書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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また一つ、鐘が鳴った。乾いた音色が高く澄んだ空へと昇っていく。先日の戦で犠牲になった命の数だけ、打ち鳴らされる弔いの鐘。その響きが運ぶのは死者の魂か、或いは彼らの眠りが安らかであるよう祈る人々の心か。
喪色の白装のまま、レンギョウは独り立ち尽くしていた。先程まで葬礼を行っていた表にも、こうして篭った奥の間にも、王都中に響く鐘の音は追いかけてくる。
まるで、逃れえぬ罪のように。
深く長く、息を吐く。とにかくもう、疲れ果てていた。
ここは『王の間』と呼ばれる部屋だ。初代国王レンから先代女王レンゲまで歴代国王の肖像が掲げられた、国王が思索に耽るための空間。独りになるには丁度良い場所。己は独りなのだという事実を、突きつけられずに済む場所。
あの戦以来、時間の感覚が覚束なくなっている。何度か夜が来て、太陽が昇ったことは認識していた。けれどその数が幾度だったかを覚えていない。王都に戻り葬礼の手配を整え、細々した采配を調える。その他にも処理せねばならない雑事は山積みだった。王宮を空けている間に溜まった執務にも忙殺され、横になることすらできない夜が続く。
これまで誰がそれらの雑務をこなしていたのか。誰が休むよう声を掛けてくれたのか。
レンギョウはきつく目を瞑った。
もうコウリには頼れない。当たり前のように隣にいた側役は、他ならぬレンギョウの命で王宮深くの一室に閉じ込められていた。
レンギョウにとっては有能な臣下であり、唯一の血縁であり、太子時代からの相談役であり——そして咎人。コウリは単純に切り捨てるにはあまりにも多くの顔を持ちすぎていた。
それまでの功績がどんなに大きかろうと、為された罪は問われなければならない。
そう思ってはいても、簡単に割り切れる種類の気持ちではなかった。あの戦場で即断することができぬまま王宮に連れ戻り、今もなお忙しさを理由に決断を先延ばしにしている。
「偉大なるご先祖様……貴方ならどうなさるのでしょうか」
縋るように見上げた画面には一人の老人が収まっていた。銀というより白に近い色で描かれた髪、いかめしく顰めた皺だらけの容貌。矮躯をさらに縮めたような姿勢の中、細めた鋭い青い瞳だけがわずかにレンギョウと共通の血筋を窺わせる。この老翁こそが今もなお『魔王』の二つ名で恐れられるこの国の祖、初代国王レンだった。
当然のことながら、いくら待っても肖像からの返事はない。得られぬ答えを探すかのようにレンギョウの視線が彷徨う。
佳人の誉れ高い二代女王スイレンは若々しい姫の装束で茫洋と彼方を見つめ、その孫である四代国王モクレンはどこか頼りなげな青白い頬を背景の闇に浮かばせ。歴代の国王たちは皆見事なまでの銀髪の持ち主だ。『魔王』自らが正統と宣言し、王家にしか顕れないとされている高貴な色。
滑らせた視線がある一点で止まる。幸せそうに微笑む、レンギョウに良く似た面影を宿した若き女王。
「……母上」
若くして病を得て隔離された母の記憶を、レンギョウはほとんど持っていない。かつてコウリが言葉少なに語ってくれた記憶の断片が、母について知りえた情報のほぼ全てだった。
それでも一つだけ、確実に分かっていることがあった。母はコウリを知っている。伴侶の実弟、つまり義弟に当たるコウリの才を最初に見出したのは即位したばかりのレンゲだと、かつて聞いたことがあった。
「母上、余はコウリを……どうしたら良いのでしょう」
