書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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皇都に戻る斥候が告げるその規模は、最早無視できるものではなかった。初報から既に四日。相手が王都を出てから七日が経過している。いくら速度が遅いとはいえ、様子見と言うには長すぎる間だった。
らしくないと思った。この鈍重さは、アザミらしくない。
開け放した窓から刺すような横風が吹き込んできて、羽織ったばかりの外套の裾を揺らす。足元に纏わりつくそれを、アサザは忌々しげに払った。
気分が悪い。その思いは鏡に映る己の姿を見てさらに強くなった。黒を基調とした重苦しい色彩。初代戦士以来の伝統だか何だか知らないが、皇族だけに許されたこの色の正装を身に着けるたびにアサザの気分は沈む。
今朝早く、皇帝の名で御前会議が召集された。今頃は皇都中の戦士が身支度を整えて議場へ向かっているはずだ。議題は勿論、一つしかない。
国王軍の再挙兵。その事実だけを伝えた第一報に続いて、詳細に当たる第二報が届いたのは、アサザが薬師に扮した間諜と遭遇した翌朝だった。兵数、進軍速度、挙兵の狙い。早馬が報告する事柄と、スギが語った情報は寸分の違いもなかった。
どのような手段で正確な情報を掴んでいるのかには興味がない。だがスギはあの時機に姿を現しアサザに国王軍の動きを流すことで、自身の情報網の精緻さを証明したことになる。
己の腕を売り込むために、最も効果的な時を窺っていたのか。何故かそれが無性に気に入らなかった。
国王軍の動向。その情報を必要としているのは皇帝のはずだ。最も知らなければならない立場の者を差し置いて、自分ひとりが聞いてしまっているという事実。その後味の悪さが今も続いている。
焦燥を覚えるのには、もうひとつ理由がある。
皇帝アザミが姿を現さないのだ。スギと遭遇したあの朝以来、ずっと。
普段ならアサザより早く机に向かい執務に当たっているはずのアザミが、あの朝に限って遅れていた。珍しい遅刻を訝しんでいるところに飛び込んできた詳報。すかさず控えていた侍従の一人を皇帝の私室へ走らせた。しかししばらくして侍従は一人で戻ってきた。皇帝の様子を尋ねても曖昧に言葉を濁す一方でよく分からない。他の誰に聞いても反応は同じだった。しびれを切らしたアサザが自ら私室に出向こうとすると止められた。それだけは、と懇願する侍従長の姿にさすがに何かあると気づいたが、老いた忠僕をいくら問い詰めても無駄だった。自室に戻った後に思い余ってカヤにも尋ねてみたが、刀の精はにやにや笑うだけで一向に話そうとしない。
だから会議召集の知らせを受けた時、最初に覚えたのは安堵だった。侍従たちは起こった出来事を隠すことはしても、皇帝の名を僭称するような真似はしない。これで少なくとも、アサザの知らないうちにアザミの身に最悪の事態が起きたという可能性はなくなった。
真っ先に安堵を覚えたことにまずは驚いたが、次にこみ上げてきたのは怒りだった。国王軍の動向について、自分は逐一知らせを出していたはずだ。何故今まで手を打たなかったのか。
苛立ちながら身支度を続けるアサザを、いつの間にか姿を現していたカヤが可笑しげに眺めていた。寝台に寝そべり、含み笑いの声を投げかける。
『此度の一席はなかなか楽しめそうだ。我も連れてゆけ』
「断る。お前なんか持って行ったら何をするか分からん」
『斯様なむさ苦しい部屋にはもう飽きた。退屈だ』
「刀が暇だなんて結構なことだろう。おとなしくしてろ」
『ほう。我に盾突くか』
蒼い瞳がすいと細められた。
『ではおぬしの留守中、少々暇つぶしでもしようかの』
「……何をする気だ」
『そうさのう』
欠片の温かみもない瞳がますます細められる。まるで楽しくてたまらないことを想像するかのように。
『おぬしの部屋の前に黙って座っておるというのはどうかのう? こう、顔を伏せて、打ちしおれて』
「それが何だって……」
言いかけた言葉が途中で止まる。思わず見返した視線の先、カヤは一糸纏わぬ姿で挑むような目をアサザに向けている。
すっかり忘れていたが、この化生は外見だけは年端もいかぬ少女なのだ。それがあられもない姿で部屋の前に座っている。巻き起こる騒動は容易に想像がついた。そんな状況ではそもそもこれはそういった対象ではないなどというアサザの弁明に耳を傾ける者はいないだろう。
「……くそっ」
舌打ちして床に転がった”茅”に手を伸ばすアサザに、カヤは満足げな笑みを刷いた。
『そうそう、最初から素直に従っておればよいものを』
「黙れよ、おばば」
罵りには軽く眉を上げただけで、カヤはあっさりと姿を消した。溜息を吐き、改めて黒鞘の長刀を腰に差す。漆黒の拵えが同色の皇太子の衣装に誂えたように納まった。ますます重苦しくなった気分に悪態をつく気力すら失くして、アサザは部屋を後にした。
指定された議場は公宮の一角にある。下位戦士も集う大掛かりな会議のため、専用の大会議場が開放されることになっていた。公宮の中でもアサザが暮らす宮に近い、奥まった場所にある。
会議の開始は正午と通達されている。まだ天頂に届いていない太陽からこぼれる光は、時折吹き抜ける風にさえ散らされなければ心地よい温もりをしっかりと肌に伝えてくる。春が近づいている証だ。
奥の宮と公宮を隔てる門を潜り、廊下を二つほど渡れば議場の扉が見える。開け放されたその前には佩剣した戦士たちがたむろしていた。何しろ急なことだったので控え室の用意や会場設営が間に合っていないのだろう。ばたばたと出入りの激しい従官たちとは対照的に、戦士たちは顔見知り同士で固まって所在無さげに立ちつくしている。
近づいていくと、アサザに気づいた幾人かがすかさず敬礼を寄越した。返礼を返しながら、素早く横目で知り合いを探す。この場に居る全員からいちいち礼をされたのではたまらない。誰かと立ち話でもして無視する口実を作りたかったし、何より少しでも重苦しい気分を払いたかった。
やがて人波から少し離れたところに立つ影に気がついた。すらりと伸びた褐色の手足、俯いた目元にかかる赤茶の短髪。ここのところ姿を見ていなかった、ブドウだった。
「……よう、久しぶり」
どう声を掛ければ良いのか迷った末に、出てきたのはそんな間抜けな台詞だった。ブドウがゆるゆると顔を上げる。
「アサザか。久しぶり」
小さく笑んだその顔には、以前のような底抜けの明るさはなかった。頬がこけ、瞳の若葉色もすっかりくすんでいる。
最後に顔を合わせたのはいつだったか。思い返して、息を詰める。アオイが逝った日。いたたまれなくなって、アサザは目を逸らした。
「随分痩せたな。大丈夫か」
「ああ。そっちこそ、大丈夫かい」
何が大丈夫なのは分からない。それでもとにかくアサザは頷いた。何となく、そうしなければならないような気がした。
二人並んで廊下の隅に移動する。壁に背中を預け、見るともなしに議場を整える従官たちの様子を見つめる。椅子を並べ直したり、卓の装飾を整えたり。単純な作業に一心に打ち込める彼らが、ふいに羨ましいと思った。国王軍のこと、アザミのこと、レンギョウのこと。出口のない様々な事柄を考えることに、疲れ果てていたのかもしれない。
「副将帥位のことだけど」
ふいにブドウが口を開いた。怪訝な眼差しを向けるアサザには構わず、言葉は淡々と続けられる。
「返上させてもらおうと思っている。戦士が皆集まるこの会議は、陛下にお願いするいい機会だ」
「……そうか」
