書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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かつてこの島国には戦があった。
誰もがその発端を忘れてしまうほどの長い戦乱……
それを終息させたのはたった一人の男だった。
王の位に就いた彼を人々は『魔王』と呼んだ。
彼が人ならぬ力——魔法を操ることで平和を実現したことに感謝と畏敬を込めて。
王位に就いた後、『魔王』は
戦の最後まで好敵手であった『戦士』と呼ばれる男にある役目を与えた。
己や己の子孫が過ちを犯したとき、
それを止めうる唯一の権限を『戦士』とその子孫に託したのだ。
『魔王』の死後、
彼の二人の子供のうち魔法に優れた姉が王位を継いだ。
弟はこれを認め、
以降の己の血筋は『貴族』と称し
王家たる姉の血を受け継ぐ者を輔佐し支援すると公言した。
『戦士』もこれを容認し
人格的にも優れた女王の下、島国は大いに栄えた。
時は下って四代目の王の時代。
時の王は政治をまったく顧みることがなかった。
『戦士』の末裔は役目を果たすため王の居城に出向いた。
一昼夜の話し合いの後、
王は『戦士』の末裔に全権を譲り渡すこととなった。
王は王都を中心とした狭い国王領で今までどおりの暮らしを続け、
かわりに『戦士』の末裔が国を動かす役目を担った。
これを受けた国民は『戦士』の末裔を『皇帝』と呼ぶようになり、
実質的な指導者として彼を受け入れた。
さらに時は流れて四代目の皇帝の時代。
腐敗しつつある政治に人々は疲れ果てていた。
そんな時、一人の『戦士』の血を引く若者が国王領へ入り込む。
彼の名はアサザ。
そこでの出会いがその後の人生を大きく変えることになるとは露知らず、
彼は初めて見る王都を眺めていた——
「ようやく見えた……」
アサザが立った丘から、その壁はよく見渡すことができた。陽光を受け白く輝くそれは長く広く、円を描いて包み込んだ街を守っている。かなりの距離を隔てたここからもその城壁が巨大なものであることは見て取れた。
「あの中のどこかに国王がいる……」
アサザの背筋がぞくりと震えた。神々しささえ感じるその街——王都に不敵な笑みを投げ、アサザは目線を落とした。
「キキョウ、もう少しだ。行くぞ」
低い嘶きで応えたのは見事な栗毛の馬だった。アサザの足が横腹に当たると同時、4本の力強い脚が地を蹴る。
一気に丘を下る。アサザの短い黒髪が一斉に吹き付けてきた風で乱れた。髪の状態などまったく意に介さず、アサザはまっすぐ前を向いていた。
巨大な城壁はなかなか近づかない。流れていく周りの景色の速さと比べて何と遅いことか。
太陽は天頂を少し過ぎたところだ。特に急がなくても夕暮れまでには城壁に辿り着くことはできるだろう。しかしアサザは逸る気持ちを抑えることなく残された道程を急いだ。キキョウもそんな主人の思いを知ってか、長旅の疲れなど感じさせない蹄音を響かせながら街道を駆ける。
「……?」
城壁の中央に門が見え始めた頃だった。アサザたちの少し前を、大きな木箱を背負った男が歩いている。アサザは手綱を緩めた。
「高いところから悪いが……おっちゃん、行商人?」
いきなり前に回り込んで来た人馬にその中年男は相当驚いたらしく、ひゃあと奇声をあげて飛び上がった。
「あ、怪しい者じゃないぜ。ちょっと聞きたいことがあってな。王都の門番のことなんだが……」
言いかけてアサザは男の視線が腰の剣から動かないことに気づき苦笑した。
「これか? これはただの護身用の剣だ。あんたに使う気はないから安心してくれ」
「その剣……あんた、戦士だろう?」
アサザの言葉を聞いていた様子もなく男は呆然と言った。
「なんでこんなところに戦士が。ここは国王領のど真ん中だってのに」
「その国王領見物に来たんだよ」
アサザは身軽にキキョウの背から飛び下りた。びくっと身体をこわばらせる男に慌てて手を振って見せる。
「だから、あんたに何かするつもりはないってば。おっちゃん、国王領出身?」
こわごわと男が頷く。
「あ、ああ。生まれも育ちも王都だ」
「そうか! 良かった」
アサザが破顔する。
「じゃあ馬に乗ってても門番に止められるかどうかなんてことも判るよな? せっかくここまで一緒に来たのにこいつと王都見物ができないんじゃ可哀想だと思ってな。どうなんだ?」
「……馬は大丈夫だ」
「そうか! やったな、キキョウ!!」
嬉々としてキキョウの首筋を叩くアサザの表情が男の次の言葉で途端に曇った。
「ただ、あんたのその剣は……」
「……そうか。やっぱな」
しゅんとしてアサザは男を振り返った。
「やっぱ目立つよな、これは。でもそうそう簡単に使い慣れたものを手放すわけにもいかないし」
ぶつぶつと呟いているアサザを男は上目遣いに見上げた。
「なああんた、なんでこんなところに来たんだ? 貴族と戦士の間じゃお互いの土地には入らないって約束があるんじゃないのか?」
それを聞いたアサザの顔が困ったような表情を浮かべる。
「不可侵条約のことか? うーん。そうなんだが、俺が個人で見学に来る分にはいいかなぁと……」
そっぽを向いて頬を掻くアサザに男は驚きを隠せない目を向けた。
「あんた、まさかここまで一人で来たのか!?」
「ああ」
あっさりとしたアサザの答えに男は信じられないと口の中で呟いた。
「あんた馬鹿か? 戦士とはいえ国王領内で捕まったらただじゃ済まないことくらいわかってるだろう?」
「貴族の使う魔法のことか? その時はその時考えればいいさ。機会があれば貴族とも手合わせしてみたいと思ってたしな」
言って、にっと笑うアサザを男は見上げ——同じくにっと笑った。
「すごい度胸だな。気に入ったよ」
「そりゃどーも」
男は道の脇に背負っていた木箱を下ろした。
「おれは休憩させてもらうが、あんたも一緒にどうだ?」
「俺? 俺は……」
「ここからなら急がなくても十分閉門までには間に合う。茶の一杯くらい付き合ってけよ。もちろん奢りだ」
商人の言葉にアサザは苦笑した。
「おっちゃんも度胸あるな。さっきまでビビって小さくなってたとは思えないぜ」
「ははは。こうでもなきゃ王都と皇都を行き来する行商人なんぞやってられんよ」
木箱を開きながらの商人の言葉にアサザは少し驚いたように目を大きくした。
「皇都に行ったことがあるのか?」
「ああ、何度も行ったさ。今も皇都から中立地帯を抜けてようやく故郷に帰ってきたところだ」
「……」
男は取り出した木製のコップに注いだ水出しの茶を差し出した。
「色々な街に行ったが、やっぱりここが一番だな。あんたに言うのも何だが……皇都の空気は重苦しくていけない」
「空気が重い……か。確かにそうかもな」
「皇帝が民を顧みないせいかねぇ。住んでる人々の顔にも精気がないように見えるんだ。それに比べて王都はいいぞ。何せ聖王様が治めておられるからな」
「……聖王?」
商人はアサザを信じられないものを見るような目つきで眺めた。
「聖王様をご存じないのか?」
「……ああ」
少しきまり悪げにアサザが答えた。呆れの色を隠そうともせずに商人は首を振った。
「王の通り名を知らずに王都に来る奴がいるとは思わなかったよ。下々からも広く意見を取り入れられ、よく王都を守っていらっしゃる。まだお若いのに大したものだよ」
「若い?」
商人はわが事のように胸を張った。
「御歳十七歳。即位されて八年になる。親政を始められたのが二年前だな」
「ふぅん……ひとつ違いか」
アサザはぬるい茶を一気に喉に流し込んだ。
「ところで、おっちゃんの持ってる品の中に保存のきく食い物とかってあるか?」
「ああ。どうしたんだ?」
「保存食が切れてたから買い足そうかと思ってな。ちょっと見せてくれるか?」
出された数種類のものの中からアサザは砂糖漬けの果物と木の実を選んだ。代金を払いながら問う。
「ここまで来たからには俺も王宮見物をしてみたいんだが……おっちゃん、俺でも入れそうな穴場とか知らないか?」
商人が考え込んだ。
「うーむ。王宮の前庭までなら誰でも入れるようになっているが……あんたの場合そこまで行く前に捕まっちまうだろうからなぁ」
「そうか……」
心なしか沈んだ声で答えたアサザの前で商人は頭を掻いた。
「すまんな、役に立てなくて。その剣さえどうにかすれば何とかなるとは思うんだが」
「ああ。これとこいつだけは手放すわけにはいかないんだ」
剣とキキョウを示してアサザは肩をすくめた。
「命を預ける相手だからな。そう簡単に離れるわけにはいかない」
「戦士ってやつはそういうところが強情だからな」
商人は理解できない、というように頭を振った。
「では、ここでお別れかな。おれにも一応待ってる家族がいるんでな。厄介事は起こしたくない」
「ああ。迷惑は掛けない」
アサザはコップを地面に置き、立ち上がった。
「ごちそうさん。面白い話を聞かせてもらった」
「いやいや。今度また会うことがあればその時もどうかご贔屓に」
愛想よく言う商人に苦笑しながらアサザはキキョウの手綱を取った。
「……そうそう」
ひらりと鞍に飛び乗ったアサザに商人の思い出したような声が掛かる。
「王宮の裏の方に非常用の抜け道があると聞いたことがある。見つけた奴は誰もいないがな」
「……そうか」
にやりと笑ってアサザはキキョウの首をめぐらせた。その視線の向こうには白い城壁。
「ありがとよ、おっちゃん。今度会うときはもっといい買い物をしてやるからな」
「期待はしないでおくよ」
笑いを含んだその声を背にキキョウは駆け出した。中天を過ぎた太陽は赤味を増した光を投げて傾きはじめていた。
アサザが立った丘から、その壁はよく見渡すことができた。陽光を受け白く輝くそれは長く広く、円を描いて包み込んだ街を守っている。かなりの距離を隔てたここからもその城壁が巨大なものであることは見て取れた。
「あの中のどこかに国王がいる……」
アサザの背筋がぞくりと震えた。神々しささえ感じるその街——王都に不敵な笑みを投げ、アサザは目線を落とした。
「キキョウ、もう少しだ。行くぞ」
低い嘶きで応えたのは見事な栗毛の馬だった。アサザの足が横腹に当たると同時、4本の力強い脚が地を蹴る。
一気に丘を下る。アサザの短い黒髪が一斉に吹き付けてきた風で乱れた。髪の状態などまったく意に介さず、アサザはまっすぐ前を向いていた。
巨大な城壁はなかなか近づかない。流れていく周りの景色の速さと比べて何と遅いことか。
太陽は天頂を少し過ぎたところだ。特に急がなくても夕暮れまでには城壁に辿り着くことはできるだろう。しかしアサザは逸る気持ちを抑えることなく残された道程を急いだ。キキョウもそんな主人の思いを知ってか、長旅の疲れなど感じさせない蹄音を響かせながら街道を駆ける。
「……?」
城壁の中央に門が見え始めた頃だった。アサザたちの少し前を、大きな木箱を背負った男が歩いている。アサザは手綱を緩めた。
「高いところから悪いが……おっちゃん、行商人?」
いきなり前に回り込んで来た人馬にその中年男は相当驚いたらしく、ひゃあと奇声をあげて飛び上がった。
「あ、怪しい者じゃないぜ。ちょっと聞きたいことがあってな。王都の門番のことなんだが……」
言いかけてアサザは男の視線が腰の剣から動かないことに気づき苦笑した。
「これか? これはただの護身用の剣だ。あんたに使う気はないから安心してくれ」
「その剣……あんた、戦士だろう?」
アサザの言葉を聞いていた様子もなく男は呆然と言った。
「なんでこんなところに戦士が。ここは国王領のど真ん中だってのに」
「その国王領見物に来たんだよ」
アサザは身軽にキキョウの背から飛び下りた。びくっと身体をこわばらせる男に慌てて手を振って見せる。
「だから、あんたに何かするつもりはないってば。おっちゃん、国王領出身?」
こわごわと男が頷く。
「あ、ああ。生まれも育ちも王都だ」
「そうか! 良かった」
アサザが破顔する。
「じゃあ馬に乗ってても門番に止められるかどうかなんてことも判るよな? せっかくここまで一緒に来たのにこいつと王都見物ができないんじゃ可哀想だと思ってな。どうなんだ?」
「……馬は大丈夫だ」
「そうか! やったな、キキョウ!!」
嬉々としてキキョウの首筋を叩くアサザの表情が男の次の言葉で途端に曇った。
「ただ、あんたのその剣は……」
「……そうか。やっぱな」
しゅんとしてアサザは男を振り返った。
「やっぱ目立つよな、これは。でもそうそう簡単に使い慣れたものを手放すわけにもいかないし」
ぶつぶつと呟いているアサザを男は上目遣いに見上げた。
「なああんた、なんでこんなところに来たんだ? 貴族と戦士の間じゃお互いの土地には入らないって約束があるんじゃないのか?」
それを聞いたアサザの顔が困ったような表情を浮かべる。
「不可侵条約のことか? うーん。そうなんだが、俺が個人で見学に来る分にはいいかなぁと……」
そっぽを向いて頬を掻くアサザに男は驚きを隠せない目を向けた。
「あんた、まさかここまで一人で来たのか!?」
「ああ」
あっさりとしたアサザの答えに男は信じられないと口の中で呟いた。
「あんた馬鹿か? 戦士とはいえ国王領内で捕まったらただじゃ済まないことくらいわかってるだろう?」
「貴族の使う魔法のことか? その時はその時考えればいいさ。機会があれば貴族とも手合わせしてみたいと思ってたしな」
言って、にっと笑うアサザを男は見上げ——同じくにっと笑った。
「すごい度胸だな。気に入ったよ」
「そりゃどーも」
男は道の脇に背負っていた木箱を下ろした。
「おれは休憩させてもらうが、あんたも一緒にどうだ?」
「俺? 俺は……」
「ここからなら急がなくても十分閉門までには間に合う。茶の一杯くらい付き合ってけよ。もちろん奢りだ」
商人の言葉にアサザは苦笑した。
「おっちゃんも度胸あるな。さっきまでビビって小さくなってたとは思えないぜ」
「ははは。こうでもなきゃ王都と皇都を行き来する行商人なんぞやってられんよ」
木箱を開きながらの商人の言葉にアサザは少し驚いたように目を大きくした。
「皇都に行ったことがあるのか?」
「ああ、何度も行ったさ。今も皇都から中立地帯を抜けてようやく故郷に帰ってきたところだ」
「……」
男は取り出した木製のコップに注いだ水出しの茶を差し出した。
「色々な街に行ったが、やっぱりここが一番だな。あんたに言うのも何だが……皇都の空気は重苦しくていけない」
「空気が重い……か。確かにそうかもな」
「皇帝が民を顧みないせいかねぇ。住んでる人々の顔にも精気がないように見えるんだ。それに比べて王都はいいぞ。何せ聖王様が治めておられるからな」
「……聖王?」
商人はアサザを信じられないものを見るような目つきで眺めた。
「聖王様をご存じないのか?」
「……ああ」
少しきまり悪げにアサザが答えた。呆れの色を隠そうともせずに商人は首を振った。
「王の通り名を知らずに王都に来る奴がいるとは思わなかったよ。下々からも広く意見を取り入れられ、よく王都を守っていらっしゃる。まだお若いのに大したものだよ」
「若い?」
商人はわが事のように胸を張った。
「御歳十七歳。即位されて八年になる。親政を始められたのが二年前だな」
「ふぅん……ひとつ違いか」
アサザはぬるい茶を一気に喉に流し込んだ。
「ところで、おっちゃんの持ってる品の中に保存のきく食い物とかってあるか?」
「ああ。どうしたんだ?」
「保存食が切れてたから買い足そうかと思ってな。ちょっと見せてくれるか?」
出された数種類のものの中からアサザは砂糖漬けの果物と木の実を選んだ。代金を払いながら問う。
「ここまで来たからには俺も王宮見物をしてみたいんだが……おっちゃん、俺でも入れそうな穴場とか知らないか?」
商人が考え込んだ。
「うーむ。王宮の前庭までなら誰でも入れるようになっているが……あんたの場合そこまで行く前に捕まっちまうだろうからなぁ」
「そうか……」
心なしか沈んだ声で答えたアサザの前で商人は頭を掻いた。
「すまんな、役に立てなくて。その剣さえどうにかすれば何とかなるとは思うんだが」
「ああ。これとこいつだけは手放すわけにはいかないんだ」
剣とキキョウを示してアサザは肩をすくめた。
「命を預ける相手だからな。そう簡単に離れるわけにはいかない」
「戦士ってやつはそういうところが強情だからな」
商人は理解できない、というように頭を振った。
「では、ここでお別れかな。おれにも一応待ってる家族がいるんでな。厄介事は起こしたくない」
「ああ。迷惑は掛けない」
アサザはコップを地面に置き、立ち上がった。
「ごちそうさん。面白い話を聞かせてもらった」
「いやいや。今度また会うことがあればその時もどうかご贔屓に」
愛想よく言う商人に苦笑しながらアサザはキキョウの手綱を取った。
「……そうそう」
ひらりと鞍に飛び乗ったアサザに商人の思い出したような声が掛かる。
「王宮の裏の方に非常用の抜け道があると聞いたことがある。見つけた奴は誰もいないがな」
「……そうか」
にやりと笑ってアサザはキキョウの首をめぐらせた。その視線の向こうには白い城壁。
「ありがとよ、おっちゃん。今度会うときはもっといい買い物をしてやるからな」
「期待はしないでおくよ」
笑いを含んだその声を背にキキョウは駆け出した。中天を過ぎた太陽は赤味を増した光を投げて傾きはじめていた。
その月光と同じ色の長い髪を肩に流した少年が一人、小さな湖のほとりで金色の空を見上げていた。しかしその実、彼の目には空の色など映ってはいなかった。
この時間、この木々に囲まれた湖に散歩に来るのが少年の日課だった。水の上に突き出た岩の一つに座り、溜め息を吐く。実年齢より幼く見えるその少女のような顔が曇っているのは斜陽の影のせいだけではない。
少年は今、決断を迫られていた。自分はもちろん、多くの人を巻き込みかねないその問題を持て余した少年の気分は最近塞ぎがちになっていた。それを心配する周りの者たちの気遣いすら鬱陶しく感じ始めていた少年が逃げる場所はここしかなかった。
「偉大なる御先祖様……貴方ならどうなさるのでしょうか」
