言葉を切って、藜は宙に目線を泳がせた。
「そういやまだ聞いてなかったか」
「おいおい」
今度はグースフットが呆れ声を出す番だった。その顔を藜は軽く睨みつける。
「仕方ないだろ、色々バタバタしてたんだ。遅くなっちまったが、名前を教えてくれないか?」
見上げた藜の視線はまっすぐに蓮の瞳を捉えていた。グースフットが、騎馬の一団が、蓮を見ている。
「わたしは——蓮」
声が震えた。自分の名を、初めて名乗った気がした。置かれたままだった手が、くしゃりと髪を撫でる。
「蓮か。いい名前だな。俺は」
「アカザ。『戦士』の藜」
驚いたように藜の眉が跳ねる。
「知ってたのか」
「みがわりだったから——『魔王』の」
「ああ。ああ、そうだな」
納得した様子で藜が頷く。戦の最中に、敵の総大将の名前を知らないという方がおかしい。
ふと思いついて、蓮は藜とグースフットを交互に見やった。
「あなたたちはしっているの? 『魔王』のなまえを」
男たちは顔を見合わせる。ばつが悪そうな顔で藜が言った。
「いや……実は知らないんだ。名前どころか、顔も素性もな。言葉に西の大陸の訛りが少し残ってるから、向こうの生まれだってのは間違いないみたいだが。それ以外は何も」
楝の徹底した情報制限が効いているのだろう。顔も、正体も、名前さえも不明な『魔王』。知られていなかったことが今の蓮にとっては救いだった。
「で、こいつが自分で調べに行くって飛び出してったっきり早一ヶ月。止める間もなく置いてかれた俺たちは、ホントたまったもんじゃなかったぞ」
「……すまん」
「まあお前の無鉄砲は今に始まったことじゃないけどな。で、この娘っ子以外に何か収穫はあったのか」
目を逸らしたまま藜は小さく首を横に振った。グースフットが大きな溜息を落とす。
「ま、そんなこったろうとは思ってたけどな。何にせよ無事で良かった。とっとと梓に元気なツラ見せて安心させてやれ」
「梓が、来てるのか」
「ああ。後ろの本隊でキヌアと一緒に待機してる。お前から報せが来た時、いの一番に迎えに行くって言い出したんだがな。『魔王』も近くにいることだし、遠慮してもらった」
「そうか。すまない」
「貸しひとつ、だな」
にやりと告げて、グースフットは馬首を返した。
「さーて、手の掛かる総大将の回収任務は成功だ。野郎共、戻るぞ」
グースフットの指示を受けて、騎馬団がどやどやと反転する。その様子にあまり緊張感は感じられない。私語さえ聞こえる中、隊列だけは乱れることなく草原を滑るように進み始める。
「……アズサって?」
格段に増えた蹄音の中、問う声は思いの外低くなった。草の海の彼方を彷徨っていた藜の目が、我に返ったように蓮に向く。
「ああ、梓は仲間だ。”山の民”の」
「なかま」
「……ああ、仲間だ」
藜の声は、蓮にというより己に言い聞かせるような口調だった。もっと詳しく話を聞きたいと思ったが、とても続きを頼めるような雰囲気ではない。
しばらくして、後ろから一騎分の足音が近づいてきた。藜に会釈だけして追い抜いたその騎兵は、装備の軽さから見て恐らく偵察の者だろう。迷わずグースフットに駆け寄り、何事かを報告する。頷いて、グースフットは別の騎兵に指示を出す。その兵が次の偵察係なのだろう。隊を離れて今来た方向へと戻っていく。
「大将」
グースフットが藜を呼んだ。黒毛が鹿毛と首を並べる。他の兵は心得たように少しだけ距離を置いた。
「どうした」
「おかしい。『魔王』の動きが変だ」
蓮の心臓が跳ね上がった。
「お前が寄越した情報だと、奴は南部湖沼地帯の地主を陣営に引き入れて本拠地へ帰還する途中ということだったな。説得だけで事は済んだから、出番のなかった主戦力の本隊は先に本拠地に帰して、『魔王』様本人はゆるりとご帰宅。そうだな」
「ああ」
驚いて蓮は藜を見上げた。つい先日まで蓮が実行していた任務。藜が『魔王』の情報を集めていたのなら知っていても不思議はないが、こうして改めて聞かされると身構えざるをえない。調べられている、という警戒感。
「お前一人でふらふらしてるところを見つかったりしたら格好の的にされるからな。俺たちはわざとこっちの本隊を晒して奴がとっとと帰るよう圧力を掛けてた。実際、あちらさんはさっきまでは帰る気満々だったしな。まぁ、手勢がいないんだから接触する前に撤退するのは当たり前だが」
咄嗟に思い描いたのは、先程岩場を離れる際に見た楝の姿だった。動揺も露わに指示を下す、その姿。藜の頭にも同じ場面が浮かんだのだろう。小さく息を呑む音が背中越しに聞こえた。
「まさか」
「おうよ。追って来てるってよ。しかも一度は本拠地に帰した本隊も呼び寄せているらしい」
ちらりとグースフットは蓮を見やった。
「どうする? 今なら数はこっちが上だ。討つには絶好の機会だと思うが」
蓮は俯いた。意見など挟める立場ではない。けれど。
討つ。藜が、楝を。或いは楝が、藜を。
『魔王』が『戦士』を倒す場面なら、もう何度思い描いたか分からない。あまり考えたくはなかったが、最悪の事態として『魔王』が『戦士』に倒される場面も。けれどそこに登場する『戦士』はいつでも顔を持たない『誰か』だった。その顔が藜になる。たったそれだけで、何故こんなにも身が竦むのか。
「……いや、今は本隊との合流を急ごう」
しばらくの沈黙を挟んで、藜は言った。
「本隊と合流すれば、数の上ではもっと有利になる。『魔王』が本隊と合流するには、まだ時間がかかるはずだしな。何よりこうも突然動きを変えたのが気にかかる。今は下手に刺激しない方がいい」
「……分かった」
グースフットは頷いて後ろを振り返った。少し離れて付いてくる騎兵団に向けて大声で怒鳴る。
