書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
初めての戦場。
そこで対峙した国王軍の目を疑うような人数も。
「皆ことごとく、我が魔法の餌食となるぞ」
懐かしい友の声と同時に放たれた『聖王』レンギョウの凄まじい魔法も。
そして、草原に深々と刻まれた谷を落ち着いて見下ろす暇もなく駆け込んできた、その報せも。
——皇帝アザミ、崩御。
それは欠片の現実感も帯びることなく、アサザの胸に衝撃だけを突き刺していった。
確かにやつれてはいた。珍しく体調の心配などもしていた。
けれど。
信じられなかった。
信じたくなかった。
アサザがただ呆然と弔旗を携えた使者を見返すことしかできぬうちに、傍らに控えていたクルミが矢継ぎ早に指示を出し始めた。
各隊、隊列を整え別命あるまで待機。
斥候担当は至急国王軍陣営に潜り、アザミの崩御が知れていないか調査。
先立っての地震で怪我をした者がいれば、今のうちに手当てをするように。
ふいにクルミが振り返った。
「さて、おぬしはどうする。”茅”の刃で皇都を映してみるか? それとも自らの目で父の死を確かめてくるかの?」
瞬間、駆け抜けた感情は何だっただろう。煮えたぎるほどに熱く、凍りつくほどに冷たく。目の前の老爺を殴りつけたい衝動が身体を支配するよりわずかに早く、気遣わしげな愛馬の息吹が聞こえた。
身体がひとりでに動いた。アサザが鞍に飛び乗ると同時、キキョウは全速力で走り始めた。賢い栗毛が自分で判断したのか、それともアサザが無意識に指示したのかは分からない。けれど一心に先を目指すキキョウの鼻先はまっすぐに北——皇都を向いていた。
皇帝軍の人馬で埋め尽くされた草原を泳ぐように駆け抜け、すり減った石畳が続く街道へ出る頃、背後から大きなどよめきが響いてきた。突然の訃報が陣内に広がっているのだろう。
ふいに天を衝くような慟哭が耳を貫いた。兵の一人だろうか。あの皇帝にここまでの忠誠を示す者がいるとは。
アサザの目に、まだ涙はない。蹄が地を踏む衝撃も、常と変らず頬に当たる風も、すべてがあやふやな非現実感に彩られていた。
夜を徹して駆け抜けた草原。皇都に着いたのはまだ明けきらぬ払暁の頃だった。主が不在のはずの都は思いのほか平穏を保っており、それが余計にアサザの非現実感を煽っていく。
たとえ殺しても大人しく死んでくれそうにはないあの性格だ。きっと久しぶりに暗殺騒ぎでもあって、その命知らずを手ずから返り討ちにしたことが戦場には間違って伝わったのだろう。
何度も己に言い聞かせながらも、どうしてこんなにも父帝の死を否定したいのかが自分でも分からなかった。
顔を合わせるたびに怒りを覚えるほど、嫌いだったはずだ。殺したいほど憎んだことさえある。
なのに何故今、こんなにも強く生きていてほしいと願うのか。
アサザの姿を認めたのだろう、皇都の門は内側から細く開けられた。無言のままの門番に、黒い不安が膨れ上がる。努めて平静を装いながら皇宮へ向かう。見慣れた門を幾つも潜り抜け、辿り着いた奥宮では侍従長以下、アザミの傍近くに仕えていた全員が総出でアサザを待っていた。
明らかに普段とは違う様子。泣き腫らした目で何事かを訴えようとする侍従長を無言で制し、アサザはうそ寒い廊下を足早に辿る。
アザミの部屋の扉を潜るのは初めてのことだった。何となく想像していた通り、やたらと重厚な、けれども必要最低限の家具が置かれているだけのだだ広い部屋だった。
寒々しい空間を横切って、奥の寝台に歩み寄る。目の当たりにすれば、あるいは実感できるのかもしれないと思っていた。
それでも、やはり。
目の前のものが信じられなかった。
今アサザの前に横たわっているのは、眉間の皺まで普段通りの見慣れた顔だった。最後に会ったのはわずかに二日前のこと。出陣式の時と同じく、アサザの側から呼びかけてみる。
「陛下」
最初に報せを受けた時には、嘘だろうと思った。けれどこうして顔を見てしまうと、尚更強くそう思った。安らかかどうかは疑問が残るにせよ、ここにあるのがいつもと変わらぬ表情であることに違いはないのだから。
ふいに胸が熱くなったのは、この空っぽの部屋に潜む父帝の孤独を垣間見てしまったからだろうか。
——皇帝陛下ともあろう人が、こんな部屋じゃ寂しいでしょう。
常と変らぬ仏頂面にしかし、不肖の息子の差し出口を拒む色は浮かばない。拒絶も、嫌悪も、侮蔑も——ついに一度も見ることのなかった、温かな表情も。
「陛下」
この声はアザミの鼓膜を震わせるのだろうか。
けれど止まってしまった心を震わせることはもう、ない。
「陛下」
返事がないことは分かっている。
だから。
「——父上」
届かなくなって初めて、口に出せる言葉があるのだと知った。
アサザが再び戦場へ向かったのは、それから三日後の朝のことだった。キキョウの蹄は正確に街道の石畳を踏んで、まっすぐ南へ向かっている。
今、アサザの周囲には誰もいない。往路は護衛をつける余裕などなかったというのが実情だが、戦場へ戻る今回はアサザ自身が随伴を断った。今皇都に残っている戦力は近衛隊のみ、あの虚栄だけ立派な近衛隊長に身辺警護を任せる気になど、到底なれなかった。
どの道一刻を争う早駆けだ。一騎の方が疾い。
のんびりと葬礼を行っている場合ではなかった。国王軍の軍勢が瞼の裏に蘇る。同時にあの地震と、草原に刻まれた峡谷を。アサザ自身が率いる軍が、今もなおそれらと対峙しているのだ。
国王軍が動いたという報告は入っていない。だが今後も動かないという保証もない。できる限り速く、戻らなければ。
皇帝という要を失った皇都には、もう一刻の猶予も許されていない。
感情に流されていい局面ではない。あくまで冷静に、為すべきことを最優先に。そう思うほどに、耳に蘇る声がある。
——皇帝陛下を弑し奉ったのは。
侍従の一人が咽び泣きながら零した言葉。
弟、兄。そして最後に残った父までも呑み込んだ墓所の扉の前で聞いた告発。涙で震える侍従の声とは対照的に、磨き上げられた黒御影に映し出された己の顔は氷のように無表情だった。
スギが暗殺犯ならば、自警団が無関係でないはずがない。
そして、国王レンギョウも。
父の亡骸は、最低限の礼だけを尽くして黒御影の扉の向こうに見送るしかなかった。それは廃太子として送り出したアオイの葬儀より簡素で淋しく、慌しいもので。
後日、国王軍討伐後に慣例どおりの大々的な葬祭を行うことになるのだろう。
けれど。
独りになって草原の風を頬に受けた瞬間、涙が溢れた。
父帝の背中が瞼の裏に映る。言ってやりたいことがたくさんあった。
突然逝ってしまったという理不尽に。手を下した者がいるという事実に。こんな別れ方しかできなかったという現実に。己自身も驚くほどの大きな喪失感に。
どうして。
キキョウの鬣に落ちる雫と同じだけ、最早誰にもぶつけようのない疑問が胸の中で渦巻いていた。
顔はまっすぐに正面を向いている。伸ばした背筋は蹄が地面を蹴る衝撃にも揺るがない。かつてあれほど嫌悪した父帝と同じ形の皺を眉間に刻み、嗚咽が洩れないように唇をきつく結んで。
握り締めた手綱にまたひとつ、氷のような涙が零れ落ちた。
冬の夕闇は足が早い。キキョウ自慢の駆け脚でも、日があるうちに戦場に辿り着くことができなかった。
アサザは小さく咳払いをした。涙は既に止まっていたが、喉に違和感が残っている。こんな掠れ声のまま他の戦士や”山の民”の面々と顔を合わせたくはなかった。
草原の宵闇は深い。星明りの下、彼方に橙色の帯が見える。宿営地の篝火だ。夕日の残照が尽きても、その明かりを頼りに街道を辿れば必ず本陣に戻ることができる。
キキョウは少し疲れているようだった。いつもより重くなった足運びを労るように、首筋を軽く叩いてやる。
「キキョウ、もう少しだ。頑張ってくれ」
賢い愛馬は小さく鼻を鳴らして応えてくれた。夜空に流れる真っ白な息の行方を見るともなしに見遣って、アサザはふと動きを止める。
宿営地の篝火に変化はない。だが連なる天幕の向こう側に、何やら大きな影が見えるのは気のせいだろうか。
もう一度確認しようと鞍の上で伸び上がった、その時。
「貴様、ここで何をしている」
緊張を孕んだ誰何の声が闇の中から放たれる。咄嗟にアサザは手綱を引いた。同時に有無を言わせぬ鞘走りの音が周囲の空気を震わせる。
「すぐに馬を下りて手を上げろ。速やかに所属と名を言え」
道を塞いだのは二人の兵士だった。乏しい明かりに影絵となって浮かぶ鎧の形は皇帝軍のもの。宿営地警護の当番兵だろう。
アサザは苦笑しながら鞍を下りた。さて、自分の所属は一体どこになるのだろう。
「所属は……たぶん本陣近辺のどこか。名はアサザだ」
言われたとおりに両手を頭の上に上げて、アサザは名乗った。心配していたほど声の調子は悪くない。
眼前の兵士が訝しげな視線を向けてくるのが分かる。そんなに自分には貫禄が備わっていないのか。むしろ可笑しく思いながら、纏った緋紫二色の肩布と”茅”を示す。
「一応、皇帝軍将帥ってやつなんだが。通してもらうことはできないか?」
闇を透かして肩布の色を認めた瞬間、二人の兵士は息を呑んでその場にひれ伏した。
「こ、皇太子殿!」
「申し訳ありません! 知らぬこととはいえ、とんだご無礼を」
先程までのあらわな敵意はどこへやら、二人はすっかり縮こまってしまった。その変わりようにアサザの方が困惑してしまう。
「ああ、気にしなくてもいいって。こんな真っ暗じゃ色なんて見えないし、俺がこんなところふらふらしてるなんて思わなかっただろうしな」
「しかし皇太子殿が皇都へ戻られたことは皆が知っております。お帰りになる際はこの街道を通るであろうことも、少し考えれば容易に分かること」
「それをこともあろうに敵の斥候と間違えるなど……本当に申し訳ありませんでした」
どうして彼らがそこまでアサザを恐れるのか。その理由に思い至って、アサザの胸に苦いものが広がる。
「いい、気にするな。こんな些細なことで俺はお前たちを罰したりはしない」
二人が顔を上げる。まだ幼さを残した顔立ちはいずれもアサザより幾つか年下に見える。やはり罰を恐れていたのだろう。彼らが安堵より先に浮かべたのは疑念の表情だった。
「しかし、皇帝陛下の前で粗相をした者は例外なく罰せられると聞いておりましたが」
「俺は陛下とは違う」
言った瞬間、胸がずきりと痛んだ。
そう、違う。これから変えていかなければならないのだ。
誰を道標とするでもなく、アサザ自身が良いと信じる方向へ。
「だから心配は要らない。これからもさっきと同じように、責任を持ってそれぞれの仕事に励んでくれ」
二人から目を逸らしてキキョウの手綱を引き寄せたアサザの背中に、兵士の声が覆いかぶさる。
「ではやはり、皇太子殿が即位すれば世の中は変わるんですね」
驚いてアサザは振り返る。二人の兵士は互いに頷き合って、期待を含んだ眼差しをアサザに向けていた。
「皇太子殿は国王を打破して新しい世を作る、次の皇帝陛下」
「クルミ様が即位式を急がれているのも、一刻も早く国王を倒すためだとか」
「それにこの戦で手柄を立てれば、俺たちみたいな下っ端でも出世できるんですよね」
兵士たちの矢継ぎ早な言葉の中に混じった聞き流せない情報を、慌ててアサザは拾い上げた。
「ちょっと待て。クルミが俺の即位を急いでるだと?」
顔を見合わせて、二人は同時に頷いた。
「はい。できる限り速やかに挙行できるよう、既に準備を進められております」
「ご即位をきっかけに、これからどんどん世の中が変わっていって」
「まずはこの戦で皇太子殿が国王を倒して、この島を統一して」
「そうすれば俺たちのように戦士の家柄じゃない皇民も、頑張り次第で引き立ててもらえる世がきっと来る」
新しい時代への期待。
兵士たちの瞳が宿す熱の正体に気づいて、思わずアサザは言葉を失った。
父帝に限らず、これまでの皇帝は皆、戦士の血を引く者を重用してきた。皇家の始祖であるアカザや草創期の猛将グースフットなどに代表される生粋の『戦士』の血統——それを引く者は父祖の遺した家系を継ぐだけで、自動的に皇都での役職までも手に入る。
逆に言えば、限られたこれらの血脈に組み込まれていない皇民はどう足掻こうとも一定以上の位に就くことはできない。時折金銭で戦士の職を買い求めることができる幸運な者もいるが、それとて下位の役職にとどめられる上に、他の戦士からは蔑みの目を向けられ続けることになる。
戦士として本当に認められるには戦で手柄を立てるしかない。現在、特権を享受している職業戦士の先祖がそうだったように。
そして今、国王軍との戦が現実のものになった。さらに皇帝崩御と新帝即位が重なろうとしている。長い平和に慣れきってろくに指揮もできない戦士が多い中、腕に覚えのある皇民が出世を夢見てもおかしくはない状況なのだ。
「そのためにはまず、目の前の国王軍を何とかしないとですよね」
「そうそう。まずはあの亀裂を乗り越えて国王軍を叩く」
「橋、早く完成するといいな」
耳慣れない言葉にアサザは眉根を寄せる。浮かんだのはレンギョウの魔法によって刻まれたあの巨大な渓谷。あれに橋を架けるのだとしたら。
彼方の宿営地の闇を、目を凝らして見つめる。先程見えた大きな影、あれがもしや。
無言でアサザはキキョウの背に飛び乗った。これ以上、クルミやカヤが自分のあずかり知らぬところで事態を動かすのを見過ごす気にはなれない。
道の脇に飛びのいた兵士たちの敬礼が視界の端を流れ去っていく。
新帝の即位と皇民登用の噂。指摘されて初めて気づいた自分もいい加減迂闊だと思う。けれど同時に時機が良すぎる、とも思った。