少年が低く呟いた時だった。
「うわ……まいったな、変なところに出ちまったぞ」
突然の声と蹄の音に少年は立ち上がり、振り返った。木々の上に広がる空は早くも藍色に染まり、爪のような三日月が細い銀の光を投げかけている。
「おぬし……何者だ?」
少年は鋭い眼差しを逞しい栗毛の馬とそれに跨った黒髪の男に向けた。小柄な少年の威厳に満ちた立ち姿に気圧されたのか、男はばつが悪そうに馬を下りた。
「俺は……旅の者だ。お嬢さん、あんたこそ何者だ? 何だかこの世のものじゃないみたいに見えるぜ」
「残念だが、余は人間だ。ついでに言うと女でもない」
わずかに苦笑を浮かべた少年をまじまじと見つめ、男は納得したようだった。
「それは悪かった。ところでここはどこだ? 実は道に迷ってしまったんだ」
今度は少年が男を見つめる番だった。くすり、と笑った少年がからかうように男を見上げる。
「おぬし、迷子であったか。余とそんなに歳も変わらぬだろうに」
「仕方ないだろ、初めての土地なんだから」
憮然とした男を面白そうに眺めながら少年が少し呆れたように言う。
「しかしいくら不慣れな土地とはいえ王宮に迷い込む者も珍しい。よほどの阿呆か傑物か」
「……!? じゃあここは王宮なのか?」
「そうだ。王宮の最奥、王族とそれに近しいものしか入れぬ奥庭だ」
少年の言葉を聞くと同時に男は小躍りして馬の首を抱き寄せた。
「すげぇや、キキョウ!! お前に任せてよかった!! とりあえず目的地到着だ」
主人の喜色に嬉しげな馬の声が応える。それを見ていた少年は首を傾げた。
「王宮が目的地、だと?」
「ああそうだ!! ようやく辿り着いたぜ!!」
少年の目が男の腰に差された長剣を捉える。訝しげな表情に気づいたのか、男がわずかに視線を逸らす。
「その剣、馬……おぬし、戦士の者ではないか?」
「ん……ま、そんなところだ」
頬を掻いてそっぽを向く男を少年は不思議そうに見た。
「戦士が王宮に何の用だ?」
「……興味本位だ。聖王に会いに来たんだ」
「せいおう?」
少年は考え込んだ。少年の知る限り、この王宮の中にそのような呼び名で呼ばれる者はいなかった。
「聖王とは——」
「そっ、それよりも名前!! 名前をまだ聞いてなかったな!! なんていうんだ?」
少年の言葉を遮って男が馬を示した。
「こいつはキキョウ。荒っぽいところもあるが頭はいいんだ。足もものすごく速い。俺はアサザだ」
「余は——レンギョウだ」
アサザの勢いに押されて少年——レンギョウが答える。すかさずアサザが右手を差し出した。
「よろしくな、レンギョウ!!」
「う……うむ」
ためらいながらレンギョウは差し出された手を握った。レンギョウのものよりふたまわりは大きいその手は一度強くその細い手を握ってすぐに引っ込んだ。
「にしても、レンギョウって何か言いにくいな。レンって呼んでもいいか?」
アサザの言葉にレンギョウは戸惑いの表情を浮かべた。しかしすぐにくすぐったげな微笑に変わる。
「そのように呼ばれるのは初めてだ。何だか、嬉しい」
それを聞いたアサザが意外そうな顔をする。
「レンは貴族だろ? 貴族はあだ名とかで呼び合ったりしないのか?」
「そういうわけではないのだろうが……余は特別らしいからな」
「ふーん」
寂しげに笑うレンギョウにそれ以上は聞かず、アサザは月を見上げた。ふと、一つの考えが心に浮かぶ。
「なあ、レンは王宮の外に出たことがあるか?」
「いや、ないが……」
「見てみたくはないか? この街の壁の向こう側」
水面に映った月を見ていたレンギョウが顔を上げる。自嘲するような笑みを宿した瞳が徐々に期待で輝きだす。
「連れて行って……くれるのか? 外へ」
かすかに震えたその声にアサザは大きく頷いた。
「今、そう言おうと思ってたところだ。答えは……聞くまでもなさそうだな。早くキキョウに乗れ」
「うむ!!」
間もなく、二つの影を乗せたキキョウが木々の中に駆け込んでいった。
この時間、この木々に囲まれた湖に散歩に来るのが少年の日課だった。水の上に突き出た岩の一つに座り、溜め息を吐く。実年齢より幼く見えるその少女のような顔が曇っているのは斜陽の影のせいだけではない。
少年は今、決断を迫られていた。自分はもちろん、多くの人を巻き込みかねないその問題を持て余した少年の気分は最近塞ぎがちになっていた。それを心配する周りの者たちの気遣いすら鬱陶しく感じ始めていた少年が逃げる場所はここしかなかった。
「偉大なる御先祖様……貴方ならどうなさるのでしょうか」
少年が低く呟いた時だった。
「うわ……まいったな、変なところに出ちまったぞ」
突然の声と蹄の音に少年は立ち上がり、振り返った。木々の上に広がる空は早くも藍色に染まり、爪のような三日月が細い銀の光を投げかけている。
「おぬし……何者だ?」
少年は鋭い眼差しを逞しい栗毛の馬とそれに跨った黒髪の男に向けた。小柄な少年の威厳に満ちた立ち姿に気圧されたのか、男はばつが悪そうに馬を下りた。
「俺は……旅の者だ。お嬢さん、あんたこそ何者だ? 何だかこの世のものじゃないみたいに見えるぜ」
「残念だが、余は人間だ。ついでに言うと女でもない」
わずかに苦笑を浮かべた少年をまじまじと見つめ、男は納得したようだった。
「それは悪かった。ところでここはどこだ? 実は道に迷ってしまったんだ」
今度は少年が男を見つめる番だった。くすり、と笑った少年がからかうように男を見上げる。
「おぬし、迷子であったか。余とそんなに歳も変わらぬだろうに」
「仕方ないだろ、初めての土地なんだから」
憮然とした男を面白そうに眺めながら少年が少し呆れたように言う。
「しかしいくら不慣れな土地とはいえ王宮に迷い込む者も珍しい。よほどの阿呆か傑物か」
「……!? じゃあここは王宮なのか?」
「そうだ。王宮の最奥、王族とそれに近しいものしか入れぬ奥庭だ」
少年の言葉を聞くと同時に男は小躍りして馬の首を抱き寄せた。
「すげぇや、キキョウ!! お前に任せてよかった!! とりあえず目的地到着だ」
主人の喜色に嬉しげな馬の声が応える。それを見ていた少年は首を傾げた。
「王宮が目的地、だと?」
「ああそうだ!! ようやく辿り着いたぜ!!」
少年の目が男の腰に差された長剣を捉える。訝しげな表情に気づいたのか、男がわずかに視線を逸らす。
「その剣、馬……おぬし、戦士の者ではないか?」
「ん……ま、そんなところだ」
頬を掻いてそっぽを向く男を少年は不思議そうに見た。
「戦士が王宮に何の用だ?」
「……興味本位だ。聖王に会いに来たんだ」
「せいおう?」
少年は考え込んだ。少年の知る限り、この王宮の中にそのような呼び名で呼ばれる者はいなかった。
「聖王とは——」
「そっ、それよりも名前!! 名前をまだ聞いてなかったな!! なんていうんだ?」
少年の言葉を遮って男が馬を示した。
「こいつはキキョウ。荒っぽいところもあるが頭はいいんだ。足もものすごく速い。俺はアサザだ」
「余は——レンギョウだ」
アサザの勢いに押されて少年——レンギョウが答える。すかさずアサザが右手を差し出した。
「よろしくな、レンギョウ!!」
「う……うむ」
ためらいながらレンギョウは差し出された手を握った。レンギョウのものよりふたまわりは大きいその手は一度強くその細い手を握ってすぐに引っ込んだ。
「にしても、レンギョウって何か言いにくいな。レンって呼んでもいいか?」
アサザの言葉にレンギョウは戸惑いの表情を浮かべた。しかしすぐにくすぐったげな微笑に変わる。
「そのように呼ばれるのは初めてだ。何だか、嬉しい」
それを聞いたアサザが意外そうな顔をする。
「レンは貴族だろ? 貴族はあだ名とかで呼び合ったりしないのか?」
「そういうわけではないのだろうが……余は特別らしいからな」
「ふーん」
寂しげに笑うレンギョウにそれ以上は聞かず、アサザは月を見上げた。ふと、一つの考えが心に浮かぶ。
「なあ、レンは王宮の外に出たことがあるか?」
「いや、ないが……」
「見てみたくはないか? この街の壁の向こう側」
水面に映った月を見ていたレンギョウが顔を上げる。自嘲するような笑みを宿した瞳が徐々に期待で輝きだす。
「連れて行って……くれるのか? 外へ」
かすかに震えたその声にアサザは大きく頷いた。
「今、そう言おうと思ってたところだ。答えは……聞くまでもなさそうだな。早くキキョウに乗れ」
「うむ!!」
間もなく、二つの影を乗せたキキョウが木々の中に駆け込んでいった。
「今日はここで休むか。待ってろよ、今準備すっから」
言って手綱を持ったアサザが身軽にキキョウの背から飛び降りる。
「休む……こんな草原の真ん中でか?」
馬上に残されたレンギョウが面食らった表情で問う。
「結局王都の閉門には間に合わなかったしな。近くの村まで行くにしても街道から外れちまったから探すのは大変だ。それに肝心のキキョウが今日はもう走れねぇって言ってる。ま、野宿なんて慣れれば結構平気なものだぜ」
「そういうものなのかのう……」
アサザの言葉に同意するかのように鼻を鳴らしたキキョウを手近な潅木に繋いで、アサザは周囲を見回した。意外と軽い身のこなしでキキョウの背から降りたレンギョウをアサザが振り返る。
「さて、それじゃまずは寝場所を作るか。レン、ちょっと離れててくれないか」
言ってアサザは剣を抜いた。潅木を手で押し上げながらくぼ地に茂った草を払う。
「レンは俺の荷物の中から火打石を探してくれ」
「火を熾すのか?」
レンギョウの問いにアサザは慣れた手つきで草刈りを続けながら頷いた。
「ああ。この季節、火無しじゃ辛いからな」
レンギョウが目を輝かせながらくぼ地の縁に駆け寄った。
「それなら余に任せておけ。火打石など不要だ」
「任せろって、どうするつもりだ?」
「それを言ったら面白くないだろう」
払った枯れ草を集めながら、レンギョウが楽しげに笑う。程なく、アサザが作った小さな空き地の真ん中に枯れ草と乾いた潅木の枝の山ができあがった。
「で? 何をするつもりなんだ?」
「うむ。アサザ、少し下がっていてくれ」
素直に数歩下がったアサザを確かめてから、レンギョウは両手を胸の前で組み、目を閉じた。レンギョウの精神が集中しているのがアサザにも伝わってくる。それまで静かだった周囲の潅木の枝がざわざわと騒ぎ始めた。思わず喉を鳴らしたアサザの前でレンギョウがゆっくりと掌を離す。その間の空間には橙色の光が生じている。目を開いたレンギョウが枯れ草の山に目を向けると、光球はその中に吸い込まれるように飛び込んでいった。それからいくらも経たないうちに、小山は細い煙を上げ始める。
「——すげぇや、レン!! 今のが魔法ってヤツか!?」
興奮して駆け寄り、何度も背中を叩くアサザにレンギョウは苦笑した。
「偉大なる御先祖、レン王から始まった能力をそう呼ぶのか? ……本当に、余は何も知らぬのだな。おぬしと共にいると思い知る」
少なからず沈んだその声にアサザはきょとんとする。
「何言ってんだ。まだ知り合って少ししか経ってないだろう」
「少ししか経っておらぬのに、余が今まで知らなかったことを幾つも教えてくれたのだ。余の勉強が足りなかっただけのこととは言え、少々自分が情けない」
「まったく……」
アサザは呆れてレンギョウの頭に手を置いた。軽く頭一つ分は違う背丈のせいでやけに低い位置にあるそれを軽く叩いて、アサザは軽く溜息をついた。
「いいか。知らなかったことを恥じる必要はない。そんなもんはこれから覚えりゃいいことだ。それよりも、知ってることをどうやって使うか、そっちの方に頭を使う。それが賢さだと俺は思うが?」
アサザの言葉にレンギョウが大きく目を見開いた。
「そう……だな。本当にその通りだ」
レンギョウはアサザを真剣な表情で見つめた。
「アサザ、おぬしは本当に不思議な男だ。時折、余の数倍は生きている年寄りに見える」
「なっ……なにマジ顔で失礼なコト言ってんだよ! 俺はまだ十八だ!!」
レンギョウがアサザの顔をしげしげと眺める。
「確かにそう見えなくもないが……説教じみた台詞といい、どう考えても余とひとつ違いとは思えぬな」
「はぁ!? お前十七なのか!? 童顔とジジイ言葉で年齢不詳状態だぞ」
「……ジジイ?」
首をかしげるレンギョウにアサザが解説する。
「ジジイってのは爺さんのことだよ。一体どこでそんな喋り方習ったんだ?」
「作法の師匠だ」
「……その師匠とやらの歳は?」
「平均年齢七十六歳。三人おる」
「ジジイばっかじゃねぇか!」
頭を抱えてアサザが座り込む。心配そうにレンギョウが声をかける。
「大丈夫か? どこか具合でも悪いのか?」
「そんなんじゃねぇよ!!」
がば、と立ち上がったアサザがレンギョウの肩を掴んだ。
「なぁ。そんな喋り方で疲れないか?」
「別に何ともないが」
レンギョウの答えにアサザは不満げに息を吐いた。
「お前は大丈夫でも俺は疲れる!! いいか、せめて俺といる時くらいは”余”じゃなくて”私”とかそういう言い方をしてくれ。それと、”おぬし”じゃなくて”お前”とかな」
「……何故だ?」
「俺たち、もうダチだろ?」
「ダチ……?」
「そう!友達、友人、そういう種類のヤツのことをダチっていうんだよ。お前の喋り方は相手を自分より下に見ている言い方なんだ。ダチは対等だ。だからお前の喋り方は俺に対してはふさわしくない。わかるだろう?」
「対……等……」
しばらくレンギョウは考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「……わかった。これから気をつける。だが、ひとつだけ訊ねてもいいか?」
「何だ?」
「いつから余——私はお前の友人になったのだ?」
「お前、それ本気で言ってんのか?」
アサザは苦笑して、空き地の隅に座り込んでいたキキョウから荷物を下ろした。その中から小さな包みを一つ取り出す。
「正直言って、俺にもいつってことははっきりわからん。ただ、こいつとなら一つしかない食い物を分け合ってもいい、と思えるヤツが俺にとっての友達なのかな、とは思う」
アサザは包みを開いて中身を取り出した。薄い紙に包まれた砂糖漬けのリンゴがころりと出てくる。アサザは焚き火の傍に座り込んだ。
「同じように、こいつのためなら命を賭けられる、そう思えるヤツを親友って言うんじゃないか? 俺にはそこまで思える相手ってのはいないからわからんが」
いつの間に取り出したのか、アサザは小刀を使ってリンゴを真っ二つにした。
「さ、食うぞ。今日買ったばかりだから腐っちゃいないはずだ。……ったく、説教くさくなっちまったな。これじゃ本当のジジイじゃねぇか」
アサザからリンゴを受け取ったレンギョウはしばらくそれをじっと眺めていた。食べるでもなく、アサザの隣に腰を下ろしたレンギョウはふと炎に目を向ける。
「……アサザ」
「ん?」
リンゴにかぶりつきながらアサザはレンギョウを見た。その瞳に炎が揺れている。
「私にも……いつか親友と呼べる者ができるだろうか?」
「……さあな。そればっかりは、俺にもわからん」
「そうだな……すまない。妙なことを訊いたな」
「気にするな。それよりそのリンゴ、早く食わんと俺が頂くぞ」
「それは困る」
伸ばされたアサザの手をかわして、レンギョウは果物に噛み付いた。
言って手綱を持ったアサザが身軽にキキョウの背から飛び降りる。
「休む……こんな草原の真ん中でか?」
馬上に残されたレンギョウが面食らった表情で問う。
「結局王都の閉門には間に合わなかったしな。近くの村まで行くにしても街道から外れちまったから探すのは大変だ。それに肝心のキキョウが今日はもう走れねぇって言ってる。ま、野宿なんて慣れれば結構平気なものだぜ」
「そういうものなのかのう……」
アサザの言葉に同意するかのように鼻を鳴らしたキキョウを手近な潅木に繋いで、アサザは周囲を見回した。意外と軽い身のこなしでキキョウの背から降りたレンギョウをアサザが振り返る。
「さて、それじゃまずは寝場所を作るか。レン、ちょっと離れててくれないか」
言ってアサザは剣を抜いた。潅木を手で押し上げながらくぼ地に茂った草を払う。
「レンは俺の荷物の中から火打石を探してくれ」
「火を熾すのか?」
レンギョウの問いにアサザは慣れた手つきで草刈りを続けながら頷いた。
「ああ。この季節、火無しじゃ辛いからな」
レンギョウが目を輝かせながらくぼ地の縁に駆け寄った。
「それなら余に任せておけ。火打石など不要だ」
「任せろって、どうするつもりだ?」
「それを言ったら面白くないだろう」
払った枯れ草を集めながら、レンギョウが楽しげに笑う。程なく、アサザが作った小さな空き地の真ん中に枯れ草と乾いた潅木の枝の山ができあがった。
「で? 何をするつもりなんだ?」
「うむ。アサザ、少し下がっていてくれ」
素直に数歩下がったアサザを確かめてから、レンギョウは両手を胸の前で組み、目を閉じた。レンギョウの精神が集中しているのがアサザにも伝わってくる。それまで静かだった周囲の潅木の枝がざわざわと騒ぎ始めた。思わず喉を鳴らしたアサザの前でレンギョウがゆっくりと掌を離す。その間の空間には橙色の光が生じている。目を開いたレンギョウが枯れ草の山に目を向けると、光球はその中に吸い込まれるように飛び込んでいった。それからいくらも経たないうちに、小山は細い煙を上げ始める。
「——すげぇや、レン!! 今のが魔法ってヤツか!?」
興奮して駆け寄り、何度も背中を叩くアサザにレンギョウは苦笑した。
「偉大なる御先祖、レン王から始まった能力をそう呼ぶのか? ……本当に、余は何も知らぬのだな。おぬしと共にいると思い知る」
少なからず沈んだその声にアサザはきょとんとする。
「何言ってんだ。まだ知り合って少ししか経ってないだろう」
「少ししか経っておらぬのに、余が今まで知らなかったことを幾つも教えてくれたのだ。余の勉強が足りなかっただけのこととは言え、少々自分が情けない」
「まったく……」
アサザは呆れてレンギョウの頭に手を置いた。軽く頭一つ分は違う背丈のせいでやけに低い位置にあるそれを軽く叩いて、アサザは軽く溜息をついた。
