書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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その村はまるで、山肌にしがみついた昆虫の蛹のような姿をしていた。正午を過ぎてもなお霧のたゆたう谷の狭間。耳に痛いほどの静寂に包まれた石造りの簡素な建物群はまどろんでいるかのような、或いは既に抜け殻と化してしまったかのような。石くれだらけの峠をようやく越え、村を見下ろしたアサザが深く息を吐く。
「あれが”山の民”の村か」
険しい登り坂の終点を悟って、キキョウも傍らで呼吸を整えている。しっとりと汗を刷いた愛馬の首筋を、軽く叩いて励ましてやる。
「知らなかったな、母上の故郷がこんなに山奥だったなんて」
鼻面を寄せてくる相棒に笑いかけて、アサザは手綱を引いた。村へ続く下り道を、一人と一頭は無言で辿る。靴と蹄鉄が小石を踏みしめる音だけが谷間に響いた。
秘された武器”茅”が眠る場所。
幼い頃に亡くなった母が生まれ育った村。
そう思ってはみるものの、やはり実感などは湧かなかった。共にこれまで身の周りで語られることのなかった事柄だったからかもしれない。”茅”はその存在を封じられていたために。母については、その話題を父帝が禁じていたために。
現皇帝アザミの后、キキョウ。十年前に急逝した彼女が”山の民”出身であることは皇都でも意外と知られていない。
皇都西方に聳える山岳地帯には万年雪を頂く峰が幾重にも連なる。その懐深くで生活する”山の民”はこの島国で最も古くから生活してきた人々の末裔だと伝えられていた。高地の気候及び遊牧生活に合わせて発達した独特の衣装、食事、習慣、さらには山々を神と崇める信仰形態。浅黒い肌、山訛りと呼ばれる言葉遣いも、草原の民とは一線を画す特徴だった。彼ら自身はそのような相違点を指摘されることを嫌い、滅多に草原には下りてこない。
例外は皇帝に関する儀式の時だった。即位式、婚儀、そして葬儀。初代戦士の頃から伝わる慣例として、この三つの儀式についてだけは必ず”山の民”の代表が出席することになっている。彼らが立会人となって初めて儀式が成立するよう整えられた式次第は、島国統一から数百年を経た今もなお皇室と”山の民”とを分かちがたく結んでいた。
その背景には彼らが初代戦士アカザと共に魔王レンと最後まで戦った協力者であったという史実がある。戦後迎えられたアカザの后も”山の民”の娘だった。以後は三代毎に皇室に輿入れする慣習となっている。キキョウは四人目の花嫁だ。
母は、山を下りることが不安ではなかったのだろうか。
皇都とはあまりにも違う遥かな山並を横目にアサザはふと思う。母は十八歳で輿入れしたと聞いている。今の自分より歳下の娘が、しきたりとはいえ見ず知らずの土地に嫁ぐ。しかも相手は苛烈で鳴らした皇帝アザミである。無論夫が気に入らなかったからといって引き返すことなどできはしない。相当な覚悟が必要な旅路だったはずだ。
皇都と”山”は決して遠いわけではない。現にアサザも、麓までの道程は半日程度で走破している。
しかし村を見渡せるこの場所に辿り着いた現在、皇都を出て既に四日が経っていた。高地独特の天候の急変、未整備の悪路、薄まる空気。次々と行く手を阻む障害に、気だけが焦る日々だった。
そろそろ皇帝軍と国王軍が遭遇してもおかしくはない。近くて遠かった村へ向けて、アサザは足を早める。アカネの、ブドウの、レンギョウの顔が瞼に浮かぶ。彼らを戦わせることなど、あってはならない。
山襞を避けるように大きく折れた角を曲がった、その時だった。
