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書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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 声が、聞こえる。

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 レンギョウは目を開いた。周囲を見回しても何も見えない。自分の指先を確認することもできないほどに濃い霞が一面を覆っていた。白い闇の中、立ちつくす。何故自分は、こんなところにいるのだろうか。
 再び、声が聞こえた。遠くから聞こえるそれはどうやら女の声のようだ。高く細い声がレン、と呼びながら近づいてくる。
 ここだと答えかけて、レンギョウは声が出ないことに気がついた。慌てて喉を押さえる。痛みはない。けれど拭えない違和感だけは、確かにそこにあった。
 ここは、どこだ。
 改めて周囲を見渡す。相変わらずの濃霧は一向に晴れる気配もなく、視界いっぱいを埋めつくしている。見慣れた王宮の景色では無論なく、近頃ようやく慣れた中立地帯の草原の気配でもない。
 呼びかけは続いている。その声に向かって腕を伸ばしてみた。指先に何かが触れる。探ってみると、平坦なそれは凹凸も切れ目もなく続いているようだった。見えない壁が、レンギョウと声の主を隔てている。
 この壁を越える方法はないのか。
 手を当てたまま、レンギョウはじっとその先を見つめる。一見すると、向こう側にもこちらと同じような景色が広がっているだけのようだ。
 見えるのに、行けない世界。壁の向こうの世界に、何故か無性に興味が湧いた。
 と、眼前の霧が揺れた。レンギョウの目の前だけが晴れ、水鏡のように己の顔が透明の壁に映し込まれる。
 ——いや、違う。
 目の前に映った顔は、見慣れた己のそれとは微妙に異なっている。柔らかな頬の線、気弱げな瞳。折れそうな項に続く剥き出しの肩、そして——
 目の前にいるのは年若い少女だった。レンギョウに瓜二つの青銀色の目線をおどおどと彷徨わせ、落ち着かなげに背後を振り返る。
「椿、こっち」
 発した声は柔らかで、馴染みの薄い響きを宿していた。舌足らずにも聞こえる口調で呼びかけに応えながら、レンと呼ばれた少女は裸の胸元を腕で隠して立ち上がった。水浴びの途中だったのだろうか、滴が玉のように細い顎の線を伝い落ちる。
 少女の髪はレンギョウと同じ銀の色だ。しかし艶やかに伸ばされたレンギョウのそれとは違い、少女はごく短く刈り込んでいる。軽く振るだけで水気が切れてしまうその髪型は、意外なほどすらりと伸びた手足と相まって少年と見間違えてしまいそうだ。
 実際、少女が身に着けた衣は男物のようだった。真新しいが古風な合わせ襟の上着、裾の広い袴。体型を隠すかのようにゆったりとしたそれらを帯で纏めていると、上方から声が掛かった。あの呼びかけと同じ声だ。振り仰ぐと、長い髪を後ろで束ねた娘が岩陰からこちらを覗き込んでいる。やはり古風で質素な袷を着流しているが、その足元は裸足だった。少女と幾らも歳は違わないのだろう。この島国の娘に特有の艶やかな黒髪を後ろで束ね、同じ色の大きな瞳にくるくると表情を映し。その頬に今浮かんでいるのは、悪戯っぽい微笑みだった。
「こんなに奥にいたの。隠れるにしてもちょっと用心しすぎじゃない、蓮」
 レン、という名に当てる字が自然に浮かんだのが自分でも不思議だった。そういえば声の主である娘の名も、少女が呼ぶと同時に椿という字だと認識していた。
 これは確か、先祖がかつて住んでいたという大陸で使われていた文字だ。今は交流も絶えて久しい、初代国王——『魔王』の故郷。
