書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
その窓を背にしたシオンが、長旅の疲れも見せずにおどけた仕草で頭を下げる。
「レンギョウ陛下。中立地帯自警団長代理シオン、中立地帯への食料配布の任を終えてただ今帰還しました」
「うむ。ご苦労だった」
数段の階を隔てた謁見用の玉座に座り、レンギョウは頷いた。
シオンが中立地帯の使者として王都を訪れてから既に一月が経っていた。その間、老齢と病気のため本拠地を離れられないという長の代わりに、彼女は王都からの物資を配るため中立地帯中を巡っていたのだった。
「物資は不足しなかったか?」
「ええ。これでしばらくは中立地帯も食べるものには困らないはずよ」
シオンのくだけた物言いに、咳払いが重なった。じっと睨みつけるコウリの視線に臆した様子もなく、シオンは続ける。
「中立地帯を代表して、感謝するわ陛下。本当にありがとう」
その声に合わせるように、窓の外の声も大きくなった。そこにいるのが、シオンの帰還と共にやって来た中立地帯の人々だということはレンギョウも知っている。小さく頭を振って、レンギョウは言う。
「余は当然のことをしただけだ。偶然のこととはいえ、あのような現状を見ておいて放っておくわけにもゆかぬだろう」
ふと、レンギョウの表情に陰が差す。
「……礼ならむしろ、アサザに言うべきなのかもしれぬな」
「レンギョウ様」
非難を含んだコウリの声に、レンギョウは軽く手を上げた。小さく礼をして、コウリは黙り込む。
しばらくの間、紫の瞳にためらいを浮かべた後、シオンは意を決して顔を上げた。
「陛下。やっぱり新しい皇太子は……」
レンギョウの答えには数瞬の間があった。
「……うむ。アサザ本人だ。加えて余が中立地帯に援助を出したことで、この一月皇都は警戒を強めているらしい」
そういうことだったなコウリ、とレンギョウが呟いた後、広い部屋には沈黙が落ちた。前庭からの歓声が虚しく響く。
「……レンギョウ様」
重苦しい沈黙を破ったのはコウリだった。
「我らはまだ、皇帝と完全に対立したわけではありません。今回の援助も中立地帯からの要請を受けてのこと。その経緯と今後の中立地帯への援助の依頼を使者を立てて皇帝に伝えれば、現在の緊張状態を緩めることができるかもしれません」
それを聞いて、シオンがぱっと表情を輝かせる。
「そうね! あなたもたまにはいいことを言うじゃない。私たち自警団だって、戦いを望んでいるわけじゃないんだしね」
うんうん、と頷いているシオンを一顧だにせず、コウリはレンギョウに向けて言葉を継いだ。
「王都及び中立地帯が皇都と事を構える意思がない事実だけでも、一刻も早く皇帝に示す必要があります。現皇帝のアザミは、このままでは確実に王都を攻めに来る、そういう人物ですから」
「ふむ……だが、使者には誰を立てる?」
コウリはきっ、と顔を上げた。
「私が参ります」
レンギョウの目が見開かれる。
「本気か?」
「私が言い出したことです。まずは私が動かねば誰もついてはこないでしょう」
まっすぐに向けられたコウリの目を、やれやれといった表情でレンギョウは見返した。
「強情なおぬしのことだ。どの道言い出したからには余が何を言っても無駄であろう。わかった。許す」
「ありがとうございます」
「だが、気になることがある」
頭を下げるコウリに、レンギョウは鋭い目を向ける。
「まず……とおぬしは言ったな。他にも誰か、動かすつもりか」
顔を上げたコウリは、ちらりとシオンを見た。
「自警団の者を一人、借りたいと」
意表を衝かれてシオンは目を丸くする。レンギョウの顔にも、軽い驚きが浮かんでいる。
「自警団を、のう。一体何をする気だ?」
「間諜を皇都に置きたいと存じます。今のままではあまりにも情報が少なすぎますので」
「ちょっ……いきなり何よ! 間諜なんて国王領の人でもいいじゃない!」
「勿論、この任を自警団に依頼するのには理由があります」
シオンの抗議に対抗するように、コウリは心持ち声を張り上げた。
「ひとつは、国王の守護の下、長く平穏に過ごしてきた国王領の者にはいざという時の対処ができないと考えられること。この点、自警団は頻発する中立地帯の紛争に関わってきたため、我々よりそのような場には慣れているものと考えられます」
シオンに言葉を挟ませる隙を与えず、コウリはすぐに言葉を継ぐ。
「いまひとつの理由は、諜報活動を補佐する組織の有無です。我々の側には第四代国王モクレン陛下以来の皇帝との取り決めがあるため、そのような組織は存在しません。しかし自警団には中立地帯を守るために皇王両都に独自の情報収集組織を持っていると聞いています。間違いありませんね?」
コウリの鋭い視線を受けて、シオンはしぶしぶ頷く。
「まあ……ないと言えば嘘になるけど」
「このような組織の協力が期待できるか否かで、自ずと活動の質も変わってまいります。まったく勝手の分からぬ国王領の者より、組織とのつながりのある自警団の者を派遣しようと考えるのは当然のことかと」
しばらく考え込んだ後、レンギョウはシオンに視線を向けた。
「今、コウリが言った条件を満たす者に心当たりはあるか?」
ためらいをにじませつつ、シオンが口を開く。
「……情報集めのことなら、スギが詳しいわ」
「スギ——ああ、あの者か」
レンギョウの頭の中で、王都を抜け出した夜に自分を捕まえた青年の顔が浮かぶ。彼に関する記憶の中でも特に印象に残っている優しげな雰囲気と相反する隙のない身ごなしは、情報収集という重責を担う中で得たものなのかもしれない。
そう考えながら、レンギョウはシオンの後ろの窓に目を向けた。そこからは変わらず、彼自身へ向けられた感謝の声が流れ込んでくる。
「……彼らを再び飢えさせぬためには、確かに皇都の正確な情報が必要であろう」
レンギョウは立ち上がり、階を下りた。コウリの前を通り過ぎ、シオンの横をすり抜けて、窓に歩み寄る。
大きく取られた窓からは、前庭を埋めつくした群衆が見えた。見慣れた国王領からの見物人より、皆みすぼらしい格好をしている。しかしぼろぼろの服を纏いながらも彼らは生き生きと動き回り、レンギョウの名を呼んでいる。その中で、偶然上を見上げた一人とレンギョウの目がまともに合う。
「せっ……聖王様だ!!」
その声に皆が一斉に窓を見た。どっと歓声が沸く。彼らの一人一人の顔を見、片手を上げてその声に応えながら、レンギョウは後ろに立った二人に言う。
「余は、余の力の及ぶ限り彼らを守ってやりたい。シオン……そのために、おぬしらの力を余らに貸してはくれぬか?」
大歓声の中、小さな溜息が落ちる。
「それはズルいわよ陛下。そんな風に言われちゃ断れないじゃない」
レンギョウは小さく笑った。
「国王が頼みを断られるわけにはゆかぬのでな。許せ」
「わかったわよ。スギに話をしてみるわ」
「かたじけない」
頷いたレンギョウの背に、コウリは一礼した。
「では私も、準備にかかることにいたします」
「うむ。頼んだぞ」
もう一度頭を下げて、コウリは広間を出ていった。続いて退室しようとしたシオンを、レンギョウが呼び止める。
「何? 陛下」
窓の外を向いたまま、レンギョウはためらうように言葉を切った。
「……おぬしにはもう一つ、頼みがある」
「何? あんまり難しいことは言わないでね」
少しの沈黙の後、レンギョウは言った。
「……余を、陛下と呼ぶのはやめてくれぬか」
まじまじと、シオンはレンギョウを見つめた。
レンギョウはシオンに背を向けたままだ。窓外の人々に手を振りながら、若い国王は言葉を続ける。
「余はこの国の王だ。この民たちの上に立つ者だ。しかし……この頃、余は分からなくなる」
大歓声は衰える様子もない。彼らの窮状を救った国王を称える、その声。
「アサザに会うまで、余と国王は同一のもので、そこには何の矛盾もなかった。国王として、貴族のため国王領の民のため、それだけを考えていれば良かった。だが——」
柔らかな風が窓から吹き込み、レンギョウの銀髪を揺らした。長いそれがかかった背中がいまだ細く、小さいことに今更ながらシオンは気づいた。
「余は国王としてではない、一人の人間としてのレンギョウ——”レン”を、知ってしまった。そしてその名のまま、今まで知らなかった世界に触れ、人々と出会ってしまった」
ゆっくりと、レンギョウは振り返った。
「余が民から直に”聖王”と呼ばれたのは、先程が初めてだ。しかしその名はいまだ虚像に過ぎぬ。”聖王”と呼ばれる者の実体は、余が一番良く解っておる」
シオンは口を開いた。だが何を言いたいのかが自分でもわからず、結局閉ざしてしまう。そんなシオンに、レンギョウはしっかりと目を向けた。
「余はいつか、真に”聖王”の名にふさわしい王になりたいと思う。だが、今の余にまだ”レン”への未練があることも事実だ。”聖王”と”レン”にいつか決着を着けるその日まで——”レン”として出会ったおぬしには、せめてそちらの名で呼んでほしいのだ」
見つめ返したレンギョウの瞳は、十七にしかならない少年のそれだった。少しの沈黙の後、シオンはゆっくりと頷いた。
「わかったわ……レン」
「……かたじけない」
その日のうちに、王使の先触れは王都を出発した。追って二日後にコウリを中心とする本使団が王城を発つ。
スギが密かに皇都に向かったのも、それから間もなくのことだった。
「レンギョウ陛下。中立地帯自警団長代理シオン、中立地帯への食料配布の任を終えてただ今帰還しました」
「うむ。ご苦労だった」
数段の階を隔てた謁見用の玉座に座り、レンギョウは頷いた。
シオンが中立地帯の使者として王都を訪れてから既に一月が経っていた。その間、老齢と病気のため本拠地を離れられないという長の代わりに、彼女は王都からの物資を配るため中立地帯中を巡っていたのだった。
「物資は不足しなかったか?」
「ええ。これでしばらくは中立地帯も食べるものには困らないはずよ」
シオンのくだけた物言いに、咳払いが重なった。じっと睨みつけるコウリの視線に臆した様子もなく、シオンは続ける。
「中立地帯を代表して、感謝するわ陛下。本当にありがとう」
その声に合わせるように、窓の外の声も大きくなった。そこにいるのが、シオンの帰還と共にやって来た中立地帯の人々だということはレンギョウも知っている。小さく頭を振って、レンギョウは言う。
「余は当然のことをしただけだ。偶然のこととはいえ、あのような現状を見ておいて放っておくわけにもゆかぬだろう」
ふと、レンギョウの表情に陰が差す。
「……礼ならむしろ、アサザに言うべきなのかもしれぬな」
「レンギョウ様」
非難を含んだコウリの声に、レンギョウは軽く手を上げた。小さく礼をして、コウリは黙り込む。
しばらくの間、紫の瞳にためらいを浮かべた後、シオンは意を決して顔を上げた。
「陛下。やっぱり新しい皇太子は……」
レンギョウの答えには数瞬の間があった。
「……うむ。アサザ本人だ。加えて余が中立地帯に援助を出したことで、この一月皇都は警戒を強めているらしい」
そういうことだったなコウリ、とレンギョウが呟いた後、広い部屋には沈黙が落ちた。前庭からの歓声が虚しく響く。
「……レンギョウ様」
重苦しい沈黙を破ったのはコウリだった。
「我らはまだ、皇帝と完全に対立したわけではありません。今回の援助も中立地帯からの要請を受けてのこと。その経緯と今後の中立地帯への援助の依頼を使者を立てて皇帝に伝えれば、現在の緊張状態を緩めることができるかもしれません」
それを聞いて、シオンがぱっと表情を輝かせる。
「そうね! あなたもたまにはいいことを言うじゃない。私たち自警団だって、戦いを望んでいるわけじゃないんだしね」
うんうん、と頷いているシオンを一顧だにせず、コウリはレンギョウに向けて言葉を継いだ。
「王都及び中立地帯が皇都と事を構える意思がない事実だけでも、一刻も早く皇帝に示す必要があります。現皇帝のアザミは、このままでは確実に王都を攻めに来る、そういう人物ですから」
「ふむ……だが、使者には誰を立てる?」
コウリはきっ、と顔を上げた。
「私が参ります」
レンギョウの目が見開かれる。
「本気か?」
「私が言い出したことです。まずは私が動かねば誰もついてはこないでしょう」
まっすぐに向けられたコウリの目を、やれやれといった表情でレンギョウは見返した。
「強情なおぬしのことだ。どの道言い出したからには余が何を言っても無駄であろう。わかった。許す」
「ありがとうございます」
「だが、気になることがある」
頭を下げるコウリに、レンギョウは鋭い目を向ける。
「まず……とおぬしは言ったな。他にも誰か、動かすつもりか」
顔を上げたコウリは、ちらりとシオンを見た。
「自警団の者を一人、借りたいと」
意表を衝かれてシオンは目を丸くする。レンギョウの顔にも、軽い驚きが浮かんでいる。
「自警団を、のう。一体何をする気だ?」
「間諜を皇都に置きたいと存じます。今のままではあまりにも情報が少なすぎますので」
「ちょっ……いきなり何よ! 間諜なんて国王領の人でもいいじゃない!」
「勿論、この任を自警団に依頼するのには理由があります」
シオンの抗議に対抗するように、コウリは心持ち声を張り上げた。
「ひとつは、国王の守護の下、長く平穏に過ごしてきた国王領の者にはいざという時の対処ができないと考えられること。この点、自警団は頻発する中立地帯の紛争に関わってきたため、我々よりそのような場には慣れているものと考えられます」
シオンに言葉を挟ませる隙を与えず、コウリはすぐに言葉を継ぐ。
「いまひとつの理由は、諜報活動を補佐する組織の有無です。我々の側には第四代国王モクレン陛下以来の皇帝との取り決めがあるため、そのような組織は存在しません。しかし自警団には中立地帯を守るために皇王両都に独自の情報収集組織を持っていると聞いています。間違いありませんね?」
コウリの鋭い視線を受けて、シオンはしぶしぶ頷く。
「まあ……ないと言えば嘘になるけど」
「このような組織の協力が期待できるか否かで、自ずと活動の質も変わってまいります。まったく勝手の分からぬ国王領の者より、組織とのつながりのある自警団の者を派遣しようと考えるのは当然のことかと」
しばらく考え込んだ後、レンギョウはシオンに視線を向けた。
「今、コウリが言った条件を満たす者に心当たりはあるか?」
ためらいをにじませつつ、シオンが口を開く。
「……情報集めのことなら、スギが詳しいわ」
「スギ——ああ、あの者か」
レンギョウの頭の中で、王都を抜け出した夜に自分を捕まえた青年の顔が浮かぶ。彼に関する記憶の中でも特に印象に残っている優しげな雰囲気と相反する隙のない身ごなしは、情報収集という重責を担う中で得たものなのかもしれない。
そう考えながら、レンギョウはシオンの後ろの窓に目を向けた。そこからは変わらず、彼自身へ向けられた感謝の声が流れ込んでくる。
「……彼らを再び飢えさせぬためには、確かに皇都の正確な情報が必要であろう」
レンギョウは立ち上がり、階を下りた。コウリの前を通り過ぎ、シオンの横をすり抜けて、窓に歩み寄る。
大きく取られた窓からは、前庭を埋めつくした群衆が見えた。見慣れた国王領からの見物人より、皆みすぼらしい格好をしている。しかしぼろぼろの服を纏いながらも彼らは生き生きと動き回り、レンギョウの名を呼んでいる。その中で、偶然上を見上げた一人とレンギョウの目がまともに合う。
「せっ……聖王様だ!!」
その声に皆が一斉に窓を見た。どっと歓声が沸く。彼らの一人一人の顔を見、片手を上げてその声に応えながら、レンギョウは後ろに立った二人に言う。
「余は、余の力の及ぶ限り彼らを守ってやりたい。シオン……そのために、おぬしらの力を余らに貸してはくれぬか?」
大歓声の中、小さな溜息が落ちる。
「それはズルいわよ陛下。そんな風に言われちゃ断れないじゃない」
レンギョウは小さく笑った。
「国王が頼みを断られるわけにはゆかぬのでな。許せ」
「わかったわよ。スギに話をしてみるわ」
「かたじけない」
頷いたレンギョウの背に、コウリは一礼した。
「では私も、準備にかかることにいたします」
「うむ。頼んだぞ」
もう一度頭を下げて、コウリは広間を出ていった。続いて退室しようとしたシオンを、レンギョウが呼び止める。
「何? 陛下」
窓の外を向いたまま、レンギョウはためらうように言葉を切った。
「……おぬしにはもう一つ、頼みがある」
「何? あんまり難しいことは言わないでね」
少しの沈黙の後、レンギョウは言った。
「……余を、陛下と呼ぶのはやめてくれぬか」
まじまじと、シオンはレンギョウを見つめた。
レンギョウはシオンに背を向けたままだ。窓外の人々に手を振りながら、若い国王は言葉を続ける。
「余はこの国の王だ。この民たちの上に立つ者だ。しかし……この頃、余は分からなくなる」
大歓声は衰える様子もない。彼らの窮状を救った国王を称える、その声。
「アサザに会うまで、余と国王は同一のもので、そこには何の矛盾もなかった。国王として、貴族のため国王領の民のため、それだけを考えていれば良かった。だが——」
柔らかな風が窓から吹き込み、レンギョウの銀髪を揺らした。長いそれがかかった背中がいまだ細く、小さいことに今更ながらシオンは気づいた。
「余は国王としてではない、一人の人間としてのレンギョウ——”レン”を、知ってしまった。そしてその名のまま、今まで知らなかった世界に触れ、人々と出会ってしまった」
ゆっくりと、レンギョウは振り返った。
「余が民から直に”聖王”と呼ばれたのは、先程が初めてだ。しかしその名はいまだ虚像に過ぎぬ。”聖王”と呼ばれる者の実体は、余が一番良く解っておる」
シオンは口を開いた。だが何を言いたいのかが自分でもわからず、結局閉ざしてしまう。そんなシオンに、レンギョウはしっかりと目を向けた。
「余はいつか、真に”聖王”の名にふさわしい王になりたいと思う。だが、今の余にまだ”レン”への未練があることも事実だ。”聖王”と”レン”にいつか決着を着けるその日まで——”レン”として出会ったおぬしには、せめてそちらの名で呼んでほしいのだ」
見つめ返したレンギョウの瞳は、十七にしかならない少年のそれだった。少しの沈黙の後、シオンはゆっくりと頷いた。
「わかったわ……レン」
「……かたじけない」
その日のうちに、王使の先触れは王都を出発した。追って二日後にコウリを中心とする本使団が王城を発つ。
スギが密かに皇都に向かったのも、それから間もなくのことだった。
玉座に掛けた第四代皇帝アザミは、大して面白くもなさそうな表情で壇の下に跪いた亜麻色の髪の男を見下ろした。男の名は先程侍従から聞いたが、すぐに忘れた。どの道、目の前の男が国王からの使者だということだけが分かっていれば不自由はしない。
「はるばる王都からご苦労なことだな。使者ならば余に申すことがあろう。面を上げよ」
男は顔を上げ、まっすぐにアザミを見返した。
「皇帝よ。何故中立地帯を放置します」
アザミの眉がぴくり、と跳ねる。
「どういう意味だ、使者よ」
「私にはコウリという名があります」
アザミから目を離さないまま、コウリは問う。
「皇帝は、歴史をご存知か」
「歴史、とは何だ」
「今から百年程前、当時の国王と戦士——後の初代皇帝との間で交わされた国王領と皇帝領の線引きと中立地帯が定められた真の理由を、です」
「……どういう、ことですか」
鼻を鳴らしただけのアザミに代わってコウリに問い返したのは、玉座の側に立っていたアカネだった。正式の謁見の席に相応しい皇子の正装を身に纏っている。
目で問うコウリにただ一言、アザミが答える。
「余の第三皇子だ」
アカネに向けてコウリは一礼する。
国王からの使者が皇都を訪れるなど異例なことだ。皇帝以外の皇族がこの場にいることはある意味で当然と言えた。そのため、コウリに驚いた様子はない。
「アカネ殿。この国の代表的な穀倉地帯がどこにあるか、ご存知ですか」
「えっと……確か、国王領の南部と、皇帝領の北部にあったと思いますが」
予想外の問いに、アカネは戸惑いの表情を浮かべながらも答える。
「そうです。この国は南北に細長い島国ですが、その両端に肥えた土地は集中しています。広大な中央部の土はやせていて農作には適しません。草原を利用しての遊牧にも、中央部に住む人々全てを養えるほどの生産力は期待できません。つまり中央部の民は、生活を南北いずれかの穀倉地帯に依存するしかないのです」
喋りながら、コウリは父子の様子を観察する。アザミは玉座に頬杖をついて冷めた視線を向けている。一方アカネは、身を乗り出してコウリの話を聞いている。
「かつて戦士アサギは第四代国王モクレン陛下に対して、初代戦士と初代国王の取り決め通りに国王の過ちを正す役目を負いました。それを受けたモクレン陛下は過ちを悔いて全権をアサギに委ねたと伝えられています。その際の一昼夜に及ぶ話し合いで様々な事柄が決められましたが、そのうちの一つに双方の領土の制定があります」
アカネが頷く。
「その話は聞いたことがあります。アサギ——初代皇帝は十分反省していた国王モクレンの気持ちを考えて当時の首都とその周辺を国王領にして、自領はほとんど広げずに残りの土地を中立地帯にしたのではなかったでしょうか?」
「その通りです。アカネ殿は歴史がお好きですか?」
「そういうわけではないのですが、家庭教師代わりの兄が厳しかったので」
「成程。では現在、中立地帯の住民を『皇民』と呼ぶのは何故か、兄上はお話しになられましたか?」
「いいえ。そういえば、なぜなのでしょう」
ちらりとコウリはアザミを見上げた。変わらず冷えた目で見返す皇帝の表情が、かすかに苦々しげに歪む。
「どうやらお前の思惑通りに皇子は乗せられたようだな」
きょとんとするアカネに一瞥をくれ、アザミはコウリを鋭く睨みつけた。
「中立地帯の民を我が民と呼ぶのは、初代皇帝と国王の間で交わされた約に基づく。これは双方合意の上、定められた成文があるはずだが」
「その通りです」
コウリが頷く。
「しかしその項には但し書きがついています。成人前の第三皇子ならばいざ知らず、皇太子としての教育を受け、就くべくして皇帝の座に就いている貴方が知らない筈はない。そうですね?」
アザミは答えない。記憶を探っていたのだろう、宙を睨んでいたアカネがやがて諦めたらしく、コウリに視線を戻した。
「約定の第四項、中立地帯についての規定にはこうあります」
アカネの注意が戻るのを待っていたように、コウリは口を開いた。
「曰く、『中立地帯の民は国王・戦士いずれか一方に属する民ではない。但し、中立地帯に対する食糧その他物資の配布は戦士が行うものとし、その責を戦士が果たしている限り、戦士は中立地帯の民を管理することができる』と。つまり——」
玉座のアザミに、コウリは正面から目を据えた。
「皇帝から中立地帯が十分な食糧を受けていない現在、中立地帯の民は貴方の管理下を離れた自由な民であると言えます。そんな彼らが国王を頼ったとしても問題はないでしょう。もし現状が貴方の意に添わないのなら、彼らを再び『皇民』に戻すための条件——食糧・物資の配布の責を果たせば良いのではないですか」
沈黙が落ちた。広い謁見の間で、動くのはコウリとアザミの間を行き来するアカネの目だけだ。両者はぴくりとも動かずに睨み合っている。
「……よかろう」
やがて目を逸らしたのはアザミの方だった。アカネはほっと肩の力を抜く。長いだんまり合戦には、さすがに疲れ始めていたところだった。
末息子の様子にはまったく注意を払う風もなく、アザミは続ける。その口調からはどこか投げ遣りなものが感じられた。
「即刻、中立地帯への物資を用意させる。第三皇子、お前が監督をせよ。廃太子のところへ行けば以前の資料が残っている筈だ」
「は……はい」
慌てて跪いたアカネを一顧だにせず、立ち上がったアザミは踵を返した。
「余は疲れた。使者も引き取るがいい」
「お待ち下さい」
コウリの声に、アザミは背を向けたまま歩みを止める。
「最後に一つだけ、お尋ねしたいことがあります」
「何だ」
「何故、中立地帯への食糧配布を止めたのです。それによって貴方が得る利などないでしょうに」
広い背中に反応はない。しかし一瞬だけ、アザミが持つ人を圧する雰囲気が緩んだようにコウリには感じられた。
「……別に」
振り向かずにアザミは言う。
「別に理由などはない。気まぐれだ」
かつっ、と踵を鳴らしてアザミは皇帝だけに出入りを許された扉へと向かった。恭しく礼をして、侍従が扉を開ける。
「そう、理由など……」
扉を潜る瞬間のアザミの呟きは、侍従の耳にも入らないほどに低かった。
男は顔を上げ、まっすぐにアザミを見返した。
「皇帝よ。何故中立地帯を放置します」
アザミの眉がぴくり、と跳ねる。
「どういう意味だ、使者よ」
「私にはコウリという名があります」
アザミから目を離さないまま、コウリは問う。
「皇帝は、歴史をご存知か」
「歴史、とは何だ」
「今から百年程前、当時の国王と戦士——後の初代皇帝との間で交わされた国王領と皇帝領の線引きと中立地帯が定められた真の理由を、です」
「……どういう、ことですか」
鼻を鳴らしただけのアザミに代わってコウリに問い返したのは、玉座の側に立っていたアカネだった。正式の謁見の席に相応しい皇子の正装を身に纏っている。
目で問うコウリにただ一言、アザミが答える。
「余の第三皇子だ」
アカネに向けてコウリは一礼する。
国王からの使者が皇都を訪れるなど異例なことだ。皇帝以外の皇族がこの場にいることはある意味で当然と言えた。そのため、コウリに驚いた様子はない。
「アカネ殿。この国の代表的な穀倉地帯がどこにあるか、ご存知ですか」
「えっと……確か、国王領の南部と、皇帝領の北部にあったと思いますが」
予想外の問いに、アカネは戸惑いの表情を浮かべながらも答える。
「そうです。この国は南北に細長い島国ですが、その両端に肥えた土地は集中しています。広大な中央部の土はやせていて農作には適しません。草原を利用しての遊牧にも、中央部に住む人々全てを養えるほどの生産力は期待できません。つまり中央部の民は、生活を南北いずれかの穀倉地帯に依存するしかないのです」
喋りながら、コウリは父子の様子を観察する。アザミは玉座に頬杖をついて冷めた視線を向けている。一方アカネは、身を乗り出してコウリの話を聞いている。
「かつて戦士アサギは第四代国王モクレン陛下に対して、初代戦士と初代国王の取り決め通りに国王の過ちを正す役目を負いました。それを受けたモクレン陛下は過ちを悔いて全権をアサギに委ねたと伝えられています。その際の一昼夜に及ぶ話し合いで様々な事柄が決められましたが、そのうちの一つに双方の領土の制定があります」
アカネが頷く。
「その話は聞いたことがあります。アサギ——初代皇帝は十分反省していた国王モクレンの気持ちを考えて当時の首都とその周辺を国王領にして、自領はほとんど広げずに残りの土地を中立地帯にしたのではなかったでしょうか?」
「その通りです。アカネ殿は歴史がお好きですか?」
「そういうわけではないのですが、家庭教師代わりの兄が厳しかったので」
「成程。では現在、中立地帯の住民を『皇民』と呼ぶのは何故か、兄上はお話しになられましたか?」
「いいえ。そういえば、なぜなのでしょう」
ちらりとコウリはアザミを見上げた。変わらず冷えた目で見返す皇帝の表情が、かすかに苦々しげに歪む。
「どうやらお前の思惑通りに皇子は乗せられたようだな」
きょとんとするアカネに一瞥をくれ、アザミはコウリを鋭く睨みつけた。
「中立地帯の民を我が民と呼ぶのは、初代皇帝と国王の間で交わされた約に基づく。これは双方合意の上、定められた成文があるはずだが」
「その通りです」
コウリが頷く。
「しかしその項には但し書きがついています。成人前の第三皇子ならばいざ知らず、皇太子としての教育を受け、就くべくして皇帝の座に就いている貴方が知らない筈はない。そうですね?」
アザミは答えない。記憶を探っていたのだろう、宙を睨んでいたアカネがやがて諦めたらしく、コウリに視線を戻した。
「約定の第四項、中立地帯についての規定にはこうあります」
アカネの注意が戻るのを待っていたように、コウリは口を開いた。
「曰く、『中立地帯の民は国王・戦士いずれか一方に属する民ではない。但し、中立地帯に対する食糧その他物資の配布は戦士が行うものとし、その責を戦士が果たしている限り、戦士は中立地帯の民を管理することができる』と。つまり——」
玉座のアザミに、コウリは正面から目を据えた。
「皇帝から中立地帯が十分な食糧を受けていない現在、中立地帯の民は貴方の管理下を離れた自由な民であると言えます。そんな彼らが国王を頼ったとしても問題はないでしょう。もし現状が貴方の意に添わないのなら、彼らを再び『皇民』に戻すための条件——食糧・物資の配布の責を果たせば良いのではないですか」
沈黙が落ちた。広い謁見の間で、動くのはコウリとアザミの間を行き来するアカネの目だけだ。両者はぴくりとも動かずに睨み合っている。
「……よかろう」
やがて目を逸らしたのはアザミの方だった。アカネはほっと肩の力を抜く。長いだんまり合戦には、さすがに疲れ始めていたところだった。
末息子の様子にはまったく注意を払う風もなく、アザミは続ける。その口調からはどこか投げ遣りなものが感じられた。
「即刻、中立地帯への物資を用意させる。第三皇子、お前が監督をせよ。廃太子のところへ行けば以前の資料が残っている筈だ」
「は……はい」
慌てて跪いたアカネを一顧だにせず、立ち上がったアザミは踵を返した。
「余は疲れた。使者も引き取るがいい」
「お待ち下さい」
コウリの声に、アザミは背を向けたまま歩みを止める。
「最後に一つだけ、お尋ねしたいことがあります」
「何だ」
「何故、中立地帯への食糧配布を止めたのです。それによって貴方が得る利などないでしょうに」
広い背中に反応はない。しかし一瞬だけ、アザミが持つ人を圧する雰囲気が緩んだようにコウリには感じられた。
「……別に」
振り向かずにアザミは言う。
「別に理由などはない。気まぐれだ」
かつっ、と踵を鳴らしてアザミは皇帝だけに出入りを許された扉へと向かった。恭しく礼をして、侍従が扉を開ける。
「そう、理由など……」
扉を潜る瞬間のアザミの呟きは、侍従の耳にも入らないほどに低かった。
適温に保たれた居心地の良い部屋でアオイと共にアカネの話を聞きながら、アサザはぼんやりとそんなことを考えていた。皇都は王都より涼しい北方にある。とはいえ、やはり夏はそれなりに暑い。特にアオイの身体に、夏の暑さは冬の寒さと並んで大きな負担をかける。床に起き上がってはいるものの、血色の悪い兄の横顔を盗み見て、アサザは内心で溜息を吐いた。
「……兄上、聞いてますか?」
アカネの声に、アサザは我に返った。心持ち頬を膨らませている弟に、アサザは慌てて頷いて見せた。
「あ、ああ、ちゃんと聞いてるさ。その、コウリとかいう奴がお前に地理の講義をしてくれたんだったよな?」
「その話はずっと前に終わりましたよ。今、父上が退出なさったところまでお話したところです」
「あ、そうだったか。悪い悪い」
アサザの答えに、アカネは今度こそ見間違いようのない膨れっ面を作る。
「まあまあアカネ。アサザもここしばらく忙しかったから疲れてるんだよ」
そっぽを向いてしまった末弟を、苦笑しながらアオイがなだめる。
「今日の謁見にだって、勉強がたくさんあったからアサザは行けなかっただろう? もっとも、アサザにしてみればそっちの方が楽だったかもしれないけれど。特に最近は苦戦しているみたいだしね」
「兄上が厳しすぎるんですよ。まったく、皇太子なんてロクなもんじゃないな。覚えることばかり多くて嫌になる」
大仰に顔をしかめて、アサザは肩をすくめた。
「もっとも、兄上のお体がちっとも良くならない訳が分かったような気はしますけどね。あんな面倒なことを次から次へと詰め込まれちゃ、誰だってどうにかなっちまうぜ。俺でさえ頭がくらくらするもんな」
「ふふ。でもアサザ、今君に教えていることを私は父上から教わったんだよ? それに比べれば随分とましなんじゃないかな」
「うわ、俺は絶対ごめんですね」
あさっての方を向いたまま、アカネが吹き出した。顔を見合わせて兄二人も笑い出す。ひとしきり笑った後、アカネはアオイに向き直った。機嫌はすっかり直ったようだ。
「そういえば兄上様、僕は兄上ほど勉強をサボったつもりはないんですが」
「何ぃ?」
伸ばされたアサザの腕をひょいと避けて、アカネは続ける。
「今回の父上と使者との話ではいくつも分からないことがあって、正直すごく切なかったんです」
「……どうでもいいがお前、そんなしゃべり方誰に習ったんだ?」
「ほんとにどうでもいいですね。誰でもいいじゃないですか。とにかく」
何とかして自分を捕まえようとするアサザの手を器用にかわしながら、アカネはアオイの瞳を見た。
「使者は僕が第三皇子だから知らなくても仕方ないという感じのことを言ってましたし、父上もそれを否定しませんでした。そりゃうちは皇帝という名のつく家ですから、父上や後継ぎだった兄上様しか知らないことがあるのは仕方ないのかもしれませんが、今回の僕のように知らなかったことで皇帝領に不利になることがあるのなら、そういう秘密はどうかと思うんです」
「偉そうに言ってるがアカネ、単にダシにされたのが面白くないだけなんじゃないのか?」
「そっ……そんなことありませんよ!」
じゃれ合う弟たちに細まっていたアオイの目が、ふと真剣になった。
「アカネの言うことはもっともだよ。けれどね、すべての人と秘密を共有するには、この国はちょっと複雑すぎるんだ」
懲りずにアカネを追いかけていたアサザの手が止まる。笑いを引っ込めた弟たちの視線を感じながら、アオイは目を閉じた。
「そもそも皇帝と国王、二人の統治者が存在するこの国のあり方はとても不自然なんだ。危うい均衡を保ちながら体制を維持するためには、どうしても工夫がいる」
「それが……秘密だというんですか」
アオイは頷く。その頬に赤みがさしている。息もわずかに弾んでいた。
「兄上、続きは俺が話します。少し休んでください」
アサザの言葉にアオイは微笑んだ。
「そうだね。それじゃ、試験代わりにやってもらおうかな」
「……合格点をもらえるよう、努力はしますよ」
アオイが枕に背を預けたのを確認して、アサザはアカネへ振り返った。
「えーと、今の状態を続けるための工夫の話だったな。どう説明すればいいかなあ」
がりがりと頭をかいてから、アサザは口を開いた。
「アカネ、お前は俺の部屋で生き物——例えば蛇を見つけた時、どうする?」
「蛇ですか? そうですね、とりあえず兄上にどうしたのか、捨ててもいいものなのかを訊きますよ」
アサザは頷く。
「ま、それが正解だろうな。捨てていいか分からんものを不用意に逃がしたら後で怒られるかもしれん。大事な預かり物だったり、強力な毒蛇だったりする可能性もない訳じゃない」
毒蛇、という言葉にアカネが小さく笑う。
「おいおい、笑い事じゃないぞ。逃がした後に実は今のは毒蛇だ、このままだと大変なことになる、なんて言われたら俺は勿論お前も困っちまう。そうだろう?」
「まあ、そうですが……」
「けれどそんな困った事態も、お前がこの蛇は捨ててもいいものなのか、一言俺に確認すれば防げたはずだ。主の俺が知らないものが部屋にあるってことは考えにくいんだからな」
「僕は時々部屋で見覚えのないものを発掘しますけど」
アカネの言葉にアオイが吹き出す。恨めしげに二人を見て、アサザは咳払いをした。
「とにかくだ。お前の小汚い部屋ならともかく、必ず整理されてなければならないものってのは世の中にはいくらでもある。国王との約定も、その一つだ」
アサザの眉間にしわが寄る。本人はいかめしい表情を作っているつもりらしい。
「約定の項目を皇帝と国王は必ず覚えとかなきゃならん。ま、当然だけどな。これを知らなきゃ、お互いやっていいことと悪いことの区別さえつけられん。だから皇太子や王太子にもこの約定は徹底的に叩き込まれる。……何を笑ってるんですか兄上」
「いや別に……さっきまでの君の苦戦っぷりを思い出しただけだよ」
兄に軽く睨みをくれて、アサザは弟に視線を戻した。
「約定の詳細を知る者は、皇帝領には原則として皇帝と皇太子しかいない。国王側では国王と王太子、それに一部の側近の貴族が王太子への教授役として知ることを許されているらしい。コウリって奴は多分レンの——国王の先生だったんだろうな」
アカネは頷く。
「僕が知りたいのはそこなんです。なぜそんなに限られた人にしか約定は教えられないんですか」
「他の奴らが毒蛇を逃がしちまうのを防ぐためさ」
にやり、とアサザは笑う。
「俺は別に、意味なくさっきの話をしたわけじゃないぜ。皇帝と国王、二人の主を持つ部屋の中で蛇が出た。放っておいてもいいのか、捕まえるべきなのか自分では判断できん。捕まえ方も分からんしな。こういう場合は部屋の主にどうすべきか聞くのが一番だろう? 主は、少なくとも蛇への対処法は知っているはずだ」
「それなら、皆に蛇に対する知識を教えればいいではありませんか」
アサザは肩をすくめる。
「蛇の種類がいつも同じなら、それでもいいさ。だが蛇は——問題は時と場合によって形や大きさ、模様が全然違う。中途半端な知識で立ち向かわれちゃ、かえって危険だ。だから対処の判断は主である皇帝と国王に任せてもらう。そういう決まりにしているんだ」
「でも」
不満げなアカネにアサザは苦笑した。
「アカネ、なぜ皇帝と国王の周辺だけに知識をとどめておくかってのにはな、もう一つ理由があるんだ」
「え? なんですか」
ちらりとアサザはアオイを振り返った。仕方ない、といった風にアオイが頷く。
「まあ、アカネになら大丈夫だろう。それに、ここで止めたら後でうるさそうだしね」
「むー。二人で納得してないで早く教えてくださいよ」
またしても頬が膨らみはじめている弟に、慌ててアサザは向き直る。
「あ、こっから先は本当なら皇太子だけに教えることだからな。他では絶対言うなよ」
「分かりましたよ。で、もう一つの理由というのは何なんです?」
「戦士と貴族が仲良くならないように、さ」
アカネの目が点になる。
「は? 訳分かりませんよ。何ですかそれ」
「仕方ないな。順番に説明するとだな」
わしわしと自分の髪をかき回しながらアサザは宙を睨んだ。
「いいか? 約定ってのは要するに、皇帝領と国王領が付き合う上での決まりのことだ。だがその決まりを知っているのはほんの一握りの人間、それもそれぞれの頂点にいる連中だけだ。ここまでは問題ないな?」
アカネの首が縦に振られたのを確認して、アサザは続ける。
「一番偉いってことはだ、当然権力を持っている。その中には人を罰することができる種類のものも含まれてる」
「父上の得意技ですね」
アサザの口許に苦味混じりの笑みが浮かぶ。
「ま、とにかくその権力を利用して、皇帝と国王は緊急時以外の戦士と貴族の交流を禁止した。お互いにそれぞれの領土には踏み込まないでおこう、もし見つけたら領主の裁量で罰してもいい、ってな。これが俗に言う不可侵条約だな。ちなみに約定にもちゃんと項目が設けられている」
「不可侵条約は知ってます。違反者が目の前にいますけど」
アサザはぽかり、とアカネの頭を叩いた。