声が震える。それでも涙は流れなかった。永遠の微笑を湛えた見知らぬ母の絵姿に、乾いたままの頬を押し当てる。
長く臥せっていた母の名代を務めていた頃から、隣にはコウリがいた。レンギョウが迷う時には目的地を示し、躓きそうな時には差し伸べられる、自分より遥かに大きな手の持ち主。
独りではなかった。だから、孤独がこんなに重いなど知りもしなかった。
当たり前のように続くと思っていた日々。それが壊れたのは、こんなにも互いの心が離れてしまったのは、一体いつからだっただろう。
探った記憶の中、短髪を風に躍らせて笑う友の顔が浮かぶ。すべての始まりの、あの月夜の邂逅。
——出会わなければ良かった、というのか。
レンギョウの胸に鋭い痛みが走る。あの時、アサザは確かに再会を約束した。しかし今この状況であろうとも、皇都の友は同じ誓いを交わしてくれるだろうか。
——アカネを死なせたのは、余だ。
自責がレンギョウの身を貫く。あの時、自分が席を外さなければ。あの時、もっとコウリの様子に目を向けていれば。
何が”聖王”だ。かけがえのない臣下の心情にも気づかず、友の弟一人の安全も守れず。
名が、重い。
アカネだけではない。この名の下に、幾千もの兵の血が流された。皇帝軍も合わせると、その数は万を軽く越える。鐘の音はそのまま、レンギョウの背にのしかかる命の数だった。
画材の匂いが感覚をかき乱す。陰影の褐色に紅殻でも使われているのだろうか、強い錆の匂いが鼻をついた。戦場と同じ、その香り。
ふいに扉が開くわずかな音が鼓膜を震わせた。ぎくしゃくと振り返ると、音を立てずに部屋に滑り込む長い黒髪の端が見えた。
「……シオン」
自分でも驚くほど平坦な声だった。無理矢理に貼り付けた笑顔で、シオンは片手を上げて見せた。
「や。元気……なはずないよね、こんな状況じゃ」
答えずにレンギョウは視線を逸らす。困ったように頬を掻き、シオンは後ろ手に扉を閉めた。金具が鳴る音が余計に沈黙を深める。
「それ、レンのお母さん? 綺麗な人ね」
ようやく探り当てただろう会話の取っ掛かりに、鐘の音が重なった。
「すまぬが、しばらく独りにしてくれぬか」
わずかな空白の後、誤りようのない拒絶の意思を示す。傷つけるのは本意ではない。語気が鋭くなりすぎないよう気をつけたつもりだったが、直後に伝わった大きく息を飲む気配に思わず身を固くする。
「嫌」
「……何?」
しかし返ってきたのは予想外の答えだった。レンギョウは顔を上げる。捕まえたその視線を離さぬよう、シオンが合わせた目と声に力を込めた。
「独りになんてしてやらない。元気じゃないなら、なおさら」
「どういうことだ」
今度は言葉の棘を抑え切ることができなかった。硬質の刃を宿した銀青の瞳と紫の瞳が正面からぶつかり合う。意を決したように、シオンが前へと踏み出した。
「来るな」
「どうして? あたしたち、友達じゃないの?」
まっすぐな問い掛けに、言葉が詰まる。
「レン、独りで苦しまないで。辛い時は辛いって、言っていいんだよ」
「……しかし」
「誰にも言わずに出した答えなんて、間違いの方が多くなっちゃうよ。コウリさんだってそう。誰よりもレンのことを想っていたのに」
側役の名前に反駁の言葉が封じられる。黙り込んだレンギョウに一歩ずつシオンが歩み寄ってくる。
「だからあたしは、あなたを独りにしない。せっかく見込んだ”聖王”に間違いなんてしてほしくないから。友達を独りで苦しめたくなんてないから。あなたの痛みを——分けてほしいから」
言葉を切ったシオンが微笑む。いつもとは比べ物にならないほど弱々しく、しかし瞳を濡らす涙の分だけ確かに宿る紫の光。暁の色にも似た眼差しと共に差し伸べられた手に、草原を渡る夜明けの風の匂いを感じたのは気のせいだろうか。