「いいか。知らなかったことを恥じる必要はない。そんなもんはこれから覚えりゃいいことだ。それよりも、知ってることをどうやって使うか、そっちの方に頭を使う。それが賢さだと俺は思うが?」
アサザの言葉にレンギョウが大きく目を見開いた。
「そう……だな。本当にその通りだ」
レンギョウはアサザを真剣な表情で見つめた。
「アサザ、おぬしは本当に不思議な男だ。時折、余の数倍は生きている年寄りに見える」
「なっ……なにマジ顔で失礼なコト言ってんだよ! 俺はまだ十八だ!!」
レンギョウがアサザの顔をしげしげと眺める。
「確かにそう見えなくもないが……説教じみた台詞といい、どう考えても余とひとつ違いとは思えぬな」
「はぁ!? お前十七なのか!? 童顔とジジイ言葉で年齢不詳状態だぞ」
「……ジジイ?」
首をかしげるレンギョウにアサザが解説する。
「ジジイってのは爺さんのことだよ。一体どこでそんな喋り方習ったんだ?」
「作法の師匠だ」
「……その師匠とやらの歳は?」
「平均年齢七十六歳。三人おる」
「ジジイばっかじゃねぇか!」
頭を抱えてアサザが座り込む。心配そうにレンギョウが声をかける。
「大丈夫か? どこか具合でも悪いのか?」
「そんなんじゃねぇよ!!」
がば、と立ち上がったアサザがレンギョウの肩を掴んだ。
「なぁ。そんな喋り方で疲れないか?」
「別に何ともないが」
レンギョウの答えにアサザは不満げに息を吐いた。
「お前は大丈夫でも俺は疲れる!! いいか、せめて俺といる時くらいは”余”じゃなくて”私”とかそういう言い方をしてくれ。それと、”おぬし”じゃなくて”お前”とかな」
「……何故だ?」
「俺たち、もうダチだろ?」
「ダチ……?」
「そう!友達、友人、そういう種類のヤツのことをダチっていうんだよ。お前の喋り方は相手を自分より下に見ている言い方なんだ。ダチは対等だ。だからお前の喋り方は俺に対してはふさわしくない。わかるだろう?」
「対……等……」
しばらくレンギョウは考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「……わかった。これから気をつける。だが、ひとつだけ訊ねてもいいか?」
「何だ?」
「いつから余——私はお前の友人になったのだ?」
「お前、それ本気で言ってんのか?」
アサザは苦笑して、空き地の隅に座り込んでいたキキョウから荷物を下ろした。その中から小さな包みを一つ取り出す。
「正直言って、俺にもいつってことははっきりわからん。ただ、こいつとなら一つしかない食い物を分け合ってもいい、と思えるヤツが俺にとっての友達なのかな、とは思う」
アサザは包みを開いて中身を取り出した。薄い紙に包まれた砂糖漬けのリンゴがころりと出てくる。アサザは焚き火の傍に座り込んだ。
「同じように、こいつのためなら命を賭けられる、そう思えるヤツを親友って言うんじゃないか? 俺にはそこまで思える相手ってのはいないからわからんが」
いつの間に取り出したのか、アサザは小刀を使ってリンゴを真っ二つにした。
「さ、食うぞ。今日買ったばかりだから腐っちゃいないはずだ。……ったく、説教くさくなっちまったな。これじゃ本当のジジイじゃねぇか」
アサザからリンゴを受け取ったレンギョウはしばらくそれをじっと眺めていた。食べるでもなく、アサザの隣に腰を下ろしたレンギョウはふと炎に目を向ける。
「……アサザ」
「ん?」
リンゴにかぶりつきながらアサザはレンギョウを見た。その瞳に炎が揺れている。
「私にも……いつか親友と呼べる者ができるだろうか?」
「……さあな。そればっかりは、俺にもわからん」
「そうだな……すまない。妙なことを訊いたな」
「気にするな。それよりそのリンゴ、早く食わんと俺が頂くぞ」
「それは困る」
伸ばされたアサザの手をかわして、レンギョウは果物に噛み付いた。
小さな、だが鋭い声が冷えた大気を震わせる。
寝る前に小さくしておいた焚き火の明かりは、雲に隠れた三日月の光よりも暗い。真夜中の闇を通して、こちらを窺っている気配がわずかに伝わってくる。
「三人、か?」
少し離れた位置からレンギョウの低く鋭い答えが返る。アサザは頷き、闇に目を凝らした。既に二人とも身体を起こしている。
「何者だ?」
「盗賊では——おそらくないな。多分自警団だろう」
「自警団?」
「ああ。皇都を中心とする皇帝領と王都を囲む国王領との間にだだっ広い中立地帯があるのは知ってるだろ?」
「うむ」
「今いるここも中立地帯なんだが……中立地帯は皇都と王都の緩衝地帯だっていう性質上、どちらからも軍を派遣できない」
「そうだな」
「軍ったって別に戦ばかりしてるわけじゃない。治安維持も立派な仕事のひとつだ。その軍がいないここはまさしく盗賊たちの天国ってわけだな」
「……」
「そこで中立地帯に住んでる人々は考えた。軍を出せない国に頼らず自分たちで不届きな奴らを捕まえようってな。こうしてできたのが自警団だ。名前こそアレだがその功績は皇都の正規軍と比べても見劣りはしない」
「成程、よくわかった。で、どうするつもりだ?」
「こちらから仕掛けるのはよそう。無駄な怪我をすることもないしな。あちらの出方次第で戦るかどうかを決める」
問いに即答していくアサザにレンギョウはふと笑った。
「? どうした?」
「いや……お前のように私の問いに答えてくれる者がもっと傍にいてくれればいいのだが、と思っただけだ」
「話し相手くらいいるだろ?」
レンギョウは軽く首を横に振った。
「おらぬ。同年代の者も……対等に話してくれる者も」
レンギョウの言葉にアサザは一瞬困ったように目を逸らした。
「そ……か。俺には弟がいるからな。色々訊かれることには慣れてるのかもしれん」
沈んでいたレンギョウの表情がぱっと輝いた。
「弟がおるのか!?」
「ああ、三つ違いのな。やんちゃ坊主だが可愛いもんだ」
「他に兄弟はおらぬのか?」
「二つ上に兄上がいる。お身体が弱いのだがすごく頭のいい人でな。尊敬してる」
珍しく興奮した様子のレンギョウにアサザは問い返した。
「そういうお前の家族はどうなんだ?」
「……おらぬ。兄弟も……父母も」
低く小さくなったレンギョウの声が慌てたように先程までの調子に戻る。
「だからアサザが羨ましい。私が持っていないものをたくさん持っているお前が——」
レンギョウの言葉にアサザは首を振った。
「お前だって俺が持ってないものをいっぱい持ってるんじゃないのか? 例えば魔法とかよ」
「それは——」
がさり、と潅木が揺れた。ざわざわと草が二方向に疾る。これまで大人しくしていたキキョウが不満げに鼻を鳴らした。
「動くな。少しでも妙な動きをしたら斬る」
ぴたりと喉元に突きつけられた刃には一瞥もくれず、アサザは座り込んだままの姿勢で潅木から飛び出してきた男を見上げた。年の頃三十くらいのその男は一瞬アサザに目をやった後レンギョウに目を向ける。目線が外れてもまったく隙が感じられないこの男にアサザは興味を引かれた。
レンギョウも座ったままで二本の剣を前にしていた。動揺などまったく浮かべていない瞳で草地から現れた二人の男を見上げている。アサザと違って切っ先を向けられているだけだったが、抜き身の刃を前にしての落ち着きがかえって襲撃者の困惑を誘っていた。
「貴様ら、何者だ?」
アサザに剣を向けた男が問う。この男がまとめ役らしい。
「俺たちはただの旅の者だ。お前らこそ何だ?」
剣の刃が喉に浅い傷を作る。軽い驚きが男の顔を流れ、すぐに消えた。
「我々は中立地帯自警団だ。お前らも知っているだろう?」
男の口調にわずかににじんだ誇らしさとほんの少し引いた切っ先にアサザはにやりと笑った。
「ああ、知ってるとも。だが誇り高い自警団が一般人に刃物を突きつけたりしていいのか?」
男の眉がぴくりと動く。
「……一般人がこのような状況下で落ち着いていられるとは思えん」
やれやれ、とアサザは首を振った。
「何だ、俺たちは試されたのか。腰抜かしてうろたえて見せてやれば勘弁してもらえたのか?」
アサザの軽口には乗らず、男はアサザを冷たく見下ろしたまま言った。
「吐け。貴様ら、何者だ」
「……まるで何とかの一つ覚えだな。さっきから言ってるだろ? ただの旅人だってな」
アサザと男の間に緊張が走る。しかしそれが火花になる前に男が目を逸らした。低く口笛を吹き、馬を呼ぶ。
「……ならそういうことにしておこう。——スギ」
「は、はいっ!」
レンギョウを囲んだ一人が背筋を伸ばす。まだ若い。
「そいつを捕まえておけ。逃がすなよ」
スギと呼ばれた青年はあたふたとレンギョウに手を伸ばした。一瞬アサザの様子を窺った後、レンギョウは大人しく腕を掴ませる。
「ウイキョウ」
「はっ」
「その男を縛り上げろ。そいつは危険だ」
残る一人がアサザに縄を打った。こちらは四十を過ぎたくらいの立派な体格の持ち主だ。程なく、アサザはぐるぐる巻きにされて馬の上に放り出された。
「……で? どこに連れてってくれるんだ?」
キキョウの手綱を手にした男が自分の馬に跨りながら短く答える。
「来れば分かる」
「あ、そ」
アサザの後ろの鞍にウイキョウの体重がかかる。レンギョウとスギはとうの昔に馬上の人だ。
「そうそう、もうひとついいか?」
荷物のように置かれた状態のまま走り出した馬の上からアサザは声を張り上げた。
「あんた、名前はなんていうんだ? 俺はアサザだ」
既に先行した馬上でちらりと男が振り返った。
「——ススキ」
低い答えは風にちぎれることもなくやけにはっきりとアサザの耳に届けられた。
寝る前に小さくしておいた焚き火の明かりは、雲に隠れた三日月の光よりも暗い。真夜中の闇を通して、こちらを窺っている気配がわずかに伝わってくる。
「三人、か?」
少し離れた位置からレンギョウの低く鋭い答えが返る。アサザは頷き、闇に目を凝らした。既に二人とも身体を起こしている。
「何者だ?」
「盗賊では——おそらくないな。多分自警団だろう」
「自警団?」
「ああ。皇都を中心とする皇帝領と王都を囲む国王領との間にだだっ広い中立地帯があるのは知ってるだろ?」
「うむ」
「今いるここも中立地帯なんだが……中立地帯は皇都と王都の緩衝地帯だっていう性質上、どちらからも軍を派遣できない」
「そうだな」
「軍ったって別に戦ばかりしてるわけじゃない。治安維持も立派な仕事のひとつだ。その軍がいないここはまさしく盗賊たちの天国ってわけだな」
「……」
「そこで中立地帯に住んでる人々は考えた。軍を出せない国に頼らず自分たちで不届きな奴らを捕まえようってな。こうしてできたのが自警団だ。名前こそアレだがその功績は皇都の正規軍と比べても見劣りはしない」
「成程、よくわかった。で、どうするつもりだ?」
「こちらから仕掛けるのはよそう。無駄な怪我をすることもないしな。あちらの出方次第で戦るかどうかを決める」
問いに即答していくアサザにレンギョウはふと笑った。
「? どうした?」
「いや……お前のように私の問いに答えてくれる者がもっと傍にいてくれればいいのだが、と思っただけだ」
「話し相手くらいいるだろ?」
レンギョウは軽く首を横に振った。
「おらぬ。同年代の者も……対等に話してくれる者も」
レンギョウの言葉にアサザは一瞬困ったように目を逸らした。
「そ……か。俺には弟がいるからな。色々訊かれることには慣れてるのかもしれん」
沈んでいたレンギョウの表情がぱっと輝いた。
「弟がおるのか!?」
「ああ、三つ違いのな。やんちゃ坊主だが可愛いもんだ」
「他に兄弟はおらぬのか?」
「二つ上に兄上がいる。お身体が弱いのだがすごく頭のいい人でな。尊敬してる」
珍しく興奮した様子のレンギョウにアサザは問い返した。
「そういうお前の家族はどうなんだ?」
「……おらぬ。兄弟も……父母も」
低く小さくなったレンギョウの声が慌てたように先程までの調子に戻る。
「だからアサザが羨ましい。私が持っていないものをたくさん持っているお前が——」
レンギョウの言葉にアサザは首を振った。
「お前だって俺が持ってないものをいっぱい持ってるんじゃないのか? 例えば魔法とかよ」
「それは——」
がさり、と潅木が揺れた。ざわざわと草が二方向に疾る。これまで大人しくしていたキキョウが不満げに鼻を鳴らした。
「動くな。少しでも妙な動きをしたら斬る」
ぴたりと喉元に突きつけられた刃には一瞥もくれず、アサザは座り込んだままの姿勢で潅木から飛び出してきた男を見上げた。年の頃三十くらいのその男は一瞬アサザに目をやった後レンギョウに目を向ける。目線が外れてもまったく隙が感じられないこの男にアサザは興味を引かれた。
レンギョウも座ったままで二本の剣を前にしていた。動揺などまったく浮かべていない瞳で草地から現れた二人の男を見上げている。アサザと違って切っ先を向けられているだけだったが、抜き身の刃を前にしての落ち着きがかえって襲撃者の困惑を誘っていた。
「貴様ら、何者だ?」
アサザに剣を向けた男が問う。この男がまとめ役らしい。
「俺たちはただの旅の者だ。お前らこそ何だ?」
剣の刃が喉に浅い傷を作る。軽い驚きが男の顔を流れ、すぐに消えた。
「我々は中立地帯自警団だ。お前らも知っているだろう?」
男の口調にわずかににじんだ誇らしさとほんの少し引いた切っ先にアサザはにやりと笑った。
「ああ、知ってるとも。だが誇り高い自警団が一般人に刃物を突きつけたりしていいのか?」
男の眉がぴくりと動く。
「……一般人がこのような状況下で落ち着いていられるとは思えん」
やれやれ、とアサザは首を振った。
「何だ、俺たちは試されたのか。腰抜かしてうろたえて見せてやれば勘弁してもらえたのか?」
アサザの軽口には乗らず、男はアサザを冷たく見下ろしたまま言った。
「吐け。貴様ら、何者だ」
「……まるで何とかの一つ覚えだな。さっきから言ってるだろ? ただの旅人だってな」
アサザと男の間に緊張が走る。しかしそれが火花になる前に男が目を逸らした。低く口笛を吹き、馬を呼ぶ。
「……ならそういうことにしておこう。——スギ」
「は、はいっ!」
レンギョウを囲んだ一人が背筋を伸ばす。まだ若い。
「そいつを捕まえておけ。逃がすなよ」
スギと呼ばれた青年はあたふたとレンギョウに手を伸ばした。一瞬アサザの様子を窺った後、レンギョウは大人しく腕を掴ませる。
「ウイキョウ」
「はっ」
「その男を縛り上げろ。そいつは危険だ」
残る一人がアサザに縄を打った。こちらは四十を過ぎたくらいの立派な体格の持ち主だ。程なく、アサザはぐるぐる巻きにされて馬の上に放り出された。
「……で? どこに連れてってくれるんだ?」
キキョウの手綱を手にした男が自分の馬に跨りながら短く答える。
「来れば分かる」
「あ、そ」
アサザの後ろの鞍にウイキョウの体重がかかる。レンギョウとスギはとうの昔に馬上の人だ。
「そうそう、もうひとついいか?」
荷物のように置かれた状態のまま走り出した馬の上からアサザは声を張り上げた。
「あんた、名前はなんていうんだ? 俺はアサザだ」
既に先行した馬上でちらりと男が振り返った。
「——ススキ」
低い答えは風にちぎれることもなくやけにはっきりとアサザの耳に届けられた。
まるで昔見た夜の海のようだ、と思いながらアサザはその景色を眺めていた。縛られたまま、しかも他人が操る馬上という不自由な状態ながら、何とか動く首だけをきょろきょろさせて辺りを見回す。
ススキの馬は見えなかったが、アサザから見て右前にレンギョウを乗せた馬がいた。早足で進むその背に揺られながら、レンギョウは落ち着いているようだった。抵抗する力はないと判断されたのか、アサザのように縛られてはいない。まっすぐ前を向いたその横顔からは威厳さえ感じられた。
レンギョウの馬の手綱を取っているのはまだ二十歳くらいの男だった。自警団という肩書きを持つこの集団にいることが不思議に思えるほど大人しげな印象を与える若者だ。先程、スギと呼ばれていたか。その時、風がレンギョウの長い銀髪を月に見せるかのようになびかせた。同色の光を浴びてきらきら輝くそれを戸惑いをあらわにしたスギの目が追う。その様子にアサザの顔に知らず笑いがこみ上げてくる。
「……何が可笑しい」
アサザの笑みを見咎めたアサザの騎手がじろりと睨みつける。
「あんたのお仲間が初めてレンに会った時の俺と同じ気持ちになってるようだからな。ちょっと楽しかっただけさ」
くつくつと笑いながら言うアサザにもう一睨みくれてから騎手は前方に視線を戻した。
「あまり我らを甘く見ないほうがいい。後で後悔することになるぞ」
「そりゃ怖い」
脅しを軽く受け流したアサザは今度は騎手に目を向けた。
名は確か、ウイキョウ。年の頃は四十過ぎに見えるが、やたらと分厚い身体が衰えを見せているという感じはまったくしない。今もアサザの自由を封じている縄をしっかりと握りながら、その手綱捌きには乱れ一つない。油断できない、とアサザは判断していた。
油断できないといえばスギもその一人だろう。一見優しげに見えるが、その馬術は確かなものだったし、腰に下げた古びた剣は手入れもしっかりされている。何よりレンギョウというアサザにとってのいわば人質を縄もかけずに連行するという役を任されたという点を見ても、年長者である他の二人から信頼されていることは明らかだ。
月はいつの間にか天頂を過ぎて傾き始めていた。
突然、視界に二頭の馬が飛び込んできた。不満げに鼻を鳴らしているのは見慣れた相棒キキョウだ。
「もうすぐ我々の本拠地に着く」
キキョウの手綱を引いたススキがもう一頭の背で言う。伝えることはそれだけだ、とでも言うかのように緩めた馬足を再び早めたススキの姿はあっという間にアサザの見えない位置まで遠ざかる。とはいえ、あまり離れてはいないことは気配でわかった。
「あいつ……相当使えるな」
アサザの言葉をウイキョウは無反応で返した。アサザもそれ以上は何も言わず、ススキが消えた前方に目を向けた。そこにいるのはまったく隙が感じられない相手だった。皇都の戦士たちとの馴れ合いの手合わせには飽き飽きしていたところだった。もしススキと本気で打ち合えたらどれだけ楽しいだろう!
