書き散らした小説置き場。剣と魔法のファンタジー他いろいろ。
完全に不意打ちだった。まさかというタイミングでの、完璧な襲撃。
「おにーちゃんおそーい」
傲岸不遜に言い放った幼女は、玄関にひっくり返ったままの僕の腰骨の真上によじ登ってふんぞり返った。間違ってもこれは妹では、ない。十歳違いの兄の一人娘、つまるところ姪っ子だ。
「レディをまたせるなんて、どういうつもり?」
「あーはいはい申し訳ございませんねー」
クソ兄貴が一体どんな教育してやがるんだ。
僕は小さなレディの身体を丁重に、しかし有無を言わせず脇へどかした。底冷えのする玄関タイルからようやく腰を上げて、素早くスニーカーを放り捨てる。さっきはここで片足立ちになったところを襲われた。もう僕に油断はない。
靴を脱ぐより先に荷物を上げておいて良かった。上がり框に置いておいた特大ビニール袋二つを持ち上げると、中の一つから微かに小瓶が触れ合う音が響く。これを持った状態でタイルに転がされていたら……考えるだけで恐ろしい。
「おにーちゃんだめだよー。くつはちゃんとそろえなきゃ」
「揃えといてくれよ。僕は今両手いっぱいだ」
「えー」
「お前がとんでもないところで飛びついてくるからだろ。もしこの袋の中の瓶が割れて玄関を汚したりしたらどうなったよ?」
「おかーさんがおこる」
「そうだ。やだろ」
「やだ。こわい」
さすがしっかり者の義姉は娘にちゃんとした躾をしているらしい。義姉の名が出た途端にしゅんとなった姪っ子がスニーカーを揃えるのを横目で見ながら、僕は兄夫婦のマンションに上がり込んだ。
彼らの結婚以来、数えきれないくらい来ている場所だ。勝手知ったる何とやら、僕はまっすぐキッチンを目指した。対面式のダイニングは義姉のこだわりで選んだもので、広くはないが決して狭くもない。
既にキッチンを借りる旨、義姉と話はついている。流しの真上の電灯を点けながら、後ろについてきていた姪っ子に声をかけた。
「おい、茶の間も明かりくらいつけろよ。暗いじゃないか」
「だって、とどかないよ」
ちらりと壁面のスイッチに目を向ける。確かに四歳児には難しい高さだ。しかし真下に置かれた幼児用の椅子、あれに乗ればぎりぎり届かなくはない、はずだ。
様子を窺う姪っ子の視線が横顔にちらちら当たる。僕は黙ってスイッチに歩み寄り、電気を点けた。椅子には気づかないふりをしてキッチンに戻る。
「……カーテンくらい一人で閉めれんだろ」
「……うん!」
大層嬉しそうに姪っ子は窓辺に駆け寄った。視界の隅を掠めたデジタル時計の表示は午後五時。カーテンレールがやけに反抗的な音を立てているようだが、それには構わず僕はコートを脱ぎ、持参した袋の中身を取り出す作業に移った。
真っ先に取り出したのは七面鳥だ。頭や内臓が取り除かれた冷凍品だが2kg以上はある大物だ。このでかぶつを僕の狭いワンルームで解凍して、わざわざ持ってきてやったのだ。兄貴はもっと僕に感謝してもいいと思う。
「うわ、何、それ?」
生の七面鳥を見るのは初めてらしい。カーテンとの格闘を終えてキッチンに顔を出した姪っ子がぎょっと身を竦ませる。
「君のおとーさんのリクエスト。気持ち悪いならあっちで遊んでな」
手早く自前のエプロンを身に着ける。普段はきちんとしたものを身につけるが、今日は完全にプライベートだ。一目で気に入って衝動買いした黒のギャルソンエプロン。うん、やっぱりテンションが上がる。
シンクに置いた七面鳥の包装を解いて、流水で丁寧に全体を流していく。脇を洗おうと手羽を引き延ばした時、あっと向かい側で声が上がった。
「ハネだ」
見るといつの間にか姪っ子がカウンター越しにシンクを覗き込んでいた。食卓用の椅子の上にでも乗っているのだろう。
「そう、手羽先だな」
「ホントにトリなんだ」
さっきまで気味悪がっていたのが嘘のように、むき出しの好奇心で七面鳥を眺めている。その視線に僕の方が居心地の悪さを感じてしまう。
「あー……今はこっち見るな。ちょっとあっち向いてろ」
「どうしてー?」
「……これから腹の中を洗うから」
「おなかのなか?」
僕は黙って七面鳥の腹を押し開いた。うひゃあと変な声を上げて、シンクの向こうの幼女は顔を引っ込めた。
実際にはらわたが詰まっているわけではないから、そんなにグロいものではない。少なくとも僕にとっては。手早く、しかし丁寧に体腔を清め、鍋に張った塩水に浸ける。持参した青ねぎを適当に切って投入、蓋を閉じてとりあえずガスレンジの上へ置いておく。仕上がりが水っぽくなるのを防ぐため、七面鳥が常温になるまでこのまま放置しなければならない。
七面鳥の梱包材をゴミ箱に片付けて、もう一つのビニール袋から持参したスパイス類を取り出す。ついでに冷蔵庫の中身もチェック。
玉ねぎ、セロリ、パセリ。予め義姉に頼んでいた食材は全て完璧に揃っている。さすがだ。
さらにコーラの1.5Lペットボトルが冷えているのも発見した。オーブンレンジの前にはこれまた頼んでおいたもち米が入ったビニール袋が置かれ、義姉のメモが載っている。
『イブに手間のかかる仕事をお願いしちゃってごめんね。コーラ全部飲んでもいいよ』
何故こんないい人が兄貴なんかの嫁になったのか心底疑問だ。
「ねーおなかすいたー」
幼い声が下らない自問を粉砕した。お姫様のご要望とあらば致し方ない。一旦作業を中断し、玉ねぎのみじん切りを高速で作成する。フライパンを熱しオリーブオイルでガーリック少々を炒め、軽やかに玉ねぎを投入。
「うわー、いいにおい」
再びカウンターの向こうから幼女が顔を出す。冷蔵庫から冷や飯とケチャップ、卵を取り出して振り返ると、姪っ子が目を丸くしてこちらを見つめていた。
「おにーちゃんエプロンしてるー。すごーい、コックさんみたーい」
どうやら腰から下がシンクに隠れて彼女の位置からは今まで見えていなかったようだ。くっ、それだけ僕の脚が短いということか。
「みたいじゃなく、コックさんなんだよ一応」
……まだ学生だけどな。
「そっかー、かっこいいねぇ」
ストレートにそう言われると悪い気はしない。思わず緩みそうになる口許を隠しながらフライパンに冷や飯を投入する。
「そういやこないだ持ってきてやったシュトレンはどうした?」
「もうとっくになくなっちゃったよ。おとーさんがばくばくたべちゃった」
あんのバカ兄貴。
鼻白んだ気配を感じたのか、姪っ子が僕の顔色を窺うように首を傾げた。
「ごめんね? あれ、おにーちゃんのかのじょさんがつくってくれたんだよね?」
「……誰がそんなこと言った」
「おかーさん」
……義姉さん。
ケチャップに涙が混入しないよう、僕は細心の注意を払ってチューブを絞った。
「ねー、かのじょさんはクラスメートなの?」
僕は調理科、向こうは製菓科。この場合、クラスメートとは言わないだろう。