「ヘタに関わりを持つと罰せられるかもしれない。そう考えたらあえて交流しようなんて思わないだろ? だから戦士と貴族の関係はどんどん遠ざかる。お互いに何か言いたいことがあれば、付き合い方を知っている領主——皇帝か国王を頼ればいいんだからな。統治する側から見ても、労せずして下から頼られる構図を作れるわけだ。疎遠になれば問題は未然に防げるし、内部の結束も固められる。まさに一石二鳥だ」
「さっきの説明よりは納得できた気がしますけど……」
叩かれた頭をさすりながらアカネはぼやく。
「何だかなー。権力者ってややこしい上に汚いですねー」
「だろう? 同情するなら代わってくれよ」
「ヤですよ」
「先人の知恵をそんなに嫌うものではないよ」
くすくす笑いながらアオイが言う。顔色は普段通りに戻っている。
「アサザ、ご苦労さま。でも残念、四十点ってとこかな」
「え!? 何でそんなに低いんですか!?」
「話が長い。要点を要領よく伝えてこそ、良い説明と言えるだろう? それにアカネに秘密をしゃべってしまった」
ぐうの音も出ないアサザにアオイは微笑みかけた。
「いつも通り、合格点は八十点だよ。もっと精進しようね」
「……はい」
アカネが手を叩いて笑う。
「さすが兄上様! 兄上様ならきっとあのコウリにも勝てますよ」
「ふふ。私も彼には興味があったんだけどね。残念だよ」
アオイは横手の窓に目を向けた。小さいが丁寧に整えられた庭越しに、厚い木の塀が見える。
その塀のずっと向こう、皇都市街に近い宮に王都からの使者団がいるはずだった。明日一日休養を取った後、王都に帰還する予定になっている。
「そういえば兄上様、さっきの謁見でもう一つ気になったことがあるんですが」
アカネの声に、アオイは注意を部屋の中に戻した。
「ん、何だい?」
「コウリの話の中に、中立地帯が生まれた真の理由というのがあったんですが、うやむやのうちに謁見が終わってしまったので結局わからずじまいだったんです。兄上様はご存知ですか?」
「それは俺も知らないな。やっぱり何かあるんですか?」
むくり、とアサザが顔を上げる。アオイは軽く苦笑した。
「本当はこれも秘密なんだけど。まあいいかな」
模範解答じゃないけどね、とアサザに片目をつぶって見せて、アオイは言葉を継ぐ。
「中立地帯はね、実はすごく重要な役割を持っているんだ。皇帝領と国王領の間に人口や生産力などの差はほとんどない。でも、実際には皇帝の方が大きな力を持っている。何故かな?」
少し考えて、アサザが答える。
「皇帝が中立地帯を治めているから、ですか」
「そう。皇帝は中立地帯を管理することで国王との力の差を作っている。実質この国を治めているのが皇帝である以上、これは仕方ないことだろう。けれど約定では、今回のように皇帝に落ち度があった場合に中立地帯が国王側に味方する権利を事実上認めている」
「……ってことは要するに?」
「中立地帯はこの国を治める上での鍵になるってことさ。中立地帯を味方にした方が支配権を持つことになるのだからね」
呆然とする弟たちにアオイは底の見えない笑みを向ける。
「中立地帯の存在理由は両都お互いの牽制に必要な均衡の分銅であること。コウリはね、中立地帯が王都についた今なら皇都より力は上、と言いたかったんだよ」
「……怖い人ですね……」
半泣きでアカネが言う。
「そんな物騒なことを聞いただけで見抜いちまう兄上の方が俺は怖ぇ……」
がたがた震えているアサザににっこり笑いかけて、アオイは再び窓に目を向けた。
「ふふ。でも、父上もこの程度のことには気づいてたはずだけどね」
小さく溜息をついて、アオイは口の中で呟いた。
「一体何をお考えなのです。こんな下策を取られるなど貴方らしくもない……」
窓からぬるい風が吹き込んでくる。暑い夏がすぐそこに迫っていた。
「……兄上、聞いてますか?」
アカネの声に、アサザは我に返った。心持ち頬を膨らませている弟に、アサザは慌てて頷いて見せた。
「あ、ああ、ちゃんと聞いてるさ。その、コウリとかいう奴がお前に地理の講義をしてくれたんだったよな?」
「その話はずっと前に終わりましたよ。今、父上が退出なさったところまでお話したところです」
「あ、そうだったか。悪い悪い」
アサザの答えに、アカネは今度こそ見間違いようのない膨れっ面を作る。
「まあまあアカネ。アサザもここしばらく忙しかったから疲れてるんだよ」
そっぽを向いてしまった末弟を、苦笑しながらアオイがなだめる。
「今日の謁見にだって、勉強がたくさんあったからアサザは行けなかっただろう? もっとも、アサザにしてみればそっちの方が楽だったかもしれないけれど。特に最近は苦戦しているみたいだしね」
「兄上が厳しすぎるんですよ。まったく、皇太子なんてロクなもんじゃないな。覚えることばかり多くて嫌になる」
大仰に顔をしかめて、アサザは肩をすくめた。
「もっとも、兄上のお体がちっとも良くならない訳が分かったような気はしますけどね。あんな面倒なことを次から次へと詰め込まれちゃ、誰だってどうにかなっちまうぜ。俺でさえ頭がくらくらするもんな」
「ふふ。でもアサザ、今君に教えていることを私は父上から教わったんだよ? それに比べれば随分とましなんじゃないかな」
「うわ、俺は絶対ごめんですね」
あさっての方を向いたまま、アカネが吹き出した。顔を見合わせて兄二人も笑い出す。ひとしきり笑った後、アカネはアオイに向き直った。機嫌はすっかり直ったようだ。
「そういえば兄上様、僕は兄上ほど勉強をサボったつもりはないんですが」
「何ぃ?」
伸ばされたアサザの腕をひょいと避けて、アカネは続ける。
「今回の父上と使者との話ではいくつも分からないことがあって、正直すごく切なかったんです」
「……どうでもいいがお前、そんなしゃべり方誰に習ったんだ?」
「ほんとにどうでもいいですね。誰でもいいじゃないですか。とにかく」
何とかして自分を捕まえようとするアサザの手を器用にかわしながら、アカネはアオイの瞳を見た。
「使者は僕が第三皇子だから知らなくても仕方ないという感じのことを言ってましたし、父上もそれを否定しませんでした。そりゃうちは皇帝という名のつく家ですから、父上や後継ぎだった兄上様しか知らないことがあるのは仕方ないのかもしれませんが、今回の僕のように知らなかったことで皇帝領に不利になることがあるのなら、そういう秘密はどうかと思うんです」
「偉そうに言ってるがアカネ、単にダシにされたのが面白くないだけなんじゃないのか?」
「そっ……そんなことありませんよ!」
じゃれ合う弟たちに細まっていたアオイの目が、ふと真剣になった。
「アカネの言うことはもっともだよ。けれどね、すべての人と秘密を共有するには、この国はちょっと複雑すぎるんだ」
懲りずにアカネを追いかけていたアサザの手が止まる。笑いを引っ込めた弟たちの視線を感じながら、アオイは目を閉じた。
「そもそも皇帝と国王、二人の統治者が存在するこの国のあり方はとても不自然なんだ。危うい均衡を保ちながら体制を維持するためには、どうしても工夫がいる」
「それが……秘密だというんですか」
アオイは頷く。その頬に赤みがさしている。息もわずかに弾んでいた。
「兄上、続きは俺が話します。少し休んでください」
アサザの言葉にアオイは微笑んだ。
「そうだね。それじゃ、試験代わりにやってもらおうかな」
「……合格点をもらえるよう、努力はしますよ」
アオイが枕に背を預けたのを確認して、アサザはアカネへ振り返った。
「えーと、今の状態を続けるための工夫の話だったな。どう説明すればいいかなあ」
がりがりと頭をかいてから、アサザは口を開いた。
「アカネ、お前は俺の部屋で生き物——例えば蛇を見つけた時、どうする?」
「蛇ですか? そうですね、とりあえず兄上にどうしたのか、捨ててもいいものなのかを訊きますよ」
アサザは頷く。
「ま、それが正解だろうな。捨てていいか分からんものを不用意に逃がしたら後で怒られるかもしれん。大事な預かり物だったり、強力な毒蛇だったりする可能性もない訳じゃない」
毒蛇、という言葉にアカネが小さく笑う。
「おいおい、笑い事じゃないぞ。逃がした後に実は今のは毒蛇だ、このままだと大変なことになる、なんて言われたら俺は勿論お前も困っちまう。そうだろう?」
「まあ、そうですが……」
「けれどそんな困った事態も、お前がこの蛇は捨ててもいいものなのか、一言俺に確認すれば防げたはずだ。主の俺が知らないものが部屋にあるってことは考えにくいんだからな」
「僕は時々部屋で見覚えのないものを発掘しますけど」
アカネの言葉にアオイが吹き出す。恨めしげに二人を見て、アサザは咳払いをした。
「とにかくだ。お前の小汚い部屋ならともかく、必ず整理されてなければならないものってのは世の中にはいくらでもある。国王との約定も、その一つだ」
アサザの眉間にしわが寄る。本人はいかめしい表情を作っているつもりらしい。
「約定の項目を皇帝と国王は必ず覚えとかなきゃならん。ま、当然だけどな。これを知らなきゃ、お互いやっていいことと悪いことの区別さえつけられん。だから皇太子や王太子にもこの約定は徹底的に叩き込まれる。……何を笑ってるんですか兄上」
「いや別に……さっきまでの君の苦戦っぷりを思い出しただけだよ」
兄に軽く睨みをくれて、アサザは弟に視線を戻した。
「約定の詳細を知る者は、皇帝領には原則として皇帝と皇太子しかいない。国王側では国王と王太子、それに一部の側近の貴族が王太子への教授役として知ることを許されているらしい。コウリって奴は多分レンの——国王の先生だったんだろうな」
アカネは頷く。
「僕が知りたいのはそこなんです。なぜそんなに限られた人にしか約定は教えられないんですか」
「他の奴らが毒蛇を逃がしちまうのを防ぐためさ」
にやり、とアサザは笑う。
「俺は別に、意味なくさっきの話をしたわけじゃないぜ。皇帝と国王、二人の主を持つ部屋の中で蛇が出た。放っておいてもいいのか、捕まえるべきなのか自分では判断できん。捕まえ方も分からんしな。こういう場合は部屋の主にどうすべきか聞くのが一番だろう? 主は、少なくとも蛇への対処法は知っているはずだ」
「それなら、皆に蛇に対する知識を教えればいいではありませんか」
アサザは肩をすくめる。
「蛇の種類がいつも同じなら、それでもいいさ。だが蛇は——問題は時と場合によって形や大きさ、模様が全然違う。中途半端な知識で立ち向かわれちゃ、かえって危険だ。だから対処の判断は主である皇帝と国王に任せてもらう。そういう決まりにしているんだ」
「でも」
不満げなアカネにアサザは苦笑した。
「アカネ、なぜ皇帝と国王の周辺だけに知識をとどめておくかってのにはな、もう一つ理由があるんだ」
「え? なんですか」
ちらりとアサザはアオイを振り返った。仕方ない、といった風にアオイが頷く。
「まあ、アカネになら大丈夫だろう。それに、ここで止めたら後でうるさそうだしね」
「むー。二人で納得してないで早く教えてくださいよ」
またしても頬が膨らみはじめている弟に、慌ててアサザは向き直る。
「あ、こっから先は本当なら皇太子だけに教えることだからな。他では絶対言うなよ」
「分かりましたよ。で、もう一つの理由というのは何なんです?」
「戦士と貴族が仲良くならないように、さ」
アカネの目が点になる。
「は? 訳分かりませんよ。何ですかそれ」
「仕方ないな。順番に説明するとだな」
わしわしと自分の髪をかき回しながらアサザは宙を睨んだ。
「いいか? 約定ってのは要するに、皇帝領と国王領が付き合う上での決まりのことだ。だがその決まりを知っているのはほんの一握りの人間、それもそれぞれの頂点にいる連中だけだ。ここまでは問題ないな?」
アカネの首が縦に振られたのを確認して、アサザは続ける。
「一番偉いってことはだ、当然権力を持っている。その中には人を罰することができる種類のものも含まれてる」
「父上の得意技ですね」
アサザの口許に苦味混じりの笑みが浮かぶ。
「ま、とにかくその権力を利用して、皇帝と国王は緊急時以外の戦士と貴族の交流を禁止した。お互いにそれぞれの領土には踏み込まないでおこう、もし見つけたら領主の裁量で罰してもいい、ってな。これが俗に言う不可侵条約だな。ちなみに約定にもちゃんと項目が設けられている」
「不可侵条約は知ってます。違反者が目の前にいますけど」
アサザはぽかり、とアカネの頭を叩いた。
「ヘタに関わりを持つと罰せられるかもしれない。そう考えたらあえて交流しようなんて思わないだろ? だから戦士と貴族の関係はどんどん遠ざかる。お互いに何か言いたいことがあれば、付き合い方を知っている領主——皇帝か国王を頼ればいいんだからな。統治する側から見ても、労せずして下から頼られる構図を作れるわけだ。疎遠になれば問題は未然に防げるし、内部の結束も固められる。まさに一石二鳥だ」
「さっきの説明よりは納得できた気がしますけど……」
叩かれた頭をさすりながらアカネはぼやく。
「何だかなー。権力者ってややこしい上に汚いですねー」
「だろう? 同情するなら代わってくれよ」
「ヤですよ」
「先人の知恵をそんなに嫌うものではないよ」
くすくす笑いながらアオイが言う。顔色は普段通りに戻っている。
「アサザ、ご苦労さま。でも残念、四十点ってとこかな」
「え!? 何でそんなに低いんですか!?」
「話が長い。要点を要領よく伝えてこそ、良い説明と言えるだろう? それにアカネに秘密をしゃべってしまった」
ぐうの音も出ないアサザにアオイは微笑みかけた。
「いつも通り、合格点は八十点だよ。もっと精進しようね」
「……はい」
アカネが手を叩いて笑う。
「さすが兄上様! 兄上様ならきっとあのコウリにも勝てますよ」
「ふふ。私も彼には興味があったんだけどね。残念だよ」
アオイは横手の窓に目を向けた。小さいが丁寧に整えられた庭越しに、厚い木の塀が見える。
その塀のずっと向こう、皇都市街に近い宮に王都からの使者団がいるはずだった。明日一日休養を取った後、王都に帰還する予定になっている。
「そういえば兄上様、さっきの謁見でもう一つ気になったことがあるんですが」
アカネの声に、アオイは注意を部屋の中に戻した。
「ん、何だい?」
「コウリの話の中に、中立地帯が生まれた真の理由というのがあったんですが、うやむやのうちに謁見が終わってしまったので結局わからずじまいだったんです。兄上様はご存知ですか?」
「それは俺も知らないな。やっぱり何かあるんですか?」
むくり、とアサザが顔を上げる。アオイは軽く苦笑した。
「本当はこれも秘密なんだけど。まあいいかな」
模範解答じゃないけどね、とアサザに片目をつぶって見せて、アオイは言葉を継ぐ。
「中立地帯はね、実はすごく重要な役割を持っているんだ。皇帝領と国王領の間に人口や生産力などの差はほとんどない。でも、実際には皇帝の方が大きな力を持っている。何故かな?」
少し考えて、アサザが答える。
「皇帝が中立地帯を治めているから、ですか」
「そう。皇帝は中立地帯を管理することで国王との力の差を作っている。実質この国を治めているのが皇帝である以上、これは仕方ないことだろう。けれど約定では、今回のように皇帝に落ち度があった場合に中立地帯が国王側に味方する権利を事実上認めている」
「……ってことは要するに?」
「中立地帯はこの国を治める上での鍵になるってことさ。中立地帯を味方にした方が支配権を持つことになるのだからね」
呆然とする弟たちにアオイは底の見えない笑みを向ける。
「中立地帯の存在理由は両都お互いの牽制に必要な均衡の分銅であること。コウリはね、中立地帯が王都についた今なら皇都より力は上、と言いたかったんだよ」
「……怖い人ですね……」
半泣きでアカネが言う。
「そんな物騒なことを聞いただけで見抜いちまう兄上の方が俺は怖ぇ……」
がたがた震えているアサザににっこり笑いかけて、アオイは再び窓に目を向けた。
「ふふ。でも、父上もこの程度のことには気づいてたはずだけどね」
小さく溜息をついて、アオイは口の中で呟いた。
「一体何をお考えなのです。こんな下策を取られるなど貴方らしくもない……」
窓からぬるい風が吹き込んでくる。暑い夏がすぐそこに迫っていた。
黄色い草原を渡る熱風が中立地帯自警団が本拠にしている岩山にもぶつかる。風は斜面を駆け上がり、岩をくり抜いただけの窓に掛けられた布を揺らした。目の前まで舞い上がった布を指先で捕まえたシオンは、少し顔をしかめて椅子から立ち上がった。
「もう乾いちゃってる。今日も暑いから……」
ぶつぶつ言いながらシオンは布を外し、用意してあった水桶に浸した。ざっと絞って元通り窓辺に吊るす。それだけで部屋に入る風は随分涼しくなった。
小さく息を吐いて、シオンは椅子に座り直した。椅子の前には寝台が一台置いてある。シオンは少し身を乗り出して床に伏せている老人の様子を見た。固く閉じられた瞼はぴくりとも動かず、老人が目を覚ます気配はない。
「長——」
もう三日、目を開いていない養い親にシオンは呼びかけた。握った手も半年以上の病床生活でかつての力強さを失い、今にも折れそうな枯れ枝のようだ。老い、病んだその顔からは生気が感じられない。その顔を濡らした布で拭くシオンの顔にも、いつもの元気は見られなかった。
背後で、ばさりと布が動く音がした。
「長の様子はどうだ」
シオンが振り返った先には旅装を纏ったススキがいた。戸板代わりの布を土埃で汚れた腕で払い、足音を立てずに病床に近づく。
「変わらないわ。ずっと眠ってる」
「そうか」
老人を見下ろすススキをシオンは見上げる。病室の空気にかすかに焦げ臭い匂いが混じっていた。
「いつ帰ってきたの?」
「ついさっきだ」
数日前に見たときより日に焼けた顔がわずかにしかめられる。
「予想していたよりも……ひどい状況だった」
「……そう」
今年の夏は異常に暑い。例年なら力強い太陽の光と熱、それに時々の土砂降りを吸収して青々とする草原が、今年は枯れている。まず雨が降らない。丁度皇帝領からの援助が再開された頃から二ヶ月近く、大雨どころか通り雨さえ一滴も降っていない。最低限の生活用水は遥か北方の山岳地帯につながる地下水脈から湧く井戸で賄っているが、それも豊かなわけではない。
草原は乾燥しきっていた。そこへ容赦のない夏の日差しが照りつける。
当然のように野火が出た。ただでさえ水不足の人々にできるのは、せいぜいが火元周辺の草刈りと避難、それに自警団への連絡くらいのものだった。自警団にしても方々で上がる火の手全てに対応できるわけもなく、被災地の視察と物資の支給を兼ねての代表者派遣以外の活動はできないのが現状だった。
そんな中、特にススキは本拠地にいるより視察に出ている日の方が多いほどに中立地帯中を駆け回っていた。自警団長代理としての休む間もない日々に、随分と疲れも溜まっているはずだ。それでも今、シオンの横に立つススキは普段と変わらない無表情で黙っている。それは下手な言葉で簡単にねぎらわれたりすることを拒んでいるようにも見えた。
「そういえば、ウイキョウはどうしたの? 一緒に出てったじゃない」
「スギとの連絡を取らせている。そろそろ定期報告の時期だったからな」
そう、とだけ言ってシオンは窓の外に目を向けた。丁度その方向に皇都はある。
「スギは皇都育ちだ。ましてここ数年で随分と場数も踏んでいる。無駄な心配はするな」
皇帝領や国王領から見れば、中立地帯は双方の警備の行き届かない無法地帯も同然の土地だ。事実、どちらかの領主の下で罪を犯した者は、多くが逃亡先に中立地帯を選ぶ。広大な草原に紛れてしまえば、追っ手は約定に阻まれて追跡できなくなる。自警団もそんな者どもを黙認していた。中立地帯に害がない限り、自警団が動く理由もない。
十年程前に、まだ少年だったスギも皇都から逃れてきた。詳しい経緯は分からないが、何らかの事件に巻き込まれたらしい少年を長は本拠地に引き取ったのだった。
その事情を知っているシオンは不機嫌にわかってるわよ、と言い返す。
「あんたのそーゆートコが直ったら、自慢のおにーちゃんって呼んであげてもいいのにね」
「悪いが直す気もそのように呼ばれる気もない」
にべもないススキの返事にシオンが頬を膨らませた時、部屋の外から声が掛かった。
「失礼する」
大きな身体を窮屈そうに縮めながら入ってきたのはウイキョウだった。長の方に丁寧に一礼した後、ススキに向き直る。
「スギとのつなぎは取れたか」
はっ、と短く答え、ウイキョウは報告を始める。
「皇帝領にもこの暑さの影響が出ているようです。北部穀倉地帯は水不足と高温で少なからず被害を受けており、不作を見越した商人たちによって食糧全体が値上がりしているそうです」
ススキの顔に苦いものが走る。
「ようやく援助が再開したものを……国王領の方はどうだ」
「レンからの手紙には特に何も書いてなかったよ。南部には湖が多いから、そこから水を引いているのかも」
ウイキョウの代わりにシオンが答える。
「軍は? 皇帝軍はどうしている?」
「今のところは目立った動きなしとのこと。ですがこの先もそれが続くかは……」
ススキが頷く。
「では、こちらもできる限りの食糧を確保しよう。どちらにせよ、この冬に食糧が足りなくなるのは確実だ。自領の分にさえ困っている皇帝領がこちらにまで回すとは考えにくい」
「それでは国王領からも仕入れを?」
「ああ。早速知り合いの商人を当たって——」
「ちょっと待ってよ!」
二人の会話にひやりとしたものを感じて、シオンは慌てて割り込んだ。
「国王領から仕入れるのはまずいわよ。また皇帝に難癖つけられるかもしれないわ」
「今回は正式な売買取引だ。援助ではないのだから文句はつけられまい」
「そんな理屈が通じる相手じゃないってことくらい分かってるでしょ? 絶対口実にしてくるわよ、あいつ」
「その時はその時だ。どの道皇帝も食糧不足でろくに軍を動かせまい」
「でもっ……!」
はっとシオンは言葉を飲み込んだ。シオンの視線を追うように長の床に向けられた男二人の目が大きくなる。そこには枯れきった腕が一本、口論を止めるかのように掲げられていた。
「やめよ。シオン、ススキ」
「長っ……」
萎えた手が折れそうなほど強いシオンの握力に応えて、老人は弱い笑みを浮かべた。
「いつから起きて?」
「今さっきだがな。枕元であれだけ騒がれては寝るに寝られんよ」
軽口をススキに返しつつ、老人はその後ろに立つ巨漢に目を向ける。
「ウイキョウよ、わしにはもうあまり時間がないようだ。すまんが、これから言い残すことの立会人に、なってくれんか」
最後の方は切れ切れになった言葉に、ウイキョウは強く頷いた。目元だけで笑って、老人は呼吸を整える。
「ススキよ」
返事の変わりにススキは老人の顔を覗き込む。
「今まで、わしの代理としての務め、苦労であった」
小さく、ススキは頷く。
「皇帝との、戦は、起こりそうか?」
「今後の対応次第では」
わずかの間、考え込むように老人は目を閉じた。
「ならば今後、おぬしは次の長を助け、これまで通り自警団の副長として務めを果たせ」
「なっ……」
ススキはわずかに眉を上げただけ、驚きの声は別の口から上がった。
「長! なんでススキが次の長じゃないのよ!」
身を引いたススキの位置に素早く入り込んで、シオンは涙目で老人に訴える。
「ススキ以外に誰が次の長をやれるっていうのよ。ススキ以外じゃ誰も長なんて納得しないわ」
「……それはどうかのう」
老人はそっとシオンの頭に手を乗せた。乱れた息を整えながら、次の言葉を紡ぎ出す。
「武に秀でた者は、武に頼る。それがたとえ、最善の解決策でなくともな」
実の子供に向けるような慈愛に満ちた目を、老人はススキに向けた。
「常の時ならばそれでも良い。牽制しあうことで避けられる争いもあろう。だが」
老人の呼吸が早くなっている。
「争いになりそうな時にそのような者が立つと、戦以外の選択肢は見えなくなってしまう。戦とは、回避するべき全ての方策を尽くした後に、ようやく選ばれる手段でなければならんのだ」
ウイキョウに、ススキに、シオンに、順番に老人の目が向けられる。
「シオン、お前なら、これから先、戦以外の道が、見つけられるかもしれぬ」
「何を言ってるのよ長、そんなこと……」
老人の手が強くシオンの手を握る。
「次の長はおぬしだよ、シオン」
頼んだぞ、と言った老人の手から、嘘のように力が抜け落ちた。もう涙を隠そうともしていないシオンが必死に老人の手を揺さぶる。
「長! 長ッ!!」
老人の瞼が薄く開けられた。
「遺言は、終わったぞ。あとは、おぬしらに、任せる——」
ゆっくりと老人の目が閉ざされる。最期の呼気がシオンの嗚咽に混じって耳に届いた時、ウイキョウは目を伏せ、ススキは長に向けて頭を下げた。
——これから、忙しくなる。
養父を失った悲しみをひとまず脇において、ススキは先のことに思いをめぐらせた。
長の代替わりを、国王に知らせなければならない。当然皇帝にもだが、ここに小さくはない問題があった。
「”山の民”……」
はっとウイキョウが顔を上げる。目配せだけして、ススキは身を翻して部屋の出口へと向かった。ひとまずは多忙の幕開けとして、彼は本拠地の者に長の代替わりを伝えねばならなかった。
「もう乾いちゃってる。今日も暑いから……」
ぶつぶつ言いながらシオンは布を外し、用意してあった水桶に浸した。ざっと絞って元通り窓辺に吊るす。それだけで部屋に入る風は随分涼しくなった。
小さく息を吐いて、シオンは椅子に座り直した。椅子の前には寝台が一台置いてある。シオンは少し身を乗り出して床に伏せている老人の様子を見た。固く閉じられた瞼はぴくりとも動かず、老人が目を覚ます気配はない。
「長——」
もう三日、目を開いていない養い親にシオンは呼びかけた。握った手も半年以上の病床生活でかつての力強さを失い、今にも折れそうな枯れ枝のようだ。老い、病んだその顔からは生気が感じられない。その顔を濡らした布で拭くシオンの顔にも、いつもの元気は見られなかった。
背後で、ばさりと布が動く音がした。
「長の様子はどうだ」
シオンが振り返った先には旅装を纏ったススキがいた。戸板代わりの布を土埃で汚れた腕で払い、足音を立てずに病床に近づく。
「変わらないわ。ずっと眠ってる」
「そうか」
老人を見下ろすススキをシオンは見上げる。病室の空気にかすかに焦げ臭い匂いが混じっていた。
「いつ帰ってきたの?」
「ついさっきだ」
数日前に見たときより日に焼けた顔がわずかにしかめられる。
「予想していたよりも……ひどい状況だった」
「……そう」
今年の夏は異常に暑い。例年なら力強い太陽の光と熱、それに時々の土砂降りを吸収して青々とする草原が、今年は枯れている。まず雨が降らない。丁度皇帝領からの援助が再開された頃から二ヶ月近く、大雨どころか通り雨さえ一滴も降っていない。最低限の生活用水は遥か北方の山岳地帯につながる地下水脈から湧く井戸で賄っているが、それも豊かなわけではない。
草原は乾燥しきっていた。そこへ容赦のない夏の日差しが照りつける。
当然のように野火が出た。ただでさえ水不足の人々にできるのは、せいぜいが火元周辺の草刈りと避難、それに自警団への連絡くらいのものだった。自警団にしても方々で上がる火の手全てに対応できるわけもなく、被災地の視察と物資の支給を兼ねての代表者派遣以外の活動はできないのが現状だった。
そんな中、特にススキは本拠地にいるより視察に出ている日の方が多いほどに中立地帯中を駆け回っていた。自警団長代理としての休む間もない日々に、随分と疲れも溜まっているはずだ。それでも今、シオンの横に立つススキは普段と変わらない無表情で黙っている。それは下手な言葉で簡単にねぎらわれたりすることを拒んでいるようにも見えた。
「そういえば、ウイキョウはどうしたの? 一緒に出てったじゃない」
「スギとの連絡を取らせている。そろそろ定期報告の時期だったからな」
そう、とだけ言ってシオンは窓の外に目を向けた。丁度その方向に皇都はある。
「スギは皇都育ちだ。ましてここ数年で随分と場数も踏んでいる。無駄な心配はするな」
皇帝領や国王領から見れば、中立地帯は双方の警備の行き届かない無法地帯も同然の土地だ。事実、どちらかの領主の下で罪を犯した者は、多くが逃亡先に中立地帯を選ぶ。広大な草原に紛れてしまえば、追っ手は約定に阻まれて追跡できなくなる。自警団もそんな者どもを黙認していた。中立地帯に害がない限り、自警団が動く理由もない。
十年程前に、まだ少年だったスギも皇都から逃れてきた。詳しい経緯は分からないが、何らかの事件に巻き込まれたらしい少年を長は本拠地に引き取ったのだった。
その事情を知っているシオンは不機嫌にわかってるわよ、と言い返す。
「あんたのそーゆートコが直ったら、自慢のおにーちゃんって呼んであげてもいいのにね」
「悪いが直す気もそのように呼ばれる気もない」
にべもないススキの返事にシオンが頬を膨らませた時、部屋の外から声が掛かった。
「失礼する」
大きな身体を窮屈そうに縮めながら入ってきたのはウイキョウだった。長の方に丁寧に一礼した後、ススキに向き直る。
「スギとのつなぎは取れたか」
はっ、と短く答え、ウイキョウは報告を始める。
「皇帝領にもこの暑さの影響が出ているようです。北部穀倉地帯は水不足と高温で少なからず被害を受けており、不作を見越した商人たちによって食糧全体が値上がりしているそうです」
ススキの顔に苦いものが走る。
「ようやく援助が再開したものを……国王領の方はどうだ」
「レンからの手紙には特に何も書いてなかったよ。南部には湖が多いから、そこから水を引いているのかも」
ウイキョウの代わりにシオンが答える。
「軍は? 皇帝軍はどうしている?」
「今のところは目立った動きなしとのこと。ですがこの先もそれが続くかは……」
ススキが頷く。
「では、こちらもできる限りの食糧を確保しよう。どちらにせよ、この冬に食糧が足りなくなるのは確実だ。自領の分にさえ困っている皇帝領がこちらにまで回すとは考えにくい」
「それでは国王領からも仕入れを?」
「ああ。早速知り合いの商人を当たって——」
「ちょっと待ってよ!」
二人の会話にひやりとしたものを感じて、シオンは慌てて割り込んだ。
「国王領から仕入れるのはまずいわよ。また皇帝に難癖つけられるかもしれないわ」
「今回は正式な売買取引だ。援助ではないのだから文句はつけられまい」
「そんな理屈が通じる相手じゃないってことくらい分かってるでしょ? 絶対口実にしてくるわよ、あいつ」
「その時はその時だ。どの道皇帝も食糧不足でろくに軍を動かせまい」
「でもっ……!」
はっとシオンは言葉を飲み込んだ。シオンの視線を追うように長の床に向けられた男二人の目が大きくなる。そこには枯れきった腕が一本、口論を止めるかのように掲げられていた。
「やめよ。シオン、ススキ」
「長っ……」
萎えた手が折れそうなほど強いシオンの握力に応えて、老人は弱い笑みを浮かべた。
「いつから起きて?」
「今さっきだがな。枕元であれだけ騒がれては寝るに寝られんよ」
軽口をススキに返しつつ、老人はその後ろに立つ巨漢に目を向ける。
「ウイキョウよ、わしにはもうあまり時間がないようだ。すまんが、これから言い残すことの立会人に、なってくれんか」
最後の方は切れ切れになった言葉に、ウイキョウは強く頷いた。目元だけで笑って、老人は呼吸を整える。
「ススキよ」
返事の変わりにススキは老人の顔を覗き込む。
「今まで、わしの代理としての務め、苦労であった」
小さく、ススキは頷く。
「皇帝との、戦は、起こりそうか?」
「今後の対応次第では」
わずかの間、考え込むように老人は目を閉じた。
「ならば今後、おぬしは次の長を助け、これまで通り自警団の副長として務めを果たせ」
「なっ……」
ススキはわずかに眉を上げただけ、驚きの声は別の口から上がった。
「長! なんでススキが次の長じゃないのよ!」
身を引いたススキの位置に素早く入り込んで、シオンは涙目で老人に訴える。
「ススキ以外に誰が次の長をやれるっていうのよ。ススキ以外じゃ誰も長なんて納得しないわ」
「……それはどうかのう」
老人はそっとシオンの頭に手を乗せた。乱れた息を整えながら、次の言葉を紡ぎ出す。
「武に秀でた者は、武に頼る。それがたとえ、最善の解決策でなくともな」
実の子供に向けるような慈愛に満ちた目を、老人はススキに向けた。
「常の時ならばそれでも良い。牽制しあうことで避けられる争いもあろう。だが」
老人の呼吸が早くなっている。
「争いになりそうな時にそのような者が立つと、戦以外の選択肢は見えなくなってしまう。戦とは、回避するべき全ての方策を尽くした後に、ようやく選ばれる手段でなければならんのだ」
ウイキョウに、ススキに、シオンに、順番に老人の目が向けられる。
「シオン、お前なら、これから先、戦以外の道が、見つけられるかもしれぬ」
「何を言ってるのよ長、そんなこと……」
老人の手が強くシオンの手を握る。
「次の長はおぬしだよ、シオン」
頼んだぞ、と言った老人の手から、嘘のように力が抜け落ちた。もう涙を隠そうともしていないシオンが必死に老人の手を揺さぶる。
「長! 長ッ!!」
老人の瞼が薄く開けられた。
「遺言は、終わったぞ。あとは、おぬしらに、任せる——」
ゆっくりと老人の目が閉ざされる。最期の呼気がシオンの嗚咽に混じって耳に届いた時、ウイキョウは目を伏せ、ススキは長に向けて頭を下げた。
——これから、忙しくなる。
養父を失った悲しみをひとまず脇において、ススキは先のことに思いをめぐらせた。
長の代替わりを、国王に知らせなければならない。当然皇帝にもだが、ここに小さくはない問題があった。
「”山の民”……」
はっとウイキョウが顔を上げる。目配せだけして、ススキは身を翻して部屋の出口へと向かった。ひとまずは多忙の幕開けとして、彼は本拠地の者に長の代替わりを伝えねばならなかった。
厳冬の皇宮、皇帝の執務室にアザミの冷え冷えした声が響く。
「やはり中立地帯への援助は中止だ。担当の第三皇子にそう伝えろ」
「陛下ッ!!」
座っていた椅子を蹴り倒してアサザは立ち上がった。はずみで目の前の机に載った書類の山が雪崩を起こしたが、それには構わずに身を翻して奥の皇帝の執務机に向かう。
ここ数日、政務が重なり忙しかったせいで自分の宮にも帰っていない。しっかりした睡眠も取っていないため、目の下には濃くくまが浮いている。そんな姿のアサザの激しい剣幕に、指示を伝えようと退出しかけた侍従官がびくりと立ち止まった。左足を出しかけたまま固まっている侍従官の前を足音も荒く通り過ぎ、アサザは父帝の机に手のひらを叩きつける。代々の皇帝が使ってきた重厚な執務机がばん、と派手な音を立てた。
「ちょっと待って下さい。分かっているでしょうが、皇帝領からの食糧援助は中立地帯にとっては生命線なのですよ! そんな大問題をこんなに軽々しく決定して良いのですか! もっとよく考えてから——」
「皇都の戦士どもの給料は減らした。皇家の予算も削った。それでも皇帝領にさえ食が足りぬ。議論だの再考だのの余地はない」
ばさり、とアザミは手にした紙束を机の上に放り出した。そこにはアサザの机とは比較にならないほどたくさんの書類が積まれている。そのうちの一束を手に取ったアザミはすばやく文面に目を走らせる。アザミとてアサザと大差ない数日間を過ごしてきたはずだが、その速度は普段とほとんど変わっていない。
「それともお前は、自領を飢えさせても中立地帯へ援助を送れと言うのか?」
言葉に詰まったアサザはぐっと黙り込んだ。アザミの横顔を睨みつけていたその目が、ふと机の一点に向けられる。崩れかけた書類の山のてっぺんで、今にもずり落ちそうになっている紙束。先程アザミが放り出したまま半分めくれているそれを何とはなしに見たアサザの目がはっと大きくなる。
「これは……領内の食糧配分表!?」
アサザは紙束を掴み取り、慌ただしく頁をめくった。その手がぴたりと止まる。広げられた書類の一点を見つめるアサザの目に、わずかな光が宿った。
「軍に回す備蓄分が去年と変わってない。これを減らして不足分に充てれば……」
「馬鹿者が。それはできん」
アサザを一顧だにせずアザミが言う。
「近いうちに中立地帯では反乱が起きるのだからな」
「なっ……それはどういうことですか!」
「わからんのか?」
そう言ったアザミはようやくにアサザをじろりと睨み上げた。
「半年と少し前に再開されたばかりの援助を、また皇帝領の都合で止められるのだ。血の気の多い自警団が黙っているはずがなかろう」
斬りつけるようなアザミの眼光に怯みながら、それでもアサザは続ける。
「だったらなおさら止めるわけにはいかないでしょう。無用な争いは避けるべきです」
「偉そうなことを言う前に、もう一度その資料をよく見たらどうだ」
これ以上構ってられないとばかりにアサザから目を逸らし、アザミは手元の紙に何やら書き付けた。
「中立地帯は広い。たとえ今すぐ軍を解散して食糧を回したとしても援助分に足りるかどうか。援助援助とお前は簡単に言うが、そもそも中立地帯へ送る食糧は我が領の収穫の半分以上を占めているのだ。まして今年は酷暑の夏に早すぎる秋、厳しい冬が続いている。収穫量は去年の半分以下だ。そんな状況で他人の面倒までは見てられぬ」
アザミは顔を上げ、侍従長、と短く呼ぶ。飛んできた初老の男に手にした紙を突きつけ、アザミは鋭く命令を出す。この間、アサザには目もくれない。
「聞いての通りだ。反乱に備えて軍の再編をする。将帥に使えそうな者を調べてこい。もっとも、そう何人もいないだろうがな」
「しっ……!」
アサザは目を丸くした。
「陛下、将帥職は戦時にしか置かれない軍の最高役職ではないですか。こんな時期にそんなものが置かれたことが自警団に知られたら——」
「ふん。どうせ事は起こるのだ。同じことよ」
アサザはぎり、と奥歯を噛んだ。
「そんなこと——俺が、させません」
失礼します、と言い捨てて、アサザは足音高く執務室を出た。まだおろおろしていた最初の侍従官を睨みつけ、部屋から出ないよう威嚇してから扉を閉める。
しかし実際問題として、ああは言ったものの具体的にどうすればいいのかは全くわからない。執務室より数段冷え込みの厳しい廊下を歩きながら、アサザは苦い顔になった。
「くそっ……」
こういう時に誰よりも頼れるのはアオイだ。しかし病弱な兄はあの酷暑と早すぎる冬の到来でずっと体調を崩している。最近は病状も随分と落ち着いたが、それでも寝たり起きたりの生活が続いていた。精神的な負担はできるだけ避けるべき時、まして軍がらみの生臭い相談に乗ってもらえるような状態ではない。
熱くなった頭のままアサザは執務室のある宮を出、兄弟で住む自分の宮へと足を向けていた。兄上の体調が良かったら話だけでも聞いてもらおう、そう考えながら住み慣れた宮の門をくぐった時だった。
「——アサザ?」
横合いからいきなり声をかけられて、アサザは足を止めた。皇太子という身分になってから、アサザを呼び捨てにする人物は数えるほどしかいない。やはり、手入れの行き届いた前庭でアカネと一緒に立っていたのは、アサザにとってもなじみのある顔だった。
「ブドウ? 来てたのか」
軽く手を上げて応えたのは、アサザとそう背丈の変わらないほどに背の高い女性だった。褐色に焼けた肌に覆われた引き締まった身体が、今は動きやすい普段着と簡単な革鎧に包まれている。二十二歳という若い女性ながら板についたその姿は、さすがは平時における皇帝軍最高職にあたる副将帥を拝命している生粋の軍人というべきか。右手に持った木剣を見るに、どうやらアカネに稽古をつけているところだったらしい。
「久しぶりだな。元気かどうかは……聞くだけムダか」
「まーね。あんたこそ大丈夫かい? 慣れない公務で苦労してるだろ」