噂は戦場では貴重な情報だ。そして情報操作は諜報活動の一環でもある。咄嗟に思い出した顔はスギ、その次にクルミ。どちらにせよ、悪い予感しかしないことに変わりはない。
——こんなものを渡した私のことを恨むこともあるかもしれない。
アオイが遺した言葉が耳に蘇る。
「恨みはしませんけど。兄上、俺、このままだとものすごく性格悪くなりそうですよ」
吹き去る風の中に、ぼやきはあっという間にかき消されていく。キキョウの蹄音が響くごと、宿営地の篝火に照らされた巨大な影は不吉に揺らめいた。
「ようやく戻られたか」
白髪の老爺はアサザの顔を一瞥したきり、興味なさげに視線を逸らして中断していた仕事を再開した。
「待ってたならお帰りなさいくらい言えよ。アカネだってそのくらいの愛想はあったぜ」
「あいにくこの歳で躾を受けなおす気にはなれぬ」
俺だって爺の再教育なんて御免だ、という本音は腹の底に飲み込んでおく。文句を述べる代わりに、不在の数日ですっかり変貌してしまった天幕の中を見回した。
国王軍と対峙して以来本陣を置いてきた宿営地最大のこの天幕は、今やクルミ専用の作戦本部になってしまったようだ。皇都に向かう前は見かけなかった書類の束や地図、測量器具やその他よく分からない装置や道具で空間のほとんどが占拠されている。
「……俺がいない方が、あんたの仕事ははかどってたんじゃないのか?」
零れた本音が思いがけず皮肉めいていたことに、アサザ自身が驚く。
無造作に床に放られている描きかけの橋の設計図。机の上に束ねられた資材の受け渡し票。老人の傍にある古びた書物は開きっぱなしのまま栞を挟まれて放置されている。
鼻を鳴らして、クルミは手元の書類に署名を加えた。肩越しに見遣ると、それはどうやら遅れている建材の納入を急かす書簡のようだった。
「あの谷に橋を架けるんだろ?」
単刀直入に訊いてみる。本陣に——レンギョウが作った谷に近づくにつれ、闇の中から姿を現したのは六本の柱だった。二本一組の濃い影が天幕の上で揺らめいている。それが左右と正面に、計三組。
「よくあんな木材がこんなにすぐ調達できたな」
「戦をすれば物は壊れるのが道理。あらかじめ”山の民”へ物資の準備は命じてあったからの。もっともこんな大物を作ることになるとは思わなんだから、支柱の丸太は在庫分しか用意できておらぬ」
三組ではとても足りぬが仕方あるまい、と老爺は首を振る。確かに皇帝軍すべてを向こう側に渡すには橋三脚では間に合うまい。だがそれ以前に。
「随分作業は順調なようだが。あのでかぶつ、作ってる途中で魔法で狙い撃ちにされないのか?」
ふ、と呆れたような溜息が返ってくる。
「どうせ壊すなら派手にやる方が良かろう。どの道、魔法を遣うのは国王じゃ」
クルミはそれ以上説明する気がないらしい。首をひねりながら自力で考えてみる。
自分が橋を壊すとしたら。確かに建設途中に破壊してしまうのも一手だが、完成するまで山岳地帯から資材はどんどん届くのだ。それでは容易に修復されてしまわないか。
ならばいつ。物理的にも精神的にも、皇帝軍の立ち直りを遅らせることができる時機は。
「……橋が完成して、俺たちが渡ろうとしている瞬間か」
大掛かりな突貫工事の完成、そして目前で焦らされた開戦。満を持して今まさに攻め込もうとした瞬間、圧倒的な魔法でできたばかりの橋が壊されたとしたら。
皇帝軍の士気は一気に低下するだろう。そして場を支配する空気はただ一色に塗りつぶされる。
『聖王』レンギョウへの恐怖と畏怖に。
『しかしこちらには我がおる。我を携えたおぬしがな』
耳元に笑いを含んだ声が落ちる。滴るほどの悪意を滲ませて、アサザの首筋にカヤの腕が背後から絡められる。
『無敵のはずの王の魔法が通じぬと悟った時の兵たちの顔……考えるだけで愉快でたまらぬ』
出陣以降随分大人しかったと思いきや。ここ数日、カヤは楽しい空想に耽ることで忙しかったらしい。今更怒る気にもなれないが、せめて突き放した口調で言ってやる。
「そううまくいくのかよ」
この化生のご機嫌を取ってやる義理はない。それに地を割ったレンギョウの魔法の凄まじさは先日目の当たりにしたばかりだ。対して破魔刀”茅”の能力は夢の中で見ただけ。感情としても体感としても、カヤの言葉に軽々しく頷けはしなかった。
「うまくいってもらわねば困る」
鼻白んだカヤの代わりに答えたのは意外にもクルミだった。あくまでアサザの方に視線は向けないまま、今度は何やら手紙に封印を施しているようだ。
「何せ即位したての新皇帝の初陣だからのう」
来たか。身構えた心を背中のカヤに気取られないよう気をつけたつもりだが、あまり自信はない。
「噂は聞いた。あんたが俺の即位式をとっとと済ませたがってるってな」
殊更に淡々と言う。いずれこうなることは分かっていたはずなのだ。今は己自身の動揺や戸惑いより、この老人や化生が即位の先に何を求めているのかを見極める方が大事だ。
「……で? 俺はいつ、皇帝になれるんだ?」
「明日にでも」
間髪入れない答えに、さすがに返す言葉を失う。にやにや笑いながら、後ろからカヤが顔を覗き込んできた。
『もそっと時が必要か? 心の準備とやらが』
「そんなものは必要ない。だが、いくらなんでも早すぎるんじゃないか?」
アザミ崩御からわずか五日。たったそれだけの時間しか経っていないのだ。あまりにも手際よく進められる手順。まるであらかじめ仕組まれてでもいたかのように——
思わず息を呑む。急すぎた父帝の死。着々と進められるアサザ即位のための準備。何よりも今まさに国王軍と干戈を交えようとしている、この時機。
まさか。
「そう睨むでない」
心底面倒くさげに、クルミはアサザの視線を遮って手を振った。
「おぬしの疑念は分かっておる。だが儂とて千里眼ではない。皇都の出来事まで構っておるほど暇でもないしの」
千里眼ならあるではないか。背後の化生を、きつい眼差しを緩めないまま振り返る。
「お前は? 関わっていないのか、本当に」
『何のことやら分からぬのう。言いたいことはもそっとはっきり申せ』
底の見えない冷笑を頬に貼り付かせたまま、カヤはアサザの肩をすいと離れる。
『興ざめだのう。煮えきらぬ男と、過ぎたことをぐちぐち連ねる男は大嫌いだ』
憎まれ口を叩くだけ叩いて、幼さを残した笑顔はふっと虚空に掻き消えた。思わず舌打ちを洩らしたアサザの背中に、老人の乾いた声が投げられる。
「即位式は四日後の正午、吊橋の完成と同時に行う。終了次第開戦じゃ。そのつもりでおれ」
「……なんだ、明日にでも即位できるんじゃなかったのか?」
こんな反駁しかできない自分が情けない。案の定クルミは盛大に溜息を吐いた。
「そんなになりたいなら勝手に冠をかぶるなり名乗るなりすればよかろ。そうして好きなだけ雷の的になれば良い」
準備が要るのじゃ、とクルミは呟く。それは恐らくアサザを即位させるためのものではない。
己の策を最も効果的に活かすための準備。
今度息を吐いたのはアサザの方。は、とわざと大げさに肩をすくめてクルミに背を向ける。
「準備でも悪だくみでも勝手にすればいいさ。どの道俺は騙し合いには向いてない」
天幕の出入り口をばさりと跳ね除ける。篝火に照らされてなお、夜空には幾つかの星が見えた。
そう。元々ごちゃごちゃした駆け引きに向いている脳みそではないのだ。
時が満ちれば、真っ向からレンギョウにぶつかっていける。それだけ分かっていれば十分な気がした。
「せいぜい効果的な式にしてくれよ、爺さん。腕の見せ所だ」
肩越しに精一杯の皮肉を投げつけて、アサザは夜気の中へ逃れ出た。
乾いた風が草原を吹き抜けた。頭上に雲はないが、ひとつところに幾日も留まり続けている人馬によって巻き上げられた枯れ草と土埃が空に舞う。
土の匂いを含んだ空気の中、アサザは軽く前方を振り仰いだ。視線の先には天幕の群を突き抜けて空へ伸びる吊橋の橋脚。太陽は早くもその縁を掠めて、天頂に昇ろうとしている。
戦場に戻って四日。クルミが即位式を行うと宣言した、その日の太陽が昇った。
「皇太子殿、そろそろお時間です」
金属の触れ合う音を響かせながら近寄ってきた兵士が敬礼を送ってくる。答礼するアサザも当然のように鎧姿だ。その肩に兵士が目を留めた。
「肩布……外さないのですか?」
ああ、とアサザは苦笑した。皇帝軍将帥を示す緋色と、皇太子を示す紫。二色を指先で引っ張って、無造作に背中に跳ね除ける。
「昼まではこの身分でいられるんだ。ぎりぎりまで着けてるよ」
むしろ先導する勢いで歩き始めたアサザを追いかけて、兵士が慌てて方向を示す。式典までの控え室として割り振られていたのは国王軍と正面から対峙する吊橋の袂に設置された天幕だった。
「アサザ!」
入り口を潜った途端、場違いに明るく幼い声が響いた。同時に腹のあたりに飛び込んできた小さな身体を、咄嗟に受け止める。
「カタバミ!? お前何でこんなところに」
腰にしがみついて見上げてくる瞳は、以前と変わらず丸く人懐っこい。お定まりの藍の衣装に身を包んでいるが、以前見たそれより新しくこざっぱりしているようだ。よく見ると二本のお下げ髪も丁寧に整えられ、どこかよそ行きの雰囲気を感じさせる。
「爺さがおらさこっちば来って手紙さくれたん。こっだば父ちゃんもおるし、おら一人だば山にも戻れんし、ずっと皇都? なんかさおってもしゃあないし。んだから来たった」
カタバミが差し出した手紙の封印に見覚えがあった。帰還した夜、クルミの手元にあったのと同じものだ。
——準備とはカタバミのことか。
こんな幼い娘まで。湧き上がる怒りを努めて抑えながら、アサザはカタバミの頭に手を載せる。
「そうか。よく来たと言いたいところだが、ここはこれから危なくなる。なるべく早く皇都か山か、どっちでも好きな方に送ってやるから、ちょっとの間大人しく待ってろよ」
あの老人が意味なくカタバミを呼ぶはずがない。具体的にどう使うつもりなのかなど見当もつかないが、いずれにせよそれがこの少女にとって良いものであるはずもない。
開戦まで時間がない。それまでせめて安全な場所に。
しかしアサザの手を邪魔っけに振り払ったのは当のカタバミだった。
「だめ。おら、やることばあるっけ」
「やること?」
どうやらクルミは既にカタバミへ役目を伝えてしまっていたらしい。下から見上げてくる思いのほか頑固な瞳の光にぶつかって、アサザは危うく飛び出しかけた舌打ちを辛うじて堪える。
「……何を言いつけられた?」
「ん。ちょっと待っててな」
素早く身を翻して、カタバミは天幕の奥へ引っ込んだ。何やらごそごそ音がしているのは、持参した荷物を漁っているかららしい。すぐに目当ての荷物を引っ張り出すことに成功したのだろう、嬉しげにこちらを振り返る。
「な、見てや」
カタバミは小さな両腕に抱えた包みを示した。梱包の布を解こうと、小さな指が一生懸命にあちこち動いている。不器用な動きがもどかしくて思わずアサザが腕を伸ばした、その時。
カタバミの指がようやく結び目を探り当てて、覆いが床に滑り落ちた。少女の腕の中に残ったもの、それを見てアサザの動きが止まる。硬直したアサザの表情にはまったく気づかないまま、カタバミは抱えた品を自慢げに見下ろして笑った。
「爺さがな。山さ下りてからずっと、いつかアサザにやるもんだからまていに作っとけって。何べんもやり直したっけ、こったら綺麗に出来たん」
カタバミはそれをアサザに差し出した。籐の太い蔓で幾重にも編まれたそれは、この島国の皇帝が戴く冠だった。父の、或いはそれより前の歴代皇帝の即位式の絵図に描かれていたものと寸分違わぬ皇位の証。
カタバミは小さく首を傾げた。絵図に例外なく描き込まれていた”山の民”の娘と同じように、冠を捧げ持って。
「爺さの手紙に、いよいよこればアサザにかぶせてやれって書いてあったっけ。今日の昼に、これば皆の前でかぶるんよな? したっけ、おら、まだ帰れん」
<予告編>
草原に横たわる境界線の向こう側、
国王軍の眼前で皇帝領の新時代の幕が開く。
それは紡ぎ手の誰一人として望んではいなかった、
終わりへと続く始まりの儀式。
奈落を渡る一筋の橋を隔て、
レンギョウは旧友へ向けて叫ぶ。
「来るな、皇帝! おぬしを撃ちたくはない!」
暗雲が広がるのは島国の冬空へか、
それとも——
『DOUBLE LORDS』結章2、
白い閃光が膠着を薙ぎ払う瞬間、銀色の終焉が解き放たれる。
——『聖王』よ、己の無力をとくと知るがいい。
そこで対峙した国王軍の目を疑うような人数も。
「皆ことごとく、我が魔法の餌食となるぞ」
懐かしい友の声と同時に放たれた『聖王』レンギョウの凄まじい魔法も。
そして、草原に深々と刻まれた谷を落ち着いて見下ろす暇もなく駆け込んできた、その報せも。
——皇帝アザミ、崩御。
それは欠片の現実感も帯びることなく、アサザの胸に衝撃だけを突き刺していった。
確かにやつれてはいた。珍しく体調の心配などもしていた。
けれど。
信じられなかった。
信じたくなかった。
アサザがただ呆然と弔旗を携えた使者を見返すことしかできぬうちに、傍らに控えていたクルミが矢継ぎ早に指示を出し始めた。
各隊、隊列を整え別命あるまで待機。
斥候担当は至急国王軍陣営に潜り、アザミの崩御が知れていないか調査。
先立っての地震で怪我をした者がいれば、今のうちに手当てをするように。
ふいにクルミが振り返った。
「さて、おぬしはどうする。”茅”の刃で皇都を映してみるか? それとも自らの目で父の死を確かめてくるかの?」
