書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
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私の主人は大ボケです。
おまけにドジで、抜けてて、顔だって良いわけではありません。
あ、誤解の無いよう言っておきますが、”主人”とは言っても彼は私の夫というわけではありませんよ。ええ、断じて違いますとも。あんな甲斐性なし、たとえ頼まれたってごめんですとも。
ではなぜ私は彼を”主人”と呼ぶのか。疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。それはつまり——
「トーン!」
ばたばたばた、という騒がしい足音が天井に響いて、天窓が開きました。雪混じりの冷たい風と一緒に、見慣れた主人の顔がひょこりとのぞきます。その子供のようなしぐさに半分呆れながら、私は満面の笑みをたたえたその顔を見上げました。
「ニコル、気をつけてくださいね。また階段から落ちますよ」
「大丈夫、だいじょ……うわぁっ!!」
がたがたがたっ、とすごい音を立てて主人の身体が階段を落ちるのと、私が大きく溜息をつくのとは完全に同じタイミングでした。ああ、だから言ったのに。
「どこが大丈夫なんですか?」
天窓へ続く階段の昇り口にうず高く積まれたクッションに埋もれてしまった主人を掘り出して、私は呆れ果てた目を向けました。ちなみに、クッションはこういうこともあろうかと私が置いておいたものです。
「ああ、ありがとうトーン。助かったよ」
ぼさぼさ頭を振りながら主人は身体を起こしました。それから首にかけた望遠鏡を確かめてほっと息を吐きます。
「よかった、壊れてない」
一安心してようやく自分が階段から落ちた理由を思い出したのか、主人はにこにこ顔で私を見上げました。
「そうそう、聞いてよトーン。やっと今年のお客さん候補を見つけたんだ」
「それはようございました。今日はもう24日ですしね」
私の言葉に主人は大きく頷きました。
「うん、すぐ準備しなきゃクリスマスに遅れちゃうね」
「橇はいつでも出せますよ。あとはあなたの身支度だけです」
「わかった。じゃあすぐ着替えてくるよ」
そう言って自分の部屋に飛び込んだ主人は、しばらくして照れくさそうな笑みを浮かべて顔を出しました。
「……衣装、どこにしまったっけ」
私が溜息と同時に肩を落としたのも、無理はないことでしょう。
私の主人は、大ボケです。
夢を見ていた。友達とケーキを食べ、お茶をしている夢。何気ない日常の風景、他愛ないおしゃべり。楽しかった。
身体を起こしたミミィは泣いた。哀しかった。また、あの人の夢を見ることができなかった。
この二年間で、何回こうして涙を流したことだろう。あと何回涙を流せば、あの人は夢に出てきてくれるのだろう。夢でもいい、逢いたかった。多分もう、夢でしか逢えないのだろうと思っているから。
「ハルカ……」
ひびの入った鈴のような声で想い人の名を呟き、ミミィは抱きしめた枕に顔を埋めた。涙が止まるまで、呪文のようにその名を繰り返す。
ふと、柔らかな気配を感じてミミィは顔を上げた。闇に慣れた目に最初に入ったのは、買ったばかりの置時計だった。かちり、と小さな音を立ててそれが時刻と日付の表示を変える。12月25日、0時ちょうど。
「よかった、間に合ったぁ」
いきなり、部屋の中で声がした。
「誰!?」
「あ、びっくりさせちゃったようだね」
身をすくませたミミィの耳に、再び声が届く。どうやらまだ若い男のようだ。
「当たり前です! まったくあなたという人は、なぜそう不用意に声を上げたりするんですか」
また違う声がした。こちらも若い——おそらくミミィと同じくらいの——娘の声だ。
「だ……誰なのあなたたち!? け、警察を呼ぶわよ!」
震えかける声を励まして、ミミィは叫んだ。玄関の鍵はかけたはずだ。窓だって季節は冬、開けることはほとんどないから閉まっているはず。とっさにそこまで考えをめぐらせたミミィの精一杯の虚勢も、侵入者たちの次の言葉でたちまちしぼんでしまった。
「警察?それは困るなぁ。僕らは怪しい者じゃないよ」
「……全然説得力がありませんよ。とりあえず姿だけでも見せませんか?」
「それもそうだね」
男の言葉に合わせるように、淡い燐光が決して広くはない部屋の中、思いがけないほど近くに浮かび上がった。そこに立つ声の主を見たとたんミミィは大きく目を見開いた。
「サンタ……クロース……?」
「うん」
微笑を浮かべた赤い服の男が頷いた。白いふわふわの縁取りのある帽子からはぼさぼさの髪がのぞいている。
「怪しい者じゃなかったでしょ?」
「その衣装だけで怪しい者ではないとは決められないでしょう」
呆れたような娘の声はサンタ服の男の背後からした。そちらに目を向けたミミィの口がぽかんと開かれた。
「とっ……トナカイがしゃべってる……?」
ミミィは混乱した。しかしそんなことはお構いなしにサンタ服の男はトナカイを顧みて言う。
「うん。トーンは僕のトナカイだから」
理屈にもならない理屈。自称サンタクロースとそのトナカイを前にしてミミィの混乱は最高潮に達した。
そして次の瞬間ミミィは悟った。そうだ、これは夢だ。夢の中にちょっと変なサンタとトナカイが出てきて何やらたわごとを言っているだけなのだ。うん、夢ならこんな展開も何の問題もない。そういうことで納得しておこう。
どうせ夢なら、とミミィは思う。どうせ夢なら、少しくらいわがままを言ってみてもいいんじゃないだろうか。なぜってこれは夢、相手はサンタクロース。プレゼントを待つ子供たちの夢を叶えてあげる人物ではないか。
「じゃあ本当に、あなたは本物のサンタクロースだと言うのね?」
男はあっさりと頷いた。
「そうだよ。僕はサンタのニコル、あっちはトナカイのトーン。よろしくね」
「あたしはミミィよ」
早口で名乗ってから、ミミィはぐっとニコルに顔を近づけた。
「ねえニコル、サンタのあなたがここに来たって事は、当然プレゼントを期待してもいいのよね?」
「うん」
ミミィの心臓が高鳴った。
「どんなものでもいいの?」
「ううん。『もの』はだめ」
「……どういうこと?」
にっこりとニコルが笑う。
「僕は普通のサンタクロースとはちょっと違うんだ。『もの』では満たされない人のためのサンタだから、『もの』はあげられない」
ミミィはしばらく考え込んだ。
「……じゃあ、『人』ならOK?」
きょとんとするニコル。一気にミミィは続けた。
「ハルカって男をラッピングにリボンつきであたしにちょうだい。歳はあたしより二つ上、顔はいまいち冴えない眼鏡顔。中身も外見と同じで、要領悪くて気が利かなくて、あたしの気持ちなんてちっともわかっちゃいない朴念仁。しかも筋金入りの歴史ばか」
そこまで言って、ミミィはふいに声を落とした。
「そうよ……あたしの気持ちなんて全然わかっちゃいないわ……あたしを放って外国の遺跡に行っちゃったくせに、そのまんま消息不明だなんて……本当、ばかよ……」
うつむいたミミィにトーンが気の毒そうに目を向けた。
「うーん……悪いけど、それもだめだなぁ」
頭をかいた拍子にずれてしまった帽子を直しながらニコルが言う。
「『男の人』は実体があるし、『ハルカ』って人じゃなきゃならないっていう限定もあるから。僕の袋からは出せないんだ。ごめん」
「ううん、いいの」
失望を振り払うようにミミィは顔を上げた。
「もともと、サンタクロースなんかには期待なんてしてなかったしね。ははっ、ただもう一度、逢えたらいいなって思っただけだから」
見ているほうが痛々しい、ミミィの笑顔。
「そう。もう一度逢えたら、言いたいことがいっぱいあるのよ。面と向かって、顔を見て、言ってやりたいことが……」
ミミィの言葉に、ニコルが首を傾げる。
「なんだ。会えればいいの?」
「……え?」
ミミィの笑顔が凍りつく。
「それならできるよ。ハルカって人をプレゼントすることはできないけど、会わせてあげることはできる」
ミミィとは対照的に、見る者の力を抜くような笑みをニコルは浮かべた。
「会いたい?」
「——うん」
ためらいなく、ミミィは頷いていた。
「わかった。でも、それにはひとつだけ条件がある」
「条件?」
「そ」
ニコルは橇に積み込んだ袋の上に手を置いた。
「僕のプレゼントで君が倖せになれたら、その倖せを少しだけこの袋に分けてほしいんだ」
よくわからないという表情のミミィにトーンが説明を付け加える。
「ニコルの袋は人の倖せの中にある『希望』を糧にしてプレゼントを創るんです。去年のお客様の『希望』からあなたへのプレゼントが創られ、あなたの『希望』から来年のお客様へのプレゼントが創り出される……そういうわけなので、こんな条件をつけているのですよ」
「……じゃあもしプレゼントを受け取ってもあたしが倖せにはなれなくて、『希望』も持てなかったら?」
「その時は何もいらない」
きっぱりと言うニコルの表情をほんの少しの間だけじっと見つめて、ミミィは首を縦に振った。
「わかったわ」
満足げな表情でニコルはミミィの顔を見返す。
「契約成立、だね」
ニコルは橇へ向き直る。絵に描いたような、サンタクロースの橇。枠組には小さなベルがつけられている。きっと橇が走るとちりちりと鳴るのだろう。小ぢんまりとした座席部分はスペースの半ば以上を袋で占領されていた。汚れひとつない純白の大きな袋。それの口を縛っていた細い紐を解いて、ニコルは中を探りはじめた。
「あった」
ニコルはすぐに目あてのものを見つけたらしい。袋の口を閉じてミミィに歩み寄り、小さな四角い包みを差し出す。
「……これは?」
「開けてみればわかるよ」
素直にミミィは包みを受け取った。手のひらにすっぽり包めてしまうほどに小さな、淡い赤色の箱だった。一瞬ためらった後、一気に緑色のリボンをほどく。
「そうだ、さっき初めて会った時から思ってたんだけど」
箱のふたを開く直前、ニコルが言った。
「ミミィって綺麗な声してるよね。僕の橇のベルみたいだ」
綺麗な声。その言葉にミミィは目を上げた。かつて同じ言葉でミミィの声を褒めてくれた人がいた。ずっと想い続けていた人。今これから、逢いにいく人。
「あ——」
言いかけた台詞はふいに途切れた。開きかけた薄紅色のふた、それがまるで意思あるもののように押し開けられたのだ。いや、意思があるのはふたではない。邪魔ものを押し開けた箱の中身、きらきらした光の粒子が一瞬にしてミミィを包み込んだ。同時に、優しい眠りの手がミミィの瞼をなでる。
「ハッピークリスマス、ミミィ」
ニコルの声をひどく遠くに感じながら、ミミィは目を閉じた。
身体を起こしたミミィは泣いた。哀しかった。また、あの人の夢を見ることができなかった。
この二年間で、何回こうして涙を流したことだろう。あと何回涙を流せば、あの人は夢に出てきてくれるのだろう。夢でもいい、逢いたかった。多分もう、夢でしか逢えないのだろうと思っているから。
「ハルカ……」
ひびの入った鈴のような声で想い人の名を呟き、ミミィは抱きしめた枕に顔を埋めた。涙が止まるまで、呪文のようにその名を繰り返す。
ふと、柔らかな気配を感じてミミィは顔を上げた。闇に慣れた目に最初に入ったのは、買ったばかりの置時計だった。かちり、と小さな音を立ててそれが時刻と日付の表示を変える。12月25日、0時ちょうど。
「よかった、間に合ったぁ」
いきなり、部屋の中で声がした。
「誰!?」
「あ、びっくりさせちゃったようだね」
身をすくませたミミィの耳に、再び声が届く。どうやらまだ若い男のようだ。
「当たり前です! まったくあなたという人は、なぜそう不用意に声を上げたりするんですか」
また違う声がした。こちらも若い——おそらくミミィと同じくらいの——娘の声だ。
「だ……誰なのあなたたち!? け、警察を呼ぶわよ!」
震えかける声を励まして、ミミィは叫んだ。玄関の鍵はかけたはずだ。窓だって季節は冬、開けることはほとんどないから閉まっているはず。とっさにそこまで考えをめぐらせたミミィの精一杯の虚勢も、侵入者たちの次の言葉でたちまちしぼんでしまった。
「警察?それは困るなぁ。僕らは怪しい者じゃないよ」
「……全然説得力がありませんよ。とりあえず姿だけでも見せませんか?」
「それもそうだね」
男の言葉に合わせるように、淡い燐光が決して広くはない部屋の中、思いがけないほど近くに浮かび上がった。そこに立つ声の主を見たとたんミミィは大きく目を見開いた。
「サンタ……クロース……?」
「うん」
微笑を浮かべた赤い服の男が頷いた。白いふわふわの縁取りのある帽子からはぼさぼさの髪がのぞいている。
「怪しい者じゃなかったでしょ?」
「その衣装だけで怪しい者ではないとは決められないでしょう」
呆れたような娘の声はサンタ服の男の背後からした。そちらに目を向けたミミィの口がぽかんと開かれた。
「とっ……トナカイがしゃべってる……?」
ミミィは混乱した。しかしそんなことはお構いなしにサンタ服の男はトナカイを顧みて言う。
「うん。トーンは僕のトナカイだから」
理屈にもならない理屈。自称サンタクロースとそのトナカイを前にしてミミィの混乱は最高潮に達した。
そして次の瞬間ミミィは悟った。そうだ、これは夢だ。夢の中にちょっと変なサンタとトナカイが出てきて何やらたわごとを言っているだけなのだ。うん、夢ならこんな展開も何の問題もない。そういうことで納得しておこう。
どうせ夢なら、とミミィは思う。どうせ夢なら、少しくらいわがままを言ってみてもいいんじゃないだろうか。なぜってこれは夢、相手はサンタクロース。プレゼントを待つ子供たちの夢を叶えてあげる人物ではないか。
「じゃあ本当に、あなたは本物のサンタクロースだと言うのね?」
男はあっさりと頷いた。
「そうだよ。僕はサンタのニコル、あっちはトナカイのトーン。よろしくね」
「あたしはミミィよ」
早口で名乗ってから、ミミィはぐっとニコルに顔を近づけた。
「ねえニコル、サンタのあなたがここに来たって事は、当然プレゼントを期待してもいいのよね?」
「うん」
ミミィの心臓が高鳴った。
「どんなものでもいいの?」
「ううん。『もの』はだめ」
「……どういうこと?」
にっこりとニコルが笑う。
「僕は普通のサンタクロースとはちょっと違うんだ。『もの』では満たされない人のためのサンタだから、『もの』はあげられない」
ミミィはしばらく考え込んだ。
「……じゃあ、『人』ならOK?」
きょとんとするニコル。一気にミミィは続けた。
「ハルカって男をラッピングにリボンつきであたしにちょうだい。歳はあたしより二つ上、顔はいまいち冴えない眼鏡顔。中身も外見と同じで、要領悪くて気が利かなくて、あたしの気持ちなんてちっともわかっちゃいない朴念仁。しかも筋金入りの歴史ばか」
そこまで言って、ミミィはふいに声を落とした。
「そうよ……あたしの気持ちなんて全然わかっちゃいないわ……あたしを放って外国の遺跡に行っちゃったくせに、そのまんま消息不明だなんて……本当、ばかよ……」
うつむいたミミィにトーンが気の毒そうに目を向けた。
「うーん……悪いけど、それもだめだなぁ」
頭をかいた拍子にずれてしまった帽子を直しながらニコルが言う。
「『男の人』は実体があるし、『ハルカ』って人じゃなきゃならないっていう限定もあるから。僕の袋からは出せないんだ。ごめん」
「ううん、いいの」
失望を振り払うようにミミィは顔を上げた。
「もともと、サンタクロースなんかには期待なんてしてなかったしね。ははっ、ただもう一度、逢えたらいいなって思っただけだから」
見ているほうが痛々しい、ミミィの笑顔。
「そう。もう一度逢えたら、言いたいことがいっぱいあるのよ。面と向かって、顔を見て、言ってやりたいことが……」
ミミィの言葉に、ニコルが首を傾げる。
「なんだ。会えればいいの?」
「……え?」
ミミィの笑顔が凍りつく。
「それならできるよ。ハルカって人をプレゼントすることはできないけど、会わせてあげることはできる」
ミミィとは対照的に、見る者の力を抜くような笑みをニコルは浮かべた。
「会いたい?」
「——うん」
ためらいなく、ミミィは頷いていた。
「わかった。でも、それにはひとつだけ条件がある」
「条件?」
「そ」
ニコルは橇に積み込んだ袋の上に手を置いた。
「僕のプレゼントで君が倖せになれたら、その倖せを少しだけこの袋に分けてほしいんだ」
よくわからないという表情のミミィにトーンが説明を付け加える。
「ニコルの袋は人の倖せの中にある『希望』を糧にしてプレゼントを創るんです。去年のお客様の『希望』からあなたへのプレゼントが創られ、あなたの『希望』から来年のお客様へのプレゼントが創り出される……そういうわけなので、こんな条件をつけているのですよ」
「……じゃあもしプレゼントを受け取ってもあたしが倖せにはなれなくて、『希望』も持てなかったら?」
「その時は何もいらない」
きっぱりと言うニコルの表情をほんの少しの間だけじっと見つめて、ミミィは首を縦に振った。
「わかったわ」
満足げな表情でニコルはミミィの顔を見返す。
「契約成立、だね」
ニコルは橇へ向き直る。絵に描いたような、サンタクロースの橇。枠組には小さなベルがつけられている。きっと橇が走るとちりちりと鳴るのだろう。小ぢんまりとした座席部分はスペースの半ば以上を袋で占領されていた。汚れひとつない純白の大きな袋。それの口を縛っていた細い紐を解いて、ニコルは中を探りはじめた。
「あった」
ニコルはすぐに目あてのものを見つけたらしい。袋の口を閉じてミミィに歩み寄り、小さな四角い包みを差し出す。
「……これは?」
「開けてみればわかるよ」
素直にミミィは包みを受け取った。手のひらにすっぽり包めてしまうほどに小さな、淡い赤色の箱だった。一瞬ためらった後、一気に緑色のリボンをほどく。
「そうだ、さっき初めて会った時から思ってたんだけど」
箱のふたを開く直前、ニコルが言った。
「ミミィって綺麗な声してるよね。僕の橇のベルみたいだ」
綺麗な声。その言葉にミミィは目を上げた。かつて同じ言葉でミミィの声を褒めてくれた人がいた。ずっと想い続けていた人。今これから、逢いにいく人。
「あ——」
言いかけた台詞はふいに途切れた。開きかけた薄紅色のふた、それがまるで意思あるもののように押し開けられたのだ。いや、意思があるのはふたではない。邪魔ものを押し開けた箱の中身、きらきらした光の粒子が一瞬にしてミミィを包み込んだ。同時に、優しい眠りの手がミミィの瞼をなでる。
「ハッピークリスマス、ミミィ」
ニコルの声をひどく遠くに感じながら、ミミィは目を閉じた。
ミルク色の霧が辺りを覆っている。景色など何も見えない。もちろん、ミミィ以外の人影もなかった。
ミミィは少しがっかりした。あのサンタの言うことを信じて、今度こそはと思っていたのだけれども。やっぱり所詮は夢、そう都合よく願いは叶うことはないらしい。
溜息をついて、ミミィは歩き出した。目的などない。ただ立っているのもばからしいから歩いてみようと思っただけだ。
数歩歩いて、ミミィは何かにつまずいた。体のバランスが崩れる。とっさにミミィは小さな悲鳴を上げた。その腕がいきなり、強い力でぐっと引っ張られた。
「大丈夫ですか?」
思いがけないほど近いところから声がした。ミミィの心臓が跳ね上がる。懐かしい響きの、その声。振り返ったミミィは、一瞬のためらいの後に口を開いた。
「——ハルカ?」
相手の沈黙はミミィよりも長かった。ミミィの腕をつかんだままだった手の力がゆっくりと抜けていく。
「……ミミィ?」
さぁっと、まるでカーテンを引くようにもやが晴れた。ミミィの腕を持った手の続きの腕、肩が見える。そしてその上には、この二年間片時も忘れることのなかった顔がのっていた。
「やっぱり、ミミィだ」
最後に逢った時と変わらない、やぼったい眼鏡の奥の目が驚いたまま固まっている。
「なんで、ここに?」
「それはこっちの台詞よ」
泣き出しそうになるのをこらえて、ミミィはゆっくりと腕を広げた。長かった月日を受け止めるように。
「——ばかっ!」
ぱあん、と乾いたとてもいい音が響いた。
「二年間もあたしを放っておいて、たよりひとつもなくて、生きてるか死んでるかもわからなくて、夢にも出てきてくれなくて、一体何をしてたのよ!」
頬を張り飛ばされた格好のまま固まっているハルカの横顔を思い切りミミィは睨みつけた。
「ばか! ずっと……ずっと、心配してたのに、あなたってば全然あたしの気持ちを分かってないんだから」
つうっ、と瞳から頬に流れ落ちる感触。それと同じように、言葉は自然に零れ落ちた。
「——逢いたかった、ハルカ」
「——ミミィ」
温かい手がミミィの肩にかけられた。
「ごめん。ありがとう」
触れている手より温かい眼差しに、もう堪える必要のなくなった涙が堰を切ったように溢れ出した。不器用な指がその雫を拭う。
「泣かないで、ミミィ。ほら、見てごらんよ」
ハルカの言葉にミミィは周りを見回した。もやはすっかり晴れて、頭の上には青い空が広がっている。
足元は崖っぷちだった。思わず後ずさったミミィは、崖の下の平らな地面に白い石造りの壁を見つけた。よく見るとそれはひとつではなく、たくさんあるようだった。高いもの、低いもの、崩れかけているもの、草に覆われてしまっているもの――こうして高いところから見下ろすと、それらの石壁はきちんとした並び方をしているのに気づく。明らかに人の手になる建物群の跡。
「ここは……」
「うん。俺が調査に来た遺跡」
かつての街跡を一望できる丘の上で、ハルカは目を細めた。
「綺麗だろう?」
「……うん」
素直にミミィは頷いた。素朴な、しかし不思議な美しさのあるこの場所で意地を張る気にはなれなかった。
「良かった」
ゆったりとハルカは微笑んだ。
「ここからこの街をミミィと見てみたいってずっと思ってたんだ。ミミィの歌を聴きながらこの街を見下ろせたら最高だなって」
ふと、その表情が真剣になる。
「ここにいる間も、ミミィのことを気にかけてたよ。俺はこんなだから、きっとミミィを哀しませてるだろうと思ってたし。俺にとって、それがずっと心残りだった」
一瞬淋しげな光がハルカの瞳に灯った。
「忘れられても仕方がないくらいの時間が経ってる。わがままを通した俺のことをミミィが忘れる権利もある。もしミミィが俺のことを忘れていたら、二度とミミィの前に現れない覚悟もあった。でも」
ミミィに向けられる、穏やかな笑みを宿した瞳。
「ミミィは俺のことを憶えててくれた。嬉しかったよ。それだけが、俺には大事だったから」
表情を隠すように、瞳は閉じられた。
「ようやく、覚悟ができた。そろそろ、いかなきゃ」
「待って。行くって、どこに?」
ハルカは答えない。気がつくと、また白いもやが辺りを覆いはじめている。
「ミミィ、俺の最後のわがまま、聞いてくれるかい?」
もやがハルカとミミィの体を包み込む。
「もう一度、もう一度だけ、ミミィの声で俺のために歌ってほしい。ミミィの歌ってる声、ほんとに綺麗だから」
一瞬ごとに濃くなるもやにミミィは首を振った。縦に振りたいのか、横に振りたいのか、自分でもわからなかった。ただ、ハルカの顔が見えなくなるのが悲しかった。
「ミミィ……ありがとう」
ゆっくりとハルカの気配は消えていった。白いもやの中、ミミィはただ一人残された。涙が頬を伝った。
頬を伝う涙の感触でミミィは目覚めた。カーテンからは白い朝日が洩れている。昨夜と変わらない部屋の中、当然ニコルの姿はない。
体を起こしたミミィは涙を拭った。哀しかったが、それ以上にハルカの願いを叶える方が今のミミィにとっては大事だった。
ベッドを降り、カーテンを開ける。外は晴れていた。積もった雪と朝日が景色を白く染めている。まるでさっきまでの夢のもやのように。
ミミィは窓を開けた。澄んだ冷気が部屋のよどんだ空気とミミィの哀しみを吹き流していく。
祈りを込めてミミィは息を吸った。ハルカに捧げる歌は、もう決めていた。
Dashing through the snow,
In a one-horse open sleigh,
紡ぎ出したメロディは、かつて一緒に歌ったクリスマス・ソング。
O'er the fields we go,
Laughing all the way.