喉元にせり上がった感情を飲み込んで、アサザは小さく頷いた。引き止めたい気持ちは無論ある。けれどブドウの瞳に浮かぶ自分と同じ種類の疲労が、咄嗟に浮かんだ驚きや反対の言葉を封じてしまった。
重い沈黙が続く。間もなく響いた議場の準備が整ったという声に救われたのは気のせいではない。
戦士たちの波に混じって、アサザとブドウは議場に入った。この部屋は通称を大円卓の間という。皇帝と重臣が座る円卓を中心に、階段状に三重の卓が周囲を巡っている。それぞれの身分に応じた席に着き始めた戦士たちを横目に、二人は段を下りて最央の卓へと歩み寄る。
磨き上げられた黒檀の卓はそう大きなものではない。代々伝わるしきたりによると、この卓を囲めるのは皇帝と皇太子、将帥、副将帥、近衛隊長、そして軍師のみとされている。将帥職は平時は置かれないし、軍師は既に名目上の空位役職となって久しい。実質この卓を囲むのは皇族と軍を束ねる指揮官二名だけと言ってよい。
最上座の皇帝の席は空いていた。近衛隊長もまだ到着していないらしい。無言のまま、アサザとブドウはそれぞれの席に着いた。
廊下にたむろしていた戦士たちの入場がひと段落ついたのだろう、議場の扉が閉められた。その重々しい音に、一瞬場内のざわめきが止まる。
それを見計らっていたように、廊下側の真正面に位置する扉が開かれた。一回り小さなそちらは、慣例的に皇帝入場の際に使われる扉だ。申し合わせたように議場の視線が集中する。
最初に姿を見せたのは近衛隊長だった。皆の注目を確かめるように装飾の多い金色の胸当てを反らし、議場を睥睨してからゆっくりと入場する。
「出たな、ヒゲ隊長」
アサザが小さく毒づく。聞こえたのだろう、斜め向かいに座っているブドウが肩を竦めた。
この近衛隊長をアサザはどうしても好きになれなかった。華美な装束、芝居がかった身ごなし、皇帝にへつらう態度。どれを取っても戦士として立派だとは到底思えない。これなら幼い頃に近衛隊長を務めていた男の方がまだ良かったと思う。真面目とは言いがたかったが、少なくとも腕は立つ男だったと記憶している。
最早名前も覚えていない先代のことを思い出しながら、アサザは見るともなしに後釜の隊長を見上げる。肩肘張って歩いてきた隊長は、黒檀の円卓まで来ても自分の席には向かわず、皇帝の椅子の傍で足を止めた。
訝しげな会場中の目が己に集まるのを待っていたかのように、隊長は自慢の口髭をくるりと撫でた。
「これより皇帝陛下がご入場なされる。皆の者、静粛に」
そう言って入ってきた扉に向き直った隊長は、滑稽なほど優雅なお辞儀をした。全員の起立を待って、再び扉が開かれる。苦虫を噛み潰したような気持ちで、アサザも立ち上がって扉へと目を向けた。
四角に切り取られた闇の中から、同じ色を纏った長身が現れた。冷たい一瞥を議場に集った戦士たちに投げ、黒檀の円卓に続く段へと足をかける。
いつに変わらぬ不遜な態度。ともかく、姿は見せた。
密かに安堵したアサザが再び息を詰めたのは次の瞬間だった。何と言うことはない小さな段差。それに足を取られ、アザミの体がふらつく。思わず上げかけた声は、中途半端に喉に引っかかって意味を為さなかった。
漆黒の皇帝の隣に、いつの間にか生成りの外套が寄り添っていた。実にさりげなく皇帝の体を支え、段差を下りる手助けをしている薬師の姿をした何者か。
何故、スギがここに。
「陛下、やつれたな……」
呆然と生成りの外套を凝視することしかできないアサザの耳が、同じく驚きの色を滲ませたブドウの呟きを拾う。改めてアザミの顔を見て、アサザはさらに衝撃を受けた。
やつれた、などというものではない。殺しても死にそうになかった皇帝は、今や瀕死の形相だった。土気色の肌、幾条も刻まれた深い皺、落ち窪んだ眼窩。まるでここ数日で数十も歳を取ったようだ。いつもと変わらず背筋だけは伸びているが、それすらも気を抜くと崩れてしまうのだろう。時折大きく揺れる肩がかえって痛々しい。水を打ったように静まった議場をゆっくり横切ってくる父帝とスギの歩みが、アサザにはひどく遅く感じられた。
皇帝の席はアサザの左隣にある。横に並んだ瞬間アザミに声を掛けようとしたが、外套から目だけを覗かせたスギに視線で制される。傍らで直立不動の近衛隊長など眼中にない、というより気に留める余裕もない様子でアザミが椅子に腰を下ろした。一礼した近衛隊長が自分の椅子に戻ったのを合図に、戦士たちも席に着く。立っているのはただ一人、皇帝の後ろに控えるスギだけだ。
椅子にかけたまま微動だにしない皇帝アザミ。普段の彼を知る者は畏れてその顔を直視することなどできない。外套で顔を隠し、俯いたままの薬師に自然と会場の目は集まった。潜めた囁き声がそこここで起こる。
「静粛に! 静粛に!!」
甲高い声を上げたのは近衛隊長だった。自分に注目が集まったことを確認するかのように一度議場を見回し、これ見よがしに咳払いをする。
「えー、本日皇帝陛下はお加減がよろしくない。僭越ながら議事進行は私めが執り行わせていただく。宜しいかな」
最後の一言は、あからさまにアサザに向けられていた。皇帝が進行の指示をできないのであれば、代行は本来皇太子の役目のはずだ。それをあえて近衛隊長が買って出たというのであれば、事前にアザミが命じていたからに他ならない。小さく鼻を鳴らして、アサザは背凭れに背を預けた。無言で勝手にしろと睨みをくれる。今はそんな瑣末事より考えねばならないことがたくさんあった。
横目で隣の皇帝を見やる。薄い瞼を伏せ、組んだ指をちらとも動かさない。眉間の皺がいつもより深く見えるのは気のせいだろうか。その横顔が末期のアオイの面影と重なって、アサザは小さく首を振った。
ともかく黒檀の円卓に座る資格を持つ面子が揃った。アサザから見て左回りにに皇帝アザミ、現在空席の将帥の椅子、副将帥ブドウ、空位役職の軍師席、そして近衛隊長。すぐ右隣で立ち上がった隊長はここぞとばかりに張り切った声を響かせる。
「皆も知っての通り、現在国王レンギョウがここ皇都に向けて進軍中である。中立地帯の皇民を甘言を弄して誑かし、日に日にその数を増やしているというが……まあこれは所詮烏合の衆、取るに足らぬ瑣末事だ」
それは違う、と飛び出しかけた言葉を飲み込む。中立地帯の民は恐らく相当に士気が高い。長年続いた食うや食わずの生活は確実に皇帝への敵意をも育てていた。水面下で根を張っていた不満がレンギョウという旗印を得て一挙に芽吹いた、そう考えるのが自然だろう。
しかしその単純な構図を、情報が制限された皇都で読み取れる者はそう多くはない。皇都の戦士にとって皇帝は未だに絶対的な権力の象徴だ。その皇帝に敵意を抱くなどという発想自体に、そもそも至らないのかもしれない。
「問題は国王だ。奴と取り巻きの貴族が使う魔法、これは我々戦士にとって脅威と言わざるを得ない」
会場中の同意の溜息を背景に、隊長はちらりとブドウを見た。
「そうですな、副将帥殿? 魔法の威力については、実際に目にされた貴女が一番良くご存知かと」
瞬間、ブドウの瞳に紅蓮の炎が翻った。卓の上に置かれた拳がきつく握り締められる。
「……その通りです、陛下。魔法を目の当たりにした者として、さしあたって一つお願いがございます」
隊長を無視して、ブドウはアザミに若葉色の目線を向ける。淡々とした口調の裏で、どれほどの激情を堪えているのだろう。褐色の指先は既に血の気を失っていた。
「私と、私の部下を迎撃の最前線に配置していただきたいのです。怖れるべきは魔法そのものの威力ではなく、あれが発動する瞬間に我々が抱く恐怖心です。私やアカネ殿下は国王ではなく、自分自身の心に負けました。皇帝軍の誰にも、二度とあのような思いをしてほしくはありません。我が隊ならば心構えが出来ている分、他の隊より良い働きができるかと」