「……違うよ」
「ふーん。でも、どうきゅうせいなんでしょ?」
「……はい」
「ふーん」
ケチャップライスに仕上げの塩胡椒を振って皿に盛る。別のフライパンを熱している間にボウルに卵を割り入れ、手早くほぐす。
「がっこう、たのしい?」
「まぁね」
じゃっと音を立ててフライパンが卵を受け止めた。火加減に気をつけながら形を整え、半熟のままケチャップライスに載せる。
「ほれ、お待たせ」
皿を差し出してやると、姪っ子はぱあっと瞳を輝かせた。
「オムライスだぁ」
嬉々として黄金色の山の攻略に取りかかった幼女をそのまま捨て置いて、僕は手早く二つのフライパンを洗浄した。うち一つをガスレンジに残して、再び玉ねぎをみじん切りにする。
そう、次は七面鳥の詰め物の作成だ。
玉ねぎ、パセリ、セロリ。香味野菜のみじん切りがあっという間に山を成す。ついでにもち米も軽く研ぎ、笊に上げて水を切っておく。
それからフライパンを火にかけ、バターで野菜のみじん切りを炒めていく。本当はここで七面鳥の内臓も一緒に入れるといい味になるのだが、今回はお子様がメンバーにいるので省略した。
そのお子様が大発見をしたかのように突如頓狂な声を上げた。
「おにーちゃん、このオムライス、おにくがはいってない!」
「いいだろ別に。鶏肉はこれから腹一杯食うんだから」
「えー」
カウンターの向こうでブーイングは続いていたが、さらりと無視して僕はもち米をフライパンに流し込んだ。白い粒が徐々に透明度を増していくのを見守りながら、木べらで丁寧にかき混ぜる。
焦げないように火加減を調整しつつ私物のローズマリーやタイムを調理台に並べていると、姪っ子が空になった皿を下げに来た。
「おにーちゃん、まだあそべない?」
「まだだな。今手が離せないから」
肩を落として姪っ子はキッチンから出て行った。カウンター越しに見ると、茶の間は随分派手に散らかっているようだ。こちらが調理にかかり切りになっている間に広げたのだろう。どうやらお姫様のマイブームはお絵かきらしい。スケッチブックが無造作に広げられ、色とりどりのクレヨンや色鉛筆がこれでもかとフローリングに散らばっている。
「待ってる間に少し片付けとけよ。空いた場所にツリーを飾ってやるから」
「……うん!」
兄夫婦が姪っ子を溺愛しているのは間違いない。だが二人とも忙しすぎるせいで、姪っ子はすっかり待つことに慣れてしまっている。
だから余計に僕に懐くのだろうけれど。
フライパンに投入した米全体が半透明になったのを見計らって、水とハーブ類を入れ蓋を閉める。火を弱めておけば、適度に炊きあがるまでこのまま放置できる。
待つ間に塩水につけておいた七面鳥を取り出す。水気を丁寧に拭き取り、調理台の上へ置く。義姉のクッキングペーパーを大量に使ってしまったから、後で補充しておかなければ。
存在感のある七面鳥に、塩と粗挽きペッパー、おろしにんにくを擦り込んでいく。とっておきの高級塩がどんどん減っていくのが悲しいが、致し方ない。
作業が一段落して手を洗っているところで、姪っ子が台所にやって来た。ついにしびれを切らしたらしくエプロンの裾を握ったまま放そうとしない。
「おかたづけ、おわった」
見ると、先程までカオスに覆われていた茶の間は見事にコスモスを取り戻していた。
「色鉛筆は全色ちゃんとあったのか?」
「うん」
「よし、いい子だ」
これ以上は引き延ばせそうにない。ちょうど米も炊きあがる頃だ。今のタイミングなら、多少手を離しても問題はないだろう。
ガスレンジの火を消して、僕は姪っ子の頭に手を置いた。
「お待たせ。ツリーやるぞ」
「……うん!」
転げるように走っていく姪っ子を追いかけながら、僕はちらりとスマホの画面に目を走らせる。いつの間にか七時を回っていた。
姪っ子の先導で辿り着いたクローゼットからツリーと飾り一式を引っ張り出して茶の間へ運ぶ。綺麗に片付いたカーペットの上でまずプラスチックの人造木を組み立てた。
「ふわふわ~」
上機嫌で姪っ子が雪に見立てた綿をちぎって枝に載せる。僕は色とりどりの電飾を箱から引きずり出して木にぐるぐる巻き付けていく。
「きらきら~」
綿がなくなると姪っ子は星や金銀の球体といった飾り物を枝に引っ掛け始めた。僕も手伝って、小さな樅の木はあっという間に煌びやかに飾り立てられていく。
最後に残ったひときわ大きな銀色の星をツリーの一番上の梢に差そうとすると、姪っ子が背伸びして手を伸ばして来た。
「あたしがやるー」
「はいはい」
最後の飾り物を取られると、仕上げまで横合いから攫われたように感じるのだろう。僕は姪っ子の手に星を渡し、小さな身体を抱き上げた。まだ赤ん坊のシルエットを残したふくふくの手が、さくりと音を立てて星を枝に差し込んだ。
お姫様の満足そうな横顔を確認して、僕は彼女を下ろした。代わってツリーを抱え上げ、邪魔にならない壁際まで移動させる。続けて電飾の線をコンセントに差し込んだ。
「うわぁ」
ぱかぱかと点滅を始めたLEDに、姪っ子が目を丸くする。
「触るなよ」
「ふぁーい」
姪っ子がツリーに心奪われている隙に、僕はキッチンへ戻る。放置していたフライパンの蓋を開けると、もち米はふっくらと炊きあがっていた。香草を取り除くついでに軽くかき混ぜ、味見をする。
……うん、悪くない。
七面鳥の様子を確認する。塩まみれだった表面が、今はしっとり艶を帯びてライトの光を照り返している。
仕込みの首尾に頷きながら、僕は七面鳥の腹を開いた。中の空間に木べらとスプーンを使ってもち米を隙間なく詰めていく。
「おにーちゃんあそんでー」
「だめ。おとーさんが帰ってくるまでにこいつを焼き上げなきゃならないからな。今何時になったか分かるか?」
七面鳥をタコ糸で縛りながら訊く。
デジタル表示なら四歳児でも読めるかもしれない。果たしてカウンターによじ上りかけていた姪っ子は一旦椅子の登頂を諦めて、時計を覗き込んだ。
「んとねー、しちじごじゅっぷん」
「おーやっぱあんま時間ないな。ありがと」
昨夜聞いた兄貴の帰宅予定は夜の十時。義姉も似たり寄ったりのはずだ。七面鳥の焼き上がりまで二時間ちょっと。ぎりぎりだ。
冷蔵庫からバターを取り出す。オーブンレンジで加熱して溶けたそれに、チンを待つ間に切っておいたレモンの汁を絞り入れる。加えて食器棚の中で一際威張っていたVSOPを取り出し、それも無造作に注ぐ。既に開封されているにも関わらずほとんど減っていないところを見ると、どうせ兄貴がカッコつけて購入したきり放置されている可哀想な酒なのだろう。活躍の場ができて良かったな。
ここから先は時間との勝負だ。オーブンを最高温度に設定し余熱。天板に七面鳥を載せ、うちから持ってきた刷毛で液状バターを七面鳥に塗り込んでいく。
姪っ子がカウンター越しに覗き込んでくる。