「……?」
ウイキョウが訝しげな目を向けているのを意識しながらも、アサザは笑みを抑えることができなかった。
そのまましばらく進み続けて、ようやくアサザの目にもその姿が見え始めた。自然と馬の足も早くなる。
夜明けが近い。
それは紺色の空の下方が黒々と切り取られたかのように映った。海に浮かぶ島のようにその岩山はぎざぎざに尖った稜線を空に向けてそびえていた。
ふもとにぽっかりと洞窟が口を開けている。脇には松明がかけられ、男が二人見張りに座っていた。その両方が同時に馬上の影を認めて立ち上がる。
「ススキさん!!」
言って二人はススキに駆け寄った。
「見張り御苦労。馬を頼む」
素早く馬を下りたススキは見張りの一人に二頭の馬の手綱を渡した。程なく追いついたスギとウイキョウを振り返る。
「スギ、お前は馬を戻せ。ウイキョウ、客人を部屋へ案内しろ。私は長に報告に行く」
一礼してスギが見張りの一人と厩舎に向かう。アサザとレンギョウを馬から下ろしたウイキョウは二人を入り口に押し込んだ。
「ってぇな、客はもっと大事に扱うもんだぜ」
突き飛ばされて肩をぶつけたアサザが抗議の声を上げる。縄はまだ解かれていないため、動きにくいことこの上ない。
「確かに、このような客人の歓迎法は見たことも聞いたこともない」
レンギョウが静かにウイキョウを見上げる。
「客人などと言っておるが……つまりは捕縛者のことであろう? そのように余らを嬲ると後で後悔するのはおぬしらのほうになるぞ」
先程のウイキョウの言葉が聞こえていたらしい。冷たく睨むレンギョウにウイキョウがかすかに動揺するのをアサザは敏感に察していた。
「——誰が後悔するの?」
いきなりウイキョウの後ろから声が上がった。その声に振り返ったウイキョウが溜息混じりにうめく。
「……シオン」
ウイキョウの身体がずれて、シオンと呼ばれた娘の姿が見える。洞窟の入り口に立ったその少女は長い黒髪を夜明けの風に遊ばせながら立っていた。レンギョウの眉がかすかに上がる。
「おもしろい人たち。ここにこういう形で来てそんなこと言ったのはあなたが初めてだよ」
にっと笑ったその顔が松明よりも白い光で縁取られる。
「とりあえずようこそ、と言うべきなのかな? お客様方」
彼女の後ろから昇りたての太陽が力強い光を投げかけてきた。
ススキの馬は見えなかったが、アサザから見て右前にレンギョウを乗せた馬がいた。早足で進むその背に揺られながら、レンギョウは落ち着いているようだった。抵抗する力はないと判断されたのか、アサザのように縛られてはいない。まっすぐ前を向いたその横顔からは威厳さえ感じられた。
レンギョウの馬の手綱を取っているのはまだ二十歳くらいの男だった。自警団という肩書きを持つこの集団にいることが不思議に思えるほど大人しげな印象を与える若者だ。先程、スギと呼ばれていたか。その時、風がレンギョウの長い銀髪を月に見せるかのようになびかせた。同色の光を浴びてきらきら輝くそれを戸惑いをあらわにしたスギの目が追う。その様子にアサザの顔に知らず笑いがこみ上げてくる。
「……何が可笑しい」
アサザの笑みを見咎めたアサザの騎手がじろりと睨みつける。
「あんたのお仲間が初めてレンに会った時の俺と同じ気持ちになってるようだからな。ちょっと楽しかっただけさ」
くつくつと笑いながら言うアサザにもう一睨みくれてから騎手は前方に視線を戻した。
「あまり我らを甘く見ないほうがいい。後で後悔することになるぞ」
「そりゃ怖い」
脅しを軽く受け流したアサザは今度は騎手に目を向けた。
名は確か、ウイキョウ。年の頃は四十過ぎに見えるが、やたらと分厚い身体が衰えを見せているという感じはまったくしない。今もアサザの自由を封じている縄をしっかりと握りながら、その手綱捌きには乱れ一つない。油断できない、とアサザは判断していた。
油断できないといえばスギもその一人だろう。一見優しげに見えるが、その馬術は確かなものだったし、腰に下げた古びた剣は手入れもしっかりされている。何よりレンギョウというアサザにとってのいわば人質を縄もかけずに連行するという役を任されたという点を見ても、年長者である他の二人から信頼されていることは明らかだ。
月はいつの間にか天頂を過ぎて傾き始めていた。
突然、視界に二頭の馬が飛び込んできた。不満げに鼻を鳴らしているのは見慣れた相棒キキョウだ。
「もうすぐ我々の本拠地に着く」
キキョウの手綱を引いたススキがもう一頭の背で言う。伝えることはそれだけだ、とでも言うかのように緩めた馬足を再び早めたススキの姿はあっという間にアサザの見えない位置まで遠ざかる。とはいえ、あまり離れてはいないことは気配でわかった。
「あいつ……相当使えるな」
アサザの言葉をウイキョウは無反応で返した。アサザもそれ以上は何も言わず、ススキが消えた前方に目を向けた。そこにいるのはまったく隙が感じられない相手だった。皇都の戦士たちとの馴れ合いの手合わせには飽き飽きしていたところだった。もしススキと本気で打ち合えたらどれだけ楽しいだろう!
「……?」
ウイキョウが訝しげな目を向けているのを意識しながらも、アサザは笑みを抑えることができなかった。
そのまましばらく進み続けて、ようやくアサザの目にもその姿が見え始めた。自然と馬の足も早くなる。
夜明けが近い。
それは紺色の空の下方が黒々と切り取られたかのように映った。海に浮かぶ島のようにその岩山はぎざぎざに尖った稜線を空に向けてそびえていた。
ふもとにぽっかりと洞窟が口を開けている。脇には松明がかけられ、男が二人見張りに座っていた。その両方が同時に馬上の影を認めて立ち上がる。
「ススキさん!!」
言って二人はススキに駆け寄った。
「見張り御苦労。馬を頼む」
素早く馬を下りたススキは見張りの一人に二頭の馬の手綱を渡した。程なく追いついたスギとウイキョウを振り返る。
「スギ、お前は馬を戻せ。ウイキョウ、客人を部屋へ案内しろ。私は長に報告に行く」
一礼してスギが見張りの一人と厩舎に向かう。アサザとレンギョウを馬から下ろしたウイキョウは二人を入り口に押し込んだ。
「ってぇな、客はもっと大事に扱うもんだぜ」
突き飛ばされて肩をぶつけたアサザが抗議の声を上げる。縄はまだ解かれていないため、動きにくいことこの上ない。
「確かに、このような客人の歓迎法は見たことも聞いたこともない」
レンギョウが静かにウイキョウを見上げる。
「客人などと言っておるが……つまりは捕縛者のことであろう? そのように余らを嬲ると後で後悔するのはおぬしらのほうになるぞ」
先程のウイキョウの言葉が聞こえていたらしい。冷たく睨むレンギョウにウイキョウがかすかに動揺するのをアサザは敏感に察していた。
「——誰が後悔するの?」
いきなりウイキョウの後ろから声が上がった。その声に振り返ったウイキョウが溜息混じりにうめく。
「……シオン」
ウイキョウの身体がずれて、シオンと呼ばれた娘の姿が見える。洞窟の入り口に立ったその少女は長い黒髪を夜明けの風に遊ばせながら立っていた。レンギョウの眉がかすかに上がる。
「おもしろい人たち。ここにこういう形で来てそんなこと言ったのはあなたが初めてだよ」
にっと笑ったその顔が松明よりも白い光で縁取られる。
「とりあえずようこそ、と言うべきなのかな? お客様方」
彼女の後ろから昇りたての太陽が力強い光を投げかけてきた。
「ダメです! さっきも言ったでしょう。ススキさんの命令ですからね」
「だから、ススキには後で私から言っておくってば」
「ダメったらダメですってば!」
階上から聞こえるやりとりにアサザは小さく溜息をついた。
「あのお嬢さんも根性あるな……」
「単に私らが珍しいだけであろう? 先程もそのようなことを言っておった」
レンギョウの台詞はそっけない。通されてすぐのうちは『部屋』を物珍しげに眺めていたのだが、一通り確認を済ませてしまうと隅の壁に背を預けて動かなくなってしまった。見ると、瞼が半分以上も落ちている。昨夜の半徹夜の遠駆けの疲れが出たのだろう。
「そうだろうが……かれこれ二時間だぜ。相手してる奴も災難だな」
アサザは縄の痕が残る手首をさすりながら背後をちらりと見やった。今凭れているのは頑丈な木材で組まれた格子だった。それ越しに見える地面が剥き出しの通路はやがて階段になり、地上へと続いている。
その階段の上には見張りがいた。角度的にアサザの位置からは見えないが、会話から二人がここに入れられたことで監視の役を仰せつかったらしいことがわかった。朝早くからご苦労なことだ。
しかし不幸なことに彼は本来の役目とは違う仕事で苦労していた。シオンの相手である。この二時間ずっと続いている階上の押し問答に聞いているアサザまでもがうんざりしていた。
「この場合まさか俺たちの方から出ていくわけにもいかないからな」
『客室』と書かれた手製の札が打ちつけられた向かいの部屋を眺めながらアサザはぼやいた。恐らくこの部屋の外にも同じような札がかかっているのだろう。確かにこの部屋は俺たちのような招かれざる客にはお似合いだ、と皮肉げに考える。地下室独特の陰気な湿っぽさ。見張りが監視しやすい隙間だらけの格子戸。部屋の中を見回せば(もっとも、見渡すほどの広さでもないが)目に付く調度品は大型の雑巾のような毛布が数枚と薄汚れた素焼きの壺だけ。床は外の通路と同様、地べたが露出していた。早い話が、地下牢だ。
ここに入れられた時アサザの縄は解かれたが、同時に剣を取り上げられてしまった。それまで取られなかったことの方が不思議なのだが、どの道腕が使えなければせっかくの得物も抜くことすらできない。腕が使えても得物がなければどうしようもないのでアサザはおとなしくしているしかなかった。素手ではとても太刀打ちできない格子戸をいまいましげに見やって、アサザはうめいた。
「くそ……」
「そんなに焦ることはない。時期が来れば出られよう」
あくび混じりのレンギョウの声。重ねた毛布の上に座り、どうやら本格的に眠くなってきたようだ。
「そうは言ってもだな、お前はどうなるんだ? 家の者には黙って出てきたんだぞ。今ごろ方々探し回ってるんじゃ……」
「『私』を探す者などおらんよ」
自嘲気味に言ってから、ふとレンギョウはアサザに目を向けた。
「お前……私のために焦っていたのか?」
「べっ……別にお前のためじゃないさ! 俺のせいでお前の家族に心配かけたら寝覚めが悪いだろう!!」
「だから家族はおらんと言うておろうに」
目を伏せたレンギョウは再び壁に背をつけた。
「どうしても出たくなれば言うがよい。そんな格子などすぐに破ってやる」
「れっ……レン!」
言いかけた言葉をアサザは飲み込んだ。規則正しい寝息が牢の空気を震わせる。
「見かけによらずレンも物騒だな……」
何となく頬を掻きながらアサザは呟いた。それにしてもあまり派手に牢破りなどしたら逃げるに逃げられなくなる。レンに頼むのは最後の手段だ、とアサザが心を決めた時、ふと階上の様子が先程までと変化しているのに気づいた。
「本当に少しの間だけですからね。くれぐれもススキさんにはバレないようにしてくださいよ」
「分かってるわよ。お心遣い、ありがとね」
嬉しげな少女の声。同時に、こちらに向かってくる軽い足音。
一瞬にしてアサザの脳裏に先程会ったばかりのシオンの姿が浮かび上がった。年の頃は十五、六。背は高めだが華奢な身体。身のこなしも軽々と、元気がよい。
しかしそれらは彼女がごく普通の少女であることを意味していた。見張りが強く出られない様子などを見ると、この武装組織の中では一目置かれる存在のようだ。しかしその立場は武術ゆえではないだろうとアサザは考えた。おそらく、幹部の血縁か何かなのだろう。
「レン」
低く鋭い呼びかけ。それだけで小さな寝息はぴたりと止んだ。
「どうした?」
「俺が合図したら格子を破ってくれ」
「……わかった」
階段から軽い足音が近づいてくる。アサザは袖口をそっと押さえた。そこに仕込んだ調理用の小刀は幸い見つからなかった。硬い柄の感触を確かめ、呟く。
あとは、機を窺うだけだ。
「だから、ススキには後で私から言っておくってば」
「ダメったらダメですってば!」
階上から聞こえるやりとりにアサザは小さく溜息をついた。
「あのお嬢さんも根性あるな……」
「単に私らが珍しいだけであろう? 先程もそのようなことを言っておった」
レンギョウの台詞はそっけない。通されてすぐのうちは『部屋』を物珍しげに眺めていたのだが、一通り確認を済ませてしまうと隅の壁に背を預けて動かなくなってしまった。見ると、瞼が半分以上も落ちている。昨夜の半徹夜の遠駆けの疲れが出たのだろう。
「そうだろうが……かれこれ二時間だぜ。相手してる奴も災難だな」
アサザは縄の痕が残る手首をさすりながら背後をちらりと見やった。今凭れているのは頑丈な木材で組まれた格子だった。それ越しに見える地面が剥き出しの通路はやがて階段になり、地上へと続いている。
その階段の上には見張りがいた。角度的にアサザの位置からは見えないが、会話から二人がここに入れられたことで監視の役を仰せつかったらしいことがわかった。朝早くからご苦労なことだ。
しかし不幸なことに彼は本来の役目とは違う仕事で苦労していた。シオンの相手である。この二時間ずっと続いている階上の押し問答に聞いているアサザまでもがうんざりしていた。
「この場合まさか俺たちの方から出ていくわけにもいかないからな」
『客室』と書かれた手製の札が打ちつけられた向かいの部屋を眺めながらアサザはぼやいた。恐らくこの部屋の外にも同じような札がかかっているのだろう。確かにこの部屋は俺たちのような招かれざる客にはお似合いだ、と皮肉げに考える。地下室独特の陰気な湿っぽさ。見張りが監視しやすい隙間だらけの格子戸。部屋の中を見回せば(もっとも、見渡すほどの広さでもないが)目に付く調度品は大型の雑巾のような毛布が数枚と薄汚れた素焼きの壺だけ。床は外の通路と同様、地べたが露出していた。早い話が、地下牢だ。
ここに入れられた時アサザの縄は解かれたが、同時に剣を取り上げられてしまった。それまで取られなかったことの方が不思議なのだが、どの道腕が使えなければせっかくの得物も抜くことすらできない。腕が使えても得物がなければどうしようもないのでアサザはおとなしくしているしかなかった。素手ではとても太刀打ちできない格子戸をいまいましげに見やって、アサザはうめいた。
「くそ……」
「そんなに焦ることはない。時期が来れば出られよう」
あくび混じりのレンギョウの声。重ねた毛布の上に座り、どうやら本格的に眠くなってきたようだ。
「そうは言ってもだな、お前はどうなるんだ? 家の者には黙って出てきたんだぞ。今ごろ方々探し回ってるんじゃ……」
「『私』を探す者などおらんよ」
自嘲気味に言ってから、ふとレンギョウはアサザに目を向けた。
「お前……私のために焦っていたのか?」
「べっ……別にお前のためじゃないさ! 俺のせいでお前の家族に心配かけたら寝覚めが悪いだろう!!」
「だから家族はおらんと言うておろうに」
目を伏せたレンギョウは再び壁に背をつけた。
「どうしても出たくなれば言うがよい。そんな格子などすぐに破ってやる」
「れっ……レン!」
言いかけた言葉をアサザは飲み込んだ。規則正しい寝息が牢の空気を震わせる。
「見かけによらずレンも物騒だな……」
何となく頬を掻きながらアサザは呟いた。それにしてもあまり派手に牢破りなどしたら逃げるに逃げられなくなる。レンに頼むのは最後の手段だ、とアサザが心を決めた時、ふと階上の様子が先程までと変化しているのに気づいた。
「本当に少しの間だけですからね。くれぐれもススキさんにはバレないようにしてくださいよ」
「分かってるわよ。お心遣い、ありがとね」
嬉しげな少女の声。同時に、こちらに向かってくる軽い足音。
一瞬にしてアサザの脳裏に先程会ったばかりのシオンの姿が浮かび上がった。年の頃は十五、六。背は高めだが華奢な身体。身のこなしも軽々と、元気がよい。
しかしそれらは彼女がごく普通の少女であることを意味していた。見張りが強く出られない様子などを見ると、この武装組織の中では一目置かれる存在のようだ。しかしその立場は武術ゆえではないだろうとアサザは考えた。おそらく、幹部の血縁か何かなのだろう。
「レン」
低く鋭い呼びかけ。それだけで小さな寝息はぴたりと止んだ。
「どうした?」
「俺が合図したら格子を破ってくれ」
「……わかった」
階段から軽い足音が近づいてくる。アサザは袖口をそっと押さえた。そこに仕込んだ調理用の小刀は幸い見つからなかった。硬い柄の感触を確かめ、呟く。
あとは、機を窺うだけだ。
「や、元気?」
「……元気だよ、一応な」
格子に凭れたままのアサザの答えに、シオンはくつくつと笑った。
「こんなおもてなししかできなくてごめんなさい。お連れさんは大丈夫?」
「大事ない」
そっけないレンギョウの言葉に気を悪くした様子もなく、シオンは格子の外にしゃがみこんだ。
「ね、あたしシオンっていうの。あなたたちは? どこから来たの?」
「おいおい、見張りはちょっとだけって言ってなかったか?」
「あの人は朝ごはんを食べに行っちゃったわ。あたしに鍵を預けてね」
にっこり笑ってシオンはぐっと格子に顔を近づけた。
「それよりも名前! 名前を教えてよー」
「なんでそんなにこだわるんだ!?」