重く、長い沈黙が訪れた。頭越しに発言された隊長も皇帝の発言を遮る非礼を怖れてかブドウに表立って抗議することはなく、ただ卓越しに恨みがましい目を向けるだけだ。
「副将帥位は」
「勿論お返しいたします。最前線に的を置くわけには参りません」
ようやく返って来た低く掠れた声にすかさずブドウが返答する。大儀そうに痩せた瞼を擡げて、アザミは一度だけブドウの顔を見た。
「……良かろう。どの道将帥を決めねばならぬのだからな。最早副将帥など要らぬ」
「ありがとうございます」
「会議の最中に移動されては目障りだ。その席にはこの場が終わるまで座っていても構わん」
言って、再び伏せられた瞳にブドウが一礼する。重責を下ろして安堵したのだろう、肩から目に見えて力が抜けていた。
「しかし陛下、将帥を置くにしても一体誰を」
当惑を滲ませて近衛隊長が問う。再び会場がざわめき始める。我こそはと名乗り出る者などいない。
戦士の家に生まれたからといって、ここにいる皆が剣に長けているわけではない。戦があった時代ならいざ知らず、初代皇帝即位以来まがりなりにも国王との共存が成立していた最近まで、戦士にとって皇帝軍での役職は地位や身分を測る物差し以上の何物でもなかった。勿論ブドウのような実戦派は幾人かいる。しかし軍の普段の任務が中立地帯の見回りとあっては華々しい活躍はとても期待できない。実際の兵役は腕に覚えのある皇民を雇って肩代わりさせ、自分はほとんど世襲となった役職の仕事だけをこなしていく。それが今の戦士の実際だった。
剣の稽古ですら馴れ合いなのだ。実戦の将帥など務まるわけがない。
前副将帥は老齢を理由に引退している。その息子は典型的な役職戦士だ。かつては武人として名を馳せたブドウの家柄も同様に役人化が進んでいる。むしろブドウが軍で出世した分だけ、自分たちに兵役のお鉢が回ることはないと楽観していた節さえあった。
出世の好機じゃないか、立候補しろよ。冗談はよせ、柄じゃない。じゃああいつはどうだ。剣と馬が得意だったろう。ダメだ、あそこじゃ家格が低すぎる。では誰それは。忘れたのか、あれは皇民出身だ。生粋の戦士ではない。
あちこちで湧き起こるのは押し付け合いと無責任な論評ばかり。肝心の皇帝が黙っているのをいいことに、声は際限なく高まっていく。
誰もいないのか? いるはずだろう、ここには皇都中の戦士が集まっている。誰か一人くらい……
潮が引くように喧騒が収まっていく。誰が最初に目を止めたのかなど分からない。だが気がつくと、会場中の目がすり鉢状の斜面から底の一点に注がれていた。
いるじゃないか。家格も剣の腕も申し分のない、将帥に相応しい人物が。
皇太子アサザ。
「——ならぬ」
ざわめきの収まった議場に、鋭い声が響く。戦士たちのみならず、アサザも思わず左隣に顔を向けた。常と変わらぬ力強さを秘めた、その声。
「それだけは、ならぬ」
全てを薙ぎ払う刃のような声音で、アザミがもう一度言う。やつれた顔に白みを増した眼光だけが研ぎ澄まされた意志を映してぎらついている。
再び議場は静まり返った。では、誰に? 誰もいないではないか。我らは戦士だろう。本当に誰も、いないのか。
「——やはり皇太子が妥当な線じゃろ。いい加減諦めい、皇帝よ」
高い天井に朗々と声が響いた。一斉に振り向いた視線の先には廊下側の扉。人一人がすり抜けられる程に開けられた隙間を背景に、雪のように白い髪の老人と巌のような体躯の男が立っている。その声と、纏ったくすんだ藍色に覚えがあった。”山の民”の村で会った二人、クルミとオダマキだった。
「あんたたち……」
何故ここに、と言いかけて口を噤む。そういえばカタバミが父と下山したと言っていた気がする。爺さと一緒だとも。しかしそれだけでは二人がこの場に現れた理由にはなっていない。突然姿を見せた”山の民”に、場内にも戸惑いの声が満ちる。
「貴様ら」
蒼白な面持ちでアザミが身を起こした。顔見知りかなどと問うまでもない。白髪の老人クルミを睨む敵意を帯びた視線が、両者の仲は最悪だと告げている。
「しかしおぬしも懲りぬ奴じゃ。業を一人で背負おうとするから、肝心なものが零れ落ちてゆく。何度同じことを繰り返すつもりかの?」
「黙れ」
アザミの掠れた声が耳を打つ。普段の強さが感じられないその威嚇をクルミは鼻で笑っていなした。
「折角良い報せを持ってきてやったというにつれないの。そこなおぬしの息子、なかなか見所があると褒めてやろうと思ったに」
「どういう意味だ」
突然槍玉に上がったことに戸惑いながら、アサザは問い返す。少し驚いたようにクルミはアサザに視線を移し、くつくつと笑った。その仕草がどこかカヤと似ていて、思わず不快感がこみ上げる。
「ほれ、しっかりと腰に差しておるではないか。破魔刀”茅”が見初めし戦士の末裔よ」
瞬間、視界に銀色が翻った。咄嗟に何が起こったのか理解して、アサザは息を呑んだ。
「カヤ、お前……!」
『ふふ、ようやく外に出られたわ。刀の中は狭いし、退屈でたまらぬ』
言葉の通り、いかにも解き放たれたといった様子のカヤがアサザの頭上でくるりと一回転する。その姿を目にした戦士たちは一瞬沈黙し、悲鳴にも似た叫びを上げた。
『ああ、やはり良いな、この感覚。このような大勢に注目されるなど久方振りだ』
突如現れたカヤの姿に、議場は完全な恐慌状態に陥っていた。意味を為さない声に混じって国王、という言葉がアサザの耳に飛び込んでくる。ブドウと共に前線に出た者なのだろうか。レンギョウと瓜二つのその顔を睨み上げることしかできない己の無力が何よりも腹立たしい。
「皇太子、貴様」
振り返ると、痛々しいほど顔を歪めたアザミがこちらを見ていた。掛ける言葉も返す言葉も見つからず、父子のわずか二歩の距離を痛いほどの沈黙が隔てる。
「おぬしは知っておったはずじゃな、皇帝よ。”茅”の存在をキキョウから聞いていたはずじゃ」
よく響く声が父子の間に割り込む。オダマキに肩を支えられ、クルミはゆっくりと歩き始めた。その視線の先には、彼らが潜った扉に最も近い軍師の椅子。まるでその老い枯れた姿を待っていたかのように、その席は誰にも占められることなく空のままだ。混乱の続く議場をゆったりと渡り、”山の民”の二人は一歩ずつ黒檀の円卓へ近づいてくる。
「当然、そこな化生の能力も知っておろう。この刀が国王と戦う上で欠かせぬ武器であるということも」
「黙れ」
アザミの声は最早威嚇というより虚勢だった。卓に拳を押し付け、震える腕で上半身をようやく支えているその姿。現実に目の当たりにしているアサザでさえ信じられないような衰弱ぶりだった。
「貴様らの手など借りぬ。王都の小僧も自警団の狼も、皇都の——余の力だけで刈り取ってくれる」
「ほう、立ち上がることすらままならぬ身でよく言うわ。開戦を控えて剣も振れぬ、しかもいつ病魔に憑き殺されるかわからぬ者が皇帝なぞ、笑い話にもならぬ」
「……っの、ジジイっ!!」
どこかで聞いた台詞にアサザの感情が一気に沸騰する。かつてアオイが皇太子を降ろされた際に、他ならぬアザミが吐いた言葉。それが熱を帯びた脳裏で重なった。なんという因果だろうか。あの時振り下ろした言葉の刃が、今ここに来てアザミ自身に振り下ろされる。
視界の隅ににやにや笑いながら見下ろすカヤの姿が映った。まるであらかじめ起こる事態を知っていて、成り行きを楽しんでいるようなその表情に、ふと引っかかりを覚える。今のクルミの発言、そしてアザミのかつての言葉。両者が似ているのは本当に偶然なのか?
