書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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王都を出てから既に七日が過ぎている。ゆっくりした帰還の旅だった。
「ここも、久しぶりだな」
夕日に照らされた簡素な門を軽く見上げてから、アサザはキキョウの綱を引いてその下を潜った。
「——あっ、兄上!!」
よく手入れされた小さな庭が門の内側に広がっていた。そこに足を踏み入れたアサザは早速懐かしい声に迎えられた。
「アカネか。今帰ったぞ」
剣の稽古中だったのだろう、手にした木剣を放り出したアカネは子犬のように駆け寄ってきた。そんな弟の短い髪を、アサザはぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「お帰りなさい、兄上。長旅お疲れ様でした」
アサザによく似た目に喜色を浮かべてアカネは言った。その言葉にアサザは軽く頷く。
「ん? お前、また背が伸びたな。もう少しで俺と並ぶんじゃないか?」
「へへへ。そのうち兄上を追い越してやりますよ」
「言ったな」
ひとしきり仲良くじゃれあってから、アサザはふと真面目な顔になった。
「ところでアカネ、兄上は?」
「それが……」
アカネの表情が曇る。その顔を覗き込んで、アサザは確認する。
「また、お加減が良くないんだな?」
無言の弟からそれ以上聞き出すことをやめて、アサザは庭の奥の小ぢんまりとした屋敷に顔を向けた。
「とりあえず、帰還の挨拶をしに行こう。兄上に報告しなきゃならんことも多いしな」
稽古を続けるようアカネに声をかけてから、アサザは屋敷へ入った。夕闇の薄明かりが満ちた廊下を渡り、目指す部屋へと向かう。兄の部屋は屋敷の一番奥、最も静かなところにあった。部屋の入り口を守っていた兵が近づいてきたアサザを認め、姿勢を正す。
「ご苦労さん。兄上はいらっしゃるか?」
「はっ。アオイ様は本日ずっとこちらでお休みになられております」
アサザの目が一瞬翳った。
「わかった。ちょっと兄上と内密の話をするから、席を外してくれ」
「かしこまりました」
敬礼した兵が去っていくのを見送ってから、アサザは部屋の引き戸を開けた。古い紙の匂いのする暖かい空気が流れてくる。
「兄上、ただ今戻りました」
「……やあアサザ、おかえり」
大きくはないが不思議とよく通る声は、床に積まれた無数の本や紙の束の向こうからした。びっしりの本棚の脇をすり抜け、床の紙の塔を崩さないよう注意しながらアサザは部屋の奥へ進んでいった。程なく、そこだけ小ぎれいな兄の寝床へ辿り着く。血色の悪い顔に小さな笑みを浮かべて、床に伏せたアオイはアサザを見上げた。
「元気そうだね。安心したよ」
「兄上こそ、またお加減が優れないと聞きましたが」
アオイの枕元の椅子に座って、アサザはアオイの顔を覗き込んだ。
「何、少し前に比べれば大分良くはなったんだよ。熱もあらかた下がったし」
心配げなアサザを横目に、アオイは体を起こした。弟たちより長く伸びた黒髪がぱさりと白い頬にかかる。
「それに今は、多少の無理をしてでも君の話を聞かなくてはね。それが君を王都まで行かせた私の責任だから。皇帝領、中立地帯、そして国王領の現状――聞かせてくれないか」
穏やかな兄の目に宿った強い光に、アサザは思わず頷いていた。
「でも兄上、全部話すと長くなりますよ?」
「構わない。できるだけ詳しく頼む」
兄の言葉に、アサザはこれまでの旅の様子を語り始めた。皇帝領から中立地帯を経、国王領に至るまでの様子、そこで出会った人々のこと。長い時間をかけて、アサザは思い出せる限りのことをアオイに話した。