冬の午後の冷たい風の中にもかかわらず汗に濡れた赤茶の短髪を拭いながら、ブドウは若葉色の瞳をにや、と笑わせる。
「皇帝陛下のことは昔っから苦手にしてたからねぇ。ある意味私より手ごわい相手だろ?」
「まったくだ。お前相手に一本取るほうがどんなに楽か知れないぜ」
アサザは大げさに顔をしかめてみせた。それを見てブドウはからからと笑う。
「正直な奴だな。ま、全然変わってないようで安心はしたけどね」
「お前こそ全然変わってないな。ちょっとは変わらんと嫁の貰い手がなくなるぞ。そろそろいい歳なんだから」
「こんにゃろ、ほっといてくれよ」
口では怒ったように言っても、その言葉の中には常に笑いが含まれている。以前と変わらないブドウの態度に、いつの間にかアサザも執務室でのもやもやを忘れていた。特に何をするわけでもないのだが、ブドウの傍はいつも居心地がいい。だからこそアサザを含めた兄弟全員が仲良くやっていけるのだろう。
ブドウは皇帝領の戦士の中でも二番目に位が高い家柄・グースフット家の出身だ。赤茶の髪と若葉色の瞳はその血筋を濃く映し出している。黒髪黒目の人々が大半のこの島国では、ブドウのような姿はかなり目立つ。外来の祖先を持つ証左でもある色つきの髪や瞳はこの国ではとても少なく、特別な扱いを受ける一族が多い。その代表的な例が王家であると言える。
グースフット一族の場合は、初代戦士アカザの右腕として活躍した同名の猛将が始祖にあたる。王家による島国の統一以来、後の皇帝家に寄り添うように続いてきた家柄だ。いわば皇帝家の生粋の家臣であるわけだが、アサザとブドウの間にはそんな堅苦しいものは存在しない。
平たく言うなら、好敵手だった。お互いがお互いにだけ、一回も勝てたことがない。手合わせはいつも引き分けだった。その実力は双方認め合うところ、いつしか意気投合した二人の交流はアサザの兄弟も含めたものに発展していた。
「それはそうとアサザ、アカネがな……」
秘密を打ち明けるようにブドウが声を低くした。
「街の酒場の話をしてから、連れてってくれってうるさいんだよ。どうにかしてくれないか」
何を相談されるのかと思いきや。アサザは呆れ顔を隠さずにブドウの顔を見た。
「んなこといわれても……そもそもお前がそんなコト話すから悪いんだろうが」
「あっブドウ、それは兄上たちには秘密だって約束したじゃないか!」
猛抗議を始めたアカネの頭をアサザはぽんぽんと叩く。
「こら、お前には酒場なんざ十年早い。まだガキなんだからな」
「そういう兄上はどうなんです。知ってるんですよ、兄上が十四の時に倉の食べ物と酒かっぱらって家出未遂を起こしたこと」
「あん時の俺は堂々としてただろが。お前みたいにコソコソ秘密だ何だと言ってるうちはまだまだガキだってんだ。やーい」
「うー」
悔しがるアカネに苦笑して、ブドウはアサザに目を向ける。
「それよりアサザ、何か用事があって帰ってきたんじゃないのか?」
「ああ、そうだった。兄上に会えるなら、ちょっと話がしたかったんだが……ん、どうした?」
何気なく出したアオイの名前にアカネとブドウの顔が曇るのを見て、アサザの胸にも嫌な予感が広がっていく。
「おい、もしかして——」
「ああ。二日前から熱が下がられなくてな。今、お会いすることはできない」
「お前……!!」
すいと目を逸らしたブドウに、アサザは足音荒く詰め寄った。
「二日前だと!? 知ってたなら何で使いをよこさなかった! こないだの夏以来兄上のお加減がずっと悪いのはお前も知ってただろう!!」
「兄上、やめてください! 兄上に知らせなかったのは政務の邪魔をしてはいけないと兄上様がおっしゃったからなんです! ブドウは兄上様が倒れられた日にたまたま遊びに来ていただけなのに、ずっと付き添っていてくれたんですよ!」
腕にすがりついたアカネの身体の重さで、アサザは何とか自制心を保つ。波立った気持ちを鎮めがら、改めてブドウの様子を眺めてみる。うなだれた肩、伏せた瞳。先程は気づかなかったが、その目の下はアサザと同じようにうっすらと黒ずんでいる。気のせいか頬のあたりもやつれているようだ。生粋の軍人であるブドウにとって、病人の看護などという普段やり慣れていない種類の作業は大変だったに違いない。黙ったままアサザの視線を受け止めているブドウの姿を見て、アサザの肩から自然に力が抜けていく。
「……悪かった、ブドウ」
「いいさ、気にするな」
がっくりと落ちたアサザの肩をブドウの手が軽く叩く。
「私もあんたと同じ立場なら多分怒るだろうしね。でもま、よく確認もしないでそれをぶつけるようじゃ、まだまだ大人とは言えないんじゃないかな?」
「なっ……なんで話がそこにつながるんだよ!? 関係ないじゃないか!!」
アサザの抗議をブドウは笑って受け流す。その目がふっと笑いを消した。
「ま、それはともかくだ。アオイ様ほど頼りにはならないかもしれないが、私でよければ話くらいは聞いてやるぞ?」
「そうですよ。僕らだって何かの手助けはできるかもしれないんですからね」
ここぞとばかりにアカネも口を尖らせて自己主張する。
「大体兄上は兄上様に頼りすぎなんです。それはそれで構いませんが、もっと他の人も信用してくれないと寂しいじゃないですか。そんなんじゃ友達だって減っちゃいますよ」
「……アカネ、お前」
アサザはぽかんと弟の顔を見る。
「お前に説教される日が来るとは思わなかったぜ。ったく、カッコ悪ィな」
自分を見つめる二対の真剣な眼差しに、アサザは大きく息を吐いた。ブドウはともかくとして、アカネにまでそこまで言われては、ささいなことで熱くなった自分を恥じざるを得ない。
兄としての威厳を取り戻すべく、アサザはがりがりと頭を掻きながら適当な言葉を探した。
「じゃ、聞いてくれるか。そんなに楽しい話ではないけどな」
そう前置きしてから、アサザは執務室であったことを二人に話した。中立地帯への援助打ち切りを聞いた時にブドウとアカネは顔を見合わせたが、結局最後まで口を挟まずにアサザの話を聞き終えた。
「俺は中立地帯とも国王領とも戦いたくない。だがこのままだと陛下の予測通り反乱は起こってしまうだろう。何とかなる方法はないか、それを今日は相談に来たんだ」
アサザが口を閉ざす頃、アカネの瞳は興奮できらきらしていた。
「……やっぱり兄上様はすごいなぁ。何でもお見通しだ」
「ん? どういうことだ?」
怪訝顔のアサザに我がことのように胸を張ったアカネが答える。
「今回倒れられる直前に、兄上様が同じようなことを言ってらしたんですよ。近いうちにそうなるだろうって」
「私が言うのも何だが、軍が動くことはアオイ様の本意ではないからな」
ブドウも小さく肩をすくめる。
「あの方のお考えは私には解らないが……どうやら今は”山の民”について調べられているようだ。アサザも気をつけておいてくれないか」
予想外の名前にアサザは目をしばたたかせた。
「”山の民”? 兄上は何だってまたそんなところを」
「さあ……まあ、キキョウ様がお亡くなりになられてからは互いにほとんど行き来がなくなっているからな。以前からお気にかけられていたご様子だったし、アオイ様なりに何か思うところがおありなのだろう」
「……確かに、あれ以来ぱったりと皇都では見かけなくなったよな、あそこの一族は」
その言葉が持つ微妙な含みに、ブドウははっと顔を上げた。
「すまん。アサザ、アカネ。失言だった」
「お前が謝る事じゃない」
言葉とは裏腹な感情を押し殺したような平坦な声で、アサザは言う。アカネはわずかに視線を伏せて、聞かないふりをしていた。
「そう……母上のことで謝らなきゃならんのは陛下だけだ」
「アサザ……」
ブドウの気遣わしげな視線を振り切るようにひとつ大きな息を吐いて、アサザは顔を上げた。
「さて。んじゃ俺は一旦部屋に戻るぜ。今言ったことは、もともとそう簡単に結論が出る話でもなし、愚痴だと思って聞き流してくれ。あ、メシの用意ができたら呼んでくれよ」
「あ……ああ」
「アカネも、寒稽古はほどほどにしとけよ。風邪なんか引いたら元も子もないんだからな」
「はーい」
アカネの返事を背中で聞いて、アサザが屋敷へ向かって歩き出した時だった。
「失礼致します。第三皇子殿下はいらっしゃいますか」
聞き覚えのあるその声にアサザが振り返ると、見たことのある顔がちょうど宮の門をくぐるところだった。
「侍従長じゃないか。一体どうしたんだい?」
そう言ったアカネの隣にブドウの姿を見つけて、侍従長は少し驚いたらしい。
「これはこれは。ブドウ殿もおられましたか」
「ああ、まあな」
「これはちょうど良かった。皇帝陛下よりお二人に勅命が下りました。謹んでお受けくださいますよう」
その場の空気に緊張が走った。気弱げな視線でちらりとアサザの顔色をうかがってから、侍従長は手にした二通の書状を広げた。
「そ、それではお読み致します」
「うん、頼む」
頷いたアカネに向けて、侍従長はおどおどと勅書を読み上げる。
「だ……『第三皇子アカネ、この者を皇帝軍将帥の職に任命する』との勅命です。続きまして、ええと……『皇帝軍副将帥ブドウ、この者はその職において新たに置かれた将帥の補佐を行うことを命ずる』とのことです。戦士アカザの名にかけて、偽りの言の無きことを誓うものであります。さ、ご確認を」
勅書を読み上げた後の決まり文句と共に本人たちに示された書状には、確かに読み上げられたものと同じ文面とアザミの署名が書き込まれていた。
「アカネが……将帥だと?」
アサザのかすれた声だけがその場に落ちる。よほど驚いたのか、当人たちに至っては一言もない。
「ちょ……勅命を拒否することはできません。ご存知かとは思いますが、そのことをお忘れなきよう」
一礼してそそくさと侍従長は去っていった。取り残された三人は、早くも夕闇が迫る庭でただ呆然と立ち尽くしていた。
「やはり中立地帯への援助は中止だ。担当の第三皇子にそう伝えろ」
「陛下ッ!!」
座っていた椅子を蹴り倒してアサザは立ち上がった。はずみで目の前の机に載った書類の山が雪崩を起こしたが、それには構わずに身を翻して奥の皇帝の執務机に向かう。
ここ数日、政務が重なり忙しかったせいで自分の宮にも帰っていない。しっかりした睡眠も取っていないため、目の下には濃くくまが浮いている。そんな姿のアサザの激しい剣幕に、指示を伝えようと退出しかけた侍従官がびくりと立ち止まった。左足を出しかけたまま固まっている侍従官の前を足音も荒く通り過ぎ、アサザは父帝の机に手のひらを叩きつける。代々の皇帝が使ってきた重厚な執務机がばん、と派手な音を立てた。
「ちょっと待って下さい。分かっているでしょうが、皇帝領からの食糧援助は中立地帯にとっては生命線なのですよ! そんな大問題をこんなに軽々しく決定して良いのですか! もっとよく考えてから——」
「皇都の戦士どもの給料は減らした。皇家の予算も削った。それでも皇帝領にさえ食が足りぬ。議論だの再考だのの余地はない」
ばさり、とアザミは手にした紙束を机の上に放り出した。そこにはアサザの机とは比較にならないほどたくさんの書類が積まれている。そのうちの一束を手に取ったアザミはすばやく文面に目を走らせる。アザミとてアサザと大差ない数日間を過ごしてきたはずだが、その速度は普段とほとんど変わっていない。
「それともお前は、自領を飢えさせても中立地帯へ援助を送れと言うのか?」
言葉に詰まったアサザはぐっと黙り込んだ。アザミの横顔を睨みつけていたその目が、ふと机の一点に向けられる。崩れかけた書類の山のてっぺんで、今にもずり落ちそうになっている紙束。先程アザミが放り出したまま半分めくれているそれを何とはなしに見たアサザの目がはっと大きくなる。
「これは……領内の食糧配分表!?」
アサザは紙束を掴み取り、慌ただしく頁をめくった。その手がぴたりと止まる。広げられた書類の一点を見つめるアサザの目に、わずかな光が宿った。
「軍に回す備蓄分が去年と変わってない。これを減らして不足分に充てれば……」
「馬鹿者が。それはできん」
アサザを一顧だにせずアザミが言う。
「近いうちに中立地帯では反乱が起きるのだからな」
「なっ……それはどういうことですか!」
「わからんのか?」
そう言ったアザミはようやくにアサザをじろりと睨み上げた。
「半年と少し前に再開されたばかりの援助を、また皇帝領の都合で止められるのだ。血の気の多い自警団が黙っているはずがなかろう」
斬りつけるようなアザミの眼光に怯みながら、それでもアサザは続ける。
「だったらなおさら止めるわけにはいかないでしょう。無用な争いは避けるべきです」
「偉そうなことを言う前に、もう一度その資料をよく見たらどうだ」
これ以上構ってられないとばかりにアサザから目を逸らし、アザミは手元の紙に何やら書き付けた。
「中立地帯は広い。たとえ今すぐ軍を解散して食糧を回したとしても援助分に足りるかどうか。援助援助とお前は簡単に言うが、そもそも中立地帯へ送る食糧は我が領の収穫の半分以上を占めているのだ。まして今年は酷暑の夏に早すぎる秋、厳しい冬が続いている。収穫量は去年の半分以下だ。そんな状況で他人の面倒までは見てられぬ」
アザミは顔を上げ、侍従長、と短く呼ぶ。飛んできた初老の男に手にした紙を突きつけ、アザミは鋭く命令を出す。この間、アサザには目もくれない。
「聞いての通りだ。反乱に備えて軍の再編をする。将帥に使えそうな者を調べてこい。もっとも、そう何人もいないだろうがな」
「しっ……!」
アサザは目を丸くした。
「陛下、将帥職は戦時にしか置かれない軍の最高役職ではないですか。こんな時期にそんなものが置かれたことが自警団に知られたら——」
「ふん。どうせ事は起こるのだ。同じことよ」
アサザはぎり、と奥歯を噛んだ。
「そんなこと——俺が、させません」
失礼します、と言い捨てて、アサザは足音高く執務室を出た。まだおろおろしていた最初の侍従官を睨みつけ、部屋から出ないよう威嚇してから扉を閉める。
しかし実際問題として、ああは言ったものの具体的にどうすればいいのかは全くわからない。執務室より数段冷え込みの厳しい廊下を歩きながら、アサザは苦い顔になった。
「くそっ……」
こういう時に誰よりも頼れるのはアオイだ。しかし病弱な兄はあの酷暑と早すぎる冬の到来でずっと体調を崩している。最近は病状も随分と落ち着いたが、それでも寝たり起きたりの生活が続いていた。精神的な負担はできるだけ避けるべき時、まして軍がらみの生臭い相談に乗ってもらえるような状態ではない。
熱くなった頭のままアサザは執務室のある宮を出、兄弟で住む自分の宮へと足を向けていた。兄上の体調が良かったら話だけでも聞いてもらおう、そう考えながら住み慣れた宮の門をくぐった時だった。
「——アサザ?」
横合いからいきなり声をかけられて、アサザは足を止めた。皇太子という身分になってから、アサザを呼び捨てにする人物は数えるほどしかいない。やはり、手入れの行き届いた前庭でアカネと一緒に立っていたのは、アサザにとってもなじみのある顔だった。
「ブドウ? 来てたのか」
軽く手を上げて応えたのは、アサザとそう背丈の変わらないほどに背の高い女性だった。褐色に焼けた肌に覆われた引き締まった身体が、今は動きやすい普段着と簡単な革鎧に包まれている。二十二歳という若い女性ながら板についたその姿は、さすがは平時における皇帝軍最高職にあたる副将帥を拝命している生粋の軍人というべきか。右手に持った木剣を見るに、どうやらアカネに稽古をつけているところだったらしい。
「久しぶりだな。元気かどうかは……聞くだけムダか」
「まーね。あんたこそ大丈夫かい? 慣れない公務で苦労してるだろ」
冬の午後の冷たい風の中にもかかわらず汗に濡れた赤茶の短髪を拭いながら、ブドウは若葉色の瞳をにや、と笑わせる。
「皇帝陛下のことは昔っから苦手にしてたからねぇ。ある意味私より手ごわい相手だろ?」
「まったくだ。お前相手に一本取るほうがどんなに楽か知れないぜ」
アサザは大げさに顔をしかめてみせた。それを見てブドウはからからと笑う。
「正直な奴だな。ま、全然変わってないようで安心はしたけどね」
「お前こそ全然変わってないな。ちょっとは変わらんと嫁の貰い手がなくなるぞ。そろそろいい歳なんだから」
「こんにゃろ、ほっといてくれよ」
口では怒ったように言っても、その言葉の中には常に笑いが含まれている。以前と変わらないブドウの態度に、いつの間にかアサザも執務室でのもやもやを忘れていた。特に何をするわけでもないのだが、ブドウの傍はいつも居心地がいい。だからこそアサザを含めた兄弟全員が仲良くやっていけるのだろう。
ブドウは皇帝領の戦士の中でも二番目に位が高い家柄・グースフット家の出身だ。赤茶の髪と若葉色の瞳はその血筋を濃く映し出している。黒髪黒目の人々が大半のこの島国では、ブドウのような姿はかなり目立つ。外来の祖先を持つ証左でもある色つきの髪や瞳はこの国ではとても少なく、特別な扱いを受ける一族が多い。その代表的な例が王家であると言える。
グースフット一族の場合は、初代戦士アカザの右腕として活躍した同名の猛将が始祖にあたる。王家による島国の統一以来、後の皇帝家に寄り添うように続いてきた家柄だ。いわば皇帝家の生粋の家臣であるわけだが、アサザとブドウの間にはそんな堅苦しいものは存在しない。
平たく言うなら、好敵手だった。お互いがお互いにだけ、一回も勝てたことがない。手合わせはいつも引き分けだった。その実力は双方認め合うところ、いつしか意気投合した二人の交流はアサザの兄弟も含めたものに発展していた。
「それはそうとアサザ、アカネがな……」
秘密を打ち明けるようにブドウが声を低くした。
「街の酒場の話をしてから、連れてってくれってうるさいんだよ。どうにかしてくれないか」
何を相談されるのかと思いきや。アサザは呆れ顔を隠さずにブドウの顔を見た。
「んなこといわれても……そもそもお前がそんなコト話すから悪いんだろうが」
「あっブドウ、それは兄上たちには秘密だって約束したじゃないか!」
猛抗議を始めたアカネの頭をアサザはぽんぽんと叩く。
「こら、お前には酒場なんざ十年早い。まだガキなんだからな」
「そういう兄上はどうなんです。知ってるんですよ、兄上が十四の時に倉の食べ物と酒かっぱらって家出未遂を起こしたこと」
「あん時の俺は堂々としてただろが。お前みたいにコソコソ秘密だ何だと言ってるうちはまだまだガキだってんだ。やーい」
「うー」
悔しがるアカネに苦笑して、ブドウはアサザに目を向ける。
「それよりアサザ、何か用事があって帰ってきたんじゃないのか?」
「ああ、そうだった。兄上に会えるなら、ちょっと話がしたかったんだが……ん、どうした?」
何気なく出したアオイの名前にアカネとブドウの顔が曇るのを見て、アサザの胸にも嫌な予感が広がっていく。
「おい、もしかして——」
「ああ。二日前から熱が下がられなくてな。今、お会いすることはできない」
「お前……!!」
すいと目を逸らしたブドウに、アサザは足音荒く詰め寄った。
「二日前だと!? 知ってたなら何で使いをよこさなかった! こないだの夏以来兄上のお加減がずっと悪いのはお前も知ってただろう!!」
「兄上、やめてください! 兄上に知らせなかったのは政務の邪魔をしてはいけないと兄上様がおっしゃったからなんです! ブドウは兄上様が倒れられた日にたまたま遊びに来ていただけなのに、ずっと付き添っていてくれたんですよ!」
腕にすがりついたアカネの身体の重さで、アサザは何とか自制心を保つ。波立った気持ちを鎮めがら、改めてブドウの様子を眺めてみる。うなだれた肩、伏せた瞳。先程は気づかなかったが、その目の下はアサザと同じようにうっすらと黒ずんでいる。気のせいか頬のあたりもやつれているようだ。生粋の軍人であるブドウにとって、病人の看護などという普段やり慣れていない種類の作業は大変だったに違いない。黙ったままアサザの視線を受け止めているブドウの姿を見て、アサザの肩から自然に力が抜けていく。
「……悪かった、ブドウ」
「いいさ、気にするな」
がっくりと落ちたアサザの肩をブドウの手が軽く叩く。
「私もあんたと同じ立場なら多分怒るだろうしね。でもま、よく確認もしないでそれをぶつけるようじゃ、まだまだ大人とは言えないんじゃないかな?」
「なっ……なんで話がそこにつながるんだよ!? 関係ないじゃないか!!」
アサザの抗議をブドウは笑って受け流す。その目がふっと笑いを消した。
「ま、それはともかくだ。アオイ様ほど頼りにはならないかもしれないが、私でよければ話くらいは聞いてやるぞ?」
「そうですよ。僕らだって何かの手助けはできるかもしれないんですからね」
ここぞとばかりにアカネも口を尖らせて自己主張する。
「大体兄上は兄上様に頼りすぎなんです。それはそれで構いませんが、もっと他の人も信用してくれないと寂しいじゃないですか。そんなんじゃ友達だって減っちゃいますよ」
「……アカネ、お前」
アサザはぽかんと弟の顔を見る。
「お前に説教される日が来るとは思わなかったぜ。ったく、カッコ悪ィな」
自分を見つめる二対の真剣な眼差しに、アサザは大きく息を吐いた。ブドウはともかくとして、アカネにまでそこまで言われては、ささいなことで熱くなった自分を恥じざるを得ない。
兄としての威厳を取り戻すべく、アサザはがりがりと頭を掻きながら適当な言葉を探した。
「じゃ、聞いてくれるか。そんなに楽しい話ではないけどな」
そう前置きしてから、アサザは執務室であったことを二人に話した。中立地帯への援助打ち切りを聞いた時にブドウとアカネは顔を見合わせたが、結局最後まで口を挟まずにアサザの話を聞き終えた。
「俺は中立地帯とも国王領とも戦いたくない。だがこのままだと陛下の予測通り反乱は起こってしまうだろう。何とかなる方法はないか、それを今日は相談に来たんだ」
アサザが口を閉ざす頃、アカネの瞳は興奮できらきらしていた。
「……やっぱり兄上様はすごいなぁ。何でもお見通しだ」
「ん? どういうことだ?」
怪訝顔のアサザに我がことのように胸を張ったアカネが答える。
「今回倒れられる直前に、兄上様が同じようなことを言ってらしたんですよ。近いうちにそうなるだろうって」
「私が言うのも何だが、軍が動くことはアオイ様の本意ではないからな」
ブドウも小さく肩をすくめる。
「あの方のお考えは私には解らないが……どうやら今は”山の民”について調べられているようだ。アサザも気をつけておいてくれないか」
予想外の名前にアサザは目をしばたたかせた。
「”山の民”? 兄上は何だってまたそんなところを」
「さあ……まあ、キキョウ様がお亡くなりになられてからは互いにほとんど行き来がなくなっているからな。以前からお気にかけられていたご様子だったし、アオイ様なりに何か思うところがおありなのだろう」
「……確かに、あれ以来ぱったりと皇都では見かけなくなったよな、あそこの一族は」
その言葉が持つ微妙な含みに、ブドウははっと顔を上げた。
「すまん。アサザ、アカネ。失言だった」
「お前が謝る事じゃない」
言葉とは裏腹な感情を押し殺したような平坦な声で、アサザは言う。アカネはわずかに視線を伏せて、聞かないふりをしていた。
「そう……母上のことで謝らなきゃならんのは陛下だけだ」
「アサザ……」
ブドウの気遣わしげな視線を振り切るようにひとつ大きな息を吐いて、アサザは顔を上げた。
「さて。んじゃ俺は一旦部屋に戻るぜ。今言ったことは、もともとそう簡単に結論が出る話でもなし、愚痴だと思って聞き流してくれ。あ、メシの用意ができたら呼んでくれよ」
「あ……ああ」
「アカネも、寒稽古はほどほどにしとけよ。風邪なんか引いたら元も子もないんだからな」
「はーい」
アカネの返事を背中で聞いて、アサザが屋敷へ向かって歩き出した時だった。
「失礼致します。第三皇子殿下はいらっしゃいますか」
聞き覚えのあるその声にアサザが振り返ると、見たことのある顔がちょうど宮の門をくぐるところだった。
「侍従長じゃないか。一体どうしたんだい?」
そう言ったアカネの隣にブドウの姿を見つけて、侍従長は少し驚いたらしい。
「これはこれは。ブドウ殿もおられましたか」
「ああ、まあな」
「これはちょうど良かった。皇帝陛下よりお二人に勅命が下りました。謹んでお受けくださいますよう」
その場の空気に緊張が走った。気弱げな視線でちらりとアサザの顔色をうかがってから、侍従長は手にした二通の書状を広げた。
「そ、それではお読み致します」
「うん、頼む」
頷いたアカネに向けて、侍従長はおどおどと勅書を読み上げる。
「だ……『第三皇子アカネ、この者を皇帝軍将帥の職に任命する』との勅命です。続きまして、ええと……『皇帝軍副将帥ブドウ、この者はその職において新たに置かれた将帥の補佐を行うことを命ずる』とのことです。戦士アカザの名にかけて、偽りの言の無きことを誓うものであります。さ、ご確認を」
勅書を読み上げた後の決まり文句と共に本人たちに示された書状には、確かに読み上げられたものと同じ文面とアザミの署名が書き込まれていた。
「アカネが……将帥だと?」
アサザのかすれた声だけがその場に落ちる。よほど驚いたのか、当人たちに至っては一言もない。
「ちょ……勅命を拒否することはできません。ご存知かとは思いますが、そのことをお忘れなきよう」
一礼してそそくさと侍従長は去っていった。取り残された三人は、早くも夕闇が迫る庭でただ呆然と立ち尽くしていた。
今日も王都の空は冬晴れだった。冬の光特有の透き通った光に満ちた執務室で、レンギョウは書類に印を捺す手を止めた。
「何事であろうか……ともかく、通してくれ」
大急ぎで残りの仕事を片付け、休憩用のテーブルに茶器の用意をさせている間に、シオンが姿を現した。笑ってはいるが、その顔に以前のような元気はない。
「久しぶりだのう。長を継いだ挨拶の時以来だから、もう半年も無沙汰をしておったのか。ススキやウイキョウなどは息災か?」
「ええ。みんな元気よ、今のところはね。それよりもレン、今お仕事中だったんでしょ? 邪魔しちゃってごめんね」
「気にするな。ちょうど一息入れようと思っていたところだったのだ。それよりおぬしこそ、この半年慣れない仕事ばかりで大変だったであろう。そうゆっくりもできんのだろうが、羽を伸ばしていってくれ」
「ありがと。でも、そうも言ってられないのよ」
勧められるままに椅子に座ったシオンは、溜め息をついてレンギョウの顔を見た。
「皇帝領からね……また、食べ物を配るのをやめるっていう知らせが来たの」
「何?」
目の前に置かれた茶や菓子を手に取ろうともせず、シオンは続ける。
「ほら……今年の夏、すごく暑かったじゃない? そのくせ雨は全然降らなかったし。で、いきなり寒くなったと思ったらあっという間に雪が降って。ただでさえ少なかった作物が、それでほとんどダメになっちゃったみたい。皇帝領に回す分だけでいっぱいいっぱいで、中立地帯へ配る余裕はなくなっちゃったらしいわ」
「しかし、理由があるからと言って納得できることでもあるまい」
レンギョウの言葉にシオンは肩をすくめた。
「ま、ね。こっちは生活がかかってるわけだし、困るわよ。ただ、これはスギからの連絡で分かったことで、皇帝領側の正式な発表はまだなのよね。ひょっとすると、正式発表の前に取りやめになるかもしれないけれど……」
「残念ながら、それはありません」
口を挟んだ声はコウリのものだ。執務室の扉をくぐり、レンギョウに向けて会釈する。
「久しぶりに中立地帯からの来客があったと聞いてきたのですが……やはり、その話でしたか」
立ち上がりかけたシオンを制して、レンギョウは訝しげに目を細めた。
「やはり……とはどういうことだ?」
「はい。今しがた、皇帝領から書状が届きました。これを持ってきた使者が、同じようなことを言っていましたので」
「ふむ。で、その書状は?」
「こちらに」
受け取った書状の封を開け、レンギョウはざっと目を通した。
「これから来年の秋まで、中立地帯への援助は見送るとのことだ」
「やっぱり……」
シオンが天井を仰ぐ。レンギョウはしばらく考えた後、コウリに目を向けた。
「これを持ってきた者はまだおるのか?」
「はい」
「では、余の返事を持ち帰るよう申しつけよ。コウリ、おぬしは皇帝宛に書状を作れ。国王領とて余裕があるわけではないが、王家と貴族に使う予算を少々削れば一年くらいは中立地帯を援助できよう。他意はないゆえ了承を求むと」
「しかしレンギョウ様……」
レンギョウはちらりとシオンに目を向けた。
「余は頼ってくれた者をみすみす見殺しにはできぬ。それに、元々王家と貴族には予算を割きすぎなのだ。数が少ないのだから、それにあわせて予算も少なくすれば良いではないか」
「……レンギョウ様がそうおっしゃるのなら」
しぶしぶといった面持ちで、コウリが頷く。心配顔のシオンがおずおずと口を開いた。
「レン、助けてくれるのはすごくありがたいけど、ホントに大丈夫なの?」
「うむ。貴族たちは余が説得する。皇帝にしても、振る袖がないと言っているのはあちらなのだからのう。自分の領土で手がふさがっておる時に揉め事を起こすこともあるまい」
「……レン、もう一つ報告しなきゃならないことがあるの」
珍しく言いずらそうに言葉を選ぶシオンに、レンギョウとコウリは顔を見合わせる。
「スギからの報告には続きがあってね……実は、中立地帯に援助できないのには不作以外にも理由があるのよ」
「不作以外の理由というと……まさか」
息を呑むコウリにシオンは頷いた。
「皇帝が将帥を指名したそうよ。任命されたのは第三皇子のアカネ、アサザの弟。中立地帯へ手が回らないのは、援助より軍の強化を優先したからだって、スギの手紙には書いてあった。それに今の皇都は警備がすごく厳重で、連絡するのも大変なの。スギの連絡も途切れがちだしね」
コウリがレンギョウに向き直った。
「レンギョウ様、皇帝が将帥を置くなど戦を視野に入れているとしか考えられません。皇都がそのような状況であるのなら、こちらもそれなりの準備をしなければ。皇帝への返事は今しばらく、お待ちになられますよう」
「……いや」
しばらく考え込んでいたレンギョウは、かぶりを振って立ち上がった。
「恐らく皇帝が進めている軍の強化は、中立地帯での反乱への対策であろう。援助を打ち切れば今度こそ反乱が起きる、そう踏んでのことだと思うが」
そのままレンギョウは部屋を横切り、壁にかかった地図へ歩み寄る。
「ならば反乱が起こる前に食糧を配り、心配の芽を摘み取ってしまえばよかろう。準備だの対策だのと時間を費やしている間に事が起こっては元も子もない。すぐに手を打ち、食糧を中立地帯へと運ぶのだ」
「しかしレンギョウ様! 皇帝は戦の口実を作っているとしか思えませぬ!!」
コウリの剣幕に、シオンがびくりと身をすくませる。レンギョウは地図を見上げたままだ。
「……仮にそうだとしても、余はこの国の王なのだ」
レンギョウはゆっくりと振り返った。細い肩越しに、島国の地図が見える。
「実権こそ皇帝に譲っても、この国の王が余である限り、民の暮らしは余が守らねばならぬのだ。飢える民には王室の蔵を開け、防ぐことのできる反乱は防ぐ。今年の異常な天気は誰もが知るところ。あちらが特別ゆえに援助を打ち切ったのだとしたら、こちらも特別ゆえに急遽援助したのだと言えばよい。そうではないか?」
「レンギョウ様……」
「レン……」
治める国を背負った王の顔のまま、レンギョウは二人の顔を見据えた。
「向こう一年間の中立地帯への援助は、国王レンギョウがすべての責を負って行う。良いな、コウリ」
「何事であろうか……ともかく、通してくれ」
大急ぎで残りの仕事を片付け、休憩用のテーブルに茶器の用意をさせている間に、シオンが姿を現した。笑ってはいるが、その顔に以前のような元気はない。
「久しぶりだのう。長を継いだ挨拶の時以来だから、もう半年も無沙汰をしておったのか。ススキやウイキョウなどは息災か?」
「ええ。みんな元気よ、今のところはね。それよりもレン、今お仕事中だったんでしょ? 邪魔しちゃってごめんね」
「気にするな。ちょうど一息入れようと思っていたところだったのだ。それよりおぬしこそ、この半年慣れない仕事ばかりで大変だったであろう。そうゆっくりもできんのだろうが、羽を伸ばしていってくれ」
「ありがと。でも、そうも言ってられないのよ」
勧められるままに椅子に座ったシオンは、溜め息をついてレンギョウの顔を見た。
「皇帝領からね……また、食べ物を配るのをやめるっていう知らせが来たの」
「何?」
目の前に置かれた茶や菓子を手に取ろうともせず、シオンは続ける。
「ほら……今年の夏、すごく暑かったじゃない? そのくせ雨は全然降らなかったし。で、いきなり寒くなったと思ったらあっという間に雪が降って。ただでさえ少なかった作物が、それでほとんどダメになっちゃったみたい。皇帝領に回す分だけでいっぱいいっぱいで、中立地帯へ配る余裕はなくなっちゃったらしいわ」
「しかし、理由があるからと言って納得できることでもあるまい」
レンギョウの言葉にシオンは肩をすくめた。
「ま、ね。こっちは生活がかかってるわけだし、困るわよ。ただ、これはスギからの連絡で分かったことで、皇帝領側の正式な発表はまだなのよね。ひょっとすると、正式発表の前に取りやめになるかもしれないけれど……」
「残念ながら、それはありません」
口を挟んだ声はコウリのものだ。執務室の扉をくぐり、レンギョウに向けて会釈する。
「久しぶりに中立地帯からの来客があったと聞いてきたのですが……やはり、その話でしたか」
立ち上がりかけたシオンを制して、レンギョウは訝しげに目を細めた。
「やはり……とはどういうことだ?」
「はい。今しがた、皇帝領から書状が届きました。これを持ってきた使者が、同じようなことを言っていましたので」
「ふむ。で、その書状は?」
「こちらに」
受け取った書状の封を開け、レンギョウはざっと目を通した。
「これから来年の秋まで、中立地帯への援助は見送るとのことだ」
「やっぱり……」
シオンが天井を仰ぐ。レンギョウはしばらく考えた後、コウリに目を向けた。
「これを持ってきた者はまだおるのか?」
「はい」
「では、余の返事を持ち帰るよう申しつけよ。コウリ、おぬしは皇帝宛に書状を作れ。国王領とて余裕があるわけではないが、王家と貴族に使う予算を少々削れば一年くらいは中立地帯を援助できよう。他意はないゆえ了承を求むと」
「しかしレンギョウ様……」
レンギョウはちらりとシオンに目を向けた。
「余は頼ってくれた者をみすみす見殺しにはできぬ。それに、元々王家と貴族には予算を割きすぎなのだ。数が少ないのだから、それにあわせて予算も少なくすれば良いではないか」
「……レンギョウ様がそうおっしゃるのなら」
しぶしぶといった面持ちで、コウリが頷く。心配顔のシオンがおずおずと口を開いた。
「レン、助けてくれるのはすごくありがたいけど、ホントに大丈夫なの?」
「うむ。貴族たちは余が説得する。皇帝にしても、振る袖がないと言っているのはあちらなのだからのう。自分の領土で手がふさがっておる時に揉め事を起こすこともあるまい」
「……レン、もう一つ報告しなきゃならないことがあるの」
珍しく言いずらそうに言葉を選ぶシオンに、レンギョウとコウリは顔を見合わせる。
「スギからの報告には続きがあってね……実は、中立地帯に援助できないのには不作以外にも理由があるのよ」
「不作以外の理由というと……まさか」
息を呑むコウリにシオンは頷いた。
「皇帝が将帥を指名したそうよ。任命されたのは第三皇子のアカネ、アサザの弟。中立地帯へ手が回らないのは、援助より軍の強化を優先したからだって、スギの手紙には書いてあった。それに今の皇都は警備がすごく厳重で、連絡するのも大変なの。スギの連絡も途切れがちだしね」
コウリがレンギョウに向き直った。
「レンギョウ様、皇帝が将帥を置くなど戦を視野に入れているとしか考えられません。皇都がそのような状況であるのなら、こちらもそれなりの準備をしなければ。皇帝への返事は今しばらく、お待ちになられますよう」
「……いや」
しばらく考え込んでいたレンギョウは、かぶりを振って立ち上がった。
「恐らく皇帝が進めている軍の強化は、中立地帯での反乱への対策であろう。援助を打ち切れば今度こそ反乱が起きる、そう踏んでのことだと思うが」
そのままレンギョウは部屋を横切り、壁にかかった地図へ歩み寄る。
「ならば反乱が起こる前に食糧を配り、心配の芽を摘み取ってしまえばよかろう。準備だの対策だのと時間を費やしている間に事が起こっては元も子もない。すぐに手を打ち、食糧を中立地帯へと運ぶのだ」
「しかしレンギョウ様! 皇帝は戦の口実を作っているとしか思えませぬ!!」
コウリの剣幕に、シオンがびくりと身をすくませる。レンギョウは地図を見上げたままだ。
「……仮にそうだとしても、余はこの国の王なのだ」
レンギョウはゆっくりと振り返った。細い肩越しに、島国の地図が見える。
「実権こそ皇帝に譲っても、この国の王が余である限り、民の暮らしは余が守らねばならぬのだ。飢える民には王室の蔵を開け、防ぐことのできる反乱は防ぐ。今年の異常な天気は誰もが知るところ。あちらが特別ゆえに援助を打ち切ったのだとしたら、こちらも特別ゆえに急遽援助したのだと言えばよい。そうではないか?」
「レンギョウ様……」
「レン……」
治める国を背負った王の顔のまま、レンギョウは二人の顔を見据えた。
「向こう一年間の中立地帯への援助は、国王レンギョウがすべての責を負って行う。良いな、コウリ」
皇帝アザミの許に中立地帯との境近辺を守る皇帝軍の急使が駆け込んできたのは、凍てついた風が吹く寒い午後のことだった。アザミと共に報せを聞きながら、アサザは顔から血の気が引いていくのを感じていた。
皇帝領との境にある中立地帯の村で、民の暴動が起こった。きっかけは、皇帝軍の倉庫に食糧が運び込まれるのを見た中立地帯の住人の一言。
「戦士に食わすメシはあっても、俺らに食わす分はないってか。ご自分のお食事を減らしてまで食糧を配ってくれた聖王様とはえらい違いだな」
その男は随分酔っていたらしい。片手に持った安酒の空き瓶を軍の兵士たちに投げつけてわめいた男はすぐに捕らえられた。通常なら酒が抜けるまで牢屋に放り込み、適当に懲らしめてから放免となるところだが、今は時期が悪かった。第三皇子アカネが将帥になってから一か月、十年ぶりの戦時とあって兵たちの気は立っていた。
分けてもその村の兵たちを束ねる兵隊長は、中立地帯の民たちを常に疑っていたらしい。捕らえられた男はすぐさま兵隊長の前へと引っ立てられ、裁判が始まった。一刻も経たないうちに男は自警団の間者だという決定が出された。国王の良い印象を村人に与え、皇帝への反感を煽ったというのが主な根拠だった。男に弁解の機会などはなく、一方的に罪は確定した。
間諜は見つけ次第死刑に処す。戦時特例に基づいて、村人の見守る中で男の処刑が始まった。皇帝軍の兵士が罪状を読み上げ、処刑人が斧を振りかざす。その時、取り囲んだ村人たちから石が飛んだ。
「酔っ払いのたわごとに、間者も何もないだろうが! そんなに俺たちをいたぶるのが楽しいか!!」
誰かが叫んだ。するとそれに続くように、兵士へ四方から石や砂が投げつけられた。
「そうだそうだ! こんな処刑、でっち上げだ!!」
「ロクに俺たちのことを考えていないくせに、こんなところでばかり威張りやがって!」
声が大きくなると共に、兵士たちを囲んだ輪が狭まった。村人の一人が罪状を持った兵士に飛び掛かる。それを皮切りに、混乱は一気に広まった。