「ねえレン。あたしたち、独りじゃないんだよ」
頬に触れた指先が震えている。冷えた感触が胸のつかえを揺り動かした。止まっていた時間が動き出す。同時に戦場での記憶が蘇った。草原に、天幕に零された夥しい血、倒れ伏し動かない身体。そのうちの一つに駆け寄る、シオンの背中。
そう。あの日シオンも知人を亡くしているのだ。それも恐らく、レンギョウより遥かに多く。
哀しんでいるのは、苦しんでいるのは、己一人ではない。
鐘の音を己だけが背負っているなど、何故思い込めたのか。撞かれる音の一つ一つに涙を流す者がいるという事実を、何故忘れることができたのか。
事後処理の過程でレンギョウに示された死者の数。机に積まれた名簿の束などとは比べ物にならない程に重い、それぞれが過ごした膨大な時間に初めて思いが至る。自然と面が俯いた。決して同じ秤では測れない、けれど国王として立つためには等しく忘れてはならない痛み。失われた数と時間、双方を慰める弔いの鐘がまた一つ、鳴らされた。
いいんだよ。
かすれた微かな声が優しくレンギョウの鼓膜を叩いた。
泣いても、いいんだよ。色んなことがたくさんあったよね。だから、今だけは。
慈しみに満ちた誘惑に小さく首を振る。己は王だと——”聖王”と呼ばれる者だと。
そんなの関係ない。レンは、レンでしょう?
感情を抑えることになど慣れていたはずだった。国王として相応しき態度で、常に冷静であるようにと。
けれどその裏には気づかぬ振りをし続けた渦が逆巻いていた。あえて見ないようにしていた波頭。それが今、急激に膨れ上がる。
私は、私。
位を継いでから間もなく十年が経つ。その間ずっと被り続けた国王の仮面。それを外すことの方が余程勇気が要るのだと、レンギョウは初めて知った。
内なる海から、一筋の涙が溢れる。
たった一度の会見でアカネと交わした会話を覚えている。これまで辿った道程でコウリの手を恃まなかったことなどない。
蘇る記憶は紛れもなくレンギョウが過ごしてきた時間そのものだった。ひとつふたつと数えることなどできない、かけがえのない自分自身が生きてきた証。
己は聖者などではない。ただの人間だ。
眦から落ちる涙が止まらなかった。
アサザと同じように友になれたかもしれないアカネ。誰よりも深い想いにいつの間にか甘えていたコウリ。
失えば、哀しい。罪を犯せば、苦しい。
そんな人として当たり前の感情までも仮面で封じていたのだと、今更ながらにレンギョウは思い知っていた。
いつの間にか閉じていた瞼を開く。すぐ近くに、手を伸ばしたままこちらを見つめるシオンの瞳があった。その頬には己と同じく伝い落ちる雫。今度はレンギョウから小さく笑って見せた。
己の弱さを知っている。
その弱さを受け止めてくれる友を知っている。
だからこそせめて、己にだけは決して恥じぬ生き方をしようと思った。
ただの人にしか過ぎないレンギョウを”聖王”たらしめているのは、寄せられた人々の想いそのものだから。時には重さに押し潰されそうになることもあるだろう。それでもレンギョウはその名から逃げたくはなかった。
この涙が涸れたその時にこそ。
己を支えてくれる者の為に。背負い込んだ命と時間の為に。
”聖王”という呼び名に託された希望。この名を信じてくれる者の為に、この名を信じたいと願う己の為に。
生きよう。
<予告編>
頬を濡らす氷雨より凍てつく予感が、
皇都を覆う暗雲より不吉な影が、
アサザの胸を埋めつくしていく。
突きつけられた受け入れがたい事実。
独り篭った自室に魔剣の嗤いが響く。
『だから言うたであろう? 死ぬると』
次第に鈍磨していく感覚。
耳元に落ちる囁きに、心までも奈落に堕ちていく。