「みつかると、兄様にしかられるから」
 俯いた蓮の声は、やはり気弱げだった。小さく椿が息を吐く。
「そうね。楝様、そういうところ厳しいもんね」
 楝、という字も自然と心に浮かんだ。レン。蓮とは微妙に抑揚の違う、同じ音を持つ名。
 水鏡の向こうで交わされる少女たちの会話はとりとめもなく続く。そこにレンギョウがいることを、全く意に介していないかのように。
 気づいていないのか。否、見えていないのだろうか。
 少女たちにとっては、レンギョウの方が水鏡の中の存在なのだ。見えない壁は水面の境界。決して越えることのできない次元の境目。これは、いつか見た夢と同じ種類のものなのではないだろうか。
 レンギョウは目前に映る蓮の姿をじっと見つめた。親征開始の朝に見た夢よりも、今回は数段はっきりとしている。目にした光景、耳にした情報。それらから思い当たったのは一つの可能性だった。
 『魔王』レン。王家と貴族の始祖であり、絶大な魔力を謳われる創国の英雄。
 今目にしているのは遠い過去に起こった出来事なのではないか。古風な衣装も、レンギョウと似た面差しも、蓮が『魔王』の縁者であるならば説明できる。もしそうだとすると、『魔王』本人は——
「おい、いつまでだべっているつもりだ」
 耳に障る甲高い声が降ってきた。はっと振り向いた視界に、一人の男が映った。長い指先が神経質に岩肌を叩いているのが見て取れる。河原に飛び降りる機敏な動作はまだ若い。逆光になっているため顔かたちはよく分からなかったが、砂利を忌々しげに踏みしめて近づいてくる衣装は蓮のものと寸分変わらなかった。違いは唯一、頭全体に巻かれた白い布だけだ。
「兄様」
「楝様」
 ほとんど条件反射のように、少女たちはその場に跪き顔を伏せた。その様を眇めた眼差しで見やりながら、男は仁王立ちで足を止める。その面差しと何度も目にした肖像画の老人の面影がぴたりと重なった。恐らくこの男こそが、『魔王』レンと呼ばれる人物。
「椿」
「はい」
「俺は誰だ」
「——『魔王』、楝様です」
 やはり。息を詰めて見守るレンギョウの視線の先で、くっと楝は喉の奥で笑った。
「そうだ。俺が『魔王』だ。だったら、言いつけを守らない奴が酷い目に遭うことくらい分かってるんだろ?」
 椿が身を硬くしたのが分かった。その細い肩を、腕組みしたままの楝が爪先で小突く。
「俺は早く蓮を連れて来いって言ったよな? あの忌々しい戦士の軍勢が近づいて来てんだよ。今ここにろくな手勢がいないの知ってるだろ? とっとと引き払わなきゃやばいんだよ」
「……申し訳ありません」
「聞こえねえよ。奴隷のくせに、少し目を掛けてやっただけで付け上がりやがって」
 嬲るように、爪先は椿の肩を突き続けている。その力は声の高まりと共に強く、執拗になっていく。
「それともお前『戦士』の間者か。そうか、それは知らなかったなあ。んじゃあ、見せしめが必要だな。他の奴らに示しがつかんもんなあ」
 言葉と同時に椿の肩が強く蹴られた。予期していたのだろう、息を飲み込んだ気配がしただけで悲鳴は聞こえなかった。
「兄様、やめてください」
 地に倒れた椿の背に蓮が覆いかぶさる。なおも踏みつけようとした足を止めて、楝は冷ややかに妹を見やる。見上げたその瞳の色はレンギョウや蓮とは微妙に違う、激しさを宿した深い青だった。
「蓮」
「……はい」
 白い肌、整った容貌、男にしては細い線の体つき。鋭すぎる目元以外はよく似た兄妹だった。同じ格好をすれば遠目には見分けがつかないだろう。その唯一の相違点に、青い眼差しが容赦なく突き刺さる。
「頭巾はどうした」
 はっと蓮が頭に手を伸ばす。その顔が青ざめていくのが水面の中でも分かった。
「ごめんなさい、すぐにかぶります」
「当たり前だろ。お前さあ」