ふいに目の前に人影が飛び出してきた。咄嗟にキキョウの手綱を引く。賢い愛馬は軽く鼻を鳴らしただけで足を止めた。その息遣いに驚いたのか、藍色の影が顔を上げる。
陽に灼けた顔。色褪せた藍染の羊毛と古びた革で拵えられた服。小柄で丸みを帯びた身体つき。大きな黒い目、頭を覆うような筒型の帽子。放牧の途中なのだろう、羊追いの手鞭を手にしている。まるで絵に描いたかのような”山の民”の少女だった。
「あ……」
突然の出来事にアサザが反応するより先、少女はまん丸い目を零れんばかりに見開いた。
「きゃああああー!!!」
お下げ髪を揺らして、少女はびっくりするほど大きな叫びを上げた。残響の山彦に、少女が連れていた羊どもが一斉に顔を上げる。呆気に取られるアサザにはお構いなしに、少女はくるりと村へと回れ右をした。
「とうちゃーん! 戦士が、戦士が来ちまったー!!」
そのまま、脱兎の如く村へと駆け出してしまう。アサザはただ呆然とその後姿を見送ることしかできない。
「……おーい?」
いまいち状況が飲み込めないアサザの耳に、不穏なざわめきが聞こえてくる。見回すと、少女が置いてきぼりにした十数頭の羊が周囲を取り囲んでいた。最前の叫び声のせいで動揺しているらしい。徐々に興奮が群れ全体に伝わり、高まっていくのが感じられる。
「とりあえず今、最優先でやらなきゃならんことは分かったぞ、キキョウ」
じりっ、と後ずさりしながらアサザは手綱を握り締める。心得たようにキキョウが大きく息を吐く。
「村まで走れ!」
一呼吸でキキョウの背に飛び乗ったアサザが眼下の村を示すのと、羊たちが暴れだすのはほぼ同時だった。
「あああもう、勘弁してくれよ!」
残された坂道を、アサザとキキョウは余韻も感傷もなく駆け抜けた。
村の入り口は潅木材で拵えた簡単な柵で閉じられていた。門とも言えないようなそれを、キキョウは一息に飛び越える。大した運動をしたわけでもないのに、すっかり呼吸が乱れてしまった。手綱を引いて足を止め、息を整えながら周囲に目を向ける。
どうやら村の入り口の広場のようだ。剥き出しの土が均されただけの粗末な造り。奥の家々の石材も、長い風雪を耐えてきた様子が一目で見て取れるほど摩耗している。背後の入り口の柵といい、先程の少女の古びた衣装といい、村の生活はあまり豊かではないようだ。
本当にこのような場所に”茅”は眠っているのか?
兄の情報を疑うわけではないが、思わずそんな疑問が頭に浮かぶ。人影さえも見当たらないような、寂れた”山の民”の村。
ふと、アサザは視線を感じて顔を上げた。目が動きを捉えるより先、ばたんと扉を閉める音が耳を打つ。それでもなお続く見られている、という感触。ひとつやふたつではない。周囲を見回してみる。薄く開いた扉、曇った窓、建物から伸びる影。注意深く探ってみると、そこかしこから潜めた息遣いが洩れてくる。人がいないわけではない。警戒しているのだ。自分を——戦士を。
慌ててアサザは馬を下りた。害意がないことを示すために両腕を広げる。
「驚かせてしまってすまなかった。俺は皇都のアサザという者だ。長と話がしたいのだが、案内を——」
アサザの口上を甲高い鳴き声が遮った。振り返ると、羊の群れが突進してくるのが柵越しに見える。どうやら先程振り切ったつもりだった羊たちが追いついてきたらしい。
「……勘弁してくれよ」
思わず頭を抱えたアサザを尻目に、村人たちが動き出した。躊躇いがちに扉が開かれ、わらわらと人が外に出てくる。姿を現してからの彼らの動きは迅速だった。柵に駆け寄った一人が鋭く口笛を吹く。途端に羊の動きが止まった。すかさず柵を抜けた数人が見る間に群れをなだめていく。
「へえ、すごいな」
「なんもさ。ここじゃ羊が暴れることなんて珍しかないかんな」