「ほほ、おぬしらはやはり親子じゃな。儂を睨みおるその三白眼など、本当に良く似ておる」
老人は既に円卓に辿り着いていた。オダマキが丁寧な手つきで軍師の椅子を引く。実に自然な身のこなしで、クルミは初代戦士以来の空席をあっさりと埋めた。
「アサザ……これは一体、どういうことだ」
呆然と事態を眺めていたブドウが掠れた声で問う。言葉に詰まったアサザの代わりに、クルミが顎を上げてその若葉色の瞳を見返した。
「説明しようにも、周りがこう騒がしくては落ち着いてしゃべることもできんわ。予想外の出来事にこうも驚きおって。戦士の質も落ちたものよの」
クルミが背後のオダマキに目配せをする。小さく頷いて、彼は会場中を見渡した。
「静まれ」
決して張り上げた声ではない。しかし不思議と良く通るその声は、瞬時に混乱した議場の空気を塗り替えた。
恐る恐るながら黒檀の円卓に目を向ける者がいる。虚脱したように席に座る者がいる。気づけば騒ぎの残響だけを残して、議場は静まっていた。
「そう。それでよい」
満足げにクルミが笑う。
よいことなど一つもない、とアサザは思う。左隣からは父帝の浅く早い呼吸が聞こえてくる。右隣の近衛隊長はカヤが姿を現してからずっと硬直したままだ。害意はないらしい”山の民”たちにブドウも対処を迷っているのが分かる。カヤはというと、一通り場を乱して気が済んだのだろう。アサザの隣に舞い降りて、これ見よがしに肩にしなだれかかっている。わざわざ隊長の席との隙間を狙うあたりがカヤらしい。大仰に身を反らした隊長に流し目をくれるその顔を思い切り突き放してやりたいところだが、実体のないその体には触れることもできない。結果、募る苛立ちを押し殺して席に着いているしかなかった。
「ようやく本題に入れそうだの」
会場中の注目を集めてクルミが口を開く。無言で睨みつけるアサザ、それから傍らのカヤへと視線を流し、よく響く声で本題とやらを述べ始める。
「さて、まずは皆を驚かせたそこな化生の紹介からじゃな。あれの本体は皇太子の腰にある刀じゃ。初代戦士アカザと初代皇帝アサギが遣った黒刀、その銘を”茅”という」
紹介を受けたカヤがここぞとばかりに胸を張った。
『そう、我こそが戦士に勝利と皇帝位を齎した存在。破魔刀”茅”と、それに掛けられた術の要』
場が再びどよめきに包まれる。
「術というには魔法と関わりがあるということか。それに、その姿……」
戦士たちの戸惑いを代表するように、ブドウが問う。卓の対岸にいるその姿を、カヤが眇めた眼差しで見やった。
『無論。王が遣う魔法を、我は無効にすることができる。故に二つ名を破魔刀という』
この言葉への議場の反応は意外と淡白だった。魔法は実際に目にした者でないとその威力を想像することが難しい。逆に、見たことのある者はその絶大な力が無効化できる代物だとは到底信じられない。問いを発したブドウ自身、返ってきた答えに半信半疑の表情を浮かべている。
『信じられぬか。まあ良い。そのうち我の有難さを肌で知る日が来よう』
カヤが明らかに気分を害した様子で鼻を鳴らした。不機嫌な顔のまま、おもむろにクルミを振り返る。
『顔見世はもう良かろう? 我は帰らせてもらうぞ』
言うが早いかカヤの体は虚空に溶けるように消えていた。的を失った議場の視線が本体である”茅”——アサザに集中する。何故、いつの間にそんなものを。戦士たちが問う声が聞こえる気がして、思わずアサザは俯いた。知らず左手が”茅”の黒鞘を握り締める。
「俄かに信じられぬのは分かるが、あれは嘘は言わぬ。少々我侭ではあるがの」
苦笑を滲ませた声音でクルミが言う。
「先日国王軍と戦った者なら分かるであろう? 向こうに魔法がなければ戦力は互角。いや、兵力では皇帝軍の方が有利であった。現に途中までは主導権を握っていたではないか」
アサザは先日の戦の詳細を知らない。聞く気にもなれなかったというのが本音だが、ブドウの顔色を見ればクルミの指摘が的を射ているのが分かる。
——何故、知っている?
改めて円卓の末席に就いた老人を見やる。クルミはつい先日まで”山の民”の村の洞窟に籠もりきりだったはずだ。中立地帯の戦の帰趨、皇都で交わされた会話。それらの知りえるはずのない情報を知っている理由。それは最早、一つしか考えられなかった。
見ていたのだ。カヤが戦場を、皇都を。そしてその内容を、事細かにクルミに伝えている。
目眩にも似た怒りを覚えた。その対象がカヤなのかクルミなのか、それとも他の何かなのかは分からない。見ていながら、知っていながら、何もしない。時を待ち、自らに最も都合の良い時期にそれを利用する。その卑劣さが何より許せなかった。
「魔法さえ封じれば、勝機はこちらにある。そして今、破魔刀”茅”は我らの手にあるのだ。刀自ら選んだ遣い手である皇太子をみすみす皇都に留めることなど不可能」
一旦クルミは言葉を切った。白髪を貫く強い眼差しが正面からアザミを見据える。
「皇太子を戦場へ。それが運命じゃ」
「痴れ者がっ……!」
語気を強めたアザミが席を蹴ろうとした瞬間。上体を支えていたその腕が不自然に震えた。隣にいるアサザの耳が辛うじて拾える程度に押し殺された、微かな苦鳴。
「陛下……?」
顧みたアサザの目に、顔を伏せた父帝の姿が映る。卓に置いたままの片拳は固く握られ、もう一方の手は胸元を掴んでいる。切れ切れに洩れる乱れた呼吸が、鼓膜よりも鋭く胸を打った。
咄嗟に立ち上がりかける。皇帝の席まではわずかに二歩。しかしそのわずかな隙間に、生成りの外套が立ち塞がった。
「無理をなさってはいけません」
背中越しに聞こえる薬師を装った間諜の声。その白い背がこうも越え難い壁に見えるのは何故だろう。
「……薬を」
「しかし、今日はもう三度目になります」
「構わん。寄越せ」
小さく溜息を吐いて、スギは懐から小さな紙包みと水筒を取り出した。アザミがそれらを飲み下すのを見届けて、返された水筒を外套に仕舞う。
その時覗いた表情がアサザの目を奪った。わずかに窺える口許、それが場違いな笑みに撓っている。
「落ち着かれたかの」
スギに問いただすより先に、クルミの声が割り込んできた。その眼差しは背筋が震えるほど冷たい。
「さて、話の続きじゃ。皇太子と”茅”を戦場へ向かわせること。皇帝の結論は如何様か」
薬が効き始めたのか、アザミの呼吸は先程よりは苦しげではなくなっていた。それでもクルミを睨み返す目には苦痛が滲み、いつもの傲慢な強さは感じられない。しばし睨み合った後、目を逸らしたのはアザミの方だった。
「……好きにしろ」
投げ遣りに呟いた言葉だけが議場の底に落ちた。震える腕を杖にゆっくりと立ち上がり、席を離れる。
「破魔刀とやらの力で王都の小僧を倒せるというなら、やってみるが良い。それを引き入れたのは皇太子の勝手だ。余は知らぬ」
すかさずスギがアザミの傍らに立つ。まだ足元が覚束ないアザミの肩を巧みに支え、生成りの背中は議場の段差を上っていく。
閉ざされた扉の向こうに皇帝の姿が消えてからも、アサザは呆然とそこを眺めていた。結局、何もできなかった。声を掛けることも、肩を貸すことも、立ち上がることすらも。
——これでは、アカネの時と同じではないか。
「さて、皇太子アサザ殿下に伺いたいのじゃが」
クルミの声で我に返る。卓越しに見やった老人は、勝利を確信した笑みでこちらを見つめている。
「殿下は”茅”を携えて戦場に赴くことをどうお考えかの。よもや怖いなど言い出すことはないと思うが」
「馬鹿言うな、じいさん。それに今更殿下なんて呼ぶな。気色悪い」
わざと普段通りの軽口を叩く。改まった言葉を遣うと、ただでさえ重い現実が更に重苦しくなりそうだ。一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
目の前で起こる出来事を見ているだけというのはもう嫌だった。何もできない無力感を味わうくらいなら、いっそ何かを為して後悔する方が良い。