瞬間、駆け抜けた感情は何だっただろう。煮えたぎるほどに熱く、凍りつくほどに冷たく。目の前の老爺を殴りつけたい衝動が身体を支配するよりわずかに早く、気遣わしげな愛馬の息吹が聞こえた。
身体がひとりでに動いた。アサザが鞍に飛び乗ると同時、キキョウは全速力で走り始めた。賢い栗毛が自分で判断したのか、それともアサザが無意識に指示したのかは分からない。けれど一心に先を目指すキキョウの鼻先はまっすぐに北——皇都を向いていた。
皇帝軍の人馬で埋め尽くされた草原を泳ぐように駆け抜け、すり減った石畳が続く街道へ出る頃、背後から大きなどよめきが響いてきた。突然の訃報が陣内に広がっているのだろう。
ふいに天を衝くような慟哭が耳を貫いた。兵の一人だろうか。あの皇帝にここまでの忠誠を示す者がいるとは。
アサザの目に、まだ涙はない。蹄が地を踏む衝撃も、常と変らず頬に当たる風も、すべてがあやふやな非現実感に彩られていた。
夜を徹して駆け抜けた草原。皇都に着いたのはまだ明けきらぬ払暁の頃だった。主が不在のはずの都は思いのほか平穏を保っており、それが余計にアサザの非現実感を煽っていく。
たとえ殺しても大人しく死んでくれそうにはないあの性格だ。きっと久しぶりに暗殺騒ぎでもあって、その命知らずを手ずから返り討ちにしたことが戦場には間違って伝わったのだろう。
何度も己に言い聞かせながらも、どうしてこんなにも父帝の死を否定したいのかが自分でも分からなかった。
顔を合わせるたびに怒りを覚えるほど、嫌いだったはずだ。殺したいほど憎んだことさえある。
なのに何故今、こんなにも強く生きていてほしいと願うのか。
アサザの姿を認めたのだろう、皇都の門は内側から細く開けられた。無言のままの門番に、黒い不安が膨れ上がる。努めて平静を装いながら皇宮へ向かう。見慣れた門を幾つも潜り抜け、辿り着いた奥宮では侍従長以下、アザミの傍近くに仕えていた全員が総出でアサザを待っていた。
明らかに普段とは違う様子。泣き腫らした目で何事かを訴えようとする侍従長を無言で制し、アサザはうそ寒い廊下を足早に辿る。
アザミの部屋の扉を潜るのは初めてのことだった。何となく想像していた通り、やたらと重厚な、けれども必要最低限の家具が置かれているだけのだだ広い部屋だった。
寒々しい空間を横切って、奥の寝台に歩み寄る。目の当たりにすれば、あるいは実感できるのかもしれないと思っていた。
それでも、やはり。
目の前のものが信じられなかった。
今アサザの前に横たわっているのは、眉間の皺まで普段通りの見慣れた顔だった。最後に会ったのはわずかに二日前のこと。出陣式の時と同じく、アサザの側から呼びかけてみる。
「陛下」
最初に報せを受けた時には、嘘だろうと思った。けれどこうして顔を見てしまうと、尚更強くそう思った。安らかかどうかは疑問が残るにせよ、ここにあるのがいつもと変わらぬ表情であることに違いはないのだから。
ふいに胸が熱くなったのは、この空っぽの部屋に潜む父帝の孤独を垣間見てしまったからだろうか。
——皇帝陛下ともあろう人が、こんな部屋じゃ寂しいでしょう。
常と変らぬ仏頂面にしかし、不肖の息子の差し出口を拒む色は浮かばない。拒絶も、嫌悪も、侮蔑も——ついに一度も見ることのなかった、温かな表情も。
「陛下」
この声はアザミの鼓膜を震わせるのだろうか。
けれど止まってしまった心を震わせることはもう、ない。
「陛下」
返事がないことは分かっている。
だから。
「——父上」
届かなくなって初めて、口に出せる言葉があるのだと知った。
アサザが再び戦場へ向かったのは、それから三日後の朝のことだった。キキョウの蹄は正確に街道の石畳を踏んで、まっすぐ南へ向かっている。
今、アサザの周囲には誰もいない。往路は護衛をつける余裕などなかったというのが実情だが、戦場へ戻る今回はアサザ自身が随伴を断った。今皇都に残っている戦力は近衛隊のみ、あの虚栄だけ立派な近衛隊長に身辺警護を任せる気になど、到底なれなかった。
どの道一刻を争う早駆けだ。一騎の方が疾い。
のんびりと葬礼を行っている場合ではなかった。国王軍の軍勢が瞼の裏に蘇る。同時にあの地震と、草原に刻まれた峡谷を。アサザ自身が率いる軍が、今もなおそれらと対峙しているのだ。
国王軍が動いたという報告は入っていない。だが今後も動かないという保証もない。できる限り速く、戻らなければ。
皇帝という要を失った皇都には、もう一刻の猶予も許されていない。
感情に流されていい局面ではない。あくまで冷静に、為すべきことを最優先に。そう思うほどに、耳に蘇る声がある。
——皇帝陛下を弑し奉ったのは。
侍従の一人が咽び泣きながら零した言葉。
弟、兄。そして最後に残った父までも呑み込んだ墓所の扉の前で聞いた告発。涙で震える侍従の声とは対照的に、磨き上げられた黒御影に映し出された己の顔は氷のように無表情だった。
スギが暗殺犯ならば、自警団が無関係でないはずがない。
そして、国王レンギョウも。
父の亡骸は、最低限の礼だけを尽くして黒御影の扉の向こうに見送るしかなかった。それは廃太子として送り出したアオイの葬儀より簡素で淋しく、慌しいもので。
後日、国王軍討伐後に慣例どおりの大々的な葬祭を行うことになるのだろう。
けれど。
独りになって草原の風を頬に受けた瞬間、涙が溢れた。
父帝の背中が瞼の裏に映る。言ってやりたいことがたくさんあった。
突然逝ってしまったという理不尽に。手を下した者がいるという事実に。こんな別れ方しかできなかったという現実に。己自身も驚くほどの大きな喪失感に。
どうして。
キキョウの鬣に落ちる雫と同じだけ、最早誰にもぶつけようのない疑問が胸の中で渦巻いていた。
顔はまっすぐに正面を向いている。伸ばした背筋は蹄が地面を蹴る衝撃にも揺るがない。かつてあれほど嫌悪した父帝と同じ形の皺を眉間に刻み、嗚咽が洩れないように唇をきつく結んで。
握り締めた手綱にまたひとつ、氷のような涙が零れ落ちた。
冬の夕闇は足が早い。キキョウ自慢の駆け脚でも、日があるうちに戦場に辿り着くことができなかった。
アサザは小さく咳払いをした。涙は既に止まっていたが、喉に違和感が残っている。こんな掠れ声のまま他の戦士や”山の民”の面々と顔を合わせたくはなかった。
草原の宵闇は深い。星明りの下、彼方に橙色の帯が見える。宿営地の篝火だ。夕日の残照が尽きても、その明かりを頼りに街道を辿れば必ず本陣に戻ることができる。
キキョウは少し疲れているようだった。いつもより重くなった足運びを労るように、首筋を軽く叩いてやる。
「キキョウ、もう少しだ。頑張ってくれ」
賢い愛馬は小さく鼻を鳴らして応えてくれた。夜空に流れる真っ白な息の行方を見るともなしに見遣って、アサザはふと動きを止める。
宿営地の篝火に変化はない。だが連なる天幕の向こう側に、何やら大きな影が見えるのは気のせいだろうか。
もう一度確認しようと鞍の上で伸び上がった、その時。
「貴様、ここで何をしている」
緊張を孕んだ誰何の声が闇の中から放たれる。咄嗟にアサザは手綱を引いた。同時に有無を言わせぬ鞘走りの音が周囲の空気を震わせる。
「すぐに馬を下りて手を上げろ。速やかに所属と名を言え」
道を塞いだのは二人の兵士だった。乏しい明かりに影絵となって浮かぶ鎧の形は皇帝軍のもの。宿営地警護の当番兵だろう。
アサザは苦笑しながら鞍を下りた。さて、自分の所属は一体どこになるのだろう。
「所属は……たぶん本陣近辺のどこか。名はアサザだ」
言われたとおりに両手を頭の上に上げて、アサザは名乗った。心配していたほど声の調子は悪くない。
眼前の兵士が訝しげな視線を向けてくるのが分かる。そんなに自分には貫禄が備わっていないのか。むしろ可笑しく思いながら、纏った緋紫二色の肩布と”茅”を示す。
「一応、皇帝軍将帥ってやつなんだが。通してもらうことはできないか?」
闇を透かして肩布の色を認めた瞬間、二人の兵士は息を呑んでその場にひれ伏した。
「こ、皇太子殿!」
「申し訳ありません! 知らぬこととはいえ、とんだご無礼を」
先程までのあらわな敵意はどこへやら、二人はすっかり縮こまってしまった。その変わりようにアサザの方が困惑してしまう。
「ああ、気にしなくてもいいって。こんな真っ暗じゃ色なんて見えないし、俺がこんなところふらふらしてるなんて思わなかっただろうしな」
「しかし皇太子殿が皇都へ戻られたことは皆が知っております。お帰りになる際はこの街道を通るであろうことも、少し考えれば容易に分かること」
「それをこともあろうに敵の斥候と間違えるなど……本当に申し訳ありませんでした」
どうして彼らがそこまでアサザを恐れるのか。その理由に思い至って、アサザの胸に苦いものが広がる。
「いい、気にするな。こんな些細なことで俺はお前たちを罰したりはしない」
二人が顔を上げる。まだ幼さを残した顔立ちはいずれもアサザより幾つか年下に見える。やはり罰を恐れていたのだろう。彼らが安堵より先に浮かべたのは疑念の表情だった。
「しかし、皇帝陛下の前で粗相をした者は例外なく罰せられると聞いておりましたが」
「俺は陛下とは違う」
言った瞬間、胸がずきりと痛んだ。
そう、違う。これから変えていかなければならないのだ。
誰を道標とするでもなく、アサザ自身が良いと信じる方向へ。
「だから心配は要らない。これからもさっきと同じように、責任を持ってそれぞれの仕事に励んでくれ」
二人から目を逸らしてキキョウの手綱を引き寄せたアサザの背中に、兵士の声が覆いかぶさる。
「ではやはり、皇太子殿が即位すれば世の中は変わるんですね」
驚いてアサザは振り返る。二人の兵士は互いに頷き合って、期待を含んだ眼差しをアサザに向けていた。
「皇太子殿は国王を打破して新しい世を作る、次の皇帝陛下」
「クルミ様が即位式を急がれているのも、一刻も早く国王を倒すためだとか」
「それにこの戦で手柄を立てれば、俺たちみたいな下っ端でも出世できるんですよね」
兵士たちの矢継ぎ早な言葉の中に混じった聞き流せない情報を、慌ててアサザは拾い上げた。
「ちょっと待て。クルミが俺の即位を急いでるだと?」
顔を見合わせて、二人は同時に頷いた。
「はい。できる限り速やかに挙行できるよう、既に準備を進められております」
「ご即位をきっかけに、これからどんどん世の中が変わっていって」
「まずはこの戦で皇太子殿が国王を倒して、この島を統一して」
「そうすれば俺たちのように戦士の家柄じゃない皇民も、頑張り次第で引き立ててもらえる世がきっと来る」
新しい時代への期待。
兵士たちの瞳が宿す熱の正体に気づいて、思わずアサザは言葉を失った。
父帝に限らず、これまでの皇帝は皆、戦士の血を引く者を重用してきた。皇家の始祖であるアカザや草創期の猛将グースフットなどに代表される生粋の『戦士』の血統——それを引く者は父祖の遺した家系を継ぐだけで、自動的に皇都での役職までも手に入る。
逆に言えば、限られたこれらの血脈に組み込まれていない皇民はどう足掻こうとも一定以上の位に就くことはできない。時折金銭で戦士の職を買い求めることができる幸運な者もいるが、それとて下位の役職にとどめられる上に、他の戦士からは蔑みの目を向けられ続けることになる。
戦士として本当に認められるには戦で手柄を立てるしかない。現在、特権を享受している職業戦士の先祖がそうだったように。
そして今、国王軍との戦が現実のものになった。さらに皇帝崩御と新帝即位が重なろうとしている。長い平和に慣れきってろくに指揮もできない戦士が多い中、腕に覚えのある皇民が出世を夢見てもおかしくはない状況なのだ。
「そのためにはまず、目の前の国王軍を何とかしないとですよね」
「そうそう。まずはあの亀裂を乗り越えて国王軍を叩く」
「橋、早く完成するといいな」
耳慣れない言葉にアサザは眉根を寄せる。浮かんだのはレンギョウの魔法によって刻まれたあの巨大な渓谷。あれに橋を架けるのだとしたら。
彼方の宿営地の闇を、目を凝らして見つめる。先程見えた大きな影、あれがもしや。
無言でアサザはキキョウの背に飛び乗った。これ以上、クルミやカヤが自分のあずかり知らぬところで事態を動かすのを見過ごす気にはなれない。
道の脇に飛びのいた兵士たちの敬礼が視界の端を流れ去っていく。
新帝の即位と皇民登用の噂。指摘されて初めて気づいた自分もいい加減迂闊だと思う。けれど同時に時機が良すぎる、とも思った。
噂は戦場では貴重な情報だ。そして情報操作は諜報活動の一環でもある。咄嗟に思い出した顔はスギ、その次にクルミ。どちらにせよ、悪い予感しかしないことに変わりはない。
——こんなものを渡した私のことを恨むこともあるかもしれない。
アオイが遺した言葉が耳に蘇る。
「恨みはしませんけど。兄上、俺、このままだとものすごく性格悪くなりそうですよ」
吹き去る風の中に、ぼやきはあっという間にかき消されていく。キキョウの蹄音が響くごと、宿営地の篝火に照らされた巨大な影は不吉に揺らめいた。
「ようやく戻られたか」
白髪の老爺はアサザの顔を一瞥したきり、興味なさげに視線を逸らして中断していた仕事を再開した。
「待ってたならお帰りなさいくらい言えよ。アカネだってそのくらいの愛想はあったぜ」
「あいにくこの歳で躾を受けなおす気にはなれぬ」
俺だって爺の再教育なんて御免だ、という本音は腹の底に飲み込んでおく。文句を述べる代わりに、不在の数日ですっかり変貌してしまった天幕の中を見回した。
国王軍と対峙して以来本陣を置いてきた宿営地最大のこの天幕は、今やクルミ専用の作戦本部になってしまったようだ。皇都に向かう前は見かけなかった書類の束や地図、測量器具やその他よく分からない装置や道具で空間のほとんどが占拠されている。
