書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
また一つ、鐘が鳴った。乾いた音色が高く澄んだ空へと昇っていく。先日の戦で犠牲になった命の数だけ、打ち鳴らされる弔いの鐘。その響きが運ぶのは死者の魂か、或いは彼らの眠りが安らかであるよう祈る人々の心か。
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喪色の白装のまま、レンギョウは独り立ち尽くしていた。先程まで葬礼を行っていた表にも、こうして篭った奥の間にも、王都中に響く鐘の音は追いかけてくる。
まるで、逃れえぬ罪のように。
深く長く、息を吐く。とにかくもう、疲れ果てていた。
ここは『王の間』と呼ばれる部屋だ。初代国王レンから先代女王レンゲまで歴代国王の肖像が掲げられた、国王が思索に耽るための空間。独りになるには丁度良い場所。己は独りなのだという事実を、突きつけられずに済む場所。
あの戦以来、時間の感覚が覚束なくなっている。何度か夜が来て、太陽が昇ったことは認識していた。けれどその数が幾度だったかを覚えていない。王都に戻り葬礼の手配を整え、細々した采配を調える。その他にも処理せねばならない雑事は山積みだった。王宮を空けている間に溜まった執務にも忙殺され、横になることすらできない夜が続く。
これまで誰がそれらの雑務をこなしていたのか。誰が休むよう声を掛けてくれたのか。
レンギョウはきつく目を瞑った。
もうコウリには頼れない。当たり前のように隣にいた側役は、他ならぬレンギョウの命で王宮深くの一室に閉じ込められていた。
レンギョウにとっては有能な臣下であり、唯一の血縁であり、太子時代からの相談役であり——そして咎人。コウリは単純に切り捨てるにはあまりにも多くの顔を持ちすぎていた。
それまでの功績がどんなに大きかろうと、為された罪は問われなければならない。
そう思ってはいても、簡単に割り切れる種類の気持ちではなかった。あの戦場で即断することができぬまま王宮に連れ戻り、今もなお忙しさを理由に決断を先延ばしにしている。
「偉大なるご先祖様……貴方ならどうなさるのでしょうか」
縋るように見上げた画面には一人の老人が収まっていた。銀というより白に近い色で描かれた髪、いかめしく顰めた皺だらけの容貌。矮躯をさらに縮めたような姿勢の中、細めた鋭い青い瞳だけがわずかにレンギョウと共通の血筋を窺わせる。この老翁こそが今もなお『魔王』の二つ名で恐れられるこの国の祖、初代国王レンだった。
当然のことながら、いくら待っても肖像からの返事はない。得られぬ答えを探すかのようにレンギョウの視線が彷徨う。
佳人の誉れ高い二代女王スイレンは若々しい姫の装束で茫洋と彼方を見つめ、その孫である四代国王モクレンはどこか頼りなげな青白い頬を背景の闇に浮かばせ。歴代の国王たちは皆見事なまでの銀髪の持ち主だ。『魔王』自らが正統と宣言し、王家にしか顕れないとされている高貴な色。
滑らせた視線がある一点で止まる。幸せそうに微笑む、レンギョウに良く似た面影を宿した若き女王。
「……母上」
若くして病を得て隔離された母の記憶を、レンギョウはほとんど持っていない。かつてコウリが言葉少なに語ってくれた記憶の断片が、母について知りえた情報のほぼ全てだった。
それでも一つだけ、確実に分かっていることがあった。母はコウリを知っている。伴侶の実弟、つまり義弟に当たるコウリの才を最初に見出したのは即位したばかりのレンゲだと、かつて聞いたことがあった。
「母上、余はコウリを……どうしたら良いのでしょう」
声が震える。それでも涙は流れなかった。永遠の微笑を湛えた見知らぬ母の絵姿に、乾いたままの頬を押し当てる。
長く臥せっていた母の名代を務めていた頃から、隣にはコウリがいた。レンギョウが迷う時には目的地を示し、躓きそうな時には差し伸べられる、自分より遥かに大きな手の持ち主。
独りではなかった。だから、孤独がこんなに重いなど知りもしなかった。
当たり前のように続くと思っていた日々。それが壊れたのは、こんなにも互いの心が離れてしまったのは、一体いつからだっただろう。
探った記憶の中、短髪を風に躍らせて笑う友の顔が浮かぶ。すべての始まりの、あの月夜の邂逅。
——出会わなければ良かった、というのか。
レンギョウの胸に鋭い痛みが走る。あの時、アサザは確かに再会を約束した。しかし今この状況であろうとも、皇都の友は同じ誓いを交わしてくれるだろうか。
——アカネを死なせたのは、余だ。
自責がレンギョウの身を貫く。あの時、自分が席を外さなければ。あの時、もっとコウリの様子に目を向けていれば。
何が”聖王”だ。かけがえのない臣下の心情にも気づかず、友の弟一人の安全も守れず。
名が、重い。
アカネだけではない。この名の下に、幾千もの兵の血が流された。皇帝軍も合わせると、その数は万を軽く越える。鐘の音はそのまま、レンギョウの背にのしかかる命の数だった。
画材の匂いが感覚をかき乱す。陰影の褐色に紅殻でも使われているのだろうか、強い錆の匂いが鼻をついた。戦場と同じ、その香り。
ふいに扉が開くわずかな音が鼓膜を震わせた。ぎくしゃくと振り返ると、音を立てずに部屋に滑り込む長い黒髪の端が見えた。
「……シオン」
自分でも驚くほど平坦な声だった。無理矢理に貼り付けた笑顔で、シオンは片手を上げて見せた。
「や。元気……なはずないよね、こんな状況じゃ」
答えずにレンギョウは視線を逸らす。困ったように頬を掻き、シオンは後ろ手に扉を閉めた。金具が鳴る音が余計に沈黙を深める。
「それ、レンのお母さん? 綺麗な人ね」
ようやく探り当てただろう会話の取っ掛かりに、鐘の音が重なった。
「すまぬが、しばらく独りにしてくれぬか」
わずかな空白の後、誤りようのない拒絶の意思を示す。傷つけるのは本意ではない。語気が鋭くなりすぎないよう気をつけたつもりだったが、直後に伝わった大きく息を飲む気配に思わず身を固くする。
「嫌」
「……何?」
しかし返ってきたのは予想外の答えだった。レンギョウは顔を上げる。捕まえたその視線を離さぬよう、シオンが合わせた目と声に力を込めた。
「独りになんてしてやらない。元気じゃないなら、なおさら」
「どういうことだ」
今度は言葉の棘を抑え切ることができなかった。硬質の刃を宿した銀青の瞳と紫の瞳が正面からぶつかり合う。意を決したように、シオンが前へと踏み出した。
「来るな」
「どうして? あたしたち、友達じゃないの?」
まっすぐな問い掛けに、言葉が詰まる。
「レン、独りで苦しまないで。辛い時は辛いって、言っていいんだよ」
「……しかし」
「誰にも言わずに出した答えなんて、間違いの方が多くなっちゃうよ。コウリさんだってそう。誰よりもレンのことを想っていたのに」
側役の名前に反駁の言葉が封じられる。黙り込んだレンギョウに一歩ずつシオンが歩み寄ってくる。
「だからあたしは、あなたを独りにしない。せっかく見込んだ”聖王”に間違いなんてしてほしくないから。友達を独りで苦しめたくなんてないから。あなたの痛みを——分けてほしいから」
言葉を切ったシオンが微笑む。いつもとは比べ物にならないほど弱々しく、しかし瞳を濡らす涙の分だけ確かに宿る紫の光。暁の色にも似た眼差しと共に差し伸べられた手に、草原を渡る夜明けの風の匂いを感じたのは気のせいだろうか。
「ねえレン。あたしたち、独りじゃないんだよ」
頬に触れた指先が震えている。冷えた感触が胸のつかえを揺り動かした。止まっていた時間が動き出す。同時に戦場での記憶が蘇った。草原に、天幕に零された夥しい血、倒れ伏し動かない身体。そのうちの一つに駆け寄る、シオンの背中。
そう。あの日シオンも知人を亡くしているのだ。それも恐らく、レンギョウより遥かに多く。
哀しんでいるのは、苦しんでいるのは、己一人ではない。
鐘の音を己だけが背負っているなど、何故思い込めたのか。撞かれる音の一つ一つに涙を流す者がいるという事実を、何故忘れることができたのか。
事後処理の過程でレンギョウに示された死者の数。机に積まれた名簿の束などとは比べ物にならない程に重い、それぞれが過ごした膨大な時間に初めて思いが至る。自然と面が俯いた。決して同じ秤では測れない、けれど国王として立つためには等しく忘れてはならない痛み。失われた数と時間、双方を慰める弔いの鐘がまた一つ、鳴らされた。
いいんだよ。
かすれた微かな声が優しくレンギョウの鼓膜を叩いた。
泣いても、いいんだよ。色んなことがたくさんあったよね。だから、今だけは。
慈しみに満ちた誘惑に小さく首を振る。己は王だと——”聖王”と呼ばれる者だと。
そんなの関係ない。レンは、レンでしょう?
感情を抑えることになど慣れていたはずだった。国王として相応しき態度で、常に冷静であるようにと。
けれどその裏には気づかぬ振りをし続けた渦が逆巻いていた。あえて見ないようにしていた波頭。それが今、急激に膨れ上がる。
私は、私。
位を継いでから間もなく十年が経つ。その間ずっと被り続けた国王の仮面。それを外すことの方が余程勇気が要るのだと、レンギョウは初めて知った。
内なる海から、一筋の涙が溢れる。
たった一度の会見でアカネと交わした会話を覚えている。これまで辿った道程でコウリの手を恃まなかったことなどない。
蘇る記憶は紛れもなくレンギョウが過ごしてきた時間そのものだった。ひとつふたつと数えることなどできない、かけがえのない自分自身が生きてきた証。
己は聖者などではない。ただの人間だ。
眦から落ちる涙が止まらなかった。
アサザと同じように友になれたかもしれないアカネ。誰よりも深い想いにいつの間にか甘えていたコウリ。
失えば、哀しい。罪を犯せば、苦しい。
そんな人として当たり前の感情までも仮面で封じていたのだと、今更ながらにレンギョウは思い知っていた。
いつの間にか閉じていた瞼を開く。すぐ近くに、手を伸ばしたままこちらを見つめるシオンの瞳があった。その頬には己と同じく伝い落ちる雫。今度はレンギョウから小さく笑って見せた。
己の弱さを知っている。
その弱さを受け止めてくれる友を知っている。
だからこそせめて、己にだけは決して恥じぬ生き方をしようと思った。
ただの人にしか過ぎないレンギョウを”聖王”たらしめているのは、寄せられた人々の想いそのものだから。時には重さに押し潰されそうになることもあるだろう。それでもレンギョウはその名から逃げたくはなかった。
この涙が涸れたその時にこそ。
己を支えてくれる者の為に。背負い込んだ命と時間の為に。
”聖王”という呼び名に託された希望。この名を信じてくれる者の為に、この名を信じたいと願う己の為に。
生きよう。
<予告編>
頬を濡らす氷雨より凍てつく予感が、
皇都を覆う暗雲より不吉な影が、
アサザの胸を埋めつくしていく。
突きつけられた受け入れがたい事実。
独り篭った自室に魔剣の嗤いが響く。
『だから言うたであろう? 死ぬると』
次第に鈍磨していく感覚。
耳元に落ちる囁きに、心までも奈落に堕ちていく。
その淵で見出したのは小さな灯火。
伸ばした指先に触れる温もりは慈雨のように染み入り、
冷えた心を溶かしていく。
生きて、生きて、生き抜くことこそ。
『DOUBLE LORDS』転章2、
泣かぬ弱さより、泣ける強さを。
まるで、逃れえぬ罪のように。
深く長く、息を吐く。とにかくもう、疲れ果てていた。
ここは『王の間』と呼ばれる部屋だ。初代国王レンから先代女王レンゲまで歴代国王の肖像が掲げられた、国王が思索に耽るための空間。独りになるには丁度良い場所。己は独りなのだという事実を、突きつけられずに済む場所。
あの戦以来、時間の感覚が覚束なくなっている。何度か夜が来て、太陽が昇ったことは認識していた。けれどその数が幾度だったかを覚えていない。王都に戻り葬礼の手配を整え、細々した采配を調える。その他にも処理せねばならない雑事は山積みだった。王宮を空けている間に溜まった執務にも忙殺され、横になることすらできない夜が続く。
これまで誰がそれらの雑務をこなしていたのか。誰が休むよう声を掛けてくれたのか。
レンギョウはきつく目を瞑った。
もうコウリには頼れない。当たり前のように隣にいた側役は、他ならぬレンギョウの命で王宮深くの一室に閉じ込められていた。
レンギョウにとっては有能な臣下であり、唯一の血縁であり、太子時代からの相談役であり——そして咎人。コウリは単純に切り捨てるにはあまりにも多くの顔を持ちすぎていた。
それまでの功績がどんなに大きかろうと、為された罪は問われなければならない。
そう思ってはいても、簡単に割り切れる種類の気持ちではなかった。あの戦場で即断することができぬまま王宮に連れ戻り、今もなお忙しさを理由に決断を先延ばしにしている。
「偉大なるご先祖様……貴方ならどうなさるのでしょうか」
縋るように見上げた画面には一人の老人が収まっていた。銀というより白に近い色で描かれた髪、いかめしく顰めた皺だらけの容貌。矮躯をさらに縮めたような姿勢の中、細めた鋭い青い瞳だけがわずかにレンギョウと共通の血筋を窺わせる。この老翁こそが今もなお『魔王』の二つ名で恐れられるこの国の祖、初代国王レンだった。
当然のことながら、いくら待っても肖像からの返事はない。得られぬ答えを探すかのようにレンギョウの視線が彷徨う。
佳人の誉れ高い二代女王スイレンは若々しい姫の装束で茫洋と彼方を見つめ、その孫である四代国王モクレンはどこか頼りなげな青白い頬を背景の闇に浮かばせ。歴代の国王たちは皆見事なまでの銀髪の持ち主だ。『魔王』自らが正統と宣言し、王家にしか顕れないとされている高貴な色。
滑らせた視線がある一点で止まる。幸せそうに微笑む、レンギョウに良く似た面影を宿した若き女王。
「……母上」
若くして病を得て隔離された母の記憶を、レンギョウはほとんど持っていない。かつてコウリが言葉少なに語ってくれた記憶の断片が、母について知りえた情報のほぼ全てだった。
それでも一つだけ、確実に分かっていることがあった。母はコウリを知っている。伴侶の実弟、つまり義弟に当たるコウリの才を最初に見出したのは即位したばかりのレンゲだと、かつて聞いたことがあった。
「母上、余はコウリを……どうしたら良いのでしょう」
声が震える。それでも涙は流れなかった。永遠の微笑を湛えた見知らぬ母の絵姿に、乾いたままの頬を押し当てる。
長く臥せっていた母の名代を務めていた頃から、隣にはコウリがいた。レンギョウが迷う時には目的地を示し、躓きそうな時には差し伸べられる、自分より遥かに大きな手の持ち主。
独りではなかった。だから、孤独がこんなに重いなど知りもしなかった。
当たり前のように続くと思っていた日々。それが壊れたのは、こんなにも互いの心が離れてしまったのは、一体いつからだっただろう。
探った記憶の中、短髪を風に躍らせて笑う友の顔が浮かぶ。すべての始まりの、あの月夜の邂逅。
——出会わなければ良かった、というのか。
レンギョウの胸に鋭い痛みが走る。あの時、アサザは確かに再会を約束した。しかし今この状況であろうとも、皇都の友は同じ誓いを交わしてくれるだろうか。
——アカネを死なせたのは、余だ。
自責がレンギョウの身を貫く。あの時、自分が席を外さなければ。あの時、もっとコウリの様子に目を向けていれば。
何が”聖王”だ。かけがえのない臣下の心情にも気づかず、友の弟一人の安全も守れず。
名が、重い。
アカネだけではない。この名の下に、幾千もの兵の血が流された。皇帝軍も合わせると、その数は万を軽く越える。鐘の音はそのまま、レンギョウの背にのしかかる命の数だった。
画材の匂いが感覚をかき乱す。陰影の褐色に紅殻でも使われているのだろうか、強い錆の匂いが鼻をついた。戦場と同じ、その香り。
ふいに扉が開くわずかな音が鼓膜を震わせた。ぎくしゃくと振り返ると、音を立てずに部屋に滑り込む長い黒髪の端が見えた。
「……シオン」
自分でも驚くほど平坦な声だった。無理矢理に貼り付けた笑顔で、シオンは片手を上げて見せた。
「や。元気……なはずないよね、こんな状況じゃ」
答えずにレンギョウは視線を逸らす。困ったように頬を掻き、シオンは後ろ手に扉を閉めた。金具が鳴る音が余計に沈黙を深める。
「それ、レンのお母さん? 綺麗な人ね」
ようやく探り当てただろう会話の取っ掛かりに、鐘の音が重なった。
「すまぬが、しばらく独りにしてくれぬか」
わずかな空白の後、誤りようのない拒絶の意思を示す。傷つけるのは本意ではない。語気が鋭くなりすぎないよう気をつけたつもりだったが、直後に伝わった大きく息を飲む気配に思わず身を固くする。
「嫌」
「……何?」
しかし返ってきたのは予想外の答えだった。レンギョウは顔を上げる。捕まえたその視線を離さぬよう、シオンが合わせた目と声に力を込めた。
「独りになんてしてやらない。元気じゃないなら、なおさら」
「どういうことだ」
今度は言葉の棘を抑え切ることができなかった。硬質の刃を宿した銀青の瞳と紫の瞳が正面からぶつかり合う。意を決したように、シオンが前へと踏み出した。
「来るな」
「どうして? あたしたち、友達じゃないの?」
まっすぐな問い掛けに、言葉が詰まる。
「レン、独りで苦しまないで。辛い時は辛いって、言っていいんだよ」
「……しかし」
「誰にも言わずに出した答えなんて、間違いの方が多くなっちゃうよ。コウリさんだってそう。誰よりもレンのことを想っていたのに」
側役の名前に反駁の言葉が封じられる。黙り込んだレンギョウに一歩ずつシオンが歩み寄ってくる。
「だからあたしは、あなたを独りにしない。せっかく見込んだ”聖王”に間違いなんてしてほしくないから。友達を独りで苦しめたくなんてないから。あなたの痛みを——分けてほしいから」
言葉を切ったシオンが微笑む。いつもとは比べ物にならないほど弱々しく、しかし瞳を濡らす涙の分だけ確かに宿る紫の光。暁の色にも似た眼差しと共に差し伸べられた手に、草原を渡る夜明けの風の匂いを感じたのは気のせいだろうか。
「ねえレン。あたしたち、独りじゃないんだよ」
頬に触れた指先が震えている。冷えた感触が胸のつかえを揺り動かした。止まっていた時間が動き出す。同時に戦場での記憶が蘇った。草原に、天幕に零された夥しい血、倒れ伏し動かない身体。そのうちの一つに駆け寄る、シオンの背中。
そう。あの日シオンも知人を亡くしているのだ。それも恐らく、レンギョウより遥かに多く。
哀しんでいるのは、苦しんでいるのは、己一人ではない。
鐘の音を己だけが背負っているなど、何故思い込めたのか。撞かれる音の一つ一つに涙を流す者がいるという事実を、何故忘れることができたのか。
事後処理の過程でレンギョウに示された死者の数。机に積まれた名簿の束などとは比べ物にならない程に重い、それぞれが過ごした膨大な時間に初めて思いが至る。自然と面が俯いた。決して同じ秤では測れない、けれど国王として立つためには等しく忘れてはならない痛み。失われた数と時間、双方を慰める弔いの鐘がまた一つ、鳴らされた。
いいんだよ。
かすれた微かな声が優しくレンギョウの鼓膜を叩いた。
泣いても、いいんだよ。色んなことがたくさんあったよね。だから、今だけは。
慈しみに満ちた誘惑に小さく首を振る。己は王だと——”聖王”と呼ばれる者だと。
そんなの関係ない。レンは、レンでしょう?
感情を抑えることになど慣れていたはずだった。国王として相応しき態度で、常に冷静であるようにと。
けれどその裏には気づかぬ振りをし続けた渦が逆巻いていた。あえて見ないようにしていた波頭。それが今、急激に膨れ上がる。
私は、私。
位を継いでから間もなく十年が経つ。その間ずっと被り続けた国王の仮面。それを外すことの方が余程勇気が要るのだと、レンギョウは初めて知った。
内なる海から、一筋の涙が溢れる。
たった一度の会見でアカネと交わした会話を覚えている。これまで辿った道程でコウリの手を恃まなかったことなどない。
蘇る記憶は紛れもなくレンギョウが過ごしてきた時間そのものだった。ひとつふたつと数えることなどできない、かけがえのない自分自身が生きてきた証。
己は聖者などではない。ただの人間だ。
眦から落ちる涙が止まらなかった。
アサザと同じように友になれたかもしれないアカネ。誰よりも深い想いにいつの間にか甘えていたコウリ。
失えば、哀しい。罪を犯せば、苦しい。
そんな人として当たり前の感情までも仮面で封じていたのだと、今更ながらにレンギョウは思い知っていた。
いつの間にか閉じていた瞼を開く。すぐ近くに、手を伸ばしたままこちらを見つめるシオンの瞳があった。その頬には己と同じく伝い落ちる雫。今度はレンギョウから小さく笑って見せた。
己の弱さを知っている。
その弱さを受け止めてくれる友を知っている。
だからこそせめて、己にだけは決して恥じぬ生き方をしようと思った。
ただの人にしか過ぎないレンギョウを”聖王”たらしめているのは、寄せられた人々の想いそのものだから。時には重さに押し潰されそうになることもあるだろう。それでもレンギョウはその名から逃げたくはなかった。
この涙が涸れたその時にこそ。
己を支えてくれる者の為に。背負い込んだ命と時間の為に。
”聖王”という呼び名に託された希望。この名を信じてくれる者の為に、この名を信じたいと願う己の為に。
生きよう。
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<予告編>
頬を濡らす氷雨より凍てつく予感が、
皇都を覆う暗雲より不吉な影が、
アサザの胸を埋めつくしていく。
突きつけられた受け入れがたい事実。
独り篭った自室に魔剣の嗤いが響く。
『だから言うたであろう? 死ぬると』
次第に鈍磨していく感覚。
耳元に落ちる囁きに、心までも奈落に堕ちていく。
その淵で見出したのは小さな灯火。
伸ばした指先に触れる温もりは慈雨のように染み入り、
冷えた心を溶かしていく。
生きて、生きて、生き抜くことこそ。
『DOUBLE LORDS』転章2、
泣かぬ弱さより、泣ける強さを。
下りということもあり、行きの行程の半分で皇都までの道程を駆け抜ける。アサザの焦りを察しているのだろうか。キキョウの脚は負担のかかる坂道を越えて平坦な草原に入る頃にはふらついていたが、それでもついに止まることなく二日を走ってくれた。
そして今、草の海の彼方に黒々と蟠る都の姿が見えてくる。天空には全ての希望を押しつぶすかのような暗雲が広がっていた。そこから落ちる氷混じりの雨は敵意すら感じられるほどに冷たく、アサザの頬を、心を、凍てつかせていく。
——死ぬるぞ。
不吉な予言が耳に蘇った。
鞍に括りつけた”茅”に敢えて意識を向けないまま、アサザはキキョウに最後の拍車を入れる。あれ以来カヤは姿を現さない。沈黙を守ったままの漆黒の長刀はいっそ不気味でさえあった。
空は暗いが、まだ日は高い時刻だ。門番の兵を横目に開きっ放しの城門を騎乗のまま抜け、皇都の目抜き通りへと進む。
石畳で舗装された大路は人の営みなど拒絶するかのように冷え冷えと横たわっている。人気がないのは氷雨のせいばかりではない。中立地帯への援助停止は商人たちの皇都敬遠にも繋がっていた。食糧調達すらままならぬ戦士より、人気、経済力共に高い”聖王”の都へ。商いの理屈は単純で、正直だった。
閑散とした景色の中、キキョウは足早に皇宮へと向かう。こんな時ばかりは混んだ道でなくて良かったと、半ば皮肉交じりに考える。
第一の内門が見えてきた。この先に公に使う宮と皇族が暮らす奥の宮へそれぞれ通じる第二の門があり、さらにその向こうに細かい建物へと続く門がある。第一の門を潜ったところで下馬し、いつも通り奥の宮へ向かおうとしたアサザを驚いた様子で門番が止めた。
「第三皇子殿下にお会いするのではないのですか?」
「……アカネに?」
胸に湧いた闇色の予感は、キキョウの手綱を預けた門番がためらいがちに示した公宮の名で一挙に膨れ上がる。
葬祭殿、など。なんて現実味のない言葉だろう。
母の葬儀以来、一度も足を踏み入れなかった宮は真新しい木材の匂いに満ちていた。真冬のことだから花の香りはない。並べられた棺の群の中、一段高い位置にあるそれも例外ではなかった。
「アサザ……?」
壇の傍らには、うつろな表情のブドウが立ちつくしていた。最後に会った時とは別人のように頬がこけ、若葉色の瞳にも光はない。
「……アカネは?」
他に言葉が浮かばなかった。出陣の際、見送った背中を思い出す。行きは二人。帰りだって、きっと。
「すまない」
俯き、押し殺した声に、最後の希望が砕かれる。
「すまない、アサザ。すまない」
冷え切った肩に額が押し付けられた。同時に手の甲に落ちる熱い雫。氷雨などとは比べ物にならない程の寒気が襲い掛かってくる。
「嘘だ」
思わず掴んだブドウの肩を、力任せに引き離す。
「そんなはずない。どうせまたいつもの悪戯だろう。俺の驚く顔が見たくてその辺に隠れてるんだろう?」
「アサザ」
「こんなものまで用意しやがって。ったく、俺が目を離すとロクなことしないな、あいつは。そんなだからいつまでもガキだって言うんだよ」
「アサザ……!」
ブドウの制止を振り切って、アサザは目の前の棺の蓋に手を掛ける。切り出したばかりの白木の板は思いがけない程軽く、あっけない程簡単に床へと落ちた。
人一人分の狭い箱に収まっていたのは、全身を白い布で覆われた身体だった。これでは見慣れた弟の面影など確かめようもない。やっぱり何かの間違いだったのだ、と安堵の息を吐きかけた時。
ふと、何かが視界に引っかかった。白木の木目、白い布。色彩のない箱の中に混じる、鮮やかな一色。
首筋から肩へ至る辺りで布が緩んでいる箇所がある。その下から緋色が一筋だけ、覗いていた。皇帝軍将帥にしか許されない、その色。
張り詰めていた糸が切れる音を聞いた気がした。膝から、肩から、力が抜けていく。
「……るかよ」
喉の奥で呟く。自分でも聞き取れないほどに低く、掠れた声音。
「信じられるかよ、こんなこと!」
目の前の棺に詰まった理不尽にせめてもの言葉を叩きつけ、アサザは踵を返した。そのまま靴音荒く、葬祭殿を後にする。ブドウが名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、足を止める気にはなれなかった。
どこをどう通ったのかなど覚えてはいない。気がつくとアサザは兄弟で暮らす宮へと戻ってきていた。まっすぐ自室の扉を潜り、乱暴に閉める。
兄は知っているのだろうか。
一瞬そんなことを考えたが、すぐに首を振る。話せない。知っていたとしたら話題になどできない。もし知らなかったら——話すことなどできはしない。
頽れるように寝台に座り込む。もう何も、考えたくなかった。
『だから言うたであろう? 死ぬると』
耳障りな嘲りが耳朶を叩く。咄嗟に背後を振り返ると、冷笑を口の端に浮かべたカヤが夜具の上に座っていた。
「お前、何故ここに」
『親切な門番が運んでくれた。間抜けな太子の忘れ物だとな』
艶さえ感じさせる笑みを刻んだままのカヤの答えに、知らず舌打ちが洩れる。
「黙れよ。今はお前なんかに付き合う気分じゃない」
『そんな口を利いて良いのか? せっかく親切に教えてやったというに』
「うるさい」
逸らした視線の外、耳元に小さく嘲笑が落とされる。
『次は誰か、聞きたいか?』
「うるさい。黙れ……黙れっ!」
思わず振るった腕が虚空を薙ぐ。くすくす笑いの残響だけを残して、カヤの姿はかき消えていた。代わりに寝台の上に横たわっていたのは漆黒の長刀。衝動的にその鞘を掴み、部屋の隅へと投げ捨てる。
『そんなことをしても無駄だ。来し方は変えられぬ。行く先も、な』
背後から喉元へ絡みつく白い腕。壁際には打ち捨てられたままの長刀が転がっている。どうやら本体を離れて動くこともできるらしいと、遅まきながら悟る。振り払うことさえ忘れて、アサザは両手で顔を覆った。
「化け物め……!」
心底嬉しそうに、カヤが笑った。くつくつと鳴る、細い喉。
『その化生の助力を乞う時が必ず来る。勝つために。倒すために、な』
反駁の言葉さえ、もう浮かばない。窓を叩く氷雨の音がやけに大きく感じられた。
『我が化生であるならば、我の力を欲する時、おぬしは一体何者となるのであろうな?』
鼓膜に流し込まれる声は止まることがなかった。表現を変え、間合いを変え、繰り返される悪意の羅列。
力を欲せ。血を望め。”魔王”に連なる者を、王家を倒せ。
レンギョウと同じ顔で紡がれる、滴るほどの憎悪。返す言葉を探す気力など既に尽きている。声を発する気にさえなれないまま、時間だけが過ぎていく。魔剣の囁きの向こうで何度か扉が叩かれたようだったが、無論アサザが応えることはなかった。
疲れ果てているのに眠りは訪れなかった。身じろぎするたび、かじかんだ指と冷え切った四肢が軋みを上げる。吐く息は白く、やり場のない怒りのように周囲に沈殿していく。
寒さに震える身体が、掌に落ちる呼吸が、どうしようもなく腹立たしかった。たった一人の弟が熱を失った時、最期の息を吐いた時、してやれることなど何一つなかった。その死を知った今でさえ、できることなどない。なのに何故、この身は今もなお生きようとし続けているのか。
いっそこのまま、凍え死んでしまえばいい。
奈落の淵から湧いた言葉は、抗しがたい魅力に満ちていた。
生きていても、成せる事など何もない。ならば一思いに絶望の底へ沈んでみるのも悪くはない。
死ぬか。死のうか。——死んでしまえ。
聞こえる言葉がカヤの呪詛なのか己の裡から湧くものなのか、既にアサザには分からなくなっていた。ふと滑らせた視線の中、放り出されたままの漆黒の拵えが映った。ふらりと魅入られたような足取りで壁際へと歩み寄る。床に跪き、手元に引き寄せ、鞘を払う。錆一つない黒金の片刃が鈍く光った。言葉もなく、研ぎ澄まされた刃を見つめる。
——殺せ!
狂気と歓喜に満ちた叫びに、心を委ねようとした瞬間。小さく、幽かな音が重なった。”茅”を捧げ持ったまま、アサザはゆるゆると顔を上げる。鍵も掛けずにいた扉がほんの少しだけ押し開かれるのが見えた。同時に小さな足音が部屋へと紛れ込む。現実と幻影の狭間で歪む視界の中で、くすんだ藍色を纏った侵入者がどこかほっとしたように頬を緩める。
「こんなところに、おっただか」
「……お前、何故ここに」
久方振りに零した言葉は掠れていた。唐突に現れた”山の民”の少女は慎重な足取りでアサザへと近づいてくる。しかしすぐにその足は竦んだように止まってしまった。怯えた瞳に映るのは抜き身の刃。慌ててアサザは”茅”を鞘へと納めた。
「……悪い」
距離を保ったまま、カタバミは小さく首を振った。
「あいつは、いないのけ?」
「あいつ?」
「刀の精」
言われて初めて、カヤが姿を消していることに気づく。邪魔が入ったため退いたのだろうか。小さく息を吐き、同時にぞくりとした。
先程、自分は何をしようとしていた?
手にしたままだった長刀を再び投げ捨てる。黒い鋼の冷たさは、己が受け入れようとしていたものの感触とあまりにも似すぎていた。
カヤの悪意は”魔王”の一族にだけ向けられているのではない。”茅”は、主たる”戦士”の末裔をも憎んでいる。両家を争わせ、殺し合わせること。それが”茅”の、カヤの望みなのだと、ようやく思い至る。
「あいつが何か言ったのけ?」
「あれを、知っているのか」
乱れそうになる呼吸を必死で抑えながら、アサザは問う。カタバミは頷いた。
「あいつ、おっかないけど言うことはよく当たる。そのうち戦士で葬式があるから用意をしろって。そしたらすぐにおめさが来て、あいつを持ってっちまって。とうちゃんとじじさが山を下りるって言うから、おらも一緒に来た」
「葬式?」
ん、と二つのおさげが揺れた。
「……死んだの、おめさの知り合いか?」
死。どこか遠くにあると思い込もうとしていた、その言葉。
「さっき、すごく哀しそうな顔してたっけ。大丈夫か?」
哀しいと、感じているのだろうか。抱いている感情の種類さえも最早判らない。ただ、深い衝撃だけがそこにある。
母が逝った時は、実感を覚えるには幼すぎた。兄が発作を起こした時も、きっと大丈夫だという楽観がどこかにあった。
これが最後かもしれない。アカネが赴いたのはそういう場所だ。
その意味を、自分はどれ程理解していたのだろう。
ふいに怒涛のような後悔が押し寄せてきた。あいつは別れ際、どういう表情をしていた? 最後に交わした言葉は? 緋色を肩に巻いた無邪気な笑顔の記憶が、どうしようもなく心を抉っていく。
苦しくて仕方がなかった。額に両手を押し付けて、荒れ狂う波を抑えようと試みる。微かに震えるその指に、小さく温い掌が重ねられた。
「泣くんでない。男の子だべ?」
わずかに上げた目線の中、いつの間にか近づいていたカタバミの顔が映る。
「ほら、いいもんあげるから。お腹すいてちゃ何もできんよ、な?」
差し出されたのは小さな飴玉。淡い薄荷の匂いが鼻先を掠める。日に焼けた幼い笑顔が、弟のそれと重なった。
その時、胸底から衝き上げてきたものをどう表せばいいのだろう。
次の瞬間、アサザは少女の小さな身体を掻き抱いていた。そこに確かに宿る命に縋るように。独りにするなと祈るように。幼い肌の温みが愛おしくて。熱を永遠に失った面影が哀しくて、悔しくて。
一度溢れ出すと、もう涙は止まらなかった。食いしばった奥歯から、押し殺した嗚咽が洩れる。
「泣かんで。泣かんでや、アサザ」
戸惑いも露わに、カタバミが身じろぎをした。アサザの腕から逃れるのではない。逆に身を寄せ、慰めるかのように短い腕を伸ばして脇腹の辺りをさすっている。懸命に背伸びをする少女を、アサザはただ無言で抱きしめた。
この温みの隣にも、死は存在している。無論、自分の傍らにも。
大切なのはそこから目を逸らすことではなく、やがて訪れるその日を悔いなく迎えるために生きること。
生きて、生きて、生き抜くことこそが、今のアサザがアカネへしてやれる最大の手向けであり、”茅”に屈さぬ為の唯一の術だと。ようやく湧き上がった答えに、深く深く頭を垂れる。
時には涙を流しても構わない。乗り越えたその先に強さを見出せるのなら。
アカネの分まで生きる。たかだか刀の一本になど、負けてたまるか。
光を取り戻した瞳で、アサザは床に放られたままの”茅”を睨みつけた。漆黒の長刀に、不敵な笑みを刷いたカヤの姿が二重写しになる。
——面白い。そうでなければ、な。
魔性の口許は確かにそう動いた。カタバミの肩越し、真っ向からぶつかった視線が苛烈な火花を散らす。
『戦士よ、魔王よ、二つの血を受け継ぐ者よ。我の永劫の呪いを、その身に受くるがよい』
カヤの宣戦布告を、頬も拭わぬままアサザは受け止めた。このような哀しみを二度と味わわぬ為に、他の誰にも味わわせぬ為に。
強く、なる。
<予告編>
機は熟したり。
王都に集った民は望む。
中立地帯の安寧を。
皇帝の打倒を。
『聖王』が統べる、島国を。
万雷の歓声の中、レンギョウは静かに告げる。
「共に往こう。皇都へ——この国の、未来へ」
添えられる手、離れゆく腕。
まっすぐに見据えた北の空。
その下には懐かしき友と、
漆黒の鏡に写された己の幻影が待っている。
『DOUBLE LORDS』転章3、
暁の旗が今、揚げられる。
そして今、草の海の彼方に黒々と蟠る都の姿が見えてくる。天空には全ての希望を押しつぶすかのような暗雲が広がっていた。そこから落ちる氷混じりの雨は敵意すら感じられるほどに冷たく、アサザの頬を、心を、凍てつかせていく。
——死ぬるぞ。
不吉な予言が耳に蘇った。
鞍に括りつけた”茅”に敢えて意識を向けないまま、アサザはキキョウに最後の拍車を入れる。あれ以来カヤは姿を現さない。沈黙を守ったままの漆黒の長刀はいっそ不気味でさえあった。
空は暗いが、まだ日は高い時刻だ。門番の兵を横目に開きっ放しの城門を騎乗のまま抜け、皇都の目抜き通りへと進む。
石畳で舗装された大路は人の営みなど拒絶するかのように冷え冷えと横たわっている。人気がないのは氷雨のせいばかりではない。中立地帯への援助停止は商人たちの皇都敬遠にも繋がっていた。食糧調達すらままならぬ戦士より、人気、経済力共に高い”聖王”の都へ。商いの理屈は単純で、正直だった。
閑散とした景色の中、キキョウは足早に皇宮へと向かう。こんな時ばかりは混んだ道でなくて良かったと、半ば皮肉交じりに考える。
第一の内門が見えてきた。この先に公に使う宮と皇族が暮らす奥の宮へそれぞれ通じる第二の門があり、さらにその向こうに細かい建物へと続く門がある。第一の門を潜ったところで下馬し、いつも通り奥の宮へ向かおうとしたアサザを驚いた様子で門番が止めた。
「第三皇子殿下にお会いするのではないのですか?」
「……アカネに?」
胸に湧いた闇色の予感は、キキョウの手綱を預けた門番がためらいがちに示した公宮の名で一挙に膨れ上がる。
葬祭殿、など。なんて現実味のない言葉だろう。
母の葬儀以来、一度も足を踏み入れなかった宮は真新しい木材の匂いに満ちていた。真冬のことだから花の香りはない。並べられた棺の群の中、一段高い位置にあるそれも例外ではなかった。
「アサザ……?」
壇の傍らには、うつろな表情のブドウが立ちつくしていた。最後に会った時とは別人のように頬がこけ、若葉色の瞳にも光はない。
「……アカネは?」
他に言葉が浮かばなかった。出陣の際、見送った背中を思い出す。行きは二人。帰りだって、きっと。
「すまない」
俯き、押し殺した声に、最後の希望が砕かれる。
「すまない、アサザ。すまない」
冷え切った肩に額が押し付けられた。同時に手の甲に落ちる熱い雫。氷雨などとは比べ物にならない程の寒気が襲い掛かってくる。
「嘘だ」
思わず掴んだブドウの肩を、力任せに引き離す。
「そんなはずない。どうせまたいつもの悪戯だろう。俺の驚く顔が見たくてその辺に隠れてるんだろう?」
「アサザ」
「こんなものまで用意しやがって。ったく、俺が目を離すとロクなことしないな、あいつは。そんなだからいつまでもガキだって言うんだよ」
「アサザ……!」
ブドウの制止を振り切って、アサザは目の前の棺の蓋に手を掛ける。切り出したばかりの白木の板は思いがけない程軽く、あっけない程簡単に床へと落ちた。
人一人分の狭い箱に収まっていたのは、全身を白い布で覆われた身体だった。これでは見慣れた弟の面影など確かめようもない。やっぱり何かの間違いだったのだ、と安堵の息を吐きかけた時。
ふと、何かが視界に引っかかった。白木の木目、白い布。色彩のない箱の中に混じる、鮮やかな一色。
首筋から肩へ至る辺りで布が緩んでいる箇所がある。その下から緋色が一筋だけ、覗いていた。皇帝軍将帥にしか許されない、その色。
張り詰めていた糸が切れる音を聞いた気がした。膝から、肩から、力が抜けていく。
「……るかよ」
喉の奥で呟く。自分でも聞き取れないほどに低く、掠れた声音。
「信じられるかよ、こんなこと!」
目の前の棺に詰まった理不尽にせめてもの言葉を叩きつけ、アサザは踵を返した。そのまま靴音荒く、葬祭殿を後にする。ブドウが名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、足を止める気にはなれなかった。
どこをどう通ったのかなど覚えてはいない。気がつくとアサザは兄弟で暮らす宮へと戻ってきていた。まっすぐ自室の扉を潜り、乱暴に閉める。
兄は知っているのだろうか。
一瞬そんなことを考えたが、すぐに首を振る。話せない。知っていたとしたら話題になどできない。もし知らなかったら——話すことなどできはしない。
頽れるように寝台に座り込む。もう何も、考えたくなかった。
『だから言うたであろう? 死ぬると』
耳障りな嘲りが耳朶を叩く。咄嗟に背後を振り返ると、冷笑を口の端に浮かべたカヤが夜具の上に座っていた。
「お前、何故ここに」
『親切な門番が運んでくれた。間抜けな太子の忘れ物だとな』
艶さえ感じさせる笑みを刻んだままのカヤの答えに、知らず舌打ちが洩れる。
「黙れよ。今はお前なんかに付き合う気分じゃない」
『そんな口を利いて良いのか? せっかく親切に教えてやったというに』
「うるさい」
逸らした視線の外、耳元に小さく嘲笑が落とされる。
『次は誰か、聞きたいか?』
「うるさい。黙れ……黙れっ!」
思わず振るった腕が虚空を薙ぐ。くすくす笑いの残響だけを残して、カヤの姿はかき消えていた。代わりに寝台の上に横たわっていたのは漆黒の長刀。衝動的にその鞘を掴み、部屋の隅へと投げ捨てる。
『そんなことをしても無駄だ。来し方は変えられぬ。行く先も、な』
背後から喉元へ絡みつく白い腕。壁際には打ち捨てられたままの長刀が転がっている。どうやら本体を離れて動くこともできるらしいと、遅まきながら悟る。振り払うことさえ忘れて、アサザは両手で顔を覆った。
「化け物め……!」
心底嬉しそうに、カヤが笑った。くつくつと鳴る、細い喉。
『その化生の助力を乞う時が必ず来る。勝つために。倒すために、な』
反駁の言葉さえ、もう浮かばない。窓を叩く氷雨の音がやけに大きく感じられた。
『我が化生であるならば、我の力を欲する時、おぬしは一体何者となるのであろうな?』
鼓膜に流し込まれる声は止まることがなかった。表現を変え、間合いを変え、繰り返される悪意の羅列。
力を欲せ。血を望め。”魔王”に連なる者を、王家を倒せ。
レンギョウと同じ顔で紡がれる、滴るほどの憎悪。返す言葉を探す気力など既に尽きている。声を発する気にさえなれないまま、時間だけが過ぎていく。魔剣の囁きの向こうで何度か扉が叩かれたようだったが、無論アサザが応えることはなかった。
疲れ果てているのに眠りは訪れなかった。身じろぎするたび、かじかんだ指と冷え切った四肢が軋みを上げる。吐く息は白く、やり場のない怒りのように周囲に沈殿していく。
寒さに震える身体が、掌に落ちる呼吸が、どうしようもなく腹立たしかった。たった一人の弟が熱を失った時、最期の息を吐いた時、してやれることなど何一つなかった。その死を知った今でさえ、できることなどない。なのに何故、この身は今もなお生きようとし続けているのか。
いっそこのまま、凍え死んでしまえばいい。
奈落の淵から湧いた言葉は、抗しがたい魅力に満ちていた。
生きていても、成せる事など何もない。ならば一思いに絶望の底へ沈んでみるのも悪くはない。
死ぬか。死のうか。——死んでしまえ。
聞こえる言葉がカヤの呪詛なのか己の裡から湧くものなのか、既にアサザには分からなくなっていた。ふと滑らせた視線の中、放り出されたままの漆黒の拵えが映った。ふらりと魅入られたような足取りで壁際へと歩み寄る。床に跪き、手元に引き寄せ、鞘を払う。錆一つない黒金の片刃が鈍く光った。言葉もなく、研ぎ澄まされた刃を見つめる。
——殺せ!
狂気と歓喜に満ちた叫びに、心を委ねようとした瞬間。小さく、幽かな音が重なった。”茅”を捧げ持ったまま、アサザはゆるゆると顔を上げる。鍵も掛けずにいた扉がほんの少しだけ押し開かれるのが見えた。同時に小さな足音が部屋へと紛れ込む。現実と幻影の狭間で歪む視界の中で、くすんだ藍色を纏った侵入者がどこかほっとしたように頬を緩める。
「こんなところに、おっただか」
「……お前、何故ここに」
久方振りに零した言葉は掠れていた。唐突に現れた”山の民”の少女は慎重な足取りでアサザへと近づいてくる。しかしすぐにその足は竦んだように止まってしまった。怯えた瞳に映るのは抜き身の刃。慌ててアサザは”茅”を鞘へと納めた。
「……悪い」
距離を保ったまま、カタバミは小さく首を振った。
「あいつは、いないのけ?」
「あいつ?」
「刀の精」
言われて初めて、カヤが姿を消していることに気づく。邪魔が入ったため退いたのだろうか。小さく息を吐き、同時にぞくりとした。
先程、自分は何をしようとしていた?
手にしたままだった長刀を再び投げ捨てる。黒い鋼の冷たさは、己が受け入れようとしていたものの感触とあまりにも似すぎていた。
カヤの悪意は”魔王”の一族にだけ向けられているのではない。”茅”は、主たる”戦士”の末裔をも憎んでいる。両家を争わせ、殺し合わせること。それが”茅”の、カヤの望みなのだと、ようやく思い至る。
「あいつが何か言ったのけ?」
「あれを、知っているのか」
乱れそうになる呼吸を必死で抑えながら、アサザは問う。カタバミは頷いた。
「あいつ、おっかないけど言うことはよく当たる。そのうち戦士で葬式があるから用意をしろって。そしたらすぐにおめさが来て、あいつを持ってっちまって。とうちゃんとじじさが山を下りるって言うから、おらも一緒に来た」
「葬式?」
ん、と二つのおさげが揺れた。
「……死んだの、おめさの知り合いか?」
死。どこか遠くにあると思い込もうとしていた、その言葉。
「さっき、すごく哀しそうな顔してたっけ。大丈夫か?」
哀しいと、感じているのだろうか。抱いている感情の種類さえも最早判らない。ただ、深い衝撃だけがそこにある。
母が逝った時は、実感を覚えるには幼すぎた。兄が発作を起こした時も、きっと大丈夫だという楽観がどこかにあった。
これが最後かもしれない。アカネが赴いたのはそういう場所だ。
その意味を、自分はどれ程理解していたのだろう。
ふいに怒涛のような後悔が押し寄せてきた。あいつは別れ際、どういう表情をしていた? 最後に交わした言葉は? 緋色を肩に巻いた無邪気な笑顔の記憶が、どうしようもなく心を抉っていく。
苦しくて仕方がなかった。額に両手を押し付けて、荒れ狂う波を抑えようと試みる。微かに震えるその指に、小さく温い掌が重ねられた。
「泣くんでない。男の子だべ?」
わずかに上げた目線の中、いつの間にか近づいていたカタバミの顔が映る。
「ほら、いいもんあげるから。お腹すいてちゃ何もできんよ、な?」
差し出されたのは小さな飴玉。淡い薄荷の匂いが鼻先を掠める。日に焼けた幼い笑顔が、弟のそれと重なった。
その時、胸底から衝き上げてきたものをどう表せばいいのだろう。
次の瞬間、アサザは少女の小さな身体を掻き抱いていた。そこに確かに宿る命に縋るように。独りにするなと祈るように。幼い肌の温みが愛おしくて。熱を永遠に失った面影が哀しくて、悔しくて。
一度溢れ出すと、もう涙は止まらなかった。食いしばった奥歯から、押し殺した嗚咽が洩れる。
「泣かんで。泣かんでや、アサザ」
戸惑いも露わに、カタバミが身じろぎをした。アサザの腕から逃れるのではない。逆に身を寄せ、慰めるかのように短い腕を伸ばして脇腹の辺りをさすっている。懸命に背伸びをする少女を、アサザはただ無言で抱きしめた。
この温みの隣にも、死は存在している。無論、自分の傍らにも。
大切なのはそこから目を逸らすことではなく、やがて訪れるその日を悔いなく迎えるために生きること。
生きて、生きて、生き抜くことこそが、今のアサザがアカネへしてやれる最大の手向けであり、”茅”に屈さぬ為の唯一の術だと。ようやく湧き上がった答えに、深く深く頭を垂れる。
時には涙を流しても構わない。乗り越えたその先に強さを見出せるのなら。
アカネの分まで生きる。たかだか刀の一本になど、負けてたまるか。
光を取り戻した瞳で、アサザは床に放られたままの”茅”を睨みつけた。漆黒の長刀に、不敵な笑みを刷いたカヤの姿が二重写しになる。
——面白い。そうでなければ、な。
魔性の口許は確かにそう動いた。カタバミの肩越し、真っ向からぶつかった視線が苛烈な火花を散らす。
『戦士よ、魔王よ、二つの血を受け継ぐ者よ。我の永劫の呪いを、その身に受くるがよい』
カヤの宣戦布告を、頬も拭わぬままアサザは受け止めた。このような哀しみを二度と味わわぬ為に、他の誰にも味わわせぬ為に。
強く、なる。
***************************************************************
<予告編>
機は熟したり。
王都に集った民は望む。
中立地帯の安寧を。
皇帝の打倒を。
『聖王』が統べる、島国を。
万雷の歓声の中、レンギョウは静かに告げる。
「共に往こう。皇都へ——この国の、未来へ」
添えられる手、離れゆく腕。
まっすぐに見据えた北の空。
その下には懐かしき友と、
漆黒の鏡に写された己の幻影が待っている。
『DOUBLE LORDS』転章3、
暁の旗が今、揚げられる。
冬晴れの王都は活気に包まれていた。絶えることのない人波、行き交う荷車。どこかおっとりした表情で歩く平服の都の住人に混じって、自警団の無骨な鎧姿が目立つのはここ最近の情勢からして仕方のないことだろう。彼らのおかげで商売が繁盛しているのもまた事実だ。
店先に座ったまま、彼は小さく溜息を吐いた。構えた店がようやく軌道に乗り始めた安堵なのか、戦を厭う感傷が零れたのか、自分でも判断はつかなかった。
「やあねえお父さん、そんな辛気臭い顔して。お客さんが逃げちゃうでしょう」
てきぱき働く一人娘が、早くに亡くした母親そっくりの口調で言う。在庫を倉から運び出す娘にすまんすまんと謝りながらも、彼の思いは再び店の外へと向かっていった。
あの炎暑の夏に、彼が扱う茶と乾燥果実は飛ぶように売れた。飲みづらい塩水も味をつければ多少はましになるし、日持ちする食糧はそれだけで重宝がられた。これまで地道に皇都と王都を往復していたのが滑稽に思えるほどあっさりと、ひと夏中立地帯の各所を行き来するだけで資金は貯まり、夏が終わる頃には王都の外れに念願の店を出せるまでになった。もう皇都まで重い木箱を背負って行商することもないのだと思うと、感慨もひとしおだった。
皇都といえば、いつぞや出会ったあの若い戦士はどうしているだろう。
戦に駆り出されて苦労をしていないといいが、などととりとめなく考えている彼の耳に、重く響く鐘の音が聞こえてくる。厳かに時を告げるその音色に、娘も顔を上げた。
「お父さん、聖王様の演説が始まるよ」
「ああ、そうだな」
合同葬礼から半月。王宮の庭に久しぶりにレンギョウが姿を現すというふれが出たのは三日前のことだった。
彼はゆっくりと立ち上がった。木箱は下ろしたはずなのに、最近めっきり腰が重くなった。もう年なのかも知れないな、と苦笑いしながら扉に向かう。
「店番、頼んだぞ」
「分かってるって。私の分までしっかり聞いてきてよね。いってらっしゃい」
仕切り台の中で手を振る娘に見送られ、彼は雑踏の中へと踏み出した。あちこちを向いていた人々の靴先も、空ごと鐘の音に覆われた今では一様に同じ場所を目指して歩み始めている。その波に逆らわず、彼はゆっくりと王宮までの道を進んだ。
「聖王様、何をおっしゃられるのかな」
「さあ。皇帝領との和解なんかじゃないことは確かでしょ」
聞くともなしに近くを過ぎる人々の声が耳に入る。
「そうだねぇ。早く落ち着くといいんだけど」
「中立地帯も聖王様が援助を始めてからうまく回ってるみたいだしね」
「ふぅん。皇帝って今まで何してたんだろうね?」
溜息混じりの言葉が、やけにはっきりと聞こえた。
「あーあ。いっそのこと聖王様がこの国をまるごと治めちゃえばいいのに」
こらこら、と窘める声も笑いを含んでいる。
「滅多なことを言うんじゃない。どこに皇帝の間者がいるか分からないんだから」
声が人ごみに紛れて遠ざかっていく。いや、自分が足を止めていたのだと、追い抜きざま肩にぶつかった男の迷惑そうな視線でようやく気づく。慌てて彼は再び歩き出した。
王が統べる国。
第四代モクレンの代に統治権を手放してからの、それは王都の民の悲願だった。中立地帯を味方につけ、皇帝軍の侵攻を止めた実績を手に、十八歳の若き聖王レンギョウが百年越しの夢を叶えようとしている。
そう。機は熟したのだ。
ふいに言いようのない嬉しさがこみ上げてきて、彼は先程までとは別人のような軽い足取りで歩を進めた。王宮の門を潜り、すし詰めの前庭へと入る。比較的寒さの緩い王都だが、風はまだまだ冷たい。しかしそれ以上に、庭には観衆の熱気が溢れていた。
ややあって、どん、と腹を揺るがすような太鼓が鳴らされた。皆が一斉に顔を上げる。その間合いを見通していたかのように、露台に一人の人物が姿を現す。白を基調とした衣装に身を包んだ、小柄な銀髪の少年。
「聖王様だ!」
庭はたちまち耳を聾さんばかりの歓声に包まれる。しばらく黙ってそれを見つめていたレンギョウがおもむろに右手を上げる。たったそれだけの仕草で、民たちはぴたりと口を閉ざした。先程までとは打って変わった静寂が庭を埋めつくす。
「皆の者、よく集まってくれた。礼を言う」
はっきりと良く通る声でレンギョウは語り出した。
「まず皆に詫びねばならぬことがある。先の戦のことだ。数多の犠牲を出したこと、すまなかったと思う」
言葉を切って、レンギョウはきつく瞼を閉じた。
「……余の名の下に多くの血が流れた事実を、余は決して忘れぬ。他の方策はなかったものかと、正直なところ今でも思い悩んでおる。だが」
すっと銀青の瞳が開かれる。
「飢えに苦しむ中立地帯の民をどうして見捨てられよう。我が都が皇帝軍に攻められるのをどうして見過ごせよう。少なくとも余には——”聖王”には、無理な相談であった」
一息にレンギョウは言葉を続ける。その声には一点の迷いもない。
「この先より良き世を作るために、余は皇帝と会ってみようと思う。皇都への道行きは無論簡単にはゆかぬだろう。どうしても皆の助けが必要となる。ついてきて、くれるだろうか」
戸惑いにも似た空白は一瞬のこと。徐々にどよめきが庭中を覆っていく。
聞き違いでなければ、今なされたレンギョウの言葉は事実上の挙兵宣言だ。それが意味するのは勿論、皇帝との全面対決。
「聖王陛下万歳!」
誰かが叫んだ。歓喜の声はたちまち前庭を埋め、万雷の拍手となってレンギョウに降り注いだ。口の端に小さく笑みを浮かべ、強く静かな眼差しでレンギョウは告げる。その目はまっすぐに北の彼方へ向けられていた。
「共に往こう。皇都へ——この国の、未来へ」
熱狂は最早最高潮に達していた。その渦の中、彼もまた熱に浮かされるように諸手を挙げてレンギョウの名を呼んでいた。聖王親征。レンギョウの言葉はまさに魔法のように彼の身体に活力を吹き込んでいた。
大歓声に応えるレンギョウの姿をよく見ようと目を凝らす。前女王の名代だった頃からその成長を見守り続けた息子のような王でもある。たとえ自分の姿がその目に映ることはなくても、晴れ姿を記憶に留めておきたかった。
ふと、違和感を感じて彼は目をこすった。レンギョウの何かがおかしいわけではない。少し寂し気な笑顔はいつものこと。その横に、何かが足りない。
「コウリ様は、どこにいるんだ……?」
そうだ。レンギョウの傍に常に寄り添っている側役の姿が見えない。この場に居て然るべき人物の不在。それが彼の心に小さく黒い不安の芽を植えつける。
「いやいや、きっと聖王様もようやく独り立ちされたんだ。いつまでも子供ではないんだしな」
頭を振って、彼は未だ止まぬ歓声の中へと意識を引き戻した。見上げた露台の上では、折しもレンギョウがこちらに背を向けたところだった。中へと続く幕をたくし上げたのは細く白い手。長い黒髪の手の主の肩越しに、角張った兵の鎧が見える。
中立地帯自警団。
違和感の正体に思い当たって、彼の体温は一気に冷えていった。
今、レンギョウの周囲に貴族は幾人いるのだろう。
これは古き世を懐かしむ王都の住民の感傷かもしれない。それでも同じ”魔王”の血を分けた貴族の姿が国王の傍に見えないという事実は、彼の不安を煽るには充分なものだった。
声もなく見つめる彼の内心になど気づくはずもなく、幕はあっさりと閉じられた。レンギョウの姿が消えたのをしおに、群集は出口へと動き出している。流れに揉まれながら、彼はのろのろと家路を辿った。
「あ、お父さん、お帰りなさい」
店の扉を潜るといつもと変わらぬ娘の声が迎えてくれたが、彼はまっすぐに店の隅っこの定位置へ向かい、座り込んでしまった。なんだかすっかり足が萎えてしまっていた。
「そうだお父さん、裏の空き家に人が越してきたよ」
父親の様子に気づく気配もなく、娘はぱたぱたと立ち働いている。
「まだ若い人みたい。中立地帯から来たんですって。ちらっと見ただけだけど、なんだか暗そうな感じの人だったよ。イヤね、せっかく綺麗な亜麻色の髪してるのに」
「亜麻色……男か?」
「うん。たまたま荷物を運び込んでるの見かけたから手伝いましょうか、って言ってみたんだけど断られちゃって。今日は聖王様の演説があるから皆出払ってる、って言っても残念がるでもなくボーっとしちゃってさ。もっともホントに荷物少なかったみたいで引っ越しもすごく簡単に終わって、さっさと家に篭っちゃったわよ」
「……そうか」
まさか。
そう思いつつも、彼は立ち上がり裏口へと手をかけた。野次馬だなー、などという娘の揶揄など耳に入らぬほどに真剣な眼差しで、彼はすぐ傍の家を見つめる。人気のないそこは昨日までと同じく静かに佇んでいた。
半ば安心して彼が扉を閉めようとした時だった。夕闇の迫る窓辺に血色の悪い男の顔が映りこんだ。その白い指が冷気除けの布を閉めるまでのほんの刹那、男と彼の目線がぶつかり合う。
詮索を断ち切るように閉ざされた窓から、彼は目が離せなくなっていた。見間違いようがない。やつれてはいたが、あれは確かに国王側役コウリの顔だった。
「一体、王宮で何が起こっているんだ……」
落ち始めた夜の帳のように、彼の心を不安と疑念の闇が覆っていった。
<予告編>
夜の帳は皇都の空を紫色へと染めていく。
街にはためく弔旗の縁取りと同じ夕闇の色。
刹那の彩りはやがて、
漆黒の昏みへと堕ちていく。
皇都に最後に残された
温もりと安らぎの灯火が消える時、
アサザが目の当たりにしたのは、
人の強さと、脆さ。
『DOUBLE LORDS』転章4、
伝えきれぬ幾つもの言葉と共に託された、
新たな扉の鍵はその手の中に。
「やあねえお父さん、そんな辛気臭い顔して。お客さんが逃げちゃうでしょう」
てきぱき働く一人娘が、早くに亡くした母親そっくりの口調で言う。在庫を倉から運び出す娘にすまんすまんと謝りながらも、彼の思いは再び店の外へと向かっていった。
あの炎暑の夏に、彼が扱う茶と乾燥果実は飛ぶように売れた。飲みづらい塩水も味をつければ多少はましになるし、日持ちする食糧はそれだけで重宝がられた。これまで地道に皇都と王都を往復していたのが滑稽に思えるほどあっさりと、ひと夏中立地帯の各所を行き来するだけで資金は貯まり、夏が終わる頃には王都の外れに念願の店を出せるまでになった。もう皇都まで重い木箱を背負って行商することもないのだと思うと、感慨もひとしおだった。
皇都といえば、いつぞや出会ったあの若い戦士はどうしているだろう。
戦に駆り出されて苦労をしていないといいが、などととりとめなく考えている彼の耳に、重く響く鐘の音が聞こえてくる。厳かに時を告げるその音色に、娘も顔を上げた。
「お父さん、聖王様の演説が始まるよ」
「ああ、そうだな」
合同葬礼から半月。王宮の庭に久しぶりにレンギョウが姿を現すというふれが出たのは三日前のことだった。
彼はゆっくりと立ち上がった。木箱は下ろしたはずなのに、最近めっきり腰が重くなった。もう年なのかも知れないな、と苦笑いしながら扉に向かう。
「店番、頼んだぞ」
「分かってるって。私の分までしっかり聞いてきてよね。いってらっしゃい」
仕切り台の中で手を振る娘に見送られ、彼は雑踏の中へと踏み出した。あちこちを向いていた人々の靴先も、空ごと鐘の音に覆われた今では一様に同じ場所を目指して歩み始めている。その波に逆らわず、彼はゆっくりと王宮までの道を進んだ。
「聖王様、何をおっしゃられるのかな」
「さあ。皇帝領との和解なんかじゃないことは確かでしょ」
聞くともなしに近くを過ぎる人々の声が耳に入る。
「そうだねぇ。早く落ち着くといいんだけど」
「中立地帯も聖王様が援助を始めてからうまく回ってるみたいだしね」
「ふぅん。皇帝って今まで何してたんだろうね?」
溜息混じりの言葉が、やけにはっきりと聞こえた。
「あーあ。いっそのこと聖王様がこの国をまるごと治めちゃえばいいのに」
こらこら、と窘める声も笑いを含んでいる。
「滅多なことを言うんじゃない。どこに皇帝の間者がいるか分からないんだから」
声が人ごみに紛れて遠ざかっていく。いや、自分が足を止めていたのだと、追い抜きざま肩にぶつかった男の迷惑そうな視線でようやく気づく。慌てて彼は再び歩き出した。
王が統べる国。
第四代モクレンの代に統治権を手放してからの、それは王都の民の悲願だった。中立地帯を味方につけ、皇帝軍の侵攻を止めた実績を手に、十八歳の若き聖王レンギョウが百年越しの夢を叶えようとしている。
そう。機は熟したのだ。
ふいに言いようのない嬉しさがこみ上げてきて、彼は先程までとは別人のような軽い足取りで歩を進めた。王宮の門を潜り、すし詰めの前庭へと入る。比較的寒さの緩い王都だが、風はまだまだ冷たい。しかしそれ以上に、庭には観衆の熱気が溢れていた。
ややあって、どん、と腹を揺るがすような太鼓が鳴らされた。皆が一斉に顔を上げる。その間合いを見通していたかのように、露台に一人の人物が姿を現す。白を基調とした衣装に身を包んだ、小柄な銀髪の少年。
「聖王様だ!」
庭はたちまち耳を聾さんばかりの歓声に包まれる。しばらく黙ってそれを見つめていたレンギョウがおもむろに右手を上げる。たったそれだけの仕草で、民たちはぴたりと口を閉ざした。先程までとは打って変わった静寂が庭を埋めつくす。
「皆の者、よく集まってくれた。礼を言う」
はっきりと良く通る声でレンギョウは語り出した。
「まず皆に詫びねばならぬことがある。先の戦のことだ。数多の犠牲を出したこと、すまなかったと思う」
言葉を切って、レンギョウはきつく瞼を閉じた。
「……余の名の下に多くの血が流れた事実を、余は決して忘れぬ。他の方策はなかったものかと、正直なところ今でも思い悩んでおる。だが」
すっと銀青の瞳が開かれる。
「飢えに苦しむ中立地帯の民をどうして見捨てられよう。我が都が皇帝軍に攻められるのをどうして見過ごせよう。少なくとも余には——”聖王”には、無理な相談であった」
一息にレンギョウは言葉を続ける。その声には一点の迷いもない。
「この先より良き世を作るために、余は皇帝と会ってみようと思う。皇都への道行きは無論簡単にはゆかぬだろう。どうしても皆の助けが必要となる。ついてきて、くれるだろうか」
戸惑いにも似た空白は一瞬のこと。徐々にどよめきが庭中を覆っていく。
聞き違いでなければ、今なされたレンギョウの言葉は事実上の挙兵宣言だ。それが意味するのは勿論、皇帝との全面対決。
「聖王陛下万歳!」
誰かが叫んだ。歓喜の声はたちまち前庭を埋め、万雷の拍手となってレンギョウに降り注いだ。口の端に小さく笑みを浮かべ、強く静かな眼差しでレンギョウは告げる。その目はまっすぐに北の彼方へ向けられていた。
「共に往こう。皇都へ——この国の、未来へ」
熱狂は最早最高潮に達していた。その渦の中、彼もまた熱に浮かされるように諸手を挙げてレンギョウの名を呼んでいた。聖王親征。レンギョウの言葉はまさに魔法のように彼の身体に活力を吹き込んでいた。
大歓声に応えるレンギョウの姿をよく見ようと目を凝らす。前女王の名代だった頃からその成長を見守り続けた息子のような王でもある。たとえ自分の姿がその目に映ることはなくても、晴れ姿を記憶に留めておきたかった。
ふと、違和感を感じて彼は目をこすった。レンギョウの何かがおかしいわけではない。少し寂し気な笑顔はいつものこと。その横に、何かが足りない。
「コウリ様は、どこにいるんだ……?」
そうだ。レンギョウの傍に常に寄り添っている側役の姿が見えない。この場に居て然るべき人物の不在。それが彼の心に小さく黒い不安の芽を植えつける。
「いやいや、きっと聖王様もようやく独り立ちされたんだ。いつまでも子供ではないんだしな」
頭を振って、彼は未だ止まぬ歓声の中へと意識を引き戻した。見上げた露台の上では、折しもレンギョウがこちらに背を向けたところだった。中へと続く幕をたくし上げたのは細く白い手。長い黒髪の手の主の肩越しに、角張った兵の鎧が見える。
中立地帯自警団。
違和感の正体に思い当たって、彼の体温は一気に冷えていった。
今、レンギョウの周囲に貴族は幾人いるのだろう。
これは古き世を懐かしむ王都の住民の感傷かもしれない。それでも同じ”魔王”の血を分けた貴族の姿が国王の傍に見えないという事実は、彼の不安を煽るには充分なものだった。
声もなく見つめる彼の内心になど気づくはずもなく、幕はあっさりと閉じられた。レンギョウの姿が消えたのをしおに、群集は出口へと動き出している。流れに揉まれながら、彼はのろのろと家路を辿った。
「あ、お父さん、お帰りなさい」
店の扉を潜るといつもと変わらぬ娘の声が迎えてくれたが、彼はまっすぐに店の隅っこの定位置へ向かい、座り込んでしまった。なんだかすっかり足が萎えてしまっていた。
「そうだお父さん、裏の空き家に人が越してきたよ」
父親の様子に気づく気配もなく、娘はぱたぱたと立ち働いている。
「まだ若い人みたい。中立地帯から来たんですって。ちらっと見ただけだけど、なんだか暗そうな感じの人だったよ。イヤね、せっかく綺麗な亜麻色の髪してるのに」
「亜麻色……男か?」
「うん。たまたま荷物を運び込んでるの見かけたから手伝いましょうか、って言ってみたんだけど断られちゃって。今日は聖王様の演説があるから皆出払ってる、って言っても残念がるでもなくボーっとしちゃってさ。もっともホントに荷物少なかったみたいで引っ越しもすごく簡単に終わって、さっさと家に篭っちゃったわよ」
「……そうか」
まさか。
そう思いつつも、彼は立ち上がり裏口へと手をかけた。野次馬だなー、などという娘の揶揄など耳に入らぬほどに真剣な眼差しで、彼はすぐ傍の家を見つめる。人気のないそこは昨日までと同じく静かに佇んでいた。
半ば安心して彼が扉を閉めようとした時だった。夕闇の迫る窓辺に血色の悪い男の顔が映りこんだ。その白い指が冷気除けの布を閉めるまでのほんの刹那、男と彼の目線がぶつかり合う。
詮索を断ち切るように閉ざされた窓から、彼は目が離せなくなっていた。見間違いようがない。やつれてはいたが、あれは確かに国王側役コウリの顔だった。
「一体、王宮で何が起こっているんだ……」
落ち始めた夜の帳のように、彼の心を不安と疑念の闇が覆っていった。
***************************************************************
<予告編>
夜の帳は皇都の空を紫色へと染めていく。
街にはためく弔旗の縁取りと同じ夕闇の色。
刹那の彩りはやがて、
漆黒の昏みへと堕ちていく。
皇都に最後に残された
温もりと安らぎの灯火が消える時、
アサザが目の当たりにしたのは、
人の強さと、脆さ。
『DOUBLE LORDS』転章4、
伝えきれぬ幾つもの言葉と共に託された、
新たな扉の鍵はその手の中に。
凍てつく皇都の寒気は、未だ緩む気配もない。北風に翻る旗は黒地に深い紫の縁取りがなされた弔旗だ。戦死者の合同葬礼は五日前に終わっていたが、全員の埋葬はまだ完了していない。葬祭殿が空になるまで、旗は半旗のまま掲げられるのが通例だった。
空は澄み渡っていた。下界の沈鬱さなどお構いなしに、一日の務めを終えた太陽は足早に西の彼方へと沈んでいく。裳裾の残光が残る空は徐々に夜へとその場を譲り、弔いの色と同じ夕闇の紫へと染まっていった。
闇はより強い冷気を伴う。部屋の温みが翳ったことで、アサザは夜の訪れを知った。
「少し冷えてきたな。悪いが薪を足してきてくれ」
はい、と頷いて、顔なじみの衛兵が部屋を出て行く。紙類が多いこの部屋の暖房は、別室で熾した火の熱を床下に引き込む仕組みになっている。病がちな部屋の主が煤を吸い込むこともなく、また熱の通り道を冷めにくい石材で造作してあることもあり、いつでも温かい。
温みの宿る床へ膝を折り、アサザは横たわった兄の顔へと視線を戻した。”山の民”の村へと向かう前、最後に言葉を交わした時よりも少しやつれただろうか。昏々と眠り続けるアオイの顔に苦痛の色が見えないことだけが、せめてもの救いだった。
アオイが倒れたのはアサザが出立した直後だという。以来意識が戻らぬままだから、戦の結果も”茅”の正体も知らないことになる。それでいいとアサザは思っていた。人より多くの物事を知ることによって苦しみ続けた兄に、これ以上の重荷は背負わせたくなかった。
小さく息を吐いて、アサザは背後へと意識を向ける。
「なあブドウ。あまり自分を責めるなよ」
戸口の辺りから身を竦ませる気配が伝わってきた。振り返らないままアサザは言葉を継いだ。
「肝心な時に何もできなかったのは俺も一緒だ。兄上だって分かってくれるさ」
かぶりを振る気配と、低く掠れた声が返ってくる。
「……私が、許せない」
微かな鍔鳴りの音が響く。剣を抱いたまま、ブドウは扉の脇に座り込んでいた。合同葬礼の後、アカネの埋葬が済んだその足でここに来て、ずっと同じ姿勢のまま蹲っている。決してアオイの傍には近寄らず、まるで襲い来る何者かを迎え撃つかのようにぎらぎらと輝く瞳で虚空を睨んだまま。一睡もしていないその目の下には、濃い隈が浮かんでいる。
戻ってきた衛兵が痛ましげな眼差しをブドウに向けた。彼自身、ブドウに何度も休息を勧めている。既に掛けるべき言葉など尽きていた。無言のまま、ブドウとは逆の戸口脇に背筋を正して立つ。そうすることで目に見えぬ敵から主を守ることができると信じているかのように。
アサザとてブドウと似たような格好だった。不吉な葬礼用の外套と長刀を部屋に放り込み、カヤが見せる幻から逃れるようにここに来た。兄の枕元に座り込み、呼吸を確認して安堵し、少しだけまどろみ、跳ね起きては頬の体温を確かめる。そんなことをしても意味がないと分かっていても、できることが他に思いつかなかった。
膝の下で床の温度が上がった。温もりを増した空気に誘われるかのように、アオイの瞼が揺れた。
「兄上」
ゆっくりと開かれる瞳。アサザの声に、焦点が合わないままの視線が向けられる。咄嗟に立ち上がるブドウの気配、衛兵が息を呑む音。茫洋とそれらを受け止めた後、ようやく間近の弟の表情を認めたアオイがにっこりと笑った。
「どうしたんだいアサザ、そんな情けない顔をして」
夜を迎えて、外では風が強くなったようだった。ともすると北風の咆哮に紛れてしまいそうな兄の声に、アサザは必死で笑顔を繕った。
「寝覚めの一言がそれですか。こっちはずっとつきっきりで看病してたんですよ」
「ふふ、ごめん。心配かけちゃったみたいだね」
小さく空咳をして、アオイは薄い瞼を閉じた。
「本当にごめん。これが、最後だから」
氷の手で心臓を鷲掴みにされた気がした。それは今、一番突きつけられたくない現実だった。咄嗟に兄の肩を揺さぶりそうになった手を、辛うじて自制する。
「……アカネは?」
ブドウが身を固くしたのが振り向かなくても分かった。震える手に握り締めた鞘が鳴る音が、部屋に響く。
「少し、怪我をして。今は休んでいます」
滑り出た嘘は不自然ではなかっただろうか。心持ち下がったアオイの視線を追って、アサザは息を止めた。胸元に留まった夕闇色の喪章。外し忘れたそれの不吉な色が兄の目に留まらないことだけを、心から祈った。
「……そう。それなら仕方ないね」
何事もなく再び伏せられた瞳に、知らず詰めていた息を吐く。
「父上も。来ないかな、やっぱり」
聞き取れないほどに低い呟きに問い返す暇はなかった。ふいに目線を上げたアオイが、これまでとは打って変わった凛とした声で衛兵の名を呼んだ。
「シダ」
「はっ」
敬礼をして、衛兵が一歩前に出る。身体をずらしたアサザと夥しい書類の束を隔てて、主従はお互いの顔をしっかりと見据えた。
「今日まで、よく仕えてくれたね。何もできない主で、君には苦労ばかりかけてしまった。本当にすまない」
「アオイ様」
思いもかけない言葉だったのだろう。衛兵は背筋を伸ばしたままの姿勢で固まってしまった。
「そんなことは、どうか。恩義こそあれ、苦労など」
無口で朴訥な衛兵は、そこまで口にしたところで絶句してしまった。代わりに溢れ出した涙を抑えるように、その場に跪き嗚咽を洩らす。
しばらく衛兵の震える肩を見つめていたアオイの視線が横に流れた。
「ブドウ」
がちゃり、と剣が鳴った。穏やかな視線の先、怯えたように後ずさるブドウの姿がまっすぐに捉えられる。何かを拒むように首を振るブドウに、アオイはゆったりと笑いかけた。
「傍に、来て」
その一言で、ブドウの身体から力が抜けた。普段とは別人のように肩を落とし、重い足を引きずって部屋を横切る。辛うじて感情を抑えていられたのはそこまでだった。枕元を譲ったアサザと入れ替わりに膝をついて白い顔を見下ろした刹那、夥しい記憶がブドウの脳裏に溢れ出した。
「ごめん。ごめんなさい、私は、アカネを」
その先は言葉にできなかった。意味を成さない声と裏腹に、悲愴と悔悟の雫が眦から零れる。
涙の筋を辿るように、アオイの指がブドウの頬に触れた。慰めるように、いとおしむように。全てを包み込むような微笑のまま、アオイは小さく、けれどはっきりと告げた。
「たとえどんなことが起ころうと、私の答えは変わらないよ。——ブドウ。出逢ってくれて、ありがとう」
頬を伝う涙の温度が変わったのは、錯覚ではないだろう。名残惜しげにその筋を拭って、血の気のない指先が頬から離れる。
「アサザに話しておきたいことがあるんだ。二人だけにしてもらえないかい?」
穏やかな問い掛け。しかしアオイの瞳は真剣だった。有無を言わせぬその表情に、思わずブドウは頷いていた。
衛兵と支えあうように部屋を出ていく瞬間、一度だけブドウは振り返った。常と変わらぬ微笑のまま、アオイが声に出さずに呟いた。
どうか、元気で。
閉ざされた扉に阻まれたせいで、ブドウにその言葉が伝わったかは分からなかった。それでもアサザに向き直ったアオイは、どこか吹っ切ったような表情でいつもと同じようにまっすぐ目線を合わせてきた。
「ごめんね、アサザ。本当はもっとゆっくり話したかったんだけど」
アサザは無言で首を振った。これ以上アオイに話をさせることはどう考えても危険だ。しかしここで言葉を遮れば、恐らく永遠に兄が伝えたかったことを聞く機会は失われる。どうすれば良いのかなど、分からなかった。
「私の持っている情報網のことなのだけれど」
アサザの表情には構わず、アオイは言葉を紡ぐ。呼吸が浅いせいで、時折声が掠れるのが気になるのだろう。小さな咳を繰り返しながら、あくまで淡々と伝達事項を述べていく。
「私に何かあれば、君に指示を仰ぐよう束ね役に伝えてある。君が引き継いだことを父上に知られると後々大変だろうから、とりあえず顔見世と挨拶は葬礼の後、落ち着いた頃にするよう言っておいたよ。突然誰かから話しかけられてもびっくりしないで、話を聞いてあげてね」
「……はい」
できうる限り感情を押し殺した声で、アサザは返事をする。アオイはこんな日が来ることをずっと以前から予測していたのだろう。いずれ起こる事態のために部下に指示を出し、なすべきこと、伝えるべきことを考えて。
兄の予測はいつでも正しかった。そして今、兄は自分が存在しない未来のために、現在できうる全てを為そうとしている。その姿から目を逸らすことは兄に対する裏切りだと思えた。
「……事実を知ることで、逆に自分を苦しめることもある。こんなものを渡した私のことを恨むこともあるかもしれない。けれど」
言葉を切って、アオイは深く深く息を吐いた。
「私には、これ位しか遺せるものがないから」
「そんなことは、ありません」
声の震えは、既に隠しようがなかった。詰まりそうになる喉を懸命に宥めつつ、アサザはアオイに笑いかけた。
「兄上は俺に、たくさんのことを教えてくれました。数え切れない程の思い出も。きっと」
握り締めた拳に、冷たい雫が落ちる。
「きっと、アカネも同じことを言いますよ」
「……ありがとう、アサザ。君たちのような弟を持てて本当に良かった」
柔らかな光を湛えた瞳の焦点が、虚空へと流れた。
「寂しがり屋のアカネが待ってる、ね」
掻き消えそうな声と共に、薄い瞼がゆっくりと閉じられる。見守るアサザの前で、穏やかな呼吸が目に見えて浅くなった。最期の瞬間の、厳粛な静謐。
突然、扉が乱暴に開かれた。部屋を支配していた静寂を靴音高く蹴散らして、一人の男が入ってくる。
「陛下」
振り返ってその姿を認めた途端、幾多の非難の言葉が喉元にせり上がってきた。
今頃になって。兄上はずっと待っていたのに。こんな時くらい静かにできないのか。——それでも父親か。
我先に飛び出そうとする言葉たちは互いに邪魔しあって、声にはできなかった。睨みつけるだけのアサザを完全に黙殺して、アザミはアオイの横たわる床へと歩み寄る。すれ違う瞬間、アサザは制止しようと伸ばした手を咄嗟に引いた。アザミの息が乱れている。まるで執務室からここまで、必死に駆けつけてきたかのように。
皇帝が見下ろした先には、アオイの穏やかな微笑があった。眠るように瞼を閉じたその顔は、いつもの寝顔と変わらない。決定的に違うのは、その瞼が二度と開くことはないということ。その頬に温みが宿ることは、二度とないということ。
糸が切れたように、アザミの膝が崩れた。
「許さぬ。目を覚ませ廃太子。余の命が聞けぬのか」
掛け布の上に放り出されたままの血の気を失った細い指先に、一回りは大きな手が差し伸べられる。しかしそれは触れる前に力なく落とされ、逡巡するように彷徨った後に虚しく掛け布を握り締めた。
「此奴も、第三皇子も——あの女も。何故だ。何故、余を」
「……陛下」
「いくな」
アサザの呼びかけを、低く、それでいて明瞭な声音が遮る。
「いくな、行くな、逝くな——アサザ、お前だけは」
思わず、息を詰めた。
名を、呼ばれた。
見返した父帝の横顔には、見慣れた傲慢さは欠片もなかった。そこに浮かんでいたのは、深い疲弊と憔悴。アサザが初めて触れる、父の弱さだった。
言ってやりたいことは山ほどあったはずだった。しかしそのどれもが言葉にはならず、それどころか言うべき言葉すら見つからない。
弟。そして兄。
永訣したのは、それだけではない。これからきっと多くのものが変わり、失われていく。そんな確信に近い予感が、アサザの胸に黒く湧き上がってきた。
今日失ったものは、一体何だろう。
<予告編>
夢を見た。
漆黒の、鋼のように冷たい心象の。
目覚めた後も喉元に刃を突きつけられているような、
不吉な後味の夢を。
月霞の空の下、レンギョウは白い息を吐く。
皇都への旅立ちの朝。
暁と同じ色を旗印を掲げ、北へ往く。
国王としての責務を果たすために。
友と交わした約束を果たすために。
再編成された軍が眼下に集う。
束ねるのは聖王レンギョウ。
そして、指揮を執るのは——
『DOUBLE LORDS』転章5、新展開。
またいつか、会えるだろうか。
耳に甦る声はかつての己か、夢の残滓か。
闇はより強い冷気を伴う。部屋の温みが翳ったことで、アサザは夜の訪れを知った。
「少し冷えてきたな。悪いが薪を足してきてくれ」
はい、と頷いて、顔なじみの衛兵が部屋を出て行く。紙類が多いこの部屋の暖房は、別室で熾した火の熱を床下に引き込む仕組みになっている。病がちな部屋の主が煤を吸い込むこともなく、また熱の通り道を冷めにくい石材で造作してあることもあり、いつでも温かい。
温みの宿る床へ膝を折り、アサザは横たわった兄の顔へと視線を戻した。”山の民”の村へと向かう前、最後に言葉を交わした時よりも少しやつれただろうか。昏々と眠り続けるアオイの顔に苦痛の色が見えないことだけが、せめてもの救いだった。
アオイが倒れたのはアサザが出立した直後だという。以来意識が戻らぬままだから、戦の結果も”茅”の正体も知らないことになる。それでいいとアサザは思っていた。人より多くの物事を知ることによって苦しみ続けた兄に、これ以上の重荷は背負わせたくなかった。
小さく息を吐いて、アサザは背後へと意識を向ける。
「なあブドウ。あまり自分を責めるなよ」
戸口の辺りから身を竦ませる気配が伝わってきた。振り返らないままアサザは言葉を継いだ。
「肝心な時に何もできなかったのは俺も一緒だ。兄上だって分かってくれるさ」
かぶりを振る気配と、低く掠れた声が返ってくる。
「……私が、許せない」
微かな鍔鳴りの音が響く。剣を抱いたまま、ブドウは扉の脇に座り込んでいた。合同葬礼の後、アカネの埋葬が済んだその足でここに来て、ずっと同じ姿勢のまま蹲っている。決してアオイの傍には近寄らず、まるで襲い来る何者かを迎え撃つかのようにぎらぎらと輝く瞳で虚空を睨んだまま。一睡もしていないその目の下には、濃い隈が浮かんでいる。
戻ってきた衛兵が痛ましげな眼差しをブドウに向けた。彼自身、ブドウに何度も休息を勧めている。既に掛けるべき言葉など尽きていた。無言のまま、ブドウとは逆の戸口脇に背筋を正して立つ。そうすることで目に見えぬ敵から主を守ることができると信じているかのように。
アサザとてブドウと似たような格好だった。不吉な葬礼用の外套と長刀を部屋に放り込み、カヤが見せる幻から逃れるようにここに来た。兄の枕元に座り込み、呼吸を確認して安堵し、少しだけまどろみ、跳ね起きては頬の体温を確かめる。そんなことをしても意味がないと分かっていても、できることが他に思いつかなかった。
膝の下で床の温度が上がった。温もりを増した空気に誘われるかのように、アオイの瞼が揺れた。
「兄上」
ゆっくりと開かれる瞳。アサザの声に、焦点が合わないままの視線が向けられる。咄嗟に立ち上がるブドウの気配、衛兵が息を呑む音。茫洋とそれらを受け止めた後、ようやく間近の弟の表情を認めたアオイがにっこりと笑った。
「どうしたんだいアサザ、そんな情けない顔をして」
夜を迎えて、外では風が強くなったようだった。ともすると北風の咆哮に紛れてしまいそうな兄の声に、アサザは必死で笑顔を繕った。
「寝覚めの一言がそれですか。こっちはずっとつきっきりで看病してたんですよ」
「ふふ、ごめん。心配かけちゃったみたいだね」
小さく空咳をして、アオイは薄い瞼を閉じた。
「本当にごめん。これが、最後だから」
氷の手で心臓を鷲掴みにされた気がした。それは今、一番突きつけられたくない現実だった。咄嗟に兄の肩を揺さぶりそうになった手を、辛うじて自制する。
「……アカネは?」
ブドウが身を固くしたのが振り向かなくても分かった。震える手に握り締めた鞘が鳴る音が、部屋に響く。
「少し、怪我をして。今は休んでいます」
滑り出た嘘は不自然ではなかっただろうか。心持ち下がったアオイの視線を追って、アサザは息を止めた。胸元に留まった夕闇色の喪章。外し忘れたそれの不吉な色が兄の目に留まらないことだけを、心から祈った。
「……そう。それなら仕方ないね」
何事もなく再び伏せられた瞳に、知らず詰めていた息を吐く。
「父上も。来ないかな、やっぱり」
聞き取れないほどに低い呟きに問い返す暇はなかった。ふいに目線を上げたアオイが、これまでとは打って変わった凛とした声で衛兵の名を呼んだ。
「シダ」
「はっ」
敬礼をして、衛兵が一歩前に出る。身体をずらしたアサザと夥しい書類の束を隔てて、主従はお互いの顔をしっかりと見据えた。
「今日まで、よく仕えてくれたね。何もできない主で、君には苦労ばかりかけてしまった。本当にすまない」
「アオイ様」
思いもかけない言葉だったのだろう。衛兵は背筋を伸ばしたままの姿勢で固まってしまった。
「そんなことは、どうか。恩義こそあれ、苦労など」
無口で朴訥な衛兵は、そこまで口にしたところで絶句してしまった。代わりに溢れ出した涙を抑えるように、その場に跪き嗚咽を洩らす。
しばらく衛兵の震える肩を見つめていたアオイの視線が横に流れた。
「ブドウ」
がちゃり、と剣が鳴った。穏やかな視線の先、怯えたように後ずさるブドウの姿がまっすぐに捉えられる。何かを拒むように首を振るブドウに、アオイはゆったりと笑いかけた。
「傍に、来て」
その一言で、ブドウの身体から力が抜けた。普段とは別人のように肩を落とし、重い足を引きずって部屋を横切る。辛うじて感情を抑えていられたのはそこまでだった。枕元を譲ったアサザと入れ替わりに膝をついて白い顔を見下ろした刹那、夥しい記憶がブドウの脳裏に溢れ出した。
「ごめん。ごめんなさい、私は、アカネを」
その先は言葉にできなかった。意味を成さない声と裏腹に、悲愴と悔悟の雫が眦から零れる。
涙の筋を辿るように、アオイの指がブドウの頬に触れた。慰めるように、いとおしむように。全てを包み込むような微笑のまま、アオイは小さく、けれどはっきりと告げた。
「たとえどんなことが起ころうと、私の答えは変わらないよ。——ブドウ。出逢ってくれて、ありがとう」
頬を伝う涙の温度が変わったのは、錯覚ではないだろう。名残惜しげにその筋を拭って、血の気のない指先が頬から離れる。
「アサザに話しておきたいことがあるんだ。二人だけにしてもらえないかい?」
穏やかな問い掛け。しかしアオイの瞳は真剣だった。有無を言わせぬその表情に、思わずブドウは頷いていた。
衛兵と支えあうように部屋を出ていく瞬間、一度だけブドウは振り返った。常と変わらぬ微笑のまま、アオイが声に出さずに呟いた。
どうか、元気で。
閉ざされた扉に阻まれたせいで、ブドウにその言葉が伝わったかは分からなかった。それでもアサザに向き直ったアオイは、どこか吹っ切ったような表情でいつもと同じようにまっすぐ目線を合わせてきた。
「ごめんね、アサザ。本当はもっとゆっくり話したかったんだけど」
アサザは無言で首を振った。これ以上アオイに話をさせることはどう考えても危険だ。しかしここで言葉を遮れば、恐らく永遠に兄が伝えたかったことを聞く機会は失われる。どうすれば良いのかなど、分からなかった。
「私の持っている情報網のことなのだけれど」
アサザの表情には構わず、アオイは言葉を紡ぐ。呼吸が浅いせいで、時折声が掠れるのが気になるのだろう。小さな咳を繰り返しながら、あくまで淡々と伝達事項を述べていく。
「私に何かあれば、君に指示を仰ぐよう束ね役に伝えてある。君が引き継いだことを父上に知られると後々大変だろうから、とりあえず顔見世と挨拶は葬礼の後、落ち着いた頃にするよう言っておいたよ。突然誰かから話しかけられてもびっくりしないで、話を聞いてあげてね」
「……はい」
できうる限り感情を押し殺した声で、アサザは返事をする。アオイはこんな日が来ることをずっと以前から予測していたのだろう。いずれ起こる事態のために部下に指示を出し、なすべきこと、伝えるべきことを考えて。
兄の予測はいつでも正しかった。そして今、兄は自分が存在しない未来のために、現在できうる全てを為そうとしている。その姿から目を逸らすことは兄に対する裏切りだと思えた。
「……事実を知ることで、逆に自分を苦しめることもある。こんなものを渡した私のことを恨むこともあるかもしれない。けれど」
言葉を切って、アオイは深く深く息を吐いた。
「私には、これ位しか遺せるものがないから」
「そんなことは、ありません」