「おい! 緊急事態だ。本隊まで駆け足、急げ! 大将を抜いた奴にはご褒美が出るってよ!」
みなまで聞かず、黒馬が速度を上げた。二人分の重みが乗っているとは思えない速さで駆け去る尻尾に、応とばかりに百の蹄が追いすがる。
乗馬は得意な方ではない。蓮が必死で黒馬の首筋にしがみついている間に、揺れる景色は『戦士』の本隊を映し始める。たちまち近づいてくる、簡素な天幕の群。
結局黒馬は誰にも追い抜かれずに本隊の柵を潜り抜けた。さすがに息を荒げているその背から蓮が降りた頃、グースフットの鹿毛が駆け込んでくる。次々と入ってくる騎兵たちで、広かった馬場はたちまち混雑した。
先に下りていた藜が、労うように黒馬の首筋を叩いて厩番に手綱を手渡した。同じように鹿毛を係に任せたグースフットが歩み寄る。
「キヌアは……今の時間なら糧秣庫か」
「多分な」
ちらりと見上げた空は薄紅に染まりつつある。すぐに夕闇が落ちてくる、早春の黄昏。
「悪いな、少し仲間と話をしてくる。どこか適当な天幕にでも落ち着いて待っていてくれ」
「えっ……」
ここは『戦士』の陣営のど真ん中だ。当然周囲には『戦士』の兵——先程までの蓮にとっての敵しかいない。一人で置いていかれるのは、さすがに抵抗があった。
「聞いていたと思うが、『魔王』が今こっちに向かっている。これからどうするか、すぐに決めなきゃならん。それまでの間だ。待てるな」
「…………」
言い聞かせるような藜の声に思わず俯いた。その仕草を了解と受け取ったのだろう、藜の手が蓮の肩から離れる。任せる相手を探して周囲を見回していたその動きが、ふと止まった。
「別に一緒でもいいですよ? もう来ちゃいましたし」
上品な響きの声が耳に流れ込んできた。顧みた先には斜陽を弾く金の髪。反射的に楝を思い出して、蓮の身が竦む。
「キヌア、梓」
藜の声で我に返る。改めて見やった馬場の入り口には蓮より少し年上の、藜と同じ年頃の男女が姿を現していた。
金髪の主は男の方だ。楝より濃い色合いだろうか。角度によっては茶色にも見える少し癖のある髪を、頬にかかる辺りで切り揃えている。きちんとした印象の佇まいや仕立ての良い大陸風の平服は、港の倉庫街に多い船商人を連想させた。
女の方は黒髪だった。長いその髪を二つに分け、色とりどりの紐と一緒に編みこんでいる。簡素な藍色の貫頭衣から覗く襟元の白い袷襟と髪紐の緋色の対比が、夕暮れの光の中で鮮やかな色彩を放っていた。戦場でも時折見かけた”山の民”の装束だ。
「おかえり、藜さん」
小さく微笑みながら娘は言った。やや早口のその声は、普段聞き慣れているこの島の言葉とは少し違う響きを宿しているようだった。
「……ああ。心配をかけたな、梓」
複雑な表情の藜に、梓は無言で頷いてみせた。怒っているような素振りではなく、まるでやんちゃな弟へ対するような仕草だった。
「にしても藜、あの手土産はないでしょう」
既に『魔王』の追っ手の件は伝わっているのだろう。金髪の男——キヌアが呆れたように藜を見やる。
「『魔王』直々のお出ましなんて、この時点では全く想定してなかったんですからね。追い払うにしても一体どれだけの損失が出ることか」
「悪い。グースフットからも着く前に叩くかって聞かれたんだが」
「それは避けていただいて賢明でしたね。『魔王』を探りに飛び出したっきり梨のつぶてだった大将がようやく帰ってきたかと思いきや、斬り込み隊長と一緒にあっさり討ち死にしました、なんて洒落にもなりません」
「……キヌア。何かお前、いつも以上に毒がないか?」
「当然でしょう。僕がいくら工作してもできなかったことを、貴方にあっさり成功されたら腹も立ちます。『魔王』一人をおびき出すために、これまでどれほど苦労したか分かってるんですか?」
キヌアが藜の肩を叩く。藜より頭一つ低い位置にある鳶色の瞳が、不敵に笑った。
「確かにここでぶつかることは想定外でした。けれど決戦に向けた準備はもう整ってるんですよ。既に本拠地の留守居にも報せを出しました。ここで『魔王』を叩いた勢いのまま、あちらの本拠地へ一気に攻め上る。そんな戦略でいかがですか?」
「相変わらず仕事が早えなぁ、うちの軍師様は」
「当然です。次は貴方たち実働部隊に働いてもらう番ですよ、グースフット」
呆れ笑いのグースフットにすかさずキヌアが切り返す。返す刀で、鳶色の瞳が再び藜に向けられた。
「決めるのは貴方の仕事です、藜。答えは」
「……分かった。お前の言う作戦でいこう」
「他に補足事項は?」
ちらりと藜が蓮を見やる。すぐにキヌアも事情を察したらしい。
「ああ、また連れて来たんですね。言葉は?」
「大丈夫だ。通じる」
「では僕が預かります。処遇は『魔王』様にお帰り願った後にゆっくり決めれば良いでしょう」
「ああ、頼む」
藜が頷いた時、先程斥候に出た兵が馬場に走り込んで来た。すかさずグースフットが反応する。
「ご苦労さん。どうだった」
「敵は五十騎ほど。予想以上に足が速いです。ただがむしゃらに藜さんを追っている、そんな感じでした」
場の視線が藜に集まる。
「お前、一体何をしでかしたんだ」
「別に何も。『魔王』本隊とは接触していないし」
そこまで言って、はっと藜が蓮に目を向ける。
「まさか目的は蓮、お前か?」
「……ちがう」
蓮は頭を振った。それしか、できなかった。
「……まあいいでしょう。どちらにせよ、そろそろ『魔王』が追いつくはずです。問い質している時間はありません」
キヌアの台詞に敵襲、と叫ぶ見張りの声が重なった。既に傍に引かれてきていた鹿毛の手綱を受け取って、グースフットはひらりとその背に跨る。
「んじゃ、行って来るぜ。『魔王』様に一番最初に斬り込むのが俺の仕事だろ?」