そういえばあの変なサンタもあたしの声を褒めてたっけ。
小さく笑ってミミィは続きを歌う。せめてもの礼代わりだ。あのサンタにも聞こえるといい。
Bells on bob-tail ring,
Making spirits bright.
What fun it is to ride and sing
A sleighing song tonight!
ミミィは少しがっかりした。あのサンタの言うことを信じて、今度こそはと思っていたのだけれども。やっぱり所詮は夢、そう都合よく願いは叶うことはないらしい。
溜息をついて、ミミィは歩き出した。目的などない。ただ立っているのもばからしいから歩いてみようと思っただけだ。
数歩歩いて、ミミィは何かにつまずいた。体のバランスが崩れる。とっさにミミィは小さな悲鳴を上げた。その腕がいきなり、強い力でぐっと引っ張られた。
「大丈夫ですか?」
思いがけないほど近いところから声がした。ミミィの心臓が跳ね上がる。懐かしい響きの、その声。振り返ったミミィは、一瞬のためらいの後に口を開いた。
「——ハルカ?」
相手の沈黙はミミィよりも長かった。ミミィの腕をつかんだままだった手の力がゆっくりと抜けていく。
「……ミミィ?」
さぁっと、まるでカーテンを引くようにもやが晴れた。ミミィの腕を持った手の続きの腕、肩が見える。そしてその上には、この二年間片時も忘れることのなかった顔がのっていた。
「やっぱり、ミミィだ」
最後に逢った時と変わらない、やぼったい眼鏡の奥の目が驚いたまま固まっている。
「なんで、ここに?」
「それはこっちの台詞よ」
泣き出しそうになるのをこらえて、ミミィはゆっくりと腕を広げた。長かった月日を受け止めるように。
「——ばかっ!」
ぱあん、と乾いたとてもいい音が響いた。
「二年間もあたしを放っておいて、たよりひとつもなくて、生きてるか死んでるかもわからなくて、夢にも出てきてくれなくて、一体何をしてたのよ!」
頬を張り飛ばされた格好のまま固まっているハルカの横顔を思い切りミミィは睨みつけた。
「ばか! ずっと……ずっと、心配してたのに、あなたってば全然あたしの気持ちを分かってないんだから」
つうっ、と瞳から頬に流れ落ちる感触。それと同じように、言葉は自然に零れ落ちた。
「——逢いたかった、ハルカ」
「——ミミィ」
温かい手がミミィの肩にかけられた。
「ごめん。ありがとう」
触れている手より温かい眼差しに、もう堪える必要のなくなった涙が堰を切ったように溢れ出した。不器用な指がその雫を拭う。
「泣かないで、ミミィ。ほら、見てごらんよ」
ハルカの言葉にミミィは周りを見回した。もやはすっかり晴れて、頭の上には青い空が広がっている。
足元は崖っぷちだった。思わず後ずさったミミィは、崖の下の平らな地面に白い石造りの壁を見つけた。よく見るとそれはひとつではなく、たくさんあるようだった。高いもの、低いもの、崩れかけているもの、草に覆われてしまっているもの――こうして高いところから見下ろすと、それらの石壁はきちんとした並び方をしているのに気づく。明らかに人の手になる建物群の跡。
「ここは……」
「うん。俺が調査に来た遺跡」
かつての街跡を一望できる丘の上で、ハルカは目を細めた。
「綺麗だろう?」
「……うん」
素直にミミィは頷いた。素朴な、しかし不思議な美しさのあるこの場所で意地を張る気にはなれなかった。
「良かった」
ゆったりとハルカは微笑んだ。
「ここからこの街をミミィと見てみたいってずっと思ってたんだ。ミミィの歌を聴きながらこの街を見下ろせたら最高だなって」
ふと、その表情が真剣になる。
「ここにいる間も、ミミィのことを気にかけてたよ。俺はこんなだから、きっとミミィを哀しませてるだろうと思ってたし。俺にとって、それがずっと心残りだった」
一瞬淋しげな光がハルカの瞳に灯った。
「忘れられても仕方がないくらいの時間が経ってる。わがままを通した俺のことをミミィが忘れる権利もある。もしミミィが俺のことを忘れていたら、二度とミミィの前に現れない覚悟もあった。でも」
ミミィに向けられる、穏やかな笑みを宿した瞳。
「ミミィは俺のことを憶えててくれた。嬉しかったよ。それだけが、俺には大事だったから」
表情を隠すように、瞳は閉じられた。
「ようやく、覚悟ができた。そろそろ、いかなきゃ」
「待って。行くって、どこに?」
ハルカは答えない。気がつくと、また白いもやが辺りを覆いはじめている。
「ミミィ、俺の最後のわがまま、聞いてくれるかい?」
もやがハルカとミミィの体を包み込む。
「もう一度、もう一度だけ、ミミィの声で俺のために歌ってほしい。ミミィの歌ってる声、ほんとに綺麗だから」
一瞬ごとに濃くなるもやにミミィは首を振った。縦に振りたいのか、横に振りたいのか、自分でもわからなかった。ただ、ハルカの顔が見えなくなるのが悲しかった。
「ミミィ……ありがとう」
ゆっくりとハルカの気配は消えていった。白いもやの中、ミミィはただ一人残された。涙が頬を伝った。
頬を伝う涙の感触でミミィは目覚めた。カーテンからは白い朝日が洩れている。昨夜と変わらない部屋の中、当然ニコルの姿はない。
体を起こしたミミィは涙を拭った。哀しかったが、それ以上にハルカの願いを叶える方が今のミミィにとっては大事だった。
ベッドを降り、カーテンを開ける。外は晴れていた。積もった雪と朝日が景色を白く染めている。まるでさっきまでの夢のもやのように。
ミミィは窓を開けた。澄んだ冷気が部屋のよどんだ空気とミミィの哀しみを吹き流していく。
祈りを込めてミミィは息を吸った。ハルカに捧げる歌は、もう決めていた。
Dashing through the snow,
In a one-horse open sleigh,
紡ぎ出したメロディは、かつて一緒に歌ったクリスマス・ソング。
O'er the fields we go,
Laughing all the way.
そういえばあの変なサンタもあたしの声を褒めてたっけ。
小さく笑ってミミィは続きを歌う。せめてもの礼代わりだ。あのサンタにも聞こえるといい。
Bells on bob-tail ring,
Making spirits bright.
What fun it is to ride and sing
A sleighing song tonight!
Jingle Bells! Jingle Bells!
Jingle all the way!
Oh what fun it is to ride
In a one-horse open sleigh!
Jingle all the way!
Oh what fun it is to ride
In a one-horse open sleigh!
「いやぁ、いい声だねえ」
そう言って主人は橇のベルを軽く弾きました。聞こえてくる歌声に似た、高く澄んだ音でベルが鳴ります。
「これで来年のプレゼントも大丈夫だね」
「そうですね」
私は橇を振り返りました。主人より多くのスペースを占領している袋の口は、今は開けられていました。そこにきらきらしたこまやかな粒が吸い込まれていきます。まるで歌声の結晶のような、金色の煌き。
袋から眼下の街に視線を落とした私はふと、道行く一人に目を止めました。
「ニコル、あれは?」
クリスマスの朝。礼拝に行くのか、あるいは買い物か、静かではありますが人通りの多い街を走っている人がいます。図らずも耳にした綺麗なジングル・ベルに足を止めた人にぶつかり、謝りながらもひたすら歌声の主の家へ走る、やぼったい眼鏡の男の人。
「ああ。ようやく彼も、会いに行く覚悟ができたんだろうね」
橇から身を乗り出して下界を眺め、主人は笑いました。
「もうずっと前からすぐ近くまで来てたのに。ミミィが彼を忘れていたら、本当に二度と会う気はなかったみたいだね。うまい具合に二人の夢がつながって良かったよ」
「ええ、本当に」
点々と足跡を残し、時には滑りながら懸命に歌の主の家へ駆けていくハルカをしばらく見ていた主人は橇の上で大きく伸びをしました。
「どうやら、今年も一仕事終わったみたいだね。そろそろ僕らも帰ろうか。僕らの家へ」
「はい」
まっすぐ針路を取ってから、私はふと思いついて橇を振り返りました。
「ニコル」
袋の口を閉めていたニコルが顔を上げます。
「何だい?」
「今年も、お疲れ様でした」
主人が笑ったのを確認して、私は走り出しました。橇の揺れるリズムに合わせてベルが鳴ります。
Jingle Bells! Jingle Bells!
Jingle all the ——
ミミィの歌声がふいに途切れました。遠ざかって聞こえなくなったのではないのでしょう。これは歌声が二重唱になるための、再会の中断。
Jingle Bells! Jingle Bells!
Jingle all the way!
後ろの橇で主人が続きを歌い始めました。決して上手とはいえませんが、とても楽しげなその声。
そんな主人——My Dear Santaにならって、最後の一節は私も一緒に歌うことにしましょう。
Oh what fun it is to ride
In a one-horse open sleigh!
I wish a happy and Merry Christmas
comes to the all this story's readers!
<2002年12月24日>
「はっしれそりよー、かっぜのよおにー♪」
決して上手いとはいえない歌声が響いていました。家を出てからたっぷり2時間はクリスマス・メドレーを聞かされている私は、いい加減げんなりして後ろを振り返りました。
「ニコル、ちょっと黙っていてくれませんか。ご機嫌なのはいいのですが、こうも歌ってばかりいられると……」
「何で? トーンも一緒に歌おうよ」
へろっとした笑顔の主人に、私は溜め息をつきました。
「それどころではありませんよ。橇を引くのはけっこう重労働なんですから」
視線を前方に戻した私は闇の向こうをまっすぐに見つめました。クリスマスイブの今夜は、星明りがきれいな良い夜です。
「それで、進む方向はこちらで合ってますよね?」
「うん。さっき見つけたお客さんはこっちの方にいたけれど……あれ?」
いきなり跳ね上がった主人の声と、前に重心が移った橇に、私は慌てて足を止めました。
「どうしたんですか、ニコル?」
振り向くと、橇から半分ずり落ちかけた格好のまま、望遠鏡をのぞいている主人の姿が見えました。
「……お客さんが、見えなくなっちゃったんだ」
橇から落ちかけていることにはまだ気づいていないらしく、主人はさらに身を乗り出して辺りをきょろきょろと見回しています。
「あれー、おっかしいなー……うーん」
しばらく見失ったお客様を探していた主人ですが、元々が良くも悪くも切り替えの早い性格ですから、見つからないとなるとあっさり諦めてしまったようです。橇の座席に座りなおして、主人は満足そうに笑いました。
「うん。たぶん僕がプレゼントを渡すまでもなく、お客さんの望みが叶っちゃったんだね。それ自体はいいことなんだし、仕方ないから僕らももう帰ろうか」
「ニコル……そんな風にてきとうでいいんですか? 一応これはあなたの仕事でしょう」
「そうだねぇ。じゃあもう一度、新しいお客さんを探してみようか」
再び主人が望遠鏡をのぞきこむことしばし。、ふいに主人が大声を上げました。
「トーン、見つけたよ! ここからはちょっと遠くなっちゃうけど……大丈夫?」
「ええ。それで、どちらに行けばいいんですか?」
「うん、あっちだ」
主人の指はまっすぐ東を示しました。
「東、ですか。あっちの方は朝が早く来ますから、急がなくてはなりませんね。ニコル、振り落とされないよう橇にしっかりつかまっていてくださいね」
「うん、頼んだよ」
主人が手綱を握り直したのを確かめてから、私はベルを鳴らして駆け出しました。
決して上手いとはいえない歌声が響いていました。家を出てからたっぷり2時間はクリスマス・メドレーを聞かされている私は、いい加減げんなりして後ろを振り返りました。
「ニコル、ちょっと黙っていてくれませんか。ご機嫌なのはいいのですが、こうも歌ってばかりいられると……」
「何で? トーンも一緒に歌おうよ」
へろっとした笑顔の主人に、私は溜め息をつきました。
「それどころではありませんよ。橇を引くのはけっこう重労働なんですから」
視線を前方に戻した私は闇の向こうをまっすぐに見つめました。クリスマスイブの今夜は、星明りがきれいな良い夜です。
「それで、進む方向はこちらで合ってますよね?」
「うん。さっき見つけたお客さんはこっちの方にいたけれど……あれ?」
いきなり跳ね上がった主人の声と、前に重心が移った橇に、私は慌てて足を止めました。
「どうしたんですか、ニコル?」
振り向くと、橇から半分ずり落ちかけた格好のまま、望遠鏡をのぞいている主人の姿が見えました。
「……お客さんが、見えなくなっちゃったんだ」
橇から落ちかけていることにはまだ気づいていないらしく、主人はさらに身を乗り出して辺りをきょろきょろと見回しています。
「あれー、おっかしいなー……うーん」
しばらく見失ったお客様を探していた主人ですが、元々が良くも悪くも切り替えの早い性格ですから、見つからないとなるとあっさり諦めてしまったようです。橇の座席に座りなおして、主人は満足そうに笑いました。
「うん。たぶん僕がプレゼントを渡すまでもなく、お客さんの望みが叶っちゃったんだね。それ自体はいいことなんだし、仕方ないから僕らももう帰ろうか」
「ニコル……そんな風にてきとうでいいんですか? 一応これはあなたの仕事でしょう」
「そうだねぇ。じゃあもう一度、新しいお客さんを探してみようか」
再び主人が望遠鏡をのぞきこむことしばし。、ふいに主人が大声を上げました。
「トーン、見つけたよ! ここからはちょっと遠くなっちゃうけど……大丈夫?」
「ええ。それで、どちらに行けばいいんですか?」
「うん、あっちだ」
主人の指はまっすぐ東を示しました。
「東、ですか。あっちの方は朝が早く来ますから、急がなくてはなりませんね。ニコル、振り落とされないよう橇にしっかりつかまっていてくださいね」
「うん、頼んだよ」
主人が手綱を握り直したのを確かめてから、私はベルを鳴らして駆け出しました。
自分のぬくもりにすっぽり包まれた大地は、冷えた心を抱えたまま寝返りを打った。全身にのしかかるふとんのように重苦しい思い。それを少しでも吐き出したくて、小さな溜め息をつく。
明日は神さまが生まれた日だという。神さまの誕生日だから、たくさんの国でお祝いをする。それがクリスマスなんだよ、と大地のおとうさんは教えてくれた。
「神さま……」
神さまが生まれた特別な日。その日に心からお祈りをすれば、神さまはきっとその願いを叶えてくれる。願いを叶えるために子どもたちの家を1軒ずつ回ってくれるのがセント・ニコライ、みんなにはサンタクロースと呼ばれている人なのよ。そう言ったのは、大地のおかあさんだった。
「神さま、セント・ニコライさま」
ぎゅっと目を閉じて、大地はきつく両手を握り合わせる。
「オレの分のプレゼントはいりません。だけどお願いします、妹には、小花には、いい贈り物をあげてやってください」
「へぇ、感心だね。自分のじゃなく妹さんのプレゼントが望みだなんて」
いきなり間近からかけられた声に、大地は驚いて跳ね起きた。
「だっ、誰だ!?」
闇に慣れた大地の目に、ぼんやりと温かそうな光が見えた。いつの間に現れたのか、大地のベッドのすぐ傍にあるその光の中には、トナカイと橇、そして橇を降りようとじたばたしているサンタクロースが1人、見えた。
大地が呆然としている間に、サンタクロースはなんとか橇から降りることに成功したらしい。ちょっと曲がった帽子を直しながら、まだ若いサンタは(大地の目には中学生か高校生くらいに見えた)へろっとした笑みを浮かべた。
「はじめまして、今年のお客さん。僕はサンタのニコル、こっちはトナカイのトーンだよ。よろしくね」
「おっ……おまえがサンタクロース?」
大地は目を白黒させながらニコルとトーンを見比べた。
「で、でも、ひげもないし、じいちゃんでもないよ?」
「うん。僕はサンタになってまだ10年くらいしか経ってないから。でも僕のお師匠さんは白いひげがもくもくした優しいおじいちゃんだったよ」
ねえ、と同意を求められて、トーンがこくりと頷く。
「ええ。ニコラウスさまは本当に素晴らしいサンタクロースでしたよ」
まん丸になった大地の目がトーンに向けられる。
「トナカイなのにしゃべれるのか!?」
「ええ。私はサンタクロースのトナカイですから」
何かに納得したように、大地は何度も頷いた。
「そーか、サンタが飼ってるトナカイは日本語もしゃべれる不思議トナカイなんだな。うん、それならおまえが本物のサンタだって信じてやってもいいぞ。こんな不思議なことができるのは本物のサンタだけだろうしな」
「うん。君が信じてくれて嬉しいよ。ありがとう」
「で・も!」
ニコルの笑顔を、大地はキッとにらみつけた。
「なんでオレのところにサンタが来たりするんだよ。オレはプレゼントなんかいらないって言っただろ。オレなんかより小花のところに行ってやれよな。あいつ、きっと大喜びするからさ」
ニコルとトーンは顔を見合わせる。
「なぜ君は自分の分のプレゼントをいらないなんて言ったりするの?」
「それは……」
気まずげに大地はニコルたちから目を逸らした。
「もし良かったら、わけを聞かせてくれませんか?わけを知らないと、私たちもプレゼントをあなたに渡すべきなのか、それとも妹さんに渡すべきなのか、わからないですから」
そっぽを向いたままの大地に、トーンがそっと歩み寄る。
「そういえば、あなたのお名前をまだ聞いていませんでしたね」
「……大地」
「大地さんですね。妹さんは……小花さんでいいんですね?」
頷く大地を見て、トーンの瞳が微笑む。
「小さい花、ですか。かわいいお名前ですね。妹さんはかわいいですか?」
「全然!!」
ぶんぶんと首を振って、大地は口をとがらせる。
「あんなやつ、泣き虫だしうるさいし、何かあるとすぐにおかあさんに言いつけるし、全然かわいくなんかないよ」
でも、と大地は言葉を続ける。
「オレはにいちゃんだから、まだ小さいあいつを守ってやらなきゃって思うんだ。でも、いつもオレはあいつを泣かして……今日だって」