ふいにかけられた声にアサザは振り向いた。遠巻きにできた人垣の真ん中、村の奥に続く道から一人の男が歩いてきた。がっしりした体格を周囲と同じくすんだ藍色で包んでいる。その裾をしっかりと掴んでいるのは先程一目散に駆け去った少女だ。
「カタバミ、羊どもを小屋さ入れろ」
「あい、とうちゃん」
少女が頷いて父の傍を離れた。そのまま走り出しかけて、出口を塞ぐ格好のアサザに気づいて足を止める。どうするつもりかと見守るアサザから目を離さずに、少女は横歩きでじりじりと広場を回り込み始めた。
「で、皇都のアサザさんはこんな山奥に何の用?」
興味深いカタバミの動きにすっかり目を奪われていたアサザは、慌てて男に向き直った。アサザよりも背は低い。分厚い胸を反らして、腕組みしたまま睨めつけてくる。
「長と話がしたいって自分で名乗ったんだろ? 何の用だって訊いてるんよ」
「じゃあ、あんたがここの長?」
「そんなもんだ。オダマキっちゅうが、聞き覚えはないか?」
「……いや、悪いが」
ふん、と息を吐いてオダマキは眉を顰めた。
「キキョウのあほたんきょうが。俺の名前くらいちゃんと倅に教えとけっちゅうの」
「! 母上を知っているのか?」
「ああ、そりゃあな」
一瞬だけ、オダマキの目に複雑な色が浮かぶ。
「こんな小さな村で育ちゃみんな兄弟みたいなもんだかんな。知らん方がおかしい」
アサザは男を見つめ返した。見た目で推し量る年齢は三十代後半、言われてみれば母とはそう年齢が離れていないと気づく。とはいえその話題はあまり歓迎されていないようだ。言葉の取っ掛かりを見失って、アサザはしばし黙り込んだ。
「……”茅”という武器を探している。ここにあると聞いたのだが、覚えはあるか?」
気まずい雰囲気を脱するべく、ようやく口にした目的にオダマキはますます眉間の皺を深めた。
「武器?」
「ああ。破魔刀、とも呼ばれているとか」
「ふん」
息を吐いてオダマキはくるりと背を向けた。
「お、おい!」
「いいから黙ってついて来いって」
成り行きを見守っていた村人たちを散らすように手を振りながらオダマキは村の奥へと歩き出した。
「みんな聞こえたべ。爺さのとこさ行ってくる」
村人たちは顔を見合わせ、オダマキとアサザに道を譲った。すれ違いざま、横顔に向けられた視線に思わずアサザは振り返る。目を合わせることを避けるように顔を逸らした村人たちの背中に漂う感情。それは不吉な恐怖に良く似ていた。
村を見下ろす小高い崖の上に、それはあった。白い岩肌を穿つ洞窟。人一人がやっと通れるくらいの入り口を、オダマキが無言のまま潜り抜ける。置いていかれまいとアサザも慌てて入り口の枯れ木にキキョウの手綱を結わえ、中に入った。
たちまち薄闇と湿気が身を包む。予想ほど視界は暗くない。短い通路の先に光が見えた。どうやら奥に採光できる穴でも開いているらしい。
オダマキの背中を追って通路を進む。間もなくぽっかりと天井の開けた空間に出た。吹き抜けになっているのだろう、日の光が白く内部を照らし出している。
「爺さ」
広場を出て初めて、オダマキが声を出した。その視線の先に一人の老人を見つける。伸び放題の髭も髪も雪のように白い、痩せ枯れた姿。返事どころか振り返りもせず、光の真ん中に座り込んでいる。
「爺さ、客だ」
つかつかと歩み寄ったオダマキが折れそうに干からびた腕を掴む。引かれた拍子に、ばね仕掛けのように顎が上向いた。
「客、じゃと?」
髭越しに見える薄くひび割れた唇から、思いがけず豊かな声が響いた。
「皇都の小僧か。随分遅かったの」
びくりとアサザは身を震わせた。老人はまだ振り向いてもいない。何故、皇都からの客だと分かる?