しかし騒動はそう長くは続かなかった。処刑場の様子を見ていた兵隊長が待機していた兵を出して鎮圧したのだ。死者こそ出なかったものの、皇帝軍によって捕縛された者は十数人に上った。今回の急使は、処理に困った兵隊長が出したものだったのだ。
大して興味がなさそうに話を聞いていたアザミは、一通り使者の報告が終わると面倒くさげに尋ねた。
「……で、その兵隊長は捕らえた村人をまだ生かしているのだな?」
「は、はい」
「ならば良い。村人は生かしておけ。殺せば無用な面倒が起こる。最初の酔っ払いとやらも同様だ」
「はっ」
犠牲者がいないと知って、アサザはほっと胸を撫で下ろす。しかしアザミは、かしこまったままの使者に向けて薄く笑みを浮かべて見せた。
「それと、その兵隊長は降格だ。ろくに審議もせずに処刑をしようなど、愚か者の極みだからな」
上官の処遇に驚いている様子の使者を、楽しそうにアザミが見やる。
「部下のお前からは伝えづらかろうが、余の命令だと言えば問題はあるまい。ときに——」
アザミは身を乗り出した。
「村人どもが王都の小僧の名前を出したというのは本当か?」
アサザの心臓が跳ね上がる。アザミがどういうつもりなのかはわからないが、レンギョウのことで父が好意的なことを考えるはずがない。
「陛下、それこそ酔った勢いでの戯言でしょう。そのようなことを問題にするより、新しい兵隊長に誰を充てるかご指示された方が」
「使者よ。どうなのだ」
アサザを完全に無視して、アザミは問いを重ねる。ためらいながらも、使者は頷いた。
「は……はい。最初のきっかけを作りました酔っ払いと捕縛された数人が、国王の名前を呼んでおりました。国王ならばこのようなことは許さないはずだ、などとわめいておりましたが」
「ふん」
態度とは裏腹に、アザミの顔は笑っていた。それを見たアサザの背筋に寒気が走る。
「陛下」
アサザの呼びかけを遮って、アザミは席を立った。
「皇太子よ。第三皇子と副将帥に出陣の用意をするよう伝えろ。どうやら中立地帯には小僧へ期待する者がかなりいるらしい。将来余の手を噛むかも知れぬ者どもだ。そういう手合いは少々懲らしめてやらんとな」
「しかし陛下! そのような理由で軍を動かせば——」
「皇太子」
ゆっくりとアザミは振り返った。研ぎ澄まされた刃のような眼光がアサザを貫く。
「余が、皇帝だ。忘れるな」
言って、アザミは自室へと続く扉へと足を向けた。
「早く行け。余は気が長いほうではない」
「は、はっ!!」
慌てた使者がすぐに廊下へと駆けていく。拳を握り締めながら、アサザは父帝が扉の向こうへ姿を消すのを睨みつけていた。
「戦士に食わすメシはあっても、俺らに食わす分はないってか。ご自分のお食事を減らしてまで食糧を配ってくれた聖王様とはえらい違いだな」
その男は随分酔っていたらしい。片手に持った安酒の空き瓶を軍の兵士たちに投げつけてわめいた男はすぐに捕らえられた。通常なら酒が抜けるまで牢屋に放り込み、適当に懲らしめてから放免となるところだが、今は時期が悪かった。第三皇子アカネが将帥になってから一か月、十年ぶりの戦時とあって兵たちの気は立っていた。
分けてもその村の兵たちを束ねる兵隊長は、中立地帯の民たちを常に疑っていたらしい。捕らえられた男はすぐさま兵隊長の前へと引っ立てられ、裁判が始まった。一刻も経たないうちに男は自警団の間者だという決定が出された。国王の良い印象を村人に与え、皇帝への反感を煽ったというのが主な根拠だった。男に弁解の機会などはなく、一方的に罪は確定した。
間諜は見つけ次第死刑に処す。戦時特例に基づいて、村人の見守る中で男の処刑が始まった。皇帝軍の兵士が罪状を読み上げ、処刑人が斧を振りかざす。その時、取り囲んだ村人たちから石が飛んだ。
「酔っ払いのたわごとに、間者も何もないだろうが! そんなに俺たちをいたぶるのが楽しいか!!」
誰かが叫んだ。するとそれに続くように、兵士へ四方から石や砂が投げつけられた。
「そうだそうだ! こんな処刑、でっち上げだ!!」
「ロクに俺たちのことを考えていないくせに、こんなところでばかり威張りやがって!」
声が大きくなると共に、兵士たちを囲んだ輪が狭まった。村人の一人が罪状を持った兵士に飛び掛かる。それを皮切りに、混乱は一気に広まった。
しかし騒動はそう長くは続かなかった。処刑場の様子を見ていた兵隊長が待機していた兵を出して鎮圧したのだ。死者こそ出なかったものの、皇帝軍によって捕縛された者は十数人に上った。今回の急使は、処理に困った兵隊長が出したものだったのだ。
大して興味がなさそうに話を聞いていたアザミは、一通り使者の報告が終わると面倒くさげに尋ねた。
「……で、その兵隊長は捕らえた村人をまだ生かしているのだな?」
「は、はい」
「ならば良い。村人は生かしておけ。殺せば無用な面倒が起こる。最初の酔っ払いとやらも同様だ」
「はっ」
犠牲者がいないと知って、アサザはほっと胸を撫で下ろす。しかしアザミは、かしこまったままの使者に向けて薄く笑みを浮かべて見せた。
「それと、その兵隊長は降格だ。ろくに審議もせずに処刑をしようなど、愚か者の極みだからな」
上官の処遇に驚いている様子の使者を、楽しそうにアザミが見やる。
「部下のお前からは伝えづらかろうが、余の命令だと言えば問題はあるまい。ときに——」
アザミは身を乗り出した。
「村人どもが王都の小僧の名前を出したというのは本当か?」
アサザの心臓が跳ね上がる。アザミがどういうつもりなのかはわからないが、レンギョウのことで父が好意的なことを考えるはずがない。
「陛下、それこそ酔った勢いでの戯言でしょう。そのようなことを問題にするより、新しい兵隊長に誰を充てるかご指示された方が」
「使者よ。どうなのだ」
アサザを完全に無視して、アザミは問いを重ねる。ためらいながらも、使者は頷いた。
「は……はい。最初のきっかけを作りました酔っ払いと捕縛された数人が、国王の名前を呼んでおりました。国王ならばこのようなことは許さないはずだ、などとわめいておりましたが」
「ふん」
態度とは裏腹に、アザミの顔は笑っていた。それを見たアサザの背筋に寒気が走る。
「陛下」
アサザの呼びかけを遮って、アザミは席を立った。
「皇太子よ。第三皇子と副将帥に出陣の用意をするよう伝えろ。どうやら中立地帯には小僧へ期待する者がかなりいるらしい。将来余の手を噛むかも知れぬ者どもだ。そういう手合いは少々懲らしめてやらんとな」
「しかし陛下! そのような理由で軍を動かせば——」
「皇太子」
ゆっくりとアザミは振り返った。研ぎ澄まされた刃のような眼光がアサザを貫く。
「余が、皇帝だ。忘れるな」
言って、アザミは自室へと続く扉へと足を向けた。
「早く行け。余は気が長いほうではない」
「は、はっ!!」
慌てた使者がすぐに廊下へと駆けていく。拳を握り締めながら、アサザは父帝が扉の向こうへ姿を消すのを睨みつけていた。
凶報はスギの働きによって、直ちに王都へ届けられた。
中立地帯への食糧援助を口実にした王都への宣戦であれば、回避するための方策は用意していた。しかし、食糧援助を行うことによって高まった国王の人気を理由に中立地帯を伐つのは完全に想定外だった。苦い気持ちで、レンギョウは遠く北の空を見やった。その空の下、皇都にいるはずの友も今、同じように苦い焦燥を抱いているのだろうか。
「レン」
気遣わしげな声に、レンギョウは我に返った。慌てて見つめていた窓から目を離し、斜め前に座ったシオンに向き直る。
ここは王宮の会議室。皇帝軍への対策を練るための重要な会議中だ。首座にいるレンギョウが余所見をすることは許されない。
「あ、ああ。すまぬ。少しぼうっとしていたようだ。して、皇帝軍についてだが、こちらに向かっている兵の数は分かっておるのか?」
「数はおよそ五万と思われる」
答えたのはシオンの隣に座ったススキだった。
「皇帝領が持つ兵力を考えると、少ないと言ってもいい数だ。スギも、食糧や水などの物資をそう多くは用意していないと報告している。皇帝は短期決戦を望んでいるとみて間違いないだろう」
「皇帝が何を望もうと勝手です。しかし我々には戦う意思はありません。そのことはあなた方自警団に以前お伝えしたとおりです」
レンギョウの隣に控えていたコウリが言う。
「あなた方貴族に戦うつもりがなくとも、我ら中立地帯の民は既に心を決めている」
重い声で反論したのはウイキョウだ。苦しげな表情で、シオンも頷く。
「中立地帯の人々は王都に集まり始めているわ。ここなら聖王——レン、あなたが守ってくれると信じて」
机の上のシオンの手が、白くなるほどきつく握り締められている。
「それにね、自警団の本拠地に武器を持って志願してくる人もいるわ。皇帝や皇帝軍の勝手を、聖王様がお許しになるはずがない、いずれ兵を起こされるのなら力になりたい、って」
俯いたまま、シオンは低い声で言った。
「お願い、レン。もう私には中立地帯の心は止められない。あなたが思っている以上に”聖王”の名前は強い力を持っているのよ」
シオン以外の全員の視線の中、レンギョウはしばし瞑目した。
このまま無抵抗を続ければ、確実に中立地帯に住む多くの民が皇帝軍の犠牲となる。口実がレンギョウへの人望であるなら、たくさんの民が逃げ込んだこの王都もただでは済まないだろう。皇都にはまだ兵力が温存されている。いざ王都攻めとなれば順次兵士を送り込まれることとなるのは確実だ。
さすがに王都を攻められては、レンギョウとて黙っているわけにはいかない。その時には兵を募り、戦わざるを得ない。
将来的に見て、どの道戦うのであれば犠牲は少ないに越したことはない。それに今なら、”聖王”の支持者という士気の高い戦力が王都にはたくさんいる。
「……コウリ、貴族の中で使える者はどれ位おったかのう?」
「は……しかし、レンギョウ様」
珍しく驚いた顔をしている側役に、レンギョウはかすかに笑って見せた。
「このまま放置しておけば、そのうち王都も攻められよう。ならば早く態勢を整えて守りに入らねばなるまい。余は余の民を一人たりとも無駄に失いたくはない」
自警団の面々にも顔を向けて、レンギョウは言葉を続けた。
「おぬしらの力も貸してくれ。都の中におる中立地帯の民たちの世話は任せる。望む者は余の兵として登用して構わぬ」
「でもレン……いいの?」
戸惑った声はシオンのものだ。
「あんなに戦いはいやだって言ってたのに。本当にいいの?」
「……仕方あるまい。他に選択肢はないのだからのう」
がたり、と音を立ててレンギョウは椅子から立ち上がった。
「知っての通り、余はこの国の国王だ。民を守る義務がある」
席に着いたままの四人を見回して、レンギョウは宣言した。
「この戦い、相手の真の狙いは余である。余が直接出てゆけば少ない犠牲で済むであろう。犠牲を最小限にするため、此度の戦いは余の親征とする。参謀はコウリ、おぬしに任す。実働部隊は自警団、おぬしらに一任しよう。それとは別に、余直属の魔法部隊——貴族で編成した特別部隊を作る。詳細は追って指示を出す。それまでは各々の任務を果たしてもらいたい。頼んだぞ」
王都の辻ごとに兵士募集の紙が貼られたのはその一日後のことだった。都の人々はその前に群がり、深いため息をついた。
中立地帯への食糧援助を口実にした王都への宣戦であれば、回避するための方策は用意していた。しかし、食糧援助を行うことによって高まった国王の人気を理由に中立地帯を伐つのは完全に想定外だった。苦い気持ちで、レンギョウは遠く北の空を見やった。その空の下、皇都にいるはずの友も今、同じように苦い焦燥を抱いているのだろうか。
「レン」
気遣わしげな声に、レンギョウは我に返った。慌てて見つめていた窓から目を離し、斜め前に座ったシオンに向き直る。
ここは王宮の会議室。皇帝軍への対策を練るための重要な会議中だ。首座にいるレンギョウが余所見をすることは許されない。
「あ、ああ。すまぬ。少しぼうっとしていたようだ。して、皇帝軍についてだが、こちらに向かっている兵の数は分かっておるのか?」
「数はおよそ五万と思われる」
答えたのはシオンの隣に座ったススキだった。
「皇帝領が持つ兵力を考えると、少ないと言ってもいい数だ。スギも、食糧や水などの物資をそう多くは用意していないと報告している。皇帝は短期決戦を望んでいるとみて間違いないだろう」
「皇帝が何を望もうと勝手です。しかし我々には戦う意思はありません。そのことはあなた方自警団に以前お伝えしたとおりです」
レンギョウの隣に控えていたコウリが言う。
「あなた方貴族に戦うつもりがなくとも、我ら中立地帯の民は既に心を決めている」
重い声で反論したのはウイキョウだ。苦しげな表情で、シオンも頷く。
「中立地帯の人々は王都に集まり始めているわ。ここなら聖王——レン、あなたが守ってくれると信じて」
机の上のシオンの手が、白くなるほどきつく握り締められている。
「それにね、自警団の本拠地に武器を持って志願してくる人もいるわ。皇帝や皇帝軍の勝手を、聖王様がお許しになるはずがない、いずれ兵を起こされるのなら力になりたい、って」
俯いたまま、シオンは低い声で言った。
「お願い、レン。もう私には中立地帯の心は止められない。あなたが思っている以上に”聖王”の名前は強い力を持っているのよ」
シオン以外の全員の視線の中、レンギョウはしばし瞑目した。
このまま無抵抗を続ければ、確実に中立地帯に住む多くの民が皇帝軍の犠牲となる。口実がレンギョウへの人望であるなら、たくさんの民が逃げ込んだこの王都もただでは済まないだろう。皇都にはまだ兵力が温存されている。いざ王都攻めとなれば順次兵士を送り込まれることとなるのは確実だ。
さすがに王都を攻められては、レンギョウとて黙っているわけにはいかない。その時には兵を募り、戦わざるを得ない。
将来的に見て、どの道戦うのであれば犠牲は少ないに越したことはない。それに今なら、”聖王”の支持者という士気の高い戦力が王都にはたくさんいる。
「……コウリ、貴族の中で使える者はどれ位おったかのう?」
「は……しかし、レンギョウ様」
珍しく驚いた顔をしている側役に、レンギョウはかすかに笑って見せた。
「このまま放置しておけば、そのうち王都も攻められよう。ならば早く態勢を整えて守りに入らねばなるまい。余は余の民を一人たりとも無駄に失いたくはない」
自警団の面々にも顔を向けて、レンギョウは言葉を続けた。
「おぬしらの力も貸してくれ。都の中におる中立地帯の民たちの世話は任せる。望む者は余の兵として登用して構わぬ」
「でもレン……いいの?」
戸惑った声はシオンのものだ。
「あんなに戦いはいやだって言ってたのに。本当にいいの?」
「……仕方あるまい。他に選択肢はないのだからのう」
がたり、と音を立ててレンギョウは椅子から立ち上がった。
「知っての通り、余はこの国の国王だ。民を守る義務がある」
席に着いたままの四人を見回して、レンギョウは宣言した。
「この戦い、相手の真の狙いは余である。余が直接出てゆけば少ない犠牲で済むであろう。犠牲を最小限にするため、此度の戦いは余の親征とする。参謀はコウリ、おぬしに任す。実働部隊は自警団、おぬしらに一任しよう。それとは別に、余直属の魔法部隊——貴族で編成した特別部隊を作る。詳細は追って指示を出す。それまでは各々の任務を果たしてもらいたい。頼んだぞ」
王都の辻ごとに兵士募集の紙が貼られたのはその一日後のことだった。都の人々はその前に群がり、深いため息をついた。
アサザがアオイ付の兵に呼び止められたのは、広い皇宮の廊下でのことだった。本格的な冬の訪れ以来、寝たきりの兄から使者が来るのは初めてだった。折しも昨日、弟のアカネ率いる中立地帯討伐軍を見送り、政務にも一区切りついたところである。
「丁度良かった。やっと手が空いたから帰って休もうと思ってたんだ」
おつかいの兵士に疲れた笑みを見せ、アサザは皇子たちの宮へと足を向けた。
「にしても何の用だろう。兄上がわざわざ人を使って呼び出すなんて」
あれこれ考えているうちに、皇宮と宮とを仕切る扉へと辿り着く。番をしている顔なじみの兵士が敬礼するのを、アサザは苦笑しながら見やった。
「お勤めご苦労さん。何か変わったことはないか?」
「はい。アオイ様よりお話は伺っております。お疲れのところ恐縮ですが、お早く立ち寄られるのがよろしいかと」
「ああ。兄上をあんまり長く起こしてちゃ悪いからな。すぐに行くよ」
兵士が開けた扉を潜り、さらに廊下を歩くことしばし。目指す部屋が見えてきた頃には、周りの空気にかすかな古紙の匂いが漂っている。
「兄上、アサザです」
「ああ、お入り」
部屋の中はいつもと同じく暖かだった。しかし紙の匂いの中に、今はわずかに薬のそれも混じっている。
そういえば兄と直接会うのは久しぶりだ。床の上に起こしたその身が一層細くなったのを見て、アサザの胸は痛んだ。
「起きてよろしいのですか」
「大丈夫……と言いたいところだけど、あまり長く保ちそうにないね。早速で悪いけど本題に入るよ。そこの地図を取ってくれないかい?」
示された地図は、どうやらこの国の全体図のようだ。差し出されたそれを、軽い咳をしながらアオイが受け取る。
「アサザ、君が忙しいのは承知しているけど、一つお願いがあるんだ」
「何ですか? 今なら丁度手が空いたところだし、余程のことじゃない限り大丈夫ですよ」
小さく笑みを浮かべて、アオイは地図の一点を示した。
「君にまた、行ってほしいところがあるんだ。ここ——山岳地帯、"山の民"の村へ」
「は? 何だってそんなところに」
兄の細い指が示す皇都の西部——険しい山並が描かれた部分に目をやって、アサザは首をひねった。
「大体例の事件以来、"山の民"たちとはほとんど交流がないじゃないですか。今更俺が行っても歓迎はされないと思いますよ」
「いや、そうじゃない。今だからこそ、戦士——というより、皇太子の君が行くことに意味があるんだ」
やつれた顔に似合わぬ強い眼差しで、アオイはアサザを見つめた。
「ここは、破魔刀”茅
”が眠っている場所なんだ」
「——”茅”?」
「そう。初代戦士アカザが使ったとされる刀だよ。本来なら皇家に伝わっているはずのものなんだけれどね。今まで所在がはっきりしなかったんだ」
アオイは床に積まれた書類の山に目を向けた。一番上に載っている走り書きのようなそれは、何かの報告書のように見える。
「アサザ、君が皇太子になってから、私はずっと”茅”を追っていたんだ。やがて起こるだろう——いや、アカネ達が中立地帯に向かった今、もう既に起こりつつある戦を回避できる可能性を持った、たった一つの武器を」
小さく咳をして、アオイは枕に背を預けた。
「できれば事が起こる前に見つけたかったけど、思ったより隠し場所を突き止めるのに時間がかかってしまってね。だから君には一刻も早く”茅”を手に入れてほしい」
「ちょっと待ってください兄上。”茅”ってのは一体何なんですか?そんな、戦を避ける力を持つほどに強力な武器なんて、聞いたこともないですよ」
「それはそうだろうね。”茅”はその力ゆえに封印された、戦士の切り札だから」
時折呼吸を乱しながらも、アオイの声は力を失うことなく続く。
「代々の戦士が担う国王の抑止力としての武器——それが”茅”だ。ただしそれが持ち出されるのは最大級の国難に直面した時のみ、過去に”茅”の遣い手は初代戦士アカザと初代皇帝アサギの二人だけだよ」
それを聞いたアサザの目が丸くなる。
「アカザとアサギって、両方とも歴史の変わり目にいた戦士じゃないですか。そんな大層な代物……」
「大層な代物だからこそ、こんな状況で役立つんだよ。”茅”の能力が具体的に何なのかは分からない。けれど隠し場所だけは何とか見つかった。”山の民”の村長に会えば、私たちが打てる手も増えるはずだよ」
微熱と長台詞で紅く染まった兄の頬を見つめながら、アサザはしばし考え込んだ。
「その”茅”を手に入れれば、中立地帯や国王領と争わなくても良くなるんですね?」
わずかな間をおいて、アオイは答える。
「今のままでは間違いなく戦いが起こる。けれども”茅”があれば争いを止めることができるかもしれない。あくまで可能性の話だよ」
「戦わない確率をゼロから何割かでも引き上げられるんですよね。それなら——やってみる価値はありますね」
アサザは顔を上げ、アオイに笑いかけた。
「俺はアカネとレンやシオンが戦うところは見たくない。だから、自分が行動することで少しでも状況を変えられるのなら、やりますよ」
「うん。ありがとう、アサザ」
アオイの手が、元気づけるようにアサザの肩を叩いた。笑顔のままその手を受けて、アサザは立ち上がった。
「じゃあ早速準備をしますよ。次にお会いする時は”茅”を手土産にしますからね」
「ああ、楽しみにしているよ。気をつけて」
部屋を出ていく弟の逞しい背を見送った一呼吸後、アオイの体は床の上に崩れ落ちた。
「少し、起きすぎたようだね……」
乱れる呼吸の下、霞む視界の中に薬と水差しを探す。ようやく求めた水差しに指が触れた瞬間、激しい咳の発作がアオイを襲った。その喘ぎと水差しが倒れる音とを耳にして、外に立っていた兵が慌てて部屋に駆け込んでくる。
「アオイ様! 大丈夫ですか!」
「だ……じょうぶ、アサザには、知らせ、ないで……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐアオイの火のように熱い額に、驚いた兵が大声で医者を呼ぶ。それをアオイは意識の遠くで聞いた。その声がアサザに届かないよう祈ったのを最後に、アオイの意識は闇に呑み込まれた。
「丁度良かった。やっと手が空いたから帰って休もうと思ってたんだ」
おつかいの兵士に疲れた笑みを見せ、アサザは皇子たちの宮へと足を向けた。
「にしても何の用だろう。兄上がわざわざ人を使って呼び出すなんて」
あれこれ考えているうちに、皇宮と宮とを仕切る扉へと辿り着く。番をしている顔なじみの兵士が敬礼するのを、アサザは苦笑しながら見やった。
「お勤めご苦労さん。何か変わったことはないか?」
「はい。アオイ様よりお話は伺っております。お疲れのところ恐縮ですが、お早く立ち寄られるのがよろしいかと」
「ああ。兄上をあんまり長く起こしてちゃ悪いからな。すぐに行くよ」
兵士が開けた扉を潜り、さらに廊下を歩くことしばし。目指す部屋が見えてきた頃には、周りの空気にかすかな古紙の匂いが漂っている。
「兄上、アサザです」
「ああ、お入り」
部屋の中はいつもと同じく暖かだった。しかし紙の匂いの中に、今はわずかに薬のそれも混じっている。
そういえば兄と直接会うのは久しぶりだ。床の上に起こしたその身が一層細くなったのを見て、アサザの胸は痛んだ。
「起きてよろしいのですか」
「大丈夫……と言いたいところだけど、あまり長く保ちそうにないね。早速で悪いけど本題に入るよ。そこの地図を取ってくれないかい?」
示された地図は、どうやらこの国の全体図のようだ。差し出されたそれを、軽い咳をしながらアオイが受け取る。
「アサザ、君が忙しいのは承知しているけど、一つお願いがあるんだ」
「何ですか? 今なら丁度手が空いたところだし、余程のことじゃない限り大丈夫ですよ」
小さく笑みを浮かべて、アオイは地図の一点を示した。
「君にまた、行ってほしいところがあるんだ。ここ——山岳地帯、"山の民"の村へ」
「は? 何だってそんなところに」
兄の細い指が示す皇都の西部——険しい山並が描かれた部分に目をやって、アサザは首をひねった。
「大体例の事件以来、"山の民"たちとはほとんど交流がないじゃないですか。今更俺が行っても歓迎はされないと思いますよ」
「いや、そうじゃない。今だからこそ、戦士——というより、皇太子の君が行くことに意味があるんだ」
やつれた顔に似合わぬ強い眼差しで、アオイはアサザを見つめた。
「ここは、破魔刀”
”が眠っている場所なんだ」
「——”茅”?」
「そう。初代戦士アカザが使ったとされる刀だよ。本来なら皇家に伝わっているはずのものなんだけれどね。今まで所在がはっきりしなかったんだ」
アオイは床に積まれた書類の山に目を向けた。一番上に載っている走り書きのようなそれは、何かの報告書のように見える。
「アサザ、君が皇太子になってから、私はずっと”茅”を追っていたんだ。やがて起こるだろう——いや、アカネ達が中立地帯に向かった今、もう既に起こりつつある戦を回避できる可能性を持った、たった一つの武器を」
小さく咳をして、アオイは枕に背を預けた。
「できれば事が起こる前に見つけたかったけど、思ったより隠し場所を突き止めるのに時間がかかってしまってね。だから君には一刻も早く”茅”を手に入れてほしい」
「ちょっと待ってください兄上。”茅”ってのは一体何なんですか?そんな、戦を避ける力を持つほどに強力な武器なんて、聞いたこともないですよ」
「それはそうだろうね。”茅”はその力ゆえに封印された、戦士の切り札だから」
時折呼吸を乱しながらも、アオイの声は力を失うことなく続く。
「代々の戦士が担う国王の抑止力としての武器——それが”茅”だ。ただしそれが持ち出されるのは最大級の国難に直面した時のみ、過去に”茅”の遣い手は初代戦士アカザと初代皇帝アサギの二人だけだよ」
それを聞いたアサザの目が丸くなる。
「アカザとアサギって、両方とも歴史の変わり目にいた戦士じゃないですか。そんな大層な代物……」
「大層な代物だからこそ、こんな状況で役立つんだよ。”茅”の能力が具体的に何なのかは分からない。けれど隠し場所だけは何とか見つかった。”山の民”の村長に会えば、私たちが打てる手も増えるはずだよ」
微熱と長台詞で紅く染まった兄の頬を見つめながら、アサザはしばし考え込んだ。
「その”茅”を手に入れれば、中立地帯や国王領と争わなくても良くなるんですね?」
わずかな間をおいて、アオイは答える。
「今のままでは間違いなく戦いが起こる。けれども”茅”があれば争いを止めることができるかもしれない。あくまで可能性の話だよ」
「戦わない確率をゼロから何割かでも引き上げられるんですよね。それなら——やってみる価値はありますね」
アサザは顔を上げ、アオイに笑いかけた。
「俺はアカネとレンやシオンが戦うところは見たくない。だから、自分が行動することで少しでも状況を変えられるのなら、やりますよ」
「うん。ありがとう、アサザ」
アオイの手が、元気づけるようにアサザの肩を叩いた。笑顔のままその手を受けて、アサザは立ち上がった。
「じゃあ早速準備をしますよ。次にお会いする時は”茅”を手土産にしますからね」
「ああ、楽しみにしているよ。気をつけて」
部屋を出ていく弟の逞しい背を見送った一呼吸後、アオイの体は床の上に崩れ落ちた。
「少し、起きすぎたようだね……」
乱れる呼吸の下、霞む視界の中に薬と水差しを探す。ようやく求めた水差しに指が触れた瞬間、激しい咳の発作がアオイを襲った。その喘ぎと水差しが倒れる音とを耳にして、外に立っていた兵が慌てて部屋に駆け込んでくる。
「アオイ様! 大丈夫ですか!」
「だ……じょうぶ、アサザには、知らせ、ないで……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐアオイの火のように熱い額に、驚いた兵が大声で医者を呼ぶ。それをアオイは意識の遠くで聞いた。その声がアサザに届かないよう祈ったのを最後に、アオイの意識は闇に呑み込まれた。
草の海の向こうに初めて皇帝軍の姿を見た時、レンギョウの胸に針のような疑問が突き刺さった。もとより、望んだ戦ではない。今でも避けられる方策があるというのなら、喜んでその案を容れたいと思う。
しかしそれはあくまでレンギョウの心中でのこと。実際の国王・自警団の連合軍四万は非常に士気が高く、目前に迫った皇帝軍におののく様子もない。
彼らには戦う理由があった。自分の生活を守るため、主たる国王レンギョウを守るため。それぞれの理由のために国王の旗の下に集い、率いられてきた。ここは中立地帯の中でも王都寄りの平原、街道から少し離れた開けた草原である。今日この場所で、王制が始まって以来初めて、二人の領主による戦が幕を開ける。
「レン、大丈夫? 随分顔色が悪いみたいだけど」
そう言いながら馬を寄せてきたシオンも、顔の色は紙のようだ。彼女とて戦を回避するため最大限の努力を傾けてきたのだ。レンギョウの口惜しさは充分に知っているはずだった。
「うむ。余なら平気だ。それより、自警団の兵の様子はどうなっておる?」
努めて明るくレンギョウは答えた。シオンには自警団の長としての責任が、レンギョウにはこの混成軍の総司令としての責務がある。今は個人的な感傷に浸っている場合ではない。
「相変わらず皆やる気満々よ。今こそ皇帝を見返してやるんだって息巻いてる」
「そうか。皇帝軍は?」
「見ての通り、もうかなり近づいてるわよ。不用意に接触しないように先陣を止めたところ」
馬上で頷いて、レンギョウは前方を見据えた。
「間もなく、か。コウリ、魔法部隊の準備はできておるな?」
「はい。既に本陣前に配置しております」
傍らに控えていたコウリが答える。その言葉にレンギョウは苦い笑みを洩らした。
「……確か全部で五名だったか。貴族の中でも魔法を使える者はたったそれだけしかいないのだな」
それは国王領が隠し続けた最大の秘密事項だった。初代国王レンが島国を統一してから二百年、時代が下るほどに王家及び貴族が持つ魔力は弱まっていった。現在では魔法と呼べるような現象を起こせるのは数えるほどしか存在しない。複数の魔法を駆使できるのは実質国王であるレンギョウ一人なのだ。
魔力の喪失は皇帝への切り札を失うことを意味する。そのため代々の国王と貴族は極秘に魔力を高めるための研究を続けていた。しかしそれは実を結ぶことはなかった。十三年前に行われた魔力増幅装置の実験が失敗した際に起こった事故で当時の重臣のほとんどが死亡し、国王が正気を失ったのをきっかけに研究は凍結されたまま、現在に至っている。
「気休めにしかならぬかもしれぬが、いないよりは良かろう。兵の士気も上がるであろうしな」
レンギョウは彼方に目を向ける。そこには鈍く光る皇帝軍の隊列が見えた。先程とほとんど距離が変わっていないところを見ると、あちらも進軍を止めたようだ。両軍の間に、見えない緊張の壁が横たわる。
その時、左翼から一騎の馬がレンギョウたちの方へと駆けてきた。ウイキョウの部隊の腕章をつけている。
「国王陛下に申し上げます!」
自警団の者なのだろう、馬を下りて慇懃に跪いた騎兵ははきはきした口調で言った。
「先程、我が隊を訪れた来客が陛下にお目通りを願っています。いかがいたしますか?」
「来客?」
レンギョウたちは怪訝な顔を見合わせた。眉をしかめたコウリがにべもなく告げる。
「開戦を控えて、陛下は現在多忙でいらっしゃる。謁見は許可できぬと伝えよ」
「は、しかし……」
とりつく島もないコウリにひるんだ様子もなく、まだ若い騎兵は小首を傾げた。
「客人はウイキョウ殿の古い知人で、信頼できる武人と聞いております。お会いになればこの戦への助言などを聞けるかと」
「そのようなことはそなたが考えることではない。この時機にどこの者とも知れぬ輩を陛下に会わせることはできぬと言っているのだ」
コウリと騎兵の間に見えない火花が散った。無言の睨み合いの均衡を破ったのはレンギョウの澄んだ声だった。
「コウリ、構わぬ。その者に会ってみよう」
「陛下!」
コウリのとがめるような声に、レンギョウは微かに笑ってみせた。
「心配はいらぬ。ウイキョウの紹介だと言うなら、謁見にウイキョウも立ち合わせると良い。勿論コウリ、おぬしもだ。それで文句はなかろう?」
「あ、私も行くわよ」
自警団代表として何かあったら困るしね、とシオンが悪戯っぽく笑う。その様子にレンギョウの表情も緩んだ。
「うむ、そうしてくれると心強い。ときにおぬし」
ふと思いついて、レンギョウは騎兵に目を向けた。
「コウリに意見するとはなかなかだのう。名は何と申す?」
「マツと申します、陛下」
丸い目をさらに丸くして騎兵が言う。
「それにしても驚きました。まさか陛下から直接お言葉をいただけるなんて」
「そう驚くことではあるまい。使っている言葉が違うわけではないのだからな」
マツの答えにレンギョウが苦笑を浮かべる。言伝を伝えるためマツを帰してから、三人はとりあえず急ごしらえした天幕に入った。勝手に面会を決めたこととマツの名を聞いたことが気に入らなかったらしく、コウリがぶつぶつと文句を言っていたがレンギョウは聞き流した。
しばらく経って、外から二頭の馬の嘶きが聞こえてきた。顔を上げたレンギョウの目に、入り口に垂らした幕を潜って入ってくる大柄な男の姿が見えた。その顔は逆光になっていて細かいところまでは分からない。
「あんたが聖王陛下か?」
一切の口上抜きで、男は言った。無礼とも言える態度に、しかしレンギョウは眉ひとつ動かさず答える。
「そうだ。おぬしは?」
「俺はイブキという。しかしまた、噂に違わずお綺麗な顔をしていらっしゃる」
無礼者、と言いかけたコウリを手で制して、レンギョウは目を細めた。しかと男を見据えて口を開く。
「褒め言葉と受け取っておく。ときにイブキ、おぬしはウイキョウの古い知人と聞いたが」
ようやく光に目が慣れてきた。徐々に像を結んだ男の顔でまず目に入ったのは大きな鷲鼻だった。日に灼けた肌のあちこちには古い傷痕が白く残っている。それらの奥にあるのが、状況を面白がっているような色を浮かべた瞳。年の頃は四十過ぎ、ウイキョウとさして変わらないくらいだろう。妙に愛嬌のある表情が印象的だった。
レンギョウの言葉を受けて、イブキは親指で後ろに控えたウイキョウを示した。
「こいつとは昔からの腐れ縁でね。昔はよく剣を交えたもんよ」
「ではおぬしもかつては自警団に?」
「いや」
イブキは短く刈り込んだ黒髪をわしわしと掻いた。
「隠す気はないから最初に言っておく。俺は皇帝軍の近衛隊長だった。もっとも、とうの昔に追放されて皇帝領には入れん身だがね」
何、と声を上げたのはコウリ、息を呑んだのはシオン。その様子を見て、イブキは黙って成り行きを見守っていたウイキョウを顧みた。
「……どうやら改めて解説する手間は省けたようだな」
皇帝軍は大きくふたつに分けられる。将帥を筆頭とする通常軍と近衛隊長が束ねる近衛隊だ。皇宮の警備から有事の軍事活動までを任務とする通常軍に比べ、近衛隊は皇家の警護のみに特化した少数精鋭の部隊である。皇帝のすぐ近くを守護するという立場上、慣例として近衛隊長の地位は副将帥と同等とされてきた。平時には将帥は置かれないから、副将帥と近衛隊長といえば皇帝軍を支える双璧のことを指す。勿論、本来なら国王側とは対立する立場だ。
「近衛隊長まで務めた人が追放って……一体どうして?」
シオンの問いにイブキは肩をすくめて見せた。
「ま、色々あってな。オジさんには簡単には語れぬ過去ってもんがあるのさ」
「そのような戯言でごまかせると思っているのか」
厳しい口調はコウリのもの。やれやれ、といった調子でイブキは溜息を吐いた。
「お前さん、そんなカリカリしてっとそのうちハゲるぜ」
「黙れ。質問に答えよ」
「どっちだよ」
「揚げ足を取るのはやめよ」
苛立ちを隠さないコウリに臆する様子もなく、イブキは耳の穴などほじっている。たっぷり時間を取った後、指先を息で払ってようやくレンギョウに目を向けた。
「十年前、皇帝の后が中立地帯で殺された事件を知ってるか?」
「……いや」
「その時の皇后の護衛係が俺だったんだ。あの皇帝の性格を考えりゃ、死刑にならなかっただけでも儲けもんだがな。これで納得してもらえたか?」
「そうか。して、おぬしがここに来た理由は何だ? まさか何の目的もないわけではあるまい」
にや、とイブキは不敵な笑みを口許に浮かべた。
「さすがに聖王陛下は話が早い。実はひとつ、願いたいことがあって参上した」
「申してみよ」
「俺を陛下の軍に加えていただきたい」
ひた、とレンギョウの目を見据えてイブキが言った。声の調子は先程と変わらないが、その眸には真剣な光が宿っている。
「な、何を……」
「腕はウイキョウが保証してくれる。元近衛隊長という前歴も、見方次第では箔になるだろう。それに」
何事か言いかけたコウリを遮って、イブキがたたみかける。
「皇帝軍将帥のアカネ皇子に剣術や戦術の手ほどきをしたのは俺だ。子供の頃とはいえ、皇子の性格も知っている。何の情報もないまま戦を始めるより有利にことを進められると思うが、どうだ?」
レンギョウはすぐには口を開かない。目だけで傍らのコウリに意見を促す。
「私は反対です、このように得体の知れない者を陛下のお傍に置くわけにはまいりません」
「……私も」
次に視線を投げられたシオンがためらいがちに口を開く。
「いくらウイキョウの知り合いでも、元々は皇帝軍の近衛隊長だった人を加えるのはどうかと思う」
レンギョウは頷き、最後にウイキョウへと目を向ける。それまで影のように口を閉ざしていた大男は短く言った。
「俺はこの男を紹介しただけだ。最終的な判断はご自分でなさるべきだろう」
「……分かった」
一つ息をついて、レンギョウはイブキに注意を戻した。
「イブキとやら、そこまで言うのなら何か策があるのであろう。勿体ぶらずに申してみよ」
レンギョウの言葉にイブキは片眉を上げてみせた。
「何故そう思われる?」
「十年も前に皇帝領を追われておるのなら、もっと早く余の下に参じていても良かったはずだ。王都を出る前にも兵の募集はしておったのだからのう。それなのにわざわざ警戒の厳しいこの時機を選んで来たのであれば、何か考えがあると思うのが筋であろう」
「……成程」
どこか満足そうにイブキは頷く。
「その通りだ。まこと陛下は聡明でいらっしゃる」
「世辞はよい。早く言わぬとしびれを切らした側役がおぬしを放り出すぞ」
苦笑を浮かべたイブキは、不機嫌な表情のコウリやはらはらした顔で状況を見守っているシオンにちらりと目を向けた。
「ま、良かろう。どの道国王軍の手も借りなきゃならんかったからな。自警団の嬢ちゃんもよく聞いとけよ。これから話すのは、皇帝軍五万に勝つための方策だ」
やがてイブキの話が終わった。聞き終えたレンギョウはその場でウイキョウと同じ左翼の最前線への配置を申し渡す。今度は誰一人として反対する者はいなかった。
しかしそれはあくまでレンギョウの心中でのこと。実際の国王・自警団の連合軍四万は非常に士気が高く、目前に迫った皇帝軍におののく様子もない。
彼らには戦う理由があった。自分の生活を守るため、主たる国王レンギョウを守るため。それぞれの理由のために国王の旗の下に集い、率いられてきた。ここは中立地帯の中でも王都寄りの平原、街道から少し離れた開けた草原である。今日この場所で、王制が始まって以来初めて、二人の領主による戦が幕を開ける。
「レン、大丈夫? 随分顔色が悪いみたいだけど」
そう言いながら馬を寄せてきたシオンも、顔の色は紙のようだ。彼女とて戦を回避するため最大限の努力を傾けてきたのだ。レンギョウの口惜しさは充分に知っているはずだった。
「うむ。余なら平気だ。それより、自警団の兵の様子はどうなっておる?」
努めて明るくレンギョウは答えた。シオンには自警団の長としての責任が、レンギョウにはこの混成軍の総司令としての責務がある。今は個人的な感傷に浸っている場合ではない。
「相変わらず皆やる気満々よ。今こそ皇帝を見返してやるんだって息巻いてる」
「そうか。皇帝軍は?」
