手を引っ込めたのは、君の声の鋭さや視線の険しさに気圧されたからじゃない。
へらりと笑って、僕は敵意に満ちた眼差しを受け流す。
「ごめん。君があまりにも可愛いから」
警戒を解こうと意図した微笑はまったくの逆効果に終わったようだ。軽蔑の色もあらわに、君は背を向けた。
「放っといて。ついてこないでよ」
「はいはい」
笑い含みに返す僕。決してふざけているわけではない。自然と笑みが零れる。
君に触れたい。その小さな頭に、柔らかそうな耳に、ふっくりした頬に、丸みを帯びた身体に。
君をこの腕に抱きたい。膝に抱えて、顔を覗き込んで、耳元で甘く囁いて。
せめてもう一度顔を見たい。振り向いて。
先を歩いていた君がぴたりと足を止めた。そのままくるりとこちらに向き直る。やった。
「ついてこないでって言ったでしょ!」
噛み付くような声。けれど僕は嬉しくて仕方がない。
「君についていってるわけじゃないよ。僕の行き先もこっちだってだけ」
自意識過剰?
小首を傾げて、わざと軽薄な口調で訊ねる。案の定頬を膨らませた君は、最高に苛ついた表情で僕への視線を断ち切った。足音荒く立ち去っていく、その愛おしい後ろ姿。
「バカじゃないの?」
それが、僕らの出逢い。
君に触れられる時が来たら、誰よりも気持ちよくしてあげたいと思った。
僕の指を忘れられなくなるくらい。僕なしではいられなくなるくらい。
君から僕に触れてほしいと、強請るくらいに。
だからたくさん練習した。僕が触れることを許してくれた子たちは、みんなうっとりとこの指に身を任せてくれた。
可愛いと思う。感謝もしている。
だけど、それ以上ではない。
愛おしいのは、君だけ。
僕と君の距離は相変わらず。手を伸ばせば届くのに、決して触れさせてはくれない。僕の気配を感じただけで威嚇するその顔が見たくて、決して届かないことを承知で君の背中に指を近づける。
「やめて」
にべもない言葉。そうだね、食事中に邪魔されたくはないよね。
「ごめん」
笑いながら、僕も自分のごはんに手を伸ばす。僕の手が完全に自分から逸れたのを上目遣いで確認して、君は無言で自分の皿に向き直る。
箸を手に取っても、僕のごはんはちっとも減らない。
自分の食事などそっちのけで君の姿を眺めるだけの、穏やかで幸せな時間が過ぎていく。
僕が旅立つ日も、君は変わらなかった。
「ねぇ、やっぱり行くのやめようか」
「何言ってんの今更」
君と離れたくない。だけどいつもと同じく君は素っ気ない。
君と過ごせる限りある時間。そのかけがえのない宝物と引き換えにしても惜しくないほど、僕は僕の選んだ道に自信を持てているのだろうか。
「これはあんたがやりたいことを叶えるために決めたこと。だったら他人のことを気にしてる余裕なんてないでしょ。振り返らずにとっととどこへでも行けばいい」
まるで僕の心を読んだように、君は言う。そっぽを向いたまま、決して目を合わせようとはせずに。
その声音に、少しだけ、ほんの少しだけ、拗ねた色調が混じっていると、自惚れてもいいだろうか。
「時々は、帰ってくるから」
「冗談。もう顔も見たくない」
容赦のない言葉に苦笑しながら、僕は荷物を持ち上げた。歩き出しかけて、ふと振り返る。
「僕のこと、忘れないでね」
一瞬の沈黙。柔らかな水色の空を見上げたまま、君は言った。
「……忘れたいよ。お前のことなんか綺麗さっぱり」
人づてに君の体調が思わしくないと聞いたのは、遠い遠い街でのこと。
信じられなかった。信じたくなかった。
でも、心の底では分かってた。来るべきものが来たのだと。
僕らを隔てる海と空を越えて、君に逢いにいく。けれど。
痩せた手足。以前の溌剌さが嘘のような病み衰えた身体を寝床に横たえて、君は僕を出迎えた。
震える指を、こわごわと伸ばす。
お願い。ねぇ、お願いだから。
——さわらないで。
断固とした敵意で断ち切って欲しかった。自分にも他人にも容赦のない君の厳しさで、斬って捨てて欲しかった。
でも。
拒絶はなかった。
初めて触れた、君の頬。光を失った瞳は僕を映しているのか、いないのか。
躊躇いつつも、僕は君の顔の線をなぞる。
頬から耳元へ。首筋から肩を辿って背骨の線へ。
少しでも君の苦しみを和らげたくて。君の痛みを分けて欲しくて。
ふいに君の瞳が焦点を取り戻す。僕の顔をじっと見つめ、少し口を尖らせて。
次の瞬間、薄い瞼を閉じて安心したように息を吐く。
その満ち足りた表情。僕の指先に全てを委ねて、喉の奥を鳴らす横顔。
違う。
僕が望んでたのは、こんな君じゃない。こんなことのために僕は、他の子に触れたわけじゃない。
それでも、訊かずにはいられない。
……ねぇ、気持ちいい?
泣きながら、僕は君の身体を撫で続ける。微笑みながら、君は僕の指を受け入れる。
君が永遠に手の届かない場所に旅立ったと聞いたのは、それから間もなくのこと。
君が背中を押して送り出してくれた街で、僕はたくさんの宝物を得た。捨てられないものができた。
だからこそ、僕は君の傍を離れて街へ戻った。
離れればもう二度と逢えない。そんなことは分かっていた。
君に恥じる生き方をしたくない。それだけを思って築いてきた僕の居場所。君を大切に思うなら、絶対に手放してはいけないと思った。
今も指に残る君の温もり。君がくれた、最後の贈り物。
君が遺してくれたたくさんの記憶と宝物が、確かにこの手の中にある。
考えてみれば、今までと変わらないじゃないか。瞼の裏に鮮やかに浮かぶ君の姿。触れようと手を伸ばすと、すかさず鋭い声が飛ぶ。
——さわらないでって、言ってるでしょ。
二度と届かない指先。それでも、それが君の意志だと言うのなら悪くない。この手が触れられない距離。それが君の望みなら。
君は僕を忘れずにいてくれた。それだけで僕は、これからも生きていける。
「愛してるよ」
旅立ちの日と同じ、水色の空へ呟く。
——うるさい。こっちはお前のことなんてとっとと忘れたいんだ。
今もまだそっぽを向いたままの君の声が、聞こえた気がした。
蛇足的なあとがき。