『不思議そうな顔をしているな。我らがおぬしの来訪を識っていたこと……そんなに疑問か?』
立ちつくすアサザの耳に、不意に揶揄かうような囁きが流し込まれた。同時に背後から細い腕が首に回される感触。甘く低く、それでいて毒を含んだ声の持ち主を、咄嗟に身をよじって振りほどく。
「な、んだ」
先程抜けてきたばかりの通路には人の気配などなかったはず。振り返って愕然とする。目に入ったのは流れるような銀の髪。
「レン……?」
銀青色の瞳がにい、と細められる。人形のように整った容貌、細い手足は記憶にあるレンギョウと見紛うほど似ていた。しかし酷薄な笑みを刻んだ口許が、長い銀髪の下に隠した少女の特徴を示す身体が、目の前に立つ存在が友人とは別物であることを嫌でも認識させる。
「お前、何者だ?」
剣の柄に手をかけて、アサザは目の前の少女を睨みつけた。一糸纏わぬ素肌を隠そうともせず、少女が両腕を広げ朗々と言葉を紡ぐ。
『随分つれない台詞ではないか。おぬしは我を求めて此処まで来たのであろう?』
うっとりと謳うように、少女は己が名を口に載せた。
『我が名はカヤ。魔剣”茅”の守護者にして破魔術の要』
「何だと?」
嘲りとも嗤いともつかぬ表情のまま、カヤはアサザの胸元へぴたり、と指先を向けた。
『ぼんやりしていて良いのか? 我を携えて皇都に戻るのであろう? 早うせぬと』
瞬間、その唇が紛れもない嘲笑に歪められる。
『おぬしの兄弟、死ぬるぞ』
「……!」
思わず息を呑んだ。不吉な言葉を否定する気持ちと、まさかという言いしれない予感が同時に背筋を貫く。脳裏に閃いたのはこの世でただ一人の弟の笑顔。稲妻のように掻き消える面影を必死で手繰り寄せ、目の前の少女を象った存在を睨み据える。
「あいにくウチの弟はそう簡単にやられたりしないぜ。憎まれっ子世に憚るってな」
胸の裡に芽吹いた一片の暗黒を否定するように、殊更に強く口にする。アサザの虚勢を見取ってか、微笑を纏ったままカヤが囁く。
『ならば確かめるが良い。我を手に、その目でな』
寄せられた笑顔が溶けるように掻き消えていく。カヤが居た腕の中に残されたのは一振りの長刀だった。鞘も拵えも、全てが闇で染め上げたかのような漆黒。まるで守護者の意思を映しているかのようだ。
鍔際をきつく握り締めて、アサザは顔を上げる。オダマキと老人の姿が目に入った。
「悪いが、すぐにここを出たい。騒がせてすまなかった」
「待たれい、若き皇子よ」
踵を返しかけたアサザの背に豊かな声が掛けられる。振り向いた先、白い老人の強い光を湛えた目線と真っ向からぶつかる。
「また近いうちに会うこととなろう。儂はクルミと申す。覚えおかれよ」
「……アサザだ」
短く名乗って、アサザは老人に背を向けた。合わせた視線の中、宿る色が手の中にある刀のそれと同質に思えて不快だった。黒い鋼はどれだけ握り込んでも熱を宿さず、氷のように冷たい。
一路皇都へと駆け抜ける栗毛の馬を”山の民”たちが遠巻きに見送る。己が裾をぎゅっと握り締め、カタバミは遠ざかるその背を見つめていた。
災いが持ち出される。
あの、漆黒の刀が。
不吉な予感を振り払い、少女はいつものように山を見上げた。いつ、どんな時でも変わらずにある峰々。背負った蒼穹にまた翳りが見え始めた。
——雨に、なりそうだ。
<予告編>
死は、遠くにあるものだと思っていた。
氷雨降る皇都で、
弔鐘響く王都で、
深い哀しみの只中、
アサザとレンギョウは静かに覚悟する。
戦場での、友との再会を。
決意を秘めた紫瞳の少女、
白髪の翁が巡らす謀略、