「おにーちゃん、おなかすかない?」
「作ってる間は大丈夫だよ」
手元から漂うバターと酒の匂いでおなかいっぱいなのは事実だ。焼きに入って落ち着いたら、コーラに合いそうなものを作って適当に食べておこう。
バターを全面に塗り終わったところでオーブンレンジが余熱終了を告げた。グッドタイミングを逃さず、僕は七面鳥を窯に押し込む。
まずは十五分、強火でこんがりと。
これでようやく一段落。息を吐いた僕の裾がくいっと引っ張られた。
「おにーちゃん、ちょっときて?」
何やら内緒話めいた潜め声で姪っ子が手招きをする。連れて行かれたのは台所の奥。食料庫の一番下の段ボールに頭を突っ込んで、姪っ子が何かをつかみ出す。
「これ、おとーさんのおやつ」
妙に得意げな表情で姪っ子が示したのは、何の変哲もないポテチの袋だった。
「おとーさん、いつもここに自分のおやつをかくしておくの。バレてないっておもってるみたいだけど、あたしもおかーさんもちゃんとしってるんだから」
「……そーか」
「たべよ?」
僕は今、悪魔の微笑みを目撃している。
誘惑にあっさりと乗った僕は共犯者と冷え冷えのコーラを分け合って茶の間に陣取った。カーペットに座りこんだ僕の膝に、すかさず姪っ子がよじ上ってくる。
「こーら、またすぐ七面鳥見に行くんだから下りてろ」
「いーよべつに。なんどでものぼりなおすから」
何が楽しいのか分からないが、とりあえず姪っ子は僕の膝の上でご機嫌のようだ。まぁいいか。
僕はグラスに注いだコーラに口を付けながらスマホを取り出す。
「かのじょさんにメール?」
あやうく吹き出すところだった。図星だったが、正直に答えるのはなんだか腹立たしい。
「……時間を見ただけだよ」
「えー? さっきおしえてあげたばかりでしょー?」
「それよりお前、数字読めるんだな。四歳の割にはすごくないか?」
「そんなことないよ。ようちえんじのたしなみよ」
「……あっそ」
子どもの扱いは難しい。思ったままをメールしてみたら、即返信が来た。
『ちっちゃくても女の子なんだから、そのつもりで接しなさい』
「メール? かのじょさんからメール?」
肩を落としてメールの内容を伝える。姪っ子は手を叩いて喜んだ。
「そうよ、あたしはりっぱなレディなんだから!」
「はいはい」
「もー! そんなてきとうなおへんじばかりしてたら、かのじょさんにふられちゃうよ?」
最早返す言葉もない。がっくり項垂れたところでオーブンが仕事完了を告げた。これ幸いとばかりに、僕は立ち上がり台所へ向かう。膝から振り落とされた姪っ子が抗議の声を上げているようだが、聞こえないふりでオーブンを開く。
調理台に一旦七面鳥を出し、温度を百七十度に落とす。先程のバターを天板の余熱で溶かしながら再び刷毛で七面鳥に塗っていく。ついでにじんわりにじみ出ていた肉汁も一緒に塗り込む。そうしてもう一度オーブンへ。今度の焼き時間設定は三十分。
この作業を何度か繰り返さなくてはならない。やれやれと首を回したところで姪っ子がタックルを仕掛けて来た。
「ねー、かのじょさんにあいたい」
「は?」
「あたしたち、いいおともだちになれそうなきがするの」
「なんだそりゃ」
脚に姪っ子をぶら下げたまま、僕は茶の間に戻った。床に放置されていたポテチその他の袋をかき集め、片っ端から開封していく。さすがに腹が減ってきた。
TVをつけて適当にチャンネルをがちゃがちゃ変える。残念なことに幼女の気を引けそうな番組は見当たらない。
床に直置きしたクッションにもたれてスナック菓子とコーラを貪りながらリモコンをいじっていると、姪っ子が目を細めて言い放った。
「なーんか、おとーさんそっくり」
「!!!」
ショックのあまりリモコンがするりと手から零れ落ちた。床に当たるごつっという鈍い音と同時に、僕のスマホがメール着信を告げるメロディを奏で始める。
あまりのタイミングにびくりと肩が震えた。おそるおそる送信先を確認すると、兄貴の名前が表示されている。
「……!!!!」
スマホを投げ捨てたくなる衝動を苦労して抑えながら、僕はメールの中身を確認する。
『可愛い弟よ、ごめーん! 偉大なる兄はその優秀さゆえ上司直々の極秘任務を言いつかり、帰還が遅れることが確定した! ちなみに俺のびゅーてぃほー麗しのセニョリータ(マイワイフのことだ言わなくても分かるだろ?)も仕事が長引きそうだという連絡が入っている! スイート可愛い俺のお姫様といい子でお留守番してるんだぞ☆』
「うぜえええええええええええ!!!!!!!!!」
ついに衝動を抑えきれず、僕は力一杯スマホをクッションに投げつけた。床とか壁にダイブさせないだけの理性は辛うじて残っていたようだ。
「ものにあたっちゃいけません!」
目を三角にして小言を述べる姪っ子の口調はびゅーてぃほー麗しのセニョリータもとい義姉そっくりで、ますます哀しくなる。
クリスマスイブの夜に、僕は幼女と二人きりの密室で何をやっているんだろう。
というか。僕は現実的な問題に気づいてさらに頭を抱えた。
「もうトリ焼き始めてるじゃんよ……!!! 連絡遅ぇよバカ兄貴」
「え? おとーさんからだったの!?」
そういえば義姉も遅くなると言っていたか。さすがに姪っ子が気の毒になってきた。何がいい子でお留守番してろだ、アホ兄貴。
「……ああ。二人とも遅くなるそうだ」
「おかーさんも?」
黙って頷くと、姪っ子は唇を尖らせて俯いてしまった。無理もない。拾い上げたスマホで兄貴へ抗議のメールを作成しだした時、姪っ子が胸元をぎゅっと握りしめてきた。
「でも今日はおにーちゃんがいるからさびしくないもんね」
何とも言葉が返せずにいたところで、狙っていたかのようにオーブンが鳴った。僕は姪っ子の頭を軽く叩いて床に下ろす。
既に焼き始めているのだから、生焼けのまま途中で放置するわけにもいかない。
姪っ子が後ろについてきているのを承知で、僕は七面鳥をオーブンから出した。先程と同じようにバターを塗って窯の中へと戻す。これでまた三十分。
オーブンを開けたせいで鶏肉の焼ける匂いがぐっと強くなっている。生ぬるくて心地いいその空気の中で、姪っ子はどうやら眠気を覚えているようだ。
「寝るなら歯磨いとけよ」
「まだねないもん!」
やけにムキになって反撃してくる。
「おかーさん言ってたよ。クリスマスイブにはサンタさんがきてプレゼントをおいていってくれるって」
「あー」
「だからサンタさんにあうために、今日はあさまでおきてるんだから」
四歳児なりに必死に睡魔と戦っているのだろう。重たくなった瞼を懸命にこすりながら、口調だけは威勢がいい。
「別に僕は構わないけど……夜は意外と長いよ?」
「おんなじようなこと、こないだおとーさんがおかーさんに言ってたよ」
子どもの前で何口走ってるんだあのダメ兄貴。