今、アサザの手には”茅”がある。カヤやクルミの言う能力が本当であれば、ブドウをはじめとする皇帝軍の兵たちの命を守る盾となれるかもしれない。
そしてもう一つ。
戦場には、レンギョウがいる。顔を合わせもせずに腹を探り合うから分からなくなるのだ。
今のレンギョウが本当に戦いを望んでいるのか。もし他に目的があるのならば、それは何なのか。知るためには、動かなければならない。
「いいぜ。なってやるよ、”茅”の遣い手とやらに」
たとえこの決断が誰かに誘導されたものだとしても、それを後悔することになるとは到底思えなかった。
友に会いに行く。別れ際に交わした、再会の約束を果たすために。
満足げな笑みを刷くクルミを、無言で見つめるオダマキを、心配げに見やるブドウを、ことの成り行きを見守っていた議場の戦士を、ぐるりと見渡す。自分にもできることを見つけたせいだろうか、不思議なほど気持ちは凪いでいた。
「もう話し合うべきことはないな。陛下も退場したことだし、俺も帰らせてもらうぜ。解散だ」
言い置いて入ってきた扉へと向かう。重い扉を開けると、廊下に溢れた午後の日差しが瞳を射た。
そう。もうすぐこの国にも、春が来る。
<予告編>
すべてが霞で覆われた世界。
手を伸ばせど決して触れることのできない、
水鏡の向こう側の出来事。
レンギョウは見つめる。
かつて起こった哀しみを。
力あるゆえに無力な者の慟哭を。
——こんなに血塗れた罪人を、
惜しむ者などいるのだろうか。
永劫にも思われる嘆きの中、
転機は突然に訪れる。
『DOUBLE LORDS』転章9、
水面に儚き幸せの姿が映し出される時、
創国の物語が始まる。
らしくないと思った。この鈍重さは、アザミらしくない。
開け放した窓から刺すような横風が吹き込んできて、羽織ったばかりの外套の裾を揺らす。足元に纏わりつくそれを、アサザは忌々しげに払った。
気分が悪い。その思いは鏡に映る己の姿を見てさらに強くなった。黒を基調とした重苦しい色彩。初代戦士以来の伝統だか何だか知らないが、皇族だけに許されたこの色の正装を身に着けるたびにアサザの気分は沈む。
今朝早く、皇帝の名で御前会議が召集された。今頃は皇都中の戦士が身支度を整えて議場へ向かっているはずだ。議題は勿論、一つしかない。
国王軍の再挙兵。その事実だけを伝えた第一報に続いて、詳細に当たる第二報が届いたのは、アサザが薬師に扮した間諜と遭遇した翌朝だった。兵数、進軍速度、挙兵の狙い。早馬が報告する事柄と、スギが語った情報は寸分の違いもなかった。
どのような手段で正確な情報を掴んでいるのかには興味がない。だがスギはあの時機に姿を現しアサザに国王軍の動きを流すことで、自身の情報網の精緻さを証明したことになる。
己の腕を売り込むために、最も効果的な時を窺っていたのか。何故かそれが無性に気に入らなかった。
国王軍の動向。その情報を必要としているのは皇帝のはずだ。最も知らなければならない立場の者を差し置いて、自分ひとりが聞いてしまっているという事実。その後味の悪さが今も続いている。
焦燥を覚えるのには、もうひとつ理由がある。
皇帝アザミが姿を現さないのだ。スギと遭遇したあの朝以来、ずっと。
普段ならアサザより早く机に向かい執務に当たっているはずのアザミが、あの朝に限って遅れていた。珍しい遅刻を訝しんでいるところに飛び込んできた詳報。すかさず控えていた侍従の一人を皇帝の私室へ走らせた。しかししばらくして侍従は一人で戻ってきた。皇帝の様子を尋ねても曖昧に言葉を濁す一方でよく分からない。他の誰に聞いても反応は同じだった。しびれを切らしたアサザが自ら私室に出向こうとすると止められた。それだけは、と懇願する侍従長の姿にさすがに何かあると気づいたが、老いた忠僕をいくら問い詰めても無駄だった。自室に戻った後に思い余ってカヤにも尋ねてみたが、刀の精はにやにや笑うだけで一向に話そうとしない。
だから会議召集の知らせを受けた時、最初に覚えたのは安堵だった。侍従たちは起こった出来事を隠すことはしても、皇帝の名を僭称するような真似はしない。これで少なくとも、アサザの知らないうちにアザミの身に最悪の事態が起きたという可能性はなくなった。
真っ先に安堵を覚えたことにまずは驚いたが、次にこみ上げてきたのは怒りだった。国王軍の動向について、自分は逐一知らせを出していたはずだ。何故今まで手を打たなかったのか。
苛立ちながら身支度を続けるアサザを、いつの間にか姿を現していたカヤが可笑しげに眺めていた。寝台に寝そべり、含み笑いの声を投げかける。
『此度の一席はなかなか楽しめそうだ。我も連れてゆけ』
「断る。お前なんか持って行ったら何をするか分からん」
『斯様なむさ苦しい部屋にはもう飽きた。退屈だ』
「刀が暇だなんて結構なことだろう。おとなしくしてろ」
『ほう。我に盾突くか』
蒼い瞳がすいと細められた。
『ではおぬしの留守中、少々暇つぶしでもしようかの』
「……何をする気だ」
『そうさのう』
欠片の温かみもない瞳がますます細められる。まるで楽しくてたまらないことを想像するかのように。
『おぬしの部屋の前に黙って座っておるというのはどうかのう? こう、顔を伏せて、打ちしおれて』
「それが何だって……」
言いかけた言葉が途中で止まる。思わず見返した視線の先、カヤは一糸纏わぬ姿で挑むような目をアサザに向けている。
すっかり忘れていたが、この化生は外見だけは年端もいかぬ少女なのだ。それがあられもない姿で部屋の前に座っている。巻き起こる騒動は容易に想像がついた。そんな状況ではそもそもこれはそういった対象ではないなどというアサザの弁明に耳を傾ける者はいないだろう。
「……くそっ」
舌打ちして床に転がった”茅”に手を伸ばすアサザに、カヤは満足げな笑みを刷いた。
『そうそう、最初から素直に従っておればよいものを』
「黙れよ、おばば」
罵りには軽く眉を上げただけで、カヤはあっさりと姿を消した。溜息を吐き、改めて黒鞘の長刀を腰に差す。漆黒の拵えが同色の皇太子の衣装に誂えたように納まった。ますます重苦しくなった気分に悪態をつく気力すら失くして、アサザは部屋を後にした。
指定された議場は公宮の一角にある。下位戦士も集う大掛かりな会議のため、専用の大会議場が開放されることになっていた。公宮の中でもアサザが暮らす宮に近い、奥まった場所にある。
会議の開始は正午と通達されている。まだ天頂に届いていない太陽からこぼれる光は、時折吹き抜ける風にさえ散らされなければ心地よい温もりをしっかりと肌に伝えてくる。春が近づいている証だ。
奥の宮と公宮を隔てる門を潜り、廊下を二つほど渡れば議場の扉が見える。開け放されたその前には佩剣した戦士たちがたむろしていた。何しろ急なことだったので控え室の用意や会場設営が間に合っていないのだろう。ばたばたと出入りの激しい従官たちとは対照的に、戦士たちは顔見知り同士で固まって所在無さげに立ちつくしている。
近づいていくと、アサザに気づいた幾人かがすかさず敬礼を寄越した。返礼を返しながら、素早く横目で知り合いを探す。この場に居る全員からいちいち礼をされたのではたまらない。誰かと立ち話でもして無視する口実を作りたかったし、何より少しでも重苦しい気分を払いたかった。
やがて人波から少し離れたところに立つ影に気がついた。すらりと伸びた褐色の手足、俯いた目元にかかる赤茶の短髪。ここのところ姿を見ていなかった、ブドウだった。
「……よう、久しぶり」
どう声を掛ければ良いのか迷った末に、出てきたのはそんな間抜けな台詞だった。ブドウがゆるゆると顔を上げる。
「アサザか。久しぶり」
小さく笑んだその顔には、以前のような底抜けの明るさはなかった。頬がこけ、瞳の若葉色もすっかりくすんでいる。
最後に顔を合わせたのはいつだったか。思い返して、息を詰める。アオイが逝った日。いたたまれなくなって、アサザは目を逸らした。
「随分痩せたな。大丈夫か」
「ああ。そっちこそ、大丈夫かい」
何が大丈夫なのは分からない。それでもとにかくアサザは頷いた。何となく、そうしなければならないような気がした。