ぎゅっとふとんを握りしめて、大地は話しはじめた。
テーブルの上には、オードブルとケーキが少しずつ残っていた。集まった子どもたちがもう食べようとしないのを見てとって、手伝いのおかあさんたちがテーブルを片付け始める。
「みんな、おなかいっぱいになったかな?」
みんなが集まった集会室。前の方にある壇の上で、大地のおかあさんが声を張り上げている。
後ろの黒板には『ひいらぎ町子供会 クリスマスパーティ』の文字。いつもは殺風景な集会室も、今日は有志のおかあさんたちの手できれいに飾られている。
学年順に並べられた席についている子どもたちが注目した頃を見計らって、大地のおかあさんは再び口を開いた。
「それでは、これから本日のメインイベントのプレゼント交換をしたいと思います!」
とたんに上がる子どもたちの大歓声。壇の上に用意してあった大きな箱を前に押し出して、大地のおかあさんは続けた。
「会の最初でみんなから預かったプレゼントは、全部この中です。1年生から順番にひとつずつ取っていってね。ただし、あとでみんな一緒に開けるから、まだ中は見ちゃだめよ」
がやがやと子どもたちは学年順に並びはじめた。大地も3年生のグループの中に入って、順番を待っていた。1年生の先頭には小花がいる。たまたま大地が目を向けると、仲良しの友達と一緒に、わくわくした顔で差し出された箱を探って、包みを1個取り出すところだった。
「あれ?」
小花が大事そうに抱えた箱の包装紙に、大地は見覚えがあった。
「あれってオレが持ってきたプレゼントじゃん……ったく、何やってんるんだよ」
「おい大地、どうしたんだ?前、進んでるぞ」
言われて、大地はあわてて前へ詰めた。
「わりぃ、ありがと」
「おう。ところでさ、こないだ借りたゲームなんだけど……」
大好きなゲームの話につい夢中になり、プレゼントをてきとうに選んで席に戻ってからも大地はずっと友達としゃべっていた。その頃にはもう小花のことなど忘れている。
「お待たせしました! プレゼントが行き渡りましたので、もう開けてもいいですよ」
おかあさんの声に、みんなは待ってましたと包装に手を掛ける。リボンがほどける音、紙ががさがさいう音、時々びりっと何かが破ける音がしばらくの間集会室を満たす。
「やった、オレのは大当たりだ」
包みから出てきた車のおもちゃに、大地は歓声を上げた。
「大地は乗り物が好きだもんな。見ろよ、オレもいいのがあたったぜ」
友達とプレゼントの見せっこをしていた大地の耳に、いきなり甲高い泣き声が飛び込んできた。思わず振り返った大地の目に、プレゼントを抱えたまま何事かと注目する子どもたちの姿が入る。
「なあ、あの声……泣いてるのって小花じゃないのか?」
「う、うん……ちょっと見てくるよ」
みんなの視線が集まる先には、やっぱり小花がいた。かがみこんだおかあさんにしがみついて大泣きしている。そばには飛行機のおもちゃが落ちていて、さっきから一緒だった友達がおろおろしている。
「どうしたんだ、小花」
泣くばかりの小花の代わりに、おかあさんが顔を上げた。
「それが……どうもプレゼントが気に入らなかったらしいの」
「ひこうきなんてやー!あたしもミキちゃんみたいのがいいー!!」
わめく小花の指した先には、友達が大事そうに抱えた塗り絵があった。
「わがまま言わないの。ミキちゃんだって困ってるじゃない」
「そうだぞ小花。がまんしろよ」
大体オレのプレゼントをわざわざ選ぶおまえが悪いんだろ。オレのプレゼント、おまえも見たじゃないか。
大地の内心などお構いなしに、小花はますます派手に泣き声を上げる。
「やー! あたしもぬりえがいいー!!!」
「……仕方ないわねえ」
わらわらと周りに集まりだした子どもたちを見回して、おかあさんは溜め息を吐いた。
「大地、とりあえずこの子を家に帰してくれる? このままじゃ他の子たちまで騒ぎ出しちゃうわ」
お願いね、というおかあさんの言葉には逆らえず、大地はしぶしぶ小花の手を取って集会室を出て行った。
「ほら、もう泣くなよ。みっともないだろ」
家に帰るまでの道で、立ち止まった大地は涙でぐちゃぐちゃの小花の顔をふいてやった。
「うえっ、だって、あたし、いい子にしてたのに」
きれいにしてもすぐに汚れてしまう妹の顔に、ついに大地は諦めた。再び小花の手を取って家へと歩き出す。短い冬の日がもう傾いて、ななめから大地たちを照らしている。
「ピーマンも、のこさないでたべたもん。ニンジンはちょっとのこしちゃったけど……でもミルクはぜんぶのんだんだよ」
「ふーん」
「サンタさんは、いい子にしてたらほしいものをくれるって、おかあさんがいってたもん」
「いつまでも泣いてる小花は、いい子じゃないと思うけどな」
「ひぐっ、おにいちゃんの、いじわる」
一向に泣き止む気配のない小花にげんなりしながら、大地は言った。
「だいたい、さっきのは子供会のプレゼント交換だろ。サンタなんか関係ないよ」
「ちがうもん、ちがうもん」
自分の袖で顔をぬぐいながら、小花は口をとがらせる。
「きっとおにいちゃんがいじわるだからだ。おにいちゃんがいじわるばかりするから、あたしまでサンタさんにわるい子だっておもわれちゃったんだ」
「何だよそれ!?」
思わずかっとして、大地は小花の手を振り切った。
「だいたい、あのプレゼントだっておまえが好きで選んだんだろ!」
せっかくオレが買ってきたのに。
何とかそのセリフを飲み込んだ大地に、小さな妹は振り払われた手を見てまた泣き出した。
「ちがうもん。サンタさんがおにいちゃんに——」
「サンタなんかいない!!」
小花の泣き声がふいに途切れた。
「な……何言ってるのおにいちゃん、サンタさんは……」
「サンタなんかいるもんか。いい加減にしろよ。さっきのは自分たちで持ち寄ったプレゼントを交換しただけだし、クリスマスの朝のプレゼントだって――」
はっと大地は言葉を切った。小花の目には涙がいっぱいにたまっている。でもそれ以上に驚いていて、悲しそうで、そのせいで泣くのを忘れてしまったように凍りついている。思わずひるんでしまった大地の前で、小花はうつむいてしまった。
「やっぱり……おにいちゃんは、いじわるだ」
もういいよ、とだけ言って、小花は家へと走っていってしまった。あわてて伸ばした大地の指に、ひとしずくの涙がかすった。
明日は神さまが生まれた日だという。神さまの誕生日だから、たくさんの国でお祝いをする。それがクリスマスなんだよ、と大地のおとうさんは教えてくれた。
「神さま……」
神さまが生まれた特別な日。その日に心からお祈りをすれば、神さまはきっとその願いを叶えてくれる。願いを叶えるために子どもたちの家を1軒ずつ回ってくれるのがセント・ニコライ、みんなにはサンタクロースと呼ばれている人なのよ。そう言ったのは、大地のおかあさんだった。
「神さま、セント・ニコライさま」
ぎゅっと目を閉じて、大地はきつく両手を握り合わせる。
「オレの分のプレゼントはいりません。だけどお願いします、妹には、小花には、いい贈り物をあげてやってください」
「へぇ、感心だね。自分のじゃなく妹さんのプレゼントが望みだなんて」
いきなり間近からかけられた声に、大地は驚いて跳ね起きた。
「だっ、誰だ!?」
闇に慣れた大地の目に、ぼんやりと温かそうな光が見えた。いつの間に現れたのか、大地のベッドのすぐ傍にあるその光の中には、トナカイと橇、そして橇を降りようとじたばたしているサンタクロースが1人、見えた。
大地が呆然としている間に、サンタクロースはなんとか橇から降りることに成功したらしい。ちょっと曲がった帽子を直しながら、まだ若いサンタは(大地の目には中学生か高校生くらいに見えた)へろっとした笑みを浮かべた。
「はじめまして、今年のお客さん。僕はサンタのニコル、こっちはトナカイのトーンだよ。よろしくね」
「おっ……おまえがサンタクロース?」
大地は目を白黒させながらニコルとトーンを見比べた。
「で、でも、ひげもないし、じいちゃんでもないよ?」
「うん。僕はサンタになってまだ10年くらいしか経ってないから。でも僕のお師匠さんは白いひげがもくもくした優しいおじいちゃんだったよ」
ねえ、と同意を求められて、トーンがこくりと頷く。
「ええ。ニコラウスさまは本当に素晴らしいサンタクロースでしたよ」
まん丸になった大地の目がトーンに向けられる。
「トナカイなのにしゃべれるのか!?」
「ええ。私はサンタクロースのトナカイですから」
何かに納得したように、大地は何度も頷いた。
「そーか、サンタが飼ってるトナカイは日本語もしゃべれる不思議トナカイなんだな。うん、それならおまえが本物のサンタだって信じてやってもいいぞ。こんな不思議なことができるのは本物のサンタだけだろうしな」
「うん。君が信じてくれて嬉しいよ。ありがとう」
「で・も!」
ニコルの笑顔を、大地はキッとにらみつけた。
「なんでオレのところにサンタが来たりするんだよ。オレはプレゼントなんかいらないって言っただろ。オレなんかより小花のところに行ってやれよな。あいつ、きっと大喜びするからさ」
ニコルとトーンは顔を見合わせる。
「なぜ君は自分の分のプレゼントをいらないなんて言ったりするの?」
「それは……」
気まずげに大地はニコルたちから目を逸らした。
「もし良かったら、わけを聞かせてくれませんか?わけを知らないと、私たちもプレゼントをあなたに渡すべきなのか、それとも妹さんに渡すべきなのか、わからないですから」
そっぽを向いたままの大地に、トーンがそっと歩み寄る。
「そういえば、あなたのお名前をまだ聞いていませんでしたね」
「……大地」
「大地さんですね。妹さんは……小花さんでいいんですね?」
頷く大地を見て、トーンの瞳が微笑む。
「小さい花、ですか。かわいいお名前ですね。妹さんはかわいいですか?」
「全然!!」
ぶんぶんと首を振って、大地は口をとがらせる。
「あんなやつ、泣き虫だしうるさいし、何かあるとすぐにおかあさんに言いつけるし、全然かわいくなんかないよ」
でも、と大地は言葉を続ける。
「オレはにいちゃんだから、まだ小さいあいつを守ってやらなきゃって思うんだ。でも、いつもオレはあいつを泣かして……今日だって」
ぎゅっとふとんを握りしめて、大地は話しはじめた。
テーブルの上には、オードブルとケーキが少しずつ残っていた。集まった子どもたちがもう食べようとしないのを見てとって、手伝いのおかあさんたちがテーブルを片付け始める。
「みんな、おなかいっぱいになったかな?」
みんなが集まった集会室。前の方にある壇の上で、大地のおかあさんが声を張り上げている。
後ろの黒板には『ひいらぎ町子供会 クリスマスパーティ』の文字。いつもは殺風景な集会室も、今日は有志のおかあさんたちの手できれいに飾られている。
学年順に並べられた席についている子どもたちが注目した頃を見計らって、大地のおかあさんは再び口を開いた。
「それでは、これから本日のメインイベントのプレゼント交換をしたいと思います!」
とたんに上がる子どもたちの大歓声。壇の上に用意してあった大きな箱を前に押し出して、大地のおかあさんは続けた。
「会の最初でみんなから預かったプレゼントは、全部この中です。1年生から順番にひとつずつ取っていってね。ただし、あとでみんな一緒に開けるから、まだ中は見ちゃだめよ」
がやがやと子どもたちは学年順に並びはじめた。大地も3年生のグループの中に入って、順番を待っていた。1年生の先頭には小花がいる。たまたま大地が目を向けると、仲良しの友達と一緒に、わくわくした顔で差し出された箱を探って、包みを1個取り出すところだった。
「あれ?」
小花が大事そうに抱えた箱の包装紙に、大地は見覚えがあった。
「あれってオレが持ってきたプレゼントじゃん……ったく、何やってんるんだよ」
「おい大地、どうしたんだ?前、進んでるぞ」
言われて、大地はあわてて前へ詰めた。
「わりぃ、ありがと」
「おう。ところでさ、こないだ借りたゲームなんだけど……」
大好きなゲームの話につい夢中になり、プレゼントをてきとうに選んで席に戻ってからも大地はずっと友達としゃべっていた。その頃にはもう小花のことなど忘れている。
「お待たせしました! プレゼントが行き渡りましたので、もう開けてもいいですよ」
おかあさんの声に、みんなは待ってましたと包装に手を掛ける。リボンがほどける音、紙ががさがさいう音、時々びりっと何かが破ける音がしばらくの間集会室を満たす。
「やった、オレのは大当たりだ」
包みから出てきた車のおもちゃに、大地は歓声を上げた。
「大地は乗り物が好きだもんな。見ろよ、オレもいいのがあたったぜ」
友達とプレゼントの見せっこをしていた大地の耳に、いきなり甲高い泣き声が飛び込んできた。思わず振り返った大地の目に、プレゼントを抱えたまま何事かと注目する子どもたちの姿が入る。
「なあ、あの声……泣いてるのって小花じゃないのか?」
「う、うん……ちょっと見てくるよ」
みんなの視線が集まる先には、やっぱり小花がいた。かがみこんだおかあさんにしがみついて大泣きしている。そばには飛行機のおもちゃが落ちていて、さっきから一緒だった友達がおろおろしている。
「どうしたんだ、小花」
泣くばかりの小花の代わりに、おかあさんが顔を上げた。
「それが……どうもプレゼントが気に入らなかったらしいの」
「ひこうきなんてやー!あたしもミキちゃんみたいのがいいー!!」
わめく小花の指した先には、友達が大事そうに抱えた塗り絵があった。
「わがまま言わないの。ミキちゃんだって困ってるじゃない」
「そうだぞ小花。がまんしろよ」
大体オレのプレゼントをわざわざ選ぶおまえが悪いんだろ。オレのプレゼント、おまえも見たじゃないか。
大地の内心などお構いなしに、小花はますます派手に泣き声を上げる。
「やー! あたしもぬりえがいいー!!!」
「……仕方ないわねえ」
わらわらと周りに集まりだした子どもたちを見回して、おかあさんは溜め息を吐いた。
「大地、とりあえずこの子を家に帰してくれる? このままじゃ他の子たちまで騒ぎ出しちゃうわ」
お願いね、というおかあさんの言葉には逆らえず、大地はしぶしぶ小花の手を取って集会室を出て行った。
「ほら、もう泣くなよ。みっともないだろ」
家に帰るまでの道で、立ち止まった大地は涙でぐちゃぐちゃの小花の顔をふいてやった。
「うえっ、だって、あたし、いい子にしてたのに」
きれいにしてもすぐに汚れてしまう妹の顔に、ついに大地は諦めた。再び小花の手を取って家へと歩き出す。短い冬の日がもう傾いて、ななめから大地たちを照らしている。
「ピーマンも、のこさないでたべたもん。ニンジンはちょっとのこしちゃったけど……でもミルクはぜんぶのんだんだよ」
「ふーん」
「サンタさんは、いい子にしてたらほしいものをくれるって、おかあさんがいってたもん」
「いつまでも泣いてる小花は、いい子じゃないと思うけどな」
「ひぐっ、おにいちゃんの、いじわる」
一向に泣き止む気配のない小花にげんなりしながら、大地は言った。
「だいたい、さっきのは子供会のプレゼント交換だろ。サンタなんか関係ないよ」
「ちがうもん、ちがうもん」
自分の袖で顔をぬぐいながら、小花は口をとがらせる。
「きっとおにいちゃんがいじわるだからだ。おにいちゃんがいじわるばかりするから、あたしまでサンタさんにわるい子だっておもわれちゃったんだ」
「何だよそれ!?」
思わずかっとして、大地は小花の手を振り切った。
「だいたい、あのプレゼントだっておまえが好きで選んだんだろ!」
せっかくオレが買ってきたのに。
何とかそのセリフを飲み込んだ大地に、小さな妹は振り払われた手を見てまた泣き出した。
「ちがうもん。サンタさんがおにいちゃんに——」
「サンタなんかいない!!」
小花の泣き声がふいに途切れた。
「な……何言ってるのおにいちゃん、サンタさんは……」
「サンタなんかいるもんか。いい加減にしろよ。さっきのは自分たちで持ち寄ったプレゼントを交換しただけだし、クリスマスの朝のプレゼントだって――」
はっと大地は言葉を切った。小花の目には涙がいっぱいにたまっている。でもそれ以上に驚いていて、悲しそうで、そのせいで泣くのを忘れてしまったように凍りついている。思わずひるんでしまった大地の前で、小花はうつむいてしまった。
「やっぱり……おにいちゃんは、いじわるだ」
もういいよ、とだけ言って、小花は家へと走っていってしまった。あわてて伸ばした大地の指に、ひとしずくの涙がかすった。
ふとんの上で揃えた膝をぎゅっと握って、大地は苦しそうな目でニコルたちの後ろにあるドアを見た。
「それから、小花は部屋から出てこないんだ。オレが呼んでも、おかあさんが呼んでも、返事もしない」
「そうだったんだ。だから本物のサンタの僕たちに、妹さんにプレゼントを持っていってって頼んだんだね」
「うん」
大地はちらりとニコルに目をやって、うつむいてしまった。
「だってオレは……サンタなんていないって、あいつに言っちゃったんだ。本物のサンタの前でこんなこと言うのも変だけどさ、だから、オレよりサンタを信じてるあいつのところに行ってくれよ」
「そうだねぇ……でも、やっぱり僕の今年のお客さんは、君で間違いないようだから」
にっこり笑って、ニコルは大地の頭にぽん、と手を置いた。
「僕の望遠鏡に見える人はね、この世界で一番僕のプレゼントを必要としている人なんだよ。僕のプレゼントは、ちょっと変わってるからね」
「どういうことだよ?」
微笑だけを残して、ニコルは橇へと向いてしまった。
「大地さん、あなたの望みは何ですか?」
代わりに進み出たトーンが問い掛ける。
「望み? そんなの、わかんないよ」
「そうですか?」
橇に積み込んだ大きな白い袋を探っているニコルにちらりと目をやって、トーンは続ける。
「実は、私たちは普通のサンタじゃないんです。子どもたちの欲しがっているプレゼントを配るサンタではなく、ものでは心が満たされない人のためのサンタ……ですから、ものを欲しがっている妹さんではなく、あなたこそが今年の私たちのお客様にふさわしいんですよ」
「オレが、もの以外の何かを欲しがってるってこと……?」
少し考えてみたけれど結局わからなかったらしく、大地はぷるぷると頭を振った。
「わからないなら、それでいいんです。きっとニコルの袋はあなたの望みをわかってくれますから」