「見ての通り、もうかなり近づいてるわよ。不用意に接触しないように先陣を止めたところ」
馬上で頷いて、レンギョウは前方を見据えた。
「間もなく、か。コウリ、魔法部隊の準備はできておるな?」
「はい。既に本陣前に配置しております」
傍らに控えていたコウリが答える。その言葉にレンギョウは苦い笑みを洩らした。
「……確か全部で五名だったか。貴族の中でも魔法を使える者はたったそれだけしかいないのだな」
それは国王領が隠し続けた最大の秘密事項だった。初代国王レンが島国を統一してから二百年、時代が下るほどに王家及び貴族が持つ魔力は弱まっていった。現在では魔法と呼べるような現象を起こせるのは数えるほどしか存在しない。複数の魔法を駆使できるのは実質国王であるレンギョウ一人なのだ。
魔力の喪失は皇帝への切り札を失うことを意味する。そのため代々の国王と貴族は極秘に魔力を高めるための研究を続けていた。しかしそれは実を結ぶことはなかった。十三年前に行われた魔力増幅装置の実験が失敗した際に起こった事故で当時の重臣のほとんどが死亡し、国王が正気を失ったのをきっかけに研究は凍結されたまま、現在に至っている。
「気休めにしかならぬかもしれぬが、いないよりは良かろう。兵の士気も上がるであろうしな」
レンギョウは彼方に目を向ける。そこには鈍く光る皇帝軍の隊列が見えた。先程とほとんど距離が変わっていないところを見ると、あちらも進軍を止めたようだ。両軍の間に、見えない緊張の壁が横たわる。
その時、左翼から一騎の馬がレンギョウたちの方へと駆けてきた。ウイキョウの部隊の腕章をつけている。
「国王陛下に申し上げます!」
自警団の者なのだろう、馬を下りて慇懃に跪いた騎兵ははきはきした口調で言った。
「先程、我が隊を訪れた来客が陛下にお目通りを願っています。いかがいたしますか?」
「来客?」
レンギョウたちは怪訝な顔を見合わせた。眉をしかめたコウリがにべもなく告げる。
「開戦を控えて、陛下は現在多忙でいらっしゃる。謁見は許可できぬと伝えよ」
「は、しかし……」
とりつく島もないコウリにひるんだ様子もなく、まだ若い騎兵は小首を傾げた。
「客人はウイキョウ殿の古い知人で、信頼できる武人と聞いております。お会いになればこの戦への助言などを聞けるかと」
「そのようなことはそなたが考えることではない。この時機にどこの者とも知れぬ輩を陛下に会わせることはできぬと言っているのだ」
コウリと騎兵の間に見えない火花が散った。無言の睨み合いの均衡を破ったのはレンギョウの澄んだ声だった。
「コウリ、構わぬ。その者に会ってみよう」
「陛下!」
コウリのとがめるような声に、レンギョウは微かに笑ってみせた。
「心配はいらぬ。ウイキョウの紹介だと言うなら、謁見にウイキョウも立ち合わせると良い。勿論コウリ、おぬしもだ。それで文句はなかろう?」
「あ、私も行くわよ」
自警団代表として何かあったら困るしね、とシオンが悪戯っぽく笑う。その様子にレンギョウの表情も緩んだ。
「うむ、そうしてくれると心強い。ときにおぬし」
ふと思いついて、レンギョウは騎兵に目を向けた。
「コウリに意見するとはなかなかだのう。名は何と申す?」
「マツと申します、陛下」
丸い目をさらに丸くして騎兵が言う。
「それにしても驚きました。まさか陛下から直接お言葉をいただけるなんて」
「そう驚くことではあるまい。使っている言葉が違うわけではないのだからな」
マツの答えにレンギョウが苦笑を浮かべる。言伝を伝えるためマツを帰してから、三人はとりあえず急ごしらえした天幕に入った。勝手に面会を決めたこととマツの名を聞いたことが気に入らなかったらしく、コウリがぶつぶつと文句を言っていたがレンギョウは聞き流した。
しばらく経って、外から二頭の馬の嘶きが聞こえてきた。顔を上げたレンギョウの目に、入り口に垂らした幕を潜って入ってくる大柄な男の姿が見えた。その顔は逆光になっていて細かいところまでは分からない。
「あんたが聖王陛下か?」
一切の口上抜きで、男は言った。無礼とも言える態度に、しかしレンギョウは眉ひとつ動かさず答える。
「そうだ。おぬしは?」
「俺はイブキという。しかしまた、噂に違わずお綺麗な顔をしていらっしゃる」
無礼者、と言いかけたコウリを手で制して、レンギョウは目を細めた。しかと男を見据えて口を開く。
「褒め言葉と受け取っておく。ときにイブキ、おぬしはウイキョウの古い知人と聞いたが」
ようやく光に目が慣れてきた。徐々に像を結んだ男の顔でまず目に入ったのは大きな鷲鼻だった。日に灼けた肌のあちこちには古い傷痕が白く残っている。それらの奥にあるのが、状況を面白がっているような色を浮かべた瞳。年の頃は四十過ぎ、ウイキョウとさして変わらないくらいだろう。妙に愛嬌のある表情が印象的だった。
レンギョウの言葉を受けて、イブキは親指で後ろに控えたウイキョウを示した。
「こいつとは昔からの腐れ縁でね。昔はよく剣を交えたもんよ」
「ではおぬしもかつては自警団に?」
「いや」
イブキは短く刈り込んだ黒髪をわしわしと掻いた。
「隠す気はないから最初に言っておく。俺は皇帝軍の近衛隊長だった。もっとも、とうの昔に追放されて皇帝領には入れん身だがね」
何、と声を上げたのはコウリ、息を呑んだのはシオン。その様子を見て、イブキは黙って成り行きを見守っていたウイキョウを顧みた。
「……どうやら改めて解説する手間は省けたようだな」
皇帝軍は大きくふたつに分けられる。将帥を筆頭とする通常軍と近衛隊長が束ねる近衛隊だ。皇宮の警備から有事の軍事活動までを任務とする通常軍に比べ、近衛隊は皇家の警護のみに特化した少数精鋭の部隊である。皇帝のすぐ近くを守護するという立場上、慣例として近衛隊長の地位は副将帥と同等とされてきた。平時には将帥は置かれないから、副将帥と近衛隊長といえば皇帝軍を支える双璧のことを指す。勿論、本来なら国王側とは対立する立場だ。
「近衛隊長まで務めた人が追放って……一体どうして?」
シオンの問いにイブキは肩をすくめて見せた。
「ま、色々あってな。オジさんには簡単には語れぬ過去ってもんがあるのさ」
「そのような戯言でごまかせると思っているのか」
厳しい口調はコウリのもの。やれやれ、といった調子でイブキは溜息を吐いた。
「お前さん、そんなカリカリしてっとそのうちハゲるぜ」
「黙れ。質問に答えよ」
「どっちだよ」
「揚げ足を取るのはやめよ」
苛立ちを隠さないコウリに臆する様子もなく、イブキは耳の穴などほじっている。たっぷり時間を取った後、指先を息で払ってようやくレンギョウに目を向けた。
「十年前、皇帝の后が中立地帯で殺された事件を知ってるか?」
「……いや」
「その時の皇后の護衛係が俺だったんだ。あの皇帝の性格を考えりゃ、死刑にならなかっただけでも儲けもんだがな。これで納得してもらえたか?」
「そうか。して、おぬしがここに来た理由は何だ? まさか何の目的もないわけではあるまい」
にや、とイブキは不敵な笑みを口許に浮かべた。
「さすがに聖王陛下は話が早い。実はひとつ、願いたいことがあって参上した」
「申してみよ」
「俺を陛下の軍に加えていただきたい」
ひた、とレンギョウの目を見据えてイブキが言った。声の調子は先程と変わらないが、その眸には真剣な光が宿っている。
「な、何を……」
「腕はウイキョウが保証してくれる。元近衛隊長という前歴も、見方次第では箔になるだろう。それに」
何事か言いかけたコウリを遮って、イブキがたたみかける。
「皇帝軍将帥のアカネ皇子に剣術や戦術の手ほどきをしたのは俺だ。子供の頃とはいえ、皇子の性格も知っている。何の情報もないまま戦を始めるより有利にことを進められると思うが、どうだ?」
レンギョウはすぐには口を開かない。目だけで傍らのコウリに意見を促す。
「私は反対です、このように得体の知れない者を陛下のお傍に置くわけにはまいりません」
「……私も」
次に視線を投げられたシオンがためらいがちに口を開く。
「いくらウイキョウの知り合いでも、元々は皇帝軍の近衛隊長だった人を加えるのはどうかと思う」
レンギョウは頷き、最後にウイキョウへと目を向ける。それまで影のように口を閉ざしていた大男は短く言った。
「俺はこの男を紹介しただけだ。最終的な判断はご自分でなさるべきだろう」
「……分かった」
一つ息をついて、レンギョウはイブキに注意を戻した。
「イブキとやら、そこまで言うのなら何か策があるのであろう。勿体ぶらずに申してみよ」
レンギョウの言葉にイブキは片眉を上げてみせた。
「何故そう思われる?」
「十年も前に皇帝領を追われておるのなら、もっと早く余の下に参じていても良かったはずだ。王都を出る前にも兵の募集はしておったのだからのう。それなのにわざわざ警戒の厳しいこの時機を選んで来たのであれば、何か考えがあると思うのが筋であろう」
「……成程」
どこか満足そうにイブキは頷く。
「その通りだ。まこと陛下は聡明でいらっしゃる」
「世辞はよい。早く言わぬとしびれを切らした側役がおぬしを放り出すぞ」
苦笑を浮かべたイブキは、不機嫌な表情のコウリやはらはらした顔で状況を見守っているシオンにちらりと目を向けた。
「ま、良かろう。どの道国王軍の手も借りなきゃならんかったからな。自警団の嬢ちゃんもよく聞いとけよ。これから話すのは、皇帝軍五万に勝つための方策だ」
やがてイブキの話が終わった。聞き終えたレンギョウはその場でウイキョウと同じ左翼の最前線への配置を申し渡す。今度は誰一人として反対する者はいなかった。
自軍の頭越しに国王軍の隊列が見える。鎧姿のアカネは馬上で伸び上がってその様子を眺めた。皇帝軍五万、国王軍四万。わずかな距離を隔てて睨みあう両軍はまるで鉄色の波のようだ。
「なに呑気なことを言ってるんだい。向こうにいるの、あれ全部敵なんだよ」
隣でブドウが呆れていた。アカネと同じく馬に跨ったその体は今、鋼の戦装束で固められている。全体的に丸みを帯びた甲冑は皇帝軍規定のもの。重量のある胴こそ若干薄いが、他の装備は一般の兵と同じものだ。瞳の色と同じ、若葉色の飾り紐が兜で揺れる。
「そうなんだけどね。ほら、僕今回が初陣だからわくわくしちゃって」
すくめたアカネの肩の上で緋色の布がなびいた。皇帝軍将帥であることを示す、その色。副将帥以下の兵が緋を纏うことは許されていない。将帥は非常時にしか置かれない役職だから、この色が軍にあることは皇帝が事態を戦時だと認識している証でもある。
身分によって様々に色分けされている軍の中で、もう一つ見かけない色がある。黒だ。初代戦士アカザが好んで用いた色であるため、黒は皇帝が親征する際にのみ用いられるという暗黙の決まりだった。
緋と黒、この二つの色が目に入るといやでも皇帝軍は奮い立つ。対する側としては最も警戒しなければならない色でもあった。
「ブドウは何度か戦に出たことがあるんだよね」
「ああ、中立地帯のごたごたにね。もっとも、こんな大軍は初めてだけど」
言いながらもブドウの声に緊張はない。同じく気負った様子のないアカネに片目をつぶってみせる余裕さえある。
「なに、何とかなるさ。兵の指揮は私に任せて、アカネは見学しているといい。私が守ってやるよ」
「うん、頼んだよ」
素直にアカネは頷いた。ここで功を逸るような性格ではない。経験のない自分がこの場にいるのは、皇子が矢面に立つことで兵の士気を上げ、相手の意気を殺ぐ以上の意味はないと承知している。
「あっちには国王もいるんだよね。魔法とか使ってくるかな」
「さあ。使われたら厄介だけど、実際にどれくらいの戦力になるかは分からないからね。そこは運次第だよ」
戦において不確定要素を数えだしたらきりがない。ともかく数ではこちらが勝っているのだ。アオイの本意ではない戦いだとは承知していたが、状況がここにまで至ってしまった今となってはせめて早く終わらせてしまうのが最善の方策だろう。
「じゃあ、始めようか。とっとと終わらせて、皇都のアオイ様とアサザに吉報を持って帰ろう」
頷いて、アカネは辺りを見回した。脇に控えた合図の太鼓係が撥を構える。
「全軍、進め!」
アカネの声と同時に太鼓が鳴る。一拍遅れて、一斉に甲冑が動く音が響く。
「歩兵大隊、前へ! 弓兵は二段の構え、用意!」
間髪入れずにブドウの指示が飛ぶ。太鼓が打ち鳴らされ、前線の形が変わっていく。
国王軍も動き出したようだ。鋭角にせり出した錐のような陣形、その矛先はまっすぐこちらの本陣を指している。
「中央突破するつもりか。悪いけどそう簡単にはさせないよ」
すかさず迎え撃つための合図が送られる。厚く布いて待ち受ける歩兵の正面に相手の先陣がぶつかった。喊声が上がる。たちまち彼我入り乱れる乱戦になった。
「魔法、使ってこないね」
アカネが言ったのは、国王軍の錐が皇帝軍の壁に削られ、跳ね返された頃だった。前進がやんでいる。逆に皇帝軍には勢いがあった。足の止まった国王軍に押し寄せ、確実にその外縁を突き崩している。ことに右翼の伸びが速い。相手の左翼を追い込み、どんどん進んでいる。
「向こうには国王がいる。まだ油断はできないよ」
「うん。でも魔法を使われる前に決着を着けれたら楽だよね。何も国王の命が目的じゃないんでしょう?」
「まあね。陛下からは反乱を鎮めろって言われてるだけだし」
「国王を捕まえることはできないかな。旗印を奪われちゃ、あっちだって戦い続けられないでしょう」
彼方の国王軍を見やって、アカネはぽつりと呟いた。
「兄上の友達らしいからさ。できれば死なせたくないんだよね」
「……そうだな」
ブドウは微笑をこぼした。アサザとレンギョウのことは聞いている。アサザを悲しませるようなことをしたくないのはブドウも同じだった。
「じゃあ、このまま包囲して国王を捕らえよう。数はこちらが上だし、勢いもあるから大丈夫だろう」
「あ、待って」
横に控えた伝令を呼ぼうとしたブドウを、アカネが止める。
「右翼には僕が行くよ」
「しかし、危険だぞ? 一番遠いし」
「だからだよ。途中で僕を見かけた兵たちの士気が上がるでしょう? 僕も働かないと、兄上たちに怒られちゃうからね」
しばし考えた末、ブドウは頷いた。どうやら今回は勝ち戦だ。アカネが姿を現せば、兵たちはますます勢いづくだろう。前線に出すことにためらいはあったが、混戦の中では相手も不用意に魔法など使えないという読みもあった。未だ若い皇子に経験を積ませるには良い機会かもしれない。
「わかった。ただしあまり深入りはするなよ」
「うん」
嬉しそうにアカネが答える。護衛役が素早く準備を整えた。ブドウの部下の中でも信頼の置ける兵が五名。がっちりと周囲を固められたアカネがブドウに笑顔を向けた。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
ブドウも笑顔を返す。それを認めて、アカネは馬を走らせた。緋の肩布が後ろに翻る。
「……将帥様だ!」
「皇子殿下が出られるぞ!」
飛び込んだ甲冑の群れから口々に歓声が上がった。兵たちの間を走るどよめきを追いかけるように、緋色が戦場を駆け抜ける。
「皆、前進だ! こんな戦い、早く終わらせよう!」
少し高めの、幼さを残した声はよく通る。それに応えて皇帝軍は一気に攻勢を強めた。それぞれの手に持った武器を構えて、国王軍へと突き進んでいく。
アカネはただ一心に手綱を操る。アサザ仕込の乗馬は得意な方だが、何せ足元には障害物が多い。倒れた兵など踏みつけては危険な上に気分の良いものでもないから、充分に注意しながら進んだ。一歩進むたびに前線に近づいているのが分かる。剣戟が耳よりも先に体を震わせた。恐怖と興奮が同時にこみ上げてくる。いつの間にか、右手が腰に佩いた剣の柄を握り締めていた。
「アカネ様、これ以上は危険です」
護衛の声にアカネは我に返った。周囲の護衛たちが速度を落とし、油断のない目を国王軍の方へと向けている。位置は長く伸びた右翼の中ほどといったところか。敵の姿は見えないが、既に戦端が開かれた場所を過ぎている。確かにこれ以上進むのは無謀だろう。
「ああ、そうだね。ありがとう」
アカネは手綱を緩めた。突撃を続ける兵たちの邪魔にならないよう、人波から外れた場所に馬を止める。見たところ包囲網は順調に進んでいるようだ。どうやら充分に役目は果たせたらしい。
「よし、じゃあ戻ろうか。あまり遅くなるとブドウが心配する」
上がり続ける鬨の声を確認して、安堵の笑みを浮かべたアカネが馬の首を返そうとした、その時だった。
最初に聞こえたのは鋭い風鳴りだった。続いて上がる悲鳴。一瞬にして場を支配する音が変わっていた。
アカネの背筋を冷たいものがなぞる。振り向いた先に広がっていたのは倒れ伏し、蹲る皇帝軍の兵たち。その体を踏み越えてこちらに近づいてくる一団が見えた。先頭は薙刀を持った大柄な男だ。鈍く光る角張った鎧は皇帝軍のものではない。男の後ろには軽装を纏っただけの影が五つ、そのようないでたちは重装備の皇帝軍ではありえない。
「国王軍!」
護衛たちに緊張が走る。次々に抜剣する彼らを、薙刀の男が不敵な笑みを浮かべて見やる。
「第三皇子にして皇帝軍将帥、アカネ殿とお見受けする」
「そうですが、あなたは」
努めて動揺を抑えながらアカネが問い返す。こんなに間近で敵と相対することは想定外だった。対して男は余裕がある。
「俺は国王軍のイブキという。実はさっき採用されたばかりでね。手柄を立てなきゃ帰れないんだ。勝手で悪いが、一緒に来てもらうぜ」
イブキの左手が上がる。同時に後ろの五人の掌がアカネたちに向かってかざされた。
「!」
魔法、と直感的に悟る。咄嗟に腕で顔を庇った。刹那、突風が叩きつけられる。かまいたちでも起こったのか、頬から赤い筋が飛んだ。
踏みとどまった、と思ったのはつかの間だった。身を切り裂く風に驚いた馬が悲鳴を上げて次々と暴れ出した。護衛たちが振り落とされる。アカネ自身も後ろ足で立ち上がった馬を御しきれずに落馬する。
「ぐっ……!」
呻き声をこらえるのが精一杯だった。すぐに立ち上がろうとするものの、着慣れない鎧が邪魔して思うように動けない。
この機会をイブキが逃すはずもなかった。薙刀を構え、一気にアカネたちに接近する。悲鳴と血飛沫の中、何とかアカネは態勢を整えて剣を抜く。痛みと悔しさでかすむ景色に、最後の護衛が沈んだ。
アカネはただ一人、イブキと向かい合った。
「僕を、どうする気だ」
「皇帝との取引の人質になってもらう。命までどうこうする気はないから安心しろ」
手にした得物から滴る赤を前にしては、まるで説得力のない台詞だ。表情をこわばらせたアカネに、イブキが苦い笑いを向ける。
「そう警戒するなよ。俺だってガキの頃を知ってる奴を手にかけたくはない」
「子供の頃?」
「昔剣を習ったイブキおじさん、覚えてないか? 隙ありと見ればすぐに突っ込んでくる癖、治ってないみたいだな。まんまとこんなところにまで引きずり込まれやがって」
指摘された癖には覚えがあったが、イブキという名には心当たりがない。アカネは黙って眼前の男を睨み返した。
「その気迫は大したもんだ。やはりキキョウ様のお子だな。目がそっくりだ」
突然飛び出した母の名にアカネの剣先が揺れる。しまったと思った時にはもうイブキの巨体が目の前にあった。
「あんたの弱点は表情が読みやすいことだな。機会があったらまた稽古をつけてやるよ」
どん、と首筋に重い衝撃が走った。急速に暗転していく視界の中、隅で緋色が躍った。転々と汚れが落ちたそれは、見る間に闇に呑まれて消えていく。まるで今の自分のようだと思ったのを最後に、アカネの意識は途切れた。
<予告編>
「あなたには、失望しました」
敵陣の只中でアカネはレンギョウと向かい合う。
兄の友人。分かり合えると信じていた。
しかし卑怯な策で自分を捕らえたのは、紛れもなくこの銀髪の国王なのだ。
会見の様子を見守りながら、コウリは心中に不吉な芽が吹くのを感じていた。
レンギョウが第二皇子アサザと行動を共にしたと知った時と同じ、
危うい均衡が崩れそうになる予感。
王家にとって戦士に連なる者は敵であるはずだった。
ましてやアカネは、皇帝の血を引く皇子なのだ。
なのに彼の主は、先程の面罵さえも受け流して穏やかに微笑んでいる。
それは王者の器というより、親しい者へ対する苦笑に近いように見えた。
——危険だ。
コウリは密かに拳を握り締めた。
守らねばならない。レンギョウを。王家を。
『DOUBLE LORDS』承章12、
決意は石のように重く、コウリの裡へと沈んでいく。
「なに呑気なことを言ってるんだい。向こうにいるの、あれ全部敵なんだよ」
隣でブドウが呆れていた。アカネと同じく馬に跨ったその体は今、鋼の戦装束で固められている。全体的に丸みを帯びた甲冑は皇帝軍規定のもの。重量のある胴こそ若干薄いが、他の装備は一般の兵と同じものだ。瞳の色と同じ、若葉色の飾り紐が兜で揺れる。
「そうなんだけどね。ほら、僕今回が初陣だからわくわくしちゃって」
すくめたアカネの肩の上で緋色の布がなびいた。皇帝軍将帥であることを示す、その色。副将帥以下の兵が緋を纏うことは許されていない。将帥は非常時にしか置かれない役職だから、この色が軍にあることは皇帝が事態を戦時だと認識している証でもある。
身分によって様々に色分けされている軍の中で、もう一つ見かけない色がある。黒だ。初代戦士アカザが好んで用いた色であるため、黒は皇帝が親征する際にのみ用いられるという暗黙の決まりだった。
緋と黒、この二つの色が目に入るといやでも皇帝軍は奮い立つ。対する側としては最も警戒しなければならない色でもあった。
「ブドウは何度か戦に出たことがあるんだよね」
「ああ、中立地帯のごたごたにね。もっとも、こんな大軍は初めてだけど」
言いながらもブドウの声に緊張はない。同じく気負った様子のないアカネに片目をつぶってみせる余裕さえある。
「なに、何とかなるさ。兵の指揮は私に任せて、アカネは見学しているといい。私が守ってやるよ」
「うん、頼んだよ」
素直にアカネは頷いた。ここで功を逸るような性格ではない。経験のない自分がこの場にいるのは、皇子が矢面に立つことで兵の士気を上げ、相手の意気を殺ぐ以上の意味はないと承知している。
「あっちには国王もいるんだよね。魔法とか使ってくるかな」
「さあ。使われたら厄介だけど、実際にどれくらいの戦力になるかは分からないからね。そこは運次第だよ」
戦において不確定要素を数えだしたらきりがない。ともかく数ではこちらが勝っているのだ。アオイの本意ではない戦いだとは承知していたが、状況がここにまで至ってしまった今となってはせめて早く終わらせてしまうのが最善の方策だろう。
「じゃあ、始めようか。とっとと終わらせて、皇都のアオイ様とアサザに吉報を持って帰ろう」
頷いて、アカネは辺りを見回した。脇に控えた合図の太鼓係が撥を構える。
「全軍、進め!」
アカネの声と同時に太鼓が鳴る。一拍遅れて、一斉に甲冑が動く音が響く。
「歩兵大隊、前へ! 弓兵は二段の構え、用意!」
間髪入れずにブドウの指示が飛ぶ。太鼓が打ち鳴らされ、前線の形が変わっていく。
国王軍も動き出したようだ。鋭角にせり出した錐のような陣形、その矛先はまっすぐこちらの本陣を指している。
「中央突破するつもりか。悪いけどそう簡単にはさせないよ」
すかさず迎え撃つための合図が送られる。厚く布いて待ち受ける歩兵の正面に相手の先陣がぶつかった。喊声が上がる。たちまち彼我入り乱れる乱戦になった。
「魔法、使ってこないね」
アカネが言ったのは、国王軍の錐が皇帝軍の壁に削られ、跳ね返された頃だった。前進がやんでいる。逆に皇帝軍には勢いがあった。足の止まった国王軍に押し寄せ、確実にその外縁を突き崩している。ことに右翼の伸びが速い。相手の左翼を追い込み、どんどん進んでいる。
「向こうには国王がいる。まだ油断はできないよ」
「うん。でも魔法を使われる前に決着を着けれたら楽だよね。何も国王の命が目的じゃないんでしょう?」
「まあね。陛下からは反乱を鎮めろって言われてるだけだし」
「国王を捕まえることはできないかな。旗印を奪われちゃ、あっちだって戦い続けられないでしょう」
彼方の国王軍を見やって、アカネはぽつりと呟いた。
「兄上の友達らしいからさ。できれば死なせたくないんだよね」
「……そうだな」
ブドウは微笑をこぼした。アサザとレンギョウのことは聞いている。アサザを悲しませるようなことをしたくないのはブドウも同じだった。
「じゃあ、このまま包囲して国王を捕らえよう。数はこちらが上だし、勢いもあるから大丈夫だろう」
「あ、待って」
横に控えた伝令を呼ぼうとしたブドウを、アカネが止める。
「右翼には僕が行くよ」
「しかし、危険だぞ? 一番遠いし」
「だからだよ。途中で僕を見かけた兵たちの士気が上がるでしょう? 僕も働かないと、兄上たちに怒られちゃうからね」
しばし考えた末、ブドウは頷いた。どうやら今回は勝ち戦だ。アカネが姿を現せば、兵たちはますます勢いづくだろう。前線に出すことにためらいはあったが、混戦の中では相手も不用意に魔法など使えないという読みもあった。未だ若い皇子に経験を積ませるには良い機会かもしれない。
「わかった。ただしあまり深入りはするなよ」
「うん」
嬉しそうにアカネが答える。護衛役が素早く準備を整えた。ブドウの部下の中でも信頼の置ける兵が五名。がっちりと周囲を固められたアカネがブドウに笑顔を向けた。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
ブドウも笑顔を返す。それを認めて、アカネは馬を走らせた。緋の肩布が後ろに翻る。
「……将帥様だ!」
「皇子殿下が出られるぞ!」
飛び込んだ甲冑の群れから口々に歓声が上がった。兵たちの間を走るどよめきを追いかけるように、緋色が戦場を駆け抜ける。
「皆、前進だ! こんな戦い、早く終わらせよう!」
少し高めの、幼さを残した声はよく通る。それに応えて皇帝軍は一気に攻勢を強めた。それぞれの手に持った武器を構えて、国王軍へと突き進んでいく。
アカネはただ一心に手綱を操る。アサザ仕込の乗馬は得意な方だが、何せ足元には障害物が多い。倒れた兵など踏みつけては危険な上に気分の良いものでもないから、充分に注意しながら進んだ。一歩進むたびに前線に近づいているのが分かる。剣戟が耳よりも先に体を震わせた。恐怖と興奮が同時にこみ上げてくる。いつの間にか、右手が腰に佩いた剣の柄を握り締めていた。
「アカネ様、これ以上は危険です」
護衛の声にアカネは我に返った。周囲の護衛たちが速度を落とし、油断のない目を国王軍の方へと向けている。位置は長く伸びた右翼の中ほどといったところか。敵の姿は見えないが、既に戦端が開かれた場所を過ぎている。確かにこれ以上進むのは無謀だろう。
「ああ、そうだね。ありがとう」
アカネは手綱を緩めた。突撃を続ける兵たちの邪魔にならないよう、人波から外れた場所に馬を止める。見たところ包囲網は順調に進んでいるようだ。どうやら充分に役目は果たせたらしい。
「よし、じゃあ戻ろうか。あまり遅くなるとブドウが心配する」
上がり続ける鬨の声を確認して、安堵の笑みを浮かべたアカネが馬の首を返そうとした、その時だった。
最初に聞こえたのは鋭い風鳴りだった。続いて上がる悲鳴。一瞬にして場を支配する音が変わっていた。
アカネの背筋を冷たいものがなぞる。振り向いた先に広がっていたのは倒れ伏し、蹲る皇帝軍の兵たち。その体を踏み越えてこちらに近づいてくる一団が見えた。先頭は薙刀を持った大柄な男だ。鈍く光る角張った鎧は皇帝軍のものではない。男の後ろには軽装を纏っただけの影が五つ、そのようないでたちは重装備の皇帝軍ではありえない。
「国王軍!」
護衛たちに緊張が走る。次々に抜剣する彼らを、薙刀の男が不敵な笑みを浮かべて見やる。
「第三皇子にして皇帝軍将帥、アカネ殿とお見受けする」
「そうですが、あなたは」
努めて動揺を抑えながらアカネが問い返す。こんなに間近で敵と相対することは想定外だった。対して男は余裕がある。
「俺は国王軍のイブキという。実はさっき採用されたばかりでね。手柄を立てなきゃ帰れないんだ。勝手で悪いが、一緒に来てもらうぜ」
イブキの左手が上がる。同時に後ろの五人の掌がアカネたちに向かってかざされた。
「!」
魔法、と直感的に悟る。咄嗟に腕で顔を庇った。刹那、突風が叩きつけられる。かまいたちでも起こったのか、頬から赤い筋が飛んだ。
踏みとどまった、と思ったのはつかの間だった。身を切り裂く風に驚いた馬が悲鳴を上げて次々と暴れ出した。護衛たちが振り落とされる。アカネ自身も後ろ足で立ち上がった馬を御しきれずに落馬する。
「ぐっ……!」
呻き声をこらえるのが精一杯だった。すぐに立ち上がろうとするものの、着慣れない鎧が邪魔して思うように動けない。
この機会をイブキが逃すはずもなかった。薙刀を構え、一気にアカネたちに接近する。悲鳴と血飛沫の中、何とかアカネは態勢を整えて剣を抜く。痛みと悔しさでかすむ景色に、最後の護衛が沈んだ。
アカネはただ一人、イブキと向かい合った。
「僕を、どうする気だ」
「皇帝との取引の人質になってもらう。命までどうこうする気はないから安心しろ」
手にした得物から滴る赤を前にしては、まるで説得力のない台詞だ。表情をこわばらせたアカネに、イブキが苦い笑いを向ける。
「そう警戒するなよ。俺だってガキの頃を知ってる奴を手にかけたくはない」
「子供の頃?」
「昔剣を習ったイブキおじさん、覚えてないか? 隙ありと見ればすぐに突っ込んでくる癖、治ってないみたいだな。まんまとこんなところにまで引きずり込まれやがって」
指摘された癖には覚えがあったが、イブキという名には心当たりがない。アカネは黙って眼前の男を睨み返した。
「その気迫は大したもんだ。やはりキキョウ様のお子だな。目がそっくりだ」
突然飛び出した母の名にアカネの剣先が揺れる。しまったと思った時にはもうイブキの巨体が目の前にあった。
「あんたの弱点は表情が読みやすいことだな。機会があったらまた稽古をつけてやるよ」
どん、と首筋に重い衝撃が走った。急速に暗転していく視界の中、隅で緋色が躍った。転々と汚れが落ちたそれは、見る間に闇に呑まれて消えていく。まるで今の自分のようだと思ったのを最後に、アカネの意識は途切れた。
***************************************************************
<予告編>
「あなたには、失望しました」
敵陣の只中でアカネはレンギョウと向かい合う。
兄の友人。分かり合えると信じていた。
しかし卑怯な策で自分を捕らえたのは、紛れもなくこの銀髪の国王なのだ。
会見の様子を見守りながら、コウリは心中に不吉な芽が吹くのを感じていた。
レンギョウが第二皇子アサザと行動を共にしたと知った時と同じ、
危うい均衡が崩れそうになる予感。
王家にとって戦士に連なる者は敵であるはずだった。
ましてやアカネは、皇帝の血を引く皇子なのだ。
なのに彼の主は、先程の面罵さえも受け流して穏やかに微笑んでいる。
それは王者の器というより、親しい者へ対する苦笑に近いように見えた。
——危険だ。
コウリは密かに拳を握り締めた。
守らねばならない。レンギョウを。王家を。
『DOUBLE LORDS』承章12、
決意は石のように重く、コウリの裡へと沈んでいく。
「な、なに?」
レンギョウの隣で戦況を見守っていたシオンがこわばった表情をそちらに向ける。彼女にとっては初めての戦、しかも先ほどまでの状況は明らかにこちらが不利だった。何らかの変化があれば敏感に反応するのも無理はない。
今回が初陣なのはレンギョウも同じだ。しかし人の上に立つ者としての経験はシオンより多少長い。冷静を保ったままの聴覚は、最早どよめきと言っていい程に大きくなったそれの中に悲鳴や嗚咽といった音を捉えていない。直截的な危険はなさそうだ。
「大丈夫だ。どうやらイブキが無事仕事を果たしたらしい」
レンギョウの言葉を裏付けるように、本陣に近づいてくる響きは次第に歓声を含んだものに変わっていく。逆に皇帝軍は動揺の色も露わに浮き足立ち、後退を始めていた。
深追いすることはない。レンギョウは戦闘終了の指示を出す。二つの軍が完全に離れた頃、本陣にイブキが現れた。その腕には緋色の肩布を纏った少年が抱えられている。腕を縛られ、剣を取り上げられた少年は悔しげに身体をよじっている。
その幼さを残した横顔にレンギョウは胸を衝かれた。一目で兄弟と判るほど、少年はアサザと良く似ていた。
「くそ、放せ」
「皇子様がそんな言葉を遣うのは感心せんな。抗議するならもっと上品にしろよ」
じたばたともがく少年を見かねて、レンギョウは声を上げた。
「イブキ、下ろしてやってくれぬか」
「陛下」
「良いのだ。少しその者と話がしてみたい」
異を唱えられる前にコウリを制して、レンギョウは前に進み出る。少年は草を踏み倒しただけの地面に下ろされていた。当然自由にされることはなく、戒めの縄をかけられたままイブキに両肩を掴まれているが、膝をついたまま上気した顔を上げてレンギョウを睨みつけている。
「ご苦労だった」
まずはイブキを労う。目線だけで応える男を確認してからレンギョウは少年に向き直った。
「第四代皇帝アザミの第三子、アカネだな?」
「……当代国王レンギョウ殿とお見受けします」
頷いて、レンギョウはまっすぐアカネの目を見つめた。
「アサザの、弟だな?」
視線を逸らすことなく、アカネもレンギョウを見返す。
「あなたには、失望しました」
ざわ、と座が乱れる。気色ばむコウリ、息を呑むシオン、イブキですら驚いた表情を浮かべている。周囲の兵士たちにも聞こえたのだろう、身に痛いほどの視線が中央の二人に向けられる。
「兄からあなたのことは聞いています。信じるに足る方だと思っていたのに、戦士を捕らえ恥を晒させるのみならず、父帝への脅しの道具として使うなど」
吐き捨てるようなその響きに、レンギョウは思わず苦笑する。敵陣の真ん中でここまで率直にものを言える胆力に、怒りより先に感心を覚えてしまう。
「確かに、この状況ではおぬしに何を言われても仕方がなかろうな」
レンギョウは努めて平静な口調で言った。先の発言で膨れ上がった敵意をアカネから逸らすためにも、ここで自分が悪感情を見せるわけにはいかない。自戒しつつ言葉を継ぐ。
「しかし余とて負けるために兵を起こしたわけではない。犠牲を減らして勝つ法があるのなら、そちらを選ぶのは道理であろう。おぬしも人の上に立つ者ならば理解できると思うが?」
ぐ、とアカネが言葉を詰まらせる。犠牲を減らす。勿論その言葉の意味は理解している。レンギョウの言葉が兵を指揮する者として至極真っ当なものであることも分かっている。しかし心のどこかがそれを受け入れるのを拒んでいた。
自分が捕まったことで五人の護衛の命が失われている。彼らは元々ブドウの部下だ。アカネが軽率に前線に出るなどと言わなければ無事だったかもしれない、その命。
いや、そもそも兵を起こし干戈を交えた時点で死者は出ているのだ。皇子と護衛、一般兵、そして敵。立場の重みの差は明確だ。戦いの中で誰を最優先に生かし、そのために誰を切り捨てるかなど問うまでもない。しかし初めて目の当たりにした人の死にアカネが感じたのは、無味乾燥な数の論理ではなく理屈を越えた恐怖と嫌悪だった。
肩に置かれたイブキの手がいやでも意識される。この手が握る刃の前では立場など関係がなかった。そう、ここでは誰もが犠牲者になりうるという事実に、目の前の国王はまだ気づいていないのだ。
「……それで、今度は僕を犠牲にするつもりですか?」
安全圏で全体を俯瞰する代わりに、死の刹那の平等を知らないレンギョウ。つい先ほどまでのアカネ自身がそうであったように。知らず自嘲の笑みが洩れる。
「第三皇子にして皇帝軍将帥のこの身ひとつと引き換えに、あなたの民がどれほど救われることか。なるほど、合理的ですね」
思えばおかしな話だ。イブキは命までどうこうする気はない、と言った。かつての知り合いだから、皇子だから生かすと。死の平等を見せつけた男が、同時に立場の不平等をも突きつける、その矛盾。
その時、初めてレンギョウの表情が変わった。強く真剣な光が青銀の瞳に煌く。
「それは違う。おぬしが皇子だから生かすのではない。アサザの弟だから生きていてほしいのだ」
——兄上の友達らしいからさ。
そう呟いた自分の声が耳に蘇った。レンギョウが国王だからではなく、アサザの友人であるが故に死なせたくないと願っていた自分。あれからまだ数刻しか経っていないのが嘘のようだった。
「余はおぬしを犠牲になどしない。決して」
「……甘いですね」
アカネの口から溜息が洩れる。
「そんなことで国王が務まるんですか? さすがは聖王と呼ばれる方だ」
でも、とかすれるほどに小さな声でアカネは続けた。
「何故あなたが兄上と友達になったのか、分かる気がします」
「それは光栄だのう」
レンギョウが小さく笑った。アカネの肩から力が抜けたのが分かる。完全に気を許した訳では、勿論ないだろう。しかしこれから語り合う余地は充分にあるはずだった。
ふと後ろに視線を向けると、心底ほっとした表情のシオンと目が合った。良かったね、と口許が動くのを読み取って、レンギョウは微笑する。周囲の敵意も随分ほぐれたようだ。あくまで鷹揚に構え続けた国王の態度に安心したためだろうか。
とはいえ、この場にいつまでもアカネを置いておくわけにはいかない。レンギョウはいつも通り脇に控えるコウリを振り返った。
「コウリ、どこかに空いている天幕が——」
途切れた言葉を、レンギョウは思わず呑み込んだ。いつも側にいる見慣れた顔。しかし今、その薄茶の瞳はレンギョウがかつて見たことのない昏さを湛えてじっと一点を凝視している。その視線の先にはうなだれたアカネの姿。
「……コウリ?」
ためらいがちなレンギョウの呼びかけに、コウリが弾かれたように顔を上げる。
「ああ、申し訳ありません陛下。何でしょうか」
恭しく尋ねるその態度はいつものコウリと何ら変わりがない。訝しく思いながらも、レンギョウはアカネを収容する天幕を用意するよう指示を出す。一礼してコウリが踵を返しかけた、その時だった。
「敵襲!」
傾きかけた太陽の下、不穏な叫びが響いた。本陣にいた者は例外なく顔を上げる。
「ど、どうしたの?」
「皇帝軍の突撃です! 右翼中央、交戦中!」
シオンの問いに間髪入れず物見の兵が答える。アカネを傍の兵に預けたイブキが短く問う。
「数は」
「騎兵およそ三千! しかし残存の歩兵四万も前進中! 間もなく右翼側面と接触します!」
「……だとよ。どうする、陛下?」
一斉に注目を集める中、レンギョウはきっぱりと言った。
「相手の目的は将帥の奪還であろう。こちらとて害意はない。その旨を伝え、一度退いてもらうとしよう」
「伝えるって、どうやって?」
まさか普通に使者を立てるわけにもいくまい。当然の疑問に悪戯っぽく笑ってレンギョウが答えた。
「案ずるな。とっておきの方法がある。コウリ、アカネを頼んだぞ」
「……はい」
レンギョウに続いてシオン、イブキが右翼へと向かう。その背を見送って、コウリはアカネを振り返った。
「お待たせしましたアカネ殿。どうぞ、こちらへ」
「あ、うん」
慇懃な言葉の中にどこか禍々しいものを感じて、アカネは一瞬足を止める。しかし拘束された身でそう長く立ち止まっていることはできない。縄を持った兵士に抱えられるように、アカネは真新しい天幕の一つへと入っていった。
<予告編>
何としてでも、アカネを無事に取り戻す!