「あたしがあなたたちの調書をつけるからよ。書類って一番最初には名前を書くものでしょう?」
得意げにシオンは持っていた紙片を示した。その上部には確かに『調書』の文字がある。
「……まあいいけどな」
明らかにシオンの手書きと分かるその文字から目を逸らし、アサザは土の壁に背を預けた。
「俺はアサザ、あっちはレンだ」
「黒頭ででかいのがアサザ、銀色で可愛いのがレンだね。ふむふむ」
真剣なのかふざけているのか分からない顔でシオンが紙にペンを走らせる。
「ところであんた、こんなに俺たちのそばに来てもいいのか? ここじゃそれなりの立場にあるように見えたが」
アサザの言葉にシオンは軽い驚きを見せた。
「何でそう思うの?」
「そりゃ……上の見張りだって何だかんだであんたの頼みを聞いてたし、さっきの偉そうな奴——ススキにもあんたは顔が利くんだろ? あいつはどう見ても下っ端じゃなかったし、あんたはあいつを呼び捨てにしてたしな」
「なるほど、だからあたしも下っ端じゃないってわけね」
ぽん、とシオンは両手を叩いた。
「うん、半分あたりで半分はずれ。あたしとススキは長の拾い子なの」
「……そうか」
顔を曇らせたアサザにレンギョウが訝しげな目を向ける。
「拾い子……?」
「実の子供じゃないってことよ。あたしの村はあたしが生まれてすぐに盗賊の襲撃だか村同士の抗争だかでなくなっちゃったの。運良く生き残ったあたしを混乱を収めにやって来た長が引き取ってくれたわけ。中立地帯は貧しいから、こんなことは珍しいことじゃないわ」
淡々とシオンは語る。
「だからここの人はみんなあたしを長の娘として育ててくれたの。ま、あたしにも一応お役目はあるわけだけど……だから、ススキとあたしは兄妹みたいなものね。同じように長を親代わりに大きくなったんだから。でもススキはあたしとは違って実力であの地位を手に入れたのよ。兵士としての働きでね」
ふっ、と声に溜息が混じる。
「ほんと、あたしとは大違い。あたしは、ただの飾りなんだから」
「飾り、か——」
レンギョウが低く呟く。その表情から先程よりとげが消えているように見えるのは気のせいだろうか。レンギョウの変化に気づいたのか、シオンはわざと声を明るくした。
「そ。普段どれだけわがままを聞いてくれても、肝心なところではあたしはいつも仲間はずれなの。今もそう。ススキたちは長の部屋であなたたちをどうするか話し合ってるけど、あたしは呼ばれてもいないわ」
アサザが背中を壁から離した。
「ふーん……じゃ、今は主だった奴らはみんな会議中ってことか」
「そうね。それ以外の人たちも朝ごはんの真っ最中よ」
アサザの目がすっと細まった。
「——危ないとは思わないのか?」
「何が?」
シオンがきょとんと問い返す。立てた膝に肘を乗せて、アサザが身を乗り出す。レンギョウもアサザに目を向けた。
「あんたに何か起こった時助けに来れそうな奴がいない今のような状況で、あんたが俺たちにこんなに接近すること……そしてそれを俺たちに話しちまったことが、さ」
不敵な笑みを口元に浮かべたアサザに、シオンはああ、と頷いた。
「そんなこと。大丈夫よ、ここはそう簡単には破れないわ。破れたとしても一応あたしだって自警団の一員よ? 護身術くらい知ってるわ」
「そうかい? んじゃあ——」
アサザがレンギョウを顧みる。その視線を受けたレンギョウの両手の間には、既に白い光が浮かんでいた。その光がふっと見えなくなるのと同時にごうっ、と風が吹いた。同時にまるで鋭い刃で断ち切られたかのように、牢の格子がばらばらになって吹き飛ぶ。不思議なほど、音はしなかった。
「なっ……何!?」
舞い上がる土埃に思わずシオンは顔をかばった。牢の中の様子は見えない。シオンがその場を一歩も動けないうちに、その身体がぐいっと後方に引かれた。
「牢、破れちまったぜ。どうする?」
ぴたり、とシオンの首筋に小刀をつけたアサザが言う。レンギョウも埃を潜り抜けて牢の外に出てきた。
「うーん、困ったわね」
意外にシオンは落ち着いていた。
「まさか本当に牢破りをするとは思わなかったわ。あなたが言うとおり、あたしは少し軽率だったようね」
そう言って、わずかに視線を落とす。喉元の小刀を示して、シオンは小さく肩を竦めた。
「こんなものをこんな近くで向けられたんじゃ何もできないわ。あなたたちこそどうするの?」
「そりゃ逃げるさ。別にあんたを困らせるためにこんなことをしたんじゃない」
「ふふ、それもそうね。なら、あたしを連れていって」
「……は?」
アサザのみならず、レンギョウまでも目を丸くした。その拍子にアサザの力が緩んだのか、シオンはアサザに振り返って笑った。
「あなたたちは剣や馬がどこにあるか知らないでしょう? あたしが案内するわ」
「なぜ」
シオンはレンギョウに目を向けた。
「あなたたちのことが気に入っちゃったの。逃がしてあげるから代わりにあたしも連れていってよ」
「……余らがおぬしの要求に応える義理はなかろう」
「そう? じゃ、あたし大声出すわよ?」
ぐっと言葉を詰まらせたレンギョウにアサザは呆れと苦笑いが半々に混じった視線を向ける。
「ま、いいだろ。俺たちがここに詳しくないのは確かだしな」
「しかし……」
「大丈夫だよ。このお嬢さんだって危険は承知だろうさ。俺たちとしても、道案内兼人質になるわけだからそう不利になるわけでもない」
「……なんだかひどい言われようね」
シオンのぼやきをよそにしばらく考え込んでいたレンギョウは、やがてこくりと頷いた。
「——アサザがそう言うのなら。任せる」
「ああ」
にっと笑ってアサザは階段の上を見上げた。土埃は既に収まり、入り口からは松明より数段明るい光が射し込んでいる。
「じゃ、行くぞ。脱出だ」
「……元気だよ、一応な」
格子に凭れたままのアサザの答えに、シオンはくつくつと笑った。
「こんなおもてなししかできなくてごめんなさい。お連れさんは大丈夫?」
「大事ない」
そっけないレンギョウの言葉に気を悪くした様子もなく、シオンは格子の外にしゃがみこんだ。
「ね、あたしシオンっていうの。あなたたちは? どこから来たの?」
「おいおい、見張りはちょっとだけって言ってなかったか?」
「あの人は朝ごはんを食べに行っちゃったわ。あたしに鍵を預けてね」
にっこり笑ってシオンはぐっと格子に顔を近づけた。
「それよりも名前! 名前を教えてよー」
「なんでそんなにこだわるんだ!?」
「あたしがあなたたちの調書をつけるからよ。書類って一番最初には名前を書くものでしょう?」
得意げにシオンは持っていた紙片を示した。その上部には確かに『調書』の文字がある。
「……まあいいけどな」
明らかにシオンの手書きと分かるその文字から目を逸らし、アサザは土の壁に背を預けた。
「俺はアサザ、あっちはレンだ」
「黒頭ででかいのがアサザ、銀色で可愛いのがレンだね。ふむふむ」
真剣なのかふざけているのか分からない顔でシオンが紙にペンを走らせる。
「ところであんた、こんなに俺たちのそばに来てもいいのか? ここじゃそれなりの立場にあるように見えたが」
アサザの言葉にシオンは軽い驚きを見せた。
「何でそう思うの?」
「そりゃ……上の見張りだって何だかんだであんたの頼みを聞いてたし、さっきの偉そうな奴——ススキにもあんたは顔が利くんだろ? あいつはどう見ても下っ端じゃなかったし、あんたはあいつを呼び捨てにしてたしな」
「なるほど、だからあたしも下っ端じゃないってわけね」
ぽん、とシオンは両手を叩いた。
「うん、半分あたりで半分はずれ。あたしとススキは長の拾い子なの」
「……そうか」
顔を曇らせたアサザにレンギョウが訝しげな目を向ける。
「拾い子……?」
「実の子供じゃないってことよ。あたしの村はあたしが生まれてすぐに盗賊の襲撃だか村同士の抗争だかでなくなっちゃったの。運良く生き残ったあたしを混乱を収めにやって来た長が引き取ってくれたわけ。中立地帯は貧しいから、こんなことは珍しいことじゃないわ」
淡々とシオンは語る。
「だからここの人はみんなあたしを長の娘として育ててくれたの。ま、あたしにも一応お役目はあるわけだけど……だから、ススキとあたしは兄妹みたいなものね。同じように長を親代わりに大きくなったんだから。でもススキはあたしとは違って実力であの地位を手に入れたのよ。兵士としての働きでね」
ふっ、と声に溜息が混じる。
「ほんと、あたしとは大違い。あたしは、ただの飾りなんだから」
「飾り、か——」
レンギョウが低く呟く。その表情から先程よりとげが消えているように見えるのは気のせいだろうか。レンギョウの変化に気づいたのか、シオンはわざと声を明るくした。
「そ。普段どれだけわがままを聞いてくれても、肝心なところではあたしはいつも仲間はずれなの。今もそう。ススキたちは長の部屋であなたたちをどうするか話し合ってるけど、あたしは呼ばれてもいないわ」
アサザが背中を壁から離した。
「ふーん……じゃ、今は主だった奴らはみんな会議中ってことか」
「そうね。それ以外の人たちも朝ごはんの真っ最中よ」
アサザの目がすっと細まった。
「——危ないとは思わないのか?」
「何が?」
シオンがきょとんと問い返す。立てた膝に肘を乗せて、アサザが身を乗り出す。レンギョウもアサザに目を向けた。
「あんたに何か起こった時助けに来れそうな奴がいない今のような状況で、あんたが俺たちにこんなに接近すること……そしてそれを俺たちに話しちまったことが、さ」
不敵な笑みを口元に浮かべたアサザに、シオンはああ、と頷いた。
「そんなこと。大丈夫よ、ここはそう簡単には破れないわ。破れたとしても一応あたしだって自警団の一員よ? 護身術くらい知ってるわ」
「そうかい? んじゃあ——」
アサザがレンギョウを顧みる。その視線を受けたレンギョウの両手の間には、既に白い光が浮かんでいた。その光がふっと見えなくなるのと同時にごうっ、と風が吹いた。同時にまるで鋭い刃で断ち切られたかのように、牢の格子がばらばらになって吹き飛ぶ。不思議なほど、音はしなかった。
「なっ……何!?」
舞い上がる土埃に思わずシオンは顔をかばった。牢の中の様子は見えない。シオンがその場を一歩も動けないうちに、その身体がぐいっと後方に引かれた。
「牢、破れちまったぜ。どうする?」
ぴたり、とシオンの首筋に小刀をつけたアサザが言う。レンギョウも埃を潜り抜けて牢の外に出てきた。
「うーん、困ったわね」
意外にシオンは落ち着いていた。
「まさか本当に牢破りをするとは思わなかったわ。あなたが言うとおり、あたしは少し軽率だったようね」
そう言って、わずかに視線を落とす。喉元の小刀を示して、シオンは小さく肩を竦めた。
「こんなものをこんな近くで向けられたんじゃ何もできないわ。あなたたちこそどうするの?」
「そりゃ逃げるさ。別にあんたを困らせるためにこんなことをしたんじゃない」
「ふふ、それもそうね。なら、あたしを連れていって」
「……は?」
アサザのみならず、レンギョウまでも目を丸くした。その拍子にアサザの力が緩んだのか、シオンはアサザに振り返って笑った。
「あなたたちは剣や馬がどこにあるか知らないでしょう? あたしが案内するわ」
「なぜ」
シオンはレンギョウに目を向けた。
「あなたたちのことが気に入っちゃったの。逃がしてあげるから代わりにあたしも連れていってよ」
「……余らがおぬしの要求に応える義理はなかろう」
「そう? じゃ、あたし大声出すわよ?」
ぐっと言葉を詰まらせたレンギョウにアサザは呆れと苦笑いが半々に混じった視線を向ける。
「ま、いいだろ。俺たちがここに詳しくないのは確かだしな」
「しかし……」
「大丈夫だよ。このお嬢さんだって危険は承知だろうさ。俺たちとしても、道案内兼人質になるわけだからそう不利になるわけでもない」
「……なんだかひどい言われようね」
シオンのぼやきをよそにしばらく考え込んでいたレンギョウは、やがてこくりと頷いた。
「——アサザがそう言うのなら。任せる」
「ああ」
にっと笑ってアサザは階段の上を見上げた。土埃は既に収まり、入り口からは松明より数段明るい光が射し込んでいる。
「じゃ、行くぞ。脱出だ」
「何とか逃げ切れたようだな」
その空を見上げて、アサザは大きく息を吐いた。
「そうだな」
すっとレンギョウがアサザの隣に並ぶ。二人とも馬に乗っていた。勿論、アサザを乗せているのはキキョウだ。
「割と上手くいったわよね。途中ちょっと危なかったけど」
シオンの声はキキョウの上からした。昨夜のレンギョウと同じように、アサザの前に乗っている。
「ま、な。あんたがいなかったらヤバかったかもしれない。ありがとな」
つい先程の逃亡劇を思い返しながらアサザが言った。
地下牢を抜けて、見張り場に置かれていた剣を取り戻すまでは順調だった。馬を奪い返すため、通路を移動しているところを見つかった。咄嗟にシオンを盾にして、すぐ近くにあった厨房に飛び込んだ。朝食の用意が一段落してそれぞれ休んでいた人々(おばちゃんばっかだ、とアサザは思った)をこれまた近くにあった片手鍋を振り回しながら突破し、飛び出した裏口のすぐ傍にあった厩舎でキキョウと合流を果たした。再会を喜ぶ暇もなくキキョウとその隣にいた馬を外に出し、シオンの指示する最短路をレンギョウの煙幕で隠れながらようやくここまで駆けてきたのだ。今ごろ自警団本拠地は大騒ぎだろう。
「いーえ。あたしはあたしのしたいことをしただけよ」
軽く肩を竦めてシオンは視線を前方に向けた。地下牢にいたときより口数が少なくなっているのは、彼女なりに本拠地を心配しているからだろう。
追っ手があるわけでもなく、特に急ぐ道でも目的があるわけでもない。アサザは手綱を緩めた。そうしてふと、横手に目線を流す。
「ところでレン。お前がこんなに巧く馬に乗るとは思わなかったな」
「そうか?」
同じく速度を落としたレンギョウがアサザに顔を向ける。
「ああ。あんなドタバタの中で魔法を使いながら俺……てーかキキョウについて来ただろ。大したもんだぜ」
「そうか。馬を操るなど久方振りだったから、ちと不安だったのだが」
「そうだったのか? 全然そうは見えなかったぜ」
少し照れたように目元を緩めてレンギョウは前を向いた。
「……かたじけない」
三人の前には緩やかな丘があった。なだらかな斜面に丈の高い草が柔らかに揺れている。緑の丘をゆっくりと登り切り、その後ろに隠されていた景色が目に入った瞬間、三人は息を呑んだ。
「——海だ」
誰かが呟いた。一瞬の空白の後、二騎の馬は海へ向かって駆け出していた。あっという間に丘の緑は後ろへと流れ去り、視界は砂浜の白を経て海と空の蒼に埋めつくされる。波打ち際ぎりぎりで手綱を引いて、三人は馬から飛び降りた。
「すごーい! こんなに綺麗な海、初めて見た」
両手に掬い上げた海水にも負けないほど瞳をきらめかせたシオンが言う。海面の眩しさに目を細めたアサザも頷いた。
「ああ。天気も良いし、波も穏やかだ。本当に今日は、いい海だな」
シオンはもう聞いていない。結んだ水を振りまいて、子供のように波と遊び始める。その周りに一瞬、虹色が踊った。
飛んできた飛沫を苦笑しながら避けたアサザは、波際に立ちつくすレンギョウを振り返った。
「どうしたんだ、レン? 随分大人しいな」
「いや、なに……これが、海というものなのかと思ってな」
瞳に驚きを浮かべ、レンギョウが言う。
「……大きいな」
その言葉の中に驚き以外の要素を感じて、アサザも素直に頷いた。確かに、今日の海には人の心を動かす何かがある。
「ねー、見てー!!」
いつの間にか随分遠くまで行っていたシオンが戻ってきた。
「今水の中で見つけたの。これ、レンの目の色にそっくりじゃない?」
示されたものを見て、アサザは感心八割呆れ二割の笑いをこぼした。
「本当だ。よくこんなもん見つけたな」
「へへー。あたしってこういうのには目ざといんだよね」
びしょ濡れの裾を気にする様子もなく、シオンはレンギョウに拳を差し出した。
「はい、あげる」
手の中に落とし込まれた小さな蒼いガラス石をきゅっと握って、レンギョウはシオンに目を向けた。
「余に? いいのか?」
「うん。記念になるでしょ?」
「……記念?」
怪訝な顔のレンギョウにシオンは頷いた。
「海。見たの初めてなんでしょ?」
沈黙するレンギョウからアサザに視線を流して、シオンは小さく笑った。
「海を見たことがない貴族と、絵に描いたような戦士。こんなに変な取り合わせもなかなか見れるもんじゃないわよね」
アサザが軽く目を見開いた。
「シオン、お前……」
「あら、バレてないとでも思ってた? レンはあんなにばんばん魔法使ってるし、アサザは剣と馬にこだわってたのに?」
悪戯っぽく二人の顔を覗き込んで、シオンは続けた。
「それに二人とも、王都や皇都では『それなりの立場』があるんでしょ? あたしの目だって節穴じゃないわ。何となくそういうことって分かるもの。さすがにどういう経緯でこんなに変な二人組が結成されたかまでは分からないけどね」
もう一度笑って、シオンは首を傾げた。
「そういえばあなたたち、ごはんは食べた?」
「……いや」
「あ、やっぱり。じゃあこれあげるよ」
言いながらシオンは懐から布包みを取り出してアサザに渡した。
「これは?」
「お饅頭よ。さっき通った台所から持ってきたの」