声の震えは、既に隠しようがなかった。詰まりそうになる喉を懸命に宥めつつ、アサザはアオイに笑いかけた。
「兄上は俺に、たくさんのことを教えてくれました。数え切れない程の思い出も。きっと」
握り締めた拳に、冷たい雫が落ちる。
「きっと、アカネも同じことを言いますよ」
「……ありがとう、アサザ。君たちのような弟を持てて本当に良かった」
柔らかな光を湛えた瞳の焦点が、虚空へと流れた。
「寂しがり屋のアカネが待ってる、ね」
掻き消えそうな声と共に、薄い瞼がゆっくりと閉じられる。見守るアサザの前で、穏やかな呼吸が目に見えて浅くなった。最期の瞬間の、厳粛な静謐。
突然、扉が乱暴に開かれた。部屋を支配していた静寂を靴音高く蹴散らして、一人の男が入ってくる。
「陛下」
振り返ってその姿を認めた途端、幾多の非難の言葉が喉元にせり上がってきた。
今頃になって。兄上はずっと待っていたのに。こんな時くらい静かにできないのか。——それでも父親か。
我先に飛び出そうとする言葉たちは互いに邪魔しあって、声にはできなかった。睨みつけるだけのアサザを完全に黙殺して、アザミはアオイの横たわる床へと歩み寄る。すれ違う瞬間、アサザは制止しようと伸ばした手を咄嗟に引いた。アザミの息が乱れている。まるで執務室からここまで、必死に駆けつけてきたかのように。
皇帝が見下ろした先には、アオイの穏やかな微笑があった。眠るように瞼を閉じたその顔は、いつもの寝顔と変わらない。決定的に違うのは、その瞼が二度と開くことはないということ。その頬に温みが宿ることは、二度とないということ。
糸が切れたように、アザミの膝が崩れた。
「許さぬ。目を覚ませ廃太子。余の命が聞けぬのか」
掛け布の上に放り出されたままの血の気を失った細い指先に、一回りは大きな手が差し伸べられる。しかしそれは触れる前に力なく落とされ、逡巡するように彷徨った後に虚しく掛け布を握り締めた。
「此奴も、第三皇子も——あの女も。何故だ。何故、余を」
「……陛下」
「いくな」
アサザの呼びかけを、低く、それでいて明瞭な声音が遮る。
「いくな、行くな、逝くな——アサザ、お前だけは」
思わず、息を詰めた。
名を、呼ばれた。
見返した父帝の横顔には、見慣れた傲慢さは欠片もなかった。そこに浮かんでいたのは、深い疲弊と憔悴。アサザが初めて触れる、父の弱さだった。
言ってやりたいことは山ほどあったはずだった。しかしそのどれもが言葉にはならず、それどころか言うべき言葉すら見つからない。
弟。そして兄。
永訣したのは、それだけではない。これからきっと多くのものが変わり、失われていく。そんな確信に近い予感が、アサザの胸に黒く湧き上がってきた。
今日失ったものは、一体何だろう。
***************************************************************
<予告編>
夢を見た。
漆黒の、鋼のように冷たい心象の。
目覚めた後も喉元に刃を突きつけられているような、
不吉な後味の夢を。
月霞の空の下、レンギョウは白い息を吐く。
皇都への旅立ちの朝。
暁と同じ色を旗印を掲げ、北へ往く。
国王としての責務を果たすために。
友と交わした約束を果たすために。
再編成された軍が眼下に集う。
束ねるのは聖王レンギョウ。
そして、指揮を執るのは——
『DOUBLE LORDS』転章5、新展開。
またいつか、会えるだろうか。
耳に甦る声はかつての己か、夢の残滓か。
咄嗟に上げかけた声を呑み込んで、レンギョウは跳ね起きた。見回した周囲には見慣れた私室の風景がある。夜明け前の静寂を乱すのは自分の激しい息遣いだけだ。そこでようやく先程の光が夢だったのだと悟る。
レンギョウは大きく息を吐いた。まずは心を落ち着けなければ。
しかし平静になる程に、記憶の中の映像はより現実感を持って目の前に再生された。
それは戦場の光景だった。だが己の目で見た皇帝軍との戦ではない。
夢の中で周りの兵が身に着けていたのは革や木で作られた粗末な鎧だった。その下に覗くのは宮中行事でしか見かけないような古風な衣装。けれど彼らがレンギョウに向ける視線は同じだった。絶対的な力への畏怖、そして異能者に対する排斥。
余とて何者と変わらぬ、ただの人間だ。
思えば思うほどに、彼らの瞳は冷たく頑なになる。何故ならレンギョウは、その異能の故に彼らの王であるのだから。
再び乱れかけた呼吸を、強く己の肩を抱いて抑える。こうして自分の感情を御することを覚えたのは一体いつからだろうか。
知らず閉じた瞼の裏に夢の続きが甦る。そうだ。夢の中では暖かい眼差しも確かに感じていた。
差し伸べられたのは細く白い手。その先を辿ると、見知らぬ黒髪の娘が微笑んでいた。王族貴族には真似のできない、この島国の女に特有のあでやかな笑いを目元に含ませたまま娘は彼方を示す。
そこにいたのは精悍な戦士だった。漆黒の鎧兜に身を包み、同色の長刀を左手に提げ。二人の視線に気づいたのだろう、彼は庇を上げてこちらを振り返った。触れれば斬れそうに鋭い眼差しがレンギョウのそれと交わった瞬間、穏やかな光に変わる。その表情は驚くほどアサザに良く似ていた。
突然、レンギョウは後ろから肩を掴まれる。思いがけなく強いその力と骨ばった手の感触は紛れもなく男のもの。振り返るより先、低く押し殺した声が耳を打った。
「殺せ」
誰を、などと問い返すまでもなかった。声の主の殺意は明確に彼方の戦士に向けられていた。
いやだ。できない。
レンギョウが示した拒絶の意志を嘲笑うかのように、声は耳元で囁く。
「貴様、それでも魔王か」
ぎょっとして声の主を振り返る。頬を金色の髪が掠めた。間近に寄せられた顔に戸惑いにも似た既視感を覚える。その正体に思い当たった瞬間、レンギョウの背筋に戦慄が走った。目の前の金髪の男の顔にあるのはレンギョウ自身の面影。酷薄に眇められた青い瞳はただただ彼方の戦士を睨み、激しい憎悪の炎を宿していた。
その時、心に走った想いは何だっただろう。怒り、絶望、諦観。冷たい熱を孕んだまま、レンギョウは感情のままに力を解き放った。
そして起こった閃光。全てを呑み込み、灼き尽くしてゆく。
夢で見たのはそこまでだった。しかしレンギョウには、何故かその続きをくっきりと思い描くことができた。
光が収まった後に来るのは漆黒の虚無だった。何もかもを覆いつくしたゆたっていたそれが、不意に一点に収束を始める。
レンギョウが見守る中、虚無は一振りの長刀へと凝縮された。抜き身のままの漆黒の刀身に映った己の姿。その唇が嘲笑の形に歪んだ。レンギョウがかつて抱いたこともない程に強い悪意に満ちた、己の笑顔。
またいつか、会おうぞ。
思わずレンギョウは両手で顔を覆った。これ以上、悪夢の続きは見たくなかった。
不快感を吐き出すように大きく息をついて、レンギョウは寝台から降りた。今朝はこれ以上眠れそうにない。どのみち夜が明ければすぐに起きねばならないのだ。寝過ごすよりは起きている方が良いだろう。
そう。今日ばかりは寝過ごすことなどできないのだから。
夜が明ければ、親征が始まる。
中立地帯自警団や義勇兵を組み入れた、新国王軍の編成は既に完了していた。後は指揮系統の細々した調整を残すのみ。出発前夜ということもあり、王宮はいつも以上に静かだった。征くにしろ残るにしろ、明日からはそれぞれの任務で忙しくなる。今のうちに鋭気を養っておくのが正解だ。
春はもう少し先のようだ。肌を刺す冷気に襟元をかき合せ、レンギョウは宛もなく宮内を彷徨った。薄紫の闇に包まれた廊下は見慣れた場所とは思えないほど現実感がなかった。夢の続きのような風景をすり抜けて、たまたま突き当たった格子戸を押し開く。
吹きつけてきた風に小さく身体を竦める。知らず吐いた息が白く流れるのを横目に、レンギョウは歩を進めた。
そこは王宮に無数にある露台の一つだった。裏手に広がる森を眼下に臨む眺めに一瞥を投げ、ふと露台の隅に目を止める。
「……シオン」
びくりと肩を震わせた影にいつもの元気は見られなかった。おずおずと振り返ったその目元に浮かんだ濃い隈を認めて、レンギョウの眉根が寄せられる。
「おぬし、寝ておらぬのか?」
「え? ああ、うん」
目が合うことを怖れるように顔を伏せる姿は、まるで何かに怯えているようだ。一歩近づいたレンギョウの耳に小さな呟きが聞こえる。
「ていうか、何でレンが来るのよ」
「それはこちらの台詞だ」
半ば呆れてレンギョウは言う。
「散歩していたら偶然見つけたのだ。おぬしこそ何故ここに」
「すぐそこがあたしの部屋なのよ」
そう言われれて中立地帯の面々には南側の森に面した一角を割り当てていたことを思い出す。同時にレンギョウはようやくにして自分の現在位置を把握していた。
「そうか。何も考えずに歩いていて場所など意識していなかったのでな。すまぬ」
数拍の空白の後、シオンの声が返ってきた。
「……レンも眠れないの?」
「ん? ああ」
咄嗟に甦った先程の悪夢を振り払う。
「色々なことを考えてしまってな。少し気が高ぶっているのやもしれぬ」
自らを励ますために、レンギョウは努めて笑顔を作る。その笑みが目の前の森を見下ろした瞬間、寂しげな色を帯びた。
「この森の奥に、小さな湖があってな」
レンギョウの視線を追ってシオンも森へと目を移す。薄明に包まれた木立の群は、未だに多くの闇を含んで静まり返っている。
「アサザと初めて会ったのは、その湖のほとりだった」
「……そうなんだ」
心なしかシオンの声が穏やかな色を帯びる。
「こんな奥まで来たんだ。大変だっただろうね」
「そうだな。初めて来た時は迷い子になっていたらしい」
迷い子という単語が可笑しかったのか、シオンはくすくす笑い出した。
「ご先祖様が作った抜け道が忘れられたまま放置されていたようでな。アサザの一件後、コウリは塞ぐと言って聞かなかったが余が許さなかった」
「え、じゃあ今も抜け道はそのままなの?」
レンギョウは小さく頷いた。
「どの道限られた者しか知らぬ通路だ。それに塞がずにいれば、またひょっこりアサザが現れそうな気がしてな」
「レン……」
「しかしあやつが来るのを待つよりも、余が皇都を訪ねる方が早いようだ。再会を約してはいたが、場所までは決めていなかったからな。別にこちらから出向いても構わぬだろう」
不可侵条約は貴族と戦士の行き来を禁じているが、国王が皇都に行ってはならないという明文はない。皇帝側が約定違反を言い出した時のために、反論として用意した回答だ。勿論貴族出身者を含む正規軍を擁した軍を発する以上、こんな理屈は詭弁に過ぎないという自覚はある。しかし事態がここまで進んだ今、状況を打開するためには前例を辿っただけの正攻法では不足だった。
「余には皇都を訪ねる理由も、意義もある。だがおぬしにはそうまでする理由はない。ここに残っても責められぬよ」
先程目にした姿が瞼に甦る。ここを出ればやがて直面する戦いに怯える、小さな背中。
わずかな間の後、シオンの首が振られた。小さく、けれどはっきり横に。
「気持ちはありがたいけれどレン、それはダメよ。あたしはこんなだけど一応自警団の長なんだから。たとえ剣を持つことができなくても、皆が戦っている姿から逃げることはできない」
「しかし」
言いさしたレンギョウの言葉を、シオンは両手を上げて止める。俯いたままの表情は流れる黒髪の奥に隠れて見えない。わずかに震えるその指先を見つめながら、レンギョウは次の言葉を待つ。
「ススキが操兵術を、スギが諜報術を身に着けたように、あたしも前の長から習ったことがあるの。自警団ができてから今日までに関わった、全ての戦いの記録。今を生き、未来を活かすため、過去の犠牲を教訓にするようにって」
王制が成立して以来、中立地帯はあらゆる騒乱に巻き込まれてきた。勿論中立地帯内部で起こった小競り合いも多い。だが中立地帯を舞台として大きく発展した騒乱には必ず国王、皇帝いずれかの領主が絡んでいる。
古くは初代皇帝アサギの王都上り。近年では皇后キキョウ殺害事件。記録を辿れば、皇后の一件以来皇都からの締め付けが厳しくなっていることが良く分かる。徐々に減らされた援助が中立地帯全体を飢えさせ、食糧を巡る小競り合いは増える一方だった。皇帝軍との接触も多くなり、自警団の損耗も蓄積される。
そもそも自警団が国王への援助の直訴を考えたのにはこのような背景があった。たまたま昨年の大凶作がきっかけとなって表面化しただけで、自警団が動く理由の芽はとうの昔に生じていたのだ。
アザミの措置も、感情としては理解できる。皇后を直接手にかけたのは自警団ではない。だが彼女が中立地帯で、本来なら自警団が取り締まるはずの盗賊に害されたのは事実だ。事件以降、自警団が冷遇されるのは仕方がないとは思う。
しかし実際に飢えたのは自警団だけではなかった。事件とは全く関係のない村までもが援助を削られ、貧しさに喘いでいる。
戦場で目にした自警団員の変わり果てた姿。それは国王軍に編入される直前に帰順させた盗賊の首領だった。仲間に飯を、投降の条件として挙げられたたった一つの条件が今も耳に残っている。
空腹を満たしたい。中立地帯の住人はただその一念で剣を持つ。その切っ先を皇帝軍に向けるか、中立地帯の村人に向けるか。極論を言うと自警団と盗賊の違いはそこにしかない。
いつだって、領主の都合で戦場にされる。
記録を学んでのシオンの正直な感想がそれだった。国王と皇帝の間の均衡の分銅。そんな大層なお役目など住人は誰も望んでいない。ただ両都の間にあるという理由だけで土地や感情、果ては生命までもが利用されると思うと嫌になる。ましてや過去に起こった戦いの記録をつぶさに眺め、それらを利用して用兵を立案するなど嫌悪感すら覚える。
だから、レンギョウには今まで伏せていた。この知識を使うことがないように。自警団を束ねる長としての任務だけに集中していても大丈夫だと、己に言い聞かせるために。
「でも、それって逃げてるだけよね。この間の戦だって、ちゃんと作戦を考えてあげれば助かった人がいたかもしれない。自警団や国王軍、皇帝軍や——ひょっとしたら、アサザの弟だって」
レンギョウの肩が揺れる。ゆっくりを顔を上げて、シオンは正面からその顔を見つめ返した。風に流れる銀の髪の向こうには、自分の瞳と同じ紫色に染まった暁の空が広がっている。
「もうあんなことは繰り返したくない。だから、レン」
未だ震える指先を握り締めて、シオンは覚悟を決めるための最後の一息を吐いた。
「あたしに、指揮の手伝いをさせて」
<予告編>
皇都の夕闇をすり抜けて、情報が走る。
伝えるべき相手へと、正確に、精密に。
それは受取主が変わろうと変わらぬ掟。
情報の普遍性と恣意性、
その狭間にこそ彼が生きる道がある。
「国王軍が動き出しました」
低くアサザに告げる声の主が握る鍵が導く先は、
希望の扉か滅びの門か。
『DOUBLE LORDS』転章6、
アオイの遺産が形を成す時、
隠されていた歯車が回り出す。
レンギョウは大きく息を吐いた。まずは心を落ち着けなければ。
しかし平静になる程に、記憶の中の映像はより現実感を持って目の前に再生された。
それは戦場の光景だった。だが己の目で見た皇帝軍との戦ではない。
夢の中で周りの兵が身に着けていたのは革や木で作られた粗末な鎧だった。その下に覗くのは宮中行事でしか見かけないような古風な衣装。けれど彼らがレンギョウに向ける視線は同じだった。絶対的な力への畏怖、そして異能者に対する排斥。
余とて何者と変わらぬ、ただの人間だ。
思えば思うほどに、彼らの瞳は冷たく頑なになる。何故ならレンギョウは、その異能の故に彼らの王であるのだから。
再び乱れかけた呼吸を、強く己の肩を抱いて抑える。こうして自分の感情を御することを覚えたのは一体いつからだろうか。
知らず閉じた瞼の裏に夢の続きが甦る。そうだ。夢の中では暖かい眼差しも確かに感じていた。
差し伸べられたのは細く白い手。その先を辿ると、見知らぬ黒髪の娘が微笑んでいた。王族貴族には真似のできない、この島国の女に特有のあでやかな笑いを目元に含ませたまま娘は彼方を示す。
そこにいたのは精悍な戦士だった。漆黒の鎧兜に身を包み、同色の長刀を左手に提げ。二人の視線に気づいたのだろう、彼は庇を上げてこちらを振り返った。触れれば斬れそうに鋭い眼差しがレンギョウのそれと交わった瞬間、穏やかな光に変わる。その表情は驚くほどアサザに良く似ていた。
突然、レンギョウは後ろから肩を掴まれる。思いがけなく強いその力と骨ばった手の感触は紛れもなく男のもの。振り返るより先、低く押し殺した声が耳を打った。
「殺せ」
誰を、などと問い返すまでもなかった。声の主の殺意は明確に彼方の戦士に向けられていた。
いやだ。できない。
レンギョウが示した拒絶の意志を嘲笑うかのように、声は耳元で囁く。
「貴様、それでも魔王か」
ぎょっとして声の主を振り返る。頬を金色の髪が掠めた。間近に寄せられた顔に戸惑いにも似た既視感を覚える。その正体に思い当たった瞬間、レンギョウの背筋に戦慄が走った。目の前の金髪の男の顔にあるのはレンギョウ自身の面影。酷薄に眇められた青い瞳はただただ彼方の戦士を睨み、激しい憎悪の炎を宿していた。
その時、心に走った想いは何だっただろう。怒り、絶望、諦観。冷たい熱を孕んだまま、レンギョウは感情のままに力を解き放った。
そして起こった閃光。全てを呑み込み、灼き尽くしてゆく。
夢で見たのはそこまでだった。しかしレンギョウには、何故かその続きをくっきりと思い描くことができた。
光が収まった後に来るのは漆黒の虚無だった。何もかもを覆いつくしたゆたっていたそれが、不意に一点に収束を始める。
レンギョウが見守る中、虚無は一振りの長刀へと凝縮された。抜き身のままの漆黒の刀身に映った己の姿。その唇が嘲笑の形に歪んだ。レンギョウがかつて抱いたこともない程に強い悪意に満ちた、己の笑顔。
またいつか、会おうぞ。
思わずレンギョウは両手で顔を覆った。これ以上、悪夢の続きは見たくなかった。
不快感を吐き出すように大きく息をついて、レンギョウは寝台から降りた。今朝はこれ以上眠れそうにない。どのみち夜が明ければすぐに起きねばならないのだ。寝過ごすよりは起きている方が良いだろう。
そう。今日ばかりは寝過ごすことなどできないのだから。
夜が明ければ、親征が始まる。
中立地帯自警団や義勇兵を組み入れた、新国王軍の編成は既に完了していた。後は指揮系統の細々した調整を残すのみ。出発前夜ということもあり、王宮はいつも以上に静かだった。征くにしろ残るにしろ、明日からはそれぞれの任務で忙しくなる。今のうちに鋭気を養っておくのが正解だ。
春はもう少し先のようだ。肌を刺す冷気に襟元をかき合せ、レンギョウは宛もなく宮内を彷徨った。薄紫の闇に包まれた廊下は見慣れた場所とは思えないほど現実感がなかった。夢の続きのような風景をすり抜けて、たまたま突き当たった格子戸を押し開く。
吹きつけてきた風に小さく身体を竦める。知らず吐いた息が白く流れるのを横目に、レンギョウは歩を進めた。
そこは王宮に無数にある露台の一つだった。裏手に広がる森を眼下に臨む眺めに一瞥を投げ、ふと露台の隅に目を止める。
「……シオン」
びくりと肩を震わせた影にいつもの元気は見られなかった。おずおずと振り返ったその目元に浮かんだ濃い隈を認めて、レンギョウの眉根が寄せられる。
「おぬし、寝ておらぬのか?」
「え? ああ、うん」
目が合うことを怖れるように顔を伏せる姿は、まるで何かに怯えているようだ。一歩近づいたレンギョウの耳に小さな呟きが聞こえる。
「ていうか、何でレンが来るのよ」
「それはこちらの台詞だ」
半ば呆れてレンギョウは言う。
「散歩していたら偶然見つけたのだ。おぬしこそ何故ここに」
「すぐそこがあたしの部屋なのよ」
そう言われれて中立地帯の面々には南側の森に面した一角を割り当てていたことを思い出す。同時にレンギョウはようやくにして自分の現在位置を把握していた。
「そうか。何も考えずに歩いていて場所など意識していなかったのでな。すまぬ」
数拍の空白の後、シオンの声が返ってきた。
「……レンも眠れないの?」
「ん? ああ」
咄嗟に甦った先程の悪夢を振り払う。
「色々なことを考えてしまってな。少し気が高ぶっているのやもしれぬ」
自らを励ますために、レンギョウは努めて笑顔を作る。その笑みが目の前の森を見下ろした瞬間、寂しげな色を帯びた。
「この森の奥に、小さな湖があってな」
レンギョウの視線を追ってシオンも森へと目を移す。薄明に包まれた木立の群は、未だに多くの闇を含んで静まり返っている。
「アサザと初めて会ったのは、その湖のほとりだった」
「……そうなんだ」
心なしかシオンの声が穏やかな色を帯びる。
「こんな奥まで来たんだ。大変だっただろうね」
「そうだな。初めて来た時は迷い子になっていたらしい」
迷い子という単語が可笑しかったのか、シオンはくすくす笑い出した。
「ご先祖様が作った抜け道が忘れられたまま放置されていたようでな。アサザの一件後、コウリは塞ぐと言って聞かなかったが余が許さなかった」
「え、じゃあ今も抜け道はそのままなの?」
レンギョウは小さく頷いた。
「どの道限られた者しか知らぬ通路だ。それに塞がずにいれば、またひょっこりアサザが現れそうな気がしてな」
「レン……」
「しかしあやつが来るのを待つよりも、余が皇都を訪ねる方が早いようだ。再会を約してはいたが、場所までは決めていなかったからな。別にこちらから出向いても構わぬだろう」
不可侵条約は貴族と戦士の行き来を禁じているが、国王が皇都に行ってはならないという明文はない。皇帝側が約定違反を言い出した時のために、反論として用意した回答だ。勿論貴族出身者を含む正規軍を擁した軍を発する以上、こんな理屈は詭弁に過ぎないという自覚はある。しかし事態がここまで進んだ今、状況を打開するためには前例を辿っただけの正攻法では不足だった。
「余には皇都を訪ねる理由も、意義もある。だがおぬしにはそうまでする理由はない。ここに残っても責められぬよ」
先程目にした姿が瞼に甦る。ここを出ればやがて直面する戦いに怯える、小さな背中。
わずかな間の後、シオンの首が振られた。小さく、けれどはっきり横に。
「気持ちはありがたいけれどレン、それはダメよ。あたしはこんなだけど一応自警団の長なんだから。たとえ剣を持つことができなくても、皆が戦っている姿から逃げることはできない」
「しかし」
言いさしたレンギョウの言葉を、シオンは両手を上げて止める。俯いたままの表情は流れる黒髪の奥に隠れて見えない。わずかに震えるその指先を見つめながら、レンギョウは次の言葉を待つ。
「ススキが操兵術を、スギが諜報術を身に着けたように、あたしも前の長から習ったことがあるの。自警団ができてから今日までに関わった、全ての戦いの記録。今を生き、未来を活かすため、過去の犠牲を教訓にするようにって」
王制が成立して以来、中立地帯はあらゆる騒乱に巻き込まれてきた。勿論中立地帯内部で起こった小競り合いも多い。だが中立地帯を舞台として大きく発展した騒乱には必ず国王、皇帝いずれかの領主が絡んでいる。
古くは初代皇帝アサギの王都上り。近年では皇后キキョウ殺害事件。記録を辿れば、皇后の一件以来皇都からの締め付けが厳しくなっていることが良く分かる。徐々に減らされた援助が中立地帯全体を飢えさせ、食糧を巡る小競り合いは増える一方だった。皇帝軍との接触も多くなり、自警団の損耗も蓄積される。
そもそも自警団が国王への援助の直訴を考えたのにはこのような背景があった。たまたま昨年の大凶作がきっかけとなって表面化しただけで、自警団が動く理由の芽はとうの昔に生じていたのだ。
アザミの措置も、感情としては理解できる。皇后を直接手にかけたのは自警団ではない。だが彼女が中立地帯で、本来なら自警団が取り締まるはずの盗賊に害されたのは事実だ。事件以降、自警団が冷遇されるのは仕方がないとは思う。
しかし実際に飢えたのは自警団だけではなかった。事件とは全く関係のない村までもが援助を削られ、貧しさに喘いでいる。
戦場で目にした自警団員の変わり果てた姿。それは国王軍に編入される直前に帰順させた盗賊の首領だった。仲間に飯を、投降の条件として挙げられたたった一つの条件が今も耳に残っている。
空腹を満たしたい。中立地帯の住人はただその一念で剣を持つ。その切っ先を皇帝軍に向けるか、中立地帯の村人に向けるか。極論を言うと自警団と盗賊の違いはそこにしかない。
いつだって、領主の都合で戦場にされる。
記録を学んでのシオンの正直な感想がそれだった。国王と皇帝の間の均衡の分銅。そんな大層なお役目など住人は誰も望んでいない。ただ両都の間にあるという理由だけで土地や感情、果ては生命までもが利用されると思うと嫌になる。ましてや過去に起こった戦いの記録をつぶさに眺め、それらを利用して用兵を立案するなど嫌悪感すら覚える。
だから、レンギョウには今まで伏せていた。この知識を使うことがないように。自警団を束ねる長としての任務だけに集中していても大丈夫だと、己に言い聞かせるために。
「でも、それって逃げてるだけよね。この間の戦だって、ちゃんと作戦を考えてあげれば助かった人がいたかもしれない。自警団や国王軍、皇帝軍や——ひょっとしたら、アサザの弟だって」
レンギョウの肩が揺れる。ゆっくりを顔を上げて、シオンは正面からその顔を見つめ返した。風に流れる銀の髪の向こうには、自分の瞳と同じ紫色に染まった暁の空が広がっている。
「もうあんなことは繰り返したくない。だから、レン」
未だ震える指先を握り締めて、シオンは覚悟を決めるための最後の一息を吐いた。
「あたしに、指揮の手伝いをさせて」
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<予告編>
皇都の夕闇をすり抜けて、情報が走る。
伝えるべき相手へと、正確に、精密に。
それは受取主が変わろうと変わらぬ掟。
情報の普遍性と恣意性、
その狭間にこそ彼が生きる道がある。
「国王軍が動き出しました」
低くアサザに告げる声の主が握る鍵が導く先は、
希望の扉か滅びの門か。
『DOUBLE LORDS』転章6、
アオイの遺産が形を成す時、
隠されていた歯車が回り出す。
王都から届いた報せに、アサザは耳を疑った。
聖王レンギョウが再び軍を挙げた。しかも挙兵時の演説で、レンギョウは皇都が目標だと明言したという。
立場は違えど、戦いたくないという気持ちは同じだと思っていた。願いにも似たその思いは、自分だけの一方的な期待だったのか。かつて友と呼んでくれた銀髪の面影に問いかけても、勿論答えなど返ってこない。
幾分緩んだとはいえ、冷気はまだまだ強い。深く長い溜息を吐いたそばから、息吹は白く天空へと上っていく。墓所を吹き抜ける風は身を切るように冷たい。
改めて考えてみればレンギョウと会ってからかなりの時が経っている。共にいた時間も、思い返せばたったの一昼夜。考えが分からなくて当然かもしれないと、今更ながらに思う。
そう。近くにいたとしても、自分以外の者の心など窺い知れないのだから。
脳裏に浮かんだのは父帝の冷たい横顔だった。つい先程目にしたアザミは、常と変わらぬ様子で淡々と執務を捌いていた。
まるで何事もなかったかのように。アオイが逝った日、見せた動揺が嘘であるかのように。
その姿に、アサザはますますアザミの内心が分からなくなっていた。
アオイの葬礼は十日前に行われた。廃太子の身ゆえ大々的なものではない。参列者はアザミとアサザ、それに必要最低限の儀仗官のみ。皇帝の長子のためとは思えぬほど質素で簡単な儀礼の後、その亡骸はアカネと同じ墓所に葬られた。
翌日からアザミは執務に戻った。皇帝がこなす仕事は雑多な上に煩雑な手続きを要するものが多い。それでもこんな時くらい他の者に任せても良いのではないか、などとつい思ってしまう。
続けざまに息子を二人、亡くしたのだ。
なのに休むでもなく、合間を縫って墓所を訪ねるでもなく。
葬礼の翌朝、皇帝が普段通り政務に当たっていると聞いて飛んできたアサザを一瞥もせずアザミは言った。
「使い物にならぬ者は要らぬ。普段と同じ働きができぬなら帰れ」
そこまで言われて帰る気になどなれなかった。どうせ部屋に戻っても”茅”が要らぬ幻を見せるだけだ。ここで書類の山に身も心も没頭してしまう方がどれだけましか知れない。
一心不乱に政務に打ち込み、文字の洪水に疲れると墓所へ来た。葬祭殿の奥にある、代々の皇族が眠る場所。昼なお底冷えのする石畳の上にただ立ち尽くし、アオイとアカネを呑み込んだ黒御影の扉を睨みつける。
外套も羽織らないアサザを見かねて、墓守が声を掛けてきた。この十日、同じことが毎日繰り返されている。すっかりかじかんだ手足を引きずって向かうのは兄の部屋だった。アカネを見送って以来、すっかり習い性になった行程。今もなお扉を守り続ける衛兵のシダに声をかけて、部屋に入った途端に倒れ込む。意識を手放す直前、頬に触れる床の冷たさにどうしようもない虚無感を覚えた。
やがて柔らかなぬくもりを全身に感じて目を醒ます。床の熱、古紙の匂い。反射的に兄の寝床に目を向け、そこが空っぽである事実を嫌でも突きつけられる。
優しい衛兵が自分のために暖を入れてくれたのだと、回り始めた頭がようやく思い至った。こみ上げてきた熱い塊をようやくの思いで飲み下す。皇子ともあろう者がこんなにたびたび泣き顔を晒していたのでは格好がつかない。
兄上は格好つけたがりだなぁ。
そんなアカネの茶々が聞こえてきそうだ。再び熱くなった目頭を押さえながら扉を開ける。
体裁を取り繕おうと努力した相手はしかし居眠りの真っ最中のようだった。明け方の寒い廊下に座り込み舟を漕ぐその姿に、自然と頭が下がった。
忠実な衛兵を起こさないよう、足音を殺して進む。自分の部屋の前を通る時、思わず息を詰めた。壁越しにカヤの嘲笑が聞こえたような気がしたが、頭を振ってやり過ごす。
あの刀から逃げているだけなのかもしれない。
そんな思いが頭をよぎる。否定はできない。だが今はどうしても”茅”と向き合う気にはなれなかった。
深い溜息が洩れた。また一日、アザミの黙殺を受けながら執務をこなさねばならないのかと思うと、さすがに憂鬱だった。
「随分お疲れのようですね。しっかりお休みになっていますか?」
横からかけられた声に、びくりと顔を上げる。いつの間にか公宮に近い区画まで移動していたらしい。皇帝の寝所に続く廊下と交わる角、ちょうど影になったところから溶け出すように人影が現れる。
「睡眠は健康の要です。たとえわずかでも良質な眠りを摂らねば、どんなに丈夫な身体でも保ちませんよ」
言いながら歩み出てきたのは生成りの外套を頭から被った男だった。腰に巻かれた革の帯には小さな布袋がいくつも提げられ、手にした籠からは乳鉢や匙といった道具が覗いている。空気にわずかに混じった生薬の匂いに、アサザは警戒を緩めた。
「なんだ、薬師か。こんな時間に出張か? ご苦労だな」
「いいえ、我々は求めあれば即座に赴くのが身上ゆえ。眠れぬ夜は誰もが経験する悩み、私の薬で救われるのであれば喜んで馳せ参じます」
「ははは、なかなか口上が巧いな。しかし一体誰だ、こんな夜中に薬師なんて呼びつけたのは。衛兵の誰かに急病でも出たのか?」
「いいえ、違います」
外套の下、隠された口元から小さく笑う気配が洩れる。
「だから言っているではないですか。眠りたくても眠れぬ哀れな御方に、薬を届けに参ったのだと」
す、と薬師が間合いを詰めた。その身ごなしがまるで病人を診察するかのように自然だったせいで、アサザの反応が一瞬遅れる。気がつくと薬師の顔が目の前にあった。目深に下ろした外套の奥、まだ若いその顔に軽い既視感を覚える。以前どこかで見たような。おぼろげな記憶が像を結ぶ前に、薬師の姿をした男は低い声で囁いた。
「皇太子アサザ殿下。お父上と同じ眠り薬を試してみる気はありませんか?」
「なっ……」
咄嗟に身体を引くアサザの肩を、薬師は構わず引き寄せる。その力は思いの外強い。先程より更に低い声が耳元に落とされた。
「国王軍が動き出したのはご存知ですね? レンギョウ様の目的は皇都ではありませんよ。目標はただひとつ——皇帝です」
「お前……」
レンギョウ。その名が記憶を探る手がかりになった。あの夜、中立地帯でレンギョウを捕まえた自警団の男。目の前の薬師と確かに同じ面影を持つ、その男の名は確か——
「申し遅れましたが改めてご挨拶を。アオイ様より情報部を預かっておりましたスギと申します。以後、宜しくお願いいたします」
どこか自嘲に似た微笑を浮かべ、薬師の姿をした間諜は深々と頭を下げた。
<予告編>
「下賤の者の元では戦えませぬ」
草原の夜に悲鳴にも似た声が響く。
たった一言を端緒に、
瞬く間に広がっていく抗議の言葉。
これが『聖王』軍の内実。
突きつけられた現実は容赦なく、
レンギョウの肩へとのしかかる。
『DOUBLE LORDS』転章7、
闇の向こうの皇都より、
この国の未来は彼方にある。
聖王レンギョウが再び軍を挙げた。しかも挙兵時の演説で、レンギョウは皇都が目標だと明言したという。
立場は違えど、戦いたくないという気持ちは同じだと思っていた。願いにも似たその思いは、自分だけの一方的な期待だったのか。かつて友と呼んでくれた銀髪の面影に問いかけても、勿論答えなど返ってこない。
幾分緩んだとはいえ、冷気はまだまだ強い。深く長い溜息を吐いたそばから、息吹は白く天空へと上っていく。墓所を吹き抜ける風は身を切るように冷たい。
改めて考えてみればレンギョウと会ってからかなりの時が経っている。共にいた時間も、思い返せばたったの一昼夜。考えが分からなくて当然かもしれないと、今更ながらに思う。
そう。近くにいたとしても、自分以外の者の心など窺い知れないのだから。
脳裏に浮かんだのは父帝の冷たい横顔だった。つい先程目にしたアザミは、常と変わらぬ様子で淡々と執務を捌いていた。
まるで何事もなかったかのように。アオイが逝った日、見せた動揺が嘘であるかのように。
その姿に、アサザはますますアザミの内心が分からなくなっていた。
アオイの葬礼は十日前に行われた。廃太子の身ゆえ大々的なものではない。参列者はアザミとアサザ、それに必要最低限の儀仗官のみ。皇帝の長子のためとは思えぬほど質素で簡単な儀礼の後、その亡骸はアカネと同じ墓所に葬られた。
翌日からアザミは執務に戻った。皇帝がこなす仕事は雑多な上に煩雑な手続きを要するものが多い。それでもこんな時くらい他の者に任せても良いのではないか、などとつい思ってしまう。
続けざまに息子を二人、亡くしたのだ。
なのに休むでもなく、合間を縫って墓所を訪ねるでもなく。
葬礼の翌朝、皇帝が普段通り政務に当たっていると聞いて飛んできたアサザを一瞥もせずアザミは言った。
「使い物にならぬ者は要らぬ。普段と同じ働きができぬなら帰れ」
そこまで言われて帰る気になどなれなかった。どうせ部屋に戻っても”茅”が要らぬ幻を見せるだけだ。ここで書類の山に身も心も没頭してしまう方がどれだけましか知れない。
一心不乱に政務に打ち込み、文字の洪水に疲れると墓所へ来た。葬祭殿の奥にある、代々の皇族が眠る場所。昼なお底冷えのする石畳の上にただ立ち尽くし、アオイとアカネを呑み込んだ黒御影の扉を睨みつける。
外套も羽織らないアサザを見かねて、墓守が声を掛けてきた。この十日、同じことが毎日繰り返されている。すっかりかじかんだ手足を引きずって向かうのは兄の部屋だった。アカネを見送って以来、すっかり習い性になった行程。今もなお扉を守り続ける衛兵のシダに声をかけて、部屋に入った途端に倒れ込む。意識を手放す直前、頬に触れる床の冷たさにどうしようもない虚無感を覚えた。
やがて柔らかなぬくもりを全身に感じて目を醒ます。床の熱、古紙の匂い。反射的に兄の寝床に目を向け、そこが空っぽである事実を嫌でも突きつけられる。
優しい衛兵が自分のために暖を入れてくれたのだと、回り始めた頭がようやく思い至った。こみ上げてきた熱い塊をようやくの思いで飲み下す。皇子ともあろう者がこんなにたびたび泣き顔を晒していたのでは格好がつかない。
兄上は格好つけたがりだなぁ。
そんなアカネの茶々が聞こえてきそうだ。再び熱くなった目頭を押さえながら扉を開ける。
体裁を取り繕おうと努力した相手はしかし居眠りの真っ最中のようだった。明け方の寒い廊下に座り込み舟を漕ぐその姿に、自然と頭が下がった。
忠実な衛兵を起こさないよう、足音を殺して進む。自分の部屋の前を通る時、思わず息を詰めた。壁越しにカヤの嘲笑が聞こえたような気がしたが、頭を振ってやり過ごす。
あの刀から逃げているだけなのかもしれない。
そんな思いが頭をよぎる。否定はできない。だが今はどうしても”茅”と向き合う気にはなれなかった。
深い溜息が洩れた。また一日、アザミの黙殺を受けながら執務をこなさねばならないのかと思うと、さすがに憂鬱だった。
「随分お疲れのようですね。しっかりお休みになっていますか?」
横からかけられた声に、びくりと顔を上げる。いつの間にか公宮に近い区画まで移動していたらしい。皇帝の寝所に続く廊下と交わる角、ちょうど影になったところから溶け出すように人影が現れる。
「睡眠は健康の要です。たとえわずかでも良質な眠りを摂らねば、どんなに丈夫な身体でも保ちませんよ」
言いながら歩み出てきたのは生成りの外套を頭から被った男だった。腰に巻かれた革の帯には小さな布袋がいくつも提げられ、手にした籠からは乳鉢や匙といった道具が覗いている。空気にわずかに混じった生薬の匂いに、アサザは警戒を緩めた。
「なんだ、薬師か。こんな時間に出張か? ご苦労だな」
「いいえ、我々は求めあれば即座に赴くのが身上ゆえ。眠れぬ夜は誰もが経験する悩み、私の薬で救われるのであれば喜んで馳せ参じます」
「ははは、なかなか口上が巧いな。しかし一体誰だ、こんな夜中に薬師なんて呼びつけたのは。衛兵の誰かに急病でも出たのか?」
「いいえ、違います」
外套の下、隠された口元から小さく笑う気配が洩れる。
「だから言っているではないですか。眠りたくても眠れぬ哀れな御方に、薬を届けに参ったのだと」
す、と薬師が間合いを詰めた。その身ごなしがまるで病人を診察するかのように自然だったせいで、アサザの反応が一瞬遅れる。気がつくと薬師の顔が目の前にあった。目深に下ろした外套の奥、まだ若いその顔に軽い既視感を覚える。以前どこかで見たような。おぼろげな記憶が像を結ぶ前に、薬師の姿をした男は低い声で囁いた。
「皇太子アサザ殿下。お父上と同じ眠り薬を試してみる気はありませんか?」
「なっ……」
咄嗟に身体を引くアサザの肩を、薬師は構わず引き寄せる。その力は思いの外強い。先程より更に低い声が耳元に落とされた。
「国王軍が動き出したのはご存知ですね? レンギョウ様の目的は皇都ではありませんよ。目標はただひとつ——皇帝です」
「お前……」
レンギョウ。その名が記憶を探る手がかりになった。あの夜、中立地帯でレンギョウを捕まえた自警団の男。目の前の薬師と確かに同じ面影を持つ、その男の名は確か——
「申し遅れましたが改めてご挨拶を。アオイ様より情報部を預かっておりましたスギと申します。以後、宜しくお願いいたします」
どこか自嘲に似た微笑を浮かべ、薬師の姿をした間諜は深々と頭を下げた。
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<予告編>
「下賤の者の元では戦えませぬ」
草原の夜に悲鳴にも似た声が響く。
たった一言を端緒に、
瞬く間に広がっていく抗議の言葉。
これが『聖王』軍の内実。
突きつけられた現実は容赦なく、
レンギョウの肩へとのしかかる。
『DOUBLE LORDS』転章7、
闇の向こうの皇都より、
この国の未来は彼方にある。
灯火と月光を集める水晶細工が夜を照らす王宮とは違い、ここではすぐ隣に深い闇がある。レンギョウが襟元をかき寄せたのは、日没と共に下がった外気のせいだけではない。
今、国王軍は中立地帯のほぼ真ん中にいる。自警団の本拠地を横目に過ぎたのが三日前のこと。王都を出てから、既に五日が過ぎていた。
王都と皇都は、早馬ならば三日で走破できる距離だ。速度の落ちる大所帯でも、五日もあればもっと皇都に近い位置に進んでいてもいいはずだった。
進軍速度が遅いのはレンギョウの指示だった。この遠征は皇帝を攻め滅ぼすためのものではない。街道沿いにゆっくり国王軍が進む。その間、周囲に広がる草原に点在する村々を自警団が回り国王軍への参加を促す。参加を決めた者は適時、街道の国王軍と合流する。そうして膨れ上がった中立地帯の総意を皇都に見せつけ、皇帝を話し合いの場へと引きずり出す。
戦略の概要はシオンの発案だった。出発の朝に暁の露台で告げられたその提案は、犠牲を最小限に止めたいレンギョウの思惑とも一致していた。
方針が定まれば、それを実行するのがレンギョウの仕事だ。
出立の壮行式でレンギョウはその場に集った全軍に告げた。
「皆、己の身を守ることを最優先に考えよ。たとえ戦士と遭遇したとしても、いたずらに干戈を交えるな。王都の民も、中立地帯の者も、皇都の眷属も、皆同じこの国に住む者だ」
ただでも兵士の士気は高い。彼らの戦意を煽る文句なら幾らでも思いつく。確実に皇帝に勝つつもりならば、相手への敵意を高め、それを肯定する言葉を言うべきだというのも分かっている。
だがレンギョウはその一言がどうしても言えなかった。まだ幼い面影を残した皇子の最期の顔が脳裏に浮かぶ。たとえ譲れない目的のためであろうとも、彼が死ぬべき理由にはならない。戦士の血を引く者であっても、生きていてほしかった。
死んでも構わないと思える人間など、この国にはいない。
アカネの顔はいつしか、良く似た面差しのそれに変わっていた。アサザと過ごした一昼夜。それが今の自分にとってどれほど大きな記憶であることか。
再び友と呼ばれなくとも良い。人として、国王として、大事なことを教えてくれたのがアサザである事実は変わらないのだから。
やりきれない想いを胸に北の空へと目を向ける。今宵の月はまだ昇っていない。月も太陽も隠れた天空は、深い闇だけを抱いて頭上を覆っていた。
「レンギョウ様」
背後からの声に振り返ると、白銀の鎧を纏った近衛兵が恭しく頭を垂れていた。
「お食事の用意が整いました。どうぞ天幕にお戻りくださいませ」
「分かった」
頷いてレンギョウは踵を返した。寝所も兼ねる天幕はすぐ目の前だったが、入り口を潜る直前にふと足を止める。怪訝そうに振り返る近衛兵に小さく苦笑を向ける。
「……何、兵たちがやけに賑やかだと思ってのう」
成程、宵風に乗って切れ切れに聞こえてくるのは陣中の喧騒だった。レンギョウと同様に夕飯の支度ができたのだろう、食事時に独特のざわめきが簡素な柵を乗り越えてこちらに流れてくる。
柵に目を留めたレンギョウの口の端に浮かぶ笑みが苦さを増した。高貴なる国王を守るための仕切り。しかし最近ではそれが民との間の越えがたい壁に思える。隔離されているのは外ではなく内——『聖王』レンギョウなのではないかと。
考えても詮無いことだとは分かっている。レンギョウは小さく頭を振って黒い懸念を追い払った。
今、シオンやススキといった主だった自警団の面子は国王軍への帰順を呼びかけるため中立地帯中の村々を回っている。彼らが集めてくれた中立地帯からの志願兵を取り纏め、預けられた自警団と正規国王軍を統率すること。それがレンギョウの今の仕事だった。先日の戦での勝利が効いているのだろう、合流する者は後を絶たない。毎日膨れ上がる人員を引き連れて、少しずつ皇都を目指して前進する。たったそれだけ、けれど多忙な日々だ。人数をかき集めている自警団員たちのためにも、自らの思い込みに悩む時間など取っている暇はない。
天幕の頂上に翻る軍旗を見上げる。白地に暁の紫で縫い取られた連翹の花紋。明日もきっと、たくさんの志願者がこの旗を目指してやって来る。彼らの勇気に報いるためにも、自分の食事や休息は取れる時に取っておくのが最善だ。
とりあえず今は用意された食事を片付けよう、そう思ったレンギョウが天幕へ向き直った時。
「国王陛下はおられるか。謁見を賜りたい」
再び振り返った柵の向こうに幾つかの人影が見えた。周囲の近衛兵たちとは明らかに違う、絹の衣を纏ったそれらの顔はレンギョウにも見覚えがあった。
先だっての戦で、イブキと共に配置した魔法部隊。魔法という特殊能力を喪いつつある貴族の中で、最後に遺されたたった五人の遣い手。彼らが揃って国王を訪ねてくるのは珍しい。食事中を理由に断ろうとした近衛兵を止めて、レンギョウは手ずから彼らを天幕に招き入れた。
元がレンギョウ一人のための空間だ。訪問者全員と護衛の近衛兵、七人が入ると天幕は手狭だった。レンギョウの分の食事が卓上に用意されていたが、自分ひとりだけ食べるのも居心地が悪い。そこで人数分の軽食を運び込ませたものの、皿には誰一人として手も触れようとしなかった。小さく溜息を吐いて、レンギョウは卓越しに肩身を狭めて立ち尽くす貴族たちを見やった。
「おぬしらが急な謁見を望むなど今までなかったことだ。何かあったのか?」
それまで黙っていた五人が目配せを交わし、意を決したように最も歳かさの男がレンギョウに目を向けた。
「畏れながら陛下。折り入ってお願いしたい由がございます」
「何だ。申してみよ」
一度口火を切ると男は躊躇しない性質のようだった。続けられた言葉にも迷いがない。
「我々をイブキ殿の麾下から外していただきたく存じます」
レンギョウは男の顔を見返した。男は淡々とした表情を繕っているものの、その口調には押さえ込んだ怒りが滲んでいた。さりげなく横に並んだ他の貴族の顔を窺うと、差はあれど皆同じような表情を浮かべている。
これは長丁場になるやもしれぬな。
静かに覚悟を決めて、レンギョウはわざとゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そういえば軍の再編時にも、魔法部隊は左翼イブキ付から動かしていなかったのう。何か不都合でもあったか?」
「不都合はございません。ただ、あの者の指示を仰ぐのが嫌になった、それだけでございます」
「何故だ? 先だっての戦でも、大きな手柄を立てたではないか。おぬしらの魔法あってこその戦術であったが、イブキなしではあれだけの結果は得られなかったであろう」
将帥にして第三皇子アカネの捕獲。初戦最大の戦果は彼ら抜きでは語れない。しかしそれを口に出した途端、貴族たちの顔に苦いものが走ったのをレンギョウは見逃さなかった。
「結果といえば結果でしょう。しかし我々はあのような卑怯な策など望んでおりませんでした」
反射的に思い浮かべたアカネの顔を、無理矢理に打ち消す。結末は悔やみきれないが、そこまでの過程で下した決断までも悔いているわけではない。
「その卑怯な策を採ったのは余だ」
「陛下を責めているのではありませぬ。ただ我々は正々堂々と戦士と戦いたいのです」
沈黙を守っていた貴族たちも、口々に意見を言い始めた。
「王都は百年待ってこの機会を得ました。万が一にも陛下の名声に瑕が付くような戦い方はしたくありません」
「自警団と手を組むのは致仕方ありませぬ。しかし腕が立つからといって何者をも受け入れるというのはいかがなものか」
「それにあの者、新参の兵たちと交流するという名目で酒樽を自分の天幕に運び込んでおります。あれは軍紀違反ではないのですか」
「ここのところ毎晩のことです。昨夜など酔った挙句に泥酔剣、などと騒いで醜態を曝しておりました。あのような見苦しい所作、同じ陣に居るのが恥ずかしくなります」
新兵預かりの留守居役を任せたのが仇になったか。レンギョウが知らぬ間にイブキと貴族たちの亀裂は深まっていたようだ。
「しかし、あやつの実戦経験は貴重なものだ。利用できるものは利用せねば、皇帝とは戦えぬ」
「ならば何故、我らをあの者の下につけたままなのです。経験を活かすというのであれば、自警団の兵を振り分けた方が余程勝手を心得ているのではないですか。何せ元皇帝軍近衛隊長なのですから、兵の指揮はお手の物でしょう」
思わず言葉に詰まる。改めて考えてみると、貴族である彼らがこれまで表立った不満を述べずにイブキの指揮下で働いてくれたことを褒めるべきなのかもしれない。恐らく配置当初から抱いていたであろう不満、それがきっかけを得た今になって噴き出したのだろう。
「……分かった。配置換えの件は考えておく。しかし編成変更となると自警団にも相談をせねばなるまい。いま少しだけ猶予をくれぬか」
ようやく続けたレンギョウの言葉に、しかし貴族たちは顔を見合わせた。その場を満たす不穏な雰囲気。思わず上げたレンギョウの視線と貴族たちの悔しげな眼差しが複雑に交差する。
「このような時にまで自警団とは。コウリ殿の一件といい、陛下は我々貴族を一体どう思っておられるのか。我々はこれ以上、あのような下賎の者の元では戦えませぬ」
皆を代表するように最初の貴族が言う。その他の者の無言は肯定と同義だった。失礼します、と告げて背を向けた彼らが退席するのを、レンギョウはただ見送ることしかできなかった。
貴族をどう思っているのか。
それはつまるところ、コウリをあそこまで追い詰めてしまった己の言動がかつてと何も変わっていないという意味なのではないか。
これが国王軍の、『聖王』軍の内実。
深い疲労を覚えて、レンギョウは卓に肘をついた。目の前にはすっかり冷め切った夕食が手付かずで並んでいる。無論もう手をつける気になどなれなかった。
卓上の片付けを近衛兵に命じ、レンギョウは再び天幕の外に出た。冷たい夜風が澱んだ空気を払ってくれたが、身中に溜まった澱までは流してはくれない。
貴族も自警団も戦士も、皆同じこの国の民とする。レンギョウが思い描くこの国の未来は、北の果ての皇都よりなお遠い場所で闇に沈んでいた。
<予告編>
迫り来る国王軍。
日に日に膨れ上がるその姿、
しかし迎え撃つ皇帝側はなかなか足並を揃えられずにいる。
皇帝アザミの思惑、
副将帥ブドウの心情、
そして皇太子アサザの迷い。
膠着した現状を打ち破るのは、
刃を含んだ朗と響く声。
——破魔刀は我らの手に。
『DOUBLE LORDS』転章8、
会議の円卓を中心に、
物語の歯車は回されてゆく。
今、国王軍は中立地帯のほぼ真ん中にいる。自警団の本拠地を横目に過ぎたのが三日前のこと。王都を出てから、既に五日が過ぎていた。
王都と皇都は、早馬ならば三日で走破できる距離だ。速度の落ちる大所帯でも、五日もあればもっと皇都に近い位置に進んでいてもいいはずだった。
進軍速度が遅いのはレンギョウの指示だった。この遠征は皇帝を攻め滅ぼすためのものではない。街道沿いにゆっくり国王軍が進む。その間、周囲に広がる草原に点在する村々を自警団が回り国王軍への参加を促す。参加を決めた者は適時、街道の国王軍と合流する。そうして膨れ上がった中立地帯の総意を皇都に見せつけ、皇帝を話し合いの場へと引きずり出す。
戦略の概要はシオンの発案だった。出発の朝に暁の露台で告げられたその提案は、犠牲を最小限に止めたいレンギョウの思惑とも一致していた。
方針が定まれば、それを実行するのがレンギョウの仕事だ。
出立の壮行式でレンギョウはその場に集った全軍に告げた。
「皆、己の身を守ることを最優先に考えよ。たとえ戦士と遭遇したとしても、いたずらに干戈を交えるな。王都の民も、中立地帯の者も、皇都の眷属も、皆同じこの国に住む者だ」
ただでも兵士の士気は高い。彼らの戦意を煽る文句なら幾らでも思いつく。確実に皇帝に勝つつもりならば、相手への敵意を高め、それを肯定する言葉を言うべきだというのも分かっている。
だがレンギョウはその一言がどうしても言えなかった。まだ幼い面影を残した皇子の最期の顔が脳裏に浮かぶ。たとえ譲れない目的のためであろうとも、彼が死ぬべき理由にはならない。戦士の血を引く者であっても、生きていてほしかった。
死んでも構わないと思える人間など、この国にはいない。
アカネの顔はいつしか、良く似た面差しのそれに変わっていた。アサザと過ごした一昼夜。それが今の自分にとってどれほど大きな記憶であることか。
再び友と呼ばれなくとも良い。人として、国王として、大事なことを教えてくれたのがアサザである事実は変わらないのだから。
やりきれない想いを胸に北の空へと目を向ける。今宵の月はまだ昇っていない。月も太陽も隠れた天空は、深い闇だけを抱いて頭上を覆っていた。
「レンギョウ様」
背後からの声に振り返ると、白銀の鎧を纏った近衛兵が恭しく頭を垂れていた。
「お食事の用意が整いました。どうぞ天幕にお戻りくださいませ」
「分かった」
頷いてレンギョウは踵を返した。寝所も兼ねる天幕はすぐ目の前だったが、入り口を潜る直前にふと足を止める。怪訝そうに振り返る近衛兵に小さく苦笑を向ける。
「……何、兵たちがやけに賑やかだと思ってのう」
成程、宵風に乗って切れ切れに聞こえてくるのは陣中の喧騒だった。レンギョウと同様に夕飯の支度ができたのだろう、食事時に独特のざわめきが簡素な柵を乗り越えてこちらに流れてくる。
柵に目を留めたレンギョウの口の端に浮かぶ笑みが苦さを増した。高貴なる国王を守るための仕切り。しかし最近ではそれが民との間の越えがたい壁に思える。隔離されているのは外ではなく内——『聖王』レンギョウなのではないかと。
考えても詮無いことだとは分かっている。レンギョウは小さく頭を振って黒い懸念を追い払った。
今、シオンやススキといった主だった自警団の面子は国王軍への帰順を呼びかけるため中立地帯中の村々を回っている。彼らが集めてくれた中立地帯からの志願兵を取り纏め、預けられた自警団と正規国王軍を統率すること。それがレンギョウの今の仕事だった。先日の戦での勝利が効いているのだろう、合流する者は後を絶たない。毎日膨れ上がる人員を引き連れて、少しずつ皇都を目指して前進する。たったそれだけ、けれど多忙な日々だ。人数をかき集めている自警団員たちのためにも、自らの思い込みに悩む時間など取っている暇はない。
天幕の頂上に翻る軍旗を見上げる。白地に暁の紫で縫い取られた連翹の花紋。明日もきっと、たくさんの志願者がこの旗を目指してやって来る。彼らの勇気に報いるためにも、自分の食事や休息は取れる時に取っておくのが最善だ。
とりあえず今は用意された食事を片付けよう、そう思ったレンギョウが天幕へ向き直った時。
「国王陛下はおられるか。謁見を賜りたい」
再び振り返った柵の向こうに幾つかの人影が見えた。周囲の近衛兵たちとは明らかに違う、絹の衣を纏ったそれらの顔はレンギョウにも見覚えがあった。
先だっての戦で、イブキと共に配置した魔法部隊。魔法という特殊能力を喪いつつある貴族の中で、最後に遺されたたった五人の遣い手。彼らが揃って国王を訪ねてくるのは珍しい。食事中を理由に断ろうとした近衛兵を止めて、レンギョウは手ずから彼らを天幕に招き入れた。
元がレンギョウ一人のための空間だ。訪問者全員と護衛の近衛兵、七人が入ると天幕は手狭だった。レンギョウの分の食事が卓上に用意されていたが、自分ひとりだけ食べるのも居心地が悪い。そこで人数分の軽食を運び込ませたものの、皿には誰一人として手も触れようとしなかった。小さく溜息を吐いて、レンギョウは卓越しに肩身を狭めて立ち尽くす貴族たちを見やった。
「おぬしらが急な謁見を望むなど今までなかったことだ。何かあったのか?」
それまで黙っていた五人が目配せを交わし、意を決したように最も歳かさの男がレンギョウに目を向けた。
「畏れながら陛下。折り入ってお願いしたい由がございます」
「何だ。申してみよ」
一度口火を切ると男は躊躇しない性質のようだった。続けられた言葉にも迷いがない。
「我々をイブキ殿の麾下から外していただきたく存じます」
レンギョウは男の顔を見返した。男は淡々とした表情を繕っているものの、その口調には押さえ込んだ怒りが滲んでいた。さりげなく横に並んだ他の貴族の顔を窺うと、差はあれど皆同じような表情を浮かべている。
これは長丁場になるやもしれぬな。
静かに覚悟を決めて、レンギョウはわざとゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そういえば軍の再編時にも、魔法部隊は左翼イブキ付から動かしていなかったのう。何か不都合でもあったか?」
「不都合はございません。ただ、あの者の指示を仰ぐのが嫌になった、それだけでございます」
「何故だ? 先だっての戦でも、大きな手柄を立てたではないか。おぬしらの魔法あってこその戦術であったが、イブキなしではあれだけの結果は得られなかったであろう」
将帥にして第三皇子アカネの捕獲。初戦最大の戦果は彼ら抜きでは語れない。しかしそれを口に出した途端、貴族たちの顔に苦いものが走ったのをレンギョウは見逃さなかった。
「結果といえば結果でしょう。しかし我々はあのような卑怯な策など望んでおりませんでした」
反射的に思い浮かべたアカネの顔を、無理矢理に打ち消す。結末は悔やみきれないが、そこまでの過程で下した決断までも悔いているわけではない。
「その卑怯な策を採ったのは余だ」
「陛下を責めているのではありませぬ。ただ我々は正々堂々と戦士と戦いたいのです」
沈黙を守っていた貴族たちも、口々に意見を言い始めた。
「王都は百年待ってこの機会を得ました。万が一にも陛下の名声に瑕が付くような戦い方はしたくありません」
「自警団と手を組むのは致仕方ありませぬ。しかし腕が立つからといって何者をも受け入れるというのはいかがなものか」
「それにあの者、新参の兵たちと交流するという名目で酒樽を自分の天幕に運び込んでおります。あれは軍紀違反ではないのですか」
「ここのところ毎晩のことです。昨夜など酔った挙句に泥酔剣、などと騒いで醜態を曝しておりました。あのような見苦しい所作、同じ陣に居るのが恥ずかしくなります」
新兵預かりの留守居役を任せたのが仇になったか。レンギョウが知らぬ間にイブキと貴族たちの亀裂は深まっていたようだ。
「しかし、あやつの実戦経験は貴重なものだ。利用できるものは利用せねば、皇帝とは戦えぬ」
「ならば何故、我らをあの者の下につけたままなのです。経験を活かすというのであれば、自警団の兵を振り分けた方が余程勝手を心得ているのではないですか。何せ元皇帝軍近衛隊長なのですから、兵の指揮はお手の物でしょう」
思わず言葉に詰まる。改めて考えてみると、貴族である彼らがこれまで表立った不満を述べずにイブキの指揮下で働いてくれたことを褒めるべきなのかもしれない。恐らく配置当初から抱いていたであろう不満、それがきっかけを得た今になって噴き出したのだろう。
「……分かった。配置換えの件は考えておく。しかし編成変更となると自警団にも相談をせねばなるまい。いま少しだけ猶予をくれぬか」
ようやく続けたレンギョウの言葉に、しかし貴族たちは顔を見合わせた。その場を満たす不穏な雰囲気。思わず上げたレンギョウの視線と貴族たちの悔しげな眼差しが複雑に交差する。
「このような時にまで自警団とは。コウリ殿の一件といい、陛下は我々貴族を一体どう思っておられるのか。我々はこれ以上、あのような下賎の者の元では戦えませぬ」
皆を代表するように最初の貴族が言う。その他の者の無言は肯定と同義だった。失礼します、と告げて背を向けた彼らが退席するのを、レンギョウはただ見送ることしかできなかった。
貴族をどう思っているのか。
それはつまるところ、コウリをあそこまで追い詰めてしまった己の言動がかつてと何も変わっていないという意味なのではないか。
これが国王軍の、『聖王』軍の内実。
深い疲労を覚えて、レンギョウは卓に肘をついた。目の前にはすっかり冷め切った夕食が手付かずで並んでいる。無論もう手をつける気になどなれなかった。
卓上の片付けを近衛兵に命じ、レンギョウは再び天幕の外に出た。冷たい夜風が澱んだ空気を払ってくれたが、身中に溜まった澱までは流してはくれない。
貴族も自警団も戦士も、皆同じこの国の民とする。レンギョウが思い描くこの国の未来は、北の果ての皇都よりなお遠い場所で闇に沈んでいた。
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<予告編>
迫り来る国王軍。
日に日に膨れ上がるその姿、
しかし迎え撃つ皇帝側はなかなか足並を揃えられずにいる。
皇帝アザミの思惑、
副将帥ブドウの心情、
そして皇太子アサザの迷い。
膠着した現状を打ち破るのは、
刃を含んだ朗と響く声。
——破魔刀は我らの手に。
『DOUBLE LORDS』転章8、
会議の円卓を中心に、
物語の歯車は回されてゆく。
皇都に戻る斥候が告げるその規模は、最早無視できるものではなかった。初報から既に四日。相手が王都を出てから七日が経過している。いくら速度が遅いとはいえ、様子見と言うには長すぎる間だった。
らしくないと思った。この鈍重さは、アザミらしくない。
開け放した窓から刺すような横風が吹き込んできて、羽織ったばかりの外套の裾を揺らす。足元に纏わりつくそれを、アサザは忌々しげに払った。
気分が悪い。その思いは鏡に映る己の姿を見てさらに強くなった。黒を基調とした重苦しい色彩。初代戦士以来の伝統だか何だか知らないが、皇族だけに許されたこの色の正装を身に着けるたびにアサザの気分は沈む。
今朝早く、皇帝の名で御前会議が召集された。今頃は皇都中の戦士が身支度を整えて議場へ向かっているはずだ。議題は勿論、一つしかない。
国王軍の再挙兵。その事実だけを伝えた第一報に続いて、詳細に当たる第二報が届いたのは、アサザが薬師に扮した間諜と遭遇した翌朝だった。兵数、進軍速度、挙兵の狙い。早馬が報告する事柄と、スギが語った情報は寸分の違いもなかった。
どのような手段で正確な情報を掴んでいるのかには興味がない。だがスギはあの時機に姿を現しアサザに国王軍の動きを流すことで、自身の情報網の精緻さを証明したことになる。
己の腕を売り込むために、最も効果的な時を窺っていたのか。何故かそれが無性に気に入らなかった。
国王軍の動向。その情報を必要としているのは皇帝のはずだ。最も知らなければならない立場の者を差し置いて、自分ひとりが聞いてしまっているという事実。その後味の悪さが今も続いている。
焦燥を覚えるのには、もうひとつ理由がある。
皇帝アザミが姿を現さないのだ。スギと遭遇したあの朝以来、ずっと。
普段ならアサザより早く机に向かい執務に当たっているはずのアザミが、あの朝に限って遅れていた。珍しい遅刻を訝しんでいるところに飛び込んできた詳報。すかさず控えていた侍従の一人を皇帝の私室へ走らせた。しかししばらくして侍従は一人で戻ってきた。皇帝の様子を尋ねても曖昧に言葉を濁す一方でよく分からない。他の誰に聞いても反応は同じだった。しびれを切らしたアサザが自ら私室に出向こうとすると止められた。それだけは、と懇願する侍従長の姿にさすがに何かあると気づいたが、老いた忠僕をいくら問い詰めても無駄だった。自室に戻った後に思い余ってカヤにも尋ねてみたが、刀の精はにやにや笑うだけで一向に話そうとしない。
だから会議召集の知らせを受けた時、最初に覚えたのは安堵だった。侍従たちは起こった出来事を隠すことはしても、皇帝の名を僭称するような真似はしない。これで少なくとも、アサザの知らないうちにアザミの身に最悪の事態が起きたという可能性はなくなった。
真っ先に安堵を覚えたことにまずは驚いたが、次にこみ上げてきたのは怒りだった。国王軍の動向について、自分は逐一知らせを出していたはずだ。何故今まで手を打たなかったのか。
苛立ちながら身支度を続けるアサザを、いつの間にか姿を現していたカヤが可笑しげに眺めていた。寝台に寝そべり、含み笑いの声を投げかける。
『此度の一席はなかなか楽しめそうだ。我も連れてゆけ』
「断る。お前なんか持って行ったら何をするか分からん」
『斯様なむさ苦しい部屋にはもう飽きた。退屈だ』
「刀が暇だなんて結構なことだろう。おとなしくしてろ」
『ほう。我に盾突くか』
蒼い瞳がすいと細められた。
『ではおぬしの留守中、少々暇つぶしでもしようかの』
「……何をする気だ」
『そうさのう』
欠片の温かみもない瞳がますます細められる。まるで楽しくてたまらないことを想像するかのように。
『おぬしの部屋の前に黙って座っておるというのはどうかのう? こう、顔を伏せて、打ちしおれて』
「それが何だって……」
言いかけた言葉が途中で止まる。思わず見返した視線の先、カヤは一糸纏わぬ姿で挑むような目をアサザに向けている。
すっかり忘れていたが、この化生は外見だけは年端もいかぬ少女なのだ。それがあられもない姿で部屋の前に座っている。巻き起こる騒動は容易に想像がついた。そんな状況ではそもそもこれはそういった対象ではないなどというアサザの弁明に耳を傾ける者はいないだろう。
「……くそっ」
舌打ちして床に転がった”茅”に手を伸ばすアサザに、カヤは満足げな笑みを刷いた。
『そうそう、最初から素直に従っておればよいものを』
「黙れよ、おばば」
罵りには軽く眉を上げただけで、カヤはあっさりと姿を消した。溜息を吐き、改めて黒鞘の長刀を腰に差す。漆黒の拵えが同色の皇太子の衣装に誂えたように納まった。ますます重苦しくなった気分に悪態をつく気力すら失くして、アサザは部屋を後にした。
指定された議場は公宮の一角にある。下位戦士も集う大掛かりな会議のため、専用の大会議場が開放されることになっていた。公宮の中でもアサザが暮らす宮に近い、奥まった場所にある。
会議の開始は正午と通達されている。まだ天頂に届いていない太陽からこぼれる光は、時折吹き抜ける風にさえ散らされなければ心地よい温もりをしっかりと肌に伝えてくる。春が近づいている証だ。
奥の宮と公宮を隔てる門を潜り、廊下を二つほど渡れば議場の扉が見える。開け放されたその前には佩剣した戦士たちがたむろしていた。何しろ急なことだったので控え室の用意や会場設営が間に合っていないのだろう。ばたばたと出入りの激しい従官たちとは対照的に、戦士たちは顔見知り同士で固まって所在無さげに立ちつくしている。
近づいていくと、アサザに気づいた幾人かがすかさず敬礼を寄越した。返礼を返しながら、素早く横目で知り合いを探す。この場に居る全員からいちいち礼をされたのではたまらない。誰かと立ち話でもして無視する口実を作りたかったし、何より少しでも重苦しい気分を払いたかった。
やがて人波から少し離れたところに立つ影に気がついた。すらりと伸びた褐色の手足、俯いた目元にかかる赤茶の短髪。ここのところ姿を見ていなかった、ブドウだった。
「……よう、久しぶり」
どう声を掛ければ良いのか迷った末に、出てきたのはそんな間抜けな台詞だった。ブドウがゆるゆると顔を上げる。
「アサザか。久しぶり」
小さく笑んだその顔には、以前のような底抜けの明るさはなかった。頬がこけ、瞳の若葉色もすっかりくすんでいる。
最後に顔を合わせたのはいつだったか。思い返して、息を詰める。アオイが逝った日。いたたまれなくなって、アサザは目を逸らした。
「随分痩せたな。大丈夫か」
「ああ。そっちこそ、大丈夫かい」
何が大丈夫なのは分からない。それでもとにかくアサザは頷いた。何となく、そうしなければならないような気がした。
二人並んで廊下の隅に移動する。壁に背中を預け、見るともなしに議場を整える従官たちの様子を見つめる。椅子を並べ直したり、卓の装飾を整えたり。単純な作業に一心に打ち込める彼らが、ふいに羨ましいと思った。国王軍のこと、アザミのこと、レンギョウのこと。出口のない様々な事柄を考えることに、疲れ果てていたのかもしれない。
「副将帥位のことだけど」
ふいにブドウが口を開いた。怪訝な眼差しを向けるアサザには構わず、言葉は淡々と続けられる。
「返上させてもらおうと思っている。戦士が皆集まるこの会議は、陛下にお願いするいい機会だ」
「……そうか」
喉元にせり上がった感情を飲み込んで、アサザは小さく頷いた。引き止めたい気持ちは無論ある。けれどブドウの瞳に浮かぶ自分と同じ種類の疲労が、咄嗟に浮かんだ驚きや反対の言葉を封じてしまった。
重い沈黙が続く。間もなく響いた議場の準備が整ったという声に救われたのは気のせいではない。
戦士たちの波に混じって、アサザとブドウは議場に入った。この部屋は通称を大円卓の間という。皇帝と重臣が座る円卓を中心に、階段状に三重の卓が周囲を巡っている。それぞれの身分に応じた席に着き始めた戦士たちを横目に、二人は段を下りて最央の卓へと歩み寄る。
磨き上げられた黒檀の卓はそう大きなものではない。代々伝わるしきたりによると、この卓を囲めるのは皇帝と皇太子、将帥、副将帥、近衛隊長、そして軍師のみとされている。将帥職は平時は置かれないし、軍師は既に名目上の空位役職となって久しい。実質この卓を囲むのは皇族と軍を束ねる指揮官二名だけと言ってよい。
最上座の皇帝の席は空いていた。近衛隊長もまだ到着していないらしい。無言のまま、アサザとブドウはそれぞれの席に着いた。
廊下にたむろしていた戦士たちの入場がひと段落ついたのだろう、議場の扉が閉められた。その重々しい音に、一瞬場内のざわめきが止まる。
それを見計らっていたように、廊下側の真正面に位置する扉が開かれた。一回り小さなそちらは、慣例的に皇帝入場の際に使われる扉だ。申し合わせたように議場の視線が集中する。
最初に姿を見せたのは近衛隊長だった。皆の注目を確かめるように装飾の多い金色の胸当てを反らし、議場を睥睨してからゆっくりと入場する。
「出たな、ヒゲ隊長」
アサザが小さく毒づく。聞こえたのだろう、斜め向かいに座っているブドウが肩を竦めた。
この近衛隊長をアサザはどうしても好きになれなかった。華美な装束、芝居がかった身ごなし、皇帝にへつらう態度。どれを取っても戦士として立派だとは到底思えない。これなら幼い頃に近衛隊長を務めていた男の方がまだ良かったと思う。真面目とは言いがたかったが、少なくとも腕は立つ男だったと記憶している。
最早名前も覚えていない先代のことを思い出しながら、アサザは見るともなしに後釜の隊長を見上げる。肩肘張って歩いてきた隊長は、黒檀の円卓まで来ても自分の席には向かわず、皇帝の椅子の傍で足を止めた。
訝しげな会場中の目が己に集まるのを待っていたかのように、隊長は自慢の口髭をくるりと撫でた。
「これより皇帝陛下がご入場なされる。皆の者、静粛に」
そう言って入ってきた扉に向き直った隊長は、滑稽なほど優雅なお辞儀をした。全員の起立を待って、再び扉が開かれる。苦虫を噛み潰したような気持ちで、アサザも立ち上がって扉へと目を向けた。
四角に切り取られた闇の中から、同じ色を纏った長身が現れた。冷たい一瞥を議場に集った戦士たちに投げ、黒檀の円卓に続く段へと足をかける。
いつに変わらぬ不遜な態度。ともかく、姿は見せた。
密かに安堵したアサザが再び息を詰めたのは次の瞬間だった。何と言うことはない小さな段差。それに足を取られ、アザミの体がふらつく。思わず上げかけた声は、中途半端に喉に引っかかって意味を為さなかった。
漆黒の皇帝の隣に、いつの間にか生成りの外套が寄り添っていた。実にさりげなく皇帝の体を支え、段差を下りる手助けをしている薬師の姿をした何者か。
何故、スギがここに。
「陛下、やつれたな……」
呆然と生成りの外套を凝視することしかできないアサザの耳が、同じく驚きの色を滲ませたブドウの呟きを拾う。改めてアザミの顔を見て、アサザはさらに衝撃を受けた。
やつれた、などというものではない。殺しても死にそうになかった皇帝は、今や瀕死の形相だった。土気色の肌、幾条も刻まれた深い皺、落ち窪んだ眼窩。まるでここ数日で数十も歳を取ったようだ。いつもと変わらず背筋だけは伸びているが、それすらも気を抜くと崩れてしまうのだろう。時折大きく揺れる肩がかえって痛々しい。水を打ったように静まった議場をゆっくり横切ってくる父帝とスギの歩みが、アサザにはひどく遅く感じられた。
皇帝の席はアサザの左隣にある。横に並んだ瞬間アザミに声を掛けようとしたが、外套から目だけを覗かせたスギに視線で制される。傍らで直立不動の近衛隊長など眼中にない、というより気に留める余裕もない様子でアザミが椅子に腰を下ろした。一礼した近衛隊長が自分の椅子に戻ったのを合図に、戦士たちも席に着く。立っているのはただ一人、皇帝の後ろに控えるスギだけだ。
椅子にかけたまま微動だにしない皇帝アザミ。普段の彼を知る者は畏れてその顔を直視することなどできない。外套で顔を隠し、俯いたままの薬師に自然と会場の目は集まった。潜めた囁き声がそこここで起こる。
「静粛に! 静粛に!!」
甲高い声を上げたのは近衛隊長だった。自分に注目が集まったことを確認するかのように一度議場を見回し、これ見よがしに咳払いをする。
「えー、本日皇帝陛下はお加減がよろしくない。僭越ながら議事進行は私めが執り行わせていただく。宜しいかな」
最後の一言は、あからさまにアサザに向けられていた。皇帝が進行の指示をできないのであれば、代行は本来皇太子の役目のはずだ。それをあえて近衛隊長が買って出たというのであれば、事前にアザミが命じていたからに他ならない。小さく鼻を鳴らして、アサザは背凭れに背を預けた。無言で勝手にしろと睨みをくれる。今はそんな瑣末事より考えねばならないことがたくさんあった。
横目で隣の皇帝を見やる。薄い瞼を伏せ、組んだ指をちらとも動かさない。眉間の皺がいつもより深く見えるのは気のせいだろうか。その横顔が末期のアオイの面影と重なって、アサザは小さく首を振った。
ともかく黒檀の円卓に座る資格を持つ面子が揃った。アサザから見て左回りにに皇帝アザミ、現在空席の将帥の椅子、副将帥ブドウ、空位役職の軍師席、そして近衛隊長。すぐ右隣で立ち上がった隊長はここぞとばかりに張り切った声を響かせる。
「皆も知っての通り、現在国王レンギョウがここ皇都に向けて進軍中である。中立地帯の皇民を甘言を弄して誑かし、日に日にその数を増やしているというが……まあこれは所詮烏合の衆、取るに足らぬ瑣末事だ」
それは違う、と飛び出しかけた言葉を飲み込む。中立地帯の民は恐らく相当に士気が高い。長年続いた食うや食わずの生活は確実に皇帝への敵意をも育てていた。水面下で根を張っていた不満がレンギョウという旗印を得て一挙に芽吹いた、そう考えるのが自然だろう。
しかしその単純な構図を、情報が制限された皇都で読み取れる者はそう多くはない。皇都の戦士にとって皇帝は未だに絶対的な権力の象徴だ。その皇帝に敵意を抱くなどという発想自体に、そもそも至らないのかもしれない。
「問題は国王だ。奴と取り巻きの貴族が使う魔法、これは我々戦士にとって脅威と言わざるを得ない」
会場中の同意の溜息を背景に、隊長はちらりとブドウを見た。
「そうですな、副将帥殿? 魔法の威力については、実際に目にされた貴女が一番良くご存知かと」
瞬間、ブドウの瞳に紅蓮の炎が翻った。卓の上に置かれた拳がきつく握り締められる。
「……その通りです、陛下。魔法を目の当たりにした者として、さしあたって一つお願いがございます」
隊長を無視して、ブドウはアザミに若葉色の目線を向ける。淡々とした口調の裏で、どれほどの激情を堪えているのだろう。褐色の指先は既に血の気を失っていた。
「私と、私の部下を迎撃の最前線に配置していただきたいのです。怖れるべきは魔法そのものの威力ではなく、あれが発動する瞬間に我々が抱く恐怖心です。私やアカネ殿下は国王ではなく、自分自身の心に負けました。皇帝軍の誰にも、二度とあのような思いをしてほしくはありません。我が隊ならば心構えが出来ている分、他の隊より良い働きができるかと」
重く、長い沈黙が訪れた。頭越しに発言された隊長も皇帝の発言を遮る非礼を怖れてかブドウに表立って抗議することはなく、ただ卓越しに恨みがましい目を向けるだけだ。
「副将帥位は」
「勿論お返しいたします。最前線に的を置くわけには参りません」
ようやく返って来た低く掠れた声にすかさずブドウが返答する。大儀そうに痩せた瞼を擡げて、アザミは一度だけブドウの顔を見た。
「……良かろう。どの道将帥を決めねばならぬのだからな。最早副将帥など要らぬ」
「ありがとうございます」
「会議の最中に移動されては目障りだ。その席にはこの場が終わるまで座っていても構わん」
言って、再び伏せられた瞳にブドウが一礼する。重責を下ろして安堵したのだろう、肩から目に見えて力が抜けていた。
「しかし陛下、将帥を置くにしても一体誰を」
当惑を滲ませて近衛隊長が問う。再び会場がざわめき始める。我こそはと名乗り出る者などいない。
戦士の家に生まれたからといって、ここにいる皆が剣に長けているわけではない。戦があった時代ならいざ知らず、初代皇帝即位以来まがりなりにも国王との共存が成立していた最近まで、戦士にとって皇帝軍での役職は地位や身分を測る物差し以上の何物でもなかった。勿論ブドウのような実戦派は幾人かいる。しかし軍の普段の任務が中立地帯の見回りとあっては華々しい活躍はとても期待できない。実際の兵役は腕に覚えのある皇民を雇って肩代わりさせ、自分はほとんど世襲となった役職の仕事だけをこなしていく。それが今の戦士の実際だった。
剣の稽古ですら馴れ合いなのだ。実戦の将帥など務まるわけがない。
前副将帥は老齢を理由に引退している。その息子は典型的な役職戦士だ。かつては武人として名を馳せたブドウの家柄も同様に役人化が進んでいる。むしろブドウが軍で出世した分だけ、自分たちに兵役のお鉢が回ることはないと楽観していた節さえあった。
出世の好機じゃないか、立候補しろよ。冗談はよせ、柄じゃない。じゃああいつはどうだ。剣と馬が得意だったろう。ダメだ、あそこじゃ家格が低すぎる。では誰それは。忘れたのか、あれは皇民出身だ。生粋の戦士ではない。
あちこちで湧き起こるのは押し付け合いと無責任な論評ばかり。肝心の皇帝が黙っているのをいいことに、声は際限なく高まっていく。
誰もいないのか? いるはずだろう、ここには皇都中の戦士が集まっている。誰か一人くらい……
潮が引くように喧騒が収まっていく。誰が最初に目を止めたのかなど分からない。だが気がつくと、会場中の目がすり鉢状の斜面から底の一点に注がれていた。
いるじゃないか。家格も剣の腕も申し分のない、将帥に相応しい人物が。
皇太子アサザ。
「——ならぬ」
ざわめきの収まった議場に、鋭い声が響く。戦士たちのみならず、アサザも思わず左隣に顔を向けた。常と変わらぬ力強さを秘めた、その声。
「それだけは、ならぬ」
全てを薙ぎ払う刃のような声音で、アザミがもう一度言う。やつれた顔に白みを増した眼光だけが研ぎ澄まされた意志を映してぎらついている。
再び議場は静まり返った。では、誰に? 誰もいないではないか。我らは戦士だろう。本当に誰も、いないのか。
「——やはり皇太子が妥当な線じゃろ。いい加減諦めい、皇帝よ」
高い天井に朗々と声が響いた。一斉に振り向いた視線の先には廊下側の扉。人一人がすり抜けられる程に開けられた隙間を背景に、雪のように白い髪の老人と巌のような体躯の男が立っている。その声と、纏ったくすんだ藍色に覚えがあった。”山の民”の村で会った二人、クルミとオダマキだった。
「あんたたち……」
何故ここに、と言いかけて口を噤む。そういえばカタバミが父と下山したと言っていた気がする。爺さと一緒だとも。しかしそれだけでは二人がこの場に現れた理由にはなっていない。突然姿を見せた”山の民”に、場内にも戸惑いの声が満ちる。
「貴様ら」
蒼白な面持ちでアザミが身を起こした。顔見知りかなどと問うまでもない。白髪の老人クルミを睨む敵意を帯びた視線が、両者の仲は最悪だと告げている。
「しかしおぬしも懲りぬ奴じゃ。業を一人で背負おうとするから、肝心なものが零れ落ちてゆく。何度同じことを繰り返すつもりかの?」
「黙れ」
アザミの掠れた声が耳を打つ。普段の強さが感じられないその威嚇をクルミは鼻で笑っていなした。
「折角良い報せを持ってきてやったというにつれないの。そこなおぬしの息子、なかなか見所があると褒めてやろうと思ったに」
「どういう意味だ」
突然槍玉に上がったことに戸惑いながら、アサザは問い返す。少し驚いたようにクルミはアサザに視線を移し、くつくつと笑った。その仕草がどこかカヤと似ていて、思わず不快感がこみ上げる。
「ほれ、しっかりと腰に差しておるではないか。破魔刀”茅”が見初めし戦士の末裔よ」
瞬間、視界に銀色が翻った。咄嗟に何が起こったのか理解して、アサザは息を呑んだ。
「カヤ、お前……!」
『ふふ、ようやく外に出られたわ。刀の中は狭いし、退屈でたまらぬ』
言葉の通り、いかにも解き放たれたといった様子のカヤがアサザの頭上でくるりと一回転する。その姿を目にした戦士たちは一瞬沈黙し、悲鳴にも似た叫びを上げた。
『ああ、やはり良いな、この感覚。このような大勢に注目されるなど久方振りだ』
突如現れたカヤの姿に、議場は完全な恐慌状態に陥っていた。意味を為さない声に混じって国王、という言葉がアサザの耳に飛び込んでくる。ブドウと共に前線に出た者なのだろうか。レンギョウと瓜二つのその顔を睨み上げることしかできない己の無力が何よりも腹立たしい。
「皇太子、貴様」
振り返ると、痛々しいほど顔を歪めたアザミがこちらを見ていた。掛ける言葉も返す言葉も見つからず、父子のわずか二歩の距離を痛いほどの沈黙が隔てる。
「おぬしは知っておったはずじゃな、皇帝よ。”茅”の存在をキキョウから聞いていたはずじゃ」
よく響く声が父子の間に割り込む。オダマキに肩を支えられ、クルミはゆっくりと歩き始めた。その視線の先には、彼らが潜った扉に最も近い軍師の椅子。まるでその老い枯れた姿を待っていたかのように、その席は誰にも占められることなく空のままだ。混乱の続く議場をゆったりと渡り、”山の民”の二人は一歩ずつ黒檀の円卓へ近づいてくる。
「当然、そこな化生の能力も知っておろう。この刀が国王と戦う上で欠かせぬ武器であるということも」
「黙れ」
アザミの声は最早威嚇というより虚勢だった。卓に拳を押し付け、震える腕で上半身をようやく支えているその姿。現実に目の当たりにしているアサザでさえ信じられないような衰弱ぶりだった。
「貴様らの手など借りぬ。王都の小僧も自警団の狼も、皇都の——余の力だけで刈り取ってくれる」
「ほう、立ち上がることすらままならぬ身でよく言うわ。開戦を控えて剣も振れぬ、しかもいつ病魔に憑き殺されるかわからぬ者が皇帝なぞ、笑い話にもならぬ」
「……っの、ジジイっ!!」
どこかで聞いた台詞にアサザの感情が一気に沸騰する。かつてアオイが皇太子を降ろされた際に、他ならぬアザミが吐いた言葉。それが熱を帯びた脳裏で重なった。なんという因果だろうか。あの時振り下ろした言葉の刃が、今ここに来てアザミ自身に振り下ろされる。
視界の隅ににやにや笑いながら見下ろすカヤの姿が映った。まるであらかじめ起こる事態を知っていて、成り行きを楽しんでいるようなその表情に、ふと引っかかりを覚える。今のクルミの発言、そしてアザミのかつての言葉。両者が似ているのは本当に偶然なのか?
「ほほ、おぬしらはやはり親子じゃな。儂を睨みおるその三白眼など、本当に良く似ておる」
老人は既に円卓に辿り着いていた。オダマキが丁寧な手つきで軍師の椅子を引く。実に自然な身のこなしで、クルミは初代戦士以来の空席をあっさりと埋めた。
「アサザ……これは一体、どういうことだ」
呆然と事態を眺めていたブドウが掠れた声で問う。言葉に詰まったアサザの代わりに、クルミが顎を上げてその若葉色の瞳を見返した。
「説明しようにも、周りがこう騒がしくては落ち着いてしゃべることもできんわ。予想外の出来事にこうも驚きおって。戦士の質も落ちたものよの」
クルミが背後のオダマキに目配せをする。小さく頷いて、彼は会場中を見渡した。
「静まれ」
決して張り上げた声ではない。しかし不思議と良く通るその声は、瞬時に混乱した議場の空気を塗り替えた。
恐る恐るながら黒檀の円卓に目を向ける者がいる。虚脱したように席に座る者がいる。気づけば騒ぎの残響だけを残して、議場は静まっていた。
「そう。それでよい」
満足げにクルミが笑う。
よいことなど一つもない、とアサザは思う。左隣からは父帝の浅く早い呼吸が聞こえてくる。右隣の近衛隊長はカヤが姿を現してからずっと硬直したままだ。害意はないらしい”山の民”たちにブドウも対処を迷っているのが分かる。カヤはというと、一通り場を乱して気が済んだのだろう。アサザの隣に舞い降りて、これ見よがしに肩にしなだれかかっている。わざわざ隊長の席との隙間を狙うあたりがカヤらしい。大仰に身を反らした隊長に流し目をくれるその顔を思い切り突き放してやりたいところだが、実体のないその体には触れることもできない。結果、募る苛立ちを押し殺して席に着いているしかなかった。
「ようやく本題に入れそうだの」
会場中の注目を集めてクルミが口を開く。無言で睨みつけるアサザ、それから傍らのカヤへと視線を流し、よく響く声で本題とやらを述べ始める。
「さて、まずは皆を驚かせたそこな化生の紹介からじゃな。あれの本体は皇太子の腰にある刀じゃ。初代戦士アカザと初代皇帝アサギが遣った黒刀、その銘を”茅”という」
紹介を受けたカヤがここぞとばかりに胸を張った。
『そう、我こそが戦士に勝利と皇帝位を齎した存在。破魔刀”茅”と、それに掛けられた術の要』
場が再びどよめきに包まれる。
「術というには魔法と関わりがあるということか。それに、その姿……」
戦士たちの戸惑いを代表するように、ブドウが問う。卓の対岸にいるその姿を、カヤが眇めた眼差しで見やった。
『無論。王が遣う魔法を、我は無効にすることができる。故に二つ名を破魔刀という』
この言葉への議場の反応は意外と淡白だった。魔法は実際に目にした者でないとその威力を想像することが難しい。逆に、見たことのある者はその絶大な力が無効化できる代物だとは到底信じられない。問いを発したブドウ自身、返ってきた答えに半信半疑の表情を浮かべている。
『信じられぬか。まあ良い。そのうち我の有難さを肌で知る日が来よう』
カヤが明らかに気分を害した様子で鼻を鳴らした。不機嫌な顔のまま、おもむろにクルミを振り返る。
『顔見世はもう良かろう? 我は帰らせてもらうぞ』
言うが早いかカヤの体は虚空に溶けるように消えていた。的を失った議場の視線が本体である”茅”——アサザに集中する。何故、いつの間にそんなものを。戦士たちが問う声が聞こえる気がして、思わずアサザは俯いた。知らず左手が”茅”の黒鞘を握り締める。
「俄かに信じられぬのは分かるが、あれは嘘は言わぬ。少々我侭ではあるがの」
苦笑を滲ませた声音でクルミが言う。
「先日国王軍と戦った者なら分かるであろう? 向こうに魔法がなければ戦力は互角。いや、兵力では皇帝軍の方が有利であった。現に途中までは主導権を握っていたではないか」
アサザは先日の戦の詳細を知らない。聞く気にもなれなかったというのが本音だが、ブドウの顔色を見ればクルミの指摘が的を射ているのが分かる。
——何故、知っている?