「——王都の兵に見つかった時、レンの合図で逃げ出しました。最後にあいつ、兵たちに『余の友人だ、撃つな』って言ってくれたんですよ。それからのことは分からないんですが、俺が逃げ切れたのはあいつのおかげですね。ゆっくり挨拶できなかったことだけが心残りです」
最初のうち相槌を入れていたアオイの声が、レンギョウの名が出たあたりから途切れがちになり、最後の方では完全に黙り込んでしまった。
「兄上?」
「ああ、大丈夫だよ、ちゃんと聞いてる」
線の細い顎に白い指を当てて、アオイは自分の考えを確認するようにアサザに問いかけた。
「アサザ、王都で会ったレンという少年は、確かにレンギョウと名乗ったのだね?」
「あ、ええ。それが何か?」
きょとんとするアサザを可笑しげに見やって、アオイはくすくすと笑った。
「本当に、君は……すごい人と知り合ったものだね。ここまでの収穫は予想してなかったよ」
「な、何なんですか兄上! 兄上はレンギョウを知っているんですか!?」
「ああ。この国の八代目の国王、聖王レンギョウ陛下だよ。それだけ魔法を自在に使えるのなら、間違いない」
さらりと告げられた事実に絶句するアサザに、笑いすぎと微熱で潤んだ瞳を向けてアオイは続ける。
「その魔力の強さは初代国王・魔王レン以来だと言われているね。彼の二つ名の『聖王』も魔王との対比からつけられたものさ。九歳で即位、十五歳になった二年前から親政開始。その内容を見ても君主として優秀な部類に入ると評価して構わないね。もっとも、これに関してはお側役のコウリっていう人物の采配に依るところが大きいと内部では言われてるみたいだけれども」
教科書でも読み上げるかのようなすらすらした言葉を一旦切って、アオイは悪戯っぽい目をアサザに向けた。
「アサザはよく勉強を抜け出してどこかへ行ってしまっていたからね。これの半分くらいは勉強の時間に習うことだけど、君が知らなかったとしても無理はないかな」
ぱんっ、と音を立ててアサザは自分の目を覆った。
「あああ、勉強サボったツケがこんなところで来るなんて……」
「人生に無駄なことはないという証拠だね」
あっさり言ってのけたアオイはふと真顔になった。
「にしても、中立地帯の動きが気になる。そこまで警備を強化しているという報告は受けていないのだけれども。何かを警戒しているような感じだね」
兄の言葉に、アサザもすぐさま真剣な表情に戻って頷いた。
「はい。王都に行く途中、一回中立地帯の端っこで自警団員と鉢合わせましたけど、捕まったりすることはありませんでした。もっとも、俺の格好を見ると何故かイヤな顔をしてましたけど」
「戦士は中立地帯じゃ嫌われているからね」
苦い笑みを浮かべ、アオイは溜息をついた。
「じゃあ、つい最近自警団の中枢で何かあったということになるんだろうか。旅人への警戒を強めなくてはならなくなるような何かが」
己の考えに沈んだアオイが呟く。
「何だか嫌な感じがする。これが大きな出来事の始まりにならなければいいけど……」
目を伏せていたアオイが顔を上げ、アサザの方に向き直った。
「アサザ、本当にご苦労だったね。久しぶりの我が家だ、今日はもう休むといいよ。こちらに新しい情報が入ったら知らせるから」
「いえいえ。兄上の頼みなら何でも来いですよ。また俺に出来ることがあったら遠慮なく言ってください」
「ありがとう」
兄の笑顔を確認して、アサザは席を立った。
「じゃあ、俺はそろそろ——」
「兄上様ッ!!」
いきなり廊下からアカネの声が飛び込んできた。同時にばたばたと床を蹴る足音が響く。
「アカネ、どうしたんだい?」
引き戸を開け放って枕元まで駆け寄ったアカネに、アオイは穏やかに問いかける。アサザがしかめっ面を作って息を切らした弟を睨みつけた。