「……俺がいない方が、あんたの仕事ははかどってたんじゃないのか?」
零れた本音が思いがけず皮肉めいていたことに、アサザ自身が驚く。
無造作に床に放られている描きかけの橋の設計図。机の上に束ねられた資材の受け渡し票。老人の傍にある古びた書物は開きっぱなしのまま栞を挟まれて放置されている。
鼻を鳴らして、クルミは手元の書類に署名を加えた。肩越しに見遣ると、それはどうやら遅れている建材の納入を急かす書簡のようだった。
「あの谷に橋を架けるんだろ?」
単刀直入に訊いてみる。本陣に——レンギョウが作った谷に近づくにつれ、闇の中から姿を現したのは六本の柱だった。二本一組の濃い影が天幕の上で揺らめいている。それが左右と正面に、計三組。
「よくあんな木材がこんなにすぐ調達できたな」
「戦をすれば物は壊れるのが道理。あらかじめ”山の民”へ物資の準備は命じてあったからの。もっともこんな大物を作ることになるとは思わなんだから、支柱の丸太は在庫分しか用意できておらぬ」
三組ではとても足りぬが仕方あるまい、と老爺は首を振る。確かに皇帝軍すべてを向こう側に渡すには橋三脚では間に合うまい。だがそれ以前に。
「随分作業は順調なようだが。あのでかぶつ、作ってる途中で魔法で狙い撃ちにされないのか?」
ふ、と呆れたような溜息が返ってくる。
「どうせ壊すなら派手にやる方が良かろう。どの道、魔法を遣うのは国王じゃ」
クルミはそれ以上説明する気がないらしい。首をひねりながら自力で考えてみる。
自分が橋を壊すとしたら。確かに建設途中に破壊してしまうのも一手だが、完成するまで山岳地帯から資材はどんどん届くのだ。それでは容易に修復されてしまわないか。
ならばいつ。物理的にも精神的にも、皇帝軍の立ち直りを遅らせることができる時機は。
「……橋が完成して、俺たちが渡ろうとしている瞬間か」
大掛かりな突貫工事の完成、そして目前で焦らされた開戦。満を持して今まさに攻め込もうとした瞬間、圧倒的な魔法でできたばかりの橋が壊されたとしたら。
皇帝軍の士気は一気に低下するだろう。そして場を支配する空気はただ一色に塗りつぶされる。
『聖王』レンギョウへの恐怖と畏怖に。
『しかしこちらには我がおる。我を携えたおぬしがな』
耳元に笑いを含んだ声が落ちる。滴るほどの悪意を滲ませて、アサザの首筋にカヤの腕が背後から絡められる。
『無敵のはずの王の魔法が通じぬと悟った時の兵たちの顔……考えるだけで愉快でたまらぬ』
出陣以降随分大人しかったと思いきや。ここ数日、カヤは楽しい空想に耽ることで忙しかったらしい。今更怒る気にもなれないが、せめて突き放した口調で言ってやる。
「そううまくいくのかよ」
この化生のご機嫌を取ってやる義理はない。それに地を割ったレンギョウの魔法の凄まじさは先日目の当たりにしたばかりだ。対して破魔刀”茅”の能力は夢の中で見ただけ。感情としても体感としても、カヤの言葉に軽々しく頷けはしなかった。
「うまくいってもらわねば困る」
鼻白んだカヤの代わりに答えたのは意外にもクルミだった。あくまでアサザの方に視線は向けないまま、今度は何やら手紙に封印を施しているようだ。
「何せ即位したての新皇帝の初陣だからのう」
来たか。身構えた心を背中のカヤに気取られないよう気をつけたつもりだが、あまり自信はない。
「噂は聞いた。あんたが俺の即位式をとっとと済ませたがってるってな」
殊更に淡々と言う。いずれこうなることは分かっていたはずなのだ。今は己自身の動揺や戸惑いより、この老人や化生が即位の先に何を求めているのかを見極める方が大事だ。
「……で? 俺はいつ、皇帝になれるんだ?」
「明日にでも」
間髪入れない答えに、さすがに返す言葉を失う。にやにや笑いながら、後ろからカヤが顔を覗き込んできた。
『もそっと時が必要か? 心の準備とやらが』
「そんなものは必要ない。だが、いくらなんでも早すぎるんじゃないか?」
アザミ崩御からわずか五日。たったそれだけの時間しか経っていないのだ。あまりにも手際よく進められる手順。まるであらかじめ仕組まれてでもいたかのように——
思わず息を呑む。急すぎた父帝の死。着々と進められるアサザ即位のための準備。何よりも今まさに国王軍と干戈を交えようとしている、この時機。
まさか。
「そう睨むでない」
心底面倒くさげに、クルミはアサザの視線を遮って手を振った。
「おぬしの疑念は分かっておる。だが儂とて千里眼ではない。皇都の出来事まで構っておるほど暇でもないしの」
千里眼ならあるではないか。背後の化生を、きつい眼差しを緩めないまま振り返る。
「お前は? 関わっていないのか、本当に」
『何のことやら分からぬのう。言いたいことはもそっとはっきり申せ』
底の見えない冷笑を頬に貼り付かせたまま、カヤはアサザの肩をすいと離れる。
『興ざめだのう。煮えきらぬ男と、過ぎたことをぐちぐち連ねる男は大嫌いだ』
憎まれ口を叩くだけ叩いて、幼さを残した笑顔はふっと虚空に掻き消えた。思わず舌打ちを洩らしたアサザの背中に、老人の乾いた声が投げられる。
「即位式は四日後の正午、吊橋の完成と同時に行う。終了次第開戦じゃ。そのつもりでおれ」
「……なんだ、明日にでも即位できるんじゃなかったのか?」
こんな反駁しかできない自分が情けない。案の定クルミは盛大に溜息を吐いた。
「そんなになりたいなら勝手に冠をかぶるなり名乗るなりすればよかろ。そうして好きなだけ雷の的になれば良い」
準備が要るのじゃ、とクルミは呟く。それは恐らくアサザを即位させるためのものではない。
己の策を最も効果的に活かすための準備。
今度息を吐いたのはアサザの方。は、とわざと大げさに肩をすくめてクルミに背を向ける。
「準備でも悪だくみでも勝手にすればいいさ。どの道俺は騙し合いには向いてない」
天幕の出入り口をばさりと跳ね除ける。篝火に照らされてなお、夜空には幾つかの星が見えた。
そう。元々ごちゃごちゃした駆け引きに向いている脳みそではないのだ。
時が満ちれば、真っ向からレンギョウにぶつかっていける。それだけ分かっていれば十分な気がした。
「せいぜい効果的な式にしてくれよ、爺さん。腕の見せ所だ」
肩越しに精一杯の皮肉を投げつけて、アサザは夜気の中へ逃れ出た。
乾いた風が草原を吹き抜けた。頭上に雲はないが、ひとつところに幾日も留まり続けている人馬によって巻き上げられた枯れ草と土埃が空に舞う。
土の匂いを含んだ空気の中、アサザは軽く前方を振り仰いだ。視線の先には天幕の群を突き抜けて空へ伸びる吊橋の橋脚。太陽は早くもその縁を掠めて、天頂に昇ろうとしている。
戦場に戻って四日。クルミが即位式を行うと宣言した、その日の太陽が昇った。
「皇太子殿、そろそろお時間です」
金属の触れ合う音を響かせながら近寄ってきた兵士が敬礼を送ってくる。答礼するアサザも当然のように鎧姿だ。その肩に兵士が目を留めた。
「肩布……外さないのですか?」
ああ、とアサザは苦笑した。皇帝軍将帥を示す緋色と、皇太子を示す紫。二色を指先で引っ張って、無造作に背中に跳ね除ける。
「昼まではこの身分でいられるんだ。ぎりぎりまで着けてるよ」
むしろ先導する勢いで歩き始めたアサザを追いかけて、兵士が慌てて方向を示す。式典までの控え室として割り振られていたのは国王軍と正面から対峙する吊橋の袂に設置された天幕だった。
「アサザ!」
入り口を潜った途端、場違いに明るく幼い声が響いた。同時に腹のあたりに飛び込んできた小さな身体を、咄嗟に受け止める。
「カタバミ!? お前何でこんなところに」
腰にしがみついて見上げてくる瞳は、以前と変わらず丸く人懐っこい。お定まりの藍の衣装に身を包んでいるが、以前見たそれより新しくこざっぱりしているようだ。よく見ると二本のお下げ髪も丁寧に整えられ、どこかよそ行きの雰囲気を感じさせる。
「爺さがおらさこっちば来って手紙さくれたん。こっだば父ちゃんもおるし、おら一人だば山にも戻れんし、ずっと皇都? なんかさおってもしゃあないし。んだから来たった」
カタバミが差し出した手紙の封印に見覚えがあった。帰還した夜、クルミの手元にあったのと同じものだ。
——準備とはカタバミのことか。
こんな幼い娘まで。湧き上がる怒りを努めて抑えながら、アサザはカタバミの頭に手を載せる。
「そうか。よく来たと言いたいところだが、ここはこれから危なくなる。なるべく早く皇都か山か、どっちでも好きな方に送ってやるから、ちょっとの間大人しく待ってろよ」
あの老人が意味なくカタバミを呼ぶはずがない。具体的にどう使うつもりなのかなど見当もつかないが、いずれにせよそれがこの少女にとって良いものであるはずもない。
開戦まで時間がない。それまでせめて安全な場所に。
しかしアサザの手を邪魔っけに振り払ったのは当のカタバミだった。
「だめ。おら、やることばあるっけ」
「やること?」
どうやらクルミは既にカタバミへ役目を伝えてしまっていたらしい。下から見上げてくる思いのほか頑固な瞳の光にぶつかって、アサザは危うく飛び出しかけた舌打ちを辛うじて堪える。
「……何を言いつけられた?」
「ん。ちょっと待っててな」
素早く身を翻して、カタバミは天幕の奥へ引っ込んだ。何やらごそごそ音がしているのは、持参した荷物を漁っているかららしい。すぐに目当ての荷物を引っ張り出すことに成功したのだろう、嬉しげにこちらを振り返る。
「な、見てや」
カタバミは小さな両腕に抱えた包みを示した。梱包の布を解こうと、小さな指が一生懸命にあちこち動いている。不器用な動きがもどかしくて思わずアサザが腕を伸ばした、その時。
カタバミの指がようやく結び目を探り当てて、覆いが床に滑り落ちた。少女の腕の中に残ったもの、それを見てアサザの動きが止まる。硬直したアサザの表情にはまったく気づかないまま、カタバミは抱えた品を自慢げに見下ろして笑った。
「爺さがな。山さ下りてからずっと、いつかアサザにやるもんだからまていに作っとけって。何べんもやり直したっけ、こったら綺麗に出来たん」
カタバミはそれをアサザに差し出した。籐の太い蔓で幾重にも編まれたそれは、この島国の皇帝が戴く冠だった。父の、或いはそれより前の歴代皇帝の即位式の絵図に描かれていたものと寸分違わぬ皇位の証。
カタバミは小さく首を傾げた。絵図に例外なく描き込まれていた”山の民”の娘と同じように、冠を捧げ持って。
「爺さの手紙に、いよいよこればアサザにかぶせてやれって書いてあったっけ。今日の昼に、これば皆の前でかぶるんよな? したっけ、おら、まだ帰れん」
***************************************************************
<予告編>
草原に横たわる境界線の向こう側、
国王軍の眼前で皇帝領の新時代の幕が開く。
それは紡ぎ手の誰一人として望んではいなかった、
終わりへと続く始まりの儀式。
奈落を渡る一筋の橋を隔て、
レンギョウは旧友へ向けて叫ぶ。
「来るな、皇帝! おぬしを撃ちたくはない!」
暗雲が広がるのは島国の冬空へか、
それとも——
『DOUBLE LORDS』結章2、
白い閃光が膠着を薙ぎ払う瞬間、銀色の終焉が解き放たれる。
——『聖王』よ、己の無力をとくと知るがいい。
凍えるような冷気に白い息が溶ける瞬間、斜め横からの日差しが目に痛いほど輝いて瞼の裏に残像を残した。
黒い、影。
いつまでも消えないそれの正体が己の中に潜む迷いだと、とうにレンギョウは気づいている。
アザミ崩御の報以来、皇帝軍側の動きは逐一報告されていた。レンギョウが魔法で作り上げた大亀裂を乗り越えるための吊り橋の建設。さらには、橋の落成に合わせて新帝の即位式が行われるという情報も。
吊り橋への対策は既に固まっていた。
即位式に合わせ、国王軍の主力を左右の吊り橋前に展開。中央正面にはレンギョウ自らが立ち、皇帝軍を牽制する。
勿論それしきのことで皇帝軍が萎縮して式典を取りやめるとは思っていない。眼前で強行されるであろう式の直後に、三基ある橋のうち正面の一基を魔法で落とす。向こう岸が混乱に陥ったところで、すかさず残った左右の橋を国王軍が渡り攻撃を仕掛ける。
新帝即位で上がった士気に冷水を浴びせるため、レンギョウ自身が提案した策だった。
犠牲を最小限に抑える為に魔法を遣う。それが『聖王』たる自分の役目。そう自覚すればするほど、レンギョウの心は沈んでいく。
今回の作戦について、イブキは一切口を挟まなかった。あの男のことだ、レンギョウに気を遣ったということはないだろう。黒い影を背負った男はレンギョウの出方を見極めているのだ。『聖王』であり、『新皇帝』の友人でもある、この自分の。
すっかり馴染みとなった鳩尾の痛み。小さく息を吐いてレンギョウは彼方の草原へ視線を向ける。
悩むな。迷うな。
しかし。
皇帝に会うことが親征の目的だった。アザミと会見し、この国のこれからのあり方を話し合う。それが長い間二人の領主の間で利用され続けてきた中立地帯の状況を改善すると同時に、ここまで緊迫してしまった両都間のいざこざを収束させる唯一の道であると。
それは相手がアサザになったところで同じはずだった。むしろ面識があるだけ話し合いは円滑に進むはず、そういう希望的観測さえ持っていた。
何度も考えた。アサザと同じ卓に着き、この国の未来を話し合うことを。
だが。
どんなに考えても、具体的な話し合いの内容が浮かんでこない。何を話せばいいのか、分からない。
自分は、『聖王』は、この国をどうしたい?