「……おかーさんなんて言ってた?」
「なんにも言わないでひっぱたいてた」
さすがとしか言いようがない。
僕は咳払いしながら茶の間に引き返した。おねむのお姫様を小脇に抱え、コーラをちびちびやりながらスマホをいじる。メールのやりとり、アプリの巡回、やることは細々種々雑多な内容ながら多岐に渡り、少々の時間などあっという間に過ぎてしまう。
オーブンの合図に立ち上がった時、うとうとしていた姪っ子が薄く目を開けた。
「あたしねないんだから。ねてたらおこしてね。サンタさんがきたらぜったいおしえてね」
「はいはい」
頭をぽんぽんと叩いて了解の意を伝え、僕はキッチンに向かう。何度目かのバターを塗ってオーブンへ。兄貴や義姉が帰ってくる頃には冷めているのだろうなと思うと、徐々につき始めた焦げ色さえ切なく見える。
茶の間に戻ると安らかな寝息が聞こえてきた。起こすには忍びなく、かといって床に転がしたままというのも可哀想だ。
周囲を見回してもブランケットのようなものは見当たらない。少し考えた末に自分のコートを持ってきて姪っ子を包んでやる。これで寒い思いはしないだろう。
それからはもう単純作業だった。スマホをいじり、チンが鳴る度に七面鳥にバターを塗っては焼きの繰り返し。
さすがに眠気を覚えてきた頃、鶏肉はようやく焼き上がった。肉汁を閉じ込めるため、余熱が残るオーブン内でそのまま放置する。
さて、予想外に空いた時間をどう使おうか。
「……付け合わせでも、作っとくかな」
義姉の手間を省くような作業は今のうちにしておいた方がいいだろう。どのみち僕は明日来ることができない。マッシュポテトくらい作っておいても罰は当たらないだろう。
じゃがいもは食料庫のストックで間に合いそうだ。皮をむいて鍋に放り込み、煮えるのを待つ。時計表示は十一時のちょっと手前。お姫様が寝返りを打った。
アプリで自己ベストを更新している間に、じゃがいもに火が通った。一旦笊に上げた後弱火にかけ、水分を飛ばす。バターと牛乳を加えて練り上げ、最後に塩胡椒で味を整える。
粗熱が飛ぶまでしばし放置。今度は待ち時間での自己ベスト更新ならず。
適度に冷めたマッシュポテトをタッパーに詰める。後は義姉に任せよう。
日付が変わる直前に短文のメールを用意しておく。スマホの日付表示が変わると同時に送信。
『Merry Christmas!』
ほぼ同時にメール受信。
『Happy Christmas! あとでケーキ持って行くね』
うっし。
ガッツポーズした瞬間、玄関からがたがたと不審な物音が響いてきた。ややあって茶の間に入って来たのは案の定兄貴だった。何だか妙に大荷物なのが気になるが、床に転がる愛娘の姿を確認した瞬間、大好物を前にした犬のように目を爛々と輝かせてこちらに突撃してきた。
「よーう起きてっか俺の可愛い子猫ちゃーん!!!」
「しーっ! バカ、今寝てるんだから静かにしろよ」
一瞬酔ってるのかこいつと思ったが、アルコール臭は検知できない。信じがたいハイテンションだがどうやら素面のようだ。
……まぁ、いつものことではあるが。
「兄上に向かってバカとはなんだバカとは」
「本当のこと言っただけだろ。義姉さんは?」
「何とか終電に乗れたって言ってたから、そろそろ着くんじゃないか」
素早く荷物を放り捨てた兄貴は姪っ子を抱き上げて、問答無用でじょりじょりと頬ずりをし始めた。まだ目覚めていない姪っ子が、それでも不快そうに眉根を寄せているのが窺える。
「しかしお前、コートで包むとか。いっそ寝床に運んでやれば良かったのに」
「……あんたらの寝室にそう気軽に入れるか」
ぶっと兄貴が吹き出した。ああ、腹が立つ。
「おーい起きろお姫様。サンタさんの登場だぞー」
僕は姪っ子の脇腹を突っついた。すぐさまバカ兄貴が対抗してくる。
「ほーら起きてくれよハニー! パパが! パパが!! 帰ってきまちたよー」
気色悪い。
ドン引きしてる僕の表情を華麗にスルーして、兄貴は姪っ子のほっぺたを執拗に引き伸ばして覚醒を促している。その甲斐あってか、姪っ子の瞼がぴくりと動いた。
「おお、俺のプリンセス!」
寝起きの不機嫌な眼差しでしばらく兄貴を眺めていた姪っ子は、くるっと僕に顔を向けた。
「おにーちゃん、これ、サンタさんじゃない。ただのひげおやじ」
思わず吹き出した僕を恨めしげに見遣りながら、兄貴は姪っ子にほとんど嫌がらせの勢いでひげ面をこすりつけている。当然姪っ子の激しい抗議に遭い、ようやく彼女を床に解放した。
気が済まない姪っ子がばしばし向こうずねを叩いているのを全く意に介さず、兄貴がなんだか妙に得意げな顔をこちらに向けてくる。
「……なんだよ」
「いい匂いだな」
僕はもう鼻が慣れてしまっているが、外から来たばかりなら当然この部屋に満ちているであろう七面鳥の芳香に気づくはずだ。
「せっかく出向いて作ってもらったのに、待たせちまって悪かったな」
「いや別に……気にしてないし」
「そうか? イブだというのに彼女とデートの約束もなかったのか。哀しい奴だな」
「違……っ! それは明日」
「ほほぅ」
口を滑らせたことを悔やんでももう遅い。ますますにやけ顏を濃くした兄貴が荷物の一つを差し出してきた。
「ほれ、サンタさんからプレゼント」
「……なんだよ」
受け取った袋は細長く、妙に重い。中身を掴み引き出してみると、すらりとしたシルエットのワイン瓶が姿を現した。
「ちゃんとシャンパーニュ産のスパークリングだぞ。ようやく酒呑める歳になったんだからじっくり味わえ」
「……おう」
こういう時、どういう顔をしていいのか分からなくなる。
「せっかくのいい酒なんだから、それを口実に彼女を誘ったらどうだ?」
「え?」
「お前が腕によりをかけて焼いたトリもあることだし、いっそここに呼べばいいんじゃないかっての」
「え? おにーちゃんのかのじょさんくるの!?」
「おー、おにーちゃんがヘタレて誘うのを諦めないなら来る」
「ほんとー!?」
「勝手言うなバカ兄貴!」
僕は慌てて話を逸らす。
「そういえば食器棚のVSOP、使わせてもらったから。あれ、兄貴のだろ?」
「は? 俺はそんな気取った酒呑まねぇよ。あれは俺のじゃなくて麗しのマイワイフの」
「え? なんで義姉さんが」
「ちょっと前にブランデーケーキ焼くのにハマってたからそれ用じゃねぇの」
……まじでか。
そうこう言っているうちに再び玄関に人の気配。
「あっ、おかーさんだ!」
「おーマイワイフ!!」
すかさず幼女とバカが玄関に走り、出遅れた僕は平身低頭で義姉を出迎えた。酒を容赦なく使った罪はあっさり赦免されたが、引き換えに明日の七面鳥パーティーに彼女を呼ぶよう笑顔で要求された。
どうしてこうなった。
観念して、僕はメール送信ボタンを押し込んだ。
——激化するであろう彼女のケーキの争奪戦を思い、ため息を吐きながら。