しばらく考えて、大地は頷いた。
「うん、じゃあ、せっかくだしもらっておくよ。でも、オレの後には小花にもプレゼントをあげてくれよな」
「残念だけど、それは無理だよ」
穏やかなニコルの声が割り込んだ。袋の中から小さな包みを取り出して、ニコルは大地のベッドへ歩み寄る。
「僕のお客さんは1年に1人だけ。そういう決まりなんだ」
「じゃ、じゃあ……」
「でも、ね」
いたずらっ子のような顔でニコルは大地の言葉をさえぎった。
「僕がプレゼントをあげる人は1人だけど、僕のプレゼントは受け取った人の使い方次第でたくさんの人に分けることができる。そうすることで、君と周りの人たちが倖せになっていくんだ」
「倖せ……?」
「そう。そして、君が倖せになったら、少しだけその気持ちを僕らに分けてほしいんだ。その倖せを元に、来年のお客さんのプレゼントが作られるから」
「今年のあなたへのプレゼントも、去年のお客様の倖せを元に作られたものなんですよ」
「オレへの、プレゼントも……」
しばらく考えていた大地が、こくりと頷いた。
「わかった。オレが倖せになったら、それを分けてやるよ。あんたからもらったプレゼントを小花と分ければいいんだろ?」
「そうだよ」
にっこり笑って、ニコルは両手に収まるほどの小さな包みを差し出した。深い葉っぱ色の包装紙。薄い金色のリボンは、赤い縁取りがされている。受け取った大地は、結び目に留められたひいらぎの飾りを抜き取った。その途端にリボンが勝手にほどけ、包装紙が開いていく。
「な、なんだ!?」
飾りをすっかり外してしまった小さな箱は、金色の光をこぼしながら蓋を開いた。まぶしくて大地は思わず目を閉じる。
ふっと光がやんで、おそるおそる大地は目を開いた。いつも通りの自分の部屋が見える。何も変わった様子はない。
「あ、あれ?」
ニコルとトーンが消えていた。あわてて見回しても、姿どころか気配もない。
「な……なんだったんだ?もしかして、夢?」
呟いて、ふと落とした大地の目に、なにやら見慣れないものが入った。
「これは……」
見つけたのは、小さなサンタ姿のぬいぐるみだった。大地の枕もとにちょこんと座っている。
「夢じゃ、ない?」
思わずぬいぐるみを手に取った大地の耳に、ニコルの声が聞こえてきた。
『君にほんの少しの勇気と、優しさをあげるよ。これからも妹さんを大事にしてあげてね。君は今のままでも十分に、いいお兄ちゃんなんだから』
大地はぎゅっとぬいぐるみを抱きしめた。よく見るとニコルに似ていなくもない、ひげのないサンタ姿の男の子。
『僕らはずっと傍で見守ってるよ。ハッピークリスマス、大地』
それから、いくら待ってもニコルの声は聞こえなかった。大地はいつまでも、ぬいぐるみを抱きしめたまま部屋のドアを見つめていた。
「小花!!」
クリスマスの朝、大地は一番に真向かいにある妹の部屋に飛んでいった。昨日の晩はいつのまにか眠ってしまっていたけれど、目がさめた後もサンタのぬいぐるみはちゃんと大地の手の中にあった。
「小花! 起きろよ!! にいちゃんがすごいもの見せてやるぜ!!」
部屋の中からは、小花が起きた気配がする。けれどまだ昨日のことを気にしているのか、大地の声に反応はない。
「聞いてくれよ小花! にいちゃんな、本物のサンタに会ったんだ!」
ことり、と部屋の中から物音がした。何秒かの沈黙の後、ドアが内側から細く開かれる。
「……サンタさんに?」
「……うん」
小花は昨日着ていた服のままだった。そのまま寝てしまったのだろう、買ったばかりの服があちこちしわだらけになってしまっている。そんな小花の目の前に、大地はずっと握りしめていたサンタのぬいぐるみを差し出した。
「ほら、これが本物のサンタからもらったプレゼント」
おそるおそる小花はぬいぐるみへ手を伸ばした。大地の手からぬいぐるみを取って、小花はまじまじとその顔を見つめる。
「かわいい……けど、おひげがないよ」
「ああ、オレが会った本物のサンタもひげはなかったよ」
「おじいちゃんでもないし……」
「うん、隣のお兄ちゃんと同じくらいの歳だったよ。それでな、なんと日本語をしゃべるトナカイを連れてるんだ」
「うそぉ」
「ホントだって! オレもびっくりしたんだけどな……」
「こら大地! 朝から騒がないの!」
おかあさんのお叱りが台所から飛んできた。軽く首をすくめて、大地は小花の頭にぽんと手を乗せた。
「んじゃ、これ以上怒られないうちに着替えて朝メシにしような。その後でサンタの話をしてやるよ」
「うん!」
部屋に戻りかけて、大地は小花を振り返った。
「そうだ。昨日はごめんな。サンタはやっぱりいたからな」
「そうでしょ? あーあ、あたしもあいたかったなぁ」
「いい子にしてれば会えるんじゃないか? オレはいい子だったから来てくれたんだよ」
「えー!!?」
小花のブーイングを聞きながら、大地は自分の部屋のドアを開けた。
「ねーおにいちゃん、このぬいぐるみ、もらっていい?」
「それはダメだ。オレがサンタに会ったっていう大事な証拠だからな」
でも、と言って、大地は言葉を切った。
「でも、オレたち共同のぬいぐるみにするならいいよ。オレの部屋に置いとくのも何だし、おまえが預かっててくれよ」
「うん! ありがとう、おにいちゃん!」
笑って、大地はドアを閉じた。自然に小花と仲直りできたことがなんだか嬉しかった。
「これで、いいんだよな?」
昨夜、ニコルとトーンがいた辺りに向かって問い掛けてみる。
「いい子にしていれば、きっとまた会えるよな。そーいやオレ、ありがとうも言ってないんだし」
「大地、小花! 起きてるなら早く来い! おかあさんが怒ってるぞ!」
少しだけしんみりした部屋の空気を、容赦なくおとうさんの声がぶち壊した。
「分かったよ! 今行くってば!!!」
あわてて着替えをはじめた大地の横顔に、金色の朝日が降りかかった。
「それから、小花は部屋から出てこないんだ。オレが呼んでも、おかあさんが呼んでも、返事もしない」
「そうだったんだ。だから本物のサンタの僕たちに、妹さんにプレゼントを持っていってって頼んだんだね」
「うん」
大地はちらりとニコルに目をやって、うつむいてしまった。
「だってオレは……サンタなんていないって、あいつに言っちゃったんだ。本物のサンタの前でこんなこと言うのも変だけどさ、だから、オレよりサンタを信じてるあいつのところに行ってくれよ」
「そうだねぇ……でも、やっぱり僕の今年のお客さんは、君で間違いないようだから」
にっこり笑って、ニコルは大地の頭にぽん、と手を置いた。
「僕の望遠鏡に見える人はね、この世界で一番僕のプレゼントを必要としている人なんだよ。僕のプレゼントは、ちょっと変わってるからね」
「どういうことだよ?」
微笑だけを残して、ニコルは橇へと向いてしまった。
「大地さん、あなたの望みは何ですか?」
代わりに進み出たトーンが問い掛ける。
「望み? そんなの、わかんないよ」
「そうですか?」
橇に積み込んだ大きな白い袋を探っているニコルにちらりと目をやって、トーンは続ける。
「実は、私たちは普通のサンタじゃないんです。子どもたちの欲しがっているプレゼントを配るサンタではなく、ものでは心が満たされない人のためのサンタ……ですから、ものを欲しがっている妹さんではなく、あなたこそが今年の私たちのお客様にふさわしいんですよ」
「オレが、もの以外の何かを欲しがってるってこと……?」
少し考えてみたけれど結局わからなかったらしく、大地はぷるぷると頭を振った。
「わからないなら、それでいいんです。きっとニコルの袋はあなたの望みをわかってくれますから」
しばらく考えて、大地は頷いた。
「うん、じゃあ、せっかくだしもらっておくよ。でも、オレの後には小花にもプレゼントをあげてくれよな」
「残念だけど、それは無理だよ」
穏やかなニコルの声が割り込んだ。袋の中から小さな包みを取り出して、ニコルは大地のベッドへ歩み寄る。
「僕のお客さんは1年に1人だけ。そういう決まりなんだ」
「じゃ、じゃあ……」
「でも、ね」
いたずらっ子のような顔でニコルは大地の言葉をさえぎった。
「僕がプレゼントをあげる人は1人だけど、僕のプレゼントは受け取った人の使い方次第でたくさんの人に分けることができる。そうすることで、君と周りの人たちが倖せになっていくんだ」
「倖せ……?」
「そう。そして、君が倖せになったら、少しだけその気持ちを僕らに分けてほしいんだ。その倖せを元に、来年のお客さんのプレゼントが作られるから」
「今年のあなたへのプレゼントも、去年のお客様の倖せを元に作られたものなんですよ」
「オレへの、プレゼントも……」
しばらく考えていた大地が、こくりと頷いた。
「わかった。オレが倖せになったら、それを分けてやるよ。あんたからもらったプレゼントを小花と分ければいいんだろ?」
「そうだよ」
にっこり笑って、ニコルは両手に収まるほどの小さな包みを差し出した。深い葉っぱ色の包装紙。薄い金色のリボンは、赤い縁取りがされている。受け取った大地は、結び目に留められたひいらぎの飾りを抜き取った。その途端にリボンが勝手にほどけ、包装紙が開いていく。
「な、なんだ!?」
飾りをすっかり外してしまった小さな箱は、金色の光をこぼしながら蓋を開いた。まぶしくて大地は思わず目を閉じる。
ふっと光がやんで、おそるおそる大地は目を開いた。いつも通りの自分の部屋が見える。何も変わった様子はない。
「あ、あれ?」
ニコルとトーンが消えていた。あわてて見回しても、姿どころか気配もない。
「な……なんだったんだ?もしかして、夢?」
呟いて、ふと落とした大地の目に、なにやら見慣れないものが入った。
「これは……」
見つけたのは、小さなサンタ姿のぬいぐるみだった。大地の枕もとにちょこんと座っている。
「夢じゃ、ない?」
思わずぬいぐるみを手に取った大地の耳に、ニコルの声が聞こえてきた。
『君にほんの少しの勇気と、優しさをあげるよ。これからも妹さんを大事にしてあげてね。君は今のままでも十分に、いいお兄ちゃんなんだから』
大地はぎゅっとぬいぐるみを抱きしめた。よく見るとニコルに似ていなくもない、ひげのないサンタ姿の男の子。
『僕らはずっと傍で見守ってるよ。ハッピークリスマス、大地』
それから、いくら待ってもニコルの声は聞こえなかった。大地はいつまでも、ぬいぐるみを抱きしめたまま部屋のドアを見つめていた。
「小花!!」
クリスマスの朝、大地は一番に真向かいにある妹の部屋に飛んでいった。昨日の晩はいつのまにか眠ってしまっていたけれど、目がさめた後もサンタのぬいぐるみはちゃんと大地の手の中にあった。
「小花! 起きろよ!! にいちゃんがすごいもの見せてやるぜ!!」
部屋の中からは、小花が起きた気配がする。けれどまだ昨日のことを気にしているのか、大地の声に反応はない。
「聞いてくれよ小花! にいちゃんな、本物のサンタに会ったんだ!」
ことり、と部屋の中から物音がした。何秒かの沈黙の後、ドアが内側から細く開かれる。
「……サンタさんに?」
「……うん」
小花は昨日着ていた服のままだった。そのまま寝てしまったのだろう、買ったばかりの服があちこちしわだらけになってしまっている。そんな小花の目の前に、大地はずっと握りしめていたサンタのぬいぐるみを差し出した。
「ほら、これが本物のサンタからもらったプレゼント」
おそるおそる小花はぬいぐるみへ手を伸ばした。大地の手からぬいぐるみを取って、小花はまじまじとその顔を見つめる。
「かわいい……けど、おひげがないよ」
「ああ、オレが会った本物のサンタもひげはなかったよ」
「おじいちゃんでもないし……」
「うん、隣のお兄ちゃんと同じくらいの歳だったよ。それでな、なんと日本語をしゃべるトナカイを連れてるんだ」
「うそぉ」
「ホントだって! オレもびっくりしたんだけどな……」
「こら大地! 朝から騒がないの!」
おかあさんのお叱りが台所から飛んできた。軽く首をすくめて、大地は小花の頭にぽんと手を乗せた。
「んじゃ、これ以上怒られないうちに着替えて朝メシにしような。その後でサンタの話をしてやるよ」
「うん!」
部屋に戻りかけて、大地は小花を振り返った。
「そうだ。昨日はごめんな。サンタはやっぱりいたからな」
「そうでしょ? あーあ、あたしもあいたかったなぁ」
「いい子にしてれば会えるんじゃないか? オレはいい子だったから来てくれたんだよ」
「えー!!?」
小花のブーイングを聞きながら、大地は自分の部屋のドアを開けた。
「ねーおにいちゃん、このぬいぐるみ、もらっていい?」
「それはダメだ。オレがサンタに会ったっていう大事な証拠だからな」
でも、と言って、大地は言葉を切った。
「でも、オレたち共同のぬいぐるみにするならいいよ。オレの部屋に置いとくのも何だし、おまえが預かっててくれよ」
「うん! ありがとう、おにいちゃん!」
笑って、大地はドアを閉じた。自然に小花と仲直りできたことがなんだか嬉しかった。
「これで、いいんだよな?」
昨夜、ニコルとトーンがいた辺りに向かって問い掛けてみる。
「いい子にしていれば、きっとまた会えるよな。そーいやオレ、ありがとうも言ってないんだし」
「大地、小花! 起きてるなら早く来い! おかあさんが怒ってるぞ!」
少しだけしんみりした部屋の空気を、容赦なくおとうさんの声がぶち壊した。
「分かったよ! 今行くってば!!!」
あわてて着替えをはじめた大地の横顔に、金色の朝日が降りかかった。
「とれたって……野菜や果物じゃないんですから……」
広い広い青い空の真ん中で。降り注ぐ金色の太陽の光と、袋へ吸い込まれていく倖せの粒子に目を細めながら、主人はご機嫌な様子で下をのぞき込んでいます。
「お礼なら、こうやって十分もらってるよね?」
だから気にしなくていいよー、と聞こえるはずもない相手に言っている主人に、私は適当に相槌を打ってあげます。長いつきあいですから、あしらい方も十分に分かっています。
「では、そろそろ戻りますか」
「そうだね。袋もおなかいっぱいになったようだし」
主人が袋の口を閉じ終えるのを待って、私は走り出しました。私の首と橇につけられたおそろいのベルが、きれいなハーモニーを響かせます。
「そういえば、ニコル」
「んー?」
「セント・ニコライという人は、確か子どもを守護する聖人の名前でしたよね?」
「うん。そうだよ」
後ろのニコルの気配がやわらかくなります。これは、笑っているときの気配。長いつきあいですから、顔を見なくても分かってしまいます。
「だからサンタは子どもにプレゼントを配るんだ。子どもが好きだからね」
つられて、私もつい笑ってしまいました。
「では来年までに、子どもに受けのいいプレゼントでも作りましょうか。あのぬいぐるみじゃあ、素直な子じゃないと納得してくれませんよ」
「えー?僕はけっこう気に入ってるんだけどなぁ。一番うまくいったのを特別にあげたのに」
「いつもはものをあげないのに、慣れないことをするからですよ」
まだ納得がいかない様子の主人に笑いながら、私は空を翔けます。4本の脚に、主人の仕事の手伝いができることの誇りを込めて。
「でもニコル、今年もお疲れ様でした」
「ありがとう。トーンこそ、お疲れ様でした」
こんなことを言われると、どうしたらいいのか分からなくなるので、正直やめてほしいのですが。
結局答えないまま、私は脚を早めました。いきなり上がったスピードに主人が驚いたようですが、そんなことは知ったことではありません。こんな朴念仁にこれからもつきあわなければならないわが身を思うと、本当に溜め息が出ます。
一路雪国の家を目指しながら、私はわざとスピードを上げて冬の空を翔けていきました。後ろで悲鳴をあげている主人——My Dear Santaにつきあえるトナカイなんて、私くらいしかいないってものです。
Thanks for your reading!
I wish your happy X'mas and New Year!!
広い広い青い空の真ん中で。降り注ぐ金色の太陽の光と、袋へ吸い込まれていく倖せの粒子に目を細めながら、主人はご機嫌な様子で下をのぞき込んでいます。
「お礼なら、こうやって十分もらってるよね?」
だから気にしなくていいよー、と聞こえるはずもない相手に言っている主人に、私は適当に相槌を打ってあげます。長いつきあいですから、あしらい方も十分に分かっています。
「では、そろそろ戻りますか」
「そうだね。袋もおなかいっぱいになったようだし」
主人が袋の口を閉じ終えるのを待って、私は走り出しました。私の首と橇につけられたおそろいのベルが、きれいなハーモニーを響かせます。
「そういえば、ニコル」
「んー?」
「セント・ニコライという人は、確か子どもを守護する聖人の名前でしたよね?」
「うん。そうだよ」
後ろのニコルの気配がやわらかくなります。これは、笑っているときの気配。長いつきあいですから、顔を見なくても分かってしまいます。
「だからサンタは子どもにプレゼントを配るんだ。子どもが好きだからね」
つられて、私もつい笑ってしまいました。
「では来年までに、子どもに受けのいいプレゼントでも作りましょうか。あのぬいぐるみじゃあ、素直な子じゃないと納得してくれませんよ」
「えー?僕はけっこう気に入ってるんだけどなぁ。一番うまくいったのを特別にあげたのに」
「いつもはものをあげないのに、慣れないことをするからですよ」
まだ納得がいかない様子の主人に笑いながら、私は空を翔けます。4本の脚に、主人の仕事の手伝いができることの誇りを込めて。
「でもニコル、今年もお疲れ様でした」
「ありがとう。トーンこそ、お疲れ様でした」
こんなことを言われると、どうしたらいいのか分からなくなるので、正直やめてほしいのですが。
結局答えないまま、私は脚を早めました。いきなり上がったスピードに主人が驚いたようですが、そんなことは知ったことではありません。こんな朴念仁にこれからもつきあわなければならないわが身を思うと、本当に溜め息が出ます。
一路雪国の家を目指しながら、私はわざとスピードを上げて冬の空を翔けていきました。後ろで悲鳴をあげている主人——My Dear Santaにつきあえるトナカイなんて、私くらいしかいないってものです。
Thanks for your reading!
I wish your happy X'mas and New Year!!