国王領の民を守りたいか? 躊躇いなく頷ける。
中立地帯を救いたいのか? 己にその力があるのなら。
皇帝領を滅ぼしたいのか? ……おそらく、違う。
ならばどうする。中立地帯が味方につけば、二つの領主の力の均衡など簡単に覆る。そもそもがこの小さな島に二つの領主が併存していること自体に無理があったのだ。ここでレンギョウやアサザが現在の問題を解決したとしても、時代が下れば必ず新しい問題が持ち上がり二人の領主は争い合うだろう。そして中立地帯が巻き込まれ、この島の民が死ぬ。
レンギョウは遠い未来のことにまで責任は持てない。その時代の問題はその時代に生きている人間に解決してもらうしかない。今、レンギョウがそうしているように。
だが遠い過去——創国の時代から続く矛盾には、そろそろ終止符を打っても良いのではないか。
時の霞の向こう側、垣間見た記憶。
真なる魔王・蓮が心から願ったのは一人の人間としての、当たり前の幸せだった。蓮が自らの命と幸せと引き換えにたぐり寄せようとした夢は、皮肉にも彼女を失ったことによって歪められ、ねじ曲げられて、今この時代の人間にまで絡みつく呪いとなってしまっている。
元の願いがどんなに尊く美しいものであったとしても、現在を生きる者の妨げになるのであれば——それはただの亡霊だ。
「陛下」
呼びかけに振り返ると、白銀の甲冑に身を包んだ兵が立っていた。
「皇帝軍に動きがあったようです」
「分かった」
恭しい所作を崩さないまま先導する国王兵の後ろ姿を、レンギョウは見つめる。主が迷いを抱えていることなど想像もしていないであろう、その背中。
ふと、問いかけたくなったのは何故だろう。己一人では結論の出ない、堂々巡りの自問自答を。
「おぬしは、余が皇帝を倒すことを望んでおるのか?」
白銀の国王兵はぴたりと足を止めた。一瞬の沈黙を経て返って来た声は、思いの外落ち着いている。
「陛下の島国統一を望む者は周囲に多くおります」
「そうか」
「しかし私は——必ずしもそれを望んでおりません」
レンギョウの眉がぴくりと跳ねた。
「何故だ?」
「不敬を申し上げました。申し訳ありません、どうかお忘れいただけますよう」
「咎めているわけではない。何故おぬしは余の統一を望まぬ?」
今度の間は間違いなく逡巡の時間だろう。一呼吸の後、白銀の兵はまっすぐレンギョウに向き直った。
「決して陛下が統べる国を望んでいないわけではありません。しかし私は、第三皇子の引き渡しに居合わせてしまった」
「……そうか。おぬし、あの時の」
「はい。スミレと申します」
第三皇子アカネの遺体を引き渡す際、皇帝兵の不意打ちを叩き落とした手槍の主。あの時レンギョウの身を守った手は、今きつく握りしめられて彼自身の胸へ置かれている。
「陛下をお護りすることが私の使命。それは今も変わらず私の誇りです。しかしあの時、陛下はご自身が危険に晒されたことより、皇子が害されたことやあの女戦士が悲しんでいることにお心を痛められていた」
レンギョウは何も言わずにスミレを見やる。否、何も言えなかった。
「皆は単純に陛下が皇帝を打倒してこの国を統一すればいいと言います。けれど私が知る陛下は、きっとそのようなことは望まないでしょう。ご自分の民と同様に、皇都の戦士たちにさえお心を寄せられるお方ですから」
俯き加減だったスミレの顔が上げられる。レンギョウを見つめ返す瞳はあくまで真摯で真っ直ぐだ。
「ですから私は、ただ陛下が心から望む道を歩まれることを願っております。どうぞ悔いを残されませぬよう」
「おぬし……」
「差し出がましいことを申しました。お許しくださいませ」
視線を切り頭を下げるスミレにレンギョウは頷く。もとより責めるつもりなどない。
「構わぬ。おぬしの心、嬉しく思う」
そう、嬉しい気持ちに偽りはない。だが同時に胃の腑に走る痛みもまた現実だった。
自分自身が望むこと。後悔しない選択。
それが、分からない。
しかし現実には迷っている時間などない。スミレはレンギョウを正確に先導した。出陣準備のため忙しく立ち働く兵士たちの隙間を縫って導かれた場所は、見晴らしのいい草原の一角だった。
「レン」
斥候の報告を受けていたシオンがレンギョウの到着に気づいて手招いた。
「動きがあったと聞いたが。式典の準備が始まったのか?」
「ええ。天幕を畳んで、隊列を整え始めている」
報告によると、隊列の真ん中の空間だけがぽっかりと空白になっているそうだ。おそらくそこで即位式を行うのであろう、という斥候の言葉に頷いて、レンギョウは次の指示を出す。
今朝動きがあることは分かっていたから、国王軍側も既に行動に出ている。戦力となる国王軍正規兵や中立地帯自警団は前方へ。中立地帯で合流し、国王と皇帝の交渉を見守ろうとついてきた義勇兵たちは天幕や食糧、資材を積んだ荷車部隊と一緒に後方へ。予め配置を分けておいたため、十二万という大所帯にも関わらず大きな混乱もなく整列は進んでいるようだった。
「よう陛下。護衛を置いて作戦会議とは感心しませんな」
見ると、今更のようにイブキが姿を現したところだった。ちらりと一瞥をくれ、レンギョウはすぐに北の空へと目を向ける。
「身辺におらぬ護衛などにいちいち伺いを立てる気にはなれぬ」
「え、いつも傍にいないの?」
シオンの当然すぎる疑問に答える気はないらしく、イブキはへらりと笑って誤魔化した。
「まぁまぁ。いざという時にはきちっと働くから堅いこと言うなよ。なぁ陛下?」
「そうだのう。おぬしにも今日はきっちり働いてもらわねばな」
今回の作戦ではレンギョウが最前線に立つ。正面の橋を落としてしまえば危険はほぼ皆無になるとはいえ、それまではどこよりも敵陣に近い位置に出ることになるのだ。当然、護衛役のイブキが果たす役割も大きくなる。
後ろで待機していたスミレの元に白銀鎧の兵が歩み寄った。二言三言の報告を受け、頷いたスミレが進み出る。
「陛下。白銀近侍、全隊準備が整いました」
恭しく頭を下げるスミレに頷き返し、自らの迷いを断ち切るようにレンギョウはきっぱりと宣言した。
「では、往くか」
整然と、粛々と、白銀鎧の隊列は進む。どれほど中立地帯の民を吸収しようと、自警団に主力を譲ろうと、最も傍近くで国王レンギョウを守るのは自分たちだと無言のうちに主張するかのような、乱れのない歩調で。
その静けさは周囲の自警団にも波及する。戦を目前に控えて全体に漂っていた浮ついた高揚感、それが最前列を占める国王軍精鋭を中心に鎮まり、適度な緊張を孕んだ空気へと塗り替えられてゆく。
国王軍の最前線、中央の吊り橋の正面でレンギョウは対岸を見つめていた。ここからは『聖王』の魔法が吊り橋を落とす瞬間を皇帝軍に見せつけるため、最も効果的な時機を見計らわねばならない。
橋を壊した直後の攻撃に備え、魔法部隊の貴族五名は予め左右の軍へ振り分けてあった。いざ戦端が開かれれば、魔法攻撃の要は彼らが担うことになる。
全軍の整列が終わる頃、十二万の軍勢は水を打ったように静まり返っていた。皆が固唾を呑んで見守る先、大亀裂の対岸では皇帝軍も布陣を完成させつつある。国王軍が全員北面——皇帝軍側を向いているのに対し、皇帝軍は必ずしもそうではなかった。
「こうも堂々と背を向けられると、正直複雑だのう」
苦笑まじりにレンギョウが一人ごちる。吊り橋の向こう、正面に整然と並んだ鋼色の兵たちは国王軍と同じく北を向いていた。勿論、皇帝軍の全員が背を向けているわけではない。レンギョウの位置からは見えないが、おそらく右側に配置された兵は西を向き、左側に配置された兵は東を向いているのだろう。
彼らの中心、斥候の報告にあった空白地帯から不思議な音が響いてきた。音域も節回しも統一されていない、けれど奇妙な一体感を持った、その旋律。
「破魔の弓鳴りか」
呟く声を拾い、レンギョウは傍らの護衛を見上げる。その視線に気づいたのか、イブキは軽く肩をすくめて亀裂の向こうに目をやった。
「先帝——と言っていいのかね。前回もこうやって”山の民”が弓弦を鳴らす中で戴冠したんだ」
レンギョウは無言で頷く。では、いよいよ即位式が始まったのだ。
皇帝軍十万は今、国王軍と対峙しているのではない。彼らが戴く新たな皇帝が誕生する瞬間を見届けようとしているのだ。
皇帝即位の式次第など、無論レンギョウの知識にはない。だが戦場での戴冠や即位が普通ではないことは間違いない。
皇帝アザミの予期せぬ死による混乱を最小限に留めるため、あくまで儀礼的に行われる式典。準備にかける時間もほとんどなかったはずだから、すべて終わるまでにそう時間はかからないはずだ。
即位式が終われば、目の前の鋼色は一斉に反転するだろう。新たな領主を戴いた高揚と歓喜のままに。
——そして、彼らを束ねる新領主こそがアサザなのだ。
「式が終わるまで陛下は撃ってこない、と確信してるみたいだな」
暗渠に落ちかけた思考をイブキの声が引き戻す。鷲鼻の男は彼方の皇帝軍へ眇めた眼差しを向けたままだ。
「何が言いたい」
きり、と胃が痛んだ。
「それが誰であろうとも、即位式の邪魔立てをするほど余は無粋ではない」
「何のことだ? 俺は別に何も言ってないぜ」
片眉を上げたイブキがしれっと答える。知らず吐いた息と一緒に、レンギョウの肩の力も抜けた。
「おぬしの言葉、誤解されやすいと言われぬか?」
「そうだな。モテモテの美男子だった頃、女の子によく言われたっけかな」
今も立派な美中年だけどな、と笑い混じりに続いた発言をあっさり聞き流して、レンギョウは再び対岸に注意を向ける。いつしか弓鳴りはやみ、不気味なほどの静寂が橋の向こうを覆っていた。
「それにしても、少々静かすぎるとは思わぬか」
「皇帝領は何につけ空気が重いから、こんなもんだと思うぜ」
「ふむ」
そんなものかと納得しかけた瞬間だった。
ざわ、と声なき声が走った。対岸の兵たちが静かにどよめき、息を呑む。
「——何だ?」
注視するレンギョウたち国王軍の眼前で、静かな波紋は皇帝軍の中心から端々へと広がっていく。微かなざわめきが次第に大きな快哉へ。意味を成さぬ声の集合の中、ふいによく通る声が叫んだ。
「皇帝陛下、万歳!」
思わずレンギョウは息を詰める。アサザが、即位した。
既に新帝を讃える声は対岸に満ちあふれていた。これまでの静寂が嘘のように熱狂し、口々にアサザの名を叫んでいる。
ふいに対岸の人垣が割れた。皇帝軍の中心から、レンギョウの眼前にある吊り橋まで伸びる一本道。できたばかりの通路に、鎧の群が一斉に向き直る。彼らが響かせる鈍い金属音が、威圧感を伴ってこちら側に立つ者の鼓膜を叩いた。
「反転、来るぞ! 敵襲に備えよ!!」
よく通る声の主はススキだろうか。橋の向こう側とは対照的な張りつめた静けさを保ったまま、国王軍は来るべき戦闘へ向けて緊張を高めていく。
最前線に立ったレンギョウは、鋼色の通路の先を見つめている。先陣を切るのは、あの若葉色の瞳の女戦士だろうか。それとも。
馬蹄の音が耳を叩く。最初は一騎。やや時を置いて、それは一気に群をなした轟きとなる。
通路の向こうに黒い点が見えた。後ろに続く鋼色の波とは明らかに違う色彩、紫の肩布が栗毛の馬上に翻る。
「……アサザ」
我知らず零れた呟きは希望か、絶望か。迫り来る現実に未だ確たる答えを掴めぬまま、レンギョウは右手を上げる。
夢で見た蓮の仕草を辿るように。
——あんたが迷った分だけ、兵は死ぬ。
いつかのイブキの声が耳を聾するほどに頭の中で響いている。
撃ちたくない。撃たなければ。
相反する心に震える指と視界。何とか目標の吊り橋を捉え、そこに落ちる雷を思い描く。十二万の命を預かる長として、魔法で彼らを束ねる聖王として、せめて己に課した任務は果たさねば。
上空に黒雲が湧き起こる。国王、皇帝双軍からどよめきが起きた。みるみる暗雲に覆われる空、畏怖も恐怖も圧する雷鳴が草原の空気を震わせる。
「来るな、皇帝! 余はおぬしを撃ちたくはない!」
この距離で、ましてこの雷鳴で、レンギョウの声が届くはずもない。だからアサザが笑ったように感じたのは間違いなく気のせいだ。
生ぬるい風がその場にいるすべてを撫で疾り、両軍の中間に位置する吊り橋へと収斂する。
一呼吸の後、天が吼えた。それが桁外れの雷鳴だと理解できた者はその場にどれほどいただろう。視界のすべてを白く染め上げ、稲妻は真っ直ぐに吊り橋を目指す。
瞬間、閃いた光。
雷より鋭いその光は地上に抜き放たれたもの。アサザが手にした抜き身の”茅”が、天空の残光を集めて燐光を放つ。
否、燐光は刀身自体から発せられていた。刃から零れた光は瞬く間に黒鎧の周辺に溢れ、一気に皇帝軍全体を覆いつくしていく。
圧力さえ伴った轟音がその場にいる全員を叩いた。人馬の悲鳴さえ呑み込んで、光と音がその場のすべてを支配する。
残響の中、レンギョウは伏せていた瞼を上げた。徐々に色彩を取り戻していく視界の隅、空の黒雲は早くも散じ始めている。地上に薄日が射した。弱い光が黒々と眼前の建造物の影を描き出す——縄一本損なわれてはいない、吊り橋の姿を。
「……何故」
呆然とレンギョウは呟く。確かにあの橋の破壊を願ったはず。
対岸に目を向ける。鋼色の兵団は健在のようだった。一様に踞り顔を伏せているのは、無意識に雷を避けようとしたせいだろう。戦場に慣れているはずの騎馬ですら棒を呑んだように立ち尽くしているのが見える。
その騎馬団の先頭、黒鎧姿の戦士を乗せた栗毛だけが首を上げ、耳を立てて静かに佇んでいた。その騎手の右手には抜き身の刃。