改めて円卓の末席に就いた老人を見やる。クルミはつい先日まで”山の民”の村の洞窟に籠もりきりだったはずだ。中立地帯の戦の帰趨、皇都で交わされた会話。それらの知りえるはずのない情報を知っている理由。それは最早、一つしか考えられなかった。
見ていたのだ。カヤが戦場を、皇都を。そしてその内容を、事細かにクルミに伝えている。
目眩にも似た怒りを覚えた。その対象がカヤなのかクルミなのか、それとも他の何かなのかは分からない。見ていながら、知っていながら、何もしない。時を待ち、自らに最も都合の良い時期にそれを利用する。その卑劣さが何より許せなかった。
「魔法さえ封じれば、勝機はこちらにある。そして今、破魔刀”茅”は我らの手にあるのだ。刀自ら選んだ遣い手である皇太子をみすみす皇都に留めることなど不可能」
一旦クルミは言葉を切った。白髪を貫く強い眼差しが正面からアザミを見据える。
「皇太子を戦場へ。それが運命じゃ」
「痴れ者がっ……!」
語気を強めたアザミが席を蹴ろうとした瞬間。上体を支えていたその腕が不自然に震えた。隣にいるアサザの耳が辛うじて拾える程度に押し殺された、微かな苦鳴。
「陛下……?」
顧みたアサザの目に、顔を伏せた父帝の姿が映る。卓に置いたままの片拳は固く握られ、もう一方の手は胸元を掴んでいる。切れ切れに洩れる乱れた呼吸が、鼓膜よりも鋭く胸を打った。
咄嗟に立ち上がりかける。皇帝の席まではわずかに二歩。しかしそのわずかな隙間に、生成りの外套が立ち塞がった。
「無理をなさってはいけません」
背中越しに聞こえる薬師を装った間諜の声。その白い背がこうも越え難い壁に見えるのは何故だろう。
「……薬を」
「しかし、今日はもう三度目になります」
「構わん。寄越せ」
小さく溜息を吐いて、スギは懐から小さな紙包みと水筒を取り出した。アザミがそれらを飲み下すのを見届けて、返された水筒を外套に仕舞う。
その時覗いた表情がアサザの目を奪った。わずかに窺える口許、それが場違いな笑みに撓っている。
「落ち着かれたかの」
スギに問いただすより先に、クルミの声が割り込んできた。その眼差しは背筋が震えるほど冷たい。
「さて、話の続きじゃ。皇太子と”茅”を戦場へ向かわせること。皇帝の結論は如何様か」
薬が効き始めたのか、アザミの呼吸は先程よりは苦しげではなくなっていた。それでもクルミを睨み返す目には苦痛が滲み、いつもの傲慢な強さは感じられない。しばし睨み合った後、目を逸らしたのはアザミの方だった。
「……好きにしろ」
投げ遣りに呟いた言葉だけが議場の底に落ちた。震える腕を杖にゆっくりと立ち上がり、席を離れる。
「破魔刀とやらの力で王都の小僧を倒せるというなら、やってみるが良い。それを引き入れたのは皇太子の勝手だ。余は知らぬ」
すかさずスギがアザミの傍らに立つ。まだ足元が覚束ないアザミの肩を巧みに支え、生成りの背中は議場の段差を上っていく。
閉ざされた扉の向こうに皇帝の姿が消えてからも、アサザは呆然とそこを眺めていた。結局、何もできなかった。声を掛けることも、肩を貸すことも、立ち上がることすらも。
——これでは、アカネの時と同じではないか。
「さて、皇太子アサザ殿下に伺いたいのじゃが」
クルミの声で我に返る。卓越しに見やった老人は、勝利を確信した笑みでこちらを見つめている。
「殿下は”茅”を携えて戦場に赴くことをどうお考えかの。よもや怖いなど言い出すことはないと思うが」
「馬鹿言うな、じいさん。それに今更殿下なんて呼ぶな。気色悪い」
わざと普段通りの軽口を叩く。改まった言葉を遣うと、ただでさえ重い現実が更に重苦しくなりそうだ。一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
目の前で起こる出来事を見ているだけというのはもう嫌だった。何もできない無力感を味わうくらいなら、いっそ何かを為して後悔する方が良い。
今、アサザの手には”茅”がある。カヤやクルミの言う能力が本当であれば、ブドウをはじめとする皇帝軍の兵たちの命を守る盾となれるかもしれない。
そしてもう一つ。
戦場には、レンギョウがいる。顔を合わせもせずに腹を探り合うから分からなくなるのだ。
今のレンギョウが本当に戦いを望んでいるのか。もし他に目的があるのならば、それは何なのか。知るためには、動かなければならない。
「いいぜ。なってやるよ、”茅”の遣い手とやらに」
たとえこの決断が誰かに誘導されたものだとしても、それを後悔することになるとは到底思えなかった。
友に会いに行く。別れ際に交わした、再会の約束を果たすために。
満足げな笑みを刷くクルミを、無言で見つめるオダマキを、心配げに見やるブドウを、ことの成り行きを見守っていた議場の戦士を、ぐるりと見渡す。自分にもできることを見つけたせいだろうか、不思議なほど気持ちは凪いでいた。
「もう話し合うべきことはないな。陛下も退場したことだし、俺も帰らせてもらうぜ。解散だ」
言い置いて入ってきた扉へと向かう。重い扉を開けると、廊下に溢れた午後の日差しが瞳を射た。
そう。もうすぐこの国にも、春が来る。
<予告編>
すべてが霞で覆われた世界。
手を伸ばせど決して触れることのできない、
水鏡の向こう側の出来事。
レンギョウは見つめる。
かつて起こった哀しみを。
力あるゆえに無力な者の慟哭を。
——こんなに血塗れた罪人を、
惜しむ者などいるのだろうか。
永劫にも思われる嘆きの中、
転機は突然に訪れる。
『DOUBLE LORDS』転章9、
水面に儚き幸せの姿が映し出される時、
創国の物語が始まる。
らしくないと思った。この鈍重さは、アザミらしくない。
開け放した窓から刺すような横風が吹き込んできて、羽織ったばかりの外套の裾を揺らす。足元に纏わりつくそれを、アサザは忌々しげに払った。
気分が悪い。その思いは鏡に映る己の姿を見てさらに強くなった。黒を基調とした重苦しい色彩。初代戦士以来の伝統だか何だか知らないが、皇族だけに許されたこの色の正装を身に着けるたびにアサザの気分は沈む。
今朝早く、皇帝の名で御前会議が召集された。今頃は皇都中の戦士が身支度を整えて議場へ向かっているはずだ。議題は勿論、一つしかない。
国王軍の再挙兵。その事実だけを伝えた第一報に続いて、詳細に当たる第二報が届いたのは、アサザが薬師に扮した間諜と遭遇した翌朝だった。兵数、進軍速度、挙兵の狙い。早馬が報告する事柄と、スギが語った情報は寸分の違いもなかった。
どのような手段で正確な情報を掴んでいるのかには興味がない。だがスギはあの時機に姿を現しアサザに国王軍の動きを流すことで、自身の情報網の精緻さを証明したことになる。
己の腕を売り込むために、最も効果的な時を窺っていたのか。何故かそれが無性に気に入らなかった。
国王軍の動向。その情報を必要としているのは皇帝のはずだ。最も知らなければならない立場の者を差し置いて、自分ひとりが聞いてしまっているという事実。その後味の悪さが今も続いている。
焦燥を覚えるのには、もうひとつ理由がある。
皇帝アザミが姿を現さないのだ。スギと遭遇したあの朝以来、ずっと。
普段ならアサザより早く机に向かい執務に当たっているはずのアザミが、あの朝に限って遅れていた。珍しい遅刻を訝しんでいるところに飛び込んできた詳報。すかさず控えていた侍従の一人を皇帝の私室へ走らせた。しかししばらくして侍従は一人で戻ってきた。皇帝の様子を尋ねても曖昧に言葉を濁す一方でよく分からない。他の誰に聞いても反応は同じだった。しびれを切らしたアサザが自ら私室に出向こうとすると止められた。それだけは、と懇願する侍従長の姿にさすがに何かあると気づいたが、老いた忠僕をいくら問い詰めても無駄だった。自室に戻った後に思い余ってカヤにも尋ねてみたが、刀の精はにやにや笑うだけで一向に話そうとしない。
だから会議召集の知らせを受けた時、最初に覚えたのは安堵だった。侍従たちは起こった出来事を隠すことはしても、皇帝の名を僭称するような真似はしない。これで少なくとも、アサザの知らないうちにアザミの身に最悪の事態が起きたという可能性はなくなった。
真っ先に安堵を覚えたことにまずは驚いたが、次にこみ上げてきたのは怒りだった。国王軍の動向について、自分は逐一知らせを出していたはずだ。何故今まで手を打たなかったのか。
苛立ちながら身支度を続けるアサザを、いつの間にか姿を現していたカヤが可笑しげに眺めていた。寝台に寝そべり、含み笑いの声を投げかける。
『此度の一席はなかなか楽しめそうだ。我も連れてゆけ』
「断る。お前なんか持って行ったら何をするか分からん」
『斯様なむさ苦しい部屋にはもう飽きた。退屈だ』
「刀が暇だなんて結構なことだろう。おとなしくしてろ」
『ほう。我に盾突くか』
蒼い瞳がすいと細められた。
『ではおぬしの留守中、少々暇つぶしでもしようかの』
「……何をする気だ」
『そうさのう』
欠片の温かみもない瞳がますます細められる。まるで楽しくてたまらないことを想像するかのように。
『おぬしの部屋の前に黙って座っておるというのはどうかのう? こう、顔を伏せて、打ちしおれて』
「それが何だって……」
言いかけた言葉が途中で止まる。思わず見返した視線の先、カヤは一糸纏わぬ姿で挑むような目をアサザに向けている。
すっかり忘れていたが、この化生は外見だけは年端もいかぬ少女なのだ。それがあられもない姿で部屋の前に座っている。巻き起こる騒動は容易に想像がついた。そんな状況ではそもそもこれはそういった対象ではないなどというアサザの弁明に耳を傾ける者はいないだろう。
「……くそっ」
舌打ちして床に転がった”茅”に手を伸ばすアサザに、カヤは満足げな笑みを刷いた。
『そうそう、最初から素直に従っておればよいものを』
「黙れよ、おばば」
罵りには軽く眉を上げただけで、カヤはあっさりと姿を消した。溜息を吐き、改めて黒鞘の長刀を腰に差す。漆黒の拵えが同色の皇太子の衣装に誂えたように納まった。ますます重苦しくなった気分に悪態をつく気力すら失くして、アサザは部屋を後にした。
指定された議場は公宮の一角にある。下位戦士も集う大掛かりな会議のため、専用の大会議場が開放されることになっていた。公宮の中でもアサザが暮らす宮に近い、奥まった場所にある。
会議の開始は正午と通達されている。まだ天頂に届いていない太陽からこぼれる光は、時折吹き抜ける風にさえ散らされなければ心地よい温もりをしっかりと肌に伝えてくる。春が近づいている証だ。
奥の宮と公宮を隔てる門を潜り、廊下を二つほど渡れば議場の扉が見える。開け放されたその前には佩剣した戦士たちがたむろしていた。何しろ急なことだったので控え室の用意や会場設営が間に合っていないのだろう。ばたばたと出入りの激しい従官たちとは対照的に、戦士たちは顔見知り同士で固まって所在無さげに立ちつくしている。
近づいていくと、アサザに気づいた幾人かがすかさず敬礼を寄越した。返礼を返しながら、素早く横目で知り合いを探す。この場に居る全員からいちいち礼をされたのではたまらない。誰かと立ち話でもして無視する口実を作りたかったし、何より少しでも重苦しい気分を払いたかった。
やがて人波から少し離れたところに立つ影に気がついた。すらりと伸びた褐色の手足、俯いた目元にかかる赤茶の短髪。ここのところ姿を見ていなかった、ブドウだった。
「……よう、久しぶり」
どう声を掛ければ良いのか迷った末に、出てきたのはそんな間抜けな台詞だった。ブドウがゆるゆると顔を上げる。
「アサザか。久しぶり」
小さく笑んだその顔には、以前のような底抜けの明るさはなかった。頬がこけ、瞳の若葉色もすっかりくすんでいる。
最後に顔を合わせたのはいつだったか。思い返して、息を詰める。アオイが逝った日。いたたまれなくなって、アサザは目を逸らした。
「随分痩せたな。大丈夫か」
「ああ。そっちこそ、大丈夫かい」
何が大丈夫なのは分からない。それでもとにかくアサザは頷いた。何となく、そうしなければならないような気がした。
二人並んで廊下の隅に移動する。壁に背中を預け、見るともなしに議場を整える従官たちの様子を見つめる。椅子を並べ直したり、卓の装飾を整えたり。単純な作業に一心に打ち込める彼らが、ふいに羨ましいと思った。国王軍のこと、アザミのこと、レンギョウのこと。出口のない様々な事柄を考えることに、疲れ果てていたのかもしれない。
「副将帥位のことだけど」
ふいにブドウが口を開いた。怪訝な眼差しを向けるアサザには構わず、言葉は淡々と続けられる。
「返上させてもらおうと思っている。戦士が皆集まるこの会議は、陛下にお願いするいい機会だ」
「……そうか」
喉元にせり上がった感情を飲み込んで、アサザは小さく頷いた。引き止めたい気持ちは無論ある。けれどブドウの瞳に浮かぶ自分と同じ種類の疲労が、咄嗟に浮かんだ驚きや反対の言葉を封じてしまった。
重い沈黙が続く。間もなく響いた議場の準備が整ったという声に救われたのは気のせいではない。
戦士たちの波に混じって、アサザとブドウは議場に入った。この部屋は通称を大円卓の間という。皇帝と重臣が座る円卓を中心に、階段状に三重の卓が周囲を巡っている。それぞれの身分に応じた席に着き始めた戦士たちを横目に、二人は段を下りて最央の卓へと歩み寄る。
磨き上げられた黒檀の卓はそう大きなものではない。代々伝わるしきたりによると、この卓を囲めるのは皇帝と皇太子、将帥、副将帥、近衛隊長、そして軍師のみとされている。将帥職は平時は置かれないし、軍師は既に名目上の空位役職となって久しい。実質この卓を囲むのは皇族と軍を束ねる指揮官二名だけと言ってよい。
最上座の皇帝の席は空いていた。近衛隊長もまだ到着していないらしい。無言のまま、アサザとブドウはそれぞれの席に着いた。
廊下にたむろしていた戦士たちの入場がひと段落ついたのだろう、議場の扉が閉められた。その重々しい音に、一瞬場内のざわめきが止まる。
それを見計らっていたように、廊下側の真正面に位置する扉が開かれた。一回り小さなそちらは、慣例的に皇帝入場の際に使われる扉だ。申し合わせたように議場の視線が集中する。
最初に姿を見せたのは近衛隊長だった。皆の注目を確かめるように装飾の多い金色の胸当てを反らし、議場を睥睨してからゆっくりと入場する。
「出たな、ヒゲ隊長」
アサザが小さく毒づく。聞こえたのだろう、斜め向かいに座っているブドウが肩を竦めた。
この近衛隊長をアサザはどうしても好きになれなかった。華美な装束、芝居がかった身ごなし、皇帝にへつらう態度。どれを取っても戦士として立派だとは到底思えない。これなら幼い頃に近衛隊長を務めていた男の方がまだ良かったと思う。真面目とは言いがたかったが、少なくとも腕は立つ男だったと記憶している。
最早名前も覚えていない先代のことを思い出しながら、アサザは見るともなしに後釜の隊長を見上げる。肩肘張って歩いてきた隊長は、黒檀の円卓まで来ても自分の席には向かわず、皇帝の椅子の傍で足を止めた。
訝しげな会場中の目が己に集まるのを待っていたかのように、隊長は自慢の口髭をくるりと撫でた。
「これより皇帝陛下がご入場なされる。皆の者、静粛に」
そう言って入ってきた扉に向き直った隊長は、滑稽なほど優雅なお辞儀をした。全員の起立を待って、再び扉が開かれる。苦虫を噛み潰したような気持ちで、アサザも立ち上がって扉へと目を向けた。
四角に切り取られた闇の中から、同じ色を纏った長身が現れた。冷たい一瞥を議場に集った戦士たちに投げ、黒檀の円卓に続く段へと足をかける。
いつに変わらぬ不遜な態度。ともかく、姿は見せた。
密かに安堵したアサザが再び息を詰めたのは次の瞬間だった。何と言うことはない小さな段差。それに足を取られ、アザミの体がふらつく。思わず上げかけた声は、中途半端に喉に引っかかって意味を為さなかった。
漆黒の皇帝の隣に、いつの間にか生成りの外套が寄り添っていた。実にさりげなく皇帝の体を支え、段差を下りる手助けをしている薬師の姿をした何者か。
何故、スギがここに。
「陛下、やつれたな……」
呆然と生成りの外套を凝視することしかできないアサザの耳が、同じく驚きの色を滲ませたブドウの呟きを拾う。改めてアザミの顔を見て、アサザはさらに衝撃を受けた。
やつれた、などというものではない。殺しても死にそうになかった皇帝は、今や瀕死の形相だった。土気色の肌、幾条も刻まれた深い皺、落ち窪んだ眼窩。まるでここ数日で数十も歳を取ったようだ。いつもと変わらず背筋だけは伸びているが、それすらも気を抜くと崩れてしまうのだろう。時折大きく揺れる肩がかえって痛々しい。水を打ったように静まった議場をゆっくり横切ってくる父帝とスギの歩みが、アサザにはひどく遅く感じられた。
皇帝の席はアサザの左隣にある。横に並んだ瞬間アザミに声を掛けようとしたが、外套から目だけを覗かせたスギに視線で制される。傍らで直立不動の近衛隊長など眼中にない、というより気に留める余裕もない様子でアザミが椅子に腰を下ろした。一礼した近衛隊長が自分の椅子に戻ったのを合図に、戦士たちも席に着く。立っているのはただ一人、皇帝の後ろに控えるスギだけだ。
椅子にかけたまま微動だにしない皇帝アザミ。普段の彼を知る者は畏れてその顔を直視することなどできない。外套で顔を隠し、俯いたままの薬師に自然と会場の目は集まった。潜めた囁き声がそこここで起こる。
「静粛に! 静粛に!!」
甲高い声を上げたのは近衛隊長だった。自分に注目が集まったことを確認するかのように一度議場を見回し、これ見よがしに咳払いをする。
「えー、本日皇帝陛下はお加減がよろしくない。僭越ながら議事進行は私めが執り行わせていただく。宜しいかな」
最後の一言は、あからさまにアサザに向けられていた。皇帝が進行の指示をできないのであれば、代行は本来皇太子の役目のはずだ。それをあえて近衛隊長が買って出たというのであれば、事前にアザミが命じていたからに他ならない。小さく鼻を鳴らして、アサザは背凭れに背を預けた。無言で勝手にしろと睨みをくれる。今はそんな瑣末事より考えねばならないことがたくさんあった。
横目で隣の皇帝を見やる。薄い瞼を伏せ、組んだ指をちらとも動かさない。眉間の皺がいつもより深く見えるのは気のせいだろうか。その横顔が末期のアオイの面影と重なって、アサザは小さく首を振った。
ともかく黒檀の円卓に座る資格を持つ面子が揃った。アサザから見て左回りにに皇帝アザミ、現在空席の将帥の椅子、副将帥ブドウ、空位役職の軍師席、そして近衛隊長。すぐ右隣で立ち上がった隊長はここぞとばかりに張り切った声を響かせる。
「皆も知っての通り、現在国王レンギョウがここ皇都に向けて進軍中である。中立地帯の皇民を甘言を弄して誑かし、日に日にその数を増やしているというが……まあこれは所詮烏合の衆、取るに足らぬ瑣末事だ」
それは違う、と飛び出しかけた言葉を飲み込む。中立地帯の民は恐らく相当に士気が高い。長年続いた食うや食わずの生活は確実に皇帝への敵意をも育てていた。水面下で根を張っていた不満がレンギョウという旗印を得て一挙に芽吹いた、そう考えるのが自然だろう。
しかしその単純な構図を、情報が制限された皇都で読み取れる者はそう多くはない。皇都の戦士にとって皇帝は未だに絶対的な権力の象徴だ。その皇帝に敵意を抱くなどという発想自体に、そもそも至らないのかもしれない。
「問題は国王だ。奴と取り巻きの貴族が使う魔法、これは我々戦士にとって脅威と言わざるを得ない」
会場中の同意の溜息を背景に、隊長はちらりとブドウを見た。
「そうですな、副将帥殿? 魔法の威力については、実際に目にされた貴女が一番良くご存知かと」
瞬間、ブドウの瞳に紅蓮の炎が翻った。卓の上に置かれた拳がきつく握り締められる。
「……その通りです、陛下。魔法を目の当たりにした者として、さしあたって一つお願いがございます」
隊長を無視して、ブドウはアザミに若葉色の目線を向ける。淡々とした口調の裏で、どれほどの激情を堪えているのだろう。褐色の指先は既に血の気を失っていた。
「私と、私の部下を迎撃の最前線に配置していただきたいのです。怖れるべきは魔法そのものの威力ではなく、あれが発動する瞬間に我々が抱く恐怖心です。私やアカネ殿下は国王ではなく、自分自身の心に負けました。皇帝軍の誰にも、二度とあのような思いをしてほしくはありません。我が隊ならば心構えが出来ている分、他の隊より良い働きができるかと」
重く、長い沈黙が訪れた。頭越しに発言された隊長も皇帝の発言を遮る非礼を怖れてかブドウに表立って抗議することはなく、ただ卓越しに恨みがましい目を向けるだけだ。
「副将帥位は」
「勿論お返しいたします。最前線に的を置くわけには参りません」
ようやく返って来た低く掠れた声にすかさずブドウが返答する。大儀そうに痩せた瞼を擡げて、アザミは一度だけブドウの顔を見た。
「……良かろう。どの道将帥を決めねばならぬのだからな。最早副将帥など要らぬ」
「ありがとうございます」
「会議の最中に移動されては目障りだ。その席にはこの場が終わるまで座っていても構わん」
言って、再び伏せられた瞳にブドウが一礼する。重責を下ろして安堵したのだろう、肩から目に見えて力が抜けていた。
「しかし陛下、将帥を置くにしても一体誰を」
当惑を滲ませて近衛隊長が問う。再び会場がざわめき始める。我こそはと名乗り出る者などいない。
戦士の家に生まれたからといって、ここにいる皆が剣に長けているわけではない。戦があった時代ならいざ知らず、初代皇帝即位以来まがりなりにも国王との共存が成立していた最近まで、戦士にとって皇帝軍での役職は地位や身分を測る物差し以上の何物でもなかった。勿論ブドウのような実戦派は幾人かいる。しかし軍の普段の任務が中立地帯の見回りとあっては華々しい活躍はとても期待できない。実際の兵役は腕に覚えのある皇民を雇って肩代わりさせ、自分はほとんど世襲となった役職の仕事だけをこなしていく。それが今の戦士の実際だった。
剣の稽古ですら馴れ合いなのだ。実戦の将帥など務まるわけがない。
前副将帥は老齢を理由に引退している。その息子は典型的な役職戦士だ。かつては武人として名を馳せたブドウの家柄も同様に役人化が進んでいる。むしろブドウが軍で出世した分だけ、自分たちに兵役のお鉢が回ることはないと楽観していた節さえあった。
出世の好機じゃないか、立候補しろよ。冗談はよせ、柄じゃない。じゃああいつはどうだ。剣と馬が得意だったろう。ダメだ、あそこじゃ家格が低すぎる。では誰それは。忘れたのか、あれは皇民出身だ。生粋の戦士ではない。
あちこちで湧き起こるのは押し付け合いと無責任な論評ばかり。肝心の皇帝が黙っているのをいいことに、声は際限なく高まっていく。
誰もいないのか? いるはずだろう、ここには皇都中の戦士が集まっている。誰か一人くらい……
潮が引くように喧騒が収まっていく。誰が最初に目を止めたのかなど分からない。だが気がつくと、会場中の目がすり鉢状の斜面から底の一点に注がれていた。
いるじゃないか。家格も剣の腕も申し分のない、将帥に相応しい人物が。
皇太子アサザ。
「——ならぬ」
ざわめきの収まった議場に、鋭い声が響く。戦士たちのみならず、アサザも思わず左隣に顔を向けた。常と変わらぬ力強さを秘めた、その声。
「それだけは、ならぬ」
全てを薙ぎ払う刃のような声音で、アザミがもう一度言う。やつれた顔に白みを増した眼光だけが研ぎ澄まされた意志を映してぎらついている。
再び議場は静まり返った。では、誰に? 誰もいないではないか。我らは戦士だろう。本当に誰も、いないのか。
「——やはり皇太子が妥当な線じゃろ。いい加減諦めい、皇帝よ」
高い天井に朗々と声が響いた。一斉に振り向いた視線の先には廊下側の扉。人一人がすり抜けられる程に開けられた隙間を背景に、雪のように白い髪の老人と巌のような体躯の男が立っている。その声と、纏ったくすんだ藍色に覚えがあった。”山の民”の村で会った二人、クルミとオダマキだった。
「あんたたち……」
何故ここに、と言いかけて口を噤む。そういえばカタバミが父と下山したと言っていた気がする。爺さと一緒だとも。しかしそれだけでは二人がこの場に現れた理由にはなっていない。突然姿を見せた”山の民”に、場内にも戸惑いの声が満ちる。
「貴様ら」
蒼白な面持ちでアザミが身を起こした。顔見知りかなどと問うまでもない。白髪の老人クルミを睨む敵意を帯びた視線が、両者の仲は最悪だと告げている。
「しかしおぬしも懲りぬ奴じゃ。業を一人で背負おうとするから、肝心なものが零れ落ちてゆく。何度同じことを繰り返すつもりかの?」
「黙れ」
アザミの掠れた声が耳を打つ。普段の強さが感じられないその威嚇をクルミは鼻で笑っていなした。
「折角良い報せを持ってきてやったというにつれないの。そこなおぬしの息子、なかなか見所があると褒めてやろうと思ったに」
「どういう意味だ」
突然槍玉に上がったことに戸惑いながら、アサザは問い返す。少し驚いたようにクルミはアサザに視線を移し、くつくつと笑った。その仕草がどこかカヤと似ていて、思わず不快感がこみ上げる。
「ほれ、しっかりと腰に差しておるではないか。破魔刀”茅”が見初めし戦士の末裔よ」
瞬間、視界に銀色が翻った。咄嗟に何が起こったのか理解して、アサザは息を呑んだ。
「カヤ、お前……!」
『ふふ、ようやく外に出られたわ。刀の中は狭いし、退屈でたまらぬ』
言葉の通り、いかにも解き放たれたといった様子のカヤがアサザの頭上でくるりと一回転する。その姿を目にした戦士たちは一瞬沈黙し、悲鳴にも似た叫びを上げた。
『ああ、やはり良いな、この感覚。このような大勢に注目されるなど久方振りだ』
突如現れたカヤの姿に、議場は完全な恐慌状態に陥っていた。意味を為さない声に混じって国王、という言葉がアサザの耳に飛び込んでくる。ブドウと共に前線に出た者なのだろうか。レンギョウと瓜二つのその顔を睨み上げることしかできない己の無力が何よりも腹立たしい。
「皇太子、貴様」
振り返ると、痛々しいほど顔を歪めたアザミがこちらを見ていた。掛ける言葉も返す言葉も見つからず、父子のわずか二歩の距離を痛いほどの沈黙が隔てる。
「おぬしは知っておったはずじゃな、皇帝よ。”茅”の存在をキキョウから聞いていたはずじゃ」
よく響く声が父子の間に割り込む。オダマキに肩を支えられ、クルミはゆっくりと歩き始めた。その視線の先には、彼らが潜った扉に最も近い軍師の椅子。まるでその老い枯れた姿を待っていたかのように、その席は誰にも占められることなく空のままだ。混乱の続く議場をゆったりと渡り、”山の民”の二人は一歩ずつ黒檀の円卓へ近づいてくる。
「当然、そこな化生の能力も知っておろう。この刀が国王と戦う上で欠かせぬ武器であるということも」
「黙れ」
アザミの声は最早威嚇というより虚勢だった。卓に拳を押し付け、震える腕で上半身をようやく支えているその姿。現実に目の当たりにしているアサザでさえ信じられないような衰弱ぶりだった。
「貴様らの手など借りぬ。王都の小僧も自警団の狼も、皇都の——余の力だけで刈り取ってくれる」
「ほう、立ち上がることすらままならぬ身でよく言うわ。開戦を控えて剣も振れぬ、しかもいつ病魔に憑き殺されるかわからぬ者が皇帝なぞ、笑い話にもならぬ」
「……っの、ジジイっ!!」
どこかで聞いた台詞にアサザの感情が一気に沸騰する。かつてアオイが皇太子を降ろされた際に、他ならぬアザミが吐いた言葉。それが熱を帯びた脳裏で重なった。なんという因果だろうか。あの時振り下ろした言葉の刃が、今ここに来てアザミ自身に振り下ろされる。
視界の隅ににやにや笑いながら見下ろすカヤの姿が映った。まるであらかじめ起こる事態を知っていて、成り行きを楽しんでいるようなその表情に、ふと引っかかりを覚える。今のクルミの発言、そしてアザミのかつての言葉。両者が似ているのは本当に偶然なのか?
「ほほ、おぬしらはやはり親子じゃな。儂を睨みおるその三白眼など、本当に良く似ておる」
老人は既に円卓に辿り着いていた。オダマキが丁寧な手つきで軍師の椅子を引く。実に自然な身のこなしで、クルミは初代戦士以来の空席をあっさりと埋めた。
「アサザ……これは一体、どういうことだ」
呆然と事態を眺めていたブドウが掠れた声で問う。言葉に詰まったアサザの代わりに、クルミが顎を上げてその若葉色の瞳を見返した。
「説明しようにも、周りがこう騒がしくては落ち着いてしゃべることもできんわ。予想外の出来事にこうも驚きおって。戦士の質も落ちたものよの」
クルミが背後のオダマキに目配せをする。小さく頷いて、彼は会場中を見渡した。
「静まれ」
決して張り上げた声ではない。しかし不思議と良く通るその声は、瞬時に混乱した議場の空気を塗り替えた。
恐る恐るながら黒檀の円卓に目を向ける者がいる。虚脱したように席に座る者がいる。気づけば騒ぎの残響だけを残して、議場は静まっていた。
「そう。それでよい」
満足げにクルミが笑う。
よいことなど一つもない、とアサザは思う。左隣からは父帝の浅く早い呼吸が聞こえてくる。右隣の近衛隊長はカヤが姿を現してからずっと硬直したままだ。害意はないらしい”山の民”たちにブドウも対処を迷っているのが分かる。カヤはというと、一通り場を乱して気が済んだのだろう。アサザの隣に舞い降りて、これ見よがしに肩にしなだれかかっている。わざわざ隊長の席との隙間を狙うあたりがカヤらしい。大仰に身を反らした隊長に流し目をくれるその顔を思い切り突き放してやりたいところだが、実体のないその体には触れることもできない。結果、募る苛立ちを押し殺して席に着いているしかなかった。
「ようやく本題に入れそうだの」
会場中の注目を集めてクルミが口を開く。無言で睨みつけるアサザ、それから傍らのカヤへと視線を流し、よく響く声で本題とやらを述べ始める。
「さて、まずは皆を驚かせたそこな化生の紹介からじゃな。あれの本体は皇太子の腰にある刀じゃ。初代戦士アカザと初代皇帝アサギが遣った黒刀、その銘を”茅”という」
紹介を受けたカヤがここぞとばかりに胸を張った。
『そう、我こそが戦士に勝利と皇帝位を齎した存在。破魔刀”茅”と、それに掛けられた術の要』
場が再びどよめきに包まれる。
「術というには魔法と関わりがあるということか。それに、その姿……」
戦士たちの戸惑いを代表するように、ブドウが問う。卓の対岸にいるその姿を、カヤが眇めた眼差しで見やった。
『無論。王が遣う魔法を、我は無効にすることができる。故に二つ名を破魔刀という』
この言葉への議場の反応は意外と淡白だった。魔法は実際に目にした者でないとその威力を想像することが難しい。逆に、見たことのある者はその絶大な力が無効化できる代物だとは到底信じられない。問いを発したブドウ自身、返ってきた答えに半信半疑の表情を浮かべている。
『信じられぬか。まあ良い。そのうち我の有難さを肌で知る日が来よう』
カヤが明らかに気分を害した様子で鼻を鳴らした。不機嫌な顔のまま、おもむろにクルミを振り返る。
『顔見世はもう良かろう? 我は帰らせてもらうぞ』
言うが早いかカヤの体は虚空に溶けるように消えていた。的を失った議場の視線が本体である”茅”——アサザに集中する。何故、いつの間にそんなものを。戦士たちが問う声が聞こえる気がして、思わずアサザは俯いた。知らず左手が”茅”の黒鞘を握り締める。
「俄かに信じられぬのは分かるが、あれは嘘は言わぬ。少々我侭ではあるがの」
苦笑を滲ませた声音でクルミが言う。
「先日国王軍と戦った者なら分かるであろう? 向こうに魔法がなければ戦力は互角。いや、兵力では皇帝軍の方が有利であった。現に途中までは主導権を握っていたではないか」
アサザは先日の戦の詳細を知らない。聞く気にもなれなかったというのが本音だが、ブドウの顔色を見ればクルミの指摘が的を射ているのが分かる。
——何故、知っている?
改めて円卓の末席に就いた老人を見やる。クルミはつい先日まで”山の民”の村の洞窟に籠もりきりだったはずだ。中立地帯の戦の帰趨、皇都で交わされた会話。それらの知りえるはずのない情報を知っている理由。それは最早、一つしか考えられなかった。
見ていたのだ。カヤが戦場を、皇都を。そしてその内容を、事細かにクルミに伝えている。
目眩にも似た怒りを覚えた。その対象がカヤなのかクルミなのか、それとも他の何かなのかは分からない。見ていながら、知っていながら、何もしない。時を待ち、自らに最も都合の良い時期にそれを利用する。その卑劣さが何より許せなかった。
「魔法さえ封じれば、勝機はこちらにある。そして今、破魔刀”茅”は我らの手にあるのだ。刀自ら選んだ遣い手である皇太子をみすみす皇都に留めることなど不可能」
一旦クルミは言葉を切った。白髪を貫く強い眼差しが正面からアザミを見据える。
「皇太子を戦場へ。それが運命じゃ」
「痴れ者がっ……!」
語気を強めたアザミが席を蹴ろうとした瞬間。上体を支えていたその腕が不自然に震えた。隣にいるアサザの耳が辛うじて拾える程度に押し殺された、微かな苦鳴。
「陛下……?」
顧みたアサザの目に、顔を伏せた父帝の姿が映る。卓に置いたままの片拳は固く握られ、もう一方の手は胸元を掴んでいる。切れ切れに洩れる乱れた呼吸が、鼓膜よりも鋭く胸を打った。
咄嗟に立ち上がりかける。皇帝の席まではわずかに二歩。しかしそのわずかな隙間に、生成りの外套が立ち塞がった。
「無理をなさってはいけません」
背中越しに聞こえる薬師を装った間諜の声。その白い背がこうも越え難い壁に見えるのは何故だろう。
「……薬を」
「しかし、今日はもう三度目になります」
「構わん。寄越せ」
小さく溜息を吐いて、スギは懐から小さな紙包みと水筒を取り出した。アザミがそれらを飲み下すのを見届けて、返された水筒を外套に仕舞う。
その時覗いた表情がアサザの目を奪った。わずかに窺える口許、それが場違いな笑みに撓っている。
「落ち着かれたかの」
スギに問いただすより先に、クルミの声が割り込んできた。その眼差しは背筋が震えるほど冷たい。
「さて、話の続きじゃ。皇太子と”茅”を戦場へ向かわせること。皇帝の結論は如何様か」
薬が効き始めたのか、アザミの呼吸は先程よりは苦しげではなくなっていた。それでもクルミを睨み返す目には苦痛が滲み、いつもの傲慢な強さは感じられない。しばし睨み合った後、目を逸らしたのはアザミの方だった。
「……好きにしろ」
投げ遣りに呟いた言葉だけが議場の底に落ちた。震える腕を杖にゆっくりと立ち上がり、席を離れる。
「破魔刀とやらの力で王都の小僧を倒せるというなら、やってみるが良い。それを引き入れたのは皇太子の勝手だ。余は知らぬ」
すかさずスギがアザミの傍らに立つ。まだ足元が覚束ないアザミの肩を巧みに支え、生成りの背中は議場の段差を上っていく。
閉ざされた扉の向こうに皇帝の姿が消えてからも、アサザは呆然とそこを眺めていた。結局、何もできなかった。声を掛けることも、肩を貸すことも、立ち上がることすらも。
——これでは、アカネの時と同じではないか。
「さて、皇太子アサザ殿下に伺いたいのじゃが」
クルミの声で我に返る。卓越しに見やった老人は、勝利を確信した笑みでこちらを見つめている。
「殿下は”茅”を携えて戦場に赴くことをどうお考えかの。よもや怖いなど言い出すことはないと思うが」
「馬鹿言うな、じいさん。それに今更殿下なんて呼ぶな。気色悪い」
わざと普段通りの軽口を叩く。改まった言葉を遣うと、ただでさえ重い現実が更に重苦しくなりそうだ。一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
目の前で起こる出来事を見ているだけというのはもう嫌だった。何もできない無力感を味わうくらいなら、いっそ何かを為して後悔する方が良い。
今、アサザの手には”茅”がある。カヤやクルミの言う能力が本当であれば、ブドウをはじめとする皇帝軍の兵たちの命を守る盾となれるかもしれない。
そしてもう一つ。
戦場には、レンギョウがいる。顔を合わせもせずに腹を探り合うから分からなくなるのだ。
今のレンギョウが本当に戦いを望んでいるのか。もし他に目的があるのならば、それは何なのか。知るためには、動かなければならない。
「いいぜ。なってやるよ、”茅”の遣い手とやらに」
たとえこの決断が誰かに誘導されたものだとしても、それを後悔することになるとは到底思えなかった。
友に会いに行く。別れ際に交わした、再会の約束を果たすために。
満足げな笑みを刷くクルミを、無言で見つめるオダマキを、心配げに見やるブドウを、ことの成り行きを見守っていた議場の戦士を、ぐるりと見渡す。自分にもできることを見つけたせいだろうか、不思議なほど気持ちは凪いでいた。
「もう話し合うべきことはないな。陛下も退場したことだし、俺も帰らせてもらうぜ。解散だ」
言い置いて入ってきた扉へと向かう。重い扉を開けると、廊下に溢れた午後の日差しが瞳を射た。
そう。もうすぐこの国にも、春が来る。
***************************************************************
<予告編>
すべてが霞で覆われた世界。
手を伸ばせど決して触れることのできない、
水鏡の向こう側の出来事。
レンギョウは見つめる。
かつて起こった哀しみを。
力あるゆえに無力な者の慟哭を。
——こんなに血塗れた罪人を、
惜しむ者などいるのだろうか。
永劫にも思われる嘆きの中、
転機は突然に訪れる。
『DOUBLE LORDS』転章9、
水面に儚き幸せの姿が映し出される時、
創国の物語が始まる。
レンギョウは目を開いた。周囲を見回しても何も見えない。自分の指先を確認することもできないほどに濃い霞が一面を覆っていた。白い闇の中、立ちつくす。何故自分は、こんなところにいるのだろうか。
再び、声が聞こえた。遠くから聞こえるそれはどうやら女の声のようだ。高く細い声がレン、と呼びながら近づいてくる。
ここだと答えかけて、レンギョウは声が出ないことに気がついた。慌てて喉を押さえる。痛みはない。けれど拭えない違和感だけは、確かにそこにあった。
ここは、どこだ。
改めて周囲を見渡す。相変わらずの濃霧は一向に晴れる気配もなく、視界いっぱいを埋めつくしている。見慣れた王宮の景色では無論なく、近頃ようやく慣れた中立地帯の草原の気配でもない。
呼びかけは続いている。その声に向かって腕を伸ばしてみた。指先に何かが触れる。探ってみると、平坦なそれは凹凸も切れ目もなく続いているようだった。見えない壁が、レンギョウと声の主を隔てている。
この壁を越える方法はないのか。
手を当てたまま、レンギョウはじっとその先を見つめる。一見すると、向こう側にもこちらと同じような景色が広がっているだけのようだ。
見えるのに、行けない世界。壁の向こうの世界に、何故か無性に興味が湧いた。
と、眼前の霧が揺れた。レンギョウの目の前だけが晴れ、水鏡のように己の顔が透明の壁に映し込まれる。
——いや、違う。
目の前に映った顔は、見慣れた己のそれとは微妙に異なっている。柔らかな頬の線、気弱げな瞳。折れそうな項に続く剥き出しの肩、そして——
目の前にいるのは年若い少女だった。レンギョウに瓜二つの青銀色の目線をおどおどと彷徨わせ、落ち着かなげに背後を振り返る。
「椿、こっち」
発した声は柔らかで、馴染みの薄い響きを宿していた。舌足らずにも聞こえる口調で呼びかけに応えながら、レンと呼ばれた少女は裸の胸元を腕で隠して立ち上がった。水浴びの途中だったのだろうか、滴が玉のように細い顎の線を伝い落ちる。
少女の髪はレンギョウと同じ銀の色だ。しかし艶やかに伸ばされたレンギョウのそれとは違い、少女はごく短く刈り込んでいる。軽く振るだけで水気が切れてしまうその髪型は、意外なほどすらりと伸びた手足と相まって少年と見間違えてしまいそうだ。
実際、少女が身に着けた衣は男物のようだった。真新しいが古風な合わせ襟の上着、裾の広い袴。体型を隠すかのようにゆったりとしたそれらを帯で纏めていると、上方から声が掛かった。あの呼びかけと同じ声だ。振り仰ぐと、長い髪を後ろで束ねた娘が岩陰からこちらを覗き込んでいる。やはり古風で質素な袷を着流しているが、その足元は裸足だった。少女と幾らも歳は違わないのだろう。この島国の娘に特有の艶やかな黒髪を後ろで束ね、同じ色の大きな瞳にくるくると表情を映し。その頬に今浮かんでいるのは、悪戯っぽい微笑みだった。
「こんなに奥にいたの。隠れるにしてもちょっと用心しすぎじゃない、蓮」
レン、という名に当てる字が自然に浮かんだのが自分でも不思議だった。そういえば声の主である娘の名も、少女が呼ぶと同時に椿という字だと認識していた。
これは確か、先祖がかつて住んでいたという大陸で使われていた文字だ。今は交流も絶えて久しい、初代国王——『魔王』の故郷。
「みつかると、兄様にしかられるから」
俯いた蓮の声は、やはり気弱げだった。小さく椿が息を吐く。
「そうね。楝様、そういうところ厳しいもんね」
楝、という字も自然と心に浮かんだ。レン。蓮とは微妙に抑揚の違う、同じ音を持つ名。
水鏡の向こうで交わされる少女たちの会話はとりとめもなく続く。そこにレンギョウがいることを、全く意に介していないかのように。
気づいていないのか。否、見えていないのだろうか。
少女たちにとっては、レンギョウの方が水鏡の中の存在なのだ。見えない壁は水面の境界。決して越えることのできない次元の境目。これは、いつか見た夢と同じ種類のものなのではないだろうか。
レンギョウは目前に映る蓮の姿をじっと見つめた。親征開始の朝に見た夢よりも、今回は数段はっきりとしている。目にした光景、耳にした情報。それらから思い当たったのは一つの可能性だった。
『魔王』レン。王家と貴族の始祖であり、絶大な魔力を謳われる創国の英雄。
今目にしているのは遠い過去に起こった出来事なのではないか。古風な衣装も、レンギョウと似た面差しも、蓮が『魔王』の縁者であるならば説明できる。もしそうだとすると、『魔王』本人は——
「おい、いつまでだべっているつもりだ」
耳に障る甲高い声が降ってきた。はっと振り向いた視界に、一人の男が映った。長い指先が神経質に岩肌を叩いているのが見て取れる。河原に飛び降りる機敏な動作はまだ若い。逆光になっているため顔かたちはよく分からなかったが、砂利を忌々しげに踏みしめて近づいてくる衣装は蓮のものと寸分変わらなかった。違いは唯一、頭全体に巻かれた白い布だけだ。
「兄様」
「楝様」
ほとんど条件反射のように、少女たちはその場に跪き顔を伏せた。その様を眇めた眼差しで見やりながら、男は仁王立ちで足を止める。その面差しと何度も目にした肖像画の老人の面影がぴたりと重なった。恐らくこの男こそが、『魔王』レンと呼ばれる人物。
「椿」
「はい」
「俺は誰だ」
「——『魔王』、楝様です」
やはり。息を詰めて見守るレンギョウの視線の先で、くっと楝は喉の奥で笑った。
「そうだ。俺が『魔王』だ。だったら、言いつけを守らない奴が酷い目に遭うことくらい分かってるんだろ?」
椿が身を硬くしたのが分かった。その細い肩を、腕組みしたままの楝が爪先で小突く。
「俺は早く蓮を連れて来いって言ったよな? あの忌々しい戦士の軍勢が近づいて来てんだよ。今ここにろくな手勢がいないの知ってるだろ? とっとと引き払わなきゃやばいんだよ」
「……申し訳ありません」
「聞こえねえよ。奴隷のくせに、少し目を掛けてやっただけで付け上がりやがって」
嬲るように、爪先は椿の肩を突き続けている。その力は声の高まりと共に強く、執拗になっていく。
「それともお前『戦士』の間者か。そうか、それは知らなかったなあ。んじゃあ、見せしめが必要だな。他の奴らに示しがつかんもんなあ」
言葉と同時に椿の肩が強く蹴られた。予期していたのだろう、息を飲み込んだ気配がしただけで悲鳴は聞こえなかった。
「兄様、やめてください」
地に倒れた椿の背に蓮が覆いかぶさる。なおも踏みつけようとした足を止めて、楝は冷ややかに妹を見やる。見上げたその瞳の色はレンギョウや蓮とは微妙に違う、激しさを宿した深い青だった。
「蓮」
「……はい」
白い肌、整った容貌、男にしては細い線の体つき。鋭すぎる目元以外はよく似た兄妹だった。同じ格好をすれば遠目には見分けがつかないだろう。その唯一の相違点に、青い眼差しが容赦なく突き刺さる。
「頭巾はどうした」
はっと蓮が頭に手を伸ばす。その顔が青ざめていくのが水面の中でも分かった。
「ごめんなさい、すぐにかぶります」
「当たり前だろ。お前さあ」
楝が屈み込む。蓮の顔を覗き込む瓜二つの顔の額に、頭巾から零れた髪が一筋だけ落ちている。その色は眩いばかりの金色だった。
「俺の身代わりだっていう自覚をもっと持てよ。髪の色見られたらバレちまうだろ? 『魔王』は二人いる、ってな」
レンギョウは息を飲んだ。今、楝は何と言った。
全身で聞き耳を立てるレンギョウにはまったく気づく様子もなく、俯いた蓮の頬に楝の指が触れた。低い笑い声が水面を揺らす。
「そんなに怯えるなよ。お前は殴らねえよ。いざという時『魔王』がフラフラだったら困るだろうが。お前は俺の代わりに魔法を遣う、大事な戦力なんだから」
いざという時。それを思ってだろう、蓮はきつく目を瞑る。その耳元で、いっそ優しささえ滲ませた声音で楝が囁いた。
「分かってるんだろう? お前のその力のせいで、俺まで故郷を追われたんだからな。可哀想な俺の為に、そもそもの原因になったお前が働くのは当然のことだろう。違うか?」
「いいえ、まちがってません」
蓮の声が震える。ふん、と鼻を鳴らして楝は立ち上がった。
「お前、いつまで経っても大陸の訛りが抜けないな。本当、聞いていると腹が立つ」
言い捨てて、楝は二人の少女に背を向けた。
「準備が出来次第出発する。グズグズするな」
ひらりと岩陰を飛び越えて、あっという間に楝の姿は見えなくなった。取り残された蓮と椿が顔を見合わせる。
「だいじょうぶ、椿?」
「うん、いつものことだから」
差し出した蓮の手を借りて、椿が身を起こす。軽く衣の埃を払っただけで立ち上がるその仕草はいたって普通で、彼女にとってこの程度の折檻は毎度のことなのだと見て取れた。
「……ごめんなさい。いつも、いつも」
「蓮が謝ることじゃないよ。それに楝様はあたしのご主人様だから。好きにされるのは仕方ない」
完全に下を向いてしまった蓮に、椿はあくまで明るい。
「そんなに暗い顔しないでよ。ほら、楝様も怪我するほど殴るわけじゃないし、蓮はこうやって良くしてくれる。あたしは奴隷にしては運がいいんだよ?」
「……ごめんなさい。わたしにもっと力があれば」
「何言ってるの。蓮がそれ以上強くなったら大変だよ」
椿の白い手が銀色の頭に載せられた。
「何せこの世で唯一、魔法を使える『魔王』様だからね。楝様だって、蓮のことは大事にしてるじゃない」
唯一の魔法の使い手。黙ってうなだれる蓮を、食い入るようにレンギョウは見つめる。その記憶が自然と頭に浮かぶのはどうしてだろう。時の霞の中、レンギョウと蓮の境界が薄まっていく。
兄が自分を殴らないのは、魔法で逆襲されることを内心恐れているからだ。楝は魔法を使えない。にも関わらず、双子として蓮と同時に生を享けた事実によって同じように疎まれ、弾かれてきた。
初めて魔法を使ったのはいつだろう。思い出そうとしなければ分からないほど、蓮にとって力の発現は自然なことだった。
幼い頃、風車を与えられた。息を吹きかければ回る玩具は面白かった。もっと回ればいいのに。そう思ったら、小さな風が起きた。くるくる回る羽の軌跡が綺麗で、思わず声を上げて笑った。
——それが、はじまり。
同じ玩具を与えられた楝だけが、蓮の力を知っていた。どれだけ強く念じても、楝には風は起こせない。むくれて風車を吹くその顔がおかしかったのを、今でも覚えている。
状況が一変したのは両親にこの力を知られた時だった。普段はまめな母親が珍しく火種を切らしてしまった。火熾しに苦労するその様子を見ていた蓮は、手助けをしようと小さな火を喚んだ。掌の灯を差し出す我が子を母は忌み子と罵り、家から放り出した。いくら扉を叩けど母は出てこない。やがて帰ってきた父の手によって、楝も家を追い出された。
双子は普通の兄弟よりも強い絆を持つという。片割れが忌み子であれば、残された方もそうであるに違いない。
迷信に彩られた小さな田舎の村に、幼い兄妹の居場所はなかった。
生きていくためには手段を選んではいられない。一時期身を置いた見世物小屋でも、人々は蓮の力を目の当たりにすると恐怖で表情を凍りつかせた。各地を転々としながら食うや食わずで流れ着いた傭兵隊でさえ、戦力としてその力を重宝されながらも普段は敬遠された。
荒んだ日々の中で、楝の心が歪んだのも無理はないと蓮は思う。戦いの時、蓮は彼方の敵を指すだけで雷を落とせる。しかし楝はそうはいかない。いくら魔法が蓮だけの力であると説明したところで、楝もいつか同じような得体の知れない力に目覚めるのではないかと、常に疑惑の眼差しを向けられる。ごく普通の人間でありながら、異端者として爪弾きにされる現実。楝は勿論のこと、迫害の原因であるという自覚のある蓮にとっても、心からの安息を覚える場所などどこにもなかった。
大陸の人々に見切りをつけ、遠く海の向こうにあるという島を目指したのはいつのことからだろう。
傭兵隊が海辺の村を襲撃した時、混乱に紛れて兄妹は小さな漁船を奪った。蓮の操る風を受け、船は故郷の大陸を離れる。未練など、なかった。
航海の間、楝がずっと呟き続けていた言葉がある。
俺は何だ。俺は誰だ。
幾度も繰り返される切羽詰った問いに、しかし蓮は答えることができなかった。楝は蓮の答えを欲しているようには到底見えなかったし、仮に問われたとしても楝を満足させる答えなど返せなかっただろうと思う。
水平線の彼方に島影を見たのは、漁船に積まれていた物資をほぼ使い果たした頃だった。追い風に帆を立てて進む船の上で、新天地を見つめながら楝が言った。
「今から俺は『魔王』だ」
双子である上に共に傭兵隊で鍛えた二人の背格好はよく似ていた。互いにまだ男女の特徴が薄い身体であったことも幸いしたのだろう、同じ色の衣を着て髪の色さえ隠せば初対面の相手にはまず見分けがつかない。
それを利用して、楝は上陸早々襲ってきた盗賊を返り討ちにした。二人で乱戦の中に飛び込み、折を見て蓮が魔法を使う。立ち位置は頻繁に、しかも巧みに変えるから、敵はどちらが魔法を撃つのか判断できない。海を越えても、異能はやはり異能だった。蓮の手の中、何もないところから光が生まれ炎になった時、盗賊たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。彼らから奪った物資を前にして、楝が高らかに笑う。
我は天命を受けし者。選ばれし者が揮える力を以って、この島を統べる為に生まれた者。我こそは『魔王』なり。
この島も、大陸と同じように戦乱に覆われていた。何故戦うのか。そんな問いは誰も抱かない。襲われる。迎え撃つ。撃退する。消耗する。使った物資を補充するため、今度は自分から獲物を探す。その繰り返し。良いも悪いもない。生きることが即ち、戦うこと。そして蓮の魔法は生きるための力になる。
いつしか、周囲には蓮の力の庇護を求める者が集うようになっていた。魔法は強さ。楝が唱える『魔王』の名は、驚くほどの速度で島中に広がっていった。
配下が増えるに従って、楝の猜疑心はいよいよ強くなる。もう蓮に同じ格好を命じるだけでは足りなかった。髪を隠し、素顔を隠し、己は魔法が使えないという事実さえも隠し。楝が蓮の存在そのものを隠すようになるまで時間はかからなかった。割合初期に敵から奪い取った獲物の一部だった椿だけを世話役として残し、それ以外の者には蓮との接触すら許さず。
蓮が外部の者の目に晒されるのは戦の時だけだった。楝の衣を纏い彼方に敵を認める時にのみ、蓮は『魔王』を名乗ることを許される。
それでいいと思っていた。既に幾多の生命をこの手で奪っている。良心の呵責などとうに忘れた。楝が、たった一人の家族が満足してくれるなら、それでいい。
——本当に?
心の奥底から、押し込めていた疑問が浮かび上がる。蓮とは響きの違う、少し硬質な音を宿した少年の声。
おぬしはそれでいいのか。望まぬ力を持って生まれたのはおぬしの方ではないのか。
内なる声に、蓮は首を振って答える。
忌まれる力を持って生まれた上に、こんなにも血に塗れた己を惜しむ者などいようか。皆が惜しむのは魔力の喪失であって、蓮本人の葬失ではない。
そう。価値があるのは魔力なのだ。それを持たぬ蓮など、誰も欲しはしない。
自嘲の笑みを薄く刷く。
もしこの身が敵の手に落ちたとしたら、兄様はわたしを心配してくれるだろうか。
「——蓮?」
かけられた声に、ふいに我に返る。目の前には心配そうに覗き込む椿の顔があった。
「どうしたの? いきなり黙り込んじゃって」
「ううん、なんでもない」
首を振って、蓮は内心の問いを振り払った。楝が呼んでいる。早く行かなければ、また椿が殴られる。
河原を離れようとした蓮の視界に、短く刈り込んだ髪の先が掠めた。そうだ、この銀の髪を隠さなければ人前には出られない。慌てて頭巾を探す。確か着替えと一緒に置いておいたはず。
見回してすぐに、近くの岩場に引っかかっている布切れを見つけた。どうやら水浴びの最中に風で飛ばされてしまっていたらしい。
「ごめん椿。あれ、とってこなきゃ」
既に岩陰の向こうへ回りかけていた椿が振り返る。蓮が指した方を見て、頷いてみせる。
「分かった。楝様にはすぐに来るって伝えておくから」
「うん、おねがい」
砂利を踏む音が遠ざかる。蓮も足場の悪い岩を慎重に渡りながら、目当ての岩場へと向かっていく。頭巾が引っかかっていたのは、大きな岩の突端だった。頼りなげにぱたぱたと揺れる布は、今にもどこかへ飛ばされてしまいそうだ。少しだけ焦りを覚える。あれを失くすと、椿に迷惑がかかる。
岩によじ登る。蓮の身体より数十倍も大きな岩だ。幸い平べったい形だったので、一度登ってしまうと移動は楽だった。縁に近づいたところで膝をつき、布へと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、気まぐれな風が吹き抜けた。魔法では風を起こすことはできても止めることはできない。なすすべなく、舞い上がった布を見送る。
ひらりと日の光を受けて、布は地上へと落ちていく。岩の陰になっていた景色には、思いの外近くに草色の波がそよいでいる。
蓮は思わず息を止めた。緑の波と灰色の岩場の間に黒い影が一つ、立っている。目の前に舞う布を、影が手を伸ばして捕まえた。ぐるりと見回して、岩の上にいる蓮に目を止める。
「これ、お前のか?」
よく通る声が、心に響いた。漆黒の兜が無造作に外される。額に汗で張り付いた短い黒髪が、吹き抜ける風に乱れる。
漆黒の鎧、兜、籠手、そして長刀。傍らには額に一点だけ白が混じった黒い馬。
「アカザ……」
この島の言葉は蓮にとって発音が難しい。楝が何度も口にし、そして蓮自身も何度も戦場で見えている男の名を、故郷で当てる字と共に思い浮かべる。
——『戦士』藜。
敵の首領は今、一人のようだった。何故単騎でこんなところに。あまりにも無防備なその姿に、疑問より先に呆れが浮かぶ。
今、蓮が指を指すだけでこの男は死ぬ。楝は戦わずして『戦士』に勝ち、この国を統一するだろう。
ここが戦場なら、蓮は躊躇わなかった。或いは藜の瞳に、憎悪や怯えがあったなら。けれど今、見上げてくる黒髪の男には敵意は欠片も感じられなかった。まさか目の前にいるのが『魔王』本人だとは考えてもいないのだろう。洗濯物でも飛ばしたのだろうと一人得心した様子で、からかいが混じった人のいい笑みを浮かべている。
「おい、聞こえてるのか? これ、お前のだろ」
蓮は腕を上げた。雷を呼ぶ指の先、照準を漆黒の『戦士』に向けて。今までに幾度繰り返したか知れない、その動作。位置を確かめるため、視線を上げる。目に映ったのは訝しげにこちらを見やる男の姿。今まさに蓮が彼を殺そうとしているなど思ってもいない、その瞳。
もし、この身が敵の手に落ちたとしたら。あの頭巾を掴む指に、囚われたとしたら。
先程浮かんだ問いが、格段に現実味を帯びた。
指先が震えた。一度握り込み、開いた手を再びかざす。今度は掌が青い空へと向いていた。
「そう、わたしのだ。——とってくれて、ありがとう」
少し震えた柔らかな少女の声が、草原を渡る風に重なった。
<予告編>
時の霞に秘められた、
もうひとつの出逢いの物語。
創国の時代の『魔王』と『戦士』。
二つの名が織り成す絵図は、
逃れえぬ宿命となって少女の魂を縛める。
「わたしは——蓮」
『DOUBLE LORDS』転章10、
自分の名を、初めて名乗った気がした。
再び、声が聞こえた。遠くから聞こえるそれはどうやら女の声のようだ。高く細い声がレン、と呼びながら近づいてくる。
ここだと答えかけて、レンギョウは声が出ないことに気がついた。慌てて喉を押さえる。痛みはない。けれど拭えない違和感だけは、確かにそこにあった。
ここは、どこだ。
改めて周囲を見渡す。相変わらずの濃霧は一向に晴れる気配もなく、視界いっぱいを埋めつくしている。見慣れた王宮の景色では無論なく、近頃ようやく慣れた中立地帯の草原の気配でもない。
呼びかけは続いている。その声に向かって腕を伸ばしてみた。指先に何かが触れる。探ってみると、平坦なそれは凹凸も切れ目もなく続いているようだった。見えない壁が、レンギョウと声の主を隔てている。
この壁を越える方法はないのか。
手を当てたまま、レンギョウはじっとその先を見つめる。一見すると、向こう側にもこちらと同じような景色が広がっているだけのようだ。
見えるのに、行けない世界。壁の向こうの世界に、何故か無性に興味が湧いた。
と、眼前の霧が揺れた。レンギョウの目の前だけが晴れ、水鏡のように己の顔が透明の壁に映し込まれる。
——いや、違う。
目の前に映った顔は、見慣れた己のそれとは微妙に異なっている。柔らかな頬の線、気弱げな瞳。折れそうな項に続く剥き出しの肩、そして——
目の前にいるのは年若い少女だった。レンギョウに瓜二つの青銀色の目線をおどおどと彷徨わせ、落ち着かなげに背後を振り返る。
「椿、こっち」
発した声は柔らかで、馴染みの薄い響きを宿していた。舌足らずにも聞こえる口調で呼びかけに応えながら、レンと呼ばれた少女は裸の胸元を腕で隠して立ち上がった。水浴びの途中だったのだろうか、滴が玉のように細い顎の線を伝い落ちる。
少女の髪はレンギョウと同じ銀の色だ。しかし艶やかに伸ばされたレンギョウのそれとは違い、少女はごく短く刈り込んでいる。軽く振るだけで水気が切れてしまうその髪型は、意外なほどすらりと伸びた手足と相まって少年と見間違えてしまいそうだ。
実際、少女が身に着けた衣は男物のようだった。真新しいが古風な合わせ襟の上着、裾の広い袴。体型を隠すかのようにゆったりとしたそれらを帯で纏めていると、上方から声が掛かった。あの呼びかけと同じ声だ。振り仰ぐと、長い髪を後ろで束ねた娘が岩陰からこちらを覗き込んでいる。やはり古風で質素な袷を着流しているが、その足元は裸足だった。少女と幾らも歳は違わないのだろう。この島国の娘に特有の艶やかな黒髪を後ろで束ね、同じ色の大きな瞳にくるくると表情を映し。その頬に今浮かんでいるのは、悪戯っぽい微笑みだった。
「こんなに奥にいたの。隠れるにしてもちょっと用心しすぎじゃない、蓮」
レン、という名に当てる字が自然に浮かんだのが自分でも不思議だった。そういえば声の主である娘の名も、少女が呼ぶと同時に椿という字だと認識していた。
これは確か、先祖がかつて住んでいたという大陸で使われていた文字だ。今は交流も絶えて久しい、初代国王——『魔王』の故郷。
「みつかると、兄様にしかられるから」
俯いた蓮の声は、やはり気弱げだった。小さく椿が息を吐く。
「そうね。楝様、そういうところ厳しいもんね」
楝、という字も自然と心に浮かんだ。レン。蓮とは微妙に抑揚の違う、同じ音を持つ名。
水鏡の向こうで交わされる少女たちの会話はとりとめもなく続く。そこにレンギョウがいることを、全く意に介していないかのように。
気づいていないのか。否、見えていないのだろうか。
少女たちにとっては、レンギョウの方が水鏡の中の存在なのだ。見えない壁は水面の境界。決して越えることのできない次元の境目。これは、いつか見た夢と同じ種類のものなのではないだろうか。
レンギョウは目前に映る蓮の姿をじっと見つめた。親征開始の朝に見た夢よりも、今回は数段はっきりとしている。目にした光景、耳にした情報。それらから思い当たったのは一つの可能性だった。
『魔王』レン。王家と貴族の始祖であり、絶大な魔力を謳われる創国の英雄。
今目にしているのは遠い過去に起こった出来事なのではないか。古風な衣装も、レンギョウと似た面差しも、蓮が『魔王』の縁者であるならば説明できる。もしそうだとすると、『魔王』本人は——
「おい、いつまでだべっているつもりだ」
耳に障る甲高い声が降ってきた。はっと振り向いた視界に、一人の男が映った。長い指先が神経質に岩肌を叩いているのが見て取れる。河原に飛び降りる機敏な動作はまだ若い。逆光になっているため顔かたちはよく分からなかったが、砂利を忌々しげに踏みしめて近づいてくる衣装は蓮のものと寸分変わらなかった。違いは唯一、頭全体に巻かれた白い布だけだ。
「兄様」
「楝様」
ほとんど条件反射のように、少女たちはその場に跪き顔を伏せた。その様を眇めた眼差しで見やりながら、男は仁王立ちで足を止める。その面差しと何度も目にした肖像画の老人の面影がぴたりと重なった。恐らくこの男こそが、『魔王』レンと呼ばれる人物。
「椿」
「はい」
「俺は誰だ」
「——『魔王』、楝様です」
やはり。息を詰めて見守るレンギョウの視線の先で、くっと楝は喉の奥で笑った。
「そうだ。俺が『魔王』だ。だったら、言いつけを守らない奴が酷い目に遭うことくらい分かってるんだろ?」
椿が身を硬くしたのが分かった。その細い肩を、腕組みしたままの楝が爪先で小突く。
「俺は早く蓮を連れて来いって言ったよな? あの忌々しい戦士の軍勢が近づいて来てんだよ。今ここにろくな手勢がいないの知ってるだろ? とっとと引き払わなきゃやばいんだよ」
「……申し訳ありません」
「聞こえねえよ。奴隷のくせに、少し目を掛けてやっただけで付け上がりやがって」
嬲るように、爪先は椿の肩を突き続けている。その力は声の高まりと共に強く、執拗になっていく。
「それともお前『戦士』の間者か。そうか、それは知らなかったなあ。んじゃあ、見せしめが必要だな。他の奴らに示しがつかんもんなあ」
言葉と同時に椿の肩が強く蹴られた。予期していたのだろう、息を飲み込んだ気配がしただけで悲鳴は聞こえなかった。
「兄様、やめてください」
地に倒れた椿の背に蓮が覆いかぶさる。なおも踏みつけようとした足を止めて、楝は冷ややかに妹を見やる。見上げたその瞳の色はレンギョウや蓮とは微妙に違う、激しさを宿した深い青だった。
「蓮」
「……はい」
白い肌、整った容貌、男にしては細い線の体つき。鋭すぎる目元以外はよく似た兄妹だった。同じ格好をすれば遠目には見分けがつかないだろう。その唯一の相違点に、青い眼差しが容赦なく突き刺さる。
「頭巾はどうした」
はっと蓮が頭に手を伸ばす。その顔が青ざめていくのが水面の中でも分かった。
「ごめんなさい、すぐにかぶります」
「当たり前だろ。お前さあ」
楝が屈み込む。蓮の顔を覗き込む瓜二つの顔の額に、頭巾から零れた髪が一筋だけ落ちている。その色は眩いばかりの金色だった。
「俺の身代わりだっていう自覚をもっと持てよ。髪の色見られたらバレちまうだろ? 『魔王』は二人いる、ってな」
レンギョウは息を飲んだ。今、楝は何と言った。
全身で聞き耳を立てるレンギョウにはまったく気づく様子もなく、俯いた蓮の頬に楝の指が触れた。低い笑い声が水面を揺らす。
「そんなに怯えるなよ。お前は殴らねえよ。いざという時『魔王』がフラフラだったら困るだろうが。お前は俺の代わりに魔法を遣う、大事な戦力なんだから」
いざという時。それを思ってだろう、蓮はきつく目を瞑る。その耳元で、いっそ優しささえ滲ませた声音で楝が囁いた。
「分かってるんだろう? お前のその力のせいで、俺まで故郷を追われたんだからな。可哀想な俺の為に、そもそもの原因になったお前が働くのは当然のことだろう。違うか?」
「いいえ、まちがってません」
蓮の声が震える。ふん、と鼻を鳴らして楝は立ち上がった。
「お前、いつまで経っても大陸の訛りが抜けないな。本当、聞いていると腹が立つ」
言い捨てて、楝は二人の少女に背を向けた。
「準備が出来次第出発する。グズグズするな」
ひらりと岩陰を飛び越えて、あっという間に楝の姿は見えなくなった。取り残された蓮と椿が顔を見合わせる。
「だいじょうぶ、椿?」
「うん、いつものことだから」
差し出した蓮の手を借りて、椿が身を起こす。軽く衣の埃を払っただけで立ち上がるその仕草はいたって普通で、彼女にとってこの程度の折檻は毎度のことなのだと見て取れた。
「……ごめんなさい。いつも、いつも」
「蓮が謝ることじゃないよ。それに楝様はあたしのご主人様だから。好きにされるのは仕方ない」
完全に下を向いてしまった蓮に、椿はあくまで明るい。
「そんなに暗い顔しないでよ。ほら、楝様も怪我するほど殴るわけじゃないし、蓮はこうやって良くしてくれる。あたしは奴隷にしては運がいいんだよ?」
「……ごめんなさい。わたしにもっと力があれば」
「何言ってるの。蓮がそれ以上強くなったら大変だよ」
椿の白い手が銀色の頭に載せられた。
「何せこの世で唯一、魔法を使える『魔王』様だからね。楝様だって、蓮のことは大事にしてるじゃない」
唯一の魔法の使い手。黙ってうなだれる蓮を、食い入るようにレンギョウは見つめる。その記憶が自然と頭に浮かぶのはどうしてだろう。時の霞の中、レンギョウと蓮の境界が薄まっていく。
兄が自分を殴らないのは、魔法で逆襲されることを内心恐れているからだ。楝は魔法を使えない。にも関わらず、双子として蓮と同時に生を享けた事実によって同じように疎まれ、弾かれてきた。
初めて魔法を使ったのはいつだろう。思い出そうとしなければ分からないほど、蓮にとって力の発現は自然なことだった。
幼い頃、風車を与えられた。息を吹きかければ回る玩具は面白かった。もっと回ればいいのに。そう思ったら、小さな風が起きた。くるくる回る羽の軌跡が綺麗で、思わず声を上げて笑った。
——それが、はじまり。
同じ玩具を与えられた楝だけが、蓮の力を知っていた。どれだけ強く念じても、楝には風は起こせない。むくれて風車を吹くその顔がおかしかったのを、今でも覚えている。
状況が一変したのは両親にこの力を知られた時だった。普段はまめな母親が珍しく火種を切らしてしまった。火熾しに苦労するその様子を見ていた蓮は、手助けをしようと小さな火を喚んだ。掌の灯を差し出す我が子を母は忌み子と罵り、家から放り出した。いくら扉を叩けど母は出てこない。やがて帰ってきた父の手によって、楝も家を追い出された。
双子は普通の兄弟よりも強い絆を持つという。片割れが忌み子であれば、残された方もそうであるに違いない。
迷信に彩られた小さな田舎の村に、幼い兄妹の居場所はなかった。
生きていくためには手段を選んではいられない。一時期身を置いた見世物小屋でも、人々は蓮の力を目の当たりにすると恐怖で表情を凍りつかせた。各地を転々としながら食うや食わずで流れ着いた傭兵隊でさえ、戦力としてその力を重宝されながらも普段は敬遠された。
荒んだ日々の中で、楝の心が歪んだのも無理はないと蓮は思う。戦いの時、蓮は彼方の敵を指すだけで雷を落とせる。しかし楝はそうはいかない。いくら魔法が蓮だけの力であると説明したところで、楝もいつか同じような得体の知れない力に目覚めるのではないかと、常に疑惑の眼差しを向けられる。ごく普通の人間でありながら、異端者として爪弾きにされる現実。楝は勿論のこと、迫害の原因であるという自覚のある蓮にとっても、心からの安息を覚える場所などどこにもなかった。
大陸の人々に見切りをつけ、遠く海の向こうにあるという島を目指したのはいつのことからだろう。
傭兵隊が海辺の村を襲撃した時、混乱に紛れて兄妹は小さな漁船を奪った。蓮の操る風を受け、船は故郷の大陸を離れる。未練など、なかった。
航海の間、楝がずっと呟き続けていた言葉がある。
俺は何だ。俺は誰だ。
幾度も繰り返される切羽詰った問いに、しかし蓮は答えることができなかった。楝は蓮の答えを欲しているようには到底見えなかったし、仮に問われたとしても楝を満足させる答えなど返せなかっただろうと思う。
水平線の彼方に島影を見たのは、漁船に積まれていた物資をほぼ使い果たした頃だった。追い風に帆を立てて進む船の上で、新天地を見つめながら楝が言った。
「今から俺は『魔王』だ」
双子である上に共に傭兵隊で鍛えた二人の背格好はよく似ていた。互いにまだ男女の特徴が薄い身体であったことも幸いしたのだろう、同じ色の衣を着て髪の色さえ隠せば初対面の相手にはまず見分けがつかない。
それを利用して、楝は上陸早々襲ってきた盗賊を返り討ちにした。二人で乱戦の中に飛び込み、折を見て蓮が魔法を使う。立ち位置は頻繁に、しかも巧みに変えるから、敵はどちらが魔法を撃つのか判断できない。海を越えても、異能はやはり異能だった。蓮の手の中、何もないところから光が生まれ炎になった時、盗賊たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。彼らから奪った物資を前にして、楝が高らかに笑う。
我は天命を受けし者。選ばれし者が揮える力を以って、この島を統べる為に生まれた者。我こそは『魔王』なり。
この島も、大陸と同じように戦乱に覆われていた。何故戦うのか。そんな問いは誰も抱かない。襲われる。迎え撃つ。撃退する。消耗する。使った物資を補充するため、今度は自分から獲物を探す。その繰り返し。良いも悪いもない。生きることが即ち、戦うこと。そして蓮の魔法は生きるための力になる。
いつしか、周囲には蓮の力の庇護を求める者が集うようになっていた。魔法は強さ。楝が唱える『魔王』の名は、驚くほどの速度で島中に広がっていった。
配下が増えるに従って、楝の猜疑心はいよいよ強くなる。もう蓮に同じ格好を命じるだけでは足りなかった。髪を隠し、素顔を隠し、己は魔法が使えないという事実さえも隠し。楝が蓮の存在そのものを隠すようになるまで時間はかからなかった。割合初期に敵から奪い取った獲物の一部だった椿だけを世話役として残し、それ以外の者には蓮との接触すら許さず。
蓮が外部の者の目に晒されるのは戦の時だけだった。楝の衣を纏い彼方に敵を認める時にのみ、蓮は『魔王』を名乗ることを許される。
それでいいと思っていた。既に幾多の生命をこの手で奪っている。良心の呵責などとうに忘れた。楝が、たった一人の家族が満足してくれるなら、それでいい。
——本当に?
心の奥底から、押し込めていた疑問が浮かび上がる。蓮とは響きの違う、少し硬質な音を宿した少年の声。
おぬしはそれでいいのか。望まぬ力を持って生まれたのはおぬしの方ではないのか。
内なる声に、蓮は首を振って答える。
忌まれる力を持って生まれた上に、こんなにも血に塗れた己を惜しむ者などいようか。皆が惜しむのは魔力の喪失であって、蓮本人の葬失ではない。
そう。価値があるのは魔力なのだ。それを持たぬ蓮など、誰も欲しはしない。
自嘲の笑みを薄く刷く。
もしこの身が敵の手に落ちたとしたら、兄様はわたしを心配してくれるだろうか。
「——蓮?」
かけられた声に、ふいに我に返る。目の前には心配そうに覗き込む椿の顔があった。
「どうしたの? いきなり黙り込んじゃって」
「ううん、なんでもない」
首を振って、蓮は内心の問いを振り払った。楝が呼んでいる。早く行かなければ、また椿が殴られる。
河原を離れようとした蓮の視界に、短く刈り込んだ髪の先が掠めた。そうだ、この銀の髪を隠さなければ人前には出られない。慌てて頭巾を探す。確か着替えと一緒に置いておいたはず。
見回してすぐに、近くの岩場に引っかかっている布切れを見つけた。どうやら水浴びの最中に風で飛ばされてしまっていたらしい。
「ごめん椿。あれ、とってこなきゃ」
既に岩陰の向こうへ回りかけていた椿が振り返る。蓮が指した方を見て、頷いてみせる。
「分かった。楝様にはすぐに来るって伝えておくから」
「うん、おねがい」
砂利を踏む音が遠ざかる。蓮も足場の悪い岩を慎重に渡りながら、目当ての岩場へと向かっていく。頭巾が引っかかっていたのは、大きな岩の突端だった。頼りなげにぱたぱたと揺れる布は、今にもどこかへ飛ばされてしまいそうだ。少しだけ焦りを覚える。あれを失くすと、椿に迷惑がかかる。
岩によじ登る。蓮の身体より数十倍も大きな岩だ。幸い平べったい形だったので、一度登ってしまうと移動は楽だった。縁に近づいたところで膝をつき、布へと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、気まぐれな風が吹き抜けた。魔法では風を起こすことはできても止めることはできない。なすすべなく、舞い上がった布を見送る。
ひらりと日の光を受けて、布は地上へと落ちていく。岩の陰になっていた景色には、思いの外近くに草色の波がそよいでいる。
蓮は思わず息を止めた。緑の波と灰色の岩場の間に黒い影が一つ、立っている。目の前に舞う布を、影が手を伸ばして捕まえた。ぐるりと見回して、岩の上にいる蓮に目を止める。
「これ、お前のか?」
よく通る声が、心に響いた。漆黒の兜が無造作に外される。額に汗で張り付いた短い黒髪が、吹き抜ける風に乱れる。
漆黒の鎧、兜、籠手、そして長刀。傍らには額に一点だけ白が混じった黒い馬。
「アカザ……」
この島の言葉は蓮にとって発音が難しい。楝が何度も口にし、そして蓮自身も何度も戦場で見えている男の名を、故郷で当てる字と共に思い浮かべる。
——『戦士』藜。
敵の首領は今、一人のようだった。何故単騎でこんなところに。あまりにも無防備なその姿に、疑問より先に呆れが浮かぶ。
今、蓮が指を指すだけでこの男は死ぬ。楝は戦わずして『戦士』に勝ち、この国を統一するだろう。
ここが戦場なら、蓮は躊躇わなかった。或いは藜の瞳に、憎悪や怯えがあったなら。けれど今、見上げてくる黒髪の男には敵意は欠片も感じられなかった。まさか目の前にいるのが『魔王』本人だとは考えてもいないのだろう。洗濯物でも飛ばしたのだろうと一人得心した様子で、からかいが混じった人のいい笑みを浮かべている。
「おい、聞こえてるのか? これ、お前のだろ」
蓮は腕を上げた。雷を呼ぶ指の先、照準を漆黒の『戦士』に向けて。今までに幾度繰り返したか知れない、その動作。位置を確かめるため、視線を上げる。目に映ったのは訝しげにこちらを見やる男の姿。今まさに蓮が彼を殺そうとしているなど思ってもいない、その瞳。
もし、この身が敵の手に落ちたとしたら。あの頭巾を掴む指に、囚われたとしたら。
先程浮かんだ問いが、格段に現実味を帯びた。
指先が震えた。一度握り込み、開いた手を再びかざす。今度は掌が青い空へと向いていた。
「そう、わたしのだ。——とってくれて、ありがとう」
少し震えた柔らかな少女の声が、草原を渡る風に重なった。
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<予告編>
時の霞に秘められた、
もうひとつの出逢いの物語。
創国の時代の『魔王』と『戦士』。
二つの名が織り成す絵図は、
逃れえぬ宿命となって少女の魂を縛める。
「わたしは——蓮」
『DOUBLE LORDS』転章10、
自分の名を、初めて名乗った気がした。
「……ええと」
止まっていた時間が動き出した。藜が布を差し出したままぎくしゃくと蓮を見上げる。
「女、の子? 何でまた、こんなところに」
藜の腕は完全に下ろす時機を見失ってしまったようだ。蓮が彼の呼びかけに応えた以上、ここで下ろしては意地悪にも思える。だからといって直接渡すには彼の立ち位置は明らかに蓮から遠すぎた。思いの外表情をよく映す漆黒の瞳には、戸惑いと驚きがあらわだった。
『戦士』とは、こんなにも隙だらけなものなのか。
思わず蓮は呆れの混じった溜息を落とす。こんな相手を兄は仇敵と罵り、自分は何度も取り逃がしてきたのか。軽く自己嫌悪を覚えて下げた目線に、兄と同じ衣装が掠めた。
そうだ。ここは『魔王』と『戦士』がぶつかり合う最前線だ。そして今、自分は楝の身代わりを務めている。男に見えるような格好をしているのだ。思わず額に手を当てる。短く保ったままの髪が指に触れた。ひょろりと高い背、細長い手足。確かに今の自分から女の声が聞こえれば、初対面の相手は驚くだろう。
思い当たると同時に、目の前の『戦士』に対して妙に申し訳ない気持ちになった。図らずもだましてしまったという、小さな罪悪感。
「……ごめんなさい。おどろかせるつもりはなかったのだけれども」
せめてもの謝罪に小さく頭を下げて、蓮は改めて藜を見下ろした。視線が合ったことで安心したのだろうか、藜はようやくかざしたままだった腕を引っ込めた。不自然な体勢を続けていて痺れでもしたのか、布を逆の手に持ち替えて軽く振っている。手首に巻いた籠手が乾いた音を立てた。
「いや、こっちこそ悪かった。大げさに驚いたりして……それよりこれ、取りに来ないのか?」
示されたのは先程風で飛ばされた蓮の頭巾だ。楝との最大の相違点である髪の色を隠すための布。無論、返してもらわなければ蓮が困る。しかし最大の敵であるはずの男に不用意に近づくのはやはり躊躇われた。
黙ったままの蓮を、訝しげに藜が見上げる。その瞳が何かに思い当たったのか、次第に大きく見開かれていく。
「ひょっとして、お前……」
勘付かれたか。
思わず蓮は息を呑んだ。自分が『魔王』だと気づかれたのだとしたら、この男はこの場で殺さなければならない。一人の男と一頭の馬。それを焼き尽くせるだけの炎の量を、瞬時に脳裏に思い描く。
「お前、『魔王』の影武者だろう!」
「……え?」
気の抜けた声と共に、形になりかけていた魔力が霧散する。今日何度目かの命拾いをした目の前の男は、己の強運に全く気づいていない様子でうんうんと頷いている。
「そうなんだよ。どっかで見たことあると思ってたんだよ。お前、あの忌々しい『魔王』とそっくりなんだよ。いや、俺も奴の顔は見たことないんだが、いっつも同じ格好させた影武者をぞろぞろ引き連れて戦いに来るからさ。お前もそのうちの一人だろう」
魔法を扱う蓮は楝にとって大事な戦力だ。万が一にも敵の矢から狙い撃ちにされないよう、蓮が戦場に出る時は必ず周囲に同じ衣装を纏った護衛がつく。兄からきつく申し渡されているのだろう、自分たちからは決して言葉を掛けてこないその護衛たちは、言われてみれば確かに兄妹に良く似た背格好の者が多かったように思う。
影武者——どちらが、どちらの?