「おにーちゃんおそーい」
傲岸不遜に言い放った幼女は、玄関にひっくり返ったままの僕の腰骨の真上によじ登ってふんぞり返った。間違ってもこれは妹では、ない。十歳違いの兄の一人娘、つまるところ姪っ子だ。
「レディをまたせるなんて、どういうつもり?」
「あーはいはい申し訳ございませんねー」
クソ兄貴が一体どんな教育してやがるんだ。
僕は小さなレディの身体を丁重に、しかし有無を言わせず脇へどかした。底冷えのする玄関タイルからようやく腰を上げて、素早くスニーカーを放り捨てる。さっきはここで片足立ちになったところを襲われた。もう僕に油断はない。
靴を脱ぐより先に荷物を上げておいて良かった。上がり框に置いておいた特大ビニール袋二つを持ち上げると、中の一つから微かに小瓶が触れ合う音が響く。これを持った状態でタイルに転がされていたら……考えるだけで恐ろしい。
「おにーちゃんだめだよー。くつはちゃんとそろえなきゃ」
「揃えといてくれよ。僕は今両手いっぱいだ」
「えー」
「お前がとんでもないところで飛びついてくるからだろ。もしこの袋の中の瓶が割れて玄関を汚したりしたらどうなったよ?」
「おかーさんがおこる」
「そうだ。やだろ」
「やだ。こわい」
さすがしっかり者の義姉は娘にちゃんとした躾をしているらしい。義姉の名が出た途端にしゅんとなった姪っ子がスニーカーを揃えるのを横目で見ながら、僕は兄夫婦のマンションに上がり込んだ。
彼らの結婚以来、数えきれないくらい来ている場所だ。勝手知ったる何とやら、僕はまっすぐキッチンを目指した。対面式のダイニングは義姉のこだわりで選んだもので、広くはないが決して狭くもない。
既にキッチンを借りる旨、義姉と話はついている。流しの真上の電灯を点けながら、後ろについてきていた姪っ子に声をかけた。
「おい、茶の間も明かりくらいつけろよ。暗いじゃないか」
「だって、とどかないよ」
ちらりと壁面のスイッチに目を向ける。確かに四歳児には難しい高さだ。しかし真下に置かれた幼児用の椅子、あれに乗ればぎりぎり届かなくはない、はずだ。
様子を窺う姪っ子の視線が横顔にちらちら当たる。僕は黙ってスイッチに歩み寄り、電気を点けた。椅子には気づかないふりをしてキッチンに戻る。
「……カーテンくらい一人で閉めれんだろ」
「……うん!」
大層嬉しそうに姪っ子は窓辺に駆け寄った。視界の隅を掠めたデジタル時計の表示は午後五時。カーテンレールがやけに反抗的な音を立てているようだが、それには構わず僕はコートを脱ぎ、持参した袋の中身を取り出す作業に移った。
真っ先に取り出したのは七面鳥だ。頭や内臓が取り除かれた冷凍品だが2kg以上はある大物だ。このでかぶつを僕の狭いワンルームで解凍して、わざわざ持ってきてやったのだ。兄貴はもっと僕に感謝してもいいと思う。
「うわ、何、それ?」
生の七面鳥を見るのは初めてらしい。カーテンとの格闘を終えてキッチンに顔を出した姪っ子がぎょっと身を竦ませる。
「君のおとーさんのリクエスト。気持ち悪いならあっちで遊んでな」
手早く自前のエプロンを身に着ける。普段はきちんとしたものを身につけるが、今日は完全にプライベートだ。一目で気に入って衝動買いした黒のギャルソンエプロン。うん、やっぱりテンションが上がる。
シンクに置いた七面鳥の包装を解いて、流水で丁寧に全体を流していく。脇を洗おうと手羽を引き延ばした時、あっと向かい側で声が上がった。
「ハネだ」
見るといつの間にか姪っ子がカウンター越しにシンクを覗き込んでいた。食卓用の椅子の上にでも乗っているのだろう。
「そう、手羽先だな」
「ホントにトリなんだ」
さっきまで気味悪がっていたのが嘘のように、むき出しの好奇心で七面鳥を眺めている。その視線に僕の方が居心地の悪さを感じてしまう。
「あー……今はこっち見るな。ちょっとあっち向いてろ」
「どうしてー?」
「……これから腹の中を洗うから」
「おなかのなか?」
僕は黙って七面鳥の腹を押し開いた。うひゃあと変な声を上げて、シンクの向こうの幼女は顔を引っ込めた。
実際にはらわたが詰まっているわけではないから、そんなにグロいものではない。少なくとも僕にとっては。手早く、しかし丁寧に体腔を清め、鍋に張った塩水に浸ける。持参した青ねぎを適当に切って投入、蓋を閉じてとりあえずガスレンジの上へ置いておく。仕上がりが水っぽくなるのを防ぐため、七面鳥が常温になるまでこのまま放置しなければならない。
七面鳥の梱包材をゴミ箱に片付けて、もう一つのビニール袋から持参したスパイス類を取り出す。ついでに冷蔵庫の中身もチェック。
玉ねぎ、セロリ、パセリ。予め義姉に頼んでいた食材は全て完璧に揃っている。さすがだ。
さらにコーラの1.5Lペットボトルが冷えているのも発見した。オーブンレンジの前にはこれまた頼んでおいたもち米が入ったビニール袋が置かれ、義姉のメモが載っている。
『イブに手間のかかる仕事をお願いしちゃってごめんね。コーラ全部飲んでもいいよ』
何故こんないい人が兄貴なんかの嫁になったのか心底疑問だ。
「ねーおなかすいたー」
幼い声が下らない自問を粉砕した。お姫様のご要望とあらば致し方ない。一旦作業を中断し、玉ねぎのみじん切りを高速で作成する。フライパンを熱しオリーブオイルでガーリック少々を炒め、軽やかに玉ねぎを投入。
「うわー、いいにおい」
再びカウンターの向こうから幼女が顔を出す。冷蔵庫から冷や飯とケチャップ、卵を取り出して振り返ると、姪っ子が目を丸くしてこちらを見つめていた。
「おにーちゃんエプロンしてるー。すごーい、コックさんみたーい」
どうやら腰から下がシンクに隠れて彼女の位置からは今まで見えていなかったようだ。くっ、それだけ僕の脚が短いということか。
「みたいじゃなく、コックさんなんだよ一応」
……まだ学生だけどな。
「そっかー、かっこいいねぇ」
ストレートにそう言われると悪い気はしない。思わず緩みそうになる口許を隠しながらフライパンに冷や飯を投入する。
「そういやこないだ持ってきてやったシュトレンはどうした?」
「もうとっくになくなっちゃったよ。おとーさんがばくばくたべちゃった」
あんのバカ兄貴。
鼻白んだ気配を感じたのか、姪っ子が僕の顔色を窺うように首を傾げた。
「ごめんね? あれ、おにーちゃんのかのじょさんがつくってくれたんだよね?」
「……誰がそんなこと言った」
「おかーさん」
……義姉さん。
ケチャップに涙が混入しないよう、僕は細心の注意を払ってチューブを絞った。
「ねー、かのじょさんはクラスメートなの?」
僕は調理科、向こうは製菓科。この場合、クラスメートとは言わないだろう。
「……違うよ」
「ふーん。でも、どうきゅうせいなんでしょ?」
「……はい」
「ふーん」