二人並んで廊下の隅に移動する。壁に背中を預け、見るともなしに議場を整える従官たちの様子を見つめる。椅子を並べ直したり、卓の装飾を整えたり。単純な作業に一心に打ち込める彼らが、ふいに羨ましいと思った。国王軍のこと、アザミのこと、レンギョウのこと。出口のない様々な事柄を考えることに、疲れ果てていたのかもしれない。
「副将帥位のことだけど」
ふいにブドウが口を開いた。怪訝な眼差しを向けるアサザには構わず、言葉は淡々と続けられる。
「返上させてもらおうと思っている。戦士が皆集まるこの会議は、陛下にお願いするいい機会だ」
「……そうか」
喉元にせり上がった感情を飲み込んで、アサザは小さく頷いた。引き止めたい気持ちは無論ある。けれどブドウの瞳に浮かぶ自分と同じ種類の疲労が、咄嗟に浮かんだ驚きや反対の言葉を封じてしまった。
重い沈黙が続く。間もなく響いた議場の準備が整ったという声に救われたのは気のせいではない。
戦士たちの波に混じって、アサザとブドウは議場に入った。この部屋は通称を大円卓の間という。皇帝と重臣が座る円卓を中心に、階段状に三重の卓が周囲を巡っている。それぞれの身分に応じた席に着き始めた戦士たちを横目に、二人は段を下りて最央の卓へと歩み寄る。
磨き上げられた黒檀の卓はそう大きなものではない。代々伝わるしきたりによると、この卓を囲めるのは皇帝と皇太子、将帥、副将帥、近衛隊長、そして軍師のみとされている。将帥職は平時は置かれないし、軍師は既に名目上の空位役職となって久しい。実質この卓を囲むのは皇族と軍を束ねる指揮官二名だけと言ってよい。
最上座の皇帝の席は空いていた。近衛隊長もまだ到着していないらしい。無言のまま、アサザとブドウはそれぞれの席に着いた。
廊下にたむろしていた戦士たちの入場がひと段落ついたのだろう、議場の扉が閉められた。その重々しい音に、一瞬場内のざわめきが止まる。
それを見計らっていたように、廊下側の真正面に位置する扉が開かれた。一回り小さなそちらは、慣例的に皇帝入場の際に使われる扉だ。申し合わせたように議場の視線が集中する。
最初に姿を見せたのは近衛隊長だった。皆の注目を確かめるように装飾の多い金色の胸当てを反らし、議場を睥睨してからゆっくりと入場する。
「出たな、ヒゲ隊長」
アサザが小さく毒づく。聞こえたのだろう、斜め向かいに座っているブドウが肩を竦めた。
この近衛隊長をアサザはどうしても好きになれなかった。華美な装束、芝居がかった身ごなし、皇帝にへつらう態度。どれを取っても戦士として立派だとは到底思えない。これなら幼い頃に近衛隊長を務めていた男の方がまだ良かったと思う。真面目とは言いがたかったが、少なくとも腕は立つ男だったと記憶している。
最早名前も覚えていない先代のことを思い出しながら、アサザは見るともなしに後釜の隊長を見上げる。肩肘張って歩いてきた隊長は、黒檀の円卓まで来ても自分の席には向かわず、皇帝の椅子の傍で足を止めた。
訝しげな会場中の目が己に集まるのを待っていたかのように、隊長は自慢の口髭をくるりと撫でた。
「これより皇帝陛下がご入場なされる。皆の者、静粛に」
そう言って入ってきた扉に向き直った隊長は、滑稽なほど優雅なお辞儀をした。全員の起立を待って、再び扉が開かれる。苦虫を噛み潰したような気持ちで、アサザも立ち上がって扉へと目を向けた。
四角に切り取られた闇の中から、同じ色を纏った長身が現れた。冷たい一瞥を議場に集った戦士たちに投げ、黒檀の円卓に続く段へと足をかける。
いつに変わらぬ不遜な態度。ともかく、姿は見せた。
密かに安堵したアサザが再び息を詰めたのは次の瞬間だった。何と言うことはない小さな段差。それに足を取られ、アザミの体がふらつく。思わず上げかけた声は、中途半端に喉に引っかかって意味を為さなかった。
漆黒の皇帝の隣に、いつの間にか生成りの外套が寄り添っていた。実にさりげなく皇帝の体を支え、段差を下りる手助けをしている薬師の姿をした何者か。
何故、スギがここに。
「陛下、やつれたな……」
呆然と生成りの外套を凝視することしかできないアサザの耳が、同じく驚きの色を滲ませたブドウの呟きを拾う。改めてアザミの顔を見て、アサザはさらに衝撃を受けた。
やつれた、などというものではない。殺しても死にそうになかった皇帝は、今や瀕死の形相だった。土気色の肌、幾条も刻まれた深い皺、落ち窪んだ眼窩。まるでここ数日で数十も歳を取ったようだ。いつもと変わらず背筋だけは伸びているが、それすらも気を抜くと崩れてしまうのだろう。時折大きく揺れる肩がかえって痛々しい。水を打ったように静まった議場をゆっくり横切ってくる父帝とスギの歩みが、アサザにはひどく遅く感じられた。
皇帝の席はアサザの左隣にある。横に並んだ瞬間アザミに声を掛けようとしたが、外套から目だけを覗かせたスギに視線で制される。傍らで直立不動の近衛隊長など眼中にない、というより気に留める余裕もない様子でアザミが椅子に腰を下ろした。一礼した近衛隊長が自分の椅子に戻ったのを合図に、戦士たちも席に着く。立っているのはただ一人、皇帝の後ろに控えるスギだけだ。
椅子にかけたまま微動だにしない皇帝アザミ。普段の彼を知る者は畏れてその顔を直視することなどできない。外套で顔を隠し、俯いたままの薬師に自然と会場の目は集まった。潜めた囁き声がそこここで起こる。
「静粛に! 静粛に!!」
甲高い声を上げたのは近衛隊長だった。自分に注目が集まったことを確認するかのように一度議場を見回し、これ見よがしに咳払いをする。
「えー、本日皇帝陛下はお加減がよろしくない。僭越ながら議事進行は私めが執り行わせていただく。宜しいかな」
最後の一言は、あからさまにアサザに向けられていた。皇帝が進行の指示をできないのであれば、代行は本来皇太子の役目のはずだ。それをあえて近衛隊長が買って出たというのであれば、事前にアザミが命じていたからに他ならない。小さく鼻を鳴らして、アサザは背凭れに背を預けた。無言で勝手にしろと睨みをくれる。今はそんな瑣末事より考えねばならないことがたくさんあった。
横目で隣の皇帝を見やる。薄い瞼を伏せ、組んだ指をちらとも動かさない。眉間の皺がいつもより深く見えるのは気のせいだろうか。その横顔が末期のアオイの面影と重なって、アサザは小さく首を振った。
ともかく黒檀の円卓に座る資格を持つ面子が揃った。アサザから見て左回りにに皇帝アザミ、現在空席の将帥の椅子、副将帥ブドウ、空位役職の軍師席、そして近衛隊長。すぐ右隣で立ち上がった隊長はここぞとばかりに張り切った声を響かせる。
「皆も知っての通り、現在国王レンギョウがここ皇都に向けて進軍中である。中立地帯の皇民を甘言を弄して誑かし、日に日にその数を増やしているというが……まあこれは所詮烏合の衆、取るに足らぬ瑣末事だ」
それは違う、と飛び出しかけた言葉を飲み込む。中立地帯の民は恐らく相当に士気が高い。長年続いた食うや食わずの生活は確実に皇帝への敵意をも育てていた。水面下で根を張っていた不満がレンギョウという旗印を得て一挙に芽吹いた、そう考えるのが自然だろう。
しかしその単純な構図を、情報が制限された皇都で読み取れる者はそう多くはない。皇都の戦士にとって皇帝は未だに絶対的な権力の象徴だ。その皇帝に敵意を抱くなどという発想自体に、そもそも至らないのかもしれない。
「問題は国王だ。奴と取り巻きの貴族が使う魔法、これは我々戦士にとって脅威と言わざるを得ない」
会場中の同意の溜息を背景に、隊長はちらりとブドウを見た。
「そうですな、副将帥殿? 魔法の威力については、実際に目にされた貴女が一番良くご存知かと」
瞬間、ブドウの瞳に紅蓮の炎が翻った。卓の上に置かれた拳がきつく握り締められる。
「……その通りです、陛下。魔法を目の当たりにした者として、さしあたって一つお願いがございます」