「お前、大陸の生まれだろ」
突然話題が切り替わった。驚いて再び藜に視線を向ける。
「その言葉遣い。西の大陸の訛りだ。それにその髪の色も、この島じゃあまり見かけないしな」
「……どうして」
「俺は元々漁師の倅だからな。ガキの頃には大陸から流れ着いた奴の面倒をしょっちゅう見てたんだ」
そう。この島に来る渡航者は意外と多いのだ。北と南には港と交易市がそれぞれ整備されているし、嵐の季節には漂流の末に海岸に打ち上げられる難破船の乗客もいる。蓮や楝のようにはじめからこの島を目指して海を渡る者は少ないが、多くの人を運ぶ東西の大陸からの商船は大抵が途中にあるこの島を経由して航海を続ける。最近は新しい航路が見つかったとかで大陸からの船は少なくなったが、それでもこの島が大陸間の重要な中継地であることには変わりがない。
船が積む商品は幅広い。織物、茶や香辛料、陶器に金銀宝石をちりばめた細工物、そして——奴隷。
この島の生粋の住人は皆、艶やかな黒髪と黒い瞳を持っている。別の色が混じっていれば大陸の血を引いていると考えるのが普通だ。そして船商人以外の大陸人は、この島では奴隷として扱われるということも。
大陸出身者が島の人間に比べて劣っているというわけでは、当然ない。海が他の文化との交流を隔てていたせいで、島では独自の習慣や言葉が発達した。頻繁に訪れる豊かな商人ならばともかく、故郷を遠く離れて売られてきた大陸人たちが自力で生活を営めるような環境は整っていない。海を渡って故郷へ帰ることなど夢のまた夢、一度売られて来た者は生涯その地位から抜け出す機会がない。
そんな中、数少ない例外が楝だった。いち早くこの島の言葉に慣れ、搾取する側へと回り。自らの意志で海を渡った兄妹には、保護者であり支配者である主人がいなかったというのも大きいのだろう。零から振り出せたことは、負債を背にこの島に来た同胞たちより遥かに有利な立場を楝に与えていた。
『魔王』が畏怖されるのは魔力のせいだけでない。
奴隷のはずの大陸人が、魔法という得体の知れない牙を向けてくる。島の者は恐怖を覚え、大陸人たちは希望を託す。それらの感情こそが、楝が目をつけた『魔王』の力の正体だった。
元から処遇に不満を持っていた大陸人たちを取り込み、彼らを支配していた島民を力で服従させ。そうやって楝は勢力を伸ばしてきた。従う者には『魔王』の庇護を、逆らう者には制裁を。指示されることに慣れきってしまった大陸人たちを率いるにはそれが最も都合が良かったし、支配者だった島民も魔力を盾に脅せば大抵は素直に投降した。彼らが抵抗した時にのみ、蓮の出番は訪れる。
対して藜は一目で純粋な島の血統と知れる外見を持っている。北方の山岳地帯に住むという”山の民”をはじめ、彼に力を貸す勢力は多くが島に元からいた住人だった。やはり島出身の者は、大陸の者より同郷の頭を求めるのだろうか。『魔王』に従うのを潔しとしない者は、既にそのほとんどが蓮の手で焼き払われるか『戦士』の陣営へ帰順するかしている。
大陸から来た『魔王』か、島で生まれた『戦士』か。
最近の戦況はその一言に尽きた。これが誰もがその始まりを忘れるほどに長くこの島を覆っていた戦乱の最終局面なのか、それとも新しい混乱の始まりなのか、それは誰にも分からない。しかし『魔王』と『戦士』が近い将来ぶつかり合うことだけは確実だった。
この島を統べる者を定める為に。
藜が再び腕を上げた。小さく笑って、しかし瞳にだけは真剣な光を浮かべ。
「俺と一緒に来ないか。こっちには奴隷なんていない。島のやつも大陸生まれも関係なく、みんなでわいわいやってる。この島を少しでも良くするために」
意外な言葉だった。楝が大陸の血を強調するように、藜も島の生まれという血統を利用して手勢を支配しているのだと思っていた。
「むこうの、生まれでも?」
「ああ。こっちには東の大陸出身の戦屋もいるし”山の民”の義勇兵もいる。怖い軍師に至っては船商人の倅だしな。まあ全体で見ると島の生まれが多いけど、元から数が少ない大陸人はもうほとんど『魔王』に取り込まれてるからな。俺たちに味方して一緒に働いてくれるっていうなら、別にどこで生まれた奴だろうと関係はないさ」
生まれた場所に関係なく、皆が同じ何かを目指せる場所。
蓮の沈黙を迷いと受け取ったのか、藜はさらに言葉を重ねる。
「誰かの身代わりで戦場に立つなんて嫌だろう。自分でそれを望んでやってるなら話は別だが、影武者なんて抜け出したいって言うなら喜んで手を貸すぜ。追っ手からだって守ってやる」
「……ほんとうに?」
「ああ。困ってる女の子を助けるのは当然だろう」
恐らく藜はそう深く考えて言っているわけではないのだろう。意に沿わぬ危険な仕事をしている奴隷を見つけたから助けてやろうと、ただそう思っているだけ。
なのに何故、蓮が密かに望んでいた言葉ばかりが出てくるのだろう。
蓮は俯いた。
身代わりは、『魔王』はどちらなのか。
戦いを、人を殺めることを、自分は望んでいるのか。
楝が必要としているのは、魔力なのか、蓮自身なのか。
心の奥底に押し込めていた問いがとめどなく溢れ出す。今まで抑えていられたのが不思議なほどに強く、確かなその感情。
『魔王』によるこの島の統一。それが楝の望みだ。だから蓮はその望みを叶えるために今日まで戦ってきた。
けれどそれは本当に、蓮自身が望んだことだったのか。
望んで得たわけではない、魔法という異能。絶大な力を得ると同時に、決して他人には受け入れられることのない孤独をも背負わせるもの。それが持つ陶酔にも似た己への憐憫にいつしか囚われていたのは、蓮も楝も同じだったのかもしれない。
生まれ持った他人との隔絶。越え難いその壁の向こう側が、この男の傍でなら見ることができるかもしれない。生まれた場所も立場も気にかけるそぶりもない、この男ならば。
草原から、また一陣の風が吹きつけてきた。若草の匂いが混じったその風は、確かに春の気配を含ませている。先程浴びた水はまだとても冷たかったのに。季節は変わる。恐らくは、人の心も。
「ほんとうに……つれていってくれるの、この外へ」
もし、この身が敵に囚われたとしたら。『魔王』が自ら『戦士』の手に落ちたとしたら。
椿はどれほどの折檻を受けるだろう。それを思うと心が痛んだ。
けれどこれを逃すと、蓮の世界を変える機会は恐らく永遠に失われてしまう。
風の中、迷いのない笑みで藜が手招く。最後のためらいは岩から飛び降りる時、空へと吹き飛んだ。身を丸めて着地し、黒い鎧へと歩み出す。体が軽かった。『魔王』ではなくただの蓮として歩く、初めての島の大地。風の匂いが新しかった。
藜の傍らには馬が待っていた。額に一点だけ白毛の混じった黒い馬。蓮が手を差し伸べると、白い歯をむき出して首を振った。
「気をつけろ、噛まれるぞ」
藜はそう言ったが、馬の顔はまるで笑っているかのように見える。素直に手を引っ込めたものの、蓮の心は不思議と浮き立っていた。
初めて楝の手の外に出た。狭い檻の向こう側には、何が待っているのだろう。
「掴まれ」
そう言って差し出された手は温かかった。引き上げられるまま、蓮は藜と共に黒馬の背に乗る。落ち着いたと思う間もなく、馬は走り出した。蓮がいた水場の上流へ岩を回り込むかのようなその進路に、蓮は目線だけで背後の騎手に問う。『戦士』の軍勢は岩場の正面、草原の方から近づいているはずだ。
「まともに『魔王』の目に留まるのはまずい。狙い撃ちにされる」
確かに単騎の黒鎧が目の前を横切るような好機を『魔王』が見逃すはずがない。たちまち雷が降ってきて、藜はあえなく餌食となってしまうだろう。——楝が魔法を使えれば、の話ではあるが。
「そんなにこわいの、魔法は」
ぽつりと呟いたのは積もり続けていた疑問だった。蓮にとっては当たり前の力。敵になったことなどないから、何故皆がそこまで怖れるのか分からない。少し火花を散らしてやるだけで、それまで威張っていた者が呆気なく跪くのを何度も見てきた。滑稽を通り越して哀れにさえ思える、その姿。
「そりゃそうだろう。誰だって死ぬのは怖い」
「たたかえば人は死ぬ。おなじことでしょう」
「全然違う。自分を殺すものが剣の刃か得体の知れない力か、その差は大きい」
「なにがちがうの?」
「自分に理解できるものか、そうでないものか、だ」
二人の会話に混じるのは蹄が土を蹴る音と、草原から吹く風の響きだけだった。時折せせらぎの音が混じり、川が近いということを思い出させる。
「最期に目にするものが敵の刃なら、ああこれに俺は殺されるんだ、って理解できる。無念とか後悔とか、勿論そういうものは色々あるだろうが……それでも原因が納得できる分、まだ救われる」
蓮は黙ったまま聞いている。藜の語る言葉は難しいが、何かとても大事なことが——蓮がずっと求めていた答えが、聞けそうな予感がしていた。
「魔法はな、そういうものじゃないんだよ」
藜の声音が低くなる。
「必死で敵の剣を潜り抜けて、傷だらけになって、ようやく囲みを抜けたと思った瞬間、上から雷が降ってくるんだ。納得なんてできない。死んだ奴も、残された奴も。何でだよ、って思う」
手綱を持つ手が握り締められた。わずかに上がった馬の首を宥めるように藜の手が叩く。心得たように馬は鼻を鳴らして、横手の小川へと歩を進めた。
「魔法は——『魔王』の力は、人を畏れさせる」
ぱしゃり、と水鏡を割る音が響いた。
「憎むこともできないほど絶対的な力の差を見せつけられて、俺たちはただ首を竦めてそれが通り過ぎるのを待つしかない。『魔王』が下す一方的な罰が終わるのを、ただ見ているしかできないんだ。正体の分からないものはいつだって、怖い」
馬はあっさりと川を渡り終えた。しかし蓮の心は揺れ続けている。今しがた蹄がかき乱した水面のように、心中に波紋が広がっていく。
今背後にいるのは『魔王』と幾度も見え、その度に生き延びてきた男だ。同時に幾度も相対し、その度に仲間を失ってきた男でもある。
何度叩いても立ち上がり、向かってくる相手。それが蓮が『戦士』に対して抱いていた印象だった。畏れや恐怖などとは最も縁遠いと思っていた男の口から出てきた意外な答えに、返す言葉は浮かばなかった。
怖い。
魔法は、怖い。
敵に、味方に、『戦士』に——そして楝に。蓮が向けられる数多くの視線の中で、たった一つだけ共通する色調。
人は『魔王』を怖れる。その正体はちっぽけな小娘にしか過ぎないというのに。
蓮は俯いた。振り落とされぬよう掴んだ鞍を、より強く握り締める。
正体を知れば、藜も蓮を怖れるのだろうか。
とうに顔も忘れた両親の、遠い面影が胸をよぎる。父と、母と、楝と、自分。魔力が周囲に知れるまでは確かにあった、温かな時間の記憶。真実を知った後、蓮に対して藜がここまで自然体でいられるとは到底思えない。決して楽しい話題ではないにも関わらず、妙に居心地のいいこの空気。失うのが惜しいと感じるこの雰囲気こそ、蓮が心から欲していたものなのだと素直に納得できた。
先程藜が出逢ったのは蓮。それは決して『魔王』ではない。
知られたくない、と思った。知られれば確実にこの空気は壊され、敵味方に分かれ殺し合うことになる。
——今までと、同じように。
しばらく無言の時間が流れた。黒馬は相変わらず岩場と草地の境目を早足で進んでいる。ずっと草地を走ればいいのに、とぼんやり考えた。蹄鉄が岩を蹴る振動が、それでなくても揺れる思考をさらにかき乱す。纏まらない思考の中、いっそ魔法の使い方も忘れてしまえばいいのに、などとも思う。
一際力強く馬が跳んだ。蓮は着地の揺れを予想して身構える。しかし予想に反して衝撃はふかりと受け止められた。目を上げると、眼前には草の海が広がっていた。
「見ろ、『魔王』だ」
藜の言葉に、咄嗟に顔を上げる。
後にしたばかりの岩場に、白い衣装を着けた人影がいくつも動いているのが見える。真ん中に陣取った人物が大きく腕を振って何事かを指示しているようだ。
「……? 何かあったのか」
恐らく蓮が姿を消したのが知られたのだろう。今、あちらの陣営は大混乱に陥っているはずだ。裏手を回りこんで来たおかげで『魔王』側はまだこちらに気づいていない。草の波に紛れて遠ざかるその景色から、蓮は無理矢理に目を逸らした。
「はやくいって。いまなら、にげられるから」
それ以上は問い返さず、無言で藜は鞭を入れる。受けた黒馬は矢のような疾走に移った。見る間に岩場は遠ざかり、細部など分からなくなってしまう。
ここではない、どこかへ。
『魔王』が、楝が、いない場所へ。
心の奥底でずっと願い続けていた、蓮の望み。
それがようやく叶えられるというのに、何故こんなにも後ろめたいのだろう。
どれくらいの時間、目を閉じていたのか。頬に受ける風がふと緩まって、蓮の意識は思考の淵から浮かび上がる。
空気が含む音が先程とは変わっていた。手綱を緩め、速度を落とした黒馬の蹄音とは明らかに違う轟きが前方から響いてくる。見上げた瞳が意を得たように明るく笑った。
「心配いらない。仲間だ」
開けた視界の中、最初に見えたのは舞い上がる草の葉だった。弧を描いて蒼穹に巻き上げられた丈の長い葉が、ひらりと落ちてはまた舞い上がる。
風圧を起こしているのは鎧に身を固めた騎兵の一団だった。草の波を蹴散らして近づいてくるその数、およそ百。
藜が合図するまでもなく、黒馬は脚を止めた。目前に迫った一団はその一人一人の顔が見て取れる距離にまで近づいたところで一斉に手綱を引き、乱れることなく停止する。
「よぉ、随分ゆっくりだったな。あんまり帰って来るのが遅いから、てっきり集団行動に飽きてトンズラこいたかと思ってたぜ」
兜の庇を上げて、先頭にいた男が藜ににやりと笑いかける。隙間から覗いたのは日焼けにしては濃い褐色の肌。眇めた瞳は周囲の草原と同じ若葉の色——大陸の血筋だ。
「馬鹿言うな。お前じゃあるまいし、俺はそこまで無責任じゃない」
すかさず応えた藜の言葉に、騎兵たちから笑い声が上がる。
「ほら見ろグースフット。部下たちもお前の方が責任感がないってよ」
「何ぃ!? お前ら、いつも可愛がってやってる恩を忘れやがって」
わいわいと言い合いを始めた一団に笑いながら、藜は蓮に先頭の男を示した。
「あれがさっき言った東の大陸の戦屋だ。名前が呼びづらければグーでいい」
「おまっ……! 勝手に変な綽名をつけるな」
褐色の男は慌てた様子でこちらに馬を寄せてきた。大きな鹿毛から見下ろしてくる鎧姿は、いかにも歴戦の猛者といった風情で威圧感がある。そういった男を今まで間近で見る機会がなかった蓮は、思わず身を引いた。逃さぬとばかりに顔を覗き込んできた鋭い眼光が、まともに銀青の視線とぶつかり合う。
「どーもハジメマシテ別嬪さん。グーちゃんでーす」
顔だけは真面目にグースフットが名乗る。背中越しに藜が吹き出すのが聞こえた。
「なんだよ、文句あるのか」
「お前な。ちゃんはないだろ、ちゃんは」
「顔が怖いのは生まれつきだ。どっかを可愛くしなきゃモテねえだろう」
なあ、と再びグースフットの目が蓮に向けられる。その表情は先程とは別人のように和んでいた。くるくる変わる男の表情にどう反応していいのか分からない蓮は、ただ固まったままその顔を見返すことしかできない。
「あっちゃあ、不発か?」
「当たり前だろ。あんまりびっくりさせるな」
呆れたように溜息を吐いて、藜は蓮の頭に手を置いた。
「元『魔王』の影武者だ。逃げたいって言うから連れて来た。名前は……」
ふと言葉を切って、藜は宙に目線を泳がせた。
「そういやまだ聞いてなかったか」
「おいおい」
今度はグースフットが呆れ声を出す番だった。その顔を藜は軽く睨みつける。
「仕方ないだろ、色々バタバタしてたんだ。遅くなっちまったが、名前を教えてくれないか?」
見上げた藜の視線はまっすぐに蓮の瞳を捉えていた。グースフットが、騎馬の一団が、蓮を見ている。
「わたしは——蓮」
声が震えた。自分の名を、初めて名乗った気がした。置かれたままだった手が、くしゃりと髪を撫でる。
「蓮か。いい名前だな。俺は」
「アカザ。『戦士』の藜」
驚いたように藜の眉が跳ねる。
「知ってたのか」
「みがわりだったから——『魔王』の」
「ああ。ああ、そうだな」
納得した様子で藜が頷く。戦の最中に、敵の総大将の名前を知らないという方がおかしい。
ふと思いついて、蓮は藜とグースフットを交互に見やった。
「あなたたちはしっているの? 『魔王』のなまえを」
男たちは顔を見合わせる。ばつが悪そうな顔で藜が言った。
「いや……実は知らないんだ。名前どころか、顔も素性もな。言葉に西の大陸の訛りが少し残ってるから、向こうの生まれだってのは間違いないみたいだが。それ以外は何も」
楝の徹底した情報制限が効いているのだろう。顔も、正体も、名前さえも不明な『魔王』。知られていなかったことが今の蓮にとっては救いだった。
「で、こいつが自分で調べに行くって飛び出してったっきり早一ヶ月。止める間もなく置いてかれた俺たちは、ホントたまったもんじゃなかったぞ」
「……すまん」
「まあお前の無鉄砲は今に始まったことじゃないけどな。で、この娘っ子以外に何か収穫はあったのか」
目を逸らしたまま藜は小さく首を横に振った。グースフットが大きな溜息を落とす。
「ま、そんなこったろうとは思ってたけどな。何にせよ無事で良かった。とっとと梓に元気なツラ見せて安心させてやれ」
「梓が、来てるのか」
「ああ。後ろの本隊でキヌアと一緒に待機してる。お前から報せが来た時、いの一番に迎えに行くって言い出したんだがな。『魔王』も近くにいることだし、遠慮してもらった」
「そうか。すまない」
「貸しひとつ、だな」
にやりと告げて、グースフットは馬首を返した。
「さーて、手の掛かる総大将の回収任務は成功だ。野郎共、戻るぞ」
グースフットの指示を受けて、騎馬団がどやどやと反転する。その様子にあまり緊張感は感じられない。私語さえ聞こえる中、隊列だけは乱れることなく草原を滑るように進み始める。
「……アズサって?」
格段に増えた蹄音の中、問う声は思いの外低くなった。草の海の彼方を彷徨っていた藜の目が、我に返ったように蓮に向く。
「ああ、梓は仲間だ。”山の民”の」
「なかま」
「……ああ、仲間だ」
藜の声は、蓮にというより己に言い聞かせるような口調だった。もっと詳しく話を聞きたいと思ったが、とても続きを頼めるような雰囲気ではない。
しばらくして、後ろから一騎分の足音が近づいてきた。藜に会釈だけして追い抜いたその騎兵は、装備の軽さから見て恐らく偵察の者だろう。迷わずグースフットに駆け寄り、何事かを報告する。頷いて、グースフットは別の騎兵に指示を出す。その兵が次の偵察係なのだろう。隊を離れて今来た方向へと戻っていく。
「大将」
グースフットが藜を呼んだ。黒毛が鹿毛と首を並べる。他の兵は心得たように少しだけ距離を置いた。
「どうした」
「おかしい。『魔王』の動きが変だ」
蓮の心臓が跳ね上がった。
「お前が寄越した情報だと、奴は南部湖沼地帯の地主を陣営に引き入れて本拠地へ帰還する途中ということだったな。説得だけで事は済んだから、出番のなかった主戦力の本隊は先に本拠地に帰して、『魔王』様本人はゆるりとご帰宅。そうだな」
「ああ」
驚いて蓮は藜を見上げた。つい先日まで蓮が実行していた任務。藜が『魔王』の情報を集めていたのなら知っていても不思議はないが、こうして改めて聞かされると身構えざるをえない。調べられている、という警戒感。
「お前一人でふらふらしてるところを見つかったりしたら格好の的にされるからな。俺たちはわざとこっちの本隊を晒して奴がとっとと帰るよう圧力を掛けてた。実際、あちらさんはさっきまでは帰る気満々だったしな。まぁ、手勢がいないんだから接触する前に撤退するのは当たり前だが」
咄嗟に思い描いたのは、先程岩場を離れる際に見た楝の姿だった。動揺も露わに指示を下す、その姿。藜の頭にも同じ場面が浮かんだのだろう。小さく息を呑む音が背中越しに聞こえた。
「まさか」
「おうよ。追って来てるってよ。しかも一度は本拠地に帰した本隊も呼び寄せているらしい」
ちらりとグースフットは蓮を見やった。
「どうする? 今なら数はこっちが上だ。討つには絶好の機会だと思うが」
蓮は俯いた。意見など挟める立場ではない。けれど。
討つ。藜が、楝を。或いは楝が、藜を。
『魔王』が『戦士』を倒す場面なら、もう何度思い描いたか分からない。あまり考えたくはなかったが、最悪の事態として『魔王』が『戦士』に倒される場面も。けれどそこに登場する『戦士』はいつでも顔を持たない『誰か』だった。その顔が藜になる。たったそれだけで、何故こんなにも身が竦むのか。
「……いや、今は本隊との合流を急ごう」
しばらくの沈黙を挟んで、藜は言った。
「本隊と合流すれば、数の上ではもっと有利になる。『魔王』が本隊と合流するには、まだ時間がかかるはずだしな。何よりこうも突然動きを変えたのが気にかかる。今は下手に刺激しない方がいい」
「……分かった」
グースフットは頷いて後ろを振り返った。少し離れて付いてくる騎兵団に向けて大声で怒鳴る。
「おい! 緊急事態だ。本隊まで駆け足、急げ! 大将を抜いた奴にはご褒美が出るってよ!」
みなまで聞かず、黒馬が速度を上げた。二人分の重みが乗っているとは思えない速さで駆け去る尻尾に、応とばかりに百の蹄が追いすがる。
乗馬は得意な方ではない。蓮が必死で黒馬の首筋にしがみついている間に、揺れる景色は『戦士』の本隊を映し始める。たちまち近づいてくる、簡素な天幕の群。
結局黒馬は誰にも追い抜かれずに本隊の柵を潜り抜けた。さすがに息を荒げているその背から蓮が降りた頃、グースフットの鹿毛が駆け込んでくる。次々と入ってくる騎兵たちで、広かった馬場はたちまち混雑した。
先に下りていた藜が、労うように黒馬の首筋を叩いて厩番に手綱を手渡した。同じように鹿毛を係に任せたグースフットが歩み寄る。
「キヌアは……今の時間なら糧秣庫か」
「多分な」
ちらりと見上げた空は薄紅に染まりつつある。すぐに夕闇が落ちてくる、早春の黄昏。
「悪いな、少し仲間と話をしてくる。どこか適当な天幕にでも落ち着いて待っていてくれ」
「えっ……」
ここは『戦士』の陣営のど真ん中だ。当然周囲には『戦士』の兵——先程までの蓮にとっての敵しかいない。一人で置いていかれるのは、さすがに抵抗があった。
「聞いていたと思うが、『魔王』が今こっちに向かっている。これからどうするか、すぐに決めなきゃならん。それまでの間だ。待てるな」
「…………」
言い聞かせるような藜の声に思わず俯いた。その仕草を了解と受け取ったのだろう、藜の手が蓮の肩から離れる。任せる相手を探して周囲を見回していたその動きが、ふと止まった。
「別に一緒でもいいですよ? もう来ちゃいましたし」
上品な響きの声が耳に流れ込んできた。顧みた先には斜陽を弾く金の髪。反射的に楝を思い出して、蓮の身が竦む。
「キヌア、梓」
藜の声で我に返る。改めて見やった馬場の入り口には蓮より少し年上の、藜と同じ年頃の男女が姿を現していた。
金髪の主は男の方だ。楝より濃い色合いだろうか。角度によっては茶色にも見える少し癖のある髪を、頬にかかる辺りで切り揃えている。きちんとした印象の佇まいや仕立ての良い大陸風の平服は、港の倉庫街に多い船商人を連想させた。
女の方は黒髪だった。長いその髪を二つに分け、色とりどりの紐と一緒に編みこんでいる。簡素な藍色の貫頭衣から覗く襟元の白い袷襟と髪紐の緋色の対比が、夕暮れの光の中で鮮やかな色彩を放っていた。戦場でも時折見かけた”山の民”の装束だ。
「おかえり、藜さん」
小さく微笑みながら娘は言った。やや早口のその声は、普段聞き慣れているこの島の言葉とは少し違う響きを宿しているようだった。
「……ああ。心配をかけたな、梓」
複雑な表情の藜に、梓は無言で頷いてみせた。怒っているような素振りではなく、まるでやんちゃな弟へ対するような仕草だった。
「にしても藜、あの手土産はないでしょう」
既に『魔王』の追っ手の件は伝わっているのだろう。金髪の男——キヌアが呆れたように藜を見やる。
「『魔王』直々のお出ましなんて、この時点では全く想定してなかったんですからね。追い払うにしても一体どれだけの損失が出ることか」
「悪い。グースフットからも着く前に叩くかって聞かれたんだが」
「それは避けていただいて賢明でしたね。『魔王』を探りに飛び出したっきり梨のつぶてだった大将がようやく帰ってきたかと思いきや、斬り込み隊長と一緒にあっさり討ち死にしました、なんて洒落にもなりません」
「……キヌア。何かお前、いつも以上に毒がないか?」
「当然でしょう。僕がいくら工作してもできなかったことを、貴方にあっさり成功されたら腹も立ちます。『魔王』一人をおびき出すために、これまでどれほど苦労したか分かってるんですか?」
キヌアが藜の肩を叩く。藜より頭一つ低い位置にある鳶色の瞳が、不敵に笑った。
「確かにここでぶつかることは想定外でした。けれど決戦に向けた準備はもう整ってるんですよ。既に本拠地の留守居にも報せを出しました。ここで『魔王』を叩いた勢いのまま、あちらの本拠地へ一気に攻め上る。そんな戦略でいかがですか?」
「相変わらず仕事が早えなぁ、うちの軍師様は」
「当然です。次は貴方たち実働部隊に働いてもらう番ですよ、グースフット」
呆れ笑いのグースフットにすかさずキヌアが切り返す。返す刀で、鳶色の瞳が再び藜に向けられた。
「決めるのは貴方の仕事です、藜。答えは」
「……分かった。お前の言う作戦でいこう」
「他に補足事項は?」
ちらりと藜が蓮を見やる。すぐにキヌアも事情を察したらしい。
「ああ、また連れて来たんですね。言葉は?」
「大丈夫だ。通じる」
「では僕が預かります。処遇は『魔王』様にお帰り願った後にゆっくり決めれば良いでしょう」
「ああ、頼む」
藜が頷いた時、先程斥候に出た兵が馬場に走り込んで来た。すかさずグースフットが反応する。
「ご苦労さん。どうだった」
「敵は五十騎ほど。予想以上に足が速いです。ただがむしゃらに藜さんを追っている、そんな感じでした」
場の視線が藜に集まる。
「お前、一体何をしでかしたんだ」
「別に何も。『魔王』本隊とは接触していないし」
そこまで言って、はっと藜が蓮に目を向ける。
「まさか目的は蓮、お前か?」
「……ちがう」
蓮は頭を振った。それしか、できなかった。
「……まあいいでしょう。どちらにせよ、そろそろ『魔王』が追いつくはずです。問い質している時間はありません」
キヌアの台詞に敵襲、と叫ぶ見張りの声が重なった。既に傍に引かれてきていた鹿毛の手綱を受け取って、グースフットはひらりとその背に跨る。
「んじゃ、行って来るぜ。『魔王』様に一番最初に斬り込むのが俺の仕事だろ?」
「分かってるならとっとと行ってください」
「へいへい」
苦笑いを浮かべるグースフットの鞍に、そっと白い手が添えられた。
「グースフットさんさ山神様の恵みばあるように。ご武運をば」
にこりと笑って梓が言う。にやりと笑ってグースフットは素早く敬礼を返した。
「ありがとよ梓ちゃん。愛してるぜ」
片目を瞑って指先を切ると同時、グースフットは鹿毛に拍車を入れた。見る間に遠くなる背中を部下の百騎が追う。
「まったく相変わらずだな、あいつの女好きは」
呆れた色を滲ませた藜の横顔を、キヌアの三白眼が睨みつけた。
「貴方の呑気ぶりも相変わらずのようで何よりです。西の馬場に二百騎の用意ができていますから、それを連れて早く援護に行ってください。吉報を待ってますよ」
三百対五十。この戦力差だけでも、どれほど『戦士』が『魔王』を警戒しているかが分かる。
蓮が魔法で広範囲を焼き払えば、どうにかなるかもしれない。だが、楝一人で乗り切れるか。答えは——絶望的だった。
汗だけをざっと拭われた黒馬が引かれてきた。すかさず藜はその背に乗り込む。
「じゃあ、行ってくる。くれぐれも蓮を頼んだぞ」
「分かっています。目は離しません」
鋭く蓮を一瞥してキヌアが答える。その言葉通り、常に彼の視界に捉えられているのを蓮は感じていた。どうやらすっかり目をつけられてしまったらしい。
梓が藜の鞍に手を置いた。馬上と地上、二つの視線が一瞬だけ交わる。
「藜さんば御身に山神様さご加護のあるように。ご無事で」
「ああ、ありがとう」
頷きに紛れて、藜は視線を逸らしたようにも見えた。そのまま彼方の地平線へと目を向けた主を背に、黒馬はあっという間に陣地を横切っていく。
「さて、蓮といいましたか。貴女はこちらへ。梓も一緒に来てください」
「あい」
「……はい」
探るようなキヌアの視線が痛かった。しかし逃げ場所などどこにもない。蓮は目を伏せたままキヌアの後について馬場を出た。天幕の群の隙間から洩れる斜陽が厚手の生地に長く影を落としている。
どこまで逃げればいいのだろう。魔法から、『魔王』から。
蓮が己へと投げかけた問いのように、空は徐々に夜へと染め替えられていった。
<予告編>
ずっと逃げ続けていた。
魔法から、
名前から、
己の本心から。
本当に守りたいものは、何だろう。
少女の前で答えが形を成した時、
島国の草創が幕を開ける。
『DOUBLE LORDS』転章11、
——わたしが、『魔王』だ。
止まっていた時間が動き出した。藜が布を差し出したままぎくしゃくと蓮を見上げる。
「女、の子? 何でまた、こんなところに」
藜の腕は完全に下ろす時機を見失ってしまったようだ。蓮が彼の呼びかけに応えた以上、ここで下ろしては意地悪にも思える。だからといって直接渡すには彼の立ち位置は明らかに蓮から遠すぎた。思いの外表情をよく映す漆黒の瞳には、戸惑いと驚きがあらわだった。
『戦士』とは、こんなにも隙だらけなものなのか。
思わず蓮は呆れの混じった溜息を落とす。こんな相手を兄は仇敵と罵り、自分は何度も取り逃がしてきたのか。軽く自己嫌悪を覚えて下げた目線に、兄と同じ衣装が掠めた。
そうだ。ここは『魔王』と『戦士』がぶつかり合う最前線だ。そして今、自分は楝の身代わりを務めている。男に見えるような格好をしているのだ。思わず額に手を当てる。短く保ったままの髪が指に触れた。ひょろりと高い背、細長い手足。確かに今の自分から女の声が聞こえれば、初対面の相手は驚くだろう。
思い当たると同時に、目の前の『戦士』に対して妙に申し訳ない気持ちになった。図らずもだましてしまったという、小さな罪悪感。
「……ごめんなさい。おどろかせるつもりはなかったのだけれども」
せめてもの謝罪に小さく頭を下げて、蓮は改めて藜を見下ろした。視線が合ったことで安心したのだろうか、藜はようやくかざしたままだった腕を引っ込めた。不自然な体勢を続けていて痺れでもしたのか、布を逆の手に持ち替えて軽く振っている。手首に巻いた籠手が乾いた音を立てた。
「いや、こっちこそ悪かった。大げさに驚いたりして……それよりこれ、取りに来ないのか?」
示されたのは先程風で飛ばされた蓮の頭巾だ。楝との最大の相違点である髪の色を隠すための布。無論、返してもらわなければ蓮が困る。しかし最大の敵であるはずの男に不用意に近づくのはやはり躊躇われた。
黙ったままの蓮を、訝しげに藜が見上げる。その瞳が何かに思い当たったのか、次第に大きく見開かれていく。
「ひょっとして、お前……」
勘付かれたか。
思わず蓮は息を呑んだ。自分が『魔王』だと気づかれたのだとしたら、この男はこの場で殺さなければならない。一人の男と一頭の馬。それを焼き尽くせるだけの炎の量を、瞬時に脳裏に思い描く。
「お前、『魔王』の影武者だろう!」
「……え?」
気の抜けた声と共に、形になりかけていた魔力が霧散する。今日何度目かの命拾いをした目の前の男は、己の強運に全く気づいていない様子でうんうんと頷いている。
「そうなんだよ。どっかで見たことあると思ってたんだよ。お前、あの忌々しい『魔王』とそっくりなんだよ。いや、俺も奴の顔は見たことないんだが、いっつも同じ格好させた影武者をぞろぞろ引き連れて戦いに来るからさ。お前もそのうちの一人だろう」
魔法を扱う蓮は楝にとって大事な戦力だ。万が一にも敵の矢から狙い撃ちにされないよう、蓮が戦場に出る時は必ず周囲に同じ衣装を纏った護衛がつく。兄からきつく申し渡されているのだろう、自分たちからは決して言葉を掛けてこないその護衛たちは、言われてみれば確かに兄妹に良く似た背格好の者が多かったように思う。
影武者——どちらが、どちらの?
「お前、大陸の生まれだろ」
突然話題が切り替わった。驚いて再び藜に視線を向ける。
「その言葉遣い。西の大陸の訛りだ。それにその髪の色も、この島じゃあまり見かけないしな」
「……どうして」
「俺は元々漁師の倅だからな。ガキの頃には大陸から流れ着いた奴の面倒をしょっちゅう見てたんだ」
そう。この島に来る渡航者は意外と多いのだ。北と南には港と交易市がそれぞれ整備されているし、嵐の季節には漂流の末に海岸に打ち上げられる難破船の乗客もいる。蓮や楝のようにはじめからこの島を目指して海を渡る者は少ないが、多くの人を運ぶ東西の大陸からの商船は大抵が途中にあるこの島を経由して航海を続ける。最近は新しい航路が見つかったとかで大陸からの船は少なくなったが、それでもこの島が大陸間の重要な中継地であることには変わりがない。
船が積む商品は幅広い。織物、茶や香辛料、陶器に金銀宝石をちりばめた細工物、そして——奴隷。
この島の生粋の住人は皆、艶やかな黒髪と黒い瞳を持っている。別の色が混じっていれば大陸の血を引いていると考えるのが普通だ。そして船商人以外の大陸人は、この島では奴隷として扱われるということも。
大陸出身者が島の人間に比べて劣っているというわけでは、当然ない。海が他の文化との交流を隔てていたせいで、島では独自の習慣や言葉が発達した。頻繁に訪れる豊かな商人ならばともかく、故郷を遠く離れて売られてきた大陸人たちが自力で生活を営めるような環境は整っていない。海を渡って故郷へ帰ることなど夢のまた夢、一度売られて来た者は生涯その地位から抜け出す機会がない。
そんな中、数少ない例外が楝だった。いち早くこの島の言葉に慣れ、搾取する側へと回り。自らの意志で海を渡った兄妹には、保護者であり支配者である主人がいなかったというのも大きいのだろう。零から振り出せたことは、負債を背にこの島に来た同胞たちより遥かに有利な立場を楝に与えていた。
『魔王』が畏怖されるのは魔力のせいだけでない。
奴隷のはずの大陸人が、魔法という得体の知れない牙を向けてくる。島の者は恐怖を覚え、大陸人たちは希望を託す。それらの感情こそが、楝が目をつけた『魔王』の力の正体だった。
元から処遇に不満を持っていた大陸人たちを取り込み、彼らを支配していた島民を力で服従させ。そうやって楝は勢力を伸ばしてきた。従う者には『魔王』の庇護を、逆らう者には制裁を。指示されることに慣れきってしまった大陸人たちを率いるにはそれが最も都合が良かったし、支配者だった島民も魔力を盾に脅せば大抵は素直に投降した。彼らが抵抗した時にのみ、蓮の出番は訪れる。
対して藜は一目で純粋な島の血統と知れる外見を持っている。北方の山岳地帯に住むという”山の民”をはじめ、彼に力を貸す勢力は多くが島に元からいた住人だった。やはり島出身の者は、大陸の者より同郷の頭を求めるのだろうか。『魔王』に従うのを潔しとしない者は、既にそのほとんどが蓮の手で焼き払われるか『戦士』の陣営へ帰順するかしている。
大陸から来た『魔王』か、島で生まれた『戦士』か。
最近の戦況はその一言に尽きた。これが誰もがその始まりを忘れるほどに長くこの島を覆っていた戦乱の最終局面なのか、それとも新しい混乱の始まりなのか、それは誰にも分からない。しかし『魔王』と『戦士』が近い将来ぶつかり合うことだけは確実だった。
この島を統べる者を定める為に。
藜が再び腕を上げた。小さく笑って、しかし瞳にだけは真剣な光を浮かべ。
「俺と一緒に来ないか。こっちには奴隷なんていない。島のやつも大陸生まれも関係なく、みんなでわいわいやってる。この島を少しでも良くするために」
意外な言葉だった。楝が大陸の血を強調するように、藜も島の生まれという血統を利用して手勢を支配しているのだと思っていた。
「むこうの、生まれでも?」
「ああ。こっちには東の大陸出身の戦屋もいるし”山の民”の義勇兵もいる。怖い軍師に至っては船商人の倅だしな。まあ全体で見ると島の生まれが多いけど、元から数が少ない大陸人はもうほとんど『魔王』に取り込まれてるからな。俺たちに味方して一緒に働いてくれるっていうなら、別にどこで生まれた奴だろうと関係はないさ」
生まれた場所に関係なく、皆が同じ何かを目指せる場所。
蓮の沈黙を迷いと受け取ったのか、藜はさらに言葉を重ねる。
「誰かの身代わりで戦場に立つなんて嫌だろう。自分でそれを望んでやってるなら話は別だが、影武者なんて抜け出したいって言うなら喜んで手を貸すぜ。追っ手からだって守ってやる」
「……ほんとうに?」
「ああ。困ってる女の子を助けるのは当然だろう」
恐らく藜はそう深く考えて言っているわけではないのだろう。意に沿わぬ危険な仕事をしている奴隷を見つけたから助けてやろうと、ただそう思っているだけ。
なのに何故、蓮が密かに望んでいた言葉ばかりが出てくるのだろう。
蓮は俯いた。
身代わりは、『魔王』はどちらなのか。
戦いを、人を殺めることを、自分は望んでいるのか。
楝が必要としているのは、魔力なのか、蓮自身なのか。
心の奥底に押し込めていた問いがとめどなく溢れ出す。今まで抑えていられたのが不思議なほどに強く、確かなその感情。
『魔王』によるこの島の統一。それが楝の望みだ。だから蓮はその望みを叶えるために今日まで戦ってきた。
けれどそれは本当に、蓮自身が望んだことだったのか。
望んで得たわけではない、魔法という異能。絶大な力を得ると同時に、決して他人には受け入れられることのない孤独をも背負わせるもの。それが持つ陶酔にも似た己への憐憫にいつしか囚われていたのは、蓮も楝も同じだったのかもしれない。
生まれ持った他人との隔絶。越え難いその壁の向こう側が、この男の傍でなら見ることができるかもしれない。生まれた場所も立場も気にかけるそぶりもない、この男ならば。
草原から、また一陣の風が吹きつけてきた。若草の匂いが混じったその風は、確かに春の気配を含ませている。先程浴びた水はまだとても冷たかったのに。季節は変わる。恐らくは、人の心も。
「ほんとうに……つれていってくれるの、この外へ」
もし、この身が敵に囚われたとしたら。『魔王』が自ら『戦士』の手に落ちたとしたら。
椿はどれほどの折檻を受けるだろう。それを思うと心が痛んだ。
けれどこれを逃すと、蓮の世界を変える機会は恐らく永遠に失われてしまう。
風の中、迷いのない笑みで藜が手招く。最後のためらいは岩から飛び降りる時、空へと吹き飛んだ。身を丸めて着地し、黒い鎧へと歩み出す。体が軽かった。『魔王』ではなくただの蓮として歩く、初めての島の大地。風の匂いが新しかった。
藜の傍らには馬が待っていた。額に一点だけ白毛の混じった黒い馬。蓮が手を差し伸べると、白い歯をむき出して首を振った。
「気をつけろ、噛まれるぞ」
藜はそう言ったが、馬の顔はまるで笑っているかのように見える。素直に手を引っ込めたものの、蓮の心は不思議と浮き立っていた。
初めて楝の手の外に出た。狭い檻の向こう側には、何が待っているのだろう。
「掴まれ」
そう言って差し出された手は温かかった。引き上げられるまま、蓮は藜と共に黒馬の背に乗る。落ち着いたと思う間もなく、馬は走り出した。蓮がいた水場の上流へ岩を回り込むかのようなその進路に、蓮は目線だけで背後の騎手に問う。『戦士』の軍勢は岩場の正面、草原の方から近づいているはずだ。
「まともに『魔王』の目に留まるのはまずい。狙い撃ちにされる」
確かに単騎の黒鎧が目の前を横切るような好機を『魔王』が見逃すはずがない。たちまち雷が降ってきて、藜はあえなく餌食となってしまうだろう。——楝が魔法を使えれば、の話ではあるが。
「そんなにこわいの、魔法は」
ぽつりと呟いたのは積もり続けていた疑問だった。蓮にとっては当たり前の力。敵になったことなどないから、何故皆がそこまで怖れるのか分からない。少し火花を散らしてやるだけで、それまで威張っていた者が呆気なく跪くのを何度も見てきた。滑稽を通り越して哀れにさえ思える、その姿。
「そりゃそうだろう。誰だって死ぬのは怖い」
「たたかえば人は死ぬ。おなじことでしょう」
「全然違う。自分を殺すものが剣の刃か得体の知れない力か、その差は大きい」
「なにがちがうの?」
「自分に理解できるものか、そうでないものか、だ」
二人の会話に混じるのは蹄が土を蹴る音と、草原から吹く風の響きだけだった。時折せせらぎの音が混じり、川が近いということを思い出させる。
「最期に目にするものが敵の刃なら、ああこれに俺は殺されるんだ、って理解できる。無念とか後悔とか、勿論そういうものは色々あるだろうが……それでも原因が納得できる分、まだ救われる」
蓮は黙ったまま聞いている。藜の語る言葉は難しいが、何かとても大事なことが——蓮がずっと求めていた答えが、聞けそうな予感がしていた。
「魔法はな、そういうものじゃないんだよ」
藜の声音が低くなる。
「必死で敵の剣を潜り抜けて、傷だらけになって、ようやく囲みを抜けたと思った瞬間、上から雷が降ってくるんだ。納得なんてできない。死んだ奴も、残された奴も。何でだよ、って思う」
手綱を持つ手が握り締められた。わずかに上がった馬の首を宥めるように藜の手が叩く。心得たように馬は鼻を鳴らして、横手の小川へと歩を進めた。
「魔法は——『魔王』の力は、人を畏れさせる」
ぱしゃり、と水鏡を割る音が響いた。
「憎むこともできないほど絶対的な力の差を見せつけられて、俺たちはただ首を竦めてそれが通り過ぎるのを待つしかない。『魔王』が下す一方的な罰が終わるのを、ただ見ているしかできないんだ。正体の分からないものはいつだって、怖い」
馬はあっさりと川を渡り終えた。しかし蓮の心は揺れ続けている。今しがた蹄がかき乱した水面のように、心中に波紋が広がっていく。
今背後にいるのは『魔王』と幾度も見え、その度に生き延びてきた男だ。同時に幾度も相対し、その度に仲間を失ってきた男でもある。
何度叩いても立ち上がり、向かってくる相手。それが蓮が『戦士』に対して抱いていた印象だった。畏れや恐怖などとは最も縁遠いと思っていた男の口から出てきた意外な答えに、返す言葉は浮かばなかった。
怖い。
魔法は、怖い。
敵に、味方に、『戦士』に——そして楝に。蓮が向けられる数多くの視線の中で、たった一つだけ共通する色調。
人は『魔王』を怖れる。その正体はちっぽけな小娘にしか過ぎないというのに。
蓮は俯いた。振り落とされぬよう掴んだ鞍を、より強く握り締める。
正体を知れば、藜も蓮を怖れるのだろうか。
とうに顔も忘れた両親の、遠い面影が胸をよぎる。父と、母と、楝と、自分。魔力が周囲に知れるまでは確かにあった、温かな時間の記憶。真実を知った後、蓮に対して藜がここまで自然体でいられるとは到底思えない。決して楽しい話題ではないにも関わらず、妙に居心地のいいこの空気。失うのが惜しいと感じるこの雰囲気こそ、蓮が心から欲していたものなのだと素直に納得できた。
先程藜が出逢ったのは蓮。それは決して『魔王』ではない。
知られたくない、と思った。知られれば確実にこの空気は壊され、敵味方に分かれ殺し合うことになる。
——今までと、同じように。
しばらく無言の時間が流れた。黒馬は相変わらず岩場と草地の境目を早足で進んでいる。ずっと草地を走ればいいのに、とぼんやり考えた。蹄鉄が岩を蹴る振動が、それでなくても揺れる思考をさらにかき乱す。纏まらない思考の中、いっそ魔法の使い方も忘れてしまえばいいのに、などとも思う。
一際力強く馬が跳んだ。蓮は着地の揺れを予想して身構える。しかし予想に反して衝撃はふかりと受け止められた。目を上げると、眼前には草の海が広がっていた。
「見ろ、『魔王』だ」
藜の言葉に、咄嗟に顔を上げる。
後にしたばかりの岩場に、白い衣装を着けた人影がいくつも動いているのが見える。真ん中に陣取った人物が大きく腕を振って何事かを指示しているようだ。
「……? 何かあったのか」
恐らく蓮が姿を消したのが知られたのだろう。今、あちらの陣営は大混乱に陥っているはずだ。裏手を回りこんで来たおかげで『魔王』側はまだこちらに気づいていない。草の波に紛れて遠ざかるその景色から、蓮は無理矢理に目を逸らした。
「はやくいって。いまなら、にげられるから」
それ以上は問い返さず、無言で藜は鞭を入れる。受けた黒馬は矢のような疾走に移った。見る間に岩場は遠ざかり、細部など分からなくなってしまう。
ここではない、どこかへ。
『魔王』が、楝が、いない場所へ。
心の奥底でずっと願い続けていた、蓮の望み。
それがようやく叶えられるというのに、何故こんなにも後ろめたいのだろう。
どれくらいの時間、目を閉じていたのか。頬に受ける風がふと緩まって、蓮の意識は思考の淵から浮かび上がる。
空気が含む音が先程とは変わっていた。手綱を緩め、速度を落とした黒馬の蹄音とは明らかに違う轟きが前方から響いてくる。見上げた瞳が意を得たように明るく笑った。
「心配いらない。仲間だ」
開けた視界の中、最初に見えたのは舞い上がる草の葉だった。弧を描いて蒼穹に巻き上げられた丈の長い葉が、ひらりと落ちてはまた舞い上がる。
風圧を起こしているのは鎧に身を固めた騎兵の一団だった。草の波を蹴散らして近づいてくるその数、およそ百。
藜が合図するまでもなく、黒馬は脚を止めた。目前に迫った一団はその一人一人の顔が見て取れる距離にまで近づいたところで一斉に手綱を引き、乱れることなく停止する。
「よぉ、随分ゆっくりだったな。あんまり帰って来るのが遅いから、てっきり集団行動に飽きてトンズラこいたかと思ってたぜ」
兜の庇を上げて、先頭にいた男が藜ににやりと笑いかける。隙間から覗いたのは日焼けにしては濃い褐色の肌。眇めた瞳は周囲の草原と同じ若葉の色——大陸の血筋だ。
「馬鹿言うな。お前じゃあるまいし、俺はそこまで無責任じゃない」
すかさず応えた藜の言葉に、騎兵たちから笑い声が上がる。
「ほら見ろグースフット。部下たちもお前の方が責任感がないってよ」
「何ぃ!? お前ら、いつも可愛がってやってる恩を忘れやがって」
わいわいと言い合いを始めた一団に笑いながら、藜は蓮に先頭の男を示した。
「あれがさっき言った東の大陸の戦屋だ。名前が呼びづらければグーでいい」
「おまっ……! 勝手に変な綽名をつけるな」
褐色の男は慌てた様子でこちらに馬を寄せてきた。大きな鹿毛から見下ろしてくる鎧姿は、いかにも歴戦の猛者といった風情で威圧感がある。そういった男を今まで間近で見る機会がなかった蓮は、思わず身を引いた。逃さぬとばかりに顔を覗き込んできた鋭い眼光が、まともに銀青の視線とぶつかり合う。
「どーもハジメマシテ別嬪さん。グーちゃんでーす」
顔だけは真面目にグースフットが名乗る。背中越しに藜が吹き出すのが聞こえた。
「なんだよ、文句あるのか」
「お前な。ちゃんはないだろ、ちゃんは」
「顔が怖いのは生まれつきだ。どっかを可愛くしなきゃモテねえだろう」
なあ、と再びグースフットの目が蓮に向けられる。その表情は先程とは別人のように和んでいた。くるくる変わる男の表情にどう反応していいのか分からない蓮は、ただ固まったままその顔を見返すことしかできない。
「あっちゃあ、不発か?」
「当たり前だろ。あんまりびっくりさせるな」
呆れたように溜息を吐いて、藜は蓮の頭に手を置いた。
「元『魔王』の影武者だ。逃げたいって言うから連れて来た。名前は……」
ふと言葉を切って、藜は宙に目線を泳がせた。
「そういやまだ聞いてなかったか」
「おいおい」
今度はグースフットが呆れ声を出す番だった。その顔を藜は軽く睨みつける。
「仕方ないだろ、色々バタバタしてたんだ。遅くなっちまったが、名前を教えてくれないか?」
見上げた藜の視線はまっすぐに蓮の瞳を捉えていた。グースフットが、騎馬の一団が、蓮を見ている。
「わたしは——蓮」
声が震えた。自分の名を、初めて名乗った気がした。置かれたままだった手が、くしゃりと髪を撫でる。
「蓮か。いい名前だな。俺は」
「アカザ。『戦士』の藜」
驚いたように藜の眉が跳ねる。
「知ってたのか」
「みがわりだったから——『魔王』の」
「ああ。ああ、そうだな」
納得した様子で藜が頷く。戦の最中に、敵の総大将の名前を知らないという方がおかしい。
ふと思いついて、蓮は藜とグースフットを交互に見やった。
「あなたたちはしっているの? 『魔王』のなまえを」
男たちは顔を見合わせる。ばつが悪そうな顔で藜が言った。
「いや……実は知らないんだ。名前どころか、顔も素性もな。言葉に西の大陸の訛りが少し残ってるから、向こうの生まれだってのは間違いないみたいだが。それ以外は何も」
楝の徹底した情報制限が効いているのだろう。顔も、正体も、名前さえも不明な『魔王』。知られていなかったことが今の蓮にとっては救いだった。
「で、こいつが自分で調べに行くって飛び出してったっきり早一ヶ月。止める間もなく置いてかれた俺たちは、ホントたまったもんじゃなかったぞ」
「……すまん」
「まあお前の無鉄砲は今に始まったことじゃないけどな。で、この娘っ子以外に何か収穫はあったのか」
目を逸らしたまま藜は小さく首を横に振った。グースフットが大きな溜息を落とす。
「ま、そんなこったろうとは思ってたけどな。何にせよ無事で良かった。とっとと梓に元気なツラ見せて安心させてやれ」
「梓が、来てるのか」
「ああ。後ろの本隊でキヌアと一緒に待機してる。お前から報せが来た時、いの一番に迎えに行くって言い出したんだがな。『魔王』も近くにいることだし、遠慮してもらった」
「そうか。すまない」
「貸しひとつ、だな」
にやりと告げて、グースフットは馬首を返した。
「さーて、手の掛かる総大将の回収任務は成功だ。野郎共、戻るぞ」
グースフットの指示を受けて、騎馬団がどやどやと反転する。その様子にあまり緊張感は感じられない。私語さえ聞こえる中、隊列だけは乱れることなく草原を滑るように進み始める。
「……アズサって?」
格段に増えた蹄音の中、問う声は思いの外低くなった。草の海の彼方を彷徨っていた藜の目が、我に返ったように蓮に向く。
「ああ、梓は仲間だ。”山の民”の」
「なかま」
「……ああ、仲間だ」
藜の声は、蓮にというより己に言い聞かせるような口調だった。もっと詳しく話を聞きたいと思ったが、とても続きを頼めるような雰囲気ではない。
しばらくして、後ろから一騎分の足音が近づいてきた。藜に会釈だけして追い抜いたその騎兵は、装備の軽さから見て恐らく偵察の者だろう。迷わずグースフットに駆け寄り、何事かを報告する。頷いて、グースフットは別の騎兵に指示を出す。その兵が次の偵察係なのだろう。隊を離れて今来た方向へと戻っていく。
「大将」
グースフットが藜を呼んだ。黒毛が鹿毛と首を並べる。他の兵は心得たように少しだけ距離を置いた。
「どうした」
「おかしい。『魔王』の動きが変だ」
蓮の心臓が跳ね上がった。
「お前が寄越した情報だと、奴は南部湖沼地帯の地主を陣営に引き入れて本拠地へ帰還する途中ということだったな。説得だけで事は済んだから、出番のなかった主戦力の本隊は先に本拠地に帰して、『魔王』様本人はゆるりとご帰宅。そうだな」
「ああ」
驚いて蓮は藜を見上げた。つい先日まで蓮が実行していた任務。藜が『魔王』の情報を集めていたのなら知っていても不思議はないが、こうして改めて聞かされると身構えざるをえない。調べられている、という警戒感。
「お前一人でふらふらしてるところを見つかったりしたら格好の的にされるからな。俺たちはわざとこっちの本隊を晒して奴がとっとと帰るよう圧力を掛けてた。実際、あちらさんはさっきまでは帰る気満々だったしな。まぁ、手勢がいないんだから接触する前に撤退するのは当たり前だが」
咄嗟に思い描いたのは、先程岩場を離れる際に見た楝の姿だった。動揺も露わに指示を下す、その姿。藜の頭にも同じ場面が浮かんだのだろう。小さく息を呑む音が背中越しに聞こえた。
「まさか」
「おうよ。追って来てるってよ。しかも一度は本拠地に帰した本隊も呼び寄せているらしい」
ちらりとグースフットは蓮を見やった。
「どうする? 今なら数はこっちが上だ。討つには絶好の機会だと思うが」
蓮は俯いた。意見など挟める立場ではない。けれど。
討つ。藜が、楝を。或いは楝が、藜を。
『魔王』が『戦士』を倒す場面なら、もう何度思い描いたか分からない。あまり考えたくはなかったが、最悪の事態として『魔王』が『戦士』に倒される場面も。けれどそこに登場する『戦士』はいつでも顔を持たない『誰か』だった。その顔が藜になる。たったそれだけで、何故こんなにも身が竦むのか。
「……いや、今は本隊との合流を急ごう」
しばらくの沈黙を挟んで、藜は言った。
「本隊と合流すれば、数の上ではもっと有利になる。『魔王』が本隊と合流するには、まだ時間がかかるはずだしな。何よりこうも突然動きを変えたのが気にかかる。今は下手に刺激しない方がいい」
「……分かった」
グースフットは頷いて後ろを振り返った。少し離れて付いてくる騎兵団に向けて大声で怒鳴る。
「おい! 緊急事態だ。本隊まで駆け足、急げ! 大将を抜いた奴にはご褒美が出るってよ!」
みなまで聞かず、黒馬が速度を上げた。二人分の重みが乗っているとは思えない速さで駆け去る尻尾に、応とばかりに百の蹄が追いすがる。
乗馬は得意な方ではない。蓮が必死で黒馬の首筋にしがみついている間に、揺れる景色は『戦士』の本隊を映し始める。たちまち近づいてくる、簡素な天幕の群。
結局黒馬は誰にも追い抜かれずに本隊の柵を潜り抜けた。さすがに息を荒げているその背から蓮が降りた頃、グースフットの鹿毛が駆け込んでくる。次々と入ってくる騎兵たちで、広かった馬場はたちまち混雑した。
先に下りていた藜が、労うように黒馬の首筋を叩いて厩番に手綱を手渡した。同じように鹿毛を係に任せたグースフットが歩み寄る。
「キヌアは……今の時間なら糧秣庫か」
「多分な」
ちらりと見上げた空は薄紅に染まりつつある。すぐに夕闇が落ちてくる、早春の黄昏。
「悪いな、少し仲間と話をしてくる。どこか適当な天幕にでも落ち着いて待っていてくれ」
「えっ……」
ここは『戦士』の陣営のど真ん中だ。当然周囲には『戦士』の兵——先程までの蓮にとっての敵しかいない。一人で置いていかれるのは、さすがに抵抗があった。
「聞いていたと思うが、『魔王』が今こっちに向かっている。これからどうするか、すぐに決めなきゃならん。それまでの間だ。待てるな」
「…………」
言い聞かせるような藜の声に思わず俯いた。その仕草を了解と受け取ったのだろう、藜の手が蓮の肩から離れる。任せる相手を探して周囲を見回していたその動きが、ふと止まった。
「別に一緒でもいいですよ? もう来ちゃいましたし」
上品な響きの声が耳に流れ込んできた。顧みた先には斜陽を弾く金の髪。反射的に楝を思い出して、蓮の身が竦む。
「キヌア、梓」
藜の声で我に返る。改めて見やった馬場の入り口には蓮より少し年上の、藜と同じ年頃の男女が姿を現していた。
金髪の主は男の方だ。楝より濃い色合いだろうか。角度によっては茶色にも見える少し癖のある髪を、頬にかかる辺りで切り揃えている。きちんとした印象の佇まいや仕立ての良い大陸風の平服は、港の倉庫街に多い船商人を連想させた。
女の方は黒髪だった。長いその髪を二つに分け、色とりどりの紐と一緒に編みこんでいる。簡素な藍色の貫頭衣から覗く襟元の白い袷襟と髪紐の緋色の対比が、夕暮れの光の中で鮮やかな色彩を放っていた。戦場でも時折見かけた”山の民”の装束だ。
「おかえり、藜さん」
小さく微笑みながら娘は言った。やや早口のその声は、普段聞き慣れているこの島の言葉とは少し違う響きを宿しているようだった。
「……ああ。心配をかけたな、梓」
複雑な表情の藜に、梓は無言で頷いてみせた。怒っているような素振りではなく、まるでやんちゃな弟へ対するような仕草だった。
「にしても藜、あの手土産はないでしょう」
既に『魔王』の追っ手の件は伝わっているのだろう。金髪の男——キヌアが呆れたように藜を見やる。
「『魔王』直々のお出ましなんて、この時点では全く想定してなかったんですからね。追い払うにしても一体どれだけの損失が出ることか」
「悪い。グースフットからも着く前に叩くかって聞かれたんだが」
「それは避けていただいて賢明でしたね。『魔王』を探りに飛び出したっきり梨のつぶてだった大将がようやく帰ってきたかと思いきや、斬り込み隊長と一緒にあっさり討ち死にしました、なんて洒落にもなりません」
「……キヌア。何かお前、いつも以上に毒がないか?」
「当然でしょう。僕がいくら工作してもできなかったことを、貴方にあっさり成功されたら腹も立ちます。『魔王』一人をおびき出すために、これまでどれほど苦労したか分かってるんですか?」
キヌアが藜の肩を叩く。藜より頭一つ低い位置にある鳶色の瞳が、不敵に笑った。
「確かにここでぶつかることは想定外でした。けれど決戦に向けた準備はもう整ってるんですよ。既に本拠地の留守居にも報せを出しました。ここで『魔王』を叩いた勢いのまま、あちらの本拠地へ一気に攻め上る。そんな戦略でいかがですか?」
「相変わらず仕事が早えなぁ、うちの軍師様は」
「当然です。次は貴方たち実働部隊に働いてもらう番ですよ、グースフット」
呆れ笑いのグースフットにすかさずキヌアが切り返す。返す刀で、鳶色の瞳が再び藜に向けられた。
「決めるのは貴方の仕事です、藜。答えは」
「……分かった。お前の言う作戦でいこう」
「他に補足事項は?」
ちらりと藜が蓮を見やる。すぐにキヌアも事情を察したらしい。
「ああ、また連れて来たんですね。言葉は?」
「大丈夫だ。通じる」
「では僕が預かります。処遇は『魔王』様にお帰り願った後にゆっくり決めれば良いでしょう」
「ああ、頼む」
藜が頷いた時、先程斥候に出た兵が馬場に走り込んで来た。すかさずグースフットが反応する。
「ご苦労さん。どうだった」
「敵は五十騎ほど。予想以上に足が速いです。ただがむしゃらに藜さんを追っている、そんな感じでした」
場の視線が藜に集まる。
「お前、一体何をしでかしたんだ」
「別に何も。『魔王』本隊とは接触していないし」
そこまで言って、はっと藜が蓮に目を向ける。
「まさか目的は蓮、お前か?」
「……ちがう」
蓮は頭を振った。それしか、できなかった。
「……まあいいでしょう。どちらにせよ、そろそろ『魔王』が追いつくはずです。問い質している時間はありません」
キヌアの台詞に敵襲、と叫ぶ見張りの声が重なった。既に傍に引かれてきていた鹿毛の手綱を受け取って、グースフットはひらりとその背に跨る。
「んじゃ、行って来るぜ。『魔王』様に一番最初に斬り込むのが俺の仕事だろ?」
「分かってるならとっとと行ってください」
「へいへい」
苦笑いを浮かべるグースフットの鞍に、そっと白い手が添えられた。
「グースフットさんさ山神様の恵みばあるように。ご武運をば」
にこりと笑って梓が言う。にやりと笑ってグースフットは素早く敬礼を返した。
「ありがとよ梓ちゃん。愛してるぜ」
片目を瞑って指先を切ると同時、グースフットは鹿毛に拍車を入れた。見る間に遠くなる背中を部下の百騎が追う。
「まったく相変わらずだな、あいつの女好きは」
呆れた色を滲ませた藜の横顔を、キヌアの三白眼が睨みつけた。
「貴方の呑気ぶりも相変わらずのようで何よりです。西の馬場に二百騎の用意ができていますから、それを連れて早く援護に行ってください。吉報を待ってますよ」
三百対五十。この戦力差だけでも、どれほど『戦士』が『魔王』を警戒しているかが分かる。
蓮が魔法で広範囲を焼き払えば、どうにかなるかもしれない。だが、楝一人で乗り切れるか。答えは——絶望的だった。
汗だけをざっと拭われた黒馬が引かれてきた。すかさず藜はその背に乗り込む。
「じゃあ、行ってくる。くれぐれも蓮を頼んだぞ」
「分かっています。目は離しません」
鋭く蓮を一瞥してキヌアが答える。その言葉通り、常に彼の視界に捉えられているのを蓮は感じていた。どうやらすっかり目をつけられてしまったらしい。
梓が藜の鞍に手を置いた。馬上と地上、二つの視線が一瞬だけ交わる。
「藜さんば御身に山神様さご加護のあるように。ご無事で」
「ああ、ありがとう」
頷きに紛れて、藜は視線を逸らしたようにも見えた。そのまま彼方の地平線へと目を向けた主を背に、黒馬はあっという間に陣地を横切っていく。
「さて、蓮といいましたか。貴女はこちらへ。梓も一緒に来てください」
「あい」
「……はい」
探るようなキヌアの視線が痛かった。しかし逃げ場所などどこにもない。蓮は目を伏せたままキヌアの後について馬場を出た。天幕の群の隙間から洩れる斜陽が厚手の生地に長く影を落としている。
どこまで逃げればいいのだろう。魔法から、『魔王』から。
蓮が己へと投げかけた問いのように、空は徐々に夜へと染め替えられていった。
***************************************************************
<予告編>
ずっと逃げ続けていた。
魔法から、
名前から、
己の本心から。
本当に守りたいものは、何だろう。
少女の前で答えが形を成した時、
島国の草創が幕を開ける。
『DOUBLE LORDS』転章11、
——わたしが、『魔王』だ。
早春の草原に闇が落ちるのは早い。見る間に薄れゆく黄昏の帳を透かして、疾駆する白い一団が近づいてくる。ぐんぐん距離を詰める彼らの馬はどれも口端に泡を散らせていた。それでもなお足りぬとばかりに、先頭の一人がさらに鞭を入れる。必死の形相で速度を増した馬が悲鳴のような嘶きを上げた。
「おいおい、もっと労ってやらなきゃ馬が可哀想だろうに」
本隊から少しだけ離れた小さな砂地を前にして、グースフットは鹿毛と部下を止めた。未だ野営地が視認できる距離、できればもう少し離れたかったが、目の当たりにした『魔王』の追撃は予想以上に必死の様子だった。砂地の向こう、草の波間に見える五十の騎影は皆同じ衣装を纏っている。蓮が身に着けていたのと同じ、簡素な袷襟の上着が首元に覗く白装束。
「あの娘っ子、一体何者なんだか……」
低く一人ごちた疑問はそのままに、グースフットは迫り来る敵を見据えた。今考えなければならない最大優先事項は、正体不明の娘のことより仇敵を討つ絶好の機会の方だ。思考を切り替えて、グースフットは右手を上げる。
「包囲の陣で行く。接触と同時に散開、絶対に固まるな。奴は人の多いところを狙って魔法を落とす。死にたくないなら全力でバラけろ」
気合の入った百の答えが返ってくる。
「すぐ後ろに大将が来てるはずだ。援軍が着くまでの間、網の底が抜けないようにだけ気をつけろ。大将と合流したら奴の指示に従え。死ぬな。以上」
白装束の先頭が砂地に踏み込んできた。グースフットの右手が下ろされる。
「行け!!」
声と同時に腰の剣を抜き放つ。即座に場は鬨の声で埋めつくされた。狭い砂地に百五十の人馬が入り乱れる。
グースフットを中心にして部下たちが両翼に広がっていくのが見える。逃げも隠れもできず、また最後まで層が厚い要の部分は、敵から最も狙われやすい場所でもある。少しでも『魔王』の気を逸らすため、グースフットは乱戦の中に躍り込んだ。
とりあえず手近な白装束に斬り掛かってみる。不意を突かれて焦った様子ながら、敵は何とか切っ先を受け止めた。二合目、三合目。相手の手から剣が落ちる。とどめを振り上げたところで、横合いから飛び出した槍が邪魔をした。すぐさま注意をそちらに移す。
槍は誰にでも扱えるが、その分遣い手の技量が試される得物だ。割り込んで来た相手はそう巧くはない。早々に見切って、穂先ごと叩き折る。
「悪ぃな」
白装束の下に鎖帷子を着込んでいることは経験で分かっていた。がら空きの胴は狙わず、喉元へと刃を走らせる。
——そんな、やり慣れた手順。
夜目にも赤く溢れるものには見向きもせず、若葉色の目線は次の相手を探す。できれば『魔王』本人を見つけたい。さしもの『魔王』も、自分が直接刃に晒される状況では魔法を撃つ余裕もなくなるだろう。藜が着くまで、もう少し。
今の時点でも倍の兵力差がある。足の速い馬に乗った部下は、既に敵の側面へ回り込もうとしている。
自分が魔法を撃つとしたらこの時機だ。数の多い敵がある程度まとまっていて、自分がまだ包囲されていない初期の段階。網が完成し乱戦になってしまうと、広範囲を攻撃する魔法では味方をも巻き込むおそれがある。
しかし怖れていた天変地異は起こらなかった。
怪訝に思うのも妙な話だ。こちらに有利な展開で戦いが進むのは大歓迎のはず。しかし何かが引っかかった。
敵と間合いを取るように装って、グースフットは傍らの草原へと鹿毛を入れた。眼差しを細めて戦場を透かし見る。『魔王』が絶対的に不利な状況下で魔法を使わない——役立たずな希望的観測を排除すれば、残るのは疑いしかなかった。
——何を狙っている?
目の前では白装束の群が必死の奮闘を繰り広げている。どれも同じような、その姿。魔法を使う時に特徴的な目標を指すあの仕草が、今は誰にも見られない。どこかにいるはずの『魔王』は、夜陰の中に完全に紛れてしまったようだった。
どれだ。どれが『魔王』だ。
『魔王』の傍近くに配された兵は、上背がある割には細身の体格の者ばかりだ。恐らく『魔王』本人がそのような容姿だからなのだろう。確かに影武者としては有効だが、兵士としての資質に恵まれた体とは言いがたい。こういった乱戦では圧倒的に不利となるのを見越してか、『魔王』はこれまで決して力ずくの戦術を採ってこなかった。
なのに今夜は違う。多勢の敵に包囲されることへの警戒は欠片も見られない。退路を絶たれようとお構いなしに、とにかく一点——『戦士』本隊への最短距離へと殺到してくる。完成しつつある網の底で『魔王』軍の集中打を受け止めるグースフットの脳裏にある一つの可能性が浮かび上がった。
——もしかして、今『魔王』は。
掴みかけた結論は背後から打ち寄せてきた馬蹄の轟きに蹴散らされた。振り返った先には、二百の兵馬の先頭に立つ漆黒の鎧姿。
「悪い、待たせた」
鹿毛の横で黒馬の手綱が引かれた。連れて来た部下は止まらずに司令塔を追い越し、我先にとばかりに砂地へ殺到する。白装束から上がる悲鳴が一際大きくなった。
「大将。やっぱり変だ」
戦場へ向ける注意はそのままに、グースフットは横目で藜の顔を見やった。
「変? 何が」
「奴が魔法を遣ってこない。こんなに不利な状況で、撃つ様子すら見せないのはおかしい。ひょっとして奴は今、魔法を遣えないんじゃないのか?」
怪訝そうな表情の藜に、いや、とグースフットはかぶりを振った。
「少し言葉が違うな。遣えないんじゃない。遣える奴があの中にはいない、その方が近い気がする」
藜の目が大きく見開かれた。
「あの影武者の群は囮で『魔王』本人はどこかに潜んでいると言うのか」
「それは分からない。だが、何か違和感がある」
グースフットの言葉に、藜は眉根を寄せて考え込む。草の壁の向こうでは剣戟の喧騒が続いている。その中の音がひとつ、一気に距離を詰めて来た。
「見つけたぞ、『戦士』——!!」
返り血に塗れた白装束が鹿毛と黒毛の間に飛び込んできた。狙いは真っ直ぐに、迷いなく黒の鎧へと向けられている。
「大将!」
グースフットの声に応えている余裕はなかった。咄嗟に抜いた腰の長刀で切っ先を受け止める。眼前で震える刃先は、それを支える腕と同様に細身ゆえの鋭利さを宿していた。
刃を合わせていたのは一瞬だった。すぐさま相手は剣を引き、次の攻撃へと移る。グースフットの姿は目に入っていないのか、その執拗な狙いはあくまで藜に向けられているようだった。
「……ッ!!!」
不意を衝かれた態勢を立て直し、藜は白装束へ反撃の刃を向ける。相手の剣は藜の長刀より短い。冷静に間合いを取れば、そう手こずる相手ではないはずだ。
白装束を乗せた馬は葦毛だった。返り血を浴びて全身に斑が飛んでいる。主人と同様、血染めのその姿は鬼気迫るものがあり、藜の背筋に寒気が走った。
幾合か打ち合ううちにグースフットとは距離が開いてしまった。目の前の白装束が破った綻びを衝いたのだろう、大分数を減らした『魔王』軍が雪崩を打って詰め掛けたせいで助けに来ることもままならないようだ。
白装束が脇腹目がけて突きを入れてきた。手綱を持ったまま、肘で切っ先を叩き落す。今度は藜が刃を突き入れた。体勢を崩しながらも白装束は紙一重で躱す。『魔王』側近には珍しい、かなりの手練だった。
「……を、返せ」
「何?」
長刀の刃先に引っかかったのか、白装束が被っていた頭巾が額のあたりでざっくりと切り落とされていた。燃えるような青い眼光が正面から藜を睨み据える。
「貴様が拐かした奴だ。あいつを返せ」
その眼差しに——そしてその顔が宿す面影に、思わず息を呑む。
「お前……蓮」
思わず呟いた名前に、鋭い舌打ちが重なる。
「気安く呼ぶな。穢らわしい」
かすかに残る西の大陸の発音。見間違えようもない、同じ面差し。そして。
白装束の左腕が上がる。あまりにも見慣れた、その仕草。
「……!!!」
咄嗟に間合いを切る。こわばった顔に、嘲りを含んだ笑い声が降って来た。
「怖いか、魔法が。怖いか、『魔王』が。勇猛で知られる『戦士』とはこんなものか。まったく笑わせる」
葦毛が一歩、後退した。既に背景には白い色はほとんど見えなくなっていた。ここが引き際と見たのだろう、血に汚れた白装束はたった一騎、切っ先を上げたまま黒鎧と相対する。
「今宵はここまでだ。次こそ必ず、蓮を返してもらう」
「待て!」
馬首を返そうとする楝を、藜は必死で呼び止めた。
「何故そんなに蓮にこだわる? 影武者なら——顔かたちが似た奴なら他にもいるだろう」
再び藜を深青の目線が射抜く。それが含む激しい憎悪は変わらない。しかし。
吐き捨てるように楝は短く何事かを呟いた。ひどく聞き取りにくいそれは大陸の言葉のようだった。藜の耳が辛うじて拾ったそれを打ち消すかのように、耳障りな笑い声が谺する。
「魔法を、『魔王』を畏れよ、賤民共。統一の日は近い。心して待つが良い」
頭巾の切れ端で再び顔を覆った楝が腕を振り上げる。たったそれだけで藜の部下は道を開けた。見えない雷の射線上、まっすぐに『魔王』の帰路が刻まれる。見下したように一同を見渡し、楝は葦毛の腹を蹴った。単騎駆け抜けるその背中を追う指示は、藜もグースフットも出さなかった。
藜の中では先程楝が落としていった異国の言葉がいつまでも響いていた。彼が語った中でたったひとつだけ、ひどく切実で、恋い慕うような色さえ滲ませたその言葉。
——家族だ。
そういう意味の単語だったはずだ。けれど今はあまりにも混乱していて、その意味を深く考えることなど出来はしなかった。
そう。混乱している。状況も、思考も、出来事も。
見上げた夜空には細い三日月がかかっていた。蓮の髪の色と同じ、その輝き。
顔が見たいと、何故かふいにそう思った。
「最初に確認しておきます」
鋭い鳶色の眼差しが蓮を正面から捉えた。
「女性ですか、男性ですか」
あくまで真顔のキヌアを蓮は思わず見返す。男装がすっかり板についているとはいえ、さすがにここまで単刀直入に己の性別を訊かれた経験はなかった。
「メノコだべや」
「分かるのですか、梓」
キヌアが傍らに立った梓に目を向ける。”山の民”の娘は悪戯っぽい表情で小さく笑った。
「グースフットさんば目が優しかったっけ」
「そうですか、成程。女性ですか」
梓の言葉に納得したように一つ頷いて、キヌアは蓮に向き直った。
「では次の質問です。貴女は『魔王』の軍にいた——それもその格好から推測するに、『魔王』の傍近くで影武者を務めていた。間違いありませんね?」
キヌアの迫力に半ば圧されるような形で蓮は頷いた。そうですか、と低くキヌアが呟く。しばらくの間、沈黙が流れた。
蓮が連れて来られたのは本隊中央に張られた大きな天幕だった。普段は作戦を練るための場所として使われているのだろう。真ん中を貫く柱の奥には大きな机が置かれ、脇の木箱には地図や書付の束が几帳面に揃えられて収まっている。立派な机の横には何故か別に小さな円卓が置かれていた。円卓の方に歩み寄った梓が隅に寄せられていた丸椅子の一つを引きずってきて、無造作に蓮に勧める。
「座ってや」
「……ありがとう」
返事の代わりに返ってきたのは静かな微笑みだった。椅子は恐らく酒樽か何かを改造したものなのだろう。かなりの重量があるそれを器用に回転させて運んできたキヌアが、蓮の真正面に陣取る。腕組みをして何かを一心に考えるその姿は藜やグースフットとはまた違った迫力があって、蓮は思わず身を固くする。
「キヌア。おっかないって」
その横に歩み寄った梓が窘めるように言う。我に返ったように視線を上げたキヌアが蓮の怯えた表情を認める。一瞬だけばつが悪そうな色を浮かべ、『戦士』の軍師は元の無表情に戻った。
「すみません。怖がらせるつもりはなかったのですけれど」
気を取り直すように咳払いをして、キヌアは改めて蓮を見やる。
「改めて自己紹介しましょうか。僕は此処で主に作戦立案を担当しているキヌアという者です。藜との関わりは……まぁ一言で言えば腐れ縁ですね。子供の頃からの付き合いです」
そういえば藜は以前大陸人の面倒を見ていたことがあると言っていたか。東の大陸出身だというグースフットとの関わりもそのような始まりなのかもしれない。納得して、蓮は頷いた。
「こちらは梓。見ての通り”山の民”の出身です」
梓が小さく頭を下げる。つられて会釈する蓮をちらりと見やり、キヌアが付け足した。
「藜の許婚でもあります」
「いいな、ずけ?」
馴染みのない単語に蓮は戸惑う。決して聞き慣れている言葉ではないが、それが持つ意味は何とか理解できた。
「藜の、およめさん……?」
「ん」
梓が頷いた。ただ事実だけを認めるような、小さな声。その中には喜びも哀しみも感じられない。同様の声音でキヌアが続けた。
「まずは釘を刺しておこうと思いまして。藜はああいう性格なので、しょっちゅう他所から人を拾ってくるんですけれどね。中には自分は特別なのだと勘違いする人もいるようなので」
「……そう」
蓮は俯いた。大きく息を吐く。落胆しているのだろうか。蓮が藜に期待をかけたように、蓮も藜にとって特別の存在でありたかったと。
いつの間にそんな気持ちを抱くようになっていたのだろうか。魔法しか取得のない自分なのに。『魔王』であるという事実を隠している、自分なのに。
「さて、次は貴女のことを聞かせてください。名前は蓮、でいいですね?」
無言のまま頷く。
「いつから『魔王』軍に?」
「……ずっとまえから」
「影武者になったのは?」
「……ずっと、まえから」
「では『魔王』の素顔を見たことはありますか?」
無言で首を振る。その表情の動きを見逃すまいと、キヌアが鳶色の眼差しを眇めた。
『魔王』の本名は。
係累はいるのか。
何故顔を隠しているのか。
魔法とは何なのか。
どの質問にも答えられなかった。首を振ることしかできない蓮に、キヌアが呆れたように溜息を落とす。
「今まで捕えた者たちと同じ、ですか。まったく秘密主義もここまで来れば大したものですね。分かりました。では、最後の質問です」
射抜くような強い目で、キヌアが真正面から蓮を見据える。
「『魔王』は女性ですか、男性ですか」
怖かった。楝が隠し続けてきた『魔王』の正体が暴かれてしまうのが無性に怖ろしかった。知らず目に浮かんだ涙が零れないよう、唇を噛みしめる。
「キヌア」
背後から肩に手が置かれた。いつの間に移動していたのだろう、蓮の真後ろに梓が立っていた。
「そんなにいじめんで。可哀想だべや」
「梓」
「な。おらに任して」
肩を掴む力はそう強くはない。けれど振り返ることは出来なかった。藜の許婚。それを知っただけなのに、何故こうも深い負い目を感じるのだろう。
キヌアも彼女には強く出られないらしい。小さく息を吐いて、二人から視線を逸らす。
「任せるって……一体何をする気ですか」
「ん。まずは着替え」
「着替え?」
「いつまでもオノコの格好じゃ可哀想。こんたら綺麗なのに」
にっこりと笑う気配が背中越しに伝わった。
「キヌア、見張ってるか?」
「……遠慮しておきます」
負けを認めるかのように両手を上げて、キヌアは立ち上がった。
「分かりました。貴女の好きにしてください。僕は仕事に戻ります。藜たちの首尾も気になりますので」
「んだか。残念」
横目で梓を睨んで、キヌアはくるりと背を向けた。
「藜とグースフットが戻ってきたら、連れて来てください。その頃には支度も整っているでしょう」
「あい」
キヌアが出て行った後、天幕には梓と蓮だけが残された。肩越しに梓が顔を覗き込んでくる。目を逸らすこともできず、蓮はその黒い瞳をおどおどと見つめ返した。
「ごめんな、悪い人ではねんだども」
黙って蓮は首を振る。キヌアの質問責めから助けてくれたのは有り難いが、今はまだその真意が分からない。静かな微笑は地顔なのだろうか、穏やかな色に紛れた梓の感情は読み取れないままだった。
「来。おらの服しか貸せねども」
拒むことも出来ず、蓮は梓について指揮所を出た。外は既に日も落ちて、空はとっぷりと闇に昏れていた。所狭しと並ぶ天幕と篝火の間を縫ってしばらく歩く。陣の北側、後方に近い辺りに梓の天幕は設けられているようだった。
「待っててな」
入り口を潜ってすぐに手際よく擦られた燐の炎が蝋燭の芯に移されて、周囲の景色が照らし出される。天幕は意外なほど小さなものだった。形良く整えられた寝床が半分を占めていて、他には身の回りのものしか置かれていないが、それだけでもほぼ満杯と言える状態になっていた。三角を描いた天井のせいで、二人も入ると手狭にさえ感じる。梓が今中を漁っているのは寝床の足元に置かれた木箱だった。古びてはいるものの色鮮やかな見慣れない文様が彫られたそれは、どうやら衣装箱のようだった。
「ほんとうに、きがえをするの?」
「ん。おめさの気に入るかは分からねども」
言いながら梓は数着の服を引っ張り出した。立ちつくすばかりの蓮の肩にそれらを宛がって、具合を確かめては次へと替えていく。
「やっぱし丈が足りんかや。のっぽだかんな」
「……あの」
今、外では藜と楝が戦っている。『戦士』と『魔王』。蓮は楝が魔法を使えないということを知っている。絶対的に有利なのは藜だと知っているが、梓はそうではないはずだ。この瞬間に藜に『魔王』の雷が落ちているかもしれないと、考えない方がおかしい。
自分が何をするべきかなど分からなかった。けれど呑気に着替えなどしている場合ではない、それだけは間違いないと思えた。この場にいるのは梓と自分、二人だけ。梓を眠らせれば逃げられる。ほんの少し、弱めた雷を首筋に流すだけ。
「おめさはそんたら格好でも綺麗だからさ。ちゃんとメノコの服着たらもっと良くなるって」
無防備な項に伸ばしかけた指先が止まる。逃げて、何をする気なのか。また魔法を遣うのか。誰に——何の為に、その指先を向けるのか。
「……メノコ、って?」
「ん」
滑り出した言葉は、思考を流れ落ちる疑問とはまったく別のものだった。着せる服が決まったのだろうか、少し足りない袖を引っ張りながら梓は顔を上げた。
「女、の、子。だべ?」
欠片の害意も感じられないその目に、思わず蓮は怯む。あくまで静かな微笑を湛えたまま、梓は行き場をなくした蓮の手に一着の服を差し出した。
「これでいいかや」
手渡されたのは細かな刺繍が施された赤い上着だった。一見して晴れ着と分かる立派な仕上がりだ。
「でも、これ」
「いいんだ。おらには少し大きいっけ」
促されて蓮はのろのろと衣装箱の傍に歩み寄る。背を向けて袷の襟を緩めていると、梓が寝床の枕元に座り込む気配がした。
「戦ばいやだな。男も女も、好きに生きられないっけ」
蓮は肩越しに振り返る。言葉そのものの意味よりも、梓の真意を測りかねた。
梓は毛布の上に座ったまま天井を見上げていた。蝋燭の炎に照らされたその横顔は、驚くほど大人びて見えた。
「おめさもそんたな格好させられて、矢面ば立たされて、可哀想に」
「……あなたはすきなひとの、およめさんになるのではないの?」
少し驚いたように、梓が蓮に目を向ける。急に恥ずかしくなって蓮は目を逸らした。何かを納得したように、梓が小さく息を落とした。
「おらには弟がいてな」
突然切り替わった話題に無言で応える。梓の一人語りに混じるのは蓮が帯を解く衣擦れの音だけだ。
「父御の跡ば継いで、次の長さなるはずだったんだども。こないだ『魔王』の雷さ撃たれてなぁ」
手も、息も止まった。今度は振り返れなかった。
「他にも村の若い衆ば何人もやられてな。父御が『戦士』と手を組むって言い出したのもそれからだっけ」
確かに幾度か”山の民”と戦った記憶はある。『戦士』の陣営に組み込まれる前に同盟を持ちかけ、断られた時に。彼らが『戦士』に付いた後、乱戦の中で。彼らは鏃に魔除の文様を彫る。『魔王』を狙って正確に撃ち込まれる矢は、他の部族のものとは一目で区別ができた。
梓の言葉はあくまで淡々と紡がれる。やけに平坦なその声が、かえって話に真実味を加えていた。
「父御は訪ねてきた藜さんば一目で気に入ってな。だども素直じゃないっけ、大将がおらを嫁にせねば味方はせんって言っちまったもんだから」
息だけで、梓は笑った。
「難しいもんだな」
何も答えられなかった。動揺を悟られないよう、呼吸を整えながら何とか着替えを終わらせる。梓へ向き直るのにはかなりの覚悟が要った。
「あら、似合うなや」
乏しい明かりの中、ぱっと梓の表情が輝いた。手首より少し上の袖を除けば赤い上着は蓮にぴったりだった。短めの裾も、男物の袴に映えて凛々しくさえ見える。
「……ありがとう」
他の言葉は思いつかなかった。立ち上がった梓がにっこりと笑って手を差し伸べる。
「蓮って呼んでもいいかや?」
「……ん」
握手をするようにふたつの手が重なる。しっかりと握り返して、梓は蓮の目を真正面から見上げてきた。
「蓮は、藜さんが好きかや?」
思いがけない言葉に、一瞬にして頭の中が混乱する。好きという言葉の意味は知っていたが、そんな感情が自分の中にあるなどということは考えたこともなかった。故郷を出てから今日までずっと戦いに次ぐ戦いで、そんな余裕などなかったということもある。ましてや藜と会ってから今ここに至るまで、今日という一日を押し流すように自分を動かしてきた心の名前など、改めて思案していたわけでもない。反射的に藜の顔を思い浮かべた途端、頬が熱くなった。
「……ごめんな」
蓮の答えを待たずに、梓は視線を逸らした。
「何もできんくて、ごめんな」
「そんなこと」
咄嗟に挟んだ蓮の言葉に、梓は小さく首を振る。
「女の子ばみんな、好きな人さお嫁様になれれば良いのにな」
「え」
思わず見返した梓の顔には諦めにも似た微笑が浮かんでいた。地顔だと思っていた、その表情。漆黒の瞳を伏せて絞った声音が蓮の鼓膜を震わせる。
「こったら罰当たりなおらに『魔王』ば雷さ落ちれば良かったんに」
その時、夜気を割って板木が叩かれる音が響いた。我に返ったように梓が顔を上げた。繋いだままの手を引いて、天幕の出口へと向き直る。
「藜さんば帰って来た。行こ」
有無を言わせず引っ張られたせいで結局梓の真意は確かめられないまま、蓮は慌しく出口を潜り抜けた。
「怪我人四十三、ですか」
眉間に皺を寄せたキヌアの声が指揮所の闇に落ちた。グースフットは黙ったまま卓の木目を睨んでいる。恐らく自分も同じような表情をしているのだろう、そう思いながら藜は頷いた。
今三人が囲んでいるのは机の隣に据えられた円卓だった。机は書物や地図を扱うところだから飲み食いは厳禁、そう言い渡してキヌアが持ち込んだ飲食専用の卓だ。『戦士』の陣営が大所帯になってきてからは作戦会議が長引くことも多く、なんやかんやで顔を突き合わせているこの面子で夕食を共にするのがいつもの流れだった。最近では藜やグースフットが入り口を潜った時点で卓の上に酒瓶が用意されていることも多い。
今宵も段取りのいいキヌアは祝杯の用意を整えていたようだったが、藜だけではなく酒豪のグースフットも卓に肘をついたまま瓶に手を伸ばす気配もなかった。
「内訳は重傷五、軽傷三十八。ほとんどがグースフット隊の者だ。相手が予想以上に粘ったせいで手傷を負った者が多い」
「まあ、こちら側に死人がいないのがせめてもの救いですけれども。それにしても向こうが魔法を遣わなかったというのが解せないですね。突然必死になったかと思いきや、無謀にもこちらの本隊へ突撃を敢行し全滅という流れも、普段の『魔王』らしくありません」
「全滅じゃない。一人取り逃がした」
ちらりとグースフットが藜を見やる。
「あれは『魔王』本人だな、大将?」
「……ああ、多分な」
問いに答える刹那、藜の脳裏に楝の激しい眼差しが甦る。同時に短く落とされた大陸の言葉も。
「本人がいた、ということは囮でもなかったわけですか。何にせよ逃がした魚は大きいですね。討ち取るのが無理ならば、せめて手傷くらいは負わせたかったところですが」
「すまない」
纏まらない思考は脇に措くとして、あの場で『魔王』を討てなかった事実は大きい。『魔王』の正体が何にせよ、先程が千載一遇の好機であったことは確かなのだ。藜は素直に頭を下げた。
「にしても腑に落ちない。何故『魔王』は魔法を遣わなかったのか」
腕組みをしたキヌアが鳶色の瞳を伏せた。考えに沈む時の癖だ。グースフットが物言いたげに藜を見やる。気づいてはいたが、藜は無言を通した。先程グースフットが述べた推論、そして目の当たりにした『魔王』の素顔。それらが指し示す先が、先程連れ帰った少女を向いていることは最早紛れもない事実だ。
あの男の縁者——おそらくは、妹。
『魔王』の遣う魔法には、一つだけ弱点がある。あまりにも強力すぎるため、的が小さい場合は意図していなかった周囲にも被害が出てしまうという、対戦する側としては手の打ちようがない弱点が。軍と呼ばれる以上、当然ながら『魔王』側も通常の兵力を持っている。魔法の命中率を下げる為にこちらの隊を小分けにすると白兵戦では不利となり、大軍で攻めかかると雷や炎で一網打尽にされる。こちらが採れる対抗策としてはせいぜいが白装束の群を見かけ次第速やかに散開すること、その程度ではとても弱点見つけたりなどと胸は張れない。しかしそんな魔法の性質が、今初めて藜にとって有利に働こうとしている。
先程の戦場は本隊に近かった。蓮のいる本隊に。『魔王』は妹を——家族を巻き込むことを怖れている。そう考えれば、あの時魔法を遣わなかった理由も説明が付く。
ひょっとすると手加減できる代物なのかもしれない。だが『魔王』は少なくとも戦場では常に全力で魔法を遣っているように見えた。まるでそうすることで己の存在の証を、大地とその場にいる凡ての者の心に刻み付けるかのように。威風堂々としたその姿があまりにも印象深いせいで、加減した魔法など藜には想像できなかった。
蓮が戦場の近くにいれば、『魔王』は魔法を使えない。
司令官としての思考が、今回の戦いで得た結論を導き出す。裏腹に、そういった打算を機械的に弾く自分に嫌気も覚えていた。
利用するというのか。身一つで己を頼ってきた、あの娘を。
「藜。『魔王』と刃を合わせたのですか」
「ああ」
「顔は、見ましたか」
「……ああ」
キヌアが伏せていた目を上げる。言葉に出さずとも訊きたいことは解っている。グースフットからも同種の視線を感じながら、藜は二人から目を逸らした。
「すまない。少し頭が混乱している」
「よく覚えていない、という意味ですか?」
無言の藜に、今度こそキヌアは失意の溜息を吐いた。
「貴方が連れて来た影武者。彼女を見て、もしや『魔王』は女性ではないかと思ったのですが」
「それはない。少なくとも俺が戦った相手は男だった」
声だけならグースフットも聞いている。異論はない様子の斬り込み隊長に、キヌアが視線を向ける。
「グースフット。貴方が『魔王』本人だと思った根拠は」
「雷撃つ時に腕を上げる、あの仕草だ」
「しかし実際には撃たなかった。理由は何だと思います?」
「撃たなかったんじゃなく、撃てなかったんだと思う」
一度ちらりと藜を見やってから、グースフットは言葉を続けた。
「最初は撃てる奴があの中にいない——影武者の群は囮かもしれないと、そう思った。だがあいつのあれは、ハッタリにしては堂に入りすぎだ。恐らく何らかの事情があって、こちらに向けて魔法を撃てない状況だったんだろう。『魔王』様ご本人は無茶な突撃をかけられるくらいぴんぴんしているとしたら、変わったのはこちらの状況——あの娘っ子の加入以外に考えられない」
「ふむ。『魔王』はあの娘を巻き込むことを怖れてでもいるのでしょうか」
キヌアの言葉に藜は思わずひやりとする。瞼の裏に再びあの激しい眼差しが甦った。
今目の前にいる二人は、共に幾つもの修羅場を潜った信頼できる仲間だ。あの男と蓮が同じ顔だったと、何故その一言が言えないのか。
庇おうとしているのか。自分は、蓮を。理由の分からない焦燥に、藜自身ひどく戸惑っていた。
不意に指揮所を包む沈黙の帳の一角が捲り上げられた。覗き込んだ二つの娘の顔に、思わず藜は息を止める。梓と蓮だった。
「おう、来たか」
すかさずグースフットが反応して樽の椅子から立ち上がった。それまでの深刻な表情はどこへやら、グースフットは如才なく手招きをして二人を呼び、用意されていた空席に案内する。藜の隣に梓を、その隣に蓮を。
「お、蓮ちゃん着替えたのか。赤いの、似合うな」
「あ……ありがとう」
蓮の上着に目敏くグースフットが声を掛ける。先程までの不穏な話題をすっかり忘れたようにちゃっかり蓮の隣に腰掛けるグースフットに、キヌアが呆れた視線を投げた。
「何だよ、文句あるのか」
「いえ、別に」
言葉とは裏腹に、明らかに文句をつけたそうな声音でキヌアが咳払いをする。
「ともかく相手の出鼻を叩くという当初の狙いは果たせたのですから、そう悲観することもないでしょう。相応の損害は与えたわけですし」
びくりと蓮が顔を上げる。その瞬間を狙っていたかのようにキヌアが言葉を継ぐ。
「貴女のお仲間の影武者軍団は全滅しましたよ。残念ながら『魔王』だけは取り逃がしたようですが」
蓮の青銀の瞳が大きく見開かれる。驚きの次にそこに浮かんだのは戸惑いの色、頼りなげに視線を揺らして、蓮は再び目を伏せた。
「……どうやって」
「魔法を撃つそぶりだけで逃げ延びたそうです。実際には遣わずに」
キヌアが円卓に身を乗り出した。
「どうして魔法を遣わなかったか、分かりますか?」
理由など分かりすぎるくらい分かっている。言えるはずもない理由に、蓮はただ首を横に振った。
「どうやら貴女は他の影武者とは少し違うようですね。あの『魔王』が特別扱いをする相手など初めて見ました」
『戦士』の軍師の声は一片の容赦もなく続く。
「貴女が傍にいれば『魔王』は魔法を遣えないと見ました。貴女には今後『戦士』の盾となってもらいます」
「キヌア」
非難するような声は梓のもの、鋭く見返したキヌアは今度ばかりは退かなかった。
「勝つか負けるかが懸かっているんです。手段を選んでなどいられません」
「にしても女の子を真正面に据えるってのはどうよ」
「心配なら貴方が護衛をすればいいでしょう。どの道最前線は貴方の担当です」
グースフットの呆れ声すらも斬って捨てて、キヌアは藜に目線を定めた。
「異存はありますか、藜」
「蓮を先頭に立てて、ここにいる兵全員で『魔王』を追撃するということか」
「いずれは本拠地から来た留守居も合流するでしょうけれど。とりあえず今はそうなりますね」
「……いくら人手が多くても、草原に紛れた人一人を探すのは無茶だろう」
「いいえ。向こうも本隊との合流を急いでいるはず。向かった方角は見当がついています」
「キヌア、その予測は多分違う」
梃子でも折れそうにない硬質の意志に、思わず藜は小さく息を吐く。
「今のあいつは本隊との合流なんか考えていない。もう一度こちらを襲う機会を窺っている。そのはずだ」
「何故そう言い切れるんです」
家族を、取り戻すためだから。
藜はきつく目を瞑った。最早形振り構っていないのはどちらも同じ。その中心にいるのは、議論の最中でおどおどと視線を彷徨わせている銀髪の少女。渦の軸となっていることを、蓮は果たして自覚しているのだろうか。
「あいつの……『魔王』の狙いは蓮だ。それは間違いない。だから」
自分は何を言おうとしているのだろうか。キヌアの立案より余程卑劣な、その手段。
「あいつ一人をおびき寄せることは出来ないか? 蓮と、俺を的にして」
虚を衝かれたようにキヌアが黙り込んだ。驚いたような顔で蓮が藜を見つめている。梓とグースフットも意外そうな眼差しを向けていた。
藜はキヌアから視線を外さない。提案に驚いているのは誰よりも自分自身だった。しかし今ここで動揺を見せるわけにはいかなかった。『魔王』が魔法を遣わない理由はあくまで予想でしかない。蓮が最前線に立ったからといって、向こうが魔法を遣わないとは言い切れないのだ。あの雷に蓮が晒される。あの恐怖に、あの威圧感に。それだけは、なんとしてでも避けたかった。
「たとえ単身でも必ずその娘を取り返しに来ると、確信しているわけですね」
「ああ」
「理由は」
「さっきの『魔王』の無茶苦茶な突撃。あれが答えだ」
またしばらく沈黙が落ちた。じりじりと灼かれるような焦燥感が腹の底を焦がす。
「待ち伏せのための仕掛けを造るとしても、周囲にそう多くの兵を伏せられるわけではありません。今とは比べ物にならないくらい護衛が薄くなりますよ」
「分かっている。どの道『魔王』相手の撒き餌だ、伏兵なんて見つかったらいい餌食にされるだろう。俺一人で十分だ」
「貴方は僕たちの大将です。戦闘時ならともかく、策の段階で危険に晒すようなことは避けたいのですが」
「だからこそだ。あいつはどうやら何が何でも自分の手で俺を討ち取りたいらしい。俺の姿を見た途端に血相を変えて襲ってきたからな。蓮と一緒にいるところを見せてやれば、間違いなく仕掛けてくる」
キヌアの目線だけの事実確認に、グースフットが肩を竦めて答える。
「それは本当だぜ。俺のこと完全に無視だったもんな、あいつ」
「キヌア、おらからも頼むっけ。『魔王』だけ討ち取れればいいんだべ? 女の子ば戦の矢面さ立てるのは、やめたって」
真摯な梓の声が重なる。その真剣な顔と、蓮のおろおろした表情とを交互に見やって、キヌアは根負けしたように大きく息を吐き出した。
「分かりました。その提案でいきましょう。その代わり、藜。今度こそ必ず貴方の手で『魔王』を討ち取ってください。それが貴方の——『戦士』の大将の務めなのですから」
「分かった」
藜が頷いた刹那、蓮の肩がこらえようもないほど大きく震えた。胸の裡を怯えとも恐怖ともつかない感情が駆け巡る。
蓮を取り戻しに、楝が来る。阻止する為に、藜が刃を抜く。藜が『魔王』を討ち取る。楝を——蓮を?