 楝が屈み込む。蓮の顔を覗き込む瓜二つの顔の額に、頭巾から零れた髪が一筋だけ落ちている。その色は眩いばかりの金色だった。
「俺の身代わりだっていう自覚をもっと持てよ。髪の色見られたらバレちまうだろ? 『魔王』は二人いる、ってな」
 レンギョウは息を飲んだ。今、楝は何と言った。
 全身で聞き耳を立てるレンギョウにはまったく気づく様子もなく、俯いた蓮の頬に楝の指が触れた。低い笑い声が水面を揺らす。
「そんなに怯えるなよ。お前は殴らねえよ。いざという時『魔王』がフラフラだったら困るだろうが。お前は俺の代わりに魔法を遣う、大事な戦力なんだから」
 いざという時。それを思ってだろう、蓮はきつく目を瞑る。その耳元で、いっそ優しささえ滲ませた声音で楝が囁いた。
「分かってるんだろう? お前のその力のせいで、俺まで故郷を追われたんだからな。可哀想な俺の為に、そもそもの原因になったお前が働くのは当然のことだろう。違うか?」
「いいえ、まちがってません」
 蓮の声が震える。ふん、と鼻を鳴らして楝は立ち上がった。
「お前、いつまで経っても大陸の訛りが抜けないな。本当、聞いていると腹が立つ」
 言い捨てて、楝は二人の少女に背を向けた。
「準備が出来次第出発する。グズグズするな」
 ひらりと岩陰を飛び越えて、あっという間に楝の姿は見えなくなった。取り残された蓮と椿が顔を見合わせる。
「だいじょうぶ、椿?」
「うん、いつものことだから」
 差し出した蓮の手を借りて、椿が身を起こす。軽く衣の埃を払っただけで立ち上がるその仕草はいたって普通で、彼女にとってこの程度の折檻は毎度のことなのだと見て取れた。
「……ごめんなさい。いつも、いつも」
「蓮が謝ることじゃないよ。それに楝様はあたしのご主人様だから。好きにされるのは仕方ない」
 完全に下を向いてしまった蓮に、椿はあくまで明るい。
「そんなに暗い顔しないでよ。ほら、楝様も怪我するほど殴るわけじゃないし、蓮はこうやって良くしてくれる。あたしは奴隷にしては運がいいんだよ?」
「……ごめんなさい。わたしにもっと力があれば」
「何言ってるの。蓮がそれ以上強くなったら大変だよ」
 椿の白い手が銀色の頭に載せられた。
「何せこの世で唯一、魔法を使える『魔王』様だからね。楝様だって、蓮のことは大事にしてるじゃない」
 唯一の魔法の使い手。黙ってうなだれる蓮を、食い入るようにレンギョウは見つめる。その記憶が自然と頭に浮かぶのはどうしてだろう。時の霞の中、レンギョウと蓮の境界が薄まっていく。
 兄が自分を殴らないのは、魔法で逆襲されることを内心恐れているからだ。楝は魔法を使えない。にも関わらず、双子として蓮と同時に生を享けた事実によって同じように疎まれ、弾かれてきた。
 初めて魔法を使ったのはいつだろう。思い出そうとしなければ分からないほど、蓮にとって力の発現は自然なことだった。
 幼い頃、風車を与えられた。息を吹きかければ回る玩具は面白かった。もっと回ればいいのに。そう思ったら、小さな風が起きた。くるくる回る羽の軌跡が綺麗で、思わず声を上げて笑った。
 ——それが、はじまり。
 同じ玩具を与えられた楝だけが、蓮の力を知っていた。どれだけ強く念じても、楝には風は起こせない。むくれて風車を吹くその顔がおかしかったのを、今でも覚えている。
 状況が一変したのは両親にこの力を知られた時だった。普段はまめな母親が珍しく火種を切らしてしまった。火熾しに苦労するその様子を見ていた蓮は、手助けをしようと小さな火を喚んだ。掌の灯を差し出す我が子を母は忌み子と罵り、家から放り出した。いくら扉を叩けど母は出てこない。やがて帰ってきた父の手によって、楝も家を追い出された。
 双子は普通の兄弟よりも強い絆を持つという。片割れが忌み子であれば、残された方もそうであるに違いない。