<2003年12月24日>
強く明るく輝いているもの、ほのかな暖かさをたたえているもの。満天の星空に似たそれは、この望遠鏡でだけ見ることのできる人の心が持つ望みの光。ひとつとして同じもののないそれは、あるいは本物の星以上に人を導くしるべなのかもしれません。
色とりどりの光を放つ望みの中から、私はただひとつ、最も輝きの強いものを探します。輝きの強さは望みの強さ。私たちを世界で一番必要としている人——今年のお客様を求めて、しばし望遠鏡をさまよわせます。
「お疲れさま、トーン」
後ろからかけられた声に振り返ると、家へと続く天窓から見慣れた顔がのぞいていました。
「今年のお客さんは見つかった?」
「いいえ、残念ながらまだです」
「そう。ま、気長に探そうよ。寒かったよね?ココアを作ったんだけど、一緒に飲まない?」
気の抜けるような笑顔を浮かべた主人は湯気の立つマグカップを両手に持って屋根に登ってきました。降り積もった雪に今にも足を取られてしまいそうで、危なっかしいことこの上ありません。はらはらしている私の心中などまったくお構いなしに、主人は何とか無事に私の隣までやって来て雪の上に座り込むことに成功しました。マグカップを脇に置いた手が、私の背中に触れます。
「すっかり冷えちゃったようだね。お客さん探し、交代しようか」
「いいえ、まだ大丈夫です。ニコルこそ、風邪など引かないよう暖かくしてくださいね」
主人の手の暖かさを感じながら、私は差し出されたカップを引き寄せました。一口飲み込むと、じんとしたぬくもりが体中に広がっていきます。
「にしても、毎年お客さん探しには苦労するよね。クリスマスはもう明日だっていうのに」
言いながら、主人は望遠鏡を手に取ってレンズを覗き込みました。
「やあ、いつ見てもきれいだねぇ」
のんきな主人の言葉に適当に相槌を入れながら、私は本物の星空を見上げました。冬の澄んだ空気の中、星はただ静かにまたたいています。
「……あ」
それまであちこちを見回していた望遠鏡が、ぴたりと止まりました。
「トーン、見つけたよ。今年のお客さん」
「え、本当ですか」
差し出された望遠鏡に目を当てると、確かにひときわ強く輝く光が見えました。純白に輝く一等星のような光には、望みが叶うよう一途な祈りさえもがこめられているように見えます。確かに、この方なら今年のお客様として申し分ないでしょう。
「では早速準備をしましょうか。ニコルも衣装を着て、身だしなみを整えてくださいね」
「うん、分かってる。橇の用意はまかせたよ」
言って、主人は立ち上がりました。私もマグカップを取って天窓へと向かいます。
「ニコル、入り口近くの雪は滑りやすくなってますから気をつけてくださいね」
「ありがとうトーン。でも大丈夫だよ」
一足先に家に入った私に笑いかけて、主人は天窓をくぐろうと身をかがめました。その瞬間、部屋の空気に暖められて解けた雪に足を取られて、主人は見事なしりもちをついてしまいました。ああ、だから言ったのに。
「どこが大丈夫なんですか、まったく。立てますか?」
「うん、何とか……うわぁっ!」
立ち上がりかけたのもつかの間、再び足を滑らせた主人は私の体につかまる暇もなく体のバランスを崩して転んでしまいました。しかも今度は勢いあまって屋根から落ちてしまったようです。天井の上で派手な音が響き、窓の下に一直線。さすがの私もあわてて窓から顔を出しました。
「大丈夫ですか、ニコル?」
「ううん、何とかね」
屋根の下の深い雪に大きな穴を作った主人は、案外元気に起き上がってきました。しかしその格好は雪まみれになってしまって、なんとも情けない姿になっています。
「……衣装に着替える前に、熱いお風呂に入った方がよさそうですね」
言葉にため息が混じるのは仕方のないことでしょう。ああもう、本当に手間のかかる人なのだから。
「ごめんね、トーン」
遠くから主人の申し訳なさそうな声が聞こえてきます。
「謝るより先に、早く雪を払って暖炉にあたってください」
そう、明日は年に一度の大事な仕事の日。主人に最良のコンディションで仕事をしてもらうためにも、こんなところで風邪など引いている場合ではありません。私はできる限り早く主人をお風呂に入れるため、急いでバスルームへと向かいました。
色とりどりの光を放つ望みの中から、私はただひとつ、最も輝きの強いものを探します。輝きの強さは望みの強さ。私たちを世界で一番必要としている人——今年のお客様を求めて、しばし望遠鏡をさまよわせます。
「お疲れさま、トーン」
後ろからかけられた声に振り返ると、家へと続く天窓から見慣れた顔がのぞいていました。
「今年のお客さんは見つかった?」
「いいえ、残念ながらまだです」
「そう。ま、気長に探そうよ。寒かったよね?ココアを作ったんだけど、一緒に飲まない?」
気の抜けるような笑顔を浮かべた主人は湯気の立つマグカップを両手に持って屋根に登ってきました。降り積もった雪に今にも足を取られてしまいそうで、危なっかしいことこの上ありません。はらはらしている私の心中などまったくお構いなしに、主人は何とか無事に私の隣までやって来て雪の上に座り込むことに成功しました。マグカップを脇に置いた手が、私の背中に触れます。
「すっかり冷えちゃったようだね。お客さん探し、交代しようか」
「いいえ、まだ大丈夫です。ニコルこそ、風邪など引かないよう暖かくしてくださいね」
主人の手の暖かさを感じながら、私は差し出されたカップを引き寄せました。一口飲み込むと、じんとしたぬくもりが体中に広がっていきます。
「にしても、毎年お客さん探しには苦労するよね。クリスマスはもう明日だっていうのに」
言いながら、主人は望遠鏡を手に取ってレンズを覗き込みました。
「やあ、いつ見てもきれいだねぇ」
のんきな主人の言葉に適当に相槌を入れながら、私は本物の星空を見上げました。冬の澄んだ空気の中、星はただ静かにまたたいています。
「……あ」
それまであちこちを見回していた望遠鏡が、ぴたりと止まりました。
「トーン、見つけたよ。今年のお客さん」
「え、本当ですか」
差し出された望遠鏡に目を当てると、確かにひときわ強く輝く光が見えました。純白に輝く一等星のような光には、望みが叶うよう一途な祈りさえもがこめられているように見えます。確かに、この方なら今年のお客様として申し分ないでしょう。
「では早速準備をしましょうか。ニコルも衣装を着て、身だしなみを整えてくださいね」
「うん、分かってる。橇の用意はまかせたよ」
言って、主人は立ち上がりました。私もマグカップを取って天窓へと向かいます。
「ニコル、入り口近くの雪は滑りやすくなってますから気をつけてくださいね」
「ありがとうトーン。でも大丈夫だよ」
一足先に家に入った私に笑いかけて、主人は天窓をくぐろうと身をかがめました。その瞬間、部屋の空気に暖められて解けた雪に足を取られて、主人は見事なしりもちをついてしまいました。ああ、だから言ったのに。
「どこが大丈夫なんですか、まったく。立てますか?」
「うん、何とか……うわぁっ!」
立ち上がりかけたのもつかの間、再び足を滑らせた主人は私の体につかまる暇もなく体のバランスを崩して転んでしまいました。しかも今度は勢いあまって屋根から落ちてしまったようです。天井の上で派手な音が響き、窓の下に一直線。さすがの私もあわてて窓から顔を出しました。
「大丈夫ですか、ニコル?」
「ううん、何とかね」
屋根の下の深い雪に大きな穴を作った主人は、案外元気に起き上がってきました。しかしその格好は雪まみれになってしまって、なんとも情けない姿になっています。
「……衣装に着替える前に、熱いお風呂に入った方がよさそうですね」
言葉にため息が混じるのは仕方のないことでしょう。ああもう、本当に手間のかかる人なのだから。
「ごめんね、トーン」
遠くから主人の申し訳なさそうな声が聞こえてきます。
「謝るより先に、早く雪を払って暖炉にあたってください」
そう、明日は年に一度の大事な仕事の日。主人に最良のコンディションで仕事をしてもらうためにも、こんなところで風邪など引いている場合ではありません。私はできる限り早く主人をお風呂に入れるため、急いでバスルームへと向かいました。
煌く星々に焦がれて、幾度手を伸ばしたことだろう。
宇宙へ——
そして掲げ続けた腕を、幾度失望と共に下ろしたことだろう。
それは追い続けても手に触れることのできない、憧憬によく似ていた。
ビアンカは降るような星空を見上げ、ため息をついた。遠くから賑やかなパーティーの喧騒が聞こえてくる。白い息を吐いて、ビアンカは街灯の明かりから外れた丘へと向かって歩き始めた。今は、独りになりたかった。
ここは国立の宇宙飛行士訓練校だ。天文台も併設されているせいで周りには何もなく、丘ばかりが連なっている。漆黒の闇が描くのは丘の稜線。その影を、星々をちりばめた薄闇の空が浮かび上がらせている。明るいのは、丘の一つのふもとにある学校だけ。今夜が特に賑やかなのは、クリスマスイブのパーティーだけが原因ではない。
今日、12月24日は訓練生が待ち焦がれた選抜試験の結果発表日だった。10人の生徒の中で、選ばれるのはたった1人。訓練生ならば誰もが夢見る、宇宙への切符。不安とそれ以上の期待を胸にこの日を迎えたビアンカだったが、結果は——
「キャプテン・ポーラスタ……」
白いため息混じりに、その名をつぶやく。同時にこらえようのない悔しさと悲しみが襲ってきて、ビアンカは思わず足を止めそうになった。それを無理矢理励まして、がむしゃらに丘を登っていく。
見た目よりもかなりきつい斜面を登るのに疲れて、ビアンカはその場に座り込んだ。訓練生にとっては宵の口でも、一般の人にとっては既に夜更けといっても良い時間帯だ。降りた霜の寒気がじんわりと伝わってくる。
毛糸の帽子を深くかぶって、ビアンカは思い切って寝転がってみた。寒かったが、丘のてっぺんに隠れてパーティーの物音は聞こえなくなった。目を閉じて、腕を空へと掲げてみる。頭の中で星座をイメージして、指を指していく。
「北の空には北極星。北斗七星に、オリオン座。おおいぬ座のシリウス、ベテルギウスにプロキオン……」
「へえ、すごいなあ、全部当たってるよ。目で見なくてもわかるものなんだねぇ」
突然横から掛けられた声に、ビアンカは跳ね起きた。
「誰だっ!?」
一瞬訓練生の同期かとも思ったが、違うようだ。いつの間に姿を現したのか、ビアンカのすぐ横に一人の青年が立っていた。見たことのない顔だ。ご丁寧に赤いサンタの衣装をまとって、緊張感のかけらもない笑みを浮かべている。
「僕? 僕はサンタのニコルっていうんだ。君は?」
「さ、サンタだって?」
最初の驚きが通り過ぎると、後に残ったのは目の前の自称サンタに対する警戒心だけだった。ビアンカはニコルと名乗った青年から身を引いて距離を取った。少しは冷静になった頭で考えて、納得のいく答えを探し出す。
「そうか、パーティーの余興で呼ばれたサンタだな。道にでも迷ったのか?学校ならあっちの丘の向こうにあるぞ」
そっけないビアンカの答えに、しかしニコルは首を振った。
「パーティーに呼ばれた? ううん違うよ、僕は君に会うために来たんだ」
「あたしに会うため?」
ニコルはうなずいた。
「君は僕の今年のお客さんだから。君の願いを叶えるため、僕たちは来たんだよ」
「……僕たち?」
ビアンカの言葉に合わせるように、ニコルの後ろから1頭のトナカイが進み出た。首に下げたベルから澄んだ音を響かせながら、トナカイはビアンカの目を覗き込む。
「驚かせてしまってすみません。私はトーン。ニコルのパートナーです」
その口から発せられた言葉に、ビアンカは目を見開いた。
「トナカイがしゃべってる……? そんな、非科学的な」
「うん。僕らは本物のサンタとトナカイだからね」
ビアンカはめまいを感じた。仮にも自分は宇宙飛行士の卵、科学者の端くれだ。なのに目の前のこの非現実的な事態は一体何なんだ。試験に落ちたショックでどうにかなってしまったのだろうか。
「ねえお姉さん、僕らは君の強い願いに引き寄せられてここに来たんだ。何か強く願っていることはない?」
頭を抱えているビアンカのことはまったく気にする様子もなく、ニコルは笑顔で問いかけた。
「ね……願い?」
「そう。僕は物では満たされない人の願いを叶えるサンタだから。プレゼントをあげることはできないけれど、別の形で君の倖せを作る手助けは出来るかもしれない。君が持っている強い願い、僕らの仕事はそれを叶えることなんだ」
「あなたの心からは強い願いの光が見えました。何か、強く望んでいることがあるのでしょう。私たちにその願いを教えていただけませんか」
強く願っていたこと。それを思い出した時、ビアンカはすっと心が冷えていくのを感じた。
そう、たった一つだけ、ビアンカが望み続けたことがあった。
——宇宙へ。
これがただの飛行なら、たとえ試験に落ちても次のチャンスに向けてまた勉強しなおすだけの話だ。しかしビアンカには、どうしても今回の飛行に受からなければならない理由があった。
——あの人と一緒に、宇宙へ。
ビアンカはぎり、と奥歯を噛み締めてニコルから目を逸らした。握り締めた指先が震えているのは、寒さのせいだけではない。
「願いを叶えるサンタなんて、そんなのいるわけないだろうが。仮にそれが本当だとしても、あたしの願いは人に叶えてもらうようなものじゃない。自分で努力して手に入れるべきものだ。それに——」
試験の結果はもう決定してしまったのだ。今更覆るはずもない。
「もう遅いんだよ。あたしがこれまでやってきたことは、すべて無駄になってしまったんだから」
ビアンカのすべてを拒絶するような態度にニコルとトーンが顔を見合わせる。深深と冷える夜更けの丘の上に、気まずい沈黙が流れた。
「確かに、願いっていうのは本当なら自分で叶えなきゃならないものだよね」
口を開いたのはニコルだった。頭に載せたサンタの赤帽子の先っぽを指先でくるくる回しながらビアンカの顔を覗き込む。
「それを分かっているだけでも君は十分えらいと思うよ。でも、時々はがんばってもどうしようもないこともある。年に一度、クリスマスにくらいは僕らががんばっている人たちを助けてもいいんじゃないかな」
「そうですよ。無駄かどうかは私たちにあなたの願いを話してみてから決めてもいいのではないですか?」
ニコルとトーンの視線の先、ビアンカはそっぽを向いたまま答えない。辛抱強く、二人は待つ。
「……星を、追いかけるようなものなんだ」
ぽつり、とビアンカが言う。
「あたしは、あたしに夢をくれた人を追いかけてここまで来た。宇宙飛行士の訓練校に入って、訓練を積んで……すべてはあの人、キャプテン・ポーラスタに認めてもらいたいからだった」
ゆっくりとビアンカの目線が上がる。夜空を映した瞳の先、そこには淡く輝く北極星があった。
「ようビアンカ。試験勉強は順調か?」
親しげにかけられた声に、ビアンカは振り返った。今日の訓練を終えたばかりの同期生の向こうで、頭ひとつ背の高い三十男が手を上げている。
「キャプテン・ポーラスタ。珍しいですね、訓練室に顔を出すなんて」
ビアンカは男に小走りで近づいた。見上げた男は無精ひげの生えたあごをさすりながら、にやりと笑って見せる。
「なぁに、ひよっ子どもががんばってる姿を一目見ておこうと思ってな。部下の仕上がりを確認するのも、責任者の大事な仕事だし」
男の手がぽん、とビアンカの頭に置かれる。
「訓練の様子を見せてもらったが、お前はなかなか筋がいい。お前になら安心してサポートを任せられそうだ」
「はっ、はい、ありがとうございます!」
「試験は来週だったな。ま、がんばって乗組員になってくれや。期待してるぜ」
褒められた嬉しさと興奮で頬を染めているビアンカの後ろで、今になって男に気づいたらしい同期たちの声が上がった。
「あ、キャプテン・ポーラスタだ」
「本当だ。キャプテン、今日は何の用ですか?」
「用がなきゃ来ちゃいけないのか、俺は。見学だよ、見学」
男はビアンカの横をすり抜けて、同期たちの方へ行ってしまった。その大きな背中を見るともなしに追いかけて、ビアンカは小さくため息をついた。
同期たちは皆若い。一人だけ年代が違うこともあって、男の姿はとても目立った。いや、目立っているのは年齢のせいだけではない。軽口を叩きながら同期たちとじゃれている男は、他の誰より圧倒的な存在感があった。決して人を威圧するようなものではないが、ただそこにいるだけで大きな安心感を与えてくれる不思議な力。事実、試験を控えてぴりぴりしていた同期たちの表情に久しぶりに笑顔が戻っている。
一週間後の試験に通れば乗ることになる宇宙船の船長、キャプテン・ポーラスタ。ビアンカが誰よりも憧れ、尊敬している宇宙飛行士。それが目の前の男だった。
別に本名があるにもかかわらず、誰からも二つ名である”キャプテン・ポーラスタ”と呼ばれるほどに、彼はこれまでに大きな業績を挙げてきた。北極星とは決して狂わない指針のこと。十代で初めて宇宙への切符を手にして以来、彼が確立した技術や発見した新事実は数え切れない。彼は文字通りこの世界で生きる者にとっての巨星であり続けた。
しかし彼はこの次の飛行を最後に現役を引退する。今回初めて選抜試験に臨むビアンカにとって、彼と一緒に宇宙を飛ぶチャンスはこの一度きりしかない。
きっと、この試験に受かってみせる。そして彼と一緒に宇宙から地球を見るのだ。
その夢のためにビアンカは宇宙飛行士を目指し、ここまで来たのだから。
宇宙へ——
そして掲げ続けた腕を、幾度失望と共に下ろしたことだろう。
それは追い続けても手に触れることのできない、憧憬によく似ていた。
ビアンカは降るような星空を見上げ、ため息をついた。遠くから賑やかなパーティーの喧騒が聞こえてくる。白い息を吐いて、ビアンカは街灯の明かりから外れた丘へと向かって歩き始めた。今は、独りになりたかった。
ここは国立の宇宙飛行士訓練校だ。天文台も併設されているせいで周りには何もなく、丘ばかりが連なっている。漆黒の闇が描くのは丘の稜線。その影を、星々をちりばめた薄闇の空が浮かび上がらせている。明るいのは、丘の一つのふもとにある学校だけ。今夜が特に賑やかなのは、クリスマスイブのパーティーだけが原因ではない。
今日、12月24日は訓練生が待ち焦がれた選抜試験の結果発表日だった。10人の生徒の中で、選ばれるのはたった1人。訓練生ならば誰もが夢見る、宇宙への切符。不安とそれ以上の期待を胸にこの日を迎えたビアンカだったが、結果は——
「キャプテン・ポーラスタ……」
白いため息混じりに、その名をつぶやく。同時にこらえようのない悔しさと悲しみが襲ってきて、ビアンカは思わず足を止めそうになった。それを無理矢理励まして、がむしゃらに丘を登っていく。
見た目よりもかなりきつい斜面を登るのに疲れて、ビアンカはその場に座り込んだ。訓練生にとっては宵の口でも、一般の人にとっては既に夜更けといっても良い時間帯だ。降りた霜の寒気がじんわりと伝わってくる。
毛糸の帽子を深くかぶって、ビアンカは思い切って寝転がってみた。寒かったが、丘のてっぺんに隠れてパーティーの物音は聞こえなくなった。目を閉じて、腕を空へと掲げてみる。頭の中で星座をイメージして、指を指していく。
「北の空には北極星。北斗七星に、オリオン座。おおいぬ座のシリウス、ベテルギウスにプロキオン……」
「へえ、すごいなあ、全部当たってるよ。目で見なくてもわかるものなんだねぇ」
突然横から掛けられた声に、ビアンカは跳ね起きた。
「誰だっ!?」
一瞬訓練生の同期かとも思ったが、違うようだ。いつの間に姿を現したのか、ビアンカのすぐ横に一人の青年が立っていた。見たことのない顔だ。ご丁寧に赤いサンタの衣装をまとって、緊張感のかけらもない笑みを浮かべている。
「僕? 僕はサンタのニコルっていうんだ。君は?」
「さ、サンタだって?」
最初の驚きが通り過ぎると、後に残ったのは目の前の自称サンタに対する警戒心だけだった。ビアンカはニコルと名乗った青年から身を引いて距離を取った。少しは冷静になった頭で考えて、納得のいく答えを探し出す。
「そうか、パーティーの余興で呼ばれたサンタだな。道にでも迷ったのか?学校ならあっちの丘の向こうにあるぞ」
そっけないビアンカの答えに、しかしニコルは首を振った。
「パーティーに呼ばれた? ううん違うよ、僕は君に会うために来たんだ」
「あたしに会うため?」
ニコルはうなずいた。
「君は僕の今年のお客さんだから。君の願いを叶えるため、僕たちは来たんだよ」
「……僕たち?」
ビアンカの言葉に合わせるように、ニコルの後ろから1頭のトナカイが進み出た。首に下げたベルから澄んだ音を響かせながら、トナカイはビアンカの目を覗き込む。
「驚かせてしまってすみません。私はトーン。ニコルのパートナーです」
その口から発せられた言葉に、ビアンカは目を見開いた。
「トナカイがしゃべってる……? そんな、非科学的な」
「うん。僕らは本物のサンタとトナカイだからね」
ビアンカはめまいを感じた。仮にも自分は宇宙飛行士の卵、科学者の端くれだ。なのに目の前のこの非現実的な事態は一体何なんだ。試験に落ちたショックでどうにかなってしまったのだろうか。
「ねえお姉さん、僕らは君の強い願いに引き寄せられてここに来たんだ。何か強く願っていることはない?」
頭を抱えているビアンカのことはまったく気にする様子もなく、ニコルは笑顔で問いかけた。