己の体をどれだけ抱きしめても、震えが止まらなかった。
本隊から少しだけ離れた小さな砂地を前にして、グースフットは鹿毛と部下を止めた。未だ野営地が視認できる距離、できればもう少し離れたかったが、目の当たりにした『魔王』の追撃は予想以上に必死の様子だった。砂地の向こう、草の波間に見える五十の騎影は皆同じ衣装を纏っている。蓮が身に着けていたのと同じ、簡素な袷襟の上着が首元に覗く白装束。
「あの娘っ子、一体何者なんだか……」
低く一人ごちた疑問はそのままに、グースフットは迫り来る敵を見据えた。今考えなければならない最大優先事項は、正体不明の娘のことより仇敵を討つ絶好の機会の方だ。思考を切り替えて、グースフットは右手を上げる。
「包囲の陣で行く。接触と同時に散開、絶対に固まるな。奴は人の多いところを狙って魔法を落とす。死にたくないなら全力でバラけろ」
気合の入った百の答えが返ってくる。
「すぐ後ろに大将が来てるはずだ。援軍が着くまでの間、網の底が抜けないようにだけ気をつけろ。大将と合流したら奴の指示に従え。死ぬな。以上」
白装束の先頭が砂地に踏み込んできた。グースフットの右手が下ろされる。
「行け!!」
声と同時に腰の剣を抜き放つ。即座に場は鬨の声で埋めつくされた。狭い砂地に百五十の人馬が入り乱れる。
グースフットを中心にして部下たちが両翼に広がっていくのが見える。逃げも隠れもできず、また最後まで層が厚い要の部分は、敵から最も狙われやすい場所でもある。少しでも『魔王』の気を逸らすため、グースフットは乱戦の中に躍り込んだ。
とりあえず手近な白装束に斬り掛かってみる。不意を突かれて焦った様子ながら、敵は何とか切っ先を受け止めた。二合目、三合目。相手の手から剣が落ちる。とどめを振り上げたところで、横合いから飛び出した槍が邪魔をした。すぐさま注意をそちらに移す。
槍は誰にでも扱えるが、その分遣い手の技量が試される得物だ。割り込んで来た相手はそう巧くはない。早々に見切って、穂先ごと叩き折る。
「悪ぃな」
白装束の下に鎖帷子を着込んでいることは経験で分かっていた。がら空きの胴は狙わず、喉元へと刃を走らせる。
——そんな、やり慣れた手順。
夜目にも赤く溢れるものには見向きもせず、若葉色の目線は次の相手を探す。できれば『魔王』本人を見つけたい。さしもの『魔王』も、自分が直接刃に晒される状況では魔法を撃つ余裕もなくなるだろう。藜が着くまで、もう少し。
今の時点でも倍の兵力差がある。足の速い馬に乗った部下は、既に敵の側面へ回り込もうとしている。
自分が魔法を撃つとしたらこの時機だ。数の多い敵がある程度まとまっていて、自分がまだ包囲されていない初期の段階。網が完成し乱戦になってしまうと、広範囲を攻撃する魔法では味方をも巻き込むおそれがある。
しかし怖れていた天変地異は起こらなかった。
怪訝に思うのも妙な話だ。こちらに有利な展開で戦いが進むのは大歓迎のはず。しかし何かが引っかかった。
敵と間合いを取るように装って、グースフットは傍らの草原へと鹿毛を入れた。眼差しを細めて戦場を透かし見る。『魔王』が絶対的に不利な状況下で魔法を使わない——役立たずな希望的観測を排除すれば、残るのは疑いしかなかった。
——何を狙っている?
目の前では白装束の群が必死の奮闘を繰り広げている。どれも同じような、その姿。魔法を使う時に特徴的な目標を指すあの仕草が、今は誰にも見られない。どこかにいるはずの『魔王』は、夜陰の中に完全に紛れてしまったようだった。
どれだ。どれが『魔王』だ。
『魔王』の傍近くに配された兵は、上背がある割には細身の体格の者ばかりだ。恐らく『魔王』本人がそのような容姿だからなのだろう。確かに影武者としては有効だが、兵士としての資質に恵まれた体とは言いがたい。こういった乱戦では圧倒的に不利となるのを見越してか、『魔王』はこれまで決して力ずくの戦術を採ってこなかった。
なのに今夜は違う。多勢の敵に包囲されることへの警戒は欠片も見られない。退路を絶たれようとお構いなしに、とにかく一点——『戦士』本隊への最短距離へと殺到してくる。完成しつつある網の底で『魔王』軍の集中打を受け止めるグースフットの脳裏にある一つの可能性が浮かび上がった。
——もしかして、今『魔王』は。
掴みかけた結論は背後から打ち寄せてきた馬蹄の轟きに蹴散らされた。振り返った先には、二百の兵馬の先頭に立つ漆黒の鎧姿。
「悪い、待たせた」
鹿毛の横で黒馬の手綱が引かれた。連れて来た部下は止まらずに司令塔を追い越し、我先にとばかりに砂地へ殺到する。白装束から上がる悲鳴が一際大きくなった。
「大将。やっぱり変だ」
戦場へ向ける注意はそのままに、グースフットは横目で藜の顔を見やった。
「変? 何が」
「奴が魔法を遣ってこない。こんなに不利な状況で、撃つ様子すら見せないのはおかしい。ひょっとして奴は今、魔法を遣えないんじゃないのか?」
怪訝そうな表情の藜に、いや、とグースフットはかぶりを振った。
「少し言葉が違うな。遣えないんじゃない。遣える奴があの中にはいない、その方が近い気がする」
藜の目が大きく見開かれた。
「あの影武者の群は囮で『魔王』本人はどこかに潜んでいると言うのか」
「それは分からない。だが、何か違和感がある」
グースフットの言葉に、藜は眉根を寄せて考え込む。草の壁の向こうでは剣戟の喧騒が続いている。その中の音がひとつ、一気に距離を詰めて来た。
「見つけたぞ、『戦士』——!!」
返り血に塗れた白装束が鹿毛と黒毛の間に飛び込んできた。狙いは真っ直ぐに、迷いなく黒の鎧へと向けられている。
「大将!」
グースフットの声に応えている余裕はなかった。咄嗟に抜いた腰の長刀で切っ先を受け止める。眼前で震える刃先は、それを支える腕と同様に細身ゆえの鋭利さを宿していた。
刃を合わせていたのは一瞬だった。すぐさま相手は剣を引き、次の攻撃へと移る。グースフットの姿は目に入っていないのか、その執拗な狙いはあくまで藜に向けられているようだった。
「……ッ!!!」
不意を衝かれた態勢を立て直し、藜は白装束へ反撃の刃を向ける。相手の剣は藜の長刀より短い。冷静に間合いを取れば、そう手こずる相手ではないはずだ。
白装束を乗せた馬は葦毛だった。返り血を浴びて全身に斑が飛んでいる。主人と同様、血染めのその姿は鬼気迫るものがあり、藜の背筋に寒気が走った。
幾合か打ち合ううちにグースフットとは距離が開いてしまった。目の前の白装束が破った綻びを衝いたのだろう、大分数を減らした『魔王』軍が雪崩を打って詰め掛けたせいで助けに来ることもままならないようだ。
白装束が脇腹目がけて突きを入れてきた。手綱を持ったまま、肘で切っ先を叩き落す。今度は藜が刃を突き入れた。体勢を崩しながらも白装束は紙一重で躱す。『魔王』側近には珍しい、かなりの手練だった。
「……を、返せ」
「何?」
長刀の刃先に引っかかったのか、白装束が被っていた頭巾が額のあたりでざっくりと切り落とされていた。燃えるような青い眼光が正面から藜を睨み据える。
「貴様が拐かした奴だ。あいつを返せ」
その眼差しに——そしてその顔が宿す面影に、思わず息を呑む。
「お前……蓮」
思わず呟いた名前に、鋭い舌打ちが重なる。
「気安く呼ぶな。穢らわしい」
かすかに残る西の大陸の発音。見間違えようもない、同じ面差し。そして。
白装束の左腕が上がる。あまりにも見慣れた、その仕草。
「……!!!」
咄嗟に間合いを切る。こわばった顔に、嘲りを含んだ笑い声が降って来た。
「怖いか、魔法が。怖いか、『魔王』が。勇猛で知られる『戦士』とはこんなものか。まったく笑わせる」
葦毛が一歩、後退した。既に背景には白い色はほとんど見えなくなっていた。ここが引き際と見たのだろう、血に汚れた白装束はたった一騎、切っ先を上げたまま黒鎧と相対する。
「今宵はここまでだ。次こそ必ず、蓮を返してもらう」
「待て!」
馬首を返そうとする楝を、藜は必死で呼び止めた。
「何故そんなに蓮にこだわる? 影武者なら——顔かたちが似た奴なら他にもいるだろう」
再び藜を深青の目線が射抜く。それが含む激しい憎悪は変わらない。しかし。
吐き捨てるように楝は短く何事かを呟いた。ひどく聞き取りにくいそれは大陸の言葉のようだった。藜の耳が辛うじて拾ったそれを打ち消すかのように、耳障りな笑い声が谺する。
「魔法を、『魔王』を畏れよ、賤民共。統一の日は近い。心して待つが良い」
頭巾の切れ端で再び顔を覆った楝が腕を振り上げる。たったそれだけで藜の部下は道を開けた。見えない雷の射線上、まっすぐに『魔王』の帰路が刻まれる。見下したように一同を見渡し、楝は葦毛の腹を蹴った。単騎駆け抜けるその背中を追う指示は、藜もグースフットも出さなかった。
藜の中では先程楝が落としていった異国の言葉がいつまでも響いていた。彼が語った中でたったひとつだけ、ひどく切実で、恋い慕うような色さえ滲ませたその言葉。
——家族だ。
そういう意味の単語だったはずだ。けれど今はあまりにも混乱していて、その意味を深く考えることなど出来はしなかった。
そう。混乱している。状況も、思考も、出来事も。
見上げた夜空には細い三日月がかかっていた。蓮の髪の色と同じ、その輝き。
顔が見たいと、何故かふいにそう思った。
「最初に確認しておきます」
鋭い鳶色の眼差しが蓮を正面から捉えた。
「女性ですか、男性ですか」
あくまで真顔のキヌアを蓮は思わず見返す。男装がすっかり板についているとはいえ、さすがにここまで単刀直入に己の性別を訊かれた経験はなかった。
「メノコだべや」
「分かるのですか、梓」
キヌアが傍らに立った梓に目を向ける。”山の民”の娘は悪戯っぽい表情で小さく笑った。
「グースフットさんば目が優しかったっけ」
「そうですか、成程。女性ですか」
梓の言葉に納得したように一つ頷いて、キヌアは蓮に向き直った。
「では次の質問です。貴女は『魔王』の軍にいた——それもその格好から推測するに、『魔王』の傍近くで影武者を務めていた。間違いありませんね?」
キヌアの迫力に半ば圧されるような形で蓮は頷いた。そうですか、と低くキヌアが呟く。しばらくの間、沈黙が流れた。
蓮が連れて来られたのは本隊中央に張られた大きな天幕だった。普段は作戦を練るための場所として使われているのだろう。真ん中を貫く柱の奥には大きな机が置かれ、脇の木箱には地図や書付の束が几帳面に揃えられて収まっている。立派な机の横には何故か別に小さな円卓が置かれていた。円卓の方に歩み寄った梓が隅に寄せられていた丸椅子の一つを引きずってきて、無造作に蓮に勧める。
「座ってや」
「……ありがとう」
返事の代わりに返ってきたのは静かな微笑みだった。椅子は恐らく酒樽か何かを改造したものなのだろう。かなりの重量があるそれを器用に回転させて運んできたキヌアが、蓮の真正面に陣取る。腕組みをして何かを一心に考えるその姿は藜やグースフットとはまた違った迫力があって、蓮は思わず身を固くする。
「キヌア。おっかないって」
その横に歩み寄った梓が窘めるように言う。我に返ったように視線を上げたキヌアが蓮の怯えた表情を認める。一瞬だけばつが悪そうな色を浮かべ、『戦士』の軍師は元の無表情に戻った。
「すみません。怖がらせるつもりはなかったのですけれど」
気を取り直すように咳払いをして、キヌアは改めて蓮を見やる。
「改めて自己紹介しましょうか。僕は此処で主に作戦立案を担当しているキヌアという者です。藜との関わりは……まぁ一言で言えば腐れ縁ですね。子供の頃からの付き合いです」
そういえば藜は以前大陸人の面倒を見ていたことがあると言っていたか。東の大陸出身だというグースフットとの関わりもそのような始まりなのかもしれない。納得して、蓮は頷いた。
「こちらは梓。見ての通り”山の民”の出身です」
梓が小さく頭を下げる。つられて会釈する蓮をちらりと見やり、キヌアが付け足した。
「藜の許婚でもあります」
「いいな、ずけ?」
馴染みのない単語に蓮は戸惑う。決して聞き慣れている言葉ではないが、それが持つ意味は何とか理解できた。
「藜の、およめさん……?」
「ん」
梓が頷いた。ただ事実だけを認めるような、小さな声。その中には喜びも哀しみも感じられない。同様の声音でキヌアが続けた。
「まずは釘を刺しておこうと思いまして。藜はああいう性格なので、しょっちゅう他所から人を拾ってくるんですけれどね。中には自分は特別なのだと勘違いする人もいるようなので」
「……そう」
蓮は俯いた。大きく息を吐く。落胆しているのだろうか。蓮が藜に期待をかけたように、蓮も藜にとって特別の存在でありたかったと。
いつの間にそんな気持ちを抱くようになっていたのだろうか。魔法しか取得のない自分なのに。『魔王』であるという事実を隠している、自分なのに。
「さて、次は貴女のことを聞かせてください。名前は蓮、でいいですね?」
無言のまま頷く。
「いつから『魔王』軍に?」
「……ずっとまえから」
「影武者になったのは?」
「……ずっと、まえから」
「では『魔王』の素顔を見たことはありますか?」
無言で首を振る。その表情の動きを見逃すまいと、キヌアが鳶色の眼差しを眇めた。
『魔王』の本名は。
係累はいるのか。
何故顔を隠しているのか。
魔法とは何なのか。
どの質問にも答えられなかった。首を振ることしかできない蓮に、キヌアが呆れたように溜息を落とす。
「今まで捕えた者たちと同じ、ですか。まったく秘密主義もここまで来れば大したものですね。分かりました。では、最後の質問です」
射抜くような強い目で、キヌアが真正面から蓮を見据える。
「『魔王』は女性ですか、男性ですか」
怖かった。楝が隠し続けてきた『魔王』の正体が暴かれてしまうのが無性に怖ろしかった。知らず目に浮かんだ涙が零れないよう、唇を噛みしめる。
「キヌア」
背後から肩に手が置かれた。いつの間に移動していたのだろう、蓮の真後ろに梓が立っていた。
「そんなにいじめんで。可哀想だべや」
「梓」
「な。おらに任して」
肩を掴む力はそう強くはない。けれど振り返ることは出来なかった。藜の許婚。それを知っただけなのに、何故こうも深い負い目を感じるのだろう。
キヌアも彼女には強く出られないらしい。小さく息を吐いて、二人から視線を逸らす。
「任せるって……一体何をする気ですか」
「ん。まずは着替え」
「着替え?」
「いつまでもオノコの格好じゃ可哀想。こんたら綺麗なのに」
にっこりと笑う気配が背中越しに伝わった。
「キヌア、見張ってるか?」
「……遠慮しておきます」
負けを認めるかのように両手を上げて、キヌアは立ち上がった。
「分かりました。貴女の好きにしてください。僕は仕事に戻ります。藜たちの首尾も気になりますので」
「んだか。残念」
横目で梓を睨んで、キヌアはくるりと背を向けた。
「藜とグースフットが戻ってきたら、連れて来てください。その頃には支度も整っているでしょう」
「あい」
キヌアが出て行った後、天幕には梓と蓮だけが残された。肩越しに梓が顔を覗き込んでくる。目を逸らすこともできず、蓮はその黒い瞳をおどおどと見つめ返した。
「ごめんな、悪い人ではねんだども」
黙って蓮は首を振る。キヌアの質問責めから助けてくれたのは有り難いが、今はまだその真意が分からない。静かな微笑は地顔なのだろうか、穏やかな色に紛れた梓の感情は読み取れないままだった。
「来。おらの服しか貸せねども」
拒むことも出来ず、蓮は梓について指揮所を出た。外は既に日も落ちて、空はとっぷりと闇に昏れていた。所狭しと並ぶ天幕と篝火の間を縫ってしばらく歩く。陣の北側、後方に近い辺りに梓の天幕は設けられているようだった。
「待っててな」
入り口を潜ってすぐに手際よく擦られた燐の炎が蝋燭の芯に移されて、周囲の景色が照らし出される。天幕は意外なほど小さなものだった。形良く整えられた寝床が半分を占めていて、他には身の回りのものしか置かれていないが、それだけでもほぼ満杯と言える状態になっていた。三角を描いた天井のせいで、二人も入ると手狭にさえ感じる。梓が今中を漁っているのは寝床の足元に置かれた木箱だった。古びてはいるものの色鮮やかな見慣れない文様が彫られたそれは、どうやら衣装箱のようだった。
「ほんとうに、きがえをするの?」
「ん。おめさの気に入るかは分からねども」
言いながら梓は数着の服を引っ張り出した。立ちつくすばかりの蓮の肩にそれらを宛がって、具合を確かめては次へと替えていく。
「やっぱし丈が足りんかや。のっぽだかんな」
「……あの」
今、外では藜と楝が戦っている。『戦士』と『魔王』。蓮は楝が魔法を使えないということを知っている。絶対的に有利なのは藜だと知っているが、梓はそうではないはずだ。この瞬間に藜に『魔王』の雷が落ちているかもしれないと、考えない方がおかしい。
自分が何をするべきかなど分からなかった。けれど呑気に着替えなどしている場合ではない、それだけは間違いないと思えた。この場にいるのは梓と自分、二人だけ。梓を眠らせれば逃げられる。ほんの少し、弱めた雷を首筋に流すだけ。
「おめさはそんたら格好でも綺麗だからさ。ちゃんとメノコの服着たらもっと良くなるって」
無防備な項に伸ばしかけた指先が止まる。逃げて、何をする気なのか。また魔法を遣うのか。誰に——何の為に、その指先を向けるのか。
「……メノコ、って?」
「ん」
滑り出した言葉は、思考を流れ落ちる疑問とはまったく別のものだった。着せる服が決まったのだろうか、少し足りない袖を引っ張りながら梓は顔を上げた。
「女、の、子。だべ?」
欠片の害意も感じられないその目に、思わず蓮は怯む。あくまで静かな微笑を湛えたまま、梓は行き場をなくした蓮の手に一着の服を差し出した。
「これでいいかや」
手渡されたのは細かな刺繍が施された赤い上着だった。一見して晴れ着と分かる立派な仕上がりだ。
「でも、これ」
「いいんだ。おらには少し大きいっけ」
促されて蓮はのろのろと衣装箱の傍に歩み寄る。背を向けて袷の襟を緩めていると、梓が寝床の枕元に座り込む気配がした。
「戦ばいやだな。男も女も、好きに生きられないっけ」
蓮は肩越しに振り返る。言葉そのものの意味よりも、梓の真意を測りかねた。
梓は毛布の上に座ったまま天井を見上げていた。蝋燭の炎に照らされたその横顔は、驚くほど大人びて見えた。
「おめさもそんたな格好させられて、矢面ば立たされて、可哀想に」
「……あなたはすきなひとの、およめさんになるのではないの?」
少し驚いたように、梓が蓮に目を向ける。急に恥ずかしくなって蓮は目を逸らした。何かを納得したように、梓が小さく息を落とした。
「おらには弟がいてな」
突然切り替わった話題に無言で応える。梓の一人語りに混じるのは蓮が帯を解く衣擦れの音だけだ。
「父御の跡ば継いで、次の長さなるはずだったんだども。こないだ『魔王』の雷さ撃たれてなぁ」
手も、息も止まった。今度は振り返れなかった。
「他にも村の若い衆ば何人もやられてな。父御が『戦士』と手を組むって言い出したのもそれからだっけ」
確かに幾度か”山の民”と戦った記憶はある。『戦士』の陣営に組み込まれる前に同盟を持ちかけ、断られた時に。彼らが『戦士』に付いた後、乱戦の中で。彼らは鏃に魔除の文様を彫る。『魔王』を狙って正確に撃ち込まれる矢は、他の部族のものとは一目で区別ができた。
梓の言葉はあくまで淡々と紡がれる。やけに平坦なその声が、かえって話に真実味を加えていた。
「父御は訪ねてきた藜さんば一目で気に入ってな。だども素直じゃないっけ、大将がおらを嫁にせねば味方はせんって言っちまったもんだから」
息だけで、梓は笑った。
「難しいもんだな」
何も答えられなかった。動揺を悟られないよう、呼吸を整えながら何とか着替えを終わらせる。梓へ向き直るのにはかなりの覚悟が要った。
「あら、似合うなや」
乏しい明かりの中、ぱっと梓の表情が輝いた。手首より少し上の袖を除けば赤い上着は蓮にぴったりだった。短めの裾も、男物の袴に映えて凛々しくさえ見える。
「……ありがとう」
他の言葉は思いつかなかった。立ち上がった梓がにっこりと笑って手を差し伸べる。
「蓮って呼んでもいいかや?」
「……ん」
握手をするようにふたつの手が重なる。しっかりと握り返して、梓は蓮の目を真正面から見上げてきた。
「蓮は、藜さんが好きかや?」
思いがけない言葉に、一瞬にして頭の中が混乱する。好きという言葉の意味は知っていたが、そんな感情が自分の中にあるなどということは考えたこともなかった。故郷を出てから今日までずっと戦いに次ぐ戦いで、そんな余裕などなかったということもある。ましてや藜と会ってから今ここに至るまで、今日という一日を押し流すように自分を動かしてきた心の名前など、改めて思案していたわけでもない。反射的に藜の顔を思い浮かべた途端、頬が熱くなった。
「……ごめんな」
蓮の答えを待たずに、梓は視線を逸らした。
「何もできんくて、ごめんな」
「そんなこと」
咄嗟に挟んだ蓮の言葉に、梓は小さく首を振る。
「女の子ばみんな、好きな人さお嫁様になれれば良いのにな」
「え」
思わず見返した梓の顔には諦めにも似た微笑が浮かんでいた。地顔だと思っていた、その表情。漆黒の瞳を伏せて絞った声音が蓮の鼓膜を震わせる。
「こったら罰当たりなおらに『魔王』ば雷さ落ちれば良かったんに」
その時、夜気を割って板木が叩かれる音が響いた。我に返ったように梓が顔を上げた。繋いだままの手を引いて、天幕の出口へと向き直る。
「藜さんば帰って来た。行こ」
有無を言わせず引っ張られたせいで結局梓の真意は確かめられないまま、蓮は慌しく出口を潜り抜けた。
「怪我人四十三、ですか」
眉間に皺を寄せたキヌアの声が指揮所の闇に落ちた。グースフットは黙ったまま卓の木目を睨んでいる。恐らく自分も同じような表情をしているのだろう、そう思いながら藜は頷いた。
今三人が囲んでいるのは机の隣に据えられた円卓だった。机は書物や地図を扱うところだから飲み食いは厳禁、そう言い渡してキヌアが持ち込んだ飲食専用の卓だ。『戦士』の陣営が大所帯になってきてからは作戦会議が長引くことも多く、なんやかんやで顔を突き合わせているこの面子で夕食を共にするのがいつもの流れだった。最近では藜やグースフットが入り口を潜った時点で卓の上に酒瓶が用意されていることも多い。
今宵も段取りのいいキヌアは祝杯の用意を整えていたようだったが、藜だけではなく酒豪のグースフットも卓に肘をついたまま瓶に手を伸ばす気配もなかった。
「内訳は重傷五、軽傷三十八。ほとんどがグースフット隊の者だ。相手が予想以上に粘ったせいで手傷を負った者が多い」
「まあ、こちら側に死人がいないのがせめてもの救いですけれども。それにしても向こうが魔法を遣わなかったというのが解せないですね。突然必死になったかと思いきや、無謀にもこちらの本隊へ突撃を敢行し全滅という流れも、普段の『魔王』らしくありません」
「全滅じゃない。一人取り逃がした」
ちらりとグースフットが藜を見やる。
「あれは『魔王』本人だな、大将?」
「……ああ、多分な」
問いに答える刹那、藜の脳裏に楝の激しい眼差しが甦る。同時に短く落とされた大陸の言葉も。
「本人がいた、ということは囮でもなかったわけですか。何にせよ逃がした魚は大きいですね。討ち取るのが無理ならば、せめて手傷くらいは負わせたかったところですが」
「すまない」
纏まらない思考は脇に措くとして、あの場で『魔王』を討てなかった事実は大きい。『魔王』の正体が何にせよ、先程が千載一遇の好機であったことは確かなのだ。藜は素直に頭を下げた。
「にしても腑に落ちない。何故『魔王』は魔法を遣わなかったのか」
腕組みをしたキヌアが鳶色の瞳を伏せた。考えに沈む時の癖だ。グースフットが物言いたげに藜を見やる。気づいてはいたが、藜は無言を通した。先程グースフットが述べた推論、そして目の当たりにした『魔王』の素顔。それらが指し示す先が、先程連れ帰った少女を向いていることは最早紛れもない事実だ。
あの男の縁者——おそらくは、妹。
『魔王』の遣う魔法には、一つだけ弱点がある。あまりにも強力すぎるため、的が小さい場合は意図していなかった周囲にも被害が出てしまうという、対戦する側としては手の打ちようがない弱点が。軍と呼ばれる以上、当然ながら『魔王』側も通常の兵力を持っている。魔法の命中率を下げる為にこちらの隊を小分けにすると白兵戦では不利となり、大軍で攻めかかると雷や炎で一網打尽にされる。こちらが採れる対抗策としてはせいぜいが白装束の群を見かけ次第速やかに散開すること、その程度ではとても弱点見つけたりなどと胸は張れない。しかしそんな魔法の性質が、今初めて藜にとって有利に働こうとしている。
先程の戦場は本隊に近かった。蓮のいる本隊に。『魔王』は妹を——家族を巻き込むことを怖れている。そう考えれば、あの時魔法を遣わなかった理由も説明が付く。
ひょっとすると手加減できる代物なのかもしれない。だが『魔王』は少なくとも戦場では常に全力で魔法を遣っているように見えた。まるでそうすることで己の存在の証を、大地とその場にいる凡ての者の心に刻み付けるかのように。威風堂々としたその姿があまりにも印象深いせいで、加減した魔法など藜には想像できなかった。
蓮が戦場の近くにいれば、『魔王』は魔法を使えない。
司令官としての思考が、今回の戦いで得た結論を導き出す。裏腹に、そういった打算を機械的に弾く自分に嫌気も覚えていた。
利用するというのか。身一つで己を頼ってきた、あの娘を。
「藜。『魔王』と刃を合わせたのですか」
「ああ」
「顔は、見ましたか」
「……ああ」
キヌアが伏せていた目を上げる。言葉に出さずとも訊きたいことは解っている。グースフットからも同種の視線を感じながら、藜は二人から目を逸らした。
「すまない。少し頭が混乱している」
「よく覚えていない、という意味ですか?」
無言の藜に、今度こそキヌアは失意の溜息を吐いた。
「貴方が連れて来た影武者。彼女を見て、もしや『魔王』は女性ではないかと思ったのですが」
「それはない。少なくとも俺が戦った相手は男だった」
声だけならグースフットも聞いている。異論はない様子の斬り込み隊長に、キヌアが視線を向ける。
「グースフット。貴方が『魔王』本人だと思った根拠は」
「雷撃つ時に腕を上げる、あの仕草だ」
「しかし実際には撃たなかった。理由は何だと思います?」
「撃たなかったんじゃなく、撃てなかったんだと思う」
一度ちらりと藜を見やってから、グースフットは言葉を続けた。
「最初は撃てる奴があの中にいない——影武者の群は囮かもしれないと、そう思った。だがあいつのあれは、ハッタリにしては堂に入りすぎだ。恐らく何らかの事情があって、こちらに向けて魔法を撃てない状況だったんだろう。『魔王』様ご本人は無茶な突撃をかけられるくらいぴんぴんしているとしたら、変わったのはこちらの状況——あの娘っ子の加入以外に考えられない」
「ふむ。『魔王』はあの娘を巻き込むことを怖れてでもいるのでしょうか」
キヌアの言葉に藜は思わずひやりとする。瞼の裏に再びあの激しい眼差しが甦った。
今目の前にいる二人は、共に幾つもの修羅場を潜った信頼できる仲間だ。あの男と蓮が同じ顔だったと、何故その一言が言えないのか。
庇おうとしているのか。自分は、蓮を。理由の分からない焦燥に、藜自身ひどく戸惑っていた。
不意に指揮所を包む沈黙の帳の一角が捲り上げられた。覗き込んだ二つの娘の顔に、思わず藜は息を止める。梓と蓮だった。
「おう、来たか」
すかさずグースフットが反応して樽の椅子から立ち上がった。それまでの深刻な表情はどこへやら、グースフットは如才なく手招きをして二人を呼び、用意されていた空席に案内する。藜の隣に梓を、その隣に蓮を。
「お、蓮ちゃん着替えたのか。赤いの、似合うな」
「あ……ありがとう」
蓮の上着に目敏くグースフットが声を掛ける。先程までの不穏な話題をすっかり忘れたようにちゃっかり蓮の隣に腰掛けるグースフットに、キヌアが呆れた視線を投げた。
「何だよ、文句あるのか」
「いえ、別に」
言葉とは裏腹に、明らかに文句をつけたそうな声音でキヌアが咳払いをする。
「ともかく相手の出鼻を叩くという当初の狙いは果たせたのですから、そう悲観することもないでしょう。相応の損害は与えたわけですし」
びくりと蓮が顔を上げる。その瞬間を狙っていたかのようにキヌアが言葉を継ぐ。
「貴女のお仲間の影武者軍団は全滅しましたよ。残念ながら『魔王』だけは取り逃がしたようですが」
蓮の青銀の瞳が大きく見開かれる。驚きの次にそこに浮かんだのは戸惑いの色、頼りなげに視線を揺らして、蓮は再び目を伏せた。
「……どうやって」
「魔法を撃つそぶりだけで逃げ延びたそうです。実際には遣わずに」
キヌアが円卓に身を乗り出した。
「どうして魔法を遣わなかったか、分かりますか?」
理由など分かりすぎるくらい分かっている。言えるはずもない理由に、蓮はただ首を横に振った。
「どうやら貴女は他の影武者とは少し違うようですね。あの『魔王』が特別扱いをする相手など初めて見ました」
『戦士』の軍師の声は一片の容赦もなく続く。
「貴女が傍にいれば『魔王』は魔法を遣えないと見ました。貴女には今後『戦士』の盾となってもらいます」
「キヌア」
非難するような声は梓のもの、鋭く見返したキヌアは今度ばかりは退かなかった。
「勝つか負けるかが懸かっているんです。手段を選んでなどいられません」
「にしても女の子を真正面に据えるってのはどうよ」
「心配なら貴方が護衛をすればいいでしょう。どの道最前線は貴方の担当です」
グースフットの呆れ声すらも斬って捨てて、キヌアは藜に目線を定めた。
「異存はありますか、藜」
「蓮を先頭に立てて、ここにいる兵全員で『魔王』を追撃するということか」
「いずれは本拠地から来た留守居も合流するでしょうけれど。とりあえず今はそうなりますね」
「……いくら人手が多くても、草原に紛れた人一人を探すのは無茶だろう」
「いいえ。向こうも本隊との合流を急いでいるはず。向かった方角は見当がついています」
「キヌア、その予測は多分違う」
梃子でも折れそうにない硬質の意志に、思わず藜は小さく息を吐く。
「今のあいつは本隊との合流なんか考えていない。もう一度こちらを襲う機会を窺っている。そのはずだ」
「何故そう言い切れるんです」
家族を、取り戻すためだから。
藜はきつく目を瞑った。最早形振り構っていないのはどちらも同じ。その中心にいるのは、議論の最中でおどおどと視線を彷徨わせている銀髪の少女。渦の軸となっていることを、蓮は果たして自覚しているのだろうか。
「あいつの……『魔王』の狙いは蓮だ。それは間違いない。だから」
自分は何を言おうとしているのだろうか。キヌアの立案より余程卑劣な、その手段。
「あいつ一人をおびき寄せることは出来ないか? 蓮と、俺を的にして」
虚を衝かれたようにキヌアが黙り込んだ。驚いたような顔で蓮が藜を見つめている。梓とグースフットも意外そうな眼差しを向けていた。
藜はキヌアから視線を外さない。提案に驚いているのは誰よりも自分自身だった。しかし今ここで動揺を見せるわけにはいかなかった。『魔王』が魔法を遣わない理由はあくまで予想でしかない。蓮が最前線に立ったからといって、向こうが魔法を遣わないとは言い切れないのだ。あの雷に蓮が晒される。あの恐怖に、あの威圧感に。それだけは、なんとしてでも避けたかった。
「たとえ単身でも必ずその娘を取り返しに来ると、確信しているわけですね」
「ああ」
「理由は」
「さっきの『魔王』の無茶苦茶な突撃。あれが答えだ」
またしばらく沈黙が落ちた。じりじりと灼かれるような焦燥感が腹の底を焦がす。
「待ち伏せのための仕掛けを造るとしても、周囲にそう多くの兵を伏せられるわけではありません。今とは比べ物にならないくらい護衛が薄くなりますよ」
「分かっている。どの道『魔王』相手の撒き餌だ、伏兵なんて見つかったらいい餌食にされるだろう。俺一人で十分だ」
「貴方は僕たちの大将です。戦闘時ならともかく、策の段階で危険に晒すようなことは避けたいのですが」
「だからこそだ。あいつはどうやら何が何でも自分の手で俺を討ち取りたいらしい。俺の姿を見た途端に血相を変えて襲ってきたからな。蓮と一緒にいるところを見せてやれば、間違いなく仕掛けてくる」
キヌアの目線だけの事実確認に、グースフットが肩を竦めて答える。
「それは本当だぜ。俺のこと完全に無視だったもんな、あいつ」
「キヌア、おらからも頼むっけ。『魔王』だけ討ち取れればいいんだべ? 女の子ば戦の矢面さ立てるのは、やめたって」
真摯な梓の声が重なる。その真剣な顔と、蓮のおろおろした表情とを交互に見やって、キヌアは根負けしたように大きく息を吐き出した。
「分かりました。その提案でいきましょう。その代わり、藜。今度こそ必ず貴方の手で『魔王』を討ち取ってください。それが貴方の——『戦士』の大将の務めなのですから」
「分かった」
藜が頷いた刹那、蓮の肩がこらえようもないほど大きく震えた。胸の裡を怯えとも恐怖ともつかない感情が駆け巡る。
蓮を取り戻しに、楝が来る。阻止する為に、藜が刃を抜く。藜が『魔王』を討ち取る。楝を——蓮を?
己の体をどれだけ抱きしめても、震えが止まらなかった。
翌朝、『戦士』の本隊は宿営地を撤収した。およそ半日で天幕の群は消えてなくなり、代わりに草の上には無数の円が残される。喧騒の真ん中にある一際大きな丸、指揮所の天幕跡地の傍らで蓮と梓は兵たちがそれぞれ自分の仕事をこなすのを眺めていた。天幕暮らしでは移動はごく日常のことだ。兵たちは手慣れた様子で円卓や机や天幕の骨組みを組木細工のように器用に馬車に乗せ、ごとごとと隊列の所定の位置へ向けて牽いていく。北を目指すための編成の都合上、この辺りは最後尾の荷馬車の待機場所になっているらしい。気がつくと周囲は荷車だらけになっていた。
やがて姿を現した藜は既に出立の準備を終えた黒馬の手綱を引いていた。続いてやって来たグースフットやキヌアも馬こそ連れてはいないものの、いつでも出発できるように身支度は整っている。
「揃いましたね。僕と梓は本隊を率いて留守居役との合流を急ぎます。態勢を整え次第、追撃援護に回りますのでそのつもりで。グースフットは今日いっぱいは僕たちと一緒に北上、のち反転。明朝までに藜がいる仕掛けの傍まで引き返し『魔王』が現れるまで気取られない距離を保ったまま伏せていてください。本隊の到着より先に『魔王』が接触してくることが予想されます。今度こそ逃がさないようにしてくださいね」
「おう」
事前に男三人で打ち合わせた内容なのだろう、手短にキヌアが確認事項を述べていく。
「ここから東に少し行ったところの、今は無人となった村を仕掛けに利用させてもらうことにしました。藜と蓮はそこで待機。既に五日分の食糧は運んであります。状況に変化があったらこの狼煙で報せを」
「ああ」
藜に手渡されたのは大陸渡りだという最新式の狼煙だった。筒状の油紙の尻から細い紐が垂れている。この紐を引くだけで煙が上がる仕掛けになっているらしい。
「移動は僕たちの姿が完全に見えなくなってからお願いします。分かっているとは思いますが、その辺に潜んでいるのであろう『魔王』に別行動をしっかりと見せつけて誘い出してください。これを好機と見たあちらは恐らく短期決戦を仕掛けてきます。早ければ明日の朝、グースフットの包囲網が完成する頃には決着が着くでしょう。それまでくれぐれも油断と無茶をしないように」
「わかった。ありがとう」
キヌアの言葉は辛口だが、藜に対する時にはいつでも気遣いが含まれているのが蓮にも分かる。軍師として、一人の友人として、それが彼なりの誠意の表現なのだろう。受けた藜は小さく目を伏せる。
「身勝手ばかりですまない。梓を頼む」
「……貴方の我侭は今に始まったことではありませんから」
大げさに溜息を吐いて、キヌアはぷいと顔を逸らした。
「話し合ってばかりでは日が暮れます。そろそろ出発しないと」
「お、もしやキヌアさんってば照れてたりする?」
グースフットの茶々に、すかさずキヌアが睨みをくれる。
「照れてなんかいません。貴方も早いところ鹿毛を連れてきてください」
「へいへい。じゃあな大将、邪魔者がいないからって蓮ちゃんに手ぇ出すなよ」
不機嫌な声に急かされて、グースフットが手を振って兵たちの群の中に紛れていく。
「したっけ、おらもそろそろ行くな。なるたけすぐに戻って来るっけ、蓮も怪我だけはせんでや」
「うん、ありがとう」
蓮の手を一度強く握って梓の手が離れる。昨夜蓮を自分の天幕に泊めてから、梓は常に傍に付き添っていてくれた。キヌアや藜と一対一にならないようにという配慮だと気づいていたから、蓮もあえて拒むことはしなかった。
しかし、ここから先は否が応でも藜と二人きりだ。昨夜の作戦会議以降、藜にどう接していいのか分からなくなってしまっていた。どうやらそれは向こうも同じようだ。あれから今に至るまで二人の視線が合わさることはなかった。黒馬に乗って草原を駆けていた時には感じられなかったぎくしゃくした雰囲気が、どうしようもなくいたたまれない。
キヌアがさっさと、梓が心配顔のまま背を向ける。二人の背中が人ごみに消えて、しばらくは荷馬車の軋みや馬の嘶きや宥める人の声などが周囲を覆っていた。しかしそれもまた、打ち鳴らされた太鼓の音を合図に潮が引くように静まっていく。
「全軍、前進」
「全軍、前進」
最初に響いたのはキヌアの声、復唱したのはグースフットの声。蓮と藜を置き去りにして、景色が一斉に動き出した。この辺りの草は丈が高い。先頭の騎馬兵が草を掻き分け、続く歩兵が根元から踏み固めて、最後尾の荷車が通れる道を作るのだろう。しばらくは通った跡が残るが、やがて草は立ち直り何事もなかったように元の姿を取り戻す。この草の海の中では、道などあってないも同然だった。
「……いつか、道を造りたいと思っているんだ」
荷馬車の群に追い越されていく中で、ぽつりと藜が呟いた。
「みち?」
「ああ。北の港と南の港を繋ぐ道だ。それがあればもっと早く移動できるし、荷物を運ぶ時にも苦労がなくなる」
「……うん」
相変わらず藜は皆が進んでいく方向に顔を向けたままだ。梓から目を逸らすのは話しづらいことがある時の藜の癖だと聞いていたから、蓮も無理に視線を合わせようとはしなかった。
昨夜、藜が戦った相手。帰還後、交わらなくなった視線。話しづらい話題の内容は予想がついていた。正直、蓮の側も身構えていた。
道を造りたい。一対一になって初めて交わした話が予想とはまったく関係のないものだったことに、妙に安心した。
「戦が終わったら、やりたいことがたくさんある。蓮はどうだ?」
「……かんがえたこともなかった」
「そうか。じゃあこれから考えてみたらどうだ? 自分が何をしたいのか」
「じぶんが、したいこと?」
最後の荷馬車がゆっくりと急ごしらえの道へと吸い込まれていく。遠ざかる車軸の擦れる音、人馬の息遣い。少しずつ、二人きりになっていく。
「そうだ。『魔王』の身代わりなんかじゃない、お前自身がやりたいことだ」
その声音には言葉以上の意味が含まれているように感じられた。思わず蓮は顔を上げる。本隊の方向ばかり見ていたはずの漆黒の瞳に思いがけず見下ろされて、知らず息を呑む。今日初めて合わせた藜の目には、複雑な感情が渦を巻いていた。
藜の口が何事か言いたげに開いた。しかし結局何も言わずに、再び視線は逸らされる。
「……そろそろ出発するか」
気まずい沈黙を断ち切るかのように、藜は黒馬を引き寄せた。その息吹がやけに大きく聞こえる。いつの間にやら『戦士』の本隊は随分遠くへ行ってしまったらしい。今、見える範囲にいるのは黒馬と藜と蓮だけ。他には何もかもを包み込む大きな空と草原と、早くも立ち直り始めた草を揺らす風しかない。
昨日と同じように、蓮の身体が黒馬の背に引き上げられる。たちまち見下ろす形になった草の波が、傾き始めた日の光に照らされて躍っていた。
荷馬車の群がつけた道を左手に見ながら、二人を乗せた黒馬はまっさらな草の中へと進んでいく。目指す村はまだ地平線の向こう側だ。
「……藜は、梓がきらいなの?」
ふと浮かんだ疑問をぶつけてみる。顔を見ないで済む分、聞きづらいことも率直に言えた。恐らく無意識なのだろう、こわばった腕を背中で感じた。
「別に嫌いってわけじゃないが……どうしてそう思う?」
「あまりしゃべっているところをみなかったから。およめさんに、なるひとなのに」
藜が小さく息を落とす。
「キヌアだな。まったくあいつは、余計なことを」
言葉を探すように、短い沈黙が降りる。
「……嫌いじゃないが、どう接していいのか分からない。多分向こうも同じなんだと思う」
「……ひとつ、きいていい?」
「何だ?」
「梓には、ほかにすきなひとがいるのではないの?」
今度の沈黙は先程より長かった。しばらく待っても返って来ない答えに、蓮は正答を悟る。
「わかっているのに、どうして?」
「仕方ないんだ。『魔王』を倒すためにはどうしても”山の民”の助けが要る」
でも、と言いかけて蓮は口を噤む。
戦ばいやだな。
そう呟いた梓の声が耳に甦る。恐らくこの戦の理不尽を最も多く引き受けている立場の彼女が零した、心からの言葉。
『魔王』を倒すために梓は望まぬ婚約を強いられ、『戦士』を倒すために蓮は男の衣装を纏って戦場に立つ。ふと、兄の手許に残して来た友人の顔が頭をよぎった。椿もまた、数多くの理不尽をあの笑顔の下で受け止めている。この島の女には、やりたいことよりやらねばならないことが多すぎる。
「どうしても、『魔王』をたおさなければならないの?」
「……そうだな」
次の質問を口にするのは覚悟が要った。言い慣れぬ言葉に、語尾が震える。
「『魔王』が、にくいの?」
核心に触れる質問に、藜が小さく息を詰めたのが分かる。蓮はきつく目を瞑った。しばらく経って落ちてきた深く大きな溜息に思わず肩先が揺れる。しかし予想に反して続く声は意外なほど穏やかだった。
「憎い、と言い切れるかどうかは、正直分からない。けれどこの島を一つにするためには、相容れない存在だというのは確かだ。お互いに邪魔な敵を潰し合って、取り込んで、そうやって最後に残った相手がお互いだった、多分それが一番近い」
「……そう」
「少なくとも俺はそう思っていた。だが——どうやら向こうは違うようだな」
わずかに開いた間に、蓮が顔を上げる。見合わせた藜の目には、先程の蓮と同じ種類の覚悟が宿っていた。
「昨夜、『魔王』の素顔を見た」
驚きと、やはりと思う気持ちと。言いたいことが蓮の身の中に溢れてくる。恐らく藜にも聞きたいことがたくさんあるのだろう。伝えたい情報も聞きたい気持ちも、度を越すとかえって言葉にはならないものだと痛感する。
「……あとでぜんぶ、はなすから」
「ああ」
吹いてきた東風が銀の短髪を揺らす。蓮は顔を正面に向け、頬でそれを受け止める。いつもは心地良いと思えるそよ風も、今ばかりはうまく感じることができなかった。
考えなければならない。藜に伝える言葉を、できるだけ誠実に、正確に。こんなに真剣に覚えている限りのこの島の言葉を思い起こしたことなど、今までなかった。
この沈黙が破られる時、新しい何かが始まる。そんな予感が張り詰めた空気全体に漂っていた。
その村は姿を現した当初、草の海に浮かぶ小船の群のように見えた。
「珍しいな、茅葺か」
長い沈黙を挟んでいたせいで藜の声は少し掠れていた。長い影が行く手に伸び始めた頃のこと、目標を見つけてからの黒馬の足は速かった。そこが今宵の休息場所だと分かっているのだろう。向かい風に立てた耳がぴんと前を向いていた。
そういえば茅葺の屋根はこの島に渡って以来ほとんど見かけなかったように思う。特徴的な柔らかな三角形に、知らず蓮の頬も緩む。
「……ひさしぶりにみた」
「大陸では多いのか?」
「うん。わたしのうまれた家も、そうだった」
思い出すこともめっきり少なくなっていた故郷の景色が胸に甦る。そう、確かにあの形だった。炊事の煙に燻されて飴色になった、急勾配の切妻屋根。蓮と、楝が生まれた場所。
「そうか。やっぱり大陸は豊かなんだな」
「どうして、こっちではすくないの?」
こんなにたくさんの材料になる草があるのに。蓮の言わんとすることを察したのだろう、藜が小さく肩を竦める気配が伝わってくる。
「手入れに手間がかかるからな。それに羊を追って暮らすなら、天幕の方が都合がいい」
草原を移動中、住人に出くわすことは滅多にない。草原の民はそのほとんどが家族単位で家畜を追って暮らす遊牧生活、もし他の集落の痕跡を見つけたら餌場が重ならないようむしろ避け合うのが礼儀だ。人が定住しているのは比較的安定した耕地が確保できる南北の貿易港近辺、それに海沿いに点々と散らばる漁村くらいのものだ。
南の港の周辺は『魔王』の本拠地となっていることもあり街らしきものが整ってきている。恐らく『戦士』の本拠地である北の港近辺も同様なのだろう。建物が密集した場所では何より火災が恐れられる。大きな街では延焼しやすい茅葺を避け、瓦や石畳を建材に使うことが多いのだと、言っていたのは楝だった。一体どこでそのような知識を仕入れてくるのか。決して親切な言い方ではなかったにしろ、楝はいつでも蓮の疑問に答えてくれたという事実に今更ながら思い至る。
一方漁村は人の多い街に比べ貧しい者が多い。漁に出られる一時期が過ぎれば、男たちは出稼ぎに行くのが常だった。地道に貯める街での労働か、一攫千金の草原での追い剥ぎか。ある程度金が溜まると、彼らは街で持ち運びのしやすい板や帆布を買って持ち帰る。女たちは村の周囲で刈り込んだ草で苫を編んで彼らを待ち、漁が始まるまでのわずかな期間でそれらを材料に傷んだ小屋を改修する。そんな生活がこの島から盗賊が消えない理由の一端だと語っていたのも楝だった。盗賊を取り締まって街での働き手を増やし、島全体を豊かにする。楝とてこの島の将来に何の展望も持っていないわけではないのだ。
いつか来る、未来のために。
どんな時でも傍にいて、蓮の疑問に答えてくれた楝は今はいない。藜に全てを話すかどうか。蓮もまた、考えなければならなかった。他でもない、自分自身の未来のために。
目の前の村は見渡す限りの草原に囲まれている。漁村ではなく、勿論街の一部でもない。忽然と現れた懐かしい茅葺屋根は、茫漠と草の海に抱かれて立ちすくんでいるようにも見える。楝か、藜か。揺れる蓮の心を体現するかのような、その姿。
「交易市か商人の休憩所だったのかもしれないな」
屋根を数えて藜が言う。草原から飛び出した出っ張りは五つばかり、しかもそれらにはびっしりと草が生えているようだった。
近づくにつれ建物の荒れ具合はいやでも目に入る。傾いた柱、崩れ落ちた屋根。集落の門の跡と思しき二本の柱の正面に一際大きな屋敷があり、左右に二つずつ小さい家がある。何とか中に入れそうなのは正面の屋敷だけのようだった。半ば草原に飲み込まれつつある庭には立派な井戸の跡がある。馬を下りてすぐに藜が中を覗き込んだが、すぐに首を振って戻ってきた。どうやら涸れ井戸らしい。
「多分この井戸の水を周辺に売ってたんだろう。水が涸れて見捨てられたか、盗賊に襲われたか。或いはその両方かもな」
井桁に残った焦げ跡を指で辿って、藜が顔を上げる。視線の先には夕闇を切り取る茅葺屋根があった。
「守護神の加護はなかったのか」
「……しゅごしん?」
「ああ。茅で葺いた家には守り神が憑くと言われているんだ。数が少なくて珍しいっていうのもあるんだろうが……そういう噂を流すことで盗賊を追い払う狙いもあったんだと思う。この島の人間は神を畏れるからな」
「藜は、かみさまをしんじているの?」
真摯に見上げる青銀の瞳に、藜は戸惑った色を浮かべる。
「どうだろうな。そんなものをこの目で見たことはないし、信じられるような生き方もしてこなかったから。だが『魔王』との決着が着くまでは、ご利益をいただきたいと思っている」
その名が引き金となった。見合わせた互いの視線の中に、今までとは違う光が潜んでいることを確認する。覚悟という名の、重く鈍いその光。
それきり無言のまま、どちらからともなく屋敷の入り口を潜る。広い土間には厩も設けられていた。藜が黒馬を中に引き入れる。寝藁の束の脇にキヌアが用意してくれた食糧が小山を作っていたが、二人は中身を確認することもなく横を素通りして板間へと上がった。
傾いた板戸で土間とは仕切られたそこは、どうやら居間として使われていた場所らしい。太い梁が天井を支えているおかげか、この部屋の中では屋根が落ちている箇所は見当たらなかった。奥にも部屋がいくつかあるようだったが、今はあえて見に行こうという気にはなれなかった。居間の真ん中に切られた灰の山に、蓮が土間に積んであった薪を並べ、藜が火を灯す。小さな炎はやがてぱちぱちと耳に快い音を立てて燃え始めた。
「うまく、いえないかもしれないけれど」
柔らかな明かりが緊張をほぐしたのだろうか。二人は焚き火を挟んで腰を下ろす。揺れる火を見つめながら、蓮が口を開いた。
「わたしがこれからはなすこと、することを、しんじてくれるとうれしい。しんじられないようなことも、あるとおもうけれど」
「……ああ」
「わたしはけっしてあなたをきずつけない。……きずつけたくない」
少しだけ躊躇うように間を置いて、蓮は目を伏せた。
「かたなを、かしてほしい」
「刀?」
藜の声に警戒が滲む。
「何をする気だ」
「あなたをまもること。そう……しゅごしんをつける」
「守護神?」
炎越しの蓮の表情はあくまで穏やかだ。少なくとも敵意は感じられない。疑うことが無駄だと思えるほど純粋に何かを為そうとしている表情、そういう風に見えた。
溜息をひとつ落として、藜は傍らに置いた長刀の鞘を引き寄せる。板間に置いたまま、ぐいと蓮の側へと押しやる。手渡さなかったのは、その間片手しか使えなくなることを警戒したからだ。
「ありがとう」
藜の緊張に気づいているのかどうか。蓮は小さく笑って黒塗りの鞘を手繰り寄せた。
漆黒の拵えは決して軽いものではない。細い指が重たげに持ち上げる動作に合わせて、鍔が立てる細かな音が鼓膜に響く。凝視する藜の目の前で蓮は柄に手をかけた。思わず伸ばしかけた腕を青銀の目線が制する。藜を刺激しないためにだろう、蓮はゆっくりと刃を抜き放った。
「きれいな、かたな」
鞘を払った刀身を火にかざして、蓮が呟く。藜は答えない。ほんのわずかの間目を伏せて、蓮は左手に柄を持ち変えた。切っ先を天井に向けたまま、己を向いた刃に右の親指を添える。
「! 何を」
「いいから」
軽く触れただけでも皮膚を切り裂く、戦場の刀。押し付けられた指からは瞬く間に赤い筋が流れ落ちる。
蓮は血の滴る己の指先を見つめた。鉄錆にも似た匂いが鼻先を掠める。この身の中に流れる刃と、盾と、意志の匂い。鋼のように硬く揺るがぬその思いを柄と共に握りしめながら、蓮は親指を刀身の鍔元へと当てた。
刹那、胸に浮かんだのは故郷の茅葺屋根だった。幾つもの星霜を越えて、色が変わり住む者が変わろうとも、身の裡に抱いた者を守ろうと願う確かな意志。
思い出した文字を、そのまま紅い色で書き上げる。たった一文字。けれどそこには確かに、蓮自身の望みが籠められていた。
これから藜が遭遇するであろう嵐から、雷から、その身を守り抜けるように。今の蓮の中にあるありったけの祈りと、願いを籠めて。
——守護神”茅”。
血文字は残されたまま、刃は再びゆっくりと鞘に納められる。柄を向けて押しやられた刀に、しかし藜はすぐには手を伸ばさなかった。
「……今のは?」
「魔法をふせげるようにした。もうあなたに、かみなりはおちてこない」
「魔法を防ぐ?」
穏やかな笑みのまま蓮は小さく頷く。藜の表情から緊張は解けていない。
「できるわけがない。もしできたとしても、何故お前にそんなことが——」
はっと藜は息を呑んだ。白装束の下に隠されていた素顔。今正面に相対している顔とそっくり同じ面影を宿す、その顔。
「もしかして、その力のために『魔王』から追われているのか? お前が魔法とは正反対の、破魔術の遣い手だから」
「ちがう」
蓮の否定はあくまで穏やかだ。その柔らかさに、藜はわけもなく苛立つ。
「だったら何故あいつはしつこくお前を追ってくるんだ。何故魔法を遣ってこないんだ。何故お前と同じ顔をしているんだ」
藜の質問のすべてを、蓮はやんわりと受け止める。乱れた息と肩を落として、藜は最後の問いを板間に零す。
「お前はあいつの——『魔王』の妹だろう」
「……あなたがあったのは、たぶんわたしの兄様。けれど、兄様は『魔王』じゃない」
小さく、けれどきっぱりと蓮は告げた。
「わたしが、『魔王』だ」
数拍の時を置いて、藜がゆるゆると顔を上げる。
「……お前が、『魔王』?」
「そう」
「信じられるか、そんなこと」
「うん」
蓮は頷く。藜の答えは予測済みのものだった。だからこれから、彼を納得させなければならない。その先に彼が出す結論がどんなものであったとしても。もうこれ以上、嘘を重ねたくはなかった。
「みて」
焚き火越し、蓮が左腕を上げる。藜を示すその仕草に、初めて会った時のようなためらいはなかった。『魔王』の無慈悲な鉄槌が下る、前触れの指先。
「……!!!!」
心より先に体が反応した。咄嗟に脇に置いたままだった長刀を引き寄せる。あの雷の前ではどんな防御も無効だと分かっているのに、腕は無意識に鞘を翳して身を守ろうとする。炎の向こうで蓮の口許が微笑を刻むのが、やけに鮮やかに見えた。
刹那、閃光が視界を埋めつくす。柔らかな焚き火の橙など根こそぎ吹き飛ばしてしまうような、全てを切り裂く白い光。
何かが砕ける音がした。腕か、足か、脇腹か。思ったほど衝撃は感じないものだと、藜はどこか人事のように考えた。これなら魔法に撃たれての最期も悪くない、そう思えるほど苦痛は覚えなかった。
馬が驚いた様子で嘶くのが聞こえる。結局あいつも巻き込んでしまったなと自嘲した瞬間、何かが引っかかる。黒馬を繋いだのは板戸を挟んだ背中越し、もし藜が雷の直撃を受けたのなら馬とて驚く程度の怪我では済まないはず。
反射的に閉じていた瞼をゆっくりと開く。最初に目に入ったのは自分の腕だった。いつも身に着けている漆黒の籠手、そして鞘。どれにも覚悟していた焼け焦げは見つからない。鞘を握り込んだまま固まっていた指を動かしてみる。動きがぎこちないのは藜自身がまだ動揺しているせいだ。骨も、腱も、筋肉も、皮膚の表面にさえ掠ったほどの傷も見当たらない。
信じられない思いのまま、藜は視線を上げた。少し寂しそうに笑う短い銀髪の少女の瞳と、真っ向からぶつかる。
蓮が『魔王』。
『魔王』の魔法を防ぎ切った、という事実。
「藜は『魔王』をたおさなければならないのでしょう」
言って、蓮は腕を下ろした。
「いまならたおせる。魔法はきかないから」
「……!!!」
思わず息を飲み込む。そう。立場は完全に逆転している。『魔王』と犠牲者から、刃を持つ者と持たぬ者へ。蓮は無抵抗の意志を示すかのように板間に腕を下ろし、青銀の瞳を伏せた。
「あなたが、ころしたいほど『魔王』をにくんでいればよかった。そうすればわたしも、まよわずたたかうことができたのに」
呟く声は上向けられた掌と同じように力がない。先程の魔法の余波で砕かれた板戸の穴から、いまだ凍えるような春の夜気が流れ込んでくる。
「なんどもかんがえた。あなたをたおすことや、兄様のところにかえること。けれどどっちも、できなかった。兄様はわたしのすべて。けれどわたしは、ただもうすこしだけ、あなたのそばでこの島のけしきをみていたかった」
一度溢れ出すともう言葉は止まらなかった。ずっと心に抱え続けていた、その重すぎる想い。
「ふつうのくらしができればよかったの。魔法なんかいらない。家族がいて、かやぶきの家があって、かみだってのばして、ときどきはきれいなふくをきて。ただ、それだけでよかったのに」
鼻の奥に痛みが走って、蓮は思わず言葉を切る。泣き方など知らない。そんなことを覚えるほど、楝は蓮を甘やかしてはくれなかった。涙など『魔王』には必要ない。なのに何故、蓮は今こんなにも苦しいのだろう。胸の中から何かに押さえつけられているようで、自然と呼吸が浅くなる。
「……一つだけ、訊きたいことがある」
低く押し殺した藜の声に、蓮が視線を上げる。藜の目は伏せられたまま、蓮の方を向いてはいない。けれど長刀の鞘を掴んだ左手はゆっくりと脇に流れていく。柄尻と床が、重く澄んだ音を立てた。
「何故、俺について来た? お前が本当に『魔王』なら、何故」
苦しくて堪らないのに、自然と笑みが零れた。藜にとっては選び抜いた末に口にした質問のはず。無数の疑問の中からそれを選び出した藜の心に、また呼吸が苦しくなった。その質問になら答えられる。蓮が返すことのできる数少ない答え。それを過たずに聴いてくれる藜になら斬られても構わない。そう思えた。
「あなたが、手をさしのべてくれたから。わたしをひとりの人として、みてくれたから」
頬を温かな滴が伝う。ただそれだけで、心が格段に楽になった。
「だからあなたに、これだけはつたえたかった。わたしとであってくれて、ありがとう」
かしゃん、と長刀の鍔が鳴った。藜の左手が黒塗りの鞘から離れる。怪訝な表情の蓮の前、藜は俯いたままだ。
「……らない」
「……え?」
聞き取りづらい掠れ声は、まるで自棄のように大きくなった。
「斬らない。斬れるわけがないだろう。いくら『魔王』だって言われたところで、俺が知ってるお前はお前でしかないんだから」
「でも、この島をひとつにするためには、やらなきゃならないのでしょう」
「大義だけじゃ人は斬れない。それが好きになった相手なら、なおさらだ」
きょとんと蓮は藜を見返す。今度は藜も視線を合わせてきた。焚き火越しに睨み上げるような目はまるで怒ってでもいるかのようだ。表情は真剣そのもの、けれど耳だけが炎に染められたように赤い。その色に、ようやく蓮は藜の言葉の意味を悟る。
「……うそ」
「嘘じゃない」
「だって」
「だっても何も、どうやらそうらしいんだから仕方ないだろう」
今度は蓮の頬が紅潮する番だった。少しだけ気を悪くしたように、藜の口がへの字に曲がる。
「……そんなに意外か?」
「だって、きのうあったばかりなのに」
「昨日? 違うだろう。俺たちはもっと前に会っている」
戦場で。
あえて口にしなかった言葉に、再び場の空気が張り詰める。
「この島をひとつにするなら、他にもやり方がある——『魔王』と『戦士』が一緒になればいい」
今度の台詞は真顔だった。一緒になる。いくら鈍感な蓮でも、その意味が理解できないほど子供ではない。
「……もし、そうなったとしたら。兄様は、どうなるの?」
「分からない。あっちの出方次第だが——俺はもう無理に倒すつもりはない。お前が説得してくれれば話し合いの余地も出てくるだろう。共存できる可能性はある」
「……梓は?」
「好きなところへ行かせるさ。それが他の男の傍だったとしても、俺はもう文句を言える立場じゃない」
おどけて肩をすくめる藜に、蓮は深く息を吐いた。
『魔王』と『戦士』、対照的だった二つの像が一つになる未来。それはあまりにも抗いがたい魅力に満ちていて、先程までとは違う種類の胸苦しさを感じた。
「蓮」
改めて呼ばれて、脈拍が跳ね上がる。見上げた藜は穏やかな表情のまま、長刀に手を掛けたところだった。鞘に納めたそれを、ためらうことなく背後へと放り投げる。破れた板戸を潜り抜け、破魔刀はすっかり暮れた闇の中に見えなくなってしまう。
「藜」
こわくないの、という問いは形を成す前に藜の答えで封じられた。
「お前が『魔王』なら、魔法に撃たれる最期も悪くない」
じり、と藜が間合いを詰める。火影に映された影がやけに大きく見えて、蓮は思わず身を竦めた。しかし髪に触れてきた指には優しさが籠っていて、体からゆるゆると力が抜けていく。
「戦が終わったら、髪を伸ばせよ。お前がしたいようにすればいい」
「……うん」
頷いた影が藜のそれと重なった。蓮の望み、藜の望み、この島に住むすべての人々の望み。
この影絵のように、すべてが一緒になれる未来を。
ただただ、それだけを願っていた。
闇の中、それは淡く銀の光を放ち始めた。燐光に映し出されたのは無造作に積まれた食糧の小山、馬の寝藁の束、埃を被った薪の残り。時ならぬ光に、まどろんでいた黒馬が訝しげな目を向ける。
光の中心にあるのは黒い長刀だった。先程黒馬の主が投げたままの格好で土間に転がっていた漆黒の拵えから、柔らかな光が零れている。微かな瞬きを繰り返しながら、やがて光は少しずつ形を成していった。
縁の粒子が薄い部分がさらに伸びて、その身の全てを覆い隠すほど長い髪に。刀身に近い部分の強い光はしなやかな手足に。息を詰めて見守る馬の目の前で、項が、頬が、額が、光の中から生まれ出してくる。まるで闇の領域を光で切り取るかのような、その生成。
人形のようにうなだれていた指がぴくりと動いた。思い出したかのように腕に力が籠り、できたばかりの体を支える。よろめきながらも立ち上がったその足が、感触を楽しむかのように何度も土を踏みしめる。
ぶる、と馬が小さく鼻を鳴らした。敏感にそれは反応し、くるりと振り返った。
長い銀の髪を透かして見える顔は、昨日主が馬の背に乗せた娘とそっくりだった。しかしあの娘よりも面影は大分幼い。身の丈も黒馬の膝を少し越えるくらいだ。落ち着かない気持ちになって、馬は蹄で寝藁を掻いた。この匂いには覚えがある。そう、顔がそっくりなあの娘と同じ匂いだ。
戦場でも時々香っていた、この匂い。微かな時はそう気にも留めていなかったが、束になるととてもいい気分になる。
光だったものが黒馬に歩み寄ってくる。その顔いっぱいに、あどけない好奇心が溢れていた。どうやら昨日の娘よりも、この光の方が香りの元に近いらしい。近づくごとに匂いは強くなり、黒馬はうっとりする。
おそるおそる、けれど遠慮のない手が黒馬へと差し出される。黒馬は自らその腕へと鼻面を寄せた。額に一点だけある、白い斑点に細い指が触れる。その感触が心地よくて、馬は思わず歯をむき出して笑った。
すべては燐光が照らす闇の中。笑顔の馬と人ならざるものはこの時、確かに平和の形を描いていた。
<予告編>
成し遂げたい者、
成さねばならぬ者。
それぞれの望みの糸は時に絡まり合い、
染め合いながらも、
決してひとすじになることなく続いていく。
『魔王』の名が紡ぐ希種流離譚。
描き出される姿は光と闇が織り成す、
影絵の中の統一に似て。
『DOUBLE LORDS』転章12、
希わくば愛しき者よ、幸いであれ。
「揃いましたね。僕と梓は本隊を率いて留守居役との合流を急ぎます。態勢を整え次第、追撃援護に回りますのでそのつもりで。グースフットは今日いっぱいは僕たちと一緒に北上、のち反転。明朝までに藜がいる仕掛けの傍まで引き返し『魔王』が現れるまで気取られない距離を保ったまま伏せていてください。本隊の到着より先に『魔王』が接触してくることが予想されます。今度こそ逃がさないようにしてくださいね」
「おう」
事前に男三人で打ち合わせた内容なのだろう、手短にキヌアが確認事項を述べていく。
「ここから東に少し行ったところの、今は無人となった村を仕掛けに利用させてもらうことにしました。藜と蓮はそこで待機。既に五日分の食糧は運んであります。状況に変化があったらこの狼煙で報せを」
「ああ」
藜に手渡されたのは大陸渡りだという最新式の狼煙だった。筒状の油紙の尻から細い紐が垂れている。この紐を引くだけで煙が上がる仕掛けになっているらしい。
「移動は僕たちの姿が完全に見えなくなってからお願いします。分かっているとは思いますが、その辺に潜んでいるのであろう『魔王』に別行動をしっかりと見せつけて誘い出してください。これを好機と見たあちらは恐らく短期決戦を仕掛けてきます。早ければ明日の朝、グースフットの包囲網が完成する頃には決着が着くでしょう。それまでくれぐれも油断と無茶をしないように」
「わかった。ありがとう」
キヌアの言葉は辛口だが、藜に対する時にはいつでも気遣いが含まれているのが蓮にも分かる。軍師として、一人の友人として、それが彼なりの誠意の表現なのだろう。受けた藜は小さく目を伏せる。
「身勝手ばかりですまない。梓を頼む」
「……貴方の我侭は今に始まったことではありませんから」
大げさに溜息を吐いて、キヌアはぷいと顔を逸らした。
「話し合ってばかりでは日が暮れます。そろそろ出発しないと」
「お、もしやキヌアさんってば照れてたりする?」
グースフットの茶々に、すかさずキヌアが睨みをくれる。
「照れてなんかいません。貴方も早いところ鹿毛を連れてきてください」
「へいへい。じゃあな大将、邪魔者がいないからって蓮ちゃんに手ぇ出すなよ」
不機嫌な声に急かされて、グースフットが手を振って兵たちの群の中に紛れていく。
「したっけ、おらもそろそろ行くな。なるたけすぐに戻って来るっけ、蓮も怪我だけはせんでや」
「うん、ありがとう」
蓮の手を一度強く握って梓の手が離れる。昨夜蓮を自分の天幕に泊めてから、梓は常に傍に付き添っていてくれた。キヌアや藜と一対一にならないようにという配慮だと気づいていたから、蓮もあえて拒むことはしなかった。
しかし、ここから先は否が応でも藜と二人きりだ。昨夜の作戦会議以降、藜にどう接していいのか分からなくなってしまっていた。どうやらそれは向こうも同じようだ。あれから今に至るまで二人の視線が合わさることはなかった。黒馬に乗って草原を駆けていた時には感じられなかったぎくしゃくした雰囲気が、どうしようもなくいたたまれない。
キヌアがさっさと、梓が心配顔のまま背を向ける。二人の背中が人ごみに消えて、しばらくは荷馬車の軋みや馬の嘶きや宥める人の声などが周囲を覆っていた。しかしそれもまた、打ち鳴らされた太鼓の音を合図に潮が引くように静まっていく。
「全軍、前進」
「全軍、前進」
最初に響いたのはキヌアの声、復唱したのはグースフットの声。蓮と藜を置き去りにして、景色が一斉に動き出した。この辺りの草は丈が高い。先頭の騎馬兵が草を掻き分け、続く歩兵が根元から踏み固めて、最後尾の荷車が通れる道を作るのだろう。しばらくは通った跡が残るが、やがて草は立ち直り何事もなかったように元の姿を取り戻す。この草の海の中では、道などあってないも同然だった。
「……いつか、道を造りたいと思っているんだ」
荷馬車の群に追い越されていく中で、ぽつりと藜が呟いた。
「みち?」
「ああ。北の港と南の港を繋ぐ道だ。それがあればもっと早く移動できるし、荷物を運ぶ時にも苦労がなくなる」
「……うん」
相変わらず藜は皆が進んでいく方向に顔を向けたままだ。梓から目を逸らすのは話しづらいことがある時の藜の癖だと聞いていたから、蓮も無理に視線を合わせようとはしなかった。
昨夜、藜が戦った相手。帰還後、交わらなくなった視線。話しづらい話題の内容は予想がついていた。正直、蓮の側も身構えていた。
道を造りたい。一対一になって初めて交わした話が予想とはまったく関係のないものだったことに、妙に安心した。
「戦が終わったら、やりたいことがたくさんある。蓮はどうだ?」
「……かんがえたこともなかった」
「そうか。じゃあこれから考えてみたらどうだ? 自分が何をしたいのか」
「じぶんが、したいこと?」
最後の荷馬車がゆっくりと急ごしらえの道へと吸い込まれていく。遠ざかる車軸の擦れる音、人馬の息遣い。少しずつ、二人きりになっていく。
「そうだ。『魔王』の身代わりなんかじゃない、お前自身がやりたいことだ」
その声音には言葉以上の意味が含まれているように感じられた。思わず蓮は顔を上げる。本隊の方向ばかり見ていたはずの漆黒の瞳に思いがけず見下ろされて、知らず息を呑む。今日初めて合わせた藜の目には、複雑な感情が渦を巻いていた。
藜の口が何事か言いたげに開いた。しかし結局何も言わずに、再び視線は逸らされる。
「……そろそろ出発するか」
気まずい沈黙を断ち切るかのように、藜は黒馬を引き寄せた。その息吹がやけに大きく聞こえる。いつの間にやら『戦士』の本隊は随分遠くへ行ってしまったらしい。今、見える範囲にいるのは黒馬と藜と蓮だけ。他には何もかもを包み込む大きな空と草原と、早くも立ち直り始めた草を揺らす風しかない。
昨日と同じように、蓮の身体が黒馬の背に引き上げられる。たちまち見下ろす形になった草の波が、傾き始めた日の光に照らされて躍っていた。
荷馬車の群がつけた道を左手に見ながら、二人を乗せた黒馬はまっさらな草の中へと進んでいく。目指す村はまだ地平線の向こう側だ。
「……藜は、梓がきらいなの?」
ふと浮かんだ疑問をぶつけてみる。顔を見ないで済む分、聞きづらいことも率直に言えた。恐らく無意識なのだろう、こわばった腕を背中で感じた。
「別に嫌いってわけじゃないが……どうしてそう思う?」
「あまりしゃべっているところをみなかったから。およめさんに、なるひとなのに」
藜が小さく息を落とす。
「キヌアだな。まったくあいつは、余計なことを」
言葉を探すように、短い沈黙が降りる。
「……嫌いじゃないが、どう接していいのか分からない。多分向こうも同じなんだと思う」
「……ひとつ、きいていい?」
「何だ?」
「梓には、ほかにすきなひとがいるのではないの?」
今度の沈黙は先程より長かった。しばらく待っても返って来ない答えに、蓮は正答を悟る。
「わかっているのに、どうして?」
「仕方ないんだ。『魔王』を倒すためにはどうしても”山の民”の助けが要る」
でも、と言いかけて蓮は口を噤む。
戦ばいやだな。
そう呟いた梓の声が耳に甦る。恐らくこの戦の理不尽を最も多く引き受けている立場の彼女が零した、心からの言葉。
『魔王』を倒すために梓は望まぬ婚約を強いられ、『戦士』を倒すために蓮は男の衣装を纏って戦場に立つ。ふと、兄の手許に残して来た友人の顔が頭をよぎった。椿もまた、数多くの理不尽をあの笑顔の下で受け止めている。この島の女には、やりたいことよりやらねばならないことが多すぎる。
「どうしても、『魔王』をたおさなければならないの?」
「……そうだな」
次の質問を口にするのは覚悟が要った。言い慣れぬ言葉に、語尾が震える。
「『魔王』が、にくいの?」
核心に触れる質問に、藜が小さく息を詰めたのが分かる。蓮はきつく目を瞑った。しばらく経って落ちてきた深く大きな溜息に思わず肩先が揺れる。しかし予想に反して続く声は意外なほど穏やかだった。
「憎い、と言い切れるかどうかは、正直分からない。けれどこの島を一つにするためには、相容れない存在だというのは確かだ。お互いに邪魔な敵を潰し合って、取り込んで、そうやって最後に残った相手がお互いだった、多分それが一番近い」
「……そう」
「少なくとも俺はそう思っていた。だが——どうやら向こうは違うようだな」
わずかに開いた間に、蓮が顔を上げる。見合わせた藜の目には、先程の蓮と同じ種類の覚悟が宿っていた。
「昨夜、『魔王』の素顔を見た」
驚きと、やはりと思う気持ちと。言いたいことが蓮の身の中に溢れてくる。恐らく藜にも聞きたいことがたくさんあるのだろう。伝えたい情報も聞きたい気持ちも、度を越すとかえって言葉にはならないものだと痛感する。
「……あとでぜんぶ、はなすから」
「ああ」
吹いてきた東風が銀の短髪を揺らす。蓮は顔を正面に向け、頬でそれを受け止める。いつもは心地良いと思えるそよ風も、今ばかりはうまく感じることができなかった。
考えなければならない。藜に伝える言葉を、できるだけ誠実に、正確に。こんなに真剣に覚えている限りのこの島の言葉を思い起こしたことなど、今までなかった。
この沈黙が破られる時、新しい何かが始まる。そんな予感が張り詰めた空気全体に漂っていた。
その村は姿を現した当初、草の海に浮かぶ小船の群のように見えた。
「珍しいな、茅葺か」
長い沈黙を挟んでいたせいで藜の声は少し掠れていた。長い影が行く手に伸び始めた頃のこと、目標を見つけてからの黒馬の足は速かった。そこが今宵の休息場所だと分かっているのだろう。向かい風に立てた耳がぴんと前を向いていた。
そういえば茅葺の屋根はこの島に渡って以来ほとんど見かけなかったように思う。特徴的な柔らかな三角形に、知らず蓮の頬も緩む。
「……ひさしぶりにみた」
「大陸では多いのか?」
「うん。わたしのうまれた家も、そうだった」
思い出すこともめっきり少なくなっていた故郷の景色が胸に甦る。そう、確かにあの形だった。炊事の煙に燻されて飴色になった、急勾配の切妻屋根。蓮と、楝が生まれた場所。
「そうか。やっぱり大陸は豊かなんだな」
「どうして、こっちではすくないの?」
こんなにたくさんの材料になる草があるのに。蓮の言わんとすることを察したのだろう、藜が小さく肩を竦める気配が伝わってくる。
「手入れに手間がかかるからな。それに羊を追って暮らすなら、天幕の方が都合がいい」
草原を移動中、住人に出くわすことは滅多にない。草原の民はそのほとんどが家族単位で家畜を追って暮らす遊牧生活、もし他の集落の痕跡を見つけたら餌場が重ならないようむしろ避け合うのが礼儀だ。人が定住しているのは比較的安定した耕地が確保できる南北の貿易港近辺、それに海沿いに点々と散らばる漁村くらいのものだ。
南の港の周辺は『魔王』の本拠地となっていることもあり街らしきものが整ってきている。恐らく『戦士』の本拠地である北の港近辺も同様なのだろう。建物が密集した場所では何より火災が恐れられる。大きな街では延焼しやすい茅葺を避け、瓦や石畳を建材に使うことが多いのだと、言っていたのは楝だった。一体どこでそのような知識を仕入れてくるのか。決して親切な言い方ではなかったにしろ、楝はいつでも蓮の疑問に答えてくれたという事実に今更ながら思い至る。
一方漁村は人の多い街に比べ貧しい者が多い。漁に出られる一時期が過ぎれば、男たちは出稼ぎに行くのが常だった。地道に貯める街での労働か、一攫千金の草原での追い剥ぎか。ある程度金が溜まると、彼らは街で持ち運びのしやすい板や帆布を買って持ち帰る。女たちは村の周囲で刈り込んだ草で苫を編んで彼らを待ち、漁が始まるまでのわずかな期間でそれらを材料に傷んだ小屋を改修する。そんな生活がこの島から盗賊が消えない理由の一端だと語っていたのも楝だった。盗賊を取り締まって街での働き手を増やし、島全体を豊かにする。楝とてこの島の将来に何の展望も持っていないわけではないのだ。
いつか来る、未来のために。
どんな時でも傍にいて、蓮の疑問に答えてくれた楝は今はいない。藜に全てを話すかどうか。蓮もまた、考えなければならなかった。他でもない、自分自身の未来のために。
目の前の村は見渡す限りの草原に囲まれている。漁村ではなく、勿論街の一部でもない。忽然と現れた懐かしい茅葺屋根は、茫漠と草の海に抱かれて立ちすくんでいるようにも見える。楝か、藜か。揺れる蓮の心を体現するかのような、その姿。
「交易市か商人の休憩所だったのかもしれないな」
屋根を数えて藜が言う。草原から飛び出した出っ張りは五つばかり、しかもそれらにはびっしりと草が生えているようだった。
近づくにつれ建物の荒れ具合はいやでも目に入る。傾いた柱、崩れ落ちた屋根。集落の門の跡と思しき二本の柱の正面に一際大きな屋敷があり、左右に二つずつ小さい家がある。何とか中に入れそうなのは正面の屋敷だけのようだった。半ば草原に飲み込まれつつある庭には立派な井戸の跡がある。馬を下りてすぐに藜が中を覗き込んだが、すぐに首を振って戻ってきた。どうやら涸れ井戸らしい。
「多分この井戸の水を周辺に売ってたんだろう。水が涸れて見捨てられたか、盗賊に襲われたか。或いはその両方かもな」
井桁に残った焦げ跡を指で辿って、藜が顔を上げる。視線の先には夕闇を切り取る茅葺屋根があった。
「守護神の加護はなかったのか」
「……しゅごしん?」
「ああ。茅で葺いた家には守り神が憑くと言われているんだ。数が少なくて珍しいっていうのもあるんだろうが……そういう噂を流すことで盗賊を追い払う狙いもあったんだと思う。この島の人間は神を畏れるからな」
「藜は、かみさまをしんじているの?」
真摯に見上げる青銀の瞳に、藜は戸惑った色を浮かべる。
「どうだろうな。そんなものをこの目で見たことはないし、信じられるような生き方もしてこなかったから。だが『魔王』との決着が着くまでは、ご利益をいただきたいと思っている」
その名が引き金となった。見合わせた互いの視線の中に、今までとは違う光が潜んでいることを確認する。覚悟という名の、重く鈍いその光。
それきり無言のまま、どちらからともなく屋敷の入り口を潜る。広い土間には厩も設けられていた。藜が黒馬を中に引き入れる。寝藁の束の脇にキヌアが用意してくれた食糧が小山を作っていたが、二人は中身を確認することもなく横を素通りして板間へと上がった。
傾いた板戸で土間とは仕切られたそこは、どうやら居間として使われていた場所らしい。太い梁が天井を支えているおかげか、この部屋の中では屋根が落ちている箇所は見当たらなかった。奥にも部屋がいくつかあるようだったが、今はあえて見に行こうという気にはなれなかった。居間の真ん中に切られた灰の山に、蓮が土間に積んであった薪を並べ、藜が火を灯す。小さな炎はやがてぱちぱちと耳に快い音を立てて燃え始めた。
「うまく、いえないかもしれないけれど」
柔らかな明かりが緊張をほぐしたのだろうか。二人は焚き火を挟んで腰を下ろす。揺れる火を見つめながら、蓮が口を開いた。
「わたしがこれからはなすこと、することを、しんじてくれるとうれしい。しんじられないようなことも、あるとおもうけれど」
「……ああ」
「わたしはけっしてあなたをきずつけない。……きずつけたくない」
少しだけ躊躇うように間を置いて、蓮は目を伏せた。
「かたなを、かしてほしい」
「刀?」
藜の声に警戒が滲む。
「何をする気だ」
「あなたをまもること。そう……しゅごしんをつける」
「守護神?」
炎越しの蓮の表情はあくまで穏やかだ。少なくとも敵意は感じられない。疑うことが無駄だと思えるほど純粋に何かを為そうとしている表情、そういう風に見えた。
溜息をひとつ落として、藜は傍らに置いた長刀の鞘を引き寄せる。板間に置いたまま、ぐいと蓮の側へと押しやる。手渡さなかったのは、その間片手しか使えなくなることを警戒したからだ。
「ありがとう」
藜の緊張に気づいているのかどうか。蓮は小さく笑って黒塗りの鞘を手繰り寄せた。
漆黒の拵えは決して軽いものではない。細い指が重たげに持ち上げる動作に合わせて、鍔が立てる細かな音が鼓膜に響く。凝視する藜の目の前で蓮は柄に手をかけた。思わず伸ばしかけた腕を青銀の目線が制する。藜を刺激しないためにだろう、蓮はゆっくりと刃を抜き放った。
「きれいな、かたな」
鞘を払った刀身を火にかざして、蓮が呟く。藜は答えない。ほんのわずかの間目を伏せて、蓮は左手に柄を持ち変えた。切っ先を天井に向けたまま、己を向いた刃に右の親指を添える。
「! 何を」
「いいから」
軽く触れただけでも皮膚を切り裂く、戦場の刀。押し付けられた指からは瞬く間に赤い筋が流れ落ちる。
蓮は血の滴る己の指先を見つめた。鉄錆にも似た匂いが鼻先を掠める。この身の中に流れる刃と、盾と、意志の匂い。鋼のように硬く揺るがぬその思いを柄と共に握りしめながら、蓮は親指を刀身の鍔元へと当てた。
刹那、胸に浮かんだのは故郷の茅葺屋根だった。幾つもの星霜を越えて、色が変わり住む者が変わろうとも、身の裡に抱いた者を守ろうと願う確かな意志。
思い出した文字を、そのまま紅い色で書き上げる。たった一文字。けれどそこには確かに、蓮自身の望みが籠められていた。
これから藜が遭遇するであろう嵐から、雷から、その身を守り抜けるように。今の蓮の中にあるありったけの祈りと、願いを籠めて。
——守護神”茅”。
血文字は残されたまま、刃は再びゆっくりと鞘に納められる。柄を向けて押しやられた刀に、しかし藜はすぐには手を伸ばさなかった。
「……今のは?」
「魔法をふせげるようにした。もうあなたに、かみなりはおちてこない」
「魔法を防ぐ?」
穏やかな笑みのまま蓮は小さく頷く。藜の表情から緊張は解けていない。
「できるわけがない。もしできたとしても、何故お前にそんなことが——」
はっと藜は息を呑んだ。白装束の下に隠されていた素顔。今正面に相対している顔とそっくり同じ面影を宿す、その顔。
「もしかして、その力のために『魔王』から追われているのか? お前が魔法とは正反対の、破魔術の遣い手だから」
「ちがう」
蓮の否定はあくまで穏やかだ。その柔らかさに、藜はわけもなく苛立つ。
「だったら何故あいつはしつこくお前を追ってくるんだ。何故魔法を遣ってこないんだ。何故お前と同じ顔をしているんだ」
藜の質問のすべてを、蓮はやんわりと受け止める。乱れた息と肩を落として、藜は最後の問いを板間に零す。
「お前はあいつの——『魔王』の妹だろう」
「……あなたがあったのは、たぶんわたしの兄様。けれど、兄様は『魔王』じゃない」
小さく、けれどきっぱりと蓮は告げた。
「わたしが、『魔王』だ」
数拍の時を置いて、藜がゆるゆると顔を上げる。
「……お前が、『魔王』?」
「そう」
「信じられるか、そんなこと」
「うん」
蓮は頷く。藜の答えは予測済みのものだった。だからこれから、彼を納得させなければならない。その先に彼が出す結論がどんなものであったとしても。もうこれ以上、嘘を重ねたくはなかった。
「みて」
焚き火越し、蓮が左腕を上げる。藜を示すその仕草に、初めて会った時のようなためらいはなかった。『魔王』の無慈悲な鉄槌が下る、前触れの指先。
「……!!!!」
心より先に体が反応した。咄嗟に脇に置いたままだった長刀を引き寄せる。あの雷の前ではどんな防御も無効だと分かっているのに、腕は無意識に鞘を翳して身を守ろうとする。炎の向こうで蓮の口許が微笑を刻むのが、やけに鮮やかに見えた。
刹那、閃光が視界を埋めつくす。柔らかな焚き火の橙など根こそぎ吹き飛ばしてしまうような、全てを切り裂く白い光。
何かが砕ける音がした。腕か、足か、脇腹か。思ったほど衝撃は感じないものだと、藜はどこか人事のように考えた。これなら魔法に撃たれての最期も悪くない、そう思えるほど苦痛は覚えなかった。
馬が驚いた様子で嘶くのが聞こえる。結局あいつも巻き込んでしまったなと自嘲した瞬間、何かが引っかかる。黒馬を繋いだのは板戸を挟んだ背中越し、もし藜が雷の直撃を受けたのなら馬とて驚く程度の怪我では済まないはず。
反射的に閉じていた瞼をゆっくりと開く。最初に目に入ったのは自分の腕だった。いつも身に着けている漆黒の籠手、そして鞘。どれにも覚悟していた焼け焦げは見つからない。鞘を握り込んだまま固まっていた指を動かしてみる。動きがぎこちないのは藜自身がまだ動揺しているせいだ。骨も、腱も、筋肉も、皮膚の表面にさえ掠ったほどの傷も見当たらない。
信じられない思いのまま、藜は視線を上げた。少し寂しそうに笑う短い銀髪の少女の瞳と、真っ向からぶつかる。
蓮が『魔王』。
『魔王』の魔法を防ぎ切った、という事実。
「藜は『魔王』をたおさなければならないのでしょう」
言って、蓮は腕を下ろした。
「いまならたおせる。魔法はきかないから」
「……!!!」
思わず息を飲み込む。そう。立場は完全に逆転している。『魔王』と犠牲者から、刃を持つ者と持たぬ者へ。蓮は無抵抗の意志を示すかのように板間に腕を下ろし、青銀の瞳を伏せた。
「あなたが、ころしたいほど『魔王』をにくんでいればよかった。そうすればわたしも、まよわずたたかうことができたのに」
呟く声は上向けられた掌と同じように力がない。先程の魔法の余波で砕かれた板戸の穴から、いまだ凍えるような春の夜気が流れ込んでくる。
「なんどもかんがえた。あなたをたおすことや、兄様のところにかえること。けれどどっちも、できなかった。兄様はわたしのすべて。けれどわたしは、ただもうすこしだけ、あなたのそばでこの島のけしきをみていたかった」
一度溢れ出すともう言葉は止まらなかった。ずっと心に抱え続けていた、その重すぎる想い。
「ふつうのくらしができればよかったの。魔法なんかいらない。家族がいて、かやぶきの家があって、かみだってのばして、ときどきはきれいなふくをきて。ただ、それだけでよかったのに」
鼻の奥に痛みが走って、蓮は思わず言葉を切る。泣き方など知らない。そんなことを覚えるほど、楝は蓮を甘やかしてはくれなかった。涙など『魔王』には必要ない。なのに何故、蓮は今こんなにも苦しいのだろう。胸の中から何かに押さえつけられているようで、自然と呼吸が浅くなる。
「……一つだけ、訊きたいことがある」
低く押し殺した藜の声に、蓮が視線を上げる。藜の目は伏せられたまま、蓮の方を向いてはいない。けれど長刀の鞘を掴んだ左手はゆっくりと脇に流れていく。柄尻と床が、重く澄んだ音を立てた。
「何故、俺について来た? お前が本当に『魔王』なら、何故」
苦しくて堪らないのに、自然と笑みが零れた。藜にとっては選び抜いた末に口にした質問のはず。無数の疑問の中からそれを選び出した藜の心に、また呼吸が苦しくなった。その質問になら答えられる。蓮が返すことのできる数少ない答え。それを過たずに聴いてくれる藜になら斬られても構わない。そう思えた。
「あなたが、手をさしのべてくれたから。わたしをひとりの人として、みてくれたから」
頬を温かな滴が伝う。ただそれだけで、心が格段に楽になった。
「だからあなたに、これだけはつたえたかった。わたしとであってくれて、ありがとう」
かしゃん、と長刀の鍔が鳴った。藜の左手が黒塗りの鞘から離れる。怪訝な表情の蓮の前、藜は俯いたままだ。
「……らない」
「……え?」
聞き取りづらい掠れ声は、まるで自棄のように大きくなった。
「斬らない。斬れるわけがないだろう。いくら『魔王』だって言われたところで、俺が知ってるお前はお前でしかないんだから」
「でも、この島をひとつにするためには、やらなきゃならないのでしょう」
「大義だけじゃ人は斬れない。それが好きになった相手なら、なおさらだ」
きょとんと蓮は藜を見返す。今度は藜も視線を合わせてきた。焚き火越しに睨み上げるような目はまるで怒ってでもいるかのようだ。表情は真剣そのもの、けれど耳だけが炎に染められたように赤い。その色に、ようやく蓮は藜の言葉の意味を悟る。
「……うそ」
「嘘じゃない」
「だって」
「だっても何も、どうやらそうらしいんだから仕方ないだろう」
今度は蓮の頬が紅潮する番だった。少しだけ気を悪くしたように、藜の口がへの字に曲がる。
「……そんなに意外か?」
「だって、きのうあったばかりなのに」
「昨日? 違うだろう。俺たちはもっと前に会っている」
戦場で。
あえて口にしなかった言葉に、再び場の空気が張り詰める。
「この島をひとつにするなら、他にもやり方がある——『魔王』と『戦士』が一緒になればいい」
今度の台詞は真顔だった。一緒になる。いくら鈍感な蓮でも、その意味が理解できないほど子供ではない。
「……もし、そうなったとしたら。兄様は、どうなるの?」
「分からない。あっちの出方次第だが——俺はもう無理に倒すつもりはない。お前が説得してくれれば話し合いの余地も出てくるだろう。共存できる可能性はある」
「……梓は?」
「好きなところへ行かせるさ。それが他の男の傍だったとしても、俺はもう文句を言える立場じゃない」
おどけて肩をすくめる藜に、蓮は深く息を吐いた。
『魔王』と『戦士』、対照的だった二つの像が一つになる未来。それはあまりにも抗いがたい魅力に満ちていて、先程までとは違う種類の胸苦しさを感じた。
「蓮」
改めて呼ばれて、脈拍が跳ね上がる。見上げた藜は穏やかな表情のまま、長刀に手を掛けたところだった。鞘に納めたそれを、ためらうことなく背後へと放り投げる。破れた板戸を潜り抜け、破魔刀はすっかり暮れた闇の中に見えなくなってしまう。
「藜」
こわくないの、という問いは形を成す前に藜の答えで封じられた。
「お前が『魔王』なら、魔法に撃たれる最期も悪くない」
じり、と藜が間合いを詰める。火影に映された影がやけに大きく見えて、蓮は思わず身を竦めた。しかし髪に触れてきた指には優しさが籠っていて、体からゆるゆると力が抜けていく。
「戦が終わったら、髪を伸ばせよ。お前がしたいようにすればいい」
「……うん」
頷いた影が藜のそれと重なった。蓮の望み、藜の望み、この島に住むすべての人々の望み。
この影絵のように、すべてが一緒になれる未来を。
ただただ、それだけを願っていた。
闇の中、それは淡く銀の光を放ち始めた。燐光に映し出されたのは無造作に積まれた食糧の小山、馬の寝藁の束、埃を被った薪の残り。時ならぬ光に、まどろんでいた黒馬が訝しげな目を向ける。
光の中心にあるのは黒い長刀だった。先程黒馬の主が投げたままの格好で土間に転がっていた漆黒の拵えから、柔らかな光が零れている。微かな瞬きを繰り返しながら、やがて光は少しずつ形を成していった。