「アカネ、うるさいぞ」
「お説教は後にしてください、兄上」
息を整えたアカネは二人の兄をまっすぐに見た。
「父上が、いらっしゃいました」
穏やかだった部屋の空気に緊張が走った。
「それはまた、随分と珍しい。何かあったのかな」
アオイは硬い表情の弟たちに目を向けた。
「とにかく、お出迎えはしなければね。こちらの宮に父上がいらっしゃることは久しぶりだし、すぐに身支度を整えて——」
「その必要はない」
弾かれたようにアサザとアカネは振り返った。アオイもはっと顔を入り口の方へ向ける。
「父上」
「陛下」
引き戸の向こうに立つ男を認めて、アサザとアカネは跪いた。アオイも床の上でかしこまる。面を伏せた息子たちを見回して、男——第八代皇帝アザミはその長身を部屋の中に運び入れた。紙の束を無造作に蹴散らして三人の前に立ったアザミの視線がアカネを素通りし、アサザで止まった。
「久し振りだな。しばらく姿を見ないと思っていたが、いつ帰ってきたのだ」
「つい先程です、陛下」
かけらほどの温かみも感じられないアザミの言葉に、アサザも同種の声音で答える。薄い冷笑を浮かべて、アザミは鼻を鳴らした。
「陛下、か。ふん、相変わらず可愛げのない奴よ。一月も皇都を空けて、一体どこまで行ってきたのやら」
「王都までです」
「ほう。ならばそこで余の良からぬ噂をさんざん聞き込んできたのだろうな?」
アサザは答えない。
「父上、アサザに王都行きを命じたのは私です。責めるのなら私を」
アオイの声が割り込んだ。アザミの視線がすっと流れる。
「ほう、またお前か皇太子。以前お前の飼い犬を捕まえた時に道楽はやめろと言ったはずだぞ。それとも下賎の犬一匹程度の犠牲では灸が足りなかったか?」
アオイは顔を伏せた。
「こそこそと何かを嗅ぎ回ることなど下々にやらせればいいのだ。諜報など結果の報告を受ければそれでいいではないか」
「しかし父上!!」
アオイは顔を上げた。
「アサザの報告では中立地帯に不穏な動きありとのこと! 早々に手を打たなくては大変なことに——」
アオイの言葉が不意に途切れた。口を押さえた手指の隙間から、激しい咳が洩れる。
「兄上!」
「兄上様!」
はっと顔を上げたアサザとアカネがアオイの細い体を支える。その様子を冷ややかに見下ろして、アザミはふと思いついたように口を開いた。
「そういえば先程、また面白いものを捕まえたのだった」
アザミが背後に目配せすると、一人の兵士がまだ若い男を引き立ててきた。その目が不安げにアオイに向けられる。
「アオイ様——」
「……君は」
荒い息の下、アオイは男に目を向け、アザミを見上げた。
「その男も、お前の飼い犬の一匹だそうだな。なかなか面白い鳴き声を聞かせてもらった」
一瞬、アオイとアサザを睨みつけてアザミは言った。
「王都の小僧と自警団の狼どもが接触したそうだ」
「なっ……」
思わずアサザはうめいた。感情を抑えた声で、アオイが男に確認する。
「本当なのかい?」
「は……はい」
王都から早馬を飛ばして来たのだろう、やつれた顔で男は頷いた。土埃まみれのその服のところどころに血がにじんでいるのをアサザはあえて見ないようにした。今は男の報告の方が大事だ。
「四日前、シオンと名乗る自警団の者が国王に謁見しました。詳しい会談の内容は不明ですが、国王はその日のうちに中立地帯への食糧援助を決めました」
シオンという名に、アオイとアサザは顔を見合わせた。
「アサザ、色々言いたいことはあるだろうけど、今は情報の裏付けが先だ」
アサザより一拍早く口を開いたアオイは低い声で言った。そしてそのまま視線を上げ、アザミの目をしっかりと見据える。