血と狂気に染まる若葉色の飾り紐、
一片の甘味を差し出す藍の袖口。
「いくな、行くな——逝くな、アサザ」
『DOUBLE LORDS』転章、
破魔刀が示す漆黒の未来に抗う術を求めて、
それぞれの物語が動き出す。
険しい登り坂の終点を悟って、キキョウも傍らで呼吸を整えている。しっとりと汗を刷いた愛馬の首筋を、軽く叩いて励ましてやる。
「知らなかったな、母上の故郷がこんなに山奥だったなんて」
鼻面を寄せてくる相棒に笑いかけて、アサザは手綱を引いた。村へ続く下り道を、一人と一頭は無言で辿る。靴と蹄鉄が小石を踏みしめる音だけが谷間に響いた。
秘された武器”茅”が眠る場所。
幼い頃に亡くなった母が生まれ育った村。
そう思ってはみるものの、やはり実感などは湧かなかった。共にこれまで身の周りで語られることのなかった事柄だったからかもしれない。”茅”はその存在を封じられていたために。母については、その話題を父帝が禁じていたために。
現皇帝アザミの后、キキョウ。十年前に急逝した彼女が”山の民”出身であることは皇都でも意外と知られていない。
皇都西方に聳える山岳地帯には万年雪を頂く峰が幾重にも連なる。その懐深くで生活する”山の民”はこの島国で最も古くから生活してきた人々の末裔だと伝えられていた。高地の気候及び遊牧生活に合わせて発達した独特の衣装、食事、習慣、さらには山々を神と崇める信仰形態。浅黒い肌、山訛りと呼ばれる言葉遣いも、草原の民とは一線を画す特徴だった。彼ら自身はそのような相違点を指摘されることを嫌い、滅多に草原には下りてこない。
例外は皇帝に関する儀式の時だった。即位式、婚儀、そして葬儀。初代戦士の頃から伝わる慣例として、この三つの儀式についてだけは必ず”山の民”の代表が出席することになっている。彼らが立会人となって初めて儀式が成立するよう整えられた式次第は、島国統一から数百年を経た今もなお皇室と”山の民”とを分かちがたく結んでいた。
その背景には彼らが初代戦士アカザと共に魔王レンと最後まで戦った協力者であったという史実がある。戦後迎えられたアカザの后も”山の民”の娘だった。以後は三代毎に皇室に輿入れする慣習となっている。キキョウは四人目の花嫁だ。
母は、山を下りることが不安ではなかったのだろうか。
皇都とはあまりにも違う遥かな山並を横目にアサザはふと思う。母は十八歳で輿入れしたと聞いている。今の自分より歳下の娘が、しきたりとはいえ見ず知らずの土地に嫁ぐ。しかも相手は苛烈で鳴らした皇帝アザミである。無論夫が気に入らなかったからといって引き返すことなどできはしない。相当な覚悟が必要な旅路だったはずだ。
皇都と”山”は決して遠いわけではない。現にアサザも、麓までの道程は半日程度で走破している。
しかし村を見渡せるこの場所に辿り着いた現在、皇都を出て既に四日が経っていた。高地独特の天候の急変、未整備の悪路、薄まる空気。次々と行く手を阻む障害に、気だけが焦る日々だった。
そろそろ皇帝軍と国王軍が遭遇してもおかしくはない。近くて遠かった村へ向けて、アサザは足を早める。アカネの、ブドウの、レンギョウの顔が瞼に浮かぶ。彼らを戦わせることなど、あってはならない。
山襞を避けるように大きく折れた角を曲がった、その時だった。
ふいに目の前に人影が飛び出してきた。咄嗟にキキョウの手綱を引く。賢い愛馬は軽く鼻を鳴らしただけで足を止めた。その息遣いに驚いたのか、藍色の影が顔を上げる。