 迷信に彩られた小さな田舎の村に、幼い兄妹の居場所はなかった。
 生きていくためには手段を選んではいられない。一時期身を置いた見世物小屋でも、人々は蓮の力を目の当たりにすると恐怖で表情を凍りつかせた。各地を転々としながら食うや食わずで流れ着いた傭兵隊でさえ、戦力としてその力を重宝されながらも普段は敬遠された。
 荒んだ日々の中で、楝の心が歪んだのも無理はないと蓮は思う。戦いの時、蓮は彼方の敵を指すだけで雷を落とせる。しかし楝はそうはいかない。いくら魔法が蓮だけの力であると説明したところで、楝もいつか同じような得体の知れない力に目覚めるのではないかと、常に疑惑の眼差しを向けられる。ごく普通の人間でありながら、異端者として爪弾きにされる現実。楝は勿論のこと、迫害の原因であるという自覚のある蓮にとっても、心からの安息を覚える場所などどこにもなかった。
 大陸の人々に見切りをつけ、遠く海の向こうにあるという島を目指したのはいつのことからだろう。
 傭兵隊が海辺の村を襲撃した時、混乱に紛れて兄妹は小さな漁船を奪った。蓮の操る風を受け、船は故郷の大陸を離れる。未練など、なかった。
 航海の間、楝がずっと呟き続けていた言葉がある。
 俺は何だ。俺は誰だ。
 幾度も繰り返される切羽詰った問いに、しかし蓮は答えることができなかった。楝は蓮の答えを欲しているようには到底見えなかったし、仮に問われたとしても楝を満足させる答えなど返せなかっただろうと思う。
 水平線の彼方に島影を見たのは、漁船に積まれていた物資をほぼ使い果たした頃だった。追い風に帆を立てて進む船の上で、新天地を見つめながら楝が言った。
「今から俺は『魔王』だ」
 双子である上に共に傭兵隊で鍛えた二人の背格好はよく似ていた。互いにまだ男女の特徴が薄い身体であったことも幸いしたのだろう、同じ色の衣を着て髪の色さえ隠せば初対面の相手にはまず見分けがつかない。
 それを利用して、楝は上陸早々襲ってきた盗賊を返り討ちにした。二人で乱戦の中に飛び込み、折を見て蓮が魔法を使う。立ち位置は頻繁に、しかも巧みに変えるから、敵はどちらが魔法を撃つのか判断できない。海を越えても、異能はやはり異能だった。蓮の手の中、何もないところから光が生まれ炎になった時、盗賊たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。彼らから奪った物資を前にして、楝が高らかに笑う。
 我は天命を受けし者。選ばれし者が揮える力を以って、この島を統べる為に生まれた者。我こそは『魔王』なり。
 この島も、大陸と同じように戦乱に覆われていた。何故戦うのか。そんな問いは誰も抱かない。襲われる。迎え撃つ。撃退する。消耗する。使った物資を補充するため、今度は自分から獲物を探す。その繰り返し。良いも悪いもない。生きることが即ち、戦うこと。そして蓮の魔法は生きるための力になる。
 いつしか、周囲には蓮の力の庇護を求める者が集うようになっていた。魔法は強さ。楝が唱える『魔王』の名は、驚くほどの速度で島中に広がっていった。
 配下が増えるに従って、楝の猜疑心はいよいよ強くなる。もう蓮に同じ格好を命じるだけでは足りなかった。髪を隠し、素顔を隠し、己は魔法が使えないという事実さえも隠し。楝が蓮の存在そのものを隠すようになるまで時間はかからなかった。割合初期に敵から奪い取った獲物の一部だった椿だけを世話役として残し、それ以外の者には蓮との接触すら許さず。
 蓮が外部の者の目に晒されるのは戦の時だけだった。楝の衣を纏い彼方に敵を認める時にのみ、蓮は『魔王』を名乗ることを許される。
 それでいいと思っていた。既に幾多の生命をこの手で奪っている。良心の呵責などとうに忘れた。楝が、たった一人の家族が満足してくれるなら、それでいい。
 ——本当に?