縁の粒子が薄い部分がさらに伸びて、その身の全てを覆い隠すほど長い髪に。刀身に近い部分の強い光はしなやかな手足に。息を詰めて見守る馬の目の前で、項が、頬が、額が、光の中から生まれ出してくる。まるで闇の領域を光で切り取るかのような、その生成。
人形のようにうなだれていた指がぴくりと動いた。思い出したかのように腕に力が籠り、できたばかりの体を支える。よろめきながらも立ち上がったその足が、感触を楽しむかのように何度も土を踏みしめる。
ぶる、と馬が小さく鼻を鳴らした。敏感にそれは反応し、くるりと振り返った。
長い銀の髪を透かして見える顔は、昨日主が馬の背に乗せた娘とそっくりだった。しかしあの娘よりも面影は大分幼い。身の丈も黒馬の膝を少し越えるくらいだ。落ち着かない気持ちになって、馬は蹄で寝藁を掻いた。この匂いには覚えがある。そう、顔がそっくりなあの娘と同じ匂いだ。
戦場でも時々香っていた、この匂い。微かな時はそう気にも留めていなかったが、束になるととてもいい気分になる。
光だったものが黒馬に歩み寄ってくる。その顔いっぱいに、あどけない好奇心が溢れていた。どうやら昨日の娘よりも、この光の方が香りの元に近いらしい。近づくごとに匂いは強くなり、黒馬はうっとりする。
おそるおそる、けれど遠慮のない手が黒馬へと差し出される。黒馬は自らその腕へと鼻面を寄せた。額に一点だけある、白い斑点に細い指が触れる。その感触が心地よくて、馬は思わず歯をむき出して笑った。
すべては燐光が照らす闇の中。笑顔の馬と人ならざるものはこの時、確かに平和の形を描いていた。
***************************************************************
<予告編>
成し遂げたい者、
成さねばならぬ者。
それぞれの望みの糸は時に絡まり合い、
染め合いながらも、
決してひとすじになることなく続いていく。
『魔王』の名が紡ぐ希種流離譚。
描き出される姿は光と闇が織り成す、
影絵の中の統一に似て。
『DOUBLE LORDS』転章12、
希わくば愛しき者よ、幸いであれ。
それは明け方の月明かりにも似た、うたかたの残像。触れたところから崩れていく儚い砂絵のようなその残滓を掌から零さないよう、蓮は強く指先を握り締めた。宵と暁の境目の、澄んだ冷気が頬に心地良い。せめてあと少しだけ、夢の中に漂っていたかった。
睡余の時はやがて終わる。あやふやなくせに鋭さを増した感覚が、茅葺屋根の外から流れ込むわずかな気配さえも逃さずに肌に伝えてくる。足音を殺した蹄鉄が草を踏みしめる、かすかな音。
「来たか」
傍らの藜が身を起こした。夢の時は過ぎ去り、蓮と同じ顔を持つ現実がやって来る。急速に目覚めていく思考の中、蓮はふいに不安になる。本当にあの楝を納得させることなどできるのだろうか。
「大丈夫だ」
揺れる蓮の視線をしっかり捉えて藜は笑った。蓮と同様に手早く身支度を整えながら、しかしいつも身に着けている黒鎧には手を伸ばさない。
「……よろい、いいの?」
魔法で戦果を上げられない分、楝は武術の腕を磨いている。魔法の陰に隠れてしまって目立たないが、楝の太刀筋をいつも傍で見てきた蓮は誰よりもその苛烈さを知っている。
一度は刃を合わせた相手だ。藜も楝の技量は分かっているのだろう。小さく肩を竦めて答える。
「話し合いに鎧は必要ない。さすがに丸腰ってわけにはいかないだろうが」
言いながら藜は土間に下りた。昨夜放り捨てたままの格好で転がっていた”茅”を拾い上げる。待っていたかのように厩の中で黒馬が鼻を鳴らした。その首を軽く叩いてやって、藜は蓮を振り返る。
「俺から行くか?」
「ううん、わたしがいく」
梓がくれた赤い上着ごとぎゅっと己の体を抱きしめて、蓮は土間に降り立った。二対の漆黒の瞳に見守られ、外に通じる戸板を静かに開け放つ。最初に見えたのは明け切らぬ朱鷺色の空、続いて草間から射した暁の光。思わず細めた視界に、家の前に立つ逆光の影を捉える。縁に見える色彩は見覚えのある白と葦毛、点々と飛んだ飛沫が影の黒をさらに深めている。
「兄様」
一歩踏み出して、呼びかける。影の肩が揺れた。軽い身ごなしで葦毛から下りたその姿は戦塵と返り血に塗れている。常に『魔王』の威儀を正すことに心を砕いていたはずの、見慣れた姿とはあまりにも違う。下ろしたてだった白装束はあちこちに染みが飛び、擦り切れている箇所もあるようだ。あんなに隠し続けていた顔でさえ、裂かれた頭巾でようやっと髪と口許を覆うことしかできていない。剥き出しになった青い瞳が蓮を正確に捉えた。安堵と、悲しみと、他にぶつけようのない切なさと。常に様々な感情が交錯してぶつかり合っているせいで、楝の声の響きはいつでも不安定だ。
「何をやっているんだ、蓮。帰るぞ」
いつも通りの高みから見下すような物言いに、どうしてか蓮の目頭が熱くなった。帰る場所などどこにもない。そう思っていたはずなのに。
いつしか、お互いがいる場所が帰るところになっていた。たった二人だけの家族だから。
けれどもう、蓮は帰れない。
「兄様、はなしがあるの」
「話?」
「そう。だいじな、はなし」
背中で空気が動くのを感じる。土を踏む音、蓮の傍らに立つ気配。長刀だけを手にした藜に、楝の表情がたちまちこわばった。
「貴様」
藜は何も言わない。ただまっすぐに楝を見返す。その表情に何かを悟ったのか、楝が瞳を翻して蓮を睨む。
「蓮、まさか」
「……ごめんなさい」
楝の瞳から熱が消えた。瞬時に冷えた眼差しを覆っていくのは激しい怒り。触れるだけで芯まで凍りつきそうな、純粋な敵意が藜に向けられる。
「蓮を、返せ」
「蓮がそれを望むなら」
瞬間、青い瞳に紅蓮の炎が駆け抜ける。
「蓮、来い」
「ごめんなさい。いけない」
「俺に逆らうのか」
その声には威圧よりも傷ついた色が多く含まれていて、思わず蓮は強くかぶりを振る。
「ちがう。これできっと、兄様のねがいもかなう。この島はひとつになる。『魔王』と『戦士』がいっしょになって」
「一緒になる? ふざけるな」
楝が吐き捨てるように言う。その敵意の矛先は、再び藜に向けられた。
「貴様か。蓮にろくでもないことを吹き込みやがって」
「あんたにとってはろくでもないことかもしれない。だが俺たちにとっては、意味のあることだ」
黒鞘を持った左手で、藜は蓮の肩を引き寄せる。
「一人の男として申し込む。蓮を妻として迎え入れるための許可を頂きたい」
「断る!」
藜の言葉が終わるより先、楝が叫ぶ。
「許さん。断じて許さん。蓮、お前は自分が今何をしているのか、分かっているのか」
「わかってる」
「分かってなどいないだろう!」
楝の唇が荒げた息の下、ふと笑みを浮かべた。
「お前の正体を知っても、その男が世迷い事を抜かし続けられるとでも思っているのか? 愚かな」
蓮は無言で藜の襟元を握りしめる。
——お前が『魔王』なら。
そう言ってくれた昨夜の藜の心だけが、今の蓮の拠り所だった。肩に置かれた手に力が籠る。”茅”ごと蓮を腕に抱く藜の姿に、少しずつ楝の瞳にも理解の色が染み渡っていく。
「知って、いるというのか? 『魔王』の正体を」
小さく、けれどはっきりと蓮が頷く。その瞬間、楝の顔からあらゆる感情が抜け落ちた。憤怒、絶望、悲哀、虚脱。蒼白の頬を透かして見える、駆け抜ける深い闇。
表情を削ぎ落としたまま楝は二人に詰め寄った。無言で蓮の腕を取り、引き寄せる。それはこの細身のどこから出ているのか不思議なほど強く激しい力で、蓮は小さく悲鳴を洩らす。
「……やめろ!」
藜が楝の手を振り払う。どんな刃よりも鋭利な一瞥と共に、再び楝の腕が伸ばされる。腕の中の身体をかばうように藜が蓮を抱きしめた、その時。
鋭い風切音が空気を切り裂いた。咄嗟に身を引いた藜と楝、両者のちょうど真ん中に一本の矢が突き立つ。尾羽は北部山岳地帯の蒼穹を舞う鷹の斑模様、一分の狂いもない矢幹の先には細かな文様を彫り込んだ三角の鏃——一目でそれと知れる、”山の民”の矢だった。
一斉に甲冑の立ち上がる音が空気を満たした。一体どこにこれだけの数が伏せていたのか。廃屋の陰から、井戸の脇から、草原と繋がった庭先から。茅葺の村を囲い込んでいたのは北へ向かったはずの『戦士』の本隊だった。藜にとっては見覚えのある顔ばかり。その面々を呆然と見回し、彼らの配置先がグースフットの騎兵隊であることにようやく思い至る。何故ここに。事前に打ち合わせた仕掛けの発動にしては早すぎる。それに彼らの任務は村の包囲だけのはずだ。何故村の中へ。何故騎兵の彼らが馬を連れていない。
「お前たち、どうして」
「悪いな、大将。できれば邪魔したくはなかったんだが」
歩兵の群からのっそりと姿を現したのはグースフットだった。続いて暁の光に踏み出してきた一際小柄な姿に、今度は蓮が息を呑む。
「梓」
いつもと変わらぬ静かな笑みを蓮に向け、梓は恥ずかしそうに手にした弓を背中に隠した。
「……涸れ井戸か」
「ご名答。さすがは『魔王』様、話が早くて助かる」
緊張で張り詰めた楝の掠れ声に応えて、グースフットが軽く眉を上げる。そのさらに後ろ、土を踏みしめる足音がもう一つ。
「かつての水脈が洞窟になっていましてね。それを通路に利用させていただきました」
「キヌア、お前まで」
軍師が最前線に姿を現すことなど滅多にない。ましてや今対峙している相手は『魔王』なのだ。驚きで言葉が続かない藜をちらりと一瞥し、キヌアは楝に注意を向ける。
「内輪の話は後です、藜。早く討ち取ってください」
誰を、など。あえて言い添えるまでもない。腕の中の肩が大きく震え、対峙した楝の眼光が鋭さを増す。
「貴様、謀ったか。どこまでも卑劣な手を」
「違う!」
『魔王』を討つ。それは今や『戦士』の最後にして最大の目的だ。『魔王』は目の前にいる。完全に『戦士』の軍勢に囲まれた、この場所に。けれどもう、藜に『魔王』は討てない。掌から伝わる温もりを、歯の根が合わないほどに震えているその細い肩を、それでも藜を信じてくれる指先を、裏切ることなどできはしない。
「控えろ、軍師。他の者もだ。敵将に礼を失して『戦士』の誉れを汚す気か」
よく通る戦場の声で周囲を薙ぎ払い、蓮を抱えた藜は楝へと足を踏み出す。よろめくように楝が後退する。さらに一歩。梓が引いた『戦士』の結界が足元を通り過ぎていく。
空いていた右手が白装束の袖を捕まえた。手負いの獣そのものの眼差しが藜を貫く。機先を制して、藜は引き寄せたその耳許に低く大きな情報を落とす。
「『魔王』の素顔を知っているのは俺だけだ。下手に動くとバレるぞ」
その言葉に、微妙に色味の違う二対の青い瞳が見開かれる。
「藜、それは」
「何を考えている、貴様」
「『魔王』を庇い立てする気はない。だがお前たちには生きてほしい。だから、しばらくの間だけ俺に任せてくれ」
鋭い舌打ちと共に藜の腕が振り払われる。しかし楝はそれ以上動かない。被り直した布の奥、激しい眼差しはそのままに藜を、『戦士』の軍勢を睨み据える。
楝がとりあえず静観の姿勢に入ったことを確認して、藜は蓮から手を離す。不安げに見上げてくる青銀の瞳に大丈夫だと頷き返し、藜は己の手勢の面々を見渡した。
「剣を納めろ、グースフット。俺は鎧も着ちゃいない」
「しかし、大将」
「大丈夫だ。『魔王』は魔法を遣わない」
自信に満ちた断言。その場の誰もが理由を問う目を向けた。耳は自然に、次に藜が口にする言葉へと傾けられる。
場の意識を一身に集めながら、藜は傍らの蓮の短い銀髪に手を伸ばす。指先をすり抜けていく、その煌やかな輝き。
「今回『魔王』が姿を現したのは妹を——家族を、取り戻すためだ。蓮を返せばこの場は退く。そうだな」
楝に向けられた念押し。敵意に満ちた青い瞳が悔しげに細められる。魔法を遣えない、その事実を最大の敵である男に庇われているという現実。握り締めた拳が震えているのは、最早怒りのせいだけではない。
「皆にも大切な者がいるならば、気持ちは分かるだろう。謗りを受けるような勝ち方はしたくない」
「藜」
「命令はさせるな。お前たちの良心に任せる」
非難の籠ったキヌアの声を伏せた瞼で受け流して、藜は軽く蓮の肩を押した。その先には俯いたまま立ちつくす楝の姿。
「藜……!」
蓮の瞳には戸惑いが露わだった。ほんの少しの間、藜は息を止める。離れがたいのは藜とて同じだった。
「必ず迎えに行く。だから今は行くんだ。お前たちを二人とも生かす道は、これしかない」
「でも……!」
交錯する、二色の視線。藜が蓮の左手を握りしめる。この細い指先があの恐ろしい雷を呼ぶのだ。けれど今、藜に恐怖はない。その裡に宿る心を、素顔の蓮を、知っているから。
「待ちきれなくなったらこれを使え。見えたらすぐに黒で駆けつけてやる」
離された蓮の掌の中、残ったのは大陸渡りの狼煙だった。万一に備えて袖口に仕込んであったのだろう。藜の腕と同じ温みが残る、その乾いた感触。少しだけ丈が足りない赤い上着の袖は、肘までのわずかな空間に狼煙を飲み込んですっぽりと隠してしまった。
「……いつかまた、あえる?」
「ああ、俺たちには縁があるからな」
『魔王』と『戦士』。この島で今最も深い縁を持つ、二人のもう一つの名前。蓮は笑った。哀しいのか嬉しいのか、分からなかった。
「まってる。かみがのびきらないうちに、きて」
「分かった。もう切るなよ」
小さく笑って、蓮は一歩後ろに下がった。温かい指先が遠くなる。一歩、また一歩。背中に何かがぶつかる。視界の隅に白装束の切れ端が翻る。軽く見上げたその青い眼差しは、俯けた角度とぼろぼろの頭巾の奥になっているせいで深い闇に紛れていた。
「兄様」
無言のまま楝は蓮の肩を引き寄せた。そのまま葦毛に蓮を押し上げ、自分も鞍へと納まる。
今度は虚勢の雷は必要なかった。葦毛が進む先でひとりでに道が空き、草原へ通じる回廊を作る。
疲労を宿した葦毛の脚はゆっくりと『戦士』の波を横切っていく。複雑な表情のグースフットを、梓を通り過ぎ、キヌアの前で。
「ここで『魔王』を殺さなかったために、いつか誰かが死ぬんです。藜、それでもいいんですね」
低く一人ごちるその声に思わず蓮は息を止める。左手の袖口を握り込み、やっとの思いで胸の中の熱い塊を飲み下す。
もう魔法は遣わない。——遣えない。
朝の光の眩しさなど、その場にいた誰の目にも映ってはいなかった。
「——蓮!」
『魔王』の陣地の奥の奥。夕闇に身を隠すように天幕を潜った蓮に駆け寄ったのは、あかぎれだらけの素足だった。蓮の出奔から三昼夜。たったそれだけしか経っていないのに、心配を露わに顔を覗き込んでくる椿の顔は思いがけず懐かしかった。
「椿、よかった。ぶじで」
「蓮も……っ!」
無事で、と言いかけた言葉を椿は咄嗟に飲み下す。蓮の頬が腫れていた。わななく指が頬を、肩を、腕を辿る。軽く触れただけで蓮の寂しげな笑顔が痛みに揺れる。明らかに殴られた跡。見覚えのない赤い上着は既にぼろぼろだったが、その下に隠された体はもっと酷いことになっているのだろう。接触を避けるように身を引く蓮の手を、椿は咄嗟に捕まえる。
「ちゃんと見せなきゃダメだよ。骨が折れているかも」
「いいから」
「良くない! こんな、ひどい……『戦士』にやられたの?」
「ちがう」
かぶりを振る蓮に椿は口を噤む。『戦士』でなければ、思い当たる相手は一人しかいない。
「一体どうして。楝様、蓮には今まで絶対にひどいことしなかったじゃない」
傷の具合をひとつ確かめるたびに痛々しげに歪む椿の漆黒の瞳を、蓮は不思議と穏やかな気持ちで見つめる。藜と同じ色合いのそれが少しだけ羨ましく思えた。
「椿は、たたかれなかった? わたしがいなくなったあと」
椿の方には目に見える傷はない。蓮の体を検め終え、手当てのための準備を整えながら椿は小さく頷く。
「あの後、もうそれどころじゃなくて。楝様はすぐに『戦士』を追って行っちゃったし、あたしは本隊に報せに来なきゃならなかったから」
だから椿は無傷なのだ。白装束の群に椿が混じっていなくて良かったと、心から蓮は安堵の息を吐いた。
「ところで、楝様は? 一緒に帰ってきたんじゃないの?」
「兄様は……」
楝は今、とても人前に出られるような状態ではない。他ならぬ『戦士』藜に、秘密を知られてしまった。その衝撃があまりにも大きかったのだろう。到着と同時に陣地の中心に構えた『魔王』の天幕に引きこもってしまった。
何故だ。どうして、お前は。
二人だけで草原を駆け抜けた丸一日。楝の口は幾度も同じ問いを繰り返す。それはいつしか島の言葉ではなく、とうに忘れたと思っていた大陸の言葉に変わっていた。楝の中にも封じ込まれていた、抑え続けた思い。魔法での反撃の可能性など、最早頓着していないようだった。疲れた葦毛が足を止めるたび、鞍から引きずり下ろされて罵りと拳を浴びる。楝が殴り疲れると再び馬に引き上げられ、『魔王』本隊を目指す。そんなことを繰り返したせいで、蓮の体はすっかり痣だらけになってしまっていた。
「……椿はしばらく、ちかよらないほうがいい」
無言で椿は蓮の手当てを続ける。右上腕と肋骨の一本に罅が入っているようだった。
「何があったのか、聞いてもいい?」
気遣うような椿の声に、小さく蓮は頷く。自身の選択を悔やんではいないが、誰かに話すことで気持ちの整理をつけたかったのもまた事実だった。腕に巻かれていく包帯の白さを見つめながら、蓮は訥々と藜との出逢いを語る。黒馬の背から見た草の波も、『戦士』本隊の天幕の彼方に広がる夕暮れも、茅葺屋敷の梁の煤け具合も、思い返せば驚くほどに色鮮やかだった。
途中で痛み止めの煎じ薬を勧めた以外は口を挟まず、椿は最後まで蓮の顔から目を逸らさなかった。葦毛が『戦士』の囲みを抜けたところまで話したところで、椿は小さく首を振る。もういいという合図だった。
「この怪我が治るまでは、蓮も楝様に会わないで。お願い」
「でも」
「大丈夫。あたしが蓮を守るから」
どうして、と問う声は言葉にならなかった。効き始めた薬湯が柔らかな眠気を誘い、蓮の意識を浚っていく。
藜の黒馬へと崖を飛び降りた時、蓮は確かに椿を捨てたのだ。なのに何故、椿は蓮を楝から守ろうとしてくれるのか。
「蓮はあたしのご主人様じゃない。友達だから」
ともだち。その言葉の意味を蓮はまだ知らない。けれどもう疲れ果てた体は言うことを聞かず、瞼は錘をつけたかのように勝手に落ちてくる。
「……ありがとう」
ようやく形にした言葉が届いたのかどうか。椿の微笑みの気配を最後に、蓮の意識は途切れた。
「一体、どうして」
苦渋を含んだキヌアの声が天幕の闇に落ちる。
「無茶に過ぎます。この期に及んで『魔王』を討たないばかりか、和睦の道を探るなど」
藜は黙ってその言葉を受け止める。無茶はもとより承知。それでも通したい道だった。
「大将、悪いが今度ばかりは味方できねぇ。相手が悪すぎる」
しかし横に腰掛けたグースフットもまた低い声で反対を述べる。
「何でまた、よりにもよって『魔王』の妹なんだ。お前は『戦士』の大将なんだぞ。けじめってもんがあるだろうが」
円卓の隅では梓が俯いている。蓮が兄と共に走り去ったのは今朝のこと。以来梓は一言も口をきかず黙ったままだ。時折藜に問うような視線を向けるが、結局その質問は今に至るまで形にはなっていない。
蓮こそが真なる『魔王』。その事実はどうあっても口にはできない。告げれば確かにこの場での仲間たちの説得は容易になるだろう。だが重い事実の告白の時機は藜が勝手に判断していいものではない。それではこれまで身を挺して楝を庇い続けた蓮の心を踏みにじることになる。
「——こちらからも聞きたいことがある」
己を勇気づけるように、藜は”茅”の鞘を強く握りしめた。
「今朝の村の包囲。事前に俺が聞いていた策とは違ったな。どうして断りもなく作戦を変更した」
「貴方の様子がおかしかったからですよ」
どこか投げ遣りな口調でキヌアが言う。
「あの娘を連れ帰ってから——正確には『魔王』の追撃を退けてからの貴方の様子は、普段とは明らかに違っていました。心ここにあらずで、ずっと何かを考えていましたね。そういう時の貴方は必ず何かをやらかします。一月前『魔王』を探りに飛び出して行った時もそうでした」
「で、俺らはあんたが暴発しない程度に自由にさせて遠巻きに様子を窺ってたってわけだ。まぁ……結果的にはこの上なく暴走させちまったみたいだけどな。手ぇ出すなって言っただろうに」
グースフットの茶化し言葉も、今は虚しく響く。藜という一人の人間を理解するがゆえの苦しみ。その場にいる誰もが、その苦味を噛みしめていた。
「……どうしても、無理なのか?」
「無理です。できません」
即答するキヌアの声が、ふいに鈍る。
「……大将の望みを叶えるのが軍師の役目です。悔しいけれど僕に大将の器はない。だから僕は貴方の望みを叶えることにしたんです。そのことに悔いはありません」
卓に肘をつき、組んだ手を額に置き。眼差しの鳶色はきつく握った指の陰になっていて、今は窺えない。
「なのに貴方が望むものはいつだって滅茶苦茶で……ここまで形にするのに一体どれだけ苦労したと思っているんです。『魔王』との共同統治なんて夢物語、今更言わないで下さい。そんなこと、できるわけがないじゃないですか。仲間を、家族を、魔法で奪われた人々が納得するはずがありません。僕自身さえも納得できていないことで、他人を説得できる自信もありません」
「……悪い」
「僕に謝らないで下さい。何より……梓を、どうするんです」
思わず呼吸が止まった。『魔王』の雷に家族を奪われた被害者であり、他ならぬ藜の許婚。この場にいる中で、最も弱い立場の少女。
「いいんだ、おらのこったば」
”山の民”の娘は静かに頭を振った。
「今までと何も変わらんっけ。藜さんばやりたいようにしたって」
「梓」
「おらば”山の民”さ道具だっけ。藜さんば必要な時に使ってければ良いんだ」
諦めきった言葉を遮るように強く卓を叩いた分厚い拳はグースフットのもの。
「そんなこと言うな。どいつもこいつも、どうしようもねぇ」
吐き捨てた言葉はそのままに、グースフットは不機嫌な顔で席を立つ。天幕を出て行く大きな背中を、誰も止めはしなかった。
「……すまない、梓。キヌア。けれど」
これだけは譲れない。”茅”を握りしめて藜も席を立つ。『魔王』の雷から守る。蓮の意志が確かに宿る、その刃を。出口を潜り抜けた目線は自然とまっすぐに南を向いた。この草の海の彼方にいる、自分を待っていてくれる存在へ向けて。
「藜さん」
掛けられた声に振り返る。常と変わらぬ微笑を湛えた梓が天幕の入り口を潜って出てくるところだった。思わず言葉に詰まる。いつも以上に、何を話せばいいのか分からなかった。
「ちょっと、いいべか」
「……ああ」
連れ立って歩いているようで、実際の主導権は梓が握っていた。歩調を合わせたまま、梓は巧みに天幕の群の中でも人気の少ない武具庫の方へと藜を導いていく。
潜った狭い天幕には所狭しと防具の箱が並べられている。誰かが稽古にでも使ったのだろうか、一つだけ蓋の開いた箱の横に放置された鎧があった。後で兵たちに注意をしなければ。そう考える思考が既に逃げ腰なのだと、藜自身も気づいていた。
「蓮なんだけどなぁ」
出しっぱなしの鎧に梓が歩み寄った。屈み込んだ指が、木板を結び合わせただけの粗末なそれをゆっくりと撫でる。
「『魔王』ば、あの子だべ?」
あまりにも自然に滑り出した一言。絶句する藜をおかしげに振り返り、梓は再び鎧へと目を戻す。寄せ集めのがらんどう、まるで藜と梓の関係のようなその姿。
「藜さん、嘘つくの下手だな。いつバレちまうかって、ひやひやしたべや」
「……知って、いたのか」
「んん。見とって何となく思っただけ」
小さく梓は笑う。哀しいほどに純粋な、その笑顔。
「キヌアも、なんで気づかねぇんだべ。それさえ分かっとれば、ずっと楽になれるんに」
「……すまない」
「謝らんでいいっけ。だからな、藜さん。おらさ心配は何もいらん。おめさばしたいようにしたらいい」
「……ああ」
「あの子ば、幸せにしたってや」
心からの言葉に自然と深く頭が下がった。胸底から衝き上げてくるこの深い感謝を、どう表せばいいのだろう。
「ありがとう。ありがとう、梓」
ありきたりな台詞。けれど今この時以上に、心を込めて口にしたことなどなかった。いつもの梓の寂しげな笑顔に、ほんの少しだけ優しげな光が灯る。
「女の子ば願いはいっつも小っちゃなもんなんだけどな。男の子ば大っきな望みより叶えるのが難しいんは、なんでだろうなぁ」
叶えてやりたい、と藜は思った。ふいに黒鞘の長刀が途轍もなく重く感じられる。梓の願い、蓮の願い。それは決して、藜の願いと矛盾するものではない。
神など信じない。それでも自分たちを、この島を守護するものがあるのだとしたら。いるのかどうかも分からない何者かに向けてこんなにも強く、深い祈りと希望を込めて何かを願ったことはない。
希わくば愛しき者よ、幸いであれ。
「何故だ。何故会わせない」
いつものように楝が怒鳴る声が聞こえる。南の港町に吹く風は、もう湿り気と熱を孕んでいた。息苦しい『魔王』の居宮の奥の奥。閉め切った部屋の中で息を潜める蓮と息巻く楝を隔てるのは、薄い板戸と応対している椿の背中だけだ。
「まだ怪我が治りきっていませんから。それに今日は具合も良くないみたいです」
「その言い訳は昨日も聞いた。怪我だって、もう三月だぞ。蓮はそこにいるんだろう。俺が会うと言っているのが聞こえんのか」
「とにかく今はダメです。どうしてもと仰るのなら、どうぞあたしを殴ってお通り下さいませ」
ぐっと楝が言葉に詰まる気配が伝わる。楝は近頃椿を殴らない。何故なら。
「楝様の御子が、流れるかもしれませんが」
駄目押しの一言に、苛立たしげに壁を叩く音が重なる。
「……そんなに酷い怪我ではないはずだ」
「酷い怪我です。蓮はずっと耐えてきたんですから」
今度は鋭い舌打ち。
「奴が——『戦士』が大掛かりな工事を始めた。道を造っているらしい」
蓮の心臓が跳ね上がる。藜が語っていた、未来に繋がる道。この瞬間にも藜は先へと、蓮へと進もうとしてくれている。その事実が何より胸に響いた。
「街道を整えて、こっちに攻め込もうという腹積もりだ。これ以上魔法の遣い手が不在なのはまずい」
「……『魔王』様ならもう目の前にいらっしゃるではありませんか」
「うるさい。本当に殴るぞ」
楝の威嚇が虚しく板戸にぶつかる。蓮は指先を握りしめて、ただ椿に兄の手が上げられないことだけを祈った。その右腕にはもう、包帯は巻かれていない。
「……とにかく、明日こそは蓮に来てもらうからな。しっかり準備を整えておけ」
「さあ、最近はつわりがひどくて。体が動けばやっておきますけれども」
無言の間は、楝が椿を睨みつけた時間だろう。やがて荒々しい足音が廊下を遠ざかっていくのが聞こえる。
「椿、だいじょうぶ」
蒸し暑い部屋、細く開けた隙間から椿と共に爽やかな外の空気が流れ込む。しかし今は外気の誘惑になどかまけている場合ではない。椿の顔色は紙のように真っ白だった。
「ごめん、ちょっと休憩」
板張の床に座り込んだ椿の姿を隠すように板戸を閉め直し、蓮はその細い背中を撫でる。腹の子はまだ安定する時期ではない。ただでさえ辛いつわりに加え、連日続く楝との押し問答に椿は心身ともに疲れきっているはずだった。
椿の妊娠が知れたのは十日ほど前のことだった。きっかけは蓮の包帯が取れる頃合いを見計らって呼んだ薬師の、何の気なしの一言。
「ときにそっちの黒髪の娘さん、随分血色が悪いが……ちゃんと食べておるのかね?」
言われてみれば確かに、椿の食はここのところ細くなっていた。怪我を口実にしている手前出歩けない蓮も暑い部屋に閉じこもっているせいか、最近食欲が落ちている。二人して随分早い暑気あたりだ、と笑っていたところだったのだが。
椿を、蓮を診た後、老いた薬師は首を振った。
「銀色の娘さんの怪我はもう問題ない。じゃが……お二方ともこんなところに閉じこもっておるくらいじゃ、諸々の事情があろう。おめでた、と言って良いものかどうか」
それだけを言い置いて、薬師は関わりを避けるようにそそくさと部屋を後にした。せめてもの心遣いなのだろう、置いていかれた橘の実だけが部屋の中で芳しい香りを零していた。
椿に、蓮に宿る、新たな生命。
嬉しさよりも戸惑いが先に立った。藜の子。勿論、実感などはない。椿も同じだったのだろう。二人とも、しばらくその場に呆然と座り込んでいた。
薬師に口止めを頼む必要はなかった。楝に伏せての診察だったことも幸いしたのだろう。賢明な老薬師は何も語らず、その足で港を出る船へと乗り込んだようだった。
橘の香気に励まされたのだろうか。先に顔を上げたのは椿だった。
「分かったのが同じ時期で良かった。あたし、楝様に言う。そうすれば蓮が産む時必要なものも内緒で用意ができる」
「椿」
「死なせたりしないでしょう? 蓮が好きになった人の赤ちゃんだよ」
好き。そう言ってくれた藜の声が耳に蘇る。蓮が抱く気持ちが果たしてそれと同じものなのか、今でも確信は持てない。けれども心に溢れ出してくる想いは確かにあの夜、焚き火の傍らで感じていたのと同じ熱を宿していた。
守りたい。藜を、藜に連なる生命を。破魔刀に宿した意志と同じ、揺るぎなき心。
強く蓮は頷く。守るものがある。だからこそ、強くなれる。蓮と同じ種類の強さを湛えた、椿のあでやかな眼差しが微笑んだ。
「おめでとう、蓮」
「うん。椿も……おめでとう」
その生命がいるというあたりに、手を置いてみる。今はまだ自分の温もりしか感じられない。けれどもそこには確かに、この島の未来の姿が——『魔王』と『戦士』の願いが、宿っている。
たとえその誕生が他の誰からも祝福されないものだとしても。それならばなお一層、せめて蓮だけは強く願おうと思った。
希わくば愛しき生命よ、幸いであれ。
夏が過ぎ、秋が足早に駆け抜けた。落ちた紅葉に霜が下りて、透き通った氷の中に鮮やかな紅を閉じ込める。
楝の訪問は稲刈りの季節を境に間遠になっていた。天候が良かったおかげで、その年は稀に見る豊作だったらしい。『戦士』の街道が延びるに従って近づいてくる最後の決戦。その準備を怠りなくする為には、組み入れたばかりの地主からの貢納が滞りなく行われるのが絶対条件だった。味方に付いて日が浅い手勢へ目を光らせるのは勿論のこと、身内で不正が出ないよう税吏の監視も厳しくしなければならない。自然、楝が街を留守にする日も多くなる。今度こそはと息巻いて帰って来たところで、会うたび大きくなる椿の腹に興味よりも恐怖を覚えるらしかった。何やかんやと口では言うものの、結局椿には指一本触れないまま引き上げる、そんなやり取りの繰り返しが続いていた。
そうして、年が改まった頃。十月十日には少し足りない新月の夜明けに、蓮は女の子を産んだ。蓮も椿も初めてのこと、しかし他に頼るあてはない。丸一晩続いた苦痛の果てに元気な産声が暁の紫を震わせた時、血まみれの二人は泣きながら笑った。
腕に抱いた赤子は、腹にいる時よりもはるかに重く感じられた。無闇にばたつくこの足が、中から腹を蹴っていたのか。少し尖らせたこの唇が、いつか意味のある言葉をしゃべるようになるのか。そう思えば作り物のような細かい指も、ぷっくりと下ぶくれた頬も、何もかもが愛おしかった。
「名前を、つけなきゃね」
身重の体を不自由そうに揺らして椿は言った。椿とて臨月の身、自分の着替えすら容易ではないはずなのに、つとめて明るく蓮と赤子の世話を焼く姿に、自然と頭が下がった。
「考えてある? この子の名前」
「……うん」
産湯を使ったばかりの肌はまだしっとりと濡れていて、温かな赤みを宿していた。あの夜明けに見た夢の残像の、最後に残った煌やかな結晶。掌に伝わる赤子の温みは、蓮が思っていた以上に確かなものだった。
「睡蓮。わたしがみたゆめの、かけらだから」
そっか、と椿は言った。
「蓮の夢、今度は叶うといいね」
「うん」
逢わせたい。この子を、藜に。藜を、この子に。泣き疲れて眠ってしまった赤子の頭を、不慣れな手つきで撫でてみる。まだ生え揃っていない髪の色は、まばらすぎてまだよく分からない。できれば黒髪がいいと蓮は思った。この島では当たり前の、あでやかな黒い髪と瞳。
むぐむぐと赤子の口が動いた。思わず覗き込む蓮と椿の目の前で、瞼がゆっくりともたげられる。長い睫毛の下に覗くのは銀色がかった薄青の瞳。息を呑む二人に、睡蓮はにっこりと微笑んだ。
あどけない笑顔はほんの一瞬のこと。なんだかよく分からない呟きと共に母譲りの眼差しは元通りに隠され、睡蓮は再び夢の中へと落ちていく。
「……椿、おねがいがあるの」
すやすやと眠る赤子の頬を辿る指が震えているのは気のせいではない。この柔らかい髪の毛はまだ生え揃っていないのではない。色が薄すぎて、見えにくいだけ。
「かざぐるまを、さがしてきてほしい」
どうか、風羽を回すものがこの稚い息吹だけであるように。当たり前でない者の幸せほど崩れやすいものはないと、誰よりも蓮自身が知っているから。
希わくば愛しき者よ、どうか。
からからと、湿った冷気に風車の音が混じる。芯まで凍えてしまいそうに寒いくせに水気を多く含んだ鈍色の曇天は、わずかな朝の陽射が落とす温もりさえも奪い取ってしまうかのようだった。
雨戸を開け放した座敷で蓮はぼんやりと空を見上げていた。軽い眠気が全身を緩く包み込んでいる。寝ては起き、起きては寝る赤子に合わせる生活。おかげで蓮は寝不足だ。それでも後ろから聞こえる睡蓮の声がご機嫌な様子なので満足だった。椿が作ってくれた風車は鮮やかな朱色で折られていた。くっきりした色合いは赤子の目にも綺麗に映るのだろう。風羽が走る音がひときわ大きくなった。
藜の道はどれくらい進んだのだろう。北の寒空の下、黒毛を駆って現場の指揮を執るその背中が見えるような気がした。みぞれ混じりとなっては工事もさぞ難儀だろう。せめて昼の間は降らないでほしいと、蓮は天へ白い溜息を吐く。
睡蓮が生まれて五日目のことだった。蓮が顔の前にかざした朱色を不思議そうに見つめ、まだ短い腕も息も届かない場所にあるそれへ向けてじたばたし。もどかしげな銀青の瞳がぐずる気配を浮かべた時、羽は根負けしたかのように回り始めた。睡蓮は途端に機嫌を直して笑顔になる。最早見間違いようもない銀色の髪も、はしゃぐ両腕と一緒に揺れていた。
椿の子は、まだ出てくる気配はなかった。
「楝様と違って、のんびりした子だね」
笑いながら椿が言う。そう。親と子は違う。似ているけれど違う存在。だからこそ価値があるのだろう。気がつけばそんなことをつらつらと考えている自分に、蓮自身が驚いていた。
楝と蓮。どれだけ良く似た兄妹であろうとも、お互いがお互いにはなれない。どれだけ同じ名を名乗ろうと。たとえ両者に同じ能力が具わっていたとしても。
それぞれが、それぞれに。
風車の音が止まった。遊び疲れたのだろうか、瞼の重くなった睡蓮はすぐにむずかり始める。慌てて蓮は立ち上がった。
今、椿は朝餉の用意に立っている。蓮が作ったお菜は食べれたものじゃないから。椿はそう言うが、頑として竃番を譲らない理由は勿論別にあると蓮は知っている。
自分の価値は何だろう。『魔王』としてではない、蓮自身の価値とは。
そんなとりとめもない問い掛けは、この上なく通る赤子の泣き声にかき消されて雪雲の向こうに吹き飛んでしまった。まだ慣れない手つきでおたおたと睡蓮を抱き上げる。生まれて八日、未だにこの小さな生き物が何を求めて泣いているのか上手く汲み取ってやれないでいる。これなら風車を回してご機嫌を取る方が余程簡単だ。しかし玩具では空腹もおしめの不快感も除いてはやれない。最後に乳を含ませてやったのが夜明け前だったことを思い出し、慌てて蓮は襟元を寛げる。待っていたとばかりに睡蓮が口を寄せてきた。その頬の、思わずはっと息を呑むほどの温かさ。
こんなに小さな赤子でさえも、蓮にたくさんのものを与えてくれている。半ば夢の世界へ渡りかかっている睡蓮と柔らかな眼差しを見交わしながら、蓮は腕に力を籠める。紛れもなく蓮自身の選択の結果、ここにいる生命。昨日よりも今日、今日よりも明日、確実に重みを増していくその小さな体。
重たげだった睫毛がついに閉じられる。襟元を直してすやすやと寝息を立て始めた睡蓮の背を軽く叩いてやる。耳許に落ちる、けふっという溜息。この子に満足を与えてやれた、そのことが何よりも蓮の心を充たしていた。
けれども敏感な感覚はどこかでこの時間の終わりを覚悟している。そしてそれはもう、遠くはない。
『魔王』の時代は終わる。それはもう間もなくのこと。
硝子細工が、雨雪に変わる。
ぽつ、と庇を潜り抜けた雨粒が座敷に降り落ちる。同時に板戸を激しく叩く音が奥の座敷にまで届いてきた。
「椿、開けろ。俺だ」
——来た。
蓮は小さく息を呑み、きつく目を瞑る。一旦睡蓮を布団に戻し、座敷の隅に置いた衣装籠を引き寄せた。中に納められていたのは真新しい『魔王』の白装束と梓からもらった赤い上着、そして狼煙の筒。上着のほつれは椿から習って自分で直した。袖の中には筒を収める隠しもつけた。連れ戻されたあの日、狼煙が楝に見つからないよう腕ごとかき抱いた記憶が蘇る。庇った右腕は怪我をしたが、要のこの筒だけは何とか守り通すことができた。蓮と藜の、約束の符牒。
不穏な空気を感じ取ったのだろうか。眠ったままで身じろぎする睡蓮を腕に抱きしめて、身支度を整えた蓮は立ち上がった。
もう隠せない。蓮という人間が生き、足掻いた証を。
「どうしたんですか、楝様。そんなに血相を変えて」
「今、赤子の泣き声が聞こえた。お前のでは、ないな」
戸板の前で、椿は必死に立ち塞がっていた。相変わらず楝は身重のその身に指一本触れようとはしない。しかしかつて以上に温度を失くした眼差しが真上から椿を射竦めていた。
「これが最後だ。蓮を出せ」
「でも」
「出せ」
「椿。もういいよ」
守ってくれる背中がありがたかった。けれどもう、甘えてはいられない。蓮には蓮のやるべきことがある。
逢わなければならない。『戦士』藜に。
「蓮」
止めようとする椿を視線だけで宥めて、蓮は久方振りの外へと踏み出した。生まれて初めて外気に触れた睡蓮がぎゅっと身を縮める。
こわい? そう、わたしもこわい。けれど。
睡蓮を腕に抱いたまま、蓮はまっすぐに楝の顔を見た。生まれ育った村を出てから初めて、真正面から見た兄の顔。あんなに似ていた面差しはいつの間にか見慣れた自分のそれとは違うものになっていた。鼻筋が、口許が、長い睫毛が、良く似てはいる。けれど頬の線が、眉の具合が、眼差しが違う。響きの音程が違う声も。伸ばしっぱなしで肩にまで届いた銀の髪も。楝は楝だから。蓮は、蓮だから。
「お前」
言ったきり、楝は言葉を失ってしまったかのようだった。まるで積年の仇であるかのように、腕の赤子を睨みつける。
「兄様、わたしのこどもです」
誰との、などと楝は訊かなかった。ただただ憎悪だけが籠るその眼差しに、蓮は小さく笑って見せた。
「かざぐるまを、まわせるの」
息を呑んだのは、楝と椿のどちらだっただろう。穏やかな笑顔のまま、蓮は椿を振り返った。
「椿、いってくる。あわなきゃ、あの人に。睡蓮をおねがいね」
「蓮、でも」
「ありがとう、椿。ともだちでいてくれて、ありがとう」
ただでも重荷を抱えている椿に、これ以上抱え込ませるのは心苦しい。けれど蓮には他に頼る宛も思いつかなかった。これから先、睡蓮を守ってくれる人。そしてできうるならば、藜に逢わせてくれる人。
「わたしのしごとはごはんをつくることじゃない。そうでしょう?」
どうしてこんなに心が穏やかなのか自分でも不思議だった。眠ったままの睡蓮を椿に手渡し、楝へと向き直る。残った温みが逃げないよう、一度だけ自分の身を強く抱きしめた。睡蓮の体温と自分のそれが混じってひとつになっていく。
「あの人がきたのでしょう、兄様。つくったばかりの道をとおって」
「……まだ完成したわけじゃない。だが奴が進軍を始めたのは確かだ」
「そう」
待ちきれなくなったのだろうか。思いついたら鉄砲玉なところはちっとも変わっていないようだった。
「二万の大軍だ。どうやら本拠地の兵力を根こそぎ持ってきているらしい」
今度はきちんと仲間にも相談したのだろう。どういう説明で彼らを、ことにあの軍師を納得させたのか。
楽しくなどは、勿論ない。けれどどうして笑みが零れてくるのだろう。『戦士』の面々と交わした数少ない言葉が、短い時間が、記憶の底から次々と湧き上がってくる。
楝は蓮と目を合わせない。藜と違って、兄は言いたいことがある時に目を逸らすのだ。爪先が苛立たしげに床を蹴る。氷雨はぽつぽつと降り続いている。吹きさらしの廊下にいたせいで水気を含んだ頭巾が、ただでも捉えづらい深青の眼差しを奥底へと隠してしまう。その闇の中を覗き込むように、蓮は足を踏み出した。びくりと楝が身を竦める。
楝が全てを否定するのは、自分自身が否定されて生きてきたからだ。誰よりも確かな拠り所を求めているくせに、いざ手に入りそうになると急に怖くなって逃げたり、壊したりする。
兄のことならよく知っている。誰よりも近くで、その心を見てきた。だから。
「ありがとう、兄様。わたしは兄様と一緒にいれて、しあわせだった」
暗がりの中で、これ以上はないというほど楝の目が見開かれる。そこに映り込むのは他ならぬ蓮自身の顔。楝に、己の虚像に、蓮は笑いかけた。
「いこう。これが『魔王』さいごの、たたかいだから」
「……ああ」
楝が再び眼差しを伏せてしまったせいで、その奥にある細かな色は読み取れなかった。けれど微かに震える声は確かに、蓮の言葉が楝の心に届いたことを伝えていた。
笑い方など、藜に出逢う前まで忘れていた。けれど今はこんなにも素直に笑うことができる。
振り返ってみれば、こんなにも愛しい人々がいた。魔法以外に何も持っていないと思っていた、自分にも。
そんな些細にすぎる蓮が生きた証。けれど何よりかけがえのない大切な事実を教えてくれた相手が今、こちらへ向かっている。
藜に逢いに行く。『魔王』と『戦士』の縁が交わる場所、あの日偶然に出逢った草原の海へ。
まっすぐに青銀の瞳は北の空へと向けられる。春はまだ遠くとも、この空と大地の間にはもう次の世代へ繋がる種が芽吹いている。
<予告編>
約束の狼煙が天へと駆け上る。
『魔王』が、来る。
『戦士』の軍勢の前へ。
この泥仕合の、只中へ。
震える細腕が庇うもの、
しなやかな指先が示すもの。
守りたいものは、何だろう。
『DOUBLE LORDS』転章13、
相克だけがただひとつの答えではない。
その証こそが、この創国の物語。
「来たか」
傍らの藜が身を起こした。夢の時は過ぎ去り、蓮と同じ顔を持つ現実がやって来る。急速に目覚めていく思考の中、蓮はふいに不安になる。本当にあの楝を納得させることなどできるのだろうか。
「大丈夫だ」
揺れる蓮の視線をしっかり捉えて藜は笑った。蓮と同様に手早く身支度を整えながら、しかしいつも身に着けている黒鎧には手を伸ばさない。
「……よろい、いいの?」
魔法で戦果を上げられない分、楝は武術の腕を磨いている。魔法の陰に隠れてしまって目立たないが、楝の太刀筋をいつも傍で見てきた蓮は誰よりもその苛烈さを知っている。
一度は刃を合わせた相手だ。藜も楝の技量は分かっているのだろう。小さく肩を竦めて答える。
「話し合いに鎧は必要ない。さすがに丸腰ってわけにはいかないだろうが」
言いながら藜は土間に下りた。昨夜放り捨てたままの格好で転がっていた”茅”を拾い上げる。待っていたかのように厩の中で黒馬が鼻を鳴らした。その首を軽く叩いてやって、藜は蓮を振り返る。
「俺から行くか?」
「ううん、わたしがいく」
梓がくれた赤い上着ごとぎゅっと己の体を抱きしめて、蓮は土間に降り立った。二対の漆黒の瞳に見守られ、外に通じる戸板を静かに開け放つ。最初に見えたのは明け切らぬ朱鷺色の空、続いて草間から射した暁の光。思わず細めた視界に、家の前に立つ逆光の影を捉える。縁に見える色彩は見覚えのある白と葦毛、点々と飛んだ飛沫が影の黒をさらに深めている。
「兄様」
一歩踏み出して、呼びかける。影の肩が揺れた。軽い身ごなしで葦毛から下りたその姿は戦塵と返り血に塗れている。常に『魔王』の威儀を正すことに心を砕いていたはずの、見慣れた姿とはあまりにも違う。下ろしたてだった白装束はあちこちに染みが飛び、擦り切れている箇所もあるようだ。あんなに隠し続けていた顔でさえ、裂かれた頭巾でようやっと髪と口許を覆うことしかできていない。剥き出しになった青い瞳が蓮を正確に捉えた。安堵と、悲しみと、他にぶつけようのない切なさと。常に様々な感情が交錯してぶつかり合っているせいで、楝の声の響きはいつでも不安定だ。
「何をやっているんだ、蓮。帰るぞ」
いつも通りの高みから見下すような物言いに、どうしてか蓮の目頭が熱くなった。帰る場所などどこにもない。そう思っていたはずなのに。
いつしか、お互いがいる場所が帰るところになっていた。たった二人だけの家族だから。
けれどもう、蓮は帰れない。
「兄様、はなしがあるの」
「話?」
「そう。だいじな、はなし」
背中で空気が動くのを感じる。土を踏む音、蓮の傍らに立つ気配。長刀だけを手にした藜に、楝の表情がたちまちこわばった。
「貴様」
藜は何も言わない。ただまっすぐに楝を見返す。その表情に何かを悟ったのか、楝が瞳を翻して蓮を睨む。
「蓮、まさか」
「……ごめんなさい」
楝の瞳から熱が消えた。瞬時に冷えた眼差しを覆っていくのは激しい怒り。触れるだけで芯まで凍りつきそうな、純粋な敵意が藜に向けられる。
「蓮を、返せ」
「蓮がそれを望むなら」
瞬間、青い瞳に紅蓮の炎が駆け抜ける。
「蓮、来い」
「ごめんなさい。いけない」
「俺に逆らうのか」
その声には威圧よりも傷ついた色が多く含まれていて、思わず蓮は強くかぶりを振る。
「ちがう。これできっと、兄様のねがいもかなう。この島はひとつになる。『魔王』と『戦士』がいっしょになって」
「一緒になる? ふざけるな」
楝が吐き捨てるように言う。その敵意の矛先は、再び藜に向けられた。
「貴様か。蓮にろくでもないことを吹き込みやがって」
「あんたにとってはろくでもないことかもしれない。だが俺たちにとっては、意味のあることだ」
黒鞘を持った左手で、藜は蓮の肩を引き寄せる。
「一人の男として申し込む。蓮を妻として迎え入れるための許可を頂きたい」
「断る!」
藜の言葉が終わるより先、楝が叫ぶ。
「許さん。断じて許さん。蓮、お前は自分が今何をしているのか、分かっているのか」
「わかってる」
「分かってなどいないだろう!」
楝の唇が荒げた息の下、ふと笑みを浮かべた。
「お前の正体を知っても、その男が世迷い事を抜かし続けられるとでも思っているのか? 愚かな」
蓮は無言で藜の襟元を握りしめる。
——お前が『魔王』なら。
そう言ってくれた昨夜の藜の心だけが、今の蓮の拠り所だった。肩に置かれた手に力が籠る。”茅”ごと蓮を腕に抱く藜の姿に、少しずつ楝の瞳にも理解の色が染み渡っていく。
「知って、いるというのか? 『魔王』の正体を」
小さく、けれどはっきりと蓮が頷く。その瞬間、楝の顔からあらゆる感情が抜け落ちた。憤怒、絶望、悲哀、虚脱。蒼白の頬を透かして見える、駆け抜ける深い闇。
表情を削ぎ落としたまま楝は二人に詰め寄った。無言で蓮の腕を取り、引き寄せる。それはこの細身のどこから出ているのか不思議なほど強く激しい力で、蓮は小さく悲鳴を洩らす。
「……やめろ!」
藜が楝の手を振り払う。どんな刃よりも鋭利な一瞥と共に、再び楝の腕が伸ばされる。腕の中の身体をかばうように藜が蓮を抱きしめた、その時。
鋭い風切音が空気を切り裂いた。咄嗟に身を引いた藜と楝、両者のちょうど真ん中に一本の矢が突き立つ。尾羽は北部山岳地帯の蒼穹を舞う鷹の斑模様、一分の狂いもない矢幹の先には細かな文様を彫り込んだ三角の鏃——一目でそれと知れる、”山の民”の矢だった。
一斉に甲冑の立ち上がる音が空気を満たした。一体どこにこれだけの数が伏せていたのか。廃屋の陰から、井戸の脇から、草原と繋がった庭先から。茅葺の村を囲い込んでいたのは北へ向かったはずの『戦士』の本隊だった。藜にとっては見覚えのある顔ばかり。その面々を呆然と見回し、彼らの配置先がグースフットの騎兵隊であることにようやく思い至る。何故ここに。事前に打ち合わせた仕掛けの発動にしては早すぎる。それに彼らの任務は村の包囲だけのはずだ。何故村の中へ。何故騎兵の彼らが馬を連れていない。
「お前たち、どうして」
「悪いな、大将。できれば邪魔したくはなかったんだが」
歩兵の群からのっそりと姿を現したのはグースフットだった。続いて暁の光に踏み出してきた一際小柄な姿に、今度は蓮が息を呑む。
「梓」
いつもと変わらぬ静かな笑みを蓮に向け、梓は恥ずかしそうに手にした弓を背中に隠した。
「……涸れ井戸か」
「ご名答。さすがは『魔王』様、話が早くて助かる」
緊張で張り詰めた楝の掠れ声に応えて、グースフットが軽く眉を上げる。そのさらに後ろ、土を踏みしめる足音がもう一つ。
「かつての水脈が洞窟になっていましてね。それを通路に利用させていただきました」
「キヌア、お前まで」
軍師が最前線に姿を現すことなど滅多にない。ましてや今対峙している相手は『魔王』なのだ。驚きで言葉が続かない藜をちらりと一瞥し、キヌアは楝に注意を向ける。
「内輪の話は後です、藜。早く討ち取ってください」
誰を、など。あえて言い添えるまでもない。腕の中の肩が大きく震え、対峙した楝の眼光が鋭さを増す。
「貴様、謀ったか。どこまでも卑劣な手を」
「違う!」
『魔王』を討つ。それは今や『戦士』の最後にして最大の目的だ。『魔王』は目の前にいる。完全に『戦士』の軍勢に囲まれた、この場所に。けれどもう、藜に『魔王』は討てない。掌から伝わる温もりを、歯の根が合わないほどに震えているその細い肩を、それでも藜を信じてくれる指先を、裏切ることなどできはしない。
「控えろ、軍師。他の者もだ。敵将に礼を失して『戦士』の誉れを汚す気か」
よく通る戦場の声で周囲を薙ぎ払い、蓮を抱えた藜は楝へと足を踏み出す。よろめくように楝が後退する。さらに一歩。梓が引いた『戦士』の結界が足元を通り過ぎていく。
空いていた右手が白装束の袖を捕まえた。手負いの獣そのものの眼差しが藜を貫く。機先を制して、藜は引き寄せたその耳許に低く大きな情報を落とす。
「『魔王』の素顔を知っているのは俺だけだ。下手に動くとバレるぞ」
その言葉に、微妙に色味の違う二対の青い瞳が見開かれる。
「藜、それは」
「何を考えている、貴様」
「『魔王』を庇い立てする気はない。だがお前たちには生きてほしい。だから、しばらくの間だけ俺に任せてくれ」
鋭い舌打ちと共に藜の腕が振り払われる。しかし楝はそれ以上動かない。被り直した布の奥、激しい眼差しはそのままに藜を、『戦士』の軍勢を睨み据える。
楝がとりあえず静観の姿勢に入ったことを確認して、藜は蓮から手を離す。不安げに見上げてくる青銀の瞳に大丈夫だと頷き返し、藜は己の手勢の面々を見渡した。
「剣を納めろ、グースフット。俺は鎧も着ちゃいない」
「しかし、大将」
「大丈夫だ。『魔王』は魔法を遣わない」
自信に満ちた断言。その場の誰もが理由を問う目を向けた。耳は自然に、次に藜が口にする言葉へと傾けられる。
場の意識を一身に集めながら、藜は傍らの蓮の短い銀髪に手を伸ばす。指先をすり抜けていく、その煌やかな輝き。
「今回『魔王』が姿を現したのは妹を——家族を、取り戻すためだ。蓮を返せばこの場は退く。そうだな」
楝に向けられた念押し。敵意に満ちた青い瞳が悔しげに細められる。魔法を遣えない、その事実を最大の敵である男に庇われているという現実。握り締めた拳が震えているのは、最早怒りのせいだけではない。
「皆にも大切な者がいるならば、気持ちは分かるだろう。謗りを受けるような勝ち方はしたくない」
「藜」
「命令はさせるな。お前たちの良心に任せる」
非難の籠ったキヌアの声を伏せた瞼で受け流して、藜は軽く蓮の肩を押した。その先には俯いたまま立ちつくす楝の姿。
「藜……!」
蓮の瞳には戸惑いが露わだった。ほんの少しの間、藜は息を止める。離れがたいのは藜とて同じだった。
「必ず迎えに行く。だから今は行くんだ。お前たちを二人とも生かす道は、これしかない」
「でも……!」
交錯する、二色の視線。藜が蓮の左手を握りしめる。この細い指先があの恐ろしい雷を呼ぶのだ。けれど今、藜に恐怖はない。その裡に宿る心を、素顔の蓮を、知っているから。
「待ちきれなくなったらこれを使え。見えたらすぐに黒で駆けつけてやる」
離された蓮の掌の中、残ったのは大陸渡りの狼煙だった。万一に備えて袖口に仕込んであったのだろう。藜の腕と同じ温みが残る、その乾いた感触。少しだけ丈が足りない赤い上着の袖は、肘までのわずかな空間に狼煙を飲み込んですっぽりと隠してしまった。
「……いつかまた、あえる?」
「ああ、俺たちには縁があるからな」
『魔王』と『戦士』。この島で今最も深い縁を持つ、二人のもう一つの名前。蓮は笑った。哀しいのか嬉しいのか、分からなかった。
「まってる。かみがのびきらないうちに、きて」
「分かった。もう切るなよ」
小さく笑って、蓮は一歩後ろに下がった。温かい指先が遠くなる。一歩、また一歩。背中に何かがぶつかる。視界の隅に白装束の切れ端が翻る。軽く見上げたその青い眼差しは、俯けた角度とぼろぼろの頭巾の奥になっているせいで深い闇に紛れていた。
「兄様」
無言のまま楝は蓮の肩を引き寄せた。そのまま葦毛に蓮を押し上げ、自分も鞍へと納まる。
今度は虚勢の雷は必要なかった。葦毛が進む先でひとりでに道が空き、草原へ通じる回廊を作る。
疲労を宿した葦毛の脚はゆっくりと『戦士』の波を横切っていく。複雑な表情のグースフットを、梓を通り過ぎ、キヌアの前で。
「ここで『魔王』を殺さなかったために、いつか誰かが死ぬんです。藜、それでもいいんですね」
低く一人ごちるその声に思わず蓮は息を止める。左手の袖口を握り込み、やっとの思いで胸の中の熱い塊を飲み下す。
もう魔法は遣わない。——遣えない。
朝の光の眩しさなど、その場にいた誰の目にも映ってはいなかった。
「——蓮!」
『魔王』の陣地の奥の奥。夕闇に身を隠すように天幕を潜った蓮に駆け寄ったのは、あかぎれだらけの素足だった。蓮の出奔から三昼夜。たったそれだけしか経っていないのに、心配を露わに顔を覗き込んでくる椿の顔は思いがけず懐かしかった。
「椿、よかった。ぶじで」
「蓮も……っ!」
無事で、と言いかけた言葉を椿は咄嗟に飲み下す。蓮の頬が腫れていた。わななく指が頬を、肩を、腕を辿る。軽く触れただけで蓮の寂しげな笑顔が痛みに揺れる。明らかに殴られた跡。見覚えのない赤い上着は既にぼろぼろだったが、その下に隠された体はもっと酷いことになっているのだろう。接触を避けるように身を引く蓮の手を、椿は咄嗟に捕まえる。
「ちゃんと見せなきゃダメだよ。骨が折れているかも」
「いいから」
「良くない! こんな、ひどい……『戦士』にやられたの?」
「ちがう」
かぶりを振る蓮に椿は口を噤む。『戦士』でなければ、思い当たる相手は一人しかいない。
「一体どうして。楝様、蓮には今まで絶対にひどいことしなかったじゃない」
傷の具合をひとつ確かめるたびに痛々しげに歪む椿の漆黒の瞳を、蓮は不思議と穏やかな気持ちで見つめる。藜と同じ色合いのそれが少しだけ羨ましく思えた。
「椿は、たたかれなかった? わたしがいなくなったあと」
椿の方には目に見える傷はない。蓮の体を検め終え、手当てのための準備を整えながら椿は小さく頷く。
「あの後、もうそれどころじゃなくて。楝様はすぐに『戦士』を追って行っちゃったし、あたしは本隊に報せに来なきゃならなかったから」
だから椿は無傷なのだ。白装束の群に椿が混じっていなくて良かったと、心から蓮は安堵の息を吐いた。
「ところで、楝様は? 一緒に帰ってきたんじゃないの?」
「兄様は……」
楝は今、とても人前に出られるような状態ではない。他ならぬ『戦士』藜に、秘密を知られてしまった。その衝撃があまりにも大きかったのだろう。到着と同時に陣地の中心に構えた『魔王』の天幕に引きこもってしまった。
何故だ。どうして、お前は。
二人だけで草原を駆け抜けた丸一日。楝の口は幾度も同じ問いを繰り返す。それはいつしか島の言葉ではなく、とうに忘れたと思っていた大陸の言葉に変わっていた。楝の中にも封じ込まれていた、抑え続けた思い。魔法での反撃の可能性など、最早頓着していないようだった。疲れた葦毛が足を止めるたび、鞍から引きずり下ろされて罵りと拳を浴びる。楝が殴り疲れると再び馬に引き上げられ、『魔王』本隊を目指す。そんなことを繰り返したせいで、蓮の体はすっかり痣だらけになってしまっていた。
「……椿はしばらく、ちかよらないほうがいい」
無言で椿は蓮の手当てを続ける。右上腕と肋骨の一本に罅が入っているようだった。
「何があったのか、聞いてもいい?」
気遣うような椿の声に、小さく蓮は頷く。自身の選択を悔やんではいないが、誰かに話すことで気持ちの整理をつけたかったのもまた事実だった。腕に巻かれていく包帯の白さを見つめながら、蓮は訥々と藜との出逢いを語る。黒馬の背から見た草の波も、『戦士』本隊の天幕の彼方に広がる夕暮れも、茅葺屋敷の梁の煤け具合も、思い返せば驚くほどに色鮮やかだった。
途中で痛み止めの煎じ薬を勧めた以外は口を挟まず、椿は最後まで蓮の顔から目を逸らさなかった。葦毛が『戦士』の囲みを抜けたところまで話したところで、椿は小さく首を振る。もういいという合図だった。
「この怪我が治るまでは、蓮も楝様に会わないで。お願い」
「でも」
「大丈夫。あたしが蓮を守るから」
どうして、と問う声は言葉にならなかった。効き始めた薬湯が柔らかな眠気を誘い、蓮の意識を浚っていく。
藜の黒馬へと崖を飛び降りた時、蓮は確かに椿を捨てたのだ。なのに何故、椿は蓮を楝から守ろうとしてくれるのか。
「蓮はあたしのご主人様じゃない。友達だから」
ともだち。その言葉の意味を蓮はまだ知らない。けれどもう疲れ果てた体は言うことを聞かず、瞼は錘をつけたかのように勝手に落ちてくる。
「……ありがとう」
ようやく形にした言葉が届いたのかどうか。椿の微笑みの気配を最後に、蓮の意識は途切れた。
「一体、どうして」
苦渋を含んだキヌアの声が天幕の闇に落ちる。
「無茶に過ぎます。この期に及んで『魔王』を討たないばかりか、和睦の道を探るなど」
藜は黙ってその言葉を受け止める。無茶はもとより承知。それでも通したい道だった。
「大将、悪いが今度ばかりは味方できねぇ。相手が悪すぎる」
しかし横に腰掛けたグースフットもまた低い声で反対を述べる。
「何でまた、よりにもよって『魔王』の妹なんだ。お前は『戦士』の大将なんだぞ。けじめってもんがあるだろうが」
円卓の隅では梓が俯いている。蓮が兄と共に走り去ったのは今朝のこと。以来梓は一言も口をきかず黙ったままだ。時折藜に問うような視線を向けるが、結局その質問は今に至るまで形にはなっていない。
蓮こそが真なる『魔王』。その事実はどうあっても口にはできない。告げれば確かにこの場での仲間たちの説得は容易になるだろう。だが重い事実の告白の時機は藜が勝手に判断していいものではない。それではこれまで身を挺して楝を庇い続けた蓮の心を踏みにじることになる。
「——こちらからも聞きたいことがある」
己を勇気づけるように、藜は”茅”の鞘を強く握りしめた。
「今朝の村の包囲。事前に俺が聞いていた策とは違ったな。どうして断りもなく作戦を変更した」
「貴方の様子がおかしかったからですよ」
どこか投げ遣りな口調でキヌアが言う。
「あの娘を連れ帰ってから——正確には『魔王』の追撃を退けてからの貴方の様子は、普段とは明らかに違っていました。心ここにあらずで、ずっと何かを考えていましたね。そういう時の貴方は必ず何かをやらかします。一月前『魔王』を探りに飛び出して行った時もそうでした」
「で、俺らはあんたが暴発しない程度に自由にさせて遠巻きに様子を窺ってたってわけだ。まぁ……結果的にはこの上なく暴走させちまったみたいだけどな。手ぇ出すなって言っただろうに」
グースフットの茶化し言葉も、今は虚しく響く。藜という一人の人間を理解するがゆえの苦しみ。その場にいる誰もが、その苦味を噛みしめていた。
「……どうしても、無理なのか?」
「無理です。できません」
即答するキヌアの声が、ふいに鈍る。
「……大将の望みを叶えるのが軍師の役目です。悔しいけれど僕に大将の器はない。だから僕は貴方の望みを叶えることにしたんです。そのことに悔いはありません」
卓に肘をつき、組んだ手を額に置き。眼差しの鳶色はきつく握った指の陰になっていて、今は窺えない。
「なのに貴方が望むものはいつだって滅茶苦茶で……ここまで形にするのに一体どれだけ苦労したと思っているんです。『魔王』との共同統治なんて夢物語、今更言わないで下さい。そんなこと、できるわけがないじゃないですか。仲間を、家族を、魔法で奪われた人々が納得するはずがありません。僕自身さえも納得できていないことで、他人を説得できる自信もありません」
「……悪い」
「僕に謝らないで下さい。何より……梓を、どうするんです」
思わず呼吸が止まった。『魔王』の雷に家族を奪われた被害者であり、他ならぬ藜の許婚。この場にいる中で、最も弱い立場の少女。
「いいんだ、おらのこったば」
”山の民”の娘は静かに頭を振った。
「今までと何も変わらんっけ。藜さんばやりたいようにしたって」
「梓」
「おらば”山の民”さ道具だっけ。藜さんば必要な時に使ってければ良いんだ」
諦めきった言葉を遮るように強く卓を叩いた分厚い拳はグースフットのもの。
「そんなこと言うな。どいつもこいつも、どうしようもねぇ」
吐き捨てた言葉はそのままに、グースフットは不機嫌な顔で席を立つ。天幕を出て行く大きな背中を、誰も止めはしなかった。
「……すまない、梓。キヌア。けれど」
これだけは譲れない。”茅”を握りしめて藜も席を立つ。『魔王』の雷から守る。蓮の意志が確かに宿る、その刃を。出口を潜り抜けた目線は自然とまっすぐに南を向いた。この草の海の彼方にいる、自分を待っていてくれる存在へ向けて。
「藜さん」
掛けられた声に振り返る。常と変わらぬ微笑を湛えた梓が天幕の入り口を潜って出てくるところだった。思わず言葉に詰まる。いつも以上に、何を話せばいいのか分からなかった。
「ちょっと、いいべか」
「……ああ」
連れ立って歩いているようで、実際の主導権は梓が握っていた。歩調を合わせたまま、梓は巧みに天幕の群の中でも人気の少ない武具庫の方へと藜を導いていく。
潜った狭い天幕には所狭しと防具の箱が並べられている。誰かが稽古にでも使ったのだろうか、一つだけ蓋の開いた箱の横に放置された鎧があった。後で兵たちに注意をしなければ。そう考える思考が既に逃げ腰なのだと、藜自身も気づいていた。
「蓮なんだけどなぁ」
出しっぱなしの鎧に梓が歩み寄った。屈み込んだ指が、木板を結び合わせただけの粗末なそれをゆっくりと撫でる。
「『魔王』ば、あの子だべ?」
あまりにも自然に滑り出した一言。絶句する藜をおかしげに振り返り、梓は再び鎧へと目を戻す。寄せ集めのがらんどう、まるで藜と梓の関係のようなその姿。
「藜さん、嘘つくの下手だな。いつバレちまうかって、ひやひやしたべや」
「……知って、いたのか」
「んん。見とって何となく思っただけ」
小さく梓は笑う。哀しいほどに純粋な、その笑顔。
「キヌアも、なんで気づかねぇんだべ。それさえ分かっとれば、ずっと楽になれるんに」
「……すまない」
「謝らんでいいっけ。だからな、藜さん。おらさ心配は何もいらん。おめさばしたいようにしたらいい」
「……ああ」
「あの子ば、幸せにしたってや」
心からの言葉に自然と深く頭が下がった。胸底から衝き上げてくるこの深い感謝を、どう表せばいいのだろう。
「ありがとう。ありがとう、梓」
ありきたりな台詞。けれど今この時以上に、心を込めて口にしたことなどなかった。いつもの梓の寂しげな笑顔に、ほんの少しだけ優しげな光が灯る。
「女の子ば願いはいっつも小っちゃなもんなんだけどな。男の子ば大っきな望みより叶えるのが難しいんは、なんでだろうなぁ」
叶えてやりたい、と藜は思った。ふいに黒鞘の長刀が途轍もなく重く感じられる。梓の願い、蓮の願い。それは決して、藜の願いと矛盾するものではない。
神など信じない。それでも自分たちを、この島を守護するものがあるのだとしたら。いるのかどうかも分からない何者かに向けてこんなにも強く、深い祈りと希望を込めて何かを願ったことはない。
希わくば愛しき者よ、幸いであれ。
「何故だ。何故会わせない」
いつものように楝が怒鳴る声が聞こえる。南の港町に吹く風は、もう湿り気と熱を孕んでいた。息苦しい『魔王』の居宮の奥の奥。閉め切った部屋の中で息を潜める蓮と息巻く楝を隔てるのは、薄い板戸と応対している椿の背中だけだ。
「まだ怪我が治りきっていませんから。それに今日は具合も良くないみたいです」
「その言い訳は昨日も聞いた。怪我だって、もう三月だぞ。蓮はそこにいるんだろう。俺が会うと言っているのが聞こえんのか」
「とにかく今はダメです。どうしてもと仰るのなら、どうぞあたしを殴ってお通り下さいませ」
ぐっと楝が言葉に詰まる気配が伝わる。楝は近頃椿を殴らない。何故なら。
「楝様の御子が、流れるかもしれませんが」
駄目押しの一言に、苛立たしげに壁を叩く音が重なる。
「……そんなに酷い怪我ではないはずだ」
「酷い怪我です。蓮はずっと耐えてきたんですから」
今度は鋭い舌打ち。
「奴が——『戦士』が大掛かりな工事を始めた。道を造っているらしい」
蓮の心臓が跳ね上がる。藜が語っていた、未来に繋がる道。この瞬間にも藜は先へと、蓮へと進もうとしてくれている。その事実が何より胸に響いた。
「街道を整えて、こっちに攻め込もうという腹積もりだ。これ以上魔法の遣い手が不在なのはまずい」
「……『魔王』様ならもう目の前にいらっしゃるではありませんか」
「うるさい。本当に殴るぞ」
楝の威嚇が虚しく板戸にぶつかる。蓮は指先を握りしめて、ただ椿に兄の手が上げられないことだけを祈った。その右腕にはもう、包帯は巻かれていない。
「……とにかく、明日こそは蓮に来てもらうからな。しっかり準備を整えておけ」
「さあ、最近はつわりがひどくて。体が動けばやっておきますけれども」
無言の間は、楝が椿を睨みつけた時間だろう。やがて荒々しい足音が廊下を遠ざかっていくのが聞こえる。
「椿、だいじょうぶ」
蒸し暑い部屋、細く開けた隙間から椿と共に爽やかな外の空気が流れ込む。しかし今は外気の誘惑になどかまけている場合ではない。椿の顔色は紙のように真っ白だった。
「ごめん、ちょっと休憩」
板張の床に座り込んだ椿の姿を隠すように板戸を閉め直し、蓮はその細い背中を撫でる。腹の子はまだ安定する時期ではない。ただでさえ辛いつわりに加え、連日続く楝との押し問答に椿は心身ともに疲れきっているはずだった。
椿の妊娠が知れたのは十日ほど前のことだった。きっかけは蓮の包帯が取れる頃合いを見計らって呼んだ薬師の、何の気なしの一言。
「ときにそっちの黒髪の娘さん、随分血色が悪いが……ちゃんと食べておるのかね?」
言われてみれば確かに、椿の食はここのところ細くなっていた。怪我を口実にしている手前出歩けない蓮も暑い部屋に閉じこもっているせいか、最近食欲が落ちている。二人して随分早い暑気あたりだ、と笑っていたところだったのだが。
椿を、蓮を診た後、老いた薬師は首を振った。
「銀色の娘さんの怪我はもう問題ない。じゃが……お二方ともこんなところに閉じこもっておるくらいじゃ、諸々の事情があろう。おめでた、と言って良いものかどうか」
それだけを言い置いて、薬師は関わりを避けるようにそそくさと部屋を後にした。せめてもの心遣いなのだろう、置いていかれた橘の実だけが部屋の中で芳しい香りを零していた。
椿に、蓮に宿る、新たな生命。
嬉しさよりも戸惑いが先に立った。藜の子。勿論、実感などはない。椿も同じだったのだろう。二人とも、しばらくその場に呆然と座り込んでいた。
薬師に口止めを頼む必要はなかった。楝に伏せての診察だったことも幸いしたのだろう。賢明な老薬師は何も語らず、その足で港を出る船へと乗り込んだようだった。
橘の香気に励まされたのだろうか。先に顔を上げたのは椿だった。
「分かったのが同じ時期で良かった。あたし、楝様に言う。そうすれば蓮が産む時必要なものも内緒で用意ができる」
「椿」
「死なせたりしないでしょう? 蓮が好きになった人の赤ちゃんだよ」
好き。そう言ってくれた藜の声が耳に蘇る。蓮が抱く気持ちが果たしてそれと同じものなのか、今でも確信は持てない。けれども心に溢れ出してくる想いは確かにあの夜、焚き火の傍らで感じていたのと同じ熱を宿していた。
守りたい。藜を、藜に連なる生命を。破魔刀に宿した意志と同じ、揺るぎなき心。
強く蓮は頷く。守るものがある。だからこそ、強くなれる。蓮と同じ種類の強さを湛えた、椿のあでやかな眼差しが微笑んだ。
「おめでとう、蓮」
「うん。椿も……おめでとう」
その生命がいるというあたりに、手を置いてみる。今はまだ自分の温もりしか感じられない。けれどもそこには確かに、この島の未来の姿が——『魔王』と『戦士』の願いが、宿っている。
たとえその誕生が他の誰からも祝福されないものだとしても。それならばなお一層、せめて蓮だけは強く願おうと思った。
希わくば愛しき生命よ、幸いであれ。
夏が過ぎ、秋が足早に駆け抜けた。落ちた紅葉に霜が下りて、透き通った氷の中に鮮やかな紅を閉じ込める。
楝の訪問は稲刈りの季節を境に間遠になっていた。天候が良かったおかげで、その年は稀に見る豊作だったらしい。『戦士』の街道が延びるに従って近づいてくる最後の決戦。その準備を怠りなくする為には、組み入れたばかりの地主からの貢納が滞りなく行われるのが絶対条件だった。味方に付いて日が浅い手勢へ目を光らせるのは勿論のこと、身内で不正が出ないよう税吏の監視も厳しくしなければならない。自然、楝が街を留守にする日も多くなる。今度こそはと息巻いて帰って来たところで、会うたび大きくなる椿の腹に興味よりも恐怖を覚えるらしかった。何やかんやと口では言うものの、結局椿には指一本触れないまま引き上げる、そんなやり取りの繰り返しが続いていた。
そうして、年が改まった頃。十月十日には少し足りない新月の夜明けに、蓮は女の子を産んだ。蓮も椿も初めてのこと、しかし他に頼るあてはない。丸一晩続いた苦痛の果てに元気な産声が暁の紫を震わせた時、血まみれの二人は泣きながら笑った。
腕に抱いた赤子は、腹にいる時よりもはるかに重く感じられた。無闇にばたつくこの足が、中から腹を蹴っていたのか。少し尖らせたこの唇が、いつか意味のある言葉をしゃべるようになるのか。そう思えば作り物のような細かい指も、ぷっくりと下ぶくれた頬も、何もかもが愛おしかった。
「名前を、つけなきゃね」
身重の体を不自由そうに揺らして椿は言った。椿とて臨月の身、自分の着替えすら容易ではないはずなのに、つとめて明るく蓮と赤子の世話を焼く姿に、自然と頭が下がった。
「考えてある? この子の名前」
「……うん」
産湯を使ったばかりの肌はまだしっとりと濡れていて、温かな赤みを宿していた。あの夜明けに見た夢の残像の、最後に残った煌やかな結晶。掌に伝わる赤子の温みは、蓮が思っていた以上に確かなものだった。
「睡蓮。わたしがみたゆめの、かけらだから」
そっか、と椿は言った。
「蓮の夢、今度は叶うといいね」
「うん」
逢わせたい。この子を、藜に。藜を、この子に。泣き疲れて眠ってしまった赤子の頭を、不慣れな手つきで撫でてみる。まだ生え揃っていない髪の色は、まばらすぎてまだよく分からない。できれば黒髪がいいと蓮は思った。この島では当たり前の、あでやかな黒い髪と瞳。
むぐむぐと赤子の口が動いた。思わず覗き込む蓮と椿の目の前で、瞼がゆっくりともたげられる。長い睫毛の下に覗くのは銀色がかった薄青の瞳。息を呑む二人に、睡蓮はにっこりと微笑んだ。
あどけない笑顔はほんの一瞬のこと。なんだかよく分からない呟きと共に母譲りの眼差しは元通りに隠され、睡蓮は再び夢の中へと落ちていく。
「……椿、おねがいがあるの」
すやすやと眠る赤子の頬を辿る指が震えているのは気のせいではない。この柔らかい髪の毛はまだ生え揃っていないのではない。色が薄すぎて、見えにくいだけ。
「かざぐるまを、さがしてきてほしい」
どうか、風羽を回すものがこの稚い息吹だけであるように。当たり前でない者の幸せほど崩れやすいものはないと、誰よりも蓮自身が知っているから。
希わくば愛しき者よ、どうか。
からからと、湿った冷気に風車の音が混じる。芯まで凍えてしまいそうに寒いくせに水気を多く含んだ鈍色の曇天は、わずかな朝の陽射が落とす温もりさえも奪い取ってしまうかのようだった。
雨戸を開け放した座敷で蓮はぼんやりと空を見上げていた。軽い眠気が全身を緩く包み込んでいる。寝ては起き、起きては寝る赤子に合わせる生活。おかげで蓮は寝不足だ。それでも後ろから聞こえる睡蓮の声がご機嫌な様子なので満足だった。椿が作ってくれた風車は鮮やかな朱色で折られていた。くっきりした色合いは赤子の目にも綺麗に映るのだろう。風羽が走る音がひときわ大きくなった。
藜の道はどれくらい進んだのだろう。北の寒空の下、黒毛を駆って現場の指揮を執るその背中が見えるような気がした。みぞれ混じりとなっては工事もさぞ難儀だろう。せめて昼の間は降らないでほしいと、蓮は天へ白い溜息を吐く。
睡蓮が生まれて五日目のことだった。蓮が顔の前にかざした朱色を不思議そうに見つめ、まだ短い腕も息も届かない場所にあるそれへ向けてじたばたし。もどかしげな銀青の瞳がぐずる気配を浮かべた時、羽は根負けしたかのように回り始めた。睡蓮は途端に機嫌を直して笑顔になる。最早見間違いようもない銀色の髪も、はしゃぐ両腕と一緒に揺れていた。
椿の子は、まだ出てくる気配はなかった。
「楝様と違って、のんびりした子だね」
笑いながら椿が言う。そう。親と子は違う。似ているけれど違う存在。だからこそ価値があるのだろう。気がつけばそんなことをつらつらと考えている自分に、蓮自身が驚いていた。
楝と蓮。どれだけ良く似た兄妹であろうとも、お互いがお互いにはなれない。どれだけ同じ名を名乗ろうと。たとえ両者に同じ能力が具わっていたとしても。
それぞれが、それぞれに。
風車の音が止まった。遊び疲れたのだろうか、瞼の重くなった睡蓮はすぐにむずかり始める。慌てて蓮は立ち上がった。
今、椿は朝餉の用意に立っている。蓮が作ったお菜は食べれたものじゃないから。椿はそう言うが、頑として竃番を譲らない理由は勿論別にあると蓮は知っている。
自分の価値は何だろう。『魔王』としてではない、蓮自身の価値とは。
そんなとりとめもない問い掛けは、この上なく通る赤子の泣き声にかき消されて雪雲の向こうに吹き飛んでしまった。まだ慣れない手つきでおたおたと睡蓮を抱き上げる。生まれて八日、未だにこの小さな生き物が何を求めて泣いているのか上手く汲み取ってやれないでいる。これなら風車を回してご機嫌を取る方が余程簡単だ。しかし玩具では空腹もおしめの不快感も除いてはやれない。最後に乳を含ませてやったのが夜明け前だったことを思い出し、慌てて蓮は襟元を寛げる。待っていたとばかりに睡蓮が口を寄せてきた。その頬の、思わずはっと息を呑むほどの温かさ。
こんなに小さな赤子でさえも、蓮にたくさんのものを与えてくれている。半ば夢の世界へ渡りかかっている睡蓮と柔らかな眼差しを見交わしながら、蓮は腕に力を籠める。紛れもなく蓮自身の選択の結果、ここにいる生命。昨日よりも今日、今日よりも明日、確実に重みを増していくその小さな体。
重たげだった睫毛がついに閉じられる。襟元を直してすやすやと寝息を立て始めた睡蓮の背を軽く叩いてやる。耳許に落ちる、けふっという溜息。この子に満足を与えてやれた、そのことが何よりも蓮の心を充たしていた。
けれども敏感な感覚はどこかでこの時間の終わりを覚悟している。そしてそれはもう、遠くはない。
『魔王』の時代は終わる。それはもう間もなくのこと。
硝子細工が、雨雪に変わる。
ぽつ、と庇を潜り抜けた雨粒が座敷に降り落ちる。同時に板戸を激しく叩く音が奥の座敷にまで届いてきた。
「椿、開けろ。俺だ」
——来た。
蓮は小さく息を呑み、きつく目を瞑る。一旦睡蓮を布団に戻し、座敷の隅に置いた衣装籠を引き寄せた。中に納められていたのは真新しい『魔王』の白装束と梓からもらった赤い上着、そして狼煙の筒。上着のほつれは椿から習って自分で直した。袖の中には筒を収める隠しもつけた。連れ戻されたあの日、狼煙が楝に見つからないよう腕ごとかき抱いた記憶が蘇る。庇った右腕は怪我をしたが、要のこの筒だけは何とか守り通すことができた。蓮と藜の、約束の符牒。
不穏な空気を感じ取ったのだろうか。眠ったままで身じろぎする睡蓮を腕に抱きしめて、身支度を整えた蓮は立ち上がった。
もう隠せない。蓮という人間が生き、足掻いた証を。
「どうしたんですか、楝様。そんなに血相を変えて」
「今、赤子の泣き声が聞こえた。お前のでは、ないな」
戸板の前で、椿は必死に立ち塞がっていた。相変わらず楝は身重のその身に指一本触れようとはしない。しかしかつて以上に温度を失くした眼差しが真上から椿を射竦めていた。
「これが最後だ。蓮を出せ」
「でも」
「出せ」
「椿。もういいよ」
守ってくれる背中がありがたかった。けれどもう、甘えてはいられない。蓮には蓮のやるべきことがある。
逢わなければならない。『戦士』藜に。
「蓮」
止めようとする椿を視線だけで宥めて、蓮は久方振りの外へと踏み出した。生まれて初めて外気に触れた睡蓮がぎゅっと身を縮める。
こわい? そう、わたしもこわい。けれど。
睡蓮を腕に抱いたまま、蓮はまっすぐに楝の顔を見た。生まれ育った村を出てから初めて、真正面から見た兄の顔。あんなに似ていた面差しはいつの間にか見慣れた自分のそれとは違うものになっていた。鼻筋が、口許が、長い睫毛が、良く似てはいる。けれど頬の線が、眉の具合が、眼差しが違う。響きの音程が違う声も。伸ばしっぱなしで肩にまで届いた銀の髪も。楝は楝だから。蓮は、蓮だから。
「お前」
言ったきり、楝は言葉を失ってしまったかのようだった。まるで積年の仇であるかのように、腕の赤子を睨みつける。
「兄様、わたしのこどもです」
誰との、などと楝は訊かなかった。ただただ憎悪だけが籠るその眼差しに、蓮は小さく笑って見せた。
「かざぐるまを、まわせるの」
息を呑んだのは、楝と椿のどちらだっただろう。穏やかな笑顔のまま、蓮は椿を振り返った。
「椿、いってくる。あわなきゃ、あの人に。睡蓮をおねがいね」
「蓮、でも」
「ありがとう、椿。ともだちでいてくれて、ありがとう」
ただでも重荷を抱えている椿に、これ以上抱え込ませるのは心苦しい。けれど蓮には他に頼る宛も思いつかなかった。これから先、睡蓮を守ってくれる人。そしてできうるならば、藜に逢わせてくれる人。
「わたしのしごとはごはんをつくることじゃない。そうでしょう?」
どうしてこんなに心が穏やかなのか自分でも不思議だった。眠ったままの睡蓮を椿に手渡し、楝へと向き直る。残った温みが逃げないよう、一度だけ自分の身を強く抱きしめた。睡蓮の体温と自分のそれが混じってひとつになっていく。
「あの人がきたのでしょう、兄様。つくったばかりの道をとおって」
「……まだ完成したわけじゃない。だが奴が進軍を始めたのは確かだ」
「そう」
待ちきれなくなったのだろうか。思いついたら鉄砲玉なところはちっとも変わっていないようだった。
「二万の大軍だ。どうやら本拠地の兵力を根こそぎ持ってきているらしい」
今度はきちんと仲間にも相談したのだろう。どういう説明で彼らを、ことにあの軍師を納得させたのか。
楽しくなどは、勿論ない。けれどどうして笑みが零れてくるのだろう。『戦士』の面々と交わした数少ない言葉が、短い時間が、記憶の底から次々と湧き上がってくる。
楝は蓮と目を合わせない。藜と違って、兄は言いたいことがある時に目を逸らすのだ。爪先が苛立たしげに床を蹴る。氷雨はぽつぽつと降り続いている。吹きさらしの廊下にいたせいで水気を含んだ頭巾が、ただでも捉えづらい深青の眼差しを奥底へと隠してしまう。その闇の中を覗き込むように、蓮は足を踏み出した。びくりと楝が身を竦める。
楝が全てを否定するのは、自分自身が否定されて生きてきたからだ。誰よりも確かな拠り所を求めているくせに、いざ手に入りそうになると急に怖くなって逃げたり、壊したりする。
兄のことならよく知っている。誰よりも近くで、その心を見てきた。だから。
「ありがとう、兄様。わたしは兄様と一緒にいれて、しあわせだった」
暗がりの中で、これ以上はないというほど楝の目が見開かれる。そこに映り込むのは他ならぬ蓮自身の顔。楝に、己の虚像に、蓮は笑いかけた。
「いこう。これが『魔王』さいごの、たたかいだから」
「……ああ」
楝が再び眼差しを伏せてしまったせいで、その奥にある細かな色は読み取れなかった。けれど微かに震える声は確かに、蓮の言葉が楝の心に届いたことを伝えていた。
笑い方など、藜に出逢う前まで忘れていた。けれど今はこんなにも素直に笑うことができる。
振り返ってみれば、こんなにも愛しい人々がいた。魔法以外に何も持っていないと思っていた、自分にも。
そんな些細にすぎる蓮が生きた証。けれど何よりかけがえのない大切な事実を教えてくれた相手が今、こちらへ向かっている。
藜に逢いに行く。『魔王』と『戦士』の縁が交わる場所、あの日偶然に出逢った草原の海へ。
まっすぐに青銀の瞳は北の空へと向けられる。春はまだ遠くとも、この空と大地の間にはもう次の世代へ繋がる種が芽吹いている。
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<予告編>
約束の狼煙が天へと駆け上る。
『魔王』が、来る。
『戦士』の軍勢の前へ。
この泥仕合の、只中へ。
震える細腕が庇うもの、
しなやかな指先が示すもの。
守りたいものは、何だろう。
『DOUBLE LORDS』転章13、
相克だけがただひとつの答えではない。
その証こそが、この創国の物語。
鉛色の空の下、藜の指示が凍える空気に響き渡る。この本陣ではよく通る声も、前線の喧騒の中では細部まで聞き取るのは至難の業だ。訓練された鼓手が符丁の太鼓を叩き、中央と左翼からは指示に応えるように低い角笛の音色が返ってくる。
応じる『魔王』の側にも指示の変化があったようだ。向こうの合図は金物の喇叭の音だ。高く澄んだ指示に合わせて、陣形が密集し防御の態勢を整えていく。
「……やはり『魔王』はまだ到着していないようですね」
藜の傍らで、瞳を細めたキヌアが呟く。
「魔法が撃てるなら攻め手の甘い右翼が真っ先に狙われるでしょうが。みすみす隙を見逃しての防御策など、彼のあの性格からして部下には絶対に許さないでしょう」
「そうだな」
頷き返しながらも、藜は黒い土煙が上がる前線から目を離さない。
あの早春の朝からもうすぐ一年が経つ。蓮を迎えに行く。ただひとつ、その目的の為に準備を整えた日々だった。
蓮のことに関して、キヌアは頑として首を縦には振らなかった。グースフットからも依然明確な賛成が得られたわけではない。けれどただ一人、梓だけは手を惜しまずに協力してくれた。
和睦か、討伐か。目的の違いはあれど、いずれ『戦士』が南に赴くことは最早必定だった。たとえ藜が南征の準備を急いだとしても、表立って止める理由は誰にもない。
楝と兵をぶつけ合うことはもう避けられない。向こうにもこちらにも、退けない理由がある。だからこそ、負けるわけにはいかなかった。この戦に勝って初めて、楝との交渉の余地が生まれる。
しかし未だに藜は楝を舞台に引きずり出せないでいる。
兵を起こしたのは藜の方が先。しかし楝とて警戒を怠っていたわけではない。すぐさま反応はあった。
整えたばかりの街道をこれまでとは段違いの速さで駆け抜けたおかげで距離は稼げた。しかし突貫で造った道はまだ完成には程遠い。半日で石畳の舗装は均しただけの土に変わった。それさえも二日で尽き、以前と同じように草の海を泳ぎ出して間もなくのこと。いつでも工事にかかれるよう、測量用の資材が積まれた空き地で『魔王』軍の第一陣と遭遇した。斥候を兼ねた部隊だったのだろう。初戦こそあっさり退いたものの、その部隊はじりじりと後退しながら後続兵力と合流し続け、時々踏みとどまっては防御する姿勢を見せている。今目の前にいる敵も、中心で指揮しているのは第一陣の面子らしい。
「まるで殿軍のような働きぶりですね」
呆れ混じれにキヌアが溜息を吐く。彼らの狙いは楝が出てくるまでの時間稼ぎだと分かっている。だからこそ、その声にも少しずつ焦りが滲み始めている。
文字通り道半ばの状態、それでも豊作の秋以降余裕のできた懐具合のおかげで、この機に『魔王』を討とうという意見で身内を纏め上げられたのだけがせめてもの救いだった。
恐らくこれが最後の戦になる。逃げも隠れもできない征路、それゆえに藜は梓を本拠地の港街に留めようとした。女なのだから残れとか、そんな常套句通りの感情などではなかった。結局のところ、この戦は藜と楝の意地の張り合いにけりがつくことでしか終わらないのだ。そんな男どもの身勝手に付き合わされて、蓮のように心ならずも手を汚す娘をこれ以上増やしたくない。ただ、そう思ってのことだった。
しかし梓は静かに首を横に振った。
「最後ばきちっと見んかったら、おらさ戦ばいつまで経っても終わらんっけ。あの子にももっかい会いたいしなあ」
そう言った時と同じ表情のまま、梓は今も藜の隣で目を逸らさずに戦場を見つめている。今生きている時間から逃げたくない。何よりもその横顔が雄弁に訴えていた。
既に征路は島の中央部を過ぎている。もうかなり南の港街に近づいているはずだ。単騎で駆ければ一日も掛からない距離、しかしその先へなかなか進めずに足踏みをしている。横手に見える大きな岩山のぎざぎざが、ここ数日ずっと同じ顔で聳えているのが忌々しかった。あんなもの、早く置き去りにして先へ進みたいのに。
岩山の麓では真っ黒な泥仕合が繰り広げられていた。みぞれ混じりの雨雪はいつしか真っ白な牡丹雪となり、地に、人に降りかかった途端に別の色へと染め変わる。灰色と、白と、黒と、赤。
「魔法が来ない今のうちだ、進め!」
風のいたずらだろうか、吹きちぎられたグースフットの声が遠くから聞こえてきた。それも束の間、あっという間につむじ風は向きを変えて、今はもう聞き慣れた剣戟と喊声と悲鳴とを鼓膜に置き去りにして吹き過ぎていく。
魔法が来ない。
魔法は来ない。
祈るような思いで藜は空を見上げた。舞う綿のような大きな雪片がひとひらひとひら、黒鎧の上で水滴に変わっていく。凍りつかないのが不思議なほど冷たいその胸に、雪より白い溜息が落ちた。
今、戦場に『魔王』を守る影武者の白装束は見えない。楝が、蓮が、来ていないから。瞼に蓮の寂しげな微笑が甦った。短く切った銀の髪では隠し切れない哀しみが、冷気よりも鋭く胸を締め付ける。
逢いたい。
けれど来ないでほしい。この地獄の底のような戦場には、もう二度と。
ふいに何かが視界を横切った。咄嗟に目が追った先は、前方の丘に布かれた『魔王』の本陣よりもさらに向こう側。色は雪と同じ、しかし降り来る欠片とは逆にその白は斜めに、天へ向かって上っていく。
「狼煙……?」
鼓手が撥を止めて目を細める。閃いた記憶は、別れの朝に手渡した大陸渡りの煙筒。
——見えたらすぐに駆けつけてやる。
黒馬の手綱を引き寄せたのは無意識のこと、それでも心得たように相棒は嬉しげに嘶いた。
「全員伏せろ! 『魔王』が来る!」
藜の声に我に返った鼓手が反射的に太鼓を叩く。腹に轟く音が、二回。梓が息を呑んで顔を上げた。すぐ傍らの、藜がいた場所にはもう誰もいない。黒鎧の重さを受け止める馬具の澄んだ響きだけが、冷気の中に置き去りにされる。咄嗟に制止しかけたキヌアの手を掠めて、黒馬は全速で前線へ向けて駆け出していく。藜に先駆けて伝わった音波が、人波に波紋を描いた。頭を抱え蹲る兵を追い越しながら、馬上の藜はただ一人空を見上げて”茅”を抜く。
——蓮が、来る。
こわい。
こわいよ。
そらからたくさん、しろくてつめたいかけらがおちてくる。わたしにふれて、みずになる。
きいたこともない、こわいこえがする。おおきなおとも。たくさん、たくさん、かこまれてる。
あかざはなんで、こんなところにいるの。
ねえ、かえろうよ。
わたしがうまれた、かやぶきのいえへ。
れんといっしょに、くらすんでしょう。
れんと、あかざと、かやぶきのいえと……ともだち、っていうのかな? ふたりと、いつもいっしょにいるひとたちと。
わたしはみんなをまもる、しゅごしんだから。まもれなきゃ、うまれたいみがないの。
こんなこわいところじゃ、まもれないよ。だから、ねえ。かえろう? あのあたたかい、たきびのそばへ。
……あれ。
なつかしいにおいがする。
れんだ。
わたしとおなじ、まほうのにおい。
うまもきづいたみたい。わらってる。
あかざは?