銀髪の聖王と、黒鎧の皇帝。広い草原でただ二人、顔を上げた領主たちの視線が交錯した。
呼びかけは声にならなかった。アサザの持つ刀から零れる燐光がふいに量を増し、見間違いようのない輪郭で中空に一つの姿を描いていく。
「……な」
燐光そのままの透き通るような白い肌、人形のように整った目鼻立ち、冷たさを帯びた銀青色の瞳、そして滝のように流れ落ちる長く豊かな銀髪。目を見張るレンギョウ自身とよく似た、けれど決定的に温度の違う微笑がそれの頬に浮かぶ。
『ようやく逢えたな、魔王の末裔よ』
響いた声に確かに聞き覚えがあった。いつかの夢の中、幼さを帯びた娘の面影が瞬時に浮かぶ。
「まさか……御先祖様!?」
レンギョウの声に満足そうな表情を見せ、それはふわりと空へと飛び立った。レンギョウを、アサザを、彼らが率いる兵たちを悠然と見回して、その姿を見せつけるかのように細い両腕を広げる。
『再び戦場に顕現叶いしこと、心から嬉しく思う。我が名は破魔刀”茅”。魔法により創られ、魔法を破るために存在するもの』
”茅”の声は決して大きくはない。しかし楽しげな色さえ帯びたそれは両軍の隅々まで響き、聞き逃しようのない明瞭さで聞く者の耳に届く。
『我の力を信じるも信じぬも自由。だが見ての通り雷の後も橋は健在だ。のう?』
ざわ、と浮き足立ったのは国王軍。動揺が細波のように広がる様に隠しきれない愉悦を滲ませて、光の化生は婉然たる笑みを浮かべた。
『橋は我が守った。我の前で魔法は効かぬ』
今度反応したのは皇帝軍の方。魔法への畏怖で萎縮していた手足に力が戻ったのか、背筋を伸ばして天へ、”茅”へと吼える。その瞳にしっかりと対岸の国王軍を見据えて。
『己の無力をとくと知るがいい、聖王よ』
重い蹄鉄の響きが”茅”の声に重なった。突撃を再開した皇帝軍が一斉に三つの橋を目指して動き出した。
中央の橋を最初に駆け抜けたのはアサザだった。若葉色の飾り紐をつけた兜がその後を追う。
「こりゃまずい。陛下、退くぞ」
イブキに腕を掴まれても、レンギョウは上空に縫い止められた視線を逸らすことが出来なかった。そこに居る自分に、夢の中の少女によく似た、悪意に満ちた眼差し。
「何故……どうして、貴女が」
知らず零した言葉が、迫り来る蹄鉄の轟音にかき消される。
——皇帝軍、進軍開始。
<予告編>
”山の民”が奏でる破魔の旋律。
幼い両手に抱えられた冠に、
息を詰めて見守る兵たちに、
アサザは問う。
「皇帝とは、何だ」
皇帝になりたいと思ったことなど一度もない。
けれど。
守りたいものがあった。
守れなかったものがある。
だからこそ。
「力を貸してほしい。この国の、未来のために」
『DOUBLE LORDS』結章3、
黒鎧の戦士が駆け抜けた橋は
並び立つ二人の領主が目指す未来へと続く道なのか。
——長い物語の終わりが、始まる。
黒い、影。
いつまでも消えないそれの正体が己の中に潜む迷いだと、とうにレンギョウは気づいている。
アザミ崩御の報以来、皇帝軍側の動きは逐一報告されていた。レンギョウが魔法で作り上げた大亀裂を乗り越えるための吊り橋の建設。さらには、橋の落成に合わせて新帝の即位式が行われるという情報も。
吊り橋への対策は既に固まっていた。
即位式に合わせ、国王軍の主力を左右の吊り橋前に展開。中央正面にはレンギョウ自らが立ち、皇帝軍を牽制する。
勿論それしきのことで皇帝軍が萎縮して式典を取りやめるとは思っていない。眼前で強行されるであろう式の直後に、三基ある橋のうち正面の一基を魔法で落とす。向こう岸が混乱に陥ったところで、すかさず残った左右の橋を国王軍が渡り攻撃を仕掛ける。
新帝即位で上がった士気に冷水を浴びせるため、レンギョウ自身が提案した策だった。
犠牲を最小限に抑える為に魔法を遣う。それが『聖王』たる自分の役目。そう自覚すればするほど、レンギョウの心は沈んでいく。
今回の作戦について、イブキは一切口を挟まなかった。あの男のことだ、レンギョウに気を遣ったということはないだろう。黒い影を背負った男はレンギョウの出方を見極めているのだ。『聖王』であり、『新皇帝』の友人でもある、この自分の。
すっかり馴染みとなった鳩尾の痛み。小さく息を吐いてレンギョウは彼方の草原へ視線を向ける。
悩むな。迷うな。
しかし。
皇帝に会うことが親征の目的だった。アザミと会見し、この国のこれからのあり方を話し合う。それが長い間二人の領主の間で利用され続けてきた中立地帯の状況を改善すると同時に、ここまで緊迫してしまった両都間のいざこざを収束させる唯一の道であると。
それは相手がアサザになったところで同じはずだった。むしろ面識があるだけ話し合いは円滑に進むはず、そういう希望的観測さえ持っていた。
何度も考えた。アサザと同じ卓に着き、この国の未来を話し合うことを。
だが。
どんなに考えても、具体的な話し合いの内容が浮かんでこない。何を話せばいいのか、分からない。
自分は、『聖王』は、この国をどうしたい?
国王領の民を守りたいか? 躊躇いなく頷ける。
中立地帯を救いたいのか? 己にその力があるのなら。
皇帝領を滅ぼしたいのか? ……おそらく、違う。
ならばどうする。中立地帯が味方につけば、二つの領主の力の均衡など簡単に覆る。そもそもがこの小さな島に二つの領主が併存していること自体に無理があったのだ。ここでレンギョウやアサザが現在の問題を解決したとしても、時代が下れば必ず新しい問題が持ち上がり二人の領主は争い合うだろう。そして中立地帯が巻き込まれ、この島の民が死ぬ。
レンギョウは遠い未来のことにまで責任は持てない。その時代の問題はその時代に生きている人間に解決してもらうしかない。今、レンギョウがそうしているように。
だが遠い過去——創国の時代から続く矛盾には、そろそろ終止符を打っても良いのではないか。
時の霞の向こう側、垣間見た記憶。
真なる魔王・蓮が心から願ったのは一人の人間としての、当たり前の幸せだった。蓮が自らの命と幸せと引き換えにたぐり寄せようとした夢は、皮肉にも彼女を失ったことによって歪められ、ねじ曲げられて、今この時代の人間にまで絡みつく呪いとなってしまっている。
元の願いがどんなに尊く美しいものであったとしても、現在を生きる者の妨げになるのであれば——それはただの亡霊だ。
「陛下」
呼びかけに振り返ると、白銀の甲冑に身を包んだ兵が立っていた。
「皇帝軍に動きがあったようです」
「分かった」
恭しい所作を崩さないまま先導する国王兵の後ろ姿を、レンギョウは見つめる。主が迷いを抱えていることなど想像もしていないであろう、その背中。
ふと、問いかけたくなったのは何故だろう。己一人では結論の出ない、堂々巡りの自問自答を。
「おぬしは、余が皇帝を倒すことを望んでおるのか?」
白銀の国王兵はぴたりと足を止めた。一瞬の沈黙を経て返って来た声は、思いの外落ち着いている。
「陛下の島国統一を望む者は周囲に多くおります」
「そうか」
「しかし私は——必ずしもそれを望んでおりません」
レンギョウの眉がぴくりと跳ねた。
「何故だ?」
「不敬を申し上げました。申し訳ありません、どうかお忘れいただけますよう」
「咎めているわけではない。何故おぬしは余の統一を望まぬ?」
今度の間は間違いなく逡巡の時間だろう。一呼吸の後、白銀の兵はまっすぐレンギョウに向き直った。
「決して陛下が統べる国を望んでいないわけではありません。しかし私は、第三皇子の引き渡しに居合わせてしまった」
「……そうか。おぬし、あの時の」
「はい。スミレと申します」
第三皇子アカネの遺体を引き渡す際、皇帝兵の不意打ちを叩き落とした手槍の主。あの時レンギョウの身を守った手は、今きつく握りしめられて彼自身の胸へ置かれている。
「陛下をお護りすることが私の使命。それは今も変わらず私の誇りです。しかしあの時、陛下はご自身が危険に晒されたことより、皇子が害されたことやあの女戦士が悲しんでいることにお心を痛められていた」
レンギョウは何も言わずにスミレを見やる。否、何も言えなかった。
「皆は単純に陛下が皇帝を打倒してこの国を統一すればいいと言います。けれど私が知る陛下は、きっとそのようなことは望まないでしょう。ご自分の民と同様に、皇都の戦士たちにさえお心を寄せられるお方ですから」
俯き加減だったスミレの顔が上げられる。レンギョウを見つめ返す瞳はあくまで真摯で真っ直ぐだ。
「ですから私は、ただ陛下が心から望む道を歩まれることを願っております。どうぞ悔いを残されませぬよう」
「おぬし……」
「差し出がましいことを申しました。お許しくださいませ」
視線を切り頭を下げるスミレにレンギョウは頷く。もとより責めるつもりなどない。
「構わぬ。おぬしの心、嬉しく思う」
そう、嬉しい気持ちに偽りはない。だが同時に胃の腑に走る痛みもまた現実だった。
自分自身が望むこと。後悔しない選択。
それが、分からない。
しかし現実には迷っている時間などない。スミレはレンギョウを正確に先導した。出陣準備のため忙しく立ち働く兵士たちの隙間を縫って導かれた場所は、見晴らしのいい草原の一角だった。
「レン」
斥候の報告を受けていたシオンがレンギョウの到着に気づいて手招いた。
「動きがあったと聞いたが。式典の準備が始まったのか?」
「ええ。天幕を畳んで、隊列を整え始めている」
報告によると、隊列の真ん中の空間だけがぽっかりと空白になっているそうだ。おそらくそこで即位式を行うのであろう、という斥候の言葉に頷いて、レンギョウは次の指示を出す。
今朝動きがあることは分かっていたから、国王軍側も既に行動に出ている。戦力となる国王軍正規兵や中立地帯自警団は前方へ。中立地帯で合流し、国王と皇帝の交渉を見守ろうとついてきた義勇兵たちは天幕や食糧、資材を積んだ荷車部隊と一緒に後方へ。予め配置を分けておいたため、十二万という大所帯にも関わらず大きな混乱もなく整列は進んでいるようだった。
「よう陛下。護衛を置いて作戦会議とは感心しませんな」
見ると、今更のようにイブキが姿を現したところだった。ちらりと一瞥をくれ、レンギョウはすぐに北の空へと目を向ける。
「身辺におらぬ護衛などにいちいち伺いを立てる気にはなれぬ」
「え、いつも傍にいないの?」
シオンの当然すぎる疑問に答える気はないらしく、イブキはへらりと笑って誤魔化した。
「まぁまぁ。いざという時にはきちっと働くから堅いこと言うなよ。なぁ陛下?」
「そうだのう。おぬしにも今日はきっちり働いてもらわねばな」
今回の作戦ではレンギョウが最前線に立つ。正面の橋を落としてしまえば危険はほぼ皆無になるとはいえ、それまではどこよりも敵陣に近い位置に出ることになるのだ。当然、護衛役のイブキが果たす役割も大きくなる。
後ろで待機していたスミレの元に白銀鎧の兵が歩み寄った。二言三言の報告を受け、頷いたスミレが進み出る。
「陛下。白銀近侍、全隊準備が整いました」
恭しく頭を下げるスミレに頷き返し、自らの迷いを断ち切るようにレンギョウはきっぱりと宣言した。
「では、往くか」
整然と、粛々と、白銀鎧の隊列は進む。どれほど中立地帯の民を吸収しようと、自警団に主力を譲ろうと、最も傍近くで国王レンギョウを守るのは自分たちだと無言のうちに主張するかのような、乱れのない歩調で。
その静けさは周囲の自警団にも波及する。戦を目前に控えて全体に漂っていた浮ついた高揚感、それが最前列を占める国王軍精鋭を中心に鎮まり、適度な緊張を孕んだ空気へと塗り替えられてゆく。
国王軍の最前線、中央の吊り橋の正面でレンギョウは対岸を見つめていた。ここからは『聖王』の魔法が吊り橋を落とす瞬間を皇帝軍に見せつけるため、最も効果的な時機を見計らわねばならない。
橋を壊した直後の攻撃に備え、魔法部隊の貴族五名は予め左右の軍へ振り分けてあった。いざ戦端が開かれれば、魔法攻撃の要は彼らが担うことになる。
全軍の整列が終わる頃、十二万の軍勢は水を打ったように静まり返っていた。皆が固唾を呑んで見守る先、大亀裂の対岸では皇帝軍も布陣を完成させつつある。国王軍が全員北面——皇帝軍側を向いているのに対し、皇帝軍は必ずしもそうではなかった。
「こうも堂々と背を向けられると、正直複雑だのう」
苦笑まじりにレンギョウが一人ごちる。吊り橋の向こう、正面に整然と並んだ鋼色の兵たちは国王軍と同じく北を向いていた。勿論、皇帝軍の全員が背を向けているわけではない。レンギョウの位置からは見えないが、おそらく右側に配置された兵は西を向き、左側に配置された兵は東を向いているのだろう。
彼らの中心、斥候の報告にあった空白地帯から不思議な音が響いてきた。音域も節回しも統一されていない、けれど奇妙な一体感を持った、その旋律。
「破魔の弓鳴りか」
呟く声を拾い、レンギョウは傍らの護衛を見上げる。その視線に気づいたのか、イブキは軽く肩をすくめて亀裂の向こうに目をやった。
「先帝——と言っていいのかね。前回もこうやって”山の民”が弓弦を鳴らす中で戴冠したんだ」
レンギョウは無言で頷く。では、いよいよ即位式が始まったのだ。
皇帝軍十万は今、国王軍と対峙しているのではない。彼らが戴く新たな皇帝が誕生する瞬間を見届けようとしているのだ。
皇帝即位の式次第など、無論レンギョウの知識にはない。だが戦場での戴冠や即位が普通ではないことは間違いない。
皇帝アザミの予期せぬ死による混乱を最小限に留めるため、あくまで儀礼的に行われる式典。準備にかける時間もほとんどなかったはずだから、すべて終わるまでにそう時間はかからないはずだ。