陽に灼けた顔。色褪せた藍染の羊毛と古びた革で拵えられた服。小柄で丸みを帯びた身体つき。大きな黒い目、頭を覆うような筒型の帽子。放牧の途中なのだろう、羊追いの手鞭を手にしている。まるで絵に描いたかのような”山の民”の少女だった。
「あ……」
突然の出来事にアサザが反応するより先、少女はまん丸い目を零れんばかりに見開いた。
「きゃああああー!!!」
お下げ髪を揺らして、少女はびっくりするほど大きな叫びを上げた。残響の山彦に、少女が連れていた羊どもが一斉に顔を上げる。呆気に取られるアサザにはお構いなしに、少女はくるりと村へと回れ右をした。
「とうちゃーん! 戦士が、戦士が来ちまったー!!」
そのまま、脱兎の如く村へと駆け出してしまう。アサザはただ呆然とその後姿を見送ることしかできない。
「……おーい?」
いまいち状況が飲み込めないアサザの耳に、不穏なざわめきが聞こえてくる。見回すと、少女が置いてきぼりにした十数頭の羊が周囲を取り囲んでいた。最前の叫び声のせいで動揺しているらしい。徐々に興奮が群れ全体に伝わり、高まっていくのが感じられる。
「とりあえず今、最優先でやらなきゃならんことは分かったぞ、キキョウ」
じりっ、と後ずさりしながらアサザは手綱を握り締める。心得たようにキキョウが大きく息を吐く。
「村まで走れ!」
一呼吸でキキョウの背に飛び乗ったアサザが眼下の村を示すのと、羊たちが暴れだすのはほぼ同時だった。
「あああもう、勘弁してくれよ!」
残された坂道を、アサザとキキョウは余韻も感傷もなく駆け抜けた。
村の入り口は潅木材で拵えた簡単な柵で閉じられていた。門とも言えないようなそれを、キキョウは一息に飛び越える。大した運動をしたわけでもないのに、すっかり呼吸が乱れてしまった。手綱を引いて足を止め、息を整えながら周囲に目を向ける。
どうやら村の入り口の広場のようだ。剥き出しの土が均されただけの粗末な造り。奥の家々の石材も、長い風雪を耐えてきた様子が一目で見て取れるほど摩耗している。背後の入り口の柵といい、先程の少女の古びた衣装といい、村の生活はあまり豊かではないようだ。
本当にこのような場所に”茅”は眠っているのか?
兄の情報を疑うわけではないが、思わずそんな疑問が頭に浮かぶ。人影さえも見当たらないような、寂れた”山の民”の村。
ふと、アサザは視線を感じて顔を上げた。目が動きを捉えるより先、ばたんと扉を閉める音が耳を打つ。それでもなお続く見られている、という感触。ひとつやふたつではない。周囲を見回してみる。薄く開いた扉、曇った窓、建物から伸びる影。注意深く探ってみると、そこかしこから潜めた息遣いが洩れてくる。人がいないわけではない。警戒しているのだ。自分を——戦士を。
慌ててアサザは馬を下りた。害意がないことを示すために両腕を広げる。
「驚かせてしまってすまなかった。俺は皇都のアサザという者だ。長と話がしたいのだが、案内を——」
アサザの口上を甲高い鳴き声が遮った。振り返ると、羊の群れが突進してくるのが柵越しに見える。どうやら先程振り切ったつもりだった羊たちが追いついてきたらしい。
「……勘弁してくれよ」
思わず頭を抱えたアサザを尻目に、村人たちが動き出した。躊躇いがちに扉が開かれ、わらわらと人が外に出てくる。姿を現してからの彼らの動きは迅速だった。柵に駆け寄った一人が鋭く口笛を吹く。途端に羊の動きが止まった。すかさず柵を抜けた数人が見る間に群れをなだめていく。
「へえ、すごいな」
「なんもさ。ここじゃ羊が暴れることなんて珍しかないかんな」