隊長を無視して、ブドウはアザミに若葉色の目線を向ける。淡々とした口調の裏で、どれほどの激情を堪えているのだろう。褐色の指先は既に血の気を失っていた。
「私と、私の部下を迎撃の最前線に配置していただきたいのです。怖れるべきは魔法そのものの威力ではなく、あれが発動する瞬間に我々が抱く恐怖心です。私やアカネ殿下は国王ではなく、自分自身の心に負けました。皇帝軍の誰にも、二度とあのような思いをしてほしくはありません。我が隊ならば心構えが出来ている分、他の隊より良い働きができるかと」
重く、長い沈黙が訪れた。頭越しに発言された隊長も皇帝の発言を遮る非礼を怖れてかブドウに表立って抗議することはなく、ただ卓越しに恨みがましい目を向けるだけだ。
「副将帥位は」
「勿論お返しいたします。最前線に的を置くわけには参りません」
ようやく返って来た低く掠れた声にすかさずブドウが返答する。大儀そうに痩せた瞼を擡げて、アザミは一度だけブドウの顔を見た。
「……良かろう。どの道将帥を決めねばならぬのだからな。最早副将帥など要らぬ」
「ありがとうございます」
「会議の最中に移動されては目障りだ。その席にはこの場が終わるまで座っていても構わん」
言って、再び伏せられた瞳にブドウが一礼する。重責を下ろして安堵したのだろう、肩から目に見えて力が抜けていた。
「しかし陛下、将帥を置くにしても一体誰を」
当惑を滲ませて近衛隊長が問う。再び会場がざわめき始める。我こそはと名乗り出る者などいない。
戦士の家に生まれたからといって、ここにいる皆が剣に長けているわけではない。戦があった時代ならいざ知らず、初代皇帝即位以来まがりなりにも国王との共存が成立していた最近まで、戦士にとって皇帝軍での役職は地位や身分を測る物差し以上の何物でもなかった。勿論ブドウのような実戦派は幾人かいる。しかし軍の普段の任務が中立地帯の見回りとあっては華々しい活躍はとても期待できない。実際の兵役は腕に覚えのある皇民を雇って肩代わりさせ、自分はほとんど世襲となった役職の仕事だけをこなしていく。それが今の戦士の実際だった。
剣の稽古ですら馴れ合いなのだ。実戦の将帥など務まるわけがない。
前副将帥は老齢を理由に引退している。その息子は典型的な役職戦士だ。かつては武人として名を馳せたブドウの家柄も同様に役人化が進んでいる。むしろブドウが軍で出世した分だけ、自分たちに兵役のお鉢が回ることはないと楽観していた節さえあった。
出世の好機じゃないか、立候補しろよ。冗談はよせ、柄じゃない。じゃああいつはどうだ。剣と馬が得意だったろう。ダメだ、あそこじゃ家格が低すぎる。では誰それは。忘れたのか、あれは皇民出身だ。生粋の戦士ではない。
あちこちで湧き起こるのは押し付け合いと無責任な論評ばかり。肝心の皇帝が黙っているのをいいことに、声は際限なく高まっていく。
誰もいないのか? いるはずだろう、ここには皇都中の戦士が集まっている。誰か一人くらい……
潮が引くように喧騒が収まっていく。誰が最初に目を止めたのかなど分からない。だが気がつくと、会場中の目がすり鉢状の斜面から底の一点に注がれていた。
いるじゃないか。家格も剣の腕も申し分のない、将帥に相応しい人物が。
皇太子アサザ。
「——ならぬ」
ざわめきの収まった議場に、鋭い声が響く。戦士たちのみならず、アサザも思わず左隣に顔を向けた。常と変わらぬ力強さを秘めた、その声。
「それだけは、ならぬ」
全てを薙ぎ払う刃のような声音で、アザミがもう一度言う。やつれた顔に白みを増した眼光だけが研ぎ澄まされた意志を映してぎらついている。
再び議場は静まり返った。では、誰に? 誰もいないではないか。我らは戦士だろう。本当に誰も、いないのか。
「——やはり皇太子が妥当な線じゃろ。いい加減諦めい、皇帝よ」
高い天井に朗々と声が響いた。一斉に振り向いた視線の先には廊下側の扉。人一人がすり抜けられる程に開けられた隙間を背景に、雪のように白い髪の老人と巌のような体躯の男が立っている。その声と、纏ったくすんだ藍色に覚えがあった。”山の民”の村で会った二人、クルミとオダマキだった。
「あんたたち……」
何故ここに、と言いかけて口を噤む。そういえばカタバミが父と下山したと言っていた気がする。爺さと一緒だとも。しかしそれだけでは二人がこの場に現れた理由にはなっていない。突然姿を見せた”山の民”に、場内にも戸惑いの声が満ちる。
「貴様ら」
蒼白な面持ちでアザミが身を起こした。顔見知りかなどと問うまでもない。白髪の老人クルミを睨む敵意を帯びた視線が、両者の仲は最悪だと告げている。
「しかしおぬしも懲りぬ奴じゃ。業を一人で背負おうとするから、肝心なものが零れ落ちてゆく。何度同じことを繰り返すつもりかの?」
「黙れ」
アザミの掠れた声が耳を打つ。普段の強さが感じられないその威嚇をクルミは鼻で笑っていなした。
「折角良い報せを持ってきてやったというにつれないの。そこなおぬしの息子、なかなか見所があると褒めてやろうと思ったに」
「どういう意味だ」
突然槍玉に上がったことに戸惑いながら、アサザは問い返す。少し驚いたようにクルミはアサザに視線を移し、くつくつと笑った。その仕草がどこかカヤと似ていて、思わず不快感がこみ上げる。
「ほれ、しっかりと腰に差しておるではないか。破魔刀”茅”が見初めし戦士の末裔よ」
瞬間、視界に銀色が翻った。咄嗟に何が起こったのか理解して、アサザは息を呑んだ。
「カヤ、お前……!」
『ふふ、ようやく外に出られたわ。刀の中は狭いし、退屈でたまらぬ』
言葉の通り、いかにも解き放たれたといった様子のカヤがアサザの頭上でくるりと一回転する。その姿を目にした戦士たちは一瞬沈黙し、悲鳴にも似た叫びを上げた。
『ああ、やはり良いな、この感覚。このような大勢に注目されるなど久方振りだ』
突如現れたカヤの姿に、議場は完全な恐慌状態に陥っていた。意味を為さない声に混じって国王、という言葉がアサザの耳に飛び込んでくる。ブドウと共に前線に出た者なのだろうか。レンギョウと瓜二つのその顔を睨み上げることしかできない己の無力が何よりも腹立たしい。
「皇太子、貴様」
振り返ると、痛々しいほど顔を歪めたアザミがこちらを見ていた。掛ける言葉も返す言葉も見つからず、父子のわずか二歩の距離を痛いほどの沈黙が隔てる。
「おぬしは知っておったはずじゃな、皇帝よ。”茅”の存在をキキョウから聞いていたはずじゃ」
よく響く声が父子の間に割り込む。オダマキに肩を支えられ、クルミはゆっくりと歩き始めた。その視線の先には、彼らが潜った扉に最も近い軍師の椅子。まるでその老い枯れた姿を待っていたかのように、その席は誰にも占められることなく空のままだ。混乱の続く議場をゆったりと渡り、”山の民”の二人は一歩ずつ黒檀の円卓へ近づいてくる。
「当然、そこな化生の能力も知っておろう。この刀が国王と戦う上で欠かせぬ武器であるということも」
「黙れ」
アザミの声は最早威嚇というより虚勢だった。卓に拳を押し付け、震える腕で上半身をようやく支えているその姿。現実に目の当たりにしているアサザでさえ信じられないような衰弱ぶりだった。
「貴様らの手など借りぬ。王都の小僧も自警団の狼も、皇都の——余の力だけで刈り取ってくれる」
「ほう、立ち上がることすらままならぬ身でよく言うわ。開戦を控えて剣も振れぬ、しかもいつ病魔に憑き殺されるかわからぬ者が皇帝なぞ、笑い話にもならぬ」
「……っの、ジジイっ!!」
どこかで聞いた台詞にアサザの感情が一気に沸騰する。かつてアオイが皇太子を降ろされた際に、他ならぬアザミが吐いた言葉。それが熱を帯びた脳裏で重なった。なんという因果だろうか。あの時振り下ろした言葉の刃が、今ここに来てアザミ自身に振り下ろされる。
視界の隅ににやにや笑いながら見下ろすカヤの姿が映った。まるであらかじめ起こる事態を知っていて、成り行きを楽しんでいるようなその表情に、ふと引っかかりを覚える。今のクルミの発言、そしてアザミのかつての言葉。両者が似ているのは本当に偶然なのか?