そらをみている。
うれしいの? かなしいの? いまにもなきそうな、よこがお。
「全員伏せろ! 『魔王』が来る!」
ああ、わかってくれてる。あかざも、れんがくるのを。
よかった。うれしいな。ねえ、もうすぐあえるよ。れんとあかざ。よかったね。よかったね。
うまがはしりだす。れんをむかえに。たちどまって、すわりこんだみんなをおいこして。はやく、もっとはやく。
あかざのてがわたしをにぎりしめる。つよく、つよく。
——いたいよ。そんなにつよくつかんだら、こわれちゃうよ。
くうきが、かわった。
れんのにおいが、そらいっぱいにあふれてる。ぴりぴりとちいさなものがぶつかりあってる。これはかみなりのあいず。れんが、かみなりをおとそうとしている。
あかざがわたしをぬいた。やいばにうつるそのかおは、まっすぐにそらをみあげている。
——なんで? なんでれんは、あかざにかみなりをうつの? なんであかざは、れんにかたなをむけるの?
わからない。わからないよ。
でも、わたしはしゅごしんだから。まほうからあかざをまもるためにつくられたんだから。
まもらなきゃ。みんなを、かみなりから。
でも、どうやって?
くもが、うなりはじめる。うまがみみをふせた。そのとたん。
そらがまっしろにひかった。れんのかみなり。
あかざがわたしをそらへとかざす。どろどろのまっくろななかで、たったひとつだけひかるわたしのからだ。ともだちをみつけたみたいに、かみなりがわたしめがけておちてくる。
うでをのばして、わたしはかたなをぬぎすてた。しろいいなびかりを、れんとおなじぎんいろのかみがはじきかえす。きれい。
わたしはれんのこころ。あかざを、みんなを、まもりたいとおもうねがい。
うでをひろげて、かみなりをうけとめる。だいじょうぶ。れんが、れんのこころをこわすはずがない。だから。
かみなりはすこしだけあばれたけれど、すぐにおとなしくなった。わたしをきょうだいだと、わかってくれたみたい。ちょっとのあいだだけかんがえるようにばちばちとおとをたてたけど、すぐにわたしのむねへとすいこまれていく。あとにのこったのはぴりぴりしたくうきと、しろくてつめたいかけらだけ。おなじくらいしろいはだや、ぎんいろのかみを、かけらはなにもないばしょみたいにとおりぬけて、どろどろのなかへとおちていく。
まるでわたしなんて、いないみたいだ。
このかけら、いやだよ。こころがなきゃ、ひとはひとじゃないのに。
こわいよ。
さむいよ。
れん。
かみなりがきえたとたん、うでが、ゆびが、かたちが、ゆれた。いまわたしのあしもとでうずくまっているひとと、なにもかわらない。ふるえてる。
めが、れんをみつけだした。さがさなくてもよかった。だって、わたしのまえにたっているのはれんだけだったから。
どろどろのなかにひざをついて、あたまをかかえたたくさんのひと。あかざのみかただけじゃない。れんのそばでも、さっきまでたたかってたひとは、だれひとりたちあがってなんかいない。いちばんたかいところにいるひとに、かみなりはおちてくるから。
うしろのあかざと、まえのれん。いまここでたっているのは、ふたりだけ。
「蓮」
あかざがよぶ。ちいさな、ちいさな、こえ。
かぞえきれないほどたくさんのあたまのむこうで、れんはこっちにゆびさきをむけている。そらからみると、ああ、どうしてこんなにふたりはとおくにいるんだろう。いま、ふたりはほかのすべてをひざまずかせて、ここにたっているのに。
ねえ、れん。はやくこっちにおいでよ。
みて。けがをしたひとはだれもいないよ。わたし、かみなりからみんなをまもったよ。れんのねがいをかなえたよ。しゅごしんに、なれたよ。
だから、こんどはれんがわたしのねがいをかなえて。
いっしょにかえろうよ。わたしがれんとあかざをまもるから。れんのかみなりをとめられるなら、ほかにとめられないものなんてなにもないよ。
れんが、かおをあげた。わたしをみて、ずきんのなかのあおいめがびっくりしたみたいにおおきくなる。けれどそれはすぐに、うれしそうなえがおにかわっていった。
ああ、わかってくれた。れんが、れんのこころが、まほうからみんなをまもったんだよ。
れんがずきんをとった。わたしとおなじいろのかみがこぼれる。かみ、のびたね。かたにとどくくらい。ねえあかざ、みてる? れんも、やくそくをまもったよ。
れんのうでが、となりのひとにひっぱられた。おなじふく、そっくりなかお。れんのおにいちゃんだ。れんがまもりたいとねがった、もうひとりのだいすきなひと。
みんなをまもる。それがわたしのやくめ。だけど。
おにいちゃんがなにかいってる。あたしをゆびさして、すごくおこってるみたい。けれどそのかおは、とても、とてもかなしそうにもみえた。もういちど、こんどはれんのかたをひっぱった。いまにもれんがたおれてしまいそうなくらい、つよいちから。
やめて、れんにひどいことをしないで。
こえなんてきこえなくても、いってることはわかる。
——わたしを、けせって。
そしてあかざを、たおせって。
れんはくびをよこにふる。おにいちゃんのかおは、もっとかなしそうになる。なんどもうでがひっぱられる。そのたびにれんのかおがやさしくなっていく。わらって、いく。
うまがないた。あかざをのせて、しろいかけらがおちるなかをはしっていく。わたしのあしもとを、おいこして。
おにいちゃんも、なきそうなかおだった。らんぼうにれんのうでをはなして、そのままひだりてをふりあげる。たたくつもりだ。あかざがいきをのむのがきこえた。
「——蓮!」
よくひびく、あかざのこえ。とどいたのかな。とおく、とおくむこうで、れんはたしかにこっちをむいてわらった。
とても、しあわせそうに。
なのに。
そらにのこっていたまほうが、かみなりにかわった。おにいちゃんのうでがふりおろされるより、すこしだけはやく。
まってよ、れん。ひかりになんておいつけない。わたしとれんは、とおすぎる。
いっぱいにのばしたゆびのむこうで、そらがまっしろになった。なにもかもをおおいつくしたかみなりが、たったいっぽんのひかりになっておちていく。
——れんへ、むかって。
光が戦場を薙ぐ。
身を竦め、居合わせた者は一様に息を止める。そこには上役も末端もない。魔法の前では、皆がただの無力な人間となる。
ここは最前線、敵陣に一番近い場所。戦局の大勢を見て取るには少し近すぎるが、相手の顔かたちならどこよりもつぶさに見て取れる場所に今、グースフットはいる。最初の雷が鳴る直前、上目に確認したのは確かに『魔王』の白装束だった。戦場を俯瞰できる正面の小さな丘の斜面、傍らには今はもうただ一人となった影武者——蓮を連れて。『魔王』は蓮の肩を掴み、何事かを強く指示しているように見えた。
この期に及んで、まだあの娘を利用するつもりか。己の妹を。藜の、『戦士』の大将の、最大の弱点を。
喉元を過ぎた恐怖の隙を衝いて、抑えようのない怒りがこみ上げてくる。
てめえが守ってやらなきゃならん相手じゃないのか。妹だろう。
しかし素顔をあらわにした蓮は首を縦に振らない。穏やかな微笑さえ浮かべて、兄の、『魔王』の指示に逆らう。
ああ、だから女は分からねえってんだ。大将、俺は何度も気をつけろって言っただろう。か弱そうに見えて、腹を括った女ほど強いものなんてありゃしない。そんなの梓を見てりゃ分かるだろう。いい加減あんたとは腐れ縁だけどな、今回の一件は多分今までで一番の我侭だろうな。しかもあんたにしては珍しい色恋沙汰ときた。俺にとっては得意科目だ、援護してやりてえのはやまやまだが、やっぱり相手が悪すぎる。あの『魔王』様に面と向かって逆らう娘なんて、俺は絶対に御免だ。
だけど、あんたは。
「——蓮!」
やっぱりな。諦めねえんだろ。そうだ。それでこそ、俺たちの大将だ。
自然と頬が緩んだ。寒さと恐怖と怒りとに縮みきった手足に力が戻って来る。
俺の役目は常に先陣を切って大将の露払いをすること。だからよりにもよって『魔王』との戦いで、あんたに先を越されるわけにはいかないんだよ。
肺が空っぽになるまで息を吐き出し、地を踏みしめたその刹那。
二度目の光が空を薙いだ。
意思など関係ない。反射的に身を伏せる。竦めた首の上を、びりびりと電気と音波が駆け抜けていく。『魔王』の怒りが過ぎ去るのをただ待つだけの、この時間。がたがたと勝手に震える右手を、無理矢理剣の柄に押し付ける。
「畜生が……」
何度ぶつかってもこの恐怖には慣れない。得体の知れない力が自分に向かって撃たれるという、肌で直に感じる不気味さ。ちっぽけな矜りなど消し飛ばしてしまう、圧倒的な力の差。
もう二度とこんな思いはごめんだ。だから今度こそ、終わりにしてやる。
頬に冷たいものが触れた。名残の牡丹雪がひとひら、ひとひら天空から落ちてくる。——雷雲は過ぎた。
がばりと身を起こす。見上げた空に翻るのは銀の帳。思わず目を奪われる。鉛色の雪雲が、薄く輝くものの向こう側に透けて見えた。長く豊かなそれはどうやら髪の毛のようだ。その先を辿ると、宙に浮かぶ少女の剥き出しの背中に行き着いた。肩越しに見えるのは、見間違いようもなく蓮と同じ面影。見知ったそれより幼い横顔が震える腕をいっぱいに伸ばして、左手をかざした白装束との間に立ち塞がっている。まるで『魔王』の手から撃たれる魔法から皆を庇うかのような、その後姿。
理屈ではなく体が理解した。帯電の薄れた空気を褐色の肌が、黒い雷雲が鉛色の雪雲に刷き変わるのを若葉色の瞳が、遠ざかる残響を研ぎ澄ませた聴覚が、成された事実を捉えて脳髄へと叩き込む。
——守られた。俺たちは、この細い腕に。
「野郎共、立て! こんな戦、とっとと終わらせるぞ!」
守るべきもの。形は違えど、人の子ならばそう思えるものは大きく変わらないはずだ。
蓮は『魔王』から『戦士』を守った。
なのに蓮の兄は何をした。守るべき妹をこんな最前線にまで引きずり出して、駆け引きの道具にして。そんな事態を止め切れなかった藜も。もっともらしい題目を並べて見ていることしかしなかったキヌアも、自分自身も。
悔しくて堪らなかった。何より己の不甲斐なさを噛み殺して、空を仰いだまま剣先を『魔王』の軍勢へと向ける。
湧き起こる鬨の声に、弾かれたように少女が振り返った。今にも泣き出しそうに不安げだった表情が、真っ直ぐに見上げるグースフットの目線を受けてひどく戸惑ったような色を浮かべる。次の瞬間、少女の姿はたちまち白銀の粒子になって消えていった。その儚さはあまりにも、あの娘にそっくりで。
藜を守る。眼前で確かに示された、蓮の意志。
取り返さなければ。あの華奢な背中を、今度こそ藜の腕で守ってやる為に。
蓮の勇気に報いる手段は、最早それしか思い浮かばなかった。
彼方に見える白装束を睨み据える。
もう利用などさせるものか。弱点、大いに結構。『魔王』様はどうだか知らないが、生憎うちの大将は普通の人間だ。弱さを持たない人間になど、俺はついていく気になど到底なれない。
眇めた視界はしかし、すぐに違和感を訴える。
『魔王』は独りだ。中途半端に左腕を上げたままの格好で固まっている。——傍らにいたはずの、蓮の姿がない。
慎重に『魔王』の照準を探る。二度目の狙いはどうやら『戦士』の陣営ではないようだった。左手の先が示していたのは先程まで蓮がいた場所。指し示されたぬかるみの地面に、黒々と焼け焦げの跡だけが残されている。『魔王』の装束よりもなお白く、一筋の煙がたなびいて風の中へと散っていった。ちょうど人ひとりが収まるくらいの、その空間。
一瞬、思考が空白になる。真空になった心に、渦を巻いて押し寄せてきたのは抑えきれない怒りだった。
「野郎……!」
消したのか。意に沿わなかった、自分の妹を。
あまりにも強く突き上げてきた感情のせいで視界が揺れる。咄嗟に探った傍らの鹿毛の手綱を取り落としかけるほどに、手が震えている。一息に鞍へと飛び乗った。鹿毛の腹を蹴ろうとした、その瞬間。
黒い風が脇を駆け抜けた。
「——大将!」
考えるより先、腕を伸ばす。辛うじて届いた指先が漆黒の籠手を掴んだ。藜は止まらない。グースフットなど目に入っていない様子で、ただひたすらに『魔王』を目指して黒馬に拍車を入れる。黒馬より体格の良い鹿毛がたたらを踏むほど強くがむしゃらなその力に、グースフットの方は逆に少しだけ冷静さを取り戻した。
「落ち着け、無茶だ! 撃たれるぞ!」
「知ったことか!」
腕を振り払い、藜は黒馬にさらに鞭を入れた。
「蓮——!!」
「馬鹿野郎!!!」
振り払われた勢いのまま、グースフットはすり抜けようとする黒鎧の襟首を後ろから掴み取る。そのまま斜め後ろに思い切り引き倒した。たまらず落馬した藜の重みに引きずられ、グースフットも鹿毛の背から転がり落ちる。鞍に括りつけてあった黒兜がぬかるみに跳ねた。首根っこを捕まえたままの腕を振り払おうと藜が暴れる。勢いのままに繰り出される頭突きを胸当てが騒がしく受け止めた。生身の攻撃など、当然グースフットにはまったく効かない。たまらず剥き出しの額を押さえた藜の肩を膝で押さえつけ、その頬を手加減なしに殴りつける。
「分からねえのか! あの娘っ子が守ろうとしたのは他でもねえ、お前とあのろくでなしじゃねえのか! そのお前が無茶苦茶やって無駄死にしてどうする! しっかりしろ!!」
「じゃあどうすればいいんだ! あんな——」
途切れた先は、言葉にならなかった。
人ひとりがちょうど収まるくらいの、跡形もない焦げ跡。綺麗に消し飛んだその空白はまるで、蓮という娘などはじめから存在していないと主張しているかのように見えた。あまりにも無慈悲な、『魔王』の鉄槌。
「グースフット。俺は魔法が憎い。——『魔王』が、憎い」
額を押さえていた右手はいつしか顔全体を覆っていた。低い呟き声と共に震えるほどに強く、左手は長刀を握りしめている。
「どうして。どうして、蓮が——」
「……それ以上言うな。言わなくていい」
黒塗りの鞘と鎧が立てる、細かく澄んだ音色だけが場違いに綺麗だった。目線のやり場を失い見上げた空から、雪はとめどなく降り続いてくる。先程皆を庇った娘の姿は、もう虚空には見えなかった。
こんな時にこそ、全てを終わらせる雷が戦場を薙ぎ払えばいいのに。そうすれば藜もグースフットも楽になれるだろうに。『魔王』は何をしているのだろう。魔法を撃つこともなく。妹を、守るべきものを、失って。
「馬鹿野郎が……」
歯を食いしばって嗚咽を堪える藜か。雪の中にようやく響き始めた慟哭の源にいる『魔王』か。それとも、何もかもを残して消えてしまった蓮なのか。
誰へ向けた呟きかなど、グースフット自身にも分からなかった。
戦後交渉はそれまでの経緯の縺れが馬鹿らしくなるほど順調に進んだ。
『戦士』と『魔王』双方の指揮官がこれ以上干戈を交えることを望まなかったため、という至極消極的な理由ではあった。しかしあの雪の日に何か大切なものが失われたことは、その場にいた誰もが肌で感じていた。
この島の行く末を変えてしまうような、途轍もなく大きな喪失。
あの後はとても戦えるような状態ではなかった。
二度の魔法、その直後の司令官たちの戦闘放棄。突然途切れた指示を訝しく思う余裕など誰にもなく、兵たちの中にもしばらくその場を動く者はいなかった。
『魔王』の兵には魔法が効かない、という事実が。
『戦士』の兵には魔法から守られた、という実感が。
そして両者ともに、それを成したのが年端もいかぬ少女の姿をしたものであったことに深い衝撃を受けていた。
『魔王』に逆らう影武者を。『戦士』を守った、細い腕を。
確かに見た。けれど今はもうどちらも跡形もない。一度きりの庇護。あれが『戦士』の味方だと言い切るにはあやふやで、けれど幻だと断言できる者は誰もおらず。
思い出したように鳴らされた退却の合図にひとまず撤収したはいいものの、二つの陣営は前進も後退もしない。白黒つけがたい気持ちのまま、ただ呆然とそこに留まり続けているだけだった。
それでも二日目には司令官たちが和平交渉を試みているという噂が流れ始めた。事実、遠くはない両者の陣営を頻繁に往復する騎影があった。その馬を見た『戦士』の兵たちは、噂が信じるに足る根拠を持っていると判断した。
馬の色は、草の海によく映える鹿毛だった。
最後の戦いの場となった丘を見上げる位置に、急ごしらえの天幕が立ち並ぶ。あの日以来めっきり無口になった藜に、『魔王』からの書簡を手にしたキヌアが事後処理の細々した素案を提示する。ひとつひとつに藜が頷いたのを確認して、梓が決済された書類を仕分けする。纏められた書類箱を向かいの陣営に届けるのはグースフットの仕事だ。
『魔王』の方にも、表面上は大きな変化はなかった。
元々、蓮は隠された存在だった。だからグースフットが接する末端の兵士や事後処理担当官は彼女の存在自体を知らないのだ。その意味では変化のしようがない。
しかしあの日居合わせた者は、誰もがその存在を感じている。たとえ彼女が確かに生きていた、その姿を見てなどいなくとも。
そしてグースフットは、藜は、『魔王』は、知っている。あの日、皆を守り切った腕の持ち主を。この場所で、永遠に失われた娘の名を。
たった四日前のこととは思えないほど、既に最後の戦いは遠くに感じられた。あの時空に見えた背中は結局何だったのか、グースフットは知らない。知ろうとも思わない。ただ、あれが確かに蓮の意志を映したものだったとさえ了解していればいい。それ以上は自分の踏み込む領域ではないと思うだけだ。
未だ完全な和睦が成立する前とはいえ、かつてのようにぴりぴりと睨み合っているわけではない。そう。何よりも変わったのは空気だった。『戦士』との正式な話し合いを明日に控えた今、必要な書類を届けに訪れた『魔王』陣内の雰囲気は交渉当初と比べて随分と緩まっているようだった。
「あんた、こりゃ本当かい?」
ここ数日ですっかり顔馴染みになった処理担当官が素頓狂な声を上げた。手にしているのは封を切ったばかりの用向書、今回そこに書かれているのは『戦士』と『魔王』との間でこれから交わされることになる約定の概要だ。書類の起草者を示す頭の『魔王』の印、そして末尾に捺された『戦士』の印。両者が既に了解済みであるという意味を持つそれらの印影を何度も確認してから、担当官はぐっと声を潜めてグースフットに顔を寄せた。
「ひとつ、『魔王』と『戦士』は互いに干渉せず南北それぞれの港町を統治すべし。ひとつ、『魔王』と『戦士』の血に連なる者は二つの街を行き来するべからず……こりゃ、和平というより島の中での棲み分けじゃないか。一体上は何を考えとるんだ」
「さあ。難しいことは俺も分からん」
「しかしお偉いさんはこの島を統一するために戦っとったんだろう。こんな合意で納得できるなら、あの戦は一体何だったんだ」
「……はは。色々あるんだろうさ、お偉いさんにもな」
そう。知らなければ、こういう時に上手く空とぼけることもできる。
「とにもかくにも、当面この島から戦がなくなるのは確実だろう。だからまぁ、それでいいんじゃねえのか」
「しかしなあ」
「何も潰し合うだけが道じゃないさ。それにお前さん、一番大事なところを読み飛ばしてるぜ。ほれ、最後の一文だ」
グースフットの指先に示されて、担当官は目を細めてその細かい文字の羅列を読み上げた。
「おっ、本当だ。なになに。港町以外の島の土地の統治に関しては『魔王』が一切の責任を負うこととする。但し——」
担当官の声が上ずった。但し書きのそこでだけ、筆跡が変わるのをグースフットは知っている。紙を抉らんばかりに深々と刻み込まれたその一文を、並べられた几帳面な文字と共に脳裏に思い起こす。約定はほぼすべて『魔王』からの要求そのままの内容だった。読み上げられるそれを頷いて聞いていた藜が最後の最後に、たったひとつだけ追加を指示した一文。眉間に皺を刻みながら、頑固者の軍師がここだけは譲らないとばかりに書き加えたそれを、担当官の震え声が読み上げる。
「但し『魔王』が道を誤った場合、『戦士』は刃を以ってそれを糺すこととする——あんた、これは」
「言っただろ? 相克だけがただ一つの答えじゃない。あいつらは刃一枚を隔てて共存することを選んだんだ。ひょっとするとそれは、まともに潰し合うよりよっぽどキツいことかもしれんのにな」
椅子の足を蹴って、グースフットは立ち上がった。
「お互い我侭な上司で苦労するな。ま、当人同士をご対面させてこいつを正式に承認させちまえば、俺もあんたも晴れて御役御免だ。頑張ろうぜ」
なおも引き止めようとする声にひらひらと背中越しに手を振って、グースフットは天幕の出口を潜る。冬の空は晴れていた。雲ひとつない、銀色がかった薄い青。その色を見れば、思い出すつもりなどなくても思い出す。グースフットでさえそうなのだ。
「早く明日になるといいな」
結わえた手綱を解く手に鹿毛が鼻を寄せる。主人の呟きに応えるように、低い嘶きが澄んだ大気を震わせた。
翌朝、会見場に先に着いたのは『戦士』の方だった。両者の陣営のちょうど中間に『魔王』側が用意した天幕がぽつんと張られている。中を覗いてみると簡素だが重量のありそうな机がひとつと、向かい合わせに置かれた椅子が一対あるだけだった。
「何だよ、俺たちは立ちんぼか?」
「いいじゃないですか。『魔王』様と同席なんて僕はごめんです」
それぞれ勝手な感想を述べるグースフットとキヌアの背中を、梓が押す。
「なんでもいいっけ。あっちばはんこだけもらえば良がったんだから」
いつもと変わらない仲間のやりとりを藜は無表情のまま受け流す。彼らの気遣いは素直に有り難いと思う。けれど感謝を形にするだけの余裕は、まだ持つことができなかった。
ほの暗い天幕の中で待つことしばし。ほどなく外から馬の嘶きと、車軸の軋みが聞こえてきた。
「——? 馬車で来たのでしょうか」
訝しんだのはキヌアだけではない。あの葦毛は怪我でもしたのだろうか。
グースフットの右手がさりげなく剣の柄に置かれた。藜も机に立てかけていた長刀を左手に携える。武器のない梓とキヌアを背で庇うように立ち位置を調整しつつ、グースフットと二人、入り口へと向き直る。
幕越しに人が立つ気配がした。見えない景色を慎重に探る。向こうにいるのは一人——二人?
ばさりと音を立てて、実に無造作に入り口は開けられた。顔を覗かせた担当官が、天幕に満ちる緊張感にぎょっとしたように身を反らせる。
「えー、これはどうも……そちらは皆様お揃いのようで」
言葉だけは如才なく、けれども口調は棒読みのまま担当官は天幕に足を踏み入れた。そのまま入り口の幕を支え、向こうにいる人物を招き入れる。
改めての紹介など必要ない。切り取られた光を潜った白装束を認めて、藜もグースフットもひとまず得物から手を離す。
しかし。
「……どういうつもりです」
斬りつけるような声はキヌアのもの。直接言葉を向けられた白装束よりも、傍らに控えた担当官の方が胆を冷やしたらしく、ひっと小さく悲鳴を上げた。
藜は無言で白装束を睨みつける。縮こまった手足、曲がった背中。深々と下ろされた頭巾のせいで今はまだ容貌は窺えない。それでも目の前の人物は見知った『魔王』の姿とは、蓮の面影とは、あまりにもかけ離れていた。軽く肩を突くだけで倒れてしまいそうな、こんな足元も覚束ない小さな老人が『魔王』など。
「案ずるな。この期に及んで影武者を使うような真似はしない」
地を這うようなしわがれた声。しかしその高圧的な口調には確かに聞き覚えがあった。大儀そうに藜の正面に用意された椅子に腰掛け、老人は担当官を追い遣るように鋭く手を振る。
「行け。終わったら呼ぶ」
「は、しかし」
「邪魔だ」
言われて担当官は困惑の色を浮かべながらも素直に一礼して天幕を出て行く。大きく息を吐いて『魔王』を名乗る老人は正面に並んだ『戦士』の面々を見渡した。
「見覚えのない者もいるな。褐色の車右はいいとして、他は誰だ」
「軍師と、許婚だ」
ふん、と鼻を鳴らす『魔王』に藜は問い返す。
「そちらには立会人はいないのか」
「あいにくこちらに紹介するような身内はいない。妻もな」
頭巾の奥、刃のように鋭い青い眼差しが藜を睨みつける。そこには確かに、記憶の中の楝と同じ苛烈さが潜んでいた。
改めて藜は目の前の『魔王』を見据える。蓮の力を己の利害のため利用し続けた男。同時に、生まれた時から共に過ごしてきた兄でもある男。彼にとっても、蓮の葬失は重すぎる衝撃だったのだろう。たった数日で、こんなにも姿を変えてしまう程に。
言ってやりたいことは山ほどあったはずだった。しかしこの姿を見た後では、藜の側も気力が殺がれてしまっていた。
もしかすると、この深い喪失感を共有できるのはお互いだけなのではないだろうか。そんな思考さえもが脳裏にちらついて、慌てて打ち消した。
「傍付の奴隷には暇を取らせている。今朝産気づいたそうでな。まったく、肝心な時に使えない」
藜と同じような思考経路を辿ったのだろうか。無理矢理会話を打ち切るように、楝は矮躯をさらに屈めて顔を俯けた。再び青い目線は頭巾の奥に隠れて見えなくなってしまう。
「早く終わらせるぞ。貴様の顔など二度と見たくない」
「それはこっちも同じだ」
白装束の中から乾いた笑いが洩れた。何十年分にも値する慟哭を越えて嗄れ切った声が、天幕の薄闇を揺らす。
聞かないふりで藜は席に着き、用意していた書面を机に示した。
「署名と捺印を」
哄笑がぴたりと止んだ。鋭い一瞥が藜と傍らの”茅”に向けられる。
「その刀さえなければ、すぐにもこの手で斬り捨ててくれるものを」
挑発には乗らず、藜は無言のまま書類を手許に引き寄せ『戦士』の欄に自分の名を書き込んだ。改めて差し向けられた書面と筆に、観念したかのように楝が手を伸ばす。かつて刃を合わせた時に見たものとはあまりにも違う、干からびて節だけが目立つ手の甲だった。
短い署名が完成するのを待つ間、藜はふと目線を天井へと向けた。何気なく見遣った闇の奥、淡く光る銀色の光に思わず息を呑む。
輝くほどに白い頬。流れるように長い銀色の髪。屈めた楝の背中を見つめる涼やかな銀青の瞳、蓮と寸分変わらぬ整った面影。あの日戦場に現れた少女が、天幕の中空の濃い闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
凝視する藜の目線に気づいたのだろうか。少女は顔を上げた。藜と視線が交わった瞬間、その顔には哀しみと困惑が入り乱れた表情が浮かぶ。
——どうして。
震える唇が紡いだ言葉は空気を震わせることなく、藜の心を直に穿った。
「……藜さん?」
思わず立ち上がりかけた藜を、訝しげな梓の声が辛うじて引き止める。楝が署名しているこの瞬間に席を立つことなどできない。最大限の自制で、震える膝を椅子へと押しつける。視線だけで見上げた先に、もう少女の姿は見えなかった。
ことさらゆっくりと署名を終えた楝が筆を擱く。
「これで用は済んだな」
放り出すように楝が示した書類の上には『魔王』と『戦士』、決して並立しないはずの名前が並べられている。それは大切な何かが永遠に失われてしまった分、いびつに歪められたこの島の姿そのものだった。
守りたかったもの、守れなかったもの。
成したかったこと、成せなかったこと。
どこで、どうして間違ってしまったのだろうか。
少女の問い掛けだけが、藜の耳に焼きついて離れなかった。この先自分に残された時間の中、決して忘れえぬ場所に刻まれたその疑問。
未だ来ない時間のどこかで、この問いに答えが出る日は来るのだろうか。いつかこの島の歴史の、どこかで。
<予告編>
長い夢を見ていた。
ひどく儚い、硝子細工のような夢を。
漆黒の瞳が見上げる空は、
幾世代を経ようとも同じ色ですべてを包んでいた。
創国の雪の日、
皇帝誕生の王都下り、
そして今日、皇帝軍出帥。
”茅”が戦場へと持ち出される、三度目の朝。
破魔刀は煌びやかに過去と未来を映し出す。
出陣に臨む父子の横顔は、
それぞれに癒えぬ哀しみの刃を宿していた。
『DOUBLE LORDS』転章14、
そんなたった一言を、言わないのか。
——言えないのか。
応じる『魔王』の側にも指示の変化があったようだ。向こうの合図は金物の喇叭の音だ。高く澄んだ指示に合わせて、陣形が密集し防御の態勢を整えていく。
「……やはり『魔王』はまだ到着していないようですね」
藜の傍らで、瞳を細めたキヌアが呟く。
「魔法が撃てるなら攻め手の甘い右翼が真っ先に狙われるでしょうが。みすみす隙を見逃しての防御策など、彼のあの性格からして部下には絶対に許さないでしょう」
「そうだな」
頷き返しながらも、藜は黒い土煙が上がる前線から目を離さない。
あの早春の朝からもうすぐ一年が経つ。蓮を迎えに行く。ただひとつ、その目的の為に準備を整えた日々だった。
蓮のことに関して、キヌアは頑として首を縦には振らなかった。グースフットからも依然明確な賛成が得られたわけではない。けれどただ一人、梓だけは手を惜しまずに協力してくれた。
和睦か、討伐か。目的の違いはあれど、いずれ『戦士』が南に赴くことは最早必定だった。たとえ藜が南征の準備を急いだとしても、表立って止める理由は誰にもない。
楝と兵をぶつけ合うことはもう避けられない。向こうにもこちらにも、退けない理由がある。だからこそ、負けるわけにはいかなかった。この戦に勝って初めて、楝との交渉の余地が生まれる。
しかし未だに藜は楝を舞台に引きずり出せないでいる。
兵を起こしたのは藜の方が先。しかし楝とて警戒を怠っていたわけではない。すぐさま反応はあった。
整えたばかりの街道をこれまでとは段違いの速さで駆け抜けたおかげで距離は稼げた。しかし突貫で造った道はまだ完成には程遠い。半日で石畳の舗装は均しただけの土に変わった。それさえも二日で尽き、以前と同じように草の海を泳ぎ出して間もなくのこと。いつでも工事にかかれるよう、測量用の資材が積まれた空き地で『魔王』軍の第一陣と遭遇した。斥候を兼ねた部隊だったのだろう。初戦こそあっさり退いたものの、その部隊はじりじりと後退しながら後続兵力と合流し続け、時々踏みとどまっては防御する姿勢を見せている。今目の前にいる敵も、中心で指揮しているのは第一陣の面子らしい。
「まるで殿軍のような働きぶりですね」
呆れ混じれにキヌアが溜息を吐く。彼らの狙いは楝が出てくるまでの時間稼ぎだと分かっている。だからこそ、その声にも少しずつ焦りが滲み始めている。
文字通り道半ばの状態、それでも豊作の秋以降余裕のできた懐具合のおかげで、この機に『魔王』を討とうという意見で身内を纏め上げられたのだけがせめてもの救いだった。
恐らくこれが最後の戦になる。逃げも隠れもできない征路、それゆえに藜は梓を本拠地の港街に留めようとした。女なのだから残れとか、そんな常套句通りの感情などではなかった。結局のところ、この戦は藜と楝の意地の張り合いにけりがつくことでしか終わらないのだ。そんな男どもの身勝手に付き合わされて、蓮のように心ならずも手を汚す娘をこれ以上増やしたくない。ただ、そう思ってのことだった。
しかし梓は静かに首を横に振った。
「最後ばきちっと見んかったら、おらさ戦ばいつまで経っても終わらんっけ。あの子にももっかい会いたいしなあ」
そう言った時と同じ表情のまま、梓は今も藜の隣で目を逸らさずに戦場を見つめている。今生きている時間から逃げたくない。何よりもその横顔が雄弁に訴えていた。
既に征路は島の中央部を過ぎている。もうかなり南の港街に近づいているはずだ。単騎で駆ければ一日も掛からない距離、しかしその先へなかなか進めずに足踏みをしている。横手に見える大きな岩山のぎざぎざが、ここ数日ずっと同じ顔で聳えているのが忌々しかった。あんなもの、早く置き去りにして先へ進みたいのに。
岩山の麓では真っ黒な泥仕合が繰り広げられていた。みぞれ混じりの雨雪はいつしか真っ白な牡丹雪となり、地に、人に降りかかった途端に別の色へと染め変わる。灰色と、白と、黒と、赤。
「魔法が来ない今のうちだ、進め!」
風のいたずらだろうか、吹きちぎられたグースフットの声が遠くから聞こえてきた。それも束の間、あっという間につむじ風は向きを変えて、今はもう聞き慣れた剣戟と喊声と悲鳴とを鼓膜に置き去りにして吹き過ぎていく。
魔法が来ない。
魔法は来ない。
祈るような思いで藜は空を見上げた。舞う綿のような大きな雪片がひとひらひとひら、黒鎧の上で水滴に変わっていく。凍りつかないのが不思議なほど冷たいその胸に、雪より白い溜息が落ちた。
今、戦場に『魔王』を守る影武者の白装束は見えない。楝が、蓮が、来ていないから。瞼に蓮の寂しげな微笑が甦った。短く切った銀の髪では隠し切れない哀しみが、冷気よりも鋭く胸を締め付ける。
逢いたい。
けれど来ないでほしい。この地獄の底のような戦場には、もう二度と。
ふいに何かが視界を横切った。咄嗟に目が追った先は、前方の丘に布かれた『魔王』の本陣よりもさらに向こう側。色は雪と同じ、しかし降り来る欠片とは逆にその白は斜めに、天へ向かって上っていく。
「狼煙……?」
鼓手が撥を止めて目を細める。閃いた記憶は、別れの朝に手渡した大陸渡りの煙筒。
——見えたらすぐに駆けつけてやる。
黒馬の手綱を引き寄せたのは無意識のこと、それでも心得たように相棒は嬉しげに嘶いた。
「全員伏せろ! 『魔王』が来る!」
藜の声に我に返った鼓手が反射的に太鼓を叩く。腹に轟く音が、二回。梓が息を呑んで顔を上げた。すぐ傍らの、藜がいた場所にはもう誰もいない。黒鎧の重さを受け止める馬具の澄んだ響きだけが、冷気の中に置き去りにされる。咄嗟に制止しかけたキヌアの手を掠めて、黒馬は全速で前線へ向けて駆け出していく。藜に先駆けて伝わった音波が、人波に波紋を描いた。頭を抱え蹲る兵を追い越しながら、馬上の藜はただ一人空を見上げて”茅”を抜く。
——蓮が、来る。
こわい。
こわいよ。
そらからたくさん、しろくてつめたいかけらがおちてくる。わたしにふれて、みずになる。
きいたこともない、こわいこえがする。おおきなおとも。たくさん、たくさん、かこまれてる。
あかざはなんで、こんなところにいるの。
ねえ、かえろうよ。
わたしがうまれた、かやぶきのいえへ。
れんといっしょに、くらすんでしょう。
れんと、あかざと、かやぶきのいえと……ともだち、っていうのかな? ふたりと、いつもいっしょにいるひとたちと。
わたしはみんなをまもる、しゅごしんだから。まもれなきゃ、うまれたいみがないの。
こんなこわいところじゃ、まもれないよ。だから、ねえ。かえろう? あのあたたかい、たきびのそばへ。
……あれ。
なつかしいにおいがする。
れんだ。
わたしとおなじ、まほうのにおい。
うまもきづいたみたい。わらってる。
あかざは?
そらをみている。
うれしいの? かなしいの? いまにもなきそうな、よこがお。
「全員伏せろ! 『魔王』が来る!」
ああ、わかってくれてる。あかざも、れんがくるのを。
よかった。うれしいな。ねえ、もうすぐあえるよ。れんとあかざ。よかったね。よかったね。
うまがはしりだす。れんをむかえに。たちどまって、すわりこんだみんなをおいこして。はやく、もっとはやく。
あかざのてがわたしをにぎりしめる。つよく、つよく。
——いたいよ。そんなにつよくつかんだら、こわれちゃうよ。
くうきが、かわった。
れんのにおいが、そらいっぱいにあふれてる。ぴりぴりとちいさなものがぶつかりあってる。これはかみなりのあいず。れんが、かみなりをおとそうとしている。
あかざがわたしをぬいた。やいばにうつるそのかおは、まっすぐにそらをみあげている。
——なんで? なんでれんは、あかざにかみなりをうつの? なんであかざは、れんにかたなをむけるの?
わからない。わからないよ。
でも、わたしはしゅごしんだから。まほうからあかざをまもるためにつくられたんだから。
まもらなきゃ。みんなを、かみなりから。
でも、どうやって?
くもが、うなりはじめる。うまがみみをふせた。そのとたん。
そらがまっしろにひかった。れんのかみなり。
あかざがわたしをそらへとかざす。どろどろのまっくろななかで、たったひとつだけひかるわたしのからだ。ともだちをみつけたみたいに、かみなりがわたしめがけておちてくる。
うでをのばして、わたしはかたなをぬぎすてた。しろいいなびかりを、れんとおなじぎんいろのかみがはじきかえす。きれい。
わたしはれんのこころ。あかざを、みんなを、まもりたいとおもうねがい。
うでをひろげて、かみなりをうけとめる。だいじょうぶ。れんが、れんのこころをこわすはずがない。だから。
かみなりはすこしだけあばれたけれど、すぐにおとなしくなった。わたしをきょうだいだと、わかってくれたみたい。ちょっとのあいだだけかんがえるようにばちばちとおとをたてたけど、すぐにわたしのむねへとすいこまれていく。あとにのこったのはぴりぴりしたくうきと、しろくてつめたいかけらだけ。おなじくらいしろいはだや、ぎんいろのかみを、かけらはなにもないばしょみたいにとおりぬけて、どろどろのなかへとおちていく。
まるでわたしなんて、いないみたいだ。
このかけら、いやだよ。こころがなきゃ、ひとはひとじゃないのに。
こわいよ。
さむいよ。
れん。
かみなりがきえたとたん、うでが、ゆびが、かたちが、ゆれた。いまわたしのあしもとでうずくまっているひとと、なにもかわらない。ふるえてる。
めが、れんをみつけだした。さがさなくてもよかった。だって、わたしのまえにたっているのはれんだけだったから。
どろどろのなかにひざをついて、あたまをかかえたたくさんのひと。あかざのみかただけじゃない。れんのそばでも、さっきまでたたかってたひとは、だれひとりたちあがってなんかいない。いちばんたかいところにいるひとに、かみなりはおちてくるから。
うしろのあかざと、まえのれん。いまここでたっているのは、ふたりだけ。
「蓮」
あかざがよぶ。ちいさな、ちいさな、こえ。
かぞえきれないほどたくさんのあたまのむこうで、れんはこっちにゆびさきをむけている。そらからみると、ああ、どうしてこんなにふたりはとおくにいるんだろう。いま、ふたりはほかのすべてをひざまずかせて、ここにたっているのに。
ねえ、れん。はやくこっちにおいでよ。
みて。けがをしたひとはだれもいないよ。わたし、かみなりからみんなをまもったよ。れんのねがいをかなえたよ。しゅごしんに、なれたよ。
だから、こんどはれんがわたしのねがいをかなえて。
いっしょにかえろうよ。わたしがれんとあかざをまもるから。れんのかみなりをとめられるなら、ほかにとめられないものなんてなにもないよ。
れんが、かおをあげた。わたしをみて、ずきんのなかのあおいめがびっくりしたみたいにおおきくなる。けれどそれはすぐに、うれしそうなえがおにかわっていった。
ああ、わかってくれた。れんが、れんのこころが、まほうからみんなをまもったんだよ。
れんがずきんをとった。わたしとおなじいろのかみがこぼれる。かみ、のびたね。かたにとどくくらい。ねえあかざ、みてる? れんも、やくそくをまもったよ。
れんのうでが、となりのひとにひっぱられた。おなじふく、そっくりなかお。れんのおにいちゃんだ。れんがまもりたいとねがった、もうひとりのだいすきなひと。
みんなをまもる。それがわたしのやくめ。だけど。
おにいちゃんがなにかいってる。あたしをゆびさして、すごくおこってるみたい。けれどそのかおは、とても、とてもかなしそうにもみえた。もういちど、こんどはれんのかたをひっぱった。いまにもれんがたおれてしまいそうなくらい、つよいちから。
やめて、れんにひどいことをしないで。
こえなんてきこえなくても、いってることはわかる。
——わたしを、けせって。
そしてあかざを、たおせって。
れんはくびをよこにふる。おにいちゃんのかおは、もっとかなしそうになる。なんどもうでがひっぱられる。そのたびにれんのかおがやさしくなっていく。わらって、いく。
うまがないた。あかざをのせて、しろいかけらがおちるなかをはしっていく。わたしのあしもとを、おいこして。
おにいちゃんも、なきそうなかおだった。らんぼうにれんのうでをはなして、そのままひだりてをふりあげる。たたくつもりだ。あかざがいきをのむのがきこえた。
「——蓮!」
よくひびく、あかざのこえ。とどいたのかな。とおく、とおくむこうで、れんはたしかにこっちをむいてわらった。
とても、しあわせそうに。
なのに。
そらにのこっていたまほうが、かみなりにかわった。おにいちゃんのうでがふりおろされるより、すこしだけはやく。
まってよ、れん。ひかりになんておいつけない。わたしとれんは、とおすぎる。
いっぱいにのばしたゆびのむこうで、そらがまっしろになった。なにもかもをおおいつくしたかみなりが、たったいっぽんのひかりになっておちていく。
——れんへ、むかって。
光が戦場を薙ぐ。
身を竦め、居合わせた者は一様に息を止める。そこには上役も末端もない。魔法の前では、皆がただの無力な人間となる。
ここは最前線、敵陣に一番近い場所。戦局の大勢を見て取るには少し近すぎるが、相手の顔かたちならどこよりもつぶさに見て取れる場所に今、グースフットはいる。最初の雷が鳴る直前、上目に確認したのは確かに『魔王』の白装束だった。戦場を俯瞰できる正面の小さな丘の斜面、傍らには今はもうただ一人となった影武者——蓮を連れて。『魔王』は蓮の肩を掴み、何事かを強く指示しているように見えた。
この期に及んで、まだあの娘を利用するつもりか。己の妹を。藜の、『戦士』の大将の、最大の弱点を。
喉元を過ぎた恐怖の隙を衝いて、抑えようのない怒りがこみ上げてくる。
てめえが守ってやらなきゃならん相手じゃないのか。妹だろう。
しかし素顔をあらわにした蓮は首を縦に振らない。穏やかな微笑さえ浮かべて、兄の、『魔王』の指示に逆らう。
ああ、だから女は分からねえってんだ。大将、俺は何度も気をつけろって言っただろう。か弱そうに見えて、腹を括った女ほど強いものなんてありゃしない。そんなの梓を見てりゃ分かるだろう。いい加減あんたとは腐れ縁だけどな、今回の一件は多分今までで一番の我侭だろうな。しかもあんたにしては珍しい色恋沙汰ときた。俺にとっては得意科目だ、援護してやりてえのはやまやまだが、やっぱり相手が悪すぎる。あの『魔王』様に面と向かって逆らう娘なんて、俺は絶対に御免だ。
だけど、あんたは。
「——蓮!」
やっぱりな。諦めねえんだろ。そうだ。それでこそ、俺たちの大将だ。
自然と頬が緩んだ。寒さと恐怖と怒りとに縮みきった手足に力が戻って来る。
俺の役目は常に先陣を切って大将の露払いをすること。だからよりにもよって『魔王』との戦いで、あんたに先を越されるわけにはいかないんだよ。
肺が空っぽになるまで息を吐き出し、地を踏みしめたその刹那。
二度目の光が空を薙いだ。
意思など関係ない。反射的に身を伏せる。竦めた首の上を、びりびりと電気と音波が駆け抜けていく。『魔王』の怒りが過ぎ去るのをただ待つだけの、この時間。がたがたと勝手に震える右手を、無理矢理剣の柄に押し付ける。
「畜生が……」
何度ぶつかってもこの恐怖には慣れない。得体の知れない力が自分に向かって撃たれるという、肌で直に感じる不気味さ。ちっぽけな矜りなど消し飛ばしてしまう、圧倒的な力の差。
もう二度とこんな思いはごめんだ。だから今度こそ、終わりにしてやる。
頬に冷たいものが触れた。名残の牡丹雪がひとひら、ひとひら天空から落ちてくる。——雷雲は過ぎた。
がばりと身を起こす。見上げた空に翻るのは銀の帳。思わず目を奪われる。鉛色の雪雲が、薄く輝くものの向こう側に透けて見えた。長く豊かなそれはどうやら髪の毛のようだ。その先を辿ると、宙に浮かぶ少女の剥き出しの背中に行き着いた。肩越しに見えるのは、見間違いようもなく蓮と同じ面影。見知ったそれより幼い横顔が震える腕をいっぱいに伸ばして、左手をかざした白装束との間に立ち塞がっている。まるで『魔王』の手から撃たれる魔法から皆を庇うかのような、その後姿。
理屈ではなく体が理解した。帯電の薄れた空気を褐色の肌が、黒い雷雲が鉛色の雪雲に刷き変わるのを若葉色の瞳が、遠ざかる残響を研ぎ澄ませた聴覚が、成された事実を捉えて脳髄へと叩き込む。
——守られた。俺たちは、この細い腕に。
「野郎共、立て! こんな戦、とっとと終わらせるぞ!」
守るべきもの。形は違えど、人の子ならばそう思えるものは大きく変わらないはずだ。
蓮は『魔王』から『戦士』を守った。
なのに蓮の兄は何をした。守るべき妹をこんな最前線にまで引きずり出して、駆け引きの道具にして。そんな事態を止め切れなかった藜も。もっともらしい題目を並べて見ていることしかしなかったキヌアも、自分自身も。
悔しくて堪らなかった。何より己の不甲斐なさを噛み殺して、空を仰いだまま剣先を『魔王』の軍勢へと向ける。
湧き起こる鬨の声に、弾かれたように少女が振り返った。今にも泣き出しそうに不安げだった表情が、真っ直ぐに見上げるグースフットの目線を受けてひどく戸惑ったような色を浮かべる。次の瞬間、少女の姿はたちまち白銀の粒子になって消えていった。その儚さはあまりにも、あの娘にそっくりで。
藜を守る。眼前で確かに示された、蓮の意志。
取り返さなければ。あの華奢な背中を、今度こそ藜の腕で守ってやる為に。
蓮の勇気に報いる手段は、最早それしか思い浮かばなかった。
彼方に見える白装束を睨み据える。
もう利用などさせるものか。弱点、大いに結構。『魔王』様はどうだか知らないが、生憎うちの大将は普通の人間だ。弱さを持たない人間になど、俺はついていく気になど到底なれない。
眇めた視界はしかし、すぐに違和感を訴える。
『魔王』は独りだ。中途半端に左腕を上げたままの格好で固まっている。——傍らにいたはずの、蓮の姿がない。
慎重に『魔王』の照準を探る。二度目の狙いはどうやら『戦士』の陣営ではないようだった。左手の先が示していたのは先程まで蓮がいた場所。指し示されたぬかるみの地面に、黒々と焼け焦げの跡だけが残されている。『魔王』の装束よりもなお白く、一筋の煙がたなびいて風の中へと散っていった。ちょうど人ひとりが収まるくらいの、その空間。
一瞬、思考が空白になる。真空になった心に、渦を巻いて押し寄せてきたのは抑えきれない怒りだった。
「野郎……!」
消したのか。意に沿わなかった、自分の妹を。
あまりにも強く突き上げてきた感情のせいで視界が揺れる。咄嗟に探った傍らの鹿毛の手綱を取り落としかけるほどに、手が震えている。一息に鞍へと飛び乗った。鹿毛の腹を蹴ろうとした、その瞬間。
黒い風が脇を駆け抜けた。
「——大将!」
考えるより先、腕を伸ばす。辛うじて届いた指先が漆黒の籠手を掴んだ。藜は止まらない。グースフットなど目に入っていない様子で、ただひたすらに『魔王』を目指して黒馬に拍車を入れる。黒馬より体格の良い鹿毛がたたらを踏むほど強くがむしゃらなその力に、グースフットの方は逆に少しだけ冷静さを取り戻した。
「落ち着け、無茶だ! 撃たれるぞ!」
「知ったことか!」
腕を振り払い、藜は黒馬にさらに鞭を入れた。
「蓮——!!」
「馬鹿野郎!!!」
振り払われた勢いのまま、グースフットはすり抜けようとする黒鎧の襟首を後ろから掴み取る。そのまま斜め後ろに思い切り引き倒した。たまらず落馬した藜の重みに引きずられ、グースフットも鹿毛の背から転がり落ちる。鞍に括りつけてあった黒兜がぬかるみに跳ねた。首根っこを捕まえたままの腕を振り払おうと藜が暴れる。勢いのままに繰り出される頭突きを胸当てが騒がしく受け止めた。生身の攻撃など、当然グースフットにはまったく効かない。たまらず剥き出しの額を押さえた藜の肩を膝で押さえつけ、その頬を手加減なしに殴りつける。
「分からねえのか! あの娘っ子が守ろうとしたのは他でもねえ、お前とあのろくでなしじゃねえのか! そのお前が無茶苦茶やって無駄死にしてどうする! しっかりしろ!!」
「じゃあどうすればいいんだ! あんな——」
途切れた先は、言葉にならなかった。
人ひとりがちょうど収まるくらいの、跡形もない焦げ跡。綺麗に消し飛んだその空白はまるで、蓮という娘などはじめから存在していないと主張しているかのように見えた。あまりにも無慈悲な、『魔王』の鉄槌。
「グースフット。俺は魔法が憎い。——『魔王』が、憎い」
額を押さえていた右手はいつしか顔全体を覆っていた。低い呟き声と共に震えるほどに強く、左手は長刀を握りしめている。
「どうして。どうして、蓮が——」
「……それ以上言うな。言わなくていい」
黒塗りの鞘と鎧が立てる、細かく澄んだ音色だけが場違いに綺麗だった。目線のやり場を失い見上げた空から、雪はとめどなく降り続いてくる。先程皆を庇った娘の姿は、もう虚空には見えなかった。
こんな時にこそ、全てを終わらせる雷が戦場を薙ぎ払えばいいのに。そうすれば藜もグースフットも楽になれるだろうに。『魔王』は何をしているのだろう。魔法を撃つこともなく。妹を、守るべきものを、失って。
「馬鹿野郎が……」
歯を食いしばって嗚咽を堪える藜か。雪の中にようやく響き始めた慟哭の源にいる『魔王』か。それとも、何もかもを残して消えてしまった蓮なのか。
誰へ向けた呟きかなど、グースフット自身にも分からなかった。
戦後交渉はそれまでの経緯の縺れが馬鹿らしくなるほど順調に進んだ。
『戦士』と『魔王』双方の指揮官がこれ以上干戈を交えることを望まなかったため、という至極消極的な理由ではあった。しかしあの雪の日に何か大切なものが失われたことは、その場にいた誰もが肌で感じていた。
この島の行く末を変えてしまうような、途轍もなく大きな喪失。
あの後はとても戦えるような状態ではなかった。
二度の魔法、その直後の司令官たちの戦闘放棄。突然途切れた指示を訝しく思う余裕など誰にもなく、兵たちの中にもしばらくその場を動く者はいなかった。
『魔王』の兵には魔法が効かない、という事実が。
『戦士』の兵には魔法から守られた、という実感が。
そして両者ともに、それを成したのが年端もいかぬ少女の姿をしたものであったことに深い衝撃を受けていた。
『魔王』に逆らう影武者を。『戦士』を守った、細い腕を。
確かに見た。けれど今はもうどちらも跡形もない。一度きりの庇護。あれが『戦士』の味方だと言い切るにはあやふやで、けれど幻だと断言できる者は誰もおらず。
思い出したように鳴らされた退却の合図にひとまず撤収したはいいものの、二つの陣営は前進も後退もしない。白黒つけがたい気持ちのまま、ただ呆然とそこに留まり続けているだけだった。
それでも二日目には司令官たちが和平交渉を試みているという噂が流れ始めた。事実、遠くはない両者の陣営を頻繁に往復する騎影があった。その馬を見た『戦士』の兵たちは、噂が信じるに足る根拠を持っていると判断した。
馬の色は、草の海によく映える鹿毛だった。
最後の戦いの場となった丘を見上げる位置に、急ごしらえの天幕が立ち並ぶ。あの日以来めっきり無口になった藜に、『魔王』からの書簡を手にしたキヌアが事後処理の細々した素案を提示する。ひとつひとつに藜が頷いたのを確認して、梓が決済された書類を仕分けする。纏められた書類箱を向かいの陣営に届けるのはグースフットの仕事だ。
『魔王』の方にも、表面上は大きな変化はなかった。
元々、蓮は隠された存在だった。だからグースフットが接する末端の兵士や事後処理担当官は彼女の存在自体を知らないのだ。その意味では変化のしようがない。
しかしあの日居合わせた者は、誰もがその存在を感じている。たとえ彼女が確かに生きていた、その姿を見てなどいなくとも。
そしてグースフットは、藜は、『魔王』は、知っている。あの日、皆を守り切った腕の持ち主を。この場所で、永遠に失われた娘の名を。
たった四日前のこととは思えないほど、既に最後の戦いは遠くに感じられた。あの時空に見えた背中は結局何だったのか、グースフットは知らない。知ろうとも思わない。ただ、あれが確かに蓮の意志を映したものだったとさえ了解していればいい。それ以上は自分の踏み込む領域ではないと思うだけだ。
未だ完全な和睦が成立する前とはいえ、かつてのようにぴりぴりと睨み合っているわけではない。そう。何よりも変わったのは空気だった。『戦士』との正式な話し合いを明日に控えた今、必要な書類を届けに訪れた『魔王』陣内の雰囲気は交渉当初と比べて随分と緩まっているようだった。
「あんた、こりゃ本当かい?」
ここ数日ですっかり顔馴染みになった処理担当官が素頓狂な声を上げた。手にしているのは封を切ったばかりの用向書、今回そこに書かれているのは『戦士』と『魔王』との間でこれから交わされることになる約定の概要だ。書類の起草者を示す頭の『魔王』の印、そして末尾に捺された『戦士』の印。両者が既に了解済みであるという意味を持つそれらの印影を何度も確認してから、担当官はぐっと声を潜めてグースフットに顔を寄せた。
「ひとつ、『魔王』と『戦士』は互いに干渉せず南北それぞれの港町を統治すべし。ひとつ、『魔王』と『戦士』の血に連なる者は二つの街を行き来するべからず……こりゃ、和平というより島の中での棲み分けじゃないか。一体上は何を考えとるんだ」
「さあ。難しいことは俺も分からん」
「しかしお偉いさんはこの島を統一するために戦っとったんだろう。こんな合意で納得できるなら、あの戦は一体何だったんだ」
「……はは。色々あるんだろうさ、お偉いさんにもな」
そう。知らなければ、こういう時に上手く空とぼけることもできる。
「とにもかくにも、当面この島から戦がなくなるのは確実だろう。だからまぁ、それでいいんじゃねえのか」
「しかしなあ」
「何も潰し合うだけが道じゃないさ。それにお前さん、一番大事なところを読み飛ばしてるぜ。ほれ、最後の一文だ」
グースフットの指先に示されて、担当官は目を細めてその細かい文字の羅列を読み上げた。
「おっ、本当だ。なになに。港町以外の島の土地の統治に関しては『魔王』が一切の責任を負うこととする。但し——」
担当官の声が上ずった。但し書きのそこでだけ、筆跡が変わるのをグースフットは知っている。紙を抉らんばかりに深々と刻み込まれたその一文を、並べられた几帳面な文字と共に脳裏に思い起こす。約定はほぼすべて『魔王』からの要求そのままの内容だった。読み上げられるそれを頷いて聞いていた藜が最後の最後に、たったひとつだけ追加を指示した一文。眉間に皺を刻みながら、頑固者の軍師がここだけは譲らないとばかりに書き加えたそれを、担当官の震え声が読み上げる。
「但し『魔王』が道を誤った場合、『戦士』は刃を以ってそれを糺すこととする——あんた、これは」
「言っただろ? 相克だけがただ一つの答えじゃない。あいつらは刃一枚を隔てて共存することを選んだんだ。ひょっとするとそれは、まともに潰し合うよりよっぽどキツいことかもしれんのにな」
椅子の足を蹴って、グースフットは立ち上がった。
「お互い我侭な上司で苦労するな。ま、当人同士をご対面させてこいつを正式に承認させちまえば、俺もあんたも晴れて御役御免だ。頑張ろうぜ」
なおも引き止めようとする声にひらひらと背中越しに手を振って、グースフットは天幕の出口を潜る。冬の空は晴れていた。雲ひとつない、銀色がかった薄い青。その色を見れば、思い出すつもりなどなくても思い出す。グースフットでさえそうなのだ。
「早く明日になるといいな」
結わえた手綱を解く手に鹿毛が鼻を寄せる。主人の呟きに応えるように、低い嘶きが澄んだ大気を震わせた。
翌朝、会見場に先に着いたのは『戦士』の方だった。両者の陣営のちょうど中間に『魔王』側が用意した天幕がぽつんと張られている。中を覗いてみると簡素だが重量のありそうな机がひとつと、向かい合わせに置かれた椅子が一対あるだけだった。
「何だよ、俺たちは立ちんぼか?」
「いいじゃないですか。『魔王』様と同席なんて僕はごめんです」
それぞれ勝手な感想を述べるグースフットとキヌアの背中を、梓が押す。
「なんでもいいっけ。あっちばはんこだけもらえば良がったんだから」
いつもと変わらない仲間のやりとりを藜は無表情のまま受け流す。彼らの気遣いは素直に有り難いと思う。けれど感謝を形にするだけの余裕は、まだ持つことができなかった。
ほの暗い天幕の中で待つことしばし。ほどなく外から馬の嘶きと、車軸の軋みが聞こえてきた。
「——? 馬車で来たのでしょうか」
訝しんだのはキヌアだけではない。あの葦毛は怪我でもしたのだろうか。
グースフットの右手がさりげなく剣の柄に置かれた。藜も机に立てかけていた長刀を左手に携える。武器のない梓とキヌアを背で庇うように立ち位置を調整しつつ、グースフットと二人、入り口へと向き直る。
幕越しに人が立つ気配がした。見えない景色を慎重に探る。向こうにいるのは一人——二人?
ばさりと音を立てて、実に無造作に入り口は開けられた。顔を覗かせた担当官が、天幕に満ちる緊張感にぎょっとしたように身を反らせる。
「えー、これはどうも……そちらは皆様お揃いのようで」
言葉だけは如才なく、けれども口調は棒読みのまま担当官は天幕に足を踏み入れた。そのまま入り口の幕を支え、向こうにいる人物を招き入れる。
改めての紹介など必要ない。切り取られた光を潜った白装束を認めて、藜もグースフットもひとまず得物から手を離す。
しかし。
「……どういうつもりです」
斬りつけるような声はキヌアのもの。直接言葉を向けられた白装束よりも、傍らに控えた担当官の方が胆を冷やしたらしく、ひっと小さく悲鳴を上げた。
藜は無言で白装束を睨みつける。縮こまった手足、曲がった背中。深々と下ろされた頭巾のせいで今はまだ容貌は窺えない。それでも目の前の人物は見知った『魔王』の姿とは、蓮の面影とは、あまりにもかけ離れていた。軽く肩を突くだけで倒れてしまいそうな、こんな足元も覚束ない小さな老人が『魔王』など。
「案ずるな。この期に及んで影武者を使うような真似はしない」
地を這うようなしわがれた声。しかしその高圧的な口調には確かに聞き覚えがあった。大儀そうに藜の正面に用意された椅子に腰掛け、老人は担当官を追い遣るように鋭く手を振る。
「行け。終わったら呼ぶ」
「は、しかし」
「邪魔だ」
言われて担当官は困惑の色を浮かべながらも素直に一礼して天幕を出て行く。大きく息を吐いて『魔王』を名乗る老人は正面に並んだ『戦士』の面々を見渡した。
「見覚えのない者もいるな。褐色の車右はいいとして、他は誰だ」
「軍師と、許婚だ」
ふん、と鼻を鳴らす『魔王』に藜は問い返す。
「そちらには立会人はいないのか」
「あいにくこちらに紹介するような身内はいない。妻もな」
頭巾の奥、刃のように鋭い青い眼差しが藜を睨みつける。そこには確かに、記憶の中の楝と同じ苛烈さが潜んでいた。
改めて藜は目の前の『魔王』を見据える。蓮の力を己の利害のため利用し続けた男。同時に、生まれた時から共に過ごしてきた兄でもある男。彼にとっても、蓮の葬失は重すぎる衝撃だったのだろう。たった数日で、こんなにも姿を変えてしまう程に。
言ってやりたいことは山ほどあったはずだった。しかしこの姿を見た後では、藜の側も気力が殺がれてしまっていた。
もしかすると、この深い喪失感を共有できるのはお互いだけなのではないだろうか。そんな思考さえもが脳裏にちらついて、慌てて打ち消した。
「傍付の奴隷には暇を取らせている。今朝産気づいたそうでな。まったく、肝心な時に使えない」
藜と同じような思考経路を辿ったのだろうか。無理矢理会話を打ち切るように、楝は矮躯をさらに屈めて顔を俯けた。再び青い目線は頭巾の奥に隠れて見えなくなってしまう。
「早く終わらせるぞ。貴様の顔など二度と見たくない」
「それはこっちも同じだ」
白装束の中から乾いた笑いが洩れた。何十年分にも値する慟哭を越えて嗄れ切った声が、天幕の薄闇を揺らす。
聞かないふりで藜は席に着き、用意していた書面を机に示した。
「署名と捺印を」
哄笑がぴたりと止んだ。鋭い一瞥が藜と傍らの”茅”に向けられる。
「その刀さえなければ、すぐにもこの手で斬り捨ててくれるものを」
挑発には乗らず、藜は無言のまま書類を手許に引き寄せ『戦士』の欄に自分の名を書き込んだ。改めて差し向けられた書面と筆に、観念したかのように楝が手を伸ばす。かつて刃を合わせた時に見たものとはあまりにも違う、干からびて節だけが目立つ手の甲だった。
短い署名が完成するのを待つ間、藜はふと目線を天井へと向けた。何気なく見遣った闇の奥、淡く光る銀色の光に思わず息を呑む。
輝くほどに白い頬。流れるように長い銀色の髪。屈めた楝の背中を見つめる涼やかな銀青の瞳、蓮と寸分変わらぬ整った面影。あの日戦場に現れた少女が、天幕の中空の濃い闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
凝視する藜の目線に気づいたのだろうか。少女は顔を上げた。藜と視線が交わった瞬間、その顔には哀しみと困惑が入り乱れた表情が浮かぶ。
——どうして。
震える唇が紡いだ言葉は空気を震わせることなく、藜の心を直に穿った。
「……藜さん?」
思わず立ち上がりかけた藜を、訝しげな梓の声が辛うじて引き止める。楝が署名しているこの瞬間に席を立つことなどできない。最大限の自制で、震える膝を椅子へと押しつける。視線だけで見上げた先に、もう少女の姿は見えなかった。
ことさらゆっくりと署名を終えた楝が筆を擱く。
「これで用は済んだな」
放り出すように楝が示した書類の上には『魔王』と『戦士』、決して並立しないはずの名前が並べられている。それは大切な何かが永遠に失われてしまった分、いびつに歪められたこの島の姿そのものだった。
守りたかったもの、守れなかったもの。
成したかったこと、成せなかったこと。
どこで、どうして間違ってしまったのだろうか。
少女の問い掛けだけが、藜の耳に焼きついて離れなかった。この先自分に残された時間の中、決して忘れえぬ場所に刻まれたその疑問。
未だ来ない時間のどこかで、この問いに答えが出る日は来るのだろうか。いつかこの島の歴史の、どこかで。
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<予告編>
長い夢を見ていた。
ひどく儚い、硝子細工のような夢を。
漆黒の瞳が見上げる空は、
幾世代を経ようとも同じ色ですべてを包んでいた。
創国の雪の日、
皇帝誕生の王都下り、
そして今日、皇帝軍出帥。
”茅”が戦場へと持ち出される、三度目の朝。
破魔刀は煌びやかに過去と未来を映し出す。
出陣に臨む父子の横顔は、
それぞれに癒えぬ哀しみの刃を宿していた。
『DOUBLE LORDS』転章14、
そんなたった一言を、言わないのか。
——言えないのか。
アサザはぼんやりと窓を見上げた。朝日が容赦なく射し込むせいで瞼がぴりぴりと痛んだが、それ以上に広がる空の青さが胸に染みて思わず涙が滲んだ。
幾世代を経ようとも、この島で起こるすべてを包み込む蒼穹。その色の深さを初めて知った気がした。
『やっとお目覚めか、寝坊助めが』
青一色だった視界にふいに銀色が混じった。覗き込んできたのはカヤだ。夢の中の少女そっくりの口許には相変わらず不釣合いな嘲笑が刻まれている。しかしまっすぐにアサザが見つめ返した青銀の瞳に、今朝はわずかながら違う色調が含まれているように見えた。
『ようやく我が記憶を視ることを覚えたか。随分のろまだのう』
しかし掴みかけた哀しみの残滓は、あっという間にいつも通りの滴るような悪意に包み隠されてしまう。挑発には無言のまま、アサザはおもむろに身体を起こした。どんな表情の変化も見過ごすまいと眇められる視線を断ち切るように、枕元に用意されていた水で殊更に大げさな仕草で顔を洗って見せる。
『まったく、いたぶり甲斐のない奴よ。魔王の末裔の方がまだしもからかい甲斐がある』
呆れ混じりに呟く声までもが罠だったのだろうか。揺れた肩を見逃さず、カヤは小さく笑った。
『先程おぬしが見た夢。王も同じものを見ておるぞ』
動揺しなかったといえば嘘になる。けれどどこかで予測していた答えでもあった。だから妙に得意げなこの化生をどうにか鼻白ませてやるために、言葉を選ぶ余裕はあった。
「悪いな。よく覚えていないんだ」
顔を拭きながら軽く答えてやると、果たして破魔刀の精は興醒めの色を隠すことなく鼻を鳴らした。
『鳥頭は誰に似たものやら。キキョウはもそっと覚えの良い女子であったぞ』
「じゃあ他には一人しかいないだろう。陛下は興味のないことは割とあっさり忘れるぞ」
その一言で今度こそ愛想を尽かしたらしい。振り向いた先に銀髪の少女の姿はなかった。陽光に占拠された寝床を横目に溜息を落とし、アサザは身支度を整えるため立ち上がった。
今日は正装ではない。それよりもっと馴染みのない、鋼の鎧を不慣れな手つきで身に着けていく。
快晴に恵まれた朝は皇帝軍出帥の日でもあった。皇太子、そして将帥として、アサザが初めて戦地へ赴く日。この後、皇帝臨席で出陣式が行われる予定になっている。そう思って再び窓を見遣れば、零れる陽の光は殊更に眩く瞳を刺した。
残光に顔をしかめながら、手許へと視線を戻す。結び紐があちこちにあるせいで、身に着けるには思いのほか手間がかかる。身体を鎧う鋼の表面は漆で丁寧に塗られていた。傷一つないそれは三年前、成人の記念品として誂えられたものだった。作られた時にはあくまで儀礼用としての想定しかされていなかったくせに、質素で堅固なそれは思いがけないほど重くアサザの肩にのしかかってくる。
——慣れないうちは着るだけで疲れるぞ。
着られている感丸出しで成人の儀に臨んだアサザの鎧姿に、笑いを堪えながらブドウは言った。
——まあそんなもの、着慣れない方がいいんだ。
とりとめのない記憶までもが今は苦かった。三年間、一度も腕を通さなかった防具。あの頃より少しだけ伸びて逞しくなった手足のおかげで、鏡で確かめた己の姿がそう情けないものではなかったことがせめてもの救いだった。
身動きするたびに、どこかで金属が触れ合う音がする。歩いてみると尚更がしゃがしゃとやかましい。溜息をついてアサザは床に放り捨ててあった”茅”を拾い上げた。そんな何でもない仕草までもが、聴覚と触覚に無用な刺激を伝えてくる。純粋に不便だ、と思った。
何か言ってくるかと思ったが”茅”は沈黙を守ったままだった。アサザもまた無言のまま、長刀を腰に差す。
国王軍はすぐ傍に迫っている。昨夜の報告では皇都まであと二日ばかりの地点まで近づいているとのことだった。ぐずぐずしている暇はない。皇都防衛を第一に考えるなら出陣式など省いてしまいたいのが正直なところ、しかし集め直した兵たちに新たな将帥を披露し士気を上げるために、そしてアサザ自身が戦へ向かうために、式典という名の形式は必要だった。
何の儀礼も経ないままいきなり草原に出て、さあ国王軍と戦えと言われても戸惑っただろう。それは相手がレンギョウだからという抵抗感より、着慣れない鎧の不快感に近い感覚だった。
戦う覚悟と、実際に刃を抜く覚悟は全く違う。それらを一つにするために式典は行われるのだ。だから、それが終わればもう引き返すことはできない。
重い足を引きずって、アサザは門へと向かう。出陣式は皇宮前の第一、第二内門間の広場で行われることになっていた。奥の宮から出たところで、待っていた厩番からキキョウの手綱を受け取る。今朝は特に念入りに磨かれたのだろうか、栗毛の毛並が目に眩しいほどだった。
「キキョウ、すまない。今日からちょっと重りが多くなる」
少しだけ考える風に耳を揺らして、キキョウはアサザの肩に顎を乗せた。かしゃりと鳴った肩当の感触を確かめるように息を吐き、キキョウはすぐに首を引く。聡い愛馬の首筋を軽く叩いて、手綱を引いたアサザは式場へと向かった。
既に広場には兵たちが整列している。国王軍を迎え撃つために用意された兵力は十万。皇宮の広場に入る人数ではないから、ここにいるのは中心となる一万だけだ。残りは皇都の城壁の外で待機している。彼らにとっては、出陣式直後に皇宮の第一内門から駆け出してくる手筈となっている緋色——将帥の肩布が、意識を塗り替える合図となる。
所定の位置にアサザが着いて間もなく、腹に響く太鼓が打ち鳴らされた。起立して見遣った先、黒衣の皇帝アザミが侍従を引き連れてやって来るのが見える。やはり体調は思わしくないのだろう。時折足元がふらつくようだったが、今日は近くに生成りの外套は見当たらなかった。
第二の内門の前に皇帝が立つ。全兵力の十分の一とはいえ、完全武装の兵が林立する光景はそれだけで威圧感に満ちていた。気圧されぬよう息を詰めて、アサザは足を踏み出した。皇帝から自分へ、注目が移っていくのが肌で感じられる。
門の階を上りきったところで作法通りに利き手に刀を下げて跪く。頭を下げたアサザを、父帝は無言で見下ろした。
事態の危急と皇帝の体調を考慮して、出陣式の次第は随分簡略化されていた。大々的な演説などはなく、ほとんど要となる司令官の身分を証す肩布の下賜のみとなったそれをすら、今のアザミの体調でこなしきることができるのか。
「格好だけは一人前だな」
ようやく降ってきた父の声はしかし、いつも通りの傲慢な色調だった。珍しく心配などしてみた息子の内心などお構いなしに、思わず顔を上げた先で皇帝はさっさと視線を切り、傍らの侍従が差し出す箱へと目を向けている。しかし中身を取り出そうと伸ばした手はすぐにぴたりと止まってしまった。
「……随分皮肉な色を選んだことだ」
箱の中に入っている色は二色。皇帝軍将帥を示す緋色と——深い紫。
皇太子が戦場へ出るのは史上初めてのこと、前例がないから身分を示す色も決まってはいない。アサザが選んだのは、喪色でもある紫だった。
「戦場で人が死ぬことに変わりはありませんから」
短い答えに、アザミは軽く鼻を鳴らしただけだった。無造作に掴み上げられ、差し出された二色の布。跪いたままアサザは受け取り、まとめて肩に掛ける。
冬の名残の北風が吹き抜ける中、アサザは立ち上がった。巻かれた肩布が、父帝の漆黒の裾が、兵士たちの兜の飾り紐が一斉に南へと流れる。
刹那、父子の視線が交わった。
——いくな。
いつかの父の言葉が耳に蘇る。今この瞬間にこそふさわしい言葉。しかし真っ向から見据えたアザミの眼差しは、内に隠した本心を映し出すにはあまりにも鋭すぎた。一呼吸の後に視線は伏せられ、俯けた顔の陰影はいつも通りに全てを拒絶してしまう。
そんなたった一言を、言わないのか。——言えないのか。
怒りより苛立ちより、哀しみが先に立った。父はこれまで一体どれだけの言葉を、こうして独りで飲み下してきたのだろう。
無言のままに向けられた背中は、外套越しにも見て取れるほど痩せていた。父帝がこんなに小さく見える日が来るなど、アサザはこれまで想像もしていなかった。
「陛下」
呼び止めたのは咄嗟のこと。思いもかけぬ衝動に戸惑うよりも先、後に続く言葉は自然に口から滑り出した。
「俺は必ず帰ります」
アザミの背中が小さく揺れた。
圧倒的に大きかった皇帝アザミの背中。時に怒り、憎みさえしながらも、その揺るがぬ強さにだけはずっと憧れ続けていた。弱った相手を負かしても意味がない。己の力で乗り越えてこそ、意義のある壁。そう思えばこそ。
振り向いたアザミは少し驚いているようだった。その視線を真正面から受け止めている自分に、初めてアサザは気がついた。
いつの間にか追いついていた背丈。この父に格好だけではなく、中身をも認めさせられるように。必ず帰ってこようと、思った。
「ふん、何を言うかと思いきや」
アザミの口調は最前と変わらぬ傲岸なものだった。憎まれ口の奥底に潜む祈りと希望。それに気づいてしまった今ではもう、以前のように単純に嫌悪することはできなくなっていた。
「そのようなこと、命ずるまでもなかろう。貴様は言われねば分からぬ不肖の太子だということを忘れていたわ」
靴音高く、威風堂々と皇帝は漆黒の長身を翻した。
「皇帝の名において命ずる。生きて帰還せよ。そのための武運くらいは祈ってやる」
その言葉を合図に、兵の鬨の声が城壁を震わせた。広場を見渡す玉座に座った皇帝へ一礼して、皇太子にして皇帝軍将帥は傍らに牽かれてきた愛馬の背へ上る。門から皇都市街へ、さらには草原へと至る道は既に開かれていた。通路を開けた兵が、門の外に集った皇都の民が、息を詰めて将帥の次の一言に耳を澄ませる。
栗毛に乗った黒鎧の若武者は、まっすぐに顔を上げて南へと目を向ける。しんと落ちた静寂。次の瞬間、凛と響く声が皇都の大気を震わせた。
「出陣!」
たちまち駆け出した緋色と深紫を追って、兵たちが一斉に動き始める。時折響く歓声や甲高い鳴り物の音は、或いは皇都の民が発したものだろうか。
皇帝軍出帥。次の戦場を目指す馬蹄の響きは、当分止みそうにもなかった。
出陣の蹄音は続いている。一万の騎兵がすべて城門から駆け去るにはもう少し時間がかかりそうだ。
腹の底まで響く重低音の中、皇帝アザミは無意識のうちに胸を押さえる。ここ数日ですっかり馴染みになった疼痛がまた騒ぎ始めた。知らず呼吸が浅くなり、耳障りな喘鳴が鼓膜を揺らす。
折角士気を上げた兵の眼前で醜態を晒すわけにはいかない。
ふらつく足でアザミは立ち上がった。顔や手足から血の気が引いているのが分かる。この顔色を見れば中座を咎める者などいないだろう。ましてや今、周囲には従順な侍従たちしかいない。彼らの頭の中には、そもそも皇帝の行動を止めるという選択肢がないのだ。言われるままに皇帝の命令を実行するだけの木偶人形。そうあるよう命じたのは、他ならぬアザミ自身だった。
だからアザミの足元が覚束なくても、進んで手を貸す者などいない。彼らは命令されていない行動を取ったばかりに罰せられた者を幾人も知っている。それ以上に、下手な同情を寄せられることを何より嫌う皇帝の性格を知り抜いていた。
居宮に至る第二の内門まで、玉座からはそう距離があるわけではない。けれど孤独な皇帝には、ひどく長くて暗い道程に感じられた。
出陣だというのに、こうも曇っていては気が滅入る。
その背に燦々と降り注ぐ晩冬の日差しに、ついにアザミは気づかなかった。ようやくの思いで潜った門の中、濃い影に紛れて立っていたのは生成りの外套だった。闇に浮かび上がるように姿を現したスギはアザミへ向けて恭しく腰を折る。
「お疲れ様でした、陛下」
そう言って、さりげなくアザミの肩を支える。その所作には薬師の診察以上のなれなれしさは一切含まれていない。だからアザミも何も言わず重い体を預けることができた。
「お部屋に薬を用意しております」
無言で頷く。この薬師が処方する薬は他のものに比べて格段によく効いた。以前からたびたび胸痛は起こしていたが、ここまで重くなるとは想像もしていなかった。大発作を起こす直前にこの男を抱えられたことが、せめてもの救いだったと思う。
経験上、歩けなくなるほどの発作は前触れの胸痛の後しばらくしてから来る。自室に戻るまでに残された時間はぎりぎりといったところだった。
狭い視界が妙に薄暗い。薬師の外套は薄闇でも見えやすい色だった。
職業ごとに選ばれる色は思わぬところで意味を成す。ならば皇帝の黒は、太子が選んだ紫は。
纏まらぬ思考と重い足を引きずって、長い廊下を横切っていく。体が覚えている最短路を選んだはずだが、それでも部屋の扉を潜る頃には胸の痛みは耐えがたいものになっていた。
卓に歩み寄る間さえもが惜しかった。震える指先がもどかしげに包み紙を破く。爪先に灰緑色の粉末が降りかかった。零れた分には見向きもせず、包みに残った粉末を用意された水で喉に流し込む。いつも通り、灼けるような苦味だけが口の中に残った。
「動けますか? 座ってください。呼吸を楽にして」
手際よくスギが椅子を勧める。床に伏すより座っている方が楽な病だ。言われるがままアザミは腰を下ろし、呼吸を整える。
その様子をじっとスギは見つめている。感情を消した薬師の表情のまま、淡々と顔色や脈拍の確認を行っていく。首筋と手首で脈を取り、最後に心臓の真上に手を当てる。そのままの姿勢で、スギはゆっくりと顔を上げた。
「そういえば、陛下」
幾分楽になったとはいえ、まだ発作は行き過ぎていない。浅い呼吸に顔をしかめながら、アザミはスギの顔を見遣る。
「その良く効く薬。まだ名前をお伝えしていませんでしたね」
「名などどうでも良い。効くことだけ知っていれば事足りる」
掠れ掠れの答えに、スギは小さく笑った。
「実に陛下らしい答えですが……聞いても損はないと思いますよ。その粉末のことを我々は『狐』と呼びます」
意識よりも先に体が反応した。ぎょっと身を引こうとしたアザミの肩をすかさずスギが捕まえる。振りほどこうと身を捩ってみるが、発作が終わったばかりの四肢は痙攣するばかりで自由には動かない。完全な無表情のままスギは冷厳とアザミの苦闘を見下ろし、まるで病状の説明をするかのような無造作な口調で続けた。
「十年前、『狐』を使った皇帝暗殺未遂事件がありましたね。前年に皇后を亡くしたばかりで隙があったのでしょうか。貴方が帝位に就いてから何度も繰り返された暗殺計画の中でも、この事件ほど貴方の傍近くに迫ったものはなかった」
アザミは歯噛みしながら薬師の——いや、薬師の仮面を外そうとしている何者かを睨み上げる。
「際どいところで難を逃れた貴方はすぐさま実行犯とその関係者を粛清しましたね。たくさん、本当にたくさんの人が殺されました。その中に——暗殺計画など何も知らぬまま、心臓の治療薬として『狐』を犯人に手渡した薬師の一家がいた」
「貴様……」
ようやく絞り出した声はしかし、押し殺されて自分の耳でさえ拾いづらい。声だけで人を威圧することになど慣れきっていたはずなのに、目の前の男はまるで動じることなく言葉を継ぐ。
「薬と毒は紙一重。貴方はとてもお強いので、こういうやり方しか倒す術が思いつきませんでした」
男は腰に下げた古びた剣を抜く。普段から硬い薬種を削るため研ぎ澄まされた刃。積年の恨みでも、復讐の喜びでもなく。先程掌で確かめた心臓の位置にぴたりと据えられたそれは、ただただ虚無だけを映していた。
「生命を奪うは薬師の禁忌。なれど……家族の仇、討たせていただきます」
鈍い輝きが闇に閃いた。光芒の中で幾つもの景色が、面影が、アザミの眼前を過ぎ去っていく。忘れがたい、けれどどれ一つとしてアザミを向いてはいない風景、眼差し。
最後に見えたのは黒い鎧姿だった。緋色と紫の肩布を揺らし、栗毛の馬に跨って遠ざかっていく背中。
また、零れ落ちていく。
聞き取りづらい掠れ声のせいで、その名を最後まで呼べたかさえもアザミには分からなかった。
<予告編>
ついに再会の時が来た。
双方望まぬ形ではある。
けれどレンギョウにとっては意義深いものだった。
幾万の兵を隔てて、
レンギョウとアサザは向かい合う。
この日に向けてできる限りの準備は整えてきた。
戦の火蓋が切られんとする、その時。
皇都から飛び込んできた緊急連絡。
報せを受けたレンギョウは咄嗟に
描きかけていた魔法の形を変える。
『DOUBLE LORDS』転章完結!