包みを開けると、確かに小さな饅頭が一つ入っていた。押し込められていたせいだろう、少しつぶれている。
「ごはんが出せなかったこと、悪く思わないでね。最近は自警団も貧乏だから、予定外のお客さんにはごはんを出せないのよ」
シオンは小さく肩を竦めた。
「情けないけど、これが中立地帯の現状。あたしたちでさえこんななんだから、普通に暮らしてる普通の中立地帯の人はもっと苦しいでしょうね」
今度はアサザが沈黙する番だった。ためらいがちにレンギョウが口を開く。
「なぜそんな……食べるものにも困るほど生活が苦しくなったのだ?」
「さあ。ほんとのところはあたしにも分からない。よく皇帝が悪いとは言われるけどね。一応中立地帯は皇帝が面倒を見るって事に決まってるらしいけど、皇帝領と比べたらやっぱり差はあるわね」
軽く目を見張って、レンギョウはアサザを見上げた。
「本当か?」
「……ああ」
苦しげにアサザが答える。
「そうか……それも私は……知らなかった」
俯くレンギョウにシオンは頷いた。
「さっきレンはあたしに、なんで逃がしてくれるのかって訊いたよね?」
シオンはアサザが持ったままの包みを示した。
「それが答え。あなたたち、皇都と王都の関係者に中立地帯の現状を知ってもらいたかったの。こういうことはすごく大事だとあたしは思うから」
それだけ言うとシオンは満足したのか、軽く伸びをして空を見上げた。
「あ、もうあんなに太陽が昇ってる。そろそろ帰らなきゃ、貴重な昼ごはんを食いっぱぐれちゃうわね」
シオンは二人にくるりと背を向けて、指笛を吹いた。砂浜で大人しくしていた本拠地の馬が、耳をぴんと立ててやって来る。
「じゃ、あたしはここで。あんまり遅くなるとススキに怒られちゃうしね」
身軽に馬に飛び乗ったシオンはしかし、数歩馬を歩かせたところで止まった。
「……あたしが今更何をしても、何を言っても、何も変わらないのかもしれないけど。でも最後に一つだけ、言っておくわ。これからこの国は変わっていく。それがいいことなのかどうかは分からないけれど……これも、憶えていてね」
振り返らずにそれだけを言って、シオンは馬の腹を蹴った。高い嘶きを上げて馬が走り出す。見る間にシオンの姿は遠ざかり、緑の丘に紛れて見えなくなった。
「——俺たちも、行こうか」
短くはない沈黙の後、アサザはキキョウを呼んだ。波打ち際で遊んでいたキキョウが近寄ってくると、レンギョウは逆らわずにその背に乗った。続いて飛び乗ったアサザが、ふと思いついてシオンからもらった包みを開けた。中の饅頭を二つに割り、一つをレンギョウに渡す。
「食っとけよ。王都まではかなりかかるだろうからな」
「……うむ」
素直にレンギョウは頷いた。それを確認したかのように低く嘶いて、キキョウは走り出した。
シオンが本拠地に帰ると、そこは大騒ぎになっていた。
「ただいまー」
騒ぎの元凶のわざとらしいほど呑気な声に、本拠地の人々は一瞬静まり——一斉に溜息を吐いた。
「あ、帰ってきたよ」
「まったく人騒がせな……」
口々に飛ぶ文句に笑って応えながらシオンの足は正確に食堂へ向かって進んでいた。しかしその順調な歩みは目的地からかなり離れたところで止まってしまった。
「……ススキ」
壁に凭れたススキがシオンに友好的とは言いがたい視線を向けていた。
「シオン、お前は今がどういう時期だか解っているのか」
「うん」
他の者なら気圧されてしまいそうなススキの冷たい声に、シオンはあっさりと答えを返した。二人の視線が交錯する。
「……解っているのなら、いい」
目を逸らしたのはススキの方だった。
「怪我がないようで、何よりだ」
「ありがと。ところで今日の昼ごはんは何かな」
「さあな」
すたすたと去っていくススキの背を不満げに見送ってから、シオンは再び食堂へ歩き出した。
「解ってるわよ。だからごはんが気になるのよ。『腹が減っては戦は出来ない』って言うでしょうに」
ぶつぶつ言いながら歩いていたシオンの顔が、見慣れた食堂のドアを見てぱっと輝いた。
「そうよ。明日は王都へ行くんだもの。いっぱい食べて元気をつけなくちゃ」
その空を見上げて、アサザは大きく息を吐いた。
「そうだな」
すっとレンギョウがアサザの隣に並ぶ。二人とも馬に乗っていた。勿論、アサザを乗せているのはキキョウだ。
「割と上手くいったわよね。途中ちょっと危なかったけど」
シオンの声はキキョウの上からした。昨夜のレンギョウと同じように、アサザの前に乗っている。
「ま、な。あんたがいなかったらヤバかったかもしれない。ありがとな」
つい先程の逃亡劇を思い返しながらアサザが言った。
地下牢を抜けて、見張り場に置かれていた剣を取り戻すまでは順調だった。馬を奪い返すため、通路を移動しているところを見つかった。咄嗟にシオンを盾にして、すぐ近くにあった厨房に飛び込んだ。朝食の用意が一段落してそれぞれ休んでいた人々(おばちゃんばっかだ、とアサザは思った)をこれまた近くにあった片手鍋を振り回しながら突破し、飛び出した裏口のすぐ傍にあった厩舎でキキョウと合流を果たした。再会を喜ぶ暇もなくキキョウとその隣にいた馬を外に出し、シオンの指示する最短路をレンギョウの煙幕で隠れながらようやくここまで駆けてきたのだ。今ごろ自警団本拠地は大騒ぎだろう。
「いーえ。あたしはあたしのしたいことをしただけよ」
軽く肩を竦めてシオンは視線を前方に向けた。地下牢にいたときより口数が少なくなっているのは、彼女なりに本拠地を心配しているからだろう。
追っ手があるわけでもなく、特に急ぐ道でも目的があるわけでもない。アサザは手綱を緩めた。そうしてふと、横手に目線を流す。
「ところでレン。お前がこんなに巧く馬に乗るとは思わなかったな」
「そうか?」
同じく速度を落としたレンギョウがアサザに顔を向ける。
「ああ。あんなドタバタの中で魔法を使いながら俺……てーかキキョウについて来ただろ。大したもんだぜ」
「そうか。馬を操るなど久方振りだったから、ちと不安だったのだが」
「そうだったのか? 全然そうは見えなかったぜ」
少し照れたように目元を緩めてレンギョウは前を向いた。
「……かたじけない」
三人の前には緩やかな丘があった。なだらかな斜面に丈の高い草が柔らかに揺れている。緑の丘をゆっくりと登り切り、その後ろに隠されていた景色が目に入った瞬間、三人は息を呑んだ。
「——海だ」
誰かが呟いた。一瞬の空白の後、二騎の馬は海へ向かって駆け出していた。あっという間に丘の緑は後ろへと流れ去り、視界は砂浜の白を経て海と空の蒼に埋めつくされる。波打ち際ぎりぎりで手綱を引いて、三人は馬から飛び降りた。
「すごーい! こんなに綺麗な海、初めて見た」
両手に掬い上げた海水にも負けないほど瞳をきらめかせたシオンが言う。海面の眩しさに目を細めたアサザも頷いた。
「ああ。天気も良いし、波も穏やかだ。本当に今日は、いい海だな」
シオンはもう聞いていない。結んだ水を振りまいて、子供のように波と遊び始める。その周りに一瞬、虹色が踊った。
飛んできた飛沫を苦笑しながら避けたアサザは、波際に立ちつくすレンギョウを振り返った。
「どうしたんだ、レン? 随分大人しいな」
「いや、なに……これが、海というものなのかと思ってな」
瞳に驚きを浮かべ、レンギョウが言う。
「……大きいな」
その言葉の中に驚き以外の要素を感じて、アサザも素直に頷いた。確かに、今日の海には人の心を動かす何かがある。
「ねー、見てー!!」
いつの間にか随分遠くまで行っていたシオンが戻ってきた。
「今水の中で見つけたの。これ、レンの目の色にそっくりじゃない?」
示されたものを見て、アサザは感心八割呆れ二割の笑いをこぼした。
「本当だ。よくこんなもん見つけたな」
「へへー。あたしってこういうのには目ざといんだよね」
びしょ濡れの裾を気にする様子もなく、シオンはレンギョウに拳を差し出した。
「はい、あげる」
手の中に落とし込まれた小さな蒼いガラス石をきゅっと握って、レンギョウはシオンに目を向けた。
「余に? いいのか?」
「うん。記念になるでしょ?」
「……記念?」
怪訝な顔のレンギョウにシオンは頷いた。
「海。見たの初めてなんでしょ?」
沈黙するレンギョウからアサザに視線を流して、シオンは小さく笑った。
「海を見たことがない貴族と、絵に描いたような戦士。こんなに変な取り合わせもなかなか見れるもんじゃないわよね」
アサザが軽く目を見開いた。
「シオン、お前……」
「あら、バレてないとでも思ってた? レンはあんなにばんばん魔法使ってるし、アサザは剣と馬にこだわってたのに?」
悪戯っぽく二人の顔を覗き込んで、シオンは続けた。
「それに二人とも、王都や皇都では『それなりの立場』があるんでしょ? あたしの目だって節穴じゃないわ。何となくそういうことって分かるもの。さすがにどういう経緯でこんなに変な二人組が結成されたかまでは分からないけどね」
もう一度笑って、シオンは首を傾げた。
「そういえばあなたたち、ごはんは食べた?」
「……いや」
「あ、やっぱり。じゃあこれあげるよ」
言いながらシオンは懐から布包みを取り出してアサザに渡した。
「これは?」
「お饅頭よ。さっき通った台所から持ってきたの」
包みを開けると、確かに小さな饅頭が一つ入っていた。押し込められていたせいだろう、少しつぶれている。
「ごはんが出せなかったこと、悪く思わないでね。最近は自警団も貧乏だから、予定外のお客さんにはごはんを出せないのよ」
シオンは小さく肩を竦めた。
「情けないけど、これが中立地帯の現状。あたしたちでさえこんななんだから、普通に暮らしてる普通の中立地帯の人はもっと苦しいでしょうね」
今度はアサザが沈黙する番だった。ためらいがちにレンギョウが口を開く。
「なぜそんな……食べるものにも困るほど生活が苦しくなったのだ?」
「さあ。ほんとのところはあたしにも分からない。よく皇帝が悪いとは言われるけどね。一応中立地帯は皇帝が面倒を見るって事に決まってるらしいけど、皇帝領と比べたらやっぱり差はあるわね」
軽く目を見張って、レンギョウはアサザを見上げた。
「本当か?」
「……ああ」
苦しげにアサザが答える。
「そうか……それも私は……知らなかった」
俯くレンギョウにシオンは頷いた。
「さっきレンはあたしに、なんで逃がしてくれるのかって訊いたよね?」
シオンはアサザが持ったままの包みを示した。
「それが答え。あなたたち、皇都と王都の関係者に中立地帯の現状を知ってもらいたかったの。こういうことはすごく大事だとあたしは思うから」
それだけ言うとシオンは満足したのか、軽く伸びをして空を見上げた。
「あ、もうあんなに太陽が昇ってる。そろそろ帰らなきゃ、貴重な昼ごはんを食いっぱぐれちゃうわね」
シオンは二人にくるりと背を向けて、指笛を吹いた。砂浜で大人しくしていた本拠地の馬が、耳をぴんと立ててやって来る。
「じゃ、あたしはここで。あんまり遅くなるとススキに怒られちゃうしね」
身軽に馬に飛び乗ったシオンはしかし、数歩馬を歩かせたところで止まった。
「……あたしが今更何をしても、何を言っても、何も変わらないのかもしれないけど。でも最後に一つだけ、言っておくわ。これからこの国は変わっていく。それがいいことなのかどうかは分からないけれど……これも、憶えていてね」
振り返らずにそれだけを言って、シオンは馬の腹を蹴った。高い嘶きを上げて馬が走り出す。見る間にシオンの姿は遠ざかり、緑の丘に紛れて見えなくなった。
「——俺たちも、行こうか」
短くはない沈黙の後、アサザはキキョウを呼んだ。波打ち際で遊んでいたキキョウが近寄ってくると、レンギョウは逆らわずにその背に乗った。続いて飛び乗ったアサザが、ふと思いついてシオンからもらった包みを開けた。中の饅頭を二つに割り、一つをレンギョウに渡す。
「食っとけよ。王都まではかなりかかるだろうからな」
「……うむ」
素直にレンギョウは頷いた。それを確認したかのように低く嘶いて、キキョウは走り出した。
シオンが本拠地に帰ると、そこは大騒ぎになっていた。
「ただいまー」
騒ぎの元凶のわざとらしいほど呑気な声に、本拠地の人々は一瞬静まり——一斉に溜息を吐いた。
「あ、帰ってきたよ」
「まったく人騒がせな……」
口々に飛ぶ文句に笑って応えながらシオンの足は正確に食堂へ向かって進んでいた。しかしその順調な歩みは目的地からかなり離れたところで止まってしまった。
「……ススキ」
壁に凭れたススキがシオンに友好的とは言いがたい視線を向けていた。
「シオン、お前は今がどういう時期だか解っているのか」
「うん」
他の者なら気圧されてしまいそうなススキの冷たい声に、シオンはあっさりと答えを返した。二人の視線が交錯する。
「……解っているのなら、いい」
目を逸らしたのはススキの方だった。
「怪我がないようで、何よりだ」
「ありがと。ところで今日の昼ごはんは何かな」
「さあな」
すたすたと去っていくススキの背を不満げに見送ってから、シオンは再び食堂へ歩き出した。
「解ってるわよ。だからごはんが気になるのよ。『腹が減っては戦は出来ない』って言うでしょうに」
ぶつぶつ言いながら歩いていたシオンの顔が、見慣れた食堂のドアを見てぱっと輝いた。
「そうよ。明日は王都へ行くんだもの。いっぱい食べて元気をつけなくちゃ」
王宮・奥庭の湖は、昨夜よりも少しだけ満ちた月を映していた。湖を囲む木々は変わらずに柔らかな若葉をつけた枝を微かな風にそよがせている。その住み慣れた景色に帰ってきたはずのレンギョウの表情はしかし、明るくはなかった。
「……着いたぜ、レン」
「……うむ」
キキョウの足が止まり、アサザが声を掛けると、レンギョウは小さく頷いた。
別れの時だった。名残惜しさを振り払うように一度ぎゅっと目を瞑ってから、レンギョウは潔くキキョウの背を降りた。
「アサザ、私はお前に感謝している」
「な……何だよいきなり」
キキョウに乗ったままのアサザを見上げて、レンギョウは言う。
「この一日で私は、何年分もの経験を積んだように思う。ここに留まっていては知りえなかったこと、知りえなかった者たち……色々なことを見ることができ、知ることができた。こういうことは恐らく、今までの私に最も欠けていたことだったのだと思う。このような自分に気づかせてくれたこと、また気づく機会を与えてくれたこと……私は心からお前に礼を言う」
ぺこりと頭を下げたレンギョウに、アサザは慌てて手を振った。
「俺は別にそんなに改まって感謝されるようなことをしたわけじゃないさ! それどころか自警団に捕まったりとか、俺の方が迷惑かけちまって申し訳なかったよ」
一人の時は捕まったりしなかったのに、などというアサザのぶつぶつ声に、レンギョウは笑った。
「そんなことはない。私は結構楽しかったぞ」
「……レン、お前」
呆れた表情のアサザの顔に次第に笑いが広がっていく。
「お前は大物になるぜ、きっと」
「そうか?」
顔を見合わせて、二人は笑った。
「——またいつか、会えるだろうか」
ふと真顔になったレンギョウが呟く。
「縁があれば、な」
笑いを含んだままの声でアサザが答える。レンギョウが見上げた目はしかし、真剣そのものだった。
「今度会う時はもっとゆっくり話せるといいな。美味いメシとか食いながらさ」
「そうだな」
レンギョウは頷いた。
「ところで、『メシ』とは食事という意味でいいのか?」
「そうだ。だんだん解ってきたじゃないか」
もう一度笑った後、レンギョウはキキョウに目を向けた。
「キキョウ、お前にも世話になったな」
レンギョウの言葉に、キキョウは小さく鼻を鳴らして顔を寄せた。間近に迫ったその顔をレンギョウは撫でてやる。その時だった。
「——そこにいるのは、誰だ」
突然レンギョウの背後から鋭い声が投げられた。同時に、多人数が一斉に武器を構える気配。レンギョウの表情に緊張が走った。
「アサザ、行け」
短く言って、レンギョウは声の主を振り返った。間髪入れずに走り出したキキョウの足音を背中で聞いて、木々の隙間から見え隠れする兵と彼らが持つ弓に向かって凛と声を張り上げる。
「コウリ、余だ。武器を収めよ」
その声に応えて、一人の長身の男が進み出た。年の頃は二十五、六、周囲の兵のような鎧ではなく、ゆったりした布の服に長い亜麻色の髪を流している。
「レンギョウ様、御無事で」
「うむ」
一礼する男——コウリにレンギョウは頷きかけた。
「もう危険はない。兵たちに弓を下ろさせよ」
「それはできません」
「何?」
コウリは木々の向こうに目を向けた。その視線の先には、みるみる小さくなっていくキキョウとそれに乗るアサザがいる。
「あの男、戦士ですね。不可侵条約違反には制裁を、そう取り決められておりますゆえ」
コウリの言葉を体現するかのように、兵たちの弓弦が引かれる。その矢先はぴたりと遠ざかるアサザの背に向けられていた。
「やめよ!」
最初にコウリを、次に兵たちを睨みつけてレンギョウは叫んだ。
「あれは余の友人だ! 撃つな!!」
兵たちに動揺が走った。畳み掛けるようにレンギョウは兵たちを見回した。
「これは余の——国王レンギョウの勅命である! あやつを——アサザを撃ってはならぬ!!」
「アサザ?」
コウリの眉がわずかに上がる。その視線がレンギョウに、次いで侵入者が駆け去った方向に向けられる。そこにはもう、アサザとキキョウの姿は見えなかった。