ケチャップライスに仕上げの塩胡椒を振って皿に盛る。別のフライパンを熱している間にボウルに卵を割り入れ、手早くほぐす。
「がっこう、たのしい?」
「まぁね」
じゃっと音を立ててフライパンが卵を受け止めた。火加減に気をつけながら形を整え、半熟のままケチャップライスに載せる。
「ほれ、お待たせ」
皿を差し出してやると、姪っ子はぱあっと瞳を輝かせた。
「オムライスだぁ」
嬉々として黄金色の山の攻略に取りかかった幼女をそのまま捨て置いて、僕は手早く二つのフライパンを洗浄した。うち一つをガスレンジに残して、再び玉ねぎをみじん切りにする。
そう、次は七面鳥の詰め物の作成だ。
玉ねぎ、パセリ、セロリ。香味野菜のみじん切りがあっという間に山を成す。ついでにもち米も軽く研ぎ、笊に上げて水を切っておく。
それからフライパンを火にかけ、バターで野菜のみじん切りを炒めていく。本当はここで七面鳥の内臓も一緒に入れるといい味になるのだが、今回はお子様がメンバーにいるので省略した。
そのお子様が大発見をしたかのように突如頓狂な声を上げた。
「おにーちゃん、このオムライス、おにくがはいってない!」
「いいだろ別に。鶏肉はこれから腹一杯食うんだから」
「えー」
カウンターの向こうでブーイングは続いていたが、さらりと無視して僕はもち米をフライパンに流し込んだ。白い粒が徐々に透明度を増していくのを見守りながら、木べらで丁寧にかき混ぜる。
焦げないように火加減を調整しつつ私物のローズマリーやタイムを調理台に並べていると、姪っ子が空になった皿を下げに来た。
「おにーちゃん、まだあそべない?」
「まだだな。今手が離せないから」
肩を落として姪っ子はキッチンから出て行った。カウンター越しに見ると、茶の間は随分派手に散らかっているようだ。こちらが調理にかかり切りになっている間に広げたのだろう。どうやらお姫様のマイブームはお絵かきらしい。スケッチブックが無造作に広げられ、色とりどりのクレヨンや色鉛筆がこれでもかとフローリングに散らばっている。
「待ってる間に少し片付けとけよ。空いた場所にツリーを飾ってやるから」
「……うん!」
兄夫婦が姪っ子を溺愛しているのは間違いない。だが二人とも忙しすぎるせいで、姪っ子はすっかり待つことに慣れてしまっている。
だから余計に僕に懐くのだろうけれど。
フライパンに投入した米全体が半透明になったのを見計らって、水とハーブ類を入れ蓋を閉める。火を弱めておけば、適度に炊きあがるまでこのまま放置できる。
待つ間に塩水につけておいた七面鳥を取り出す。水気を丁寧に拭き取り、調理台の上へ置く。義姉のクッキングペーパーを大量に使ってしまったから、後で補充しておかなければ。
存在感のある七面鳥に、塩と粗挽きペッパー、おろしにんにくを擦り込んでいく。とっておきの高級塩がどんどん減っていくのが悲しいが、致し方ない。
作業が一段落して手を洗っているところで、姪っ子が台所にやって来た。ついにしびれを切らしたらしくエプロンの裾を握ったまま放そうとしない。
「おかたづけ、おわった」
見ると、先程までカオスに覆われていた茶の間は見事にコスモスを取り戻していた。
「色鉛筆は全色ちゃんとあったのか?」
「うん」
「よし、いい子だ」
これ以上は引き延ばせそうにない。ちょうど米も炊きあがる頃だ。今のタイミングなら、多少手を離しても問題はないだろう。
ガスレンジの火を消して、僕は姪っ子の頭に手を置いた。
「お待たせ。ツリーやるぞ」
「……うん!」
転げるように走っていく姪っ子を追いかけながら、僕はちらりとスマホの画面に目を走らせる。いつの間にか七時を回っていた。
姪っ子の先導で辿り着いたクローゼットからツリーと飾り一式を引っ張り出して茶の間へ運ぶ。綺麗に片付いたカーペットの上でまずプラスチックの人造木を組み立てた。
「ふわふわ~」
上機嫌で姪っ子が雪に見立てた綿をちぎって枝に載せる。僕は色とりどりの電飾を箱から引きずり出して木にぐるぐる巻き付けていく。
「きらきら~」
綿がなくなると姪っ子は星や金銀の球体といった飾り物を枝に引っ掛け始めた。僕も手伝って、小さな樅の木はあっという間に煌びやかに飾り立てられていく。
最後に残ったひときわ大きな銀色の星をツリーの一番上の梢に差そうとすると、姪っ子が背伸びして手を伸ばして来た。
「あたしがやるー」
「はいはい」
最後の飾り物を取られると、仕上げまで横合いから攫われたように感じるのだろう。僕は姪っ子の手に星を渡し、小さな身体を抱き上げた。まだ赤ん坊のシルエットを残したふくふくの手が、さくりと音を立てて星を枝に差し込んだ。
お姫様の満足そうな横顔を確認して、僕は彼女を下ろした。代わってツリーを抱え上げ、邪魔にならない壁際まで移動させる。続けて電飾の線をコンセントに差し込んだ。
「うわぁ」
ぱかぱかと点滅を始めたLEDに、姪っ子が目を丸くする。
「触るなよ」
「ふぁーい」
姪っ子がツリーに心奪われている隙に、僕はキッチンへ戻る。放置していたフライパンの蓋を開けると、もち米はふっくらと炊きあがっていた。香草を取り除くついでに軽くかき混ぜ、味見をする。
……うん、悪くない。
七面鳥の様子を確認する。塩まみれだった表面が、今はしっとり艶を帯びてライトの光を照り返している。
仕込みの首尾に頷きながら、僕は七面鳥の腹を開いた。中の空間に木べらとスプーンを使ってもち米を隙間なく詰めていく。
「おにーちゃんあそんでー」
「だめ。おとーさんが帰ってくるまでにこいつを焼き上げなきゃならないからな。今何時になったか分かるか?」
七面鳥をタコ糸で縛りながら訊く。
デジタル表示なら四歳児でも読めるかもしれない。果たしてカウンターによじ上りかけていた姪っ子は一旦椅子の登頂を諦めて、時計を覗き込んだ。
「んとねー、しちじごじゅっぷん」
「おーやっぱあんま時間ないな。ありがと」
昨夜聞いた兄貴の帰宅予定は夜の十時。義姉も似たり寄ったりのはずだ。七面鳥の焼き上がりまで二時間ちょっと。ぎりぎりだ。
冷蔵庫からバターを取り出す。オーブンレンジで加熱して溶けたそれに、チンを待つ間に切っておいたレモンの汁を絞り入れる。加えて食器棚の中で一際威張っていたVSOPを取り出し、それも無造作に注ぐ。既に開封されているにも関わらずほとんど減っていないところを見ると、どうせ兄貴がカッコつけて購入したきり放置されている可哀想な酒なのだろう。活躍の場ができて良かったな。
ここから先は時間との勝負だ。オーブンを最高温度に設定し余熱。天板に七面鳥を載せ、うちから持ってきた刷毛で液状バターを七面鳥に塗り込んでいく。
姪っ子がカウンター越しに覗き込んでくる。
「おにーちゃん、おなかすかない?」
「作ってる間は大丈夫だよ」