「分かってるならとっとと行ってください」
「へいへい」
苦笑いを浮かべるグースフットの鞍に、そっと白い手が添えられた。
「グースフットさんさ山神様の恵みばあるように。ご武運をば」
にこりと笑って梓が言う。にやりと笑ってグースフットは素早く敬礼を返した。
「ありがとよ梓ちゃん。愛してるぜ」
片目を瞑って指先を切ると同時、グースフットは鹿毛に拍車を入れた。見る間に遠くなる背中を部下の百騎が追う。
「まったく相変わらずだな、あいつの女好きは」
呆れた色を滲ませた藜の横顔を、キヌアの三白眼が睨みつけた。
「貴方の呑気ぶりも相変わらずのようで何よりです。西の馬場に二百騎の用意ができていますから、それを連れて早く援護に行ってください。吉報を待ってますよ」
三百対五十。この戦力差だけでも、どれほど『戦士』が『魔王』を警戒しているかが分かる。
蓮が魔法で広範囲を焼き払えば、どうにかなるかもしれない。だが、楝一人で乗り切れるか。答えは——絶望的だった。
汗だけをざっと拭われた黒馬が引かれてきた。すかさず藜はその背に乗り込む。
「じゃあ、行ってくる。くれぐれも蓮を頼んだぞ」
「分かっています。目は離しません」
鋭く蓮を一瞥してキヌアが答える。その言葉通り、常に彼の視界に捉えられているのを蓮は感じていた。どうやらすっかり目をつけられてしまったらしい。
梓が藜の鞍に手を置いた。馬上と地上、二つの視線が一瞬だけ交わる。
「藜さんば御身に山神様さご加護のあるように。ご無事で」
「ああ、ありがとう」
頷きに紛れて、藜は視線を逸らしたようにも見えた。そのまま彼方の地平線へと目を向けた主を背に、黒馬はあっという間に陣地を横切っていく。
「さて、蓮といいましたか。貴女はこちらへ。梓も一緒に来てください」
「あい」
「……はい」
探るようなキヌアの視線が痛かった。しかし逃げ場所などどこにもない。蓮は目を伏せたままキヌアの後について馬場を出た。天幕の群の隙間から洩れる斜陽が厚手の生地に長く影を落としている。
どこまで逃げればいいのだろう。魔法から、『魔王』から。
蓮が己へと投げかけた問いのように、空は徐々に夜へと染め替えられていった。
<予告編>
ずっと逃げ続けていた。
魔法から、
名前から、
己の本心から。
本当に守りたいものは、何だろう。
少女の前で答えが形を成した時、
島国の草創が幕を開ける。
『DOUBLE LORDS』転章11、
——わたしが、『魔王』だ。
止まっていた時間が動き出した。藜が布を差し出したままぎくしゃくと蓮を見上げる。
「女、の子? 何でまた、こんなところに」
藜の腕は完全に下ろす時機を見失ってしまったようだ。蓮が彼の呼びかけに応えた以上、ここで下ろしては意地悪にも思える。だからといって直接渡すには彼の立ち位置は明らかに蓮から遠すぎた。思いの外表情をよく映す漆黒の瞳には、戸惑いと驚きがあらわだった。
『戦士』とは、こんなにも隙だらけなものなのか。
思わず蓮は呆れの混じった溜息を落とす。こんな相手を兄は仇敵と罵り、自分は何度も取り逃がしてきたのか。軽く自己嫌悪を覚えて下げた目線に、兄と同じ衣装が掠めた。
そうだ。ここは『魔王』と『戦士』がぶつかり合う最前線だ。そして今、自分は楝の身代わりを務めている。男に見えるような格好をしているのだ。思わず額に手を当てる。短く保ったままの髪が指に触れた。ひょろりと高い背、細長い手足。確かに今の自分から女の声が聞こえれば、初対面の相手は驚くだろう。
思い当たると同時に、目の前の『戦士』に対して妙に申し訳ない気持ちになった。図らずもだましてしまったという、小さな罪悪感。
「……ごめんなさい。おどろかせるつもりはなかったのだけれども」
せめてもの謝罪に小さく頭を下げて、蓮は改めて藜を見下ろした。視線が合ったことで安心したのだろうか、藜はようやくかざしたままだった腕を引っ込めた。不自然な体勢を続けていて痺れでもしたのか、布を逆の手に持ち替えて軽く振っている。手首に巻いた籠手が乾いた音を立てた。
「いや、こっちこそ悪かった。大げさに驚いたりして……それよりこれ、取りに来ないのか?」
示されたのは先程風で飛ばされた蓮の頭巾だ。楝との最大の相違点である髪の色を隠すための布。無論、返してもらわなければ蓮が困る。しかし最大の敵であるはずの男に不用意に近づくのはやはり躊躇われた。
黙ったままの蓮を、訝しげに藜が見上げる。その瞳が何かに思い当たったのか、次第に大きく見開かれていく。
「ひょっとして、お前……」
勘付かれたか。
思わず蓮は息を呑んだ。自分が『魔王』だと気づかれたのだとしたら、この男はこの場で殺さなければならない。一人の男と一頭の馬。それを焼き尽くせるだけの炎の量を、瞬時に脳裏に思い描く。
「お前、『魔王』の影武者だろう!」
「……え?」
気の抜けた声と共に、形になりかけていた魔力が霧散する。今日何度目かの命拾いをした目の前の男は、己の強運に全く気づいていない様子でうんうんと頷いている。
「そうなんだよ。どっかで見たことあると思ってたんだよ。お前、あの忌々しい『魔王』とそっくりなんだよ。いや、俺も奴の顔は見たことないんだが、いっつも同じ格好させた影武者をぞろぞろ引き連れて戦いに来るからさ。お前もそのうちの一人だろう」
魔法を扱う蓮は楝にとって大事な戦力だ。万が一にも敵の矢から狙い撃ちにされないよう、蓮が戦場に出る時は必ず周囲に同じ衣装を纏った護衛がつく。兄からきつく申し渡されているのだろう、自分たちからは決して言葉を掛けてこないその護衛たちは、言われてみれば確かに兄妹に良く似た背格好の者が多かったように思う。
影武者——どちらが、どちらの?