「分かりました。どちらにせよ、既に矢は届きませぬ」
コウリの言葉にレンギョウがこくりと頷く。それを合図に、兵たちは一斉に弓を下ろした。
「ときにコウリよ。先日報告を受けた中立地帯からの謁見申し込みについてだが」
「中立地帯……ああ、自警団からの使者の件ですか」
瞳に驚きを浮かべて、レンギョウはコウリを見上げた。
「あれは自警団からのものだったのか? 余は聞いておらぬぞ」
「……それはお伝えしてはおりませんでしたから」
「まあよい。それを聞いてますます決心が固まった」
自分に確かめるように一つ頷いて、レンギョウは言葉を継いだ。
「余はその者たちに会ってみたい。そのように計らえ」
「お言葉ですが、レンギョウ様」
コウリが言う。
「今の中立地帯は飢えております。形式だけとはいえ皇民に属する中立地帯の者が国王を頼るとすれば、援助の要請か反乱の誘いに他なりません。このことは申し上げていたはず。だからこそ、レンギョウ様もこの件に関しては苦慮されていたのでしょう」
「余が聞いたのは援助か反乱かというくだりだけだったがのう」
鋭くコウリを睨みつけて、レンギョウは言い放った。
「余はもう子供ではない。決断は己で下す」
レンギョウの口許に自嘲するような笑みが浮かぶ。
「どうやら余は補佐であるおぬしに頼りすぎていたようだな。己で知ろうとする努力や姿勢が欠けていたことがこの一日で身に沁みて良く理解できた」
レンギョウの視線がアサザの去った方に向けられた。
「余とて戦は望まぬ。中立地帯の者たちにも、出来る限り反乱は起こさせぬつもりだ」
レンギョウの視線がコウリに戻される。
「だからおぬしには、余が決断するために必要な材料を示してほしい。余だけでは分からぬことが多すぎる」
「——は」
頭を下げるコウリにレンギョウは問いかけた。
「自警団の使者が来るのはいつになる?」
「明後日には王都入りするかと」
「人数は?」
「四人と聞いております」
「代表者の名は?」
「確か、シオンとか」
「……何?」
「他には護衛として、ススキ、ウイキョウ、スギという者が来ることになっていたはずです」
黙ってしまったレンギョウに、コウリが問い返した。
「私からもお尋ねしたいことがあります。先程の戦士の男、名は確かにアサザというのですか」
「う……うむ」
心ここにあらずといった様子のレンギョウの答えに、コウリは眉を寄せた。
「アサザ……本物だとすれば、大変なことになる」
コウリの低い呟きは、己の考えに沈むレンギョウの耳には届かなかった。
「……うむ」
キキョウの足が止まり、アサザが声を掛けると、レンギョウは小さく頷いた。
別れの時だった。名残惜しさを振り払うように一度ぎゅっと目を瞑ってから、レンギョウは潔くキキョウの背を降りた。
「アサザ、私はお前に感謝している」
「な……何だよいきなり」
キキョウに乗ったままのアサザを見上げて、レンギョウは言う。
「この一日で私は、何年分もの経験を積んだように思う。ここに留まっていては知りえなかったこと、知りえなかった者たち……色々なことを見ることができ、知ることができた。こういうことは恐らく、今までの私に最も欠けていたことだったのだと思う。このような自分に気づかせてくれたこと、また気づく機会を与えてくれたこと……私は心からお前に礼を言う」
ぺこりと頭を下げたレンギョウに、アサザは慌てて手を振った。
「俺は別にそんなに改まって感謝されるようなことをしたわけじゃないさ! それどころか自警団に捕まったりとか、俺の方が迷惑かけちまって申し訳なかったよ」
一人の時は捕まったりしなかったのに、などというアサザのぶつぶつ声に、レンギョウは笑った。
「そんなことはない。私は結構楽しかったぞ」
「……レン、お前」
呆れた表情のアサザの顔に次第に笑いが広がっていく。
「お前は大物になるぜ、きっと」
「そうか?」
顔を見合わせて、二人は笑った。
「——またいつか、会えるだろうか」
ふと真顔になったレンギョウが呟く。
「縁があれば、な」
笑いを含んだままの声でアサザが答える。レンギョウが見上げた目はしかし、真剣そのものだった。
「今度会う時はもっとゆっくり話せるといいな。美味いメシとか食いながらさ」
「そうだな」
レンギョウは頷いた。
「ところで、『メシ』とは食事という意味でいいのか?」
「そうだ。だんだん解ってきたじゃないか」
もう一度笑った後、レンギョウはキキョウに目を向けた。
「キキョウ、お前にも世話になったな」
レンギョウの言葉に、キキョウは小さく鼻を鳴らして顔を寄せた。間近に迫ったその顔をレンギョウは撫でてやる。その時だった。
「——そこにいるのは、誰だ」
突然レンギョウの背後から鋭い声が投げられた。同時に、多人数が一斉に武器を構える気配。レンギョウの表情に緊張が走った。
「アサザ、行け」
短く言って、レンギョウは声の主を振り返った。間髪入れずに走り出したキキョウの足音を背中で聞いて、木々の隙間から見え隠れする兵と彼らが持つ弓に向かって凛と声を張り上げる。
「コウリ、余だ。武器を収めよ」
その声に応えて、一人の長身の男が進み出た。年の頃は二十五、六、周囲の兵のような鎧ではなく、ゆったりした布の服に長い亜麻色の髪を流している。
「レンギョウ様、御無事で」
「うむ」
一礼する男——コウリにレンギョウは頷きかけた。
「もう危険はない。兵たちに弓を下ろさせよ」
「それはできません」
「何?」
コウリは木々の向こうに目を向けた。その視線の先には、みるみる小さくなっていくキキョウとそれに乗るアサザがいる。
「あの男、戦士ですね。不可侵条約違反には制裁を、そう取り決められておりますゆえ」
コウリの言葉を体現するかのように、兵たちの弓弦が引かれる。その矢先はぴたりと遠ざかるアサザの背に向けられていた。
「やめよ!」
最初にコウリを、次に兵たちを睨みつけてレンギョウは叫んだ。
「あれは余の友人だ! 撃つな!!」
兵たちに動揺が走った。畳み掛けるようにレンギョウは兵たちを見回した。
「これは余の——国王レンギョウの勅命である! あやつを——アサザを撃ってはならぬ!!」
「アサザ?」
コウリの眉がわずかに上がる。その視線がレンギョウに、次いで侵入者が駆け去った方向に向けられる。そこにはもう、アサザとキキョウの姿は見えなかった。
「分かりました。どちらにせよ、既に矢は届きませぬ」
コウリの言葉にレンギョウがこくりと頷く。それを合図に、兵たちは一斉に弓を下ろした。
「ときにコウリよ。先日報告を受けた中立地帯からの謁見申し込みについてだが」
「中立地帯……ああ、自警団からの使者の件ですか」
瞳に驚きを浮かべて、レンギョウはコウリを見上げた。
「あれは自警団からのものだったのか? 余は聞いておらぬぞ」
「……それはお伝えしてはおりませんでしたから」
「まあよい。それを聞いてますます決心が固まった」
自分に確かめるように一つ頷いて、レンギョウは言葉を継いだ。
「余はその者たちに会ってみたい。そのように計らえ」
「お言葉ですが、レンギョウ様」
コウリが言う。
「今の中立地帯は飢えております。形式だけとはいえ皇民に属する中立地帯の者が国王を頼るとすれば、援助の要請か反乱の誘いに他なりません。このことは申し上げていたはず。だからこそ、レンギョウ様もこの件に関しては苦慮されていたのでしょう」
「余が聞いたのは援助か反乱かというくだりだけだったがのう」
鋭くコウリを睨みつけて、レンギョウは言い放った。
「余はもう子供ではない。決断は己で下す」
レンギョウの口許に自嘲するような笑みが浮かぶ。
「どうやら余は補佐であるおぬしに頼りすぎていたようだな。己で知ろうとする努力や姿勢が欠けていたことがこの一日で身に沁みて良く理解できた」
レンギョウの視線がアサザの去った方に向けられた。
「余とて戦は望まぬ。中立地帯の者たちにも、出来る限り反乱は起こさせぬつもりだ」
レンギョウの視線がコウリに戻される。
「だからおぬしには、余が決断するために必要な材料を示してほしい。余だけでは分からぬことが多すぎる」
「——は」
頭を下げるコウリにレンギョウは問いかけた。
「自警団の使者が来るのはいつになる?」
「明後日には王都入りするかと」
「人数は?」
「四人と聞いております」
「代表者の名は?」
「確か、シオンとか」
「……何?」
「他には護衛として、ススキ、ウイキョウ、スギという者が来ることになっていたはずです」
黙ってしまったレンギョウに、コウリが問い返した。
「私からもお尋ねしたいことがあります。先程の戦士の男、名は確かにアサザというのですか」
「う……うむ」
心ここにあらずといった様子のレンギョウの答えに、コウリは眉を寄せた。
「アサザ……本物だとすれば、大変なことになる」
コウリの低い呟きは、己の考えに沈むレンギョウの耳には届かなかった。
王都を出てから既に七日が過ぎている。ゆっくりした帰還の旅だった。
「ここも、久しぶりだな」
夕日に照らされた簡素な門を軽く見上げてから、アサザはキキョウの綱を引いてその下を潜った。
「——あっ、兄上!!」
よく手入れされた小さな庭が門の内側に広がっていた。そこに足を踏み入れたアサザは早速懐かしい声に迎えられた。
「アカネか。今帰ったぞ」
剣の稽古中だったのだろう、手にした木剣を放り出したアカネは子犬のように駆け寄ってきた。そんな弟の短い髪を、アサザはぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「お帰りなさい、兄上。長旅お疲れ様でした」
アサザによく似た目に喜色を浮かべてアカネは言った。その言葉にアサザは軽く頷く。
「ん? お前、また背が伸びたな。もう少しで俺と並ぶんじゃないか?」
「へへへ。そのうち兄上を追い越してやりますよ」
「言ったな」
ひとしきり仲良くじゃれあってから、アサザはふと真面目な顔になった。
「ところでアカネ、兄上は?」
「それが……」
アカネの表情が曇る。その顔を覗き込んで、アサザは確認する。
「また、お加減が良くないんだな?」
無言の弟からそれ以上聞き出すことをやめて、アサザは庭の奥の小ぢんまりとした屋敷に顔を向けた。
「とりあえず、帰還の挨拶をしに行こう。兄上に報告しなきゃならんことも多いしな」
稽古を続けるようアカネに声をかけてから、アサザは屋敷へ入った。夕闇の薄明かりが満ちた廊下を渡り、目指す部屋へと向かう。兄の部屋は屋敷の一番奥、最も静かなところにあった。部屋の入り口を守っていた兵が近づいてきたアサザを認め、姿勢を正す。
「ご苦労さん。兄上はいらっしゃるか?」
「はっ。アオイ様は本日ずっとこちらでお休みになられております」
アサザの目が一瞬翳った。
「わかった。ちょっと兄上と内密の話をするから、席を外してくれ」
「かしこまりました」
敬礼した兵が去っていくのを見送ってから、アサザは部屋の引き戸を開けた。古い紙の匂いのする暖かい空気が流れてくる。
「兄上、ただ今戻りました」
「……やあアサザ、おかえり」
大きくはないが不思議とよく通る声は、床に積まれた無数の本や紙の束の向こうからした。びっしりの本棚の脇をすり抜け、床の紙の塔を崩さないよう注意しながらアサザは部屋の奥へ進んでいった。程なく、そこだけ小ぎれいな兄の寝床へ辿り着く。血色の悪い顔に小さな笑みを浮かべて、床に伏せたアオイはアサザを見上げた。
「元気そうだね。安心したよ」
「兄上こそ、またお加減が優れないと聞きましたが」
アオイの枕元の椅子に座って、アサザはアオイの顔を覗き込んだ。
「何、少し前に比べれば大分良くはなったんだよ。熱もあらかた下がったし」
心配げなアサザを横目に、アオイは体を起こした。弟たちより長く伸びた黒髪がぱさりと白い頬にかかる。
「それに今は、多少の無理をしてでも君の話を聞かなくてはね。それが君を王都まで行かせた私の責任だから。皇帝領、中立地帯、そして国王領の現状――聞かせてくれないか」
穏やかな兄の目に宿った強い光に、アサザは思わず頷いていた。
「でも兄上、全部話すと長くなりますよ?」
「構わない。できるだけ詳しく頼む」
兄の言葉に、アサザはこれまでの旅の様子を語り始めた。皇帝領から中立地帯を経、国王領に至るまでの様子、そこで出会った人々のこと。長い時間をかけて、アサザは思い出せる限りのことをアオイに話した。
「——王都の兵に見つかった時、レンの合図で逃げ出しました。最後にあいつ、兵たちに『余の友人だ、撃つな』って言ってくれたんですよ。それからのことは分からないんですが、俺が逃げ切れたのはあいつのおかげですね。ゆっくり挨拶できなかったことだけが心残りです」
最初のうち相槌を入れていたアオイの声が、レンギョウの名が出たあたりから途切れがちになり、最後の方では完全に黙り込んでしまった。
「兄上?」
「ああ、大丈夫だよ、ちゃんと聞いてる」
線の細い顎に白い指を当てて、アオイは自分の考えを確認するようにアサザに問いかけた。
「アサザ、王都で会ったレンという少年は、確かにレンギョウと名乗ったのだね?」
「あ、ええ。それが何か?」
きょとんとするアサザを可笑しげに見やって、アオイはくすくすと笑った。
「本当に、君は……すごい人と知り合ったものだね。ここまでの収穫は予想してなかったよ」
「な、何なんですか兄上! 兄上はレンギョウを知っているんですか!?」
「ああ。この国の八代目の国王、聖王レンギョウ陛下だよ。それだけ魔法を自在に使えるのなら、間違いない」
さらりと告げられた事実に絶句するアサザに、笑いすぎと微熱で潤んだ瞳を向けてアオイは続ける。
「その魔力の強さは初代国王・魔王レン以来だと言われているね。彼の二つ名の『聖王』も魔王との対比からつけられたものさ。九歳で即位、十五歳になった二年前から親政開始。その内容を見ても君主として優秀な部類に入ると評価して構わないね。もっとも、これに関してはお側役のコウリっていう人物の采配に依るところが大きいと内部では言われてるみたいだけれども」
教科書でも読み上げるかのようなすらすらした言葉を一旦切って、アオイは悪戯っぽい目をアサザに向けた。
「アサザはよく勉強を抜け出してどこかへ行ってしまっていたからね。これの半分くらいは勉強の時間に習うことだけど、君が知らなかったとしても無理はないかな」
ぱんっ、と音を立ててアサザは自分の目を覆った。
「あああ、勉強サボったツケがこんなところで来るなんて……」
「人生に無駄なことはないという証拠だね」
あっさり言ってのけたアオイはふと真顔になった。
「にしても、中立地帯の動きが気になる。そこまで警備を強化しているという報告は受けていないのだけれども。何かを警戒しているような感じだね」
兄の言葉に、アサザもすぐさま真剣な表情に戻って頷いた。
「はい。王都に行く途中、一回中立地帯の端っこで自警団員と鉢合わせましたけど、捕まったりすることはありませんでした。もっとも、俺の格好を見ると何故かイヤな顔をしてましたけど」
「戦士は中立地帯じゃ嫌われているからね」
苦い笑みを浮かべ、アオイは溜息をついた。
「じゃあ、つい最近自警団の中枢で何かあったということになるんだろうか。旅人への警戒を強めなくてはならなくなるような何かが」
己の考えに沈んだアオイが呟く。
「何だか嫌な感じがする。これが大きな出来事の始まりにならなければいいけど……」
目を伏せていたアオイが顔を上げ、アサザの方に向き直った。
「アサザ、本当にご苦労だったね。久しぶりの我が家だ、今日はもう休むといいよ。こちらに新しい情報が入ったら知らせるから」
「いえいえ。兄上の頼みなら何でも来いですよ。また俺に出来ることがあったら遠慮なく言ってください」
「ありがとう」
兄の笑顔を確認して、アサザは席を立った。
「じゃあ、俺はそろそろ——」
「兄上様ッ!!」
いきなり廊下からアカネの声が飛び込んできた。同時にばたばたと床を蹴る足音が響く。
「アカネ、どうしたんだい?」
引き戸を開け放って枕元まで駆け寄ったアカネに、アオイは穏やかに問いかける。アサザがしかめっ面を作って息を切らした弟を睨みつけた。
「アカネ、うるさいぞ」
「お説教は後にしてください、兄上」
息を整えたアカネは二人の兄をまっすぐに見た。
「父上が、いらっしゃいました」
穏やかだった部屋の空気に緊張が走った。
「それはまた、随分と珍しい。何かあったのかな」
アオイは硬い表情の弟たちに目を向けた。
「とにかく、お出迎えはしなければね。こちらの宮に父上がいらっしゃることは久しぶりだし、すぐに身支度を整えて——」
「その必要はない」
弾かれたようにアサザとアカネは振り返った。アオイもはっと顔を入り口の方へ向ける。
「父上」
「陛下」
引き戸の向こうに立つ男を認めて、アサザとアカネは跪いた。アオイも床の上でかしこまる。面を伏せた息子たちを見回して、男——第八代皇帝アザミはその長身を部屋の中に運び入れた。紙の束を無造作に蹴散らして三人の前に立ったアザミの視線がアカネを素通りし、アサザで止まった。
「久し振りだな。しばらく姿を見ないと思っていたが、いつ帰ってきたのだ」
「つい先程です、陛下」
かけらほどの温かみも感じられないアザミの言葉に、アサザも同種の声音で答える。薄い冷笑を浮かべて、アザミは鼻を鳴らした。
「陛下、か。ふん、相変わらず可愛げのない奴よ。一月も皇都を空けて、一体どこまで行ってきたのやら」