その淵で見出したのは小さな灯火。
伸ばした指先に触れる温もりは慈雨のように染み入り、
冷えた心を溶かしていく。
生きて、生きて、生き抜くことこそ。
『DOUBLE LORDS』転章2、
泣かぬ弱さより、泣ける強さを。
まるで、逃れえぬ罪のように。
深く長く、息を吐く。とにかくもう、疲れ果てていた。
ここは『王の間』と呼ばれる部屋だ。初代国王レンから先代女王レンゲまで歴代国王の肖像が掲げられた、国王が思索に耽るための空間。独りになるには丁度良い場所。己は独りなのだという事実を、突きつけられずに済む場所。
あの戦以来、時間の感覚が覚束なくなっている。何度か夜が来て、太陽が昇ったことは認識していた。けれどその数が幾度だったかを覚えていない。王都に戻り葬礼の手配を整え、細々した采配を調える。その他にも処理せねばならない雑事は山積みだった。王宮を空けている間に溜まった執務にも忙殺され、横になることすらできない夜が続く。
これまで誰がそれらの雑務をこなしていたのか。誰が休むよう声を掛けてくれたのか。
レンギョウはきつく目を瞑った。
もうコウリには頼れない。当たり前のように隣にいた側役は、他ならぬレンギョウの命で王宮深くの一室に閉じ込められていた。
レンギョウにとっては有能な臣下であり、唯一の血縁であり、太子時代からの相談役であり——そして咎人。コウリは単純に切り捨てるにはあまりにも多くの顔を持ちすぎていた。
それまでの功績がどんなに大きかろうと、為された罪は問われなければならない。
そう思ってはいても、簡単に割り切れる種類の気持ちではなかった。あの戦場で即断することができぬまま王宮に連れ戻り、今もなお忙しさを理由に決断を先延ばしにしている。
「偉大なるご先祖様……貴方ならどうなさるのでしょうか」
縋るように見上げた画面には一人の老人が収まっていた。銀というより白に近い色で描かれた髪、いかめしく顰めた皺だらけの容貌。矮躯をさらに縮めたような姿勢の中、細めた鋭い青い瞳だけがわずかにレンギョウと共通の血筋を窺わせる。この老翁こそが今もなお『魔王』の二つ名で恐れられるこの国の祖、初代国王レンだった。
当然のことながら、いくら待っても肖像からの返事はない。得られぬ答えを探すかのようにレンギョウの視線が彷徨う。
佳人の誉れ高い二代女王スイレンは若々しい姫の装束で茫洋と彼方を見つめ、その孫である四代国王モクレンはどこか頼りなげな青白い頬を背景の闇に浮かばせ。歴代の国王たちは皆見事なまでの銀髪の持ち主だ。『魔王』自らが正統と宣言し、王家にしか顕れないとされている高貴な色。
滑らせた視線がある一点で止まる。幸せそうに微笑む、レンギョウに良く似た面影を宿した若き女王。
「……母上」
若くして病を得て隔離された母の記憶を、レンギョウはほとんど持っていない。かつてコウリが言葉少なに語ってくれた記憶の断片が、母について知りえた情報のほぼ全てだった。
それでも一つだけ、確実に分かっていることがあった。母はコウリを知っている。伴侶の実弟、つまり義弟に当たるコウリの才を最初に見出したのは即位したばかりのレンゲだと、かつて聞いたことがあった。
「母上、余はコウリを……どうしたら良いのでしょう」
声が震える。それでも涙は流れなかった。永遠の微笑を湛えた見知らぬ母の絵姿に、乾いたままの頬を押し当てる。
長く臥せっていた母の名代を務めていた頃から、隣にはコウリがいた。レンギョウが迷う時には目的地を示し、躓きそうな時には差し伸べられる、自分より遥かに大きな手の持ち主。
独りではなかった。だから、孤独がこんなに重いなど知りもしなかった。