彼方の友へ放った一条の線、
そこに籠めた祈りが通じることを信じて、願って。
幾世代を経ようとも、この島で起こるすべてを包み込む蒼穹。その色の深さを初めて知った気がした。
『やっとお目覚めか、寝坊助めが』
青一色だった視界にふいに銀色が混じった。覗き込んできたのはカヤだ。夢の中の少女そっくりの口許には相変わらず不釣合いな嘲笑が刻まれている。しかしまっすぐにアサザが見つめ返した青銀の瞳に、今朝はわずかながら違う色調が含まれているように見えた。
『ようやく我が記憶を視ることを覚えたか。随分のろまだのう』
しかし掴みかけた哀しみの残滓は、あっという間にいつも通りの滴るような悪意に包み隠されてしまう。挑発には無言のまま、アサザはおもむろに身体を起こした。どんな表情の変化も見過ごすまいと眇められる視線を断ち切るように、枕元に用意されていた水で殊更に大げさな仕草で顔を洗って見せる。
『まったく、いたぶり甲斐のない奴よ。魔王の末裔の方がまだしもからかい甲斐がある』
呆れ混じりに呟く声までもが罠だったのだろうか。揺れた肩を見逃さず、カヤは小さく笑った。
『先程おぬしが見た夢。王も同じものを見ておるぞ』
動揺しなかったといえば嘘になる。けれどどこかで予測していた答えでもあった。だから妙に得意げなこの化生をどうにか鼻白ませてやるために、言葉を選ぶ余裕はあった。
「悪いな。よく覚えていないんだ」
顔を拭きながら軽く答えてやると、果たして破魔刀の精は興醒めの色を隠すことなく鼻を鳴らした。
『鳥頭は誰に似たものやら。キキョウはもそっと覚えの良い女子であったぞ』
「じゃあ他には一人しかいないだろう。陛下は興味のないことは割とあっさり忘れるぞ」
その一言で今度こそ愛想を尽かしたらしい。振り向いた先に銀髪の少女の姿はなかった。陽光に占拠された寝床を横目に溜息を落とし、アサザは身支度を整えるため立ち上がった。
今日は正装ではない。それよりもっと馴染みのない、鋼の鎧を不慣れな手つきで身に着けていく。
快晴に恵まれた朝は皇帝軍出帥の日でもあった。皇太子、そして将帥として、アサザが初めて戦地へ赴く日。この後、皇帝臨席で出陣式が行われる予定になっている。そう思って再び窓を見遣れば、零れる陽の光は殊更に眩く瞳を刺した。
残光に顔をしかめながら、手許へと視線を戻す。結び紐があちこちにあるせいで、身に着けるには思いのほか手間がかかる。身体を鎧う鋼の表面は漆で丁寧に塗られていた。傷一つないそれは三年前、成人の記念品として誂えられたものだった。作られた時にはあくまで儀礼用としての想定しかされていなかったくせに、質素で堅固なそれは思いがけないほど重くアサザの肩にのしかかってくる。
——慣れないうちは着るだけで疲れるぞ。
着られている感丸出しで成人の儀に臨んだアサザの鎧姿に、笑いを堪えながらブドウは言った。
——まあそんなもの、着慣れない方がいいんだ。
とりとめのない記憶までもが今は苦かった。三年間、一度も腕を通さなかった防具。あの頃より少しだけ伸びて逞しくなった手足のおかげで、鏡で確かめた己の姿がそう情けないものではなかったことがせめてもの救いだった。
身動きするたびに、どこかで金属が触れ合う音がする。歩いてみると尚更がしゃがしゃとやかましい。溜息をついてアサザは床に放り捨ててあった”茅”を拾い上げた。そんな何でもない仕草までもが、聴覚と触覚に無用な刺激を伝えてくる。純粋に不便だ、と思った。
何か言ってくるかと思ったが”茅”は沈黙を守ったままだった。アサザもまた無言のまま、長刀を腰に差す。
国王軍はすぐ傍に迫っている。昨夜の報告では皇都まであと二日ばかりの地点まで近づいているとのことだった。ぐずぐずしている暇はない。皇都防衛を第一に考えるなら出陣式など省いてしまいたいのが正直なところ、しかし集め直した兵たちに新たな将帥を披露し士気を上げるために、そしてアサザ自身が戦へ向かうために、式典という名の形式は必要だった。
何の儀礼も経ないままいきなり草原に出て、さあ国王軍と戦えと言われても戸惑っただろう。それは相手がレンギョウだからという抵抗感より、着慣れない鎧の不快感に近い感覚だった。
戦う覚悟と、実際に刃を抜く覚悟は全く違う。それらを一つにするために式典は行われるのだ。だから、それが終わればもう引き返すことはできない。
重い足を引きずって、アサザは門へと向かう。出陣式は皇宮前の第一、第二内門間の広場で行われることになっていた。奥の宮から出たところで、待っていた厩番からキキョウの手綱を受け取る。今朝は特に念入りに磨かれたのだろうか、栗毛の毛並が目に眩しいほどだった。
「キキョウ、すまない。今日からちょっと重りが多くなる」
少しだけ考える風に耳を揺らして、キキョウはアサザの肩に顎を乗せた。かしゃりと鳴った肩当の感触を確かめるように息を吐き、キキョウはすぐに首を引く。聡い愛馬の首筋を軽く叩いて、手綱を引いたアサザは式場へと向かった。
既に広場には兵たちが整列している。国王軍を迎え撃つために用意された兵力は十万。皇宮の広場に入る人数ではないから、ここにいるのは中心となる一万だけだ。残りは皇都の城壁の外で待機している。彼らにとっては、出陣式直後に皇宮の第一内門から駆け出してくる手筈となっている緋色——将帥の肩布が、意識を塗り替える合図となる。
所定の位置にアサザが着いて間もなく、腹に響く太鼓が打ち鳴らされた。起立して見遣った先、黒衣の皇帝アザミが侍従を引き連れてやって来るのが見える。やはり体調は思わしくないのだろう。時折足元がふらつくようだったが、今日は近くに生成りの外套は見当たらなかった。
第二の内門の前に皇帝が立つ。全兵力の十分の一とはいえ、完全武装の兵が林立する光景はそれだけで威圧感に満ちていた。気圧されぬよう息を詰めて、アサザは足を踏み出した。皇帝から自分へ、注目が移っていくのが肌で感じられる。
門の階を上りきったところで作法通りに利き手に刀を下げて跪く。頭を下げたアサザを、父帝は無言で見下ろした。
事態の危急と皇帝の体調を考慮して、出陣式の次第は随分簡略化されていた。大々的な演説などはなく、ほとんど要となる司令官の身分を証す肩布の下賜のみとなったそれをすら、今のアザミの体調でこなしきることができるのか。
「格好だけは一人前だな」
ようやく降ってきた父の声はしかし、いつも通りの傲慢な色調だった。珍しく心配などしてみた息子の内心などお構いなしに、思わず顔を上げた先で皇帝はさっさと視線を切り、傍らの侍従が差し出す箱へと目を向けている。しかし中身を取り出そうと伸ばした手はすぐにぴたりと止まってしまった。
「……随分皮肉な色を選んだことだ」
箱の中に入っている色は二色。皇帝軍将帥を示す緋色と——深い紫。
皇太子が戦場へ出るのは史上初めてのこと、前例がないから身分を示す色も決まってはいない。アサザが選んだのは、喪色でもある紫だった。
「戦場で人が死ぬことに変わりはありませんから」
短い答えに、アザミは軽く鼻を鳴らしただけだった。無造作に掴み上げられ、差し出された二色の布。跪いたままアサザは受け取り、まとめて肩に掛ける。
冬の名残の北風が吹き抜ける中、アサザは立ち上がった。巻かれた肩布が、父帝の漆黒の裾が、兵士たちの兜の飾り紐が一斉に南へと流れる。
刹那、父子の視線が交わった。
——いくな。
いつかの父の言葉が耳に蘇る。今この瞬間にこそふさわしい言葉。しかし真っ向から見据えたアザミの眼差しは、内に隠した本心を映し出すにはあまりにも鋭すぎた。一呼吸の後に視線は伏せられ、俯けた顔の陰影はいつも通りに全てを拒絶してしまう。
そんなたった一言を、言わないのか。——言えないのか。
怒りより苛立ちより、哀しみが先に立った。父はこれまで一体どれだけの言葉を、こうして独りで飲み下してきたのだろう。
無言のままに向けられた背中は、外套越しにも見て取れるほど痩せていた。父帝がこんなに小さく見える日が来るなど、アサザはこれまで想像もしていなかった。
「陛下」
呼び止めたのは咄嗟のこと。思いもかけぬ衝動に戸惑うよりも先、後に続く言葉は自然に口から滑り出した。
「俺は必ず帰ります」
アザミの背中が小さく揺れた。
圧倒的に大きかった皇帝アザミの背中。時に怒り、憎みさえしながらも、その揺るがぬ強さにだけはずっと憧れ続けていた。弱った相手を負かしても意味がない。己の力で乗り越えてこそ、意義のある壁。そう思えばこそ。
振り向いたアザミは少し驚いているようだった。その視線を真正面から受け止めている自分に、初めてアサザは気がついた。
いつの間にか追いついていた背丈。この父に格好だけではなく、中身をも認めさせられるように。必ず帰ってこようと、思った。
「ふん、何を言うかと思いきや」
アザミの口調は最前と変わらぬ傲岸なものだった。憎まれ口の奥底に潜む祈りと希望。それに気づいてしまった今ではもう、以前のように単純に嫌悪することはできなくなっていた。
「そのようなこと、命ずるまでもなかろう。貴様は言われねば分からぬ不肖の太子だということを忘れていたわ」
靴音高く、威風堂々と皇帝は漆黒の長身を翻した。
「皇帝の名において命ずる。生きて帰還せよ。そのための武運くらいは祈ってやる」
その言葉を合図に、兵の鬨の声が城壁を震わせた。広場を見渡す玉座に座った皇帝へ一礼して、皇太子にして皇帝軍将帥は傍らに牽かれてきた愛馬の背へ上る。門から皇都市街へ、さらには草原へと至る道は既に開かれていた。通路を開けた兵が、門の外に集った皇都の民が、息を詰めて将帥の次の一言に耳を澄ませる。
栗毛に乗った黒鎧の若武者は、まっすぐに顔を上げて南へと目を向ける。しんと落ちた静寂。次の瞬間、凛と響く声が皇都の大気を震わせた。
「出陣!」
たちまち駆け出した緋色と深紫を追って、兵たちが一斉に動き始める。時折響く歓声や甲高い鳴り物の音は、或いは皇都の民が発したものだろうか。
皇帝軍出帥。次の戦場を目指す馬蹄の響きは、当分止みそうにもなかった。
出陣の蹄音は続いている。一万の騎兵がすべて城門から駆け去るにはもう少し時間がかかりそうだ。
腹の底まで響く重低音の中、皇帝アザミは無意識のうちに胸を押さえる。ここ数日ですっかり馴染みになった疼痛がまた騒ぎ始めた。知らず呼吸が浅くなり、耳障りな喘鳴が鼓膜を揺らす。
折角士気を上げた兵の眼前で醜態を晒すわけにはいかない。
ふらつく足でアザミは立ち上がった。顔や手足から血の気が引いているのが分かる。この顔色を見れば中座を咎める者などいないだろう。ましてや今、周囲には従順な侍従たちしかいない。彼らの頭の中には、そもそも皇帝の行動を止めるという選択肢がないのだ。言われるままに皇帝の命令を実行するだけの木偶人形。そうあるよう命じたのは、他ならぬアザミ自身だった。
だからアザミの足元が覚束なくても、進んで手を貸す者などいない。彼らは命令されていない行動を取ったばかりに罰せられた者を幾人も知っている。それ以上に、下手な同情を寄せられることを何より嫌う皇帝の性格を知り抜いていた。
居宮に至る第二の内門まで、玉座からはそう距離があるわけではない。けれど孤独な皇帝には、ひどく長くて暗い道程に感じられた。
出陣だというのに、こうも曇っていては気が滅入る。
その背に燦々と降り注ぐ晩冬の日差しに、ついにアザミは気づかなかった。ようやくの思いで潜った門の中、濃い影に紛れて立っていたのは生成りの外套だった。闇に浮かび上がるように姿を現したスギはアザミへ向けて恭しく腰を折る。
「お疲れ様でした、陛下」
そう言って、さりげなくアザミの肩を支える。その所作には薬師の診察以上のなれなれしさは一切含まれていない。だからアザミも何も言わず重い体を預けることができた。
「お部屋に薬を用意しております」
無言で頷く。この薬師が処方する薬は他のものに比べて格段によく効いた。以前からたびたび胸痛は起こしていたが、ここまで重くなるとは想像もしていなかった。大発作を起こす直前にこの男を抱えられたことが、せめてもの救いだったと思う。
経験上、歩けなくなるほどの発作は前触れの胸痛の後しばらくしてから来る。自室に戻るまでに残された時間はぎりぎりといったところだった。
狭い視界が妙に薄暗い。薬師の外套は薄闇でも見えやすい色だった。
職業ごとに選ばれる色は思わぬところで意味を成す。ならば皇帝の黒は、太子が選んだ紫は。
纏まらぬ思考と重い足を引きずって、長い廊下を横切っていく。体が覚えている最短路を選んだはずだが、それでも部屋の扉を潜る頃には胸の痛みは耐えがたいものになっていた。
卓に歩み寄る間さえもが惜しかった。震える指先がもどかしげに包み紙を破く。爪先に灰緑色の粉末が降りかかった。零れた分には見向きもせず、包みに残った粉末を用意された水で喉に流し込む。いつも通り、灼けるような苦味だけが口の中に残った。
「動けますか? 座ってください。呼吸を楽にして」
手際よくスギが椅子を勧める。床に伏すより座っている方が楽な病だ。言われるがままアザミは腰を下ろし、呼吸を整える。
その様子をじっとスギは見つめている。感情を消した薬師の表情のまま、淡々と顔色や脈拍の確認を行っていく。首筋と手首で脈を取り、最後に心臓の真上に手を当てる。そのままの姿勢で、スギはゆっくりと顔を上げた。
「そういえば、陛下」
幾分楽になったとはいえ、まだ発作は行き過ぎていない。浅い呼吸に顔をしかめながら、アザミはスギの顔を見遣る。
「その良く効く薬。まだ名前をお伝えしていませんでしたね」
「名などどうでも良い。効くことだけ知っていれば事足りる」
掠れ掠れの答えに、スギは小さく笑った。
「実に陛下らしい答えですが……聞いても損はないと思いますよ。その粉末のことを我々は『狐』と呼びます」
意識よりも先に体が反応した。ぎょっと身を引こうとしたアザミの肩をすかさずスギが捕まえる。振りほどこうと身を捩ってみるが、発作が終わったばかりの四肢は痙攣するばかりで自由には動かない。完全な無表情のままスギは冷厳とアザミの苦闘を見下ろし、まるで病状の説明をするかのような無造作な口調で続けた。
「十年前、『狐』を使った皇帝暗殺未遂事件がありましたね。前年に皇后を亡くしたばかりで隙があったのでしょうか。貴方が帝位に就いてから何度も繰り返された暗殺計画の中でも、この事件ほど貴方の傍近くに迫ったものはなかった」
アザミは歯噛みしながら薬師の——いや、薬師の仮面を外そうとしている何者かを睨み上げる。
「際どいところで難を逃れた貴方はすぐさま実行犯とその関係者を粛清しましたね。たくさん、本当にたくさんの人が殺されました。その中に——暗殺計画など何も知らぬまま、心臓の治療薬として『狐』を犯人に手渡した薬師の一家がいた」
「貴様……」
ようやく絞り出した声はしかし、押し殺されて自分の耳でさえ拾いづらい。声だけで人を威圧することになど慣れきっていたはずなのに、目の前の男はまるで動じることなく言葉を継ぐ。
「薬と毒は紙一重。貴方はとてもお強いので、こういうやり方しか倒す術が思いつきませんでした」
男は腰に下げた古びた剣を抜く。普段から硬い薬種を削るため研ぎ澄まされた刃。積年の恨みでも、復讐の喜びでもなく。先程掌で確かめた心臓の位置にぴたりと据えられたそれは、ただただ虚無だけを映していた。
「生命を奪うは薬師の禁忌。なれど……家族の仇、討たせていただきます」
鈍い輝きが闇に閃いた。光芒の中で幾つもの景色が、面影が、アザミの眼前を過ぎ去っていく。忘れがたい、けれどどれ一つとしてアザミを向いてはいない風景、眼差し。
最後に見えたのは黒い鎧姿だった。緋色と紫の肩布を揺らし、栗毛の馬に跨って遠ざかっていく背中。
また、零れ落ちていく。
聞き取りづらい掠れ声のせいで、その名を最後まで呼べたかさえもアザミには分からなかった。
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<予告編>
ついに再会の時が来た。
双方望まぬ形ではある。
けれどレンギョウにとっては意義深いものだった。
幾万の兵を隔てて、
レンギョウとアサザは向かい合う。
この日に向けてできる限りの準備は整えてきた。
戦の火蓋が切られんとする、その時。
皇都から飛び込んできた緊急連絡。
報せを受けたレンギョウは咄嗟に
描きかけていた魔法の形を変える。
『DOUBLE LORDS』転章完結!
彼方の友へ放った一条の線、
そこに籠めた祈りが通じることを信じて、願って。
凍てつく草原の夜気に白い息が溶けるのを、レンギョウは視界の端で見送った。
——そういえば、皇帝領では紫を喪章に使うのだったか。
独りで零す苦笑は、音もなく夜の内に紛れていく。
喪章の色彩、正装の意匠、儀礼の次第、体制の有様——同じ島の中にありながら、王都と皇都の間には数え切れないほどの違いが存在している。それは恐らく、最初にこの国の形を創り上げた先人の——魔王と戦士の違いでもあるのだろう。
昨夜見た夢が、頭から離れない。いつもなら夜明けと共に霧散するはずの夢幻の記憶は、時が経つほどに却って鮮やかに心へと焼きついていく。
蓮の、藜の、楝の、かつてこの土地に生きていた人々の想い。遥かな時を隔てた今、こうして垣間見るだけでも息が詰まるほどに熱を帯びていた、その時間。そこには多くの哀しみや悔いがあった。けれど誰一人として、自分の生き方に迷いを持ってはいなかった。
それが、たまらなく羨ましい。
レンギョウは左の掌を静かに握りしめる。夜に体温を奪われた指先は、わずかにこわばった感触で掌に触れてきた。
今、生きてここにいる自分。
あの夢が実際にあったことなのか、そんなことはどうでも良かった。魔王と呼ばれる人物はかつて確かに存在した。そして、その血筋を受け継いでいるはずの自分が今、ここにいる。
——今の自分に迷いはないか。悔いは、残していないか。
記憶の中の蓮の仕草を辿って、レンギョウは左手を虚空へ伸ばす。どれほど探しても、指の向こう側に星明かりは見つけられない。
「偉大なる御先祖様」
——今、この手で出来ることは、何だろう。
気がつくと、そんなことばかり考えている。記憶の中の蓮のそれより一回り大きな、自分の手。果たしてこの手は魔王と同じように魔法を遣うことが出来るのか。
雷を遣うことは出来る。初めて皇帝軍と見えたあの時と同じように黒雲を呼び、稲妻を望めばいいのだから。
しかし。
「余は」
それを人に、この島の民に向けて放つことは出来るのか。
憎悪と哀切が入り混じった楝の眼差しが胸に甦る。あのように徹底した敵意を、自分は目の前の相手に対して持つことができるだろうか。
皇帝軍に——アサザに。
皇都まであと一日の距離にまで、国王軍は歩を進めていた。自警団の面子が連れて来た新兵たちとの合流はおおむね終わり、シオンやススキも無事に陣中に戻ってきた。もちろん、とうの昔に皇帝領の中に踏み込んでいる。中立地帯との境界線を越える時に抵抗らしい抵抗に遭わなかったのは、相手が皇都に反撃のための戦力を集めているからだ。今日にも皇帝軍は姿を現し、国王軍と矛を交えることになるだろう。
ふいに思い出したのは、王都での別れ際にアサザに向けた台詞だった。
——また、会えるだろうか。
あれからどれ程の時が過ぎたのだろう。たくさんの出来事が起こり、周囲の状況も様変わりして。
「私は」
レンギョウは変わった。聖王として立つことを望み、迷いながらも今、こうして戦の中心にいる。ここに至る途中でたくさんの人を死なせた。忘れがたい緋色の面影は、思い出すたびにレンギョウの胸を深く抉っていく。
アサザも変わっただろう。先ほど、皇都のスギからの報告が届いた。
今朝、皇帝軍将帥アサザが十万の兵を率いて皇都を出発したと。
軍を率いる長として、弟を失った兄として。レンギョウに向けられる眼差しはもう、以前と同じものではなくなっているだろう。それがたとえどんなに激しい憎悪であったとしても、レンギョウは受け止めるつもりだった。
それが自身で選んだ道ゆえに。
きり、と鳩尾が痛んだ。ここ最近、すっかり馴染みになった痛みだ。元々そう多く食べる方ではないが、戦が始まってからは輪をかけて食が細くなっている。
夜中に目が覚めることも多くなった。眠り自体が浅いのか、寝つきもあまり良くない。夢と現とを何度も行き来した末に、ついには眠ることを放棄して天幕を抜け出す、そんな日々。
眠れぬ夜の果てにあの夢を見て、ようやく気づいた。
レンギョウは今、魔法を遣うことがたまらなく怖い。
「よう聖王様、こんな夜更けにお散歩かい?」
ふいに掛けられた声に、振り向く動作は自然と鋭くなった。透かし見た闇の中、鷲鼻の大男が天幕の陰から顔を覗かせている。
「イブキ、何故ここに」
「随分な言い草だな。左翼に放っておくと問題ばっかり起こすからって、こっちに呼び戻したのはあんただろ」
魔法部隊の貴族たちがイブキを拒んだのはいつのことだったか。あの後、とりあえずの措置として貴族たちをレンギョウ直下の国王軍陣内に戻し、宙に浮いたイブキには当面単身で国王警護の任につくよう命じておいた。志願兵集めからウイキョウが戻り次第、新兵預かりの任を引き継いで異動する手筈になっており、レンギョウが今宵就寝した時点ではまだ左翼に残っていたはずだ。
「引き継ぎは終わったのか」
「ああ。俺は仕事熱心だからな。雑用をとっとと終わらせて新任務にやって来たってわけだ」
「仕事熱心、のう」
素直に呆れたいところだが、この男の軽口は妙に愛嬌があって憎めない。だからレンギョウもつい、常にない切り返しで答えたくなる。
「余の傍では泥酔剣とやらは控えてもらうぞ」
「何ぃ!? 俺の最強奥義を封じるとは、正気か陛下!」
「……酒が過ぎて頭の中身が溶けておるのではないか?」
「そんなことはないぞ。不老長寿の薬だ、あれは」
しゃあしゃあと言い放つその顔を、レンギョウは呆れ顔で見上げる。
「おぬし、物忘れを治さぬまま長生きする気か。さぞ周りが苦労しように」
イブキは驚いたようにレンギョウを見下ろして、一呼吸置いた後大笑いした。
「おとなしそうな顔をして、陛下もなかなか口が減らないお方だ」
「以前はそうでもなかったが。最近抱えた臣下からでも移ったのかのう」
ふと笑いを引っ込めて、イブキはまじまじとレンギョウを見つめた。
「……俺を臣下だと認めていらっしゃるのか」
「おぬしこそ、余を主だと認めておるのか」
高低差の狭間で鋭い視線が交差する。
「以前から訊ねたいと思っていたのだ。おぬしは何故、余の許に参じた? 縁のある皇帝軍の方が前歴とて活かせように」
張り詰めた空気の中、先に肩の力を抜いたのはイブキの方だった。
「言っただろ? 皇帝領じゃ俺はお尋ね者だって。今更のこのこ馳せ参じたところで、待ってるのは牢屋暮らしだけだ。それに」
わずかに言いよどんで、イブキはぽつりと付け足した。
「あっちには俺のせいで母親を亡くしたガキ共がいる。合わせる顔なんてねえよ」
瞬時に思い出したのはアサザとアカネの顔。そういえばもう一人、兄がいると言っていたか。
そこまで考えて、レンギョウはあることに気がつく。イブキが最初に示したのはアカネを捕らえる策だった。その身を害する手段ではなく、あくまで無傷で生かす方策。その思惑が打算ではなく、かつて誼のあった相手への情から出たものだとしたら。目線を逸らしたイブキの横顔を、改めて見上げる。
「もしやおぬしは、こちらにつく事で皇子たちの身を守ろうとしたのか?」
「そんな大層なもんじゃねえよ」
即座の否定。けれど。
「結局守りきれてねえんだし」
ぼそりと零れた言葉を誤魔化すように、イブキはぱんと大きな掌を打ち合わせた。
「おじさんの過去話なんざどうでもいいんだよ。それより、陛下には夜が明けたら大仕事が待っている。できれば大人しくお休み願いたいところだが……どうしても気晴らしにそぞろ歩きしたいと仰るなら付き合うぜ」
「酔いどれの護衛など要らぬ」
「失敬な、今は素面だ」
頬に笑みを残したまま、レンギョウは天幕を離れた。手ずから囲いの柵を開け、するりとすり抜ける。イブキは何も言わずについてくる。
夥しい篝火に照らされながら、陣中は穏やかに寝静まっているように見えた。暁を迎えれば、いよいよ戦いが始まる。天幕の中には不安に震える兵士が少なからずいるのかもしれない。けれどそれは今のところレンギョウの目に付くような形では現れていない。
「みんな聖王様を信じてるんだよ」
イブキの言葉に、また胃がずきりと痛んだ。答えぬまま、レンギョウは草原が望める方向へと歩を進める。前方に風にそよぐ草の海が見えた瞬間、思わず詰めていた息がこぼれ落ちた。
「腹、痛むのか?」
イブキが横目で様子を窺っている。無意識に鳩尾を押さえていた手を離し、レンギョウは姿勢を正した。
「大事ない。それより明日の布陣についてだが」
「ああ、さっき軍師の嬢ちゃんが何か置いてってたな」
イブキは懐からくしゃくしゃの書類を取り出した。恐らくまだ目を通していないのだろう。かけらも悪びれた様子のないイブキに半ば呆れながら、レンギョウは再び草原の彼方に目線を巡らせた。
「それには地図が描いてあるはずだ」
「地図?」
地平線を見つめたままレンギョウは頷く。地図の原本は新兵集めから戻ったばかりのシオンに無理を言って探させたものだ。主だった面子に渡したのは大急ぎで作らせた写しだが、それが今回の戦で重要な役割を占めることに変わりはない。
「おぬしの生命を守るやもしれぬ地図だからのう。皇帝軍が来るまでによく読んで頭に入れよ」
「ふぅん」
大して興味もなさそうに、イブキは欠伸交じりの返事を返してくる。
「まぁ確かに、この辺りは南部の草原とは少し様子が違うからな」
目の前に広がる草の海には、北方を指してまっすぐに石畳の街道が敷かれている。様子が違うと言うイブキの言葉は、街道の両脇に見えるのが草だけではないことを指しているのだろう。
丈の短い草に混じって、馬車ほどもある大岩がそこかしこに角を覗かせている。左手には北部山岳地帯の最後の稜線が連なりながら伸びていた。転がっている岩と山肌は共に白みを帯びた褐色をしている。
「ここでは地下に川が流れているのであろう。普段は見えないが、雪解けの時期にだけ地上に水が溢れると聞いた」
「よくご存知で」
レンギョウの言葉にイブキが驚いたように目を丸くする。
「あの岩くれは春先に山から押し流されて、そのまま残ってるやつだな。ほとんど毎年のことだから、皇帝軍も街道以外はいちいち掃除なんざしない」
そこまで話して、イブキはにやりと目を細めた。
「その隠れ川を利用するつもりかい、陛下?」
「さあのう」
作戦に関する詳しい指示は関係する全員に、同時に出したい。明言を避けたレンギョウに、イブキはにやにや笑いを向けたまま言葉を続けた。
「そういや俺のご先祖もその昔、地下水脈を辿って移動したことがあるって聞いたな」
「先祖?」
「ああ。初代戦士の部下でグースフットって御仁だが……陛下が知るわけねぇよなぁ」
グースフット。軽く目を見開いたレンギョウを認め、イブキは再び驚きの色を浮かべる。
「……国王の英才教育には、皇帝領の歴史まで入ってるのか?」
「いや、そういうわけではないが」
夢で見たなどとは、とても言えない。歯切れの悪いレンギョウにやや訝しげな視線を向けつつ、イブキは問う。
「そういえば陛下は、第三皇子への対応もやけに親しげだったな」
この島に不可侵条約がある以上、国王と皇帝の血族が顔を合わせることなど考えられない。当然、親しくなる機会などないはず。それが常識だ。
国王と戦士——皇帝は対立しつつ並存を続ける存在。この国が始まって以来連綿と続く歴史は、常にこの前提の下に成り立っている。
けれどレンギョウは、通常ではありえない出来事を体験していた。すべての始まりとも言える、あの月夜の邂逅。
「……アカネを知っていたわけではない。あの者の兄を——アサザを、知っているのだ」
「第二皇子を?」
問いたいことは幾つもあるだろう。けれどイブキの気配は尋問ではなく静聴のそれに切り替わったようだ。先を促す沈黙の中、レンギョウは言葉を選びながら記憶の景色を辿る。
「ちょうど自警団の者たちが初めて謁見を求めてきた頃だった。あやつは突然、王宮深くの森の中に湧いて出たのだ」
たった一昼夜の記憶。けれどそれは紛れもなく、今国王軍を率いている『聖王』の原点になった時間だった。草原で眠った夜、二つの領主の狭間に置かれた自警団の現状、そして何より戦士に列なる者すべてが敵ではないと信じる心。国王自ら皇都を目指すという今回の戦略の中には、再会を望み、アサザとの縁が切れぬことを願うレンギョウ自身の心が少なからず反映されている。
共に領民を従える身だ。兵を率い、戦場で見えることになる可能性は予測していた。それでもいざ、その時を目前にすると。
「まさかあやつとの再会がこのような形になるとはのう」
ただ純粋に再会を願っていたかつての自分と、多くの屈託を抱えた現在の自分。それでもなお、成せることは何なのか、迷い続けていることに変わりはない。
「成程、そういう経緯があったのか」
黙ったまま話を聞いていたイブキが重たげに口を開いた。
「ずっと引っかかってはいたんだ。正直言って、皇帝軍に対して陛下が言い出す案はどれも甘い。陛下のご性格を考えるならそれも当然かと思っていたが、率先して異を唱えるはずの自警団までもが言われるままにその案を採る。むしろ身内の貴族どもの方が仲間はずれ気分を味わって陛下に直訴する始末だ」
イブキに向き直り、レンギョウはまっすぐその顔を見上げる。徐々に白んできたとはいえ、空はまだ深い紺色に染まっている。篝火が作る逆光の中、イブキの姿は闇そのものを切り取ったかのようだ。
「陛下、これだけは言っておくぞ。一枚岩じゃない兵は脆い。崩れる時は一瞬だ」
地の底から響くような低い声。レンギョウの願いも、自警団の思惑も、貴族たちの不満も。ここに集った総ての者が秘かに抱く不安を映すかのように、黒い人影は言葉を続ける。
「ここにいる奴らに共通していることは、ただ一つ。陛下、あんたに希望をかけたってことだ。だからあんたが崩れた瞬間、すべてが終わる」
「それは違う。余は」
「違わないさ。あんたがどう思っていようと、集まった兵士たちが陛下の魔法に期待している事実に変わりはない。あいつらは魔法がある限り、自分たちが勝てると信じている」
また、夢の情景が視界を掠める。そして、自分自身の緋色の記憶も。
魔法があればすべてうまくいく。そんな幻想を、何故こうも容易く人は信じ込んでしまうのか。
「余は……魔法は、万能ではない」
「だろうな。だが敵も味方も、あんたの魔法を中心に戦いを組み立てているのが現実だ。魔法ってのはそれくらい大きな戦力だ。それは否定できないだろう?」
レンギョウは拳を強く握り締める。今にも震えそうになる心を保てるように。揺れて逸れそうになる視線を、目の前の影に定めたままでいられるように。
「皇帝軍は魔法が来るのを恐れている。国王軍は魔法が放たれるのを待っている。勝機を決める一瞬に、肝心のあんたが躊躇ったらどうなる?」
闇の帳の中に夢の、現実の、幾多の面影がちらついては流れていく。皇帝軍の干戈の煌きの先頭に立つのは、あの若葉色の瞳をした女戦士だろうか。それとも。
「今のあんたに、アサザ殿下に向けて魔法を振るう覚悟はあるのか?」
拳が跳ねるのを、今度は抑えられなかった。
戦士の黒鎧に身を包んだアサザの像を鮮明に結べたのは、夢で見た藜の武者姿の記憶のせいだろう。黒一色を纏ったアサザが切っ先を向ける。対するレンギョウは右手の指先でアサザを指し示す。
——かつての戦士と魔王のように。
『聖王』が採る行動なら、なすべきことは分かりきっている。目の前の戦士の末裔を魔法で屠り、その勢いのままに皇都へ攻め上って皇帝から実権を奪い返し、この島国を統一するのだ。それこそが国王領の民が望む戦の結末であり、中立地帯にとっても生活の安定に繋がる大きな成果となる。
けれども、レンギョウ個人——『レン』は。
今の今まで、あえて考えないよう意識して避けてきた場面だった。たとえ憎しみに満ちた目をアサザに向けられようとも構わない。けれどアサザが攻撃という手段でレンギョウに向かってきたら。いつも思考はそこで止まってしまい、次の場面を思い浮かべることができなくなる。
自分は一体、どうしたいのか。
身中で感情が激流と化していた。そのどれもが強く、激しすぎてレンギョウ自身も押し流されそうだった。
いつしか夜の終わりを告げる暁星が空に浮かんでいた。儚い星明りを映して、影と化していたイブキの瞳にも光が宿る。
「殺す覚悟と、殺される覚悟はまったく別のものだ。どちらを選ぶにせよ、その瞬間に悔いないようにあんたなりの答えを見つけておいてくれ。あんたが迷った分だけ、兵は死ぬ」
太陽が草の彼方から今日初めての光を投げかけてきた。白い光から瞳をかばうように、イブキはレンギョウに背を向ける。
「それでも、自分の力を怖がるってのは悪いことじゃないと俺は思うぜ。何も考えずにそんなものを振るわれることの方が余程怖いからな」
レンギョウは黙して答えない。拳の震えは止まっていたが、暁光の中にあってもその顔は決して晴れてはいなかった。
結局その後、レンギョウは一睡もせずに朝を迎えた。用意された朝食の膳は喉を通らず、かろうじて添えられた干し林檎だけを水で無理矢理に流し込んだ。
頭がうまく働かない。腹の底の重いしこりはどれほど溜息を吐いても減ることはなかった。解っていても、また一つ息を落とす。胃の腑を駆け抜ける痛みを意識の外に追いやって、レンギョウは席を立った。
潜り抜けた入り口の外、広い草の海の中に一筋の道が浮かんで見える。皇都へと続くこの国最古の街道の石畳は、膨れ上がった国王軍の蹄鉄の下でおののくように震えていた。
光満ちる草原に立ち、レンギョウは周囲を見渡した。前方にまだ皇都の姿は見えない。ただただ柔らかく草の波が揺れ、時折鋭い岩の先端が覗くだけだ。
その草原に、兵の布陣が始まっていた。
街道を横切るように、先鋒を務める自警団の精鋭たちが整然と移動している。乱れなく並んだ鉄兜の群れが、時折日の光を照り返して鈍く輝く。
レンギョウの周囲には正規国王軍の白鎧が、一分の隙もない警備を敷いている。
さらに後方には、自警団と同じ鉄色の人波が続いている。しかしこちらは数が多い割には整然とした隊列にはなっていない。支給されたばかりの慣れぬ鎧を身に纏った、中立地帯からの志願兵たちだ。
人、人、人。長く細く続く街道に溢れんばかりに続く聖王麾下の兵は、今や十二万を数えていた。
最後尾のさらに後ろには、雪を頂いた山岳地帯の峰々が霞んでいる。その峻厳な稜線は、平地が多い南部で生まれ育ったレンギョウには馴染みの薄いものだった。澄み切った青空に寒々と聳える雪峰から吹き降ろす風の冷たさに、思わずレンギョウは肩をすくめる。無意識に落とした視界の中、足元の石畳の角はどれも丸みを帯びていた。石材が磨耗するほどに長く過ぎた時、そして今この道を踏んで進む人々の思い。
これが自分に——『聖王』に託された希望。数の重さが実感を伴って背中に圧し掛かる。思い出したのは初戦の後、執務机に積み上げられた犠牲者の名簿だった。あの時とは兵力の桁が違う。ここにいる中で、この戦を最後まで見届けられる者は一体どれだけいるのだろうか。兵を起こした以上、犠牲を皆無にすることなどできない。それは前回の戦いでいやというほど思い知った。
なればこそ、せめて出来る限り多くの兵を故郷へ帰せるよう、欠ける人数までが桁違いにはならぬよう。
魔王はより多くの敵を倒すために魔法を遣った。ならば聖王はより多くの民を生かすために魔法を遣いたい。
蓮が出逢った藜、レンギョウが出会ったアサザ。
立つ陣営が違おうと、相手は自分と同じ人間に違いない。そんな当たり前の、けれど何より尊い事実を、二人の戦士は教えてくれた。
人を生かすための魔法。それを遣うことは、強大な雷を揮うことより余程難しいことなのかもしれない。けれど。
レンギョウは独りではない。
とりとめのない思考から浮かび上がった視界の中、共にこの困難に立ち向かってくれる仲間の顔を見つけて、思わず肩の力が抜ける。
「随分難しい顔をしてたわね、レン。眉間に皺ができてたよ」
「いつから見ていたのだ。近くにおるのならすぐに声を掛ければ良かろうに」
紫の瞳に笑いを含ませながら、シオンは小さく肩をすくめて見せた。
「下手に声なんてかけたら、また新しいお仕事を言いつけられるかと思って。意外とレンって人遣い荒いから」
中立地帯で兵を募っていた彼女が合流したのは昨日のことだ。そう、ちょうどあの夢を見た日の朝だったか。いくら生々しい情景だといっても所詮は夢、レンギョウはシオンにその話はしていない。けれど目覚めた後思いついたいくつかの作戦案は、その日のうちに打診していた。明け方にイブキが持っていた紙片は、レンギョウ自身がシオンに配布を指示していたものだ。確かに人遣いが荒いと言われれば返す言葉は見つからない。
「すまぬな。おかげで作戦に目処を立てることができた。礼を言う」
「……そう言われちゃ、怒るに怒れないわ」
生真面目な顔で言うレンギョウに軽く睨みをくれて、シオンは丸めた大判の書類を差し出した。
「さ、これがお望みの地形図の原本よ。地図の写しを配った人たちにも一度集まるよう声をかけておいたから、すぐに来ると思うわ」
「うむ」
地図を受け取って、レンギョウは地平線へと目を向けた。太陽はまだ草原の縁をなぞる位置にいる。
皇帝軍が来るまで、まだ時間はありそうだった。
傍らに張られた国王専用の天幕にシオンを招き入れ、早速卓上に図面を広げる。日に焼けた古紙には皇都周辺の地勢が詳細に描かれていた。本来なら皇帝領は自警団の守備範囲外のはず、それでも乞えばものの数日でこれだけの地図が出てくる。その情報収集力に改めて嘆息しながら、レンギョウは紙上に指を走らせる。
注文したのは可能な限り正確なこの付近の測量図。目指す印は探すまでもなく見つかった。赤い点で示された箇所で、レンギョウの人差し指が止まる。
「現在位置は、これか」
シオンは無言で頷く。
この場所に兵を止めたのは昨日のこと。それでなくても遅かった兵の足を止めたのには理由がある。
まず、皇都に近づきすぎないため。今回の親征の最終目標が皇都入城である以上、その前に皇帝軍と衝突することは避けられない。いたずらに戦禍へ皇都の民を巻き込むことはレンギョウの本意ではなかったし、もちろんシオンも望んでいない。自然、戦場になる地点は皇都より手前で選ばれた。
シオンの帰還と前後して、中立地帯中に散っていた他の自警団の面子も続々と合流していた。彼らが率いてきた志願兵の編成を一段落させ、馴染ませるための待機時間が欲しかったこともある。
けれど何よりも、レンギョウにはこの場所に留まりたい理由があった。現在位置から程近い地点を確かめるように辿り、シオンへと問いかける。止まった指の先には、黒く丸で囲われた箇所があった。
「例の場所は、ここだな?」
シオンは軍師の顔で頷いた。
「ええ。昨日、測量ができる団員に見てもらったから間違いないわ」
ちらりと見上げる紫色の瞳に、わずかに気遣わしげな色が浮かぶ。
「でも、本気でこんな大掛かりなことをするつもりなの?」
「本気でなければ、忙しいこの時期におぬしをこき使ったりせぬよ」
苦笑交じりに言って、レンギョウは地図から目を離す。手早く地図を纏め、殊更に軽い口調で付け足した。
「上手くいけば双方の犠牲者を最小限に抑えられよう。皇帝領の民を、無闇に傷つけることが目的ではないのだからな」
「……そうね」
失われる命をできる限り少なく。同じ目的を確認しあうように、二人は顔を見合わせてもう一度頷き合った。
時機を見計らったかのように、天幕の外に人の気配がした。一呼吸空けて入り口の幕を上げたのは、国王軍の衛兵だ。
「スオウ殿、ススキ殿、ウイキョウ殿、イブキ殿が参られました」
最初に天幕に入ってきたのは魔法部隊の貴族だった。その後に自警団の二人が続き、最後にイブキがのっそりと姿を現す。現在、国王軍を動かしている実働部隊の責任者たちだ。
「皆、忙しい中よく来てくれた」
言いながら、レンギョウは素早く彼らの表情を確認する。貴族のスオウはあからさまにイブキを無視している。当のイブキはまったく意に介していない様子で普段と変わらず飄々としていた。ススキも相変わらずの軽軍装を纏ったまま沈黙を続けている。最後にウイキョウに目を留めた。巌のような大男は、いつもと同じように静かにレンギョウを見下ろしてくる。
レンギョウは決して背が高い方ではない。実働部隊の面子と向かい合う時はいつでも顔を見上げる形になる。これまであまり気にしたことはなかった事実を、ふいに不安に思ってしまったのは何故だろう。
身長差と一緒に突きつけられているのは、レンギョウ自身の幼さではないのか。
——自分の提案は、とても子供じみた感情論でしかないのではないか。
「……何か」
無意識にじっと見つめてしまっていたらしい。ウイキョウの顔に、珍しく戸惑いが浮かんでいる。
「ああ、すまぬ。何でもない」
ここで思い悩んだからといって急に背が伸びるわけでも、事態が変わるわけでもない。頭を一つ振って、レンギョウは思考を切り替える。
「集まってもらったのは他でもない。皇帝軍と接触する前に皆に伝えておきたいことがあるのだ」
言って、レンギョウは一同を卓の傍に招いた。机上に全員の視線が集まった頃合を見計らって、指先で現在位置の印を示す。
「この辺りには雪解けの時期にだけ流れる川がある。普段は地下に潜っているせいで、川筋を見ることはできぬがのう」
調査を担当したシオンがレンギョウの言葉を裏付けるように頷く。皆の表情を見渡しながら、レンギョウは言葉を継いだ。
「ここは皇帝領だ。本来ならば地の利はあちら側にある。だがどういうわけか皇帝は、余らがこんなにも近づくまで対抗策を採らなんだ。数日前に急遽整えた兵では、目に見えぬ地形まで考慮して布陣する余裕はなかろう。今回はそこを利用させてもらう」
「利用?」
訝しげな声はススキから。同じく説明を求める面々の視線を一つ一つ見返しながら、レンギョウは再び地図中の見えない川筋を指先で辿った。
「シオンに調べてもらったのだが、この地図に描かれた地下の川はそう深いところに潜っているわけではなさそうなのだ。これなら、余の魔法で天井を壊すことができる」
しん、と場が静まった。
「……天井を壊す、だと」
「地上には大きな谷ができることになるのう」
「そんなことが、本当にできるのか?」
「恐らく、な」
ススキの目をまっすぐに見返してレンギョウは答える。
自分が本当に蓮と同等の魔力を持っているのならば。また、夢で見た戦場の景色が瞼に蘇った。一面の焼け野原、降り注ぐ雷の雨。
「だからおぬしらには、前線にいる兵たちへの指示を徹底してもらいたい。落盤に巻き込まれぬよう、余の命があるまで決して前進してはならぬと」
かつての魔王は、敵を倒すために魔法を遣った。ならば自分は、何のために魔法を遣うのか。
「ここは皇帝領だ。そして今ここに集った多くの中立地帯の民、そして我が領民。生まれた場所は違えど、余にとっては皆、大切なこの国の民だ」
掴みかけた答えを逃さぬよう、レンギョウは胸元で右手を握りしめる。レンギョウの望み、そして蓮が抱いていた本当の願い。
「余は、余の力で皆を守りたい。犠牲を少なくするためならば、余にできることは何でもしよう。そのために——おぬしらの力を余に、今しばらく貸してくれぬか」
再び場に沈黙が降りた。しかし先程の静けさとは種類が違う。その証に沈黙を破ったのは誰かの声ではなかった。かすかな身じろぎの音に、レンギョウの瞳が大きく見開かれる。
「……ススキ」
姿勢を正し、右拳を左手で包んでレンギョウに相対する姿。それは拱手と呼ばれる、国王軍の兵が国王に対してのみ取る最上級の礼だった。勿論、中立地帯自警団であるススキがこれまでレンギョウにそのような礼を示したことなどない。
「第八代国王レンギョウ陛下。我が自警団がご助力を請うたのが貴方で、本当に良かった」
静かに落とされる飾りのない言葉。それは長年に渡って『均衡の分銅』を強いられてきた人々の声そのものに聞こえた。
「ここに集った中立地帯の民十二万の思いを、決して無になさらぬよう。何とぞお願い申し上げます」
「これから先もおぬしらの気持ちを無視するつもりはない。まして命を無駄にすることは絶対にせぬ」
ススキは無言で頭を下げた。ふと見ると、ウイキョウも己が右拳を包んで礼を取っている。
二人の姿に一番驚き慌てたのは貴族のスオウだった。自警団に遅れじとばかりに、泡を食って拱手の構えを見せている。
シオンはスオウの慌てぶりに吹き出しながら、それでもほっとした顔でレンギョウに笑いかけていた。
一人、イブキだけは複雑な表情でその光景を見渡している。気づいてはいたが、レンギョウはあえてそれを黙殺した。
そう。この場でいかに綺麗事を並べようと、現実では何が起こるか分からないのだ。気持ちとは裏腹の出来事はいくらでも起こりうる。
それでも。
今、レンギョウの望みを皆に知ってほしかった。たとえ理想論に過ぎなくとも、これから辿る過程でいつかレンギョウの言葉が道標になる時が来ると信じて。
希望はいつでも、叶えようと思わなければ達せられないのだから。
ついに皇帝軍が姿を現した。
報を受けてレンギョウが天幕を出ると、前方に黒い人波が雲のように湧き起こっているのが見えた。鋼の鎧に身を纏った兵馬の群が見る間に膨れ上がっていく様、地面を通じて心身の奥底に伝わってくる無数の馬蹄の響き、重苦しく威圧するような空気。
「……アサザ」
この中のどこかに、いるのか。
頭を振り、意識して思考を切り替える。夏雲のように鋼の軍隊は膨れ上がり、なかなか全貌を現さない。スギからは十万の大軍だと報告が入っている。こちらの人数は十二万。数の上では有利に見えるが、実態は昨日今日集まった民たちがありあわせの鎧を着て武装しているだけだ。間違っても皇帝軍の正規兵と同列に考えてはいけない。
実際に戦力と見做せるのは最前列に配置した古参の自警団三万、それに国王軍二万。
約半数の兵力では勝利はおぼつかない。しかしどの道、皇帝との話し合いを求めることから始まった行軍だ。だから必ずしも皇帝軍に勝つ必要はない。ただ、負けない方法を考えればいいのだ。
国王軍の布陣は完了していた。次第に隊列を整えつつある皇帝軍に相対するのは自警団の精兵たちだ。ススキ、ウイキョウがよく纏めてくれているおかげで、大軍を前にしても動揺することなく静かに次の指示を待っている。
イブキは少数の自警団員をつけて後方の新兵七万の抑えに行かせた。新兵たちはとにかく人数がいる。なまじ不慣れな武器を持たせて戦力にするより、その数自体を以って皇帝軍を威圧する方が効果はある。意図通りの働きをしてもらうためには、勝手な暴走だけは謹んでもらわなくてはならない。
今、レンギョウの傍にはシオンとスオウが残っている。魔法部隊の貴族たちも皆、顔を揃えていた。彼らにはこれからレンギョウが行う魔法の援護をさせる手筈になっている。
じっと相手の陣地を見ていたスオウが、ふいに息を呑んだ。
「どうした」
「あの騎兵は、もしや」
言われてレンギョウは目を凝らす。皇帝軍最前列の中央、一際目立つ位置に陣取った騎兵がいる。突撃の命令を待ちかねるかのように地を掻く馬の脚、それに合わせてたなびく、乗り手の兜から流れる若葉色の飾り紐。
「……あの時の副将帥か」
——私はあなたを許さない。
向けられた激しい眼差しと言葉が、瞬時に思い起こされる。
憎まれるなら、それでもいい。あの日許されることのない罪をコウリは犯し、レンギョウは抱え込むことになったのだから。
痛むのは胃の腑だろうか、それとももっと奥深くのどこかだろうか。その場所を確かめるように拳を握り、再びレンギョウはまっすぐに彼方のブドウの姿を見つめる。
たとえどんなに憎んでくれても構わない。それがあの女戦士の生きる糧になるのならば。
「レン、そろそろ」
相手の布陣もあらかた終わったようだ。増える一方だった兵の動きが収まり、整然とした列となってこちらに向いている。
ふいに沈黙が訪れた。鎧の擦れる音も、馬具の煌やかしい響きも。咳の一つさえも憚られる静寂の中、レンギョウは努めてゆっくりと精神を集中する。このように大掛かりな魔法を遣うのは初めてのことだ。しっかりと地に着けた踵の向こう側、そこにあるはずの水脈を求めて下へ、下へと意識を潜らせていく。
「……見つけた」
位置はちょうど、両軍の間。狙い通りの場所に黒々と横たわったその空洞に目を据えたまま、レンギョウは瞼を上げる。右手で指し示したその位置へ、スオウはじめ魔法部隊の貴族たちも意識を集中し始める。
皇帝軍にも動きがあるようだ。俄かに慌しくなった相手陣地を見つめながら、レンギョウは発動の時機を見計らうために目を眇めた。
最早場の空気は沈黙ではなく、雑多な音が入り混じっているのだろう。けれど集中を解いていないレンギョウの耳には何も入ってはいなかった。
空は晴れている。こんな状況でなければ、気持ちのいい晴天だと笑いあうこともできただろうに。
そう思った瞬間、視界を何かが横切った。
「……鷹?」
思わず目で追った精悍な鳥の姿は、軽々と両軍の頭上を飛び越えてまっすぐにレンギョウの方へと向かってくる。見る間に近づいてきた鷹は高く啼き声を放ち、傍らのシオンの腕へと一直線に舞い降りた。
「スギの緊急連絡だわ。ごめん、こんな大事な時に」
鷹に餌を与えるのももどかしく、シオンは脚に括られた紙片を抜き取る。畳まれた紙を開き中を見た瞬間、シオンは大きく息を呑んだ。
「……嘘」
「どうしたのだ、一体?」
問いに返ってくる言葉はなかった。代わりに差し出されたのは、今しがた鷹が届けてくれた紙片だった。
訝しく思いながら、レンギョウは紙を覗き込む。記されていたのは走り書きの言葉、ただ一つ。
——皇帝アザミ、崩御。
意味を呑み込むまで、数拍の時間が必要だった。そこに書かれた事柄を理解するより先、咄嗟に彼方の皇帝軍を見やる。
「アサザは、知っておるのか」
思わず落とした呟き。集中に入っていたはずのスオウが、ただならぬ気配を感じて顔を上げた。
皇帝軍は今しも動き出そうとしていた。整然と整った陣形、乱れのない統率。そこに動揺など、ましてや悲嘆の影など見えるはずもなく。
疑念が確信に変わった。
知らない。
皇帝軍にはまだ、この報せは届いていない。
「すまぬ、打ち合わせと少し手順を変える」
言って、レンギョウは地の底へ向かっていた意識を高く空へと上げ直した。吹き抜ける風が皇帝軍に向かっているのを確認して、その流れを捕まえる。
——止めなければ。
身を貫くのはその一言だけだった。
領主と仰ぐ者の、戦場へ行けと命じた者の——実の父の訃報を、戦の最中に聞かせたくはない。
「聞け、戦士の末裔たちよ」
風の流れに乗せて、レンギョウは彼方の皇帝軍へ——アサザへと、声を届ける。なるべく自身の動揺を見せぬよう、威厳のある様子を装って。
「急ぎ皇都へ戻れ。さもなくば皆ことごとく、我が魔法の餌食となるぞ」
戦場を吹き抜ける風が、敵味方の別なく兵たちの耳に『聖王』の言葉を広めていく。ぎくりと動きを止めたのは皇帝軍、その隙を見逃さずにレンギョウはスオウら魔法部隊に合図を出す。
貴族たちが一斉に地に手をついた。レンギョウ自身、先ほどまでの集中を取り戻して地の底へと意識を沈めていく。
地が揺れた。
睨み合う両軍が同時に平衡を失って蹲ったちょうど真ん中に、巨大な亀裂が走る。轟音は遅れて耳に入った。その後はただただ、突き上げる振動と舞い狂う土埃に行動と視界を奪われて、レンギョウも含めたその場の全員が地に伏せて揺れが過ぎるのを待つことしかできない。
耳を覆う残響が過ぎ去った頃、レンギョウは顔を上げて空を見やった。ただ一羽、上空へと難を逃れた鷹が濁った空を翔んでいるのが見える。重い疲労が身体全体を包んでいた。やはりここまで大きな魔法は体力を削るものらしい。
国王軍側の兵たちもまた、徐々に動き始める。レンギョウの魔法で地震が起こると、あらかじめ知らされていたおかげで比較的混乱は少ないようだ。
皇帝軍の様子は、ひどい土埃にまみれてまったく掴めない。呼吸を整えて、レンギョウは今一度草原に風を吹かせた。
冷気と土埃を含んだ風が南から北へと駆け抜ける。ぱちぱちと細かい音がするのは、風下にいる皇帝軍の鎧に砂粒が当たるせいだろうか。
風が抜けた草原には、深い谷が刻まれていた。まるで国王軍と皇帝軍を分かつように、大地に深々と描かれた一条の線。できたばかりの亀裂の断面からは、未だ石くれがころころと奈落へと落ち込んでいく様が見える。
皇帝軍は。
一兵たりとも欠けることなく、亀裂の向こう側にいた。今もなお、動揺することすらできずにぼんやりと谷を見つめているようだ。
これでいい。
疲労の中、レンギョウは小さく笑った。本来なら双方の犠牲を最小限にするために遣うはずだった魔法。しかし今、この谷の向こう側にいるはずの友を父の元へ帰すために遣ったことに後悔はなかった。
状況は激変している。皇都を目と鼻の先にして、話し合うべき相手がいなくなってしまった。時間が欲しいのはこちらも同じだった。
——アサザが皇帝になるのなら。
淡い希望が胸元をよぎる。アサザならば、話し合いの申し出にも応じてくれるのはないか。
約した再会が後の世にも何かを残せるのだとしたら、レンギョウがここまで来たことは決して無駄ではなくなる。
もう一度、皇帝軍に目を向ける。間もなくあちらを包むであろう悲報を思うと胸が痛んだ。だがその先には決して悪いことばかりが待っているわけではない。
大地に引いたこの線を自分かアサザが越える時、きっと何かが変わる。
祈りを籠めて見遣った草原の彼方、皇都の方角から深い紫の弔旗を掲げた早馬が駆けてくるのが見えた。
<予告編>
大切なものは、
ずっと変わらず傍に在ると、思っていた。
ついに開かれた戦端、
新皇帝の即位。
紡がれる歴史の表で、裏で、
掌から零れてゆく、
煌やかな残像。
——俺たち、勝てますよね。
——何が勝ちで、何が負けなのか。
——これが、戦というものだ。
『DOUBLE LORDS』結章、
この長い物語の、終わりを始めるために。
「お前は、生きてくれ」
——そういえば、皇帝領では紫を喪章に使うのだったか。
独りで零す苦笑は、音もなく夜の内に紛れていく。
喪章の色彩、正装の意匠、儀礼の次第、体制の有様——同じ島の中にありながら、王都と皇都の間には数え切れないほどの違いが存在している。それは恐らく、最初にこの国の形を創り上げた先人の——魔王と戦士の違いでもあるのだろう。
昨夜見た夢が、頭から離れない。いつもなら夜明けと共に霧散するはずの夢幻の記憶は、時が経つほどに却って鮮やかに心へと焼きついていく。
蓮の、藜の、楝の、かつてこの土地に生きていた人々の想い。遥かな時を隔てた今、こうして垣間見るだけでも息が詰まるほどに熱を帯びていた、その時間。そこには多くの哀しみや悔いがあった。けれど誰一人として、自分の生き方に迷いを持ってはいなかった。
それが、たまらなく羨ましい。
レンギョウは左の掌を静かに握りしめる。夜に体温を奪われた指先は、わずかにこわばった感触で掌に触れてきた。
今、生きてここにいる自分。
あの夢が実際にあったことなのか、そんなことはどうでも良かった。魔王と呼ばれる人物はかつて確かに存在した。そして、その血筋を受け継いでいるはずの自分が今、ここにいる。
——今の自分に迷いはないか。悔いは、残していないか。
記憶の中の蓮の仕草を辿って、レンギョウは左手を虚空へ伸ばす。どれほど探しても、指の向こう側に星明かりは見つけられない。
「偉大なる御先祖様」
——今、この手で出来ることは、何だろう。
気がつくと、そんなことばかり考えている。記憶の中の蓮のそれより一回り大きな、自分の手。果たしてこの手は魔王と同じように魔法を遣うことが出来るのか。
雷を遣うことは出来る。初めて皇帝軍と見えたあの時と同じように黒雲を呼び、稲妻を望めばいいのだから。
しかし。
「余は」
それを人に、この島の民に向けて放つことは出来るのか。
憎悪と哀切が入り混じった楝の眼差しが胸に甦る。あのように徹底した敵意を、自分は目の前の相手に対して持つことができるだろうか。
皇帝軍に——アサザに。
皇都まであと一日の距離にまで、国王軍は歩を進めていた。自警団の面子が連れて来た新兵たちとの合流はおおむね終わり、シオンやススキも無事に陣中に戻ってきた。もちろん、とうの昔に皇帝領の中に踏み込んでいる。中立地帯との境界線を越える時に抵抗らしい抵抗に遭わなかったのは、相手が皇都に反撃のための戦力を集めているからだ。今日にも皇帝軍は姿を現し、国王軍と矛を交えることになるだろう。
ふいに思い出したのは、王都での別れ際にアサザに向けた台詞だった。
——また、会えるだろうか。
あれからどれ程の時が過ぎたのだろう。たくさんの出来事が起こり、周囲の状況も様変わりして。
「私は」
レンギョウは変わった。聖王として立つことを望み、迷いながらも今、こうして戦の中心にいる。ここに至る途中でたくさんの人を死なせた。忘れがたい緋色の面影は、思い出すたびにレンギョウの胸を深く抉っていく。
アサザも変わっただろう。先ほど、皇都のスギからの報告が届いた。
今朝、皇帝軍将帥アサザが十万の兵を率いて皇都を出発したと。
軍を率いる長として、弟を失った兄として。レンギョウに向けられる眼差しはもう、以前と同じものではなくなっているだろう。それがたとえどんなに激しい憎悪であったとしても、レンギョウは受け止めるつもりだった。
それが自身で選んだ道ゆえに。
きり、と鳩尾が痛んだ。ここ最近、すっかり馴染みになった痛みだ。元々そう多く食べる方ではないが、戦が始まってからは輪をかけて食が細くなっている。
夜中に目が覚めることも多くなった。眠り自体が浅いのか、寝つきもあまり良くない。夢と現とを何度も行き来した末に、ついには眠ることを放棄して天幕を抜け出す、そんな日々。
眠れぬ夜の果てにあの夢を見て、ようやく気づいた。
レンギョウは今、魔法を遣うことがたまらなく怖い。
「よう聖王様、こんな夜更けにお散歩かい?」
ふいに掛けられた声に、振り向く動作は自然と鋭くなった。透かし見た闇の中、鷲鼻の大男が天幕の陰から顔を覗かせている。
「イブキ、何故ここに」
「随分な言い草だな。左翼に放っておくと問題ばっかり起こすからって、こっちに呼び戻したのはあんただろ」
魔法部隊の貴族たちがイブキを拒んだのはいつのことだったか。あの後、とりあえずの措置として貴族たちをレンギョウ直下の国王軍陣内に戻し、宙に浮いたイブキには当面単身で国王警護の任につくよう命じておいた。志願兵集めからウイキョウが戻り次第、新兵預かりの任を引き継いで異動する手筈になっており、レンギョウが今宵就寝した時点ではまだ左翼に残っていたはずだ。
「引き継ぎは終わったのか」
「ああ。俺は仕事熱心だからな。雑用をとっとと終わらせて新任務にやって来たってわけだ」
「仕事熱心、のう」
素直に呆れたいところだが、この男の軽口は妙に愛嬌があって憎めない。だからレンギョウもつい、常にない切り返しで答えたくなる。
「余の傍では泥酔剣とやらは控えてもらうぞ」
「何ぃ!? 俺の最強奥義を封じるとは、正気か陛下!」
「……酒が過ぎて頭の中身が溶けておるのではないか?」
「そんなことはないぞ。不老長寿の薬だ、あれは」
しゃあしゃあと言い放つその顔を、レンギョウは呆れ顔で見上げる。
「おぬし、物忘れを治さぬまま長生きする気か。さぞ周りが苦労しように」
イブキは驚いたようにレンギョウを見下ろして、一呼吸置いた後大笑いした。
「おとなしそうな顔をして、陛下もなかなか口が減らないお方だ」
「以前はそうでもなかったが。最近抱えた臣下からでも移ったのかのう」
ふと笑いを引っ込めて、イブキはまじまじとレンギョウを見つめた。
「……俺を臣下だと認めていらっしゃるのか」
「おぬしこそ、余を主だと認めておるのか」
高低差の狭間で鋭い視線が交差する。
「以前から訊ねたいと思っていたのだ。おぬしは何故、余の許に参じた? 縁のある皇帝軍の方が前歴とて活かせように」
張り詰めた空気の中、先に肩の力を抜いたのはイブキの方だった。
「言っただろ? 皇帝領じゃ俺はお尋ね者だって。今更のこのこ馳せ参じたところで、待ってるのは牢屋暮らしだけだ。それに」
わずかに言いよどんで、イブキはぽつりと付け足した。
「あっちには俺のせいで母親を亡くしたガキ共がいる。合わせる顔なんてねえよ」
瞬時に思い出したのはアサザとアカネの顔。そういえばもう一人、兄がいると言っていたか。
そこまで考えて、レンギョウはあることに気がつく。イブキが最初に示したのはアカネを捕らえる策だった。その身を害する手段ではなく、あくまで無傷で生かす方策。その思惑が打算ではなく、かつて誼のあった相手への情から出たものだとしたら。目線を逸らしたイブキの横顔を、改めて見上げる。
「もしやおぬしは、こちらにつく事で皇子たちの身を守ろうとしたのか?」
「そんな大層なもんじゃねえよ」
即座の否定。けれど。
「結局守りきれてねえんだし」
ぼそりと零れた言葉を誤魔化すように、イブキはぱんと大きな掌を打ち合わせた。
「おじさんの過去話なんざどうでもいいんだよ。それより、陛下には夜が明けたら大仕事が待っている。できれば大人しくお休み願いたいところだが……どうしても気晴らしにそぞろ歩きしたいと仰るなら付き合うぜ」
「酔いどれの護衛など要らぬ」
「失敬な、今は素面だ」
頬に笑みを残したまま、レンギョウは天幕を離れた。手ずから囲いの柵を開け、するりとすり抜ける。イブキは何も言わずについてくる。
夥しい篝火に照らされながら、陣中は穏やかに寝静まっているように見えた。暁を迎えれば、いよいよ戦いが始まる。天幕の中には不安に震える兵士が少なからずいるのかもしれない。けれどそれは今のところレンギョウの目に付くような形では現れていない。
「みんな聖王様を信じてるんだよ」
イブキの言葉に、また胃がずきりと痛んだ。答えぬまま、レンギョウは草原が望める方向へと歩を進める。前方に風にそよぐ草の海が見えた瞬間、思わず詰めていた息がこぼれ落ちた。
「腹、痛むのか?」
イブキが横目で様子を窺っている。無意識に鳩尾を押さえていた手を離し、レンギョウは姿勢を正した。
「大事ない。それより明日の布陣についてだが」
「ああ、さっき軍師の嬢ちゃんが何か置いてってたな」
イブキは懐からくしゃくしゃの書類を取り出した。恐らくまだ目を通していないのだろう。かけらも悪びれた様子のないイブキに半ば呆れながら、レンギョウは再び草原の彼方に目線を巡らせた。
「それには地図が描いてあるはずだ」
「地図?」
地平線を見つめたままレンギョウは頷く。地図の原本は新兵集めから戻ったばかりのシオンに無理を言って探させたものだ。主だった面子に渡したのは大急ぎで作らせた写しだが、それが今回の戦で重要な役割を占めることに変わりはない。
「おぬしの生命を守るやもしれぬ地図だからのう。皇帝軍が来るまでによく読んで頭に入れよ」
「ふぅん」
大して興味もなさそうに、イブキは欠伸交じりの返事を返してくる。
「まぁ確かに、この辺りは南部の草原とは少し様子が違うからな」
目の前に広がる草の海には、北方を指してまっすぐに石畳の街道が敷かれている。様子が違うと言うイブキの言葉は、街道の両脇に見えるのが草だけではないことを指しているのだろう。
丈の短い草に混じって、馬車ほどもある大岩がそこかしこに角を覗かせている。左手には北部山岳地帯の最後の稜線が連なりながら伸びていた。転がっている岩と山肌は共に白みを帯びた褐色をしている。
「ここでは地下に川が流れているのであろう。普段は見えないが、雪解けの時期にだけ地上に水が溢れると聞いた」
「よくご存知で」
レンギョウの言葉にイブキが驚いたように目を丸くする。
「あの岩くれは春先に山から押し流されて、そのまま残ってるやつだな。ほとんど毎年のことだから、皇帝軍も街道以外はいちいち掃除なんざしない」
そこまで話して、イブキはにやりと目を細めた。
「その隠れ川を利用するつもりかい、陛下?」
「さあのう」
作戦に関する詳しい指示は関係する全員に、同時に出したい。明言を避けたレンギョウに、イブキはにやにや笑いを向けたまま言葉を続けた。
「そういや俺のご先祖もその昔、地下水脈を辿って移動したことがあるって聞いたな」
「先祖?」
「ああ。初代戦士の部下でグースフットって御仁だが……陛下が知るわけねぇよなぁ」
グースフット。軽く目を見開いたレンギョウを認め、イブキは再び驚きの色を浮かべる。
「……国王の英才教育には、皇帝領の歴史まで入ってるのか?」
「いや、そういうわけではないが」
夢で見たなどとは、とても言えない。歯切れの悪いレンギョウにやや訝しげな視線を向けつつ、イブキは問う。
「そういえば陛下は、第三皇子への対応もやけに親しげだったな」
この島に不可侵条約がある以上、国王と皇帝の血族が顔を合わせることなど考えられない。当然、親しくなる機会などないはず。それが常識だ。
国王と戦士——皇帝は対立しつつ並存を続ける存在。この国が始まって以来連綿と続く歴史は、常にこの前提の下に成り立っている。
けれどレンギョウは、通常ではありえない出来事を体験していた。すべての始まりとも言える、あの月夜の邂逅。
「……アカネを知っていたわけではない。あの者の兄を——アサザを、知っているのだ」
「第二皇子を?」
問いたいことは幾つもあるだろう。けれどイブキの気配は尋問ではなく静聴のそれに切り替わったようだ。先を促す沈黙の中、レンギョウは言葉を選びながら記憶の景色を辿る。
「ちょうど自警団の者たちが初めて謁見を求めてきた頃だった。あやつは突然、王宮深くの森の中に湧いて出たのだ」
たった一昼夜の記憶。けれどそれは紛れもなく、今国王軍を率いている『聖王』の原点になった時間だった。草原で眠った夜、二つの領主の狭間に置かれた自警団の現状、そして何より戦士に列なる者すべてが敵ではないと信じる心。国王自ら皇都を目指すという今回の戦略の中には、再会を望み、アサザとの縁が切れぬことを願うレンギョウ自身の心が少なからず反映されている。
共に領民を従える身だ。兵を率い、戦場で見えることになる可能性は予測していた。それでもいざ、その時を目前にすると。
「まさかあやつとの再会がこのような形になるとはのう」
ただ純粋に再会を願っていたかつての自分と、多くの屈託を抱えた現在の自分。それでもなお、成せることは何なのか、迷い続けていることに変わりはない。
「成程、そういう経緯があったのか」
黙ったまま話を聞いていたイブキが重たげに口を開いた。
「ずっと引っかかってはいたんだ。正直言って、皇帝軍に対して陛下が言い出す案はどれも甘い。陛下のご性格を考えるならそれも当然かと思っていたが、率先して異を唱えるはずの自警団までもが言われるままにその案を採る。むしろ身内の貴族どもの方が仲間はずれ気分を味わって陛下に直訴する始末だ」
イブキに向き直り、レンギョウはまっすぐその顔を見上げる。徐々に白んできたとはいえ、空はまだ深い紺色に染まっている。篝火が作る逆光の中、イブキの姿は闇そのものを切り取ったかのようだ。
「陛下、これだけは言っておくぞ。一枚岩じゃない兵は脆い。崩れる時は一瞬だ」
地の底から響くような低い声。レンギョウの願いも、自警団の思惑も、貴族たちの不満も。ここに集った総ての者が秘かに抱く不安を映すかのように、黒い人影は言葉を続ける。
「ここにいる奴らに共通していることは、ただ一つ。陛下、あんたに希望をかけたってことだ。だからあんたが崩れた瞬間、すべてが終わる」
「それは違う。余は」
「違わないさ。あんたがどう思っていようと、集まった兵士たちが陛下の魔法に期待している事実に変わりはない。あいつらは魔法がある限り、自分たちが勝てると信じている」
また、夢の情景が視界を掠める。そして、自分自身の緋色の記憶も。
魔法があればすべてうまくいく。そんな幻想を、何故こうも容易く人は信じ込んでしまうのか。
「余は……魔法は、万能ではない」
「だろうな。だが敵も味方も、あんたの魔法を中心に戦いを組み立てているのが現実だ。魔法ってのはそれくらい大きな戦力だ。それは否定できないだろう?」
レンギョウは拳を強く握り締める。今にも震えそうになる心を保てるように。揺れて逸れそうになる視線を、目の前の影に定めたままでいられるように。
「皇帝軍は魔法が来るのを恐れている。国王軍は魔法が放たれるのを待っている。勝機を決める一瞬に、肝心のあんたが躊躇ったらどうなる?」
闇の帳の中に夢の、現実の、幾多の面影がちらついては流れていく。皇帝軍の干戈の煌きの先頭に立つのは、あの若葉色の瞳をした女戦士だろうか。それとも。
「今のあんたに、アサザ殿下に向けて魔法を振るう覚悟はあるのか?」
拳が跳ねるのを、今度は抑えられなかった。
戦士の黒鎧に身を包んだアサザの像を鮮明に結べたのは、夢で見た藜の武者姿の記憶のせいだろう。黒一色を纏ったアサザが切っ先を向ける。対するレンギョウは右手の指先でアサザを指し示す。
——かつての戦士と魔王のように。
『聖王』が採る行動なら、なすべきことは分かりきっている。目の前の戦士の末裔を魔法で屠り、その勢いのままに皇都へ攻め上って皇帝から実権を奪い返し、この島国を統一するのだ。それこそが国王領の民が望む戦の結末であり、中立地帯にとっても生活の安定に繋がる大きな成果となる。
けれども、レンギョウ個人——『レン』は。
今の今まで、あえて考えないよう意識して避けてきた場面だった。たとえ憎しみに満ちた目をアサザに向けられようとも構わない。けれどアサザが攻撃という手段でレンギョウに向かってきたら。いつも思考はそこで止まってしまい、次の場面を思い浮かべることができなくなる。
自分は一体、どうしたいのか。
身中で感情が激流と化していた。そのどれもが強く、激しすぎてレンギョウ自身も押し流されそうだった。
いつしか夜の終わりを告げる暁星が空に浮かんでいた。儚い星明りを映して、影と化していたイブキの瞳にも光が宿る。
「殺す覚悟と、殺される覚悟はまったく別のものだ。どちらを選ぶにせよ、その瞬間に悔いないようにあんたなりの答えを見つけておいてくれ。あんたが迷った分だけ、兵は死ぬ」
太陽が草の彼方から今日初めての光を投げかけてきた。白い光から瞳をかばうように、イブキはレンギョウに背を向ける。
「それでも、自分の力を怖がるってのは悪いことじゃないと俺は思うぜ。何も考えずにそんなものを振るわれることの方が余程怖いからな」
レンギョウは黙して答えない。拳の震えは止まっていたが、暁光の中にあってもその顔は決して晴れてはいなかった。
結局その後、レンギョウは一睡もせずに朝を迎えた。用意された朝食の膳は喉を通らず、かろうじて添えられた干し林檎だけを水で無理矢理に流し込んだ。
頭がうまく働かない。腹の底の重いしこりはどれほど溜息を吐いても減ることはなかった。解っていても、また一つ息を落とす。胃の腑を駆け抜ける痛みを意識の外に追いやって、レンギョウは席を立った。
潜り抜けた入り口の外、広い草の海の中に一筋の道が浮かんで見える。皇都へと続くこの国最古の街道の石畳は、膨れ上がった国王軍の蹄鉄の下でおののくように震えていた。
光満ちる草原に立ち、レンギョウは周囲を見渡した。前方にまだ皇都の姿は見えない。ただただ柔らかく草の波が揺れ、時折鋭い岩の先端が覗くだけだ。
その草原に、兵の布陣が始まっていた。
街道を横切るように、先鋒を務める自警団の精鋭たちが整然と移動している。乱れなく並んだ鉄兜の群れが、時折日の光を照り返して鈍く輝く。
レンギョウの周囲には正規国王軍の白鎧が、一分の隙もない警備を敷いている。
さらに後方には、自警団と同じ鉄色の人波が続いている。しかしこちらは数が多い割には整然とした隊列にはなっていない。支給されたばかりの慣れぬ鎧を身に纏った、中立地帯からの志願兵たちだ。
人、人、人。長く細く続く街道に溢れんばかりに続く聖王麾下の兵は、今や十二万を数えていた。
最後尾のさらに後ろには、雪を頂いた山岳地帯の峰々が霞んでいる。その峻厳な稜線は、平地が多い南部で生まれ育ったレンギョウには馴染みの薄いものだった。澄み切った青空に寒々と聳える雪峰から吹き降ろす風の冷たさに、思わずレンギョウは肩をすくめる。無意識に落とした視界の中、足元の石畳の角はどれも丸みを帯びていた。石材が磨耗するほどに長く過ぎた時、そして今この道を踏んで進む人々の思い。
これが自分に——『聖王』に託された希望。数の重さが実感を伴って背中に圧し掛かる。思い出したのは初戦の後、執務机に積み上げられた犠牲者の名簿だった。あの時とは兵力の桁が違う。ここにいる中で、この戦を最後まで見届けられる者は一体どれだけいるのだろうか。兵を起こした以上、犠牲を皆無にすることなどできない。それは前回の戦いでいやというほど思い知った。
なればこそ、せめて出来る限り多くの兵を故郷へ帰せるよう、欠ける人数までが桁違いにはならぬよう。
魔王はより多くの敵を倒すために魔法を遣った。ならば聖王はより多くの民を生かすために魔法を遣いたい。
蓮が出逢った藜、レンギョウが出会ったアサザ。
立つ陣営が違おうと、相手は自分と同じ人間に違いない。そんな当たり前の、けれど何より尊い事実を、二人の戦士は教えてくれた。
人を生かすための魔法。それを遣うことは、強大な雷を揮うことより余程難しいことなのかもしれない。けれど。
レンギョウは独りではない。
とりとめのない思考から浮かび上がった視界の中、共にこの困難に立ち向かってくれる仲間の顔を見つけて、思わず肩の力が抜ける。
「随分難しい顔をしてたわね、レン。眉間に皺ができてたよ」
「いつから見ていたのだ。近くにおるのならすぐに声を掛ければ良かろうに」
紫の瞳に笑いを含ませながら、シオンは小さく肩をすくめて見せた。
「下手に声なんてかけたら、また新しいお仕事を言いつけられるかと思って。意外とレンって人遣い荒いから」
中立地帯で兵を募っていた彼女が合流したのは昨日のことだ。そう、ちょうどあの夢を見た日の朝だったか。いくら生々しい情景だといっても所詮は夢、レンギョウはシオンにその話はしていない。けれど目覚めた後思いついたいくつかの作戦案は、その日のうちに打診していた。明け方にイブキが持っていた紙片は、レンギョウ自身がシオンに配布を指示していたものだ。確かに人遣いが荒いと言われれば返す言葉は見つからない。
「すまぬな。おかげで作戦に目処を立てることができた。礼を言う」
「……そう言われちゃ、怒るに怒れないわ」
生真面目な顔で言うレンギョウに軽く睨みをくれて、シオンは丸めた大判の書類を差し出した。
「さ、これがお望みの地形図の原本よ。地図の写しを配った人たちにも一度集まるよう声をかけておいたから、すぐに来ると思うわ」
「うむ」
地図を受け取って、レンギョウは地平線へと目を向けた。太陽はまだ草原の縁をなぞる位置にいる。
皇帝軍が来るまで、まだ時間はありそうだった。
傍らに張られた国王専用の天幕にシオンを招き入れ、早速卓上に図面を広げる。日に焼けた古紙には皇都周辺の地勢が詳細に描かれていた。本来なら皇帝領は自警団の守備範囲外のはず、それでも乞えばものの数日でこれだけの地図が出てくる。その情報収集力に改めて嘆息しながら、レンギョウは紙上に指を走らせる。
注文したのは可能な限り正確なこの付近の測量図。目指す印は探すまでもなく見つかった。赤い点で示された箇所で、レンギョウの人差し指が止まる。
「現在位置は、これか」
シオンは無言で頷く。
この場所に兵を止めたのは昨日のこと。それでなくても遅かった兵の足を止めたのには理由がある。
まず、皇都に近づきすぎないため。今回の親征の最終目標が皇都入城である以上、その前に皇帝軍と衝突することは避けられない。いたずらに戦禍へ皇都の民を巻き込むことはレンギョウの本意ではなかったし、もちろんシオンも望んでいない。自然、戦場になる地点は皇都より手前で選ばれた。
シオンの帰還と前後して、中立地帯中に散っていた他の自警団の面子も続々と合流していた。彼らが率いてきた志願兵の編成を一段落させ、馴染ませるための待機時間が欲しかったこともある。
けれど何よりも、レンギョウにはこの場所に留まりたい理由があった。現在位置から程近い地点を確かめるように辿り、シオンへと問いかける。止まった指の先には、黒く丸で囲われた箇所があった。
「例の場所は、ここだな?」
シオンは軍師の顔で頷いた。
「ええ。昨日、測量ができる団員に見てもらったから間違いないわ」
ちらりと見上げる紫色の瞳に、わずかに気遣わしげな色が浮かぶ。
「でも、本気でこんな大掛かりなことをするつもりなの?」
「本気でなければ、忙しいこの時期におぬしをこき使ったりせぬよ」
苦笑交じりに言って、レンギョウは地図から目を離す。手早く地図を纏め、殊更に軽い口調で付け足した。
「上手くいけば双方の犠牲者を最小限に抑えられよう。皇帝領の民を、無闇に傷つけることが目的ではないのだからな」
「……そうね」
失われる命をできる限り少なく。同じ目的を確認しあうように、二人は顔を見合わせてもう一度頷き合った。
時機を見計らったかのように、天幕の外に人の気配がした。一呼吸空けて入り口の幕を上げたのは、国王軍の衛兵だ。
「スオウ殿、ススキ殿、ウイキョウ殿、イブキ殿が参られました」
最初に天幕に入ってきたのは魔法部隊の貴族だった。その後に自警団の二人が続き、最後にイブキがのっそりと姿を現す。現在、国王軍を動かしている実働部隊の責任者たちだ。
「皆、忙しい中よく来てくれた」
言いながら、レンギョウは素早く彼らの表情を確認する。貴族のスオウはあからさまにイブキを無視している。当のイブキはまったく意に介していない様子で普段と変わらず飄々としていた。ススキも相変わらずの軽軍装を纏ったまま沈黙を続けている。最後にウイキョウに目を留めた。巌のような大男は、いつもと同じように静かにレンギョウを見下ろしてくる。
レンギョウは決して背が高い方ではない。実働部隊の面子と向かい合う時はいつでも顔を見上げる形になる。これまであまり気にしたことはなかった事実を、ふいに不安に思ってしまったのは何故だろう。
身長差と一緒に突きつけられているのは、レンギョウ自身の幼さではないのか。
——自分の提案は、とても子供じみた感情論でしかないのではないか。
「……何か」
無意識にじっと見つめてしまっていたらしい。ウイキョウの顔に、珍しく戸惑いが浮かんでいる。
「ああ、すまぬ。何でもない」
ここで思い悩んだからといって急に背が伸びるわけでも、事態が変わるわけでもない。頭を一つ振って、レンギョウは思考を切り替える。
「集まってもらったのは他でもない。皇帝軍と接触する前に皆に伝えておきたいことがあるのだ」
言って、レンギョウは一同を卓の傍に招いた。机上に全員の視線が集まった頃合を見計らって、指先で現在位置の印を示す。
「この辺りには雪解けの時期にだけ流れる川がある。普段は地下に潜っているせいで、川筋を見ることはできぬがのう」
調査を担当したシオンがレンギョウの言葉を裏付けるように頷く。皆の表情を見渡しながら、レンギョウは言葉を継いだ。
「ここは皇帝領だ。本来ならば地の利はあちら側にある。だがどういうわけか皇帝は、余らがこんなにも近づくまで対抗策を採らなんだ。数日前に急遽整えた兵では、目に見えぬ地形まで考慮して布陣する余裕はなかろう。今回はそこを利用させてもらう」
「利用?」
訝しげな声はススキから。同じく説明を求める面々の視線を一つ一つ見返しながら、レンギョウは再び地図中の見えない川筋を指先で辿った。
「シオンに調べてもらったのだが、この地図に描かれた地下の川はそう深いところに潜っているわけではなさそうなのだ。これなら、余の魔法で天井を壊すことができる」
しん、と場が静まった。
「……天井を壊す、だと」
「地上には大きな谷ができることになるのう」
「そんなことが、本当にできるのか?」
「恐らく、な」
ススキの目をまっすぐに見返してレンギョウは答える。
自分が本当に蓮と同等の魔力を持っているのならば。また、夢で見た戦場の景色が瞼に蘇った。一面の焼け野原、降り注ぐ雷の雨。
「だからおぬしらには、前線にいる兵たちへの指示を徹底してもらいたい。落盤に巻き込まれぬよう、余の命があるまで決して前進してはならぬと」
かつての魔王は、敵を倒すために魔法を遣った。ならば自分は、何のために魔法を遣うのか。
「ここは皇帝領だ。そして今ここに集った多くの中立地帯の民、そして我が領民。生まれた場所は違えど、余にとっては皆、大切なこの国の民だ」
掴みかけた答えを逃さぬよう、レンギョウは胸元で右手を握りしめる。レンギョウの望み、そして蓮が抱いていた本当の願い。
「余は、余の力で皆を守りたい。犠牲を少なくするためならば、余にできることは何でもしよう。そのために——おぬしらの力を余に、今しばらく貸してくれぬか」
再び場に沈黙が降りた。しかし先程の静けさとは種類が違う。その証に沈黙を破ったのは誰かの声ではなかった。かすかな身じろぎの音に、レンギョウの瞳が大きく見開かれる。
「……ススキ」
姿勢を正し、右拳を左手で包んでレンギョウに相対する姿。それは拱手と呼ばれる、国王軍の兵が国王に対してのみ取る最上級の礼だった。勿論、中立地帯自警団であるススキがこれまでレンギョウにそのような礼を示したことなどない。
「第八代国王レンギョウ陛下。我が自警団がご助力を請うたのが貴方で、本当に良かった」
静かに落とされる飾りのない言葉。それは長年に渡って『均衡の分銅』を強いられてきた人々の声そのものに聞こえた。
「ここに集った中立地帯の民十二万の思いを、決して無になさらぬよう。何とぞお願い申し上げます」
「これから先もおぬしらの気持ちを無視するつもりはない。まして命を無駄にすることは絶対にせぬ」
ススキは無言で頭を下げた。ふと見ると、ウイキョウも己が右拳を包んで礼を取っている。
二人の姿に一番驚き慌てたのは貴族のスオウだった。自警団に遅れじとばかりに、泡を食って拱手の構えを見せている。
シオンはスオウの慌てぶりに吹き出しながら、それでもほっとした顔でレンギョウに笑いかけていた。
一人、イブキだけは複雑な表情でその光景を見渡している。気づいてはいたが、レンギョウはあえてそれを黙殺した。
そう。この場でいかに綺麗事を並べようと、現実では何が起こるか分からないのだ。気持ちとは裏腹の出来事はいくらでも起こりうる。
それでも。
今、レンギョウの望みを皆に知ってほしかった。たとえ理想論に過ぎなくとも、これから辿る過程でいつかレンギョウの言葉が道標になる時が来ると信じて。
希望はいつでも、叶えようと思わなければ達せられないのだから。
ついに皇帝軍が姿を現した。
報を受けてレンギョウが天幕を出ると、前方に黒い人波が雲のように湧き起こっているのが見えた。鋼の鎧に身を纏った兵馬の群が見る間に膨れ上がっていく様、地面を通じて心身の奥底に伝わってくる無数の馬蹄の響き、重苦しく威圧するような空気。
「……アサザ」
この中のどこかに、いるのか。
頭を振り、意識して思考を切り替える。夏雲のように鋼の軍隊は膨れ上がり、なかなか全貌を現さない。スギからは十万の大軍だと報告が入っている。こちらの人数は十二万。数の上では有利に見えるが、実態は昨日今日集まった民たちがありあわせの鎧を着て武装しているだけだ。間違っても皇帝軍の正規兵と同列に考えてはいけない。
実際に戦力と見做せるのは最前列に配置した古参の自警団三万、それに国王軍二万。
約半数の兵力では勝利はおぼつかない。しかしどの道、皇帝との話し合いを求めることから始まった行軍だ。だから必ずしも皇帝軍に勝つ必要はない。ただ、負けない方法を考えればいいのだ。
国王軍の布陣は完了していた。次第に隊列を整えつつある皇帝軍に相対するのは自警団の精兵たちだ。ススキ、ウイキョウがよく纏めてくれているおかげで、大軍を前にしても動揺することなく静かに次の指示を待っている。
イブキは少数の自警団員をつけて後方の新兵七万の抑えに行かせた。新兵たちはとにかく人数がいる。なまじ不慣れな武器を持たせて戦力にするより、その数自体を以って皇帝軍を威圧する方が効果はある。意図通りの働きをしてもらうためには、勝手な暴走だけは謹んでもらわなくてはならない。
今、レンギョウの傍にはシオンとスオウが残っている。魔法部隊の貴族たちも皆、顔を揃えていた。彼らにはこれからレンギョウが行う魔法の援護をさせる手筈になっている。
じっと相手の陣地を見ていたスオウが、ふいに息を呑んだ。
「どうした」
「あの騎兵は、もしや」
言われてレンギョウは目を凝らす。皇帝軍最前列の中央、一際目立つ位置に陣取った騎兵がいる。突撃の命令を待ちかねるかのように地を掻く馬の脚、それに合わせてたなびく、乗り手の兜から流れる若葉色の飾り紐。
「……あの時の副将帥か」
——私はあなたを許さない。
向けられた激しい眼差しと言葉が、瞬時に思い起こされる。
憎まれるなら、それでもいい。あの日許されることのない罪をコウリは犯し、レンギョウは抱え込むことになったのだから。
痛むのは胃の腑だろうか、それとももっと奥深くのどこかだろうか。その場所を確かめるように拳を握り、再びレンギョウはまっすぐに彼方のブドウの姿を見つめる。
たとえどんなに憎んでくれても構わない。それがあの女戦士の生きる糧になるのならば。
「レン、そろそろ」
相手の布陣もあらかた終わったようだ。増える一方だった兵の動きが収まり、整然とした列となってこちらに向いている。
ふいに沈黙が訪れた。鎧の擦れる音も、馬具の煌やかしい響きも。咳の一つさえも憚られる静寂の中、レンギョウは努めてゆっくりと精神を集中する。このように大掛かりな魔法を遣うのは初めてのことだ。しっかりと地に着けた踵の向こう側、そこにあるはずの水脈を求めて下へ、下へと意識を潜らせていく。
「……見つけた」
位置はちょうど、両軍の間。狙い通りの場所に黒々と横たわったその空洞に目を据えたまま、レンギョウは瞼を上げる。右手で指し示したその位置へ、スオウはじめ魔法部隊の貴族たちも意識を集中し始める。
皇帝軍にも動きがあるようだ。俄かに慌しくなった相手陣地を見つめながら、レンギョウは発動の時機を見計らうために目を眇めた。
最早場の空気は沈黙ではなく、雑多な音が入り混じっているのだろう。けれど集中を解いていないレンギョウの耳には何も入ってはいなかった。
空は晴れている。こんな状況でなければ、気持ちのいい晴天だと笑いあうこともできただろうに。
そう思った瞬間、視界を何かが横切った。
「……鷹?」
思わず目で追った精悍な鳥の姿は、軽々と両軍の頭上を飛び越えてまっすぐにレンギョウの方へと向かってくる。見る間に近づいてきた鷹は高く啼き声を放ち、傍らのシオンの腕へと一直線に舞い降りた。
「スギの緊急連絡だわ。ごめん、こんな大事な時に」
鷹に餌を与えるのももどかしく、シオンは脚に括られた紙片を抜き取る。畳まれた紙を開き中を見た瞬間、シオンは大きく息を呑んだ。
「……嘘」
「どうしたのだ、一体?」
問いに返ってくる言葉はなかった。代わりに差し出されたのは、今しがた鷹が届けてくれた紙片だった。
訝しく思いながら、レンギョウは紙を覗き込む。記されていたのは走り書きの言葉、ただ一つ。
——皇帝アザミ、崩御。
意味を呑み込むまで、数拍の時間が必要だった。そこに書かれた事柄を理解するより先、咄嗟に彼方の皇帝軍を見やる。
「アサザは、知っておるのか」
思わず落とした呟き。集中に入っていたはずのスオウが、ただならぬ気配を感じて顔を上げた。
皇帝軍は今しも動き出そうとしていた。整然と整った陣形、乱れのない統率。そこに動揺など、ましてや悲嘆の影など見えるはずもなく。
疑念が確信に変わった。
知らない。
皇帝軍にはまだ、この報せは届いていない。
「すまぬ、打ち合わせと少し手順を変える」
言って、レンギョウは地の底へ向かっていた意識を高く空へと上げ直した。吹き抜ける風が皇帝軍に向かっているのを確認して、その流れを捕まえる。
——止めなければ。
身を貫くのはその一言だけだった。
領主と仰ぐ者の、戦場へ行けと命じた者の——実の父の訃報を、戦の最中に聞かせたくはない。
「聞け、戦士の末裔たちよ」
風の流れに乗せて、レンギョウは彼方の皇帝軍へ——アサザへと、声を届ける。なるべく自身の動揺を見せぬよう、威厳のある様子を装って。
「急ぎ皇都へ戻れ。さもなくば皆ことごとく、我が魔法の餌食となるぞ」
戦場を吹き抜ける風が、敵味方の別なく兵たちの耳に『聖王』の言葉を広めていく。ぎくりと動きを止めたのは皇帝軍、その隙を見逃さずにレンギョウはスオウら魔法部隊に合図を出す。
貴族たちが一斉に地に手をついた。レンギョウ自身、先ほどまでの集中を取り戻して地の底へと意識を沈めていく。
地が揺れた。
睨み合う両軍が同時に平衡を失って蹲ったちょうど真ん中に、巨大な亀裂が走る。轟音は遅れて耳に入った。その後はただただ、突き上げる振動と舞い狂う土埃に行動と視界を奪われて、レンギョウも含めたその場の全員が地に伏せて揺れが過ぎるのを待つことしかできない。
耳を覆う残響が過ぎ去った頃、レンギョウは顔を上げて空を見やった。ただ一羽、上空へと難を逃れた鷹が濁った空を翔んでいるのが見える。重い疲労が身体全体を包んでいた。やはりここまで大きな魔法は体力を削るものらしい。
国王軍側の兵たちもまた、徐々に動き始める。レンギョウの魔法で地震が起こると、あらかじめ知らされていたおかげで比較的混乱は少ないようだ。
皇帝軍の様子は、ひどい土埃にまみれてまったく掴めない。呼吸を整えて、レンギョウは今一度草原に風を吹かせた。
冷気と土埃を含んだ風が南から北へと駆け抜ける。ぱちぱちと細かい音がするのは、風下にいる皇帝軍の鎧に砂粒が当たるせいだろうか。
風が抜けた草原には、深い谷が刻まれていた。まるで国王軍と皇帝軍を分かつように、大地に深々と描かれた一条の線。できたばかりの亀裂の断面からは、未だ石くれがころころと奈落へと落ち込んでいく様が見える。
皇帝軍は。
一兵たりとも欠けることなく、亀裂の向こう側にいた。今もなお、動揺することすらできずにぼんやりと谷を見つめているようだ。
これでいい。
疲労の中、レンギョウは小さく笑った。本来なら双方の犠牲を最小限にするために遣うはずだった魔法。しかし今、この谷の向こう側にいるはずの友を父の元へ帰すために遣ったことに後悔はなかった。
状況は激変している。皇都を目と鼻の先にして、話し合うべき相手がいなくなってしまった。時間が欲しいのはこちらも同じだった。
——アサザが皇帝になるのなら。
淡い希望が胸元をよぎる。アサザならば、話し合いの申し出にも応じてくれるのはないか。
約した再会が後の世にも何かを残せるのだとしたら、レンギョウがここまで来たことは決して無駄ではなくなる。
もう一度、皇帝軍に目を向ける。間もなくあちらを包むであろう悲報を思うと胸が痛んだ。だがその先には決して悪いことばかりが待っているわけではない。
大地に引いたこの線を自分かアサザが越える時、きっと何かが変わる。
祈りを籠めて見遣った草原の彼方、皇都の方角から深い紫の弔旗を掲げた早馬が駆けてくるのが見えた。
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<予告編>
大切なものは、
ずっと変わらず傍に在ると、思っていた。
ついに開かれた戦端、
新皇帝の即位。
紡がれる歴史の表で、裏で、
掌から零れてゆく、
煌やかな残像。
——俺たち、勝てますよね。
——何が勝ちで、何が負けなのか。
——これが、戦というものだ。
『DOUBLE LORDS』結章、
この長い物語の、終わりを始めるために。
「お前は、生きてくれ」
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