「お前、大陸の生まれだろ」
突然話題が切り替わった。驚いて再び藜に視線を向ける。
「その言葉遣い。西の大陸の訛りだ。それにその髪の色も、この島じゃあまり見かけないしな」
「……どうして」
「俺は元々漁師の倅だからな。ガキの頃には大陸から流れ着いた奴の面倒をしょっちゅう見てたんだ」
そう。この島に来る渡航者は意外と多いのだ。北と南には港と交易市がそれぞれ整備されているし、嵐の季節には漂流の末に海岸に打ち上げられる難破船の乗客もいる。蓮や楝のようにはじめからこの島を目指して海を渡る者は少ないが、多くの人を運ぶ東西の大陸からの商船は大抵が途中にあるこの島を経由して航海を続ける。最近は新しい航路が見つかったとかで大陸からの船は少なくなったが、それでもこの島が大陸間の重要な中継地であることには変わりがない。
船が積む商品は幅広い。織物、茶や香辛料、陶器に金銀宝石をちりばめた細工物、そして——奴隷。
この島の生粋の住人は皆、艶やかな黒髪と黒い瞳を持っている。別の色が混じっていれば大陸の血を引いていると考えるのが普通だ。そして船商人以外の大陸人は、この島では奴隷として扱われるということも。
大陸出身者が島の人間に比べて劣っているというわけでは、当然ない。海が他の文化との交流を隔てていたせいで、島では独自の習慣や言葉が発達した。頻繁に訪れる豊かな商人ならばともかく、故郷を遠く離れて売られてきた大陸人たちが自力で生活を営めるような環境は整っていない。海を渡って故郷へ帰ることなど夢のまた夢、一度売られて来た者は生涯その地位から抜け出す機会がない。
そんな中、数少ない例外が楝だった。いち早くこの島の言葉に慣れ、搾取する側へと回り。自らの意志で海を渡った兄妹には、保護者であり支配者である主人がいなかったというのも大きいのだろう。零から振り出せたことは、負債を背にこの島に来た同胞たちより遥かに有利な立場を楝に与えていた。
『魔王』が畏怖されるのは魔力のせいだけでない。
奴隷のはずの大陸人が、魔法という得体の知れない牙を向けてくる。島の者は恐怖を覚え、大陸人たちは希望を託す。それらの感情こそが、楝が目をつけた『魔王』の力の正体だった。
元から処遇に不満を持っていた大陸人たちを取り込み、彼らを支配していた島民を力で服従させ。そうやって楝は勢力を伸ばしてきた。従う者には『魔王』の庇護を、逆らう者には制裁を。指示されることに慣れきってしまった大陸人たちを率いるにはそれが最も都合が良かったし、支配者だった島民も魔力を盾に脅せば大抵は素直に投降した。彼らが抵抗した時にのみ、蓮の出番は訪れる。
対して藜は一目で純粋な島の血統と知れる外見を持っている。北方の山岳地帯に住むという”山の民”をはじめ、彼に力を貸す勢力は多くが島に元からいた住人だった。やはり島出身の者は、大陸の者より同郷の頭を求めるのだろうか。『魔王』に従うのを潔しとしない者は、既にそのほとんどが蓮の手で焼き払われるか『戦士』の陣営へ帰順するかしている。
大陸から来た『魔王』か、島で生まれた『戦士』か。
最近の戦況はその一言に尽きた。これが誰もがその始まりを忘れるほどに長くこの島を覆っていた戦乱の最終局面なのか、それとも新しい混乱の始まりなのか、それは誰にも分からない。しかし『魔王』と『戦士』が近い将来ぶつかり合うことだけは確実だった。
この島を統べる者を定める為に。
藜が再び腕を上げた。小さく笑って、しかし瞳にだけは真剣な光を浮かべ。
「俺と一緒に来ないか。こっちには奴隷なんていない。島のやつも大陸生まれも関係なく、みんなでわいわいやってる。この島を少しでも良くするために」
意外な言葉だった。楝が大陸の血を強調するように、藜も島の生まれという血統を利用して手勢を支配しているのだと思っていた。
「むこうの、生まれでも?」
「ああ。こっちには東の大陸出身の戦屋もいるし”山の民”の義勇兵もいる。怖い軍師に至っては船商人の倅だしな。まあ全体で見ると島の生まれが多いけど、元から数が少ない大陸人はもうほとんど『魔王』に取り込まれてるからな。俺たちに味方して一緒に働いてくれるっていうなら、別にどこで生まれた奴だろうと関係はないさ」
生まれた場所に関係なく、皆が同じ何かを目指せる場所。
蓮の沈黙を迷いと受け取ったのか、藜はさらに言葉を重ねる。
「誰かの身代わりで戦場に立つなんて嫌だろう。自分でそれを望んでやってるなら話は別だが、影武者なんて抜け出したいって言うなら喜んで手を貸すぜ。追っ手からだって守ってやる」
「……ほんとうに?」
「ああ。困ってる女の子を助けるのは当然だろう」
恐らく藜はそう深く考えて言っているわけではないのだろう。意に沿わぬ危険な仕事をしている奴隷を見つけたから助けてやろうと、ただそう思っているだけ。
なのに何故、蓮が密かに望んでいた言葉ばかりが出てくるのだろう。
蓮は俯いた。
身代わりは、『魔王』はどちらなのか。
戦いを、人を殺めることを、自分は望んでいるのか。
楝が必要としているのは、魔力なのか、蓮自身なのか。
心の奥底に押し込めていた問いがとめどなく溢れ出す。今まで抑えていられたのが不思議なほどに強く、確かなその感情。
『魔王』によるこの島の統一。それが楝の望みだ。だから蓮はその望みを叶えるために今日まで戦ってきた。
けれどそれは本当に、蓮自身が望んだことだったのか。
望んで得たわけではない、魔法という異能。絶大な力を得ると同時に、決して他人には受け入れられることのない孤独をも背負わせるもの。それが持つ陶酔にも似た己への憐憫にいつしか囚われていたのは、蓮も楝も同じだったのかもしれない。
生まれ持った他人との隔絶。越え難いその壁の向こう側が、この男の傍でなら見ることができるかもしれない。生まれた場所も立場も気にかけるそぶりもない、この男ならば。