当たり前のように続くと思っていた日々。それが壊れたのは、こんなにも互いの心が離れてしまったのは、一体いつからだっただろう。
探った記憶の中、短髪を風に躍らせて笑う友の顔が浮かぶ。すべての始まりの、あの月夜の邂逅。
——出会わなければ良かった、というのか。
レンギョウの胸に鋭い痛みが走る。あの時、アサザは確かに再会を約束した。しかし今この状況であろうとも、皇都の友は同じ誓いを交わしてくれるだろうか。
——アカネを死なせたのは、余だ。
自責がレンギョウの身を貫く。あの時、自分が席を外さなければ。あの時、もっとコウリの様子に目を向けていれば。
何が”聖王”だ。かけがえのない臣下の心情にも気づかず、友の弟一人の安全も守れず。
名が、重い。
アカネだけではない。この名の下に、幾千もの兵の血が流された。皇帝軍も合わせると、その数は万を軽く越える。鐘の音はそのまま、レンギョウの背にのしかかる命の数だった。
画材の匂いが感覚をかき乱す。陰影の褐色に紅殻でも使われているのだろうか、強い錆の匂いが鼻をついた。戦場と同じ、その香り。
ふいに扉が開くわずかな音が鼓膜を震わせた。ぎくしゃくと振り返ると、音を立てずに部屋に滑り込む長い黒髪の端が見えた。
「……シオン」
自分でも驚くほど平坦な声だった。無理矢理に貼り付けた笑顔で、シオンは片手を上げて見せた。
「や。元気……なはずないよね、こんな状況じゃ」
答えずにレンギョウは視線を逸らす。困ったように頬を掻き、シオンは後ろ手に扉を閉めた。金具が鳴る音が余計に沈黙を深める。
「それ、レンのお母さん? 綺麗な人ね」
ようやく探り当てただろう会話の取っ掛かりに、鐘の音が重なった。
「すまぬが、しばらく独りにしてくれぬか」
わずかな空白の後、誤りようのない拒絶の意思を示す。傷つけるのは本意ではない。語気が鋭くなりすぎないよう気をつけたつもりだったが、直後に伝わった大きく息を飲む気配に思わず身を固くする。
「嫌」
「……何?」
しかし返ってきたのは予想外の答えだった。レンギョウは顔を上げる。捕まえたその視線を離さぬよう、シオンが合わせた目と声に力を込めた。
「独りになんてしてやらない。元気じゃないなら、なおさら」
「どういうことだ」
今度は言葉の棘を抑え切ることができなかった。硬質の刃を宿した銀青の瞳と紫の瞳が正面からぶつかり合う。意を決したように、シオンが前へと踏み出した。
「来るな」
「どうして? あたしたち、友達じゃないの?」
まっすぐな問い掛けに、言葉が詰まる。
「レン、独りで苦しまないで。辛い時は辛いって、言っていいんだよ」
「……しかし」
「誰にも言わずに出した答えなんて、間違いの方が多くなっちゃうよ。コウリさんだってそう。誰よりもレンのことを想っていたのに」
側役の名前に反駁の言葉が封じられる。黙り込んだレンギョウに一歩ずつシオンが歩み寄ってくる。
「だからあたしは、あなたを独りにしない。せっかく見込んだ”聖王”に間違いなんてしてほしくないから。友達を独りで苦しめたくなんてないから。あなたの痛みを——分けてほしいから」
言葉を切ったシオンが微笑む。いつもとは比べ物にならないほど弱々しく、しかし瞳を濡らす涙の分だけ確かに宿る紫の光。暁の色にも似た眼差しと共に差し伸べられた手に、草原を渡る夜明けの風の匂いを感じたのは気のせいだろうか。
「ねえレン。あたしたち、独りじゃないんだよ」
頬に触れた指先が震えている。冷えた感触が胸のつかえを揺り動かした。止まっていた時間が動き出す。同時に戦場での記憶が蘇った。草原に、天幕に零された夥しい血、倒れ伏し動かない身体。そのうちの一つに駆け寄る、シオンの背中。
そう。あの日シオンも知人を亡くしているのだ。それも恐らく、レンギョウより遥かに多く。