ふいにかけられた声にアサザは振り向いた。遠巻きにできた人垣の真ん中、村の奥に続く道から一人の男が歩いてきた。がっしりした体格を周囲と同じくすんだ藍色で包んでいる。その裾をしっかりと掴んでいるのは先程一目散に駆け去った少女だ。
「カタバミ、羊どもを小屋さ入れろ」
「あい、とうちゃん」
少女が頷いて父の傍を離れた。そのまま走り出しかけて、出口を塞ぐ格好のアサザに気づいて足を止める。どうするつもりかと見守るアサザから目を離さずに、少女は横歩きでじりじりと広場を回り込み始めた。
「で、皇都のアサザさんはこんな山奥に何の用?」
興味深いカタバミの動きにすっかり目を奪われていたアサザは、慌てて男に向き直った。アサザよりも背は低い。分厚い胸を反らして、腕組みしたまま睨めつけてくる。
「長と話がしたいって自分で名乗ったんだろ? 何の用だって訊いてるんよ」
「じゃあ、あんたがここの長?」
「そんなもんだ。オダマキっちゅうが、聞き覚えはないか?」
「……いや、悪いが」
ふん、と息を吐いてオダマキは眉を顰めた。
「キキョウのあほたんきょうが。俺の名前くらいちゃんと倅に教えとけっちゅうの」
「! 母上を知っているのか?」
「ああ、そりゃあな」
一瞬だけ、オダマキの目に複雑な色が浮かぶ。
「こんな小さな村で育ちゃみんな兄弟みたいなもんだかんな。知らん方がおかしい」
アサザは男を見つめ返した。見た目で推し量る年齢は三十代後半、言われてみれば母とはそう年齢が離れていないと気づく。とはいえその話題はあまり歓迎されていないようだ。言葉の取っ掛かりを見失って、アサザはしばし黙り込んだ。
「……”茅”という武器を探している。ここにあると聞いたのだが、覚えはあるか?」
気まずい雰囲気を脱するべく、ようやく口にした目的にオダマキはますます眉間の皺を深めた。
「武器?」
「ああ。破魔刀、とも呼ばれているとか」
「ふん」
息を吐いてオダマキはくるりと背を向けた。
「お、おい!」
「いいから黙ってついて来いって」
成り行きを見守っていた村人たちを散らすように手を振りながらオダマキは村の奥へと歩き出した。
「みんな聞こえたべ。爺さのとこさ行ってくる」
村人たちは顔を見合わせ、オダマキとアサザに道を譲った。すれ違いざま、横顔に向けられた視線に思わずアサザは振り返る。目を合わせることを避けるように顔を逸らした村人たちの背中に漂う感情。それは不吉な恐怖に良く似ていた。
村を見下ろす小高い崖の上に、それはあった。白い岩肌を穿つ洞窟。人一人がやっと通れるくらいの入り口を、オダマキが無言のまま潜り抜ける。置いていかれまいとアサザも慌てて入り口の枯れ木にキキョウの手綱を結わえ、中に入った。
たちまち薄闇と湿気が身を包む。予想ほど視界は暗くない。短い通路の先に光が見えた。どうやら奥に採光できる穴でも開いているらしい。
オダマキの背中を追って通路を進む。間もなくぽっかりと天井の開けた空間に出た。吹き抜けになっているのだろう、日の光が白く内部を照らし出している。
「爺さ」
広場を出て初めて、オダマキが声を出した。その視線の先に一人の老人を見つける。伸び放題の髭も髪も雪のように白い、痩せ枯れた姿。返事どころか振り返りもせず、光の真ん中に座り込んでいる。
「爺さ、客だ」
つかつかと歩み寄ったオダマキが折れそうに干からびた腕を掴む。引かれた拍子に、ばね仕掛けのように顎が上向いた。
「客、じゃと?」
髭越しに見える薄くひび割れた唇から、思いがけず豊かな声が響いた。
「皇都の小僧か。随分遅かったの」
びくりとアサザは身を震わせた。老人はまだ振り向いてもいない。何故、皇都からの客だと分かる?