「ね……願い?」
「そう。僕は物では満たされない人の願いを叶えるサンタだから。プレゼントをあげることはできないけれど、別の形で君の倖せを作る手助けは出来るかもしれない。君が持っている強い願い、僕らの仕事はそれを叶えることなんだ」
「あなたの心からは強い願いの光が見えました。何か、強く望んでいることがあるのでしょう。私たちにその願いを教えていただけませんか」
強く願っていたこと。それを思い出した時、ビアンカはすっと心が冷えていくのを感じた。
そう、たった一つだけ、ビアンカが望み続けたことがあった。
——宇宙へ。
これがただの飛行なら、たとえ試験に落ちても次のチャンスに向けてまた勉強しなおすだけの話だ。しかしビアンカには、どうしても今回の飛行に受からなければならない理由があった。
——あの人と一緒に、宇宙へ。
ビアンカはぎり、と奥歯を噛み締めてニコルから目を逸らした。握り締めた指先が震えているのは、寒さのせいだけではない。
「願いを叶えるサンタなんて、そんなのいるわけないだろうが。仮にそれが本当だとしても、あたしの願いは人に叶えてもらうようなものじゃない。自分で努力して手に入れるべきものだ。それに——」
試験の結果はもう決定してしまったのだ。今更覆るはずもない。
「もう遅いんだよ。あたしがこれまでやってきたことは、すべて無駄になってしまったんだから」
ビアンカのすべてを拒絶するような態度にニコルとトーンが顔を見合わせる。深深と冷える夜更けの丘の上に、気まずい沈黙が流れた。
「確かに、願いっていうのは本当なら自分で叶えなきゃならないものだよね」
口を開いたのはニコルだった。頭に載せたサンタの赤帽子の先っぽを指先でくるくる回しながらビアンカの顔を覗き込む。
「それを分かっているだけでも君は十分えらいと思うよ。でも、時々はがんばってもどうしようもないこともある。年に一度、クリスマスにくらいは僕らががんばっている人たちを助けてもいいんじゃないかな」
「そうですよ。無駄かどうかは私たちにあなたの願いを話してみてから決めてもいいのではないですか?」
ニコルとトーンの視線の先、ビアンカはそっぽを向いたまま答えない。辛抱強く、二人は待つ。
「……星を、追いかけるようなものなんだ」
ぽつり、とビアンカが言う。
「あたしは、あたしに夢をくれた人を追いかけてここまで来た。宇宙飛行士の訓練校に入って、訓練を積んで……すべてはあの人、キャプテン・ポーラスタに認めてもらいたいからだった」
ゆっくりとビアンカの目線が上がる。夜空を映した瞳の先、そこには淡く輝く北極星があった。
「ようビアンカ。試験勉強は順調か?」
親しげにかけられた声に、ビアンカは振り返った。今日の訓練を終えたばかりの同期生の向こうで、頭ひとつ背の高い三十男が手を上げている。
「キャプテン・ポーラスタ。珍しいですね、訓練室に顔を出すなんて」
ビアンカは男に小走りで近づいた。見上げた男は無精ひげの生えたあごをさすりながら、にやりと笑って見せる。
「なぁに、ひよっ子どもががんばってる姿を一目見ておこうと思ってな。部下の仕上がりを確認するのも、責任者の大事な仕事だし」
男の手がぽん、とビアンカの頭に置かれる。
「訓練の様子を見せてもらったが、お前はなかなか筋がいい。お前になら安心してサポートを任せられそうだ」
「はっ、はい、ありがとうございます!」
「試験は来週だったな。ま、がんばって乗組員になってくれや。期待してるぜ」
褒められた嬉しさと興奮で頬を染めているビアンカの後ろで、今になって男に気づいたらしい同期たちの声が上がった。
「あ、キャプテン・ポーラスタだ」
「本当だ。キャプテン、今日は何の用ですか?」
「用がなきゃ来ちゃいけないのか、俺は。見学だよ、見学」
男はビアンカの横をすり抜けて、同期たちの方へ行ってしまった。その大きな背中を見るともなしに追いかけて、ビアンカは小さくため息をついた。
同期たちは皆若い。一人だけ年代が違うこともあって、男の姿はとても目立った。いや、目立っているのは年齢のせいだけではない。軽口を叩きながら同期たちとじゃれている男は、他の誰より圧倒的な存在感があった。決して人を威圧するようなものではないが、ただそこにいるだけで大きな安心感を与えてくれる不思議な力。事実、試験を控えてぴりぴりしていた同期たちの表情に久しぶりに笑顔が戻っている。
一週間後の試験に通れば乗ることになる宇宙船の船長、キャプテン・ポーラスタ。ビアンカが誰よりも憧れ、尊敬している宇宙飛行士。それが目の前の男だった。
別に本名があるにもかかわらず、誰からも二つ名である”キャプテン・ポーラスタ”と呼ばれるほどに、彼はこれまでに大きな業績を挙げてきた。北極星とは決して狂わない指針のこと。十代で初めて宇宙への切符を手にして以来、彼が確立した技術や発見した新事実は数え切れない。彼は文字通りこの世界で生きる者にとっての巨星であり続けた。
しかし彼はこの次の飛行を最後に現役を引退する。今回初めて選抜試験に臨むビアンカにとって、彼と一緒に宇宙を飛ぶチャンスはこの一度きりしかない。
きっと、この試験に受かってみせる。そして彼と一緒に宇宙から地球を見るのだ。
その夢のためにビアンカは宇宙飛行士を目指し、ここまで来たのだから。
ビアンカの溜息が冷えた空気に溶ける。
「フライトに選ばれた奴——ポールよりもあたしは遅くまで残って訓練してたし、試験だってうまくいった。それなのに」
深く息をついて、ビアンカは顔を覆った。そのままずるずるとその場に座り込んでしまう。
「ああ、あたし、何言ってるんだろ。あんたたちにこんな愚痴こぼしたって何にもならないのに」
「……お姉さんは強い人だね。ライバルの悪口を言うこともできるのに、それを自分に許さないなんて」
穏やかに微笑んだまま、ニコルが言った。
「ねえ、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかな? 自分への厳しさも大切だけど、時々は優しくしてあげなきゃ疲れちゃうよ」
「うるさいサンタ。あんたに何が分かるっていうんだ」
肩に載せられたニコルの手を邪険に払って、ビアンカは立ち上がった。
「ばからしい。帰る」
「ちょっと待ってください」
丘を下りかけたビアンカの前に、トーンが立ちふさがった。
「いいのですか? ここで帰ってしまってはあなたの悲しみは癒されないままです。ベストを尽くして、それでも後悔しているのなら、最後にもうひとつくらいチャレンジしてみてもいいのではないですか?」
「そうだよ。ものはためしで僕たちのプレゼントを受け取ってもらえないかな。これまでお姉さんはすごく頑張ってきたんだから、僕としてもぜひ倖せになってほしいし」
「倖せ……だって?」
うん、とニコルが頷く。
「僕のプレゼントはね、あげた人の倖せのつながりでできているんだ。今年お姉さんにあげるプレゼントは去年のお客さんの倖せから作られたものだし、去年のお客さんのプレゼントはその前のお客さんの倖せから、っていう風にね」
だから、とニコルは続ける。
「お姉さんが僕らのプレゼントで倖せになれたら、それを僕らに少しだけ分けてほしいんだ。それを元にして、来年のお客さんのプレゼントが作られるから」
「へえ。あたしを倖せにできるっていう自信があるわけ?」
「うん。きっとね」
険のある視線を変えないビアンカに、ニコルは力の抜けるような笑みを向けた。その笑顔を見つめていたビアンカは、やがて根負けしたように首を振った。
「分かった。受け取ってやるよ。そこのトナカイが言うように、目の前にチャンスがあるのにやってみないってのは後味が悪いしな」
「ありがとう」
ニコルが嬉しそうに笑った。その心の底からのような笑みに、ビアンカは呆れる。
「普通、礼はもらう方が言うもんじゃないのか? あんたがあたしに言ってどうするんだよ」
「そんなことないよ。プレゼントをあげることがサンタの仕事だから。受け取ってもらって嬉しいのは僕も同じ」
返す言葉を失って、ビアンカは沈黙した。その目の前でニコルはトーンにくくりつけた橇に向き直った。橇の半分以上を占領した巨大な白い袋を漁りながらニコルが訊く。
「ねえ、お姉さんの名前は何ていうの?」
「……ビアンカ」
そう、とだけ答えたニコルは袋の中から一個の包みを取り出した。振り返って、一抱えはあるその包みをビアンカへと手渡す。
「ねえ、ビアンカは何で宇宙飛行士になろうと思ったの?」
「さっき言ったじゃないか。キャプテン・ポーラスタに憧れたからだって」
「うん。だけどそれって本当にはじめに思ったことなのかな? キャプテンの人柄を知ったのってもっと後のことなんじゃない?」
「……それは」
虚を突かれてビアンカは絶句した。そもそものはじまり。夢の最初はいつ、どこだっただろう?
「何でもそうだと思うけど、はじまりを覚えているかどうかって結構大事なことだと思うんだ。忘れちゃったのなら、思い出せるといいね」
返事をしようとした瞬間、ビアンカは包みが細かく震えているのに気づいて腕の中に目を落とした。長方形の箱は深い緑の包み紙で覆われ、シンプルな赤のループリボンが右上にくっついている。その包装紙がひとりでに開いていく。その隙間からのぞいた箱からは光の粒子があふれ出して、闇に慣れたビアンカの瞳を覆っていく。
「なっ……!」
ばさり、と音を立てて緑の紙が吹き飛んだ。箱の内側から膨れ上がった光が頬を撫でた瞬間、ビアンカはニコルの声を聞いた。
「君に優しい思い出と未来を。ハッピークリスマス、ビアンカ」
その先は光の洪水にまぎれて、聞こえなかった。
どこからか、懐かしい響きのチャイムが聞こえる。ビアンカはそっと目を開いた。真っ白な光が目に入ったが、先程目を灼いたものほど強くはない。ゆっくりと辺りを見回す。たくさんの椅子と机、それに幼さの残る声ではしゃぐ若者たち。どうやらここは学校のようだ。
「……なんだ、ここは?」
先程まで夜の訓練所近くの丘に立っていたはずだ。そう自分に確認しながら、ビアンカは怪訝な顔のままきょろきょろする。壁際に教師らしい姿が数人見える以外、大人は見当たらない。明らかにビアンカだけが浮いているはずなのに、周りにいる生徒たちが気にしている様子もなかった。
そこまで考えて、ふとビアンカは気づいた。
いや、違う。気にしないのではなく、見えていないのだ。
その証拠に、さっきから誰一人として目が合わない。ビアンカがいる場所を、まるで何もないかのように視線が素通りしていく。
何故こんな場所に。何故この場にいる人間に自分が見えていないのか。こんなことになった原因は、ひとつしか考えられなかった。
「なんなんだよ。あのサンタ、一体何をしたって言うんだよ!?」
半ばパニックになりながら、元凶の姿を探す。今は記憶の中のあの笑顔が悪魔のそれに思えた。
やがてビアンカは、見知った顔を見つけて動きを止めた。あのサンタでもトナカイでもなく、もっと身近な顔。
「……あたし?」
視線の先には、まだ子供の面影を残した自分自身の姿があった。他の生徒と違って友人と話すでもなく、ぽつんと一人すみっこに座っている。夢も希望もないといった風情の、退屈そうな眼差し。そう、確かに昔、そういう表情をしていたことがあった。
ビアンカは改めて周囲を見回した。椅子、机、教師や生徒の顔ぶれ、チャイムの音。そうと気づけばここがどこかはすぐに分かった。懐かしいはずだ。ここはビアンカが通っていたジュニアスクールの講堂だ。
「ここは、過去?」
そうとしか考えられなかった。
「ありえない、そんな非科学的なこと……」
ビアンカがぶつぶつと呟く間にも、講堂にはどんどん生徒が入ってくる。やがて席がいっぱいになり、厚い扉が閉められると徐々に場は静まっていった。
校長が壇に登ったのを見て、ビアンカは思考を中断して隅の方へと移動した。見えないと分かっていても、なんとなく中央にはいづらい。目の前に昔の自分を眺めながら、とりあえず校長の話が始まるのを待つ。
「えー、本日はお日柄もよくー」
毒にも薬にもならない声を聞き流しながら、ビアンカは再び考え込んだ。何がどうなって過去などに迷い込んだのかは分からない。しかし元の丘へ戻る方法も分からない以上、下手に動くのも良くないように思えた。ではどうすれば良いか。結論が出ないまま、ビアンカの考えは同じところをぐるぐると回り続ける。
「——というわけで本日の講演者キャプテン・ポーラスタにおいでいただいたわけであります」
いきなり耳に馴染んだ名前が飛び込んできた。思わず顔を上げる。壇上には面白おかしくもない校長の顔。しかし彼に呼ばれて、頭をかきながら演壇へと上っていく男を認めた瞬間、ビアンカの脈拍は跳ね上がった。
「キャプテン……?」
「あー、マイクテスマイクテス」
校長から譲られたマイクを指先で叩く男は、見慣れた顔より幾分若かった。驚いたまま固まっているビアンカに気づいた様子もなく、客席から上がった拍手に適当に応えつつ話し始める。
「その……何だ、俺はこんなところでしゃべっちゃいるが、実はそんなに偉いわけじゃない。ついでに言うと人前でしゃべるのは苦手だ」
開口一番の講演者の発言に、会場は笑いに包まれた。笑っていないのは二人のビアンカだけ。過去のビアンカはつまらなさそうに、現在のビアンカはかぶりを振って。
この頃、男は既に何度も飛行に成功しているはずだ。宇宙空間で成し遂げた実験の数々、その結果を踏まえたたくさんの論文、それらによって彼の科学者としての地位が確立しつつある時期であることを現在のビアンカは知っている。
同時に人前でしゃべることが苦手という言葉が本当だということも知っていた。仲間内のパーティーの席ですら、興の乗った訓練生からスピーチに指名されるたび逃げ回っていた姿を思い出し、わけもなくビアンカの胸が締めつけられる。
「昨日の夜どんなことを話そうかと色々考えてみたんだが、いつの間にか寝ちまってな。おまけに寝坊したもんだから、どうにもまとまらないままここに立つ羽目になった。仕方ないから開き直って、思いつくまま話をしようと思う。退屈だったらすまん」
再び笑いの起こった会場に笑顔を返して、男は演壇に身を乗り出した。
「皆に訊きたい。星を見るのは好きか?」
男の視線がまっすぐにビアンカに向けられる。その指が自分を指しているのを認めてビアンカはうろたえた。自分の姿が男には見えているのだろうか。
「そこのあんた、つまらなそうだな。俺の話には興味がないか?」
「……別に」
過去のビアンカが大きく息を吐いて答える。その口調はあくまで冷め切っていて、関心を持っていないことが明らかだ。その声を聞いて、ようやくビアンカは男が現在の自分を指したのではないことに気付いた。
「そうか。そりゃ残念だ。俺は大好きなんだがな」
苦笑を浮かべながら男が言う。
「ガキの頃から空を見上げるのが好きでな。それが高じて、今じゃメシの種だ。何にもない大平原で見る夜空や、宇宙から見た地球ってのはそりゃすごいもんだぜ。初めて見た時、俺はただただ圧倒されて声も出せなかった」
一拍の呼吸をおいて、男は言葉を継いだ。
「だが、何気なく毎晩見上げる空ってのも案外捨てたもんじゃない。街中でも明るい星なら観測できるし、運が良ければ流れ星だって見える。きれいなものを見るとちょっとしたイヤなことなんて忘れちまえるだろ?」
男の口調は生き生きと弾んでいる。本当に好きなことを話題にしているからだろう、男は何の衒いもない様子で演壇から生徒たちに語りかける。
「ここにいる全員が星を眺めるのが好きじゃなくても構わない。だが、せめてひとつくらいは日常の中で倖せを感じられるようなものを持っていてほしい。何かにつまずいた時、それが意外なほど大きなしるべになる。まるでいつも頭の上で光っている星のようにな」
過去のビアンカは不思議なものでも見るような目で壇上を見つめていた。事実、解らなかったのだ。何故そんなにひとつのことに夢中になれるのか。どうしたらこんなに熱っぽく語れるのか。——どうやったら、そんなものが見つかるのか。
男はビアンカの周りにはいない種類の大人だった。こういう風に己の心を表せる大人をビアンカは知らない。思い浮かぶのは勉強を強制するばかりでちっとも褒めてくれない顔ばかり。彼らはビアンカに夢を語るどころか、そんなものを描くことすら禁じているように見えた。
示された道を疑問を持たずに歩むことを求め、それ以外は悪いことだと頭ごなしに決めつける大人がビアンカは嫌いだった。誂えられた道をなぞるしかない毎日が退屈で、だからと言って逸れることもできない自分自身のことも。
大人になるとはそういうこと。諦めにも似た思いが巣食った心を抱え、日々を過ごすうちにだんだんとビアンカの気力は萎えていった。不確定な夢など望まずに、堅実な現実を過ごすこと。それは確かに倖せのひとつの形だろう。
だがそれは、全ての倖せの形ではない。
「どんなことに倖せを感じるかってのは人それぞれだ。好きなことは一人一人違うし、ものの考え方だって違う。今好きなことがあるなら、それを大事にしてほしい。もし何も心当たりがないのなら、見つかるまで探してほしい。それがあるかどうかで人の生き方は随分違ったものになる」
壇上の男の言葉は揺るぎない力に満ちていた。その力こそがビアンカを導く光だった。無気力だった自分のしるべとなり、宇宙を目指させたもの。
その証に過去のビアンカの表情が目に見えて変わっていた。頬を上気させ、じっと男の言葉に耳を傾けている。ビアンカは思い出す。この講演をきっかけに星に興味を持つようになったことを。男と同じ道を辿れば、ああいう大人になれると信じたことを。
「ここにいる皆がいずれしるべとなる星を見つけられるよう祈っている。実り多い未来を過ごしてくれ」
そう結んで、男はマイクから身を引いた。拍手の中、照れた様子で演壇を降りていく。ビアンカはゆっくりと目を閉じた。いつの間にか置き去りにしていた忘れ物を見つけた気分だった。
「フライトに選ばれた奴——ポールよりもあたしは遅くまで残って訓練してたし、試験だってうまくいった。それなのに」
深く息をついて、ビアンカは顔を覆った。そのままずるずるとその場に座り込んでしまう。
「ああ、あたし、何言ってるんだろ。あんたたちにこんな愚痴こぼしたって何にもならないのに」
「……お姉さんは強い人だね。ライバルの悪口を言うこともできるのに、それを自分に許さないなんて」
穏やかに微笑んだまま、ニコルが言った。
「ねえ、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかな? 自分への厳しさも大切だけど、時々は優しくしてあげなきゃ疲れちゃうよ」
「うるさいサンタ。あんたに何が分かるっていうんだ」
肩に載せられたニコルの手を邪険に払って、ビアンカは立ち上がった。
「ばからしい。帰る」
「ちょっと待ってください」
丘を下りかけたビアンカの前に、トーンが立ちふさがった。
「いいのですか? ここで帰ってしまってはあなたの悲しみは癒されないままです。ベストを尽くして、それでも後悔しているのなら、最後にもうひとつくらいチャレンジしてみてもいいのではないですか?」
「そうだよ。ものはためしで僕たちのプレゼントを受け取ってもらえないかな。これまでお姉さんはすごく頑張ってきたんだから、僕としてもぜひ倖せになってほしいし」
「倖せ……だって?」
うん、とニコルが頷く。
「僕のプレゼントはね、あげた人の倖せのつながりでできているんだ。今年お姉さんにあげるプレゼントは去年のお客さんの倖せから作られたものだし、去年のお客さんのプレゼントはその前のお客さんの倖せから、っていう風にね」
だから、とニコルは続ける。
「お姉さんが僕らのプレゼントで倖せになれたら、それを僕らに少しだけ分けてほしいんだ。それを元にして、来年のお客さんのプレゼントが作られるから」
「へえ。あたしを倖せにできるっていう自信があるわけ?」
「うん。きっとね」
険のある視線を変えないビアンカに、ニコルは力の抜けるような笑みを向けた。その笑顔を見つめていたビアンカは、やがて根負けしたように首を振った。
「分かった。受け取ってやるよ。そこのトナカイが言うように、目の前にチャンスがあるのにやってみないってのは後味が悪いしな」
「ありがとう」
ニコルが嬉しそうに笑った。その心の底からのような笑みに、ビアンカは呆れる。
「普通、礼はもらう方が言うもんじゃないのか? あんたがあたしに言ってどうするんだよ」
「そんなことないよ。プレゼントをあげることがサンタの仕事だから。受け取ってもらって嬉しいのは僕も同じ」
返す言葉を失って、ビアンカは沈黙した。その目の前でニコルはトーンにくくりつけた橇に向き直った。橇の半分以上を占領した巨大な白い袋を漁りながらニコルが訊く。
「ねえ、お姉さんの名前は何ていうの?」
「……ビアンカ」
そう、とだけ答えたニコルは袋の中から一個の包みを取り出した。振り返って、一抱えはあるその包みをビアンカへと手渡す。
「ねえ、ビアンカは何で宇宙飛行士になろうと思ったの?」
「さっき言ったじゃないか。キャプテン・ポーラスタに憧れたからだって」
「うん。だけどそれって本当にはじめに思ったことなのかな? キャプテンの人柄を知ったのってもっと後のことなんじゃない?」
「……それは」
虚を突かれてビアンカは絶句した。そもそものはじまり。夢の最初はいつ、どこだっただろう?