草原から、また一陣の風が吹きつけてきた。若草の匂いが混じったその風は、確かに春の気配を含ませている。先程浴びた水はまだとても冷たかったのに。季節は変わる。恐らくは、人の心も。
「ほんとうに……つれていってくれるの、この外へ」
もし、この身が敵に囚われたとしたら。『魔王』が自ら『戦士』の手に落ちたとしたら。
椿はどれほどの折檻を受けるだろう。それを思うと心が痛んだ。
けれどこれを逃すと、蓮の世界を変える機会は恐らく永遠に失われてしまう。
風の中、迷いのない笑みで藜が手招く。最後のためらいは岩から飛び降りる時、空へと吹き飛んだ。身を丸めて着地し、黒い鎧へと歩み出す。体が軽かった。『魔王』ではなくただの蓮として歩く、初めての島の大地。風の匂いが新しかった。
藜の傍らには馬が待っていた。額に一点だけ白毛の混じった黒い馬。蓮が手を差し伸べると、白い歯をむき出して首を振った。
「気をつけろ、噛まれるぞ」
藜はそう言ったが、馬の顔はまるで笑っているかのように見える。素直に手を引っ込めたものの、蓮の心は不思議と浮き立っていた。
初めて楝の手の外に出た。狭い檻の向こう側には、何が待っているのだろう。
「掴まれ」
そう言って差し出された手は温かかった。引き上げられるまま、蓮は藜と共に黒馬の背に乗る。落ち着いたと思う間もなく、馬は走り出した。蓮がいた水場の上流へ岩を回り込むかのようなその進路に、蓮は目線だけで背後の騎手に問う。『戦士』の軍勢は岩場の正面、草原の方から近づいているはずだ。
「まともに『魔王』の目に留まるのはまずい。狙い撃ちにされる」
確かに単騎の黒鎧が目の前を横切るような好機を『魔王』が見逃すはずがない。たちまち雷が降ってきて、藜はあえなく餌食となってしまうだろう。——楝が魔法を使えれば、の話ではあるが。
「そんなにこわいの、魔法は」
ぽつりと呟いたのは積もり続けていた疑問だった。蓮にとっては当たり前の力。敵になったことなどないから、何故皆がそこまで怖れるのか分からない。少し火花を散らしてやるだけで、それまで威張っていた者が呆気なく跪くのを何度も見てきた。滑稽を通り越して哀れにさえ思える、その姿。
「そりゃそうだろう。誰だって死ぬのは怖い」
「たたかえば人は死ぬ。おなじことでしょう」
「全然違う。自分を殺すものが剣の刃か得体の知れない力か、その差は大きい」
「なにがちがうの?」
「自分に理解できるものか、そうでないものか、だ」
二人の会話に混じるのは蹄が土を蹴る音と、草原から吹く風の響きだけだった。時折せせらぎの音が混じり、川が近いということを思い出させる。
「最期に目にするものが敵の刃なら、ああこれに俺は殺されるんだ、って理解できる。無念とか後悔とか、勿論そういうものは色々あるだろうが……それでも原因が納得できる分、まだ救われる」
蓮は黙ったまま聞いている。藜の語る言葉は難しいが、何かとても大事なことが——蓮がずっと求めていた答えが、聞けそうな予感がしていた。
「魔法はな、そういうものじゃないんだよ」
藜の声音が低くなる。
「必死で敵の剣を潜り抜けて、傷だらけになって、ようやく囲みを抜けたと思った瞬間、上から雷が降ってくるんだ。納得なんてできない。死んだ奴も、残された奴も。何でだよ、って思う」
手綱を持つ手が握り締められた。わずかに上がった馬の首を宥めるように藜の手が叩く。心得たように馬は鼻を鳴らして、横手の小川へと歩を進めた。
「魔法は——『魔王』の力は、人を畏れさせる」
ぱしゃり、と水鏡を割る音が響いた。
「憎むこともできないほど絶対的な力の差を見せつけられて、俺たちはただ首を竦めてそれが通り過ぎるのを待つしかない。『魔王』が下す一方的な罰が終わるのを、ただ見ているしかできないんだ。正体の分からないものはいつだって、怖い」
馬はあっさりと川を渡り終えた。しかし蓮の心は揺れ続けている。今しがた蹄がかき乱した水面のように、心中に波紋が広がっていく。
今背後にいるのは『魔王』と幾度も見え、その度に生き延びてきた男だ。同時に幾度も相対し、その度に仲間を失ってきた男でもある。
何度叩いても立ち上がり、向かってくる相手。それが蓮が『戦士』に対して抱いていた印象だった。畏れや恐怖などとは最も縁遠いと思っていた男の口から出てきた意外な答えに、返す言葉は浮かばなかった。
怖い。
魔法は、怖い。
敵に、味方に、『戦士』に——そして楝に。蓮が向けられる数多くの視線の中で、たった一つだけ共通する色調。
人は『魔王』を怖れる。その正体はちっぽけな小娘にしか過ぎないというのに。
蓮は俯いた。振り落とされぬよう掴んだ鞍を、より強く握り締める。
正体を知れば、藜も蓮を怖れるのだろうか。
とうに顔も忘れた両親の、遠い面影が胸をよぎる。父と、母と、楝と、自分。魔力が周囲に知れるまでは確かにあった、温かな時間の記憶。真実を知った後、蓮に対して藜がここまで自然体でいられるとは到底思えない。決して楽しい話題ではないにも関わらず、妙に居心地のいいこの空気。失うのが惜しいと感じるこの雰囲気こそ、蓮が心から欲していたものなのだと素直に納得できた。
先程藜が出逢ったのは蓮。それは決して『魔王』ではない。
知られたくない、と思った。知られれば確実にこの空気は壊され、敵味方に分かれ殺し合うことになる。
——今までと、同じように。
しばらく無言の時間が流れた。黒馬は相変わらず岩場と草地の境目を早足で進んでいる。ずっと草地を走ればいいのに、とぼんやり考えた。蹄鉄が岩を蹴る振動が、それでなくても揺れる思考をさらにかき乱す。纏まらない思考の中、いっそ魔法の使い方も忘れてしまえばいいのに、などとも思う。
一際力強く馬が跳んだ。蓮は着地の揺れを予想して身構える。しかし予想に反して衝撃はふかりと受け止められた。目を上げると、眼前には草の海が広がっていた。
「見ろ、『魔王』だ」
藜の言葉に、咄嗟に顔を上げる。