手元から漂うバターと酒の匂いでおなかいっぱいなのは事実だ。焼きに入って落ち着いたら、コーラに合いそうなものを作って適当に食べておこう。
バターを全面に塗り終わったところでオーブンレンジが余熱終了を告げた。グッドタイミングを逃さず、僕は七面鳥を窯に押し込む。
まずは十五分、強火でこんがりと。
これでようやく一段落。息を吐いた僕の裾がくいっと引っ張られた。
「おにーちゃん、ちょっときて?」
何やら内緒話めいた潜め声で姪っ子が手招きをする。連れて行かれたのは台所の奥。食料庫の一番下の段ボールに頭を突っ込んで、姪っ子が何かをつかみ出す。
「これ、おとーさんのおやつ」
妙に得意げな表情で姪っ子が示したのは、何の変哲もないポテチの袋だった。
「おとーさん、いつもここに自分のおやつをかくしておくの。バレてないっておもってるみたいだけど、あたしもおかーさんもちゃんとしってるんだから」
「……そーか」
「たべよ?」
僕は今、悪魔の微笑みを目撃している。
誘惑にあっさりと乗った僕は共犯者と冷え冷えのコーラを分け合って茶の間に陣取った。カーペットに座りこんだ僕の膝に、すかさず姪っ子がよじ上ってくる。
「こーら、またすぐ七面鳥見に行くんだから下りてろ」
「いーよべつに。なんどでものぼりなおすから」
何が楽しいのか分からないが、とりあえず姪っ子は僕の膝の上でご機嫌のようだ。まぁいいか。
僕はグラスに注いだコーラに口を付けながらスマホを取り出す。
「かのじょさんにメール?」
あやうく吹き出すところだった。図星だったが、正直に答えるのはなんだか腹立たしい。
「……時間を見ただけだよ」
「えー? さっきおしえてあげたばかりでしょー?」
「それよりお前、数字読めるんだな。四歳の割にはすごくないか?」
「そんなことないよ。ようちえんじのたしなみよ」
「……あっそ」
子どもの扱いは難しい。思ったままをメールしてみたら、即返信が来た。
『ちっちゃくても女の子なんだから、そのつもりで接しなさい』
「メール? かのじょさんからメール?」
肩を落としてメールの内容を伝える。姪っ子は手を叩いて喜んだ。
「そうよ、あたしはりっぱなレディなんだから!」
「はいはい」
「もー! そんなてきとうなおへんじばかりしてたら、かのじょさんにふられちゃうよ?」
最早返す言葉もない。がっくり項垂れたところでオーブンが仕事完了を告げた。これ幸いとばかりに、僕は立ち上がり台所へ向かう。膝から振り落とされた姪っ子が抗議の声を上げているようだが、聞こえないふりでオーブンを開く。
調理台に一旦七面鳥を出し、温度を百七十度に落とす。先程のバターを天板の余熱で溶かしながら再び刷毛で七面鳥に塗っていく。ついでにじんわりにじみ出ていた肉汁も一緒に塗り込む。そうしてもう一度オーブンへ。今度の焼き時間設定は三十分。
この作業を何度か繰り返さなくてはならない。やれやれと首を回したところで姪っ子がタックルを仕掛けて来た。
「ねー、かのじょさんにあいたい」
「は?」
「あたしたち、いいおともだちになれそうなきがするの」
「なんだそりゃ」
脚に姪っ子をぶら下げたまま、僕は茶の間に戻った。床に放置されていたポテチその他の袋をかき集め、片っ端から開封していく。さすがに腹が減ってきた。
TVをつけて適当にチャンネルをがちゃがちゃ変える。残念なことに幼女の気を引けそうな番組は見当たらない。
床に直置きしたクッションにもたれてスナック菓子とコーラを貪りながらリモコンをいじっていると、姪っ子が目を細めて言い放った。
「なーんか、おとーさんそっくり」
「!!!」
ショックのあまりリモコンがするりと手から零れ落ちた。床に当たるごつっという鈍い音と同時に、僕のスマホがメール着信を告げるメロディを奏で始める。
あまりのタイミングにびくりと肩が震えた。おそるおそる送信先を確認すると、兄貴の名前が表示されている。
「……!!!!」
スマホを投げ捨てたくなる衝動を苦労して抑えながら、僕はメールの中身を確認する。
『可愛い弟よ、ごめーん! 偉大なる兄はその優秀さゆえ上司直々の極秘任務を言いつかり、帰還が遅れることが確定した! ちなみに俺のびゅーてぃほー麗しのセニョリータ(マイワイフのことだ言わなくても分かるだろ?)も仕事が長引きそうだという連絡が入っている! スイート可愛い俺のお姫様といい子でお留守番してるんだぞ☆』
「うぜえええええええええええ!!!!!!!!!」
ついに衝動を抑えきれず、僕は力一杯スマホをクッションに投げつけた。床とか壁にダイブさせないだけの理性は辛うじて残っていたようだ。
「ものにあたっちゃいけません!」
目を三角にして小言を述べる姪っ子の口調はびゅーてぃほー麗しのセニョリータもとい義姉そっくりで、ますます哀しくなる。
クリスマスイブの夜に、僕は幼女と二人きりの密室で何をやっているんだろう。
というか。僕は現実的な問題に気づいてさらに頭を抱えた。
「もうトリ焼き始めてるじゃんよ……!!! 連絡遅ぇよバカ兄貴」
「え? おとーさんからだったの!?」
そういえば義姉も遅くなると言っていたか。さすがに姪っ子が気の毒になってきた。何がいい子でお留守番してろだ、アホ兄貴。
「……ああ。二人とも遅くなるそうだ」
「おかーさんも?」
黙って頷くと、姪っ子は唇を尖らせて俯いてしまった。無理もない。拾い上げたスマホで兄貴へ抗議のメールを作成しだした時、姪っ子が胸元をぎゅっと握りしめてきた。
「でも今日はおにーちゃんがいるからさびしくないもんね」
何とも言葉が返せずにいたところで、狙っていたかのようにオーブンが鳴った。僕は姪っ子の頭を軽く叩いて床に下ろす。
既に焼き始めているのだから、生焼けのまま途中で放置するわけにもいかない。
姪っ子が後ろについてきているのを承知で、僕は七面鳥をオーブンから出した。先程と同じようにバターを塗って窯の中へと戻す。これでまた三十分。
オーブンを開けたせいで鶏肉の焼ける匂いがぐっと強くなっている。生ぬるくて心地いいその空気の中で、姪っ子はどうやら眠気を覚えているようだ。
「寝るなら歯磨いとけよ」
「まだねないもん!」
やけにムキになって反撃してくる。
「おかーさん言ってたよ。クリスマスイブにはサンタさんがきてプレゼントをおいていってくれるって」
「あー」
「だからサンタさんにあうために、今日はあさまでおきてるんだから」
四歳児なりに必死に睡魔と戦っているのだろう。重たくなった瞼を懸命にこすりながら、口調だけは威勢がいい。
「別に僕は構わないけど……夜は意外と長いよ?」
「おんなじようなこと、こないだおとーさんがおかーさんに言ってたよ」
子どもの前で何口走ってるんだあのダメ兄貴。
「……おかーさんなんて言ってた?」
「なんにも言わないでひっぱたいてた」
さすがとしか言いようがない。