「父上、皇民である中立地帯の者に国王が援助をするということはそれだけで国王側の越権行為にあたるおそれがあります。どうか詳細な調査を私に続けさせてください。我ら戦士がどう出るにしろ、父上が決断なさるための材料が今はまだ不足しております」
「……よかろう。食糧がいつの間にか兵士になっていたのではたまらんからな」
アオイを見下ろすアザミの目が一層の冷ややかさを帯びた。
「ただし、お前には皇太子位を降りてもらうぞ」
「なっ……!!」
立ち上がりかけたアサザとアカネを目線だけで抑えてアザミは続けた。
「次期皇帝ともあろう者が間者の元締ではあまりにも外聞が悪い。ましてやこれから戦になりかねん状況で剣も振れぬ、いつ病に憑き殺されるかわからぬ者を後継にするわけにはゆかぬ」
刃のようなアザミの言葉が俯いたアオイに浴びせられる。
「陛下ッ!」
見かねて声を上げたアサザに、アザミはすっと目を細めた。
「お前にとっても人事ではなかろう、我が不肖の第二皇子よ」
ぴたり、と氷の矛先が向けられたのをアサザは感じた。
「お前が今から皇太子だ。余を嫌おうと憎もうとお前の勝手だが、務めは果たしてもらうぞ」
くるり、とアザミは息子たちに背を向けた。
「ああ、その犬は生かしておいてやる。ためになる情報を持って来たのでな」
それだけ言い捨てて、アザミは部屋を出て行った。父帝が去った部屋は重い沈黙で覆われた。
「……すまない、アサザ」
ぽつりと呟かれたアオイの言葉に首を振って、アサザは立ち上がった。
「兄上のせいではありません。気にしないでください」
「兄上……」
心配げに見上げるアカネの頭をぽんと叩き、うなだれる若い男の脇をすり抜けてアサザは兄の部屋を出た。
皇太子。
降って湧いたような己のこれからの身分に思わず溜息が出た。ふと、ついこの間別れたばかりの銀髪の友人の顔が心に浮かんだ。
「レン……」
低い呟きは、応える者もなく廊下の闇に吸い込まれた。
皇太子アオイの廃位、それに伴う第二皇子アサザの立太子。
急報が王都にもたらされたのは、それから三日後のことだった。
「ここも、久しぶりだな」
夕日に照らされた簡素な門を軽く見上げてから、アサザはキキョウの綱を引いてその下を潜った。
「——あっ、兄上!!」
よく手入れされた小さな庭が門の内側に広がっていた。そこに足を踏み入れたアサザは早速懐かしい声に迎えられた。
「アカネか。今帰ったぞ」
剣の稽古中だったのだろう、手にした木剣を放り出したアカネは子犬のように駆け寄ってきた。そんな弟の短い髪を、アサザはぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「お帰りなさい、兄上。長旅お疲れ様でした」
アサザによく似た目に喜色を浮かべてアカネは言った。その言葉にアサザは軽く頷く。
「ん? お前、また背が伸びたな。もう少しで俺と並ぶんじゃないか?」
「へへへ。そのうち兄上を追い越してやりますよ」
「言ったな」
ひとしきり仲良くじゃれあってから、アサザはふと真面目な顔になった。
「ところでアカネ、兄上は?」
「それが……」
アカネの表情が曇る。その顔を覗き込んで、アサザは確認する。
「また、お加減が良くないんだな?」
無言の弟からそれ以上聞き出すことをやめて、アサザは庭の奥の小ぢんまりとした屋敷に顔を向けた。
「とりあえず、帰還の挨拶をしに行こう。兄上に報告しなきゃならんことも多いしな」
稽古を続けるようアカネに声をかけてから、アサザは屋敷へ入った。夕闇の薄明かりが満ちた廊下を渡り、目指す部屋へと向かう。兄の部屋は屋敷の一番奥、最も静かなところにあった。部屋の入り口を守っていた兵が近づいてきたアサザを認め、姿勢を正す。
「ご苦労さん。兄上はいらっしゃるか?」