哀しんでいるのは、苦しんでいるのは、己一人ではない。
鐘の音を己だけが背負っているなど、何故思い込めたのか。撞かれる音の一つ一つに涙を流す者がいるという事実を、何故忘れることができたのか。
事後処理の過程でレンギョウに示された死者の数。机に積まれた名簿の束などとは比べ物にならない程に重い、それぞれが過ごした膨大な時間に初めて思いが至る。自然と面が俯いた。決して同じ秤では測れない、けれど国王として立つためには等しく忘れてはならない痛み。失われた数と時間、双方を慰める弔いの鐘がまた一つ、鳴らされた。
いいんだよ。
かすれた微かな声が優しくレンギョウの鼓膜を叩いた。
泣いても、いいんだよ。色んなことがたくさんあったよね。だから、今だけは。
慈しみに満ちた誘惑に小さく首を振る。己は王だと——”聖王”と呼ばれる者だと。
そんなの関係ない。レンは、レンでしょう?
感情を抑えることになど慣れていたはずだった。国王として相応しき態度で、常に冷静であるようにと。
けれどその裏には気づかぬ振りをし続けた渦が逆巻いていた。あえて見ないようにしていた波頭。それが今、急激に膨れ上がる。
私は、私。
位を継いでから間もなく十年が経つ。その間ずっと被り続けた国王の仮面。それを外すことの方が余程勇気が要るのだと、レンギョウは初めて知った。
内なる海から、一筋の涙が溢れる。
たった一度の会見でアカネと交わした会話を覚えている。これまで辿った道程でコウリの手を恃まなかったことなどない。
蘇る記憶は紛れもなくレンギョウが過ごしてきた時間そのものだった。ひとつふたつと数えることなどできない、かけがえのない自分自身が生きてきた証。
己は聖者などではない。ただの人間だ。
眦から落ちる涙が止まらなかった。
アサザと同じように友になれたかもしれないアカネ。誰よりも深い想いにいつの間にか甘えていたコウリ。
失えば、哀しい。罪を犯せば、苦しい。
そんな人として当たり前の感情までも仮面で封じていたのだと、今更ながらにレンギョウは思い知っていた。
いつの間にか閉じていた瞼を開く。すぐ近くに、手を伸ばしたままこちらを見つめるシオンの瞳があった。その頬には己と同じく伝い落ちる雫。今度はレンギョウから小さく笑って見せた。
己の弱さを知っている。
その弱さを受け止めてくれる友を知っている。
だからこそせめて、己にだけは決して恥じぬ生き方をしようと思った。
ただの人にしか過ぎないレンギョウを”聖王”たらしめているのは、寄せられた人々の想いそのものだから。時には重さに押し潰されそうになることもあるだろう。それでもレンギョウはその名から逃げたくはなかった。
この涙が涸れたその時にこそ。
己を支えてくれる者の為に。背負い込んだ命と時間の為に。
”聖王”という呼び名に託された希望。この名を信じてくれる者の為に、この名を信じたいと願う己の為に。
生きよう。
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<予告編>
頬を濡らす氷雨より凍てつく予感が、
皇都を覆う暗雲より不吉な影が、
アサザの胸を埋めつくしていく。
突きつけられた受け入れがたい事実。
独り篭った自室に魔剣の嗤いが響く。
『だから言うたであろう? 死ぬると』
次第に鈍磨していく感覚。
耳元に落ちる囁きに、心までも奈落に堕ちていく。
その淵で見出したのは小さな灯火。
伸ばした指先に触れる温もりは慈雨のように染み入り、
冷えた心を溶かしていく。
生きて、生きて、生き抜くことこそ。
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