「何でもそうだと思うけど、はじまりを覚えているかどうかって結構大事なことだと思うんだ。忘れちゃったのなら、思い出せるといいね」
返事をしようとした瞬間、ビアンカは包みが細かく震えているのに気づいて腕の中に目を落とした。長方形の箱は深い緑の包み紙で覆われ、シンプルな赤のループリボンが右上にくっついている。その包装紙がひとりでに開いていく。その隙間からのぞいた箱からは光の粒子があふれ出して、闇に慣れたビアンカの瞳を覆っていく。
「なっ……!」
ばさり、と音を立てて緑の紙が吹き飛んだ。箱の内側から膨れ上がった光が頬を撫でた瞬間、ビアンカはニコルの声を聞いた。
「君に優しい思い出と未来を。ハッピークリスマス、ビアンカ」
その先は光の洪水にまぎれて、聞こえなかった。
どこからか、懐かしい響きのチャイムが聞こえる。ビアンカはそっと目を開いた。真っ白な光が目に入ったが、先程目を灼いたものほど強くはない。ゆっくりと辺りを見回す。たくさんの椅子と机、それに幼さの残る声ではしゃぐ若者たち。どうやらここは学校のようだ。
「……なんだ、ここは?」
先程まで夜の訓練所近くの丘に立っていたはずだ。そう自分に確認しながら、ビアンカは怪訝な顔のままきょろきょろする。壁際に教師らしい姿が数人見える以外、大人は見当たらない。明らかにビアンカだけが浮いているはずなのに、周りにいる生徒たちが気にしている様子もなかった。
そこまで考えて、ふとビアンカは気づいた。
いや、違う。気にしないのではなく、見えていないのだ。
その証拠に、さっきから誰一人として目が合わない。ビアンカがいる場所を、まるで何もないかのように視線が素通りしていく。
何故こんな場所に。何故この場にいる人間に自分が見えていないのか。こんなことになった原因は、ひとつしか考えられなかった。
「なんなんだよ。あのサンタ、一体何をしたって言うんだよ!?」
半ばパニックになりながら、元凶の姿を探す。今は記憶の中のあの笑顔が悪魔のそれに思えた。
やがてビアンカは、見知った顔を見つけて動きを止めた。あのサンタでもトナカイでもなく、もっと身近な顔。
「……あたし?」
視線の先には、まだ子供の面影を残した自分自身の姿があった。他の生徒と違って友人と話すでもなく、ぽつんと一人すみっこに座っている。夢も希望もないといった風情の、退屈そうな眼差し。そう、確かに昔、そういう表情をしていたことがあった。
ビアンカは改めて周囲を見回した。椅子、机、教師や生徒の顔ぶれ、チャイムの音。そうと気づけばここがどこかはすぐに分かった。懐かしいはずだ。ここはビアンカが通っていたジュニアスクールの講堂だ。
「ここは、過去?」
そうとしか考えられなかった。
「ありえない、そんな非科学的なこと……」
ビアンカがぶつぶつと呟く間にも、講堂にはどんどん生徒が入ってくる。やがて席がいっぱいになり、厚い扉が閉められると徐々に場は静まっていった。
校長が壇に登ったのを見て、ビアンカは思考を中断して隅の方へと移動した。見えないと分かっていても、なんとなく中央にはいづらい。目の前に昔の自分を眺めながら、とりあえず校長の話が始まるのを待つ。
「えー、本日はお日柄もよくー」
毒にも薬にもならない声を聞き流しながら、ビアンカは再び考え込んだ。何がどうなって過去などに迷い込んだのかは分からない。しかし元の丘へ戻る方法も分からない以上、下手に動くのも良くないように思えた。ではどうすれば良いか。結論が出ないまま、ビアンカの考えは同じところをぐるぐると回り続ける。
「——というわけで本日の講演者キャプテン・ポーラスタにおいでいただいたわけであります」
いきなり耳に馴染んだ名前が飛び込んできた。思わず顔を上げる。壇上には面白おかしくもない校長の顔。しかし彼に呼ばれて、頭をかきながら演壇へと上っていく男を認めた瞬間、ビアンカの脈拍は跳ね上がった。
「キャプテン……?」
「あー、マイクテスマイクテス」
校長から譲られたマイクを指先で叩く男は、見慣れた顔より幾分若かった。驚いたまま固まっているビアンカに気づいた様子もなく、客席から上がった拍手に適当に応えつつ話し始める。
「その……何だ、俺はこんなところでしゃべっちゃいるが、実はそんなに偉いわけじゃない。ついでに言うと人前でしゃべるのは苦手だ」
開口一番の講演者の発言に、会場は笑いに包まれた。笑っていないのは二人のビアンカだけ。過去のビアンカはつまらなさそうに、現在のビアンカはかぶりを振って。
この頃、男は既に何度も飛行に成功しているはずだ。宇宙空間で成し遂げた実験の数々、その結果を踏まえたたくさんの論文、それらによって彼の科学者としての地位が確立しつつある時期であることを現在のビアンカは知っている。
同時に人前でしゃべることが苦手という言葉が本当だということも知っていた。仲間内のパーティーの席ですら、興の乗った訓練生からスピーチに指名されるたび逃げ回っていた姿を思い出し、わけもなくビアンカの胸が締めつけられる。
「昨日の夜どんなことを話そうかと色々考えてみたんだが、いつの間にか寝ちまってな。おまけに寝坊したもんだから、どうにもまとまらないままここに立つ羽目になった。仕方ないから開き直って、思いつくまま話をしようと思う。退屈だったらすまん」
再び笑いの起こった会場に笑顔を返して、男は演壇に身を乗り出した。
「皆に訊きたい。星を見るのは好きか?」
男の視線がまっすぐにビアンカに向けられる。その指が自分を指しているのを認めてビアンカはうろたえた。自分の姿が男には見えているのだろうか。
「そこのあんた、つまらなそうだな。俺の話には興味がないか?」
「……別に」
過去のビアンカが大きく息を吐いて答える。その口調はあくまで冷め切っていて、関心を持っていないことが明らかだ。その声を聞いて、ようやくビアンカは男が現在の自分を指したのではないことに気付いた。
「そうか。そりゃ残念だ。俺は大好きなんだがな」
苦笑を浮かべながら男が言う。
「ガキの頃から空を見上げるのが好きでな。それが高じて、今じゃメシの種だ。何にもない大平原で見る夜空や、宇宙から見た地球ってのはそりゃすごいもんだぜ。初めて見た時、俺はただただ圧倒されて声も出せなかった」
一拍の呼吸をおいて、男は言葉を継いだ。
「だが、何気なく毎晩見上げる空ってのも案外捨てたもんじゃない。街中でも明るい星なら観測できるし、運が良ければ流れ星だって見える。きれいなものを見るとちょっとしたイヤなことなんて忘れちまえるだろ?」
男の口調は生き生きと弾んでいる。本当に好きなことを話題にしているからだろう、男は何の衒いもない様子で演壇から生徒たちに語りかける。
「ここにいる全員が星を眺めるのが好きじゃなくても構わない。だが、せめてひとつくらいは日常の中で倖せを感じられるようなものを持っていてほしい。何かにつまずいた時、それが意外なほど大きなしるべになる。まるでいつも頭の上で光っている星のようにな」
過去のビアンカは不思議なものでも見るような目で壇上を見つめていた。事実、解らなかったのだ。何故そんなにひとつのことに夢中になれるのか。どうしたらこんなに熱っぽく語れるのか。——どうやったら、そんなものが見つかるのか。
男はビアンカの周りにはいない種類の大人だった。こういう風に己の心を表せる大人をビアンカは知らない。思い浮かぶのは勉強を強制するばかりでちっとも褒めてくれない顔ばかり。彼らはビアンカに夢を語るどころか、そんなものを描くことすら禁じているように見えた。
示された道を疑問を持たずに歩むことを求め、それ以外は悪いことだと頭ごなしに決めつける大人がビアンカは嫌いだった。誂えられた道をなぞるしかない毎日が退屈で、だからと言って逸れることもできない自分自身のことも。
大人になるとはそういうこと。諦めにも似た思いが巣食った心を抱え、日々を過ごすうちにだんだんとビアンカの気力は萎えていった。不確定な夢など望まずに、堅実な現実を過ごすこと。それは確かに倖せのひとつの形だろう。
だがそれは、全ての倖せの形ではない。
「どんなことに倖せを感じるかってのは人それぞれだ。好きなことは一人一人違うし、ものの考え方だって違う。今好きなことがあるなら、それを大事にしてほしい。もし何も心当たりがないのなら、見つかるまで探してほしい。それがあるかどうかで人の生き方は随分違ったものになる」
壇上の男の言葉は揺るぎない力に満ちていた。その力こそがビアンカを導く光だった。無気力だった自分のしるべとなり、宇宙を目指させたもの。
その証に過去のビアンカの表情が目に見えて変わっていた。頬を上気させ、じっと男の言葉に耳を傾けている。ビアンカは思い出す。この講演をきっかけに星に興味を持つようになったことを。男と同じ道を辿れば、ああいう大人になれると信じたことを。
「ここにいる皆がいずれしるべとなる星を見つけられるよう祈っている。実り多い未来を過ごしてくれ」
そう結んで、男はマイクから身を引いた。拍手の中、照れた様子で演壇を降りていく。ビアンカはゆっくりと目を閉じた。いつの間にか置き去りにしていた忘れ物を見つけた気分だった。
降るような星空、見慣れた丘の景色。見回してみたがニコルとトーンの姿は見当たらない。
「——夢、か?」
それにしては妙に現実感があった。手足も長いこと外にいたせいか冷え切っている。随分夜も更けたのだろう、先程は真上にあった星座が西の空に沈みかけていた。
草の上に突っ立ったまま、ビアンカは見たばかりの過去を思い返していた。
何故忘れていたのだろう。こんなに大事なことだったのに。
ビアンカが思わず溜息をついた、その時。
「よおビアンカ。こんなところにいたのか」
後ろからかかった耳慣れた声にとっさに振り返る。そこには思い浮かべたのと同じ男が白い息を吐いて手を上げていた。
「キャプテン・ポーラスタ」
「途中でいなくなったから探してたんだぜ。ったく、心配かけやがって」
大股で近づいてきた男は、ビアンカの隣に立って呆れたような表情を浮かべた。
「ポールの奴がおろおろしてたぜ。調子に乗りすぎたかも、ビアンカに何かあったら自分のせいだって」
「ははっ、バカですね。別にあいつのせいでパーティー抜けたんじゃないですよ」
ビアンカは笑顔で嘘をついた。そう、別にライバルのせいではない。選ばれなかった自分がいたたまれなかっただけだ。そう己に言い聞かせる。
「にしても、こんなところで何やってたんだ? 寒いだけだろ」
「そうでもありませんよ。星がたくさん見えますし」
言われて、男は頭上を見上げた。たちまち夜空にちりばめられた星々に相好を崩す。
「ああ、こりゃいいな。丘の裏だから学校の明かりも届かないのか。なかなかの穴場だな」
でしょう、とビアンカは微笑む。二人だけの秘密を持てたようでなんだか嬉しかった。
「……昔のことを思い出してました」
「昔?」
「ええ。キャプテンがあたしのジュニアスクールに来て演説してったこと」
「そんなこと、あったっけか?」
「ありましたよ」
ビアンカは星空に目を移す。たとえではなく、本当に降ってきそうな満天の星だった。
「星になぞらえて、それぞれの倖せだと思うことを見つけろって。ふふ、意外とロマンチストですよね、キャプテンって」
「俺、そんなこと言ったか? なんだか照れくさいな。だがロマンチストじゃなきゃこんな商売は務まらんぞ。文字通り星を追う仕事だからな」
「あたし、その講演がきっかけで宇宙飛行士を目指したんですよ。結局、キャプテンと一緒に飛ぶことはできませんでしたけど」
知らず、言葉に悔しさがにじむ。せっかく夢のはじまりを思い出したのに、引き戻された現実の味は苦い。
「ああ、そのことだがな。おまえにひとつ、言っておきたいことがある」
「何ですか?」
「俺が引退する理由だ」
「……寄る年波に勝てなくて、ではないんですか?」
「バカヤロウ。まだ老け込むには早すぎるだろうが」
軽く咳払いをして、男は口を開いた。
「冗談はともかく。早い話が世代交代だよ。いつまでも俺がキャプテンの座にいたら後進が育たないだろう」
「でも、皆キャプテンを目指して訓練してるじゃないですか」
「だからこそだよ。俺が引退すりゃ宇宙への枠がひとつ空く。俺はもう十分行かせてもらったが、後にはたくさんのひよっ子がつかえてるんだ。若い奴らに肌で学んでもらった方がメリットは大きい」
納得しかねる、という表情のビアンカに男は笑って見せた。
「なあ、知ってるか? 北極星は不変のものではないって」
「そりゃあ……」
仮にも宇宙飛行士志望だ。ビアンカが頷いたのを見て、男は空に目を向けた。
「現在の北極星はポラリス。だが何千年か後には別な星が北極星になる。エライ、デネブ、ベガ……北極星もいずれは変わるんだ。それと同じように俺の場所も次の奴らに譲り渡していかなきゃならん」
「でも」
「変化を怖がるなよ、ビアンカ。変わらないものなど何もない。むしろ変化をより良い方向へ捉えてこそ、発展はあるもんだ」
それに、と男は言葉を継いだ。
「ビアンカ、お前の名前は白という意味だったな。純白という色の定義がベガの光から採られてるって知ってたか?」
「いいえ、そうなんですか?」
「ああ。ベガ、未来の北極星だ」
遥かな星空から視線を戻して、男はビアンカに笑いかけた。
「おまえが俺の存在をきっかけに宇宙を目指したというなら、おまえも次に育つ奴から指針にされるような宇宙飛行士になれ。そうなれると思っているからこそ、おまえにこの話をしたんだ」
「あたしが……?」
思いがけない言葉にビアンカの思考が止まる。男が頷く。表情は笑ったまま、しかし目だけは真剣な光をたたえて。
「宇宙に行くチャンスは今回だけじゃない。確かに一緒に飛ぶことはできなかったが、これからは俺が全力でおまえたちをバックアップする」
ぽかんとした様子のビアンカに男は人の悪い笑みを頬に浮かべた。
「おまえ、俺が完全に隠居すると思ってやがったな? そうはいかん。まだまだ俺にはおまえたちに教えなきゃならんことがたくさんあるんだ。それにだな、期待もしてないひよっ子に居場所を譲るほど俺は無責任じゃないさ」
からからと笑う男の声が、じわりとビアンカの心に沁み入っていく。胸が熱くなった。
見ていてくれた。認めてくれていた。その事実が誇らしかった。
ビアンカの頬に熱いものが伝った。ふと目を留めた男が慌てた声を上げる。
「おいおい、泣くなよ」
「だって……」
一度溢れた涙は簡単には止まってくれない。ビアンカは泣きながら笑った。
「あたしがキャプテン・ベガなんて呼ばれてるところ、想像できませんよ」
丘の向こうからゆっくりと朝がやって来る。北の空では白く輝く北極星が丘と天文台を見下ろしていた。
「——夢、か?」
それにしては妙に現実感があった。手足も長いこと外にいたせいか冷え切っている。随分夜も更けたのだろう、先程は真上にあった星座が西の空に沈みかけていた。
草の上に突っ立ったまま、ビアンカは見たばかりの過去を思い返していた。
何故忘れていたのだろう。こんなに大事なことだったのに。
ビアンカが思わず溜息をついた、その時。
「よおビアンカ。こんなところにいたのか」
後ろからかかった耳慣れた声にとっさに振り返る。そこには思い浮かべたのと同じ男が白い息を吐いて手を上げていた。
「キャプテン・ポーラスタ」
「途中でいなくなったから探してたんだぜ。ったく、心配かけやがって」
大股で近づいてきた男は、ビアンカの隣に立って呆れたような表情を浮かべた。
「ポールの奴がおろおろしてたぜ。調子に乗りすぎたかも、ビアンカに何かあったら自分のせいだって」
「ははっ、バカですね。別にあいつのせいでパーティー抜けたんじゃないですよ」
ビアンカは笑顔で嘘をついた。そう、別にライバルのせいではない。選ばれなかった自分がいたたまれなかっただけだ。そう己に言い聞かせる。
「にしても、こんなところで何やってたんだ? 寒いだけだろ」
「そうでもありませんよ。星がたくさん見えますし」
言われて、男は頭上を見上げた。たちまち夜空にちりばめられた星々に相好を崩す。
「ああ、こりゃいいな。丘の裏だから学校の明かりも届かないのか。なかなかの穴場だな」
でしょう、とビアンカは微笑む。二人だけの秘密を持てたようでなんだか嬉しかった。
「……昔のことを思い出してました」
「昔?」
「ええ。キャプテンがあたしのジュニアスクールに来て演説してったこと」
「そんなこと、あったっけか?」
「ありましたよ」
ビアンカは星空に目を移す。たとえではなく、本当に降ってきそうな満天の星だった。
「星になぞらえて、それぞれの倖せだと思うことを見つけろって。ふふ、意外とロマンチストですよね、キャプテンって」
「俺、そんなこと言ったか? なんだか照れくさいな。だがロマンチストじゃなきゃこんな商売は務まらんぞ。文字通り星を追う仕事だからな」
「あたし、その講演がきっかけで宇宙飛行士を目指したんですよ。結局、キャプテンと一緒に飛ぶことはできませんでしたけど」
知らず、言葉に悔しさがにじむ。せっかく夢のはじまりを思い出したのに、引き戻された現実の味は苦い。
「ああ、そのことだがな。おまえにひとつ、言っておきたいことがある」
「何ですか?」
「俺が引退する理由だ」
「……寄る年波に勝てなくて、ではないんですか?」
「バカヤロウ。まだ老け込むには早すぎるだろうが」
軽く咳払いをして、男は口を開いた。
「冗談はともかく。早い話が世代交代だよ。いつまでも俺がキャプテンの座にいたら後進が育たないだろう」
「でも、皆キャプテンを目指して訓練してるじゃないですか」
「だからこそだよ。俺が引退すりゃ宇宙への枠がひとつ空く。俺はもう十分行かせてもらったが、後にはたくさんのひよっ子がつかえてるんだ。若い奴らに肌で学んでもらった方がメリットは大きい」
納得しかねる、という表情のビアンカに男は笑って見せた。
「なあ、知ってるか? 北極星は不変のものではないって」
「そりゃあ……」
仮にも宇宙飛行士志望だ。ビアンカが頷いたのを見て、男は空に目を向けた。
「現在の北極星はポラリス。だが何千年か後には別な星が北極星になる。エライ、デネブ、ベガ……北極星もいずれは変わるんだ。それと同じように俺の場所も次の奴らに譲り渡していかなきゃならん」
「でも」
「変化を怖がるなよ、ビアンカ。変わらないものなど何もない。むしろ変化をより良い方向へ捉えてこそ、発展はあるもんだ」
それに、と男は言葉を継いだ。
「ビアンカ、お前の名前は白という意味だったな。純白という色の定義がベガの光から採られてるって知ってたか?」
「いいえ、そうなんですか?」
「ああ。ベガ、未来の北極星だ」
遥かな星空から視線を戻して、男はビアンカに笑いかけた。
「おまえが俺の存在をきっかけに宇宙を目指したというなら、おまえも次に育つ奴から指針にされるような宇宙飛行士になれ。そうなれると思っているからこそ、おまえにこの話をしたんだ」
「あたしが……?」
思いがけない言葉にビアンカの思考が止まる。男が頷く。表情は笑ったまま、しかし目だけは真剣な光をたたえて。
「宇宙に行くチャンスは今回だけじゃない。確かに一緒に飛ぶことはできなかったが、これからは俺が全力でおまえたちをバックアップする」
ぽかんとした様子のビアンカに男は人の悪い笑みを頬に浮かべた。
「おまえ、俺が完全に隠居すると思ってやがったな? そうはいかん。まだまだ俺にはおまえたちに教えなきゃならんことがたくさんあるんだ。それにだな、期待もしてないひよっ子に居場所を譲るほど俺は無責任じゃないさ」
からからと笑う男の声が、じわりとビアンカの心に沁み入っていく。胸が熱くなった。
見ていてくれた。認めてくれていた。その事実が誇らしかった。
ビアンカの頬に熱いものが伝った。ふと目を留めた男が慌てた声を上げる。
「おいおい、泣くなよ」
「だって……」
一度溢れた涙は簡単には止まってくれない。ビアンカは泣きながら笑った。
「あたしがキャプテン・ベガなんて呼ばれてるところ、想像できませんよ」
丘の向こうからゆっくりと朝がやって来る。北の空では白く輝く北極星が丘と天文台を見下ろしていた。
それを受けてきらきらと輝くのは倖せの粒子。地上から私たちの橇まで、流れに逆らう流星雨のように次々と舞い上がってきます。
「いやあ、きれいだねえ」
主人が後ろで手を叩きました。橇から身を乗り出して銀色の光の粒をのぞきこみ、満足げに頷いています。
「こうしていると、まるで星の海に浮かんでいるみたいだ」
「ええ、そうですね」
下からは倖せが、上にはまだ夜の残る本物の星空が。銀色に包まれた橇は、確かに星の中に浮かんだ船のようにも見えます。宇宙に橇を引いていったら、こんな景色になるのかもしれません。
「今年のお客さんも無事に倖せを見つけられたようで良かったよ。途中のトーンの説得が効いたのかな?」
「私は大したことは言ってませんよ。見失っていたものを見つけられたのなら、それはもともと彼女が大事に持っていたものだからでしょう。私の言葉はきっかけになっただけです」
そういえばさっきは少々熱っぽく語ってしまったのでした。照れ隠しに私はそっぽを向きます。後ろで主人がやわらかく微笑む気配がしました。
「そう? でも、僕の仕事がやりやすくなったのは本当だから。ありがとう。そして今年もお疲れ様」
「……ニコルこそ、お疲れ様でした」
東の空がだいぶ白んできました。かすんできた星明かりの中、主人が不器用な手つきで光の粒子を吸い込んでいた袋の口を閉じます。橇がわずかに揺れて、取り付けてあるベルが澄んだ響きを立てました。
「じゃあ、帰ろうか。僕らの家へ」
「そうですね」
まっすぐに北を目指して、私はゆっくりと走り始めました。目指す方向にはまだ朝が来ていません。夜を追いかけるように少しずつスピードを上げて、ぐんぐんと橇を引いていきます。
「それにしても、目指すものがあるってことは倖せなことだよね。それに向かってがんばっているうちに、いつの間にか自分も誰かを導くしるべになっているのかも」
「ええ」
走っているために私の答えは短くなります。でも心の中では続きを考えていました。
ひょっとすると、目指すものに追いつくために日々を駆け抜けることそのものが光になるのかもしれないと。今、私の走った後に光の軌跡が描かれているように。
私のしるべを示す人は、橇の後ろで空を仰いでいます。
「ああ、僕も宇宙に行ってみたいな。きっとすごくきれいなんだろうねえ」
「ええ、きっと」
「もし行くことになった時はトーンも一緒に行こうね。僕一人じゃ寂しいし」
「そうですね。ぜひ」
行く手に輝くのは北極星。その明るい光に向けて私はさらに速度を速めました。まるで倖せと願いを載せて流れる星のように。My Dear Santaを飾る言葉も、たまにはロマンチックに決めてみるのも悪くないかもしれません。
——Thanks for your reading.