僕は咳払いしながら茶の間に引き返した。おねむのお姫様を小脇に抱え、コーラをちびちびやりながらスマホをいじる。メールのやりとり、アプリの巡回、やることは細々種々雑多な内容ながら多岐に渡り、少々の時間などあっという間に過ぎてしまう。
オーブンの合図に立ち上がった時、うとうとしていた姪っ子が薄く目を開けた。
「あたしねないんだから。ねてたらおこしてね。サンタさんがきたらぜったいおしえてね」
「はいはい」
頭をぽんぽんと叩いて了解の意を伝え、僕はキッチンに向かう。何度目かのバターを塗ってオーブンへ。兄貴や義姉が帰ってくる頃には冷めているのだろうなと思うと、徐々につき始めた焦げ色さえ切なく見える。
茶の間に戻ると安らかな寝息が聞こえてきた。起こすには忍びなく、かといって床に転がしたままというのも可哀想だ。
周囲を見回してもブランケットのようなものは見当たらない。少し考えた末に自分のコートを持ってきて姪っ子を包んでやる。これで寒い思いはしないだろう。
それからはもう単純作業だった。スマホをいじり、チンが鳴る度に七面鳥にバターを塗っては焼きの繰り返し。
さすがに眠気を覚えてきた頃、鶏肉はようやく焼き上がった。肉汁を閉じ込めるため、余熱が残るオーブン内でそのまま放置する。
さて、予想外に空いた時間をどう使おうか。
「……付け合わせでも、作っとくかな」
義姉の手間を省くような作業は今のうちにしておいた方がいいだろう。どのみち僕は明日来ることができない。マッシュポテトくらい作っておいても罰は当たらないだろう。
じゃがいもは食料庫のストックで間に合いそうだ。皮をむいて鍋に放り込み、煮えるのを待つ。時計表示は十一時のちょっと手前。お姫様が寝返りを打った。
アプリで自己ベストを更新している間に、じゃがいもに火が通った。一旦笊に上げた後弱火にかけ、水分を飛ばす。バターと牛乳を加えて練り上げ、最後に塩胡椒で味を整える。
粗熱が飛ぶまでしばし放置。今度は待ち時間での自己ベスト更新ならず。
適度に冷めたマッシュポテトをタッパーに詰める。後は義姉に任せよう。
日付が変わる直前に短文のメールを用意しておく。スマホの日付表示が変わると同時に送信。
『Merry Christmas!』
ほぼ同時にメール受信。
『Happy Christmas! あとでケーキ持って行くね』
うっし。
ガッツポーズした瞬間、玄関からがたがたと不審な物音が響いてきた。ややあって茶の間に入って来たのは案の定兄貴だった。何だか妙に大荷物なのが気になるが、床に転がる愛娘の姿を確認した瞬間、大好物を前にした犬のように目を爛々と輝かせてこちらに突撃してきた。
「よーう起きてっか俺の可愛い子猫ちゃーん!!!」
「しーっ! バカ、今寝てるんだから静かにしろよ」
一瞬酔ってるのかこいつと思ったが、アルコール臭は検知できない。信じがたいハイテンションだがどうやら素面のようだ。
……まぁ、いつものことではあるが。
「兄上に向かってバカとはなんだバカとは」
「本当のこと言っただけだろ。義姉さんは?」
「何とか終電に乗れたって言ってたから、そろそろ着くんじゃないか」
素早く荷物を放り捨てた兄貴は姪っ子を抱き上げて、問答無用でじょりじょりと頬ずりをし始めた。まだ目覚めていない姪っ子が、それでも不快そうに眉根を寄せているのが窺える。
「しかしお前、コートで包むとか。いっそ寝床に運んでやれば良かったのに」
「……あんたらの寝室にそう気軽に入れるか」
ぶっと兄貴が吹き出した。ああ、腹が立つ。
「おーい起きろお姫様。サンタさんの登場だぞー」
僕は姪っ子の脇腹を突っついた。すぐさまバカ兄貴が対抗してくる。
「ほーら起きてくれよハニー! パパが! パパが!! 帰ってきまちたよー」
気色悪い。
ドン引きしてる僕の表情を華麗にスルーして、兄貴は姪っ子のほっぺたを執拗に引き伸ばして覚醒を促している。その甲斐あってか、姪っ子の瞼がぴくりと動いた。
「おお、俺のプリンセス!」
寝起きの不機嫌な眼差しでしばらく兄貴を眺めていた姪っ子は、くるっと僕に顔を向けた。
「おにーちゃん、これ、サンタさんじゃない。ただのひげおやじ」
思わず吹き出した僕を恨めしげに見遣りながら、兄貴は姪っ子にほとんど嫌がらせの勢いでひげ面をこすりつけている。当然姪っ子の激しい抗議に遭い、ようやく彼女を床に解放した。
気が済まない姪っ子がばしばし向こうずねを叩いているのを全く意に介さず、兄貴がなんだか妙に得意げな顔をこちらに向けてくる。
「……なんだよ」
「いい匂いだな」
僕はもう鼻が慣れてしまっているが、外から来たばかりなら当然この部屋に満ちているであろう七面鳥の芳香に気づくはずだ。
「せっかく出向いて作ってもらったのに、待たせちまって悪かったな」
「いや別に……気にしてないし」
「そうか? イブだというのに彼女とデートの約束もなかったのか。哀しい奴だな」
「違……っ! それは明日」
「ほほぅ」
口を滑らせたことを悔やんでももう遅い。ますますにやけ顏を濃くした兄貴が荷物の一つを差し出してきた。
「ほれ、サンタさんからプレゼント」
「……なんだよ」
受け取った袋は細長く、妙に重い。中身を掴み引き出してみると、すらりとしたシルエットのワイン瓶が姿を現した。
「ちゃんとシャンパーニュ産のスパークリングだぞ。ようやく酒呑める歳になったんだからじっくり味わえ」
「……おう」
こういう時、どういう顔をしていいのか分からなくなる。
「せっかくのいい酒なんだから、それを口実に彼女を誘ったらどうだ?」
「え?」
「お前が腕によりをかけて焼いたトリもあることだし、いっそここに呼べばいいんじゃないかっての」
「え? おにーちゃんのかのじょさんくるの!?」
「おー、おにーちゃんがヘタレて誘うのを諦めないなら来る」
「ほんとー!?」
「勝手言うなバカ兄貴!」
僕は慌てて話を逸らす。
「そういえば食器棚のVSOP、使わせてもらったから。あれ、兄貴のだろ?」
「は? 俺はそんな気取った酒呑まねぇよ。あれは俺のじゃなくて麗しのマイワイフの」
「え? なんで義姉さんが」
「ちょっと前にブランデーケーキ焼くのにハマってたからそれ用じゃねぇの」
……まじでか。
そうこう言っているうちに再び玄関に人の気配。
「あっ、おかーさんだ!」
「おーマイワイフ!!」
すかさず幼女とバカが玄関に走り、出遅れた僕は平身低頭で義姉を出迎えた。酒を容赦なく使った罪はあっさり赦免されたが、引き換えに明日の七面鳥パーティーに彼女を呼ぶよう笑顔で要求された。
どうしてこうなった。
観念して、僕はメール送信ボタンを押し込んだ。
——激化するであろう彼女のケーキの争奪戦を思い、ため息を吐きながら。
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