後にしたばかりの岩場に、白い衣装を着けた人影がいくつも動いているのが見える。真ん中に陣取った人物が大きく腕を振って何事かを指示しているようだ。
「……? 何かあったのか」
恐らく蓮が姿を消したのが知られたのだろう。今、あちらの陣営は大混乱に陥っているはずだ。裏手を回りこんで来たおかげで『魔王』側はまだこちらに気づいていない。草の波に紛れて遠ざかるその景色から、蓮は無理矢理に目を逸らした。
「はやくいって。いまなら、にげられるから」
それ以上は問い返さず、無言で藜は鞭を入れる。受けた黒馬は矢のような疾走に移った。見る間に岩場は遠ざかり、細部など分からなくなってしまう。
ここではない、どこかへ。
『魔王』が、楝が、いない場所へ。
心の奥底でずっと願い続けていた、蓮の望み。
それがようやく叶えられるというのに、何故こんなにも後ろめたいのだろう。
どれくらいの時間、目を閉じていたのか。頬に受ける風がふと緩まって、蓮の意識は思考の淵から浮かび上がる。
空気が含む音が先程とは変わっていた。手綱を緩め、速度を落とした黒馬の蹄音とは明らかに違う轟きが前方から響いてくる。見上げた瞳が意を得たように明るく笑った。
「心配いらない。仲間だ」
開けた視界の中、最初に見えたのは舞い上がる草の葉だった。弧を描いて蒼穹に巻き上げられた丈の長い葉が、ひらりと落ちてはまた舞い上がる。
風圧を起こしているのは鎧に身を固めた騎兵の一団だった。草の波を蹴散らして近づいてくるその数、およそ百。
藜が合図するまでもなく、黒馬は脚を止めた。目前に迫った一団はその一人一人の顔が見て取れる距離にまで近づいたところで一斉に手綱を引き、乱れることなく停止する。
「よぉ、随分ゆっくりだったな。あんまり帰って来るのが遅いから、てっきり集団行動に飽きてトンズラこいたかと思ってたぜ」
兜の庇を上げて、先頭にいた男が藜ににやりと笑いかける。隙間から覗いたのは日焼けにしては濃い褐色の肌。眇めた瞳は周囲の草原と同じ若葉の色——大陸の血筋だ。
「馬鹿言うな。お前じゃあるまいし、俺はそこまで無責任じゃない」
すかさず応えた藜の言葉に、騎兵たちから笑い声が上がる。
「ほら見ろグースフット。部下たちもお前の方が責任感がないってよ」
「何ぃ!? お前ら、いつも可愛がってやってる恩を忘れやがって」
わいわいと言い合いを始めた一団に笑いながら、藜は蓮に先頭の男を示した。
「あれがさっき言った東の大陸の戦屋だ。名前が呼びづらければグーでいい」
「おまっ……! 勝手に変な綽名をつけるな」
褐色の男は慌てた様子でこちらに馬を寄せてきた。大きな鹿毛から見下ろしてくる鎧姿は、いかにも歴戦の猛者といった風情で威圧感がある。そういった男を今まで間近で見る機会がなかった蓮は、思わず身を引いた。逃さぬとばかりに顔を覗き込んできた鋭い眼光が、まともに銀青の視線とぶつかり合う。
「どーもハジメマシテ別嬪さん。グーちゃんでーす」
顔だけは真面目にグースフットが名乗る。背中越しに藜が吹き出すのが聞こえた。
「なんだよ、文句あるのか」
「お前な。ちゃんはないだろ、ちゃんは」
「顔が怖いのは生まれつきだ。どっかを可愛くしなきゃモテねえだろう」
なあ、と再びグースフットの目が蓮に向けられる。その表情は先程とは別人のように和んでいた。くるくる変わる男の表情にどう反応していいのか分からない蓮は、ただ固まったままその顔を見返すことしかできない。
「あっちゃあ、不発か?」
「当たり前だろ。あんまりびっくりさせるな」
呆れたように溜息を吐いて、藜は蓮の頭に手を置いた。
「元『魔王』の影武者だ。逃げたいって言うから連れて来た。名前は……」
ふと言葉を切って、藜は宙に目線を泳がせた。
「そういやまだ聞いてなかったか」
「おいおい」
今度はグースフットが呆れ声を出す番だった。その顔を藜は軽く睨みつける。
「仕方ないだろ、色々バタバタしてたんだ。遅くなっちまったが、名前を教えてくれないか?」
見上げた藜の視線はまっすぐに蓮の瞳を捉えていた。グースフットが、騎馬の一団が、蓮を見ている。
「わたしは——蓮」
声が震えた。自分の名を、初めて名乗った気がした。置かれたままだった手が、くしゃりと髪を撫でる。
「蓮か。いい名前だな。俺は」
「アカザ。『戦士』の藜」
驚いたように藜の眉が跳ねる。
「知ってたのか」
「みがわりだったから——『魔王』の」
「ああ。ああ、そうだな」
納得した様子で藜が頷く。戦の最中に、敵の総大将の名前を知らないという方がおかしい。
ふと思いついて、蓮は藜とグースフットを交互に見やった。
「あなたたちはしっているの? 『魔王』のなまえを」
男たちは顔を見合わせる。ばつが悪そうな顔で藜が言った。
「いや……実は知らないんだ。名前どころか、顔も素性もな。言葉に西の大陸の訛りが少し残ってるから、向こうの生まれだってのは間違いないみたいだが。それ以外は何も」
楝の徹底した情報制限が効いているのだろう。顔も、正体も、名前さえも不明な『魔王』。知られていなかったことが今の蓮にとっては救いだった。
「で、こいつが自分で調べに行くって飛び出してったっきり早一ヶ月。止める間もなく置いてかれた俺たちは、ホントたまったもんじゃなかったぞ」
「……すまん」
「まあお前の無鉄砲は今に始まったことじゃないけどな。で、この娘っ子以外に何か収穫はあったのか」
目を逸らしたまま藜は小さく首を横に振った。グースフットが大きな溜息を落とす。
「ま、そんなこったろうとは思ってたけどな。何にせよ無事で良かった。とっとと梓に元気なツラ見せて安心させてやれ」
「梓が、来てるのか」
「ああ。後ろの本隊でキヌアと一緒に待機してる。お前から報せが来た時、いの一番に迎えに行くって言い出したんだがな。『魔王』も近くにいることだし、遠慮してもらった」
「そうか。すまない」
「貸しひとつ、だな」
にやりと告げて、グースフットは馬首を返した。
「さーて、手の掛かる総大将の回収任務は成功だ。野郎共、戻るぞ」