「はっ。アオイ様は本日ずっとこちらでお休みになられております」
アサザの目が一瞬翳った。
「わかった。ちょっと兄上と内密の話をするから、席を外してくれ」
「かしこまりました」
敬礼した兵が去っていくのを見送ってから、アサザは部屋の引き戸を開けた。古い紙の匂いのする暖かい空気が流れてくる。
「兄上、ただ今戻りました」
「……やあアサザ、おかえり」
大きくはないが不思議とよく通る声は、床に積まれた無数の本や紙の束の向こうからした。びっしりの本棚の脇をすり抜け、床の紙の塔を崩さないよう注意しながらアサザは部屋の奥へ進んでいった。程なく、そこだけ小ぎれいな兄の寝床へ辿り着く。血色の悪い顔に小さな笑みを浮かべて、床に伏せたアオイはアサザを見上げた。
「元気そうだね。安心したよ」
「兄上こそ、またお加減が優れないと聞きましたが」
アオイの枕元の椅子に座って、アサザはアオイの顔を覗き込んだ。
「何、少し前に比べれば大分良くはなったんだよ。熱もあらかた下がったし」
心配げなアサザを横目に、アオイは体を起こした。弟たちより長く伸びた黒髪がぱさりと白い頬にかかる。
「それに今は、多少の無理をしてでも君の話を聞かなくてはね。それが君を王都まで行かせた私の責任だから。皇帝領、中立地帯、そして国王領の現状――聞かせてくれないか」
穏やかな兄の目に宿った強い光に、アサザは思わず頷いていた。
「でも兄上、全部話すと長くなりますよ?」
「構わない。できるだけ詳しく頼む」
兄の言葉に、アサザはこれまでの旅の様子を語り始めた。皇帝領から中立地帯を経、国王領に至るまでの様子、そこで出会った人々のこと。長い時間をかけて、アサザは思い出せる限りのことをアオイに話した。
「——王都の兵に見つかった時、レンの合図で逃げ出しました。最後にあいつ、兵たちに『余の友人だ、撃つな』って言ってくれたんですよ。それからのことは分からないんですが、俺が逃げ切れたのはあいつのおかげですね。ゆっくり挨拶できなかったことだけが心残りです」
最初のうち相槌を入れていたアオイの声が、レンギョウの名が出たあたりから途切れがちになり、最後の方では完全に黙り込んでしまった。
「兄上?」
「ああ、大丈夫だよ、ちゃんと聞いてる」
線の細い顎に白い指を当てて、アオイは自分の考えを確認するようにアサザに問いかけた。
「アサザ、王都で会ったレンという少年は、確かにレンギョウと名乗ったのだね?」
「あ、ええ。それが何か?」
きょとんとするアサザを可笑しげに見やって、アオイはくすくすと笑った。
「本当に、君は……すごい人と知り合ったものだね。ここまでの収穫は予想してなかったよ」
「な、何なんですか兄上! 兄上はレンギョウを知っているんですか!?」
「ああ。この国の八代目の国王、聖王レンギョウ陛下だよ。それだけ魔法を自在に使えるのなら、間違いない」
さらりと告げられた事実に絶句するアサザに、笑いすぎと微熱で潤んだ瞳を向けてアオイは続ける。
「その魔力の強さは初代国王・魔王レン以来だと言われているね。彼の二つ名の『聖王』も魔王との対比からつけられたものさ。九歳で即位、十五歳になった二年前から親政開始。その内容を見ても君主として優秀な部類に入ると評価して構わないね。もっとも、これに関してはお側役のコウリっていう人物の采配に依るところが大きいと内部では言われてるみたいだけれども」
教科書でも読み上げるかのようなすらすらした言葉を一旦切って、アオイは悪戯っぽい目をアサザに向けた。
「アサザはよく勉強を抜け出してどこかへ行ってしまっていたからね。これの半分くらいは勉強の時間に習うことだけど、君が知らなかったとしても無理はないかな」
ぱんっ、と音を立ててアサザは自分の目を覆った。