ブドウ決死の奪還戦が始まった。
自ら陣頭に立ち指揮を執るブドウ。
その勢いに後退していく国王・中立地帯連合軍。
しかし進撃は唐突に終わりを告げる。
立ち塞がった壁の名はススキ。
戦況確認のためレンギョウとシオンが席を外し、
コウリとアカネだけが天幕に残された。
先程までのレンギョウとアカネの対面で、
コウリが抱き続けていた危惧は確信に変わっていた。
「あなたがたは危険だ」
昏い光を孕んだコウリの手に握られていたものとは——
次回『DOUBLE LORDS』承章13、急展開。
レンギョウの隣で戦況を見守っていたシオンがこわばった表情をそちらに向ける。彼女にとっては初めての戦、しかも先ほどまでの状況は明らかにこちらが不利だった。何らかの変化があれば敏感に反応するのも無理はない。
今回が初陣なのはレンギョウも同じだ。しかし人の上に立つ者としての経験はシオンより多少長い。冷静を保ったままの聴覚は、最早どよめきと言っていい程に大きくなったそれの中に悲鳴や嗚咽といった音を捉えていない。直截的な危険はなさそうだ。
「大丈夫だ。どうやらイブキが無事仕事を果たしたらしい」
レンギョウの言葉を裏付けるように、本陣に近づいてくる響きは次第に歓声を含んだものに変わっていく。逆に皇帝軍は動揺の色も露わに浮き足立ち、後退を始めていた。
深追いすることはない。レンギョウは戦闘終了の指示を出す。二つの軍が完全に離れた頃、本陣にイブキが現れた。その腕には緋色の肩布を纏った少年が抱えられている。腕を縛られ、剣を取り上げられた少年は悔しげに身体をよじっている。
その幼さを残した横顔にレンギョウは胸を衝かれた。一目で兄弟と判るほど、少年はアサザと良く似ていた。
「くそ、放せ」
「皇子様がそんな言葉を遣うのは感心せんな。抗議するならもっと上品にしろよ」
じたばたともがく少年を見かねて、レンギョウは声を上げた。
「イブキ、下ろしてやってくれぬか」
「陛下」
「良いのだ。少しその者と話がしてみたい」
異を唱えられる前にコウリを制して、レンギョウは前に進み出る。少年は草を踏み倒しただけの地面に下ろされていた。当然自由にされることはなく、戒めの縄をかけられたままイブキに両肩を掴まれているが、膝をついたまま上気した顔を上げてレンギョウを睨みつけている。
「ご苦労だった」
まずはイブキを労う。目線だけで応える男を確認してからレンギョウは少年に向き直った。
「第四代皇帝アザミの第三子、アカネだな?」
「……当代国王レンギョウ殿とお見受けします」
頷いて、レンギョウはまっすぐアカネの目を見つめた。
「アサザの、弟だな?」
視線を逸らすことなく、アカネもレンギョウを見返す。
「あなたには、失望しました」
ざわ、と座が乱れる。気色ばむコウリ、息を呑むシオン、イブキですら驚いた表情を浮かべている。周囲の兵士たちにも聞こえたのだろう、身に痛いほどの視線が中央の二人に向けられる。
「兄からあなたのことは聞いています。信じるに足る方だと思っていたのに、戦士を捕らえ恥を晒させるのみならず、父帝への脅しの道具として使うなど」
吐き捨てるようなその響きに、レンギョウは思わず苦笑する。敵陣の真ん中でここまで率直にものを言える胆力に、怒りより先に感心を覚えてしまう。
「確かに、この状況ではおぬしに何を言われても仕方がなかろうな」
レンギョウは努めて平静な口調で言った。先の発言で膨れ上がった敵意をアカネから逸らすためにも、ここで自分が悪感情を見せるわけにはいかない。自戒しつつ言葉を継ぐ。
「しかし余とて負けるために兵を起こしたわけではない。犠牲を減らして勝つ法があるのなら、そちらを選ぶのは道理であろう。おぬしも人の上に立つ者ならば理解できると思うが?」
ぐ、とアカネが言葉を詰まらせる。犠牲を減らす。勿論その言葉の意味は理解している。レンギョウの言葉が兵を指揮する者として至極真っ当なものであることも分かっている。しかし心のどこかがそれを受け入れるのを拒んでいた。
自分が捕まったことで五人の護衛の命が失われている。彼らは元々ブドウの部下だ。アカネが軽率に前線に出るなどと言わなければ無事だったかもしれない、その命。
いや、そもそも兵を起こし干戈を交えた時点で死者は出ているのだ。皇子と護衛、一般兵、そして敵。立場の重みの差は明確だ。戦いの中で誰を最優先に生かし、そのために誰を切り捨てるかなど問うまでもない。しかし初めて目の当たりにした人の死にアカネが感じたのは、無味乾燥な数の論理ではなく理屈を越えた恐怖と嫌悪だった。
肩に置かれたイブキの手がいやでも意識される。この手が握る刃の前では立場など関係がなかった。そう、ここでは誰もが犠牲者になりうるという事実に、目の前の国王はまだ気づいていないのだ。
「……それで、今度は僕を犠牲にするつもりですか?」
安全圏で全体を俯瞰する代わりに、死の刹那の平等を知らないレンギョウ。つい先ほどまでのアカネ自身がそうであったように。知らず自嘲の笑みが洩れる。
「第三皇子にして皇帝軍将帥のこの身ひとつと引き換えに、あなたの民がどれほど救われることか。なるほど、合理的ですね」
思えばおかしな話だ。イブキは命までどうこうする気はない、と言った。かつての知り合いだから、皇子だから生かすと。死の平等を見せつけた男が、同時に立場の不平等をも突きつける、その矛盾。
その時、初めてレンギョウの表情が変わった。強く真剣な光が青銀の瞳に煌く。
「それは違う。おぬしが皇子だから生かすのではない。アサザの弟だから生きていてほしいのだ」
——兄上の友達らしいからさ。
そう呟いた自分の声が耳に蘇った。レンギョウが国王だからではなく、アサザの友人であるが故に死なせたくないと願っていた自分。あれからまだ数刻しか経っていないのが嘘のようだった。
「余はおぬしを犠牲になどしない。決して」
「……甘いですね」
アカネの口から溜息が洩れる。
「そんなことで国王が務まるんですか? さすがは聖王と呼ばれる方だ」
でも、とかすれるほどに小さな声でアカネは続けた。
「何故あなたが兄上と友達になったのか、分かる気がします」
「それは光栄だのう」
レンギョウが小さく笑った。アカネの肩から力が抜けたのが分かる。完全に気を許した訳では、勿論ないだろう。しかしこれから語り合う余地は充分にあるはずだった。
ふと後ろに視線を向けると、心底ほっとした表情のシオンと目が合った。良かったね、と口許が動くのを読み取って、レンギョウは微笑する。周囲の敵意も随分ほぐれたようだ。あくまで鷹揚に構え続けた国王の態度に安心したためだろうか。
とはいえ、この場にいつまでもアカネを置いておくわけにはいかない。レンギョウはいつも通り脇に控えるコウリを振り返った。
「コウリ、どこかに空いている天幕が——」
途切れた言葉を、レンギョウは思わず呑み込んだ。いつも側にいる見慣れた顔。しかし今、その薄茶の瞳はレンギョウがかつて見たことのない昏さを湛えてじっと一点を凝視している。その視線の先にはうなだれたアカネの姿。
「……コウリ?」
ためらいがちなレンギョウの呼びかけに、コウリが弾かれたように顔を上げる。
「ああ、申し訳ありません陛下。何でしょうか」
恭しく尋ねるその態度はいつものコウリと何ら変わりがない。訝しく思いながらも、レンギョウはアカネを収容する天幕を用意するよう指示を出す。一礼してコウリが踵を返しかけた、その時だった。
「敵襲!」
傾きかけた太陽の下、不穏な叫びが響いた。本陣にいた者は例外なく顔を上げる。
「ど、どうしたの?」
「皇帝軍の突撃です! 右翼中央、交戦中!」
シオンの問いに間髪入れず物見の兵が答える。アカネを傍の兵に預けたイブキが短く問う。
「数は」
「騎兵およそ三千! しかし残存の歩兵四万も前進中! 間もなく右翼側面と接触します!」
「……だとよ。どうする、陛下?」
一斉に注目を集める中、レンギョウはきっぱりと言った。
「相手の目的は将帥の奪還であろう。こちらとて害意はない。その旨を伝え、一度退いてもらうとしよう」
「伝えるって、どうやって?」
まさか普通に使者を立てるわけにもいくまい。当然の疑問に悪戯っぽく笑ってレンギョウが答えた。
「案ずるな。とっておきの方法がある。コウリ、アカネを頼んだぞ」
「……はい」
レンギョウに続いてシオン、イブキが右翼へと向かう。その背を見送って、コウリはアカネを振り返った。
「お待たせしましたアカネ殿。どうぞ、こちらへ」
「あ、うん」
慇懃な言葉の中にどこか禍々しいものを感じて、アカネは一瞬足を止める。しかし拘束された身でそう長く立ち止まっていることはできない。縄を持った兵士に抱えられるように、アカネは真新しい天幕の一つへと入っていった。
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<予告編>
何としてでも、アカネを無事に取り戻す!
ブドウ決死の奪還戦が始まった。
自ら陣頭に立ち指揮を執るブドウ。
その勢いに後退していく国王・中立地帯連合軍。
しかし進撃は唐突に終わりを告げる。
立ち塞がった壁の名はススキ。
戦況確認のためレンギョウとシオンが席を外し、
コウリとアカネだけが天幕に残された。
先程までのレンギョウとアカネの対面で、
コウリが抱き続けていた危惧は確信に変わっていた。
「あなたがたは危険だ」
昏い光を孕んだコウリの手に握られていたものとは——
次回『DOUBLE LORDS』承章13、急展開。
私が守ってやるよ。
最前自分自身が口にした言葉を、苦い思いで噛み締める。
やはり、前線になど出すのではなかった。
皇子にして、将帥。その身を確実に守ろうと思うのなら、決して己の傍から離してはならなかったのだ。
第一報をもたらしたのは名も知れぬ歩兵だった。前線から必死に走ってきたのだろう、泥まみれの姿が痛々しいほどに皇帝軍の動揺を物語っている。
無論、前線で何かが起こったことはブドウも把握していた。それまで順調だった右翼の伸展がいきなり止まり、後退を始めたからだ。
すぐさまブドウは状況確認を試みた。今、右翼にはアカネがいる。戦況の変化とアカネが無関係とは到底思えなかった。どんなに目を凝らしても戦場に緋色は見当たらない。鏡を用いた合図にも、連絡を促す太鼓にも応えはなかった。
右翼を中心に広がる波紋、応答のない合図、やけに大きく聞こえる国王軍の喊声。確信に近い予感が思考を黒く塗りつぶしていく。そしてそれは泥人形の歩兵を目にした瞬間に現実となった。
アカネには護衛として五名の騎兵を付けている。彼らが戻らない。歩兵より確実に速いはずの騎兵が。それは何よりも雄弁にアカネの身に起きた変事を指し示していた。
やっとの思いで退却の指示を絞り出す。国王軍と完全に離れる頃には、ブドウの下に次々と将帥拉致の詳報が伝えられていた。少数ながら魔法を使う兵による待ち伏せだったこと。中心になったのは薙刀遣いの男であること。そして初報では不明だったアカネの安否についても、どうやら生きたまま捕まったらしいことが確認された。その点においてだけ、ブドウは心から安堵の溜息を吐いた。
しかし状況は厳しい。既にアカネが攫われたことは全軍に知れている。ざわめき立つ皇帝軍に対し、国王軍は明らかに高揚していた。時折風に紛れて、聞きたくもない歓声が吹きつけてくる。その中心で今もなおアカネがただ独り戦っているかと思うと、じっとしてなどいられなかった。
取り戻さなければ。
別れ際の笑顔が蘇る。そう、守ると約束した。
甘い判断でアカネを前線に出し窮地に陥らせたのは他でもない自分だ。結果、兵たちに更なる戦いを強いようとしているのも。責任を感じるからこそ、率先して動かねばならない。短く喝を入れて、ブドウは顔を上げた。日没までまだ数刻はある。
何としてでも、無事に取り戻す。
瞳に力を込めて、ブドウは彼方の国王軍を睨んだ。
冬の陽が傾くのは早い。先程よりも色を増した太陽を横目にブドウは草原を駆ける。後ろに幾重にも続くのは重い蹄鉄の響き。この三千の騎兵は本陣を守るため待機を命じていた部隊だ。アカネ不在の今となっては温存していても仕方がない。彼ら自身も戦いへの参加を望んでいた。護衛役としてアカネと接する機会も多かっただけ、奪還作戦に対する士気も高い。
ブドウ率いる先陣の目的はただ一つ、国王軍中枢にいるアカネを救い出すこと。とは言え相手は今なお三万を越える兵を残している。騎兵だけでの突破は不可能だ。
そのため騎兵隊の後ろには残存の皇帝軍歩兵四万が控えている。先ほどの戦いで若干消耗してはいるものの、その数は充分に武器になる。彼らには積極的に干戈を交えることより、騎兵が切り開いた道を守り退路を確保することを命じてあった。騎兵隊の後ろにぴったり歩兵がいれば、少なくとも背後を取られ包囲されることは防げる。帰りにはアカネを伴わなければならないのだ。救出隊が孤立するような事態にだけは決して陥ってはならない。
午後の陽を視界の後方に感じながら、ブドウは左を目指して前進する。立ち塞がるのは敵の右翼。自警団所属の兵たちだろう、不揃いな鉄色の輝きが一呼吸ごとに近づいてくる。
楔を打ち込む箇所として右を選んだのは、先程アカネを奪ったのが左翼だったからだ。薙刀遣いの男とやらを己の手で締め上げてやりたい気持ちは無論ある。だがそれ以上にブドウは作戦の破綻を警戒した。相手は老獪だ。わざと前線を伸ばして隙を見せ、若い皇子をおびき寄せた。経験不足はブドウも同じこと。自分までもが同じ轍を踏むわけにはいかない。
ちらりとブドウは敵の正面に目を走らせた。相手の中枢に至る最短路は白銀の甲冑で埋めつくされている。正規国王軍。代々の国王の髪と同じ貴色で鎧うことを許された、国王を守るためだけの兵。幾重にも重なる層の厚さはそのまま忠誠心の表れでもある。中央突破は諦めざるを得なかった。
意識して息を整えた後、改めて眼前の壁を見据える。あえて選んだ相手とはいえ、右翼とて簡単な相手ではないことは重々承知している。現に今も、肉薄するブドウたちに対して陣形を整えつつある様子がありありと見て取れた。勿論、準備が整うまで待つつもりはない。
「行くよっ!!」
言葉に気合を込めて、ブドウは腰の剣を抜いた。鞘走りの音が、鞍に置かれた槍を取る音が、背後から鋭く馬蹄の轟きに混じる。
得物を構えて敵陣の中に切り込む。その瞬間、ブドウの周りから一切の音が消えた。刃から伝わる重い衝撃、膝をついて崩れ落ちる鉄色の鎧の兵、頬に散った生温かい赤、興奮した馬の筋肉の震え。怒号の坩堝と化しているはずの戦場で、独りブドウは無音の中にいた。そのくせ喉を通り抜ける空気の流れ、纏った甲冑の軋み、そういったものは普段より鋭敏に感じられる。まるで五感の全てが視覚と触覚に集約されてしまったかのような感覚。
高揚する気分をブドウは自覚していた。あれこれと考えを巡らせる時間は終わった。後は目的を遂げるため突き進むのみ。
前にいるのは見慣れない角ばった鎧だけ。背後から攻撃されないところを見ると、どうやら部下たちはきちんとついて来ているようだ。そのことにブドウは満足し、己の耳には聞こえない叫びを上げて愛馬を急かす。もっと早く、もっと深く。この壁の向こうには自分の助けを待っている人がいる。
鉄色の兵の一人と目が合った。恐怖で眦まで見開かれた目。そこに映るのは笑みさえ浮かべた自分の顔だった。
結局、戦いが好きなのだろう。
血塗れた剣を兵の喉元に向けて構えながらブドウは思う。刃を振るい戦場を駆けるのは、策を巡らし思考の袋小路を彷徨うより余程性に合っている。実際に身体を動かしているという感覚が伴う分、自責の念も薄れる。兵を預かる立場としては失格かもしれないな、と自嘲気味に微笑んだ瞬間だった。
わずかな隙に剣が跳ね上げられた。驚いて眼前の兵を見る。不恰好な鉄色を着た彼は、目どころか口さえも開けっ放しで喉笛から逸れた切っ先を呆然と見つめていた。その表情はブドウの剣を払いのける程の手練とはとても思えない。
素早くブドウは視線を滑らせ、新たな敵手を探す。すぐに兵との間に割り込んだ長剣を見つけた。その柄を握るのは日に焼けた骨ばった手。
「行け」
剣の持ち主は薄い唇をわずかに動かして平坦な声を紡ぎ出した。きょとんとした兵は、ようやく命拾いしたことを悟ったのか一度大きく痙攣した。
「あ、ありがとうございます、ススキさん!」
いつの間にこんなに接近していたのだろう。背後にぴったりと馬を寄せたススキに言い置いて、兵は脱兎のごとく自軍の中へ潜り込む。すぐにその姿は同じ鉄色に紛れて見えなくなった。
その声を合図に、戦場の喧騒がブドウの聴覚にも届くようになっていた。耳を聾するほどの剣戟や叫び声の中、身を守るために最低限の鎧しか纏っていない男に好戦的な笑みを投げる。
「へえ、あんたススキって名前だったのかい。顔は知ってたけど、そういや今まで名乗ってもらったことはなかったね」
ススキは答えない。ブドウは作り笑いのまま、慎重に間合いを計る。
これまでに何度か経験した中立地帯での自警団との衝突。その際、前任の副将帥から告げられた。長身の軽装騎兵が現れたら気をつけろと。皇帝軍の被害を拡大し続けてきた、要注意人物だと。
不吉な言葉が外れることはなかった。当時は戦況を遠目から見守るだけだったブドウでさえ、二度目の出陣からはその姿を戦塵の中に探すことを覚えていた。実際に指揮を執るようになってからは尚更だ。
その騎兵個人の武勲が突出しているわけではない。厄介なのは味方を正確に指揮し、たとえ劣勢であっても大多数が逃げ切ることが可能な程度に態勢を立て直せる統率力だった。彼がいればたとえ勝利を得られなくても、決して負けることはない。
当然この戦いの最中も、ブドウはこの男の動向に注意していた。これまでは多くて千人程度の勢力での小競り合い、一人軽装の男は目に付いた。だが今回は膨大な友軍に紛れてなかなか見つからない。そうこうしているうちに前線は伸び切り、アカネを誘い込む罠が開いたのだった。
よりによってこの時機に当たるとは。舌打ちをこらえてブドウは言葉を継ぐ。
「なあ、そこをどいちゃくれないか? 急いでいるんだ」
「それはできん。邪魔をするのが俺の役目だ」
硬質の意思を映すかのように長い刃が光った。得物を構え直したススキが馬の腹を蹴る。咄嗟に跳ね上げたブドウの剣の柄に重い衝撃が伝わった。取り落とさないよう、慌てて強く握り込む。
「貴殿こそ退いてはどうだ。皇子を取り戻すのが目的ならば、まずは使者を立て話し合いの場を設けるのが筋だろう」
「そんな悠長なこと、言ってられるか」
鋭く言葉を吐くのと同時に、ブドウは切っ先を返した。がっしりと組み合った刃の上下が入れ替わり、今度はススキが防御に回る。
「どうせお前たちは、あの子を利用して陛下と取引するつもりだろう」
アザミの冷え冷えとした横顔がブドウの脳裏に浮かぶ。あの皇帝が末息子のために不利な条件を呑むとは思えなかった。縦しんば要求が通ったとしても、その後のアカネの皇都での立場は確実に悪くなる。それらを防ぐためには、どうあってもこの突撃でアカネの身柄を取り戻すしかなかった。
二つの刃がぶつかるたび、乾いた金属音が鼓膜を叩く。打ち込みの数はブドウの方が多い。ススキはそれを受け流すだけで、攻撃してくる気配はない。
積極的にブドウを倒すつもりはない。しかし進撃の邪魔はする。先程の言葉はそういう意味だったのだろう。後に続いていたはずの部下たちも、態勢を立て直した自警団によって前進を阻まれているようだ。ブドウを頂点に鋭角を描いていた突撃陣がみるみる押しつぶされていく。ブドウの顔に焦りがよぎった。
その心を映すかのように、刃の輝きが鈍った。同時に背後から射していたはずの斜陽が翳る。ススキとの間合いを離して、ブドウは空を見上げた。雲ひとつなかったはずのそこにあったのは真っ黒な塊。不穏な雷鳴を轟かせながら瞬く間に膨張し、太陽を、戦場を覆っていく。
「剣を、納めよ」
凛とした声が響いた。不思議なほど良く通るその声に、ブドウと同様に天候の急変に戸惑っていた兵たちが一斉に顔を上げる。鉄色と鋼色に塗りつぶされていた色彩の中、白銀の騎馬団がこちらに進んでくる。その中央には一際華奢な少年。その右手がつと上げられる。
瞬間、雷光が閃いた。眩さに瞼を伏せる刹那、網膜に灼きついたのは輝く銀の髪。
これが、魔法。これが、聖王。
こみあげる畏怖をブドウは必死でこらえた。皇帝が与える恐怖とは明らかに違う、しかし人を跪かせるという意味ではまったく同質のその力。現に皇帝軍の中には武器を取り落としたまま戦意を喪失した様子の者さえいる。
「剣を納めよ」
もう一度レンギョウが言う。同時に天空で轟音が鳴り響いた。思わず首をすくめたブドウの前に、ついに白銀の一団が辿り着く。
「ススキ、ご苦労だった。ここからは余の仕事だ。下がれ」
一礼したススキが場を譲る。その剣は既に鞘に納められている。
レンギョウがブドウへと顔を向けた。少女と見紛う程に幼く見える容貌は、人形のように整っている。周囲を護る兵のように鎧を着るでもなく、武器を持つでもなく。ただ威厳だけを纏ったその姿に、ブドウは完全に呑み込まれていた。青銀の射抜くような視線が言葉すら出せないブドウの顔をじっと見据える。やがてレンギョウは目線を下方に流した。その先には未だ抜き身のままの血で汚れた剣。そこでようやく、ブドウは刃を納めるどころか馬から下りてさえもいなかった事実に思い至る。
「しっ、失礼いたしました!」
慌てて剣を納め、地に膝をつく。部下たちも同様だった。魔法にかかったかのように、皇帝軍が国王に跪く。
「咎めはせぬ。面を上げよ」
レンギョウの言葉に、ブドウはただ首を横に振った。
「……では、このまま言う。此方に皇子アカネへの害意はない。時が来れば無事に帰すつもりだ。兵を退き、しばし待つが良い」
ブドウの肩が震えた。レンギョウの言葉に嘘は感じられない。しかしそれでは不足だった。
不利な取引の道具とされた瞬間から、皇帝はアカネを己にとって不要な存在と見做すだろう。その後に待つのは皇帝の黙殺を受けながらの飼い殺しの日々。父帝から見放される不遇を目の当たりにするのは、アオイの時だけで充分だった。
「畏れながら申し上げます、国王」
顔を上げないままブドウが言う。雷鳴を背負う国王への畏怖から、その声はかすれている。
「皇子を捕らえられたのは皇帝陛下との話し合いのためと拝察します。しかし陛下の人となりを考えると、たとえ皇子の身柄と引き換えであろうとも、そちらの要望を伝えるのは難しいかと」
「それは、皇帝が皇子を見殺しにするという意味か?」
ブドウの沈黙に答えを悟ったのだろう、レンギョウの声音に痛ましげな色が混じる。
「しかしこちらとしても、他に手段がないのだ。余の望みを直接皇帝に伝える術がない以上、多少強引にでも意思表示はせねばならぬ」
「ならば私が陛下への使者となります」
口に出した瞬間、ブドウの中で何かがかちりと噛み合った。そう、要は国王側から要求を突きつけられるような事態に至った責任をアカネに背負わせなければいいという話なのだ。すべては副将帥である自分の独断であり、誤りであると。アザミ相手にそのような小細工がどの程度通じるのかは分からない。しかし人質を間に挟んだ取引と、身内から立った使者が国王との仲立ちを務めるのとでは事柄の意味と重さがまったく違ってくる。敵の手に落ちた皇子よりも、裏切りとさえ言える行為をしたブドウに非難は集まるだろう。
己を犠牲にすれば、アカネを助けられる。ブドウは静かに覚悟を決めた。
「貴方の希望を陛下に伝え、それを実現するために最大限の努力をすることを誓いましょう。その代わり、皇子の身柄をこちらへ返していただきたい」
しばらくレンギョウの返事はなかった。ブドウはじっと待つ。
「……余の望みは皇帝と会うことだ。国を預かる者同士が一度も顔を合わせずして、どうして戦という大事を収められよう。余らは互いについて知らないことが多すぎる」
やがて落ちてきた声は苦渋を含んだ重いものだった。小さく溜息を吐いて、レンギョウは続ける。
「すまぬ。結局余の望みを叶える為には、誰かを利用せねばならないようだ」
それは、これまでのどの言葉より彼の感情が込められているように聞こえた。緊張していたブドウの口許が緩む。たとえ天候を変えるほどの魔力を持った者であろうとも、レンギョウが一人の人間であることに違いはない。そう、彼はアサザの友人でもあるのだから。
「いいのですよ。大事の前の小事です。それに、そろそろ嫁に行くのも悪くないと思っていたところですし」
初めてブドウは顔を上げた。戸惑ったような表情のレンギョウに笑って見せる。
「軍を辞めるのにいい口実ができました。どうかお気に病まれませんよう」
大きな雷鳴が天幕を震わせた。先程までは快晴だったはずだ。何が起こっているのか確かめたくても、両腕を拘束されている状況ではそれもままならない。仕方なくアカネは地べたに座ったままの姿勢で、隅で沈黙を守る監視者に声を掛ける。
「あの、何が起こってるんですか?」
「……レンギョウ様がお力を使ってらっしゃるのでしょう」
国王の側役だというその男の答えは短い。天幕に入ってからずっとその調子だった。自ら監視役を引き受けたにも関わらず、何を話しかけてもそっけない言葉しか返ってこない。人払いをしてあるらしく他に人の気配は感じられなかった。アカネは小さく息を吐いた。
また低く雷が響く。これはレンギョウの力。すなわち魔法が今まさに揮われているということ。相手は勿論皇帝軍だ。その下にいるであろうブドウの顔を思い浮かべ、アカネの心は焦燥に駆られる。
皇子と呼ばれ、将帥と呼ばれていながら、何もできない。何かを成すどころか、縄をかけられ監視されているこの現状。自己嫌悪に陥りそうになって、アカネは慌てて思考を止めた。今は思い悩むより先にやるべきことがあるはずだった。
「以前、皇都に見えた使者の方ですよね? たしか、コウリ殿とか」
とりあえず情報を集めなければ。隙を見て脱出するにしろ、状況を把握できていないことには始まらない。まずは目の前の男から話を聞く。できることから始める、というのはアサザ譲りの流儀でもあった。
今のところ唯一の情報源であるその男は、記憶の中の雄弁さとはまるで別人のようだ。その瞳の昏さに気後れを覚えつつ、殊更に明るい声でアカネは続ける。
「それにしても魔法とはすごい力なんですね。まんまとしてやられた僕が言うのも何ですけど」
コウリの答えはない。構わずアカネは言葉を継いだ。
「風を起こしたり、雷を呼んだり。そんなことされちゃ、ちょっとくらい剣が巧くても仕方ないじゃないですか。反則ですよ。そんな相手が束になって出てこられたらたまったもんじゃないですよね」
「貴方は」
ふいに割り込んだコウリの声に、咄嗟にアカネは口を噤む。
「貴方は何故、この状況でそんなことを話していられるのです? 貴方の置かれた現状と外の魔法、それらはまったく関係のないことではありませんか」
「関係なくはないですよ」
少しむっとしてアカネが答える。
「僕の仲間が戦ってるんです。少しでも状況を知りたいと思うのは当然のことじゃないですか」
「仲間、ですか」
天幕の中に澱む闇が濃くなったように思えるのは気のせいだろうか。その闇に紛れてゆらり、とコウリが立ち上がる。
「そんなに大事なものなのですか? 仲間だとか、友人だとかいうものは」
「当たり前じゃないですか」
「そうですか」
ふと途切れたコウリの声に、アカネはひやりとしたものを感じた。拘束され敵陣の真ん中にいるはずの自分より、コウリの方が追い詰められた声音をしているのは何故だろう。心臓の拍動が加速するのが分かった。何か、とても嫌な感じがする。
コウリが一歩を踏み出した。その右手から長いものが伸びている。訝しげにアカネが目を細めた瞬間。
天幕の厚い布地を貫くほどの雷光が閃いた。長いものが光を弾き返す。その輝きは、最前目にしたイブキの薙刀と同じ種類のもの。今度こそ、アカネはぞっと身体を竦ませた。抜き身の刃は即ち、死の具現だった。
「あなたがたは危険だ。レンギョウ様にとって。国王領にとって」
恐らく剣などろくに握ったこともないのだろう。装飾の多いそれはどちらかというと細身であったが、持ち慣れない重さに重心の定まらない切っ先が揺れている。それでもアカネに向けられた害意だけは明確だった。
「王家にとって、戦士に連なる者は敵であるべきなのです。ましてや皇帝の血を引く皇子など。危うい均衡の上にある王家を存続させるためには、友人など必要ない。王が特定の者に執着することなど、あってはならない」
半ば自分に言い聞かせるようなその台詞を、アカネが気に留める余裕など無論なかった。必死に身をよじり、コウリとの距離を開けるため後退する。その努力を無にするかのように、両手に剣を持ち直したコウリが無造作にアカネに歩み寄る。
「アカネ殿。そして貴方の兄、アサザ殿。あなたがたは王家の在り方を根底から脅かす存在だ。レンギョウ様を、王家を守るためには消えてもらわねばならない」
呼吸が荒くなるのが分かる。背中が何かに当たった。後ろ手に回された手の甲には分厚い布地の感触。——追い詰められた。
いっぱいに見開いた視界の中、一撃目が降ってきた。左肩に激痛が走る。喉元で悲鳴を押し殺して、アカネは歯を食いしばった。
何故。訊きたいことが怒涛のように頭の中に押し寄せてきた。しかしそのどれもが言葉にはならず、断片のまま意識をすり抜けていく。二撃目が来た。今度は辛うじて躱した。
最早鼓動の響きは他の音を圧倒していた。まるで頭上にある雷鳴のように途切れず耳を聾し続けている。
ふと引っかかるものを感じて、アカネは動きを止めた。雷。そうだ、コウリとて貴族の血を引く者のはず。幾度も降り注ぐ痛みの中、ようやく疑問が質問として形を成した。
「どうして、魔法を使わない?」
声のかすれ具合に、アカネ自身が驚いた。いつの間にか、息をするのにも苦労するほど満身創痍になっていた。
コウリとて似たようなものだ。息を乱し、返り血を浴び、これではどちらが攻撃をしているのか分からない。アカネが投じた問いにも答えるつもりはないらしい。
己の問いに答えが返ってこなかった理由を、アカネは確信しつつあった。そう、コウリは魔法を使えないのだ。だからこそ強い魔力を持つレンギョウに拘り、王家に拘る。からくりを暴いたような気がして、アカネは声を上げて笑った。
「使えばいいじゃないか。僕は皇子だぞ。憎き戦士の一族を、王家の敵を、自慢の魔法で切り刻んでみればいいだろう」
アカネの挑発に、コウリの目の色が変わった。不規則な呼吸の中、細かく震える刃を振り上げる。鍔元に飾られた血の色の紅玉がかたかたと音を立てた。その様を睨み据え、アカネは全身に走る痛みを無視して大きく息を吸った。
「何が貴族だ! 魔法で僕を殺すこともできないくせに!」
その刹那、一際強い雷光が輝き、轟音が天幕を揺らした。
<予告編>
「何故、このようなことを……」
天幕の中、レンギョウは言葉を失った。
動かない少年の身体、抜き身の刃を下げた側役の蒼白な横顔。
そのいずれもが、べったりした血色で汚れていた。
「私はあなたを許さない」
女将軍の目に宿るのは悲しみの涙か、憎悪の炎か。
還るべき皇都で、
更なる悲愴が待ち受けていることを彼女は未だ知らない。
『DOUBLE LORDS』承章14、はじまりの戦が、終わる。