「王都までです」
「ほう。ならばそこで余の良からぬ噂をさんざん聞き込んできたのだろうな?」
アサザは答えない。
「父上、アサザに王都行きを命じたのは私です。責めるのなら私を」
アオイの声が割り込んだ。アザミの視線がすっと流れる。
「ほう、またお前か皇太子。以前お前の飼い犬を捕まえた時に道楽はやめろと言ったはずだぞ。それとも下賎の犬一匹程度の犠牲では灸が足りなかったか?」
アオイは顔を伏せた。
「こそこそと何かを嗅ぎ回ることなど下々にやらせればいいのだ。諜報など結果の報告を受ければそれでいいではないか」
「しかし父上!!」
アオイは顔を上げた。
「アサザの報告では中立地帯に不穏な動きありとのこと! 早々に手を打たなくては大変なことに——」
アオイの言葉が不意に途切れた。口を押さえた手指の隙間から、激しい咳が洩れる。
「兄上!」
「兄上様!」
はっと顔を上げたアサザとアカネがアオイの細い体を支える。その様子を冷ややかに見下ろして、アザミはふと思いついたように口を開いた。
「そういえば先程、また面白いものを捕まえたのだった」
アザミが背後に目配せすると、一人の兵士がまだ若い男を引き立ててきた。その目が不安げにアオイに向けられる。
「アオイ様——」
「……君は」
荒い息の下、アオイは男に目を向け、アザミを見上げた。
「その男も、お前の飼い犬の一匹だそうだな。なかなか面白い鳴き声を聞かせてもらった」
一瞬、アオイとアサザを睨みつけてアザミは言った。
「王都の小僧と自警団の狼どもが接触したそうだ」
「なっ……」
思わずアサザはうめいた。感情を抑えた声で、アオイが男に確認する。
「本当なのかい?」
「は……はい」
王都から早馬を飛ばして来たのだろう、やつれた顔で男は頷いた。土埃まみれのその服のところどころに血がにじんでいるのをアサザはあえて見ないようにした。今は男の報告の方が大事だ。
「四日前、シオンと名乗る自警団の者が国王に謁見しました。詳しい会談の内容は不明ですが、国王はその日のうちに中立地帯への食糧援助を決めました」
シオンという名に、アオイとアサザは顔を見合わせた。
「アサザ、色々言いたいことはあるだろうけど、今は情報の裏付けが先だ」
アサザより一拍早く口を開いたアオイは低い声で言った。そしてそのまま視線を上げ、アザミの目をしっかりと見据える。
「父上、皇民である中立地帯の者に国王が援助をするということはそれだけで国王側の越権行為にあたるおそれがあります。どうか詳細な調査を私に続けさせてください。我ら戦士がどう出るにしろ、父上が決断なさるための材料が今はまだ不足しております」
「……よかろう。食糧がいつの間にか兵士になっていたのではたまらんからな」
アオイを見下ろすアザミの目が一層の冷ややかさを帯びた。
「ただし、お前には皇太子位を降りてもらうぞ」
「なっ……!!」
立ち上がりかけたアサザとアカネを目線だけで抑えてアザミは続けた。
「次期皇帝ともあろう者が間者の元締ではあまりにも外聞が悪い。ましてやこれから戦になりかねん状況で剣も振れぬ、いつ病に憑き殺されるかわからぬ者を後継にするわけにはゆかぬ」
刃のようなアザミの言葉が俯いたアオイに浴びせられる。
「陛下ッ!」
見かねて声を上げたアサザに、アザミはすっと目を細めた。
「お前にとっても人事ではなかろう、我が不肖の第二皇子よ」
ぴたり、と氷の矛先が向けられたのをアサザは感じた。
「お前が今から皇太子だ。余を嫌おうと憎もうとお前の勝手だが、務めは果たしてもらうぞ」
くるり、とアザミは息子たちに背を向けた。
「ああ、その犬は生かしておいてやる。ためになる情報を持って来たのでな」
それだけ言い捨てて、アザミは部屋を出て行った。父帝が去った部屋は重い沈黙で覆われた。
「……すまない、アサザ」
ぽつりと呟かれたアオイの言葉に首を振って、アサザは立ち上がった。
「兄上のせいではありません。気にしないでください」
「兄上……」
心配げに見上げるアカネの頭をぽんと叩き、うなだれる若い男の脇をすり抜けてアサザは兄の部屋を出た。
皇太子。
降って湧いたような己のこれからの身分に思わず溜息が出た。ふと、ついこの間別れたばかりの銀髪の友人の顔が心に浮かんだ。
「レン……」
低い呟きは、応える者もなく廊下の闇に吸い込まれた。
皇太子アオイの廃位、それに伴う第二皇子アサザの立太子。
急報が王都にもたらされたのは、それから三日後のことだった。
「ここも、久しぶりだな」
夕日に照らされた簡素な門を軽く見上げてから、アサザはキキョウの綱を引いてその下を潜った。
「——あっ、兄上!!」
よく手入れされた小さな庭が門の内側に広がっていた。そこに足を踏み入れたアサザは早速懐かしい声に迎えられた。
「アカネか。今帰ったぞ」
剣の稽古中だったのだろう、手にした木剣を放り出したアカネは子犬のように駆け寄ってきた。そんな弟の短い髪を、アサザはぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「お帰りなさい、兄上。長旅お疲れ様でした」
アサザによく似た目に喜色を浮かべてアカネは言った。その言葉にアサザは軽く頷く。
「ん? お前、また背が伸びたな。もう少しで俺と並ぶんじゃないか?」
「へへへ。そのうち兄上を追い越してやりますよ」
「言ったな」
ひとしきり仲良くじゃれあってから、アサザはふと真面目な顔になった。
「ところでアカネ、兄上は?」
「それが……」
アカネの表情が曇る。その顔を覗き込んで、アサザは確認する。
「また、お加減が良くないんだな?」
無言の弟からそれ以上聞き出すことをやめて、アサザは庭の奥の小ぢんまりとした屋敷に顔を向けた。
「とりあえず、帰還の挨拶をしに行こう。兄上に報告しなきゃならんことも多いしな」
稽古を続けるようアカネに声をかけてから、アサザは屋敷へ入った。夕闇の薄明かりが満ちた廊下を渡り、目指す部屋へと向かう。兄の部屋は屋敷の一番奥、最も静かなところにあった。部屋の入り口を守っていた兵が近づいてきたアサザを認め、姿勢を正す。
「ご苦労さん。兄上はいらっしゃるか?」
「はっ。アオイ様は本日ずっとこちらでお休みになられております」
アサザの目が一瞬翳った。
「わかった。ちょっと兄上と内密の話をするから、席を外してくれ」
「かしこまりました」
敬礼した兵が去っていくのを見送ってから、アサザは部屋の引き戸を開けた。古い紙の匂いのする暖かい空気が流れてくる。
「兄上、ただ今戻りました」
「……やあアサザ、おかえり」
大きくはないが不思議とよく通る声は、床に積まれた無数の本や紙の束の向こうからした。びっしりの本棚の脇をすり抜け、床の紙の塔を崩さないよう注意しながらアサザは部屋の奥へ進んでいった。程なく、そこだけ小ぎれいな兄の寝床へ辿り着く。血色の悪い顔に小さな笑みを浮かべて、床に伏せたアオイはアサザを見上げた。
「元気そうだね。安心したよ」
「兄上こそ、またお加減が優れないと聞きましたが」
アオイの枕元の椅子に座って、アサザはアオイの顔を覗き込んだ。
「何、少し前に比べれば大分良くはなったんだよ。熱もあらかた下がったし」
心配げなアサザを横目に、アオイは体を起こした。弟たちより長く伸びた黒髪がぱさりと白い頬にかかる。
「それに今は、多少の無理をしてでも君の話を聞かなくてはね。それが君を王都まで行かせた私の責任だから。皇帝領、中立地帯、そして国王領の現状――聞かせてくれないか」
穏やかな兄の目に宿った強い光に、アサザは思わず頷いていた。
「でも兄上、全部話すと長くなりますよ?」
「構わない。できるだけ詳しく頼む」
兄の言葉に、アサザはこれまでの旅の様子を語り始めた。皇帝領から中立地帯を経、国王領に至るまでの様子、そこで出会った人々のこと。長い時間をかけて、アサザは思い出せる限りのことをアオイに話した。
「——王都の兵に見つかった時、レンの合図で逃げ出しました。最後にあいつ、兵たちに『余の友人だ、撃つな』って言ってくれたんですよ。それからのことは分からないんですが、俺が逃げ切れたのはあいつのおかげですね。ゆっくり挨拶できなかったことだけが心残りです」
最初のうち相槌を入れていたアオイの声が、レンギョウの名が出たあたりから途切れがちになり、最後の方では完全に黙り込んでしまった。
「兄上?」
「ああ、大丈夫だよ、ちゃんと聞いてる」
線の細い顎に白い指を当てて、アオイは自分の考えを確認するようにアサザに問いかけた。
「アサザ、王都で会ったレンという少年は、確かにレンギョウと名乗ったのだね?」
「あ、ええ。それが何か?」
きょとんとするアサザを可笑しげに見やって、アオイはくすくすと笑った。
「本当に、君は……すごい人と知り合ったものだね。ここまでの収穫は予想してなかったよ」
「な、何なんですか兄上! 兄上はレンギョウを知っているんですか!?」
「ああ。この国の八代目の国王、聖王レンギョウ陛下だよ。それだけ魔法を自在に使えるのなら、間違いない」
さらりと告げられた事実に絶句するアサザに、笑いすぎと微熱で潤んだ瞳を向けてアオイは続ける。
「その魔力の強さは初代国王・魔王レン以来だと言われているね。彼の二つ名の『聖王』も魔王との対比からつけられたものさ。九歳で即位、十五歳になった二年前から親政開始。その内容を見ても君主として優秀な部類に入ると評価して構わないね。もっとも、これに関してはお側役のコウリっていう人物の采配に依るところが大きいと内部では言われてるみたいだけれども」
教科書でも読み上げるかのようなすらすらした言葉を一旦切って、アオイは悪戯っぽい目をアサザに向けた。
「アサザはよく勉強を抜け出してどこかへ行ってしまっていたからね。これの半分くらいは勉強の時間に習うことだけど、君が知らなかったとしても無理はないかな」
ぱんっ、と音を立ててアサザは自分の目を覆った。
「あああ、勉強サボったツケがこんなところで来るなんて……」
「人生に無駄なことはないという証拠だね」
あっさり言ってのけたアオイはふと真顔になった。
「にしても、中立地帯の動きが気になる。そこまで警備を強化しているという報告は受けていないのだけれども。何かを警戒しているような感じだね」
兄の言葉に、アサザもすぐさま真剣な表情に戻って頷いた。
「はい。王都に行く途中、一回中立地帯の端っこで自警団員と鉢合わせましたけど、捕まったりすることはありませんでした。もっとも、俺の格好を見ると何故かイヤな顔をしてましたけど」
「戦士は中立地帯じゃ嫌われているからね」
苦い笑みを浮かべ、アオイは溜息をついた。
「じゃあ、つい最近自警団の中枢で何かあったということになるんだろうか。旅人への警戒を強めなくてはならなくなるような何かが」
己の考えに沈んだアオイが呟く。
「何だか嫌な感じがする。これが大きな出来事の始まりにならなければいいけど……」
目を伏せていたアオイが顔を上げ、アサザの方に向き直った。
「アサザ、本当にご苦労だったね。久しぶりの我が家だ、今日はもう休むといいよ。こちらに新しい情報が入ったら知らせるから」
「いえいえ。兄上の頼みなら何でも来いですよ。また俺に出来ることがあったら遠慮なく言ってください」
「ありがとう」
兄の笑顔を確認して、アサザは席を立った。
「じゃあ、俺はそろそろ——」
「兄上様ッ!!」
いきなり廊下からアカネの声が飛び込んできた。同時にばたばたと床を蹴る足音が響く。
「アカネ、どうしたんだい?」
引き戸を開け放って枕元まで駆け寄ったアカネに、アオイは穏やかに問いかける。アサザがしかめっ面を作って息を切らした弟を睨みつけた。
「アカネ、うるさいぞ」
「お説教は後にしてください、兄上」
息を整えたアカネは二人の兄をまっすぐに見た。
「父上が、いらっしゃいました」
穏やかだった部屋の空気に緊張が走った。
「それはまた、随分と珍しい。何かあったのかな」
アオイは硬い表情の弟たちに目を向けた。
「とにかく、お出迎えはしなければね。こちらの宮に父上がいらっしゃることは久しぶりだし、すぐに身支度を整えて——」
「その必要はない」
弾かれたようにアサザとアカネは振り返った。アオイもはっと顔を入り口の方へ向ける。
「父上」
「陛下」
引き戸の向こうに立つ男を認めて、アサザとアカネは跪いた。アオイも床の上でかしこまる。面を伏せた息子たちを見回して、男——第八代皇帝アザミはその長身を部屋の中に運び入れた。紙の束を無造作に蹴散らして三人の前に立ったアザミの視線がアカネを素通りし、アサザで止まった。
「久し振りだな。しばらく姿を見ないと思っていたが、いつ帰ってきたのだ」
「つい先程です、陛下」
かけらほどの温かみも感じられないアザミの言葉に、アサザも同種の声音で答える。薄い冷笑を浮かべて、アザミは鼻を鳴らした。
「陛下、か。ふん、相変わらず可愛げのない奴よ。一月も皇都を空けて、一体どこまで行ってきたのやら」
「王都までです」
「ほう。ならばそこで余の良からぬ噂をさんざん聞き込んできたのだろうな?」
アサザは答えない。
「父上、アサザに王都行きを命じたのは私です。責めるのなら私を」
アオイの声が割り込んだ。アザミの視線がすっと流れる。
「ほう、またお前か皇太子。以前お前の飼い犬を捕まえた時に道楽はやめろと言ったはずだぞ。それとも下賎の犬一匹程度の犠牲では灸が足りなかったか?」
アオイは顔を伏せた。
「こそこそと何かを嗅ぎ回ることなど下々にやらせればいいのだ。諜報など結果の報告を受ければそれでいいではないか」
「しかし父上!!」
アオイは顔を上げた。
「アサザの報告では中立地帯に不穏な動きありとのこと! 早々に手を打たなくては大変なことに——」
アオイの言葉が不意に途切れた。口を押さえた手指の隙間から、激しい咳が洩れる。
「兄上!」
「兄上様!」
はっと顔を上げたアサザとアカネがアオイの細い体を支える。その様子を冷ややかに見下ろして、アザミはふと思いついたように口を開いた。
「そういえば先程、また面白いものを捕まえたのだった」
アザミが背後に目配せすると、一人の兵士がまだ若い男を引き立ててきた。その目が不安げにアオイに向けられる。
「アオイ様——」
「……君は」
荒い息の下、アオイは男に目を向け、アザミを見上げた。
「その男も、お前の飼い犬の一匹だそうだな。なかなか面白い鳴き声を聞かせてもらった」
一瞬、アオイとアサザを睨みつけてアザミは言った。
「王都の小僧と自警団の狼どもが接触したそうだ」
「なっ……」
思わずアサザはうめいた。感情を抑えた声で、アオイが男に確認する。
「本当なのかい?」
「は……はい」
王都から早馬を飛ばして来たのだろう、やつれた顔で男は頷いた。土埃まみれのその服のところどころに血がにじんでいるのをアサザはあえて見ないようにした。今は男の報告の方が大事だ。
「四日前、シオンと名乗る自警団の者が国王に謁見しました。詳しい会談の内容は不明ですが、国王はその日のうちに中立地帯への食糧援助を決めました」
シオンという名に、アオイとアサザは顔を見合わせた。
「アサザ、色々言いたいことはあるだろうけど、今は情報の裏付けが先だ」
アサザより一拍早く口を開いたアオイは低い声で言った。そしてそのまま視線を上げ、アザミの目をしっかりと見据える。
「父上、皇民である中立地帯の者に国王が援助をするということはそれだけで国王側の越権行為にあたるおそれがあります。どうか詳細な調査を私に続けさせてください。我ら戦士がどう出るにしろ、父上が決断なさるための材料が今はまだ不足しております」
「……よかろう。食糧がいつの間にか兵士になっていたのではたまらんからな」
アオイを見下ろすアザミの目が一層の冷ややかさを帯びた。
「ただし、お前には皇太子位を降りてもらうぞ」
「なっ……!!」
立ち上がりかけたアサザとアカネを目線だけで抑えてアザミは続けた。
「次期皇帝ともあろう者が間者の元締ではあまりにも外聞が悪い。ましてやこれから戦になりかねん状況で剣も振れぬ、いつ病に憑き殺されるかわからぬ者を後継にするわけにはゆかぬ」
刃のようなアザミの言葉が俯いたアオイに浴びせられる。
「陛下ッ!」
見かねて声を上げたアサザに、アザミはすっと目を細めた。
「お前にとっても人事ではなかろう、我が不肖の第二皇子よ」
ぴたり、と氷の矛先が向けられたのをアサザは感じた。
「お前が今から皇太子だ。余を嫌おうと憎もうとお前の勝手だが、務めは果たしてもらうぞ」
くるり、とアザミは息子たちに背を向けた。
「ああ、その犬は生かしておいてやる。ためになる情報を持って来たのでな」
それだけ言い捨てて、アザミは部屋を出て行った。父帝が去った部屋は重い沈黙で覆われた。
「……すまない、アサザ」
ぽつりと呟かれたアオイの言葉に首を振って、アサザは立ち上がった。
「兄上のせいではありません。気にしないでください」
「兄上……」
心配げに見上げるアカネの頭をぽんと叩き、うなだれる若い男の脇をすり抜けてアサザは兄の部屋を出た。
皇太子。
降って湧いたような己のこれからの身分に思わず溜息が出た。ふと、ついこの間別れたばかりの銀髪の友人の顔が心に浮かんだ。
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