「あああ、勉強サボったツケがこんなところで来るなんて……」
「人生に無駄なことはないという証拠だね」
あっさり言ってのけたアオイはふと真顔になった。
「にしても、中立地帯の動きが気になる。そこまで警備を強化しているという報告は受けていないのだけれども。何かを警戒しているような感じだね」
兄の言葉に、アサザもすぐさま真剣な表情に戻って頷いた。
「はい。王都に行く途中、一回中立地帯の端っこで自警団員と鉢合わせましたけど、捕まったりすることはありませんでした。もっとも、俺の格好を見ると何故かイヤな顔をしてましたけど」
「戦士は中立地帯じゃ嫌われているからね」
苦い笑みを浮かべ、アオイは溜息をついた。
「じゃあ、つい最近自警団の中枢で何かあったということになるんだろうか。旅人への警戒を強めなくてはならなくなるような何かが」
己の考えに沈んだアオイが呟く。
「何だか嫌な感じがする。これが大きな出来事の始まりにならなければいいけど……」
目を伏せていたアオイが顔を上げ、アサザの方に向き直った。
「アサザ、本当にご苦労だったね。久しぶりの我が家だ、今日はもう休むといいよ。こちらに新しい情報が入ったら知らせるから」
「いえいえ。兄上の頼みなら何でも来いですよ。また俺に出来ることがあったら遠慮なく言ってください」
「ありがとう」
兄の笑顔を確認して、アサザは席を立った。
「じゃあ、俺はそろそろ——」
「兄上様ッ!!」
いきなり廊下からアカネの声が飛び込んできた。同時にばたばたと床を蹴る足音が響く。
「アカネ、どうしたんだい?」
引き戸を開け放って枕元まで駆け寄ったアカネに、アオイは穏やかに問いかける。アサザがしかめっ面を作って息を切らした弟を睨みつけた。
「アカネ、うるさいぞ」
「お説教は後にしてください、兄上」
息を整えたアカネは二人の兄をまっすぐに見た。
「父上が、いらっしゃいました」
穏やかだった部屋の空気に緊張が走った。
「それはまた、随分と珍しい。何かあったのかな」
アオイは硬い表情の弟たちに目を向けた。
「とにかく、お出迎えはしなければね。こちらの宮に父上がいらっしゃることは久しぶりだし、すぐに身支度を整えて——」
「その必要はない」
弾かれたようにアサザとアカネは振り返った。アオイもはっと顔を入り口の方へ向ける。
「父上」
「陛下」
引き戸の向こうに立つ男を認めて、アサザとアカネは跪いた。アオイも床の上でかしこまる。面を伏せた息子たちを見回して、男——第八代皇帝アザミはその長身を部屋の中に運び入れた。紙の束を無造作に蹴散らして三人の前に立ったアザミの視線がアカネを素通りし、アサザで止まった。
「久し振りだな。しばらく姿を見ないと思っていたが、いつ帰ってきたのだ」
「つい先程です、陛下」
かけらほどの温かみも感じられないアザミの言葉に、アサザも同種の声音で答える。薄い冷笑を浮かべて、アザミは鼻を鳴らした。
「陛下、か。ふん、相変わらず可愛げのない奴よ。一月も皇都を空けて、一体どこまで行ってきたのやら」
「王都までです」
「ほう。ならばそこで余の良からぬ噂をさんざん聞き込んできたのだろうな?」
アサザは答えない。
「父上、アサザに王都行きを命じたのは私です。責めるのなら私を」
アオイの声が割り込んだ。アザミの視線がすっと流れる。
「ほう、またお前か皇太子。以前お前の飼い犬を捕まえた時に道楽はやめろと言ったはずだぞ。それとも下賎の犬一匹程度の犠牲では灸が足りなかったか?」
アオイは顔を伏せた。
「こそこそと何かを嗅ぎ回ることなど下々にやらせればいいのだ。諜報など結果の報告を受ければそれでいいではないか」
「しかし父上!!」
アオイは顔を上げた。