最前自分自身が口にした言葉を、苦い思いで噛み締める。
やはり、前線になど出すのではなかった。
皇子にして、将帥。その身を確実に守ろうと思うのなら、決して己の傍から離してはならなかったのだ。
第一報をもたらしたのは名も知れぬ歩兵だった。前線から必死に走ってきたのだろう、泥まみれの姿が痛々しいほどに皇帝軍の動揺を物語っている。
無論、前線で何かが起こったことはブドウも把握していた。それまで順調だった右翼の伸展がいきなり止まり、後退を始めたからだ。
すぐさまブドウは状況確認を試みた。今、右翼にはアカネがいる。戦況の変化とアカネが無関係とは到底思えなかった。どんなに目を凝らしても戦場に緋色は見当たらない。鏡を用いた合図にも、連絡を促す太鼓にも応えはなかった。
右翼を中心に広がる波紋、応答のない合図、やけに大きく聞こえる国王軍の喊声。確信に近い予感が思考を黒く塗りつぶしていく。そしてそれは泥人形の歩兵を目にした瞬間に現実となった。
アカネには護衛として五名の騎兵を付けている。彼らが戻らない。歩兵より確実に速いはずの騎兵が。それは何よりも雄弁にアカネの身に起きた変事を指し示していた。
やっとの思いで退却の指示を絞り出す。国王軍と完全に離れる頃には、ブドウの下に次々と将帥拉致の詳報が伝えられていた。少数ながら魔法を使う兵による待ち伏せだったこと。中心になったのは薙刀遣いの男であること。そして初報では不明だったアカネの安否についても、どうやら生きたまま捕まったらしいことが確認された。その点においてだけ、ブドウは心から安堵の溜息を吐いた。
しかし状況は厳しい。既にアカネが攫われたことは全軍に知れている。ざわめき立つ皇帝軍に対し、国王軍は明らかに高揚していた。時折風に紛れて、聞きたくもない歓声が吹きつけてくる。その中心で今もなおアカネがただ独り戦っているかと思うと、じっとしてなどいられなかった。
取り戻さなければ。
別れ際の笑顔が蘇る。そう、守ると約束した。
甘い判断でアカネを前線に出し窮地に陥らせたのは他でもない自分だ。結果、兵たちに更なる戦いを強いようとしているのも。責任を感じるからこそ、率先して動かねばならない。短く喝を入れて、ブドウは顔を上げた。日没までまだ数刻はある。
何としてでも、無事に取り戻す。
瞳に力を込めて、ブドウは彼方の国王軍を睨んだ。
冬の陽が傾くのは早い。先程よりも色を増した太陽を横目にブドウは草原を駆ける。後ろに幾重にも続くのは重い蹄鉄の響き。この三千の騎兵は本陣を守るため待機を命じていた部隊だ。アカネ不在の今となっては温存していても仕方がない。彼ら自身も戦いへの参加を望んでいた。護衛役としてアカネと接する機会も多かっただけ、奪還作戦に対する士気も高い。
ブドウ率いる先陣の目的はただ一つ、国王軍中枢にいるアカネを救い出すこと。とは言え相手は今なお三万を越える兵を残している。騎兵だけでの突破は不可能だ。
そのため騎兵隊の後ろには残存の皇帝軍歩兵四万が控えている。先ほどの戦いで若干消耗してはいるものの、その数は充分に武器になる。彼らには積極的に干戈を交えることより、騎兵が切り開いた道を守り退路を確保することを命じてあった。騎兵隊の後ろにぴったり歩兵がいれば、少なくとも背後を取られ包囲されることは防げる。帰りにはアカネを伴わなければならないのだ。救出隊が孤立するような事態にだけは決して陥ってはならない。
午後の陽を視界の後方に感じながら、ブドウは左を目指して前進する。立ち塞がるのは敵の右翼。自警団所属の兵たちだろう、不揃いな鉄色の輝きが一呼吸ごとに近づいてくる。
楔を打ち込む箇所として右を選んだのは、先程アカネを奪ったのが左翼だったからだ。薙刀遣いの男とやらを己の手で締め上げてやりたい気持ちは無論ある。だがそれ以上にブドウは作戦の破綻を警戒した。相手は老獪だ。わざと前線を伸ばして隙を見せ、若い皇子をおびき寄せた。経験不足はブドウも同じこと。自分までもが同じ轍を踏むわけにはいかない。
ちらりとブドウは敵の正面に目を走らせた。相手の中枢に至る最短路は白銀の甲冑で埋めつくされている。正規国王軍。代々の国王の髪と同じ貴色で鎧うことを許された、国王を守るためだけの兵。幾重にも重なる層の厚さはそのまま忠誠心の表れでもある。中央突破は諦めざるを得なかった。
意識して息を整えた後、改めて眼前の壁を見据える。あえて選んだ相手とはいえ、右翼とて簡単な相手ではないことは重々承知している。現に今も、肉薄するブドウたちに対して陣形を整えつつある様子がありありと見て取れた。勿論、準備が整うまで待つつもりはない。
「行くよっ!!」
言葉に気合を込めて、ブドウは腰の剣を抜いた。鞘走りの音が、鞍に置かれた槍を取る音が、背後から鋭く馬蹄の轟きに混じる。
得物を構えて敵陣の中に切り込む。その瞬間、ブドウの周りから一切の音が消えた。刃から伝わる重い衝撃、膝をついて崩れ落ちる鉄色の鎧の兵、頬に散った生温かい赤、興奮した馬の筋肉の震え。怒号の坩堝と化しているはずの戦場で、独りブドウは無音の中にいた。そのくせ喉を通り抜ける空気の流れ、纏った甲冑の軋み、そういったものは普段より鋭敏に感じられる。まるで五感の全てが視覚と触覚に集約されてしまったかのような感覚。
高揚する気分をブドウは自覚していた。あれこれと考えを巡らせる時間は終わった。後は目的を遂げるため突き進むのみ。
前にいるのは見慣れない角ばった鎧だけ。背後から攻撃されないところを見ると、どうやら部下たちはきちんとついて来ているようだ。そのことにブドウは満足し、己の耳には聞こえない叫びを上げて愛馬を急かす。もっと早く、もっと深く。この壁の向こうには自分の助けを待っている人がいる。
鉄色の兵の一人と目が合った。恐怖で眦まで見開かれた目。そこに映るのは笑みさえ浮かべた自分の顔だった。
結局、戦いが好きなのだろう。
血塗れた剣を兵の喉元に向けて構えながらブドウは思う。刃を振るい戦場を駆けるのは、策を巡らし思考の袋小路を彷徨うより余程性に合っている。実際に身体を動かしているという感覚が伴う分、自責の念も薄れる。兵を預かる立場としては失格かもしれないな、と自嘲気味に微笑んだ瞬間だった。
わずかな隙に剣が跳ね上げられた。驚いて眼前の兵を見る。不恰好な鉄色を着た彼は、目どころか口さえも開けっ放しで喉笛から逸れた切っ先を呆然と見つめていた。その表情はブドウの剣を払いのける程の手練とはとても思えない。
素早くブドウは視線を滑らせ、新たな敵手を探す。すぐに兵との間に割り込んだ長剣を見つけた。その柄を握るのは日に焼けた骨ばった手。
「行け」
剣の持ち主は薄い唇をわずかに動かして平坦な声を紡ぎ出した。きょとんとした兵は、ようやく命拾いしたことを悟ったのか一度大きく痙攣した。
「あ、ありがとうございます、ススキさん!」
いつの間にこんなに接近していたのだろう。背後にぴったりと馬を寄せたススキに言い置いて、兵は脱兎のごとく自軍の中へ潜り込む。すぐにその姿は同じ鉄色に紛れて見えなくなった。
その声を合図に、戦場の喧騒がブドウの聴覚にも届くようになっていた。耳を聾するほどの剣戟や叫び声の中、身を守るために最低限の鎧しか纏っていない男に好戦的な笑みを投げる。
「へえ、あんたススキって名前だったのかい。顔は知ってたけど、そういや今まで名乗ってもらったことはなかったね」
ススキは答えない。ブドウは作り笑いのまま、慎重に間合いを計る。
これまでに何度か経験した中立地帯での自警団との衝突。その際、前任の副将帥から告げられた。長身の軽装騎兵が現れたら気をつけろと。皇帝軍の被害を拡大し続けてきた、要注意人物だと。
不吉な言葉が外れることはなかった。当時は戦況を遠目から見守るだけだったブドウでさえ、二度目の出陣からはその姿を戦塵の中に探すことを覚えていた。実際に指揮を執るようになってからは尚更だ。
その騎兵個人の武勲が突出しているわけではない。厄介なのは味方を正確に指揮し、たとえ劣勢であっても大多数が逃げ切ることが可能な程度に態勢を立て直せる統率力だった。彼がいればたとえ勝利を得られなくても、決して負けることはない。
当然この戦いの最中も、ブドウはこの男の動向に注意していた。これまでは多くて千人程度の勢力での小競り合い、一人軽装の男は目に付いた。だが今回は膨大な友軍に紛れてなかなか見つからない。そうこうしているうちに前線は伸び切り、アカネを誘い込む罠が開いたのだった。
よりによってこの時機に当たるとは。舌打ちをこらえてブドウは言葉を継ぐ。
「なあ、そこをどいちゃくれないか? 急いでいるんだ」
「それはできん。邪魔をするのが俺の役目だ」
硬質の意思を映すかのように長い刃が光った。得物を構え直したススキが馬の腹を蹴る。咄嗟に跳ね上げたブドウの剣の柄に重い衝撃が伝わった。取り落とさないよう、慌てて強く握り込む。
「貴殿こそ退いてはどうだ。皇子を取り戻すのが目的ならば、まずは使者を立て話し合いの場を設けるのが筋だろう」
「そんな悠長なこと、言ってられるか」
鋭く言葉を吐くのと同時に、ブドウは切っ先を返した。がっしりと組み合った刃の上下が入れ替わり、今度はススキが防御に回る。
「どうせお前たちは、あの子を利用して陛下と取引するつもりだろう」
アザミの冷え冷えとした横顔がブドウの脳裏に浮かぶ。あの皇帝が末息子のために不利な条件を呑むとは思えなかった。縦しんば要求が通ったとしても、その後のアカネの皇都での立場は確実に悪くなる。それらを防ぐためには、どうあってもこの突撃でアカネの身柄を取り戻すしかなかった。
二つの刃がぶつかるたび、乾いた金属音が鼓膜を叩く。打ち込みの数はブドウの方が多い。ススキはそれを受け流すだけで、攻撃してくる気配はない。
積極的にブドウを倒すつもりはない。しかし進撃の邪魔はする。先程の言葉はそういう意味だったのだろう。後に続いていたはずの部下たちも、態勢を立て直した自警団によって前進を阻まれているようだ。ブドウを頂点に鋭角を描いていた突撃陣がみるみる押しつぶされていく。ブドウの顔に焦りがよぎった。
その心を映すかのように、刃の輝きが鈍った。同時に背後から射していたはずの斜陽が翳る。ススキとの間合いを離して、ブドウは空を見上げた。雲ひとつなかったはずのそこにあったのは真っ黒な塊。不穏な雷鳴を轟かせながら瞬く間に膨張し、太陽を、戦場を覆っていく。
「剣を、納めよ」
凛とした声が響いた。不思議なほど良く通るその声に、ブドウと同様に天候の急変に戸惑っていた兵たちが一斉に顔を上げる。鉄色と鋼色に塗りつぶされていた色彩の中、白銀の騎馬団がこちらに進んでくる。その中央には一際華奢な少年。その右手がつと上げられる。
瞬間、雷光が閃いた。眩さに瞼を伏せる刹那、網膜に灼きついたのは輝く銀の髪。
これが、魔法。これが、聖王。
こみあげる畏怖をブドウは必死でこらえた。皇帝が与える恐怖とは明らかに違う、しかし人を跪かせるという意味ではまったく同質のその力。現に皇帝軍の中には武器を取り落としたまま戦意を喪失した様子の者さえいる。
「剣を納めよ」
もう一度レンギョウが言う。同時に天空で轟音が鳴り響いた。思わず首をすくめたブドウの前に、ついに白銀の一団が辿り着く。
「ススキ、ご苦労だった。ここからは余の仕事だ。下がれ」
一礼したススキが場を譲る。その剣は既に鞘に納められている。
レンギョウがブドウへと顔を向けた。少女と見紛う程に幼く見える容貌は、人形のように整っている。周囲を護る兵のように鎧を着るでもなく、武器を持つでもなく。ただ威厳だけを纏ったその姿に、ブドウは完全に呑み込まれていた。青銀の射抜くような視線が言葉すら出せないブドウの顔をじっと見据える。やがてレンギョウは目線を下方に流した。その先には未だ抜き身のままの血で汚れた剣。そこでようやく、ブドウは刃を納めるどころか馬から下りてさえもいなかった事実に思い至る。
「しっ、失礼いたしました!」
慌てて剣を納め、地に膝をつく。部下たちも同様だった。魔法にかかったかのように、皇帝軍が国王に跪く。
「咎めはせぬ。面を上げよ」
レンギョウの言葉に、ブドウはただ首を横に振った。
「……では、このまま言う。此方に皇子アカネへの害意はない。時が来れば無事に帰すつもりだ。兵を退き、しばし待つが良い」
ブドウの肩が震えた。レンギョウの言葉に嘘は感じられない。しかしそれでは不足だった。
不利な取引の道具とされた瞬間から、皇帝はアカネを己にとって不要な存在と見做すだろう。その後に待つのは皇帝の黙殺を受けながらの飼い殺しの日々。父帝から見放される不遇を目の当たりにするのは、アオイの時だけで充分だった。
「畏れながら申し上げます、国王」
顔を上げないままブドウが言う。雷鳴を背負う国王への畏怖から、その声はかすれている。
「皇子を捕らえられたのは皇帝陛下との話し合いのためと拝察します。しかし陛下の人となりを考えると、たとえ皇子の身柄と引き換えであろうとも、そちらの要望を伝えるのは難しいかと」
「それは、皇帝が皇子を見殺しにするという意味か?」
ブドウの沈黙に答えを悟ったのだろう、レンギョウの声音に痛ましげな色が混じる。
「しかしこちらとしても、他に手段がないのだ。余の望みを直接皇帝に伝える術がない以上、多少強引にでも意思表示はせねばならぬ」
「ならば私が陛下への使者となります」
口に出した瞬間、ブドウの中で何かがかちりと噛み合った。そう、要は国王側から要求を突きつけられるような事態に至った責任をアカネに背負わせなければいいという話なのだ。すべては副将帥である自分の独断であり、誤りであると。アザミ相手にそのような小細工がどの程度通じるのかは分からない。しかし人質を間に挟んだ取引と、身内から立った使者が国王との仲立ちを務めるのとでは事柄の意味と重さがまったく違ってくる。敵の手に落ちた皇子よりも、裏切りとさえ言える行為をしたブドウに非難は集まるだろう。
己を犠牲にすれば、アカネを助けられる。ブドウは静かに覚悟を決めた。
「貴方の希望を陛下に伝え、それを実現するために最大限の努力をすることを誓いましょう。その代わり、皇子の身柄をこちらへ返していただきたい」
しばらくレンギョウの返事はなかった。ブドウはじっと待つ。
「……余の望みは皇帝と会うことだ。国を預かる者同士が一度も顔を合わせずして、どうして戦という大事を収められよう。余らは互いについて知らないことが多すぎる」
やがて落ちてきた声は苦渋を含んだ重いものだった。小さく溜息を吐いて、レンギョウは続ける。
「すまぬ。結局余の望みを叶える為には、誰かを利用せねばならないようだ」
それは、これまでのどの言葉より彼の感情が込められているように聞こえた。緊張していたブドウの口許が緩む。たとえ天候を変えるほどの魔力を持った者であろうとも、レンギョウが一人の人間であることに違いはない。そう、彼はアサザの友人でもあるのだから。
「いいのですよ。大事の前の小事です。それに、そろそろ嫁に行くのも悪くないと思っていたところですし」
初めてブドウは顔を上げた。戸惑ったような表情のレンギョウに笑って見せる。
「軍を辞めるのにいい口実ができました。どうかお気に病まれませんよう」
大きな雷鳴が天幕を震わせた。先程までは快晴だったはずだ。何が起こっているのか確かめたくても、両腕を拘束されている状況ではそれもままならない。仕方なくアカネは地べたに座ったままの姿勢で、隅で沈黙を守る監視者に声を掛ける。
「あの、何が起こってるんですか?」
「……レンギョウ様がお力を使ってらっしゃるのでしょう」
国王の側役だというその男の答えは短い。天幕に入ってからずっとその調子だった。自ら監視役を引き受けたにも関わらず、何を話しかけてもそっけない言葉しか返ってこない。人払いをしてあるらしく他に人の気配は感じられなかった。アカネは小さく息を吐いた。
また低く雷が響く。これはレンギョウの力。すなわち魔法が今まさに揮われているということ。相手は勿論皇帝軍だ。その下にいるであろうブドウの顔を思い浮かべ、アカネの心は焦燥に駆られる。
皇子と呼ばれ、将帥と呼ばれていながら、何もできない。何かを成すどころか、縄をかけられ監視されているこの現状。自己嫌悪に陥りそうになって、アカネは慌てて思考を止めた。今は思い悩むより先にやるべきことがあるはずだった。
「以前、皇都に見えた使者の方ですよね? たしか、コウリ殿とか」
とりあえず情報を集めなければ。隙を見て脱出するにしろ、状況を把握できていないことには始まらない。まずは目の前の男から話を聞く。できることから始める、というのはアサザ譲りの流儀でもあった。
今のところ唯一の情報源であるその男は、記憶の中の雄弁さとはまるで別人のようだ。その瞳の昏さに気後れを覚えつつ、殊更に明るい声でアカネは続ける。
「それにしても魔法とはすごい力なんですね。まんまとしてやられた僕が言うのも何ですけど」
コウリの答えはない。構わずアカネは言葉を継いだ。
「風を起こしたり、雷を呼んだり。そんなことされちゃ、ちょっとくらい剣が巧くても仕方ないじゃないですか。反則ですよ。そんな相手が束になって出てこられたらたまったもんじゃないですよね」
「貴方は」
ふいに割り込んだコウリの声に、咄嗟にアカネは口を噤む。
「貴方は何故、この状況でそんなことを話していられるのです? 貴方の置かれた現状と外の魔法、それらはまったく関係のないことではありませんか」
「関係なくはないですよ」
少しむっとしてアカネが答える。
「僕の仲間が戦ってるんです。少しでも状況を知りたいと思うのは当然のことじゃないですか」
「仲間、ですか」
天幕の中に澱む闇が濃くなったように思えるのは気のせいだろうか。その闇に紛れてゆらり、とコウリが立ち上がる。
「そんなに大事なものなのですか? 仲間だとか、友人だとかいうものは」
「当たり前じゃないですか」
「そうですか」
ふと途切れたコウリの声に、アカネはひやりとしたものを感じた。拘束され敵陣の真ん中にいるはずの自分より、コウリの方が追い詰められた声音をしているのは何故だろう。心臓の拍動が加速するのが分かった。何か、とても嫌な感じがする。
コウリが一歩を踏み出した。その右手から長いものが伸びている。訝しげにアカネが目を細めた瞬間。
天幕の厚い布地を貫くほどの雷光が閃いた。長いものが光を弾き返す。その輝きは、最前目にしたイブキの薙刀と同じ種類のもの。今度こそ、アカネはぞっと身体を竦ませた。抜き身の刃は即ち、死の具現だった。
「あなたがたは危険だ。レンギョウ様にとって。国王領にとって」
恐らく剣などろくに握ったこともないのだろう。装飾の多いそれはどちらかというと細身であったが、持ち慣れない重さに重心の定まらない切っ先が揺れている。それでもアカネに向けられた害意だけは明確だった。
「王家にとって、戦士に連なる者は敵であるべきなのです。ましてや皇帝の血を引く皇子など。危うい均衡の上にある王家を存続させるためには、友人など必要ない。王が特定の者に執着することなど、あってはならない」
半ば自分に言い聞かせるようなその台詞を、アカネが気に留める余裕など無論なかった。必死に身をよじり、コウリとの距離を開けるため後退する。その努力を無にするかのように、両手に剣を持ち直したコウリが無造作にアカネに歩み寄る。
「アカネ殿。そして貴方の兄、アサザ殿。あなたがたは王家の在り方を根底から脅かす存在だ。レンギョウ様を、王家を守るためには消えてもらわねばならない」
呼吸が荒くなるのが分かる。背中が何かに当たった。後ろ手に回された手の甲には分厚い布地の感触。——追い詰められた。
いっぱいに見開いた視界の中、一撃目が降ってきた。左肩に激痛が走る。喉元で悲鳴を押し殺して、アカネは歯を食いしばった。
何故。訊きたいことが怒涛のように頭の中に押し寄せてきた。しかしそのどれもが言葉にはならず、断片のまま意識をすり抜けていく。二撃目が来た。今度は辛うじて躱した。
最早鼓動の響きは他の音を圧倒していた。まるで頭上にある雷鳴のように途切れず耳を聾し続けている。
ふと引っかかるものを感じて、アカネは動きを止めた。雷。そうだ、コウリとて貴族の血を引く者のはず。幾度も降り注ぐ痛みの中、ようやく疑問が質問として形を成した。
「どうして、魔法を使わない?」
声のかすれ具合に、アカネ自身が驚いた。いつの間にか、息をするのにも苦労するほど満身創痍になっていた。
コウリとて似たようなものだ。息を乱し、返り血を浴び、これではどちらが攻撃をしているのか分からない。アカネが投じた問いにも答えるつもりはないらしい。
己の問いに答えが返ってこなかった理由を、アカネは確信しつつあった。そう、コウリは魔法を使えないのだ。だからこそ強い魔力を持つレンギョウに拘り、王家に拘る。からくりを暴いたような気がして、アカネは声を上げて笑った。
「使えばいいじゃないか。僕は皇子だぞ。憎き戦士の一族を、王家の敵を、自慢の魔法で切り刻んでみればいいだろう」
アカネの挑発に、コウリの目の色が変わった。不規則な呼吸の中、細かく震える刃を振り上げる。鍔元に飾られた血の色の紅玉がかたかたと音を立てた。その様を睨み据え、アカネは全身に走る痛みを無視して大きく息を吸った。
「何が貴族だ! 魔法で僕を殺すこともできないくせに!」
その刹那、一際強い雷光が輝き、轟音が天幕を揺らした。
***************************************************************
<予告編>
「何故、このようなことを……」
天幕の中、レンギョウは言葉を失った。
動かない少年の身体、抜き身の刃を下げた側役の蒼白な横顔。
そのいずれもが、べったりした血色で汚れていた。
「私はあなたを許さない」
女将軍の目に宿るのは悲しみの涙か、憎悪の炎か。
還るべき皇都で、
更なる悲愴が待ち受けていることを彼女は未だ知らない。
『DOUBLE LORDS』承章14、はじまりの戦が、終わる。
先程の名残の遠雷が低く響いた。黒い雲は急速に散らばり、今日最後の残光が草原を紅に染め上げる。赤い草が揺れる様はまるで、昼間に流された幾多の血を飲み干してなお、まだ足りぬと大地が訴えるかのようだ。
不吉な想像に、慌ててレンギョウは頭を振った。
そう、戦いは終わったのだ。
たくさんの兵が犠牲となった。前線に出る際目にした物言わぬ骸たちは、どんな言葉よりも強烈な衝撃をレンギョウに与えていた。
自分の行動一つで、多くの命の行方が左右される。
頭ではとうの昔に理解していたことだった。王として国を預かる以上、そこに住む者の生命と生活を背負うのは当然のことだと。しかしその意味と己が下した決断の結果を肌で感じた時、レンギョウはそれまで抱いていた覚悟の甘さを心から恥じた。
泥濘の中には少数ながら国王軍の白い鎧があった。丸みのある鋼を着た皇帝軍の兵はさらに多い。最も目についたのは角ばった鉄で造られた自警団の装束だ。
身内と、敵と、庇護すべき者と。
命あるものとして動いている時には明確だったその違い。しかし紅の草原に沈んだ今では死の沈黙の中で全てが等しかった。仰ぐ領主が違おうと、暮らしを営む場が違おうと。皆、この島国で生まれ、育ち、死んでいった命。
ちらりと背後に意識を向ける。レンギョウを守る白銀の鎧たち。その向こうには馬を牽いたブドウが続いているはずだった。害意がないことを示すために兜を脱ぎ、赤茶の短髪を夕風になびかせている。レンギョウの要望を携えて皇都に戻った後、彼女が厳しい立場に立たされることは間違いない。しかし若葉色のその瞳には穏やかとさえ言える光が宿っていた。
無論ブドウも単身ではない。やはり下馬した十数人の兵が彼女を守るように囲んでいた。下手をするとブドウもろとも裏切者扱いされかねないことを承知で、アカネを迎えに行くことを望んだ者たちだという。それ以外の皇帝軍は先程まで待機していた場所まで戻っていた。
白銀と鋼色の鎧の間には軽装の騎兵がいる。何も言わず国王警護の最前線を任ずるところはススキらしい。レンギョウの口許に思わず苦笑が浮かぶ。
対照的に、共に前線に向かったイブキは途中で姿をくらましたままだ。
「聖王様の手並、拝ませてもらうぜ」
消え際の台詞が耳に蘇る。どうやら彼の試験はまだ終わってはいないらしい。今も何処かで成り行きを見物しているのだろうか。
一方のシオンは凄惨な戦場に入ってすぐに、馬を止めてしまった。その目線の先にはまだ若い自警団員の死体。声にならない呼びかけが洩れる。馬を下りて駆け寄り、その身体を揺さぶる。知人か、などとは問うまでもない。レンギョウは何も言わず護衛の一人にシオンを連れて本陣に戻るよう指示を出した。
今日のような戦を二度と起こさせはしない。
強くレンギョウは思う。立場は違えど、同じ国に生を享けた民がこれ以上失われるのは嫌だった。
これ以上犠牲を出さぬために、自分が今できることをする。曲がりなりにも国王である自分には、他の立場の者より打てる手は多いはずだ。手持ちの武器を活かすことを教えてくれた友と再び胸を張って会うためにも、こんな戦は早く終わらせなければならない。
本陣には幾張かの天幕が建てられている。野戦の最中であるから、造りは簡単なものだ。中央に張られた最も大きなものは司令部として用いられているが、レンギョウの休憩場所や倉庫として用意された小型のものもある。その中のどこかに、アカネはいるはずだった。
コウリが入った天幕はすぐに見つかった。本陣に詰めていた兵が示したのは司令部の裏手、正面からは目につきにくい小さなもの。成程、敵の将帥を出入りの激しい場所に置いていてはどんな事故が起こるか分からない。アカネの安全を確保するためにはこういった天幕の方が都合がいいのだろう。
そう考えたレンギョウは入り口の前で馬を下りる。周辺に兵の姿が見えないのがわずかに気になったが、軽く頭を振って悪い予感を追い払う。ここは自陣の真ん中、まして背後には国王軍の精鋭が控えている。身の危険を感じる要素など一かけらもない。加えてコウリは信頼に足る家臣だ。不吉な印象はきっと、背面から受ける残光で赤く染まった天幕の生地と長く伸びた影が齎す錯覚だろう。
「コウリ、おるか?」
声を掛けて、入り口に垂れた布を上げる。ぼんやりした薄闇の中、いくつかの黒い塊が見えた。
「コウリ?」
返事はない。一歩、レンギョウは天幕の中へと足を踏み入れた。途端に纏わりつく、粘り気のある空気。それが含む、覚えのある匂いに思わず眉を顰める。つい先程嗅いだばかりの、鉄錆にも似た独特の香り。
闇に目が慣れてきた。最初に目に入ったのは壁面の布に散った黒い飛沫。その正体を悟ることを恐れるように滑らせた視線の先、ようやく探し人の後ろ姿を見つける。亜麻色の髪を乱したまま立ちつくすコウリの右手には、未だ抜き身のままの細身の長剣。蒼白の頬を俯けて見下ろす先には、ぴくりとも動かない少年の身体があった。
咄嗟にレンギョウは後ろ手に掴んだままだった天幕の入り口を閉じた。誰もこの場を目にしないように。見られさえしなければ、ここで起こったことが取り消せるのではという祈りをもこめて。
「何故、このようなことを……」
むせ返るような血の匂いと色の中では、何もかもが現実感を欠いていた。全てが色褪せる中、レンギョウはただ呆然と側役の背中に呟きかけた。
通された天幕の中、ブドウは呆然と立ち尽くしていた。目の前には白い布で覆われた包み。ちょうど人一人分ほどの大きさのそれを、ただ見下ろすことしかできない。
既に日は昏れている。国王軍の本陣に入ってから随分待たされた。途中、いきなり陣内が慌しくなったのをじりじりしながら見守る。待機場所は相手の指定だから不用意に動くわけにもいかない。しばらくは状況も分からぬまま待つだけの時間が過ぎた。どうやら何かがあったらしい、というのは察せたが、それが何なのかまでは分からない。まさか、という黒い不安の芽を押し潰しながらじっと焦燥と戦う。
日が沈み月が天幕の屋根にかかる頃、ようやく迎えが来た。白銀の鎧に導かれて潜った隅の天幕。遅かったじゃないか。こちらの心配などどこ吹く風の、いつものやんちゃな声が出迎えてくれるものと思っていたのに。
「……どのような言葉を以っても償えぬことは承知だ。このような結果になってしまって本当にすまない」
のろのろと顔を上げると、銀髪の少年がいた。悲しげな、悔しげな表情を浮かべる見慣れない顔。神妙にうなだれる少年の言葉をきっかけに、背後に控えた部下たちから悲鳴にも似た嗚咽が洩れた。
これは何だ。生意気を言って周囲を苦笑させるでもなく、あちこち動き回って心配をかけるでもない。黙ったまま横たわるこれが、アカネだと言うのか。
起こった出来事は最早明白だった。しかしそれを受け入れることを感情が、身体が拒んでいた。
「よくも、皇子を」
ふらりと部下の一人が前に進み出た。制止することを思いつくより先に、その手に握られた懐剣の刃が目に入った。武器は先程全て預けたはず。ぼんやりとそんなことを考える。切れ切れに絞り出した呪詛の言葉が形を成したかのような、その光。
「国王——!」
「……やめろ!」
ブドウの喉から掠れた声が洩れるのと、部下の手から懐剣が弾き飛ばされたのはほとんど同時だった。刃が地に落ちる乾いた音に、白銀の鎧が自分の手槍を納める音が重なる。先程ブドウたちを先導してきた兵だ。そのまま襲撃者を拘束しようとした彼を、少年が軽く手を上げて止める。
「国王の名にかけて、これ以上約を違えるわけにはゆかぬ。せめておぬしらの身の安全だけは保証しよう」
黙って一礼して、白銀の鎧が壁際に下がる。ブドウはその姿から目が離せなかった。今目の前で成された、彼の仕事。
主を守る。少年を——国王を。かつて己がアカネに約束していながら、果たせなかった務め。
糸が切れた操り人形のように、懐剣を失った部下が崩れ落ちた。その口から洩れる慟哭。
ようやく、ブドウの頬にも熱いものが伝い落ちた。
守れなかった。
その思いだけが重く深く、心にのしかかってくる。
「国王レンギョウ、私は」
まっすぐ見上げてくる銀青の瞳を、ブドウはやっとの思いで見つめ返した。どんな罵声も受け止める覚悟をしているのだろう。確かな光を宿したその瞳に、闇を孕んだ己の顔が映っていた。
「私はあなたを許さない」
心に刻み込むように宣言する。レンギョウを憎めるように。この先も国王軍と戦えるように。
しかし麻痺した頭のどこかでは理解していた。最も怒り、憎み、許せぬ相手は、他でもない己自身だということを。
夜が明ける前に、両軍はそれぞれの都を目指して走り始めた。昨日この場で失われた兵の数は皇帝軍七千、中立地帯自警団九千、正規国王軍二十。その撤退は積み重ねた犠牲からの逃亡のようにも見えた。
もう、止められない。
同じ思いを抱く人々の群れの心中と同様、冬の空には鉛色の雲が転々と散らばっている。払暁と共に、戦の始まりが終わろうとしていた。
<予告編>
”茅”を探せ——
病床のアオイから託された任を果たすため、
”山の民”の村に足を踏み入れたアサザ。
破魔刀の眠る地で待っていたのは新たなる出会い、
そして不吉な予言。
「おぬしの兄弟、死ぬるぞ」
嗤い含みの声が語るのは失われた過去。
細い指先が示すのは混沌の未来。
その先で二人の領主の因縁の糸はより深く絡み合う。
凡てを知ることは幸いか。
『DOUBLE LORDS』次回、承章完結!