『不思議そうな顔をしているな。我らがおぬしの来訪を識っていたこと……そんなに疑問か?』
立ちつくすアサザの耳に、不意に揶揄かうような囁きが流し込まれた。同時に背後から細い腕が首に回される感触。甘く低く、それでいて毒を含んだ声の持ち主を、咄嗟に身をよじって振りほどく。
「な、んだ」
先程抜けてきたばかりの通路には人の気配などなかったはず。振り返って愕然とする。目に入ったのは流れるような銀の髪。
「レン……?」
銀青色の瞳がにい、と細められる。人形のように整った容貌、細い手足は記憶にあるレンギョウと見紛うほど似ていた。しかし酷薄な笑みを刻んだ口許が、長い銀髪の下に隠した少女の特徴を示す身体が、目の前に立つ存在が友人とは別物であることを嫌でも認識させる。
「お前、何者だ?」
剣の柄に手をかけて、アサザは目の前の少女を睨みつけた。一糸纏わぬ素肌を隠そうともせず、少女が両腕を広げ朗々と言葉を紡ぐ。
『随分つれない台詞ではないか。おぬしは我を求めて此処まで来たのであろう?』
うっとりと謳うように、少女は己が名を口に載せた。
『我が名はカヤ。魔剣”茅”の守護者にして破魔術の要』
「何だと?」
嘲りとも嗤いともつかぬ表情のまま、カヤはアサザの胸元へぴたり、と指先を向けた。
『ぼんやりしていて良いのか? 我を携えて皇都に戻るのであろう? 早うせぬと』
瞬間、その唇が紛れもない嘲笑に歪められる。
『おぬしの兄弟、死ぬるぞ』
「……!」
思わず息を呑んだ。不吉な言葉を否定する気持ちと、まさかという言いしれない予感が同時に背筋を貫く。脳裏に閃いたのはこの世でただ一人の弟の笑顔。稲妻のように掻き消える面影を必死で手繰り寄せ、目の前の少女を象った存在を睨み据える。
「あいにくウチの弟はそう簡単にやられたりしないぜ。憎まれっ子世に憚るってな」
胸の裡に芽吹いた一片の暗黒を否定するように、殊更に強く口にする。アサザの虚勢を見取ってか、微笑を纏ったままカヤが囁く。
『ならば確かめるが良い。我を手に、その目でな』
寄せられた笑顔が溶けるように掻き消えていく。カヤが居た腕の中に残されたのは一振りの長刀だった。鞘も拵えも、全てが闇で染め上げたかのような漆黒。まるで守護者の意思を映しているかのようだ。
鍔際をきつく握り締めて、アサザは顔を上げる。オダマキと老人の姿が目に入った。
「悪いが、すぐにここを出たい。騒がせてすまなかった」
「待たれい、若き皇子よ」
踵を返しかけたアサザの背に豊かな声が掛けられる。振り向いた先、白い老人の強い光を湛えた目線と真っ向からぶつかる。
「また近いうちに会うこととなろう。儂はクルミと申す。覚えおかれよ」
「……アサザだ」
短く名乗って、アサザは老人に背を向けた。合わせた視線の中、宿る色が手の中にある刀のそれと同質に思えて不快だった。黒い鋼はどれだけ握り込んでも熱を宿さず、氷のように冷たい。
一路皇都へと駆け抜ける栗毛の馬を”山の民”たちが遠巻きに見送る。己が裾をぎゅっと握り締め、カタバミは遠ざかるその背を見つめていた。
災いが持ち出される。
あの、漆黒の刀が。
不吉な予感を振り払い、少女はいつものように山を見上げた。いつ、どんな時でも変わらずにある峰々。背負った蒼穹にまた翳りが見え始めた。
——雨に、なりそうだ。
***************************************************************
<予告編>
死は、遠くにあるものだと思っていた。
氷雨降る皇都で、
弔鐘響く王都で、
深い哀しみの只中、
アサザとレンギョウは静かに覚悟する。
戦場での、友との再会を。
決意を秘めた紫瞳の少女、
白髪の翁が巡らす謀略、
血と狂気に染まる若葉色の飾り紐、
一片の甘味を差し出す藍の袖口。
「いくな、行くな——逝くな、アサザ」
『DOUBLE LORDS』転章、
破魔刀が示す漆黒の未来に抗う術を求めて、
それぞれの物語が動き出す。
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