 心の奥底から、押し込めていた疑問が浮かび上がる。蓮とは響きの違う、少し硬質な音を宿した少年の声。
 おぬしはそれでいいのか。望まぬ力を持って生まれたのはおぬしの方ではないのか。
 内なる声に、蓮は首を振って答える。
 忌まれる力を持って生まれた上に、こんなにも血に塗れた己を惜しむ者などいようか。皆が惜しむのは魔力の喪失であって、蓮本人の葬失ではない。
 そう。価値があるのは魔力なのだ。それを持たぬ蓮など、誰も欲しはしない。
 自嘲の笑みを薄く刷く。
 もしこの身が敵の手に落ちたとしたら、兄様はわたしを心配してくれるだろうか。
「——蓮?」
 かけられた声に、ふいに我に返る。目の前には心配そうに覗き込む椿の顔があった。
「どうしたの? いきなり黙り込んじゃって」
「ううん、なんでもない」
 首を振って、蓮は内心の問いを振り払った。楝が呼んでいる。早く行かなければ、また椿が殴られる。
 河原を離れようとした蓮の視界に、短く刈り込んだ髪の先が掠めた。そうだ、この銀の髪を隠さなければ人前には出られない。慌てて頭巾を探す。確か着替えと一緒に置いておいたはず。
 見回してすぐに、近くの岩場に引っかかっている布切れを見つけた。どうやら水浴びの最中に風で飛ばされてしまっていたらしい。
「ごめん椿。あれ、とってこなきゃ」
 既に岩陰の向こうへ回りかけていた椿が振り返る。蓮が指した方を見て、頷いてみせる。
「分かった。楝様にはすぐに来るって伝えておくから」
「うん、おねがい」
 砂利を踏む音が遠ざかる。蓮も足場の悪い岩を慎重に渡りながら、目当ての岩場へと向かっていく。頭巾が引っかかっていたのは、大きな岩の突端だった。頼りなげにぱたぱたと揺れる布は、今にもどこかへ飛ばされてしまいそうだ。少しだけ焦りを覚える。あれを失くすと、椿に迷惑がかかる。
 岩によじ登る。蓮の身体より数十倍も大きな岩だ。幸い平べったい形だったので、一度登ってしまうと移動は楽だった。縁に近づいたところで膝をつき、布へと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、気まぐれな風が吹き抜けた。魔法では風を起こすことはできても止めることはできない。なすすべなく、舞い上がった布を見送る。
 ひらりと日の光を受けて、布は地上へと落ちていく。岩の陰になっていた景色には、思いの外近くに草色の波がそよいでいる。
 蓮は思わず息を止めた。緑の波と灰色の岩場の間に黒い影が一つ、立っている。目の前に舞う布を、影が手を伸ばして捕まえた。ぐるりと見回して、岩の上にいる蓮に目を止める。
「これ、お前のか?」
 よく通る声が、心に響いた。漆黒の兜が無造作に外される。額に汗で張り付いた短い黒髪が、吹き抜ける風に乱れる。
 漆黒の鎧、兜、籠手、そして長刀。傍らには額に一点だけ白が混じった黒い馬。
「アカザ……」
 この島の言葉は蓮にとって発音が難しい。楝が何度も口にし、そして蓮自身も何度も戦場で見えている男の名を、故郷で当てる字と共に思い浮かべる。
 ——『戦士』藜。
 敵の首領は今、一人のようだった。何故単騎でこんなところに。あまりにも無防備なその姿に、疑問より先に呆れが浮かぶ。
 今、蓮が指を指すだけでこの男は死ぬ。楝は戦わずして『戦士』に勝ち、この国を統一するだろう。
 ここが戦場なら、蓮は躊躇わなかった。或いは藜の瞳に、憎悪や怯えがあったなら。けれど今、見上げてくる黒髪の男には敵意は欠片も感じられなかった。まさか目の前にいるのが『魔王』本人だとは考えてもいないのだろう。洗濯物でも飛ばしたのだろうと一人得心した様子で、からかいが混じった人のいい笑みを浮かべている。
「おい、聞こえてるのか? これ、お前のだろ」
 蓮は腕を上げた。雷を呼ぶ指の先、照準を漆黒の『戦士』に向けて。今までに幾度繰り返したか知れない、その動作。位置を確かめるため、視線を上げる。目に映ったのは訝しげにこちらを見やる男の姿。今まさに蓮が彼を殺そうとしているなど思ってもいない、その瞳。
 もし、この身が敵の手に落ちたとしたら。あの頭巾を掴む指に、囚われたとしたら。
 先程浮かんだ問いが、格段に現実味を帯びた。
 指先が震えた。一度握り込み、開いた手を再びかざす。今度は掌が青い空へと向いていた。
「そう、わたしのだ。——とってくれて、ありがとう」
 少し震えた柔らかな少女の声が、草原を渡る風に重なった。


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<予告編>


時の霞に秘められた、
もうひとつの出逢いの物語。

創国の時代の『魔王』と『戦士』。
二つの名が織り成す絵図は、
逃れえぬ宿命となって少女の魂を縛める。

「わたしは——蓮」

『DOUBLE LORDS』転章10、
自分の名を、初めて名乗った気がした。


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小説は基本ドシリアス。
日常は基本ネタまみれ。
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