そう、戦いは終わったのだ。
たくさんの兵が犠牲となった。前線に出る際目にした物言わぬ骸たちは、どんな言葉よりも強烈な衝撃をレンギョウに与えていた。
自分の行動一つで、多くの命の行方が左右される。
頭ではとうの昔に理解していたことだった。王として国を預かる以上、そこに住む者の生命と生活を背負うのは当然のことだと。しかしその意味と己が下した決断の結果を肌で感じた時、レンギョウはそれまで抱いていた覚悟の甘さを心から恥じた。
泥濘の中には少数ながら国王軍の白い鎧があった。丸みのある鋼を着た皇帝軍の兵はさらに多い。最も目についたのは角ばった鉄で造られた自警団の装束だ。
身内と、敵と、庇護すべき者と。
命あるものとして動いている時には明確だったその違い。しかし紅の草原に沈んだ今では死の沈黙の中で全てが等しかった。仰ぐ領主が違おうと、暮らしを営む場が違おうと。皆、この島国で生まれ、育ち、死んでいった命。
ちらりと背後に意識を向ける。レンギョウを守る白銀の鎧たち。その向こうには馬を牽いたブドウが続いているはずだった。害意がないことを示すために兜を脱ぎ、赤茶の短髪を夕風になびかせている。レンギョウの要望を携えて皇都に戻った後、彼女が厳しい立場に立たされることは間違いない。しかし若葉色のその瞳には穏やかとさえ言える光が宿っていた。
無論ブドウも単身ではない。やはり下馬した十数人の兵が彼女を守るように囲んでいた。下手をするとブドウもろとも裏切者扱いされかねないことを承知で、アカネを迎えに行くことを望んだ者たちだという。それ以外の皇帝軍は先程まで待機していた場所まで戻っていた。
白銀と鋼色の鎧の間には軽装の騎兵がいる。何も言わず国王警護の最前線を任ずるところはススキらしい。レンギョウの口許に思わず苦笑が浮かぶ。
対照的に、共に前線に向かったイブキは途中で姿をくらましたままだ。
「聖王様の手並、拝ませてもらうぜ」
消え際の台詞が耳に蘇る。どうやら彼の試験はまだ終わってはいないらしい。今も何処かで成り行きを見物しているのだろうか。
一方のシオンは凄惨な戦場に入ってすぐに、馬を止めてしまった。その目線の先にはまだ若い自警団員の死体。声にならない呼びかけが洩れる。馬を下りて駆け寄り、その身体を揺さぶる。知人か、などとは問うまでもない。レンギョウは何も言わず護衛の一人にシオンを連れて本陣に戻るよう指示を出した。
今日のような戦を二度と起こさせはしない。
強くレンギョウは思う。立場は違えど、同じ国に生を享けた民がこれ以上失われるのは嫌だった。
これ以上犠牲を出さぬために、自分が今できることをする。曲がりなりにも国王である自分には、他の立場の者より打てる手は多いはずだ。手持ちの武器を活かすことを教えてくれた友と再び胸を張って会うためにも、こんな戦は早く終わらせなければならない。
本陣には幾張かの天幕が建てられている。野戦の最中であるから、造りは簡単なものだ。中央に張られた最も大きなものは司令部として用いられているが、レンギョウの休憩場所や倉庫として用意された小型のものもある。その中のどこかに、アカネはいるはずだった。
コウリが入った天幕はすぐに見つかった。本陣に詰めていた兵が示したのは司令部の裏手、正面からは目につきにくい小さなもの。成程、敵の将帥を出入りの激しい場所に置いていてはどんな事故が起こるか分からない。アカネの安全を確保するためにはこういった天幕の方が都合がいいのだろう。
そう考えたレンギョウは入り口の前で馬を下りる。周辺に兵の姿が見えないのがわずかに気になったが、軽く頭を振って悪い予感を追い払う。ここは自陣の真ん中、まして背後には国王軍の精鋭が控えている。身の危険を感じる要素など一かけらもない。加えてコウリは信頼に足る家臣だ。不吉な印象はきっと、背面から受ける残光で赤く染まった天幕の生地と長く伸びた影が齎す錯覚だろう。
「コウリ、おるか?」
声を掛けて、入り口に垂れた布を上げる。ぼんやりした薄闇の中、いくつかの黒い塊が見えた。
「コウリ?」
返事はない。一歩、レンギョウは天幕の中へと足を踏み入れた。途端に纏わりつく、粘り気のある空気。それが含む、覚えのある匂いに思わず眉を顰める。つい先程嗅いだばかりの、鉄錆にも似た独特の香り。
闇に目が慣れてきた。最初に目に入ったのは壁面の布に散った黒い飛沫。その正体を悟ることを恐れるように滑らせた視線の先、ようやく探し人の後ろ姿を見つける。亜麻色の髪を乱したまま立ちつくすコウリの右手には、未だ抜き身のままの細身の長剣。蒼白の頬を俯けて見下ろす先には、ぴくりとも動かない少年の身体があった。
咄嗟にレンギョウは後ろ手に掴んだままだった天幕の入り口を閉じた。誰もこの場を目にしないように。見られさえしなければ、ここで起こったことが取り消せるのではという祈りをもこめて。
「何故、このようなことを……」
むせ返るような血の匂いと色の中では、何もかもが現実感を欠いていた。全てが色褪せる中、レンギョウはただ呆然と側役の背中に呟きかけた。
通された天幕の中、ブドウは呆然と立ち尽くしていた。目の前には白い布で覆われた包み。ちょうど人一人分ほどの大きさのそれを、ただ見下ろすことしかできない。
既に日は昏れている。国王軍の本陣に入ってから随分待たされた。途中、いきなり陣内が慌しくなったのをじりじりしながら見守る。待機場所は相手の指定だから不用意に動くわけにもいかない。しばらくは状況も分からぬまま待つだけの時間が過ぎた。どうやら何かがあったらしい、というのは察せたが、それが何なのかまでは分からない。まさか、という黒い不安の芽を押し潰しながらじっと焦燥と戦う。
日が沈み月が天幕の屋根にかかる頃、ようやく迎えが来た。白銀の鎧に導かれて潜った隅の天幕。遅かったじゃないか。こちらの心配などどこ吹く風の、いつものやんちゃな声が出迎えてくれるものと思っていたのに。
「……どのような言葉を以っても償えぬことは承知だ。このような結果になってしまって本当にすまない」
のろのろと顔を上げると、銀髪の少年がいた。悲しげな、悔しげな表情を浮かべる見慣れない顔。神妙にうなだれる少年の言葉をきっかけに、背後に控えた部下たちから悲鳴にも似た嗚咽が洩れた。
これは何だ。生意気を言って周囲を苦笑させるでもなく、あちこち動き回って心配をかけるでもない。黙ったまま横たわるこれが、アカネだと言うのか。
起こった出来事は最早明白だった。しかしそれを受け入れることを感情が、身体が拒んでいた。
「よくも、皇子を」
ふらりと部下の一人が前に進み出た。制止することを思いつくより先に、その手に握られた懐剣の刃が目に入った。武器は先程全て預けたはず。ぼんやりとそんなことを考える。切れ切れに絞り出した呪詛の言葉が形を成したかのような、その光。
「国王——!」
「……やめろ!」
ブドウの喉から掠れた声が洩れるのと、部下の手から懐剣が弾き飛ばされたのはほとんど同時だった。刃が地に落ちる乾いた音に、白銀の鎧が自分の手槍を納める音が重なる。先程ブドウたちを先導してきた兵だ。そのまま襲撃者を拘束しようとした彼を、少年が軽く手を上げて止める。
「国王の名にかけて、これ以上約を違えるわけにはゆかぬ。せめておぬしらの身の安全だけは保証しよう」
黙って一礼して、白銀の鎧が壁際に下がる。ブドウはその姿から目が離せなかった。今目の前で成された、彼の仕事。
主を守る。少年を——国王を。かつて己がアカネに約束していながら、果たせなかった務め。
糸が切れた操り人形のように、懐剣を失った部下が崩れ落ちた。その口から洩れる慟哭。
ようやく、ブドウの頬にも熱いものが伝い落ちた。
守れなかった。
その思いだけが重く深く、心にのしかかってくる。
「国王レンギョウ、私は」
まっすぐ見上げてくる銀青の瞳を、ブドウはやっとの思いで見つめ返した。どんな罵声も受け止める覚悟をしているのだろう。確かな光を宿したその瞳に、闇を孕んだ己の顔が映っていた。
「私はあなたを許さない」
心に刻み込むように宣言する。レンギョウを憎めるように。この先も国王軍と戦えるように。
しかし麻痺した頭のどこかでは理解していた。最も怒り、憎み、許せぬ相手は、他でもない己自身だということを。
夜が明ける前に、両軍はそれぞれの都を目指して走り始めた。昨日この場で失われた兵の数は皇帝軍七千、中立地帯自警団九千、正規国王軍二十。その撤退は積み重ねた犠牲からの逃亡のようにも見えた。
もう、止められない。
同じ思いを抱く人々の群れの心中と同様、冬の空には鉛色の雲が転々と散らばっている。払暁と共に、戦の始まりが終わろうとしていた。
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<予告編>
”茅”を探せ——
病床のアオイから託された任を果たすため、
”山の民”の村に足を踏み入れたアサザ。
破魔刀の眠る地で待っていたのは新たなる出会い、
そして不吉な予言。
「おぬしの兄弟、死ぬるぞ」
嗤い含みの声が語るのは失われた過去。
細い指先が示すのは混沌の未来。
その先で二人の領主の因縁の糸はより深く絡み合う。
凡てを知ることは幸いか。
『DOUBLE LORDS』次回、承章完結!
その村はまるで、山肌にしがみついた昆虫の蛹のような姿をしていた。正午を過ぎてもなお霧のたゆたう谷の狭間。耳に痛いほどの静寂に包まれた石造りの簡素な建物群はまどろんでいるかのような、或いは既に抜け殻と化してしまったかのような。石くれだらけの峠をようやく越え、村を見下ろしたアサザが深く息を吐く。
「あれが”山の民”の村か」
険しい登り坂の終点を悟って、キキョウも傍らで呼吸を整えている。しっとりと汗を刷いた愛馬の首筋を、軽く叩いて励ましてやる。
「知らなかったな、母上の故郷がこんなに山奥だったなんて」
鼻面を寄せてくる相棒に笑いかけて、アサザは手綱を引いた。村へ続く下り道を、一人と一頭は無言で辿る。靴と蹄鉄が小石を踏みしめる音だけが谷間に響いた。
秘された武器”茅”が眠る場所。
幼い頃に亡くなった母が生まれ育った村。
そう思ってはみるものの、やはり実感などは湧かなかった。共にこれまで身の周りで語られることのなかった事柄だったからかもしれない。”茅”はその存在を封じられていたために。母については、その話題を父帝が禁じていたために。
現皇帝アザミの后、キキョウ。十年前に急逝した彼女が”山の民”出身であることは皇都でも意外と知られていない。
皇都西方に聳える山岳地帯には万年雪を頂く峰が幾重にも連なる。その懐深くで生活する”山の民”はこの島国で最も古くから生活してきた人々の末裔だと伝えられていた。高地の気候及び遊牧生活に合わせて発達した独特の衣装、食事、習慣、さらには山々を神と崇める信仰形態。浅黒い肌、山訛りと呼ばれる言葉遣いも、草原の民とは一線を画す特徴だった。彼ら自身はそのような相違点を指摘されることを嫌い、滅多に草原には下りてこない。
例外は皇帝に関する儀式の時だった。即位式、婚儀、そして葬儀。初代戦士の頃から伝わる慣例として、この三つの儀式についてだけは必ず”山の民”の代表が出席することになっている。彼らが立会人となって初めて儀式が成立するよう整えられた式次第は、島国統一から数百年を経た今もなお皇室と”山の民”とを分かちがたく結んでいた。
その背景には彼らが初代戦士アカザと共に魔王レンと最後まで戦った協力者であったという史実がある。戦後迎えられたアカザの后も”山の民”の娘だった。以後は三代毎に皇室に輿入れする慣習となっている。キキョウは四人目の花嫁だ。
母は、山を下りることが不安ではなかったのだろうか。
皇都とはあまりにも違う遥かな山並を横目にアサザはふと思う。母は十八歳で輿入れしたと聞いている。今の自分より歳下の娘が、しきたりとはいえ見ず知らずの土地に嫁ぐ。しかも相手は苛烈で鳴らした皇帝アザミである。無論夫が気に入らなかったからといって引き返すことなどできはしない。相当な覚悟が必要な旅路だったはずだ。
皇都と”山”は決して遠いわけではない。現にアサザも、麓までの道程は半日程度で走破している。
しかし村を見渡せるこの場所に辿り着いた現在、皇都を出て既に四日が経っていた。高地独特の天候の急変、未整備の悪路、薄まる空気。次々と行く手を阻む障害に、気だけが焦る日々だった。
そろそろ皇帝軍と国王軍が遭遇してもおかしくはない。近くて遠かった村へ向けて、アサザは足を早める。アカネの、ブドウの、レンギョウの顔が瞼に浮かぶ。彼らを戦わせることなど、あってはならない。
山襞を避けるように大きく折れた角を曲がった、その時だった。
ふいに目の前に人影が飛び出してきた。咄嗟にキキョウの手綱を引く。賢い愛馬は軽く鼻を鳴らしただけで足を止めた。その息遣いに驚いたのか、藍色の影が顔を上げる。
陽に灼けた顔。色褪せた藍染の羊毛と古びた革で拵えられた服。小柄で丸みを帯びた身体つき。大きな黒い目、頭を覆うような筒型の帽子。放牧の途中なのだろう、羊追いの手鞭を手にしている。まるで絵に描いたかのような”山の民”の少女だった。
「あ……」
突然の出来事にアサザが反応するより先、少女はまん丸い目を零れんばかりに見開いた。
「きゃああああー!!!」
お下げ髪を揺らして、少女はびっくりするほど大きな叫びを上げた。残響の山彦に、少女が連れていた羊どもが一斉に顔を上げる。呆気に取られるアサザにはお構いなしに、少女はくるりと村へと回れ右をした。
「とうちゃーん! 戦士が、戦士が来ちまったー!!」
そのまま、脱兎の如く村へと駆け出してしまう。アサザはただ呆然とその後姿を見送ることしかできない。
「……おーい?」
いまいち状況が飲み込めないアサザの耳に、不穏なざわめきが聞こえてくる。見回すと、少女が置いてきぼりにした十数頭の羊が周囲を取り囲んでいた。最前の叫び声のせいで動揺しているらしい。徐々に興奮が群れ全体に伝わり、高まっていくのが感じられる。
「とりあえず今、最優先でやらなきゃならんことは分かったぞ、キキョウ」
じりっ、と後ずさりしながらアサザは手綱を握り締める。心得たようにキキョウが大きく息を吐く。
「村まで走れ!」
一呼吸でキキョウの背に飛び乗ったアサザが眼下の村を示すのと、羊たちが暴れだすのはほぼ同時だった。
「あああもう、勘弁してくれよ!」
残された坂道を、アサザとキキョウは余韻も感傷もなく駆け抜けた。
村の入り口は潅木材で拵えた簡単な柵で閉じられていた。門とも言えないようなそれを、キキョウは一息に飛び越える。大した運動をしたわけでもないのに、すっかり呼吸が乱れてしまった。手綱を引いて足を止め、息を整えながら周囲に目を向ける。
どうやら村の入り口の広場のようだ。剥き出しの土が均されただけの粗末な造り。奥の家々の石材も、長い風雪を耐えてきた様子が一目で見て取れるほど摩耗している。背後の入り口の柵といい、先程の少女の古びた衣装といい、村の生活はあまり豊かではないようだ。
本当にこのような場所に”茅”は眠っているのか?
兄の情報を疑うわけではないが、思わずそんな疑問が頭に浮かぶ。人影さえも見当たらないような、寂れた”山の民”の村。
ふと、アサザは視線を感じて顔を上げた。目が動きを捉えるより先、ばたんと扉を閉める音が耳を打つ。それでもなお続く見られている、という感触。ひとつやふたつではない。周囲を見回してみる。薄く開いた扉、曇った窓、建物から伸びる影。注意深く探ってみると、そこかしこから潜めた息遣いが洩れてくる。人がいないわけではない。警戒しているのだ。自分を——戦士を。
慌ててアサザは馬を下りた。害意がないことを示すために両腕を広げる。
「驚かせてしまってすまなかった。俺は皇都のアサザという者だ。長と話がしたいのだが、案内を——」
アサザの口上を甲高い鳴き声が遮った。振り返ると、羊の群れが突進してくるのが柵越しに見える。どうやら先程振り切ったつもりだった羊たちが追いついてきたらしい。
「……勘弁してくれよ」
思わず頭を抱えたアサザを尻目に、村人たちが動き出した。躊躇いがちに扉が開かれ、わらわらと人が外に出てくる。姿を現してからの彼らの動きは迅速だった。柵に駆け寄った一人が鋭く口笛を吹く。途端に羊の動きが止まった。すかさず柵を抜けた数人が見る間に群れをなだめていく。
「へえ、すごいな」
「なんもさ。ここじゃ羊が暴れることなんて珍しかないかんな」
ふいにかけられた声にアサザは振り向いた。遠巻きにできた人垣の真ん中、村の奥に続く道から一人の男が歩いてきた。がっしりした体格を周囲と同じくすんだ藍色で包んでいる。その裾をしっかりと掴んでいるのは先程一目散に駆け去った少女だ。
「カタバミ、羊どもを小屋さ入れろ」
「あい、とうちゃん」
少女が頷いて父の傍を離れた。そのまま走り出しかけて、出口を塞ぐ格好のアサザに気づいて足を止める。どうするつもりかと見守るアサザから目を離さずに、少女は横歩きでじりじりと広場を回り込み始めた。
「で、皇都のアサザさんはこんな山奥に何の用?」
興味深いカタバミの動きにすっかり目を奪われていたアサザは、慌てて男に向き直った。アサザよりも背は低い。分厚い胸を反らして、腕組みしたまま睨めつけてくる。
「長と話がしたいって自分で名乗ったんだろ? 何の用だって訊いてるんよ」
「じゃあ、あんたがここの長?」
「そんなもんだ。オダマキっちゅうが、聞き覚えはないか?」
「……いや、悪いが」
ふん、と息を吐いてオダマキは眉を顰めた。
「キキョウのあほたんきょうが。俺の名前くらいちゃんと倅に教えとけっちゅうの」
「! 母上を知っているのか?」
「ああ、そりゃあな」
一瞬だけ、オダマキの目に複雑な色が浮かぶ。
「こんな小さな村で育ちゃみんな兄弟みたいなもんだかんな。知らん方がおかしい」
アサザは男を見つめ返した。見た目で推し量る年齢は三十代後半、言われてみれば母とはそう年齢が離れていないと気づく。とはいえその話題はあまり歓迎されていないようだ。言葉の取っ掛かりを見失って、アサザはしばし黙り込んだ。
「……”茅”という武器を探している。ここにあると聞いたのだが、覚えはあるか?」
気まずい雰囲気を脱するべく、ようやく口にした目的にオダマキはますます眉間の皺を深めた。
「武器?」
「ああ。破魔刀、とも呼ばれているとか」
「ふん」
息を吐いてオダマキはくるりと背を向けた。
「お、おい!」
「いいから黙ってついて来いって」
成り行きを見守っていた村人たちを散らすように手を振りながらオダマキは村の奥へと歩き出した。
「みんな聞こえたべ。爺さのとこさ行ってくる」
村人たちは顔を見合わせ、オダマキとアサザに道を譲った。すれ違いざま、横顔に向けられた視線に思わずアサザは振り返る。目を合わせることを避けるように顔を逸らした村人たちの背中に漂う感情。それは不吉な恐怖に良く似ていた。
村を見下ろす小高い崖の上に、それはあった。白い岩肌を穿つ洞窟。人一人がやっと通れるくらいの入り口を、オダマキが無言のまま潜り抜ける。置いていかれまいとアサザも慌てて入り口の枯れ木にキキョウの手綱を結わえ、中に入った。
たちまち薄闇と湿気が身を包む。予想ほど視界は暗くない。短い通路の先に光が見えた。どうやら奥に採光できる穴でも開いているらしい。
オダマキの背中を追って通路を進む。間もなくぽっかりと天井の開けた空間に出た。吹き抜けになっているのだろう、日の光が白く内部を照らし出している。
「爺さ」
広場を出て初めて、オダマキが声を出した。その視線の先に一人の老人を見つける。伸び放題の髭も髪も雪のように白い、痩せ枯れた姿。返事どころか振り返りもせず、光の真ん中に座り込んでいる。
「爺さ、客だ」
つかつかと歩み寄ったオダマキが折れそうに干からびた腕を掴む。引かれた拍子に、ばね仕掛けのように顎が上向いた。
「客、じゃと?」
髭越しに見える薄くひび割れた唇から、思いがけず豊かな声が響いた。
「皇都の小僧か。随分遅かったの」
びくりとアサザは身を震わせた。老人はまだ振り向いてもいない。何故、皇都からの客だと分かる?
『不思議そうな顔をしているな。我らがおぬしの来訪を識っていたこと……そんなに疑問か?』
立ちつくすアサザの耳に、不意に揶揄かうような囁きが流し込まれた。同時に背後から細い腕が首に回される感触。甘く低く、それでいて毒を含んだ声の持ち主を、咄嗟に身をよじって振りほどく。
「な、んだ」
先程抜けてきたばかりの通路には人の気配などなかったはず。振り返って愕然とする。目に入ったのは流れるような銀の髪。
「レン……?」
銀青色の瞳がにい、と細められる。人形のように整った容貌、細い手足は記憶にあるレンギョウと見紛うほど似ていた。しかし酷薄な笑みを刻んだ口許が、長い銀髪の下に隠した少女の特徴を示す身体が、目の前に立つ存在が友人とは別物であることを嫌でも認識させる。
「お前、何者だ?」
剣の柄に手をかけて、アサザは目の前の少女を睨みつけた。一糸纏わぬ素肌を隠そうともせず、少女が両腕を広げ朗々と言葉を紡ぐ。
『随分つれない台詞ではないか。おぬしは我を求めて此処まで来たのであろう?』
うっとりと謳うように、少女は己が名を口に載せた。
『我が名はカヤ。魔剣”茅”の守護者にして破魔術の要』
「何だと?」
嘲りとも嗤いともつかぬ表情のまま、カヤはアサザの胸元へぴたり、と指先を向けた。
『ぼんやりしていて良いのか? 我を携えて皇都に戻るのであろう? 早うせぬと』
瞬間、その唇が紛れもない嘲笑に歪められる。
『おぬしの兄弟、死ぬるぞ』
「……!」
思わず息を呑んだ。不吉な言葉を否定する気持ちと、まさかという言いしれない予感が同時に背筋を貫く。脳裏に閃いたのはこの世でただ一人の弟の笑顔。稲妻のように掻き消える面影を必死で手繰り寄せ、目の前の少女を象った存在を睨み据える。
「あいにくウチの弟はそう簡単にやられたりしないぜ。憎まれっ子世に憚るってな」
胸の裡に芽吹いた一片の暗黒を否定するように、殊更に強く口にする。アサザの虚勢を見取ってか、微笑を纏ったままカヤが囁く。
『ならば確かめるが良い。我を手に、その目でな』
寄せられた笑顔が溶けるように掻き消えていく。カヤが居た腕の中に残されたのは一振りの長刀だった。鞘も拵えも、全てが闇で染め上げたかのような漆黒。まるで守護者の意思を映しているかのようだ。
鍔際をきつく握り締めて、アサザは顔を上げる。オダマキと老人の姿が目に入った。
「悪いが、すぐにここを出たい。騒がせてすまなかった」
「待たれい、若き皇子よ」
踵を返しかけたアサザの背に豊かな声が掛けられる。振り向いた先、白い老人の強い光を湛えた目線と真っ向からぶつかる。
「また近いうちに会うこととなろう。儂はクルミと申す。覚えおかれよ」
「……アサザだ」
短く名乗って、アサザは老人に背を向けた。合わせた視線の中、宿る色が手の中にある刀のそれと同質に思えて不快だった。黒い鋼はどれだけ握り込んでも熱を宿さず、氷のように冷たい。
一路皇都へと駆け抜ける栗毛の馬を”山の民”たちが遠巻きに見送る。己が裾をぎゅっと握り締め、カタバミは遠ざかるその背を見つめていた。
災いが持ち出される。
あの、漆黒の刀が。
不吉な予感を振り払い、少女はいつものように山を見上げた。いつ、どんな時でも変わらずにある峰々。背負った蒼穹にまた翳りが見え始めた。
——雨に、なりそうだ。
<予告編>
死は、遠くにあるものだと思っていた。
氷雨降る皇都で、
弔鐘響く王都で、
深い哀しみの只中、
アサザとレンギョウは静かに覚悟する。
戦場での、友との再会を。
決意を秘めた紫瞳の少女、
白髪の翁が巡らす謀略、
血と狂気に染まる若葉色の飾り紐、
一片の甘味を差し出す藍の袖口。
「いくな、行くな——逝くな、アサザ」
『DOUBLE LORDS』転章、
破魔刀が示す漆黒の未来に抗う術を求めて、
それぞれの物語が動き出す。
険しい登り坂の終点を悟って、キキョウも傍らで呼吸を整えている。しっとりと汗を刷いた愛馬の首筋を、軽く叩いて励ましてやる。
「知らなかったな、母上の故郷がこんなに山奥だったなんて」
鼻面を寄せてくる相棒に笑いかけて、アサザは手綱を引いた。村へ続く下り道を、一人と一頭は無言で辿る。靴と蹄鉄が小石を踏みしめる音だけが谷間に響いた。
秘された武器”茅”が眠る場所。
幼い頃に亡くなった母が生まれ育った村。
そう思ってはみるものの、やはり実感などは湧かなかった。共にこれまで身の周りで語られることのなかった事柄だったからかもしれない。”茅”はその存在を封じられていたために。母については、その話題を父帝が禁じていたために。
現皇帝アザミの后、キキョウ。十年前に急逝した彼女が”山の民”出身であることは皇都でも意外と知られていない。
皇都西方に聳える山岳地帯には万年雪を頂く峰が幾重にも連なる。その懐深くで生活する”山の民”はこの島国で最も古くから生活してきた人々の末裔だと伝えられていた。高地の気候及び遊牧生活に合わせて発達した独特の衣装、食事、習慣、さらには山々を神と崇める信仰形態。浅黒い肌、山訛りと呼ばれる言葉遣いも、草原の民とは一線を画す特徴だった。彼ら自身はそのような相違点を指摘されることを嫌い、滅多に草原には下りてこない。
例外は皇帝に関する儀式の時だった。即位式、婚儀、そして葬儀。初代戦士の頃から伝わる慣例として、この三つの儀式についてだけは必ず”山の民”の代表が出席することになっている。彼らが立会人となって初めて儀式が成立するよう整えられた式次第は、島国統一から数百年を経た今もなお皇室と”山の民”とを分かちがたく結んでいた。
その背景には彼らが初代戦士アカザと共に魔王レンと最後まで戦った協力者であったという史実がある。戦後迎えられたアカザの后も”山の民”の娘だった。以後は三代毎に皇室に輿入れする慣習となっている。キキョウは四人目の花嫁だ。
母は、山を下りることが不安ではなかったのだろうか。
皇都とはあまりにも違う遥かな山並を横目にアサザはふと思う。母は十八歳で輿入れしたと聞いている。今の自分より歳下の娘が、しきたりとはいえ見ず知らずの土地に嫁ぐ。しかも相手は苛烈で鳴らした皇帝アザミである。無論夫が気に入らなかったからといって引き返すことなどできはしない。相当な覚悟が必要な旅路だったはずだ。
皇都と”山”は決して遠いわけではない。現にアサザも、麓までの道程は半日程度で走破している。
しかし村を見渡せるこの場所に辿り着いた現在、皇都を出て既に四日が経っていた。高地独特の天候の急変、未整備の悪路、薄まる空気。次々と行く手を阻む障害に、気だけが焦る日々だった。
そろそろ皇帝軍と国王軍が遭遇してもおかしくはない。近くて遠かった村へ向けて、アサザは足を早める。アカネの、ブドウの、レンギョウの顔が瞼に浮かぶ。彼らを戦わせることなど、あってはならない。
山襞を避けるように大きく折れた角を曲がった、その時だった。
ふいに目の前に人影が飛び出してきた。咄嗟にキキョウの手綱を引く。賢い愛馬は軽く鼻を鳴らしただけで足を止めた。その息遣いに驚いたのか、藍色の影が顔を上げる。
陽に灼けた顔。色褪せた藍染の羊毛と古びた革で拵えられた服。小柄で丸みを帯びた身体つき。大きな黒い目、頭を覆うような筒型の帽子。放牧の途中なのだろう、羊追いの手鞭を手にしている。まるで絵に描いたかのような”山の民”の少女だった。
「あ……」
突然の出来事にアサザが反応するより先、少女はまん丸い目を零れんばかりに見開いた。
「きゃああああー!!!」
お下げ髪を揺らして、少女はびっくりするほど大きな叫びを上げた。残響の山彦に、少女が連れていた羊どもが一斉に顔を上げる。呆気に取られるアサザにはお構いなしに、少女はくるりと村へと回れ右をした。
「とうちゃーん! 戦士が、戦士が来ちまったー!!」
そのまま、脱兎の如く村へと駆け出してしまう。アサザはただ呆然とその後姿を見送ることしかできない。
「……おーい?」
いまいち状況が飲み込めないアサザの耳に、不穏なざわめきが聞こえてくる。見回すと、少女が置いてきぼりにした十数頭の羊が周囲を取り囲んでいた。最前の叫び声のせいで動揺しているらしい。徐々に興奮が群れ全体に伝わり、高まっていくのが感じられる。
「とりあえず今、最優先でやらなきゃならんことは分かったぞ、キキョウ」
じりっ、と後ずさりしながらアサザは手綱を握り締める。心得たようにキキョウが大きく息を吐く。
「村まで走れ!」
一呼吸でキキョウの背に飛び乗ったアサザが眼下の村を示すのと、羊たちが暴れだすのはほぼ同時だった。
「あああもう、勘弁してくれよ!」
残された坂道を、アサザとキキョウは余韻も感傷もなく駆け抜けた。
村の入り口は潅木材で拵えた簡単な柵で閉じられていた。門とも言えないようなそれを、キキョウは一息に飛び越える。大した運動をしたわけでもないのに、すっかり呼吸が乱れてしまった。手綱を引いて足を止め、息を整えながら周囲に目を向ける。
どうやら村の入り口の広場のようだ。剥き出しの土が均されただけの粗末な造り。奥の家々の石材も、長い風雪を耐えてきた様子が一目で見て取れるほど摩耗している。背後の入り口の柵といい、先程の少女の古びた衣装といい、村の生活はあまり豊かではないようだ。
本当にこのような場所に”茅”は眠っているのか?
兄の情報を疑うわけではないが、思わずそんな疑問が頭に浮かぶ。人影さえも見当たらないような、寂れた”山の民”の村。
ふと、アサザは視線を感じて顔を上げた。目が動きを捉えるより先、ばたんと扉を閉める音が耳を打つ。それでもなお続く見られている、という感触。ひとつやふたつではない。周囲を見回してみる。薄く開いた扉、曇った窓、建物から伸びる影。注意深く探ってみると、そこかしこから潜めた息遣いが洩れてくる。人がいないわけではない。警戒しているのだ。自分を——戦士を。
慌ててアサザは馬を下りた。害意がないことを示すために両腕を広げる。
「驚かせてしまってすまなかった。俺は皇都のアサザという者だ。長と話がしたいのだが、案内を——」
アサザの口上を甲高い鳴き声が遮った。振り返ると、羊の群れが突進してくるのが柵越しに見える。どうやら先程振り切ったつもりだった羊たちが追いついてきたらしい。
「……勘弁してくれよ」
思わず頭を抱えたアサザを尻目に、村人たちが動き出した。躊躇いがちに扉が開かれ、わらわらと人が外に出てくる。姿を現してからの彼らの動きは迅速だった。柵に駆け寄った一人が鋭く口笛を吹く。途端に羊の動きが止まった。すかさず柵を抜けた数人が見る間に群れをなだめていく。
「へえ、すごいな」
「なんもさ。ここじゃ羊が暴れることなんて珍しかないかんな」
ふいにかけられた声にアサザは振り向いた。遠巻きにできた人垣の真ん中、村の奥に続く道から一人の男が歩いてきた。がっしりした体格を周囲と同じくすんだ藍色で包んでいる。その裾をしっかりと掴んでいるのは先程一目散に駆け去った少女だ。
「カタバミ、羊どもを小屋さ入れろ」
「あい、とうちゃん」
少女が頷いて父の傍を離れた。そのまま走り出しかけて、出口を塞ぐ格好のアサザに気づいて足を止める。どうするつもりかと見守るアサザから目を離さずに、少女は横歩きでじりじりと広場を回り込み始めた。
「で、皇都のアサザさんはこんな山奥に何の用?」
興味深いカタバミの動きにすっかり目を奪われていたアサザは、慌てて男に向き直った。アサザよりも背は低い。分厚い胸を反らして、腕組みしたまま睨めつけてくる。
「長と話がしたいって自分で名乗ったんだろ? 何の用だって訊いてるんよ」
「じゃあ、あんたがここの長?」
「そんなもんだ。オダマキっちゅうが、聞き覚えはないか?」
「……いや、悪いが」
ふん、と息を吐いてオダマキは眉を顰めた。
「キキョウのあほたんきょうが。俺の名前くらいちゃんと倅に教えとけっちゅうの」
「! 母上を知っているのか?」
「ああ、そりゃあな」
一瞬だけ、オダマキの目に複雑な色が浮かぶ。
「こんな小さな村で育ちゃみんな兄弟みたいなもんだかんな。知らん方がおかしい」
アサザは男を見つめ返した。見た目で推し量る年齢は三十代後半、言われてみれば母とはそう年齢が離れていないと気づく。とはいえその話題はあまり歓迎されていないようだ。言葉の取っ掛かりを見失って、アサザはしばし黙り込んだ。
「……”茅”という武器を探している。ここにあると聞いたのだが、覚えはあるか?」
気まずい雰囲気を脱するべく、ようやく口にした目的にオダマキはますます眉間の皺を深めた。
「武器?」
「ああ。破魔刀、とも呼ばれているとか」
「ふん」
息を吐いてオダマキはくるりと背を向けた。
「お、おい!」
「いいから黙ってついて来いって」
成り行きを見守っていた村人たちを散らすように手を振りながらオダマキは村の奥へと歩き出した。
「みんな聞こえたべ。爺さのとこさ行ってくる」
村人たちは顔を見合わせ、オダマキとアサザに道を譲った。すれ違いざま、横顔に向けられた視線に思わずアサザは振り返る。目を合わせることを避けるように顔を逸らした村人たちの背中に漂う感情。それは不吉な恐怖に良く似ていた。
村を見下ろす小高い崖の上に、それはあった。白い岩肌を穿つ洞窟。人一人がやっと通れるくらいの入り口を、オダマキが無言のまま潜り抜ける。置いていかれまいとアサザも慌てて入り口の枯れ木にキキョウの手綱を結わえ、中に入った。
たちまち薄闇と湿気が身を包む。予想ほど視界は暗くない。短い通路の先に光が見えた。どうやら奥に採光できる穴でも開いているらしい。
オダマキの背中を追って通路を進む。間もなくぽっかりと天井の開けた空間に出た。吹き抜けになっているのだろう、日の光が白く内部を照らし出している。
「爺さ」
広場を出て初めて、オダマキが声を出した。その視線の先に一人の老人を見つける。伸び放題の髭も髪も雪のように白い、痩せ枯れた姿。返事どころか振り返りもせず、光の真ん中に座り込んでいる。
「爺さ、客だ」
つかつかと歩み寄ったオダマキが折れそうに干からびた腕を掴む。引かれた拍子に、ばね仕掛けのように顎が上向いた。
「客、じゃと?」
髭越しに見える薄くひび割れた唇から、思いがけず豊かな声が響いた。
「皇都の小僧か。随分遅かったの」
びくりとアサザは身を震わせた。老人はまだ振り向いてもいない。何故、皇都からの客だと分かる?
『不思議そうな顔をしているな。我らがおぬしの来訪を識っていたこと……そんなに疑問か?』
立ちつくすアサザの耳に、不意に揶揄かうような囁きが流し込まれた。同時に背後から細い腕が首に回される感触。甘く低く、それでいて毒を含んだ声の持ち主を、咄嗟に身をよじって振りほどく。
「な、んだ」
先程抜けてきたばかりの通路には人の気配などなかったはず。振り返って愕然とする。目に入ったのは流れるような銀の髪。
「レン……?」
銀青色の瞳がにい、と細められる。人形のように整った容貌、細い手足は記憶にあるレンギョウと見紛うほど似ていた。しかし酷薄な笑みを刻んだ口許が、長い銀髪の下に隠した少女の特徴を示す身体が、目の前に立つ存在が友人とは別物であることを嫌でも認識させる。
「お前、何者だ?」
剣の柄に手をかけて、アサザは目の前の少女を睨みつけた。一糸纏わぬ素肌を隠そうともせず、少女が両腕を広げ朗々と言葉を紡ぐ。
『随分つれない台詞ではないか。おぬしは我を求めて此処まで来たのであろう?』
うっとりと謳うように、少女は己が名を口に載せた。
『我が名はカヤ。魔剣”茅”の守護者にして破魔術の要』
「何だと?」
嘲りとも嗤いともつかぬ表情のまま、カヤはアサザの胸元へぴたり、と指先を向けた。
『ぼんやりしていて良いのか? 我を携えて皇都に戻るのであろう? 早うせぬと』
瞬間、その唇が紛れもない嘲笑に歪められる。
『おぬしの兄弟、死ぬるぞ』
「……!」
思わず息を呑んだ。不吉な言葉を否定する気持ちと、まさかという言いしれない予感が同時に背筋を貫く。脳裏に閃いたのはこの世でただ一人の弟の笑顔。稲妻のように掻き消える面影を必死で手繰り寄せ、目の前の少女を象った存在を睨み据える。
「あいにくウチの弟はそう簡単にやられたりしないぜ。憎まれっ子世に憚るってな」
胸の裡に芽吹いた一片の暗黒を否定するように、殊更に強く口にする。アサザの虚勢を見取ってか、微笑を纏ったままカヤが囁く。
『ならば確かめるが良い。我を手に、その目でな』
寄せられた笑顔が溶けるように掻き消えていく。カヤが居た腕の中に残されたのは一振りの長刀だった。鞘も拵えも、全てが闇で染め上げたかのような漆黒。まるで守護者の意思を映しているかのようだ。
鍔際をきつく握り締めて、アサザは顔を上げる。オダマキと老人の姿が目に入った。
「悪いが、すぐにここを出たい。騒がせてすまなかった」
「待たれい、若き皇子よ」
踵を返しかけたアサザの背に豊かな声が掛けられる。振り向いた先、白い老人の強い光を湛えた目線と真っ向からぶつかる。
「また近いうちに会うこととなろう。儂はクルミと申す。覚えおかれよ」
「……アサザだ」
短く名乗って、アサザは老人に背を向けた。合わせた視線の中、宿る色が手の中にある刀のそれと同質に思えて不快だった。黒い鋼はどれだけ握り込んでも熱を宿さず、氷のように冷たい。
一路皇都へと駆け抜ける栗毛の馬を”山の民”たちが遠巻きに見送る。己が裾をぎゅっと握り締め、カタバミは遠ざかるその背を見つめていた。
災いが持ち出される。
あの、漆黒の刀が。
不吉な予感を振り払い、少女はいつものように山を見上げた。いつ、どんな時でも変わらずにある峰々。背負った蒼穹にまた翳りが見え始めた。
——雨に、なりそうだ。
***************************************************************
<予告編>
死は、遠くにあるものだと思っていた。
氷雨降る皇都で、
弔鐘響く王都で、
深い哀しみの只中、
アサザとレンギョウは静かに覚悟する。
戦場での、友との再会を。
決意を秘めた紫瞳の少女、
白髪の翁が巡らす謀略、
血と狂気に染まる若葉色の飾り紐、
一片の甘味を差し出す藍の袖口。
「いくな、行くな——逝くな、アサザ」
『DOUBLE LORDS』転章、
破魔刀が示す漆黒の未来に抗う術を求めて、
それぞれの物語が動き出す。
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