グースフットの指示を受けて、騎馬団がどやどやと反転する。その様子にあまり緊張感は感じられない。私語さえ聞こえる中、隊列だけは乱れることなく草原を滑るように進み始める。
「……アズサって?」
格段に増えた蹄音の中、問う声は思いの外低くなった。草の海の彼方を彷徨っていた藜の目が、我に返ったように蓮に向く。
「ああ、梓は仲間だ。”山の民”の」
「なかま」
「……ああ、仲間だ」
藜の声は、蓮にというより己に言い聞かせるような口調だった。もっと詳しく話を聞きたいと思ったが、とても続きを頼めるような雰囲気ではない。
しばらくして、後ろから一騎分の足音が近づいてきた。藜に会釈だけして追い抜いたその騎兵は、装備の軽さから見て恐らく偵察の者だろう。迷わずグースフットに駆け寄り、何事かを報告する。頷いて、グースフットは別の騎兵に指示を出す。その兵が次の偵察係なのだろう。隊を離れて今来た方向へと戻っていく。
「大将」
グースフットが藜を呼んだ。黒毛が鹿毛と首を並べる。他の兵は心得たように少しだけ距離を置いた。
「どうした」
「おかしい。『魔王』の動きが変だ」
蓮の心臓が跳ね上がった。
「お前が寄越した情報だと、奴は南部湖沼地帯の地主を陣営に引き入れて本拠地へ帰還する途中ということだったな。説得だけで事は済んだから、出番のなかった主戦力の本隊は先に本拠地に帰して、『魔王』様本人はゆるりとご帰宅。そうだな」
「ああ」
驚いて蓮は藜を見上げた。つい先日まで蓮が実行していた任務。藜が『魔王』の情報を集めていたのなら知っていても不思議はないが、こうして改めて聞かされると身構えざるをえない。調べられている、という警戒感。
「お前一人でふらふらしてるところを見つかったりしたら格好の的にされるからな。俺たちはわざとこっちの本隊を晒して奴がとっとと帰るよう圧力を掛けてた。実際、あちらさんはさっきまでは帰る気満々だったしな。まぁ、手勢がいないんだから接触する前に撤退するのは当たり前だが」
咄嗟に思い描いたのは、先程岩場を離れる際に見た楝の姿だった。動揺も露わに指示を下す、その姿。藜の頭にも同じ場面が浮かんだのだろう。小さく息を呑む音が背中越しに聞こえた。
「まさか」
「おうよ。追って来てるってよ。しかも一度は本拠地に帰した本隊も呼び寄せているらしい」
ちらりとグースフットは蓮を見やった。
「どうする? 今なら数はこっちが上だ。討つには絶好の機会だと思うが」
蓮は俯いた。意見など挟める立場ではない。けれど。
討つ。藜が、楝を。或いは楝が、藜を。
『魔王』が『戦士』を倒す場面なら、もう何度思い描いたか分からない。あまり考えたくはなかったが、最悪の事態として『魔王』が『戦士』に倒される場面も。けれどそこに登場する『戦士』はいつでも顔を持たない『誰か』だった。その顔が藜になる。たったそれだけで、何故こんなにも身が竦むのか。
「……いや、今は本隊との合流を急ごう」
しばらくの沈黙を挟んで、藜は言った。
「本隊と合流すれば、数の上ではもっと有利になる。『魔王』が本隊と合流するには、まだ時間がかかるはずだしな。何よりこうも突然動きを変えたのが気にかかる。今は下手に刺激しない方がいい」
「……分かった」
グースフットは頷いて後ろを振り返った。少し離れて付いてくる騎兵団に向けて大声で怒鳴る。
「おい! 緊急事態だ。本隊まで駆け足、急げ! 大将を抜いた奴にはご褒美が出るってよ!」
みなまで聞かず、黒馬が速度を上げた。二人分の重みが乗っているとは思えない速さで駆け去る尻尾に、応とばかりに百の蹄が追いすがる。
乗馬は得意な方ではない。蓮が必死で黒馬の首筋にしがみついている間に、揺れる景色は『戦士』の本隊を映し始める。たちまち近づいてくる、簡素な天幕の群。
結局黒馬は誰にも追い抜かれずに本隊の柵を潜り抜けた。さすがに息を荒げているその背から蓮が降りた頃、グースフットの鹿毛が駆け込んでくる。次々と入ってくる騎兵たちで、広かった馬場はたちまち混雑した。
先に下りていた藜が、労うように黒馬の首筋を叩いて厩番に手綱を手渡した。同じように鹿毛を係に任せたグースフットが歩み寄る。
「キヌアは……今の時間なら糧秣庫か」
「多分な」
ちらりと見上げた空は薄紅に染まりつつある。すぐに夕闇が落ちてくる、早春の黄昏。
「悪いな、少し仲間と話をしてくる。どこか適当な天幕にでも落ち着いて待っていてくれ」
「えっ……」
ここは『戦士』の陣営のど真ん中だ。当然周囲には『戦士』の兵——先程までの蓮にとっての敵しかいない。一人で置いていかれるのは、さすがに抵抗があった。
「聞いていたと思うが、『魔王』が今こっちに向かっている。これからどうするか、すぐに決めなきゃならん。それまでの間だ。待てるな」
「…………」
言い聞かせるような藜の声に思わず俯いた。その仕草を了解と受け取ったのだろう、藜の手が蓮の肩から離れる。任せる相手を探して周囲を見回していたその動きが、ふと止まった。
「別に一緒でもいいですよ? もう来ちゃいましたし」
上品な響きの声が耳に流れ込んできた。顧みた先には斜陽を弾く金の髪。反射的に楝を思い出して、蓮の身が竦む。
「キヌア、梓」
藜の声で我に返る。改めて見やった馬場の入り口には蓮より少し年上の、藜と同じ年頃の男女が姿を現していた。
金髪の主は男の方だ。楝より濃い色合いだろうか。角度によっては茶色にも見える少し癖のある髪を、頬にかかる辺りで切り揃えている。きちんとした印象の佇まいや仕立ての良い大陸風の平服は、港の倉庫街に多い船商人を連想させた。
女の方は黒髪だった。長いその髪を二つに分け、色とりどりの紐と一緒に編みこんでいる。簡素な藍色の貫頭衣から覗く襟元の白い袷襟と髪紐の緋色の対比が、夕暮れの光の中で鮮やかな色彩を放っていた。戦場でも時折見かけた”山の民”の装束だ。
「おかえり、藜さん」