「アサザの報告では中立地帯に不穏な動きありとのこと! 早々に手を打たなくては大変なことに——」
アオイの言葉が不意に途切れた。口を押さえた手指の隙間から、激しい咳が洩れる。
「兄上!」
「兄上様!」
はっと顔を上げたアサザとアカネがアオイの細い体を支える。その様子を冷ややかに見下ろして、アザミはふと思いついたように口を開いた。
「そういえば先程、また面白いものを捕まえたのだった」
アザミが背後に目配せすると、一人の兵士がまだ若い男を引き立ててきた。その目が不安げにアオイに向けられる。
「アオイ様——」
「……君は」
荒い息の下、アオイは男に目を向け、アザミを見上げた。
「その男も、お前の飼い犬の一匹だそうだな。なかなか面白い鳴き声を聞かせてもらった」
一瞬、アオイとアサザを睨みつけてアザミは言った。
「王都の小僧と自警団の狼どもが接触したそうだ」
「なっ……」
思わずアサザはうめいた。感情を抑えた声で、アオイが男に確認する。
「本当なのかい?」
「は……はい」
王都から早馬を飛ばして来たのだろう、やつれた顔で男は頷いた。土埃まみれのその服のところどころに血がにじんでいるのをアサザはあえて見ないようにした。今は男の報告の方が大事だ。
「四日前、シオンと名乗る自警団の者が国王に謁見しました。詳しい会談の内容は不明ですが、国王はその日のうちに中立地帯への食糧援助を決めました」
シオンという名に、アオイとアサザは顔を見合わせた。
「アサザ、色々言いたいことはあるだろうけど、今は情報の裏付けが先だ」
アサザより一拍早く口を開いたアオイは低い声で言った。そしてそのまま視線を上げ、アザミの目をしっかりと見据える。
「父上、皇民である中立地帯の者に国王が援助をするということはそれだけで国王側の越権行為にあたるおそれがあります。どうか詳細な調査を私に続けさせてください。我ら戦士がどう出るにしろ、父上が決断なさるための材料が今はまだ不足しております」
「……よかろう。食糧がいつの間にか兵士になっていたのではたまらんからな」
アオイを見下ろすアザミの目が一層の冷ややかさを帯びた。
「ただし、お前には皇太子位を降りてもらうぞ」
「なっ……!!」
立ち上がりかけたアサザとアカネを目線だけで抑えてアザミは続けた。
「次期皇帝ともあろう者が間者の元締ではあまりにも外聞が悪い。ましてやこれから戦になりかねん状況で剣も振れぬ、いつ病に憑き殺されるかわからぬ者を後継にするわけにはゆかぬ」
刃のようなアザミの言葉が俯いたアオイに浴びせられる。
「陛下ッ!」
見かねて声を上げたアサザに、アザミはすっと目を細めた。
「お前にとっても人事ではなかろう、我が不肖の第二皇子よ」
ぴたり、と氷の矛先が向けられたのをアサザは感じた。
「お前が今から皇太子だ。余を嫌おうと憎もうとお前の勝手だが、務めは果たしてもらうぞ」
くるり、とアザミは息子たちに背を向けた。
「ああ、その犬は生かしておいてやる。ためになる情報を持って来たのでな」
それだけ言い捨てて、アザミは部屋を出て行った。父帝が去った部屋は重い沈黙で覆われた。
「……すまない、アサザ」
ぽつりと呟かれたアオイの言葉に首を振って、アサザは立ち上がった。
「兄上のせいではありません。気にしないでください」
「兄上……」
心配げに見上げるアカネの頭をぽんと叩き、うなだれる若い男の脇をすり抜けてアサザは兄の部屋を出た。
皇太子。
降って湧いたような己のこれからの身分に思わず溜息が出た。ふと、ついこの間別れたばかりの銀髪の友人の顔が心に浮かんだ。
「レン……」
低い呟きは、応える者もなく廊下の闇に吸い込まれた。
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