即位式が終われば、目の前の鋼色は一斉に反転するだろう。新たな領主を戴いた高揚と歓喜のままに。
——そして、彼らを束ねる新領主こそがアサザなのだ。
「式が終わるまで陛下は撃ってこない、と確信してるみたいだな」
暗渠に落ちかけた思考をイブキの声が引き戻す。鷲鼻の男は彼方の皇帝軍へ眇めた眼差しを向けたままだ。
「何が言いたい」
きり、と胃が痛んだ。
「それが誰であろうとも、即位式の邪魔立てをするほど余は無粋ではない」
「何のことだ? 俺は別に何も言ってないぜ」
片眉を上げたイブキがしれっと答える。知らず吐いた息と一緒に、レンギョウの肩の力も抜けた。
「おぬしの言葉、誤解されやすいと言われぬか?」
「そうだな。モテモテの美男子だった頃、女の子によく言われたっけかな」
今も立派な美中年だけどな、と笑い混じりに続いた発言をあっさり聞き流して、レンギョウは再び対岸に注意を向ける。いつしか弓鳴りはやみ、不気味なほどの静寂が橋の向こうを覆っていた。
「それにしても、少々静かすぎるとは思わぬか」
「皇帝領は何につけ空気が重いから、こんなもんだと思うぜ」
「ふむ」
そんなものかと納得しかけた瞬間だった。
ざわ、と声なき声が走った。対岸の兵たちが静かにどよめき、息を呑む。
「——何だ?」
注視するレンギョウたち国王軍の眼前で、静かな波紋は皇帝軍の中心から端々へと広がっていく。微かなざわめきが次第に大きな快哉へ。意味を成さぬ声の集合の中、ふいによく通る声が叫んだ。
「皇帝陛下、万歳!」
思わずレンギョウは息を詰める。アサザが、即位した。
既に新帝を讃える声は対岸に満ちあふれていた。これまでの静寂が嘘のように熱狂し、口々にアサザの名を叫んでいる。
ふいに対岸の人垣が割れた。皇帝軍の中心から、レンギョウの眼前にある吊り橋まで伸びる一本道。できたばかりの通路に、鎧の群が一斉に向き直る。彼らが響かせる鈍い金属音が、威圧感を伴ってこちら側に立つ者の鼓膜を叩いた。
「反転、来るぞ! 敵襲に備えよ!!」
よく通る声の主はススキだろうか。橋の向こう側とは対照的な張りつめた静けさを保ったまま、国王軍は来るべき戦闘へ向けて緊張を高めていく。
最前線に立ったレンギョウは、鋼色の通路の先を見つめている。先陣を切るのは、あの若葉色の瞳の女戦士だろうか。それとも。
馬蹄の音が耳を叩く。最初は一騎。やや時を置いて、それは一気に群をなした轟きとなる。
通路の向こうに黒い点が見えた。後ろに続く鋼色の波とは明らかに違う色彩、紫の肩布が栗毛の馬上に翻る。
「……アサザ」
我知らず零れた呟きは希望か、絶望か。迫り来る現実に未だ確たる答えを掴めぬまま、レンギョウは右手を上げる。
夢で見た蓮の仕草を辿るように。
——あんたが迷った分だけ、兵は死ぬ。
いつかのイブキの声が耳を聾するほどに頭の中で響いている。
撃ちたくない。撃たなければ。
相反する心に震える指と視界。何とか目標の吊り橋を捉え、そこに落ちる雷を思い描く。十二万の命を預かる長として、魔法で彼らを束ねる聖王として、せめて己に課した任務は果たさねば。
上空に黒雲が湧き起こる。国王、皇帝双軍からどよめきが起きた。みるみる暗雲に覆われる空、畏怖も恐怖も圧する雷鳴が草原の空気を震わせる。
「来るな、皇帝! 余はおぬしを撃ちたくはない!」
この距離で、ましてこの雷鳴で、レンギョウの声が届くはずもない。だからアサザが笑ったように感じたのは間違いなく気のせいだ。
生ぬるい風がその場にいるすべてを撫で疾り、両軍の中間に位置する吊り橋へと収斂する。
一呼吸の後、天が吼えた。それが桁外れの雷鳴だと理解できた者はその場にどれほどいただろう。視界のすべてを白く染め上げ、稲妻は真っ直ぐに吊り橋を目指す。
瞬間、閃いた光。
雷より鋭いその光は地上に抜き放たれたもの。アサザが手にした抜き身の”茅”が、天空の残光を集めて燐光を放つ。
否、燐光は刀身自体から発せられていた。刃から零れた光は瞬く間に黒鎧の周辺に溢れ、一気に皇帝軍全体を覆いつくしていく。
圧力さえ伴った轟音がその場にいる全員を叩いた。人馬の悲鳴さえ呑み込んで、光と音がその場のすべてを支配する。
残響の中、レンギョウは伏せていた瞼を上げた。徐々に色彩を取り戻していく視界の隅、空の黒雲は早くも散じ始めている。地上に薄日が射した。弱い光が黒々と眼前の建造物の影を描き出す——縄一本損なわれてはいない、吊り橋の姿を。
「……何故」
呆然とレンギョウは呟く。確かにあの橋の破壊を願ったはず。
対岸に目を向ける。鋼色の兵団は健在のようだった。一様に踞り顔を伏せているのは、無意識に雷を避けようとしたせいだろう。戦場に慣れているはずの騎馬ですら棒を呑んだように立ち尽くしているのが見える。
その騎馬団の先頭、黒鎧姿の戦士を乗せた栗毛だけが首を上げ、耳を立てて静かに佇んでいた。その騎手の右手には抜き身の刃。
銀髪の聖王と、黒鎧の皇帝。広い草原でただ二人、顔を上げた領主たちの視線が交錯した。
呼びかけは声にならなかった。アサザの持つ刀から零れる燐光がふいに量を増し、見間違いようのない輪郭で中空に一つの姿を描いていく。
「……な」
燐光そのままの透き通るような白い肌、人形のように整った目鼻立ち、冷たさを帯びた銀青色の瞳、そして滝のように流れ落ちる長く豊かな銀髪。目を見張るレンギョウ自身とよく似た、けれど決定的に温度の違う微笑がそれの頬に浮かぶ。
『ようやく逢えたな、魔王の末裔よ』
響いた声に確かに聞き覚えがあった。いつかの夢の中、幼さを帯びた娘の面影が瞬時に浮かぶ。
「まさか……御先祖様!?」
レンギョウの声に満足そうな表情を見せ、それはふわりと空へと飛び立った。レンギョウを、アサザを、彼らが率いる兵たちを悠然と見回して、その姿を見せつけるかのように細い両腕を広げる。
『再び戦場に顕現叶いしこと、心から嬉しく思う。我が名は破魔刀”茅”。魔法により創られ、魔法を破るために存在するもの』
”茅”の声は決して大きくはない。しかし楽しげな色さえ帯びたそれは両軍の隅々まで響き、聞き逃しようのない明瞭さで聞く者の耳に届く。
『我の力を信じるも信じぬも自由。だが見ての通り雷の後も橋は健在だ。のう?』
ざわ、と浮き足立ったのは国王軍。動揺が細波のように広がる様に隠しきれない愉悦を滲ませて、光の化生は婉然たる笑みを浮かべた。
『橋は我が守った。我の前で魔法は効かぬ』
今度反応したのは皇帝軍の方。魔法への畏怖で萎縮していた手足に力が戻ったのか、背筋を伸ばして天へ、”茅”へと吼える。その瞳にしっかりと対岸の国王軍を見据えて。
『己の無力をとくと知るがいい、聖王よ』
重い蹄鉄の響きが”茅”の声に重なった。突撃を再開した皇帝軍が一斉に三つの橋を目指して動き出した。
中央の橋を最初に駆け抜けたのはアサザだった。若葉色の飾り紐をつけた兜がその後を追う。
「こりゃまずい。陛下、退くぞ」
イブキに腕を掴まれても、レンギョウは上空に縫い止められた視線を逸らすことが出来なかった。そこに居る自分に、夢の中の少女によく似た、悪意に満ちた眼差し。
「何故……どうして、貴女が」
知らず零した言葉が、迫り来る蹄鉄の轟音にかき消される。
——皇帝軍、進軍開始。
***************************************************************
<予告編>
”山の民”が奏でる破魔の旋律。
幼い両手に抱えられた冠に、
息を詰めて見守る兵たちに、
アサザは問う。
「皇帝とは、何だ」
皇帝になりたいと思ったことなど一度もない。
けれど。
守りたいものがあった。
守れなかったものがある。
だからこそ。
「力を貸してほしい。この国の、未来のために」
『DOUBLE LORDS』結章3、
黒鎧の戦士が駆け抜けた橋は
並び立つ二人の領主が目指す未来へと続く道なのか。
——長い物語の終わりが、始まる。
”山の民”特有の頑朴な弓は、無骨な外見に似合わず高く澄んだ弦音を響かせる。強く剛く張られた弦は、もとより音を奏でるためのものではない。ゆえに音律も揃わず、速度もばらばら。だが百を超える奏で手が一斉に弦を爪弾くと、不思議と統一された旋律として耳に響いてくる。
皇帝の即位の際、必ず奏でられる”山の民”の破魔の弓鳴り。前回の演奏、つまり父帝の即位はアサザが生まれるよりずっと前のこと。話に聞いたことはあっても、実際に耳にするのは初めてだ。
——どんな音なんだろうね。聴いてみたい、と思うのはやっぱり不敬になるのかな。
記憶の中の幼い兄が悪戯っぽい微笑みを零す。音の響きのみで一瞬にして場の空気を塗り替える力を持つ韻律。これが。
——兄上、聴こえていますか。
空へと一つ息を吐き、アサザは正面に向き直る。自分のために弓が鳴る日が来るなど、あの頃は想像もしていなかった。
しかし今、林立する鋼色の鎧の中心にアサザはいる。
潮が引くように弓鳴りの音が収まった。
相対した皇帝軍の隊列の前に陣取った”山の民”の一団から、小さな影がそっと押し出されてきた。村長である父の手を離れ、進み出てきたのはカタバミだ。今日は帽子をかぶっていない。いつもより上等な藍色の鮮やかな服を着て、お下げ髪にも”山の民”の娘らしく彩豊かな紐を編み込んでいる。
母と同じ髪紐。朧な記憶が胸の奥を掠める。
腕に抱えているのは先日見せてもらった冠だ。重みはないがかさばるそれを抱えると、途端にカタバミの足取りはあやしくなる。途中で転ばないか見守る者をひやひやさせつつ、なんとか無事にカタバミはアサザの前に辿り着いた。頬を上気させ、カタバミは得意げにアサザを見上げてくる。
「ほれ。ちゃんと転ばんで来れたべ?」
「……そうだな」
張りつめた空気が和らいだ。しかし当のカタバミは唇を尖らせたまま、何やら不満げな様子だ。
「頭」
「ん?」
「下げてくれんと、届かんべや」
言って、カタバミは冠を捧げ持ったまま背伸びをした。おそらく限界まで伸び上がっているのだろうが、冠の先端はアサザの胸元にようやく届くかどうかというところで震えている。
「ああ、悪い」
かがみ込んで、そのまま冠ごとカタバミの身体を抱え上げる。
「やっ、ちゃうべ、おめさが頭さ下げるんだべや」
幼い抗議は意に介さず、アサザはカタバミの手から冠を取り上げた。一呼吸だけ、手の中の冠を見つめる。
意外なほど軽い。山岳地帯で採れる蔓性の植物を乾かして編み上げた、皇帝と”山の民”の友好の証。
「ごめんな。これが気に入らないわけじゃないんだが」
取り返そうとする小さな両手をかいくぐって、アサザはカタバミの頭に冠をかぶせた。
きょとんと、カタバミがまん丸な目で見上げてくる。オダマキはじめ”山の民”たちの驚愕した表情、兵士たちのどよめき、クルミの意外そうな顔。それらをひとしきり見回して、アサザはゆっくりと口を開いた。
「皇帝とは、何だ」
凛と響く声に、打たれたようにざわめきが鎮まっていく。それは問いかけの形ではあっても、明らかに誰かの答えを求める言葉ではなかった。問いかけの、その先。続きを促すように人々は自然とアサザへ視線を向ける。
「冠を戴いた者が皇帝か。ならば今、この瞬間に即位したのはこのちんちくりんということになる」
皆の視線を一身に受けながら、アサザは腕の中の少女を示す。
「おめ、ちんちくりんって」
「違うというなら、皇帝に成るための条件とは何だ。この国を統べる者と成るために必要なものとは何だ」
胸元から上がる抗議を無視して、アサザは言葉を継ぐ。
「皇帝の血を引く者か。この冠をかぶせられた者か。違う」
ふいに父の顔が胸に浮かんだ。兄の、弟の、母の、そして——夢で見た、黒鎧の戦士の面影も。
「冠を戴いたから皇帝に成るのではない。皆に戴かれて初めて、俺は皇帝に成れるんだ」
父がいて、兄がいた。数年前の自分に今日この日が来ると告げたところで、まったく信じはしなかっただろう。自分はアカネやブドウと共に皇帝を支える立場だと。それ以上を望むつもりなどないと。
「俺は多分、いい皇帝にはなれない。皇帝なんてものになりたいなんて思ったことは一度もないし、こんな冠をかぶる自分を想像したことさえなかった。だが」
今度浮かんだのはレンギョウの顔。夢の中の銀髪の少女の面影が記憶を掠めて、破魔刀に宿った化生に塗り替えられていく。その勝ち誇ったような笑みへ向けて、アサザは言う。
「俺はこの国を変えたい。生まれた場所が違うだけで皇帝だ、国王だと憎み合い殺し合う。こんな現在を変えたいんだ」
ようやく形を成した願いを握りしめ、目の前の兵たちに視線を向ける。全身に痛いほど感じる彼らの眼差し。
現在を変える。その一言で点した熱が、確かに伝わっていく。
「俺と一緒に現在を変えたいと思ってくれる者がいるなら、力を貸してほしい。この国の、未来のために」
次の瞬間に轟いた快哉は、紛うことなくアサザへの返答だった。空を揺らし、地に響く、アサザを新たな皇帝と認める声。
「皇帝陛下、万歳!」
よく通る声が耳に飛び込んできた。それをしおに意味を成さぬ喧噪は秩序を取り戻し、アサザを讃える声へと変化していく。
讃えられようが、崇められようが、望むことはただ一つ。
カタバミを抱えたまま、アサザは近くで控えていた近衛隊長へと歩み寄る。隊長は目の前の事態に完全に呑まれ、立ち竦んでいた。アサザの接近に気づいてびくりと顔を上げた彼の腕へ、すとんとカタバミの身体を落とす。