I hope you catch a lucky star, and have a nice new year !
「いやあ、きれいだねえ」
主人が後ろで手を叩きました。橇から身を乗り出して銀色の光の粒をのぞきこみ、満足げに頷いています。
「こうしていると、まるで星の海に浮かんでいるみたいだ」
「ええ、そうですね」
下からは倖せが、上にはまだ夜の残る本物の星空が。銀色に包まれた橇は、確かに星の中に浮かんだ船のようにも見えます。宇宙に橇を引いていったら、こんな景色になるのかもしれません。
「今年のお客さんも無事に倖せを見つけられたようで良かったよ。途中のトーンの説得が効いたのかな?」
「私は大したことは言ってませんよ。見失っていたものを見つけられたのなら、それはもともと彼女が大事に持っていたものだからでしょう。私の言葉はきっかけになっただけです」
そういえばさっきは少々熱っぽく語ってしまったのでした。照れ隠しに私はそっぽを向きます。後ろで主人がやわらかく微笑む気配がしました。
「そう? でも、僕の仕事がやりやすくなったのは本当だから。ありがとう。そして今年もお疲れ様」
「……ニコルこそ、お疲れ様でした」
東の空がだいぶ白んできました。かすんできた星明かりの中、主人が不器用な手つきで光の粒子を吸い込んでいた袋の口を閉じます。橇がわずかに揺れて、取り付けてあるベルが澄んだ響きを立てました。
「じゃあ、帰ろうか。僕らの家へ」
「そうですね」
まっすぐに北を目指して、私はゆっくりと走り始めました。目指す方向にはまだ朝が来ていません。夜を追いかけるように少しずつスピードを上げて、ぐんぐんと橇を引いていきます。
「それにしても、目指すものがあるってことは倖せなことだよね。それに向かってがんばっているうちに、いつの間にか自分も誰かを導くしるべになっているのかも」
「ええ」
走っているために私の答えは短くなります。でも心の中では続きを考えていました。
ひょっとすると、目指すものに追いつくために日々を駆け抜けることそのものが光になるのかもしれないと。今、私の走った後に光の軌跡が描かれているように。
私のしるべを示す人は、橇の後ろで空を仰いでいます。
「ああ、僕も宇宙に行ってみたいな。きっとすごくきれいなんだろうねえ」
「ええ、きっと」
「もし行くことになった時はトーンも一緒に行こうね。僕一人じゃ寂しいし」
「そうですね。ぜひ」
行く手に輝くのは北極星。その明るい光に向けて私はさらに速度を速めました。まるで倖せと願いを載せて流れる星のように。My Dear Santaを飾る言葉も、たまにはロマンチックに決めてみるのも悪くないかもしれません。
——Thanks for your reading.
I hope you catch a lucky star, and have a nice new year !
<2006年12月24日>
今宵はクリスマス・イブ。
なのにパパは手ぶらで帰って来た。頼まれていた悲しい物語は探したけれど見つからなかった。パパはそう言った。さらに何かを言いかけたけれど、わたしは続きなんて聞かずにリビングを飛び出した。
クリスマスなんて大嫌いだ。
わたしは真っ暗な部屋のベッドの上で、枕へ強く顔を押し付けた。
去年のクリスマスにママは死んでしまった。あまりにも突然のことで、わたしはどうすることもできなかった。呆然とするわたしの隣でパパは泣いていた。パパが泣くのを、その時初めて見た。
それから、何もかもが変わってしまった。わたしはすっかり泣き虫になって、パパも笑わなくなって。周りはいつまでも悲しんでいるのは良くないって言うけれど、そんなのは大事な誰かを失ったことのない人だから言えること。わたしとパパはいつでも深い悲しみの中にいた。
クリスマスなんて大嫌いだ。
去年はママを奪われた。今年はパパの今にも泣きそうな顔を見た。みんながお祝いをしているこの日に、わたしは一体どれほど悲しい思いをしなければならないのだろうか。
泣き疲れたわたしは、そっとリビングに向かった。涙を流した後にはどうしてこんなに喉が渇くのだろう。細くドアを開けて、パパの背中がソファに見えないことを確認する。そのままキッチンに向かいかけた足がふと止まる。ママがアイボリーのカバーをかけたソファの上に、見慣れない包みが転がっている。
近づいてみて、わたしは息を呑んだ。緑のチェックの包装紙で丁寧にくるまれて赤いリボンをかけられた、それはどこからどう見てもクリスマスのプレゼントだった。
「見つからなかったって言ってたのに……」
丁度本一冊くらいの大きさの包み。あんな嘘を言って、渡しづらいなら素直にそう言えば良かったのに。
心の中でパパに文句を言いながら、包みに手を伸ばす。腕に伝わるずっしりとした重さは、やはり本のようだった。溜息を落としながらリボンを解く。こんな形でプレゼントを受け取ることになるなんて思ってもいなかった。
指からリボンが抜け落ちた。一瞬そちらに気をとられた瞬間、包装紙の端に爪の先が引っかかる。
——クリスマスをそんなに嫌わないで。ハッピークリスマス、悲しい物語の受取主。
見知らぬ声が耳元で響いた。同時に包みからこぼれる眩しい光。それが誰なのか、何が光っているのか確かめる間もなく、柔らかな眠気があっという間にわたしの全身を包み込む。それはあまりにも心地よくて、わたしは逆らうことも忘れてソファへと倒れ込んだ。目を閉じる前に見えた光が頭の中で虹色にくるくる回る。綺麗だなと思ったのを最後に、わたしは眠りへと落ちていった。
——この世で一番、悲しい話を聞かせましょう。
まどろみの中、優しい女の人の声が聞こえた。懐かしいその声。誰だっけ、と思ったけれど、すぐにどうでも良くなって温かな眠りの縁を行ったり来たりし始める。この声を聞いていると安心できる。それだけは確かだった。
声はまるで赤ちゃんに話しかけるように穏やかに続いている。
——あるところに、ママをなくした女の子がいました。
その女の子はとても悲しんで、毎日泣いて、楽しむことなど忘れてしまったようでした。少しずつ時が経って、女の子は少しだけ笑えるようになりましたが、それでも夜ごとの涙は止まりませんでした。楽しんでしまうと、ママをなくした悲しみまでもが嘘になってしまうような気がして。笑ってしまうと、もう見ることのできないママの笑顔を思い出して。
そんな女の子を周りはみんな心配しました。特にパパは、いつも女の子を気遣ってくれました。忙しい仕事を終わらせて早く家に帰ってきてくれたり、滅多に行かなかったレストランでの食事に連れて行ってくれたり。
けれど女の子の気持ちはふさいでいく一方でした。街に銀杏の葉っぱが舞い、クリスマスソングが流れる頃にはもう、女の子の心の中は悲しみでいっぱいでした。
もうすぐ、ママがいなくなってから一年目のクリスマス。
パパは女の子にプレゼントは何がいいかたずねました。何でも好きなものを買ってやる、というパパに女の子はお願いしました。
とても、とても悲しい物語が読みたい、と。
凍てついたクリスマス・イブに、パパは女の子の望んだとおりの本を贈ってくれました。女の子はその本を読みながら何度も何度も泣きました。まるでその本を読むたびに、ママがいなくなった日のことを思い出しているかのようでした。
やがて春が来て、夏が来ても女の子に笑顔は戻りませんでした。女の子を気遣いながらも、忙しいパパの帰りは次第に遅くなっていきました。独りの夜を女の子はいつも悲しい物語と一緒に過ごしました。ずっとずっと、大きくなってからも笑顔を忘れたままで。
——これが、私にとってこの世で一番悲しい物語。
あなたは私が生きた証。パパがいて、私がいて、あなたが生まれた。そんなあなたがいつまでも悲しい顔をしていては、私が生きたことまでもが悲しいことになってしまう。
私は倖せだった。パパと出逢えて、あなたと生きることができて。
だからあなたにも、倖せになってほしい。倖せを誰かに分け与えられるような人であってほしい。
あなたは今日まで一日も欠かさず私を悼んでくれた。そのことが私の心をどれほど慰めたことか。けれどもう、悲しむ時間は終わり。今日からはあなたが、倖せになるために生きて。
「ママ!」
がばりとわたしは体を起こした。途端におでこに何か固いものがぶつかって、思わず悲鳴を上げる。
「……ったー。なに?」
「何と聞きたいのはこっちの方だ。こんなところで寝入っているなんて」
耳に流れ込んできたのは、聞き慣れた低いしゃがれ声。目の前でおでこを押さえているのはパパだった。手にはパパが書斎で使っているブランケット。それが半分、わたしの体にかかっている。
いきさつを伝えようとして、ついでにさっきけんかしたことも思い出す。一気に気まずくなって、わたしはパパから目を逸らした。
「だってプレゼントが落ちてたんだもの。パパ、さっき見つからなかったって言ってたのに」
「プレゼント?」
「そう。緑のチェックの包装紙と赤いリボンの包み」
心当たりがあったのだろうか。パパは驚いた顔でわたしを見つめている。
「そんな、まさか。あれは確かにあの本屋に返したはず」
「返した?」
そういえば、開きかけていたプレゼントが見当たらない。床に落ちたままのはずのリボンも、爪を引っ掛けた分だけ包装紙がはがれているはずの包みも。
気まずさも忘れて、思わずパパと顔を見合わせる。不思議な出来事だと思ったけれど、今はなんだか大騒ぎをする気持ちにはなれなかった。
「……ごめんなさい」
「いいよ、別に。そんなに大したコブじゃない」
パパはさっきぶつかったことを謝ったのだと思ったらしい。自分のおでこをさすっているその姿に、思わず笑いがこみ上げた。
「違うよ。本、探してくれてたんだね。ごめんなさい。ありがとう」
「あ……いや。こちらこそ、お前の欲しがっていたものをあげられなくて悪かった」
お互い、謝り慣れているわけじゃない。またしても流れかけた気まずい沈黙を破るように、わたしはそうだ、と声を上げた。
「一日遅くなったけれど、プレゼントをお願いしてもいい? 今度は悲しい物語じゃないけれど」
「勿論だとも。何が欲しいんだ?」
いつもよりかすれたパパの声。怖い顔のくせに意外と泣き虫なんだと、この一年でよく分かっていた。これから伝える言葉にも、パパは涙を流すのだろうか。
「時間を。これからもパパと過ごせる倖せな思い出を、たくさんちょうだい」
昨夜悲しい物語をくれなかったパパの優しさと、今ここにママが遺してくれたたくさんの倖せ。こんなに大事な宝物に、何故今まで気がつかなかったのだろう。どんなイルミネーションや宝石よりも、きらきらと輝く金色の時間。
リビングに朝日が差した。クリスマス——降誕祭の朝。悲しい物語が終わり、新しい倖せが始まる日。金色と虹色の光の中で、ママの笑顔が見えた気がした。
なのにパパは手ぶらで帰って来た。頼まれていた悲しい物語は探したけれど見つからなかった。パパはそう言った。さらに何かを言いかけたけれど、わたしは続きなんて聞かずにリビングを飛び出した。
クリスマスなんて大嫌いだ。
わたしは真っ暗な部屋のベッドの上で、枕へ強く顔を押し付けた。
去年のクリスマスにママは死んでしまった。あまりにも突然のことで、わたしはどうすることもできなかった。呆然とするわたしの隣でパパは泣いていた。パパが泣くのを、その時初めて見た。
それから、何もかもが変わってしまった。わたしはすっかり泣き虫になって、パパも笑わなくなって。周りはいつまでも悲しんでいるのは良くないって言うけれど、そんなのは大事な誰かを失ったことのない人だから言えること。わたしとパパはいつでも深い悲しみの中にいた。
クリスマスなんて大嫌いだ。
去年はママを奪われた。今年はパパの今にも泣きそうな顔を見た。みんながお祝いをしているこの日に、わたしは一体どれほど悲しい思いをしなければならないのだろうか。
泣き疲れたわたしは、そっとリビングに向かった。涙を流した後にはどうしてこんなに喉が渇くのだろう。細くドアを開けて、パパの背中がソファに見えないことを確認する。そのままキッチンに向かいかけた足がふと止まる。ママがアイボリーのカバーをかけたソファの上に、見慣れない包みが転がっている。
近づいてみて、わたしは息を呑んだ。緑のチェックの包装紙で丁寧にくるまれて赤いリボンをかけられた、それはどこからどう見てもクリスマスのプレゼントだった。
「見つからなかったって言ってたのに……」
丁度本一冊くらいの大きさの包み。あんな嘘を言って、渡しづらいなら素直にそう言えば良かったのに。
心の中でパパに文句を言いながら、包みに手を伸ばす。腕に伝わるずっしりとした重さは、やはり本のようだった。溜息を落としながらリボンを解く。こんな形でプレゼントを受け取ることになるなんて思ってもいなかった。
指からリボンが抜け落ちた。一瞬そちらに気をとられた瞬間、包装紙の端に爪の先が引っかかる。
——クリスマスをそんなに嫌わないで。ハッピークリスマス、悲しい物語の受取主。
見知らぬ声が耳元で響いた。同時に包みからこぼれる眩しい光。それが誰なのか、何が光っているのか確かめる間もなく、柔らかな眠気があっという間にわたしの全身を包み込む。それはあまりにも心地よくて、わたしは逆らうことも忘れてソファへと倒れ込んだ。目を閉じる前に見えた光が頭の中で虹色にくるくる回る。綺麗だなと思ったのを最後に、わたしは眠りへと落ちていった。
——この世で一番、悲しい話を聞かせましょう。
まどろみの中、優しい女の人の声が聞こえた。懐かしいその声。誰だっけ、と思ったけれど、すぐにどうでも良くなって温かな眠りの縁を行ったり来たりし始める。この声を聞いていると安心できる。それだけは確かだった。
声はまるで赤ちゃんに話しかけるように穏やかに続いている。
——あるところに、ママをなくした女の子がいました。
その女の子はとても悲しんで、毎日泣いて、楽しむことなど忘れてしまったようでした。少しずつ時が経って、女の子は少しだけ笑えるようになりましたが、それでも夜ごとの涙は止まりませんでした。楽しんでしまうと、ママをなくした悲しみまでもが嘘になってしまうような気がして。笑ってしまうと、もう見ることのできないママの笑顔を思い出して。
そんな女の子を周りはみんな心配しました。特にパパは、いつも女の子を気遣ってくれました。忙しい仕事を終わらせて早く家に帰ってきてくれたり、滅多に行かなかったレストランでの食事に連れて行ってくれたり。
けれど女の子の気持ちはふさいでいく一方でした。街に銀杏の葉っぱが舞い、クリスマスソングが流れる頃にはもう、女の子の心の中は悲しみでいっぱいでした。
もうすぐ、ママがいなくなってから一年目のクリスマス。
パパは女の子にプレゼントは何がいいかたずねました。何でも好きなものを買ってやる、というパパに女の子はお願いしました。
とても、とても悲しい物語が読みたい、と。
凍てついたクリスマス・イブに、パパは女の子の望んだとおりの本を贈ってくれました。女の子はその本を読みながら何度も何度も泣きました。まるでその本を読むたびに、ママがいなくなった日のことを思い出しているかのようでした。
やがて春が来て、夏が来ても女の子に笑顔は戻りませんでした。女の子を気遣いながらも、忙しいパパの帰りは次第に遅くなっていきました。独りの夜を女の子はいつも悲しい物語と一緒に過ごしました。ずっとずっと、大きくなってからも笑顔を忘れたままで。
——これが、私にとってこの世で一番悲しい物語。
あなたは私が生きた証。パパがいて、私がいて、あなたが生まれた。そんなあなたがいつまでも悲しい顔をしていては、私が生きたことまでもが悲しいことになってしまう。
私は倖せだった。パパと出逢えて、あなたと生きることができて。
だからあなたにも、倖せになってほしい。倖せを誰かに分け与えられるような人であってほしい。
あなたは今日まで一日も欠かさず私を悼んでくれた。そのことが私の心をどれほど慰めたことか。けれどもう、悲しむ時間は終わり。今日からはあなたが、倖せになるために生きて。
「ママ!」
がばりとわたしは体を起こした。途端におでこに何か固いものがぶつかって、思わず悲鳴を上げる。
「……ったー。なに?」
「何と聞きたいのはこっちの方だ。こんなところで寝入っているなんて」
耳に流れ込んできたのは、聞き慣れた低いしゃがれ声。目の前でおでこを押さえているのはパパだった。手にはパパが書斎で使っているブランケット。それが半分、わたしの体にかかっている。
いきさつを伝えようとして、ついでにさっきけんかしたことも思い出す。一気に気まずくなって、わたしはパパから目を逸らした。
「だってプレゼントが落ちてたんだもの。パパ、さっき見つからなかったって言ってたのに」
「プレゼント?」
「そう。緑のチェックの包装紙と赤いリボンの包み」
心当たりがあったのだろうか。パパは驚いた顔でわたしを見つめている。
「そんな、まさか。あれは確かにあの本屋に返したはず」
「返した?」
そういえば、開きかけていたプレゼントが見当たらない。床に落ちたままのはずのリボンも、爪を引っ掛けた分だけ包装紙がはがれているはずの包みも。
気まずさも忘れて、思わずパパと顔を見合わせる。不思議な出来事だと思ったけれど、今はなんだか大騒ぎをする気持ちにはなれなかった。
「……ごめんなさい」
「いいよ、別に。そんなに大したコブじゃない」
パパはさっきぶつかったことを謝ったのだと思ったらしい。自分のおでこをさすっているその姿に、思わず笑いがこみ上げた。
「違うよ。本、探してくれてたんだね。ごめんなさい。ありがとう」
「あ……いや。こちらこそ、お前の欲しがっていたものをあげられなくて悪かった」
お互い、謝り慣れているわけじゃない。またしても流れかけた気まずい沈黙を破るように、わたしはそうだ、と声を上げた。
「一日遅くなったけれど、プレゼントをお願いしてもいい? 今度は悲しい物語じゃないけれど」
「勿論だとも。何が欲しいんだ?」
いつもよりかすれたパパの声。怖い顔のくせに意外と泣き虫なんだと、この一年でよく分かっていた。これから伝える言葉にも、パパは涙を流すのだろうか。
「時間を。これからもパパと過ごせる倖せな思い出を、たくさんちょうだい」
昨夜悲しい物語をくれなかったパパの優しさと、今ここにママが遺してくれたたくさんの倖せ。こんなに大事な宝物に、何故今まで気がつかなかったのだろう。どんなイルミネーションや宝石よりも、きらきらと輝く金色の時間。
リビングに朝日が差した。クリスマス——降誕祭の朝。悲しい物語が終わり、新しい倖せが始まる日。金色と虹色の光の中で、ママの笑顔が見えた気がした。
<2008年12月22日>
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