小さく微笑みながら娘は言った。やや早口のその声は、普段聞き慣れているこの島の言葉とは少し違う響きを宿しているようだった。
「……ああ。心配をかけたな、梓」
複雑な表情の藜に、梓は無言で頷いてみせた。怒っているような素振りではなく、まるでやんちゃな弟へ対するような仕草だった。
「にしても藜、あの手土産はないでしょう」
既に『魔王』の追っ手の件は伝わっているのだろう。金髪の男——キヌアが呆れたように藜を見やる。
「『魔王』直々のお出ましなんて、この時点では全く想定してなかったんですからね。追い払うにしても一体どれだけの損失が出ることか」
「悪い。グースフットからも着く前に叩くかって聞かれたんだが」
「それは避けていただいて賢明でしたね。『魔王』を探りに飛び出したっきり梨のつぶてだった大将がようやく帰ってきたかと思いきや、斬り込み隊長と一緒にあっさり討ち死にしました、なんて洒落にもなりません」
「……キヌア。何かお前、いつも以上に毒がないか?」
「当然でしょう。僕がいくら工作してもできなかったことを、貴方にあっさり成功されたら腹も立ちます。『魔王』一人をおびき出すために、これまでどれほど苦労したか分かってるんですか?」
キヌアが藜の肩を叩く。藜より頭一つ低い位置にある鳶色の瞳が、不敵に笑った。
「確かにここでぶつかることは想定外でした。けれど決戦に向けた準備はもう整ってるんですよ。既に本拠地の留守居にも報せを出しました。ここで『魔王』を叩いた勢いのまま、あちらの本拠地へ一気に攻め上る。そんな戦略でいかがですか?」
「相変わらず仕事が早えなぁ、うちの軍師様は」
「当然です。次は貴方たち実働部隊に働いてもらう番ですよ、グースフット」
呆れ笑いのグースフットにすかさずキヌアが切り返す。返す刀で、鳶色の瞳が再び藜に向けられた。
「決めるのは貴方の仕事です、藜。答えは」
「……分かった。お前の言う作戦でいこう」
「他に補足事項は?」
ちらりと藜が蓮を見やる。すぐにキヌアも事情を察したらしい。
「ああ、また連れて来たんですね。言葉は?」
「大丈夫だ。通じる」
「では僕が預かります。処遇は『魔王』様にお帰り願った後にゆっくり決めれば良いでしょう」
「ああ、頼む」
藜が頷いた時、先程斥候に出た兵が馬場に走り込んで来た。すかさずグースフットが反応する。
「ご苦労さん。どうだった」
「敵は五十騎ほど。予想以上に足が速いです。ただがむしゃらに藜さんを追っている、そんな感じでした」
場の視線が藜に集まる。
「お前、一体何をしでかしたんだ」
「別に何も。『魔王』本隊とは接触していないし」
そこまで言って、はっと藜が蓮に目を向ける。
「まさか目的は蓮、お前か?」
「……ちがう」
蓮は頭を振った。それしか、できなかった。
「……まあいいでしょう。どちらにせよ、そろそろ『魔王』が追いつくはずです。問い質している時間はありません」
キヌアの台詞に敵襲、と叫ぶ見張りの声が重なった。既に傍に引かれてきていた鹿毛の手綱を受け取って、グースフットはひらりとその背に跨る。
「んじゃ、行って来るぜ。『魔王』様に一番最初に斬り込むのが俺の仕事だろ?」
「分かってるならとっとと行ってください」
「へいへい」
苦笑いを浮かべるグースフットの鞍に、そっと白い手が添えられた。
「グースフットさんさ山神様の恵みばあるように。ご武運をば」
にこりと笑って梓が言う。にやりと笑ってグースフットは素早く敬礼を返した。
「ありがとよ梓ちゃん。愛してるぜ」
片目を瞑って指先を切ると同時、グースフットは鹿毛に拍車を入れた。見る間に遠くなる背中を部下の百騎が追う。
「まったく相変わらずだな、あいつの女好きは」
呆れた色を滲ませた藜の横顔を、キヌアの三白眼が睨みつけた。
「貴方の呑気ぶりも相変わらずのようで何よりです。西の馬場に二百騎の用意ができていますから、それを連れて早く援護に行ってください。吉報を待ってますよ」
三百対五十。この戦力差だけでも、どれほど『戦士』が『魔王』を警戒しているかが分かる。
蓮が魔法で広範囲を焼き払えば、どうにかなるかもしれない。だが、楝一人で乗り切れるか。答えは——絶望的だった。
汗だけをざっと拭われた黒馬が引かれてきた。すかさず藜はその背に乗り込む。
「じゃあ、行ってくる。くれぐれも蓮を頼んだぞ」
「分かっています。目は離しません」
鋭く蓮を一瞥してキヌアが答える。その言葉通り、常に彼の視界に捉えられているのを蓮は感じていた。どうやらすっかり目をつけられてしまったらしい。
梓が藜の鞍に手を置いた。馬上と地上、二つの視線が一瞬だけ交わる。
「藜さんば御身に山神様さご加護のあるように。ご無事で」
「ああ、ありがとう」
頷きに紛れて、藜は視線を逸らしたようにも見えた。そのまま彼方の地平線へと目を向けた主を背に、黒馬はあっという間に陣地を横切っていく。
「さて、蓮といいましたか。貴女はこちらへ。梓も一緒に来てください」
「あい」
「……はい」
探るようなキヌアの視線が痛かった。しかし逃げ場所などどこにもない。蓮は目を伏せたままキヌアの後について馬場を出た。天幕の群の隙間から洩れる斜陽が厚手の生地に長く影を落としている。
どこまで逃げればいいのだろう。魔法から、『魔王』から。
蓮が己へと投げかけた問いのように、空は徐々に夜へと染め替えられていった。
***************************************************************
<予告編>
ずっと逃げ続けていた。
魔法から、
名前から、
己の本心から。
本当に守りたいものは、何だろう。
少女の前で答えが形を成した時、
島国の草創が幕を開ける。
『DOUBLE LORDS』転章11、
——わたしが、『魔王』だ。
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