「ほほ、おぬしらはやはり親子じゃな。儂を睨みおるその三白眼など、本当に良く似ておる」
老人は既に円卓に辿り着いていた。オダマキが丁寧な手つきで軍師の椅子を引く。実に自然な身のこなしで、クルミは初代戦士以来の空席をあっさりと埋めた。
「アサザ……これは一体、どういうことだ」
呆然と事態を眺めていたブドウが掠れた声で問う。言葉に詰まったアサザの代わりに、クルミが顎を上げてその若葉色の瞳を見返した。
「説明しようにも、周りがこう騒がしくては落ち着いてしゃべることもできんわ。予想外の出来事にこうも驚きおって。戦士の質も落ちたものよの」
クルミが背後のオダマキに目配せをする。小さく頷いて、彼は会場中を見渡した。
「静まれ」
決して張り上げた声ではない。しかし不思議と良く通るその声は、瞬時に混乱した議場の空気を塗り替えた。
恐る恐るながら黒檀の円卓に目を向ける者がいる。虚脱したように席に座る者がいる。気づけば騒ぎの残響だけを残して、議場は静まっていた。
「そう。それでよい」
満足げにクルミが笑う。
よいことなど一つもない、とアサザは思う。左隣からは父帝の浅く早い呼吸が聞こえてくる。右隣の近衛隊長はカヤが姿を現してからずっと硬直したままだ。害意はないらしい”山の民”たちにブドウも対処を迷っているのが分かる。カヤはというと、一通り場を乱して気が済んだのだろう。アサザの隣に舞い降りて、これ見よがしに肩にしなだれかかっている。わざわざ隊長の席との隙間を狙うあたりがカヤらしい。大仰に身を反らした隊長に流し目をくれるその顔を思い切り突き放してやりたいところだが、実体のないその体には触れることもできない。結果、募る苛立ちを押し殺して席に着いているしかなかった。
「ようやく本題に入れそうだの」
会場中の注目を集めてクルミが口を開く。無言で睨みつけるアサザ、それから傍らのカヤへと視線を流し、よく響く声で本題とやらを述べ始める。
「さて、まずは皆を驚かせたそこな化生の紹介からじゃな。あれの本体は皇太子の腰にある刀じゃ。初代戦士アカザと初代皇帝アサギが遣った黒刀、その銘を”茅”という」
紹介を受けたカヤがここぞとばかりに胸を張った。
『そう、我こそが戦士に勝利と皇帝位を齎した存在。破魔刀”茅”と、それに掛けられた術の要』
場が再びどよめきに包まれる。
「術というには魔法と関わりがあるということか。それに、その姿……」
戦士たちの戸惑いを代表するように、ブドウが問う。卓の対岸にいるその姿を、カヤが眇めた眼差しで見やった。
『無論。王が遣う魔法を、我は無効にすることができる。故に二つ名を破魔刀という』
この言葉への議場の反応は意外と淡白だった。魔法は実際に目にした者でないとその威力を想像することが難しい。逆に、見たことのある者はその絶大な力が無効化できる代物だとは到底信じられない。問いを発したブドウ自身、返ってきた答えに半信半疑の表情を浮かべている。
『信じられぬか。まあ良い。そのうち我の有難さを肌で知る日が来よう』
カヤが明らかに気分を害した様子で鼻を鳴らした。不機嫌な顔のまま、おもむろにクルミを振り返る。
『顔見世はもう良かろう? 我は帰らせてもらうぞ』
言うが早いかカヤの体は虚空に溶けるように消えていた。的を失った議場の視線が本体である”茅”——アサザに集中する。何故、いつの間にそんなものを。戦士たちが問う声が聞こえる気がして、思わずアサザは俯いた。知らず左手が”茅”の黒鞘を握り締める。
「俄かに信じられぬのは分かるが、あれは嘘は言わぬ。少々我侭ではあるがの」
苦笑を滲ませた声音でクルミが言う。
「先日国王軍と戦った者なら分かるであろう? 向こうに魔法がなければ戦力は互角。いや、兵力では皇帝軍の方が有利であった。現に途中までは主導権を握っていたではないか」
アサザは先日の戦の詳細を知らない。聞く気にもなれなかったというのが本音だが、ブドウの顔色を見ればクルミの指摘が的を射ているのが分かる。
——何故、知っている?
改めて円卓の末席に就いた老人を見やる。クルミはつい先日まで”山の民”の村の洞窟に籠もりきりだったはずだ。中立地帯の戦の帰趨、皇都で交わされた会話。それらの知りえるはずのない情報を知っている理由。それは最早、一つしか考えられなかった。
見ていたのだ。カヤが戦場を、皇都を。そしてその内容を、事細かにクルミに伝えている。
目眩にも似た怒りを覚えた。その対象がカヤなのかクルミなのか、それとも他の何かなのかは分からない。見ていながら、知っていながら、何もしない。時を待ち、自らに最も都合の良い時期にそれを利用する。その卑劣さが何より許せなかった。
「魔法さえ封じれば、勝機はこちらにある。そして今、破魔刀”茅”は我らの手にあるのだ。刀自ら選んだ遣い手である皇太子をみすみす皇都に留めることなど不可能」
一旦クルミは言葉を切った。白髪を貫く強い眼差しが正面からアザミを見据える。
「皇太子を戦場へ。それが運命じゃ」
「痴れ者がっ……!」
語気を強めたアザミが席を蹴ろうとした瞬間。上体を支えていたその腕が不自然に震えた。隣にいるアサザの耳が辛うじて拾える程度に押し殺された、微かな苦鳴。
「陛下……?」
顧みたアサザの目に、顔を伏せた父帝の姿が映る。卓に置いたままの片拳は固く握られ、もう一方の手は胸元を掴んでいる。切れ切れに洩れる乱れた呼吸が、鼓膜よりも鋭く胸を打った。
咄嗟に立ち上がりかける。皇帝の席まではわずかに二歩。しかしそのわずかな隙間に、生成りの外套が立ち塞がった。
「無理をなさってはいけません」
背中越しに聞こえる薬師を装った間諜の声。その白い背がこうも越え難い壁に見えるのは何故だろう。
「……薬を」
「しかし、今日はもう三度目になります」
「構わん。寄越せ」
小さく溜息を吐いて、スギは懐から小さな紙包みと水筒を取り出した。アザミがそれらを飲み下すのを見届けて、返された水筒を外套に仕舞う。
その時覗いた表情がアサザの目を奪った。わずかに窺える口許、それが場違いな笑みに撓っている。
「落ち着かれたかの」
スギに問いただすより先に、クルミの声が割り込んできた。その眼差しは背筋が震えるほど冷たい。
「さて、話の続きじゃ。皇太子と”茅”を戦場へ向かわせること。皇帝の結論は如何様か」
薬が効き始めたのか、アザミの呼吸は先程よりは苦しげではなくなっていた。それでもクルミを睨み返す目には苦痛が滲み、いつもの傲慢な強さは感じられない。しばし睨み合った後、目を逸らしたのはアザミの方だった。
「……好きにしろ」
投げ遣りに呟いた言葉だけが議場の底に落ちた。震える腕を杖にゆっくりと立ち上がり、席を離れる。
「破魔刀とやらの力で王都の小僧を倒せるというなら、やってみるが良い。それを引き入れたのは皇太子の勝手だ。余は知らぬ」
すかさずスギがアザミの傍らに立つ。まだ足元が覚束ないアザミの肩を巧みに支え、生成りの背中は議場の段差を上っていく。
閉ざされた扉の向こうに皇帝の姿が消えてからも、アサザは呆然とそこを眺めていた。結局、何もできなかった。声を掛けることも、肩を貸すことも、立ち上がることすらも。
——これでは、アカネの時と同じではないか。
「さて、皇太子アサザ殿下に伺いたいのじゃが」
クルミの声で我に返る。卓越しに見やった老人は、勝利を確信した笑みでこちらを見つめている。
「殿下は”茅”を携えて戦場に赴くことをどうお考えかの。よもや怖いなど言い出すことはないと思うが」
「馬鹿言うな、じいさん。それに今更殿下なんて呼ぶな。気色悪い」
わざと普段通りの軽口を叩く。改まった言葉を遣うと、ただでさえ重い現実が更に重苦しくなりそうだ。一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
目の前で起こる出来事を見ているだけというのはもう嫌だった。何もできない無力感を味わうくらいなら、いっそ何かを為して後悔する方が良い。
今、アサザの手には”茅”がある。カヤやクルミの言う能力が本当であれば、ブドウをはじめとする皇帝軍の兵たちの命を守る盾となれるかもしれない。
そしてもう一つ。
戦場には、レンギョウがいる。顔を合わせもせずに腹を探り合うから分からなくなるのだ。
今のレンギョウが本当に戦いを望んでいるのか。もし他に目的があるのならば、それは何なのか。知るためには、動かなければならない。
「いいぜ。なってやるよ、”茅”の遣い手とやらに」
たとえこの決断が誰かに誘導されたものだとしても、それを後悔することになるとは到底思えなかった。
友に会いに行く。別れ際に交わした、再会の約束を果たすために。
満足げな笑みを刷くクルミを、無言で見つめるオダマキを、心配げに見やるブドウを、ことの成り行きを見守っていた議場の戦士を、ぐるりと見渡す。自分にもできることを見つけたせいだろうか、不思議なほど気持ちは凪いでいた。
「もう話し合うべきことはないな。陛下も退場したことだし、俺も帰らせてもらうぜ。解散だ」
言い置いて入ってきた扉へと向かう。重い扉を開けると、廊下に溢れた午後の日差しが瞳を射た。
そう。もうすぐこの国にも、春が来る。
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<予告編>
すべてが霞で覆われた世界。
手を伸ばせど決して触れることのできない、
水鏡の向こう側の出来事。
レンギョウは見つめる。
かつて起こった哀しみを。
力あるゆえに無力な者の慟哭を。
——こんなに血塗れた罪人を、
惜しむ者などいるのだろうか。
永劫にも思われる嘆きの中、
転機は突然に訪れる。
『DOUBLE LORDS』転章9、
水面に儚き幸せの姿が映し出される時、
創国の物語が始まる。
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