「勅命だ。この子を安全な場所で守り抜け」
編み込み髪の頭を冠ごとぽんと叩き、アサザは踵を返した。
「アサザ」
幼い呼びかけに小さく笑って応え、アサザは近くに控えた兵を一瞥する。目配せをきちんと汲み取った兵がすかさずキキョウを牽いてきた。手綱を受け取り、一息に鞍上へ飛び乗る。
「道を」
短い指示。それだけで充分に意味は通じた。国王軍と相対する南面の兵たちが、陣の真ん中から左右に分かれていく。移動中の鎧が触れ合う音。それが一呼吸だけ静まった後、鋭さを帯びた音色を奏でながら一斉に中央の通路へと向き直る。
出来上がった一本道は、突貫工事で作った例の吊り橋を経て国王軍に続いている。
この道の先は希望か、絶望か。
呼気と共に発した声を合図にキキョウは走り出す。迷いはなかった。どちらにせよ、既にもう前にしか道はないのだから。
鋼色の人垣を駆け抜ける途中、ふいに一人の兵の声が耳に飛び込んできた。
「無冠帝アサザ、万歳」
思わず苦笑が零れる。どうやら早くも綽名をつけられてしまったらしい。
「偉いんだか偉くないんだか」
揺れる視界の中、心は思いの外平静だった。前方には上気した顔のまま敬礼を向けてくる皇帝軍の兵たち。彼らの歓呼の声は瞬く間にすぐ後ろから響く鋼鉄の蹄音に取って代わり、儀式によって浮ついた雰囲気を本来の戦場の空気へと塗り替えていく。
鋼色の壁を抜ける頃、ふいに視界に影が落ちた。背中から吹き抜けてきた生ぬるい風で肩布が翻る。
——紫のまま。そういえば外す時機を逸したままキキョウを走らせてしまったのだった。
皇太子の身分を表す色。だがアサザがその色を選んだ理由こそ、きっとこの場ではふさわしい。
戦場では必ず、誰かが命を落とすのだから。
ふと見上げた空が雲に覆われていく。濃厚な雷の気配を纏った暗雲は瞬く間に頭上を覆い、厚く幾重にも重なっていく。
「……レン」
嫌でも目に入る聖王の明白な攻撃の意志。鈍色の空はどこまでも重く、わずかな希望さえ見出せないかに思える。だが。
『いつから私はお前の友人になったのだ?』
甦ったのはかつてのレンギョウの声。その時自分がどんな答えを返したのかは覚えていない。けれど多分、今とそう変わりはしないだろう。
死にたくない。
死なせたくない。
——向こうも、そう思ってくれているだろうか。
ついに雷鳴が鳴り響いた。鎧を突き抜け、体中の組織を揺さぶるような、低く圧倒的な音圧の中で。
「来るな皇帝! おぬしを撃ちたくはない!」
聞こえるはずがない。この距離で、この雷で。それでも。
笑みが零れた。
まだ、信じてくれている。だから自分が死ぬのも、レンギョウが死ぬのも嫌だ。
戦わなければならない。聖王とではなく。国王軍とでもなく。
皇帝と国王を、アサザとレンギョウを、戦わせようとする意志と。この島国が辿ってきた歴史と。
——そのためになら、命を賭けても惜しくはない。
空気が変わった。生ぬるい風が頬を撫で、鎧越しの大気の帯電濃度が跳ね上がる。
一瞬の判断。だが間違いなく自分の意志でアサザは”茅”を抜き放った。ちりちりと細かく震える宙を裂いて、雷光を映す刃を上空に翳す。
出番だ、おばば。俺はもう、逃げない。
刹那、視界が白一色に塗りつぶされた。落ちた、と頭より先に身体が理解する。そして。
天が吼えた。それは音というより既にして衝撃で、鼓膜に届くより先に全身の皮膚に叩きつけてくる。聴覚はあっという間に存在理由を放棄した。長いようで短い、一時の沈黙。
静寂の余韻と共に世界に溢れた光は次第に薄れていく。自分の腕が、キキョウの頭が、徐々に輪郭と色を取り戻し、本来の形を取り戻していく。目に映るそれには雷に打たれた痕はおろか、瑕疵一つ見当たらない。
ただ一つ、”茅”の刀身だけが変化していた。吸い込まれるような鋼の刃、それが纏う燐光が零れるほどに強く煌びやかに瞬いている。否、光は”茅”自身から溢れていた。
周囲を見回す。予想に反してカヤの姿は見当たらない。代わりに目に入ったのは周囲にいる兵たちの姿。皆一様に頭を抱えて踞っているものの、倒れたり怪我をしている様子は見えない。音に敏感なはずの馬たちも、かつて遭遇したことのない雷鳴に度肝を抜かれたのか、嘶き一つ零さず立ち尽くしている。
”茅”はこれ以上ないほど完璧に役割を果たしていた。
軽く手綱を引かれて、アサザは目線を傾ける。大音響に驚いたのはキキョウとて同じはず、だが聡明な愛馬は次に為さねばならないことを予期しているかのようにまっすぐ首を上げて前方を見据えていた。
一本道は続いていた。草原を切り裂く大亀裂に渡された吊り橋、対岸の人の群。あれだけ大規模な魔法だ、橋のこちら側だけを雷で覆うなどという器用なことはできなかったはず。その証拠に国王の味方であるはずの自警団や近侍兵までも皇帝軍と同様に防御の姿勢を取って地面に伏せている。
顔を上げて立っているのは、ただ一人。
「レン」
風に流れる、見間違いようのない銀髪。華奢なのに不思議と大きく見える、凛とした立ち姿。この距離では顔かたちの委細など見えはしない。だがそこにあるのは間違いなく、アサザの記憶の中にある友人の姿だった。
過ぎ去った時間に重ねる久闊より、これから刃を交えるのだという悲愴より。
声を詰まらせたのは孤独だった。敵も味方もなく、圧倒的な魔力で総てを跪かせる聖王の姿。恐怖はなかった。ただただ痛ましくて、やり切れない感情だけがこみ上げてくる。
なんだよ。お前、味方にまで怖がられてるのかよ。そんな奴らに作法の師匠とやらから習った偉そうな言葉で命令してるのかよ。毎日、毎日。
——そんなの、寂しすぎるだろう。
広い草原を隔てて、顔を上げた領主たちの視線が交錯する。レンギョウが何か言いたげに腕を上げた、その時。
”茅”から溢れる燐光がふいに量を増した。瞬時に意味を悟ったところで、アサザはそれを止める術など持ってはいない。ただ見守るしかできない中空で光は縒り集まり、明確な意志で一つの姿を形作っていく。
「……出たな、おばば」
せめてもの意趣を込めて呟くと、すかさず凍てつかんばかりの眼光が降ってきた。視線の温度は変えないまま、カヤは婉然たる微笑を唇に湛えて戦場を見回す。居合わせた者が皆ひれ伏す光景に昏い満足を口の端に散らして、破魔刀の化身は彼方の聖王をひたと見据えた。
『ようやく逢えたな、魔王の末裔よ』
これだけの距離を隔てていても、レンギョウが驚いているのが見て取れる。自分と生き写しの化生が現れたからというだけの理由ではあるまい。
——おぬしが見た夢。王も同じものを見ておるぞ。
あの日アサザが見た創国の幻を、本当にレンギョウも見ていたのだとしたら。
アサザとレンギョウそれぞれが同じ面影を脳裏に描いたのを見澄ましたように、カヤはふわりと空へと飛び立った。かつての魔王レンと同じ細くしなやかな両腕を広げ、夢の中の光景と同じように現在の戦場を見下ろす。
『再び戦場に顕現叶いしこと、心から嬉しく思う。我が名は破魔刀”茅”。魔法により創られ、魔法を破るために存在するもの』
あいつ、楽しんでやがる。アサザは苦々しくカヤの横顔を見上げる。
既に周囲の兵たちも顔を上げていた。茫然とカヤの姿を見上げ、その言葉に耳を澄ませている。おそらくまだ心が追いついていないのだろう。聖王の雷の直後に現れた光の化身。敵か味方かさえ判然とせず、だが明らかに己の手の届く存在ではないと理解できるもの。
『我の力を信じるも信じぬも自由。だが見ての通り雷の後も橋は健在だ。のう?』
ざわ、と国王軍が揺らいだ。
そう、吊り橋は落ちていない。こちらからあちらに繋がる道はまだ途切れてはいない。
『橋は我が守った。我の前で魔法は効かぬ』
どっと上がった鬨の声に驚いて振り返る。もう地べたに伏している者など誰一人いなかった。皆が立ち上がり、手にした得物を握り締めて”茅”の声に応えている。
放たれる寸前の矢のように。
カヤの登場による動揺の波が収まると、自分の役割が明確に形を成していた。
既に覚悟はしていた。最早止められぬ戦なら、一刻も早く終わらせるよう戦うだけ。アサザは手綱を握り直す。応えてキキョウの蹄が軽く地を掻いた。
『己の無力をとくと知るがいい、聖王よ』
違うぜ、おばば。俺たちは確かに非力だ。だが決して無力ではない。
アサザの合図と共にキキョウが走り出す。半瞬遅れて数騎が続き、さらに多くの蹄音が重なる。再開された突撃はそれぞれの隊が当初目標としていた橋へ向けて殺到を始めた。
誰よりも早く中央の橋を駆け抜けたのはアサザだった。それに追いすがる勢いで続く馬上に揺れているのは、若葉色の飾り紐。
「アサザ、この馬鹿ちょっと待て!」
「馬鹿ってなんだ、馬鹿って!」
久しぶりに聞く威勢のいいブドウの声に自然と笑みが零れる。張り合うように返した言葉に、もちろん怒りはない。
「ああ何度でも言ってやるさこの馬鹿。お前自ら突撃してどうする! ここは私に任せろ!」
ブドウの口調もいつも通り、アオイの宮で軽口を叩き合っていた頃のまま。だがその重みはまったく違っている。”茅”によって魔法での攻撃が封じられたとはいえ、国王軍の兵力そのものは健在なのだ。生きるか死ぬか。二人が駆けているのは、そんな危うい境界線上だった。
「今日のお前の仕事は無事に即位してみせて軍の士気を上げることだ。いの一番に突撃して無駄に危険を冒すことじゃない」
「しかし」
「いいから。戦場の先輩の言うことは素直に聞いておけって」
逡巡したのは相反する感情のせいだった。戦の実際はブドウをはじめとする部下へ任せ、後方で指揮を執るべきだと判ずる皇帝としての理性。国王への敵意しか持ち得ない皇帝軍の中で誰より早くレンギョウの元へと駆けつけて、俺の友人に刃を向けるなと言ってやりたい衝動。実現確率の打算など飛び越えて、二つの心が今なお鬩ぎ合っている。
迷った分、敏感なキキョウは脚を緩めていたらしい。横並びになったブドウが微かに笑いながら言った。
「なあアサザ、頼む。今度こそ、守らせてよ」
その言葉に勇ましさなど欠片もなかった。むしろ哀願に似た色調の声、その真意を悟ってようやくアサザは手綱を引いた。
ブドウが守りたかったもの。それは同時にアサザ自身の手からも零れ落ちていったものだった。
「……わかった。ただし」
追い抜いた背中に声を張り上げる。心からの祈りを込めて。これ以上誰も失いたくないと願いながら。
「ただしお前も、生きて帰ってきてくれ。必ずだぞ」
後ろ姿でもブドウが笑っているのが分かった。見間違いようのない深い頷きを残して、若葉色の飾り紐が遠ざかっていく。歩みを止めたキキョウを、ブドウの部下たちが次々と追い抜いていく。
大亀裂は越えた。魔法は来ない。目の前には浮き足立った大軍。
アカネを失った後も、国王軍そのものに意趣を返そうなどと考えたことはなかった。少なくとも意識の上では。けれど彼らを目前にした今、こみ上げてくるこの興奮の名は何だろう。復讐より甘く、名誉より昏く。思考の闇を刃の鞘払いで振り切って、ブドウは一気に国王軍へと突入した。
どんな時でも第一撃はそれなりの抵抗に遭う。ある程度の手応えを予期して振り下ろした剣は、予想に反して空を切るに留まった。
相手の技倆に阻まれて避けられたのではない。奇声を上げて座り込んだその兵は、自警団の鎧を震わせながら地べたに屈み込んだ。
「どうして。聖王様の魔法があれば、楽に勝てるんじゃなかったのか」
足元から聞こえる震え声が無性に神経を逆撫でた。
嗚呼。これだから。
楽に勝てると思われていた屈辱。理屈ではない魔法への恐怖。アカネの笑顔。
駆け抜ける激情と、どこまでも冷徹な思考。己の中の炎と氷をそのまま刃にして、兵へと振り下ろす。
既にして周囲は鮮血に染まっていた。ほとんど無抵抗の国王軍を、殺到する皇帝軍が刈り取るだけの場。国王軍がいかに聖王に、魔法に依存していたか。その事実を見せつけられるほどに、ブドウの中でやり場のない怒りが込み上げてくる。
あの銀髪の少年に、どれほどの多くのものを背負わせるつもりなのか。
アカネを守り切れなかった後悔を彼に押し付けたのは、他でもない己自身。あの日ブドウの感情を受け止めたように、他の者たちからの期待をも聖王は拒まず抱え込んだのだろうか。
——彼自身の感情を支える者はいるのだろうか。
ふ、と視界に銀色が掠めた。血なまぐさい最前線には不似合いな、高貴な煌めき。
まさかと思いながら顔を上げる。視線の先、鉄色の鎧に守られるように彼はいた。
「聖王……」
呼びかけた掠れ声が途中で詰まる。レンギョウの隣にいる男、それは忘れもしない——
「薙刀の男だ!」
それは自分の声か、それとも部下の声か。レンギョウに重ねた感傷は、それより強い濁流で瞬時に彼方へと押し流された。狙いをただ一人に定めたブドウの脳裏に、早鐘のように明滅する言葉。
アカネの、仇。
***************************************************************
<予告編>
繰り返される流血に、
新たな復讐の連鎖が繋がれる。
レンギョウが初めて目の当たりにする、戦いの姿。
「これが、戦だ」
白銀の鎧に散る飛沫、
零れ落ちていく生命、
その果てに見出した、穏やかな微笑。
『DOUBLE LORDS』結章4、
それぞれの心と願いは種子となり、
託された者へと根付いていく。
——私が選んだ道です。後悔はしていません。
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